1971年2月、大阪都島の「沖縄関係資料室」に行くと、来客があったようでテーブルに「沖縄をつくる若い広場 青い海趣意書」が置かれていた。夕方、仕事から帰宅した西平さんが「同郷(八重山)で元琉球新報記者の津野創一君が沖縄の若い人向けの雑誌を出すというので、新城君もひとつ協力してくれ」という。翌日、大阪北区太融寺の阪急東ビルのオキナワ通信に居候の『青い海』編集室を訪ねた。津野編集長の早口で語るビジョンに意気投合した。大阪の編集は儀間比呂志の紹介で万木恵美子がいた。津野編集長は「編集デスクがほしい」と漏らしていた。

『青い海』創刊号/儀間比呂志(行動会員)「表紙のことば」


1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 船越義彰/石野朝季「れーだー・さいと
写真上・大阪沖縄会館「船越義彰講演会」でー右から2列目が伊藤勝一氏、その後ろ新城栄徳
写真下・左から伊禮吉信氏、伊藤勝一氏、新城栄徳

2001年8月左から新城喜一氏、山里将人氏、船越義彰氏、新城栄徳

写真左から知念良秀氏、石野朝季氏、新城栄徳
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1971年5月 沖縄の雑誌『青い海』2号 「あるグループ 沖青友の会(大阪)」〇大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。嘉陽君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。


1971年6月 沖縄の雑誌『青い海』3号

1971年6月 沖縄の雑誌『青い海』3号 松田道雄「君たちは島の上の石になってはいけない」/儀間比呂志(二科会員)「民話と沖縄」

1971年7月 川平朝申 再話 儀間比呂志 版画『ねむりむし・じらぁ』(福音館書店)



1972年1月 沖縄の雑誌『青い海』9号 儀間比呂志×岡部伊都子「対談 沖縄のこころ を語る」
〇儀間ーボクは大和の差別を告発する人たちは、自らも過去において先島に対して犯してきた過ちを認めて、被害者であると同時に加害者でもあったふうに考えないといかん、と思うのです。岡部ー本土の内でも世界の各国でも、被差別者が差別者となっていくことが多い。それは差別をつくる仕組みのせいでもありますね。だから「差別をつくるしくみ」と闘わなくては。(略)儀間ー沖縄を愛するんだったら、沖縄に住んで仕事をすべきだ、共に苦しみを味わうべきだという考え方があります。ボクなんかも、大阪という安全地帯にいて沖縄を描いている、だから君は沖縄を売りものにしている半沖縄人だというレッテルを貼るんですね。
 
1988年11月 岡部伊都子『伊都子南島譜』海風社 〇誰がしたのーその日、わたくしは枚方の儀間比呂志展を観ていました(1986-6)/『読売新聞』1995年1月6日 「ふれあいトーク 今月のゲスト 岡部伊都子さん」川崎一朗ー戦争で人間が死ぬことは、人類という生き物が適正な環境で生きていくための必要悪、と考える人もいます。岡部ー過去の世界の歴史実情を見れば、そういう考えも出てくるかと思いますが、もはや自分から地球の生命体を考える時、犠牲者を出していいという気持ちに、私はなれません。他を苦しめ、おとしめるような愛は、本来の愛ではありませんし、戦争を是認するような宗教もまた、本当の宗教ではないと思いますね。
     
1997年4月 岡部伊都子『沖縄の骨』岩波書店
岡部伊都子 おかべ-いつこ
1923-2008 昭和後期-平成時代の随筆家。
大正12年3月6日生まれ。昭和31年「おむすびの味」でみとめられ,日常生活のなかの伝統美をこまやかな感性でとらえた作品で人気をえた。「二十七度線―沖縄に照らされて」など,戦争や差別にするどい視線をむけた著作もある。平成20年4月29日死去。85歳。大阪出身。相愛高女中退。著作に「賀茂川のほとりで」など。→コトバンク


『沖縄の歴史』表紙 儀間比呂志「かわき」 (琉球政府・大阪市立博物館・沖縄タイムス社・朝日新聞社 1972年発行)巡回展図録(東京三越、大阪市立博物館、名古屋オリエンタル中村、小倉玉屋、松山三越)/1972-5-3~9大阪梅田・阪神百貨店で開催された朝日新聞社主催「沖縄を彫る 儀間比呂志版画展」展覧会の図録,7-21~26 高知・土電会館


1973年5月 沖縄の雑誌『青い海』23号 


1973年、1974年の扉カットは儀間比呂志

1973年1月~12月『青い海』扉原画 1974年1月~12月『青い海』扉原画


1977年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号<特集 儀間比呂志・版画”沖縄〟> 


右ー1973年10月 国際ショッピングセンター4階「儀間比呂志木版画展」主催・球陽堂書房

1974年 儀間比呂志『沖縄風物版画集』 限定600 岩崎書店〇宮本常一「ふるさとを背負った仕事ー儀間氏の版画と沖縄」


1974年5月 儀間比呂志『儀間比呂志の版画』講談社□三味線ー朝日新聞のT記者が、新風土記の沖縄編を書くにあたって、視座をコザにすえたのは感心した。それほど、コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりに巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス業で栄えている町なのに、島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる。〇高橋亨「沖縄とは何かをえがく版画ー最近では毎年のように沖縄へ飛び、老母や弟妹の住む那覇の家で何日かをすごしてくるが、それは帰るというより訪れるといったほうがふさわしい。いま作者の帰るところは大阪である。(略)沖縄のみ、土地と作家との全的なかかわりあいのなかから、こんにち儀間比呂志を育てた。ただ人間形成の土壌もしくは環境としてでなく、作者の表現の形式、内容その他あらゆる成長にたえず根源の息吹を与えつづける沖縄という南の世界はいったい何なのか。それは私がここで語りうることではない。それこそ作者が版画によってえがきだそうとするところのそのものなのである。」



1976年『儀間比呂志版画集・沖縄の女』岩崎書店


1976年5月 『儀間比呂志版画連作集 みやらび』みやざき書店

1976年5月 沖縄の雑誌『青い海』53号/1979年8月 沖縄の雑誌『青い海』86号


1976年10月15日・16日 那覇市民会館「御冠船踊」パンフレット 島袋光裕「題字」/儀間比呂志「表紙」


1976年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号 大江健三郎「沖縄の民俗に根ざした表現世界ー『鉄の子カナヒル』を読むー」/1978年5月 沖縄の雑誌『青い海』73号「儀間版画を実用化」



1978年1月 儀間比呂志『絵本からむしペーチン』青い海出版社

1980年8月26日~9月6日 大阪府立現代美術センター「儀間比呂志 版の世界展/」高橋亨・大阪府立現代美術センター館長「その木版画の根の深さ」
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沖縄の雑誌『青い海』


1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号「渚ゆう子の人と歌とふるさとと」
 テレビのうたコンで田川寿美①が京都の恋を歌っていた。これは1970年5月に渚ゆう子がカバーし、シングルとして発売したもので発売元は東芝音楽工業(現:EMIミュージック・ジャパン)。渚ゆうこは、沖縄の雑誌『青い海』創刊の趣意書に「気にいった『青い海』」として、安仁屋宗八①、琉王、堀江謙一とともに推薦文を寄せ、1971年4月の『青い海』創刊号の青い海芸能に「渚ゆう子の人と歌とふるさとと」と登場して「ウミナイビ姿」の写真も載っている。それには渚の本名は大江千鶴子。大阪市浪速区で父正雄、母幸子との間に2男2女の長女として生まれる。母は旧姓比嘉、嘉手納の出身。沖縄県人の多い大阪で育ったこと、母方の祖父が野村流古典音楽の師範をしていたことなどから、幼い頃から琉球民謡や舞踊のある生活環境に育った、とある。『青い海』創刊当時と違って今はネットの時代で検索すれば直ちに「渚画像」は過去から現在までなんぼでも出てくる。(2016-4記)

①田川 寿美(たがわ としみ、1975年11月22日 - )は、日本の女性演歌歌手。和歌山県和歌山市出身。血液型はO型。堀越高等学校卒業。長良プロダクション所属。→Wikipedia

②沖映通りに安仁屋宗八(左)、ミハイル・ゴルバチョフの手形がある。


1980年の『沖縄商工名鑑』は沖縄興信所の発行である。「本土在住沖縄県人有志名簿」のところの沖縄県大阪事務所の広告に、前田朝助所長、當間成一次長の名前が見える。前田さんは1924年の大宜味生まれ、當間さんは1937年の豊見城生まれと、名鑑にある。また発行人の田中久雄のところには田中町子(1917年の宮古生まれ)、夫久雄(本書著者)とある。名鑑の序文に「名鑑は昭和26年8月に沖縄興信所の調査資料を基礎に第1版を発行以来、28版を迎えることになりま愛した」とあり、また「永年の高血圧で入院し本書の出版も遅くなりました」とする田中久雄の挨拶がある。
 発行人が尼崎在住なので関西の県人広告が多い。昭和食品(安里嗣福)、宮城清市、山端立昌、大都設備工業(名嘉正成)、上進商会(上間平進)、屋良運送(屋良朝光)、丸一食品(仲間宗一)、琉球銀行大阪支店(山里正雄)、沖縄銀行大阪支店(嘉陽宗清)、有村産業大阪支店、諸喜田精肉店(諸喜田太栄)などがある。沖縄県大阪事務所は前田所長、當間次長のとき島根県ビルから大阪駅前第3ビルに移転してきた。1980年であった。同年3月発行の『青い海』は特集「ドギュメント琉球大学」で広告に県事務所から當間次長(第8期)、武島第二課長(第7期)がある。

1980年8月に沖縄県大阪事務所で「第1回観光フェア」、『青い海』にカットなどを手がけていた大城一史の風景画展も開催された。9月発行の『青い海』は特集「沖縄を出た島びと」で諸喜田太栄、仲里祥光、仲間宗一の略伝、大阪の映画館の沖縄人経営者たち、関西在住沖縄県人公共団体・企業リストが付いた。ある日、當間次長のところで雑談をしていると、『青い海』の公共団体・企業リストを見て、機を見ることには早い次長が県事務所でも作りたいといってきた。私も沖縄関係資料室や青い海出版社、青年会などから名簿を集めて提供した。そして出来たのが『関西沖縄出身者名簿』である。□後の話になるが、東京「ゆうなの会」の事務所でメンバーに、私の手帖を見せたことがある。それには「ゆうなの会」「がじゅまるの会」メンバーの自宅、連絡先まで記してある。某劇団のうちなー女性に、「これは絶対に活字にしてはダメですよ」とクギをさされた。
 
 『関西沖縄出身者名簿』の内容は、国会議員、沖縄県の機関職員、関西の沖縄県人会、在阪支社懇話会、琉球舞踊研究所、沖縄料理店、三味線レコード店、沖縄県物産振興会、がじゅまるの会、琉大機工同窓会、主要企業関係者、法律・会計・税務所関係、幼稚園・保育園関係、各県の沖縄県人会、関西養秀同窓会、北親睦会の名簿で構成されている。私の名前はその他のところ、下地玄信、大城一史、金城実の諸氏のところに並んでいる。この名簿は当然に東京の県事務所にもおくられた。東京のほうもこれにならい(財)沖縄協会に委託。82年に『関東沖縄県出身者名簿』が発行された。


2001年4月29日の儀間さんのFAX


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前列左から當間次長、前田所長、兵庫県人会婦人部ー大城一史の作品を背景にして/1980年8月、沖縄県大阪事務所で「第1回観光フェア」、黒メガネが大城一史氏