1935年10月30日 阿部金剛、昭和会館参観
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1936年8月『改造』阿倍金剛「琉球記」□私は尚男爵と一緒に此の城を飛行機の上から俯瞰した時は、つくづくさう思ったのである。首里城の一角に先ず大ホテルを建てる。城塞は全部ホテルの庭として手を入れる。諸所に散在する尚侯爵家初め各王族の城跡別荘等を開放してドライブ・ウエイを造り滞留客の散歩観光の目標にすること。既設の海水浴場を増大して設備を完全にし、適宜な場所に競馬場、競犬場、ゴルフ・リンクス等を造り辻近くにカジノを建設する。序に海洋博物館をこしらえるのも、まんざらモナコの真似とばかりは云えない。この太平洋に浮かぶ珊瑚礁には無数の珍魚奇貝も棲息しているのだから。飛行場は既に立派なのが出来ているし、航空路は既に開発されているのだから。・・・
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1937年1月『三田文学』安部金剛「琉球二景」
阿部金剛 あべ-こんごう
1900-1968 昭和時代の洋画家。
明治33年6月26日生まれ。岩手県盛岡市出身。父は内務省官僚であった阿部浩東京府知事の長男。岡田三郎助にまなぶ。フランスでビシエールに師事し,藤田嗣治(つぐはる)らの影響をうける。帰国後の昭和4年二科展に初入選。以後,超現実主義的な作品を発表。昭和43年11月20日死去。68歳。慶大中退。作品集に「阿部金剛画集」。(コトバンク)

阿部金剛 「郷愁」 1932 4号 油彩 個展出品作
阿部金剛全盛期の優品である。キリコの日本での移入を考える上で重要な作品でもある。国立近代美術館の大谷省吾氏が「阿部金剛イリュージョンの歩行者」1999本の友社を出されている。阿部金剛を知る基礎資料の決定版である。書斎絵としては一級の格とセンスがあり、男の書斎にはピッタリな作品である。→「絵のある待合室15 l 平塚市岡崎の平園クリニック l」

1936年1月5日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー七島の荒波くぐり①薩藩へ海上伝令 活躍した”琉球飛船„」
1936年1月8日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー”帳面と矢立„で語学の交換教授③愛嬌者の眞榮平」
1936年1月9日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー”捧げ銃„の敬禮下にぺルリ堂々入城④嘉永6年 黒船來琉す」
1936年1月11日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー関番所設けて 佛人の出入監視⑥米艦去り佛艦來琉」
1936年1月12日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー斉彬公渡琉藩士に軍艦購入の密令⑦密使市来の苦心」
1936年1月14日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー突如、斉彬公薨去で軍艦購入を中止⑧契約解除で芝居」
1936年1月15日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話-琉球側の薩摩党頻りに投獄さる 斉彬の壮図遂に空し」









1936年8月15日『改訂版 日本地理風俗大系 九州地方』誠文堂 新光社(小川菊松)

1936年9月29日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋源一郎「糸満人は果して異人種か」
1936年9月30日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋源一郎「久高島の奇習 午年に貞操試験」(写真ー久高島に残る原始的な風葬)」
1936年10月4日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋源一郎「哀切胸を打つ 与那国島の民謡」

1936年10月23日『琉球新報』喜屋武眞榮(女師附属)「新体操要目と運動会(1)」

1936年11月11日『沖縄朝日新聞』鳥小堀浄(當間諭)・文、西條寛・絵「首里風景ー辨ケ岳/与那原街道を右に、大空につ立ってゐる無電の鉄塔を左に、蝙蝠形に腰を据へて、翠緑に煙る霊嶽!辨ケ岳は首里八景中の筆頭にして、霊地久高島の遥拝所である。舊の八、九月は首里人を始め各郡村から参詣者が、バス車庫の後方から敷き詰められたダラダラ坂を上に下りし、賑やかである。嶽頂よりの眺望は碧海あり連峰あり、眼下 傾斜して広かる西原の画板は素晴らしい」

當間諭さんを検索したら『新旧対照暦』の著者というだけである。その著(1976年)に多和田眞淳氏が「この際、當間君に御願いしたいことは、君の新旧対照暦を駆使し、君の多年蓄積したメモ帳のチツを解き放して、最も我が琉球史の壷所をついた、最も簡明な『袖珍琉球史年表』とでも名づけられる、何時でも何処でも迅速に間に合い、真に役立つような『ポケット年表』を編集してもらいたいことである。」とポケット版の琉球史年表を出されることを當間さんに勧めている。

手元にある當間諭さんの年賀状を出してみると、1979年は大阪市住之江区、1980年、82年は大阪の沖縄関係資料室の西平守晴方になっている。83年から那覇市泊が受け取った住所となっている。『沖縄タイムス』の83年4月に「孫と遊ぶ」、86年10月には「新聞から人物を記録」が記事となっている。當間さんがお元気なころ、よくご自宅を訪ねいろいろな話を聴くのがすきであった。人を指すとき「やっこさん」が口癖であった。書斎には新聞の死亡広告のスクラップ帳が所狭しと並んでいた。
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2004年元旦の『日本経済新聞』に「春秋ーイスラムのヒジュラ暦など太陰暦のほか、さまざまな民族や集団のなかに生き続けてきた西暦と異なる時間を壊して地ならしをしていったのは、鉄道や学校といった仕組みである。情報化の進展がそれをさらに進めて古い時間が失われてゆくのが今世紀だとすれば、何気ない新春の眺めもいとおしくみえる」とある。今は『ポケット年表』も時代遅れとなり携帯電話でカバー出来る時代となった。
1936年12月19日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描①崇元寺」
1936年12月20日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描②首里王城」
1936年12月22日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描③那覇の埠頭」
1936年12月23日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描④赤い屋根」
1936年12月24日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑤泉崎橋」
1936年12月25日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑥萬座毛」
1936年12月26日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑦鹽屋灣」
1936年12月27日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑧海辺の福木」


安藤盛は戦前、来沖した人物で、ジュンク堂那覇店で青木澄夫『放浪の作家ー安藤盛と「からゆきさん」』(風媒社)を入手した。私の知らない安藤の沖縄関連の著作もその目録にあった。本誌に収録されてない琉球新報の1938年6月の記事を紹介する「南洋及び支那通として知られていた著述家安藤盛氏は21日東京の自宅において逝去した。氏は昭和11年、同12年の2回に亘り本県に来遊し週刊朝日其他の雑誌で紀行文を発表、本県紹介に努め県人から親しまれていた。なほ生前本社へ長編小説(琉球新報に連載「紅雀」絵・西銘生一)を寄せたが未発表のうちに急逝し遂に遺稿となった享年41」とある。



写真・1937年9月ー松田毅一『台湾・沖縄の旅』□私が16歳、中学4年生の時に多数の写真入りの当時としては華麗な270ページの書物となって出版された。O・S・K提供の写真はすべて憲兵隊司令部の許可済のものであったにも関わらず、戦局が急速に悪化して、私のどの記述が軍機に触れているのか判らぬまま同書は禁書となって、古書店にあったものまで軍部に没収され廃棄されてしまった。(1987年3月ー松田毅一『わたしの旅路』文芸春秋)
松田毅一 まつだ-きいち
1921-1997 昭和後期-平成時代の日本史学者。
大正10年5月1日生まれ。スペインで日欧交渉史を研究。昭和36年清泉女子大教授,47年京都外大教授。フロイスの「日本史」(共訳)で菊池寛賞,毎日出版文化賞をうけた。平成9年5月18日死去。76歳。香川県出身。上智大卒。著作に「南蛮史料の発見」「天正遣欧使節」など。(→コトバンク)

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東恩納寛文慶事写真ー前列右2人目・島袋源一郎、3人目・志喜屋孝信、4人目・饒平名紀腆、5人目・東恩納寛文、ひとりおいて山城篤男、又吉康和、寛文の後右が島袋全発、左が山田有登ー沖縄県立図書館所蔵

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昭和期ー沖縄県物産大連斡旋所主催「琉球古典焼漆器即売会」

1943年1月10日『朝日新聞』「古琉球文化/郷土の誇・國寶紙上展①首里城守礼門」
1943年1月12日『朝日新聞』「古琉球文化/郷土の誇・國寶紙上展②首里城歓會門」
1943年1月13日『朝日新聞』「古琉球文化/郷土の誇・國寶紙上展③首里城瑞泉門」
1943年1月14日『朝日新聞』「古琉球文化/郷土の誇・國寶紙上展④首里城白銀門」
1943年1月15日『朝日新聞』「古琉球文化/郷土の誇・國寶紙上展⑤園比屋武御嶽」
1943年1月17日『朝日新聞』「古琉球文化/郷土の誇・國寶紙上展 沖縄神社拝殿」
1943年1月24日『朝日新聞』「明るい銃後ー治療の先に錬成 空手術を禮讃の宮里浩司医師」
1943年2月18日『朝日新聞』「朝参り20余年 那覇市の山田有登氏」
1943年2月19日『朝日新聞』「お國自慢随筆①頼もしい貯蓄風景ー亀島大成氏」
1943年2月25日『朝日新聞』「お國自慢随筆⑥村人の推進力ー尚謙氏」
1943年6月8日『朝日新聞』「沖縄芸能展ー10日から山形屋で開催」
1943年6月9日『朝日新聞』「南海の王者 沖縄漁夫 渡嘉敷県技手の比島土産話」
1943年6月20日『朝日新聞』「新生比島に”沖縄県人の街„サンミゲルに築く南進琉球の姿」
1943年6月26日『朝日新聞』仲座久雄「国宝紙上展ー尚家霊廟(円覚寺)」「”勝ち抜く„態勢①沖縄村建設の響き 満州龍江県臥牛社分村写真便り」
1943年6月30日『朝日新聞』仲座久雄「国宝紙上展ー尚家霊廟(円覚寺)放生橋」
1943年7月1日『朝日新聞』仲座久雄「国宝紙上展ー尚家霊廟(円覚寺)山門」
1943年7月10日『朝日新聞』「芸能展の話題 ”絣„の本家は沖縄 琉球織物研究の権威が発表」
1943年7月13日『朝日新聞』「剛健の祖先に続け 沖縄の歴史に見る不屈の魂」
1943年7月15日『朝日新聞』「戦ふ東條首相・南島を電撃訪問」(写真①護国神社に参拝②早川知事と並んで自動車に乗り波上宮へ③波上宮に参拝④退県出発の朝歓送の那覇市翼壮団員)


1943年8月26日『朝日新聞』「伏敵の響きこめて應召」
1943年9月16日『朝日新聞』「見事に竣工す 琉球八社の修復工事」
1943年10月12日『朝日新聞』「感状に輝く大舛松市中尉ー中尉の母校一中養秀寮」「仰ぐ南島の新英雄」
1943年12月17日『朝日新聞』「海洋の民 今昔物語 兵となっても抜群 決死カヌー伝令勇士らの誉れ」
1943年12月18日『朝日新聞』「洋の民 今昔物語泳ぎ切る嵐の應召 海を恐れぬ兒・海洋日本の干城」