null>
写真「末吉麦門冬」

1924年12月26日 『沖縄タイムス』東恩納寛惇「野人麦門冬の印象」
△麦門冬失踪の郷信に接したのは、二三日前の事であったが、信ずることを得なかった。今日到来の新聞でその訃音の広告を見て信ぜざるを得なくなった。
△「真加比河原下りて」の詩に卓宕不羈の鬼才を知られた薄幸詩人狂末吉は、麦門冬と兄弟か叔姪か。彼れが洋灯の火を浴びて神田の下宿に悶死した遺骸を、三四の郷友と守ったのは、霜白き秋、廿一二年の昔の事であったらうか。△その天才と、その数奇の運命と、両末吉何ぞよく相似たる。
△麦門冬に「真加比河原」の悪謔のなかっただけ彼れは小末吉に比し、泰々として大人の風があった。
△文筆を通じて自分が麦門冬と知己たる事は可なり古い。然し彼れと面晤したのは、太甚新しい、彼れの三十九年の生涯中、自分が彼れを見た時間は、三時間にも足りない。
△数年前の夏、自分が帰省した時に、物外、笑古、麦門冬を頭に描いて波止場に下りた。その翌日若狭町の大通りにタイムス社の横看板を斜に見ながら、麦門冬を想像した。その翌日笑古の上泉の僑居に叩いて、使を馳せて彼れを迎へたが居なかった。
△その又翌日彼れが、「フチュクル、ビツチン」してノコノコやって来た。面と見た麦門冬は自分の想像を裏切った。自分の想像では彼れは頭髪をクシャクシャにした色の蒼白い優さ男であったが、実際会って見ると、在郷軍人のやうな男であった。山城正忠を一廻り大きくしてイブシをかけたやうな男であった。
△正忠と麦門冬とは類型の人物である。その磊々たる風姿に長安の酒徒を偲ばしめる点に於て似ている。あの大きな図体から柄にもない処女のやうな音色を絞り出す点に於て似ている。併し頭脳の緻密な点に於て、麦門冬は正忠の兄である。
△麦門冬と正忠とは之れを蔬菜に譬へて見ると、当に「アスパラガス」である。大味の中に微妙な苦味がある。王侯の盛膳でも手掴で食へる。△麦門冬に対する自分の印象は、向日葵を聯想させる。黙々として垣根の裏に力強く咲いている花、輪郭の大きいボツとした花、満洲や蒙古の荒原にでも咲きさうな花。併しながら彼れは遂に床の間の飾りとはならなかったのである。
△麦門冬の経歴も自分は知らない。彼れが史筆で名を出して来て以来、自分の彼れに対する感じはどうしても新しく出て来た人のやうには思へなかった。幕の陰に初めからいた人のように感じた。声こそ立てね、彼れは品物を持って最初から店を出していたのである。△文筆を通じて見た麦門冬は微塵も穉気がなかった。
△「日本人」のカットに小出しに随筆を出していた者に、南紀の奇人南方翁と麦門冬とがあった。麦門冬は果たして彼れと同一人か。△彼れは沖縄のやうな不便な処にいて、珍しい程、物を読んでいた。読んだものを並べて行く点に於て、彼れは球陽の小南方であった。
△彼れの史筆は述べるのであって、論ずるのではなかった。彼れの史筆に結論がない如く彼れの人物にも結論がなかった。よく云へば彼れは初めから蔗境に入っていた。彼れは勿論唐栄の子孫ではない。併し彼れの風格は明初の人物を偲ばしめる。「莫夢山人」の彼れの筆跡も亦さうである。
△彼れの生涯は障子の陰を通った大人のやうな気がする。素通りであったが影は大きかった。開けて見るともういない。△彼れは既成でもなければ、未成でもない。恐らく彼れに取って問題ではなかったらう。
△三時間の会見を通じて自分に映った彼れの印象は、光角の浅い鏡台にうつった影像のやうなものである。最初も最後も共に不明で、その真中だけが可なり濃く映じている。△彼れの最初はいかん。彼れの最後はいかん。共に知らない。又知らうとも思はぬ。彼れはそのまま一個の芸術品であった。△銀行潰れ、群小政治家美田を失って迷乱せる時、高踏彼れを喪ふ。噫。


東恩納寛惇生家跡(ヒガオンナカンジュンセイカアト)那覇市東町22地内 モノレール旭橋駅より西へ徒歩約5分。東町外科医院近く。
 沖縄研究者東恩納寛惇の生家跡。東恩納寛惇は1881年(明治14)に、那覇東村(ひがしむら)で生まれた。東恩納家は那覇士族の愼(しん)氏である。
 東恩納は、沖縄尋常中学校を経て、熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)、ついで東京帝国大学(現東京大学)史学科に進んだ。1908年(明治41)に卒業し、その後も、東京に留まり、1929年(昭和4)に東京府立高等学校の教授となった。1933年(昭和8)には東京府からの派遣で、東南アジアやインドを歴訪し、タイでは日本人町の調査を行った。戦後の1949年(昭和24)に拓殖(たくしょく)大学の教授に就任した。
 東恩納の沖縄研究は、大学在学中からで、『琉球新報』や各種雑誌等で論文を発表している。主な著書に『尚泰侯実録(しょうたいこうじつろく)』(1924年)、『黎明期(れいめいき)の海外交通史』・『泰(タイ)ビルマ印度(インド)』(1941年)など多数あり、戦後も地名研究の名著『南島風土記(なんとうふどき)』(1950年)、『校註 羽地仕置(はねじしおき)』(1952年)がある。
 1963年(昭和38)に東京で死去、享年83。60年余かけて収集した蔵書は、郷里沖縄に寄贈され、沖縄県立図書館に「東恩納文庫」として収蔵されている。
 なお、東恩納の生家跡は、王国時代は、薩摩藩在番(さつまはんざいばん)奉行所の脇仮屋(ワキカイヤ)で、1900年(明治33)から沖縄戦にかけては並川(なみかわ)金物店となっていた。

 東恩納寛惇は1940年3月の『月刊民芸』に「方言問題だけではない。沖縄の教育の根本方針は一切の弁解を去る事である。消極的にあれもいけない、これもいけないと云うのではなくして、積極的にあれをやれ、これをやれと云う事である。沖縄人が排他的傾向を有し他人に褒められると無上に嬉しがると云う事も、同情を求める卑屈な心理から来たもので、この卑屈心理をまづ除去するのが教育の根本義であろう。これが為には吾々が有する美点長所を十分に知らせて子弟の自負心を昂揚する必要がある。薩摩人が薩摩訛を寧ろお国自慢にするが如く、吾々も亦沖縄訛を光栄に思う時代を促成しようではないか」と記した。寛惇の琉球学は後世に伝えるべき琉球人の誇りであった。 











1941年5月  東恩納 寛惇『泰 ビルマ 印度』大日本雄辯會講談社
null
写真上右ー1901年1月4日東京神田小川町・写真館美影堂(中村董)で沖縄中学校の同級生たち前の右から東恩納寛惇、崎浜秀主、国吉真徳、伊波興旺、後列右から赤嶺武太、小嶺幸慶、与那覇政敷。
写真中ー福州において東恩納寛惇が発見した5代目祖先の墓碑。その右ー1901年5月13日熊本市下通町上村嘉久次郎・写真裏に「地上の友なる国吉真徳大兄へー寛惇」
写真下ー1933年12月に東恩納寛惇が安南および福建より持ち帰った三味線、昭和会館に寄贈した。(1)ヤマト、(2)琉球、(3)安南、(4)安南

1941年5月  東恩納 寛惇『泰 ビルマ 印度』大日本雄辯會講談社 (装幀 東恩納洋)

蛇皮線ー琉球入貢記の著者山崎美成の世事百談に、『琉球よりわたる三味線の皮は、かの國に産するえらぶ鰻の皮なり』と誠しやかに書いてあるのは真赤なウソで、その實は福州を経て安南から來る蛇皮である。


1933年12月ー東恩納寛惇は一中時代の同級生の比嘉盛珍(元内務省土木技師)、島袋慶福(陸軍少尉)、漢那憲英(海外協会)、崎浜秀主(商校長)、糸数青盛(那覇市税務課)、及び旧友の照屋那覇市長、島袋二高女校長、志喜屋二中校長、胡屋一中校長、當間那覇市助役、城間恒淳、千原成悟、山田有登、古波倉博士、新嘉喜倫篤らの諸氏と、久米蔡氏堂に立ち寄り仲良くカメラに収まって後、波の上医院のよ平名さんの案内で那覇でも1,2位を争うという自慢のよ平名家の庭で談話に耽った。