1972年11月 沖縄の雑誌『青い海』比嘉正子「わたしの″女の闘い〟」

比嘉正子・関西主婦連会長
 2011年 10月9日、午後ーあけみとJR永和駅から天満宮に出かける。帰途「天六」に寄る。新京阪ビルの向いにあった北市民館、かつてツタ(淀川善燐館の館長S・F・モランから贈られたツタ、だれからともなく「愛のツタ」と呼ばれた)で覆われていたのが目に浮かぶが、今は建て替えられて大きなビルとなり「大阪くらしの今昔館」などが出来ている。ブログ「十三のいま昔を歩こう」に市民館と梅田周辺の古い写真が載っている。粟国村人会の新里利雄夫妻にも会った。

堀川監獄は1920年に堺に大阪刑務所として移転し、跡地は23年に扇町公園となった。しかし天六・長柄近辺は、短期間に急速に発展したため住宅が密集し、明治末から大正年間当時ともなれば、市南部の長町などとともに長柄・本庄が生活困窮者の居住地域として知られるようになっており、都市の貧困問題が集約的に生起していたのである。
 
市民館の計画は、当初は島村育人(羽衣学園創設者)が、その後は志賀志那人が中心になって進めたが、初代館長には志賀が部長待遇で就任した。当時まだ29歳という年齢からすれば、破格の待遇といえるだろう。この後1935年5月まで北市民館々長として在職した後、社会部長となったが、1938年4月に46歳で現職のまま逝去した。館長在職中は、たとえば銭湯で近隣住民と親しく世間話をしながらニーズ調査をしたことを指して「風呂屋社会事業」と伝えられるように、地域の福祉問題を積極的に把握し、その改善方法を模索し続けていた。市社会事業行政の闊達な雰囲気と志賀館長の人柄は、市民館の事業にも反映し、身上・法律・職業相談、講演会・講習会・図書貸出・娯楽会、町内会・クラブ・諸集会、託児・保育組合、一般診療・歯科診療、授産・信用組合・生業資金融通などの多岐にわたるばかりではなく、実に自由な運営がなされていたようだ。館閉鎖まで14代にわたる歴代館長には、「志賀イズム」としてその伝統が受け継がれたという。(→「月刊ボランティア」ー大阪市立北市民館と志賀志那人)

新城栄徳「比嘉正子」(→1997年1月ー『近代日本社会運動史人物大事典』日外アソシエーツ)
沖縄首里の造り酒屋の渡嘉敷宗重の4女に生まれる(実家跡の都島友の会・渡保育園に渡嘉敷胸像)。女子工芸学校在学中は裁縫が嫌いで、さぼってトルストイを呼んだり、沖縄県立一中の野球の応援に行ったという。同校卒業後、1年間、宮古島の西辺小学校で教壇に立ち、大阪東淀川区十三にあるミード社会館のバプテスト女子神学校に入学。週2回講師としてバイブル社会学を講義に来た河上丈太郎(関西学院教授)に感化され、自由、平等、平和の社会改革思想を持つようになる。

1924「関西沖縄県人会」結成に参加し、そこで比嘉賀盛を知る。賀盛は沖縄県立一中の卒業生。クリスチャンで日曜日は教会へ行き、牧師の比嘉賀秀、伊波普猷らに学んだ。家が貧しいため進学をあきらめ、十五銀行に就職が決まって19年、18歳で上阪。関西沖縄県人会では会計をつとめている。

1924年7月に県人会基金募集のため正子、賀盛、真栄田三益、志多伯克進、上原永盛が代表となって沖縄に帰郷。7月28日に沖縄県民に対し関西沖縄県人会の主旨を知らせるために演説会を開いた。正子は「同胞愛の立場から」、賀盛は「創業時代の県人会」と題し演説した。10月31日には北市民館で関西沖縄県人会臨時大会を開いている。志賀支那人北市民館長、斎藤弔花(1877.年大阪生まれ。謙蔵・謙作、別号に潮居士。国木田独歩と親交があった。1950没、73才)関西日報主筆が講演している。1931年、正子は志賀志那人に誘われて、北市民館で青空保育などを行なった。




志賀志那人 しが-しなと
1892-1938 大正-昭和時代前期の社会事業家。
明治25年9月7日生まれ。大阪基督(キリスト)教青年会主事などをへて,大正9年大阪市主事。市民館(のち北市民館)開設につくし,初代館長。館内に診療室,図書室をもうけ,また金融,保育制度をつくり,近隣の貧困者の生活向上につくした。のち大阪市社会部長。昭和13年4月8日死去。47歳。熊本県出身。東京帝大卒。→コトバンク

1950年代ー比嘉正子関西主婦連会長の夫・比嘉賀盛は三井銀行梅田支店長のころ、小林一三から乞われ池田銀行豊中支店長に就任した。
比嘉正子資料
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□1925年5月20日『同胞』第7号ー比嘉正子「女性の立場から」
「時代のもたらす新思想と他には我が沖縄県経済界の不振圧迫より彼ら若き女性をして経済的安定と、知識的欲求を物質文明の大大阪に求めて、或いは事務員に、或いは女工にそれぞれの希望と目的とを持ちなお未来に憧れる若々しい気を持って雄々しく新生活の第一歩を踏み出すのである。然しその反面に於いては、家庭を離れ友と別れ、多年の習慣と愛着を断ち独り寂しい旅に於いて生活すると云ふ事は、彼女らにとっては耐え難い悲しみである。・・・男子の暴力によって虐げられた痛々しい弱き女性の姿を度々見出す我々は彼女らを救済すべく一層留意しなければならない・・・」

□社会福祉法人都島友の会
昭和6年(1931年)に、初代理事長 比嘉正子が、都島で青空保育園を開設したことから始まり、その後、戦争で園舎を消失するなど多くの困難がありましたが、いつの時でも「地域住民の要望に応え、価値観の変動をしっかり受け止め、主体的に生きよう、子どもをとりまく社会的条件をよくしよう」という母心一路で社会福祉事業を進めてきました。平成に入ってからは、高齢者施設の運営も始め、現在は毎日、0歳から100歳、約1500名の方にご利用いただき、大阪・沖縄で12施設を運営するまでに至っています。理事長・渡久地歌子(初代理事長・比嘉正子)

□比嘉正子と記念会館の沿革
1905年(明治38年)3月5日、沖縄県首里市金城町に生まれる。パプテスト女子神学校(大阪市東淀川区今里)を修了。1931年(昭和6年)3月に都島幼稚園を設立して園長に就任、その後も幼児教育に力を注ぐ。

1945年(昭和20年)、戦後の深刻な食料危機にたまりかねた、大阪府鴻池新田西村の主婦たち15人が立ち上がり「米よこせ」運動を起こし、功を奏した。そのことを発端にして「おかみさんの会」が発足比嘉正子は3代目会長となり、「大阪主婦の会」の始まりである。1949年(昭和24年) 大阪主婦の会の書記長であった比嘉正子は、幼児教育に力を注ぐため役員を辞任。時を同じくして府下の各主婦の会が連合体を目指し、「関西主婦連合会」の発足となり顧問になる。

1950年(昭和25年)12月「関西主婦連合会」2代目会長に就任する。その後の活動は目覚しく、牛肉不買スト運動、電気料金・フロ代値上げ反対、牛乳値下げ運動、主婦の商品学校など、活動と実践を重ね生活者の権利を守るために全力を注いだ。1969年(昭和44年)昭和25年以来の主婦の念願が実り「関西主婦会館」(現在の比嘉正子記念会館)完成。生涯を通して、ゆりかごから墓場までの理念のもと活動する。物価問題を中心に多くの公職も歴任、物価問題懇談会、物価安定推進会議、大阪市公営事業審議会委員などで活躍した。 1992年(平成4年) 11月12日 87歳で逝去。