2019年10月 安仁屋政昭『反戦平和の源流 近代沖縄の民衆運動』あけぼの出版

1923年12月ー赤琉會(日本労働総同盟予備軍倶楽部)発足
1924年3月ー関西沖縄県人會機関誌『同胞』創刊


大阪人権歴史資料館の学芸員・仲間恵子が1994年6月『季刊・リバティ』に「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号ー関西に生きるウチナーンチュ(沖縄人)の第一歩ー」と題して『同胞』を翻刻、紹介している。2003年3月の『水平社博物館研究紀要』第五号にも仲間は「1920年代の在阪沖縄青年の運動」と題し『同胞』を紹介している。『同胞』は「沖縄県人同胞会」の機関誌として1924年3月に大阪市北区西野田吉野町で発行された。『同胞』は五号を数えると謄写版刷からタブロイド版印刷となった。


新垣正美「1999年度提出 修士論文 沖縄人連盟の研究」/1999年7月『琉球新報』新垣正美「落ち穂」


2003-6-27 安仁屋政昭沖縄国際大学教授を介して沖縄国際大学南島文化研究所で「松本三益資料」を見る。写真ー安仁屋教授を囲んで左から仲間恵子さん、新城栄徳、新垣正美さん//左から新城栄徳、安仁屋政昭氏、真喜屋武氏

2000年9月 大阪人権博物館『ヤマトゥのなかの沖縄』


2000年7月16日『沖縄タイムス』新城栄徳「書評-安仁屋政昭/高嶋伸欣『「沖縄魂」が語る日本』黙出版」

1983年4月 安仁屋政昭『沖縄戦再体験』汐文社/2000年7月 安仁屋政昭/高嶋伸欣『「沖縄魂」が語る日本』黙出版

1983年3月 安仁屋政昭『沖縄の無産運動』ひるぎ社

1971年12月 『文化評論』№124 北川民次「表紙絵」、伊藤嘉昭☆「侵略戦争と自然科学者の責任ーベトナムの枯葉作戦に反対する日米科学者の運動」、新里恵二「沖縄近代史の諸問題」、河邑重光「トロツキストの沖縄論」、鹿地亘「キャノンの横顔」、仲地哲夫「読書ノート 儀部景俊・安仁屋政昭・来間泰男『戦後沖縄の歴史』日本青年出版社」

1971年9月『文化評論』№121<特集・沖縄論の思想>仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」、西里喜行「近代沖縄の課題と差別問題」、安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」、津田孝「沖縄問題と現代の作家」、嶋津与志「沖縄協定調印前後」


 『読谷村史』「戦時記録」上巻 序章 安仁屋政昭「近代日本と戦争」千島のおくも沖縄もー〇近代日本が、アジア・太平洋地域に領土を拡大していった道すじを、小学校唱歌によってたどってみよう。「蛍の光」は卒業式の歌として知られている。原曲はスコットランド民謡の「久しき昔」というものであるが、明治政府はこれに日本語の歌詞をつけ、小学校唱歌として全国に広めた。一八八一年(明治十四)のことである。
 第一節の「ほたるの光、まどの雪」と、第二節の「とまるもゆくも、かぎりとて」までは、大方の人なら歌った記憶があるだろう。この「蛍の光」には第三節・第四節がある。第三節は、「つくしのきわみ、みちのおく、うみやまとほく、へだつとも、そのまごころは、へだてなく、ひとつにつくせ、くにのため」とある。 「つくし」(九州)と「みちのおく」(みちのく=陸奥・東北地方)が、本来の日本の領域だということを示したものだろう。
 第四節は、「千島のおくも、おきなはも、やしまのうちの、まもりなり。いたらんくにに、いさをしく。つとめよわがせ、つつがなく」となっている。「千島」も「沖縄」も、日本の領土であることを誇示しているのである。
 一八七五年(明治八)の「樺太・千島交換条約」によって樺太(サハリン)はロシア領、千島を日本領として国境を画定した。琉球処分によって一八七九年(明治十二)に沖縄県を設置して南の国境を画定した。これによって琉球(沖縄)が日本領となったことを認識させようとしたのである。沖縄は置県当初から「国権拡張の前縁(ぜんえん)」と認識されていたことがわかる。
 ところで、一九〇六年(明治三十九)の「教育唱歌集」(文部省検定済)では、第四節の歌詞は、「台湾のはても、カラフトも…」となっている。日清戦争の戦勝によって、一八九五年(明治二十八)の下関条約で台湾を領有し、日露戦争の戦勝によって、一九〇五年(明治三十八)のポーツマス条約で北緯五〇度以南の樺太(サハリン)を獲得した結果である。限りなく対外膨張を志向していった時代思潮・教育政策を反映したものである。
 太平洋戦争のとき、第四節を「昭南のはても、アリューシャンも…」と歌わせる教師たちがいた。日本軍は、一九四二年(昭和十七)にシンガポールを占領して「昭南島」と命名し、アリューシャン列島のアッツ島を占領して「熱田島」と呼んでいた。「日の丸」を押し立てての進軍であった。少国民と呼ばれた少年たちは、「シンガポールの朝風に、今ひるがえる日章旗」と誇らかに歌った。

 

文部省『小学唱歌集』初編(1881年(明治14年)11月24日)明治18年5月
 
螢 作詞:稻垣千穎
一 ほたるのひかり。まどのゆき。書(ふみ)よむつき日。かさねつゝ。いつしか年も。すぎのとを。あけてぞけさは。わかれゆく。
○螢のひかり窓の雪。ふみよむ月日かさねつゝ。いつしか年もすぎの戸 を。あけてぞ今朝はわかれゆく       
二 とまるもゆくも。かぎりとて。かたみにおもふ。ちよろづの。こゝろのはしを。ひとことに。さきくとばかり。うたふなり。
○とまるもゆくもかぎりとて。かたみに碎く千萬の。こゝろのはしを一言に。さきくとばかりうたふなり
三 つくしのきはみ。みちのおく。うみやまとほく。へだつとも。そのまごゝろは。へだてなく。ひとつにつくせ。くにのため。
○筑紫のきはみみちのおく。別るゝ道はかはるとも。變らぬ心ゆきかよひ。ひとつにつくせ國のため
四 千島のおくも。おきなはも。やしまのうちの。まもりなり。いたらんくにに。いさをしく。つとめよわがせ。つゝがなく。
○千島のおくも沖繩も。八島のそとのまもり也。至らん國にいさをしく。勤めよわがせつゝがなく
4番の歌詞は、領土拡張により文部省の手によって何度か改変されている。 千島の奥も 沖縄も 八洲の外の 守りなり(明治初期の案) 千島の奥も 沖縄も 八洲の内の 守りなり(千島樺太交換条約・琉球処分による領土確定を受けて) 千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり(日清戦争による台湾割譲)台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり(日露戦争後)
3番は出版前の1881年(明治14年)の段階では 「つくしのきはみ みちのおく わかるゝみちは かはるとも かはらぬこころ ゆきかよひ ひとつにつくせ くにのため 」 という歌詞だった。これを文部省でチェックしたところ、普通学務局長の辻新次から「かはらぬこころ ゆきかよひ」という部分が男女の間で交わす言葉だという指摘が出たために、翌年まで刊行が延びた。奥付は1881年(明治14年)11月であるが、実際に刊行されたのは1882年(明治15年)4月のことである。 →ウィキ