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2015年4月28日 沖縄県立博物館・美術館「戦後沖縄のはじまりのトライアングル・コンタクトーいくつもの<沖縄>をつなぐものー<沖縄・日本・米国の1945~1955年>」



講師を紹介する粟国恭子さん。左から松下博文氏、大城冝武氏、仲程昌徳氏



2014年5月 仲程昌徳『宮城聡』ボーダーインク

2015年4月 仲程昌徳『雑誌とその時代ー沖縄の声 戦前・戦中期編』ボーダーインク

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来賓祝辞ー新城靜喜・粟国村長

あいさつー伊良皆賢哲・粟国村教育長



写真左から新里有四郎オキジム会長、新城喜一氏、新城靜喜・粟国村長


新里有四郎オキジム会長(左)、新城栄徳氏








写真左が与那城昭広・粟国郷友会会長



閉会のことばー玉寄貞一郎
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1971年10月 沖縄の雑誌/『沖縄世論』創刊



沖縄県立博物館・美術館屋外展示場「民家」

2014年4月10日 神山吉光氏(閣文社社長☎098-885-4625)


2014年8月20日、左が神山吉光氏、新城栄徳
○神山氏は名護高校で山城賢孝氏に国語を教えられ、新聞部での指導を受けた。一期先輩に比嘉康文氏が居た。康文氏は山城氏の弟・末光氏と同級生。

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1945年4月
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『沖縄新報』
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『琉球週報』

1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店

1945年5月7日 石川に城前初等学校開校 

1945年5月20日 『週刊朝日』親泊朝省「敵の恐怖、わが沖縄特攻隊」
1945年5月26日 南風原の野戦病院、真壁村に移動
1945年5月27日 第三十二軍司令部、首里から津嘉山へ、ついで摩文仁に移動(~30)/『週刊朝日』土屋文明「琉球阿嘉島国民学校生徒の勇戦を讃ふ」

1945年6月23日 沖縄戦終結ー戦没者 一般住民9万4000人、日本軍将兵9万4136人、アメリカ軍将兵1万2281人 計20万417人

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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。




1945年9月5日『ウルマ新報』(活字)「ミズリー号で歴史的署名式、劇的に終了」「日本に於いては闇取引が盛ん」」「軍政府に於いては本島民待望の通信事務開始」
1945年9月26日『ウルマ新報』「マッカサー元帥の語る日本の現在と将来」「アメリカ国務長官代理アチソン氏『マッカーサーは単なる管理者で政策決定の権限なし』」「各地区市会議員当選者」
1945年11月11日 東京丸ビルの沖縄県事務所で沖縄人連盟発足
1945年11月21日『ウルマ新報』「米英加の三国首脳 原子エネルギー会談」
1945年12月6日 沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』創刊(編集発行・比嘉春潮)
1945年12月19日『ウルマ新報』「山下泰文大将 死刑の宣告」「糸満市建設着々」
1945年12月26日『ウルマ新報』アメリカ合衆国マリン軍大佐・軍政府副長シー・アイ・マレー「年末の挨拶」

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1948年1月2日『うるま新報』「米下院小委員会の太平洋現地視察報告書ー沖縄に大空軍基地を!」「国頭の林道愈々着工」
1948年1月9日『うるま新報』「新春に寄するマ元帥の声明ー建設の決意持ちて」「郷土芸術の誇りー向井文忠氏が沖縄博物館に寄託、自了、田名の逸品帰る」「心音ー太田良博」「横光利一氏死去」
1948年1月30日『うるま新報』「マ司令部声明ー旧勢力を倒せ、持て!自由への情熱」「頑張れ故郷の青年よ、嬉しい心の贈り物 在京学生から図書四百余冊」」「心音ー名嘉元浪村」「ガンヂー翁断食を中止」「南東亜細亜の人民ー経済と政治 苦難に挑む」
1948年2月6日『うるま新報』「ガンジイ翁暗殺さる」
1948年2月27日『うるま新報』「東京裁判/極刑を検事長論告」「映画常設館(アーニーパイル国際劇場)、那覇に出現」「東洋のバルカンー北朝鮮に独立政府」
1948年5月21日『うるま新報』「イーグルス少将ー琉球新軍政長官着任」
1948年6月25日『うるま新報』「沖縄郷土史由緒の地、中城城跡を公園化¥米人遊覧者殺到、村民が美化作業」

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1948年6月29日『沖縄タイムス』号外/1948年7月1日『沖縄タイムス』第1号
1948年7月2日『うるま新報』「新装なる姫百合塔」
1948年7月23日『うるま新報』「南鮮大統領に李博士」
1948年7月26日 崇元寺でリウボウの前身、琉球貿易商事が設立される。
1948年7月30日『うるま新報』「美術の講習ー従来石川市東恩納に設立されていた美術家協会は古都首里市西端風光明媚 西森に去月移転を完了」
1948年8月10日『沖縄タイムス』「弾薬整理船の大爆発 伊江島沖の惨事・死者百二十名」

1948年8月27日『うるま新報』「ビ軍票の効用」
1948年9月3日『うるま新報』「美術協会、研究所開く」
1948年10月1日『沖縄タイムス』「ハワイよりの豚・恙なく上陸」
1948年10月8日『うるま新報』「昭和電工 疑獄拡大す」
1948年11月17日『沖縄タイムス』「極東軍事裁判・歴史的幕を閉すー抉り出された侵略戦争策謀の跡/東条被告ら7名絞首刑言渡し」
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1950年1月1日『沖縄タイムス』「シーツ長官年頭の辞ー繁栄と平和」「終戦直後約32万といわれ、49年末までの4ヵ年に約24万の驚くべき増加」
1950年1月1日『沖縄タイムス』「日米防衛同盟協議かー講和締結後・考慮される在日兵力の沖縄移動」
1950年1月7日『沖縄タイムス』仲宗根源和「軍政下の政党活動(1)」
1950年1月11日『沖縄タイムス』「シ長官政党代表会見内容詳報(1)軍の施策を充分に理解せよ」
1950年1月11日『うるま新報』「政党との会談内容(1)ーシーツ少将」
1950年1月12日『うるま新報』「政党との会談内容(2)ーシーツ少将」
1950年1月13日『うるま新報』「政党との会談内容(3)ーシーツ少将」

1950年1月14日『うるま新報』「シーツ長官 農民に告ぐ 肥料の大幅値下げ・卸値発表さる」、せきほう「心音ー風雨やみ」』「政党との会談内容(4)ーシーツ少将」
1950年1月15日『うるま新報』「政党との会談内容5)ーシーツ少将」「原子力軍艦数年内に実現か」
1950年1月17日『うるま新報』大宜味朝徳「沖縄と観光施設(1)」
1950年1月18日『うるま新報』「シーツ長官談/住民よ元気出せ、待望の食糧値下げ実現!」
1950年1月19日『うるま新報』大宜味朝徳「沖縄と観光施設(2)」「シ政策はこうして生まれる」
1950年1月20日午後2時 安里・沖縄劇場で沖縄興行連盟主催/沖縄タイムス後援「シーツ長官に贈る興連芸能大会」
1950年1月21日『沖縄タイムス』「水素爆弾ートルーマン大統領製造に同意か」「沖縄反共同盟設立準備会(島袋紀成)ー反共宣言」

1950年1月21日『うるま新報』「今度は商業面の本格的復興へ=シ政策・矢つぎ早に朗報=写真「シーツ軍政長官」

1950年1月22日『沖縄タイムス』「シ長官ステージより・住民へ・・皆の力でよい島に、自立を助けるのが私の使命」
1950年1月25日『沖縄タイムス』「亡夫の遺志つぎ大海にいどむ沖縄女性・照屋敏子」
1950年1月25日『うるま新報』「水素爆弾 ソ連も作るか」
1950年1月27日『沖縄タイムス』「全島の名所案内、ハワイの『お客』を迎える観光コース案決る」
1950年1月28日『沖縄タイムス』「盛り場を荒らすチンピラ組/全島各地で百余名も」

1950年2月1日『うるま新報』「シ長官、市町村長代表と初会見ー農は国の本」
1950年2月1日『沖縄タイムス』「シ長官・村長代表へ語るー篤農家育て新しい農法をひろめよ」


写真左がシーツ軍政長官、志喜屋孝信


写真左から2人目がシーツ軍政長官
1950年2月8日『うるま新報』「嘉手納さん母娘へーシ長官から伝達 愛情こもるケア小包授与式」

1950年2月9日『うるま新報』「シーツ長官談話ー那覇旧市内その他開放」


2月12日『琉球日報』第一号

1950年2月19日『うるま新報』「シ長官が奮起を要望『海運こそ全琉復興の基礎』」
1950年2月21日『沖縄タイムス』「ハワイの郷土訪問、シ長官も自ら乗り出す。二世会の厚生園慰問、シ長官も踊る」
1950年2月23日『沖縄タイムス』「米、ブルガリアと断交、外交官を引揚げる。ハンガリーとも断絶」
1950年3月5日午後1時 中城公園開き、シーツさんが感慨の挨拶、5年前の暗い丘に今訪れる復興のあけぼの」


1950年3月14日『うるま新報』「ハワイ訪問団第一陣きのう上陸/シーツ長官挨拶『意義深き訪問』」
1950年3月19日『うるま新報』「いすゞバス5台、消防車6台引渡式、シ長官から知事へ」
1950年3月21日『うるま新報』「沖縄の軍工事 第一期建設を指令」「沖縄基地(1)ー港湾改修、兵舎建築など」
1950年3月22日『うるま新報』「沖縄基地(下)ー工事の早期着手は重要」
1950年4月1日『うるま新報』「ハワイ訪問団、姫百合塔に感無量ー死を賛美する教育追放せねばならぬ」
1950年4月13日『うるま新報』「シーツ長官、待望の為替比率を改定 B円120対1弗」
1950年4月14日『うるま新報』「那覇都計案、シーツ長官も承認」「読谷高校独立」
1950年4月18日『うるま新報』「アニーパイル慰霊祭、きよう伊江島で」
1950年4月20日『うるま新報』「所有権の認定布告きのう発布式、軍政府からシーツ長官、ハインズ副長官らが列席」
1950年4月28日『沖縄タイムス』「AP記者トム・ラムバート『シーツ治下の沖縄(1)』」
1950年4月29日『うるま新報』「AP記者の眼に映じた沖縄ーシーツ少将の下に復興進捗」
1950年5月3日『沖縄タイムス』「原子力時代、米海軍近代化」「米琉親善日、三ヶ所で式典挙行」」
1950年5月6日『沖縄タイムス』「本社座安専務マ元帥と会見ーシ政策に協力せよ」

1950年5月11日『うるま新報』「援助を惜しまない胡差の商店街(ビジネスセンター)シ長官が城間村長を激励」
1950年5月12日『うるま新報』「シ長官が説く 琉球経済の復興に鍵を握るは農民だ」
1950年5月16日『うるま新報』「琉球文化研究会、ゆうどれ陵調査」
1950年5月20日『沖縄タイムス』「わが生涯最良の日、中城公園内記念碑除幕式に参列するシーツ長官」『鉄の暴風』ちかく朝日社より出版」
1950年5月26日『沖縄タイムス』「きよう初の米琉親善日ーシーツ少将挨拶『相互の友愛と理解で築く復興の礎』」
1950年5月26日『うるま新報』「きよう意義深き米琉親善日ー相互に深き理解こそ琉球復興への道!シーツ長官住民へ協力要望」
1950年6月7日『うるま新報』「徳田氏等中央委員24名マ元帥の指令に基づき政治活動一切を禁止」
1950年6月23日『うるま新報』「ジョンソン国防長官、プラトレー統合参謀本部議長きのう沖縄を視察ー沖縄を難攻不落の要塞化、米軍は長期駐屯。一切の攻撃に堪える施設建設」
1950年6月23日『沖縄タイムス』「天久、上之屋一帯軍用地で立退き」
1950年6月27日『沖縄タイムス』「北鮮、南鮮に宣戦布告、三八度線を越境し全線に亘って進撃」
1950年6月29日『沖縄タイムス』「米軍遂に出動ー空・海軍韓国を支援」
1950年6月30日『沖縄タイムス』「マ元帥韓国前線へ」
1950年7月1日『うるま新報』「マ元帥遂に三八度線以北の北鮮基地攻撃命令を発す」「アーモンド総司令部参謀長声明/平壤に爆弾の雨」
1950年7月4日『沖縄タイムス』「シ長官ー琉球は平常な状態=不当な憂慮に警告」
1950年7月28日『沖縄タイムス』「シーツ長官去るーマ指令に沿い親しく住民と復興へ」
1950年7月28日『うるま新報』「シ長官病気で離任、後任はマクローア少将」
1950年7月30日『うるま新報』「シーツ少将 新長官を讃う」 各団体代表者別れの辞」
1950年8月1日『うるま新報』屋宜憲三「戦後の沖縄経済に就いて(上)」「漢那憲和氏29日死去」、山里永吉「法隆寺と金閣寺」
1950年8月2日『うるま新報』南風原朝保「医療制度についてーアメリカの医療制度の紹介かねての感想」
1950年8月4日『うるま新報』「英国 原子計画進む」「水爆生産に着手」米原子委、デュポン会社と契約」
1950年8月25日 沖縄タイムス社『鉄の暴風』(装丁・末吉安久 挿絵・牧港篤三)朝日新聞社

1950年11月15日『沖縄新民報』「10月31日、首里市西森で沖縄美術連盟総会。沖縄美術家協会(屋部憲会長)沖縄美術連盟(山田眞山会長)の両団体を発展的に解消、新たに沖縄美術協会を結成した。」
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1949年1月3日『うるま新報』「我が世の春謳う繁栄の徳元八一一家、曾孫邦子さんで52名」
1949年4月18日『うるま新報』「プロフィルー国場幸太郎」「心音ー春尚之介」
1949年4月24日『沖縄タイムス』「物故新聞人の追悼会」

1949年6月5日『沖縄タイムス』第56号から活字印刷
1949年7月3日『沖縄タイムス』「にぎわう沖展、入賞・大村徳恵氏」
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1949年9月24日『沖縄タイムス』「中華人民共和国ー北京でも主席宣言」
1949年9月27日『沖縄タイムス』「ソ連で原子爆発ート米大統領特別声明/原子兵器独占は不可能だ」
1949年9月27日『うるま新報』「ソ連原爆を有す、ト大統領特別声明」「歓楽街ーあなたはどう思う」
1949年9月29日『沖縄タイムス』「姫百合塔がまきおこす西岡一義氏の排斥問題」

1949年10月4日『うるま新報』「翁長助成ー移民に就いて」

1949年10月11日『沖縄タイムス』「広島・長崎の原爆、沖縄基地を出発ー当時を語る搭乗員」
1949年10月14日『うるま新報』「シ長官、北谷の司令部で志喜屋知事と会談ー能う限り土地も解放」
1949年10月18日『沖縄タイムス』「ヘラルド紙発行許可」「松劇団ーしのべ!一高女の自決を!ああ!沖縄戦の最大悲劇!上間朝久作・千原繁子演出『戯曲・姫百合塔悲歌』全3幕」
1949年10月28日『うるま新報』石野径一郎「ひめゆりの塔(1)」
1949年11月11日『うるま新報』「沖縄住民の協力を得て復興計画を極力推進ーシーツ長官①初めて記者団と長時間会談」
①ジョセフ・ロバート・シーツ(Josef Robert Sheetz、1895年 - 1992年)1939年から1941年までアメリカ陸軍指揮幕僚大学で教鞭を取り、太平洋戦争が勃発した1941年、陸軍省副参謀長に転任した。1944年には陸軍准将・第二十四軍団砲兵指揮官となり、1945年には沖縄戦の戦場に赴き、この部隊を指揮した。

終戦後は韓国に転任したが、1949年10月、ウィリアム・イーグルスの後任として琉球軍司令官・琉球列島米国軍政府の軍政長官として沖縄に戻った。シーツは終戦後4年を経てなお経済・治安の混乱が続き、米軍の軍規も乱れていた沖縄において、経済復興、政治体制の確立、治安改善などの復興策に組織的に取り組んだ占領後初の軍政長官となった。具体的には那覇市街地の首都としての再建、琉球・奄美・宮古・群島民政府の設立とその知事・議員の公選、米軍部隊の再編成と待遇改善・綱紀粛正などを行い、その施政は当時の沖縄住民によって「シーツ善政」と称えられた。

こうした占領政策の転換は、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争勃発直前の緊迫した国際情勢を反映し、アメリカにとって沖縄の軍事基地としての戦略的重要性が高まり、単なる軍事占領から恒久的な統治へと方針が変わってきたために行われたものである。(略)しかし翌1950年末、シーツは病を得て退役することとなり、「善政」は一年余りで幕を閉じた。その後は朝鮮戦争の膠着化や東西冷戦の深刻化などを背景に、沖縄を除く本土のみを独立させるサンフランシスコ講和条約の調印、主席任命制が復活する琉球政府への再改組、アメリカ軍による強制的な土地収用など、島民の希望を裏切る出来事が続き、沖縄における反米感情は再び高まる運命にあった。→Wikipedia


1949年11月12日『うるま新報』「シ長官の施策発表は市況にどう響いたか!住民は笑顔・業者は静観」
1949年11月13日『うるま新報』「売れ行きはどうかーシーツ長官再び売店視察」「にせ軍票現る」
1949年11月15日『うるま新報』「食糧増配・物価値下ーシ長官に感謝」
1949年11月20日『うるま新報』「シ長官に贈る感謝の花束」
1949年11月22日『うるま新報』「シ長官、きのう警察関係を視察ー取締陣を激励」
1949年11月24日『うるま新報』「山城正忠氏、知念病院に入院中22日永眠、享年65才」
1949年11月27日『うるま新報』「米軍のスローガン『太平洋の庭園沖縄』
1949年12月2日『うるま新報』「シ長官民政府を初巡視ー那覇をビジネスセンターに 都市計画で軍も委員任命」「シ長官再び知事と会談”忘れられた島”沖縄の復興に世論を喚起」「米陸軍参謀総長談ー猛獣的日本軍、再建する計画はない」
1949年12月3日『うるま新報』タイム誌記者の見た占領下四年後の沖縄□(略)その軍紀は世界中の他の米駐屯軍のどれよりもわるく、その1万5千の沖縄駐屯米軍部隊が絶望的貧困の中に暮らしている60万の住民を統治して来た。この夏のグロリア台風が沖縄をおそって甚大な被害を与えた時、陸軍ではついにその状況を調査した。琉球司令部は改組され、朝鮮の軍隊で立派な仕事をした明朗で精力家のジョセフ・Rシーツ少将がイーグルス准将に代った。更に、空軍司令官も細心で物静かなキンカイド少将に代ったが、司令官が変わってから沖縄駐屯米軍の志気は大いに是正された。(略)沖縄は米国陸軍の才能のない者や除者の態のよい掃きだめになっていた。去る9月に終わる過去6ヶ月間に米軍兵士は殺人29、強姦18、強盗16、殺傷33というおどろくべき数の犯罪を犯した。シーツ准将は直ちに志気高揚の講座を設置して「諸君は米国政府の無任所外交使節である」と将士にきびしく訓諭した。沖縄人はその苦しい生活を闘牛の如き簡単な娯楽でまぎらわす暢気な国民である。彼等は米国人が好きで、沖縄が米国の属領になることをはっきりと望んでいる。沖縄人は60年以上の長い間沖縄人を田舎者としてべつ視した日本軍や日本商人によって搾取されていた。米軍が上陸して来て沖縄人に食糧と仮小屋を与えた時、彼等は驚き且つ喜んだ。(略)シーツ少将は米国は沖縄に対して作戦上の関心よりも一層多くの関心をもっていると信じており「それはキリスト教国民の他国民に対する道義的責任である」といった。

1949年12月6日『うるま新報』「シ長官夫妻、孤児達を激励、早く大きくなって沖縄のため働くんですね」
1949年12月8日『うるま新報』「サンタクローズの爺さんはシ長官とシャーマン副長官」「開校迫る琉球大学」


12月12日『沖縄ヘラルド』第一号
□2005年4月 山川文康『走即人生』「11月22日から一ヶ月間くらい(社長が出張から帰られるまで)沖縄ヘラルドの記者として手伝うことになった。ヘラルド社は社長・西銘順治、専務・玉城勝信、営業部長・当銘茂夫、編集局長・比嘉憲蔵、大城毅も役員で事務所は国際通り沿いの大城組の建物(トタン屋)を借用していた。みんな当銘君と二中の同期生とのことだが、私は誰も知らなかった。私は暇だったので手伝う事にしたが、記者は誰々かと聞いたら我々二人だけだという。・・・」

1949年12月15日『うるま新報』「シーツ軍政長官、當間重民那覇市長と懇談」「泊、前島の開放は1年半か2年後に」
1949年12月24日『うるま新報』「ワシントンポスト紙 記者の視察記ーアメリカは極東の重要基地として沖縄を確保しようとしている。米国の共産主義防衛の第一線に」

1949年12月30日『うるま新報』「シーツ長官、こども版愛読者代表と会見」
1949年12月31日『うるま新報』「シーツ長官、政党代表と会見」
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Posted by: ryubun02
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1984年12月ー和歌山市民図書館移民資料室『和歌山市民図書館移民資料室』

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1984年12月ー和歌山市民図書館移民資料室『和歌山市民図書館移民資料室』

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』「漢那憲和」

1909年4月4日ーワイパフ在住沖縄県人連合による漢那大尉歓迎会が本願寺附属小学校において開催、嘉手苅林永が開会の辞
、大井開教使、森田栄、清水通弁諸氏の祝辞。本願寺附属音楽隊の演奏、唐手踊などが演じられた。6日には望月での歓迎会、琉球節、琉球踊、唐手が演じられた。

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1910年1月22日『琉球新報』「漢那憲和少佐及び夫人」(写真は別のもの)

1921年
3月6日ー『琉球新報』「中城湾ご仮泊に関し警保局長より県へ公電あり御上陸は不明なるも」
3月6日ー東宮(昭和天皇)来沖

3月7日ー『琉球新報』「此れ眞に千載一隅の栄誉!東宮殿下昨日中城湾に御仮泊 御上陸御自ら民情を御視察遊ばさる」

6月11日ー『沖縄日日新聞』「大正劇場ー立志鑑・那覇ッ児神奈」(漢那憲和がモデル)
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1927年8月1日ー漢那憲和海軍少将、令嬢幸子同伴で春洋丸で来布


写真ー1923年12月16日 尚家前庭にて前列左から銘苅正太郎、神山政良、漢那憲和、下国良之助、嵩原安宜。後列左から一人おいて千原成吾、仲宗根玄愷、東恩納寛惇




2005年1月 『世界』中野利子「漢那憲和のこと」


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私は中学時代、島袋源一郎の『伝説補遺沖縄歴史』を愛読していた。伝説だから多少神話的な要素もあった。こういった歴史書は今となっては郷愁を伴ない懐かしく私の琉球学の大半を占めている。だから昨今の客観的というか合理的な歴史書には郷愁を感じることはできない。だから友人たちの歴史書以外は手にすることは無い。

巻頭  琉球各王統一覧
第一章 沖縄人の祖先ー日本列島の地形より観たる沖縄/向象賢の日琉同祖論/新井白石と藤井貞幹の説/英国僧侶及ペルリ一行の観察/チャンバーレン博士の説/宜湾朝保の古語比較/亀田次郎氏の及金澤博士の言語学的考察/新屋敷教授の言語比較/久米・白鳥両博士の日本民族説/坪井・鳥井(居)・松村3博士の人種学説/北里闌氏①の言語学的観察/桐原博士②の血清学的考察/伊波文学士の考察/柳田・折口両氏の土俗学的調査/伊東・黒板両博士の調査/其他土俗の類似

第二章 天孫子王統ー開闢説/アマミキヨと東御巡禮/三地方の区分/神々出現して守護す/当時の風俗/南島と日本本土との交通/隋の煬帝琉球を招撫す/天孫氏の没落/沖縄と琉球の名称に就いて

第三章 舜天王統ー第一代舜天王/片髻伝説/鬼餅の由来/源為朝渡来に関する諸説/第二代舜馬順凞王/屋良漏池の伝説/第三代義本王/義本王の末路と南山佐久眞王子の行方

①北里闌ー国学者。熊本県生。歌道を鎌田正夫・高崎正風らに学ぶ。渡独後、もっぱら日本の古代語の研究をすすめる。昭和34年歿、90才。 →コトバンク

②桐原真一(1889〜1949)ー旧東京帝国大学医科大学を卒業。卒業生として助手を務めた後、1926(大正15)年に名大の前身、旧愛知医科大学の教授に就任した。胃鏡でがん、潰瘍、胃炎、胃下垂などの患部を直接見ようと、数百回の診断と観察を繰り返した。昭和初期、胃の中を見る検査には筒のように太く硬い、真っすぐな「胃鏡(いきょう)」が使われていた。出血や吐き気を伴うことから多くの医者に敬遠されていたが、あきらめずに研究を続け、今ののみ込みやすい胃カメラにまで発展する基礎をつくった。がんの早期発見を実現。


島袋源一郎資料
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那覇区泉崎の士族・久場政敦(漢学者)の長男として首里区桃原町で生まれる。弟に政盛、政和が居る。
1896年 沖縄県師範学校卒業。台湾で小学校訓導として8カ年勤務、上京
1909年 朝鮮に渡り、学校教育に専念する一方、金石文の拓本の研究を積む。

1923年
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植村正久を囲んで/上の木の枝間から見える左が久場政用。前列右2人目ー新垣信一牧師(子供二人の後)、3列目右から4人目ー大城カメ姉(元玉城ノロ職)

植村正久【うえむら・まさひさ】.
生年: 安政4.12.1 (1858.1.15)
没年: 大正14.1.8 (1925)
明治大正期のキリスト教思想家,牧師。幼名道太郎。謙堂,桔梗生などと号した。家禄1500石の旗本の長男として上総国山辺郡武射田村(千葉県東金市)に生まれる(一説に江戸芝露月町)。大政奉還により生家が窮し,貧困の中で幼年期を過ごす。明治1(1868)年,一家で横浜に移った。この地で宣教師J.H.バラの私塾などに学ぶうちキリスト教にふれ,同6年,日本最初のプロテスタント教会横浜公会で受洗。伝道を志して東京一致神学校(明治学院)に学び,按手礼を受け,同13年に下谷一致(日本基督教団豊島岡)教会の牧師となる。同20年,番町一致(日本基督教団富士見町)教会を設立,終生その牧師を務めた。関東大震災(1923)で被災した教会や神学校の復旧に奔走する中で健康を害し,東京柏木の自宅で急逝した。 植村の事績は以下の3点にまとめられよう。①日本におけるプロテスタント・キリスト教の草創期にあって教会の育成に尽力し,特に日本基督教会と称する主要教派の形成発展に指導的役割を果たした。②日本における正統的プロテスタント信仰の神学的基礎を固め,神学校の東京神学社を創設(明治37年)して自ら神学校育と伝道者の養成に当たった。③『日本評論』,『福音週報』(のち『福音新報』と改題)などの定期刊行物を発刊し,キリスト教のみならず国家社会の諸問題をめぐって幅広い評論活動を行った。また,聖書の翻訳や讃美歌の編纂事業にもかかわり,旧約聖書の詩篇などに名訳を残した。島崎藤村の詩「逃げ水」(『若菜集』)は植村の訳した讃美歌の書き替えであることは名高い。また文学評論や英文学紹介の業績も評価されている。 植村はキリスト教の根本義を,罪ある人間がイエス・キリストの十字架の死と復活に贖われ神との和を回復することにあるとした。その罪意識の背後には,志を天の高みに向ける武士の克己の精神をみることができる。『植村正久著作集』全7巻がある。<参考文献>藤田治芽『植村正久の福音理解』,京極純一『植村正久』 (鵜沼裕子)→コトバンク


1926年5月23日『沖縄タイムス』


1932年8月31日 久場政用『琉球金石総覧』(鹿児島県立図書館所蔵)
□近頃郷土研究熱の勃興と相俟って金石文及其の拓本の蒐集に努力する人々が多くなりました。東京に於いては早稲田大学生の一団が展覧会を開いて金石文の拓本趣味を盛んに宣伝しております。関西では京都大学生が目覚ましい働きをしているようです。


久場政用 1934年調査『琉球列島之文化史料と博物資料』

1935年4月 『沖縄教育』第224号 島袋源一郎「蓬莱島琉球と黄金の島大琉球ー(略)偖て之が裏書をなすべき郷土の文献とは過般久場政用氏に依嘱して県下に於ける金石文の拓本をとって貰ったら、『中山國王殿前に懸けし巨鐘の銘』に、琉球國者南海勝地(略)」


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仲宗根幸市(今帰仁村湧川出身)


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仲宗根幸市氏の著作(下は左2冊)

1990年4月『すくみち』第12号 仲宗根幸市「湧川の『マリー』について考える」



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左から2人目が仲宗根幸市氏、右端が新城栄徳

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写真ー左が田名宗相(父・宗經、童名・真太郎/唐名・梅宏昌、室・貝氏渡嘉敷唯法の娘/後室・岸本賀昌の母の姉)/梅氏系図

太上感応篇大意/喜舎場盛元撰

 本資料は、周鼎臣によって編纂された中国の勧善書を集めた福建版敬信録の『太上感応篇』を祖本に、琉球の喜舎場盛元が抜粋して和訳し(1831年序)、魏氏運天常行の書を元に田名宗経・宗相父子よって1858年に刻字、版行されたもの。『太上感応篇』は中国でもっとも代表的な勧善書で、密かに善行をつめば自己や子孫に果報を招き、悪行をすれば早死するなどの儒教的善行の勧めを説く。琉球へは19世紀初頭に伝来したといわれ、跋文によれば、撰者喜舎場は広く流布させることを意図していたが、書写の煩によって普及が芳しくなかったため、田名宗経・宗相父子によって刊行されたとその経緯が記されている。刻字・版行を行った田名父子は首里王府時代を代表する彫刻家として知られている。  →琉大附属図書館



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嘉陽宗博「ふるさとからの友の手紙で」

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鶴嶋雪嶺, 1969, 「『デイゴの会』の誇りと悩み」『思想の科学』第5次 (96), 44-51.

□→「大阪沖縄連帯の会(デイゴの会) - Arsvi.com」

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2015年4月13日、ジュンク堂に行くと宮﨑義敬『繚乱の人』展望社が3、4冊あった。「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した美」の基礎資料の一つだ。


石野径一郎『ひめゆり部隊』より上は乙姫劇団。下4枚が平良リエ子さん



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1960年4月13日ー山下清、式場隆三郎来沖。

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1960年5月ー『オキナワグラフ』「竜宮にきた裸の大将ーある夜の山下画伯」

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1959年11月16日ー岡本太郎(画家)来沖/1971年10月27日ー岡本太郎・開高健、潮文化講演会で来沖

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岡本太郎没後に出た図録類
□1959年2月ー『大宅壮一選集1』筑摩書房「信者のいない文化教祖・岡本太郎ー芸術がすべてのような家庭に生まれ、普通の世界と遮断されて成長した彼にあっては、人生の中から芸術が生まれるのではなくて、芸術の中から人生が生まれてくるようなものである。」

□1960年1月1日『琉球新報』「沖縄を料理する・毒舌ことはじめー大宅壮一・岡本太郎」

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辺野古新基地NO

2015年4月10日『琉球新報』新崎盛暉「菅氏の欺瞞性を指摘ー(略)沖縄の平和な未来を、『運用年数40年、耐用年数200年』(米国国防総省報告書)の辺野古新基地建設によって閉ざしてはならない。」


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金城朝夫「”唐旅”印象記」、島袋温子「見たまま、感じたまま『中国の婦人』」

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『噂の真相』を糾弾する右翼結社

屋良朝博氏、 岡留安則氏、

ネットの「岡留安則の幻視行日記 」をいつも愛読している。同感というか意見が同じ所を抄出する。詳しくは同ブログを。
岡留安則の幻視行日記 - 噂の真相2012.01.01■1月某日 (略)しかし、東京電力や霞が関、官邸の杜撰な事故処理の検証がだんだん進むにつれ、怒りがふつふつとわいてくる。福島をはじめ東北の人たちは我慢強いといわれるが、まさにそのとおりである。普通ならば、暴動の一つや、東京電力に対する襲撃事件くらい起こっても不思議じゃない。世界の動きを見ていれば、帝国主義の本家・米国のニューヨークですら、反格差の運動が起こっている。中東、アラブ世界、ギリシャ危機に端を発したEU危機、ロシア・プーチン派の不正選挙に対する怒りの抗議行動、世界中が怒りの抗議を見せている。例外は金正日総書記を失った独裁国家・北朝鮮くらいのものか。しかし、それにしてもわが日本も実に「不思議の国」である。
  
年末ぎりぎりになって野田政権の民主主義を無視した暴挙ともいえる独裁的政策が国民の目を盗んで断行された。財務省に完全洗脳された野田総理や民主党執行部が消費税増税でなぜここまで必死になるのか。ただでさえ景気の悪い日本がよりダメになり、生活困窮者や年金生活者には過酷な税金重圧である。米国への忠誠の一点において、普天間基地の代替施設である辺野古新基地の環境アセスの提出も県庁の御用納めの午前四時に強制的に執行された。沖縄県民の一部は県庁内に座りこみをやって、防衛省・真部朗局長らの暴挙を阻止する実力行使に出た。しかし、極東一の空軍基地のある嘉手納町にそびえたつ沖縄防衛局の建物に放火する人も火炎瓶も投げる人もいなかった。福島県民も大人しいが、沖縄県民もその意味では大人しい。そこに付け込んでいるのが、野田政権や、防衛省官僚どもである。

「サンデー毎日」の正月グラビアとして企画された有名人への年賀状で筆者にはジュリアン・アサンジが指名された。原稿の締切に間に合わず没になったが、年賀状は書かない筆者だが、ここにその内容の一部をここに紹介しておきたい。
<アサンジさま、いかがお過ごしですか。貴殿のウィキリークスの歴史的な国家機密暴露活動に敬意を表している日本のフアンの一人です。実は私も活字を武器に雑誌メディア「噂の真相」で25年間にわたり、告発ジャーナリズムを実践してきました。書かれた側からの裁判沙汰や右翼団体による肉体的な危害も受けました。「国家を撃つ!」活動は、暴力装置を併せ持つ国家の先兵たちが、さまざまな干渉、妨害、抹殺のための刺客をあちこちに配置しています。 しかし、貴殿の仕事はノーベル賞以上の、世界の平和に貢献する英雄的行為です。私は雑誌という媒体でしたが、一瞬のうちに世界を駆け巡るインターネットに比べれば、手ぬるく、まどろっこしい進化が遅れたメディアです。むろん、世界中に存在する新聞、電波メディアも既得権益の中で、真相を追及するにはタブーや手枷足枷が多すぎます。マイケルムーア監督のドキュメント映画による告発も支持していますが、アサンジさんのネットメディアによる告発・暴露には、市民目線で言えば絶対的正義があります。国家が総力をあげて妨害、潰しを仕掛けてくるでしょうが、世界市民というバックグランドの方が強大で、その存在は不滅です。既得権益を死守する連中にとっては、きわめて現代的なゲリラ革命に見えるはずです。身辺に気を付けて、今年もウィキリークスの存在を全世界に発信してください。既得権益に縛られた旧時代はもう世界的に今年で終わりにしましょう。 米軍基地に占拠された極東の島・沖縄より 岡留安則>

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富島壮英「久米三十六姓とは何か」

神坂次郎氏と富島壮英氏



久米孔子廟
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2012年3月19日14時ー久米至聖廟建設工事安全祈願祭



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新城喜一画
1933年4月7日ー久米孔子廟

(社)久米崇聖会 1914年(大正3年5月)、孔子廟・明倫堂を組織的に管理運営するため久米村の有志により社団法人として設立されました。太平洋戦争で一時中断しましたが戦後復活し、2014年(平成26年)には100周年を迎える歴史の古い団体です。戦後は那覇市若狭の天尊廟地内に構え、道徳の高揚を図り久米至聖廟(久米孔子廟)、天尊廟、天妃宮、明倫堂などの維持管理と釋奠祭禮の祭祀、人材の育成、もって地域社会への貢献、広く国際平和のために寄与することを目的として活動しています。□→「久米至聖廟」

2013年2月4日記ー那覇市 福州園
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福州園に隣接の久米至聖廟が建設工事中

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李白像

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04/10: 中国①

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1936年 『琉球新報』「『黄尾嶼』の所有権 古賀記者の厳父が開墾 猟奇の島を語る古賀氏」

1972年4月~5月 「沖縄青年訪華団」
「沖縄青年訪華団」団長・友寄英正、副団長・田島一夫、秘書長・仲里効、顧問・新川明、大浜敏夫、上原勇、池原盛治、上原俊夫、島袋温子、仲村渠由美子、祝嶺定夫、随員・松尾藤男


1974年7月、大阪で「中華人民共和国展覧会」があった。元沖青友の会のメンバーが中国関係の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』、『毛主席語録』と大中国地図などがある。
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『毛主席語録』/中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。


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1982年北京『辭源』/1982年上海『中國歴史地圖集』

2009年10月 荘魯迅『一冊でつかめる!中国近現代史』講談社□2011年9月 荘魯迅・著/劉宗徳・訳『台灣不教的中國近代史』大是文化有限公司

1992年6月 「中国大陸3000キロ踏査行連続講座」浦添市立図書館視聴覚ホール

1993年3月 『道を拓くー甦る進貢使路 中国大陸3000キロ踏査行』同実行委員会
□名誉会長・太田昌秀沖縄県知事、名誉副会長・比嘉敬沖縄タイムス社社長、会長・新川明沖縄タイムス社専務、副会長・大城進一沖縄県知事公室長、同・比嘉昇沖縄県市長会会長、同・山城時正沖縄県町村会会長、同・親泊康晴那覇市長(福州友好都市)

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2000年北京『清代中琉関係档案』

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2001年 紫禁城出版社『清史図典』

2004年8月20日~9月30日 那覇市民ギャラリー「中国・北京故宮博物院蔵 帰ってきた琉球王朝の秘宝展」主催ー那覇市、(財)海洋博覧会記念公園管理財団、沖縄テレビ放送、琉球新報社、沖縄産業企画

2008年11月1日~12月21日 沖縄県立博物館・美術館「中国・北京故宮博物院秘蔵 甦る琉球王国の輝き」(沖縄県立博物館・美術館一周年記念博物館特別展)主催ー沖縄県立博物館・美術館、沖縄県教育委員会

2012年11月23日『沖縄タイムス』新川明「尖閣を沖縄帰属へー(略)さいわい、次の中国国家主席になる習近平氏は福建省長だった2001年に来沖、翌年の友好省県締結5周年記念イベントを提案、成功させるなど親密な関係にあった。当時の県知事稲嶺恵一氏は『琉球の歴史に詳しい。一種の身内意識のようなものを抱いていたのではないかと思う』とその印象を書きとめている。沖縄を日中のかけ橋とする好機にすべきである。」
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1982年4月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「中国8 広東、潮州、福建、台湾」朝日新聞社
1982年4月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「中国9 少数民族の食文化、宗教と料理」朝日新聞社
1982年4月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「中国11 茶と酒」朝日新聞社
1982年5月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「中国12 中国料理の基本技術」朝日新聞社
1982年5月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「東南アジア2 ビルマ、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナム」朝日新聞社
1982年10月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「日本編17 沖縄」朝日新聞社
○歴史を物語る産物、文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・源武雄
沖縄の郷土料理・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新島正子
八重山地方の食生活・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮城文
豚からの贈り物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・古波蔵保好
祭り、行事と食べ物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新垣博子

1983年3月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「日本編38 近世の食事」朝日新聞社
1983年4月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「日本編39 近代の食事」朝日新聞社
1983年5月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「野菜の文化」朝日新聞社
1983年5月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「雑穀とマメの文化」朝日新聞社
1983年6月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「油脂の文化」朝日新聞社
1983年7月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「喫茶の文化」朝日新聞社
1983年7月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「菓子の文化」朝日新聞社
1983年7月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「食器と食卓の文化」朝日新聞社
1983年8月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「食の未来」朝日新聞社
1983年8月『週刊朝日百科 世界の食べもの』「台所と調理器具の文化」朝日新聞社
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2009年6月『いのちの籠』12号 三井庄二「『反戦反核映画』考(5)ー『卵を割る壁』の側にならない」
2010年2月『いのちの籠』14号 三井庄二「『反戦反核映画』考(6)ー木下恵介作品に見る母親像(上)」
2011年6月ー『いのちの籠』第18号ー戦争と平和を考える詩の会(〒143-0016 大田区大森北1-23-11 甲田方)
堀場清子□いのち
(略)安全より利潤をむさぼる電力会社と
癒着する経済産業省 文部科学省
それにぶらさがる原子力安全・保安院は
まさに監督すべき危機に瀕し
真っ先に逃げ出した
役立たずでいながら高給を食む
原子力安全委員会委員長
族議員たち 御用学者たち
欠陥原子炉と 欠陥発電所の設計者 建設業者
電気機器等いっさいの設備製造会社と その施行業者
地元の誘致派に至るまで
儲けた人は数多く
利権の金の水脈 たふたふと流れ ゆきわたり(略)

2011年10月『いのちの籠』19号 三井庄二「『反戦反核映画』考(8)ー1950・60年代の『反原水爆』」
2012年2月『いのちの籠』20号 三井庄二「『反戦反核映画』考(9)ー70年代末以降の『反原発』『反核』」
2012年6月『いのちの籠』21号 三井庄二「『反戦反核映画』考(10)ー『劇映画』2000年以降と『記録・アニメ映画』」
2013年6月『いのちの籠』24号 三井庄二「『反戦反核映画』考(11)ー映画界・映画人の戦争責任」
2013年10月『いのちの籠』25号 三井庄二「『反戦反核映画』考(12)映画界・映画人の戦争責任」
2014年10月『いのちの籠』28号 三井庄二「キジバトになった少年の話」

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ジミー創業者の稲嶺盛保氏宅の大嶺政寛の作品、新城栄徳、稲嶺盛保氏
□2007年7月『オキナワグラフ』「私の宝ものー稲嶺盛保」
稲嶺盛保さんと翁長良明(沖縄コレクター友の会副会長)とは、長年にわたる大家と店子の関係で親しい。
□2008年2月『オキナワグラフ』「私の宝ものー翁長良明」


□戦後まもない1947年、沖縄の人びとも、ようやく雨露をしのげる家を持ち、ほっと一息ついていたそんな頃、創業者の稲嶺盛保は米軍基地内で働いていました。基地の外の食糧配給売店では、米・小麦粉・トウモロコシ・缶詰などが政府の統制下で売られていた時代です。それとは対照的に、基地の中では豊かな物資であふれた別世界が広がっていました。
基地内で働くうち、アメリカ人の友人も出来、稲嶺はジミーというニックネームで呼ばれるようになりました。そんなある日、基地内のベーカリーで働く友人に声をかけられ、香ばしいパンが出来上がるのを見て、基地の外でのパンづくりを思い立ったのです。それから、鍋などの道具は何でも手作りし、パン焼きに必要な機械を揃え、1956年ついに宜野湾市大山にて店舗をオープンさせました。店の名前は、ニックネーム「ジミー」より、「ジミーグロセリー」に決めました。基地からベーカリー専門の技術者を招き、おいしいパン作りを探究しながら、製品の流通・販売なども手がけていくうちに、地道なパンづくりと商いが実を結び、事業は順調に伸びていきました。

そんな矢先、沖縄復帰が決まり、基地雇用者の大量解雇や物価の高騰、ドルショックやオイルショックなどの経済変動に直面し、一時経営不振に陥ります。稲嶺は、その打開策として、スーパー、レストラン、ベーカリーの3本柱にしぼるという経営転換策を打ち出しました。そして、1976年有限会社ジミーベーカリーに組織を変更、同年12月ジミー大山店新店舗完成。日本国内だけでなく、ヨーロッパ、ハワイ等世界各国のベーカリーや流通産業を巡り、その優れた技術やシステムを導入。さらに、那覇店、室川店、ダイナハ店と確実な拠点づくりを行い、技術の習得や品質の向上など食に対する様々な研究を重ね、1984年7月には「株式会社ジミー」を設立しました。 1989年、宜野湾市大山に最新設備と規模を誇る本社・工場が完成し、常に安全で美味しい食品づくりを目指す食の総合企業として今日に至っています。→JIMMY's INFORMATION

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岡本太郎「明日の神話」(部分)1968年/原爆をモチーフとしている。増殖する黒雲、燃え広がる業火、ビキニ環礁で被爆した第5福龍丸も描き込まれている。

『新沖縄文学』と岡本太郎
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超タイフー「タロウ」オキナワに上陸か

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2012年1月 『今がわかる 時代がわかる 世界地図』成美堂出版

2012年8月15日『沖縄タイムス』に「広島フォーラム『核のない世界を』 原発神話 メディアの罪」がある。朝日新聞の上丸洋一氏が「朝日新聞に戦後初めて、原子力の平和利用についての記事が載った日は、敗戦直後の『1945年8月16日だった』と報告」が目についた。

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1959年1月 米国高等弁務官府『守礼の光』創刊号~1972年4月 第159号/1972年5月 最終号

『守礼の光』で原子力関連記事を見ると、1959年1月「原子力を平和へ」、68年2月「原子力サバンナ号 那覇に寄港」「原子力科学者の語る未来の原子力『食品工場』」、69年5月「放射線はどこまで人体に安全か」、69年6月「原子力応用技術」、70年5月「原子力時代にはいる日本」と豊富に載っている。上記の『守礼の光』に関連して、2011年7月9日の『沖縄タイムス』に「原子力で世界平和/電気代は年間3ドル 米機関紙、原発浸透図る」と解説されている。
1945年8月15日 『ウルマ新報』「原子爆弾 太平洋戦線に現る」
1947年3月15日 『アサヒグラフ』「原子力時代作る」
1950年4月6日ー『沖縄タイムス』「ソ連は原子力の威力として山を平地に、海を作り、気候を変え、自然の秘密を解明して病気を撲滅できる」
1950年4月11日ー『沖縄タイムス』「原爆にそなえ米6月から新防空態勢」
1950年6月23日ー『沖縄タイムス』「ジョンソン国防長官、沖縄基地強化し難攻不落な要塞に」
1952年12月 『文芸春秋』中谷宇吉郎「原子力時代のふしぎ」
1954年5月 『文芸春秋』「座談・活かせ原子力/坂田昌一、菊池正士、湯川秀樹、佐治淑夫」
1954年11月 『改造』小椋広勝「原子力輸出時代」

1955年
1月10 ー『沖縄タイムス』「米、太平洋諸国防衛に原子兵器を使用ーグアム、沖縄に巨大な爆弾貯蔵か」
1月11日ー『沖縄タイムス』「米、民間原子力発電を援助」
1月18日ー『沖縄タイムス』「ア大統領『沖縄占領は無期継続。太平洋地域防衛上決定的な戦略拠点』
7月30日ー『琉球新報』「原子砲きょう那覇港で荷卸し」
8月15日ー『琉球新報』「英国のダ博士(ハーウエル原子力研究所)『原子力は習うよりなれよ』と日本に忠告」
9月 『文化生活』「神と悪魔の共存共栄 それが今の原子力だ」
10月27日ー『琉球新報』「原子砲試射で学徒4名が爆風のガラスで負傷」
12月26日ー『琉球新報』「揺らぐ原爆基地沖縄ー軍用地主は飢え訴う」

1956年
2月 『リーダーズ・ダイジェスト』「日本で人気を呼んだ原子力博覧会」
4月25日ー『琉球新報』「東海村の原研建設準備進む」
5月23日ー『琉球新報』「米の水爆実験は成功」
6月18日ー『琉球新報』「全米企画協会が日本に1965年までに原子力発電を勧告」
6月24日ー『琉球新報』「米下院プライス委員長『沖縄は原子力の平和利用の成果を世界に示すために一番適している。』」
 
11月  『おほもと』出口うちまる「いまは原子力時代とも言われる科学のもっとも発達した時代ですが、その学力によって人間がつくり出したものは原水爆です。原水爆が暴威をふるえば、人類は自ら亡びてしまわなければなりません、言いかえれば原水爆を地上から無くしてしまう力は、人類同胞愛よりほかないでしょう。しかもそれは神に根ざした宗教的愛にまで徹しなければ、原水爆は悪魔に利用されてしまいます。」

1957年2月18日~3月6日 琉球新報社主催で「原子力の平和利用と科学博覧会」(那覇市)  

1958年11月ーハンソン・ボールドウィン/中野五郎『これが核兵器競争だー最新の米ソ軍事力の比較と戦略』実業之日本社
□フォレスタル米初代国務長官「これは私が長年、強く抱いていた信念の一つでありますが、いわゆる『安全保障』(セキュリティ)という言葉は英語よりたたき出して、その代わりに『危険』(リスク)という言葉に取り替えるべきであります。どんな国でも、大きな危険というものは、その国民が国家の安全保障についてなにか絶対的なものがあるように信じ込むことです。航空兵力であろうと、原子爆弾であろうと、財富であろうと、それはいずれもそれ自体が決していかなる保証も与えるものではありません。」

2002年3月 斉藤光政(東奥日報社会部)『米軍「秘密」基地 ミサワー核と情報戦の真実』同時代社
□三沢は自らの基地から直接、ソ連・中国を狙う大型と、群山(韓国)から朝鮮・中国をうかがう小型の二本の「核のヤリ」を同時に持っていたのである。
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
筈見有弘(1937年~1997年6月14日) 父は筈見恒夫。慶應義塾大学文学部卒。イタリフィルム(のちの東京第一フィルム)、日本ヘラルド映画宣伝部を経て、映画評論家。妻も映画評論家の渡辺祥子(共立女子大学文芸学部 映画専攻。卒業後、雄鶏社「映画ストーリー」編集部入社。PR誌編集長を経てフリーのライターになり、今日に至る)。

筈見恒夫(はずみ つねお、1908年12月18日 - 1958年6月6日)は、日本の映画評論家である。映画の宣伝マンの傍ら、批評活動をつづけ、途中、映画プロデューサーをつとめたことがある。23歳のときに脚本家としてもデビューしている。本名は松本 英一(まつもと えいいち)、サイレント映画の時代に活躍した映画監督の松本英一とは別人である。満49歳没。一周忌を迎える1959年(昭和34年)6月、岸松雄、長男筈見有弘らの手で『筈見恒夫』(筈見恒夫刊行会)が刊行された。→ウィキペディア





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