朝6時半のバスで妻と新川にある娘(さやか)が入院している病院へ。東北大震災や原発事故から一か月すぎ天変地異の最中で生まれた子供だからスムーズにとは行かなかった。が、無理に世に出された子供には手術が待っていた。 とりあえず見舞を終えて帰宅。後田多敦氏からの博士(歴史民俗資料学)の学位をいただいたという来信。氏は新聞記者時代から学究タイプだったから本来の姿に立ち戻った感がする。

1978年ー読谷村座喜味で、左からあけみ、その母、その母、手前が江とさやか(嘉手納生まれ)。/ひより

平良次子さん、さやか/写真右ー左から平良次子さん、ひより、さやか、山城みどりさん

 2012年(平成24年)3月11日 本日は東北大震災・原発大事故から1年。新報、タイムスは「34万人 今も避難」と報じている。国際通りを歩くと、脱原発や、原発ゼロのブラカードが目立った。


 斎藤 陽子 2011年(平成23年)3月11日 、一瞬にして突然に2万人以上の人々が亡くなった日・・・あの日あなたは何処で何をしていましたか。3・11を迎えるたびに、月日の経つのは早いものと思ってしまいます。あの日も私は訪日中で、あろうことか日本橋三越の婦人服売り場の試着室で、ちょっと気に入った服を試着しようと、試着室の扉を締めて服を脱ぎ裸になったところに・・・ユラッと来て、瞬間「卒中に襲われたか」と思ったのですが、そのあとの大きな揺れで地震だと判断、とっさに裸の自分に慌てていると、店員から試着室の「ドアが開かなくなるとまずいので、ドアは開けてください」とのことで、開けっ放しの試着室で、大急ぎで揺れる中を這いつくばってオバシャツから始まり洋服を着る努力をするのですが、うまくゆかず焦りました。何とか洋服を着て、まだ揺れる中を這いつくばいながら、デパートの廊下で店員の集団と肩を抱きあい、車座になり揺れのおさまるのを待っていました。頭の中はこのデパートで押しつぶされて死んだら、アメリカからの旅人の私は無縁仏になるのかな・・・とのことなどが脳裏をよぎり恐怖の中にいました。
 その後は日本橋三越から帰宅困難者の群れとなり、小雨降る寒い中を次男の豊洲のマンションの方向を目指し、沢山の人々と歩いていると、後ろから肩を叩く青年がいて、何ごとかと振り返るとインスタントのカイロを渡してくれた事は、緊張の中で他人を思う若い人のいる日本に感激し、うるうるしながらひたすら歩きました。やっとマンションに着いたのは外も暗くなった8時頃、ホットする間もなくマンションのエレベーターは稼働してなく、高層マンションの16階までを登るのに、70歳の老婆は頑張りました。あいにくマンションの持主の次男は海外出張中、東京に居るはずの長男も海外出張中、余震の襲う中をテレビでは東北が炎上している映像を見ながら、初めて東北一帯で津波のあったこと知り、福島の主人方の親戚の事や、前年に女川を訪問して漁業幹部の方から美味しいウニをご馳走になった、お世話になった面々を思い、マンション内の散乱している家具や割れ物の始末と奮闘をしていると、夜が明けてきていました。

 『沖縄の軌跡』97号 編集発行人・島袋和幸〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 ☎ 島袋携帯090-4920-6952
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<袋中上人行化碑>が、{桂林寺}の跡である松山公園の一角にある。左の碑文に「慶長8年(1603)、浄土宗の僧、袋中上人は縁あって来琉。法然上人念仏の教えを弘め、故郷岩城(福島県)「じゃんがら念佛」を普及、現在沖縄の伝統芸能「エイサー」となる。時の琉球尚寧王は上人に深く帰依、桂林寺を建立。ここ松山公園その跡地である。この跡地において、平成16年(2004)2月7日袋中上人沖縄開教400年を記念し、上人顕彰・頌徳の慶讃法要ならびに、第二次大戦戦没者諸霊位の冥福を薦めるため、仏教各宗派寺院、檀信徒等、千数百名の参加を得、俱会一処の法楽を奉修した。願わくはここ沖縄の地に世界平和念仏が弘通され、すべての人々の心に安らぎがもたされることを期し小碑を建立する。平成16年2月吉日  浄土宗宗務総長 水谷幸正」と記されている。


1972年7月ー『古典琉球舞踊の型と組踊五組』月刊沖縄社
□本書に当間一郎氏は「組踊以前の(琉球)芸能はほとんどが宗教的行事の中で演じられ、神への祈願や感謝の意をこめた荘厳なものであった。組踊は村々、島々に古くからあった素朴な神行事や村おどりが反映していると思われる。いまひとつ、組踊の発生をみる上に忘れてならないのは、念仏宗の来琉である。京太郎(チョンダラー)と呼ばれて広い地域にはいりこんでいる。彼らは詞曲をとなえながら人形を踊らせたのである。」と記している。念仏にはエイサーの元祖とされる袋中上人も当然入る。上人は今のいわき市で出生された。今回のエイサーををフクシマの復興祈念とするのも必然的ではある。(2011-9-8大阪・池島保育園で記す。)
 袋中上人の福島に続いて、『琉球浄瑠璃』(1889年)の著者・松山伝十郎も福島出身で東京市会議員。やはり福島出身で1894年5月の『早稲田文学』に「琉球演劇手水の縁」を書いた人物に佐々木笑受郎が居る。佐々木はキリスト教布教のため来沖し『沖縄新聞』主筆もつとめた。ちなみに宮城県人で沖縄最初のガイド本『琉球漫録』(1879年)を書いた人物に渡邉重綱(軍医)が居る。(2011-9-11<アメリカ同時多発テロの日>関西沖縄文庫で記す。)

1889年11月ー松山傳十郎『琉球浄瑠璃』いろは家

松山傳十郎 資料
□1937年10月 『書物展望』石井研堂「琉球浄瑠璃ー前号の、『琉球もの雑本』の記事につれて思い出した[琉球浄瑠璃]の一本を紹介する。[琉球浄瑠璃」は、友人松山いろは氏の著作で、明治22年の発行、四六版92頁、山田美妙序、市川團洲題詞、獨幹放史(大森惟中)跋、その凡例に、『琉球國に、組躍と名づくる歌舞伎狂言あり、其の種類三百以上に達す。而して、其の最著名なるもの五つあり、村原と云ひ、八重瀬と云ひ、忠心身代巻と云ひ、姉妹讐討と云ひ、久志の若按司と云ふ、本書は、則此五大書の一なる久志の若按司を評釈せしものなり』とあり、内容から言えばただ[琉球浄瑠璃」ではなく評釈の二字を冠するのが妥当なようだ。・・・」

 石井研堂ー数種の少年雑誌の編集に携わり、明治41年、『実業少年』*3を創刊したが、明治44年、同誌の廃刊をもって、少年雑誌の編集から離れ、著述生活に入る。研堂は、民間説話収集にも関心を寄せ、『日本全国国民童話』を著した。その一部は関敬吾の『日本昔話集成』*4にも採録されるなど、今日でも評価されている。他に、江戸時代の漂流記・漂流譚を子ども向けに紹介した『日本漂流譚』、資料調査に加え、中濱萬次郎自身へのインタビューに基づく伝記『中濱萬次郎』、創作読物『鯨幾太郎』『少年魯敏遜』など海事関係の著述も多い。→「福島の児童文学者 列伝3 石井研堂 - 福島県立図書館」

石井研堂資料

1926年10月 石井研堂『明治事物起源』春陽堂

石井研堂
生年: 慶応1.6.23 (1865.8.14)
没年: 昭和18.12.6 (1943)
明治・大正・昭和期の在野の文化史家。本名民司。奥州二本松藩領郡山村(福島県郡山市)生まれ。郡山小学校を卒業後,同校教員などを務めたのち上京,明治22(1889)年雑誌『小国民』(のち『少国民』)の編集者となる。当時数多くあった少年雑誌のうちで,同誌が「雑誌界之大王」を標榜するほどの人気雑誌となったのは,近代日本のエリートコースを進まなかった研堂が,かつての自分のような境遇にある独学少年たちの希望にかなった雑誌作りをしたからであろう。そういうセンスは同34年から同37年にかけて刊行された単行本シリーズ『理科十二ケ月』や『少年工芸文庫』にも通底している。その著『明治事物起原』(1908刊,44年改訂増補版)は,明治文化を知る百科事典といえる。吉野作造らの明治文化研究会に属し,明治文化全集の編集にも当たった。<参考文献>山下恒夫『石井研堂』 (坪内祐三) →コトバンク


 1875年(明治8)年に来琉した河原田盛美の『琉球紀行』に「写真は既に垣田孫太郎なるもの創めたれとも之を内地に輸送せさるは亦全き利を得るに至らさるなり」とあり、垣田という鹿児島商人の手によって沖縄での写真屋は始められたが短命であったようだ。79年3月25日、琉球処分官・松田道之、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部、巡査160人余、熊本鎮台分遣隊400人来琉。島袋盛敏が「私の家は当蔵町のアダニガーお岳の下にあったが、仲宗根嶂山家も名護から引き上げてお岳の傍らに来た。私の隣人になっていたのである。そうして嶂山翁の長男真吉君と私は大の仲良しになり、毎日行ったり来たりして遊んだものだ。嶂山翁は初め沖縄県庁の役人や分遣隊の士官達の求めに応じて、絵を売り生活しておられたとのことであるがその需要がなくなったので、名護の教員になられたのであろう。しかし教員も長く続かず再びアダニガーお岳の傍らに落ちつかれたものと見える」と述べているように、当時の画家の友寄喜恒、阿嘉宗教、佐渡山安豊、麻有信・儀間親雲上、兼城昌興、比嘉華山などは沖縄県庁や分遣隊の士官達の求めに応じて首里城や沖縄風俗絵を描いていたようだ。


右ーいわき市立いわき総合図書館「企画展 袋中上人ーいわき・沖縄・京都ー」/2015年10月「沖縄の軌跡」第166号<『琉球浄瑠璃』著者・松山傳十郎>
下ー右の顔写真は河原田盛美②

2015年10月「沖縄の軌跡」第167号<『琉球備忘録』著者・河原田盛美>
②河原田盛美 かわらだ-もりはる
1842-1914 明治時代の官吏。天保(てんぽう)13年10月5日生まれ。もと陸奥(むつ)会津藩(福島県)藩士。明治6年大蔵省にはいり,のち農商務省に転じ,水産局で「日本水産製品誌」を編集。24年帰郷し,36年福島県会議員。大正3年8月15日死去。73歳。通称は愛七郎。著作に「日本農学捷径」など。 →コトバンク