12/12: 1929年8月16日『沖縄朝日新聞』知念武雄「タゴールの印象」
1929年8月16日『沖縄朝日新聞』知念武雄「タゴールの印象」
1936年11月『沖縄教育』243号 源武雄「記紀の神名、思金及麻良に就て」
〇はしがきー此の一篇の論旨から述べてみたい。南島の命名の民俗及び人名の原義を研究する為めに私は各地方各島々の人名、童名を出来るだけ採集した。それを採集しているうちに古事記及日本書紀、萬葉集、風土記を始め我国の古典に出て来る神名や人名の「名の本義」を独自の立場から研究してみることにした。その結果はどうであるか。先づ私を最も驚かしたことは吾々南島人の珍妙な童名は嘗て吾が日本民族が広く愛用したもので決して琉球人独特の珍名ではないことを看破したことである。何れこれに就ては稿を改めて報告したい。次に名の本義を研究していると、之迄発表されている古典研究者国文学者などの説に疑問を持つに至ったのである。そうして、之はどうしても吾々民俗学を研究しているものの仕遂げねばならぬ研究だと思い、ここに民俗学徒の立場から記紀の神名人名を考察することにした。先づその手始めに記紀の天岩戸の所に出て来る思金神及天津麻羅の名の本義を明らかにし世上流布されている古典研究者国文研究者の見解に再吟味を煩わしたいと思う。
(略)
以上記紀の神名、思金神及天津麻羅の名の本義に就て在来の学者の説を批判し検討した結果その誤なるを指摘し、南島民俗の資料を以て之が再吟味をなし、自己の新しき説を提示したのであるが、振り返って何故に之迄の国文研究者が之等神名の本義をつかむことが出来なかったかに就てよく考えてみる必要がある。私は在来の学者が記紀の物語を批判する心構えが不足している結果ではないかと思う。即ち記紀にある民俗をもっとも古いものとして、それ以前の考察を怠っている結果ではないか。記紀が決して古いものでない証拠には神名に沢山の民間語源説がつきまとうて、それで物語を構成している民間語源説話の出来る時代には既にそのものの原義が不明になっていた時代になっていたことを意味している。記紀の物語はそんな時代に生まれたものであって、決して原始的な本然の姿を吾々には伝えていない。故にこれら神名の原義を突き止めるには先づ記紀の物語に脚色を打破し、民間語源説話を全然離れて独自の自由な立場からその真相をつかむようにすべきであろう。
1942年5月『沖縄教育』309号 源武雄〇棺を蓋ふてその人を知るー(略)いつ会っても盛沢山の計画を胸中に描いて居られたことである。その計画を聞くことだけでも愉快であった。部落調査の話をよく聞かされたが、実はあの仕事は大変なものであった。私も二三ぺん実地指導らしいものを受けたがいや実に骨の折れる、そのうえ頭を使う仕事であった。之を一二箇所の部落でなしに全県下に及ぼそうといふ遠大な計画で実は命が一つ二つでは足りないと心配していた。しかし、之が出来上がれば沖縄の癌であるユタ、三世相は徹底的に沈黙させることが出来るのだといふのが、源一郎さんの悲壮な決意であった。ユタ、三世相を根本的に駆逐するには部落調査によって各氏族の系図を正さねばならぬ。といふのがその意図する所であった。部落調査をやっているうちに、沖縄歴史の記録に対しても意見があったらしく新しい沖縄歴史を書いてみたいと洩らしてゐられた。鬱勃たる念が胸中を去来していたのであった。こんな忍耐を要する、しかも金にならぬ仕事は源一郎さんの外にはちょっと手が出ない(以下略)
1958年3月 東恩納寛惇『沖縄今昔』南方同胞援護会「著者近影ー自宅にて郷土史研究家・源武雄君と」(外間正幸君撮影)
1965年2月 源武雄『琉球歴史夜話』月刊沖縄社□上の挿絵は金城安太郎/末吉安久(麦門冬弟)「表紙画」
1972年3月 『琉球の文化』創刊号 源武雄「結婚と貞操」
1972年3月 真栄田義見・三隅治雄・源武雄 編『沖縄文化史辞典』東京堂出版
1973年10月 『琉球の文化』第四号 源武雄「朝薫の人及び芸術についての覚書」
1981年3月3日~5日『琉球新報』源武雄「首里城復元とその意義」
1983-8-19『琉球新報』源武雄「鎌倉芳太郎先生と首里城復元」
1992年8月10日 『沖縄タイムス』湧上元雄「源武雄氏を悼む」
沖縄県立芸術大学でー湧上元雄氏(右)
2008年2月9日~2月11日『琉球新報』新城栄徳「沖縄研究の先駆者・東恩納寛惇の足跡をたどる」
2018年3月16日~28日 那覇市歴史博物館「『門中・清明・お墓』展」/寛惇ノートに貼り付けられた「清明祭」の新聞告知(右上に下記の曹氏清明祭の記事)
1953年4月5日に慶福翁が門中総代として神御清明祭で次のように祭文を読み上げている。「曹氏第11代 島袋慶福 謹んで墓前に於いて呈します。(略)平敷慶隆様が検地のため粟国島に御出張になり同地御滞在中(約半ケ年)に粟国にも御子供が出来て現在でも大へん子孫繁昌してをるように聞きます。・・・」
1953年 東恩納寛惇編纂『向姓金武家系図』漢那朝常発行
『向姓金武家家譜』(原本複写)六世朝祐のところに、1726年9月、呉師虔筆猫の絵一幅拝領とある。この猫の絵は下記のように、尚順所蔵になった。
美術館開館記念展図録『沖縄文化の軌跡1872-2007』新城栄徳「麦門冬の果たした役割」〇・・呉師虔の神猫図は那覇市歴史博物館に所蔵されているが、戦前は尚順男爵(本人は殷元良としている)も所蔵していた。入手の経緯は尚順自身が1942年の『文化沖縄』に書いている。それに「金武朝芳波上宮司から奈良原知事、知事から尚順に贈られた」とある。
尚順所蔵/那覇市所蔵
眉屋私記 (1984年)
山入端つるー13歳のとき、姉たちが行っている辻に売られていった。
〇三木健「解題・近代沖縄おんなの生きざま」
関東で琉球芸能を普及ー疎開先での生活を切りあげ、東京に出ることにした。そのとき、つるの頭にひらめいたのは、やはり芸能のことであった。千葉から東京墨田区の平川橋に一戸を求めて住んだが、芸能の打ち合わせなどで川崎に出向くことが多くなり、居を同地に移す。1948年(昭和23)頃のことだ。
川崎や鶴見には戦前沖縄から工場労働者として出稼ぎに来た2,3千人がそのまま住みつき、一つの集落をなしていた。そこでは沖縄芸能も盛んだった。川崎における琉球芸能の歴史は、昭和2年に、阿波連本啓が「阿波連郷土舞踊同好会」の看板を掲げ、県出身者を集めてはじめたのが嚆矢といわれている。
戦後になって米須清仁らが中心となり、それに鹿児島に疎開していた野村流師範の池宮喜輝、舞踊の大家渡嘉敷守良らが加わり隆盛をみる。つるも渡嘉敷守良や池宮喜輝の両師範から古典を仕込まれた。つるは乞われて地方をつとめた。川崎沖縄芸能研究会が結成されたのもそのころのことである。
1948年3月、読売ホールで平良リエ子、児玉清子のコンビによる芸能公演が3日間にわたって開かれたときも、つるは地方をつとめた。(略)マッカーサー夫人の主催する会に招かれて、児玉清子の踊りの地方をつとめたことも忘れられない。また西崎流舞踊家元の西崎緑は渡嘉敷守良に弟子入りしていたが、琉舞を歌舞伎座で舞ったときも、つるが地方をつとめた。西崎はまたつるのよき理解者であった。
とにかくそのころは地方はほとんどおらず、つるは西へ東へと多忙な日々をおくる。こうした活動が認められ、つるは川崎市文化協会から感謝状をもらっている。沖縄芸能は全国でもめずらしく、1952年(昭和27)に川崎沖縄芸能研究会が川崎市の無形文化財に指定され、1954年には神奈川県が県の無形文化財に指定した。つるたちの活動が大きな支えとなっていた。
1957年ー山入端つる 東京新橋に琉球料理「颱風」開店
1996年12月 山入端つる著/東恩納寛惇校閲『三味線放浪記』ニライ社
寛惇はつるの「三味線放浪記」を書いたあと、「このつぎは萬栄兄さんのことを書こうね。そして二つまとめて本にしようね」と話していたが、萬栄のことを少し書きかけたころに亡くなったのである。
□東恩納寛惇は1950年に、真栄田勝朗『琉球芝居物語』に序文を書いている。□さきに渡嘉敷唯錦君の辻情話が出た時に私は依頼によってひと通りその原稿に目を通した。ことごとく吾々の知見の及ばざる世界の噺ではあったが、吾々の同時代の社会生活の一面である以上、よかれあしかれ、誰かが引受けて記録しておかねばならないであろうと考えながら、せめては表題だけでも『青芝巷談』として見てはと提案したが、遂に採用されなかった。但し、序文だけは畠ちがいという理由で御免蒙りたい意中を先方で察して遠慮して呉れた。今度、真栄田君が芝居噺を書くと聞かされて、大方辻情話の姉妹篇であろうと考えていた。廻って来た原稿を一読すると、姉妹らしき処もあり、従姉妹らしき処もあり、血のつながりのある事だけは争えないが、それにしても、何処か知らぬ気質の違った点が見受けられた。(略)すべて臭い物には蓋をするがよい。蓋さえしっかりしておけば自然に消滅する。(略)然るに最後の結語に沖縄芸能の保存が古典劇と代表的舞踊とに重点を置くべき事、役者の教養を高むるべき事などを提唱した見識にすべてを見直し得難い風俗史料として江湖に推薦する。
□2014年1月25日昼ー高槻の平良リヱ子さん宅から息子が電話をしてきた。あけみと息子が遊びに行ったようである。平良さんも電話で「あけみさん、児玉清子さんに似ている」と言われた。帰りに、お土産(舞扇など)いっぱい貰ったという。あけみは山入端つるさんも訪問看護で会ったことがある。