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Category: 04-書の森
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1928年7月 『南島研究』第三輯
口絵「琉球の結婚風俗」
編輯者より・・・西平賀譲
▽研究・雑録△
禊祓の形式に就いて・・・島袋全発/那覇の婚姻風俗・・・①渡口政興/首里貴族の婚礼記録(摩文仁御殿所蔵)/御評定所の定・王子衆以下娘婚礼之時衣類並諸道具定(県立図書館蔵)/伊江島の結婚風俗・・・名嘉原幸吉/金武の結婚風俗ー字金武並里の部・・・宜里座清英/婚姻とチレームン/伊平屋島の結婚・・・知念正英/国頭郡羽地村字源河地方・・・山城宗雄/外人の琉球婚姻観ーチャンバアレン博士の著書に現れたる琉球人の婚姻風俗ー(渡口政興・記)/萬葉歌と琉歌(下)・・・エス、エス生/郷土研究者の取るべき態度(青年と学問より 柳田国男)/「いも」の語源に関する宮良氏の論文/奥野彦六郎氏送別座談会ー本会会員判事奥野彦六郎氏の送別会を兼ね婚姻土俗の座談会が同人発起で5月29日午後2時から第二高女内で開催された。太田朝敷氏、眞境名図書館長、伊礼代議士、神田主事及び第二高女職員などが集まって静かな話の会であった。(略)
▽資料△
1、琉球國中山世譜/1、球陽遺老説伝/1、東汀随筆
通信
奥野氏より島袋全発氏へ/其他、大久保恒次氏(大阪)山田次郎氏(羽地)アグノエル氏(日仏会館)等からの来信がありました。/会員名簿

①渡口政興(1945年4月17日、奈良県で没
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写真左より渡口政興、山城正忠、宮城長順、祥雲・糸数昌運/國吉眞哲(翁長良明コレクション携帯090-3793-8179)
1935年1月1日『沖縄日報』渡口政興「舞踊おぼえがき」


1928年11月 『南島研究』第四輯
口絵「進貢船の那覇港解纜」 
▽史論・雑録△
北谷親方一件・・・東恩納寛惇/琉球語より見たる結婚の習俗・・・宮城眞治
▽資料△
1、琉球國中山世譜/2、球陽遺老説伝/3、東汀随筆

通信
奥野氏より島袋全発へ/中山太郎氏より西平氏へ/小松原敏氏より西平氏へ
○中山太郎の書簡「老生儀今春以来『日本婚姻史』の執筆を思ひ立ち漸く最近脱稿致し書肆春陽堂より発行の予定にて原稿手交少閑を得たるまま湘南地方へ遊びに参り帰宅致し候処『南島研究』第三輯に接手し拝見(略)南島の婚姻に関しては在京中の伊波普猷、東恩納寛惇、金城朝永、島袋源七、比嘉春潮の各先輩より承り、これに故学友佐喜真興英氏の著作等により一通り記之置き候が、更に貴誌を拝見するに及んで大いに発明もし更に訂正すべき点も発見致し候。校正の折りには出来るだけ御好意に添うべく期し居候」が載っている。

1929年3月 『南島研究』第5輯
口絵「名護の墳墓」「籾摺り」「米搗き」
▽史論・研究△
名護城考・・・島袋源一郎/出産の儀礼・・・島袋全発/琉球語の特権階級に於ける儒教の影響
▽資料△
1、琉球國中山世譜/2、球陽遺老説伝/3、東汀随筆
通信と寄贈雑誌
○島袋源一郎氏より島袋全発氏へ/慶應義塾図書館より本会へ/○本年中本会への寄贈雑誌は左の通りでありました。厚く御礼を申上げておきます。民俗研究(其社) 旅と伝説(三元社) あく趣味(文献研究会) 岡山文化資料(改題1号 文献研究会)

1930年8月 島袋全発『那覇変遷記』(協力:世界社の饒平名智太郎・南島研究会同人・比嘉時君洞、装幀:渡口政興・原義人、校正:金城朝永)沖縄書籍株式会社

1931年1月6日 眞境名安興ら発起による沖縄郷土研究会「第一回研究座談会」

1932年1月18日 第七回郷土研究座談会(第二高女)で濱田耕作「沖縄を考古学的に大観して」と題して講演/3月 國吉眞哲琉球新報記者と浦崎康華沖縄日日新聞記者が崎樋川の畑地で数個の磨石斧、土器を見つけ眞境名安興に報告

1933年3月 沖縄郷土研究会「劇聖・玉城朝薫二百年祭」を首里城漏刻門前で開催。/4月 琉球新報連載小説「熱帯魚」山里永吉・作 金城安太郎・挿絵/4月 東京で第14回南島談話会、参加者・喜納緑村、森田永吉、久志芙沙子ら/6月 『大南洋評論』2号(編集人・仲原善徳、編集発行人・仲宗根源和)金城朝永「南洋関係図書目録」/7月 仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』/12月28日 眞境名安興死去。東恩納寛惇弔電「学界の為め哀惜に堪へず」

1934年4月27日 皇太子殿下御降誕記念事業を目的に沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体「沖縄郷土協会」を結成、会長に太田潮東

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芙美子夫人、娘の前田ちひろ那覇市議会議員 

同志社大学入学のためとったパスポート


前田政明氏の手帳


右が前田政明氏


右が前田政明氏

右が前田政明氏


前田千尋 日本共産党那覇市議会議員
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○2012-6-20昨日、沖縄県立図書館に行く途次、クルマを運転していた京都時代から交友がある前田氏の奥さんに出合った。しばらく行くと今度は前田氏の娘さん(京都時代に赤ん坊のころから知っている)が父親の選挙応援のマイクを握っていた。さて、本日は県議選の投開票である。新報、タイムスも社説で、ノダ首相の原発再稼働表明について「神話の盲信を繰り返すのか」(新報)「時計の針を元に戻すな」「会見で首相は『原発は重要な電源』と言い添えている。これでは脱原発に本気で取り組む気はない」(タイムス)と正論を述べている。そのノダドジョウと息が合っているのが沖縄カジノチジ県政。果たしてオキナワ県民(自衛隊員も含む)はどう捉えているか、「沖縄のこころ」がまだ生きているのか今日判明する。もちろん泊小で前田氏に投票したのは言うまでもない。

〇2013-2-24沖縄文化の杜で24日昼。平良社長と粟国島からの帰りのフェリーで一緒だった故・白保館長の思い出を話していたら、テレビから前田氏死亡のニュースが飛び込んできた。夕方前田氏の自宅を訪ねたら不在。真喜志好一氏も来ていた。

〇沖縄県議 妻と釣り中に死亡
 24日午前5時すぎ、沖縄県本部町崎本部の港の護岸で釣りをしていた、沖縄県議前田政明さん(65)がいなくなったと、妻が119番した。県警や地元消防が捜索、午前5時20分ごろに前田さんが海に浮いているのが見つかり病院に搬送したが、死亡が確認された。本部署によると、前田さんは妻と一緒に釣りに来ていた。妻は午前3時半ごろに前田さんの姿を見ており、その後に誤って海に転落した可能性があるとみて調べている。(スポーツニッポン)


左が前田政明氏

○2004年5月22日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網(23)・『都沖青』結成のころ」
□(略)魔都・新宿ではダダとかシュールに凝っていたが、1969年、京都に移ると伝統文化を考えるようになり、沖縄出身の学生たちと「都沖青」を結成した。そのころの友人に大城敬人氏(現・名護市会議員)や前田政明氏(元・那覇市会議員)が居た。前田氏は私の職場(京都駅近鉄名店街・紅屋)で皿洗いのバイトもやった。大城氏や前田氏が「人民に奉仕する」という責任感を、無責任に「自己責任」と騒ぐ世にも持ち続けているのには驚く。

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写真ー『南島研究』

南島研究発刊について
世界の文明が、地中海からして大西洋に移り、それから今や漸く太平洋に転ぜんとしつつあるといふ、所謂過渡期に於いて、この太平洋に裾を洗われて居る我が日本の先覚者が、太平洋問題を提げて学界に馳駆せようとせらるることは、近来の痛快事である。これ地中海①に七十倍し、大西洋に二倍するといふ、范々たる大海原のうちには、あらゆる気候とあらゆる人種、あらゆる文化が宝蔵されて居るからである。而して九州の南端から奄美大島を貫いて、東北よりして西南に延び、数十顆の連珠のやうな大島小嶼が、宮古島を経て八重山島の与那国島に至って尽き、この面積が百三十九万里を算しているのが、即ち我が沖縄群島である。この外にも、今から三百余年前に、政治的に切り離されて、鹿児島県に隷属して居る奄美大島諸島も、亦天然の配置としては、往古より琉球王の治下に属し、その人情風俗言語習慣などより考察しても、純然たる琉球人であることは、誰しも首肯せられるだろうと思われる。これらの群島は、東は一帯に太平洋に面して、北は鹿児島県に隣接し、南は一衣帯水の台湾と相呼応し、西は海を隔てて南支那の福建省と相対峙し、而して西南の方は遥かに南洋群島を顧望して居るのであるから、面積の割合にその拡がりは、なかなか大きいように観ぜられるのである。これらの主島が、今日の所謂沖縄島で、我邦本土では、既に一千余年前に於いて、阿児奈波島として知られ、国史とも多くの交渉を保って居るようである。のみならず記録にあらわれた時代からしても、既に五六百年から支那本国や安南、暹羅、馬刺加、朝鮮なども交通し、また爪哇や、比律賓などの南洋諸国とも貿易をやっていたのであるが、之れらは今から三百余年前の所謂薩摩と附庸関係を生じた慶長の役を末期として断絶してしまったのである。

斯やうに沖縄は、往古からして我が本土とは勿論密接な関係があり、また支那本国や南洋諸島などとも関係を有していたために、之れらの影響をうけたのであらうか、一種独特の文化を生んだ一島国であったのである。が交通が不便で顧みられなかったために、今古千年の夢は封ぜられ、恰も武陵桃源のやうな仙境にあったので、外界から能くその真相を知られる機会がなかったのである。それが、幸か、不幸か、その地理的環境のために、能く外国の文化を我が本土に伝へる中継場となると同時に、また我が本土の古文明を忠実に保存する倉庫のやうな、作用をなしていたのである。併しかやうな、神秘的な島国も、廃藩置県後の文明の風潮には、抵抗することが出来なかったやうで、所謂新文明の醗酵すると共に、古琉球の文化は危機に瀕した時代もあったのである。即ち一知半解の徒輩が琉球研究を以て復古思想の再燃と誤解し、古文書の棄却や、名所旧跡の破壊が到る所で企てられ、将に薩州治下に於ける、奄美大島の覆轍を踏まふとしたのであった。

此時に当ってー即ち明治二十五六年頃ー県の中学校に教鞭を執られて居った田島利三郎氏や新田義尊氏や黒岩恒氏などが、琉球の過去現在に趣味を持たれて、その歴史や、歌謡言語及び自然科学などの研究をはじめ出して、漸くこれが価値づけられて、彼等の自覚を促がしこれと前後してわが分科大学講師のチャンバレン氏等も亦渡琉せられて研究をされたのである。是から引きつづいて幣原坦博士や、鳥居龍蔵博士・金沢庄三郎博士なども来県されて、各部門の研究を発表され、暗黒なる琉球が漸く光明へ出されるやうになったのである。而してこれより先土着の沖縄人にも、亦故喜舎場朝賢翁や山内盛憙翁などのやうな郷土研究家もあったけれども、之れが最も高潮されたのは明治の末期からで、即ち畏友伊波普猷氏や、東恩納寛惇氏や、故末吉安恭氏等の研究であったやうに思はれる。これから、古琉球の文化が漸く識者の間に認めらるるやうになったが、未だ一般には徹底しないで疑心を以て迎へられたようであった。然るに最近に至り、柳田国男氏や、伊東忠太博士、黒板勝美博士等の来県があり、これら巨擘を中心として在京諸友は勿論県外の人では、畏友鎌倉芳太郎氏などが、その専門の立場からして、熾に中央で琉球の文化を紹介せられ、又南島談話会なども生まれて東都に於ける琉球研究者の機関も出来るやうになり、殊に啓明会などの財団法人もその研究に同情されて資金を投ぜられ、これで一層鼓吹されたやうに思はれる。

而して琉球研究は、その本場を離れて、中央に持ち出された喜ばしい現象であるが一方郷土に於ても亦之れが閑却せられているといふ訳ではない。逐年この種の研究や紹介は、却って熱烈さを加へて進んでゆくやうであるけれども、之れが機関となるべき定時刊行物がなかったのを最も遺憾とする次第であった。然るに、今回微力を揣らず、吾々同人が主となって、此の「南島研究」といふ小冊子を刊行する機運になlったのは、相互にその研究を援助してこれを発表批判すると同時に、広くこの種研究家の声援を得て、その内容を豊富にし、且つ琉球に関する、滅びゆく古今の研究資料を蒐集して附録とし、広く一般学界の参考に供したい為である。この恵まれたる地理的環境からして、日支文明の交叉点ともいはれまた我邦文化の中継所となり、倉庫ともなった南島、即ち奄美大島から八重山の先端与那国島までの島彙が吾々の研究に資すべき舞台面である。が、この未開拓の曠野からして、何か新生命が見出されて、我が学界に光を投じ得るや否やは、未来の問題で、切に識者各位の熱誠なる御同情と、御後援を待つばかりである。  十一月廿日  県立図書館郷土資料室にて  真境名安興

写真ー真境名安興

目次
口絵「泉崎及び金武の火神」

○編集者よりー資料や文献は割拠して居る、系統的に出来た索引のないことはその資料及文献の蒐集に不便な、地方の孤独な研究家をただ空しき努力に終わらせるばかりだ。と云ふことはしばしば吾等が聞く言葉でありました。即ち既に何人かの手によって研究、発表せられた事柄を、これから準備し、これから研究し、かくて仔々倦まざる多年の努力が空しき結果に終ると云ふことになると、本人ばかりの失望でなく、同じ研究者の一員としても見るに忍びないところであります。かくの如き有様でありますから、われらの念頭からは絶えず、何等かの方法で、かかる孤立の研究者たちと連絡をとり、各自の分担的研究を漸次進めて行きたいと云ふ念が去りませんでした。

 そこに生まれたのが南島研究でした。なるほど本誌は小冊子ではあり、特に南島研究と銘をうってはありますが、吾等は目を睜つて南島を見たい、そして南島から広い世界を見たいのであります。本誌の主義も、事実の忠実なる採録、文献の尊重と比較研究法の正確を期することに重きを置きたいものだと思って居ます。かくて本誌は読者諸君の本誌であり、又諸君の薀蓄を傾け、互に幇助示導しつつ、吾等の拠るべき、向ふべき道を進んで行きたいのでありまして、吾等は零碎なる報告、交詢の類と雖も克明にこれを雑誌に網羅するに吝ではないのであります。吾等の雑誌は割拠もしなければ、対峙もしない、どこまでも吾等の過去及び現在の記録としたいものであります。

本誌の誇として特筆すべきは、古琉球に関するあらゆる史料の採録で、これのみにても既に一大事業ー吾等としてはーと云ふに恥じないつもりであります。本号から「琉球國中山世鑑」「球陽遺老説傳」「東汀随筆」の三種を採録しました。これは読者諸君の便をはかり、まとまった一冊の本に製本の出来る様に丁附を別にしてあります。

史論・雑録 
南島研究の発刊について・・・真境名安興/奈良帝室博物館の雲板について(琉球國王尚泰久の鋳造)・・・真境名安興/火神の象・・・奥野彦六郎/沖縄の士族階級・・・島袋全発/昔の蘇鉄地獄・・・T生/鬼餅伝説(ホーハイに就いて)・宜野湾新城のムーチー/歴史は繰返すー蔡温の林業政策ー/「あこん」に就いて・・・岩崎卓爾/萬葉歌と琉歌・・・エス・エス生

史料
1、琉球國中山世鑑 2、球陽遺老説傳 3、東汀随筆

通信
柳田國男氏より盛敏氏へ/伊波氏より島袋全発氏へ/東恩納氏より真境名笑古氏へ/岩崎氏より真境名氏へ

莫夢忌/1924年12月14日 『沖縄タイムス』仲吉朝助「嗚呼末吉君」
○此の二三十日来、私は俗務に追われて末吉君と面会せなかった。然るに去る9日の夕刻、突然に君の生命に関する不安の噂さを聞いたのでマサカとは思ったが先ず念のためにと君の親友なる小橋川南村君を夜中に訪ふた、南村方で漢那浪笛と小嶺幸欣君とそして主人が鼎座して悲痛の面持ちで打ち沈んでおったが、南村君は私に「只今末吉君を葬送して帰って来たばかりだ」と語ったが、私は自分の耳を疑って、2回も3回も繰り返して聴いて終に君が此の世の人でないことを知った。嗚呼末吉君、君には永久に逢うことが出来ぬのか、私は何とも形容の出来ぬ不安の心持ちでしばらく沈黙して、只だ自分の心臓が波高き鼓動を聞くのであった。吾々4人は沈み勝ちに君の在り世の事ども語りつつ私は夜半の1時過ぎに愴悽たる寒月の冷光に照らされて宅に帰ったが君の面影は眼前にチラついて殆ど夜明まで一睡もせなんだ。ドーしても私は末吉君の死んで居ることを信ずる事は出来ぬ、私の胸裏には今に末吉君は生きて居る、恐らくは苟も学芸の一端でも知って居る我が沖縄人の頭に君は永久に生きて居るであろう。

末吉君、博聞強記で特に琉球文学界の権威であったのは私の申すまでもないことで今更に喋々せぬ、君は天才であって同人間には可なり逸話も多い。私と君とは殆ど十六七年来の知り合いで、君と謹談した機会も相当に多いが、私は君より殆ど二十も年上である関係で君は九骨なる私に対しても常に先輩を以て過ごするので私としては愧ち入って居た、宴席などでも君は私などに対しては無邪気なイタヅラなどもせなかったので、私は君の逸話の材料を持って居ない。ソレ程君が私に対して尊敬の心持ちで交際して呉れた程私は君に対する哀悼を深刻に感ずる次第である。君は文芸上の趣味は頗る多い。この七八年間君は漢詩の研究にも手を染めて来た、私も漢に就いては下手の横好きで漢詩に関して君と数々話し合って居たが先月の中旬頃 図書館で君と面会した、コレは最後の面会であった、其の際 私は君に向かって「万葉」の講議を聞かして貰いたいと頼んだ処、君は謙譲の態度で二三回遠慮したがトウトウ私の持って居る清朝人の四五種の詩集を貸すとの交換条件で来年1月頃から君は私の為に「万葉」の講議をして呉れることを承諾して居た。嗚呼 私は永久に君の万葉講議を聴くことが出来なくなった。

タイムス社の上間君から末吉君に関する私の感想を書いて欲しいとの申込を受けて筆を執ったが、今に末吉君の面影が眼前にチラついて万感が胸に迫るので、私は筆を此辺で止める。嗚呼末吉君、君には果たして永遠に面会することが出来ないのか。

仲吉朝助(1867年4月6日~1926年9月3日)




本庄栄治郎 ほんじょう-えいじろう
1888-1973 大正-昭和時代の経済史学者。
明治21年2月28日生まれ。大正12年京都帝大教授。昭和17年大阪商大学長。戦後は上智大,大阪府立大の教授を歴任。近世日本経済史・経済思想史を専攻。日本経済史研究所を設立して後進の育成にもつくした。「本庄栄治郎著作集」がある。40年文化功労者。昭和48年11月18日死去。85歳。京都出身。京都帝大卒。(→コトバンク)





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小禄間切当間に生まれる。小禄小学校、那覇高等小学校、県立一中をへて陸軍士官学校に進み1916年に陸大卒業。同年から1918年まで福岡歩兵第24連隊の中隊長、24年は歩兵第6連隊で大隊長を務める。1936年退役、日本特殊軽合金社長となる。沖縄出身で唯一の陸軍少将であった。





1972年4月 長嶺亀助『自伝 只一人』
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大阪のワタナベ写真にてー左が渡辺憲央氏と真喜志康徳氏





渡辺憲央氏は、「球一二五一七部隊、独立高射砲二七大隊」の「第一中隊第二分隊」に所属し、那覇市小禄のガジャンビラ台地に据えられた高射砲で那覇軍港と小禄飛行場の防衛にあたっていた。大隊本部の壕で本部指揮班が酒宴を開いていたのは、菊水作戦が実施された日とあるので、4月6日頃のことである。すでに沖縄島に米軍が上陸し、連日空襲や艦砲射撃を受けているさなかで、日本軍の将校たちは〈軍紀も風紀もありゃせんぞ〉という状態であった。

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1997年3月 『詩歌集 那覇を詠う』那覇市 1000円
□琉歌、和歌、短歌、俳句、詩、漢詩や近世期の和文などの中から那覇(首里・真和志・小禄を含む)を詠んだ詩歌、または那覇からの眺望を題材とした詩歌を中心に選択して収録。

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右から生活美術部会長の岸本秋子さん、真喜志康徳氏、新城栄徳

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戦後69年目ー安倍政権とアメリカ黒人大統領は「沖縄占領69年」を更に百年目に向かって辺野古新基地を造ろうとしている。更には今のカジノ知事はもとより石垣市長、宜野湾市長、加えて浦添市長、沖縄市長も「核」付き疑惑の新基地に賛成派だ。ウチナーンチュよ、もういい加減ネタフリはやめよう。2014記

1977年4月 沖縄の雑誌『青い海』 №62 「33年目の沖縄戦と集団自決」


1985年 沖縄の雑誌『青い海』6月号 №142 「君はもう悲しみと怒りを忘れたか」
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3月12日に、国際通りの沖縄三越跡に「よしもと沖縄花月」がオープンするという。そこで古い吉本興業所属の岡田東洋・小菊(敏子ー1920年9月25日 ~2008年10月10日)を紹介する。

1971年4月『青い海』創刊号□「夫婦漫才ずっこけ青春”真似せんときや”吉本興業所属 岡田東洋・小菊」
1971年5月『青い海』5月号□「漫才人生『漫才30年そら泣き笑いですわ』吉本興業 岡田東洋・小菊」
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2004年8月19日ー『琉球新報』和宇慶勲「落ち穂ー先駆者 小菊師匠」
2004年9月1日ー『琉球新報』和宇慶勲「落ち穂ー師匠とのご対面」
2005年8月23日~25日ー『琉球新報』「沖縄漫才 小菊師匠一代記」
2005年11月ーわうけいさを『なんだこりや~沖縄!』ボーダーインク

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上ー左から2人目が岡田小菊さん(南風原で)
下ーワッハ上方(大阪府立上方演芸資料館)、東洋・小菊の名前があるポスター




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伊藤篤太郎蔵書印がある『中山傅信録』(翁長良明コレクション携帯090-3793-8179)
1997年3月 沖縄県教育委員会『沖縄県史研究紀要』第3号 当山昌直・小野まさ子「伊藤篤太郎琉球八重山列島動植物採集雑記の翻刻と解題」
伊藤篤太郎 いとう-とくたろう
1866*-1941 明治-昭和時代前期の植物学者。
慶応元年11月29日生まれ。伊藤圭介(けいすけ)の孫。明治17年イギリスに留学。28年鹿児島高等中学造士館教授,大正10年東北帝大講師となる。博物会の雑誌「多識会誌」を編集した。昭和16年3月21日死去。77歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。著作に「大日本植物図彙(ずい)」など。(→コトバンク)
2017年4月『熊楠WORKS』№49 郷間秀夫「南方熊楠と同時代人 伊藤篤太郎について」


1984年11月『オキナワグラフ』「なんと古銭8千点ー沖縄一の古銭収集家・翁長良明さん」



JTA機内誌『Coralway』「情熱あふれる沖縄屈指のコレクター 翁長良明」

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2012年5月ー『オキナワグラフ』「翁長良明コレクション」



2015年4月15日9時 NHK総合「ニュースウオッチ9」に翁長コレクション登場

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1974年7月 沖縄の雑誌『青い海』35号 川満信一「儀間比呂氏の世界」


1975年4月『沖縄読書新聞』創刊号 川満信一(詩人)岡本恵徳(琉球大学助教授)「対談・文学と思想としての戦後」


写真左から真久田正氏、中里友豪氏、川満信一氏、新川明氏/左から比嘉康文氏、川満信一氏、新城栄徳


岡本恵徳
 岡本恵徳氏は私の顔を見るたび「もっと奄美資料を発掘してくれ」が口癖であった。私は伯父や伯母の連れ合いが奄美出身であったから特に奄美を意識したことがないが、琉球文化には当然に奄美も入っていると思っている。奄美の図書館は島尾敏雄氏に会ってみたいと2回行ったが何時も休館だった。島尾敏雄氏には会えなかったが、その代わりといっていいか分からないが山下欣一氏に出会った。




2006年8月6日『琉球新報』岡本恵徳氏が死去 近現代沖縄文学研究で功績 71歳
 近現代沖縄文学研究の基礎を築いた琉球大学名誉教授で琉球新報児童文学賞選考委員の岡本恵徳(おかもと・けいとく)氏が5日午後7時25分、肺がんのため、那覇市立病院で死去した。71歳。平良市(現宮古島市)出身。自宅は那覇市首里大名町2ノ76。告別式の日程は未定。喪主は長女亜紀(あき)さん。
 「琉大文学」の創刊メンバーの1人で、米軍政に対する抵抗の文学を目指した。「琉球弧の住民運動」「けーし風」など草の根の市民運動にも参加。1982年から琉球大学教授。「現代文学にみる沖縄の自画像」(96年)で伊波普猷賞受賞。琉球新報短編小説賞2次選考委員。
 著書に「現代沖縄の文学と思想」(81年)、「沖縄文学の地平」(81年)、「『ヤポネシア論』の輪郭」(90年)、「沖縄文学の情景」(2000年)など。

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2003年9月 山下欣一『南島民間神話の研究』第一書房◇第一章「カンカカリヤー」と民間神話群の関連の検討 Ⅰ『南島説話』の検討・・・佐喜真興英が「東江長太郎君、この人は三十代の元気のよい青年で三世相を業としている」/1989年3月 東江長太郎『古琉球 三山由来記集』那覇出版社/1970年1月 島袋源七・佐喜真興英『山原の土俗・付南島説話』「歌を唄ったといふビジュル」沖縄郷土文化研究会

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写真ー沖縄県立芸術大学で左から新城栄徳、山下欣一氏、画家の石垣博孝氏


左から歌人の渡英子さん、山下欣一氏、新城栄徳/2003年9月 山下欽一『南島民間神話の研究』第一書房

山下欣一
1929年奄美大島生まれ。早稲田大学法学部中退、アメリカ・インディアナ大学民俗学研究所に学ぶ。文学博士。奄美沖縄民間文芸研究会特別委員。著書『奄美説話の研究』『奄美のシャーマニズム』など。竹富島の代表的な神様・ネーレカンドの伝承と根原家のこと、ネーレカンドを与那国島から迎えた出来事などを調査し、神話の再生についての諭文を執筆された。
著書
「奄美のシャーマニズム」(弘文堂)
『南島説話生成の研究』(第一書房)
『奄美のシャーマニズム』(法政大学出版局)
など多数。


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3月5日地元紙2紙にさんしんの日に辺野古新基地強行現場の米軍キャンプ・シュワブゲート前でも、国営暴力団沖縄県警がテントが撤去され小雨のなかで20人がさんしんを演奏と報じていた。


辺野古新基地NO

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3月8日10:00~17:00 沖縄県民アトリエ「にーにー・ねーねーが語る沖縄のサンゴ礁~若手研究者によるサンゴ礁紹介」

Category: 04-書の森
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山田實さん、さやか、ひより

山田實さん、ひより