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Category: 04-書の森
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1984年12月7日 『琉球新報』松島弘明「俳人・末吉麦門冬が没して60年」写真左から大浜ゆみ子さん、末吉節子さん、石垣米子さん


神坂次郎氏(左)、末吉節子さん、安允氏
神坂次郎『南方熊楠の宇宙: 末吉安恭との交流』四季社


出版した『南方熊楠の宇宙: 末吉安恭との交流』四季社と、熊楠直筆の手紙を持つ神坂さん
       



神坂次郎サイン会で神坂次郎氏(左)と大浜さん御夫妻





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Posted by: ryubun02
編輯発行兼印刷人・馬上太郎
月刊文化沖縄社 那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社 東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局 パラオ島コロール町 大宜味朝徳

首里城正殿の鐘を迎へて・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉康和・・・・11
○国難が愈々具体化し、学徒出陣の強い羽搏ちは洵に歴史的壮観であり、全国民の覚悟を新たにした。此の時、此の島に於いて由緒深い首里城正殿の巨鐘を元の御城に迎へ郷土博物館に安置することが出来たのは戦勝の前兆であり、大東亜共存共栄圏建設の暗示であらねばならない。

 荒井警察部長が仲吉市長と鐘銘に三嘆したと云ふ晩、偶々或る会場で一緒になり、部長は余程感激したと見へ重ねて大鐘の由来を諮かれたから、親泊政博君と二人で交々その経緯までもお話し、尚ほ国民精神の昂揚に資すべく眞教寺から首里城内に還元するやう御尽力を願ったところ、数日の後親泊壮年団長の案内で実物実見に及び一入感銘を深くし、早速非公式に交渉したら、田原住職を始め信徒総代も快諾された。(略)東恩納先生が喜ぶであらう。源一郎君が生きて居たらと全発君等と話し合って法悦に浸た。回顧すれば昭和8年東恩納教授は英独佛に調査研究を命じられたが、希望して支那及び南洋諸国に変更されたことは一大見識であらねばならない。その鹿島立に際し「私は之から祖先の偉大なる魄を迎へにまなんばんへ参ります」と郷土の人々にメッセーヂーを送られた、其の偉大なる魂は此の鐘銘にも躍動している。

追記 伊江男と東恩納教授から左記の如き祝辞と感謝の御芳書を戴いた。
 鐘を無事に元の御城に美御迎へしたことは近来の大快亊ですから尽力せられし各位に衷心より感謝と敬意を表します。(伊江朝助)
 豫々念願の大鐘漸く旧棲に戻り候趣落花流水其根源に帰し候段本懐至極偏に御尽力の責と感謝に不耐第一回の御書面は17日落手その為に祝意間に不合遺憾に存居候何卒諸君へもよろしく御伝声被下度願上候(東恩納寛惇)

梵鐘を送る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田原惟信・・・・・26
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編輯発行兼印刷人・馬上太郎
月刊文化沖縄社 那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社 東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局 パラオ島コロール町 大宜味朝徳

表紙ー崇元寺本堂  
巻頭言 ”舟楫を以て萬國の津梁と為し、異産至寶十方に充満せり云々”の雄渾無比なる快文字の銘せられたる梵鐘が、その昔掛着せられたと云ふ首里城内に此の程安置された。古の我が琉球國は、唇歯輔車の仲に在る日本、支那は固より、北は三韓より、南は遠く安南、暹羅、満刺加、爪哇蘇門答刺等の諸域を比隣の如くに往来して、その異産至寶を将来し、その諸種の文化を鍾聚することに力めた。此の雄偉勁抜なる気魄を有したればこそ、洋中の蕞爾(さいじ)たる一小王国たるに拘わらず、清新溌剌たる気分の充満し、闊達にして高雅なる趣致の横溢せる藝術乃至文化を産出することも出来たのであった。

 高遠なる大東亜共栄の理想郷建設を豫示するが如き銘文の刻せられたる梵鐘が還元したるを機として、歪曲せられざりし我が民族の本来の面目に立ち帰り、皇国の新進路に向かって活溌溌地の大活動をなさねばならぬ。それに付けても吾人は、郷土史家を糾合して完全なる一大郷土史の編成を期せんことを敢えて提言し度い。従来幾多の郷土史はあれども、或物は忠実なる史料の羅列に過ぎず、或物は簡明なるが如きも粗雑に失するの嫌がある。されば衆智に依って整然たる、学問的な信憑すべき歴史を大成することは今日の急務ではなかろうか。

大舛大尉に就いて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤野憲夫・・・・2
大舛大尉を偲ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・糸洲朝松・・・・3
秋夜想出せる詩歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鷺泉・・・・・・・・6
首里城正殿の鐘を迎へて・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉康和・・・・11

寒露漫筆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊野波石逕・・・・15
病暦・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・18
新発足したる商工経済会に就て・・・・・・・・・・護得久朝章・・・・・20
勤労奉仕(○○造船所にて)・・・・・・・・・・・・・・徳田安俊・・・・・・21
佛領印度支那旅行記(4)・・・・・・・・・・・・・・・・・與儀喜宣・・・・・23
梵鐘を送る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田原惟信・・・・・26
無縁墓を訪ねて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐渡山安治①・・28
僕の周囲・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・徳村静農・・・30
四美具はる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新崎盛珍・・・34
伊豆味・瀬底・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・泉國夕照・・37
編輯後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新崎盛珍

舟楫を萬國の津梁と為す  本来の面目に帰り  大舛大尉に続かん

①佐渡山安治著作目録

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Posted by: ryubun02

2015年6月『月刊琉球』 <500円+消費税> Ryukyu企画〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16  ☎098-943-6945 FAX098-943-6947
1937年5月  『月刊琉球』弟1巻第1号
          医業四十年・・・・・大久保孝三郎
          小説「風雲」・・・・・山里永吉/絵・金城安太郎

1964年10月『守礼の光』「ナンシーさんの墨絵修行」

1937年6月  『月刊琉球』弟1巻第2号
          □トーキーニュースに就いて(印刷文字による煩雑な描写は既に昨日のものになりつつある)

1938年  

1938年   1月『月刊琉球』石川正通「銃後迎春」
         2月『月刊琉球』石川正通「石川内閣の夢」
         
1938年3月6日『沖縄日報』「石川文一の琉球叢書」(画・金城安太郎)

         4月『月刊琉球』「編集閑話ー本山裕児入社<1>、佐々本幹雄退社」
         <1>本名・本山豊、弟も夢路の名で知られる詩人。父は馬天居士の名で知られる歌人の本山萬吉□1939年5月3日(70歳)没 長男・裕児、二男・常男(ブラジル在)、三男・政比古(鹿児島在)。 1940年8月  石川文一、金城安太郎と『月刊文化沖縄』を創刊する。        
         9月『月刊琉球』石川正通「辻斬り異聞
                 
         11月『月刊琉球』石川正通「沖縄サンミン主義」 

1940年8月 『月刊文化沖縄』創刊号
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1940年10月号の表紙絵も創刊号と同じ金城安太郎「琉球の姫」





沖縄朝日新聞社前でー左が金城安太郎、本山裕児

=祝 創 刊=・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・①上山草人をめぐる会(東京市淀橋区東大久保2ノ278) 三村伸太郎・川崎                                                                           弘子・山本礼三郎・沼波功雄・前沢末弥・上山草人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 表紙裏

特輯グラビヤ「デイゴ樹の花」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・撮影/今井小四郎・・・・・・・・・・・・(1)
特輯グラビヤ・琉球の夏「蘇鉄ー首里王城内の孔子廟にて」「美女ー蛇皮線の根締」「壷屋所見」「島尻、奥武島にて」「鮮魚を頭へ乗せた糸満の女」「琉球美人」・・・・撮影/今井小四郎、曲田益雄・・・(2)(3)(4)

目次・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(5)
郷土の映画・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北川鉄夫・全日本映画人連盟書記長 6ー8
琉球研究資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・N・O・N  8
沖縄語彙(絶筆)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬天居士 9ー11
初夏の故郷へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊波南哲 11-12
蛙鳴蝉噪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本山裕児 13
東北方言の調査を終りて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮良當壮 14-15
日劇の『八重山群島』を見る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・内田岐三雄 15
あの頃の話・琉球の佐倉宗五郎(城間正安)・・・・・・・・・・・・・大城朝貞 16-19
文化沖縄抄/映画鑑賞会生る・ロードショウ・石井みどり・沖縄の姿・土と兵隊・海洋飛躍史・標準語問題   18


1940年5月11日『琉球新報』


1940年6月20日『琉球新報』

琉球歴史読本・大章 天孫子時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川文一 20-21
琉球王国『御法條』より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
読切時代小説・復習・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川文一/挿絵・金城安太郎 22-32
編輯の弁



上山草人 かみやま-そうじん
1884-1954 大正-昭和時代の映画俳優。
明治17年1月30日生まれ。45年近代劇協会設立に参加。新劇俳優として活躍後,大正8年渡米し,ハリウッドで「バグダッドの盗賊」などおおくの映画に出演。昭和4年帰国後,「赤西蠣太(かきた)」「七人の侍」などに脇役で出演。昭和29年7月28日死去。70歳。宮城県出身。東京美術学校(現東京芸大)中退。本名は三田貞(ただし)。→コトバンク

1939 昭和14年4.5. 映画法公布。全日本映画人連盟に統合される。→日本映画監督協会

○6月22日 石川和男ー今、思い出したのですが、父、石川逢正は首里第二高等小学校を卒業して勤めた向春商会印刷部に居た頃、当時(多分昭和8~10年頃)、垣花にお住まいの金城安太郎氏のお宅に、東町から自転車に乗ってイラスト原稿を貰いに行った、と言っていました。だから僕は以前から金城氏の名前だけは知っていました。又、沖縄向学の先代校長名城政治郎氏の父君がよく、教材の印刷の依頼に来ていたとも言っていました。沖縄で最も古い予備校なのだと思います。

●は未確認
●北川 鉄夫(きたがわ てつお、1907年(明治40年) - 1992年)は、日本の映画評論家。本名は西村龍三。北川鉄夫とは、京都宇治の花やしきの北側を宇治川が流れているところから「北川」、山本宣治追悼歌の歌詞「鉄をも砕く」から「鉄」をとった筆名で、山本宣治の同志の田村敬男が命名した。→ウィキペディア


●内田岐三雄
映画評論家。(1901-45)府立第四中学校、第一高等学校、『キネマ旬報』創刊翌年に同人。東京帝国大学法学部卒。大学で飯島正と知り、『キネマ旬報』同人に誘う。1930年からパリに学ぶ。戦時下、疎開中の平塚の妻の実家で被災死。著書 「映画学入門」前衛書房 1928「欧米映画論」書林絢天洞 1935「モダン都市文学 9.モンタアジュ巴里 平凡社,1991.2→はてなキーワード





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1940年11月  『月刊文化沖縄』


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目次・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
農民と映画・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・坂井二朗(産業組合中央会)6-7
琉球歴史読本 第三章 舜天王時代(3)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川文一 8-10
琉球の「芝居と舞踊」評・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
蛙鳴蝉噪「日にち毎月社会の情勢が刻々と変わり、日、独、伊、同盟成り革新の黎明の機運が活発且つ真摯な活動を初め、日本国家の全機構と全能力が今や旧体制から蝉脱して、新政治体制の準備時代を終わり、新日本の黎明期の第一歩をスタートした。/この新体制下に於ける映画の社会的、文化的使命は大きい。それは映画人の理想であり自負であらねばならぬ。」ぬ。・本山裕児 11
琉球舞踊と歌詞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・島袋源一郎 12-17
琉球の伝説集(その1)謝名親方の死と左御紋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉盛二18-20
新聞の新聞 次に来るもの 新聞人の危機・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
首里市役所の記念スタンプ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
口碑伝説 琉球の浦島物語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
東京=琉球 旅◇の◇点◇描・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本山裕児 22-24
○銀座ー都会人にも田舎人にも銀座は一種の都会的な毒気を発散し、魅惑を覚えるのは事実だ。 新宿ー私達の学生時代には新宿は郊外の淋しい町に過ぎなかった、がー今日では銀座をしのぐ、否なしのいでいるとは私には何う考へても腑に落ちない。(略)今や西部をやくして中央線、山手線、市電、西武、小田急、京王の各電車、その他、乗合バスの起終点として、最近一日の総乗降人員は、実に驚く勿れ帝都一と言はれ、その数四十萬(?)と云はれている。 大阪ー(略)クレイト、大阪を取り巻いて阪神、阪急、京阪、大軌、阪和、大鉄、南海、そこへ省線が加って八つが呼びかけて郊外へ!近隣都市の為めに出来上がった大阪市民と言へる。そして誘っている形だ。(略)ケキー即ち大劇ではOSSKの諸嬢が、いとも豊艶なおいどをまくっての『蛇姫様』実演レビューで、若い男女をヤンヤと言はせているかと思ふとー郊外では、ヅカ即ち宝塚のエッチン、タッチン諸嬢が、いとも乳臭ひエロ、ジーンが、熱誠な口笛や、青春の湧きたぎる情熱に迎えられている。 奈良ー雨の奈良!それを聞くだけでも物淋しい日本歴史の古への都の面影が、重たいやうな鐘の音をとうして降りそそぐ。 神戸ー三宮へー阪神、地下鉄の元町進出、阪急の三宮高架線乗入れ、六階建のビルデングが聳え、阪急会館に映画を見せ、すぐ向ひ側にそごう(十合)デパートが、メルヘン宮殿のやうにつッたっている、また、元町の大丸に三越ー。福岡ー西日本随一の文化都市ー福岡といふよりも、博多と呼んだほうが何だか親しみやすい。実際この都市の躍進ぶりは目覚しい。中京ー名古屋の駅は、東洋一と言はれているそうだが、どうもその町の田舎臭いのに較べて、流石に九州第一を誇る都市として自負するだけに、注目に値すると思ふ。海のない港ー空港、日本の各航空路の分岐点として重要な位置を把持している。人口の割に多すぎると云はれているデパートの壮麗きー松屋、玉屋、九軌、岩田屋の八階建は正しく現代都市の貫禄を示しているものと云へやう。 ふるさとー(略)琉球? 龍宮?ー。昔伽噺にある龍宮城こそ、吾等のふるさと沖縄ではないかと想はせる風物が旅人の眼を奪ふのである。

琉球「11月の行事」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
名所旧跡 霊徳山 崇元寺ーその2ー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
癖のあいさつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前澤末彌 26-27
文化沖縄抄「標準語問題最燃/沖縄文化を語る座談会が台湾放送局から放送/台湾美術展覧会當間幸雄『市場』問題化/興亜塾(親泊康永)」「沖縄の野球」「文化沖縄東京支社開設」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
=連載長編小説=琉球の復讐王(第1回)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川文一/金城安太郎・画 29-31

編輯の辯ー愈々具体的な新聞、雑誌の統制が行われ、整理される事となり街の話題はそれで持ち切りである。(本山裕児)、とりわけ今は新体制の国民新生を期すべきの秋、文化沖縄をよりよき唯一の県下指導機関として、守り育てるべく編輯者の一員として名誉ある大任を想到するとき心中安閑と過せぬものを感じる。(前澤末彌)・・・・・・・・・・・32 
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1940年12月 『月刊文化沖縄』12月号

表紙 金城安太郎「農村の乙女」
大日本良書推薦会代理部「特許印判付万年筆」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 表紙裏

特輯口絵写真「壺屋」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・カメラ/本社写真部・・・・・・・・・・・(1)


特輯口絵写真・南島余情「守礼門」「デパートの南国娘」「漆喰の屋根」・・・・・・カメラ/太田安敏・本社写真部・・(2)(3)(4)


目次・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(5)
新体制下の沖縄農民・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杜聖林雄 6ー7
琉球歴史読本 第4章 義本王時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川文一 8-10
文化寸言「私は20年程前に、文化学科と云ふ科が、東洋大学に創設された時に、その初期生として入学したものであるが・・・・」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・①藤田晋一  10
①街の切符 : 歌集 藤田晋一 著 白帝書房 昭和8 今渡新一集 藤田晋一 編 第一芸術社 昭和4
山の娘 : 口語歌随筆集 藤田晋一 著 第一芸術社 昭和2

蛙鳴蝉噪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本山裕児11
○(略)過日護国寺に於ける第何回目かの『新体制座談会』の席上で、比嘉景宗氏②と云ふ方が」、それに就いての研究資料並に意見発表があった。氏の意見を総括するに、営利的娯楽(特に映画、劇を云ふらしい)は、何が一体、新体制下にふさはしい健全な娯楽か?と、開き直る態度であった。自己の得意とする『農村娯楽』を奨励するのはまづよいとして、村、芝居復興を主張する為め、研究資料発表(それも正確性の乏しい)する態度は、代目にも実に醜態の限りだ。(略)しかし、過去の一切を捨てることが一番大切な事だ。
②比嘉景宗

1940年1月 那覇の眞楽座で比嘉景宗原作・演出「愛の勝利」上演
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神祟(神罪)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬天居士  12-13
琉球人物史伝ー勇敢・奥濱船頭 バルチック艦隊最初の発見者・・・・・・…・・・・14-15
識名園・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮里浩司 15
地名考二つ三つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉城貫 16-17

琉球12月の行事・・・(戸毎に日の丸 手に手に債券)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
琉球の伝説集(その2)琉球の由来記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉盛二 18-20 
芋掘り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山城正忠 19
郷土資料研究「久米島紬の創始」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬天居士 20
琉球舞踊小見・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・花園歌子 21
沖縄の旅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・矢部信壽 22-23
文化映画「シナリオと眼」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・島本隆司 23
時局随筆「隣組」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・③山崎謙太 24-25
③山崎謙太と関連映画
ハワイ・マレー沖海戦1968年東宝/扉を叩く子1960年大映母を恋う歌1952年東宝/涙の恋千鳥1952年 /喧嘩安兵衞1952年東宝/アチャコ青春手帳1952年 /二人の母1952年松竹
/アチャコ青春手帳 大阪篇1952年 /紅涙草1951年大映/雪割草1951年大映/窓から飛び出せ1950年新東宝/妻も恋す1950年大映/ホームラン狂時代1949年大映/土曜夫人1948年大映/殺すが如く1948年大映
/四つの恋の物語(1947)1947年東宝/おスミの持参金1947年


きもの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・椿澄枝 26-27
琉球新景勝地紹介「波上夕照ーその1 那覇市」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山城正忠 27

文化沖縄抄/跣足取締規則公布・海外同胞代表座談会・海外神社を創建・代金引換集金郵便・皇太后宮職来県・大政翼賛会支部委員発表「1月2日 渕上房太郎、當間重剛、当真嗣合、知花高直、平良辰雄、玉井清康、来間泰邑、屋比久孟徳、柴田米三、尚謙、桃原茂太」・新体制講演会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28   
=連載長編小説=琉球の復讐王(第2回)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川文一 29-31(28)
編輯の辯
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慰霊の日で翁長沖縄県知事が「平和宣言」
(略)それは、私たち沖縄県民が、その目や耳、肌に戦のもたらす悲惨さを鮮明に記憶しているからであり、戦争の犠牲になられた方々の安らかであることを心から願い、恒久平和を切望しているからです。戦後、私たちは、この思いを忘れることなく、復興と発展の道を力強く歩んでまいりました。しかしながら、国土面積の0・6%にすぎない本県に、日米安全保障体制を担う米軍専用施設の73・8%が集中し、依然として過重な基地負担が県民生活や本県の振興開発に様々な影響を与え続けています。米軍再編に基づく普天間飛行場の辺野古への移設をはじめ、嘉手納飛行場より南の米軍基地の整理縮小がなされても、専用施設面積の全国に占める割合はわずか0・7%しか縮小されず、返還時期も含め、基地負担の軽減とはほど遠いものであります。

 沖縄の米軍基地問題は、我が国の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべき重要な課題であります。特に、普天間飛行場の辺野古移設については、昨年の選挙で反対の民意が示されており、辺野古に新基地を建設することは困難であります。そもそも、私たち県民の思いとは全く別に、強制接収された世界一危険といわれる普天間飛行場の固定化は許されず、「その危険性除去のため辺野古に移設する」「嫌なら沖縄が代替案を出しなさい」との考えは、到底県民には許容できるものではありません。国民の自由、平等、人権、民主主義が等しく保障されずして、平和の礎を築くことはできないのであります。政府においては、固定観念に縛られず、普天間基地を辺野古へ移設する作業の中止を決断され、沖縄の基地負担を軽減する政策を再度見直されることを強く求めます。翁長沖縄県知事の宣言に会場からひときわ大きな拍手が沸き起こったが、安倍首相が登壇すると空気が一変。「帰れ」「戦争屋は出て行け」とブーイング。

 知事の父・翁長助静が沖縄戦にふれている文章がある。
 1944年4月  南風原青年学校長としての転勤命令が来た。若手教員抜てきの美名の下、大山朝常氏、長嶺秋夫氏ら多数も青年学校長に回された。着任当時はまだ週3回、教練だけでなく学科も教えていた。しかし戦局の悪化につれて毎日授業に広げられ、次第に陣地構築、壕堀りの作業が日課に。まさに”壕堀り隊長〝だ。同校では約1年の在任。8月、今や戦場必至の情勢と見た私は妻子4人を台湾に疎開させ、単身で学校長を続けた。翌年4月になると生徒も登校できない状態となり自然解散の状態。3月、田端一村先生が訪ねてこられ「沖縄翼賛会に来て加勢してくれ給え」。師範学校で編成した鉄血勤皇隊千早隊の十数人を部下とする情報宣伝部長が私の役目。翼賛会での私は国民服に戦闘帽、日本刀のいでたち。(略)途中、当時那覇署長をしておられた具志堅宗精氏、山川泰邦署僚などが、兼城の墓の中で署員の指揮をとっており、いまのひめゆりの塔近くでは金城増太郎三和村長が墓地に避難している。こうした人たちに「ここは戦場になるから早く避難して方がいい」と指示したが、行政も警察ももはや指揮系統はめちゃくちゃの状態。そんな所に妹の夫、国吉真政君と出会ったところ「負け戦にになっているのに親を放ったらかして何をしている」という。早速付近をうろうろしている父を見つけ、その日はヤギ小屋で一泊。翌日夕方摩文仁に移動しながら喜屋武岬近くで簡単な壕をつくって小休止。このとき突然米軍の砲撃を受け、目前で父助信が戦死した。同じ壕にいた十数人の避難民のなかで、父だけに破片が命中したのだから悲運としか言いようがない。日本の勝利を信じ命をかけて行動した私にも敗戦思想が強まってきた。敗残兵が住民を壕から追い出し、食糧を奪い取る光景も何度も見てきている。→沖縄タイムス社『私の戦後史 第5集』「翁長助静」
 
翁長助静(1907年8月25日、真和志村真嘉比生まれ~1983年2月6日)
1925年、沖縄県立第一中学校卒業。一中在学中、高江洲朝和(石野径一郎)、平良良松(那覇市長)らとガリ版の同人誌『はるがん』を発行。1926年、沖縄県師範学校本科二部卒業。第一豊見城、安里、本部、瀬底、の各尋常高等小学校訓導、南風原青年学校長を経て、戦後は大道小学校長、真和志村長、真和志市長、移民金庫専務理事、倉庫公社専務理事、立法院議員などを歴任。のち沖縄都市建設株式会社取締役社長となる。妻・和子(1914年生)、長男・助裕(1936年生)、二男・健二(1947年生)、三男・雄志(1950年生)。

歌人・原神青醉
 1930年6月6日『沖縄朝日新聞』原神青醉「『新しさ』の否定ー旧概念で腐食した/生活から/生れ出た型!/そンにほんとうの/新しさがあらうか×トップを切る!/尖端を行く!要するに/旧生活からのつながりはないか ×明日への新しさは/先づ地球の引力から/すばらしい跳躍をしなければ/ならない/先づ旧生活を根本から/破壊しつくさねばならない×やがてそこから/生れて来る/何らかの型!/それこそほんとうの/新しさである  5・31 」

1931年1月26日『琉球新報』原神青醉「みちしほ短歌会」
1931年4月12日『琉球新報』原神青醉「さびしい反逆」

1933年9月『沖縄教育』
原神青醉「文苑ー車中行抄」
夜汽車
ふかぶかといねしづもれる大牟田のまちを/つらぬき汽車はゆくなり/をとこ二人何やら動きゐたりけりいねしづもれる街並みの一つ家に/ふなごやの駅にて乗りし男のめ つめたそうにもわれ見てありき/くらやみの果てのひかげのよびさます 旅愁にひたりて汽車窓にあり/汽車窓ごし見しは一つの燈なりけりくらやみの果てにともりてありき/呼びなれし久留米ときけば親しかりしまどをひらきて夜の街をみる/午前四時うすむらさきの空のもと久留米の街はただありけるも/漸くに暁けになりたるうれしさに座りなほりて煙草を吸ひける/朝あけのみどりうつるガラス戸に煙草のけむりふきかけて居り/博多駅近くの踏切番の四人まで姙婦にてありしは忘れ得られず/ささやかなみづき駅かもみづみづしき早稲のみのりのゆたかなるあたり/刑事ならむ 肩つつきざま職間ふなり/教員といへば笑ひて去りぬ

1933年5月14日『琉球新報』原神青醉「みちしほ短歌会」
1936年2月  『琉球新報』翁長助静「話方教育の一部分ー島尻郡第一区域童話会印象記」連載

  
沖縄県立博物館・美術館横にある翁長助静、真栄城守行/真和志村立安里尋常高等小学校(現在の安謝小学校)跡の碑



真喜志好一氏らと「立法院棟保存」を自民党の翁長雄志県議会議員に要望する。
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沖縄県公文書館入口に保存されている立法院棟柱

 仲村顕さんの調べによると、1932年の「婦人公論」に「滅びゆく琉球女の手記」を書いた作家の久志芙沙子(1903―86年)の父は久志助保(?―1915年)、祖父は久志助法(1835―1900年)でいずれも漢詩人。助法は「顧国柱(ここくちゅう)詩稿」などを書き、漢詩人の森槐南(もりかいなん)とも交流があった。また、琉球王国の評定所で中国や日本への文書を作成する「筆者主取」を廃藩置県(1879年)まで務めた最後の人。那覇市歴史博物館収蔵の尚家関係資料に助法直筆文書が残る。氏集によると、顧氏は大宗顧保安比嘉筑登之親雲上助輝。その四世が久志親方助豊支流二子顧天祐久志里之子助眞が翁長家の祖となっている。他に普天間、名嘉山、津波古などがある。

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1942年1月ー月刊『文化沖縄』第3巻第1号 編輯発行兼印刷人・本山豊
月刊文化沖縄社ー那覇市久米町1ノ32 東京支社ー東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局ーパラオ島コロール町 印刷所・向春商会印刷部ー那覇市通堂町2ノ1
巻頭歌「進め一億 火の玉だ!!」
戦捷の感激を生かせ!!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
佐藤惣之助①「決意」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
まこと、戦ふべき時、遂に来る/満を持して、進もう、戦をう/この光輝ある歴史のまへに/この穢れなき皇土のうへに/死すべき命のいかに幸ひなるかな/歓べよ、われら、死し徹して/今ぞ、あらゆる理念を超克し/暴戻なる米英に宣戦しつつ/血と血はたぎり、歯と歯はふるふ/この攻防に於て、究局に進んで/ただ肉を斬らして骨を斬れ/骨を劈いて隋を踏みにじれ/悠然、爆死は桜のちるが如く/笑ってみ國に殉ずることなり/死なんかな、いざ、あくまでも/われらが持場の巨弾にゆらぐまで/必勝の決意に全我の生活を緊め/敢然と進もう、戦をう/つばさは天に、戦艦は海に/見よ、鉄壁の堅陣を有す/われらその奥底の魂に位置し/その凄まじき実相をつかんで/いかなる困苦も来らば来れ/血と血をつなぎ、骨と骨を組み/激しい一億の心臓を堵して/輝く日本の新歴史を作ろう!(宣戦布告の日)

①佐藤惣之助
さとうそうのすけ
[生]1890.12.3. 川崎[没]1942.5.15. 東京
詩人。正規の学業につかず少年の頃から佐藤紅緑の門に入って俳句を学び,18~19歳頃から千家元麿,福士幸次郎らと交友。『白樺』派の影響を受けた詩集『正義の兜』 (1916) ,『狂へる歌』 (17) では人道主義的詩風を示した。→コトバンク

蔵原伸二郎②「大詔を拝し奉りて」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
大詔を拝し奉りて/雀躍勇途にのぼる/一億の草莾/みたみわれら/今ぞ/一天に雲なき/磐空を仰ぎて征かん/ああ 早くも/天涯に敵なく/七つの海に敵なきが如し/見よ わが海鷲潜艦のゆくところ/身命を祖国に捧げ/心を天に奉るもの/歴史の光栄に生きるもの/開戦劈頭たちまち/敵の慴伏を見たり/南海におどれるわれらが血よ/大海原に羽搏くわれらが魂よ/熱河熱山を征くわれらが志よ/神武天皇の向ふところ/烏合百万の敵何するものぞ/敵国よ/更に大軍を擁して来れかし/敵いよいよ多くして/同胞殉国の志いよいよ固く/われらただ/大みことのりを奉じ/最後の一人といへども/闘ひ抜かんのみ

②蔵原伸二郎 くらはら-しんじろう
1899-1965 昭和時代の詩人。
明治32年9月4日生まれ。蔵原惟人の従兄(いとこ)。萩原朔太郎の「青猫」の影響をうけて詩作をはじめ,昭和14年第1詩集「東洋の満月」を出版。16年「四季」同人。昭和40年3月16日死去。65歳。熊本県出身。慶大卒。本名は惟賢(これかた)。詩集に「乾いた道」「岩魚(いわな)」など,詩論集に「東洋の詩魂」。コトバンク

地方文化と生活文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北川鉄夫・・4
戦争手帳「戦争と通信基地」「ボルネオに日本人島」「戦略と天気象」4ー8
 「布哇の邦人」「ビール罎」「屠れ!米英 われ等の敵だ!」
本県女教師に望む(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・米國三郎・・・6
1人1語・戦争と文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤田徳太郎・・・9
戦捷 笑唄話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9-10
新体制は遊女より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡口精鴻・・・10
「この一戦 何がなんでもやり抜くぞ!!」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
島尻郡教育会修養部「教育振興座談会」於 昭和会館・・・・・・・・・・・・・・11
見たか戦果 知ったか底力 進め! 一億火の玉だ!」・・・・・・・・・・・・・・13
連載 琉球記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・須藤利一・・・14
情報局で壁新聞「空襲に血走るな」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
偉大なる一人の詩人(伊東静雄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新垣淑明・・・16
豆戦艦ABCD陣「比律賓群島」「ミンダナオ島ダヴアオ」「香港」・・・・・・・・・・・16-23
     「ウエーキ島」「ペナン島」「グアム島」「ミツドウエイ島」「米の航空機生産高」
ブラジル風景=サン・パウロ=・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤清太郎・・・18
敵性撃滅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土岐善麿③・・・19
ルーズヴエルト一チャーチルのことにあらず世界の敵性を一挙に屠れ
ルーズヴエルトよ汝が頼みし戦艦は一瞬にして「顛覆」をせり
チャーチルよ頼みがたなきアメリカを頼みしことを国民に謝せ
世界戦争の煽動者たる「光栄」をアメリカ大統領よ墓に持ちてゆけ
忍び難きを忍びしはただ大東亜の平和のためと思ひ知るべし
③土岐善麿
歌人・国文学者。東京生。哀果と号する。早大卒。中学時代金子薫園の「白菊会」に参加し、大学時代は窪田空穂・若山牧水の影響を受けた。のち石川啄木と知り合い、二人で生活派短歌の基礎を作った功績は大きい。学士院賞受賞。文学博士。芸術院会員。昭和55年(1980)歿、94才。→コトバンク

琉球の古来工芸品(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沖縄県工業指導所・・・20
子供の文化を覗く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・亀谷長輝・・・・22
雷火・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・太田水<穏ママ>・・・・・24
天つちの神もおどろけ巌ゆるぐ大き憤りのおほみことのり
しのびきて今ぞ宣らすと仰せ給ふ畏こさに沁みてわれは泣かるる
電撃機雷火を吐くとみる否やとどろきをあげて艦くつがへる
ふきあがる焔のなかに蒼白の照らし出されたる顔おもひ見む
馬来半島クワンタン沖のたたかひに覆へりたるは艦ばかりは

「尽せ総力 護れよ東亜」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
戦時体制下の沖縄/1942年1月ー月刊『文化沖縄』第3巻第1号
和光同塵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本山裕児・・・26
短篇小説「馬」金城安太郎・絵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新垣庸一・・・27
祝 皇軍之大勝 祝 御武運長久 輝やかし大東亜戦勝利の朝謹壽
      一億進軍の春 皇紀二千六百二年正月・・・・・月刊 文化沖縄社社員一同
大東亜戦戦果日誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31


1942年2月ー月刊『文化沖縄』第3巻第2号 編輯発行兼印刷人・本山豊

月刊文化沖縄社ー那覇市久米町1ノ32 東京支社ー東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局ーパラオ島コロール町 印刷所・向春商会印刷部ー那覇市通堂町2ノ1
「進め一億 火の玉だ!」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
ラジオ放送 必勝「生活訓」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
雄大な創業の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新垣淑明・・・4
台風の描いた歴史=漂着物語=・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・亀谷哲・・・6
豆戦艦ABCD陣「マニラの関門」「マレー半島の王」「」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
笑止!米・英 宣伝戦の実相「硝煙なき戦ひ 乱れ飛ぶ電波戦」・・・・・・・・・・・9    
戦争手帳「ハワイ空襲譚」「道案内の猿公」「戦争と擬装」珊瑚礁とは?」・・・・・9
ボルネオ島とは?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
本県女教師に望む(中)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・米國三郎・・・12
和光同塵「翼賛運動の再出発」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本山裕児・・・15
琉球の古来工芸品・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沖縄県工業指導所・・・16
連載 琉球人南進史(1)「比律賓群島篇」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
明暗道中記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山城正忠・・・20
文化映画「海の民」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・村田達二・・・・21
半学半農教育と我が沖縄の理想・・・・・・・・・・・・・・・ワクガミ・ロー人作・・・・・22
シンガポール=旅の独白・回想=・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本山裕児・・・23
南洋はどんな処か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
琉球人の尽忠精神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安里延・・・・26
わが南進陣営 南方資源開発ー邦人企業史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
戦争挑発者ルーズヴエルト大統領一家・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
戯曲 十二月八日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川文一・・・・。31
裏表紙「南進座」挨拶ー演劇は戦時下の精神的軍需品!!!
皇軍決死の奮闘に依り南方共栄圏愈々確立進展し県民今後の南進飛躍の程も期待せられる折柄時局に即応すべく此処にその名も輝しき劇団「南進座」を創設し県民に御見栄る運びに相成りました事は我々一同深く欣快とする所でございます。就きましては今後地方文化の昻揚並びに大衆指導と云ふ大旆をふりかざして演劇報国への道を邁進致し居りますれば今後何卒宜敷しく皆様の御指導御後援の程偏にお願ひ申し上げます。


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1943年7月ー月刊『文化沖縄』第4巻第7号 編輯発行兼印刷人・馬上太郎
月刊文化沖縄社ー那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社ー東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局ーパラオ島コロール町 印刷所・向春商会印刷部ー那覇市通堂町2ノ1
表紙ー円覚寺の鬼瓦
近世日本と外国語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・城間盛善・・・2
アメリカン・シンプルトン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・野崎眞一・・・8
琉球漆器に就て・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・國吉瑞泉・・10
山本元帥国葬の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川田順①・・・・・12
①川田 順(かわだ じゅん、1882年(明治15年)1月15日 - 1966年(昭和41年)1月22日)は、歌人、実業家。住友総本社常務理事。漢学者川田甕江の三男。女優・歌手の佐良直美は従曾孫娘。→ウィキペディア

神の金細射(かなままき)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・牧港策夫・・・13
沖縄文学韻律考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小野重朗②・・・14
②小野重朗1911年2月 広島県生まれ、1995年7月9日逝去。広島高等師範学校卒。ペンネーム花城具志、俳号・十露。おもな著書『琉球文学』(弘文堂)、『南九州の柴祭・打植祭の研究』(第三回柳田国男賞)、『農耕儀礼の研究』(弘文堂)、『十五夜綱引の研究』(慶友社)、『南島歌謡』(日本放送出版協会)、『南日本の民俗文化 小野重朗著作集』(第一書房)。

海難記ー南洋伝道の思出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・照屋寛範・・20
儒良・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩崎命吉(放送局長)・・・26
近事雑感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木愿三(教学課長)・・・29
病暦(7月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・30
或る書簡ー宗教に就て(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲里誠吉③・・・33
③万人スバ屋の息子・仲里誠吉(誠桔・1916年10月2日~2002年9月20日)
1937年 旧制和歌山商業高校卒
1938年 那覇市立商業高校教諭
1945年 古知屋市助役
1945年4月 沖縄臨時政府貿易長、翻訳官兼通訳官
1946年4月 沖縄臨時政府翻訳課長
1949年 6月3日ー■『人民文化』創刊号□発行人・仲里誠吉/編集人・岡村哲秀、太田良博
1949年11月10日ー『うるま新報』「立候補の挨拶ー仲里誠吉」「沖縄人民党中央委員会ー仲里誠吉君を立候補させました」
1950年 人民党沖縄群島議会議員
1951年9月12日ー『琉球新報』「仲里誠吉人民党脱党」
1959年~1970年 『生長の家』地方講師
1969年 翻訳書ーベアード・Т・スポールティング『ヒマラヤ聖者の生活探求』霞ヶ関書房
1985年 沖縄伝導瞑想主宰
       □1月ー国吉真哲宛・ハガキ
1994年  □1月ー新城栄徳宛・書簡
2003年5月ー『とんぱ』第5号<仲里誠桔追悼>出帆新社

薬草を求めて(6)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久場仙眼・・・38
編輯後記(新崎盛珍)
○先月来文化聯盟並びに翼賛会の尽力によって我が沖縄の美術乃至工芸の優秀品を各般に亘りゆつくりと展覧鑑賞することが出来たのは近来にない喜びでなけでばならぬ。我等は此の際各部門の専門家に薀蓄を傾けて戴き、以って各位が展覧会場に於いて得られた印象を深め置かんことを期して御寄稿をお願いしてあった処、國吉氏の漆器に関する物しか載せることが出来なかった。(略)今迄頑張って居たが本誌も頁数を減ずるの余儀なきに至ったことは読者各位の御諒恕を乞はねばならぬが、価値多く興味津々たる玉篇を充実し得たことを秘かに喜んで居る次第を敢えて申し上げ度い。


1943年8月ー月刊『文化沖縄』第4巻第8号 編輯発行兼印刷人・馬上太郎
月刊文化沖縄社ー那覇市上之蔵町1ノ21 東京支社ー東京市淀橋区東大久保2ノ278 南洋支局ーパラオ島コロール町 印刷所・向春商会印刷部ー那覇市通堂町2ノ1

表紙ー崇元寺総門
佛領印度支那旅行記(1)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・與儀喜宣・・・2
琉球藝術と伊東博士・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・豊見川素堂・・・5
藝能展の聲なき囁き・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安谷屋正量・・・・9
書画・彫刻の陳列を終へて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・屋部憲・・・・・・・11
沖縄の陶器・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・原田貞吉・・・・16
山の香ひ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・兼村寛俊・・・・・21
標準語を尋ねて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松田精太郎・・・24
病暦(8月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉栄眞・・・・・28
或る書簡ー宗教に就て(下)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲里誠吉・・・30
楓橋夜泊断片・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湧川浩・・・・・33
薬草を求めて(7)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久場仙眼・・・35
荒鷲の雛敞ちゃん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・龍一枝・・・37
編輯後記(新崎盛珍)
○大東亜戦争を契機として、それまであられもない方面に向けられて居た眼を自らの伝統、自らの文化に向けるやうになったことは嘉すべき趨勢だ。かと云って、思ひ上がって排他的にとなったり、自己陶酔に陥ったりしないやうに戒むべきは言ふまでもないことだが、嘗て自己の有しりし誇るべき文化、尊き伝統を再研校して将来への向上、精進に資することは緊要である。此の意味に於いて曩者郷土の誇芸能展が開催されたことは、意義深い快挙であった。そこで本誌は、郷土芸術の各部門に亘り、それぞれ専門家に乞ふて、その薀蓄を披瀝して戴いたことは欣幸の至りだ。 
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左が野中大樹氏
2015年6月 平井康嗣・野中大樹『国防政策が生んだ沖縄基地マフィア』七つ森書館・〒113-0033文京区本郷3-13-3 三富ビル ☎03-3818-9311
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 2015年6月20日、山田實さんのところに遊びにいくと、豊里友行氏が持ってきたという下記の本があった。
〔DAYS JAPAN〕◆ 6月号 : 島袋文子さん(85歳)「国を守るだなんて言う人は、血の泥水をすすってから言ってごらん。自衛隊を戦場に行かせて、格好いいのか、面白いのか。その目で見てから辺野古に基地を造ると言ってごらん」(写真は豊里友行)


DAYSから視る日々
「人々の意志が戦争を止める日が必ず来る」「一枚の写真が国家を動かすこともある」
「DAYS JAPAN」とは世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌です。
ブログでは雑誌だけでは伝え切れない想い、ご紹介したいイベントを綴っていきます。


2015年7月 新藤健一・編『沖縄「辺野古の海」は、いま』七つ森書館
○52頁「カヌーの男性を引き上げ、首を押さえつける海上保安官」は豊里友行撮影

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1940年12月ー菊池寛・中野実来沖

出迎えた渕上知事と中野実、菊池寛
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(竹久コレクション)

 日本文壇の大御所菊池氏は台湾に於ける文藝銃後運動講演会の途次、渕上本県知事の依頼により12月午後2時半下り航空便で中野實氏同伴来県、13日午前9時50分より男子師範学校に於いて講演、同夜7時から一般県民の為め市公会堂に於いて菊池氏は「時局と武士道精神」と題し約1時間余中野氏は「宣伝戦と銃後」と云ふ演題で講演したが、流石文壇の大御所だけあって聴衆殺到超満員し、拡声機を備へ屋外まで一杯約5千の県民に感銘を与へて散会、翌14日午後2時半空路台北へ向かった。
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2015年6月16日~28日 タイムスギャラリー「石川文洋写真展/ベトナム戦争と沖縄の基地」
2015年6月16日 午後2時~3時 「石川文洋ギャラリートーク」
2015年4月 石川文洋『フォト・ストーリー 沖縄の70年』岩波新書
○饅頭の記憶、両親の思い出ー私の「沖縄への想い」は、確実に両親から受け継いだものだ。」沖縄の歴史小説や芝居の脚本を書いていた父・文一(本名・保田)の本籍は旧首里市鳥堀町1ノ18。母・清(旧姓・安里)は首里市儀保町1ノ16。父の実家は現在の咲元酒造前にあった饅頭屋「イシチャーマンジュウ」。赤く「の」と書かれた饅頭が評判で、県立一中や一高女などの入学祝などいろいろな祝い事によく売れた、と父が話していた。・・・・



 空港からいつも沖縄取材を手伝ってくれている中根修さんの自動車で辺野古へ直行した。(略)今、安倍政権は国家権力をもって反対する沖縄の民意を抑え込み、基地建設を強行しようとしている。これは民主主義に反する不正義である。辺野古に座り込む人々、カヌーに乗っている人や基地に反対している人たちは、平和な沖縄を築こうとしている。不正義に勝利はない。沖縄は私の故郷である。私たちは基地建設を許してアジアの同胞に対し加害者になるべきではない。






2004年3月 石川文洋『戦争はなぜ起こるのかー石川文洋のアフガニスタン』冬青社

石川文洋 いしかわ-ぶんよう
1938- 昭和後期-平成時代の写真家。
昭和13年3月10日生まれ。香港でスタジオ勤務後,昭和40年からフリーランスでベトナム戦争を,44年からは朝日新聞社所属で戦火のインドシナを取材。46年「写真報告―戦争と民衆」で話題をよぶ。48年日本写真協会年度賞。沖縄県出身。都立両国高卒。写真集はほかに「琉球舞踊」,著作に「戦場カメラマン」など。→コトバンク


2015年6月17日 右が石川文洋氏、新城栄徳


2015年6月20日 左から大城弘明氏、新川 秀清氏、石川文洋氏

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2013年12月 アラン・ワイズマン/鬼澤忍『滅亡へのカウントダウン 人口大爆発とわれわれの未来』早川書房
○日本の読者へー(略)日本で私は、若いエンジニアが十分な労働要員を確保するためにロボットを設計するのを見た。また、別の若者が田舎に戻っているのを見た。田舎では、最後の大量の戦前世代が世を去っているため、手ごろな値段の土地と住まいが手に入るようになっている。テクノロジー、農業、ビジネス、学問へのこうした若者の取り組みは、実現可能な新たな未来をすでに形成しはじめている。だが、2011年8月に私が日本に滞在していたとき、みなさんの国はすでにもう一つの難題に立ち向かっていた。福島の悲劇だ。それは、この先数十年にわたって離れない課題となるだろうーそして、いっそう少ない日本の人口が21世紀には有利となるかもしれないもう一つの理由でもある。
 福島は次のことに気づかせてくれる。われわれの人口がさらに莫大な数に増えるにつれ、世界の目を見張るようなテクノロジー主導の文明の大半は、リスクをとることに寄りかかるようになっているのだ。本書で説明する理由により、世界の人口は20世紀に突如として四倍になった。食料とエネルギーに対する需要は、人間の数とともにたちまち膨れ上がった。日本列島では人々は経済に電力を供給するために原子力に向かった。しかし、日本の原子力発電所はすべて、断層や海岸の近くに建設されるしかない。そのため、地震、台風、津波に弱いのだ。私の住む米大陸では、いまや岩盤を砕いて天然ガスを採掘している。その結果、水質が汚染され、最も美しい風景の一部が破壊されている。

新城栄仁●日本国は少子高齢化だというのに安倍麻生・自公政権は事の外「戦争法案」成立に血眼になっている。戦争法案に賛成している議員の息子、娘をマスコミは紹介しろ!。なにゆえ人様の子弟を戦争に送り込もうとしているのだろうか。靖国詣でする国会議員は息子や娘を自衛隊員にしているのだろうか。少しは日露戦争で長男、二男を戦死させた乃木希典を見習え。6月17日のタイムスには塾屋上がりの下村文科相が国立大学に「国旗掲揚と国家斉唱」を要請したらしい。ヤマトの大学ならイザ知らず琉球大学は混乱が予想されるという。今の大学生も相当舐められたものだ。もはや「戦争責任」とか「一億総懺悔」など死語になった。大学生よ銃を取れ、が安倍麻生・自公政権のスローガンだ。

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1910年11月7日 午後11時半ごろ佐敷尋常高等小学校(本山萬吉校長)に於いて火災。校長は校舎と棟続きの自宅に病気の妻と子どもが居たが真っ先に学校に飛び込み書類を持ち出したが御眞影は焼失した。妻と子どもは村民に助けられた。御眞影焼失で懲戒免職となり久米島へ左遷。以後、座間味小校長を務める。



1915年7月 親泊朝擢『沖縄教育』第百二号 「編輯だより 4月26日 久米島の本山萬吉君より『夜学教科書久米島』の寄贈あり、謄写版摺3枚にて、編輯室便、時事、国語、算術、農業、文苑、雑報に分ち、趣味あり且つ廻覧雑誌として有効なるものなり。」

1931年初夏 本山裕児、欧州からの帰途、シンガポールに立ち寄る。→1942年2『月刊文化沖縄』本山裕児「シンガポール=旅の独白・回想=」・・・23

1938年5月26日『琉球新報』「金口木舌」
○馬天居士本山萬吉翁は昨日突然郷里佐賀に引き上げた▼豊見城村の有志は前日之れを聞き別れを惜しみ▼宜保成晴氏瀬長清氏等有志村長区長送別の宴を張った▼席上翁は沖縄県は去りたくないが長男裕児が応召される時手足纏いひになっては国家の為めに相済まぬと赤誠を披瀝した・・・▼翁は本県初等教育の功労者にして退職後豊見城に隠棲▼悠悠自適馬天居士のペンネームで本紙文芸欄に健筆を揮ひ、其の辛辣なる皮肉と特種の味は読者に魅力を投じた▼然して翁の足跡を見ると佐賀魂即ちハガクレ精神が躍如として其の言行に現はれた▼佐賀士族には昔から特種の精神が横溢し▼孟子の「富貴も淫すること能はず、貧賎移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ふ精神を孕んでいる。・・・


1938年5月『月刊琉球』馬天居士「長命語彙(1)」

1938年6月『月刊琉球』馬天居士「長命語彙(2)」写真ー本山萬吉(馬天居士)

1940年12月『月刊文化沖縄』第一巻第五号 馬天居士「神崇(神罪)」・・・12  「琉球人物史伝 勇敢・奥浜船頭ーバルチック艦隊最初の発見者」・・・14


本山萬吉『馬天居士集』

本山萬吉-1939年5月3日(70歳)没 長男・裕児、二男・常男(ブラジル在)、三男・政比古(鹿児島在)。

06/15: 武藤長平

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 1915年7月『沖縄教育』第百二号 武藤長平○学説教務 斉彬公考ー(略)此為朝問題を以って琉球が日本に属すべきものだと断案を下すのはちと當を得て居ない。又た先年畏友伊波文学士は其大著『古琉球』の中に『琉球人の祖先に就きて』を載せて居る、それは成程同君の御説通日琉は同祖であらう、けれども徳川時代に於いては最早琉球は日本ののものではない、確かに支那のものである、早い話が時の支那政府は『琉球は我が属国なり』と言明して居るに関わらず、時の日本政府は左様な言明をなし得なかったのではないか、(略)公が安政四年に琉球の摂政三司官に向かって密用として公の近侍市来四郎、山田壮右衛門等が伝へたる条件は左の如し、第一、琉球大島及び山川港に於いて和蘭或は佛蘭西と貿易開始の計画 第二、蒸気船御買入の儀 第三、英米佛三国へ薩摩書生を琉人と称して派遣すること 第四、台湾島の内便利の地に渡唐船碇泊場を設くること 第五、福州琉球館取弘め商法盛大にすること 第六、渡唐商人どもへ内諭大小砲を清国へ売込ましむること・・・

1926年6月ー武藤長平『西南文運史論』岡書院(東京市麹町区)

琉球三司官(天明2年~享和2年)伊江朝睦(向天迪)筆「島津日新高いろは歌」/ 程順則印譜

那覇港に於ける進貢船帰来図(浦添朝顕所蔵)

首里那覇図古屏風(那覇市役所所蔵)

長崎の聖廟

多久の聖廟
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 一億総懺悔とか、戦争責任とかという言葉は、今や安倍麻生・公明党政権のために死語となっている。かつてオキナワでも沖縄戦のことを語ると「不幸を語るのはお前ひとり」とNHKで歌ったアホ歌手も居たようだ。沖縄慰霊の日、原爆忌にも安倍はいつものコピペ挨拶をするのか楽しみである。それにしても「死の商人内閣」とか言われている安倍首相は何のかんばせあって御霊にまみえんや。

「語られなかった歴史にふれる」

新聞を見ると、高齢化うんぬんで消費税引き上げ、年金改悪を「塩ジィー」が検討しているという。「老人が老人をイジメる」図には何か意図があるのか。それを機械的に垂れ流す通信社も問題だが原因、責任の一端はこのような社会を築いたウトゥスイにもあると思われる。そこで普通に語られてこなかった歴史にふれる。

大阪に住んでいた新婚のころ、近所の年配のウチナーンチュの家で戦友会誌を見た。その中に、中国人の生首の山をバックに軍刀を手にした隊長らしき人物を中心に兵隊20人(?)が並んだ「記念写真」があった。生首にウジが蠢いているのも分かる異様なものだった。数年後、複写しようと訪ねたら引っ越して不明。それ以来「戦友会誌」を気にしているが写真はまだ出てこない。

戦前のことを『沖縄美術全集』の年表に「1941年8月、沖縄文化連盟結成。42年12月、朝日新聞社主催『大東亜戦争美術展』に渡嘉敷唯信、名渡山愛順入選、『新文展』に大嶺政寛入選」と書いた。かつて、新報、タイムスに程近い場所に「沖縄物産センター」があった。そこで杖をついたセイクァン画伯が私を見て「良いところに来た。チビを押してくれ」というので、2階の画廊まで腰を支えたのが2,3回あった。

画廊のロビーでセイクァン画伯が豊平良顕氏、上間正諭氏も交えて歓談するのを側で聞いていた。ある日、画伯に戦争中の文化人の戦争協力のことを聞いてみたが、「君に話すとあとあと残るので正確を期すため家に帰って記録を調べてから」とはぐらかされた。豊平氏にもぶっつけたが氏は潔癖性ゆえか頑強に否定された。上間氏は豊平氏を敬愛されて「沖縄の偉人だ。記録してほしい」と言われた。ぼちぼちと集めた豊平資料は真久田巧記者によって『戦後沖縄の新聞人』に収録された。

1943年2月 月刊『文化沖縄』
名渡山愛順「扉絵ー那覇の千人針(大東亜戦争美術展覧会出品)」 新崎盛珍「編集後記ー名渡山愛順氏が大家名家に伍して、戦地に赴き、彩管を揮ふべく選定されたことは周知の事実だが、氏の昨秋の文展に出した作が、或権威ある批評家から推賞されたことを附言するのを欣幸とする。」

1943年6月 月刊『文化沖縄』
大嶺政寛(春陽会々友)「洋画寸史ー(略)春陽会の一部の画家によってここに日本の油絵もほんとの日本の油絵にしなくてはいけないといふ大きな理念のもとに発足しここに21年の歴史を経た我が洋画界も今や充分採るべきものを採り来った今日大東亜戦を迎へ決然として日本の油絵を建設して行く大きな環道が国を挙げて興っている。我々は皇軍の勇士が飛行機に乗り米英の飛行機を撃ち落し、無敵海軍の随所に於ける敵撃滅の優秀さを示しているにかんがみ、油絵をして眞に日本的な油絵にし何処の国にも劣らぬ日本の絵を建設して行き度いと念じているものである。今や美術報国は全国一萬の画家に依り結成され国を挙げて美術報国に邁進する事の出来るのを心から喜ぶものである。」

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桑江良健氏(左)と松島弘明氏
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 一ヶ月余の重荷であった書画、彫刻の陳列を終へてホットとしているところへ文化沖縄の新崎盛珍氏が見へて何か感想を書けと云はれる。ところが書画、彫刻となると範囲が頗る広汎に亘り、私などには不適任なので遠慮したが、是非とのことで、茲では感想といふよりは寧ろ委員として陳列品の蒐集等に走り使ひをした関係上、その経過をありのままに報告し、併せて卑見を述べて見度いと思ふ。
 実を云ふと、今度の芸能展の除幕の噂さとして書画、彫刻は一番淋しいだらうとの風評があったが、愈々「紅型展」を皮切りに蓋開けしてからも、会場たる山形屋の階上には絶へず各部門の委員が陣取り色々の話しが出たが、その大方の口から諸語、彫刻は数が僅いと云ふが、陳列品は集るかなどと気を揉んで下さる方もあり、同情と激励の言葉を受けて頗る恐縮した次第である。しかも今度の催しは「郷土のほこり」と銘打ってあるだけに極めて慎重な態度をとることが肝腎で、それには先ず第一に確りした腹案を作らねばならない。
(略)
 殊に感謝に堪へぬのは博物館や尚家が、所蔵品を見せて戴き尚ほ選り抜いた現品を会場まで届けて下さるし、県立図書館や豊平良顕氏が書幅を表装まで仕替へて出陳され、一中が海邦養秀の扁額と國学訓飭士予諭の大幅を那覇まで届けて下さった思ひやりに対して御礼のの言葉がない。又首里第一国民学校では児童十数名を動員して黒石彫刻物観蓮橋欄羽目2面と透彫大扉2枚を博物館から歡会門前めで持ち出して下さる等全く涙ぐましい光景であった。亦又吉康和氏や原田貞吉氏は各方面と亘りをつけて、各種の出品物や、会場設備に必要なる品物を借りて下さるし、湖城恵寛氏は凡てに対して、わが事のやうに一々面倒を見て下さると云ふ始末で、其の都度に興る感激は、奔走の労苦を吹っ飛ばして余りがあり、今度の藝能展は「郷土のほこり」といふ旗印の下に全部門総動員の形で、実になごやかな雰囲気を醸した。斯かる援助がるため直接擔當の吾々も力を倍加し、同僚糸数昌運氏はわざわざ島尻眞壁村に金城増太郎氏を訪れ、毛世輝の書幅と蔡温の巻物を携へて帰る有様で、全くこの一ヶ月間は、自分の仕事など振り向く暇もなかった。陳列品としては成る可く古い時代に遡って蒐集し、一番近いもので廃藩時代を限度として陳列することにした。
 
 書道は和様、唐様の両様を取り混ぜ和様文字としては、伏見帝の皇子青蓮院尊圓法親王の流れを掬む者の代表と云はれる尊圓城間即ち城間親方盛久(天文11年生まれ、後 三司官)の巻物や又優れたる仮名文字の碑として有名な真珠港碑の手拓、尚清王時代に建立された崇元寺下馬碑の手拓、萬暦年間に首里王府から、のろに賜った辞令、尚敬王御筆の巻物、所謂渡嘉敷親雲上として知られている葉緝烈(寛保3年に生まれ90余歳の寿を保てり)の書幅等に、一番時代の近いもので、琉球藩末路の政治家で歌人である宜湾朝保の書幅を掲げ、又漢字では國学訓飭士予諭の大幅を始めとして沖縄の最高学府たる國学に掲げし尚温王御筆「海邦養秀」の扁額、尚純公(黙笑と号す)後筆で篆、隷、楷、行、草各体の習字帖尚育王御筆、尚育王の御師匠たりし馬執宏豊平良全(容斉又は竹西と号す)馬執宏と同時代の官生毛世輝我謝盛保(筆山と号す)、薩州斉興公に召されて書道の師となりし鄭嘉訓古波蔵親方、其の子で父同様薩公の知遇を受けて大宰府に徳高しの扁額を書きし鄭元偉、琉球の大政治家蔡温と其の父蔡鐸の書幅も陳列したのであるが、尚ほ古代物として尚徳王御筆(原本は災火のため消失し写真版を出す)等は珍品として衆目を集めたが其の他に県内にある名筆で持出し不可能の為め出陳出来なかったものに萬古長史(天正7年支那留学生となり恪橋と号す)がある。この人の書として現在遺っているものに天孫廟内の龍王殿、県立図書館に保存されてある迎恩、首里城正殿階上にある天界寺(以前天界寺に掲げしもの)がある。
 
 其他県外にあって沖縄書道のために気を吐いているものに、鄭嘉訓父子の外に尚穆王御筆がる。これは藩州の聖廟に掲げられているが、聖廟の額と云へば何処でも大抵その時代の一流の書家に書かしたものであって、沖縄の書が他藩の聖廟で偉彩を放っていると云ふことは、沖縄の書道が如何に勝れていたかを物語るものである。又尚寧王御筆の袋中上人像の入れる書幅(現在京都袋中寺本山にあり)の如きは古調豊かにして流麗を極め、古琉球に於ける書としては最高峰を行っていると評されるが、これ等の傑作が控へている事を思へば、更に心強い感じがする。(以下略)
 
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1941年1月25日 池宮城秀意『沖縄県中央図書館報』創刊号

1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「諸見里朝清」
沖縄県中央図書館長 諸見里朝清○館報発刊に臨みてー帝国は今や単なる「非常時局」から「新体制の確立」へと邁進せねばならぬ情勢下にあって、大政翼賛運動を強力に拡し進めねばならぬ時機に際会しているのである。而して眞個の翼賛体制は単なる命令によって成就され得可きものでなく、一億国民が一心となって自ら発するところにこそ成就され、確立されるものである即ち物事は作らるるに非ず、生れ出るのである。

1941年9月25日 池宮城秀意『沖縄県中央図書館報』第9号
沖縄県中央図書館長 諸見里朝清○沖縄文化聯盟の結成と町村図書館事業の振興ー沖縄文化聯盟は8月9日「帝国の歴史的使命に立脚し民族的自覚に基づき総合的国民文化の昴揚並びに浸透を期す」との目的を掲げて雄々しく新発足をした。この目的を達成するために大政翼賛会沖縄支部と表裏一体の関係を緊密にし各加盟団体の聯絡統制を図り、また教育、産業其の他各系統団体の協力の下に各般の施設を企画実地して本県文化の再建設に一新紀元を画することが期待されている。

1942年1月25日 池宮城秀意『沖縄県中央図書館報』第13号
沖縄県中央図書館長 諸見里朝清○決戦下の文化翼賛を強化し南方開発の使命完遂せよー米英に対する宣戦の大詔を拝したときわれら一億国民は粛然、緊張胸を躍らし晴れやかな陽光を仰ぐの気持ちで恐懼感激した。大東亜戦争勃発するや、 大稜威の下無敵皇軍の寄襲電撃的神速果敢なる力戦奮闘により、瞬く間に米国太平洋艦隊、英国東洋艦隊を覆滅し、次々に要衛を占拠し開戦二旬にして米英東亜侵略の牙城たる香港、マニラ」は既に陥落し、星港、蘭印の攻略も目捷の間に迫り大東亜共栄圏の建設が急速に進捗しつつあり、感謝と感激を胸に湛えて戦捷の新春を迎へた歓喜は筆紙に尽し能はざるところである。
 支那事変は大東亜戦争に飛躍的発展して、八紘一宇の大理想を顕現すべき聖戦の目的が一層明確になった。過去数百年欧米人の爪牙毒手の桎こく下にあった東亜民族を解放して東亜の新秩序を建設すべき長期戦であり、長期建設であって帝国の隆替、東亜の興廃は実にこの一戦にある。不敗必勝は神州日本の伝続的信念であって一億一心火の玉となって殉忠殉国の誠を捧げこの戦を勝ち抜かねばならない。
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1943年9月 月刊『文化沖縄』新垣源蔵「琉球の火術雑考」 
○「頂姓系図」支流(越来村字越来の安里家の系図)によると、この内の一人安里筑登之は、安里家六世の祖安里周英と云ふ者で、この人の父が周當で、有名な火花師である。沖縄で始めて焰硝製出に成功した人である。宮里良保氏の発表された飛行機の発明者も、安里周祥でなくこの周當だと自分は考へている。何故なら周祥はこの人の四男であり、系図には事跡は明らかでない。・・・
1943年10月 月刊『文化沖縄』与那国善三「飛び安里の話」
 
琉球の「飛び安里」を世界に紹介した宮里良保


ライト兄弟が動力飛行を成功させるはるか前の琉球王朝時代に、空を飛ぶことを夢見て、実際に飛ぶことができたうちなーんちゅがいる。飛び安里と呼ばれる親子は、二代に渡って試行錯誤を重ね、とうとう高津嘉山からの飛行に成功したと言われている。安里周當は、琉球王家御用の腕利きの花火師だった。大層裕福だったが、那覇の首里から南風原町に移住し、津嘉山にある高津嘉山から妻に命綱を持たせて何度も飛行を試みる。周當の翼は凧のような作りの簡素もので、何度も飛行実験に失敗する周當に、周りの人々は「変わり者だ。」「飛ぶなんて不可能に決まっている。」と口々に言った。しかし、それに対し周當は「やってみて失敗したところで、初めからやろうとしないよりどれほどましなことか。」と口癖のように言ったと言われている。周當はとうとう空を飛ぶことは叶わなかったが、後に人々は周當の飛ぶことに対する情熱や努力を敬い、誰ともなく周當の事を「飛び安里」と呼ぶようになった。との伝承が残っている。→南風原町観光サイト

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1947年7月 「沖縄美術家協会」設立。会長に屋部憲氏が選ばれた。
b>1947年ー沖縄美術家協会/沖縄民主主義文化連盟(瀬長亀次郎、屋部憲、池宮城秀意、名渡山愛順、仲村渠)/沖縄文芸家協会 (山城正忠、仲泊良夫、仲村渠、國吉眞哲ら)

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1947年6月-沖縄人民党結成ビラ

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1948年 左からー後向きがアクトン少佐、松岡政保、山田真山、屋部憲、名渡山愛順

 屋部憲ー沖縄美術家協会宛ー近く民政府も機構替へになると伝えられ美術家協会も従来の立場で他の部に合併されては事業遂行上色々な不便を来たすことが多いので、それが決定しないうちにと思ひ取急ぎ美術面に対する私見を書いて副知事を通じて知事に1協会員としての意見を述べるものであるが、これに就いて更に協会員に諮り良く論旨を纏めて正式に陳情する必要がある。(略)(1)美術振興の急務 (2)美術行政機関の設置ー従来美術家協会は文化部に所属していた為め軍政府の指令は民政府に来て民政府の指令は更に文化部を経て美術家協会に来ると云ふ調子で2段、3段を経るため不自由を来たす(略)例えば沖縄美術院(仮称)の如きものを創設して自由活発なる動きをするとか大切である。(3)美術教育機関の設置 (7)商業美術の振興 (8)産業面と連絡して図案部設置ー沖縄の陶器業、漆器業の発展を計るため伝統の図案を生かすのも必要であるが、尚新時代に即する図案を出し美術工芸品の海外移出を計るために図案部を設置して研究をなす。其他紅型、織物等とも関連して商業工芸美術の振興を計る。 (9)美術家協会の集団生活

1949年8月『芝居と映画』屋部憲「戦争と藝能」
○終戦当時国頭羽地大川のほとり、川上の山宿で始めて仲嶺盛竹氏の琴を聴いた時、何とはなしに熱ひものが頬を伝はるのを覚えた。別に悲しいのではない。さりとて歓びの感激でもない。勿論生延びた喜びはあるが、それのみの為めじやない。又戦禍に斃れし人々のことを考へた時悲痛の思いはするが、それのみののためでもない。亦死に勝る戦争中の飢餓と労苦を考えた時、血がにじみ出るやうな思ひ出はあるが、然し、その追憶のためでもなひ。今私はこの名状すべからざる感激の詮索に隙を假すことを憚り乍ら、筆を持ちなほしていく。

 艦砲に追はれて山から山に逃れつつ、じめじめする防空壕の中で明け暮れ希ったものは何であったか、それは只、平和への一途ではなかったか。そしてその平和こそは今将に来たのではないか。この歌こそは琉球民族が永い間求めて来た世界ではなかったか。実に琉球の平和は余韻蕭條たる音楽によって序幕が開かれたのである。

 その後間もなく諮詢会が誕生し、私も川上の山宿と別れて石川に行き文化部の芸能関係の仕事をするやうになった。当時の文教隊長はハンナ少佐で実に親切な方であった。兵隊というと四角張った人間のやうに思うが、ハンナさん(皆がハンナさんハンナさんと親しむ)は召集前迄大学教授で日本語も相当使い、沖縄歴史の研究に没頭し、尚戦争のために散在した古美術工芸品を拾集して博物館を建設した功労者である。序にハンナさんの人格の一端を紹介すると戦後のことで、大抵の兵隊は珍しいものを探して土産に持って帰ったがハンナさんはそんなことは絶対にしない。人々が骨董品でも贈ろうとすると頭を横に振って、沖縄は戦争のために凡てを失ったからこんな貴重な品は沖縄に保存した方がよいと云うてなかなか受取らない。こう云う性格だから文化関係の仕事には熱意をもって援助して呉れた。

 沖縄芸能聯盟が設立されたのもこの頃で会長に護得久朝章氏、幹事に仲嶺盛竹氏、島袋光裕氏及び私の三名であったが、ハンナさんは芸能聯盟のために衣裳や幕を整えて呉れたり、又稽古場を建てて呉れたりした。あの石川病院裏の演劇研究所(現在は入院室に使用している由)もハンナさんの記念の建物である。

 芸能聯盟の事業としては色々あるが当時最も必要な仕事は米軍の希望による部隊慰問が重なるもので、約半ヶ年間は各地区の部隊廻りに急しかった。ところが相手が軍隊であるから約束した日には雨の日でも寒い晩でもトラックの上で凍え乍ら出かけたのである。今から云うと何でもないやうに聞こえるが、あの頃は終戦当時で凡てが殺気立ち、黒人の襲撃事件等が頻々とあった頃だから絶えず憲兵が小銃を携えてトラックの前後に付添い、小用にも一人歩きは危険で引率して行く始末であった。しかも上演物は音楽の歌詩に至る迄、凡て翻訳しt説明を附し、尚試演の際も一々検閲するのであるが中にも一番困る事は上演の時幕あいの時間がなく次から次と連続で演り、少ない人数で入り替り、立替りするのであるが、その間に化粧もしなければならんし、着付もしなければならん。然も少ない着物を多くの人数で使用するのであるから、大急ぎで着替えなければならんと云う目の廻るやうな急がしさは役者自身は固よりタイムを取るマネーヂヤー迄気を揉むこと夥しい。それに定った時間がきた時にはどんな良い出物でも遠慮なくカットしていくのであるから折角苦労して稽古したものでも当日になって時間の関係で中止になった事が時折あった。平素楽屋の中でゆっくり化粧や着付をやりつけている役者が2,3日の不自由な 兎も角も永い間文句一つ云はずに愉快に働いたことは、如何に緊張していたかがわかる。

 役者の中には今度の戦争で大切な夫を亡くしたのも居れば、可愛い子供を失ったのも居るが骨肉を失った深い悲しみと悩みを胸に秘めて各地区の部隊を廻り、俄造りの舞台や、或いは露天の下でで、しめやかに響く楽の音に合せて踊り抜く姿は、心ある者を泣かせたであろう・・・・凡ては平和のためだ。吾々は平和のためには如何なる不自由も犠牲も厭はないであろう。

 米軍慰問が終る頃には住民の生活も段々落付いて来て各地の疎開者から上演申込みがあるやうになったが、その頃には吾々も美術家協会を計画して私は其の方面で働く様になった。その後芸能聯盟も色々変化して来たやうであるが、今から考えると、あの終戦当時が最も張り切っていた様に思はれる。(1949、7,10 於西森墨荘)

屋部憲・遺作品
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1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「比嘉榮眞」
1943年1月 月刊『文化沖縄』第4巻第1号 
病歴・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・・・・44
○此の稿は勿論未完成の儘である。嘗て医師会事業として提唱した問題である。而して今度は私が3,4年間に集めた分だけを書いたものである。只手付けの一端を披瀝しておけば、会員各位の記憶を呼び起こして以って応援も多からんことを希望して止まない次第である。
 1、正月 自粛の年、国民生活を出来るだけ切り下げて行く決戦下に於いて、物の不足は漸く馴れて、お正月といへども昔みたい様に暴飲暴食するといふ事はないと思ふ。が未だ所謂お正月気分といふものがあって多少とも弛みが出る。その隙に色々の病気に犯さるるものである。


1943年2月 月刊『文化沖縄』第4巻第2号 
愛国百人一首評釈・・・・・歌壇諸大家・・・・・・・2
琉球使節を歌へる歌・・・・林 秀雄・・・・・・・・・6
護国の神々に仕ふ・・・・・・仲村渠政権・・・・・・7
身邊小話・・・・・・・・・・・・・・長田紀秀・・・・・・・・9
随筆三題・・・・・・・・・・・・・・喜久川鼎・・・・・・・11
歴史と命魂・・・・・・・・・・・・・高良忠一・・・・・・15
琉球とおもろ双紙(和歌)・・山口由幾子・・・・16
病歴(二月)・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・22


比律賓群島の糸満漁民・・・比嘉 榮・・・・・・・27
名士の演説振・・・・・・・・・・・伊地 啓・・・・・・・30
南洋通信・・・・・・・・・・・・・・・大宜味朝徳・・・・32
労務雑記・・・・・・・・・・・・・・・山城興純・・・・・・33
くすりを求めて(1)・・・・・・・・久場仙眼・・・・・・36
方圓録・・・・・・・・・・・・・・・・・・新崎盛珍・・・・・・40
療園四年・・・・・・・・・・・・・・・・松田並子・・・・・・44

1943年3月 月刊『文化沖縄』第4巻第3号 
病歴(3月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・37
○2月からの余勢は流れて先月からの流行は引き続き依然として顕はれてくる。陽気がポカポカと暖かくなり出して街路の黄塵が吹きまくって、相変わらずノド、鼻カゼが多く安魏那が多い。


1943年4月 月刊『文化沖縄』第4巻第4号 
病歴(4月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・36
○気温と脳ー梯梧の花盛りー 陽春4月ー誰れかれの別なく自然と共に心が浮き浮きしてくるものである。而してこの春になると脳の変調が来て脳神経系統の病気が多くなる。其の理由は気温が上昇する関係である。気温が上がると人体皮膚の下の血管がフクランで来る。それと同時に頭蓋の内の血が降りてそれに因る刺激症状を起こすもので「フルチ」「ハンゲーイモノ」(微毒)等が続発してくるのもこの期節で、又神経痛、ロイマチス等もよく再発してくるものである。

1943年5月 月刊『文化沖縄』第4巻第5号 
病歴(5月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・24
○昭和14年、15、16年は麻疹が続々と流行して、今月は正に猖獗を極めている時期であった。而して其当時死亡率も多かった様に感ぜられた。昔から疱瘡は器量定め、麻疹は命定めといわr、これから暑気に向かって行くと特に本県では死亡率が多くなる様である。風疹、暑さに向ふてチョイチョイ流行るものにハシカとまぎわらしい風疹といふものがある。俗に「三日ハシカ」とも称へられ、方言で「台湾イリガサ」ともいわれて親御サン達をして、よくまごつかしめるものである。又大人にも罹ることがあって、よく辻町の女子連中に見うけられる場合が多い。

1943年6月 月刊『文化沖縄』第4巻第6号 
病歴(六月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・27
○これから愈々南島は本格的な夏に入るのである。私の友人県の農林技師をしていた方の話によると、本県は気候と土地の関係上6,7,8の三ヶ月間はどうしても青野菜類は発育し難いとの事である。これによって此季節にはややもすると青物不足の所謂「ヴィタミンC」欠乏症とか又は野菜物に含有する「ヒスタミン」が無い為に脚気の様な胃腸障碍を見る事が多い。

1943年7月 月刊『文化沖縄』第4巻第7号 
病歴(七月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・30
○盛夏・・・・・これから愈々茹る様な暑気が続いて来る。これから吾々は喝を覚えることが甚だしく、水を、特に冷水を要求する事が多くなる。これに因って自然に口からの病気が急に増えてくる。されば最初に先ず「真夏の衛生と」しての三か条を挙げて見たい。(1)蝿の駆除 (2)水特に飲料水の選択 (3)指尖の清潔


1943年8月 月刊『文化沖縄』第4巻第8号 
病歴(八月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・28
○相変わらず感冒が多い炎暑の最中で而かも一番暑い月である。東京其他ではめったにこういふ事はない筈である。本県では如何なる月でも風邪は多い。一つは気候の不順なることも原因となるだろうが、今一ツは県人一般に咽頭が悪い関係もある。先天的に即ち遺伝的(素質)に咽頭が悪く且つ之を保護する含嗽といふことを等閑視している全て風邪といふものは其の名前の如く「ノド」「ハナ」から入るものだといふことを注意すれば含嗽は何よりも真っ先に実行すべき事柄である。
1943年9月 月刊『文化沖縄』第4巻第8号 
病歴(九月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・30
○残暑の候より「新西ミーニシ」といふ季節風が吹く。即ち気候変わりに移るのである。気候変わりには必ず風邪は伴ふものであるが、而し只水っぱなをたらすだ丈に止る。此季節に「ユジナ」(疫)即ち鷹渡来にちなむ「タカバナシチ」が流行する。俗に鷹の小便といふてチラチラと小雨が降って来る。子供等がそれに濡れて知らず知らずに罹る「カゼ」である。
1943年10月 月刊『文化沖縄』第4巻第10号 
病歴(十月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・15
○九月と殆ど同じ気候で、又同じ様な病気が引き続き多く見られる。朝夕は多少涼しくなるが相変わらず「ミヅツパナ」と「ノドカゼ」が多い、又「シブリ腹」も多い。

1943年11月 月刊『文化沖縄』第4巻第11号 
病歴(十一月)・・・・・・・・・・・・・・・比嘉榮眞・・・・・・18
○此月から12月にかけて、生理的に実に良好なる月である。十月の末頃から十一月一ぱいと尚十二月にひいて俗に「アチハテ十月」といはれて、社会一般に閑散期である。医業も割り方隙になる時である。何しろ気候はよくなるし、人全てが食欲が増進して健康の秋は近づいてくるのである。大根は出る。菠薐草其他青野菜の出盛る月である。大抵の慢性疾患も一様に良好に趣いて自然に病者も少なくなる天高く馬肥ゆるの候である。
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1937年9月『月刊琉球』山城正忠「麦門冬を語る」
○けふは旧の7月13日、所謂精霊を迎える日であり、初秋の風に、盆灯篭のもの淋しくゆれる孟蘭盆である。そのために、私の心には麦門冬が今に会いにくるような気持ちになるまでに、なつかしい彼の面影がよみがへって来ている。今。麦門冬。思いがけなくも、あまりに世を早く去った彼、年齢からいふと、わたしより弟分でありながら、生意気に本を読み過ぎいささか頭のよかったキヤツ、私は無理と知り乍らも、今一度奴を現実にひき戻したくて仕方がないのだ。麦門冬。即ち』末吉麦門冬である。親のつけた戸籍面では末吉安恭。元来、麦門冬は彼の俳号であった。私の知っている範囲内で、その頃の沖縄俳壇に、名実共に俳人らしい俳人といったら、末吉麦門冬ともうひとり、これも物故したが、壷屋出身の高江洲三念であった。三念に就いては、今頃知る人も少なかろうが目下、中京名古屋の舞踊界で活躍している、南条舞踊研究所高江洲康宏君の兄である。したがって、麦と三念の間にはわれわれにもうかがひ知れない緊密な俳交があった。それから麦門冬には莫夢山人といふ号があり、それもよく随筆なぞを物していたのは、未だ記憶している人も多かろう。

その代わり、落紅といふ歌号は十中八九知らないだろうと思ふそれを特に私が知っているのは少し理由がある。といふのは例の新詩社の「明星」が百号で廃刊し、それに代わる「昴」が森鴎外博士を主格に、与謝野夫妻を顧問として、北原、吉井、茅野、大田(木下杢太郎)、平野それから一代の才人石川啄木君なぞによって発刊された、当時彼が落紅の筆名で、しばしば短歌の一般投稿欄のトップを切っていた折あたかも在京当時の私がその雑誌の同人格で果敢ない命脈を繋いでいたからである。とにかく、麦門冬といふ男はある一時、新聞記者といふ立場に於いて反対党の或政敵からは「化け者(モン)とう」といい囃された程、得体のわからない豪ら物だった。そもそも、末吉安恭が書斎から街頭に出た当初は、何の変哲もない一文学青年に過ぎなかったが、天稟と努力による彼の行くとし可ならざるは無き学殖と端倪すべからざるその才能は、いつしか県ソウコ界の寵児たらしめたのであった。おそろしく筆まめの男で、編輯締切間際になって記事が不足し、他の記者が徒に騒いでいる時でも彼は悠然として神速に、何かを書き上げてその穴を埋めていた。しかもそれが良い加減のものではなかった。酒と来たらそれこそ眼がなかった。飲むと矢鱈に煙草を吸ひその吐き出す煙で相手を巻くように能弁になり、雄弁になる彼であった。ふだんは割合におとなしかったが、酔ふとトラになって、武を演ずることが往々有った。(以下略)



山城正忠「乾闥婆城ー一名、尋牛庵閑話ー」
○崖言ー黙っているのも能ではあるまい何か書いて見たらと、灰雨①にそそのかされて、久方ぶりに、筆を執り、研に親しんでみる気になった。それだけでも、私としてはよほどの発心である。もちろん、文をつづるわざに、関心を失ったわけではないこれでも絶えず、その方面に念がけているが、人に示す程のものがかけないからといふ心に、鞭うてない例の怠りである。そこで、案に向って見たものの、これといった腹案がないため、やはりいけない。よんどころなく、筆を投じ、数年来珍蔵している、寄書屏風に対座して見た。何かそれによって、暗示でもうけたいと思ったからである。
①灰雨ー國吉眞哲

夭々たる桃花と微吟したい陽春三月の光をうけて、銀の色がややすんでいるのもどことなく落付きがあって、いいものである。そこには一面に、先輩や友人たちの芳名が録されてあり、なほ、各自の心境と気魄の横溢した、書画がひしめき合っている。数にしざっと百名を越すであらふ。すべて、茅屋に駕を枉げていただいた方々の記念に残されたサインである。こうして見ていると、おのづから、いろいろの顔が浮かんで来るし、更らに、ことなった声がきこえるやうな気がして、何とはなしに、「閑忙至楽」といふ句が思ひ出される。試みに、その中から、特に異色のあるものを拾って見やふ。

「浄華雲」、敏とあるのは、暁烏敏②(以下敬称を省く。又他意なし)である。これを見ていると、あの極度の近眼鏡と、若い夫人の品やかな手が思ひ出される。「首里の青天、なはのへきれき」とつつましく書かれているのは、折口博士の事、釈ちやう空のである。薄墨の色にも、氏の人柄が窺はれて頭がさがる。「山原船」の絵は春陽会の山崎省三③。「笊を頭にのせた女」の絵は帝展の三宅凰白。これには句が賛してある。曰く。物売りの言葉わからず梯梧散る。踊を象徴したやうな「踊」の字は石井漠④。その署名をとりまいて、圓舞するけしきに見えるとりどりの署名。八重子、洋子、みどり、静香、恵美子。因云。八重子は石井夫人である。これだけは旅館でかいてもらった。佛文はアグノエル⑤、露文はセルゲーエワ嬢。

②暁烏 敏は、真宗大谷派の僧侶、宗教家である。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。 同じ加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて加賀の三羽烏という。 ウィキペディア

③山崎省三 やまざき-しょうぞう
1896-1945 大正-昭和時代前期の洋画家。
明治29年3月6日生まれ。日本美術院研究所にまなぶ。大正5年院展に初入選。村山槐多(かいた)とまじわる。11年春陽会創立会員。昭和12年より新文展に出品。山本鼎(かなえ)らと農民美術運動をすすめた。昭和20年6月7日ハノイで戦病死。50歳。神奈川県出身。作品に「午砲の火薬庫」など。→コトバンク

④石井漠いしいばく
[生]1886.12.25. 秋田,下岩川
[没]1962.1.7. 東京
舞踊家。本名石井忠純。日本の現代舞踊の父といわれる。文学を志して上京したが,のちに石井林郎の芸名で帝国劇場付属管弦楽部員,同歌劇部第1期生となり,ジョバンニ・V.ローシーにバレエを学ぶ。 →コトバンク

⑤シャルル・アグノエルは日本・朝鮮の言語・文化を担当したパリ大学教授。1924年から八年間日本に留学し30年に沖縄を調査。沖縄に関し「琉球における死の表象の特徴について」などの論文があり、著書「日本文明の起源」(56年)が久高島の風葬などを報告した。→森田琉大学長

短冊型に輪郭をとった中に柳につばめの模様を描き、「宵闇を明るくするや、小夜楽」と句をかいたのは田谷力三。「ほのぼのと明け行く白き朝霧につつまれて着く那覇の港や」は北村季美子。紙数に制限があるから、以下友人のをぬいてみやふ。「鶏啄木」の宮城長順。「銀椀裡盛雪」の島袋全発。「喜神招福」の謝花雲石。心如水一の谷本誠。「多情無為」の上間正敏。等々。何れも其性格があらはれてほほえましくなる。その他「月橘花白ろ」の故国吉寒路。「首里城明渡し」の山里永吉、これは俳句と戯曲の題書である。一寸変わり種では石川正通の英文ゲーテの句、イブラギムのトルコ文字。ネファ。ヴアンチュウルの吉野光枝といったところ、それに島袋光裕の書と、宮城能造の絵を追加したい。大書きされて眼につくのは、時君洞の蒼勁三武郎の典雅、反対に小書きされて眼につかないのは、川俣和と藤井春洋。両氏共、国学院の出身で、折口門下であるのも、此場合、偶然の対照で面白い。

書いているうちに、紙数が尽きたから、他は割愛することにして、次回から、此欄を藉りて、私なりの考証や観察といったやふな、随筆を連載させていただく事にする。

1936年4月 山城正忠「乾闥婆城ー一名、尋牛庵閑話ー」
○一茶と琉球人ー良寛と一茶とは、私にとって、もっとも嬉しい人生の旅人であり、又、遺された句や歌を通じて、知合になったいい途連れである。しかし、ここではその一茶に就いてのみ、かきとめておく。「一茶旅日記」ーこれはその名の示す如く自ら「革命の年」と呼んでいる。彼の42歳から46歳までの5年に亘る句集を兼ねた日乗である。島崎藤村先生は、江戸の仮住居の侘しい行灯のかげなぞでその日その日に書かれたらしい心覚えの手帳だと、いみじくも追想されている、越後入村家の襲蔵に係る稀こう本で、大正13年6月18日、斯道の権威、勝峰晋風氏の解説によって遍く世の同好者に頒れたもの、私は友人川俣和氏に借覧して思ひがけない眼福を得た次第。その中から事琉球に関するものだけを抜粋して、取り敢えず手控へにしたい。左記。
     文化三年十二月十三日の条に、晴。北風。品川岡本屋にて琉球人を見る。砂明と外三人一座なり。
     同二十三日。琉球人登城。同三十日琉球人上野に入。同十二月四日。晴。行徳川岸大阪屋に泊る。琉球の医師葬。
以上。これによって、江戸上り琉球使節一行の唐人行列が、如何に江戸市民に好奇心を以て迎へられたかといふことがよく窺はれる。(以下略)
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 昭和初期の美術文学の団体や戦争協力については責任ある立場の人物なら、当然に戦争責任の一端はあるだろう。敗戦後は「一億総懺悔」という言葉があったようだが最近は死語になっているようだ。2007年の沖縄戦の集団自決を巡る教科書問題、2003年の東京都教育委員会の日の丸・君が代通達、2011年の大阪府の日の丸・君が代条例らが続出、現在は日米両政府でオキナワに新基地を押し付け、衆院本会議では戦争法案が審議入りしている。もはや「戦争責任」は死語と化している。1945年7月26日のボツダム宣言に「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである」と述べられているが、現在はアメリカが社会主義国顔負けの軍国主義でオキナワの自由と民主主義を弾圧、日本との密約で世界征服に乗り出すようである。そこで、私も気をよくし昭和初期の文人たちを紹介する。

1934年1月1日『南島』弟9号 石川正通「比嘉俊成を語る 琉友素描・その1」
  (略)潤一郎対春夫の諸相は不思議にも俊成対正通のそれに似通って居る。幸田露伴の如き老大家はさておき、今の文壇の中堅大家のうちで最も漢学の素養の深いのは志賀直哉、谷崎潤一郎、佐藤春夫の3人である。死んだ芥川龍之介も死んだ末吉麦門冬のやうによく漢文が読めた。沖縄には真境名図書館長や京都の崎山先生のやうな漢学の大家が居られる。

1934年8月1日『南島』弟13号 石川正通「友の首途を祝して故郷を語る=武元朝朗・国吉休微 両君を叱咤する=」
 朝朗君、休微君 御互に鉄砲丸の様に御無沙汰を続けて居たね、不精は吾々にとっては遺伝なんだからせいぜい筆不精の限りを尽して居る事が先祖に忠なる所以かも知れない。(略)最近出た某書店の百科辞典を引いて見たが、おもろ、蔡温、程順則、尚泰侯等も出て居ない。澤田正二郎、田健次郎等は写真まで出て居る。土田杏村が第二の萬葉集と言った『おもろ』も国語国文学校の士にすら全般的に知れ亘って居ない。沖縄はまだまだ紹介しなければならない、風物も文化も県人が思って居るほど知られていない、いい気になっては駄目だ、それにつけても人物の欲しさよ。君達は君達の方面で第一人者に成ってくれ、自愛自重せよ、頼む。

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ハワイ州は、太平洋に位置するハワイ諸島にあるアメリカ合衆国の州である。漢字では「布哇」と書く。州都はオアフ島のホノルル市である。アメリカ合衆国50州の中で最後に加盟した州である。 ウィキペディア
1878年  孫文ーハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、オアフ島ホノルルに移住、後に同地のイオラニ・スクールを卒業。→ウィキペディア

1909年  大城剛(白銀)がホノルルで雑誌『沖縄同胞』創刊。1年で廃刊。その後、ヒロ市で『雷新聞』を発刊(1918年廃刊)。
1910年9月ー与儀喜照、山城徳助、渡名喜守章、屋部憲伝の発起で「球陽倶楽部」設立。
1911年6月2日ーハワイ「望月」で「尚侯爵令嗣尚昌歓迎会」。
1912年7月ー遠山哲夫(当山亀)は雑誌『実業之布哇』発刊。
1912年7月28日ー仲嶺真助(麻氏)、ハワイのオアフ島ワイアナエで生まれる。父三良、母マツ
1915年8月ー前暁鐘社長野里朝淳はマウイ島カフルイ港にて写真屋開業。
1917年2月ーハワイ沖縄県人同志会結成、当山善真(常務理事)、田島朝明、平良牛助、仲間銀造、上里由明、上里良温、上江洲智倫、野里朝淳、小那覇三郎、山里勇善、山城徳助、山城秀正、山入端松正、小波津幸秀、宮里貞寛(会計)。/11月ー上里由明、朝鮮人旅館を譲り受けキング街リバー街近くに上里旅館開業。
1919年3月ー小那覇三郎の「沖縄観光団」、30日の天津丸で出帆。/9月ー宮城源永法学士来布。
1920年12月ー玉代勢法雲(東本願寺)、上原束善(東本願寺開教使)来布。
1921年7月ー比嘉賀秀牧師来布。
1922年1月ー常盤園で「布哇沖縄県人会発会式」。司会・宮里貞寛、経過報告・上里良光、議長・田島朝明、会則説明・当山善真、理事に当山哲夫、宮里貞寛、田島朝明、平良牛助、当山善真、比嘉賀秀、宮城源永、田島朝明、新城銀次郎、大城朝政、嘉数佐市、宮城高光、比嘉保徳、上里良光、与那原良吉、豊平良金。既存のーハワイ沖縄県人同志会は解散せず、趣味団体として存続。/3月ー旭劇場で布哇沖縄県人会主催の基金募集代演芸会、琉球踊・・・鶴亀踊、乙女手踊「スーリーアガリー」、唐手、四季口説、天川、上り口説、交遊、万歳、笠踊、亀甲節、蝶舞、坂原と前浜、薙刀、滑稽踊、唐手と棒・・・。/10月ー天長節奉祝のため新開一座が南キング街のパワー劇場で開演、上り口節、亀甲節、獅子舞、安来節、劇「鬼界島武勇伝」、八重司の万歳、前ヌ浜、与那原節、赤山節、交遊節、仲作田節、四季口節、大切「千本桜」。


1923年3月 嘉数南星『赤光』地響詩社

1924年1月ー布哇沖縄県人会が石井ガーデンにて総会親睦会、宮里貞寛司会、比嘉賀秀理事長、田島朝明書記、宮里貞寛会計の報告ありて後小波津ドクトル、平良牛助、玉代勢法雲、当山哲夫、田島朝明らの所感演説あり、かくし芸などがあった。新理事・比嘉賀秀、当山哲夫、佐渡山安忠、仲間銀造、比嘉保徳、平良牛助、田島朝明、当山善真、豊平良金、宮城源永、山城徳助、上原東善、津波章孝、金城善助、新垣良輝、永山盛珍、古波津幸、玉代勢法雲、内間三郎、稲嶺盛武、内間盛瑾、新川栄光、金城珍栄、池原萬助、宮里貞寛。


1924年2月 比嘉靜観『赤い戀』實業之布哇社


1924年6月 潮音詩社(布哇ホノルル市)『カマニ』第二輯

1925年3月ー布哇沖縄県人会総会で満場一致で布哇沖縄海外協会の設立を議決。理事長・古波津幸秀、副理事長・田島朝明、会計・安里貞雄、書記・宮里貞寛、監査・平良牛/当山哲夫、理事・比嘉賀秀/玉代勢法雲/山城徳助/比嘉保徳、幹事・当山善真。/10月ー宮里貞寛、ホノルル市ヌアヌ街総領事館下にホノルル旅館開業。

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ハワイの太田朝敷
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左から二人目が太田朝敷
1925年7月21日ー布哇沖縄海外協会に招聘された前琉球新報社長太田朝敷氏は春洋丸で来布す。→船客名簿には一等船客沖縄朝日新聞社顧問太田朝敷とある。4月21日ー太田朝敷、太洋丸で帰国。

1926年3月26日ーハワイ海外協会設置
布哇沖縄海外協会創立・・・沖縄海外協会支部の代議員会はホノルル支部宮里貞寛氏の司会で、同幹事当山善真氏の代議員点呼、同理事長小波津幸秀氏の開会挨拶、代議員の紹介、当山幹事の設立運動報告、議長、副議長の選定、太田朝敷氏のスピーチ、会則の審判議定などがあった。/10月ー渡口政之助、宮里仁王発起で琉球芸術クラブ組織。/11月ー仏教研究のため帰朝中であった元上江洲病院薬局生、与世盛智郎が本派本願寺教士として来布。
1927年2月ーホノルル旅館を経営していた宮里貞寛は家族同伴帰国。
1927年3月ー屋部憲通、9年前に渡米、加州帝国平原に在住していたが帰国の途にホノルルに寄港し当山哲夫、比嘉静観らの世話で一ヶ月滞在す。
1927年5月 宮城聡、ハワイに改造社『日本文学全集』宣伝のため横浜出帆のサイベリア丸に乗る。ホノルルに11日目に着。(1936年にも来布)→1972年6月『新沖縄文学』22号 宮城聡「文学と私<14>」


1927年11月 比嘉靜観『自顔』洋園時報社

1928年3月 玉代勢法雲『眞教法難史』布哇佛教會
1928年6月ー又吉康和(沖縄朝日新聞記者)来布。


1930年


日布映画社制作『執念の毒蛇』(1931)は、大正、昭和期に活躍した俳優であり、映画監督の吉野二郎(1881-1964)が、那覇市とハワイを舞台に撮影したもの


比嘉太郎
1934年1月、ハワイ・オハフの比嘉太郎(18)は昨年9月ごろから廃物を利用し水力発電設備に着手、正月に電灯を付ける。(比嘉太郎は北中城の祖父母の所で9歳まで過ごし、大阪岸和田で幼年時代を過ごした)/2月、新城朝功(前東京日々新聞経済部長、南洋振興日報社長)ハワイ移民研究でハワイ訪問 

1936年10月  永らくワイパフ本願寺に在職中であった与世盛開教使は過般故国訪問から帰布、新学期から布哇中学校に教鞭を執る一方、ベニヤード街バックルレーンに本派本願寺口羽総長許可で慈光園を開設。

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仲程昌徳氏の近著『雑誌とその時代』ボーダーインクの帯に昭和十五年八月十五日創刊した『月刊文化沖縄』表紙を飾ったのは「琉球の姫」と題した美人画(金城安太郎)だった、とある。画人・安太郎さんは挿絵画家で著名であるが、沖縄最初の挿絵画家でもある。私と安太郎さんとの出会いは、暦の研究で知られる首里の当間諭さんから安太郎さんの健在を聞き、安里のお宅を訪ねたのが1982年ごろのことで、その友人、具志堅以徳さんもそのころ面識を得、お二人の話を軸に沖縄の近代美術史の資料を収集し年表を作り、出来たのが1984年4月『琉文手帖』1号の安太郎さんの特集であった。

 『琉文手帖』1号は表紙絵も含めすべて安太郎さんの画でまとめた。題字は天野鉄夫さん。津野創一元『青い海』編集長が序文に「ぶらりとやって来ては、貴重な資料を発掘した話などをして驚嘆せしめ、コツ然と消えるーそんな不思議な友人・新城栄徳君が、いよいよ文庫スタイルのムックを出すという。十余年前からこの企画をあたため、今日あるを期していたことを知るもののひとりとして、その熱意と執念には、ただただ畏敬の念を抱く。”出版落ちこぼれ”の私としては、ひたすら新城君の健闘を祈りつづけるのみである。チバリヨー!」と記してくれた。1号編集で作成した資料年表は沖縄タイムス『沖縄美術全集』に収録した。

 『琉文手帖』1号は安太郎さんが描いた小説の作家たちも紹介している。田幸正英、山里永吉、本山裕児、新垣美登子、石川文一、嘉陽安男、石野径一郎、富名腰尚武(春尚之介)、大浜英祐(葦間れつ)であるが、これらの人物特定の作業が1991年発行『沖縄近代文芸作品集』に繋がる。収録した作家は上里八蔵、上間常三郎、山城正忠、平良盛吉、上間正雄、摩文仁朝信、山田有幹、末吉麦門冬、池宮城積宝、上里春生、屋良朝陳、神山宗勲、山里永吉、與儀正昌、宮城聡、石野径一郎、石川文一、宮里政光である。当然ながら表紙は安太郎さんの挿絵をあしらっていて、ビジュアルに「アルバム・麦門冬と正忠ー近代沖縄文壇の二大山脈」も巻頭に付している。

 安太郎さんは那覇垣花尋常小学校の頃から新聞雑誌、『日本美術全集』の絵を模写するのが好きな少年であった。1926年、恩師の田幸正英(護道院英)の「角を切られた鬼共」の新聞の挿絵を描いたのもこの頃である。田幸の親友の山里永吉は前衛画家で知られ、東京の山田真山宅にも住んでいた。安太郎さんも同年、沖縄県の講習会で貝彫刻を学び、県主催の品評会で悲母観音を出品、2等賞を受賞。安太郎さんが絵の道に進むことに絶対反対だった通堂仲士の親方の父(松)を新垣金次郎、田幸正英らが説得し、安太郎さんは上京することができた。張子人形などの工場などで働き、傍ら画家の斎藤朝治から墨絵を学ぶ。やがて脚気で帰郷。1930年に再上京し山田真山に師事。

真山作品が那覇市民ギャラリーで公開されたとき、私は説明文「9メートルの幻の大仏」も書いた。日本画家の金城安太郎さんに師の山田真山について話をきいたことがある。『山田先生はよくチージへ行かれ酔えば安来節で踊り、空手の突きなどを連発して周囲を辟易させておられた。今回、那覇市が購入した作品は大変珍しいもので、私も当時の作品は目にしたことはありませんが、彫刻については那覇・開洋会館にあったダバオ開拓の父といわれた大城孝蔵像は先生の作品で私も手伝いました。また先生から教わって仏像を作ったこともあります』、ちなみに現在チージにある獅子頭とミルク面は安太郎さんの作品である。

山田真山の彫刻のあゆみは村田保像、帝国劇場の孔雀の彫刻、1919年の帝展出品の「審判の来る日」が入選したころ山田真山後援会が出来て彫刻作品などが頒布された。那覇市が購入したのはこのときのものであろう。1920年の第二回帝展に彫刻「自覚」が入選。1936年に愛知県一宮市公園の阿弥陀仏、勢至観音、観世音菩薩を夫婦で赴いて製作した。1938年には琉球新報社長の太田朝敷像も手がけた。

● 山里永吉は自伝に、大火で辻にあった貸家は全部まる焼け、保険金は一文もかけていない。それで父は農工銀行を辞めて年1月『沖縄朝日新聞』「一向宗法難記」だった。2作目が「首里城明け渡し」で大当たりに当たった。●


1984年4月17日『琉球新報』松島弘明「沖縄コンビの新聞小説・さしえ/これが第1号だ」
 1933年4月、琉球新報に永吉は「熱帯魚」という小説を書いた。挿絵は今のように写真版がないので、安太郎さんが毎日一日がかりに木版を彫ったもので余り長続きはしなかったが50回は続いたという。1936年2月、永吉は新聞小説「夏雨王女節」、挿絵は安太郎さん。あらすじは、ある日にわか雨が降ったので首里城南殿の軒下に逃げ込んだ庭師の幸地里之子犬太郎という美青年がいて、それを簾の中から見ていた王女(真加戸樽金)が犬太郎に花染めのてさじを投げてやったところから愛が芽生え、身分の違う愛は許されぬ中、沖縄本島北部の安和岳に二人は駆落ちするが、やがて犬太郎は捕えられ犬太郎は死罪、王女は後を追って首里城の石垣から飛び降りるという悲恋血涙の物語である。それらが芝居で演じられると安太郎さんは舞台絵や小道具も作った。




その新聞小説が63回で終わったころ、ガジャンビラの安太郎さんの自宅へ、旧知の上間正雄が人力車を用意して迎えに来た。尚順が会いたいとのこと、さっそく松山御殿へ伺い応接間で待っていると尚順が入ってきて、うしろ手で襖を閉じ安太郎さんを見つめながら座る。上間が「この青年が安太郎です」と紹介すると「若いねぇ子どもみたいな顔をしている」と話に入り暫くして琉球料理が出された。尚順が「王女の挿絵の最後の方の、王女が身投げして打掛(ウッチャキー)が城の石垣に残っている場面は非常に良いのだが、あの石垣は首里城ではなく、海の石垣ではないか?」と言われて、安太郎さんはびっくりした。そのとおりで時間が無かったので家の近くの屋良座森城の石垣を描いたのである。尚順は古美術品を見せながら「これからも頑張っていい絵を描いてくれ」と激励した。戦後、小説「夏雨王女節」のヒロインを描いた安太郎作品を前に、上間は激烈な恋心と、城中の掟に対する挑戦みなぎる全身の緊張が王女の顔に好く表れている」と評している。

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 1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスパの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。

 安太郎さんは、終戦後の捕虜時代には、小禄村や金武村の収容所で米軍将校らの肖像画を描いた。屋嘉捕虜収容所から石川をへて東恩納博物館へ。1945年8月、沖縄諮詢会文化部芸術課技官。慰問用の芝居の舞台絵や小道具なども作った。
 2009年5月15日、沖縄県立博物館・美術館で「豊潤の美を求めてー金城安太郎と高畠華宵」が開かれた。企画したのは金城美奈子さん、別府大学美術史学で学び1994年の春、挿絵画家として一世を風靡した高畠華宵の大正ロマン館(1990年開館)学芸員となり、そこでは華宵らを通じて大正文化を考え、調査研究だけでなくミュージアム・ショップの商品や喫茶室のメニューのアイディアも提案。沖縄で高校教諭を経て沖縄文化の杜企画部員。成り行きとして、沖縄の挿絵画家は?となり金城安太郎に注目する。その図録は沖縄タイムス社から発行されたが、「日本近代 表紙絵・挿絵略年表」「沖縄近現代 表紙絵・挿絵略年表」「金城安太郎の表紙絵・挿絵」は貴重な資料だ。

6月13日には沖縄県立博物館・美術館で「ニシムイ」展が開かれる。ヤマトの研究者に画家の作品だけ見て「ニシムイの画家に歴史に残る画家は居ない」とのたまう評論家も居る。しかしニシムイの画家たちは壺屋のデザインにも協力し、自ら紅型を復興をなしている。また沖展発展のためにはチンドン屋の役回りも買って出ている。いずれにしても歴史に残る残らないは、美術館の学芸員たちの光の当て方というか創造力が試される。私は『沖縄タイムス』の安太郎さんの追悼文の末尾に「最後の琉球絵師・安太郎さんは一昨年までは獅子加那志とミロク仏を黙々とつくり、今、これに打ち乗り同行、異次元の世界へと旅立たれた。-合掌ー」と記した。

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