null
沖縄新聞・機関紙相関図

 2011年2月7日昼前、沖縄県立図書館で垣花稔さんに出会った。那覇と題する映画フィルムを見せてもらった。映像資料は沖縄県公文書館が熱心に収集しているので垣花さんと同行した。公文書館では小野さん、久部良さんがいた。フィルムは垣花さんが公文書館に寄贈した。そして小野さんから『沖縄毎夕新聞』を見せてもらった。
null
null
 1937年11月ー大宜味朝徳『現代沖縄県人名鑑』海外研究所に宮城清が紹介されている。□泡盛商 神田区淡路町2ノ5(電話神田2357番)、島尻眞和志村與儀の産、明治28年2月14日生、大正3年県立一中を卒業、大正8年沖縄朝日新聞社に入社、主として経済方面を担任5年間勤務す、大正12年同志故瑞慶村智慧氏と計り沖縄経済新聞を創刊す、之れは沖縄県に於いて最も必要なことは沖縄と他府県との経済的関係を明らかにし商取引其他経済上の利害得失を究明し母県の政治上経済上将た社会上あらゆる方面に新生気を注入せんとする信条のもとに企画されたのであったが1年にして廃刊となる。これ沖縄に於ける純経済紙の最初のものであった。後大城彦五郎、伊仲晧の3氏共同にて沖縄毎夕新聞を創刊し社務に従事傍ら県会書記を嘱託さる。大正13年沖縄タイムス社に転す、当時村治刷新自治振興運動にも奔走す、大正14年沖縄救済運動のスタートとして沖縄経済振興会が組織されるや氏は幹事に推され庶務一切を担任して沖縄産業助成運動に参画す、同年末沖縄物産東京斡旋所が設立されるや羽田内務部長の推薦に依り同所最初の東京勤務となり、沖縄物産の東都進出、販路開拓に尽力す、昭和6年9月官を辞し独立して泡盛卸業を開始して今日に至る。(以下略)

null
2021年11月 大城辰彦氏、新城栄徳/2019年10月 安仁屋政昭著・大城辰彦監修『反戦平和の源流 近代沖縄の民衆運動』あけぼの出版


1959年3月 『沖縄・小笠原関係団体名簿(抄)』南方同胞援護会



1965年9月 『東京沖縄県人会名簿』東京沖縄県人会(神山政良)

在日沖縄学生会機関紙・誌



1972年5月 堺沖縄県人会『会員名簿録』歴代会長・高良善吉(1914年、本部備瀬)1968年就任/並里良助(1913年大宜味上原)1970年就任/久米武善(1912年那覇高橋)1972年就任
null null
1972年12月28日 『堺沖縄県人会報』第5号 編集責任者・嘉陽勤/1974年9月8日『堺沖縄県人会報』第9号 編集責任者・嘉陽勤
nullnullnullnullnull
1992年7月 嘉陽勤『地獄極楽わかれ道』

1979年12月10日 東京沖縄県人会機関紙『東京沖縄の人』(『おきなわの声』)創刊
null
11月10日東京沖縄県人会機関紙『東京・沖縄の人』「画家岡本太郎氏が空手のマネをしながら登場。独特の語り口で『沖縄には人間らしい本当の心や姿があるが、ヤマトの金本位の空気にやがて侵されるのではないか』と身ぶり入りで語った。」



1980年5月『那覇会会員名簿』真栄田三郎(東京都中央区勝どき5ノ4ノ18ノ108)

null
1984年ー国会図書館に寄って帰り沖縄協会に行き、吉田嗣延氏に挨拶すると河野忍さんを紹介された。河野さんは部下の隆氏に私を紹介した。隆氏は私の話を聞き機関紙『沖縄』で紹介してくれた。
nullnull
1986年1月15日『月刊おきなわの声』第74号□此処に人あり 新城栄徳さんー行動力に富んだウチナンチュであり「沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る、イチムドウヤー人生に埋没する」風変わりな友人の一人であると津野創一氏は結んでいる。

nullnullnull
1987年8月 東京沖縄県人会『三十周年記念誌』由井晶子編、新崎盛敏編集委員長、大城辰彦委員、委員17人「座談会ー三十年を顧みて今後の課題を語るー歴代事務局長」大城辰彦7代目事務局長 



1988年3月 大城辰彦(編集責任者)『創立十周年記念誌(1978年~1988年)』板橋区沖縄県人会(会長 阿波根朝計)

1988年3月 大城辰彦編『写真でつづる松本三益のあゆみ 年譜・著書・論文目録、資料ー』
 
2008年4月『オキナワグラフ』新城栄徳「『オキナワグラフ』50周年に寄せて/創刊者(崎山喜昌)の横顔など」


「沖縄の雑誌略年表」(作成協力・新城栄徳、上原実)
表紙「Cocco」〇本誌『オキナワグラフ』(以下グラフ)は、1958年4月に創刊された。発行人は崎山喜昌、編集人が神村朝堅。創刊者の人物像は余り知られてないが、崎山は名護に生まれ11歳のときに父を亡くしている。15歳で上京し、神田の中学に入学、チンドン屋、新聞配達のアルバイトをしながら苦労して日大夜間部に入るが、胸膜炎にかかり帰郷する。1928年に沖縄物産販売の目的で再び上京し、鶴見に泡盛卸商を開業する。31年、東京深川に進出。一時、佐久田昌章と沖縄物産商会を経営したこともある。 
 崎山は泡盛で得た資金で37年、那覇西新町に高級旅館「那覇ホテル」を経営する。戦時中、軍命で南洋パラオに渡り、戦後、引揚げ南洋群島引揚沖縄人援護会を組織し理事長となり南洋庁沖縄人関係残務整理事務所の嘱託、南洋群島共助義会理事を経てドイツ製のカマでパン製造の朝日製菓株式会社を創立した。その朝日製菓の住所と電話番号は後に沖縄映画配給株式会社(国場幸太郎会長、宮城嗣吉社長)の東京支社となる。グラフが初期のころ映画や沖縄物産の宣伝に力を入れていた背景には崎山の経歴によるものがある。後に生地跡に「崎山図書館」を寄贈し、名護市立図書館の母体となった。(以下略)
null
崎山喜昌


2008年7月 『五十周年記念誌ーおきなわの声を伝えて半世紀』東京沖縄県人会

nullnull
2009年10月 「鄕友会・県人会関係資料展展示目録」沖縄県立図書館



東京/2016年11月13日『沖縄タイムス』「東京沖縄県人会60周年記念特集」/2016年11月13日『沖縄タイムス』「戦後初のアナウンサー 川平朝清さん」

在京沖縄県人会機関紙





1987年6月 大阪沖縄県人会連合会40周年記念誌『雄飛 大阪の沖縄』

1997年6月 大阪沖縄県人会連合会50周年記念誌『雄飛 大阪の沖縄』


辺野古新基地NO

2015年4月10日『琉球新報』新崎盛暉「菅氏の欺瞞性を指摘ー(略)沖縄の平和な未来を、『運用年数40年、耐用年数200年』(米国国防総省報告書)の辺野古新基地建設によって閉ざしてはならない。」







2016年10月26日 国際通り「世界のウチナーンチュ大会前夜祭パレード」/県外の県人会


 
『関西沖縄県出身者名簿』沖縄県大阪事務所(1981年3月)

 『関西沖縄出身者名簿』の内容は、国会議員、沖縄県の機関職員、関西の沖縄県人会、在阪支社懇話会、琉球舞踊研究所、沖縄料理店、三味線レコード店、沖縄県物産振興会、がじゅまるの会、琉大機工同窓会、主要企業関係者、法律・会計・税務所関係、幼稚園・保育園関係、各県の沖縄県人会、関西養秀同窓会、北親睦会の名簿で構成されている。私の名前はその他のところ、下地玄信、大城一史、金城実の諸氏のところに並んでいる。この名簿は当然に東京の県事務所にもおくられた。東京のほうもこれにならい(財)沖縄協会に委託。82年に『関東沖縄県出身者名簿』が発行された。

null
写真上ー1995年の第二回世界のウチナーンチュ大会会場で左から山口國雄氏、新城栄徳/写真下ー2001年の第三回世界のウチナーンチュ大会会場で左から山口國雄氏(東京沖縄県人会4代会長)、福地曠昭氏(撮影・新城栄徳)

1951年6月 雑誌『おきなわ』通巻12号 山城文盛「抑留生活の思い出」

1984年1月25日『琉球新報』「山城文盛さん(1978年 東京沖縄県人会2代会長代行) 東京の県人会機関紙 50号目を発行」

2015年1月 雑誌『おきなわ』新城栄徳「総目次」不二出版


2015年1月 『雑誌『おきなわ』解説・総目次・索引」不二出版

写真右上ー左端が川平朝清さん(元東京沖縄県人会会長)

null
 

2007年12月 川平朝清『わが家の子育て記録 犬はだれだ、ぼくはごみだ』岩崎書店

2013年3月30日 川平朝申の児童文学を研究している齋木喜美子さんと川平朝清氏(東京沖縄県人会7代会長)
null
2011年3月ー『児童教育学を創るー福山市立大学開学記念論集』齋木喜美子「山之口貘の児童文学」児島書店/2004年1月ー齋木喜美子『近代沖縄における児童文化・児童文学の研究』風間書房