1998年3月 由井晶子さん、木村浩子さん(右)


山城博明氏
 日々変わりゆく現実の中で木村浩子は絵画や短歌、山城博明は写真によっていのちと自然を尊び、ここに作品として”抗う魂と優しさ”を表現。/主催:特定非営利活動法人共に生きるネットワークまなびやー
山城博明氏は琉球新報社の記者をしていた時に、取材で木村浩子さんと出会い「障がいを持っても諦めない姿勢、生き方に感動した」と木村さんの印象を語る。木村さんが沖縄を「優しさ」で表現したのに対し、山城さんの作品はフェンスの外から見る基地の様子や、米軍が残した空の砲弾で遊ぶ子どもたちなど、基地を抱える沖縄の実際の姿を撮影し「リアリズム」を持って伝えている。山城さんは「私と木村さんの作品は真逆に見えるかもしれないが、どちらも平和とはなにかが原点になっている」と共通点を語った。


1998年1月 『山城博明写真集・報道カメラマンの見た復帰25年 OKINAWA 沖縄』琉球新報社
2012年5月 写真・山城博明/解説・波平勇夫『琉球の記憶 HAZICI 針突』新星出版
2012年9月 写真・山城博明/解説・宮城晴美『「集団自決」消せない傷痕』高文研
2013年8月 撮影・山城博明/解説・花輪伸一『琉球の聖なる自然遺産 野生の鼓動を聴く』高文研


ある日の東松照明氏を囲んでー後列左から4人目が大城弘明氏、5人目が山田實さん。前列中央に腰掛けているのが山城博明氏



1987年 マニラで 左から国吉多美子さん、屋良氏、由井晶子さん
 『沖縄タイムス』4月16日 05:00 元沖縄タイムス取締役編集局長で、「金城芳子基金」運営委員長やうないフェスティバル実行委員会座長などを歴任した由井晶子(ゆい・あきこ)さんが15日午前11時45分、心不全のため那覇市安里の老人ホームで死去した。86歳だった。1955年沖縄タイムス入社。

 国吉多美子2020-5-15 1987年、私はフィリピン沖縄県人会設立会場にいた。海外取材が初めてだという、沖縄タイムスの由井晶子さんに同行して。フィリピン沖縄県人会は、在フィリピン日本大使館の特別調査員をしていた我部政明さんやフィリピン大学の学生だった屋良朝博さんらの尽力によって立ち上げられた会である。琉球新報からは同期生の松島弘明さんも取材に来ていた。また、東京から法政大学の沖縄文化研究所所長比嘉実さんも駆けつけてくださっていた。後日、東京でお会いした比嘉実さんに「フィリピンの戦争花嫁」のドキュメンタリーを是非書いて残しておくように勧められた。アメリカ軍属フィリピン人男性と結婚した沖縄女性の記録をと。
 敗戦後の沖縄の経済は、アメリカが10としたなら、フィリピン6、日本4、沖縄1であった。生きることに窮した沖縄の人々は軍作業と称して基地の中で働く人が増えた。軍属のフィリピン男性と結婚する沖縄女性も勿論数多くいた。そして、軍属の期限を終えると彼女たちはフィリピン男性と共に沖縄を後にした。
フィリピン沖縄県人会のメンバーは沖縄から旦那さんについてきた沖縄女性がほとんどだった。私はそのことを都立大学の教授、言語学者の中本正智さん(奥武島出身)に相談した。正智さんも沖文研でいつも顔を合わせていた。正智さんは大変喜んで下さり、テープレコーダーまで貸してくださった。私はマニラの沖縄人が経営するレストランで彼女たちにお越しいただいて、テープを回し、聴き取り調査をした。食事をご馳走し、思いきりユンタクしていただいた。
 沖縄でうちゅなんちゅーよりはるかに良い暮らしをしていた彼女たち。旦那さんが軍属の期間を終え帰国になった時、親族のいる沖縄に残りたかったが自分だけ残ると旦那に捨てられたと思われるのではないか、フィリピなーの嫁といじめられるのではないかという危惧から旦那さんについてきたら、田舎も田舎、ド田舎。おまけに貧しい農家。
 「暮らしが良くなってきたのはマルコス政権になって、日本人観光客がふえてからだね。日本語がしゃべるので観光バスのガイドに。チップは弾むし、お陰でやっと自分の家も持つことができたし、子供たちを上の学校までいかすこともできたさ~」彼女たちは堰を切ったようにしゃべり始めた。苦しかった過去を思い出したようだった。4、5時間しゃべりつくして、彼女たちは帰って行った。私とレストランのオーナー(彼女も軍属フィリピン人男性と結婚したうちゅなんちゅー)と二人になった時、彼女たちの中に嘘をついている人がいる。もっと苦労していた。かなり美化して話している、と、語った。ドキュメンタリーの難しさを感じた。時代考察や裏どりも必要になる。そして、何よりも私の若さで、敗戦後の困窮を潜り抜け、異国の地で必死に踏ん張ってきた彼女たちの、心の奥の悲しみや、望郷の念を書けないなと、思った。
 東京に戻った私は、正智さんにテープレコーダーを返した。吹き込んだテープごと。後に、正智さんから喜びの電話を戴いた。彼女たちの方言が正確な方言だという。学生たちに早速聴かせよう、と。「フィリピン戦争花嫁」のドキュメンタリーは未完に終わったが、沖縄方言の採取を手柄としよう。
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写真、左側は都立大学教授の中本正智さん。/右端青いシャツが法政大学沖縄文化研究所所長比嘉実さん。


 国吉 多美子2020年5月16日 · 番外編は象の会著 ダイアモンド社発行の「アジアウォッチング」(1987/05発売)です。34年前、学芸大駅近くに住む、フリーテレビデイレクターの家に集まり、毎月飲み会をしていました。ある日、メンバーの最年長根津清さん(フリージャーナリスト、元産経新聞シンガポール支局長)から、「実は、ダイアモンド社から本の出版の依頼をうけているんだが。。。せっかく集まっているんだから、ひとり1か国を担当して、本を出したらどうだろうか」と、持ち掛けられた。好奇心旺盛な面々、酒の酔いも手伝って、話はすぐ決まった。1980年代、アセアン6か国と言われた時代。アセアン10か国になったのは1990年代になってからである。
 私はフィリピンを担当することになった。1986年2月8に行われた、フィリピンの大統領選をメインテーマに選んだ。
ピープルパワーの勝利でコラソンアキノが大統領に選ばれ、マルコス元大統領がハワイに亡命せざるをえなかった、例の大統領選挙のことである。友人たちと選挙会場を走り回ったことや、ニューヨークタイムズの契約カメラマンの友人のことなどを書いた。この大統領選のために、彼はわざわざニューヨークから飛んできていた。マニラは、プレスカードを首から吊るした諸外国からの報道陣でごった返していた。ABCテレビは、マニラホテル最上階を借りきって、サテライトニュースを流していた。
 そして、1987年(昭和62年)5月21日「アジアウォッチング」初版がダイヤモンド社から刊行されました。
元通産官僚で評論家で作家の堺屋太一氏が帯と推薦序文を書いて下さった。その効果なのか、「アジアウォッチング」はベストセラーになり、第三版まで発行されました。生まれて初めて「印税」を貰った記念すべき本でもあります。今までは、新聞や月刊誌に書いて、原稿料しか貰ったことがなかったからです。
尚、「アジアウォッチング」には、韓国、香港、シンガポール、フィリピン、ブルネイ、タイ、マレーシア、インドネシア、台湾、中国の10か国が取り上げられています。
 根津さんはあとがきでこう述べています。私たちは、何も学者のように、学問としてのアジア学を研究しているのではけっしてない。ともすれば見過ごされがちなアジア諸国のごく普通の人々の生きざまを、彼らの実生活をとおして知りたいのだ。庶民の人生観や喜び、悲しみ、苦しみ、怒りといった最も大切な人間的側面のありのままを、できれば自分たちの足と目と耳と肌でじかに感じ取りたいのである。そして、このことこそ、それぞれの国の文化を理解する最良の道だと思うのだ。何故ならどんな文化も、人間そのものの生き方によって育まれるものだから。。。私たちがしていることは、誰にでもできることで、関心と熱意さえあればすこしも難しいことではない。学者や専門家にはできないが、”素人”にはできる、ということも少なからずあるのである。-象の会ー