05/05: 嘉陽安男
写真左から星雅彦氏、嘉陽安男氏、新城栄徳
写真左から嘉陽安男氏、新城栄徳、亀島靖氏
1959年3月『船越義彰詩集』南陽印刷所
2008-5 『うらそえ文藝』<船越義彰を語る>第13号
1986年12月 嘉陽安春『沖縄民政府―一つの時代の軌跡』久米書房
写真ー1989年6月1日、泊の自宅で民政府の表示板をバックにして國吉眞哲翁/1991年1月30日『琉球新報』
1991年7月 船越義彰『スヤーサブロー 宮城嗣吉物語』沖縄タイムス社-右は青年時代の宮城嗣吉
□仲宗根源和の帰郷は沖縄の空手も、ぜひ「道」として高次元の探究をすべきであり、その運動が目的のひとつであった。仲宗根が三郎(宮城嗣吉)を訪ねて来た。協力をたのむと言うのである。三郎が承諾すると、仲宗根は、当時の沖縄の名ある武人訪問の案内を三郎に依頼した。三郎は屋部憲通、花城長茂、喜屋武朝徳、知花朝信、城間真繁の武人のもとへ仲宗根を案内した。→源和は1938年5月に『空手道大観』を沖縄師範学校の一期後輩の新田宗盛の東京図書から出版、1937年3月に沖縄県空手道振興協会(会長・知事、宣伝部長・島袋源一郎、指導部長・屋部憲通)が決定した空手道基本型制定も収録。ま1905年の花城長茂が書いた「空手組手」を紹介、すでに空手の名称が使われていたことを強調している。
2001年8月左から新城喜一氏、山里将人氏、船越義彰氏、新城栄徳
○屋嘉捕虜収容所。日本人、沖縄人、朝鮮人、将校の4部隊に分けられる。沖縄人部隊の本部付になる。スヤーサブローとよばれ後に沖映社長となった宮城嗣吉と同室になる。日本人部隊のやくざ崩れが沖縄人部隊をいじめたので、そのボスを宮城が組み伏せた。捕虜収容所長は旧日本軍の上等兵。米軍上陸後、いち早く捕虜になった米兵気に入りの兵隊たち。→2006年 外間守善著『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』
宮城嗣吉と沖映演劇
前列左端が宮城嗣吉沖映本館社長と俳優たち
沖映演劇台本(翁長良明コレクション/古美術なるみ堂 ☏098-987-5530)
沖映演劇チラシ(翁長良明コレクション/古美術なるみ堂 ☏098-987-5530)
1974年6月 『沖映演劇』「第53回公演 恩納ナベ」□儀保正輝「いまはなき兄を偲んで」/宮城嗣吉□名優紹介 儀保松男の追憶ー私が大正劇場の楽屋に出入りしはじめた当時、伊良波尹吉優の一行が公演中、儀保がファンの望みで泊松茂良の「公相君(くーさんくー)」の演武を見る機会を得ましたが、筆者はいまだかって彼ほどの「公相君」の使い手を見たことがなく、今なお眼底に焼付く思いをいだいております。演武後、楽屋を訪れ教えを乞うたら「人それぞれに特意があるもの、その得意を生かす事だ」と微笑んだ千両役者の言葉に圧倒され、以来、儀保を先輩として礼をつくすようになったのです。儀保の舞踊の美しさ」、素晴らしさは、空手の鍛錬からきたものか又、儀保の固唾をのむ演武が舞踊の至芸からくるものか「演武」と「演舞」の鍛錬が一体であることは間違いないものと思われるのである。儀保15,6才の頃、同字の先輩「ジンメー小」こと比嘉仁明氏に空手の手解きを受け、首里派の使い手・新垣安吉氏と遊び、「チャンミー小」こと喜屋武朝徳翁や本部御殿の「サールー」こと本部朝基先生が一目おいておられた「板良敷のアカータンメー」こと板良敷朝郁翁に教えを乞い武の道に入らんと苦心したことなど、儀保の短い生涯に求めんとした芸道、武道への一途な姿が今でも髣髴として私の目に浮かぶのである。・・・
1974年8月 『沖映演劇』「第54回公演 逆立幽霊」□宮城嗣吉「名優紹介 眞境名由康の人と芸」
1975年2月 『沖映演劇』「第59回公演 真壁チャーンと糸満マギー/泊阿嘉」□宮城嗣吉「名優紹介 玉城盛儀」/船越義彰「『あかちら』幻想」/仲井真元楷「尾類馬の由来」/宮城嗣吉「空手雑感」
1922年2月22日 『沖縄タイムス』莫夢生「鶏聲犬語ー隈侯と山公(11)」
側に「美しく有望な女形ー儀保松男君」記事
女形・儀保松男
儀保松男(左)、親泊興照
大衆雑誌『芝居と映画』
1949年5月 沖縄劇場協会『芝居と映画』創刊号□編集兼発行人・高良一
山里永吉「雑談」/比嘉正義(松劇団)「劒戟役者放談」/親泊興照、儀保松男「儀保松男追憶談」/平良良勝(沖縄俳優協会長・竹劇団長)「芸道苦心談」/大見謝恒幸(梅劇団)「新俳優研究生時代の思い出」/「映画スター前身調べ 癖しらべ」/仲井眞元楷「演劇漫筆」/編集後記「沖縄で最初の娯楽雑誌としてデヴィウすることになりました。誌名に示すとうり”芝居と映画に関する一切の記 を集録して読者諸賢にまみえるつもりです」
書斎の船越義彰氏/2017-7-27 古美術なるみ堂/写真左から新城喜一氏、翁長厚子さん、翁長良明氏
1957年7月 沖縄詩人グループ『環礁』創刊号
1957年7月 沖縄詩人グループ『環礁』創刊号 あらかわ・あきら「風と砲弾とブリキ看板と」「島は雨模様」/同人ー牧港篤三、松島弥須子、船越義彰、真栄城啓介、池田和、池宮治、大湾雅常、あらかわあきら
1958年4月 沖縄詩人グループ『環礁』第2号 あらかわ・あきら「颱風眼の中のボク」
1958年11月 沖縄詩人グループ『環礁』第3号 糸数正雄「おがむ」/あしみね・えいいち「Despair」 /松島弥須子「内なる狂想曲」「演出者の群」/大湾雅常「心象のオムニバス」/牧港篤三「コタン」/真栄城啓介「誕生日に」/池田和「詩人考」/船越義彰「ある会話」/新川明「基地の島を出る!」/池田和「長詩への移行」
1959年12月 沖縄詩人グループ『環礁』第4号
□環礁だよりー沖縄人は歴史的に被圧迫民族として長い抑圧の時間を通って来たため、忍従がすでに第二の習性となり、精神的な萎縮という根深い病巣を形成している。大宅壮一氏はいみじくもこの症状を指摘した。彼の発言に対して沖縄の歴史的事実を無視しているとか、沖縄人を差別視しているとかいう非難も出たが、そんなことを気にする前に、われわれ自身でこの病根に対する処方箋をつくりあげてわれわれの体質改造にとりかからなくてはならないだろう。この問題に呼応するかのように一つの試練が降って湧いた。中部の石川市に於けるジェット機墜落による、家屋全半焼25棟、死傷136名の惨事である。これをたんなる事故とはせず、基地そのものの破壊性の現れとして徹底的に追求していきたい。(大湾雅常)
1960年2月 沖縄詩人グループ『環礁』第5号
池田和「環礁」