1973年12月 沖縄の雑誌『青い海』1月号 通巻19号 具志堅以徳「沖縄に帰化した中国人」


1931年7月ー左から許田重友、大嶺政寛、山田有昴、西村菊雄、具志堅以徳、城間、新垣、大城貞盛、大嶺政敏/ニシムイで左が具志堅以徳、玉那覇正吉


1971年11月 那覇市制50周年 36年振再現那覇大綱引協力者感謝状受賞記念

2015年10月24日 沖縄県立博物館・美術館講座室「ニシムイの画家たち 金城安太郎・具志堅以徳について」

具志堅以徳


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1984年ー左から金城安太郎、具志堅以徳、新城栄徳/書斎の具志堅以徳


2018年1月30日 具志堅宅の途次/写真左からー具志堅隆氏、洋子さん、野原由将氏(那覇大綱挽保存会)、新城栄徳、比嘉清敏氏(那覇大綱挽保存会)


 山田實さんは1931年に天妃小学校を卒業し沖縄県立第二中学校に入学した。そして比嘉景常が指導する樹緑会へ入会する。画家の具志堅以徳氏は1930年の『みどり』に樹緑会概況を書いている。「大正11年、初めて二中樹緑会なるものが創立せられ絵画展を開催していたが第4回後の大正15年、大正天皇崩御遊ばされ展覧会中止のやむなきに至り、久しく停滞していたが昭和3年御大典を期して再生し第5回展を那覇尋常高等小学校で8月7日から10日まで開催し当時沈滞していた沖縄画壇に大なる刺激をあたえた。昭和3年の5回展は実に二中樹緑会の復興期にして、その間会員諸君の努力は大なるものがあった。殊に比嘉(景常)先生、卒業生名渡山愛順氏の御親切な御指導は当時の樹緑会にとって暗夜の羅針盤であった」と記した。

続けて「第6回展は昭和4年1月1日から新築の明視堂マーケット楼上で開会し出品点数数百点を突破し、樹緑会の基礎くを一段と強固ならしめた。当時の樹緑評に、((沖縄)朝日新聞の篠原勇氏「樹緑会は昨夏尋常高等小学校で相当見応えある絵画展を開催し、その後半年にも満たない此の新春随分伸びのある収穫を見せた絵画展を開催したことは、その真面目さと熱を見せただけでも嬉しい。画家の生活態度は多分にデカダン的な所があり、またはそうでなくてはならぬ様に考えられたりして兎に角鼻持ちのならぬことも多いものだが、樹緑会は温和で上品で気取らず寧ろ内気だと思われる。その点反感なく懐かしめるのである。そして若々しく力強く無邪気で肉のはちきれそうな感がする」。

「第7回展は昭和4年8月22日から26日まで那覇尋常高等小学校の新校舎で華々しく開催し、此れまた沖縄画壇を風靡した。夏休み前から作品募集のポスターを出し、此の炎熱にもいとわず諸君の努力により展覧会前までには多くの佳作が集っていたことは首脳部として愉快に思った。然るに会場のことで会員の意見が合わず終に下旬となったことは残念である。会員はよく一致協力して私事を捨てて会のため努力して欲しい。最初は応募作品全部を発表することであったが額縁会場の都合により入選を決定し発表することにした。会場は7室で第1室より第3室までは水彩、第4室デッサン、第5室、6、7室に油絵の部で総点数数百十点、開会中、知名の方々が来観され盛会であった。殊に2日目に山里永吉氏、南風原朝光氏が来られて御批評があった。」

「第8回展は昭和5年1月2日より4日まで那覇尋常高等小学校で開催す。昨年よりぶっ通し奮闘し新春をよそに働いたお蔭に無事2日より開会す。第1室より3室まではみずえ、第4室が油絵とし総点数82点で厳選しミッシリと味わうことの出来る小さな有意義な展覧会であった。2日目は吉田学務部長御一家御来観下され会員一同恐縮した。最期に御親切な校長・与儀喜明氏に深く謝意を表す。樹緑会は学校にある額縁幕が不足で30余の水彩額縁と幕を一高女から借りるがこれは会員の不便であり、同時に大きい仕事である。向こうの校友会にもすまないと思う」とある。


2012年1月11日~3月11日 沖縄県立博物館・美術館「玉那覇正吉展」

玉那覇正吉
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1950年3月ー五人展同人/玉那覇正吉、安次嶺金正、安谷屋正義、具志堅以徳、金城安太郎


1982年9月 沖縄の雑誌『青い海』116号 玉那覇正吉「『愛と憎しみ』の同存 山元兄のことなど」


1985年10月22日~27日 沖縄物産センター画廊「玉那覇正吉遺作展」