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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
□笹川良一の父・鶴吉はかねてよりの碁敵川端三八郎(天保12<1841>年4月10日生まれ)を招き、碁盤を挟んで睨み合っていた。三八郎の孫が康成である。(略)ときに川端康成は、第四代日本ペンクラブ会長として国際ペンクラブ大会の招聘などに奔走し、資金調達に大いに腐心していた。そんな折、竹馬の友は進んで資金援助を申し出ている。(2010年10月 工藤美代子『悪名の棺 笹川良一伝』幻冬舎)

1938年2月」19日『沖縄日報』「懐しの歌手 藤山一郎君きのふ思出の那覇へ/川端康成氏来月来訪」

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1938年3月『琉球新報』□東京の比嘉春潮から國吉眞哲に「川端康成が沖縄に行く予定で、折口信夫からは『辻の今昔』、比嘉春潮から『遺老説傳』を寄贈された。川端氏は沖縄を見てから読みたい、との話を知らせてきた。が、何らかの事情で来沖は実現しなかった。

1938年4月2日『琉球新報』南風原リリ「東京の印象」(2)
1938年4月5日『琉球新報』南風原リリ「東京の印象」(4)

1938年4月13日『琉球新報』當間光男「川端康成氏の琉球旅行」(3)
1938年4月14日『琉球新報』當間光男「川端康成氏の琉球旅行」(4)

1938年4月26日『琉球新報』「簪献納運動に悲鳴の金細工達」

石川正通□「ふりむん随筆」
「雪国」の作者川端康成は、その姉妹篇として沖縄に取材した南国物を書こうと意図して、在京の沖縄知名人に集まってもらって一夕の会談で沖縄に関する予備知識を得ようと会合を催した。何に怖気づいたのか、新感覚派で売り出した「伊豆の踊り子」のこの作家は沖縄行を思い止まって、現地における「沖縄の踊り子」を見る機会を自ら捨てた。

1958年6月3日『琉球新報』「川端康成氏きのう来島」
1958年6月3日『沖縄タイムス』「川端康成氏きのう来島ー誕生日は沖縄で」
1958年6月4日『沖縄タイムス』「二人の作家は沖縄を見るー川端康成氏、内村直也氏」

1958年6月5日『琉球新報』「川端康成氏ー民芸はすばらしい 身をもって沖縄を吸収」
1958年6月8日『沖縄タイムス』「座談会・川端康成氏を囲んでー川端康成、豊平良顕、宮城」聡、南風原朝光、牧港篤三、大城立裕、池田和、太田良博」(上)
1958年6月9日『沖縄タイムス』「々々」(下)

1958年6月9日 「川端康成氏を囲んで(座談会)川端康成、仲宗根政善、中今信、亀川正東、池宮城秀意、上原記者」→6月20日『琉球新報』

1958年6月10日『沖縄タイムス』「琉舞の粋に感慨 川端、鳥海氏ら迎え鑑賞会」

1958年6月11日『沖縄タイムス』「川端、鳥海、沢田、横山4氏の講演会」


昭和53年9月 千原繁子『随想集 カルテの余白』□1958年6月11日ー前列左から豊平良顕、山里永吉、川端康成、千原繁子、新垣美登子。中列左から具志頭得助、仲本政基、太田良博、牧港篤三。後列左から亀川正東、当真荘平、宮城聡、池宮城秀意、嘉陽安男、船越義彰/写真ー山里永吉案内で糸満の門中墓を見学する川端康成(右)


2004年9月 『新生美術』13号「写真前列左よりー南風原朝光、宮城聰、川端康成、豊平良顕/後列左よりー池田和、太田良博、大城立裕」 

1958年6月12日『琉球新報』「鳩笛ー川端康成氏は今日のノース・ウェスト機で帰京ーきのうはたまたま川端氏の59回目の誕生日で波上”新鶴”(我那覇文・佐久本嗣子)で、沖縄ペンクラブ主催の別パーティを兼ねた誕生祝」

1958年6月13日『沖縄タイムス』「すばらしい沖縄の踊り 川端氏帰る」/『琉球新報』「川端氏"沖縄独自の美しさ"」


1958年8月『オキナワグラフ』「ペンをかついだお客様ー川端康成氏 来島」
○篤之介のペンネームと感覚的な詩で知られる文学頭取、沖相銀具志頭得助氏の数次にわたる交渉の熱意が実を結び、国際ペンクラブ副会長、日本ペンクラブ会長の川端康成氏が6月2日ひる3時40分、那覇空港着のノースウエスト機で来島した。今回の来島は沖縄ペンクラブの招きによるものであったが、「伊豆の踊子」「雪国」などの作者として文壇でも特異な存在にある同氏の来島は今まで期待されながら不可能視されていただけに、沖縄文化人の喜びは大きく、ペンクラブ会員多数が出迎えた。滞在中はペンクラブの山里、亀川氏や具志頭氏に案内されて、沖縄視察を続けられたが、6月11日、はからずも沖縄で誕生日を迎えたペンの賓客は、ペンクラブ会員、具志頭氏、沖相銀、紅房、那覇薬品、沖縄火災の関係者多数に囲まれ、「私はこんなに誕生日を祝ってもらったのは初めてでしてねエ」と島人達の温かい心づくしにその喜びを語っていた。・・・・

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1907年・第19回卒業ー安次嶺松蔵(在フィリッピン太田興業株式会社)、有留隆雄、安里積禎(後備歩兵少尉 在八重山)、安次嶺長徳(八重山登記所在勤)、新垣良盛(南風原小学校)、伊藤祐介(熊本九州鉄道管理局)、石川徳助(明大卒 西平織工場)、翁長良保(法学士 福岡県大里旭ガラス会社)、大宜味朝明、大村寛、金城慎義(神戸高商卒 在ブラジル)、金城順裕、金城肇、我那覇生茂(新聞取次業)、片山利久一(早稲田大)、兼島政忠(東洋協会出 在大阪)、垣花恵寛(那覇税務署)、嘉手川重利(那覇市役所)、嘉数良睦、川平恵守(明大卒 東京神田西小川町松濱旅館開業)、神山盛亮(在東京)、岸本将秀(泊小学校教員)、久場眞長(千葉医専卒 今帰仁開業)、桑江夢熊(沖縄銀行本店 那覇市議員)、小橋川照慶(典獄)、税所篤雄(五高卒)、崎山嗣朝(京大法学士 弁護士 県議 那覇市議)、島袋秀清(熊本商工卒 在満州)、柴田朝雄(熊本医専卒 八重山開業)、勢理客智勇(那覇区役所書記)、祖慶實徳(長崎医専卒)、玉城松助(大阪高医卒 在大阪)、玉那覇有宏、田中胖(工学士 大阪市北区上福島北1-160-1)、高嶺朝公(千葉医専卒 在東京)、高嶺朝保(千葉医専卒 千葉町開業)、平良加(法学士 在東京)、高橋武松(早稲田大)、照屋孚次郎(琉球酒造組合理事)、當間英憲(司法代理人)、友寄英偉(那覇市会議員 市役所)、永田榮蔵(東京高商)、永田長松、仲吉朝太(熊本医専卒 本県技手・保安課)、仲松彌仁(長崎医専卒 宮古開業)、名城嗣貞(県属・産業課)、仲村渠嘉貞(在米)、仲本正秀(外語卒 大連市南満州鉄道会社四洮鉄道計画課長)、仲田朝義(高等女学校教諭)、新田元孝、新田元隆(鹿児島高等農林卒 本県産業課)、饒平名紀明(在東京)、野原幸輝、平安山長義(医学士 福岡病院)、比嘉江長、東恩納寛仁(県属)、譜久村安建(在米)、宮良當智(八重山郵便局)、森安薫、山内國太郎(商船会社 在大島)、山田有慶(小学教員)、屋部憲傳(在米)、山城興昌(在米)、山城端典、山田有幹(那覇市議)、読谷山朝宣(千葉医専卒 在北海道)

1908年・第20回卒業ー新垣朝光(県属)、上原章、上間長八(今帰仁今泊)、奥島憲慶(読谷山小学校長)、大嶺眞和、大湾政順(那覇市役所)、大見謝恒英(百四十七銀行那覇支店)、大湾喜福、嘉手川重輪(大阪税務監督局)、垣花恵祥(県庁)、我部政仁(東京小学教員)、嘉手川重位(那覇松山小学訓導)、川津博(早稲田文科卒)、神里常吉、金城嘉輔、嘉手納順範(在東京)、金城蒲戸(安里小学校訓導)、我謝秀輝、金城至蒲、許田重発(那覇尋常高等小訓導)、岸本幸厚(沖縄タイムス理事)、宜名眞邑挙(真和志小学校訓導)、久高将吉(工学士 京都市上市区田中町字大溝6)、城間垣貴(東京小学教員)、國吉良實(明大卒 泉崎)、小波津保光 、小橋川照顕(那覇市議)、小湾喜長(私立農業大学卒 中頭郡 技手)、佐久川恵柔(台南製糖会社嘉手納工場)、佐多忠三(台南製糖宜野湾工場)、島袋賀麻、謝花寛廉(在東京)、鹽谷亥之助、垂野光久、玉城友善(早稲田卒 本校在勤)、大工廻盛敏(沖縄県物産検査所産業主事補)、高志武盛蔚(津波小学校訓導)、照屋寛純(首里男子校訓導)、渡久地政佑(台南製糖会社高嶺工場)、東郷實(鹿児島県)、長友一郎(東京高商卒 郵船会社孟買支店)、名城嗣敏(在東京)、仲尾次政潤、名城嗣頼(南米ペルー)、今帰仁朝興(中頭郡書記)、仲吉良光(早稲田文科卒 在米)、今帰仁朝規(早稲田文科卒 糖商組合)、長嶺精一(佐敷小学校)、饒平名智太郎(在東京 改造社)、西平守由(広島高等師範卒 本校教諭)、新名栄蔵(那覇区旭町)、樋口敏彦(東京高工教員養成所卒 東京市役所建築課都市計画部)、比嘉賀秀(牧師)、弘中一郎、外間善助(国頭郡屁辺野喜小学校長)、外間誠昌(師二卒)、真境名安行(熊本医専卒 中頭郡勝連村医)、眞玉橋朝信(南風原小学校訓導)、又吉康和(名護)、松村嘉實(師二卒)、宮城普本(熊本医専卒 在大阪)、森田孟睦(高工卒 東京警視庁)、飛岡太郎(基隆台湾倉庫株式会社)、屋我宗恭(沖縄朝日新聞社)、山口房良(首里女子小学校長)、屋部憲重(泊小學訓導)、山城次郎(在南米)、吉嶺伊津(神戸山中廻送店)

1909年・第21回卒業ー安谷屋音房(川田小学訓導)、石川善盛(法学士 弁護士 代議士)、池畑浦悦(熊本医専卒 大島開業)、糸満盛重(那覇尋常高等小学訓導)、石原世昌(県属)、石原守規(屋良小学訓導)、浦崎朝臣(県属)、上原與吉(慈恵院卒 在布哇)、江藤盛一(東京東洋拓殖株式会社)、翁長林立(在台湾)、具志川朝宣(垣花小学訓導)、垣花恵常(東亜同文書院卒 奉天税関)、川崎良三(長崎高商卒 大連油脂工業株式会社)、川崎誠治(台湾新竹税務署)、神里多盛(高嶺小学校長)、兼島景範(那覇軽鉄 嘉手納駅長)、國吉眞現、國吉眞俊(東京府下豊多摩郡代々幡笹塚41號)、桑江常通、後藤怒(鹿児島電気会社)、佐村鉄也(在熊本)、崎山朝盛(早稲田卒 大阪湯浅商店員)、謝花寛済(法学士 北海道地方裁判所検事)、祝嶺春榮(久志村)、島袋永幸、玉城現(屋良小学訓導)、知念朝太郎(医学士 高知市武田病院)、照屋興善(那覇尋常高等小学訓導)、宮原守勝(首里尋常小学校訓導)、渡口眞正康、名嘉原知祥(在東京 会計検査院)、仲本兼亮(在大阪)、羽地朝敏(早大卒 首里市書記)、鉢嶺清眞(早大卒 那覇税務署)、羽地朝松、比嘉榮眞(医学士 那覇久米通開業)、堀江吉成(岡山医専卒)、眞榮田之璟(同志社卒 大阪高田商会)、前田達男(慶應義塾 在神戸)、溝口敏麿(長崎高商卒 横浜日本製糸株式会社)、森安勇(徳島県立商業学校)、山田有實(工学士 造兵将校)、與那原良輔(首里女子小学在勤)

1910年・第22回卒業ー赤池稔(旧姓税所 東大医科卒)、池間恵長(旧姓天久 長崎高商卒 支那厦門台湾銀行支店)、新嘉喜倫元(慈恵医専卒 久米島開業 仲里村医)、安里積一(在メキシコ)、家長寛(旧姓田中 法学士 大阪商船会社)、伊豆見元永(東亜同文書院卒 上海三井支店)、石原笑吉(鹿児島測候所)、宇堅源太郎(中頭郡具志川村役場)、浦崎永慎(那覇東町 材木商)、浦添朝功、大田朝重、大城朝英(那覇市議 大城無尽商会)、兼島由明(本校在勤)、我謝昌饒(大阪市堀川小学在勤)、川崎淳治(台湾 倉庫会社基隆支店)、嘉手刈貞徳(県属)、兼本盛仁(垣花小学訓導)、我喜屋宗信(早稲田卒 大阪市西区長堀北通5湯浅パイプ店)、桑江夢鯉(那覇市役所)、城間康信(上海三井物産支店)、慶田城用伯(高工卒)、護得久朝章()首里市議)、古波鮫唯功(泊小学校訓導)、相良彦威智(東北帝大在学中死亡)、座間味瑩(鹿児島高農卒 越来村長)、柴田米三(東京歯科医専卒 東京千駄ヶ谷889)、筱原三男(農学士)、新里與長(第一大里小学校訓導)、瀬長良直(慶應大卒 三越呉服店)、玉城寛(糸満町役場)、高里盛華、玉城武太(在比島)、知花加那一(在台湾)、千葉文亮(那覇市役所)、天願篤貞(在米)、渡嘉敷眞睦(美東尋常高小学訓導)、當間九思(仙台高工卒 在阪)、渡慶次全義(在京)、富村一郎、富原守貞(く久米島仲里小学校)、當間文雄(勧銀書記)、渡嘉敷唯義(在阪)、徳田安貞(東京本郷区梅園町64山田方)、長嶺但敏(東京小石川高等小学校)、仲座里喬、仲本吉正(兼次小学校)、玻名城政睦(在阪)、橋口達雄(在京)、比嘉安昌(在京)、樋口謙二(南風原小学校)、福地徳、又吉全興(熊本医専卒 在米)、松元維繁(那覇尋常小学訓導)、前田榮造(商業 那覇大門前通)、宮城源清(米国ローサンゼルス)、宮里朝鳳(宜野湾小学校)、屋比久政文、山田有功(滋賀県膳所中学校教諭)、與那原良剛(千葉医専薬学部卒 正文洋行那覇支配人)、與座嘉剛(在阪)、和田秀夫
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Posted by: ryubun02
1946年  極東国際軍事裁判(東京裁判)翻訳官、通訳官、調査官(キーナン検事と同居)、G・H・Q第八軍教育顧問(教育課長と学校視察)

石川正通□伊波先生は、戦後よく私の家に来れれた。ちょうど先生の東大の同期生の橋本進吉教授が私のすぐ隣で、同じ番地なんです。そして私の家のすぐ真ン前が児玉誉志夫なんだ。これは笹川良一と二人一緒でね。私の家からヤーナラビ(家並び)で、少ししか離れていない。あれがまだ世田谷の等々力に行く前ですね。で、児玉誉志夫と私は一緒に焼け出された。それから児玉の乾分やなんかが新橋駅の角の銀座通りで、テーブルなんか家具を売っていましてね。私は占領軍からいろいろ物が入るもんだから、何も貰わないで融通しておりましたがね。よく私の家に来たものだ。児玉君も、それから乾分たちも。(新城ーこの頃、浦崎永錫のところに、笹川良一が皇族が持っている美術品をバラバラにし売ろうと持ちかけてきた。断ったという)

石川正通□勝てる国敗れし国を裁くてふ/旗十一のたたずまいかな
アイフルバーガー第八軍司令官が日本刀をすべて鋳つぶして廃棄せよに、私は「日本の刀剣は世界に例を見ない美術品である」と身を賭して守り抜く。

1948年  順天堂医科大学教授(予科英語主任) 
1949年  千葉商科大学講師

1954年  10月19日 『琉球新報』石川正通「ふりむん随筆(一)」~12月27日

1958年
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1959年   2月10日 石川正通〇望遠郷ー神様よ!あなたは開店休業ですか あなたの1人子キリストの言葉 「カイザルの物はカイザルに返せ」 あれは公約ではなかったのですか 沖縄人のものは沖縄人に返して下さい 子供の時に歌った讃美歌 「神は愛なり」の余韻の美しさよ 愛の神を信じ神の愛を疑わない 心の清い沖縄人の祈りを御聞き下さい。(I God! Your words of Christ, the Son one of you I leave open "things Caesar returns to Caesar" what human Okinawa hymn was sung at the time of the child should be returned to the people of Okinawa do I was not a pledge is that "God is love," Please listen to us the prayer of Okinawan the pure in heart that does not doubt the love of God I believe in the love of God of the resonating beauty.)

1960年   1月『オキナワグラフ』「新春特話 正通の望遠郷ー東京裁判物語ー」


1960年  ラジオ沖縄で「正通放談」 石川正通〇私と沖縄ー大宅壮一君が琉球大学を八ミリ大学と、せいいっぱい高く評価したそうだが、人間というものは、自分の高さでしか物を計れないものだという生理的実存の自己暴露的放言として誠に興味深いものがある。八ミリ評論家に八ミリ大学と言われたのは、むしろ名誉である。気にすることはない。

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1962年12月26日晩ー「石川正通氏歓迎短歌会」国際通り宮里医院ー前列右より伊波冬子、金城芳子、石川正通・夫人、上里堅蒲、宮里栄輝、松田賀哲/中列右より國吉有慶、比嘉俊成/後右より宮里浩司・夫人、國吉景祉、比嘉晴二郎、泉國夕照、國吉灰雨、石川正秋

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Posted by: ryubun02

那覇グランドオリオン通りの「しんあい でんき」(携帯090-3322-9908)店主・仲里康秀□ジュークボックス 蓄音器 SPレコード








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戦後の軽便汽車 仲里康秀・所蔵

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Posted by: ryubun02
2013年2月 戦争と平和を考える詩の会(〒143-0016 大田区大森北1-23-11 甲田方)『いのちの籠』第23号
○総選挙が終わってー(略)3、(ああ、おいしかった)この話は2,3年前の8月、NHKの特別番組で放映されたテニアン島での悲劇である。ご覧になった方も多くいると思う。テニアン島は1944年夏、米軍の上陸によって全員玉砕し、その後ヒロシマ・ナガサキに投下された原爆搭載機の発信基地となった。戦後私は現地を訪れた事があるだけに感慨は深いものがある。その話の内容というのは現地召集の一青年が米軍に追いつめられて両親と家族3人を銃殺した話である。その事を一番強く望んだのは彼の母親であった。米軍の手に掛る前に、息子のお前の手で死なせてくれと哀願されたのである。母と父を銃殺し、次は妹の蕃になった時、突然妹が「お兄ちゃん待って。お水が飲みたい。」と叫んだ。不憫に思った彼は一緒に水のある場所を探し当てた。水を飲み終えると妹は、「ああ、おいしかった。」と微笑むとさっさと父母の倒れた場所に戻って、兄の銃口の前で目をつぶったのである。引き金を引いてしまった彼に対して狂気の沙汰と言うのは簡単である。人間を狂気にしてしまう戦争は残酷である。私はこの情景を想像する度に年甲斐もなく涙が溢れてしまう。この兵士は後追い自決をする寸前に米兵の捕虜となり戦後を生き延びた。重い口を開いた放映3カ月後に彼は亡くなったとの事であるが、彼の生涯にについて私には語る言葉はないのである。私達の世代は戦争犠牲者の死を語る事が出来ない。その死を無駄・無益・無意味・非業・不条理と知る事になっても、そう言ってしまっては、死者が救われないという思いにどうしても囚われてしまうからである。(中村高春)

○あとがきー「自民」「民主」「維新」の「三極」は、「国防軍創設」「軍隊明記」「核兵器万歳」であった。改憲の輪の中の人々である。三極しか選択肢がないかのように連日テレビ新聞が煽った。不景気に殺気立つ様相は、やはり深刻な不況であった侵略戦争直前と似ている。滑稽なのはこのシステムを作ったのは自民党や民主党自身だということだ。同じ輪の中でアメリカ二大政党のように責任転嫁し合っているのである。ナチスそっくりに台頭した「維新」もあり、「大政翼賛会近し」だろうか。売れない、買えないのこんな時に消費税を増税したらどうなるか。格差社会ますますけっこうというのだろうか。ごく一部のトップ企業が潤ったら「経済は回復した」と言う連中だ。(略)

日本の一番の自慢は、平和を愛しどの国の人々とも文化交流し、世界政治の場で平和世論のイニシアチブをとるところ、となることを願っている。若い人たちに戦争の歴史を伝える良識教師が処分されているいま、いよいよ平和憲法にとって戦後最大の試練の時である。戦争と平和の問題は、私たちの詩文学の根幹である問題だ。(佐相憲一)

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Posted by: ryubun02
沖縄芸能史研究家・崎間麗進(1921年~2013年3月19日)

2010年4月29日 書斎探訪ー崎間麗進氏
崎間麗進氏は琉球新報社の『沖縄人国記』(1999年3月)によれば「崎間麗進(76)は、那覇の庶民生活の伝承者。子供と大人の関係が切り離されている現代を憂える。始祖は、琉球に陶芸の技術を伝えて帰化した朝鮮の陶工・張献功(?~1638)。名前の『麗』の一字がその名残り。芸能にも詳しく、沖縄芸能史研究会会長を務める。沖縄県立博物館長・當間一郎(59)も創立当時からの会員。初代会長で琉大名誉教授・照屋寛善(78)は医業の傍ら古典芸能に新しい解釈を加えた」と沖縄芸能史研究会と共に紹介されている。
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2015年4月15日午後2時ー那覇市・識名園で「崎間麗進先生を偲ぶ会」□実行委員長・當間一郎/実行副委員長・安次嶺律子


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兼次一正「東道盆(とぅんだーぶん)」原画ー新城栄徳所蔵

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2013年3月10日沖縄県立博物館・美術館エントランスホール「宮廷舞踊オールドタイムダンス」日本ボールルームダンス連盟東部総局沖縄県支局


ジュンク堂那覇店「フランス史」のマリー・アントワネット関連本

マリー・アントワネット展 展示準備がピークに/ペンライトを使って肖像がに傷などが付いていないかチェックするパリ市立カルナヴァレ博物館のシルヴィー・ロビン学芸員(右)と金城美奈子学芸員=5日、県立博物館・美術館
 18歳でフランス王妃となり、革命の波にのまれて37歳の短い生涯を終えたマリー・アントワネットの素顔に迫る「マリー・アントワネット物語展」が8日、那覇市の県立博物館・美術館で開幕する。展示会を目前に5日、同館では、空輸された絵画やアントワネットが使った身の回りの品など約120点を運び込んだり、傷がついていないかチェックするなど準備に追われる学芸員の姿が見られた。(沖縄タイムス)

フランス革命ー王政からギロチン恐怖政治へ
フランス革命とは、極右学者で何かと物議を醸している中川八洋筑波大教授『正統の哲学・異端の思想ー「人権」「平等」「民主」の禍毒』(徳間書店1996)によると、「フランス革命という歴史(歴史上の行動)がなければ、マルクス・レーニン主義を構築する狂った発想も勇気ももちえなかったそのことにおいて、フランス革命とは、この『悪魔の宗教』創造における役割はとてつもなく大きいというより、フランス革命こそその原点であり源流の礎である。」と言い切っている。マリー・アントワネットフアンの私としてはこの意見だけには同調する。

 本城靖久・渡部雄吉『紀行フランス革命200年』(新潮社1989年5月)に「1792年の対オーストリア宣戦布告に始まり1815年のワーテルローの敗北で終る戦争と革命の時代に、200万人のフランス人が生命を失った。1789年当時のフランスの総人口が二千六百万だから、大変な損失である。おかげでそれまで覇権国であったフランスは、イギリスにとって換られてしまった。」「1793年、革命裁判所は93年3月に国民公会によって創設された。93年10月3日、国民公会はマリー‐アントワネット 王妃の裁判の開始を決定した。そして16日の朝4時、外国と共謀して共和国に反逆を企てたとして死刑(ギロチン)の判決が下された。この裁判を指揮したのは冷血漢といわれた検事のフーキエ・タンヴィル。(略)この検事は政変から」5日目に逮捕、大虐殺の責任を問われて死刑の判決。裁判官6人のうち3人と出廷した証人のうちの14人はギロチンにかけられている。そして3人の証人は横死しており、陪審員12人のうち革命を生きのびたのはたったの3人である。」とある。

関連し連想するのがアメリカの南北戦争である。1852年、黒人奴隷の惨状をストウ夫人が『アンクル・トムの小屋』で描いた。聖書に次ぐベストセラーになり南北戦争の発端をつくった。戦争は、お互いにあらゆる国力を投入したことから、南北戦争は世界で最初の総力戦のひとつだった。最終的な動員兵力は北軍が156万人、南軍が90万人に達した。両軍合わせて62万人(北軍36万人、南軍26万人)もの死者を出し、これはアメリカがこれ以降、今日まで体験している戦役史上、最悪の死者数である。(ウィキペディア)
アメリカ兵士の主な戦死者 独立戦争・・・・・・・1万2千人 第一次世界大戦・・11万2千人 第二次世界大戦・・32万2千人 朝鮮戦争・・・・・・・・5万4千人
ヴェトナム戦争・・・・5万8千人

マリー‐アントワネット 【Marie-Antoinette】
[1755~1793]フランス王ルイ16世の妃。マリア=テレジアの四女。浪費癖と無思慮な行動で民衆の反感を買い、フランス革命の際、国外逃亡を企てたが失敗し、革命の敵として処刑された。(→コトバンク)
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