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Category: 04-書の森
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伊藤篤太郎蔵書印がある『中山傅信録』(翁長良明コレクション携帯090-3793-8179)

1997年3月 沖縄県教育委員会『沖縄県史研究紀要』第3号 当山昌直・小野まさ子「伊藤篤太郎琉球八重山列島動植物採集雑記の翻刻と解題」

伊藤篤太郎 いとう-とくたろう
1866*-1941 明治-昭和時代前期の植物学者。
慶応元年11月29日生まれ。伊藤圭介(けいすけ)の孫。明治17年イギリスに留学。28年鹿児島高等中学造士館教授,大正10年東北帝大講師となる。博物会の雑誌「多識会誌」を編集した。昭和16年3月21日死去。77歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。著作に「大日本植物図彙(ずい)」など。(→コトバンク)

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1928年7月 『南島研究』第三輯
口絵「琉球の結婚風俗」
編輯者より・・・西平賀譲
▽研究・雑録△
禊祓の形式に就いて・・・島袋全発/那覇の婚姻風俗・・・①渡口政興/首里貴族の婚礼記録(摩文仁御殿所蔵)/御評定所の定・王子衆以下娘婚礼之時衣類並諸道具定(県立図書館蔵)/伊江島の結婚風俗・・・名嘉原幸吉/金武の結婚風俗ー字金武並里の部・・・宜里座清英/婚姻とチレームン/伊平屋島の結婚・・・知念正英/国頭郡羽地村字源河地方・・・山城宗雄/外人の琉球婚姻観ーチャンバアレン博士の著書に現れたる琉球人の婚姻風俗ー(渡口政興・記)/萬葉歌と琉歌(下)・・・エス、エス生/郷土研究者の取るべき態度(青年と学問より 柳田国男)/「いも」の語源に関する宮良氏の論文/奥野彦六郎氏送別座談会ー本会会員判事奥野彦六郎氏の送別会を兼ね婚姻土俗の座談会が同人発起で5月29日午後2時から第二高女内で開催された。太田朝敷氏、眞境名図書館長、伊礼代議士、神田主事及び第二高女職員などが集まって静かな話の会であった。(略)
▽資料△
1、琉球國中山世譜/1、球陽遺老説伝/1、東汀随筆
通信
奥野氏より島袋全発氏へ/其他、大久保恒次氏(大阪)山田次郎氏(羽地)アグノエル氏(日仏会館)等からの来信がありました。/会員名簿

①渡口政興(1945年4月17日、奈良県で没
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写真左より渡口政興、山城正忠、宮城長順、祥雲・糸数昌運/國吉眞哲(翁長良明コレクション携帯090-3793-8179)
1935年1月1日『沖縄日報』渡口政興「舞踊おぼえがき」


1928年11月 『南島研究』第四輯
口絵「進貢船の那覇港解纜」 
▽史論・雑録△
北谷親方一件・・・東恩納寛惇/琉球語より見たる結婚の習俗・・・宮城眞治
▽資料△
1、琉球國中山世譜/2、球陽遺老説伝/3、東汀随筆

通信
奥野氏より島袋全発へ/中山太郎氏より西平氏へ/小松原敏氏より西平氏へ
○中山太郎の書簡「老生儀今春以来『日本婚姻史』の執筆を思ひ立ち漸く最近脱稿致し書肆春陽堂より発行の予定にて原稿手交少閑を得たるまま湘南地方へ遊びに参り帰宅致し候処『南島研究』第三輯に接手し拝見(略)南島の婚姻に関しては在京中の伊波普猷、東恩納寛惇、金城朝永、島袋源七、比嘉春潮の各先輩より承り、これに故学友佐喜真興英氏の著作等により一通り記之置き候が、更に貴誌を拝見するに及んで大いに発明もし更に訂正すべき点も発見致し候。校正の折りには出来るだけ御好意に添うべく期し居候」が載っている。

1929年3月 『南島研究』第5輯
口絵「名護の墳墓」「籾摺り」「米搗き」
▽史論・研究△
名護城考・・・島袋源一郎/出産の儀礼・・・島袋全発/琉球語の特権階級に於ける儒教の影響
▽資料△
1、琉球國中山世譜/2、球陽遺老説伝/3、東汀随筆
通信と寄贈雑誌
○島袋源一郎氏より島袋全発氏へ/慶應義塾図書館より本会へ/○本年中本会への寄贈雑誌は左の通りでありました。厚く御礼を申上げておきます。民俗研究(其社) 旅と伝説(三元社) あく趣味(文献研究会) 岡山文化資料(改題1号 文献研究会)

1930年8月 島袋全発『那覇変遷記』(協力:世界社の饒平名智太郎・南島研究会同人・比嘉時君洞、装幀:渡口政興・原義人、校正:金城朝永)沖縄書籍株式会社

1931年1月6日 眞境名安興ら発起による沖縄郷土研究会「第一回研究座談会」

1932年1月18日 第七回郷土研究座談会(第二高女)で濱田耕作「沖縄を考古学的に大観して」と題して講演/3月 國吉眞哲琉球新報記者と浦崎康華沖縄日日新聞記者が崎樋川の畑地で数個の磨石斧、土器を見つけ眞境名安興に報告

1933年3月 沖縄郷土研究会「劇聖・玉城朝薫二百年祭」を首里城漏刻門前で開催。/4月 琉球新報連載小説「熱帯魚」山里永吉・作 金城安太郎・挿絵/4月 東京で第14回南島談話会、参加者・喜納緑村、森田永吉、久志芙紗子ら/6月 『大南洋評論』2号(編集人・仲原善徳、編集発行人・仲宗根源和)金城朝永「南洋関係図書目録」/7月 仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』/12月28日 眞境名安興死去。東恩納寛惇弔電「学界の為め哀惜に堪へず」

1934年4月27日 皇太子殿下御降誕記念事業を目的に沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体「沖縄郷土協会」を結成、会長に太田潮東
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芙美子夫人、娘の前田ちひろ那覇市議会議員 

同志社大学入学のためとったパスポート


前田政明氏の手帳


右が前田政明氏


右が前田政明氏

右が前田政明氏


右が前田政明氏

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沖縄文化の杜で左から平良知二氏、糸数 慶子さん、上原徹氏、糸数隆氏


2015年4月3日『琉球新報』仲里なぎさ(文化の杜共同企業体・学芸員)「写真展/二人が撮えた沖縄 終わらない戦後」


○2015年3月 『大城弘明写真集・鎮魂の地図ー沖縄戦・一家全滅の屋敷跡を訪ねて』未来社 2800円+消費税
○山城博明 『抗う島のシュプレヒコール ー OKINAWAのフェンスからー 』岩波書店2015年3月
米軍占領下から日本へ復帰した沖縄の姿を,在沖新聞社を代表する報道カメラマンが,40年以上接写してきた.いまなお米軍基地問題に蹂躙され,本土の政治に翻弄される沖縄.“本土並み”の真実と欺瞞に迫る.貴重な歴史的報道写真に詳細なキャプションを付し,沖縄の現在を知る資料性の高い一冊.カラー写真多数.



2010年8月 『大城弘明写真集・地図にない村』未来社 3800円+消費税


2015年3月 仲里効『眼は巡歴するー沖縄とまなざしのポリティーク』未来社□第一部 ゼロに萌えるー山田實の帰還とリアリズム/記憶の地図の測量士ー大城弘明のイクサと時代


1998年1月 『山城博明写真集・報道カメラマンの見た復帰25年 OKINAWA 沖縄』琉球新報社
2012年5月 写真・山城博明/解説・波平勇夫『琉球の記憶 HAZICI 針突』新星出版
2012年9月 写真・山城博明/解説・宮城晴美『「集団自決」消せない傷痕』高文研
2013年8月 撮影・山城博明/解説・花輪伸一『琉球の聖なる自然遺産 野生の鼓動を聴く』高文研


ある日の東松照明氏を囲んでー後列左から4人目が大城弘明氏、5人目が山田實さん。前列中央に腰掛けているのが山城博明氏
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1926年3月 那覇で沖縄青年同盟発会/5月 大宜味朝徳、埼玉で『沖縄及沖縄人』創刊。5月 渋沢敬三、志賀重昴来沖/7月 京浜沖縄県学生会機関誌『南島』発刊。9月 スタール(御札博士)来沖。11月 眞境名安興、上京し明正塾での歓迎会に参加、「沖縄人の特徴とそれを伸ばす方法について」と題し講演。
1927年2月 慶世村恒任『宮古史伝』(南島史蹟保存会)/5月 文芸雑誌『セヴン』(編集兼発行人・岩崎卓爾)/9月 茂野幽考『奄美大島民族誌』(岡書院)/12月 新垣金造『世界之沖縄』沖縄内外通信社。
1928年1月 東京で『旅と伝説』創刊/1928年2月 南島研究会『南島研究』創刊号


写真ー『南島研究』
1928年5月 『南島研究』第2輯
口絵「二童敵討」
編輯者より・・・西平賀譲
▼研究・雑録
雀をクラと云ふこと・・・柳田国男/組踊と能楽との考察・・・眞境名安興/沖縄の士族階級・・・島袋全発/琉球史研究の変遷/雀に関する童謡/銘刈子の中の「子守歌」
:資料:
1、琉球國中山世譜/2、球陽遺老説伝/3、東汀随筆

通信
京大本庄栄治郎博士①より本会へ/伊波普猷氏より島袋全発氏へ/金城朝永氏より眞境名安興氏へ/宮良當壮氏から西平賀譲氏へ/冨名腰義珍氏から西平賀譲


下ー本庄栄治郎宛の仲吉朝助書簡
①本庄栄治郎 ほんじょう-えいじろう
1888-1973 大正-昭和時代の経済史学者。
明治21年2月28日生まれ。大正12年京都帝大教授。昭和17年大阪商大学長。戦後は上智大,大阪府立大の教授を歴任。近世日本経済史・経済思想史を専攻。日本経済史研究所を設立して後進の育成にもつくした。「本庄栄治郎著作集」がある。40年文化功労者。昭和48年11月18日死去。85歳。京都出身。京都帝大卒。(→コトバンク)

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写真ー『南島研究』

南島研究発刊について
世界の文明が、地中海からして大西洋に移り、それから今や漸く太平洋に転ぜんとしつつあるといふ、所謂過渡期に於いて、この太平洋に裾を洗われて居る我が日本の先覚者が、太平洋問題を提げて学界に馳駆せようとせらるることは、近来の痛快事である。これ地中海①に七十倍し、大西洋に二倍するといふ、范々たる大海原のうちには、あらゆる気候とあらゆる人種、あらゆる文化が宝蔵されて居るからである。而して九州の南端から奄美大島を貫いて、東北よりして西南に延び、数十顆の連珠のやうな大島小嶼が、宮古島を経て八重山島の与那国島に至って尽き、この面積が百三十九万里を算しているのが、即ち我が沖縄群島である。この外にも、今から三百余年前に、政治的に切り離されて、鹿児島県に隷属して居る奄美大島諸島も、亦天然の配置としては、往古より琉球王の治下に属し、その人情風俗言語習慣などより考察しても、純然たる琉球人であることは、誰しも首肯せられるだろうと思われる。これらの群島は、東は一帯に太平洋に面して、北は鹿児島県に隣接し、南は一衣帯水の台湾と相呼応し、西は海を隔てて南支那の福建省と相対峙し、而して西南の方は遥かに南洋群島を顧望して居るのであるから、面積の割合にその拡がりは、なかなか大きいように観ぜられるのである。これらの主島が、今日の所謂沖縄島で、我邦本土では、既に一千余年前に於いて、阿児奈波島として知られ、国史とも多くの交渉を保って居るようである。のみならず記録にあらわれた時代からしても、既に五六百年から支那本国や安南、暹羅、馬刺加、朝鮮なども交通し、また爪哇や、比律賓などの南洋諸国とも貿易をやっていたのであるが、之れらは今から三百余年前の所謂薩摩と附庸関係を生じた慶長の役を末期として断絶してしまったのである。

斯やうに沖縄は、往古からして我が本土とは勿論密接な関係があり、また支那本国や南洋諸島などとも関係を有していたために、之れらの影響をうけたのであらうか、一種独特の文化を生んだ一島国であったのである。が交通が不便で顧みられなかったために、今古千年の夢は封ぜられ、恰も武陵桃源のやうな仙境にあったので、外界から能くその真相を知られる機会がなかったのである。それが、幸か、不幸か、その地理的環境のために、能く外国の文化を我が本土に伝へる中継場となると同時に、また我が本土の古文明を忠実に保存する倉庫のやうな、作用をなしていたのである。併しかやうな、神秘的な島国も、廃藩置県後の文明の風潮には、抵抗することが出来なかったやうで、所謂新文明の醗酵すると共に、古琉球の文化は危機に瀕した時代もあったのである。即ち一知半解の徒輩が琉球研究を以て復古思想の再燃と誤解し、古文書の棄却や、名所旧跡の破壊が到る所で企てられ、将に薩州治下に於ける、奄美大島の覆轍を踏まふとしたのであった。

此時に当ってー即ち明治二十五六年頃ー県の中学校に教鞭を執られて居った田島利三郎氏や新田義尊氏や黒岩恒氏などが、琉球の過去現在に趣味を持たれて、その歴史や、歌謡言語及び自然科学などの研究をはじめ出して、漸くこれが価値づけられて、彼等の自覚を促がしこれと前後してわが分科大学講師のチャンバレン氏等も亦渡琉せられて研究をされたのである。是から引きつづいて幣原坦博士や、鳥居龍蔵博士・金沢庄三郎博士なども来県されて、各部門の研究を発表され、暗黒なる琉球が漸く光明へ出されるやうになったのである。而してこれより先土着の沖縄人にも、亦故喜舎場朝賢翁や山内盛憙翁などのやうな郷土研究家もあったけれども、之れが最も高潮されたのは明治の末期からで、即ち畏友伊波普猷氏や、東恩納寛惇氏や、故末吉安恭氏等の研究であったやうに思はれる。これから、古琉球の文化が漸く識者の間に認めらるるやうになったが、未だ一般には徹底しないで疑心を以て迎へられたようであった。然るに最近に至り、柳田国男氏や、伊東忠太博士、黒板勝美博士等の来県があり、これら巨擘を中心として在京諸友は勿論県外の人では、畏友鎌倉芳太郎氏などが、その専門の立場からして、熾に中央で琉球の文化を紹介せられ、又南島談話会なども生まれて東都に於ける琉球研究者の機関も出来るやうになり、殊に啓明会などの財団法人もその研究に同情されて資金を投ぜられ、これで一層鼓吹されたやうに思はれる。

而して琉球研究は、その本場を離れて、中央に持ち出された喜ばしい現象であるが一方郷土に於ても亦之れが閑却せられているといふ訳ではない。逐年この種の研究や紹介は、却って熱烈さを加へて進んでゆくやうであるけれども、之れが機関となるべき定時刊行物がなかったのを最も遺憾とする次第であった。然るに、今回微力を揣らず、吾々同人が主となって、此の「南島研究」といふ小冊子を刊行する機運になlったのは、相互にその研究を援助してこれを発表批判すると同時に、広くこの種研究家の声援を得て、その内容を豊富にし、且つ琉球に関する、滅びゆく古今の研究資料を蒐集して附録とし、広く一般学界の参考に供したい為である。この恵まれたる地理的環境からして、日支文明の交叉点ともいはれまた我邦文化の中継所となり、倉庫ともなった南島、即ち奄美大島から八重山の先端与那国島までの島彙が吾々の研究に資すべき舞台面である。が、この未開拓の曠野からして、何か新生命が見出されて、我が学界に光を投じ得るや否やは、未来の問題で、切に識者各位の熱誠なる御同情と、御後援を待つばかりである。  十一月廿日  県立図書館郷土資料室にて  真境名安興

写真ー真境名安興

目次
口絵「泉崎及び金武の火神」

○編集者よりー資料や文献は割拠して居る、系統的に出来た索引のないことはその資料及文献の蒐集に不便な、地方の孤独な研究家をただ空しき努力に終わらせるばかりだ。と云ふことはしばしば吾等が聞く言葉でありました。即ち既に何人かの手によって研究、発表せられた事柄を、これから準備し、これから研究し、かくて仔々倦まざる多年の努力が空しき結果に終ると云ふことになると、本人ばかりの失望でなく、同じ研究者の一員としても見るに忍びないところであります。かくの如き有様でありますから、われらの念頭からは絶えず、何等かの方法で、かかる孤立の研究者たちと連絡をとり、各自の分担的研究を漸次進めて行きたいと云ふ念が去りませんでした。

 そこに生まれたのが南島研究でした。なるほど本誌は小冊子ではあり、特に南島研究と銘をうってはありますが、吾等は目を睜つて南島を見たい、そして南島から広い世界を見たいのであります。本誌の主義も、事実の忠実なる採録、文献の尊重と比較研究法の正確を期することに重きを置きたいものだと思って居ます。かくて本誌は読者諸君の本誌であり、又諸君の薀蓄を傾け、互に幇助示導しつつ、吾等の拠るべき、向ふべき道を進んで行きたいのでありまして、吾等は零碎なる報告、交詢の類と雖も克明にこれを雑誌に網羅するに吝ではないのであります。吾等の雑誌は割拠もしなければ、対峙もしない、どこまでも吾等の過去及び現在の記録としたいものであります。

本誌の誇として特筆すべきは、古琉球に関するあらゆる史料の採録で、これのみにても既に一大事業ー吾等としてはーと云ふに恥じないつもりであります。本号から「琉球國中山世鑑」「球陽遺老説傳」「東汀随筆」の三種を採録しました。これは読者諸君の便をはかり、まとまった一冊の本に製本の出来る様に丁附を別にしてあります。

史論・雑録 
南島研究の発刊について・・・真境名安興/奈良帝室博物館の雲板について(琉球國王尚泰久の鋳造)・・・真境名安興/火神の象・・・奥野彦六郎/沖縄の士族階級・・・島袋全発/昔の蘇鉄地獄・・・T生/鬼餅伝説(ホーハイに就いて)・宜野湾新城のムーチー/歴史は繰返すー蔡温の林業政策ー/「あこん」に就いて・・・岩崎卓爾/萬葉歌と琉歌・・・エス・エス生

史料
1、琉球國中山世鑑 2、球陽遺老説傳 3、東汀随筆

通信
柳田國男氏より盛敏氏へ/伊波氏より島袋全発氏へ/東恩納氏より真境名笑古氏へ/岩崎氏より真境名氏へ

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2008年9月18日『琉球新報』翁長良明「『B円』時代」

03/22: 上江洲均

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1973年3月 上江洲均『沖縄の民具』慶友社
1982年12月 上江洲均『沖縄の暮らしと民具』慶友社
○沖縄民具概観ー沖縄の民具について・暮らしと民具/用法と技術ー沖縄・奄美の竹の民具について・女性の二つの運搬用具・ヘラとイモあさり・脱穀具・沖縄の叉鍬・粟国島のトゥージ・サバニについて/信仰・儀礼・行事の民具/墓と厨子甕/久米島の墓制に関する資料二題/厨子甕/コウまつり瞥見

1983年3月 上江洲均・神崎宣武・工藤員功『琉球諸島の民具』未来社
2005年11月 上江洲均『沖縄の民俗と生活』榕樹書林
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写真左から村口一雄第一書房社長、新城栄徳、上江洲均氏、新城亘氏


粟国島で中央が上江洲均氏

本学名誉教授の上江洲均先生が、「民具を中心とした琉球諸島の民俗研究」で第29回東恩納寛惇賞(主催:琉球新報社)を受賞した。東恩納寛惇賞は、沖縄研究の先駆者である東恩納寛惇の学問的業績をたたえ、沖縄を対象とする研究に顕著な業績を挙げた研究者に対して贈られる。平成24年2月24日(金)には、琉球新報ホールにて贈呈式が開かれ、上江洲先生は「民具で研究する」という題目で、民俗・民具研究について記念講演を行った。【上江洲 均名誉教授の略歴】琉球大学文理学部国文学科卒業後、公立学校教諭を経て、琉球政府(現在・沖縄県立)博物館に学芸員として勤務(昭和62年には副館長を務める)。平成7年4月より名桜大学国際学部教授に就任。平成15年3月に定年退職後、同年9月に名桜大学名誉教授の称号授与。現在、久米島博物館名誉館長。(→名桜大学)


右から宮城篤正氏、上江洲均氏、粟国恭子さん

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小禄間切当間に生まれる。小禄小学校、那覇高等小学校、県立一中をへて陸軍士官学校に進み1916年に陸大卒業。同年から1918年まで福岡歩兵第24連隊の中隊長、24年は歩兵第6連隊で大隊長を務める。1936年退役、日本特殊軽合金社長となる。沖縄出身で唯一の陸軍少将であった。



1972年4月『只一人 長嶺亀助自伝』長嶺秀雄

03/22: 伊江隆人

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伊江 隆人 ●いえ りゅうじん IE Ryujin
1947(昭和22) 沖縄県那覇市生まれ
1971(昭和46) 毎日書道展(都美術館)(~80年まで)
1974(昭和49) 大東文化大学(中国文学科)卒業
1975(昭和50)  第1回個展(パリ)
1982(昭和57)  個展(県民アートギャラリー/那覇市)
1984(昭和59)  ホアン・ミロ国際コンクール展(ホアン・ミロ美術館)入選
1985(昭和60) 個展―墨から版画(画廊沖縄/那覇市)ポーランド文化省主催、平和国際青年美術家展(トールニ市美術館)
1986(昭和61)  黒のパフォーマンス(企画:NHK-TV・大道小学校/那覇市大道小学校運動場)
ファブリケーション展(建築家 真喜志好氏一宅/那覇市)
1987(昭和62)  個展(画廊匠/宜野湾市)
1988(昭和63) 個展(画廊沖縄/那覇市)墨のパフォーマンス(ニューヨーク セントラルパーク) 個展(ニューヨーク)
1989(平成1) 個展(沖縄市文化センター/沖縄市)
1990(平成2) 個展(那覇市民ギャラリー/那覇市)
1992(平成4)  個展(パリ)
1993(平成5) 沖縄タイムス芸術選賞奨励賞
1994(平成6)  個展―扉より(リウボウホール/那覇市)
沖縄・日本・韓国交流美術展(沖縄コンベンションセンター/宜野湾市) 個展―扉より(高知) 個展―扉より(東京

2004年11月23日~29日

2009年1月2日
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大阪のワタナベ写真にてー左が渡辺憲央氏と真喜志康徳氏





渡辺憲央氏は、「球一二五一七部隊、独立高射砲二七大隊」の「第一中隊第二分隊」に所属し、那覇市小禄のガジャンビラ台地に据えられた高射砲で那覇軍港と小禄飛行場の防衛にあたっていた。大隊本部の壕で本部指揮班が酒宴を開いていたのは、菊水作戦が実施された日とあるので、4月6日頃のことである。すでに沖縄島に米軍が上陸し、連日空襲や艦砲射撃を受けているさなかで、日本軍の将校たちは〈軍紀も風紀もありゃせんぞ〉という状態であった。

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佐久田繁(1926年~2005年4月12日)


集英社文庫『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』の索引に佐久田繁が無い。また宜保俊夫のライバル又吉世喜(スター)は正喜となっている。沖縄に於ける雑誌ジャーナリストの先駆者が索引に無いのは不満である。この戦後史に登場する人物の大概はすでに『月刊沖縄』で取り上げている。1961年11月号に「縄張り”暁に死す”」でスターの西原飛行場事件、1963年3月号では「殺し屋に殺された暴力団」と題し又吉世喜や喜舎場朝信の顔写真を掲載している。その暴力団のアジトは月刊沖縄社の隣り近所に位置する場所である。同年5月号には「嵐を呼ぶ男ー熊谷優」に長嶋茂雄と石原裕次郎にかこまれた熊谷優の写真が掲載されている。
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『月刊沖縄』表紙ー左は神村真紀子、神村右は真喜屋優


1962年10月『月刊沖縄』渡名喜守定「ああ!壮烈 親泊大佐ー日本の敗戦をはぢて 一家ことごとく自決し果てた最後の武人」


1962年11月『月刊沖縄』「故郷の空に散った伊舎堂特攻隊長」


1962年12月『月刊沖縄』「日本一の中隊長 大舛大尉」


1963年3月『月刊沖縄』「殺し屋に殺された暴力団」

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1981年2月『青い海』「出版王国 沖縄のいまむかし」(座談会・佐久田繁、仲程正吉、桑高英彦、太田良博、津野創一)


1963年5月『月刊沖縄』「辻の女軍応召す」


1963年7月『月刊沖縄』「売春天国におどる男たち」

○1961年1月『オキナワグラフ』「コザの迎賓館ープリンスホテル(熊谷優 経営)」



1965年6月『月刊沖縄』「わたしたちはガス実験台に使われた!!」

調理師であった父の数少ない蔵書に、月刊沖縄社が1966年に発行した田島清郷『琉球料理』があった。同年には『乗用車への招待』も発行している。前出の料理本は一般向きでないため1975年に渡口初美の『実用・琉球料理』が発行されている。私が佐久田さんを知ったのは、久茂地の琉球書院で店主の大城精徳さんから紹介されたのが最初の出会いである。このころは青い海出版社や琉球文化社によく出入りしていたから月刊沖縄社はめったに行かなかった。

そのうち青い海出版社が休業すると月刊沖縄社にも出入りするようになった。『沖縄大観』を月刊沖縄社で復刻するときは、私が数十年前に神保町の古書店・長門屋で買った原本(箱入、地図付き)を佐久田さんの事務所の『仲原善忠全集』と交換させられた。また『琉球王国の歴史』に、私は雪舟が描いてその弟子が模写した「琉球人像」の写真を提供したこともある。1996年の年賀状には沖縄フリージーャナリスト会議として「これから私の代表作をつくります。アテにせず待っていて下さい。あなたはいい個性、持ってます。うらやましい」と末尾にある。

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月刊沖縄社編集部」で左から、佐久田繁氏、新城栄徳
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1997年3月 『詩歌集 那覇を詠う』那覇市 1000円
□琉歌、和歌、短歌、俳句、詩、漢詩や近世期の和文などの中から那覇(首里・真和志・小禄を含む)を詠んだ詩歌、または那覇からの眺望を題材とした詩歌を中心に選択して収録。

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英エコノミスト誌がまとめる世界平和度ランキング(2014年)で日本は162ヶ国中8位、アジア では堂々の1位だ。紛争が無く治安の良い社会で暮せることを誇りに思う。一方で日本の「報 道の自由度」は180ヶ国中61位となっている。NGO「国境なき記者団」が調査した15年のラン キングが2月に発表され、日本は前年の59位からさらに落ちて過去最低となった。ランキング は報道の自由に対する侵害や検閲の度合いなどを評価する。日本は09年17位、10年11位と 世界でもトップクラスの国だった。当時、省庁の会見を記者クラブ以外にも解放したのが理由 とされている。ところが12年は53位へ急降下した。東日本大震災後、原発事故の取材で情報 が制限されたのが理由だ。国境なき記者団の報告は「フリーランスの記者は政府、東京電力 の記者会見への出入り、情報へのアクセスを禁じられている」と批判する。さらに特定秘密保 護法の施行が追い打ちをかけた。国の都合だけで情報が隠され、私たちは何が秘密なのか さえ知ることもできない。日本の報道の自由は黄信号といえる水準だ。その上、自衛隊「文官 統制」廃止、さらに海外派遣への道を開こうと政権は前のめりになっている。秘密に包まれ知 らない間に国の行方が誤っていたとしたら、報道の自由の大切さは市民にとっても重要なもの だ。・・・・と結んでいる。 以上は、3月8日付け琉球新報の『金口木舌』全文である。



去る大戦で7年間従軍し、ニューギニア近くのソロモン群島、ブーゲンビル島から生還し、15 年前、82歳で没した私の父は「終戦直後、大本営、陸軍報道部長の首里大中町(みどり印刷 の所在地)出身の親泊という大佐が自決し夫人と子供二人も殉死した」と語っていた。気には なっていたのだが、そのままにほっていた。今、日本のメディア(NHKはじめ日経・朝日・毎日・読売・産経の大手メディア)は政権の圧力 を受けジャーナリズムの本旨(主権者たる国民に本当の事を知らせ、いろいろな価値観に基ず く議論の場を提供する)事をしていない、そればかりか政権と一体となって政権に都合の良い 方向に国民を誘導さえしていると思う。(平成の大本営である。)

その矢先、「大本営陸軍報道部部長 親泊朝省」について書かれた澤地久枝著『自決 こころの法廷』という本に出会い、親泊朝省(おやどまり ちょうせい)を調べ紹介するレポートを書 こうと思い立った。最早「戦前のようだ」などと悠長な事を言っている事態ではない。大本営とは、日清戦争から、太平洋 戦争までの戦時中に設置された日本 軍の最高統帥機関であり、天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令として発令する最高司令部としての機能を持った。 太平洋戦争末期の敗色が濃厚にな るにつれて、さも戦況が有利であるか のような虚偽の情報が大本営発表と して流し続けられたことから現在では 権力者が自己の都合の良い情報操 作をして虚偽の情報を発信することを揶揄した慣用として「大本営」「大本営発表」という表現 が用いられている。 具体的には、当初はほぼ現実通りの発表を行っていたが、一般的にはミッドウェー海戦の頃 から損害矮小化発表が目立ちはじめ、不適切な言い換えが行われるようになり、敗戦直前に は勝敗が正反対の発表すら恒常的に行われたことから、現在では「内容が全く信用できない虚飾的な公式発表」の代名詞となっている。ジャーナリストの清澤洌は、「空襲の被害や内容について政府は一切発 表しない。ただ幾ら打ち落としたというだけだ。・・・誰かがその打ち落としたものを総計すれば 米国の造ったB29 よりも遥かに多くなっているといった(『暗黒日記』Ⅲ、3月12日の項)と書い ている。現在の内閣府世論調査発表もこれにあたらないか。

親泊朝省の生い立ち
 明治36年、父朝擢(ちょうたく)、母ウシの長男として生まれた。朝擢は明治8年首里(大中) で生まれ、同38年、沖縄県人として初めて大宜味(おおぎみ)尋常小学校の校長になったこと で知られている。それ以前には、沖縄の小学校長はすべて本土の人間が任命されていた。 大宜味尋常小のある大宜味村塩屋の地で幼少期を過ごした朝省は県立一中へと進学する、 そして2年後の4月、熊本陸軍幼年学校に入学が許可され(一中を中退して)熊本へと旅立 つ。それ以来、沖縄に帰る事はほとんど無かった(幼年学校時代も後の陸軍士官学校時代も 夏の休暇は宮崎市出身の親友、菅波三郎の自宅ですごしていたという。後に菅波三郎の妹 英子と結婚する。)

 思えば、首里大中町出身とはいっても、それは父朝擢の生まれた「本籍地」なのであり、そ こで暮したのは一中時代の2年間にすぎない。一中での親しい友人は居たのだろうか?どち らかといえば「ひ弱な」印象の少年時代のエピソードを見るに付けその思いはつのる。彼の故 郷への想いとはどのようなものだったのだろう?自ら沖縄出身であると語ることは無く、彼を知 る人達の多くが「沖縄の出身であるらしい・・・」と他人からの伝聞によりそれを知ったという。 『自決 こころの法廷』より。

 県立一中から海軍兵学校に進み少将となった漢那憲和(退役後に衆院議員)や、同じく一 中から海軍軍医学校に進み少将(医学博士)の上与那原朝珍(うえよなばる ちょうちん)。 彼は地元沖縄でも珍しい姓名であったが、むしろそれを誇りとして生きた。(当時、日本本土 で活動する沖縄県人で、異風に聞こえる沖縄特有の姓を大和風に替えるという風潮があった という)県出身の高級軍人の中でも上の二人と親泊は異なる系譜に属していたと思わざるを得ない。

 紅顔可憐、小柄な美少年だった幼年学校時代、機械体操が苦手、走り幅跳びも人並みに 跳べなかった。同様の落語組一同は校舎の周回走をさせられるが、「ひ弱い親泊」は青くなっ て途中で列外に出る。親泊は特別扱いで怖い三年生も黙認する。他の生徒が列外に出ると、 「コラッ貴様は親泊と違う」とどやされて列に戻されたという。竹刀(しない)も重げだった親泊が やがて騎兵科へ進んだことは皆を驚かせた。 陸士時代の親泊は、町を歩くと女学生が一斉に振り返る美男子だったという。体も鍛え、騎 兵科を首席で出るだけの好成績もあげる。幼年学校5年、陸士の予科、本科4年を経て軍人ら しい青年へ脱皮した。

幼年学校とは、幼年時代から幹部将校候補を純粋培養する為に設けられた陸軍の全寮制 の教育機関。旧制中学1年~2年修了程度に受験資格を与えた。陸軍中央幼年学校を東京 に1校、陸軍地方幼年学校を、仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本に各1校を設立。地方幼 年学校で3年間学び卒業すると、中央幼年学校に2年間学び、地方・中央で5年間の修業年 限となった。                  By wiki.

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2015年3月26日ー27日 沖縄県立芸術大学 附属研究所 首里金城キャンパス3F小講堂「我部政男 特別講義26日『言論統制と沖縄戦』/27日『軍機保護法と内務省の沖縄統治』」

1988年1月ー我部政男『沖縄史料学の方法』新泉社
1988年2月、那覇市久茂地で我部教授に出会った。近くの喫茶店で本書を恵まれた。
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写真ー那覇市歴史資料室で我部政男氏と新城栄徳


2015年4月28日


2016年3月9日 那覇市歴史博物館で、我部政男氏(左)と新城栄徳

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松村久美作品(真喜志康徳所蔵)

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右から生活美術部会長の岸本秋子さん、真喜志康徳氏、新城栄徳

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戦後69年目ー安倍政権とアメリカ黒人大統領は「沖縄占領69年」を更に百年目に向かって辺野古新基地を造ろうとしている。更には今のカジノ知事はもとより石垣市長、宜野湾市長、加えて浦添市長、沖縄市長も「核」付き疑惑の新基地に賛成派だ。ウチナーンチュよ、もういい加減ネタフリはやめよう。2014記

1977年4月 沖縄の雑誌『青い海』 №62 「33年目の沖縄戦と集団自決」


1985年 沖縄の雑誌『青い海』6月号 №142 「君はもう悲しみと怒りを忘れたか」
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3月12日に、国際通りの沖縄三越跡に「よしもと沖縄花月」がオープンするという。そこで古い吉本興業所属の岡田東洋・小菊(敏子ー1920年9月25日 ~2008年10月10日)を紹介する。

1971年4月『青い海』創刊号□「夫婦漫才ずっこけ青春”真似せんときや”吉本興業所属 岡田東洋・小菊」
1971年5月『青い海』5月号□「漫才人生『漫才30年そら泣き笑いですわ』吉本興業 岡田東洋・小菊」
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2004年8月19日ー『琉球新報』和宇慶勲「落ち穂ー先駆者 小菊師匠」
2004年9月1日ー『琉球新報』和宇慶勲「落ち穂ー師匠とのご対面」
2005年8月23日~25日ー『琉球新報』「沖縄漫才 小菊師匠一代記」
2005年11月ーわうけいさを『なんだこりや~沖縄!』ボーダーインク

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上ー左から2人目が岡田小菊さん(南風原で)
下ーワッハ上方(大阪府立上方演芸資料館)、東洋・小菊の名前があるポスター


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1984年11月『オキナワグラフ』「なんと古銭8千点ー沖縄一の古銭収集家・翁長良明さん」



JTA機内誌『Coralway』「情熱あふれる沖縄屈指のコレクター 翁長良明」

03/09: 岡本恵徳

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1975年4月『沖縄読書新聞』創刊号 川満信一(詩人)岡本恵徳(琉球大学助教授)「対談・文学と思想としての戦後」

岡本恵徳氏は私の顔を見るたび「もっと奄美資料を発掘してくれ」が口癖であった。私は伯父や伯母の連れ合いが奄美出身であったから特に奄美を意識したことがないが、琉球文化には当然に奄美も入っていると思っている。奄美の図書館は島尾敏雄氏に会ってみたいと2回行ったが何時も休館だった。島尾敏雄氏には会えなかったが、その代わりといっていいか分からないが山下欣一氏に出会った。




2006年8月6日『琉球新報』岡本恵徳氏が死去 近現代沖縄文学研究で功績 71歳
 近現代沖縄文学研究の基礎を築いた琉球大学名誉教授で琉球新報児童文学賞選考委員の岡本恵徳(おかもと・けいとく)氏が5日午後7時25分、肺がんのため、那覇市立病院で死去した。71歳。平良市(現宮古島市)出身。自宅は那覇市首里大名町2ノ76。告別式の日程は未定。喪主は長女亜紀(あき)さん。
 「琉大文学」の創刊メンバーの1人で、米軍政に対する抵抗の文学を目指した。「琉球弧の住民運動」「けーし風」など草の根の市民運動にも参加。1982年から琉球大学教授。「現代文学にみる沖縄の自画像」(96年)で伊波普猷賞受賞。琉球新報短編小説賞2次選考委員。
 著書に「現代沖縄の文学と思想」(81年)、「沖縄文学の地平」(81年)、「『ヤポネシア論』の輪郭」(90年)、「沖縄文学の情景」(2000年)など。


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写真ー沖縄県立芸術大学で左から新城栄徳、山下欣一氏、画家の石垣博孝氏

山下欣一
1929年奄美大島生まれ。早稲田大学法学部中退、アメリカ・インディアナ大学民俗学研究所に学ぶ。文学博士。奄美沖縄民間文芸研究会特別委員。著書『奄美説話の研究』『奄美のシャーマニズム』など。竹富島の代表的な神様・ネーレカンドの伝承と根原家のこと、ネーレカンドを与那国島から迎えた出来事などを調査し、神話の再生についての諭文を執筆された。
著書
「奄美のシャーマニズム」(弘文堂)
『南島説話生成の研究』(第一書房)
『奄美のシャーマニズム』(法政大学出版局)
など多数。


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○韓国ソウルで駐韓アメリカ大使がキム・ギジョン政治団体代表に刃物で切りつけられて大怪我で80針を縫う手術を受けたという。テレビでキム氏を見ると嘗て富村順一が起こした東京タワ-事件というのを思い出した。キム氏と富村氏は雰囲気も似ている。

1970年7月8日の『朝日新聞』に「8日午前11時半ごろ、東京芝公園の東京タワ-特別展望台(地上250メト-ル)のエレベ-タ-前で、男が刃物を持ち『韓国人と20歳以下の者はおろしてやるが、日本人と、アメリカ人はおろさない』とわめいていると愛宕署に連絡があった。20人ほどいた客をエレベ-タ-で降ろしはじめたとき、男は新潟市の日本ル-テル教会宣教師ヒンズ・ダビテさん(39)のところへ男がかけより、ダビテさんの首に刃渡り20センチの包丁をつきつけた。愛宕署員が『刃物を捨てろ』と説得する一方で、さらに応援がかけつけ、約15分後にすきをみてとびかかり、警棒で包丁をたたき落とし、脅迫、銃刀法違反で逮捕した。調べに対し男は沖縄・本部東区富村順一(40)」と報じられていた。

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大阪ナンバで沖縄戦を語る富村順一(左端)


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大坂難波高島屋前でー僧侶風の富村順一


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2015年3月『月刊琉球』 <500円+消費税> Ryukyu企画〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16  ☎098-943-6945 FAX098-943-6947□『月刊琉球』はジュンク堂那覇店でもバックナンバーで揃っています。

私は1996年7月発行の『自治おきなわ』に「関西におけるウチナーンチュの歩み」を書き、その末尾に「最後にー私は大阪で創刊された雑誌『青い海』を全冊、合本し愛蔵していて、その中に載っている事項や人名に解説、注釈を加えてみたいと常に思っていた。『関西沖縄年表』はその過程の副産物でもある。最近またぞろ、自分は安全な所(戦争最高責任者の追及は棚に上げる)に身を置いてウチナーンチュの戰爭責任だの、加害者だのと騒ぎ立てる、クサレヤマトーのインテリ(インチキとハッタリ)文化人が目立ちはじめた。」と書いたが、亡くなられた牧港篤三さんなんかは沖縄戦に新聞人として加担したと自虐的に自分を責めておられた。山里永吉もその意味では戦争協力に加担していたことは否めない。こういったことはウチナーンチュ自身が追及し反省することで、ヤマトーはヤマトーで自分の頭のハエでも追えば良い問題である。しかし現実は反省や戦争責任問題が出るような「日本国」ではない。

辺野古新基地NO

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2月23日の地元紙は昨日の辺野古集会での「山城博治沖縄平和センター議長の不当拘束」がトップであった。まさにアメリカ占領70年の記念すべき日である。タイムスの山城議長の手を後に拘束、基地内に野ざらしにされた写真は「イスラム国」に拘束され殺された二人の日本国民とダブル。与那国の自衛隊誘致は与那国町長や島尻安伊子参院議員(2015年1月25『沖縄タイムス』社説□海保や警察へ積極的な対応を促したのが、自民党の島尻安伊子参院議員だ。昨年2月の参院予算委員会で島尻氏は「違法な妨害活動は阻止しなければならない。海保と警察の積極的な対応が必要」と質問。安倍晋三首相や関係閣僚に「先んじた対策」を要請した。「県外移設」を公約に掲げ当選した地元議員が、国の警備強化を平然と求めたのである。)国側と地元利権者の根回しがあって一応国側が勝った。

2月24日の地元紙は沖縄基地闘争に、米軍がつくった新たな英雄の誕生を報じていた。山城博治沖縄平和運動議長がそうである。米軍拘束から35時間で解放されたという。那覇市議会や県議会の国、米軍側の手先・自民党県連がウチナーンチュの拘束は当然だという。ここはウチナーだ!ブラックケネディとか言われている黒人大統領のアメリカは未だにオキナワを占領しているつもりだ。



2015年1月『月刊琉球』12・1月合併号 <500円+消費税> Ryukyu企画〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16  ☎098-943-6945 FAX098-943-6947

『月刊琉球』12・1月合併号に紹介された山城博治沖縄平和運動議長□『月刊琉球』はジュンク堂那覇店でもバックナンバーで揃っています。
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3月5日地元紙2紙にさんしんの日に辺野古新基地強行現場の米軍キャンプ・シュワブゲート前でも、国営暴力団沖縄県警がテントが撤去され小雨のなかで20人がさんしんを演奏と報じていた。


辺野古新基地NO

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3月8日10:00~17:00 沖縄県民アトリエ「にーにー・ねーねーが語る沖縄のサンゴ礁~若手研究者によるサンゴ礁紹介」

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山田實さん、さやか、ひより

山田實さん、ひより