1971年9月 沖縄の雑誌『青い海』<特集・山之口貘の詩と青春>

画家 山口三路(山之口貘)
null
久米町バプテスト教会「自由絵画展覧会」
写真前列右から山口重三郎(貘)、秋山、鉢嶺、伊佐成功、真栄平錦雪、鉢嶺、喜名セイトン、古謝景明。中列が米須秀亀。後列右から浦崎永錫、饒平名文喬、知念積吉、矢野彩仙、新崎新太郎、山里永吉、野津久保、饒平名知安、前中留吉、渡嘉敷唯選、兼島のスター。
null
昭和53年9月『別冊太陽』「近代詩人百人」平凡社(左下に大正11年の作品がある)

1973年5月『サンデー沖縄』山里永吉「壺中の日月」
○当時、沖縄には丹青協会という画家の集団があった。会長格は沖縄師範学校の図画教師西銘生楽で、日本画家の比嘉華山もまだ元気であった。その他に渡嘉敷衣川、金城南海、親泊英繁、野津久保といった人たちで、いずれも那覇若狭町の出身であった。18世紀のころ、彫刻家として著名であった田名宗経も若狭町の出身であったことから考えると、那覇の若狭町はまったく美術家の温床といってもよかった。もともと若狭町の住民は漆芸を家業としている者が多く、職業がらその子弟から多くの画家が輩出したのではないだろうか。私が丹青協会にはじめて絵を出品したのは、中学3年のときであったが、同時に出品したのが浦崎永錫(現・大潮会会長)であった。浦崎と私は同級生で、教室で机を並べていた友人だが、これまた若狭町の出身である。

 その翌年、丹青協会から分離して『ふたば会』という団体ができた。前記の渡嘉敷衣川、野津久保兄弟のほかに島田寛平や知念積吉が参加した。知念積吉はその後夭折したが、当時の沖縄では異彩を放った画家で、琉球音楽史に巨匠としてその名をのこした知念積高(知念ミーハギ)直系の子孫ということであった。その他、山之口貘や新崎新太郎もやはり展覧会仲間であったように覚えているが、後になって貘が詩に転じ、新太郎が書家になったことはご存知のとおりである。展覧会は毎年夏休暇に開催されたから、東京で勉強している先輩たちも、帰郷していたし、そういった人たちからとうぜん新知識が披露された。前に述べた野津久保(渡嘉敷唯尹)は当時、美術学校の日本画専科の学生であったが、私はこの人から歌舞伎の話や寄席などという、つまり江戸趣味といった、当時の田舎中学生にとってはいかにも都会的な、魅力ある話をたっぷり聞かしてもらったものである。

null
山口三路「自画像」が見える。

1997年7月ー『貘のいる風景ー山之口貘賞20周年記念ー』山之口貘記念会編集委員会□「編集後記ー新城栄徳氏からは『沖縄教育』に掲載された青年時代の作品をはじめ絵画の資料も提供いただいたが、紙幅や日程の都合で割愛せざるを得なかったことは残念なことであった。」

1990年2月ー『彷書月刊』54号□新城栄徳「沖縄に来た画家たち」弘隆社