11/07: 1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)「神山宗勲」
1920年12月、新旧あらゆる傾向の社会主義者30人が発起人となって神田の青年会館で「日本社会主義同盟」の創立大会が開かれた。沖縄でもこれに即応、翌年の21年1月に沖縄支部準備委員として宮城不泣、泉正重、東恩納寛敷、浦崎康華が推された。1月3日、泉宅で伊是名朝義、玻名城長好(後の山里)、辺野喜英長、渡久地政憑、長嶺紀成、上与那原朝敏、浦崎康華①、宮城不泣、城間康昌、東恩納寛敷、泉正重が集まる。糸満グループの城田徳隆・徳明兄弟、座安盛徳、比嘉栄は連絡不十分で欠席、山田有幹は5月の市制準備で忙しく、比嘉春潮は出張で、比嘉良児は参加できなかった。若い福村安謙、国吉真哲、神山宗勲、山田義文、屋良猛、名護良英らはシンパサイザーとして組織外に置いた
①浦崎康華翁の著作
1977年5月12日ー安里ホテル「第三回放談会」
写真前列右から、國吉眞哲、浦崎康華、宮里栄輝、末吉安久/後列右から外間政彰、山城善光、不詳、島袋哲、不詳
◎浦崎康華は、私の祖父です。祖父の文献を検索したら、久しぶりに祖父と、宅を見て懐かしく涙しました。
我が祖父とはいえ、沖縄を愛する行動と情熱に尊敬します。今、生かされている私たちウチナヮーの若い世代も、アイデンティティーを確認して、沖縄だけではなく、世界平和のために進むべきだと信じます。沖縄は、すばらしい!2011-8-17
1924年、日本帝国では初めての単行本、アプトン・シンクレア『事実物語ー赤黒白』が神山宗勲の抄訳で刊行。神山は1898年、那覇上之蔵生まれ。1914年8月、『文章世界』に詩「夏の月」を発表。1915年上京し美術学校に学ぶ。1919年帰郷し新聞社につとめる。1921年、沖縄最初の社会主義団体「庶民会」にオブザーバとして参加。1922年に再上京。→琉文21「神山宗勲」
アプトン・シンクレア著の日本語版
東京/1924年8月ー神山宗勲 訳アプトン・シンクレア『赤・黒・白』聚芳閣
本書に「この地球上に一度戦といふものが勃発するや、新聞記者といふ、新聞業者の手下どもは、輿論の大渦巻のうへに、その目をさらすのである。そしてその昔いくら慎重な態度をもつて、公平無私にその実状をみてきたといふ、アメリカの新聞でも、戦争の大波にのみこまれると、もう以前のやうな真実な態度を、こつそりとすててしまふのである。例えば『ニウヨオク・タイムス』のやうにだ」とある。かなり手厳しい表現である。
神山宗勲作品ー1927年12月『解放』「闘争」/1928年1月『解放』「先ず把握せよ!」
写真上ー1923年9月 中央・神山宗勲、右・静江、後列左・弟・宗顕、写真下ー1966年。1928年
1930年3月1日 茅原崋山『内観』第120号「三つの問題=琉球教員会に於ける講演の一節=」〇経済的に貧弱なる琉球は、経済的に貧弱なる日本の縮図であるといふ。私が実際に来て見れば、成程その通りである。(略)琉球の問題は、猶日本に於けるが如く、政治問題ではなくして経済問題である。政治の琉球としては、分裂するのが、自然の勢であるが、経済の琉球としては、コオペレーション即ち共同労作が、必然の理である。コオペレーションが沖縄県人の標語であらねばならぬ。(以下略)
□今帰仁の幸地新政は『北米沖縄人史』に「孤島北山の一角に、新理想主義に燃え、読書会を組織し、そして中央の茅原崋山と呼応した十余名の青年グループがあった」と大正初期のヤンバル青年の雰囲気を伝えている。1914年6月の『沖縄毎日新聞』には「萬朝報記者茅原崋山氏は沖縄は未だ普く王化に服せず従って現代沖縄人の革命的思想を懐ける事を述べて朝鮮、台湾の植民地統治の困難(略)」とある。/私は1988年に崋山の孫で工学院大学の茅原健氏に崋山が來沖したときの『内観』のコピーを送ってもらった。それには琉球にて詠めるとして「櫻花咲ける一月の川の邊に蛍飛び居り沖縄の島」の歌がある。
茅原華山 かやはら-かざん
1870-1952 明治-昭和時代の評論家。
明治3年8月3日生まれ。改進党系の「東北日報」記者のあと,自由党系新聞の記者をつとめ,明治37年万朝報(よろずちょうほう)に入社。大正2年石田友治と「第三帝国」を創刊,民本主義をとなえた。9年個人雑誌「内観」を発刊。昭和27年8月4日死去。82歳。東京出身。本名は廉太郎。著作に「動中静観」など。(→コトバンク)
神山宗勲発行の雑誌、その筆跡
神山宗勲(1898年~1966年11月)資料目録
1914年1月ー『文章世界』神山宗勲「夏の月(琉球にて)」
1925年8月21日『読売新聞』神山宗勲「シンクレアの翻訳権ーそれは臥床中の妻の恐ろしい病名が、決定的に診断された悲痛な日でありー」
1926年7月ー『文芸戦線』神山宗勲「労働文芸思潮としてのシンクレアリズム」
1927年2月ー『工芸時代』神山宗勲「琉球の造形美術」
1929年4月 『沖縄』(鹿児島市 沖縄社・座安盛徳)□神山宗勲ー今回氏外6名の同人組織で悪魔社を組織 「藝術と生活との不可分離的相関関係の本質的理念に基き」4月號より 文藝雑誌『悪魔』を創刊 詳細は東京市外龍野川町田端800番地其社へ問合せられたし。
1929年4月 『郷土雑誌 沖縄』編集発行・座安盛徳/沖縄社鹿児島市上荒田1770のノ2
1930年4月ー神山宗勲訳シンクレア『赤・黒・白』近代文芸社
1989年4月ー『沖縄タイムス』長元朝浩 「神山宗勲の小説『闘へる沖縄人』見つかるー新城栄徳さん」
1990年10月ー『琉球新報』松島弘明「文化ノート・神山宗勲の新たな人物像判明ー新城栄徳さん」
1916年3月 西川光次郎『断食療法』北文館〇本書は主としてエドワード・デユゥエの『健康の新福音』と、アプトン・シンクレアの『断食療法』を参考に編述したものであって、別に数十の健康書類を参照したけれども、煩を厭ふて其の書目は略して置く。
片山潜は行き詰まった運動の打開策を政治運動に求め、1901年5月、社会民主党を創立しました。(社会民主党宣言)この日本最初の社会主義政党の創立に参加したのは、左から安部磯雄・河上清・幸徳秋水・木下尚江・片山潜・西川光二郎の6人でした。しかし、この党はすぐに結社禁止命令をうけ、解散させられてしまいます。さらに、その宣言を掲載した『労働世界』などの各新聞もまた発売頒布を禁止されてしまったのです。大逆事件につながる「冬の時代」が近づいていたのです。→法政大学大原社会問題研究所
①浦崎康華翁の著作
1977年5月12日ー安里ホテル「第三回放談会」
写真前列右から、國吉眞哲、浦崎康華、宮里栄輝、末吉安久/後列右から外間政彰、山城善光、不詳、島袋哲、不詳
◎浦崎康華は、私の祖父です。祖父の文献を検索したら、久しぶりに祖父と、宅を見て懐かしく涙しました。
我が祖父とはいえ、沖縄を愛する行動と情熱に尊敬します。今、生かされている私たちウチナヮーの若い世代も、アイデンティティーを確認して、沖縄だけではなく、世界平和のために進むべきだと信じます。沖縄は、すばらしい!2011-8-17
1924年、日本帝国では初めての単行本、アプトン・シンクレア『事実物語ー赤黒白』が神山宗勲の抄訳で刊行。神山は1898年、那覇上之蔵生まれ。1914年8月、『文章世界』に詩「夏の月」を発表。1915年上京し美術学校に学ぶ。1919年帰郷し新聞社につとめる。1921年、沖縄最初の社会主義団体「庶民会」にオブザーバとして参加。1922年に再上京。→琉文21「神山宗勲」
アプトン・シンクレア著の日本語版
東京/1924年8月ー神山宗勲 訳アプトン・シンクレア『赤・黒・白』聚芳閣
本書に「この地球上に一度戦といふものが勃発するや、新聞記者といふ、新聞業者の手下どもは、輿論の大渦巻のうへに、その目をさらすのである。そしてその昔いくら慎重な態度をもつて、公平無私にその実状をみてきたといふ、アメリカの新聞でも、戦争の大波にのみこまれると、もう以前のやうな真実な態度を、こつそりとすててしまふのである。例えば『ニウヨオク・タイムス』のやうにだ」とある。かなり手厳しい表現である。
神山宗勲作品ー1927年12月『解放』「闘争」/1928年1月『解放』「先ず把握せよ!」
写真上ー1923年9月 中央・神山宗勲、右・静江、後列左・弟・宗顕、写真下ー1966年。1928年
1930年3月1日 茅原崋山『内観』第120号「三つの問題=琉球教員会に於ける講演の一節=」〇経済的に貧弱なる琉球は、経済的に貧弱なる日本の縮図であるといふ。私が実際に来て見れば、成程その通りである。(略)琉球の問題は、猶日本に於けるが如く、政治問題ではなくして経済問題である。政治の琉球としては、分裂するのが、自然の勢であるが、経済の琉球としては、コオペレーション即ち共同労作が、必然の理である。コオペレーションが沖縄県人の標語であらねばならぬ。(以下略)
□今帰仁の幸地新政は『北米沖縄人史』に「孤島北山の一角に、新理想主義に燃え、読書会を組織し、そして中央の茅原崋山と呼応した十余名の青年グループがあった」と大正初期のヤンバル青年の雰囲気を伝えている。1914年6月の『沖縄毎日新聞』には「萬朝報記者茅原崋山氏は沖縄は未だ普く王化に服せず従って現代沖縄人の革命的思想を懐ける事を述べて朝鮮、台湾の植民地統治の困難(略)」とある。/私は1988年に崋山の孫で工学院大学の茅原健氏に崋山が來沖したときの『内観』のコピーを送ってもらった。それには琉球にて詠めるとして「櫻花咲ける一月の川の邊に蛍飛び居り沖縄の島」の歌がある。
茅原華山 かやはら-かざん
1870-1952 明治-昭和時代の評論家。
明治3年8月3日生まれ。改進党系の「東北日報」記者のあと,自由党系新聞の記者をつとめ,明治37年万朝報(よろずちょうほう)に入社。大正2年石田友治と「第三帝国」を創刊,民本主義をとなえた。9年個人雑誌「内観」を発刊。昭和27年8月4日死去。82歳。東京出身。本名は廉太郎。著作に「動中静観」など。(→コトバンク)
神山宗勲発行の雑誌、その筆跡
神山宗勲(1898年~1966年11月)資料目録
1914年1月ー『文章世界』神山宗勲「夏の月(琉球にて)」
1925年8月21日『読売新聞』神山宗勲「シンクレアの翻訳権ーそれは臥床中の妻の恐ろしい病名が、決定的に診断された悲痛な日でありー」
1926年7月ー『文芸戦線』神山宗勲「労働文芸思潮としてのシンクレアリズム」
1927年2月ー『工芸時代』神山宗勲「琉球の造形美術」
1929年4月 『沖縄』(鹿児島市 沖縄社・座安盛徳)□神山宗勲ー今回氏外6名の同人組織で悪魔社を組織 「藝術と生活との不可分離的相関関係の本質的理念に基き」4月號より 文藝雑誌『悪魔』を創刊 詳細は東京市外龍野川町田端800番地其社へ問合せられたし。
1929年4月 『郷土雑誌 沖縄』編集発行・座安盛徳/沖縄社鹿児島市上荒田1770のノ2
1930年4月ー神山宗勲訳シンクレア『赤・黒・白』近代文芸社
1989年4月ー『沖縄タイムス』長元朝浩 「神山宗勲の小説『闘へる沖縄人』見つかるー新城栄徳さん」
1990年10月ー『琉球新報』松島弘明「文化ノート・神山宗勲の新たな人物像判明ー新城栄徳さん」
1916年3月 西川光次郎『断食療法』北文館〇本書は主としてエドワード・デユゥエの『健康の新福音』と、アプトン・シンクレアの『断食療法』を参考に編述したものであって、別に数十の健康書類を参照したけれども、煩を厭ふて其の書目は略して置く。
片山潜は行き詰まった運動の打開策を政治運動に求め、1901年5月、社会民主党を創立しました。(社会民主党宣言)この日本最初の社会主義政党の創立に参加したのは、左から安部磯雄・河上清・幸徳秋水・木下尚江・片山潜・西川光二郎の6人でした。しかし、この党はすぐに結社禁止命令をうけ、解散させられてしまいます。さらに、その宣言を掲載した『労働世界』などの各新聞もまた発売頒布を禁止されてしまったのです。大逆事件につながる「冬の時代」が近づいていたのです。→法政大学大原社会問題研究所