2008年7月 『五十周年記念誌ーおきなわの声を伝えて半世紀』東京沖縄県人会



東京/2016年11月13日『沖縄タイムス』「東京沖縄県人会60周年記念特集」/2016年11月13日『沖縄タイムス』「戦後初のアナウンサー 川平朝清さん」


2013年3月30日 川平朝申の児童文学を研究している齋木喜美子さんと川平朝清氏(東京沖縄県人会7代会長)
null
2011年3月ー『児童教育学を創るー福山市立大学開学記念論集』齋木喜美子「山之口貘の児童文学」児島書店/2004年1月ー齋木喜美子『近代沖縄における児童文化・児童文学の研究』風間書房



2016年10月26日 国際通り「世界のウチナーンチュ大会前夜祭パレード」/県外の県人会

1979年12月10日 東京沖縄県人会機関紙『東京沖縄の人』(『おきなわの声』)創刊
null
11月10日東京沖縄県人会機関紙『東京・沖縄の人』「画家岡本太郎氏が空手のマネをしながら登場。独特の語り口で『沖縄には人間らしい本当の心や姿があるが、ヤマトの金本位の空気にやがて侵されるのではないか』と身ぶり入りで語った。」


『おきなわの声』と新城栄徳
nullnull
1979年12月10日 東京沖縄県人会機関紙『東京沖縄の人』(『おきなわの声』)創刊
1986年1月15日『月刊おきなわの声』第74号□此処に人あり 新城栄徳さんー行動力に富んだウチナンチュであり「沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る、イチムドウヤー人生に埋没する」風変わりな友人の一人であると津野創一氏は結んでいる。

null
沖縄新聞・機関紙相関図


 
『関西沖縄県出身者名簿』沖縄県大阪事務所(1981年3月)

 『関西沖縄出身者名簿』の内容は、国会議員、沖縄県の機関職員、関西の沖縄県人会、在阪支社懇話会、琉球舞踊研究所、沖縄料理店、三味線レコード店、沖縄県物産振興会、がじゅまるの会、琉大機工同窓会、主要企業関係者、法律・会計・税務所関係、幼稚園・保育園関係、各県の沖縄県人会、関西養秀同窓会、北親睦会の名簿で構成されている。私の名前はその他のところ、下地玄信、大城一史、金城実の諸氏のところに並んでいる。この名簿は当然に東京の県事務所にもおくられた。東京のほうもこれにならい(財)沖縄協会に委託。82年に『関東沖縄県出身者名簿』が発行された。

null
写真上ー1995年の第二回世界のウチナーンチュ大会会場で左から山口國雄氏、新城栄徳/写真下ー2001年の第三回世界のウチナーンチュ大会会場で左から山口國雄氏(東京沖縄県人会4代会長)、福地曠昭氏(撮影・新城栄徳)

1951年6月 雑誌『おきなわ』通巻12号 山城文盛「抑留生活の思い出」

1984年1月25日『琉球新報』「山城文盛さん(1978年 東京沖縄県人会2代会長代行) 東京の県人会機関紙 50号目を発行」

null
1959年10月ー東京沖縄県人会会場の廊下で、貘、伊波南哲、霜多正次、当間嗣光、平良真英、新崎盛敏(東京沖縄県人会3代会長)、金城唯温、「志多伯」「おもろ」「紅型」など泡盛屋のオヤジ、紅一点の山口一子


2015年1月 雑誌『おきなわ』新城栄徳「総目次」不二出版


2015年1月 『雑誌『おきなわ』解説・総目次・索引」不二出版



写真右上ー左端が川平朝清さん(元東京沖縄県人会会長)

null
 
 『琉球の文化』が1974年5月の第五号で休刊してから41年。『青い海』が1985年9月発行の145号で休刊してから30年。『新沖縄文学』は1993年5月発行の95号で休刊から22年、まさに光陰矢のごとしである。私は3誌とも多少関わりを持っていたので切実に寂しさを感じる。何れもネット「琉文21」で甦らして行こうと思う。『琉球の文化』第五号の特集は《沖縄戦と終戦直後の生活》である。戦後生活の写真はハンナ少佐が撮ったもので同少佐の友人ジョージ・H・ケアから琉球政府博物館研修で渡米していた大城精徳(後『琉球の文化』編集・発行人)に譲られ沖縄県立博物館に収蔵されていたもの。同号には大嶺信一が戦後回顧し「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスバの街のようにひしめきあっていた。諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅氏を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の三氏が毎日出勤して絵画に専念されていた。」と記している。

1977年、『月刊沖縄』の佐久田繁社長は復帰5周年に沖縄戦写真集を企画。大城精徳にペンダゴンからの沖縄戦の写真購入を依頼した。それが9月発行の沖縄戦記録写真集『日本最後の戦い』である。中の自決のところに「世に沖縄戦はありったけの地獄戦であったといわれている。これを象徴するものの一つに自決があった」とし彼方此方の事例を記している。また特攻も結果的に自決と同じだが、特攻の米軍損害は艦船沈没36隻、破損368隻。飛行機763機で殆どが特攻の所為で「米軍が沖縄を取るのに払った代償は少なくない。特攻機が来襲するたびに日本軍も収容所にいた沖縄県民も涙を流して歓喜した」と写真集は結んでいる。戦争の推進責任者たちは少年・少女たちの自決、特攻による自決を教育(命令)で押し付けただけでなく、本人たちは捕虜になって戦後ものうのうと生き恥を晒している。

 1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。

 安太郎さんは、終戦後の捕虜時代には、小禄村や金武村の収容所で米軍将校らの肖像画を描いた。屋嘉捕虜収容所から石川をへて東恩納博物館へ。1945年8月、沖縄諮詢会文化部芸術課技官。慰問用の芝居の舞台絵や小道具なども作った。
 2009年5月15日、沖縄県立博物館・美術館で「豊潤の美を求めてー金城安太郎と高畠華宵」が開かれた。企画したのは金城美奈子さん、別府大学美術史学で学び1994年の春、挿絵画家として一世を風靡した高畠華宵の大正ロマン館(1990年開館)学芸員となり、そこでは華宵らを通じて大正文化を考え、調査研究だけでなくミュージアム・ショップの商品や喫茶室のメニューのアイディアも提案。沖縄で高校教諭を経て沖縄文化の杜企画部員。成り行きとして、沖縄の挿絵画家は?となり金城安太郎に注目する。その図録は沖縄タイムス社から発行されたが、「日本近代 表紙絵・挿絵略年表」「沖縄近現代 表紙絵・挿絵略年表」「金城安太郎の表紙絵・挿絵」は貴重な資料だ。

6月13日には沖縄県立博物館・美術館で「ニシムイ」展が開かれる。ヤマトの研究者に画家の作品だけ見て「ニシムイの画家に歴史に残る画家は居ない」とのたまう評論家も居る。しかしニシムイの画家たちは壺屋のデザインにも協力し、自ら紅型を復興をなしている。また沖展発展のためにはチンドン屋の役回りも買って出ている。いずれにしても歴史に残る残らないは、美術館の学芸員たちの光の当て方というか創造力が試される。私は『沖縄タイムス』の安太郎さんの追悼文の末尾に「最後の琉球絵師・安太郎さんは一昨年までは獅子加那志とミロク仏を黙々とつくり、今、これに打ち乗り同行、異次元の世界へと旅立たれた。-合掌ー」と記した。


沖縄県立博物館・美術館 図録『彷徨の海―旅する画家・南風原朝光と台湾、沖縄』『邂逅の海―交差するリアリズム』『「彷徨の海」「邂逅の海」関連年表』
■美術館開館10周年記念展『彷徨の海―旅する画家・南風原朝光と台湾、沖縄』(11/1~2/4)
■美術館開館10周年記念展『邂逅の海―交差するリアリズム』(12/19~2/4)