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1940年 日本民藝協会同人(識名園で)ー2列目右から5人目が島袋源一郎、前列左から2人目が田中俊雄、左端が土門拳から3人目が式場隆三郎、3列目左が山里永吉、右へ3人目が保田與重郎。3列目右2人目が坂本万七、中央が柳宗悦、前が棟方志功(坂本、土門が写っているので、撮影者は𤘩宮城昇であろう)

第三回訪沖
12月31日ー日本民藝協会主催の「琉球観光団」の団長として、三たび琉球に向け、神戸より湖北丸で出帆。団員26名。<民藝協会同人>柳宗悦、式場隆三郎、浅野長量、浜田庄司、船木道忠、佐久間藤太郎、棟方志功、鈴木繁男、田中俊雄 <販売事務>鈴木訓治、佐々倉健三 <写真>坂本万七、土門拳、越寿雄 <映画>細谷辰雄、猪飼助太郎 <観光事業>水沢澄夫、井上昇三 <その他>遊佐敏彦、同夫人、保田与重郎、浜徳太郎、相馬貞三、宮田武義、鈴木宗平、福井右近。船中で、毎夜、琉球に関する講話を行う。

井上昇三(日本旅行協会)/1940年3月ー『月刊民藝』□観光地としての沖縄ー今回、日本民藝協会が主体となって沖縄見学団が組織された際、水沢氏と小生とは観光方面の仕事に協力する目的で参加したのであった。そして幾多の収穫を得て帰ることが出来た。見学の一端は雑誌「旅」に発表する義務があったのだが、それを果たすに際して非常なる困難に逢着したのである。沖縄を琉球と云はぬ様、沖縄県を物珍しく取り扱はぬ様、特異の風俗・言語を他府県と比較したりその差を強調したりしない様等の注意を払ふ必要を感じたのである。他府県の者として沖縄を旅しての印象を正直に記したり、まだ沖縄を知らぬ人々に出来るだけ沖縄に興味を抱かせる様に紹介しようとしたら、恐らく其の筆者は沖縄県民の多大の激怒を買ふに至るのであらうといふ不安があつたのである。

かかる不徹底なる態度で書かなければならなかつた事は私としては誠に不愉快であり、執筆を終わりても其の後味の悪さは日が経過しても薄くならなかつた。所が本誌から原稿を求められて、ここに「旅」には発表し得なかつた部分と、鮮明な態度をとつている本誌に発表するの機会を与へられた事は深く感謝する次第である。

沖縄は気象学、動物学、植物学、言語学、民俗学殊に最近は工藝等の領域に於いては相当の研究がなされ且つ学界には発表せられている様ではあるが、観光学の分野に於いては他の諸学に比して数段遅れている事は否めない。何故かくもこの沖縄県のみ観光的に残されていたのかといふと、他に種々の理由もあらうけれども第一に本州の諸島と余りにも離れていたといふ簡単な理由に過ぎないと思ふ。同じ島でも佐渡の如くに近いと観光的に発展し過ぎてしまふ位にまでなつてしまふのである。この地理的条件は不幸でもあつたらうが他面に発展を伴ふ堕落から免れる幸福もあつたわけである。

次に兎角観光地といふ所では他から来た観光客の好んで見たがる箇所は地元では見せたくない場所が多いといふ問題がある。之は何処でも起こる問題で日本全体としても考慮しなければならないのである。何も沖縄県だけが考へなければならない問題ではないし、何処の府県でもお互い様である。之はもつと気楽に考へて宜しい問題だと思ふ。唯、好意的に観察して貰ふ様に充分なる説明をして納得して行く事は望ましい事である。之は案内記の書き方に依つて相当の効果は挙げる事が可能だらうと思はれる。
以上先ず云ひ難い点を敢て云つておいて本題に入る事としよう。

今回の沖縄の旅ほど、旅は有益であると知つた経験は従来無かつた。百閒も一見に如かざるの真理も充分に知る事が出来た。沖縄県の観光資源の豊富に恵まれていたのには驚嘆した。一月といふ時季に行つた為に特に感じたのかと思ふが、冬季の温暖な事は強味だと思ふ。霜雪を知らぬ土地に育つ植物の見事さ、沖縄全体が温室の如きではないか。寒中に露地で赤々と花の咲いている國が他にあらうか。海の水は空を溶かした様に綺麗だし、海岸の風景は到る処絵の様に美しい。島全体を風致地区として保存したい位だ。口腹の満足せしむる沖縄料理の美味に泡盛の清烈は此の土地で味つてこそ意義がある。加之、目と耳を楽しませるものには民謡と踊りと芝居がある。其の各々に有機的な機関があつて地方色が強くしみ込んで居り、且つ、にじみ出して居る。之等は一つ一つ切り離すべきではない。だから、どうしても沖縄に来られよ、と呼びかけなければいけない。呼びかける以上は相当の自信を以て臨むべきであらう。

観光地沖縄として出来るなれば次の3項目を実行し得たら立派な観光地として自慢出来ると思ふ。現在の社会、経済事情として早急の実現は困難であらうとは思ふが、なるべく其の実現に努力して完成の日の近からむ事を希望する次第である。何でもかんでも作れるなど無理な事を云ふのではない。出来る時にやれる様に常に心掛けておく事が必要なのである。

交通機関の完備 現在の県営鉄道は観光客には利用されていない様である。船は那覇名護間も毎日は通っていない様であるから、どうしても一番頼りにするのは乗合自動車といふ事にならう。そのバスが常に満員であつた事は、時節柄減車の已むなき為でもあつたらうが、もつと運転回数を多くする必要を示すものであらう。バスの能率増進は道路次第であるから、島内の道路網の拡充は他の意味から云つても重要な事業と云へよう。坂の比較的少ない路線は木炭車でも配してみては如何であらうか。一方には遊歩道も欲しいものである。首里と那覇の間は自動車で早々に過ぎ去るには残念な位眺望の良い所がある。殊に首里から那覇へ下りて来る道が良い。私はわざわざ一度人力車で下つてみた。尤も之はバスに乗れなかつたからでもあつたのだけれども、想像以上によい景色に感嘆の声を発した程であつた。道路は全部ペーヴメントとはならなくても今日国頭方面でも自由にバスを通じてる程度のものがあるのだから、其の完成には比較的困難を感じないですむのではないかとも思はれる。そして自由にバスが走り廻れれば申し分ない。

宿泊設備 旅館は現在に於いては余り優秀とは云い難い様に思はれる。旅館の発達しない理由の一に辻の存在が考へられるかも知れない。が、然し、それとは別に切離しても設備の整つた旅館がもう少し欲しい。何も外国人向きのホテルを建てよと叫ぶわけでは決してない。短期滞在の客はいいとして長期滞在の客に対する設備が不完全ではないだらうか。下宿をするといふ事は事実上不可能らしい。この方面の要望は従来なかつたものか、将来の客一に後考を煩したい問題の一である。僅か20数名の団体客が2軒の旅館に下宿しなければならないといふ事は遺憾であつた。せめて30名は一軒に泊まれなくては不便である。

序でに旅館の食事に就いて一言しておく。旅館に泊まる人といへば原則としてその土地の人ではないのであるから、其の土地の料理を出して貰ひたいものである。この事は沖縄だけの問題ではなく、全国的に共通の大問題なのである。某先生が「旅とは米の飯と鮪の刺身と灘の酒の全国的統一である」と云はれるのを聞いた事がある。が現在では白米が7分搗きに代つただけで他は同様である。尤も沖縄では灘の酒より泡盛が幅を利かしているのは僅かな地方差である。旅館では土地で採れるものを土地風に料理して出せ、といふ要望はこの10数年来幾度か叫ばれて来ながら少しも実行されていない。沖縄でも此の例に洩れなかった。沖縄料理を出してくれと特別に注文しても「豚の角煮」が一度出た位のものであつた。もう我々はうんざりしてしまつて、なるべく旅館では朝飯以外に食はない様に努力せざるをえなかつた。郷に入っては郷に従へといふ事もあるのだから、他の土地に来た者には一度は黙つて土地の料理を食はせる。それではいかんといふ客には所謂旅館の料理ー之を標準料理と云つた友人がいたが一寸面白いと思つたーを出せばよい。少なくとも郷土料理か標準料理か何れを希望するか位は聞いて貰ひたい。況や特に注文しても出さないのは言語道断である。古くなつた鮪の刺身を出して特にもてなしたつもりで居られたのではこつちは大迷惑である。聊か脱線したが、沖縄の如く郷土色の豊かで而も美味な料理が残つている所では一層注意して頂きたいと敢えて述べる次第である。

観光地の施設 崇元寺の電柱や旧首里城の龍樋の柵の如き悪例は出来るだけ速やかに改善して頂きたい。将来は棒杭一本、案内板一枚を立てるのにも注意して頂けば結構である。同じ表示板を立てるにしても、風致を破壊する事も出来れば風致を増す事も出来るのである。ぶちこはしは容易だが、其の回復は困難である。例へば万座毛の鳥居の如きである。故に最初の施設が肝要である。ペンキ塗りの棒杭を立てるよりは豊富に産する石材を用いて工夫すれば却つて効果をあげる事さへ出来はしないだらうか。然し徒に風致保存を唱へて住民の生活を犠牲にしてまでも実行せよなどなどわけのわからない事は云はない。ただ何れにしても建てるものであつたら良きものを建てる事にするといふ心掛けは常に失つて頂き度くないのである。

最後に念を押して申上げておきたい事は観光施設の行き過ぎにならぬ様に戒しむ可き事である。観光地として流行した場所で堕落しなかつた土地は先ず無いといつてよい位である。大阪商船の案内書ではないが「観光処女地」沖縄を汚したくないのは県民・観光客共に望む所でなくてはなるまい。尚一言したい事は、沖縄を観光的に発展せしめて一体どうするのか、といふ質問が出るかも知れないので、敢へて述べるならば、之は県の発展、県民の幸福にまで導かれる事だと云ひたいのである。県として最も恵まれたる観光資源を活用して観光客を吸収し、他府県人に金を落させて、而して県として裕福になれば之が県民の幸福にならないものであらうか。妄言多謝(15、2、9)

1940年
1月3日ー正午那覇着。自動車7台で波上宮へ参拝。糸満町へ赴き、白銀堂参拝。魚市場を見る。辻原の墓に参り、6時半より辻の三杉楼で那覇・首里両市、商船会社主催の歓迎会に出席。琉球料理、四つ竹踊、絣掛踊などを観賞。川津、宝来両館に分宿する。


棟方志功「壺屋窯場の図」サエラ(携帯080-1533-3859)所蔵

1月4日ー工業指導所及紅房で、織物と漆器など陳列品を見学。壺屋、郷土博物館、円覚寺、泡盛工場、尚順男爵邸の桃原農園、夜は真楽座を観る。
1月5日ー尚家霊廟玉御殿拝観、ヨードレの墓に詣で、普天間宮、鍾乳洞から車で万座毛、残波岬へ。7時より珊瑚座で「柳先生御一同歓迎特別興行」を観る。
1月6日ー師範学校講堂で空手術を見学。正午で観光日程を終了。
1月7日ー正午、支那料理屋別天閣で一同昼食、民謡を聞く。3時より那覇市役所における座談会に出席。言語問題にふれ一時警察部長と論戦となる。
1月8日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報紙上に、前日の論戦が大きく報道される。
1月11日ー沖縄県学務部、三新聞紙上に「敢えて県民に訴ふ 民藝運動に迷ふな」を発表する。以後、連日賛否両論が報道される。
1月12日ー団体一行は帰り、浜田、外村、坂本、鈴木らと残留する。
1月14日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報に「沖縄県学務部に答ふるの書」を発表。言語問題論争いよいよ沸騰する。
1月18日ー民藝同人に対する地元有志らの感謝会が、午後6時半より三杉楼で催され、浜田、外村、坂本、鈴木らと出席。五、六十人の人々の真情あふれる感謝のもてなしに感銘する。
1月21日ー尚家より借りた「神猫図」を持ち、飛行機で帰京する。この旅行中、坂本、土門と各地を撮影、二千枚にも達する。また文化映画「琉球の民藝」「琉球の風物」の製作の指導を行う。

第四回訪沖
7月24日ー11月開催予定の皇紀二千六百年奉祝事業の「琉球工藝文化大展覧会」準備のため田中俊雄、坂本万七を伴ない、4回目の訪沖に出発。  沖縄では、言語問題論争がなお続いていた。
8月2日ー沖縄県庁で知事渕上房太郎氏と会見し、標準語絶対反対論者と決めつけられた理由の説明を求める。この日「敢えて学務部の責任を問ふ」を琉球新報に載せる。  展覧会への出品依頼に、尚家をはじめ各方面から古作優品が出さ、陶器百点の外、絵画、染織も加わる。
写真撮影は、主として、「琉球風物写真展」(銀座三越)用の風物撮影を行う。  この間、坂本と撮影した海岸の写真が、海洋警備上の秘密を撮したとされ、警察に連行され、坂本は一夜留置された。
8月22日ー浮島丸にて那覇を発つ。
8月24日ー神戸着

1941年7月『茶わん』蘭郁二郎「琉球のぞ記」寶雲舎
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「茶わん」は陶芸愛好家向けの専門誌で、創刊は昭和六年三月。編集発行人は秦秀雄となっているが、実務は小野賢一郎がとりしきっていた。秦に代わって昭和七年五月号から編集発行人として遠藤敏夫の名がクレジットされる。編集部は芝区三田功運町六番地、聖坂を登り切った辺りにあった。(会津信吾「蘭郁二郎の生涯」)



1941年8月『文学建設』蘭郁二郎「琉球ある記」
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蘭郁二郎 らん-いくじろう 1913-1944 昭和時代前期の小説家。
大正2年9月2日生まれ。「探偵文学」同人となりミステリーをかくが,科学冒険小説に転じ,SF小説の先駆者のひとりとなった。海軍報道班員として台湾にわたり,昭和19年1月5日飛行機事故で死去。32歳。東京出身。東京高工卒。本名は遠藤敏夫。著作に「地図にない島」「地底大陸」など。→コトバンク



1942年9月『朝日新聞』「カメラ腕比べー尚謙・護得久朝章」



写真ー1947年9月16日ー壺屋
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写真上ー元開南中学校東方/下ー元開南中学校北方

1948年、琉球新報社、沖縄タイムス社、沖縄毎日新聞社で沖縄新聞協会が発足。水島源光が那覇市楚辺で南宝写真館を開業(53年に国際通りに移転)。49年に第1回沖展が開催された。同年にアメリカンフォトサービス(久保田盛宏)、太陽カラーフォート(宮城玄正)が開業した。50年に植田写真材料店(植田覚)が与那原から神里原通りに移転し、あさひ写真館(森山紹盛)、新興写真館(森田孟栓)が開業した。

1949年7月17日ー『沖縄タイムス』「首里市の文化地帯造成期成会、首里城正殿復原へ」

1951年2月に『アサヒグラフ』に沖縄タイムスの上間正諭の写真「那覇ところどころ」が掲載された。8月『琉球新報』が自家製版による写真「石川市の大綱引き」を掲載。同年に丹羽写真機店(金森浩一)、神宮会館(屋宜宣成)が開業した。そして県外土建業者が大挙押し寄せ基地建設ブームが始まる。1952年、沖縄で戦後初のメーデーが行われた。同年に山田實が桜坂グランドオリオン通りで山田写真機店を開業した。53年1月、那覇で映画「ひめゆりの塔」が上映された。3月に那覇市場通りが「平和通り」に改称された。10月には沖映本館で「沖縄健児隊」が上映された。

1953年1月7日『沖縄タイムス』山田有登「沖縄の誕生祝」

1954年2月、琉球新報社屋落成記念の写真募集で山田實の「光と影」が特選に輝き「写真展・古美術展」会場で展示された。55年3月、壺屋小学校で第7回沖展が開催された。56年『琉球新報』元旦号特集で「カメラでとらえた沖縄戦後10年史」が掲載された。3月、第8回沖展から写真の部が設けられ伊集盛吉、名渡山愛誠、平凰作、当真莊平、山本義樹、水島源光などが出品した。護得久朝章が特別出品、池村義博の「雨の日」が入選した。1959年に岡本太郎と敏子が来沖したとき山田さんが撮った写真には太郎と敏子が並んでいる。

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1954年2月10-幸楽に於いて山田有登初の夜間撮影、写真中央・火野葦平、その右・真境名由康、左端が豊平良顕、右端が真榮田義見

1954年12月 沖縄タイムス社『基地沖縄ーカメラで捉えた10年ー』(装幀/南風原朝光・末吉安久)

1955年1月19日ー『沖縄タイムス』「沖縄問題に胸痛める尚裕氏、畑違いのカメラマン」

1955年2月9日ー『沖縄タイムス』「美術村にスマートな芸能会館」


1958年5月『オキナワグラフ』
1959年12月4日~6日ーニッコールクラブ主催/沖縄タイムス後援「ニッコール展ー第1回」

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中央が尚裕

1960年1月『オキナワグラフ』「森山写真商会が風景写真の大家・西山清氏を招き撮影会」

1960年3月  第12回沖展(壺屋小学校) 山田実「少年と子犬」「おべんとう運び」「どろんこ市場」

1961年3月  第13回沖展(壺屋小学校) 山田実「野良がえり」「葉模様」「田面」


岩宮武二(山田實撮影1966年)

『オキナワグラフ』1962年9月号の表紙モデルは久場幸子である。この写真は翌年発行の岩波新書の口絵に使われた。63年3月、『沖縄タイムス』の「沖展15周年」で山田實は「岩波新書の『沖縄』を読んでいるうちに無性に腹だたしくなり、やがてそれはいいしれぬ悲しみにも似たわびしさに変わった」とコメントをよせている。9月の東京都美術館で開催の第48回二科展で写真の部に山田實「糸まく老婆」、島耕爾「漁夫」が入選した。

1963年3月  第15回沖展(壺屋小学校) 山田実「首里博物館」「石垣」「老樹」

1965年に山田實さんが撮った写真に、残波岬や万座毛での木村伊兵衛がある。木村は7月、沖縄タイムスに「カメラでみる沖縄」を書いている。そのときの記念写真には奈良原一高、中村正也木村伊兵衛、稲村隆生水島源光を山田さんが撮影した。山田さんのところの『土門拳写真集』には大きく拳とサインがある。土門拳は1975年にニッコールクラブ撮影会の講師として来沖。山田さんが撮った土門拳の写真は三木淳が同行した1975年の東南植物園での写真で土門は車イスである。

1968年3月  第20回沖展(壺屋小学校) 山田実「石垣」「竹垣」「御願」「神拝みの日」

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1969年10月 仲程正吉『琉球芸能写真史』副島豊一



1976年5月 三越OKINAWAで「ポンペイ写真展」


満州
最近、新聞報道でモスクワのロシア国立軍事公文書館で第二次大戦後、シベリアなど旧ソ連に抑留された日本の軍人や民間人に関する76万人分の新資料が発見され、日本政府への提供で合意したという。以前、写真家の山田實さんのところで山田さんの抑留体験を聞いた折、立花隆『シベリア鎮魂歌ー香月泰男の世界』(文芸春秋2004年)を借りた。中に「香月のいた当時、ソ連の収容所全体で、囚人がだいたい1千万人居たと言われます。1千万人のうち、700万人がソ連人自身なんです。次に多いのがドイツ軍の捕虜です。これが316万人いたわけです。それにプラスして日本人捕虜が60万人いたわけです」と記されている。


1978年10月『大阪春秋』第18号「特集ー博物館・美術館」
1983年7月 『大阪春秋』第36号「特集ー大阪の史跡と碑」
1983年9月 『大阪春秋』第37号「特集ー大阪の史跡と碑(続編)」

2001年12月『大阪春秋』第105号「特集ーミュージアム(大阪市内)」
2002年9月『大阪春秋』第108号「特集ーミュージアム(河内・泉州編)」