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 大濱 聡 2021年11月8日 ■前回の「那覇文化芸術劇場なはーと」の関連で。
老朽化のため2016年10月から休館(閉館)になった那覇市民会館。本土復帰前の1970年11月に完成し、2年後の復帰記念式典や、さまざまな公演、大会、講演会などに利用され市民、県民から親しまれた「文化の殿堂」でした。
■1980年、那覇市民会館で沖縄県婦人連合会とNHK沖縄放送局の共催で「第1回全琉婦人芸能大会」を開催しましたが、私が番組の企画開発と、第1回、2回の構成・演出を担当しました。タイトルは、復帰前には普通だった「琉球」にこだわり、「全琉」にしました。今の若い人にはピンとこないかもしれませんね。
■41年前の写真が残っていました。鬼籍に入られた方が多いのに、改めて歳月の流れを感じます。沖縄にとっては懐かしい人々が写った貴重な写真だと思います。記録資料としてupしておきます。
■3回目の年は東京に転勤していませんでしたが、その後2015年まで続き、16年以降は沖縄テレビとの共催になったようです。去年、第41回を数えています。


1970年11月27日~30日 劇団民藝「アンネの日記」


1971年10月10日~13日 那覇市民会館主催「夕鶴 <山本安英の会>沖縄公演」


1971年10月23日 那覇市主催「巌本真理弦楽四重奏団 室内楽の夕」


1972年8月13日 那覇市主催「読売日本交響楽団 特別演奏会」



1972年10月 那覇市主催「前進座/平家女護島・俊寛」


1973年11月9日~11日  那覇市主催「文学座公演 女の一生」


1974年6月6日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭交響楽演奏会ー大阪フィルハーモニー交響楽団」(指揮=朝比奈隆/ピアノ独奏=荒憲一)


1975年6月20日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭交響楽演奏会ー読売日本交響楽団」(指揮=山田一雄/チェロ独奏=堤剛)


1975年11月19日・20日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭新劇公演ースカパンの悪だくみ」


1976年6月7日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭交響楽演奏会ー東京フィルハーモニー交響楽団」(指揮=尾高忠明/バイオリン独奏=久保陽子)


1976年8月4日、5日 那覇市主催「レニングラード・バレエ/白鳥の湖」


1977年11月5日 主催=那覇市「アマデウス弦楽四重奏団」


1978年11月8日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭交響楽演奏会ー東京フィルハーモニー交響楽団」(指揮=尾高忠明/バイオリン独奏=和波孝禧)


1982年8月27日~29日 「オペラ はだしのゲン」




1983年11月12日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭新劇公演-劇団民藝 こわれがめ」(演出=宇野重吉/滝沢修、日色ともゑ)


1989年11月23日 主催=那覇市・琉球新報開発「那覇市民芸術劇場ー喜劇・オペラ銀行強盗」


1992年7月11日 主催=那覇市/特別協力=琉球新報社「那覇市民芸術劇場 SUMMER JAZZ CONCERT」(日野皓正・本田竹曠・中本マリ) 


1993年6月6日・7日 主催=那覇市「那覇市民芸術劇場 モスクワ・フィルハーモニー交響楽団」




1996年11月9日 那覇市制施行75周年記念「琉球弧の島うた祭典」



1998年1月23日~24日 ウチナー芝居小屋・若人熟「伊江島ハンド―小」

2002年7月25日~28日 第42回 沖縄県吹奏コンクール、喜屋武千恵(チューバ)ら参加

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田名宗相(1832年10月20日~1877年9月4日)
写真ー左が田名宗相(父・宗經、童名・真太郎/唐名・梅宏昌、室・貝氏渡嘉敷唯法の娘/後室・岸本賀昌の母の姉)/梅氏系図
太上感応篇大意/喜舎場盛元撰

 本資料は、周鼎臣によって編纂された中国の勧善書を集めた福建版敬信録の『太上感応篇』を祖本に、琉球の喜舎場盛元が抜粋して和訳し(1831年序)、魏氏運天常行の書を元に田名宗経・宗相父子よって1858年に刻字、版行されたもの。『太上感応篇』は中国でもっとも代表的な勧善書で、密かに善行をつめば自己や子孫に果報を招き、悪行をすれば早死するなどの儒教的善行の勧めを説く。琉球へは19世紀初頭に伝来したといわれ、跋文によれば、撰者喜舎場は広く流布させることを意図していたが、書写の煩によって普及が芳しくなかったため、田名宗経・宗相父子によって刊行されたとその経緯が記されている。刻字・版行を行った田名父子は首里王府時代を代表する彫刻家として知られている。  →琉大附属図書館
 1963年に卓氏久田家一門が発行した『卓姓家譜』がある。中の六世友恵のところに「1756年12月、絵師となり親雲上の位に任ぜらる。1758年12月、絵師の交代期限だが絵師がいないと差し支えるから仲里筑登之と延期になった。」また友恵の長男七世友兄のところに「1780年2月4日、絵師となり筑登之座敷に任ぜらる。1781年12月、絵師期限交代の延期を命ぜらる。1787年8月22日、奉 憲令 皇上御筆□[古稀天子之宝ー海邦濟美]御額金 金+希 繪(額の枠に金の模様絵の図案)夙夜励心力公務全竣1796年11月、久田筑登之友兄には此の程尚穆様尚哲様の御肖像画をはじめ尚円王様以来の御肖像画の御扣として二通を描き上げ相納め致したことで御褒美(上布一疋)。」
 関連
□1980年3月『沖縄県史料 尾崎三良/岩村通俊 沖縄関係史料』「尾崎三良ー琉球行日誌 明治15年8月12日 中山世土/輯瑞球陽/永祚瀛壖/海邦濟美/海表恭藩/同文式化/屏翰東南/弼服海隅/瀛嶠藩 以上但沖縄志其他ノ書ニ見エス依テ殊ニ之ヲ記ス」
□1995年8月 沖縄テレビ放送編『よみがえる戦前の沖縄』沖縄出版「148㌻ー忠順可嘉(尚真王即位三年 大明成化十五年 明第9代の成化皇帝より賜る)」→『中山世譜巻六』「遺老傳云。忠順可嘉。四字匾額。此時賜之.。」

詩人・薄田泣菫
1907年『明星』3月号「故末吉安持」
与謝野寛○余は佐々木秀道を亡くして一箇月の後に、また新詩社同人末吉安持をうしなった。秀道の死も意外であったが、安持の死は突然であると共に、まことに語るに忍びざる程悲惨であった。氏は二月の九日に藝苑社の講演を聴いて飯田町の下宿に帰ったが、翌十日の午前三時頃、どうしたはづみか、机上の洋燈が落ち掛かり、全身三分の二を火傷して人事不省となり、同家の友人に送られて神保院と云ふ病院に入院した。医師は種々の治術を施したが、立会った友人等は皆な目を掩うて之を見るに忍びなかった。三日の後、氏は仰臥の儘身じろぎの成らぬに拘わらず非常に元気を回復したが、併し医師は其れを却て危険なる兆候だと云った。果たして十六日の夜から昏睡にに陥り、十七日の午前五時終に不帰の人と成った。享年二十一.このうら若い、将来のある詩人を、突然と過失のために、斯かる悲惨な最期に終わらしめたのは、痛嘆至極、何と慰むる言葉も無い。
 氏は沖縄県首里区字儀保の素封家末吉安由氏の二男であった。中学にあった頃は常に優等の成績を示したと云ふ。父兄が文学の嗜好を以って居る所から、その感化を受けて文学を好むだが、父兄も氏が文学者となることを望み、氏も其積もりで三十七年の二月に出京し、爾来英語を国民英学会に学んで居た。初め長詩を前田林外氏等の雑誌『白百合』や『天鼓』に投じて居たが、三十八年の三月に新詩社に加わり、其後は専ら『明星』にのみ作物を載せた。氏は短歌を作らず、長詩のみの作者で、毎月必ず二三篇を余の手許に送った。十六歳から詩を作り始めたといふが、確かに詩人たる情熱と、独創の力と、物事に対して一種他人と異なった睨みかたとが有って、漫に先人の模倣を事とする無定見者流とは選を異にして居った。三十七年頃は児玉、平木二氏の詩風を慕ひ、三十八以後は薄田、蒲原二家の詩集を愛読し、殊に上田氏の『海潮音』に由って詩眼を開くことを得た一人であった。また能く余が厳格なる批判に聴いて『明星』に採録する氏の詩が、その所作の十が一にも過ぎざるに拘わらず、毫も不満に思ふ色なく、之に激励せられて益々慎重の心掛を加へ、精苦の作を試みた。その詩は昨年に入って頓に進境が見え出したが、本年三月の『明星』に載せた「ねたみ」一篇が、図らずも絶筆と成った。(以下略)
山城正忠○ああ、僕が詩歌の交際に於いて親しい友の一人なる詩華末吉安持君は、本年二月十七日二十一歳を一期に、燃ゆるやうな青春の希望を抱いて、空しく白玉楼中の人となってしまった。回顧すれば、僕が君を知ったのは、三十六年の夏の頃で、或友の紹介を得て、初めて君をその邸宅に訪ふたが、白百合を紫色した薬瓶に活けた氏の書斎に通され、親しくその風丰に接することを得た。『僕は山城といふものですが、以後どうぞ宜しく』と挨拶をすると、君は優しい眉根を、こころもち上げて『あ、さうですか・・・・・・』と云ったきり、何とも言って呉れぬ。そこで、僕は何だか気にくはなかった。少し横柄な人だなと、心中密かに氏の人格を疑った。併し、だんだん話して見ると、思ったよりはさばけた人で、僕の考は全く邪推に過ぎなかった。其日は面白く君の気焔にまかれて、帰ったが、それが縁となって、逢ふことが度かさなるにつれ、互いに胸襟を開いて話すやうになった。
 時には徹夜して酒を飲みながら詩を語り、或る時は深夜奥の山公園の松林で月を賞して、清興を共にした。又或時は、たわいもない事から口論をやることもあったが、それもほんの一時で、直ぐあとは光風雲月といふ塩梅に、一笑に附して了った。君は情の人で意志」の人ではなかった。その情の厚かったことは、友達が一度困厄して居るのを見ると、実に萬腔の同情を以って之を慰籍し、且つ救護したのである。それから酒を飲むとなかなか面白い男で、いつでも団十郎や菊五郎の假色をつかふのが十八番であったらしい。その頃から君は新詩社の詩風に私淑して居って、詩の話になると、すぐ『紫』や『みだれ髪』を持出し、言葉を極めて賞讃した。それに僕も与謝野氏の歌は『東西南北』『天地玄黄』時代から、ひそかに景仰して居ったのであるから、互いに負けぬ気になって、讃辞を交換すると云ふ風であった。それからもう一人君の敬慕して居た詩人は薄田泣菫氏で、その『行く春』『暮笛集』は、いつ行っても氏の机の上に飾られてあった。その為め僕も君に感化せられては又泣菫氏の詩を愛読するやうになり愈愈両人は趣味が一致した。
 これが僕等の交際をして益々親密ならしめた楔子である。泰国の詩人では、君はバイロンとダンテを称揚し、僕はアナクレオンを賛美した。今一人我国では、故人樗牛氏を崇拝して居たらしい。併し近頃は何う変わって居たか、琉球と東京と隔って居たから僕には分からない。なんでも夏目氏と上田敏氏とに大層私淑して居たといふことを外から聞いた。さうかうする内、君は突然上京して了ったので、僕は何だか離れ小島に独りとり残された思がした。爾来音信を絶つこと殆ど二年、時々友人からその消息の一端を聞くばかりで、氏からは端書一枚をも寄越してくれない。随って互いに疎遠に成って居た。然るに三十八年の四月、僕は補充兵で上京し、青山の第四聯隊に入営することになった。毎日練兵が忙しくって、つい君を尋ねることも出来ず、直ぐ近所の与謝野氏の御宅にさへ伺ふことが出来ぬと云ふ始末、それが殆ど七箇月に亘って、十月の中頃、病気に罹って召集解除となり、再び故山の人となった。
 兵営を出て明日帰郷すると云ふ晩、神田の或る本屋の店頭で『天鼓』といふ雑誌を見た。何心なく披いて見ると、末吉詩花として『平和の歌』(たしかさうであったとおもふ)といふ新體詩が出ているので急になつかしい思がした。併し尋ねるにも君の下宿が分からないから終に其儘逢はずに帰国して了ったのは、今から思ふと実に遺憾である。それから僕が琉球に帰って、初めて末吉君は近来『明星』に筆を執って居るといふことを聞いて、愈愈素志の如くやり出したなと、密かに氏の努力を羨んだ。昨年の夏君は帰省したので、久し振りに某酒亭に会して、親しく新詩社の現状を聞き且つ与謝野氏の御話なども受売して貰った。その時氏の語る所によると『与謝野氏は一見何だかコハイやうな方だが、詩に就いては至極親切に指導して下さるから有難い。君も新詩社の一人に加わって真面目に詩を作りたまへ』とのことであった。併し、僕はまだ早からうと述べた。その日は月の佳い夜であった。その月の光が、君と僕と此世で一緒に浴びる最終のものだとは、両人ともつゆ想ひ及ばなかった。ああその夜の光景と君が音容とは、今猶ありありと想ひ泛べ得るのに、君は既に世に居ないのであらうか。僕はまだ何うも君が死を信じ得られない

 1910年5月、伊波普猷の友人、八重山の岩崎卓爾が図書館に新渡戸稲造『英文武士道』など、漢那憲行が薄田泣菫『二十五弦』ほか、浦添朝忠は『資治通鑑』など700冊を寄贈。6月には末吉麦門冬が『俳句の研究』『蜀山人全集』などを寄贈している。かくして琉球学センターとも云うべき沖縄県立沖縄図書館は8月1日、那覇の南陽館で開館式を迎えた。折りしも8月22日は「日韓併合」があった。沖縄図書館の児童書は「中学世界、少女世界、少女之友、少年之友、日本少年、少年、少女、幼年之友、幼年画報」などがあった。

大阪市中央区上本町「東平公園」にある薄田泣菫の『金剛山の歌』の碑。詩は、作者が本長寺に仮住まいしていた頃、散歩の途中、朝日に輝く金剛山を見て、詠んだと言う。薄田泣菫(1877~1945)は岡山県生れ、24歳で大阪に出て文芸雑誌、詩集を刊し、象徴派詩人として名声を得た。(新城栄徳「関西日誌2011-10」 )

 泣菫は、明治27年、17歳で上京。漢学塾などに学びながら、上野図書館で和漢洋の書物を読破し、独学で学んだ。この時の素養が、後の泣菫の文学を決定することになる。明治30年20歳の時、文芸雑誌『新著月刊』に「花密蔵難見〈はなみつにしてみえがたし〉」と題して長短13編の詩を発表、高い評価を得た。この時、初めて泣菫の号を用いている。
 明治32年、22歳にして、最初の詩集『暮笛集』を出版して以来、明治34年『ゆく春』、明治38年には『志ら玉姫』をはじめ、「公孫樹下に立ちて」の詩篇を収めた『二十五絃』を刊行し、島崎藤村後の第一人者として、明治詩壇の頂点を極めた。明治38年の秋に発表した「ああ大和にしあらましかば」は、名詩中の名詩とされ、多くの若者に親しまれた。

 明治39年の詩集『白羊宮』は、円熟期を迎えた泣菫の総てを集成したもので、この後、徐々に活動の場を詩から散文へ移していったが、新体詩(文語定型詩)を発展させたことが泣菫の大きな業績である。
 大正元年8月、大阪毎日新聞社に入社。大正5年から毎日新聞に連載した随筆『茶話』が好評で、大正5年に随想集『茶話』、大正7年『後の茶話』、大正8年『新茶話』を出版。博識のうえ、話術も巧みだった泣菫の作品は、多くの読者を魅了した。→ネット「青空文庫」で読める。
 この当時、芥川龍之介、菊池寛などの新進作家を積極的に発掘し、文学界の発展にも貢献した。大正12年、身体の健康を害して毎日新聞社を事実上退社。その後も、難病(パーキンソン病)と闘いながら創作活動を続けるも、次第に症状が重くなり、昭和20年,68歳の生涯を閉じた。