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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

この日は私の誕生日、伊佐眞一氏宅で「末吉麦門冬著作集」などの話をする。明治大正の新聞雑誌が原稿だから誤植、脱字などの校訂作業に相当日数がかかる。例えば、藤田親義『琉球と鹿児島』の末吉莫夢は「薩摩関係の琉球五異人」▲沖縄で初めて紙製造をやったのは尚貞王の18年我貞享3年(西暦1686)で即ち今を去ること二百三十四年前である。那覇の人関忠勇大宜味(●大見武の誤記)、と名前が誤植となっている。


自民党の国会議員と自民党沖縄県連が辺野古移設を容認したことを受けて、2013年12月1日の『沖縄タイムス』に芥川賞作家の大城立裕さんが「琉球処分を省みつつー辺野古移設 構造化する差別」を書かれている。その中で「琉球処分と今日の最大の違いは、『基地の県外移転』という提案である。琉球処分には清国との関係を断つことと日本へ帰属するための問題しかなかった。その意味では、大久保利通や松田道之にくらべて、安倍首相や石破氏は怠慢であり、ずるい。他県の首長へ根回しを試みたことがあるかどうか、知らないが、そこに言い訳すらしないところは、差別というか、軽視、侮辱の感があり、琉球処分以上のものではないか・・」とある。


大城さんのいう大久保利通の末裔が安倍晋三である。明治の元勲、大久保利通 の次男、牧野伸顕(のぶあき)は西園寺内閣の文部大臣となり、山本内閣で外務大臣となった政治家で、その娘 雪子 は 吉田茂 の妻。 吉田の娘の 和子 は麻生セメントの社長であり衆議院議員でもあった、麻生太賀吉 と結婚し、吉田のもう一人の娘の 桜子の夫は外交官の 吉田寛。 吉田寛は早世したために政治家にはならなかったが、吉田の母 さわ は、国民の反対を押し切って安保条約を締結した岸信介、造船疑獄を指揮権発動で逃げ切った佐藤栄作 の母 茂世 と姉妹である。 安倍晋三の実弟であり、参議院に当選した 岸信夫 は、岸信介 の息子 信和 の養子。 この家族、佐藤、岸、安倍は親戚と言う事である。→閨閥(けいばつ)日本の政治改革。

大城さんのいう琉球処分官・松田道之は鳥取出身である。その鳥取の末裔ともいうべき石破幹事長が自民党の沖縄選出国会議員「県内移設」を強要した。その経歴は、1981年(昭和56年)、父である石破二朗(鳥取県知事、自治大臣)が死後、二朗の友人だった田中角栄から「おまえが(おやじの後に)出ろ」と薦められたことが政界入りのきっかけである。三井銀行を退職して田中派の派閥秘書を務めたのち、1986年(昭和61年)の第38回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で鳥取全県区から立候補して初当選(本来は田中派からの出馬を希望していたが同区に同現職平林鴻三が居た為、中曽根派幹部渡辺美智雄を頼り、中曽根派から擁立された)。以後連続当選9回。1993年(平成5年)、政治改革法案をめぐって自民党から役職停止処分を受けたため笹川尭と共に離党し、改革の会に参加。新党みらい、柿澤自由党、改革の会が合流した自由改革連合を経て新進党結党に参加するも、小沢一郎の安全保障政策に失望し、新進党を離党。1997年(平成9年)に自民党に復党。国民年金の未納期間があったことが明らかになり、「未納3兄弟」の一人としても著名である。→Wikipedia

 粟国恭子 2014年11月5日(水)に沖縄で、民衆史の大御所・色川大吉先生を囲む集いが開催されました。「<民衆史50年>色川大吉先生を囲む集い」(会場:ナハテラス)は、近代史研究の重鎮・我部政男先生、ジャーナリストの三木健さん、近代沖縄史家・思想史の伊佐眞一さんが中心となって開催実現しました。その他に、色川先生と交流のあった川満信一、新川明、仲宗根勇、高良勉、由井晶子さんなどなどの呼びかけで開催され、約50人程の参加でした。

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2015年1月『月刊琉球』12・1月合併号 <500円+消費税> Ryukyu企画〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16  ☎098-943-6945 FAX098-943-6947



新城栄徳「麦門冬の周辺」


國吉眞哲翁から、そのころ貘と一緒に末吉麦門冬の家に遊びに行った話を伺った。玄関から書斎まで本が積んであって、麦門冬が本を広げている上を鶏が糞を垂れ流しながら走りまわっていたのが印象に残っているとの話であった。思うに貘はそのとき麦門冬の旧号・獏を夢を喰う意味での「獏夢道人」をいくぶん意識に植えつけたのではなかろうか。
 
又吉康和は一九二三年に『沖縄教育』編集主任になると、麦門冬に「俳句ひかへ帳ー言葉の穿鑿」を書かせている。二五年九月発行『沖縄教育』には、表紙題字を山城正忠に依頼、カット「獅子」を山口重三郎(貘)に依頼し、貘の詩「まひる」「人生と食後」も載せている。編集後記に「山之口貘氏は今般中央の『抒情詩』に日向スケッチ他三篇入選しました之より琉球詩人がどしどし中央の詩壇に出現せんことを念じます。救世者は政治家ではなく、それは詩人と哲人であります」と記して、甥にあたる國吉眞哲と共に上京の旅費を集め貘を東京に送りだしている。
写真上は1925年8月16日、貘2度目の上京前に上左から又吉康和、国吉真哲、国吉真才、一人置いて貘。写真下は貘が戦後帰郷の時。

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『日本及日本人』赤線内が麦門冬執筆

○この雑誌は、政教社の日本人誌と陸羯南の日本新聞とを継いでいる。これらは元々兄弟のような間柄だったが、1906年、日本新聞社の後任社長伊藤欽亮の運営を不服として、社員12人が政教社に移り、三宅雪嶺が『日本人』誌と『日本新聞』との伝統を継承すると称して、翌年元日から『日本人』誌の名を『日本及日本人』と変え、彼の主宰で発行したのである。創刊号の号数も、『日本人誌』から通巻の第450号だった。雪嶺は1923年(大正12年)秋まで主筆を続けたが、関東大震災後の政友社の再建を巡る対立から、去った。それまでが盛期だった。雪嶺は、西欧を知り、明治政府の盲目的な西欧化を批判する開明的な国粋主義者で、雑誌もその方向に染まっていた。題言と主論説は雪嶺、漢詩の時評の『評林』は日本新聞以来の国分青崖、時事評論の『雲間寸観』は主に古島一雄、俳句欄は内藤鳴雪、和歌欄は三井甲之が担当し、一般募集の俳句欄『日本俳句』は河東碧梧桐が選者で、彼は俳論・随筆も載せた。ほかに、島田三郎、杉浦重剛、福本日南、池辺義象、南方熊楠、三田村鳶魚、徳田秋声、長谷川如是閑、鈴木虎雄、丸山幹治、鈴木券太郎らの在野陣が執筆した。月2回刊、B5より僅か幅広の判だった。たびたび発禁処分を受けた。大正期に入ってからは、三井甲之の論説が増え、中野正剛、五百木良三、植原悦二郎、安岡正篤、土田杏村、布施辰治、寒川鼠骨らが書いて、右翼的色彩も混ざった。1923年(大正12年)の関東大震災に、発行所の政教社は罹災した。雪嶺と女婿の中野正剛とは、社を解散し新拠点から雑誌を継続発行すべきとし、他の同人が反対し、碧梧桐・如是閑が調停したが、雪嶺は去った。以降の『日本及日本人』は、同名の無関係の雑誌とする論もある。1924年年初、政教社が発行し直した『日本及日本人』は、体裁はほぼ以前通りだったが、内容は神秘的国粋論が多くなった。1930年(昭和5年)、五百木良三が政教社社長となって『日本及日本人』を率いた、1935年からは月一回発行になった。(ウィキペディア)

1910年5月15日ー『日本及日本人』第573号 碧悟桐「那覇での社会問題として第一に指を屈せられるべきものは辻遊郭である」
1912年2月ー柳田国男、伊波普猷より『古琉球』3冊寄贈される。
1913年4月ー沖縄県庁でこの程、筆耕に令し『中山世譜』の筆写をなさしめつつある。
1914年7月ー沖縄県知事より、伊波普猷、真境名安興ら沖縄県史編纂委員拝命
1915年1月ー沖縄県史編纂事務所が沖縄県庁より沖縄県立沖縄図書館に移される(真境名安興主任)
1917年7月15日ー『日本及日本人』709号□末吉麦門冬「十三七つに就いて」「雲助」「劫の虫より経水」(南方熊楠と関連)
1917年9月1日ー『日本及日本人』712号□末吉麦門冬「楽屋の泥亀汁」

1918年2月12日ー東京日本橋区本町三丁目博文館・南方熊楠殿、末吉安恭書簡「拝啓 先生の御執筆の十二支伝説は古今東西に渡りて御渉猟のこととて毎年面白く拝読いたし候(略)琉球にも馬に関する伝説、少なからず候み付、茲に小生の存知の分を記録に出でたるものは原文の侭、然らざるは、簡単に記述いたし候間、御採択なされ候はば幸甚に候。失礼には候へど、御ねがひいたし度きこと沢山これあり候につき御住所御知らせ下さるまじくや(略)」(『球陽』『琉球国旧記』引用)

1918年8月15日ー『日本及日本人』737号□末吉麦門冬/しなだれ(輪講第二回中)第70号141にしなだれの解出づるも、その語源に就いては更に考ふべきものなきか、松屋筆記に日本霊異記等を引きて詳しく解釈せり、霊異記の■(門+也)は訓註に「シナダリクボ」と見ゆ「シナダリ」はシナダリの通音也。婬汁はしシタダリナガル、物なればシタダリと云ひ、クボ」は玉門のことにいへりとし、又今昔物語の婬もシナダリと訓むべしと云へり、これに依ればしなだれかかると云ふ語も、■れかかる義には相違なけれど、其の出所の元は婬汁のシナダリよりせしとすべきか。/焼餅の値(輪講参照)竹田出雲の小栗判官車街道(元文3年)に、桔梗屋の常陸といふ女郎が千二百両で身請けされたと聞き、二条樋の口の焼餅屋曰く「千二百両の金目を二文賣の焼餅の数に積って見れば、百五十四萬五千六百といふ焼餅が買われるげな」とあり、焼餅の値が二文づつなりしことが知らる。

1918年10月1日ー『日本及日本人』741号□末吉麦門冬/おかべ(輪講第四回下ノ四)豆腐をおかべといふは、素の婦人の言葉にして男子はしか云はざりしものの如し、少なくとも男子に向かっては云はざりしものの如し。醒睡笑巻之三に「侍めきたる者の主にむかひ、おかべのしる、おかべのさいといふを、さやうの言葉は女房衆の上にいふ事ぞと叱られ」とあり。又風流遊仙窟(延び享元年)に豆腐賦あり「むかし六弥田忠澄愛して今に岡部の名あり」といへるは信じ難し。/土産の説(七一〇号参照)土産は宮笥なりと本居宣長は云へりとの説ありしが、其の以前に井澤幡龍子①のこれを云へるあり、廣益俗説辯遺編第五巻期用の部に「俗説云土産の字をみやげと訓み賜物の事とす、又俗書向上と書けるものあり、今按ずるに土産は其処にて出来たるものをいふ、贈物の事とするは非なり、向上とは低き所より高き所を見あぐるをいふ、みやげとは宮笥と書く、黒川氏云、参宮の人、家に帰りて後祓箱ならびに伊勢白粉、陟のり、弱海布、麩海苔、鰹節、鯨髯器物、編笠、笙笛、柄杓、貝柄杓等のたぐいを方物として、親戚朋友におくるを宮笥といふと記せり、此説を用ふべし」とあり、狂言記の伊勢物語にも「下向道の土産には土産には伊勢菅笠や、萬度祓、鯨物差、貝柄杓、青海苔、布海苔、笙笛買集め」とありて土産の品々は相似たり。

①井沢 蟠竜『廣益俗説辨コウエキ ゾクセツベン 』 広益俗説弁, 序目1巻正編20巻後編5巻遺編5巻附編7巻殘編8巻

1919年1月1日ー『日本及日本人』747号□末吉麦門冬「再び琉球三味線に就いて」/「小ぢよくー近松の栬狩劔本地に『親をだしに遺ふは、物どりの奥の手、ヤイ小童今度は是を喰ふかと、杵振上れば』とあり、小童と云はれたのは男の子なり」/「かんから太鼓ー八笑人三編追加上の巻、頭武『イヨイヨヤンヤヤンヤのお声がたよりぢやァ、是はカンカラ太鼓をかりて行かうか』とあり、此編文政7年の作なりと云へば、その以前既にカンカラ太鼓ありと知るべし。安政3年よりも三十三年前なり。」(吉田芳輝氏提供)
1919年4月ー『日本及日本人』□末吉麦門冬「無筆の犬ー無筆の犬といふ話は早く醒睡笑(元和9年)に出づ。曰く『人喰ひ犬のある処へは何とも行かれぬなど語るに、さる事あり、虎といふ字を手の内に書いて見すれば、喰はぬと教ゆる。後犬を見、虎といふ字を書きすまし、手をひろげ見せけるが、何の詮もなく、ほかと喰ふたり。悲く思ひ、或僧に語りければ、推したり、其犬は一圓文盲にあったものよ』云々」

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麦門冬妹ウト/貞とパーパー

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佐渡山安治御夫妻、二宮忠男・貞御夫妻、末吉麦門冬長女・石垣初枝さん/二宮貞さん

2016年8月18日3時 伊佐眞一氏と首里の万松院通夜室に同行/伊佐氏と共同で作った『琉文手帖』麦門冬特集と、『日本古書通信』「バジル・ホール来琉200周年」をお土産にするという。

2016年8月19日12時 いなんせ斎苑で荼毘 

「貞心妙寿信女」 遺族、参列者

2016年8月19日15時 万松院で納骨式


“一握の土”(握り地蔵プロジェクト)二宮貞さん(92)参加


二宮貞の姪であり、麦門冬の孫にあたる石垣市在の、石垣米子詠む
  今は亡き 面影しのびつ 捧げなむ
               伯母安らかにと 祈る朝夕
今年は二宮貞の姉であり、且つ末吉麦門冬の長女、石垣初枝の25回忌に当たり、その夫である石垣長夫の27回忌を併せて、法要を執り行うとして、麦門冬弟の末吉安久長男で、陶芸家の末吉安允に、法要のお返しとして、お地蔵さんを注文した。そのお地蔵さんを見て米子詠む
   おつむなで お顔なでては ほっこりと
                合掌地蔵に 心なごめり

末吉安允作「合掌じぞう」/石垣米子・詠 城谷初治・書


2017年8月16日11時 万松院で「二宮貞1周忌」



2014年12月5日 首里の末吉安允宅で、安久作成「麦門冬著作・資料」を見る
『琉文手帖』麦門冬特集に富島壮英氏が、麦門冬特集を祝すで「東恩納寛惇の著作・論文などのカード目録を作成していた頃、東恩納文庫の戦前の新聞切抜き帳や各種の目録類に麦門冬の著作・創作などを散見して、彼への関心をもちだしてから10年余になろうか。その頃、元気な宮里栄輝先生から戦前の図書館のこと、研究者のことなどを拝聴している時も麦門冬の話がしばしば出た。このように形成された、おぼろげな麦門冬像は、東恩納寛惇の『野人麦門冬の印象』と相俟って、ますます増長される一方、未知の不思議な人物像の魅力へとつかれていった。7,8年前、麦門冬の末弟の故末吉安久氏が著作集を出すというので、数度東恩納文庫に足を運ばれ、若干の著作のコピーもさし上げたが、ついに日の目を見ずに今日に至っている。おそらく、麦門冬が著作の発表の場とした明治・大正期の雑誌や晩年の30代の新聞が殆どないために、収集に困難をきたしたものと思われる。(後略)」


鎌倉芳太郎が1975年11月、八重山に遊び麦門冬の娘・初枝さんと感激の再会。翌年の元旦に詠んだものを書いて石垣市の初枝さんに贈ったもの。

左から折口信夫(複製)短冊ー麦門冬の娘・初枝さんに贈ったもの。/山城正忠/鎌倉芳太郎短冊ー麦門冬のことを聞いた新城栄徳に鎌倉氏が贈ったもの。娘の嫁ぐ日に詠んだ歌だが、その娘の名が恭子さんであるのは偶然なのか。


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Posted by: ryubun02
○本土で既に廃れた言葉でも、沖縄にはまだ現存して居るのが幾何もあるされば古語の語原の分からぬのでも沖縄の言葉で考える即ぐに解釈がつく伊波文学士なども頻りに其学を研究して居らるるが是は実に有益の研究で沖縄人が日本人種と同一人種であると云ふ立証が明にさるると共に沖縄語の日本語研究の管鍵として沖縄の価値を高め一概に沖縄を以て蛮音訣舌として軽蔑する者流の誤見を訂正するに足るのである。私はフト幸田露伴①氏の蝸蘆雑談と云ふ文章を見て感づいたことがある。其の文章は神武天皇の東征史実を論じて露伴一流の綿密なる考証と穏健なる論断がされてあった。私の特に其中で発見したのは長髓彦②の名に就いての考証である。氏の説によると長髓と云ふのは邑の名で、彼の別名登美彦といふ。登美が地名なると同一で本名ではない本名は記録には見えない、記には長髓は是邑の本の号と見えている。それから髓といふのはずね土の義にして本居宣長③などは骨中の脂の借字ならんと疑へりとある。この説は実に穏当である。長髓が「すね土」即ち骨中脂で、其土地の地質から命名した地名として其の土地に生まれた豪族の名となった、と云ふことは如何にも能く肯かれる、それを猶、吾々沖縄人が見るとこの説が一層有力なることを証明される。
 
 これを如何と云ふに本土では今や長髓を以て姓名とする者はなけれども、沖縄ではまだ長髓姓がある。怪しむ勿れ、長髓は即ち仲宗根である。本県には仲宗根の知名と人名が未だに現存するのである。人名は地名から来たものである。人名には仲宗根清などの如き紳士もあり、又仲宗根朝信といふ人も居る。これ等は皆長髓彦彦と同名の人である。或は何か縁故があるかも知れぬ。恁麿な訳で本土に廃減した語名称が沖縄には今日流布通用していると云ふことは実に面白いではないか。本居宣長や幸田露伴の長髓彦考は沖縄に来て始めて立派な照明を得たと云ふても過言ではない。若し仲宗根清君朝信君が露伴氏の蝸牛庵へでも訪づねて、私はナカゾネと申す者でと名乗り出たら2千年前の長髓彦の再来かとばかりに氏を叱驚させるに違いない。又屹度歓待するに違いない。

 戯談は廃して私は露伴氏の説に依りて沖縄では、仲宗根の「ゾネ」が何の意味だか分からぬのを「ずね」といふ義なることを教えられたことを感謝すると共に、一つ感付いたことがある。それは本居氏も幸田氏もナカズネを地名とし本名にあらずとする迄はよいが、別に本名が記録にないと云って不足らしく且つ本名が有る様に云はれたのは何かと思ふ。私の考えでは長髓彦には別に本名なんと云ふものは無かったらう、彼は長髓邑の長であって丁度謝那の大主が謝那村の地頭であると同格の者ではなかったらうか姓名を称ぶのは後世のことで太古はそんな面倒なものは必要としないツイ近頃まで辺鄙の地方に行くと本名のない人民がいたのでも判る。能登半島の何とか云ふ部落には明治以前には住民は本名がなかったが明治になってから戸籍上不便だと云って皆な名をつけさせたそれも戸籍吏が一日につけてやった為め出鱈目に海産物の名をクッつけて色々可笑しな名が沢山あるとのことだ。長髓彦時代も其麼な有様であって地名を本名とするに止り別に本名なんと云ふ者を必要としなかったであろう。

1912年6月24日『沖縄毎日新聞』笑古(真境名安興)「ス子の解」
○過日紙上に御掲載相成候麦門冬君の「ナガスネヒコ」考は面白く被読候。仲宗根といふ地名に付きては余も宿説有し「スネ」が果たして「土」の義なりと本居翁始め我が古学者の申されしは兎に角この「スネ」は普通の「土」の義なりや或は特殊なる「土」を意味せしやは考究の余地有之候。余は沖縄にて「スネ」といふは魚類の群棲する箇所を指せしものにて(今も然り)即ち海峡の一角が海底の隆起或は陥落して魚族の保護上の好適所か若しくは餌食の豊富なる箇所かと愚考致候。然ればこの「土」は普通の土にあらずして河海の作用にて出来上がりし沖積地の如きものの土地を指称せしものにては無之候哉。余は沖縄の仲宗根なる地名の語源は従来「中ノスネ」或は「長ノスネ」と解せり。昔時にありては海底にありて魚族の群棲せし箇所が時代の推移と天然力の作用に依りて陸地と化し遂に村落を形造りしものが今にその名称に残りしものならんと考証致候。亦一面より観察するも魚族の群棲する箇所は原人の部落を造るに好適の土地柄歟と被存候。先は貴説を読み感想に浮かびし一端を御参考迄に一言致し申候。敬具


①長髄彦
ながすねひこ
『古事記』『日本書紀』に登場する大和地方の族長。『古事記』には登美能那賀須泥毘古 (とみのながすねびこ) と記される。神武天皇の東征に抵抗し,大いに悩ましたが,天皇の弓に止った金色のとびに目を射られて敗退。 →コトバンク


②幸田露伴
小説家・随筆家。東京生。名は成行、号は蝸牛庵。電信修技学校卒業後電信技手として北海道へ赴任するが、文学への思いやまず帰京。『露団々』『風流仏』などの作品によって理想派の作家として文名を確立、写実派の尾崎紅葉と人気を二分した。代表作に『五重塔』『一口剣』等。芸術院会員。文化勲章受章。昭和22年(1947)歿、80才。 →コトバンク

③本居宣長
江戸後期の国学者。伊勢松坂生。号は芝蘭・春庵・鈴屋。初め堀景山に儒学を学び、のち賀茂真淵に入門。国学四大人の一人。『古事記伝』『玉くしげ』等著書は多く、全国に多数の門人を雍した。享和元年(1801)歿、72才。→コトバンク

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1940年 日本民藝協会同人(識名園で)ー2列目右から5人目が島袋源一郎、前列左から2人目が田中俊雄、左端が土門拳から3人目が式場隆三郎、3列目左が山里永吉、右へ3人目が保田與重郎。3列目右2人目が坂本万七、中央が柳宗悦、前が棟方志功(坂本、土門が写っているので、撮影者は????宮城昇であろう)

第三回訪沖
12月31日ー日本民藝協会主催の「琉球観光団」の団長として、三たび琉球に向け、神戸より湖北丸で出帆。団員26名。<民藝協会同人>柳宗悦、式場隆三郎、浅野長量、浜田庄司、船木道忠、佐久間藤太郎、棟方志功、鈴木繁男、田中俊雄 <販売事務>鈴木訓治、佐々倉健三 <写真>坂本万七、土門拳、越寿雄 <映画>細谷辰雄、猪飼助太郎 <観光事業>水沢澄夫、井上昇三 <その他>遊佐敏彦、同夫人、保田与重郎、浜徳太郎、相馬貞三、宮田武義、鈴木宗平、福井右近。船中で、毎夜、琉球に関する講話を行う。

井上昇三(日本旅行協会)/1940年3月ー『月刊民藝』□観光地としての沖縄ー今回、日本民藝協会が主体となって沖縄見学団が組織された際、水沢氏と小生とは観光方面の仕事に協力する目的で参加したのであった。そして幾多の収穫を得て帰ることが出来た。見学の一端は雑誌「旅」に発表する義務があったのだが、それを果たすに際して非常なる困難に逢着したのである。沖縄を琉球と云はぬ様、沖縄県を物珍しく取り扱はぬ様、特異の風俗・言語を他府県と比較したりその差を強調したりしない様等の注意を払ふ必要を感じたのである。他府県の者として沖縄を旅しての印象を正直に記したり、まだ沖縄を知らぬ人々に出来るだけ沖縄に興味を抱かせる様に紹介しようとしたら、恐らく其の筆者は沖縄県民の多大の激怒を買ふに至るのであらうといふ不安があつたのである。

かかる不徹底なる態度で書かなければならなかつた事は私としては誠に不愉快であり、執筆を終わりても其の後味の悪さは日が経過しても薄くならなかつた。所が本誌から原稿を求められて、ここに「旅」には発表し得なかつた部分と、鮮明な態度をとつている本誌に発表するの機会を与へられた事は深く感謝する次第である。

沖縄は気象学、動物学、植物学、言語学、民俗学殊に最近は工藝等の領域に於いては相当の研究がなされ且つ学界には発表せられている様ではあるが、観光学の分野に於いては他の諸学に比して数段遅れている事は否めない。何故かくもこの沖縄県のみ観光的に残されていたのかといふと、他に種々の理由もあらうけれども第一に本州の諸島と余りにも離れていたといふ簡単な理由に過ぎないと思ふ。同じ島でも佐渡の如くに近いと観光的に発展し過ぎてしまふ位にまでなつてしまふのである。この地理的条件は不幸でもあつたらうが他面に発展を伴ふ堕落から免れる幸福もあつたわけである。

次に兎角観光地といふ所では他から来た観光客の好んで見たがる箇所は地元では見せたくない場所が多いといふ問題がある。之は何処でも起こる問題で日本全体としても考慮しなければならないのである。何も沖縄県だけが考へなければならない問題ではないし、何処の府県でもお互い様である。之はもつと気楽に考へて宜しい問題だと思ふ。唯、好意的に観察して貰ふ様に充分なる説明をして納得して行く事は望ましい事である。之は案内記の書き方に依つて相当の効果は挙げる事が可能だらうと思はれる。
以上先ず云ひ難い点を敢て云つておいて本題に入る事としよう。

今回の沖縄の旅ほど、旅は有益であると知つた経験は従来無かつた。百閒も一見に如かざるの真理も充分に知る事が出来た。沖縄県の観光資源の豊富に恵まれていたのには驚嘆した。一月といふ時季に行つた為に特に感じたのかと思ふが、冬季の温暖な事は強味だと思ふ。霜雪を知らぬ土地に育つ植物の見事さ、沖縄全体が温室の如きではないか。寒中に露地で赤々と花の咲いている國が他にあらうか。海の水は空を溶かした様に綺麗だし、海岸の風景は到る処絵の様に美しい。島全体を風致地区として保存したい位だ。口腹の満足せしむる沖縄料理の美味に泡盛の清烈は此の土地で味つてこそ意義がある。加之、目と耳を楽しませるものには民謡と踊りと芝居がある。其の各々に有機的な機関があつて地方色が強くしみ込んで居り、且つ、にじみ出して居る。之等は一つ一つ切り離すべきではない。だから、どうしても沖縄に来られよ、と呼びかけなければいけない。呼びかける以上は相当の自信を以て臨むべきであらう。

観光地沖縄として出来るなれば次の3項目を実行し得たら立派な観光地として自慢出来ると思ふ。現在の社会、経済事情として早急の実現は困難であらうとは思ふが、なるべく其の実現に努力して完成の日の近からむ事を希望する次第である。何でもかんでも作れるなど無理な事を云ふのではない。出来る時にやれる様に常に心掛けておく事が必要なのである。

交通機関の完備 現在の県営鉄道は観光客には利用されていない様である。船は那覇名護間も毎日は通っていない様であるから、どうしても一番頼りにするのは乗合自動車といふ事にならう。そのバスが常に満員であつた事は、時節柄減車の已むなき為でもあつたらうが、もつと運転回数を多くする必要を示すものであらう。バスの能率増進は道路次第であるから、島内の道路網の拡充は他の意味から云つても重要な事業と云へよう。坂の比較的少ない路線は木炭車でも配してみては如何であらうか。一方には遊歩道も欲しいものである。首里と那覇の間は自動車で早々に過ぎ去るには残念な位眺望の良い所がある。殊に首里から那覇へ下りて来る道が良い。私はわざわざ一度人力車で下つてみた。尤も之はバスに乗れなかつたからでもあつたのだけれども、想像以上によい景色に感嘆の声を発した程であつた。道路は全部ペーヴメントとはならなくても今日国頭方面でも自由にバスを通じてる程度のものがあるのだから、其の完成には比較的困難を感じないですむのではないかとも思はれる。そして自由にバスが走り廻れれば申し分ない。

宿泊設備 旅館は現在に於いては余り優秀とは云い難い様に思はれる。旅館の発達しない理由の一に辻の存在が考へられるかも知れない。が、然し、それとは別に切離しても設備の整つた旅館がもう少し欲しい。何も外国人向きのホテルを建てよと叫ぶわけでは決してない。短期滞在の客はいいとして長期滞在の客に対する設備が不完全ではないだらうか。下宿をするといふ事は事実上不可能らしい。この方面の要望は従来なかつたものか、将来の客一に後考を煩したい問題の一である。僅か20数名の団体客が2軒の旅館に下宿しなければならないといふ事は遺憾であつた。せめて30名は一軒に泊まれなくては不便である。

序でに旅館の食事に就いて一言しておく。旅館に泊まる人といへば原則としてその土地の人ではないのであるから、其の土地の料理を出して貰ひたいものである。この事は沖縄だけの問題ではなく、全国的に共通の大問題なのである。某先生が「旅とは米の飯と鮪の刺身と灘の酒の全国的統一である」と云はれるのを聞いた事がある。が現在では白米が7分搗きに代つただけで他は同様である。尤も沖縄では灘の酒より泡盛が幅を利かしているのは僅かな地方差である。旅館では土地で採れるものを土地風に料理して出せ、といふ要望はこの10数年来幾度か叫ばれて来ながら少しも実行されていない。沖縄でも此の例に洩れなかった。沖縄料理を出してくれと特別に注文しても「豚の角煮」が一度出た位のものであつた。もう我々はうんざりしてしまつて、なるべく旅館では朝飯以外に食はない様に努力せざるをえなかつた。郷に入っては郷に従へといふ事もあるのだから、他の土地に来た者には一度は黙つて土地の料理を食はせる。それではいかんといふ客には所謂旅館の料理ー之を標準料理と云つた友人がいたが一寸面白いと思つたーを出せばよい。少なくとも郷土料理か標準料理か何れを希望するか位は聞いて貰ひたい。況や特に注文しても出さないのは言語道断である。古くなつた鮪の刺身を出して特にもてなしたつもりで居られたのではこつちは大迷惑である。聊か脱線したが、沖縄の如く郷土色の豊かで而も美味な料理が残つている所では一層注意して頂きたいと敢えて述べる次第である。

観光地の施設 崇元寺の電柱や旧首里城の龍樋の柵の如き悪例は出来るだけ速やかに改善して頂きたい。将来は棒杭一本、案内板一枚を立てるのにも注意して頂けば結構である。同じ表示板を立てるにしても、風致を破壊する事も出来れば風致を増す事も出来るのである。ぶちこはしは容易だが、其の回復は困難である。例へば万座毛の鳥居の如きである。故に最初の施設が肝要である。ペンキ塗りの棒杭を立てるよりは豊富に産する石材を用いて工夫すれば却つて効果をあげる事さへ出来はしないだらうか。然し徒に風致保存を唱へて住民の生活を犠牲にしてまでも実行せよなどなどわけのわからない事は云はない。ただ何れにしても建てるものであつたら良きものを建てる事にするといふ心掛けは常に失つて頂き度くないのである。

最後に念を押して申上げておきたい事は観光施設の行き過ぎにならぬ様に戒しむ可き事である。観光地として流行した場所で堕落しなかつた土地は先ず無いといつてよい位である。大阪商船の案内書ではないが「観光処女地」沖縄を汚したくないのは県民・観光客共に望む所でなくてはなるまい。尚一言したい事は、沖縄を観光的に発展せしめて一体どうするのか、といふ質問が出るかも知れないので、敢へて述べるならば、之は県の発展、県民の幸福にまで導かれる事だと云ひたいのである。県として最も恵まれたる観光資源を活用して観光客を吸収し、他府県人に金を落させて、而して県として裕福になれば之が県民の幸福にならないものであらうか。妄言多謝(15、2、9)

1940年
1月3日ー正午那覇着。自動車7台で波上宮へ参拝。糸満町へ赴き、白銀堂参拝。魚市場を見る。辻原の墓に参り、6時半より辻の三杉楼で那覇・首里両市、商船会社主催の歓迎会に出席。琉球料理、四つ竹踊、絣掛踊などを観賞。川津、宝来両館に分宿する。


棟方志功「壺屋窯場の図」サエラ(携帯080-1533-3859)所蔵

1月4日ー工業指導所及紅房で、織物と漆器など陳列品を見学。壺屋、郷土博物館、円覚寺、泡盛工場、尚順男爵邸の桃原農園、夜は真楽座を観る。
1月5日ー尚家霊廟玉御殿拝観、ヨードレの墓に詣で、普天間宮、鍾乳洞から車で万座毛、残波岬へ。7時より珊瑚座で「柳先生御一同歓迎特別興行」を観る。
1月6日ー師範学校講堂で空手術を見学。正午で観光日程を終了。
1月7日ー正午、支那料理屋別天閣で一同昼食、民謡を聞く。3時より那覇市役所における座談会に出席。言語問題にふれ一時警察部長と論戦となる。
1月8日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報紙上に、前日の論戦が大きく報道される。
1月11日ー沖縄県学務部、三新聞紙上に「敢えて県民に訴ふ 民藝運動に迷ふな」を発表する。以後、連日賛否両論が報道される。
1月12日ー団体一行は帰り、浜田、外村、坂本、鈴木らと残留する。
1月14日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報に「沖縄県学務部に答ふるの書」を発表。言語問題論争いよいよ沸騰する。
1月18日ー民藝同人に対する地元有志らの感謝会が、午後6時半より三杉楼で催され、浜田、外村、坂本、鈴木らと出席。五、六十人の人々の真情あふれる感謝のもてなしに感銘する。
1月21日ー尚家より借りた「神猫図」を持ち、飛行機で帰京する。この旅行中、坂本、土門と各地を撮影、二千枚にも達する。また文化映画「琉球の民藝」「琉球の風物」の製作の指導を行う。

第四回訪沖
7月24日ー11月開催予定の皇紀二千六百年奉祝事業の「琉球工藝文化大展覧会」準備のため田中俊雄、坂本万七を伴ない、4回目の訪沖に出発。  沖縄では、言語問題論争がなお続いていた。
8月2日ー沖縄県庁で知事渕上房太郎氏と会見し、標準語絶対反対論者と決めつけられた理由の説明を求める。この日「敢えて学務部の責任を問ふ」を琉球新報に載せる。  展覧会への出品依頼に、尚家をはじめ各方面から古作優品が出さ、陶器百点の外、絵画、染織も加わる。
写真撮影は、主として、「琉球風物写真展」(銀座三越)用の風物撮影を行う。  この間、坂本と撮影した海岸の写真が、海洋警備上の秘密を撮したとされ、警察に連行され、坂本は一夜留置された。
8月22日ー浮島丸にて那覇を発つ。
8月24日ー神戸着

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2014年12月12日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー新垣筑兵衛/嘉手納憑武」

1924年12月発行の藤田親義『琉球と鹿児島』に麦門冬・末吉莫夢は「薩摩関係の琉球五異人」と題し、新垣筑兵衛を紹介している。12月16日は「紙の日」と上記に言う。麦門冬も首里の自宅近くの製紙業の変遷で大見武憑武にも触れている。
1919年9月8日『沖縄時事新報』麦門冬「首里の製紙業ー其の隆替と変遷」
▲首里区の製紙業を改良せしめ、元始的製造法より文明的製造法に代らしめやうと云ふのは、極めて必要なことである。今同区にある所の製紙業の幼稚なことたら実にお話にならぬものだが、それでも長い歴史を有するから面白い、而して今の同業は却て往昔のものの退化したものであることを認めざるを得ない。 
▲沖縄で初めて紙製造をやったのは尚貞王の18年我貞享3年(西暦1686)で即ち今を去ること二百三十四年前である。那覇の人関忠勇大宜味(●大見武の誤記)筑登之親雲上憑武と云ふ者が薩摩に往って草野五右衛門と云ふ人に就て学び、其製法を伝へ帰った。それが8年後の元禄7年政府より造紙主取と云ふ職を授けられ、官営の製紙業が設けられ、彼はその主任となって経営に任した。而して大見武筑登之は功により宅地を首里金城村大樋川辺に賜りそこにて盛んに紙を製した、製紙の種類はわからないが、國用に供したとあるから、今の紙などよりは遥かに上等な紙であり其製法も進歩したものであったらうと思ふ。
□(略)天保11年(1840)即ち今より80年前、政府は儀保の寶口に家屋を建て紙製造所となし、比嘉親雲上を主任として官営で出来たのは百田紙であった。弘化3年(1846)即ち今より74年前、比嘉親雲上が寶口で始めてより7年後のことである。那覇泉崎の人豊氏金城筑登之親雲上順應が先年薩州に赴き製紙の法を学び来るにより、試みにこの年彼を召し紙座に於いてその所伝の紙を漉かしめ見るに、上紙、下紙、百田紙、美濃紙、宇田紙、杉原等諸紙の紙を漉いて杉原の外はすべて見事に出来上がった。是により製紙界の革命児たる金城は直ちに登用せられ紙座の主任となり盛んに製紙業を開いた。(以下略)


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宝口樋川ー「宝樋」碑、近くに「紙漉所跡」がある。

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写真・山城正忠

中央・具志堅政冶翁①
「白雲洞」の字が浮き彫りにされている山城正忠の木版。具志堅政冶翁が東京赤羽に住む遠縁の池原清さんから譲り受けたもの。

沖縄タイムスー沖縄本島で地上戦開始後、首里市の新聞社壕で発行を続けていた「沖縄新報」は、1945年5月25日に解散した。最後まで壕にとどまったかつての沖縄朝日新聞を中心とした社員10人のうち9人(社長代行の高嶺朝光、編集局長の豊平良顕、具志堅政冶①、前田宗信、牧港篤三、大山一雄、稲嶺盛国、仲本政基、島袋俊一)が創設メンバー。1945年7月時点で米軍の準機関紙「ウルマ新報」(現・琉球新報)が、教師などの新聞発行未経験者の手により発行されていたが、沖縄タイムスは「新聞人による新聞発行」を目指し、1948年7月1日創刊された。創刊号発行前の6月29日、米軍占領下の軍票(B円)への通貨切り替えのスクープを号外で出し、これが実質的な創刊となった。

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山城 正忠「蠧房雑記ー別名・十様錦舎漫録〕
○崖言
(1)年来、筐底に埋もれている覚書の中から、手當り次第に、抜き出したのがこれ、因より反古の価値しかない、ひとり決めの記録であり、断簡であり、素材である。
(2)最初から、閑戯として、独楽しみ、一切他見無用とした信条を、茲に、敢て犯す気になっただけでも、厚顔無恥、自らかへりみて忸怩たるものがある。したがって、今更ら無学の嘆を新にするのみ。
(3)折々の、断々の、書溜めの、抜粋であるから、琉球語の仮名づかひが、おびただしい統一を缺いているのも、亦巳むを得ない。勿論、それの正確を期す事は到底、私には出来ない相談である。
(4)伊波大人の華甲を祝し、功績を讃へつつ、藁を急いだこの雑文が、却て大人に対する禮を失するやも計り難いが、とにかく、私特有の稚気を愛していただければ、幸はせである。


蛙ー『犯罪科学』第一巻第四号。佐々木喜善氏の『善良悪徒譚』(2)『蛙壺』の中に、かういふのがあった。
     苦心して溜めたお金の壺にいひきかせる老夫婦の繰言『金々。俺等は斯うもお前を、ここにかくしておくが、若し盗人が来て、此壺を開けて見たら『ビツキ     (蛙)と姿を見せう』云々。
このビツキも亦、琉球語のアタビチ、アタビチャー。アタビクー。と血を引いてる事は明白である。なほワクビチといふ方語と、ワクトウ(『九州に蟾蜍をワクトウといふ』菅茶山著『筆のすさび』)といふのを並べて考へると、いよいよ面白くなる。前述の『蛙壺』に似た句が、一茶にある。   人来たら蛙になれよ冷し瓜
なほ琉球の民間伝説にもこれに似たのがあるといふだけに茲ではとめておく。


伊波普猷氏の肖像あり/内容:玉依彦の問題(柳田 國男)/琉球国王の出自(折口 信夫)/奄美大島の祭礼と能呂の勢力(昇 曙夢)/山原の御嶽(宮城 真治)/伊平屋島を通して観たる年頭の行事(島袋 全発)/ミヤ(宮)の原義に関する研究(宮良 當壮)/琉球列島に於ける民家の構造と其の配置(島袋 源一郎)/今帰仁を中心とした地名の一考察(島袋 源七)/宮古島の民俗、産育と葬祭を中心として(源 武雄)/組踊護佐丸敵討の型、一名二童敵討(渡口 政興)/宮古方言を中心として(与儀 達敏)/アクセントに現れた東京語と那覇語(大湾 政和)/加行変格「来る」の国頭方言の活用に就いて(仲宗根 政善)/沖縄に於ける橋の発達(神田 精輝)/琉球古来の土地反別法(宮里 栄輝)/泡盛雑考(東恩納 寛淳)/アイヌ白人説(金田一 京助)/「甘藷」を表わす朝鮮方言の分布に就いて(小倉 進平)/上代に就ける波行上一段活用に就いて(橋本 進吉)/おもろ研究前文、田島利三郎先生評伝(金城 朝永)/バイフタ・フンタカ・ユングドウ、黒島の壽詞(喜舎場 永珣)/首里の物語(島袋 盛敏)/絃声漫語(富原 守清)/(山城 正忠)/伊波先生と私(照屋 宏)/伊波普猷先生論文並著書目録(金城 朝永)/伊波普猷先生年譜(金城 朝永

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1912年6月-山田有幹、嘉手川重利、山城正忠が同人雑誌『アソビ』創刊。
1914年11月-仲吉良光、嘉手川重利、山城正忠、、末吉麦門冬、山田有幹と『五人』を創刊。

写真左からー仲吉良光、末吉麦門冬、嘉手川重利、山城正忠、山田有幹
1924年12月13日 山城正忠「麦を弔ふ」
○おい!麦どうしたんだ、頑健そのもののような図体をしていたのに、何と言ふ態だ。しかし僕はどうあってもまだ信ずる事ができない。酔ふたらきっとあの丸太のような腕を捲くり上げて、腕相撲を挑んだり、布袋のやうな下ッ腹突き出して、思ふ存分鉄拳をあてて見ろなぞと、豪語していた君の体が、さう脆くつぶれとは・・・・・・・・誰だってさうだろう。おい!莫 ほんとうにキミは逝ったのか。さうしてもう、われわれ仲間の集まりに、面白い話材を提供してくれないのか。そんならよろしい。誰が二度と頼むものか。逝け、逝け。しかしさうはいふものの何だか寂しい。たより無い僕はキミの永遠の寝床が静かに銘刈の霊屋に置かれたといふ。その晩は、したたか酒をのんだ。ああもう止そう。書くのも嫌だ。泣きたくも、今は涙が出ない。おい!落紅、三十九年はあまりに短い夢だったね。夢ならさめる時もあるが、きみの深い眠りは、もう永劫にさめる時がない、しかし考へて見ると、短いながらも、きみの生涯は、尊い生命の流れであった。その灌漑によって、琉球文化の荒野が、如何に濕されたか沃にされたかを思ふ時、今更敬虔の瞳に伏せて、きみの芳魂を弔はずにはおられない。きみの眠りは万人の惜しむ所である。君のからだは土にかへっても、きみの蒔いた種は、今に芽を吹き、花を咲かせ、実を結ぶであらう。それが無限の生命となって、きみの功績を拡げて行くであらう。きみ また以て冥すべしである。おい!末吉安恭、もうこれでおわかれしやう。左様ならを言はう。僕はここでしばらかの希臘神話にある、リアンダー①や、シークス②の青ざめた幻影を透して惨しいきみの最後を偲ぶ夜がつづくであらう。

□へレスポントス海峡(今のダーダネルス海峡)に面する街、セストスで愛の女神、アフロディティ(ヴィーナス)を祭る神殿の巫女をしていたヒーロー(ヘロ)は、ある祭典の日、海峡を挟んだ対岸の町、アビュドスからやってきた青年、①リアンダー(レアンドロス)と出会い、恋に落ちました。ダーダネルス海峡神殿の塔に住むヒーローは毎夜、明かりをともし、リアンダーはその明かりを目印にして海峡を毎夜泳ぎ渡ってきて、二人は逢瀬を重ねました。しかし、ある夜嵐となって、風はヒーローのともす明かりを吹き消し、海は荒れ、リアンダーは目標を失い、溺れ死んでしまいます。海岸で息絶えたリアンダーを見つけたヒーローは絶望のあまり、塔に駆け上って恋人の後を追って身投げしてしまいました。→「バラ咲く庭の物語」/テサリ王①シークスは妻のハルサイネが「この航海の嵐は激しく、風の衝突によって火を吹く」と述べて航海を思いとどまらせようとしたがシークスは出航した。船は目的地半ばで強い東風の中に突入、波濤の轟き、雨は空と海が一つになったように奔流となって降った。マストに落雷し、こなごなに、舵はこわれ波に呑まれた。

1925年1月 沖縄県教育会『沖縄教育』山城正忠「絵を描くある男との話ー師走のある日、午后のこと」
○・・・それに死んだ麦門冬のことを思ひ出して、さらでだに、心が晦くなっている矢先ですから、そういへば、末吉さんはほんとにお可哀想なことしましたね。全くです。つまらんことをして呉れました。これからがほんとうに、彼の生命の、ぐんぐん延びるところでした、だが一面から考へて見ると、彼らしい最後を遂げたとも言えます。『ねがはくは花の下にてわれ死なん』といふ句を、套句のやうに讃仰していましたからね。なるほど。そんなことがあったとしたら、彼が生前に讃仰していた、涅槃にはいったわけですね。そうです。・・・

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歯科医・山城正忠


山城正忠

写真左から山城正忠、国吉真哲、糸数祥運、宮城長順/扁額「護国寺」は汪楫(1621頃~1689尚貞の冊封正使。字は舟次。安徽省休寧県の人。冊封時の官は翰林院検討。1683年に林麟とともに来琉した。『中山沿革志』『使琉球雑録』『冊封疏鈔』を著す)の書

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2014年12月2日『沖縄タイムス』「東京都写真美術館 山田實さんの作品収蔵」
2014年12月3日『琉球新報』「山田實さん作品収蔵 都写真美術館 30点、県民活写」
2014年12月3日『琉球新報』仲嶺絵里奈「『モノ』がアーカイヴされるまで」

2014年12月3日『琉球新報』仲嶺絵里奈「『モノ』がアーカイヴされるまでーシンポに寄せて」
2014年12月7日 沖縄県立博物館・美術館講座室「シンポ・『モノ』がアーカイヴされるまでー沖縄における芸術資料をめぐって」。山田勉氏参加



金子隆一「『モノ』がアーカイヴされるまで」


トークセッション:左から仲嶺絵里奈さん(聞き手)、金子隆一、翁長直樹、大山健治の諸氏


2014年12月19日『琉球新報』「戦後沖縄 色鮮やか 50年ごろ GHQ撮影50点発見ー写真家の山田實さん(96)=那覇市=は『当時は米軍基地から質流れになったネガフィルムがようやく流通するような時代。コダクロームは高級品で、しかも東京やハワイなどでしか現像できなかった。当時の状況を鮮明に知ることができ、貴重な写真だ』と説明した。元報道カメラマンの池宮城晃さん(65)=那覇市=がインターネットのオークションサイトを通じ、米国メーン州の出品者から入手した・・・」

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1920年代、琉球史随筆で大衆を喜ばせた新聞人、末吉麦門冬が24年11月に水死した。その追悼文で島袋全発は「友人麦門冬」と題し「私共の中学時代 客気に駆られ一種の啓蒙運動をなしつつあった頃 麦門冬は蛍の門を出でず静かに読書に耽って居た。あの頃の沖縄は随分新旧思想の衝突が激しかったが物外さんを初め私共の応援家も頗る多かった。氏も恐らく隠れたる同情者の1人であったに違いない。其後私が高等学校に入ってから氏と交わる様になったが一見旧知の如くやはり啓蒙運動家の群の1人たるを失わなかった。私共は苦闘して勝った。啓蒙運動とは何ぞと問われたら少し困る。文化運動と云ってもいい。それを近いうちに麦門冬氏が書くと云っていたそうだが遂に今や亡し。該博なる智識そのものよりも旺盛」なる智識欲が尊い。そして旺盛なる智識欲よりも二十年諭らざる氏の友情は更に尊い。私は稀にしか氏とは会わなかった。喧嘩もした。然し淡々たること水の如くして心底に流動する脉々たる友情はいつでも触知」されていたのである。去年の今頃は私の宅で忘年会をした。そして萬葉集今年の山上憶良の貧窮問答「鼻ひしひしに」や「しかとあらぬひげかきあげし」やに笑い した後 矢張り啓蒙運動の話に夢中になった。今年の春は大根の花咲くアカチラを逍遥し唐詩選の句などを口吟、波之上の茶亭に一夜の清遊を試み歓興湧くが如くであった。せめて晩年の往来をしたので良かったと思う。麦門冬氏の如き詩人は多い。氏の如き郷土史家は少ない。氏の如き友情に至っては今の世極めて稀。今や忽焉として亡し。噫」。

全発のペンネーム西幸夫は山城正忠が命名した。山城も追悼文「麦を弔う」を書いている。全発は戦後、東恩納寛惇の『南島風土記』の書評の中で「山城正忠君が上の蔵で初めて歯科医を開業した頃(1917年)、文学青年仲間の末吉麦門冬も居た。私が『お互い沖縄の郷土史もやって見ようではないか』と提唱したら麦門冬君が言下に『郷土史は殆ど研究の余地が無い。大日本地名辞書の琉球の部に全部収められている』と云った」ということを書いている。

1890年の『沖縄県統計書』を見ると、旅籠屋は那覇6、首里19.書肆は那覇と首里で2。写真屋は那覇2、首里2。蕎麦屋は那覇、首里3。古道具屋は那覇2、首里5であった。そのころ那覇にあった主な料理屋は海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤であった。93年9月に『琉球新報』が創刊。94年に日清戦争が始まった。95年には奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』が刊行された。96年、台湾が日本に領有されると、那覇の主な料理屋は台湾に移った。いろは亭、玉川屋、東家は残った。

1900年4月、東京沖縄青年会主催で「平良保一君卒業記念会」があった。その集合写真を見ると、当間重陳、東恩納寛文(寛惇の兄)、伊波普猷、伊波普成、伊江朝助、渡久地政瑚らの、後に沖縄新聞界を背負う面々がいる。この青年会には諸見里朝鴻や東恩納寛惇も出入りした。寛惇はやがて青年会の中心的存在となっていく。当間重陳は1904年に琉球新報記者を経て08年12月に『沖縄毎日新聞』を創刊する。11年、那覇区長に就任した。

濤韻・島袋全発は沖縄県立中学校を1905年に卒業。同期生に伊波普助、勝連盛英、古波倉正栄、佐渡山安勇、安元実発、千原成梧、山城正忠、仲宗根玄愷らが居た。1期先輩に志喜屋孝信が居た。全発は第七高等学校造士館を経て、京都帝大法科大学を1914年に卒業。帰郷して沖縄毎日新聞記者を経て15年4月、那覇区書記、18年、那覇市立商業学校教諭。23年、那覇市立実科高等女学校(27年、沖縄県立第二高等女学校と改称)校長。35年7月に沖縄県立図書館長に就任、40年までつとめた。以上が略歴である。

島袋全発の琉球学の歩みを見る。京都帝大卒業前後のころ、『沖縄毎日新聞』の文芸評論に全発は「解放は破壊と同時に建設であらねばならぬ。破壊のみを以って快なりなすは、無人格、無理想を意味する。破壊には悲しみが伴う。故に建設なき破壊の落ち付くところは、只、茫寞たる悲愁である。頽廃である。灰色の海である。寄るべき港のない放浪である。漂泊である。そこに矛盾がある。昔恋しさの追懐がある」と書いている。

また「民族性と経済との関係を論ず」と題して「特定の統治権に支配せらるる多数人類の団体を国民と云ふ。故に朝鮮人や台湾人や樺太人も皆日本国民であるけれども大和民族ではない。然らば琉球人は何であろう。琉球人はむろん日本国民であるけれども大和民族であるとするのには疑いがある」とも書いている。

1912年2月、伊波普猷は『古琉球』3冊を柳田國男に贈った。柳田は『郷土研究』を創刊した13年の3月に伊波に「琉球の貴重文書の刊行」についての書簡をおくっている。それから程なく沖縄県庁では筆耕に命じて「中山世譜」「球陽」などを写本させた。14年、伊波は真境名安興とともに大味沖縄県知事より沖縄県史編纂委員に任じられている。15年、沖縄県史編纂事務所(真境名安興主任)が沖縄県庁から県立沖縄図書館に移された。沖縄県庁が写本した資料は沖縄図書館の資料と重複する。そこへ伊波、真境名の共通の友人、麦門冬・末吉安恭が出入りする。重複した県庁の写本は麦門冬が貰い受けた。後に麦門冬はそのひとつ「球陽」を南方熊楠に贈る。

1921年6月、新潟県佐渡郡真野村生まれの島倉龍治が那覇地方裁判所検事正として赴任。島倉は在任中、地方文化を重視、人心を一つにするための県社(沖縄神社)の創立を企てた。県社は丸岡知事のとき奥武山に源為朝、舜天王を祭神として祀る計画があった。日比知事のときも尚泰侯爵を加えて祭神としての創立を試みたが何れも実現しなかった。22年1月、島倉は真境名安興らと沖縄史蹟保存会を創立、東宮行啓記念碑をはじめ20の記念碑を建碑。島倉は23年3月に、和田知事の賛成、沖縄県会・首里那覇2市会の賛同、尚侯爵、尚男爵の賛助を得て、内務省より県社沖縄神社創立許可を得た。それを置土産に4月、甲府に転任した。島倉は6月、真境名安興の『沖縄一千年史』を共同名義で日本大学から発行せしめた。

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1914年1月ー横山健堂『薩摩と琉球』中央書院

1914年1月ー横山健堂『薩摩と琉球』中央書院○吾輩、那覇を発するに臨み、麥門冬、一巻の詩稿を携へ来たりて示す。試みに其の大半を摘読するに、逸気迸しる。吾輩琉球に入りて、詩篇の奇なる、此如きものを未だ見ず。恐らくは琉球の文学史に特筆すべき一詩人なるべし。乃ち、麥門冬に請ひ、借り得て船中に読む。毛有慶の遺稿也。○吾輩が、「泡盛」を愛好するの故を以て、球陽の俳人麥門冬、吾輩に餞するに家蔵の『椰子小』を以てす。



 写真中央が横山健堂ー右から伊波普猷、知花朝章、當眞嗣合、親泊朝擢、太田朝敷、崎濱秀主、伊是名朝睦、前列右が伊江朝助
1915年7月 健堂・横山達三『山水と人物』□「琉球の女」以文館





横山達三・葉書(新城栄徳蔵)

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