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2022年5月20日 パシフィックホテル沖縄「川崎・那覇・沖縄 百年の絆」
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 名嘉ヨシ子川崎沖縄芸能研究会会長、比嘉孝川崎沖縄県人会名誉会長/金城宏淳川崎沖縄県人会会長、山川夏子オキナワグラフ東京支局長
  ☆2013年9月4日 『琉球新報』【神奈川】川崎沖縄芸能研究会(名嘉ヨシ子会長)は1日、組踊部会を発足させた。同会は戦後、いち早く沖縄の芸能の復興を図り、1951年に組踊「執心鐘入」を川崎市で上演した実績がある。
 ☆2021年6月28日 『琉球新報』【神奈川】川崎沖縄県人会は20日、神奈川県川崎市の県人会会館で総会を開いた。新会長に副会長の金城宏淳氏(71)を選任、10年にわたり会長を務めた比嘉孝氏(73)は相談役に就いた。若手のイベントリーダーに宮古島出身の友利充秀氏が就任した。金城氏は糸満市出身。6歳の時に家族で川崎に移り住み65年以上になるという。

2022年5月20日13時~14時 首里城公園「『佐藤惣之助詩碑』移設完了記念式典」
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 ☆5月21日『琉球新報』神奈川県川崎市出身の詩人・佐藤惣之助の詩碑が当初の設置場所である首里城公園に30年ぶりに戻ったことを記念する式典が20日、那覇市の同公園で開催された。詩碑は1959年、川崎市から那覇市に友好親善を深めようと寄贈された。20日の式典には福田紀彦川崎市長らが参加し、沖縄側との交流発展を願った。/写真右ー詩碑の再移設に力を尽くした那覇市の山川宗徹さんに、福田紀彦・川崎市長らが感謝状を贈った。

 2020年東京オリンピック・パラリンピック開催記念企画展 那覇で行われた戦前・戦後のスポーツ・競技大会 会期:2021-10-01(金) ~ 2021-12-26(日)1964年(昭和39)アジアで初めて開催された東京オリンピックの聖火が沖縄本島を駆け巡りました。1973年(昭和48)沖縄の本土復帰を記念して若夏国体が行われ、初めて全国規模のスポ―ツ大会が沖縄・那覇で行われました。※この企画展は7月22日~9月27日の開催期間でしたが、新型コロナウイルス感染拡大防止による臨時休館が続いたため、会期を10月1日(金)~12月26日(日)に変更。「首里・那覇を詠んだ詩人・歌人たち」展も翌年に繰越した。
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1959年年5月15日 詩碑の除幕式の際の記念写真
前列左から豊平良顕、安里積千代、千葉清治(川崎市教育長)、濱田庄司(陶芸家)、青木喜一(川崎市議会議長)、兼次佐一、當間重剛、不詳 後列左から末吉安久、岡田青慶(画家)、千葉健三(仙台屋社長),古江亮仁(川崎市文化協会理事)、不詳、古波津英興(川崎沖縄文化同好会代表

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6月4日 牧志[ギャラリー・サハスラーラ]東 邦定、喜納昌吉、エッセイスト・水彩画家のローゼル川田、歌手の金城吟子
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大濱 聡 5月6日 ■知人の写真家・東 邦定氏(沖縄県写真協会会長)の写真展「ウチナ~ンチュの肖像」が開催中です。長年撮り続け、『沖縄タイムス』に連載している「ウチナーンチュの貌」や、新作の中から30点を展示しています。「色調に意識を向けた肖像」「作者と被写体の対峙もテーマの一つ」(東氏)■期間 5/1(日)~31日(火) 11:00~18:00 会場 ギャラリー・サハスラーラ 那覇市牧志1-2-1 花ビル6F(国際通り沿い) ※入場無料■ギャラリーのオーナーはミュージシャンの喜納昌吉氏(私と同年)。私が訪れた日は、東氏に代わって会場の立ち合いをしていました。タイミングが合えば喜納氏ともユンタクできますよ。



佐藤惣之助詩碑。1959年5月15日、惣之助の出身地である川崎市民の厚意によって建立されたものである。当初、首里当之蔵町、旧琉球大学構内(現首里城公園)にあったものを、公園の整備に伴い、当地(虎瀬公園、首里赤平町)へ移築したものである。建立に際しては、同じ神奈川県出身の陶芸家浜田庄司の手による陶板が用いられている。碑の文言は「宵夏」。

1974年6月 沖縄の雑誌『青い海』34号「詩碑を訪ねてー佐藤惣之助」

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1979年6月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』「佐藤惣之助」第四十九巻

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1991年12月 長谷川敬『旅情の文学碑』毎日新聞社

佐藤惣之助
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佐藤惣之助 さとう-そうのすけ
1890-1942 大正-昭和時代前期の詩人。
明治23年12月3日生まれ。佐藤紅緑(こうろく)に俳句をまなぶ。千家元麿(せんげ-もとまろ)らとまじわり,詩作に転じ,第1詩集「正義の兜(かぶと)」などを刊行。大正14年詩誌「詩之家」を創刊。また随筆,釣りの本をかき,歌謡曲「赤城(あかぎ)の子守唄(うた)」「人生劇場」などを作詞した。昭和17年5月15日死去。53歳。神奈川県出身。(→コトバンク)

 1921年3月ー鎌倉芳太郎、東京美術学校図画師範科を卒業。奈良古美術見学。唐招提寺で開山鑑真和上が「阿児奈波」に漂着したことを知る。4月、文部省より沖縄県に出向を命ぜられ、沖縄県女子師範学校教諭兼沖縄県立高等女学校教諭に任ぜられる。/東京美術学校同期には米須秀亀(西洋画科)、野津唯尹(日本画科)が居た。翌年には我部政達、嘉数能愛、平田善吉、古謝景明が居た。

佐藤惣之助年譜
1922年
3月ー詩誌『嵐』を千家元麿、陶山篤太郎、後藤大治らと創刊。
5月31日ー横浜より大洋丸で出帆、沖縄、台湾への旅にたつ。
6月1日ー神戸上陸、芦屋の富田砕花(不在)宅で百田宗治と会う。
6月3日ー長崎に下船、崇福寺、木蓮寺、丸山見物。
6月5日ー三角、熊本、鹿児島泊。
6月7日ー正吉丸、天候不良で出航延期。
6月8日ー鹿児島出帆。
6月9日ー奄美大島名瀬に上陸、夜、暴風をついて那覇へ向かう。那覇で3週間。その間、慶良間、石垣島へ渡る。帰路は基隆へ渡る。□1959年5月1日ー『琉球新報』山里永吉「沖縄の佐藤さんー古い風物につながる思い出ー佐藤惣之助さんが沖縄入りしたのは大正11年、たしか若夏の候だったと憶えている。当時佐藤さんは詩誌『嵐』を主宰し、詩集も矢つぎばや・・・と云っていいくらい出版されて、名声トミにあがっていたが、沖縄にはこれといった知人がなく、『嵐』の愛読者で、私の親しい友だった伊波普哲君(伊波普猷先生の甥)に連絡をとっての、未知の島訪問だった。

伊波普哲のハガキ
それで、その頃、中学を出るか出ないくらいのニキビ少年だった私と普哲君は、つれだって那覇の港に出迎えに出かけたわけだが、このヤマトの詩人先生には、のっけから度肝をぬかされたことだった。まずそのイデタチ。当時は珍しいヘルメットに半ズボン、それにストッキング・・・という扮装は、まるでアフリカ探検にでも出陣してきたようで、おかしいよりも少年たちの目をびっくりさせる方がつよかった。
 そして第二のびっくりは、それから何日かしてきた、その頃県立図書館館長だった伊波普猷先生らの取計らいで、辻町の音羽楼で「佐藤惣之助先生歓迎会」が催されることになった。参席者は山城正忠、渡口政興さんら当時の文学青年が主で7,8人も集まったろうか。とにかくそのときの会では古波鮫漂雁さんが出した名刺に(略)。

 先夜、せっかくの辻にのぼりながら、あっさり散会となった後味の物足らなさに、一旦旅館にかえった佐藤さんは再び人力車を駆って辻入城・・・といったいきさつ。しかも『けさ目をさましてみるとだね、色の黒い脛をドタンとぼくの腹にのっけて、グウグウ寝ているんだ。何て愉快じゃないかキミ!』(略)その辻の女性と共に波之上通り裏のゴミゴミしたところに住居をみつけて、沖縄の生活にひたっている風だった。
1922年10月ー『日本詩人』佐藤惣之助「八重山情詞」
□1 楽聖アカイヌコ 琉歌・・・歌の蛇皮線のむかしはじまりやいんこねあがりの神のみさく(作田ふし)船子よ、娘らよ今宵こそ/むかしうつくしき若者アカイヌコを/星座の篝火きよけき空や/蒲葵の扇の下風に捕えてよ/蛇皮線かたげ、島々よ流れありき/われらの神ようたい、航海ようたい/王と英雄と娘らとをうたひへし/島の聖歌の月夜たまこがねや捕へてよ/今宵若夏の祭踊りつ皆そろて/むかしからのおもろのふしや唄ひ盛り(略)

1925年7月ー『詩之家』創刊(詩及詩歌研究誌)
1926年11月 『沖縄教育』□新屋敷幸繁「人生詞花集(その1)」 池宮城美登子「母となれば」 國吉眞哲「久米島日記抄」宮里静湖「校長の印象(2)」 桃原思石「秋の感覚」 糸数三武郎「手紙の一節」 神山康一郎「石工」 夕雁庵「雑詠」 新島政之助「鷹渡る日に」 牛島軍平①「一筋の道」 川俣和②「平原の」