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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 フレデリック・クライスト・トランプは、ドイツ系アメリカ人の不動産開発業者・慈善家である。息子に実業家であり第45代アメリカ合衆国大統領であるドナルド・トランプ、娘にアメリカ合衆国連邦裁判所判事のマリアン・トランプ・バリーがいる。 フレッド・トランプは大工を始め、設計図を読み取る訓練を受けた。1920年には15歳で不動産業・建設業を始め、エリザベス・トランプ・アンド・サンという会社を母エリザベス・クライスト・トランプとともに設立する。母エリザベスは名義貸しをしたのではなく実質的な経営者であり、フレッドが21歳になるまでは小切手にサインするのは彼女の役割であった。→ウィキ

1921年5月1日 内間安瑆、カリフォルニヤ州ストックトンに生まれる。


2015年2月 展覧会記録『色彩と風のシンフォニー/内間安瑆の世界』沖縄県立博物館・美術館

1922年2月5日 デウィット・ウォレスは、第一次世界大戦で負った傷から回復する間に、多くの大衆雑誌の記事を要約した内容を含む雑誌のアイデアを思いついた。デウィットとカナダ生まれの妻ライラ・ウォレスは『リーダーズ・ダイジェスト』を創刊。→ウィキペディア

1922年3月10日 改造社招聘のサンガー夫人(女性解放運動家)サンフランシスコからの太洋丸で横浜着

1923年9月1日 関東大震災
1923年 仲吉良光、『東京日日新聞』を退社し渡米。ロサンゼルスで『羅府新報』記者

1924年3月 関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号□京阪神地方に於ける県人の発展ー米国に於ける移民禁止の布告が発せられて以来は、其の過剰人口を専ら内地に送ることになって、今や京阪神地方だけでも約1万5千人以上を算する。
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〇1986年4月15日『沖縄タイムス』「『同胞』創刊号はガリ版刷り」
□移民問題と在米同胞ー米国の繁栄を語るものは、東部にニューヨークの雑踏と、中部にシカゴの煤煙市と、そして西部にオレンジの花馨るカリフォルニアの富源のあることを見落とすわけには行かぬ。そして、また米国の文明を語るものは、ニューヨークの女神像と、シカゴの黒人私刑事件と、太平洋沿岸の東洋人排斥の事実とを忘れてはならない。(略)カリフォルニアのこの発展をかほどまで迅速ならしめたものは、実に20万に近い支那人の労働者と、30年間血と汗をもって開拓した、30万に近い現存日本人の努力の結果とに他ならない。→1929年12月『世界地理風俗体系・第20巻・アメリカ合衆国(下)』新光社

1924年5月10日、ジョン・エドガー・フーヴァー司法省内の捜査局(Bureau of Investigation:BOI)の長官に任命。
○「2007年2月 マルク・デュガン 中平信也『FBIフーバー長官の呪い』文春文庫□貴族の出自を自慢していたジャクリーンの父親の祖先は、じつは無一文の入植者にすぎない。彼女の父親が金持ちになったことはたしかにあったが、財産は大恐慌の時に全て失われていた。人生に敗れた遊び人で、度重なる飲酒からアルコール中毒になり、その病状は結婚式で娘と腕を組むことができないほど深刻だった。ジャクリーンの母親はリー姓のフランス系アイルランド人だと公言していたが、実際はレヴィという姓のユダヤ人だった・・・

FBIフーバー長官の呪い (文春文庫) – 2007/2 /沖縄テレビ「奇跡体験!アンビリバボー:市民が窃盗団結成★FBIから極秘文書を盗み出せ」
 
1924年5月15日 アメリカ議会、排日移民法可決□7月1日「排日移民法」が実地される。
 
1926年9月30日、スタール(お札博士、シカゴ大学最初の人類学教授1858-1933)、九十九豊勝鹿屋中学校教諭と大球丸で来沖、鎌倉芳太郎の案内で尚侯爵邸、首里城などをみる。
□スタールの日本研究 [編集]スタールの日本研究の範囲はユニークかつ幅広く、アイヌ・松浦武四郎以外では、なぞなぞ・絵解き・ひな祭り・祭社の山車・河童信仰・納札・富士講・看板・達磨・碁・将棋・寒参りにまで及ぶ。特に納札に関してはマニアのレベルに達し、自分の作った納札(千社札)を日本各地への旅行に持ち歩き、神社仏閣に貼りまくった。この行為がスタールを「お札博士」と呼ばせ、日本の知人に親しまれた理由であった。彼の足跡は、東海道・四国・九州・東北に残され、富士山には5回も登山し、木曽御岳にも登っている。2回目に来日した時に帝大教授・坪井正五郎に世話してもらった駒込西片町の家を根拠地とし、集古会のメンバー(清水晴風・西澤仙湖・久留島武彦・淡島寒月・林若樹・山中共古)や、我楽他宗という関西のサークル(三田平凡寺)と接触し、蒐集品の交換や「東海道中膝栗毛」の輪講に参加している。親日家としてのスタールの面目は、本国アメリカで発揮される。1924年のアメリカ議会に提出されていた排日移民法案を批判し、日本人のみに適用される移民法は人道と建国の精神に反すると訴えた。1930年代に満州事変・上海事変を受けて日本へのアメリカの世論が硬化すると、一人で南部・中西部の諸州を巡回し日本の立場を極力弁護した。スタールの遺骨は、富士山麓須走口に埋葬されている。(→ウィキペデア)

1927年3月3日、澁澤栄一は自らが組織した日本国際児童親善会長として日本と米国の人形交換につとめた。3月25日には沖縄にも青い目の人形がアメリカから贈られてきた。小学校47校に分配した(沖縄女子師範附属小学校と首里第二尋常小学校は同一の学校だが2つ貰っている)。
関連〇「公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センター」ブログ
関連〇「ツトムさん家の写真日記/第1013回 日米交換人形 ミス群馬と青い目の人形」

1927年、アイルランド系ジョゼフ・ケネディ一家がアイルランドから密輸した酒を、マイヤーランスキー(ユダヤ系ロシア人。1920年代初期は、シーゲルと共に密輸ギャングのルイス・"ダッチ"・ゴールドバーグなどの元で酒の密輸トラックの武装ガードマンを務め、ニューヨークからシカゴまで酒を運んでいた。やがて他の密輸トラックを襲って酒を横取りし、非合法の酒取引所で転売して稼いだ。彼らを雇っていたフランク・コステロの紹介でアーノルド・ロススタインに認められ、自ら密輸ビジネスに参入した。ルチアーノらと酒輸送ネットワークの一員になり、規模を拡大したーウィキ)一家が強奪しようとボストン郊外で銃撃戦となり、11人余が死亡。関連〇「歴代アメリカ大統領の軌跡/第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディJohn Fitzgerald Kennedy 民主党-生没 1917年5月29日~1963年11月22日(46歳)」マサチューセッツ州ブルックラインで、アイルランド系移民の子孫、株取引や禁酒法時代に密造酒の製造で大儲けをした投資家のジョセフ・P・ケネディ・シニア(Joseph Patrick Kennedy, Sr.) の5番目の息子として生まれた。

1928年10月 伊波普猷、春洋丸でハワイ着、比嘉賀秀・当山哲夫らハワイ在住県人の招きによるもの。ハワイ各地で『沖縄よ何処へ』(後に『沖縄歴史物語』と題して刊行)をもとに沖縄歴史を講演。

1928年11月『世界地理風俗体系・第19巻・アメリカ合衆国(上)』新光社
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ニューヨーク□この世の龍宮ー白波さわぐ水の彼方におぼろに霞む高楼の群こそこの世の龍宮とも見られよう。この高楼の群立こそは大ニューヨーク市の中心マンハッタン南端付近の世にも稀なる壮観で南方水上から仰ぎ見た風景である。その中央部に雄然と聳ゆるエクイタブルのビルディングもその右方のウールウオースもこの大観の一丹一碧をなすに過ぎぬ。右の端にはお台場公園の水族館が見える。
国防
□海軍ー(略)我々は少しも米国海軍を恐れては居らぬ。然し勿論戦争を望んでも居らず、少なくとも近き将来に戦争があろうとは思って居ない。戦争ばかりが海軍の仕事ではない。我々はむしろ益々日米両国の国交を厚くし今後いよいよ通商の繁くなりよく「太平洋」を文字通り太平に保つべく、両国海軍が提携してその保護の任を盡さんと希って居るのである。

□空軍と化学戦ー米軍中には化学戦部が設けられ、毒ガス、焼夷弾及び発煙弾等を用ふる化学戦の準備と研究を行っている。これがための機関として、化学戦学校とか、毒ガス工廠などがあり、実に平時よりガス第一聯隊がメリーランド州、エッヂウード工廠内に設けられ、本部と3中隊とを置いてある。その他パナマ、コロザールと、歩兵学校内と、ハワイのショフィールド兵営との3か所にも、各1中隊宛のガス中隊が設けられてある。米国の毒ガス製造の一日の量は約350トンということである。

■→米軍は米国領内のジョンストン島に毒ガス移送することを決定。1971年1月と7月の2回にわたり、美里村(現沖縄市)の知花弾薬庫から具志 川市(現うるま市)の天願桟橋までの行程で毒ガス移送が行われました。第2次移送は56日間にもわたり、移送路周辺の住民約5千人が避難しました。 (沖縄県公文書館)

1929年2月ー伊波普猷、山城亀雄飛行士が操縦する飛行機でロサンゼルス上空を飛ぶ。カリフォルニア各地を巡遊、宮城与徳、屋部憲伝らと交流。
8月ー『科学画報』13巻2号□伊波普猷「布哇の自然と人」、伊波普猷、帰沖(折口信夫と同行予定が折口体調不良のため伊波一人の帰沖となった)。10日ー真境名安興と共催で「琉球古典劇研究座談会」、19日『琉球新報』伊波普猷「孟蘭盆の新意義」、25日ー『琉球新報』伊波普猷「五ツ組の用語と詩形」、30日ー伊波普猷、上里朝秀ら台中丸で帰京(途次、喜界島で講演)。11月23日ー京浜沖縄県学生会秋季総会で「方言に現れたる土俗」と題し講演

1929年年2月14日 シカゴで聖バレンタインデーの虐殺(英: St. Valentine's Day Massacre)
関連〇那覇中学校在学のころテレビで「アンタッチャブル」を見た。エリオットネスを中心とする「正義の味方」アメリカ財務局特別捜査官の活躍を描いたものでいかにも憎々しい「公衆の敵№1」のカポネ像が定着したが、カポネは公衆の酒需要に応えただけで、人間をアメリカ軍の日本・沖縄無差別空襲やベトナム、イラク攻撃のように無差別に人間を殺したわけでもない。カポネも貧しいイタリア・ナポリ移民の子としてニューヨーク・ブルックリンので生まれたことは後に知る。現実の沖縄駐留アメリカ軍兵士の犯罪とダブって見え、アメリカという国は、最近は日本もそうだが、犯罪や戦争までも企業化(マフィア化)にしてしまうものだと妙に納得した記憶がある。長じてカポネ映画も5回見た。カポネに興味があるのは少数派だと思ったが、今でもグーグル検索で人気のある人物で画像、動画も豊富だ。カポネの名前はアメリカ人なら子供でも知っている。

 1964年、東京神保町で入手した中野五郎『ギャングの季節』(1961四季社)、アメリカギャング史の入門書である。□犯罪都市シカゴと全米禁酒法時代の悪夢ー現代アメリカの代表的詩人カール・サンドバーグは、煤煙と鋼鉄の大都会を熱愛して有名な『シカゴ詩集』の中で「世界のための豚殺しや工作職人や麦刈り人夫や鉄道工夫など・・・・・大きな肩を持った都会だ」とシカゴの民衆性を弁護している。しかし、同じアメリカのある評論家が、「シカゴには平和がない。それは抑制されない恐怖と光明の都会である」といみじくも喝破しているように、シカゴこそ自由の国アメリカの明暗をもっとも強烈にかつ露骨に表現した巨大な商業都市であり、偉大な文化都市であり、そして物凄い犯罪都市なのである。(略)
こういう雰囲気の中に、アメリカ社会救済事業の母ジェーン・アダムス女史は1889年に社会改善運動(シヴィック・リフォーム)の烽火をあげて有名な「ハル・ハウス」をシカゴの貧民窟の真中に開設し、またシカゴ大学はじめノース・ウェスターン、ロヨラ、ドポールなどの著名な大学が平和主義と社会学によって権威を高めているのも注目されるであろう。それにシカゴ自慢は1893年のコロムビア大博覧会、1933年の20世紀進歩大博覧会、稀観本専門のニューベリー図書館、フィールド自然博物館、オペラ劇場、マーシャル・フィールド百貨店、アメリカ最大の新聞「シカゴ・トリビューン」など、犯罪都市シカゴの背景はあまりにも文化的であり、また、商業的であると言えよう。ここにシカゴの秘密があり、ガンサーのいわゆる「華麗な矛盾」の悪の華が咲き乱れているのだ。

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カポネ関係資料上から2段目右に中野五郎の『ギャングの世界』(1950日本弘報社)、『ギャングの季節』(1961四季社)。/2014年9月 『TOKYO TORIBE & 世界ギャングスタ映画読本』洋泉社
1960年代初め、ジェノヴェーゼはコステロらの陰謀にはめられ麻薬取引で収監されるが、獄中からファミリーの指揮を執り続けた。1963年、部下のジョゼフ・ヴァラキがマフィアの正式メンバーとしては初めて沈黙の掟を破って証言。ジェノヴェーゼの死後はボス代行のトーマス・エボリ、副ボスのジェラルド・カテナ、コンシリエーリのマイク・ミランダの三頭体制となったが、ファミリーはリーダーシップ不在の混乱を続け、最大最強のファミリーとしての地位をガンビーノ一家に譲るに至った。1970年代にガンビーノの盟友フランク・ティエリがボスとなり、ファミリーは再びかつての勢力を取り戻した。その後、アンソニー・サレルノ、ヴィンセント・ジガンテと歴代ボスが相次いで逮捕されたが、ジェノヴェーゼ一家は幹部級でも次々と司法取引に応じる内通者を出す他の一家とは異なり、ほとんど司法への内通者を出すことなく統制がとれており、現在では再びガンビーノ一家に代わってニューヨーク最強のマフィアとしての勢力を維持している。
映画ー1966年10月 那覇 グランドオリオン「暗黒の大統領カポネ」
1969年9月 那覇 グランドオリオン「マシンガン・シティ」
2015年 宝塚歌劇ミュージカル『アル・カポネ —スカーフェイスに秘められた真実—』

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沖縄県人会兵庫本部機関紙『榕樹』〒660-0805 兵庫県尼崎市西長洲町2丁目26-12 中央ビル601 ☎06-6487-0535 FAX06-6482-4048

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沖縄県人会兵庫県本部で機関紙『榕樹』担当の永峰眞名さん

新城栄徳日記メモー1995年1月1日ー奈良東大寺大仏初詣/1月17日午前5時過ぎに京都で大きな揺れ。東大阪の息子に電話。午後2時23分電車で京阪淀から近鉄経由で布施。/1月24日、尼崎市の兵庫沖縄県人会事務所。沖縄県からのビニールシートが届いていたので配送を手伝う。息子名義で見舞金を贈ったとき宮城幹夫氏も来所し見舞金を贈られた。挨拶をした。1月30日、西宮からバスで三宮。午後8時に帰宅。1月31日、大正区へよって、阪神青木から東灘区へ。

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「阪神大震災」関連資料


1995年2月4日ー(財)兵庫沖縄協会臨時理事会、玉城要成沖縄県大阪事務所所長も参加。□私は玉城所長を沖縄県大阪事務所で山城賢孝氏に紹介された。子息は私の息子と同級生だということは後に知る。
1995年2月7日ー兵庫沖縄協会『榕樹』第159号「阪神大震災」
1995年3月7日ー兵庫沖縄協会『榕樹』第160号「県人会結成50年記念事業 ネーネーズ公演は中止」「大田昌秀沖縄県知事が県人会を訪問、宮城久幸会長に見舞金。大田知事と旧知の上江洲名誉会長も同席した」「阪神大震災義捐金ー拓南グループ50万円、オリオンビール100万円、久米島の久米仙100万円・・・大城立裕10万円・・・」(拓南は宮城幹夫氏が持参。のちに大城立裕氏は義捐金についてー当時、津野創一氏追悼講演の謝礼金にプラスして贈ったものと語った。)



沖縄県人会兵庫県本部機関紙『榕樹』〒660-0805 尼崎市西長洲町2-26-12 中央ビル601


2001年7月『榕樹』


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南方同胞援護会/沖縄協会
□1926年、渋沢栄一の孫・渋沢敬三が石黒忠篤と台湾から来沖。沖縄県沖縄図書館で仲吉朝助の『琉球産業資料』を複写、これは後に小野武夫によって『近世地方経済史料』に収録される。渋沢は案内役をつとめた沖縄県殖産課長・田村浩の著『琉球共産村落之研究』を岡書院から出版させた。同行した石黒は石黒忠悳の息子、妻は穂積重陳の娘で渋沢栄一の孫娘。渋沢敬三は南方同胞援護会(現・沖縄協会)の初代会長で、また東洋大学名誉学位第1号でもある。


右端が吉田嗣延

1968年11月
『沖縄問題基本資料集』南方同胞援護会
編集スタッフ本会編集委員/責任者=吉田嗣延 委員=城間得栄、宮良長欣、河野忍、久保田芳郎、比嘉正詔
沖縄資料センター編集委員/新崎盛暉、屋宜宣仁、我部政男、比屋根照夫

1972年7月
『追補版 沖縄問題基本資料集』南方同胞援護会
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財団法人・沖縄協会(東京都千代田区霞が関3-6-15グローリアビル内)


吉田嗣延『小さな闘いの日々ー沖縄復帰のうらばなしー』文教商事/吉田嗣義『老人ホームはいまー現場からの報告』ミネルヴァ書房

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沖縄大学の吉田嗣延文庫

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山田實さんは二中樹緑会の会員であった。その樹緑会の古い写真には大嶺政寛・政敏兄弟も写っている。最近、大嶺隆氏が沖縄本や雑誌に沖縄にこだわって発言しているのが目につく。私は画家・大嶺政寛さんには色々と可愛がってもらっていた。政寛さんの弟が画家・政敏、その子が隆氏である。1984年ー国会図書館に寄って帰り沖縄協会に行き、吉田嗣延氏に挨拶すると河野忍さんを紹介された。河野さんは部下の隆氏に私を紹介した。隆氏は私の話を聞き機関紙『沖縄』で紹介してくれた。
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河野忍さんハガキ→新城栄徳宛/河野さんが紹介されている沖縄の新聞1985年1月17日
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グローリアビル入口で右・河野忍さん、新城栄徳

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Posted by: ryubun02
1929(昭和4)年
     『世界美術全集』第21巻 平凡社「琉球美術各論」
           □伊東忠太「琉球芸術総論」 鎌倉芳太郎「琉球美術各論」
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2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻□鎌倉芳太郎ー(彫)天尊像、(絵)尚円王御後絵、尚貞王御後絵、尚純公御後絵、金剛法会図細部、渡海観音像(自了)、高士逍遥図(自了)、(工)放生池石橋欄羽目、観蓮橋石欄羽目、瑞泉門石獅、歓会門石獅、正殿唐破風前石龍柱、御盃及御酒台並浮彫金箔磨大御菓子盆及小御菓子盆、美花御小飯並浮彫金箔磨大御菓子盆、あしやげこむね橙紅色 子地雲龍鳳文綵繍牡丹雉子文綵繍□伊東忠太ー(建)守礼門・冕ヶ嶽石門、沖宮、天久宮、円覚寺仏殿、円覚寺三門、崇元寺石門、霊御殿(玉陵)
1929-3    『世界美術全集』第22巻 平凡社 


沖縄大学図書館所蔵
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1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社
守礼門がカラーで載っている。この本を1987年に安良城盛昭(大阪府立大学教授)氏が沖縄県立博物館に寄贈された。氏のものは父盛英が東京で教師をしていたとき購入したもので氏も愛読し親しんできたものであった。□1929年2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻(写真・守礼門)□伊東忠太「首里城守禮門ー殆ど支那式の三間は牌楼の型の様であるが、また支那式と大いに異なる点がある。その四本の柱を立てて之に控柱を添えた意匠は支那から暗示を得たのであるが、斗栱の取扱い方は寧ろ日本趣味である。中の間の上に当たって、屋根の上に更に一間の第二層の構架が加えられ、その軒下に守禮之邦と書かれた扁額が懸げられて居る。細部の手法は一體に甚だ自由であり、行く処として苦渋の跡を示さない。門の広さは中の間十一尺五寸、脇の間七尺六寸に過ぎぬ小規模のものであるが、悠然として迫らざる風貌強いて技巧を弄せざる態度は誠に平和の感を現すものである」






1930年8月 改造社『日本地理大系・九州篇 沖縄県』

1930年8月5日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(1)凡そ神秘的な共産の久高島 島民総出で原始的な出迎 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月6日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(2)凡そ神秘的な共産の久高島 島の由来記と名所旧蹟 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月7日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(3)凡そ神秘的な共産の久高島 原始共産制の名残を観る 苦熱を忘れるローマンス」
1930年8月8日『沖縄朝日新聞』豊平良顕「憧れの離島訪問(4)どこ探しても無い久高島の奇習 珍しい風葬と婦人の貞操試験 『グショウ』見物の巻」

 




1933年7月 仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』

1934年4月17日『琉球新報』広告□那覇市東町 明視堂写真部ー佐和九郎『正則写真術』『密着と引伸』『現像の実際』『露出の秘訣』『整色写真の研究』『整色写真術』/三宅克巳『写真随筆 籠の中より』『写真のうつし方』『私の写真』『趣味の写真術』/高桑勝雄『フイルム写真術』『写真術五十講』『写真問答』/宇高久敬『写真の新技法』/霜田静志『写真の構図』/南實『原板の手入』/加藤直三郎『中級写真術』/石田喜一郎『プロモイル印画法』/小池晩人『山岳写真の研究』/金丸重嶺『新興写真の作り方』、金丸重嶺・鈴木八郎『商業写真術』/勝田康雄『人物写真のうつし方』/中島謙吉『芸術写真の知識』/吉川速男『写真術の第一歩』『小形カメラの第一歩』『図解写真術初歩』『私のライカ』『十六ミリの第一歩』/鈴木八郎『写真の失敗と其原因』『写真処方集』『整色写真のうつし方』『引伸の実際』/中戸川秀一『写真百科辞典』/寺岡徳二『印画修整の実際』/斎藤こう兒『撮影第一課』『引伸写真の作り方』『芸術写真の作り方』/額田敏『山岳写真のうつし方』/眞継不二夫『芸術写真作画の実際』『アマチュア写真の修整』/山崎悦三郎『修整の実際』/高山正隆『芸術写真入門』『ベストコダック写真術』/石動弘『小形活動フイルム現像法』

1934年5月5日『大阪朝日新聞 九州朝日』「外人の眼に映じた”ハブの國„ クルート女史の興味を晙る視察談」


1934年5月8日『琉球新報』?
4月、欧州経由でアメリカに帰途、来沖したミス・アン・クルート(大阪東淀川区ミード社会館)が新聞記者に「那覇の児童がスペイン語、英語を知っているのに驚いた、これは海外雄飛の諸産物で若い者がハワイ・ブラジルらに出稼ぎ、そこで生まれた子を故郷沖縄の学校に送り帰すためです」と答える。


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Posted by: ryubun02


1949年3月『真相』□人民社(佐和慶太郎)に紹介された児玉誉士夫
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1972年5月『山口組時報』4号□宜保俊夫・三代目山口組内東亜事業組合理事、沖縄支部長「沖縄の地より」


2012年3月ー東亜会(旧東声会)2代目誼興業(金城義雄会長)解散。これで沖縄ヤクザは旭琉會だけとなった。

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1953年5月『人物往来』「特集・抬頭する右翼」□右翼総登場/三浦・児玉演出ー保守連立の一幕/一斉蜂起の鐘うち鳴らす旧軍人の群/今をときめく室町将軍ー三浦義一/①児玉誉士夫という男/日本型ドンキホーテー下中弥三郎の場合ー



『風雲ー児玉誉士夫著作選集』上巻□日本及日本人(西山幸輝)児玉誉士夫署名入りの著。
1972年12月『風雲ー児玉誉士夫著作選集』中巻□日本及日本人(西山幸輝)〇ー「憲法改正」の問題についても、意見を述べることはさしひかえた。それは現在の憲法が、終戦後において当時の占領軍から示唆されたものであるとはいえ、一流専門の学者が起草し法文化されたことは明白な事実で、共産党および極左思想の分子の介入したものでないことは確かである。(略)さらに、一言補足しておきたいことはーげんざいにおいても、また将来に在っても、国家主義運動それ自体が自主性をもたず、いたずらに左翼勢力との抗争にのみ重点をおくようでは、かんじんな国民各層のなかにとけこんでゆくことは、ほとんど不可能であり、困難であるということだ。-
1976年の義人党総裁の高橋義人(61)の葬儀で児玉が葬儀委員長をつとめる。


2013年7月ー宮松久三『追想 冝保俊夫』と、工藤美代子『悪名の棺 笹川良一伝』幻冬舎2010年10月を見た。冝保伝には私の友人・知人が多く登場していて沖縄は狭いと痛感した。佐野本に「沖縄の本当の戦後史を書くには、沖縄社会の裏も表も知り尽くした冝保の証言は不可欠」として冝保に会おうとしたが冝保に断られているが、後に家族や周辺に取材し宮松が書けなかった事実にもふれ二つ合わせて沖縄の裏社会が覗ける。ちなみに冝保を児玉に引き合わせたのは大城鎌吉だったと沖縄タイムス関西支社の記者は証言していた。笹川伝は冝保伝に笹川と同席している写真があったから見た。笹川と川端康成と豊川尋常高等小学校で同級生であったことにふれ、笹川は右翼には「浪人右翼」「ノリト右翼」「暴力右翼」があるとし、笹川も右翼だが児玉誉士夫や藤吉男などは最後には裏切ったとある。今東光、川端、笹川とは生涯親交があったという。



1992年10月 『日本船舶振興会30年の歩み』財団法人・日本船舶振興会
○2010年10月 工藤美代子『悪名の棺 笹川良一伝』幻冬舎に□笹川良一と児玉誉士夫の最初の出会いは、大阪北浜にある国防社本部だった。児玉は貧苦にあえぎ、荒涼とした少年期を過ごしてきた。富裕な家庭に育ち、両親や周囲からの厳しくとも豊潤な愛情と躾によって育まれた笹川とは雲泥の差があった。笹川は云う「世間ではな、ひと口に右翼というて同一視しておるが、みな違うのだ。わしの見たところでは四つに分類できる。『浪人右翼』『ノリト右翼』『暴力右翼』そして『大衆右翼』だ」。その説によれば、浪人右翼ー其の実態は一人一党、天下国家を吾一人で担って起つと言はんばかりの大言壮語はするものの、政治的社会的影響は全然ゼロ。ノリト右翼は、古事記、日本書紀を金科玉条と為し、政治も経済も文化も悉くを此の中に求めようとする。暴力右翼は、真っ向から議会政治を否定し、大衆運動を否定し、昭和維新を暴力的革命の方向に依って実現せんと企画。

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Posted by: ryubun02
 私は1964年、16歳のとき錦糸町駅近くの機械工場で働いていた。無論、寮も近くにあったので駅ビルの本屋はよく行った。駅ビル近くに小林一三①ゆかりの江東楽天地もあったが覗いたことはない。駅ビル界隈は懐かしい場所である。この頃はテレビで全国の、全世界の事件が瞬時に報じられる。ネットでは色んな場所の映像もウンザリするほど出てくるが、復帰記念日の2016年5月15日ー東京都墨田区江東橋のビルに午後6時45分ころ、墨田区江東橋3丁目のJR錦糸町駅近くのビルに、練馬区に住む無職の男(83)の運転していた車がビル1階にあるカラオケ店の入り口付近に突っ込み、付近にある別のビルで警備員をしていた男性(45)をはねた。警視庁本所署によると、男の車は百貨店の駐車場を出る際、周囲の安全確認のため停車させようとした駐車場の警備員の男性をはねて、車のボンネットに乗せたまま道幅約20mの国道を横断して、向かいビルのエレベーターホールに突っ込み止まった。と、テレビ画面で錦糸町駅界隈を報じていた。

①小林一三記念館
逸翁美術館(いつおうびじゅつかん)は、大阪府池田市にある美術館。設置者は財団法人逸翁美術館。阪急電鉄・阪急阪神東宝グループの創業者小林一三の旧邸「雅俗山荘」を当初の展示場として1957年に開館した。館名の「逸翁」は小林一三の雅号である。収蔵品の基礎は小林一三の5000点に及ぶ個人コレクションで、重要文化財15件、重要美術品認定物件19件を含む。特に与謝蕪村・呉春・円山四条派のコレクションは名高い。また、旧美術館の建物も1937年に建築された住宅建築である。旧美術館の正門は現豊能町の庄屋で江戸時代後期に建設されたものを1936年に移築したものである。2008年4月からしばらく休館し、2009年10月に阪急学園池田文庫のとなりの用地に新築移転された。旧美術館の本館である小林一三旧邸「雅俗山荘」は「小林一三記念館」として2010年4月22日に再公開された。

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小林一三が知人に宛てた息子の結婚式のお礼の手紙(所蔵・琉文21)

東京楽天地 とうきょうらくてんち
 興行会社および不動産会社。東宝系。 1937年小林一三により江東楽天地として設立,同年江東劇場と本所映画館をオープン。 52年浅草楽天地を合併。 56年楽天地天然温泉会館をオープン。 61年現社名に変更。→コトバンク

2012年7月 生田誠『墨田区・江東区今昔散歩 東京スカイツリー®の見える街』彩流社


2015年9月 江東区地域振興部文化観光課文化財係『下町文化』№271○野本賢二[【泡盛の壺】発見!~泡盛が結ぶ沖縄と江東~]
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2006年7月『40年前の東京ー春日昌昭のトウキョウ』生活情報センター/1960年11月23日『琉球新報』

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1975年ー神戸三ノ宮駅前で宏美と息子。
 神戸は1歳の息子(1974年生)を連れて妹と一緒によく行った場所だが、現在、息子は神戸で働いている。2016年5月3日ー神戸市中央区のJR三ノ宮駅北側の交差点で午前11時すぎ、、乗用車が暴走し、歩行者をはねた。兵庫県警によると、14~51歳の歩行者の男女ら5人が重軽傷を負ったほか、乗用車の親子2人も軽傷を負った。同県警は自動車運転処罰法違反(過失傷害)の疑いで、車を運転していた神戸市中央区港島中町、無職沢井国一容疑者(63)を現行犯逮捕した。この神戸駅も見慣れた場所であるが、那覇でテレビを見ると事件の当事者たちの気持ちも考えず不遜というか懐かしい気持ちで見ている。

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
今ほど政治経済が東京を中心に劣化している時代は無い。そこで東京の過去を散策してみよう

 1940年の東京沖縄県人会『会員名簿』の東京沖縄県人会の沿革によればその歩みはつぎのようになる。京浜沖縄県学生会の会報で補足する□b>
1886年ー在京沖縄出身の青年間に勇進社を組織す
1888年ー沖縄学生会と改称
1890年ー沖縄青年会と改称す
1899年ー照屋宏により学生の寄宿舎設立計画さる
1899年ー沖縄青年会仮事務所を麹町区富士見町2ノ7、尚侯爵邸家構内に置く
1909年ー創立20周年記念会を上野精養軒に開き朝野の名士を招待す。来会者3百余名空前の盛事なり 当時会長は護得久朝惟
1910年ー仮事務所廃止
1910年ー護得久朝惟会長提案による沖縄青年会会友会発会式を風月において挙行す
1910年ー護得久朝惟会長辞任、後任会長に漢那憲和
1911年ー寄宿舎設置補助交付の件が沖縄県会を通過、翌年より2ヵ年に亘り金壹萬円也下付せらる。当時日比重明知事、高嶺朝教県会議長、岸本賀昌学務課長
1912年ー沖縄青年会会友会を社団法人とし沖縄育英会と改称す
1913年ー寄宿舎落成式挙行。沖縄県明正塾と命名す 東恩納寛惇舎監に推薦さる
       その後1923年に東恩納寛惇、舎監を辞任、神山政良が常任管理委員に推挙さる
       1928年、神山政良、舎監を辞任、比嘉良篤、後任に推挙さる
       東京沖縄県人会と改称す、役員を理事制度に改め漢那憲和理事長に推薦さる
       □1925年5月ー京浜沖縄県学生会結成
1927年ー役員を会長制に改め、新城朝功が会長に当選し神山政良、奥島憲仁が副会長に当選す 神山副会長辞任
1928年
11月11日ー京浜沖縄県秋季総会、会長に尚謙(慶応大学)、副会長に赤嶺康成(高等師範)
□1929年
5月ー京浜沖縄県学生会秋季総会を新宿白十字堂に開く。伊波普猷「方言に現れたる土俗」講演。役員改選で会長に小嶺幸雄(早稲田大学)、副会長に福地唯義(慶応大学)。
6月2日ー京浜沖縄県学生会春期総会を新宿白十字堂ホールに開く、佐藤惣之助の「琉球旅行」の話
1929年ー役員改選さる 会長に渡口精鴻、副会長に比嘉春潮、翁長良保
□1930年
7月ー小川町の多賀羅で在ハワイ同胞母国観光団歓迎会、主賓の金城珍栄以下10余名、県人出席者30余名。
11月9日ー京浜沖縄県学生会秋季総会を神田駿河台下白井喫茶部2階で開く、渡口精鴻、比嘉春潮の談話、女子部の会長に豊川とみ
□1931年
3月19日ー漢那憲和代議士、移民会館建設の準備成功し帰国
4月29日ー大蔵省参事の神山政良、名古屋専売局長に栄転さる。
5月17日ー神楽坂福寿倶楽部で東京沖縄県人会春季総会、役員改選 会長に渡口精鴻留任、副会長に奥島憲仁、恩河朝健
1932年ー明正塾廃止
1936年ー5月、本会沿革及び名簿を謄写す
1936年ー役員改選さる 会長に神山政良、副会長に大濱信泉、八幡一郎
1937年ー東京沖縄県人会(芝区虎ノ門会館 久高特許事務所内)『会員名簿』作成頒布  
1938年ー役員改選さる 会長に神山政良、副会長に大濱信泉、八幡一郎
1940年ー東京沖縄県人会『会員名簿』     

大宜味朝徳は海外研究所を設立し『我が統治南洋群島案内』『最近のペルー事情』『最近の布哇事情』などを発刊した。1933年1月に南島社(東京市本郷区蓬莱町5)から郷友版『南島』紙を発行する。3号(1933年3月)に「東京琉球泡盛商一覧」が載っているのを始め平敷本舗主人の平敷安用の「「東京に於ける琉球泡盛の今昔」、東京での泡盛委託販売30年の入江藤五郎の「泡盛の黄金時代」、「泡盛界に躍進する三島本舗主・川村禎二君」が載っている。また泡盛商広告に崎山商店(崎山喜昌),うるま本店(金城時男)、琉球古代焼・花瓶置物・琉球漆器・琉球玩具も扱う仲本商店(仲本宗厚)がある。

『南島』4号に「知念松一君、沖縄写真帖計画」が出ている。知念松一は8号の個人消息で「大阪市港区八雲町4で関西沖縄新聞創刊」とある。また空手講習会、南島談話会、泡盛組合、東京沖縄県人会の集会も紹介されている。1934年2月『南島』10号の集会欄に「名古屋県人会(比嘉康進)が神山政良顧問で万歳三唱、舞踊、空手あり」と報じられ、8月の『南島』13号には稲垣国三郎氏の義挙として「大阪稲垣愛日小学校長は6ヵ年間沖縄師範主事として勤務したことがあるが久松五勇士の快挙につき種々尽力、公にし且つ映画化して南島男子の意気を顕揚せしめた。この義挙に対し在阪県人有志の我喜屋宗信、山城興善、下地玄信、平尾喜代松、真栄田勝朗、幸地長堅らが大いに協力した」が載っている。ほかに『南島』の個人消息欄には上原美津子(中央電話局教師)、伊波普猷長男國男君目出度本年度二中に入学、また久志芙沙子の随筆がある。


1936年10月27日午後5時から、神田区小川町の多賀羅亭で東京沖縄県人会臨時総会が開かれた。定刻までに90人が集まった。先ず神山政良会長が開会を宣した後、会則改正の必要を説明。そして新会則案を提出し、副会長の八幡一郎がこれを朗読し審議に入った。神山政良が会長に再選。あと会食。その後に漢那憲和、渡口精鴻の旧会長、幹部の労を謝し、大城兼義がパンフ「沖縄県回生の要訣」を手に憂郷の熱弁を振う。午後10時、大城兼義の音頭とりで「東京沖縄県人会万歳」を三唱して和気藹々のうちに散会した。

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Category: 04-書の森
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1987年7月 早乙女勝元 編著『写真版 東京大空襲の記録』新潮文庫
早乙女勝元ー1970年に「東京空襲を記録する会」を結成。/2002年に東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長就任。東京大空襲・戦災資料センターとは、アメリカ軍B29爆撃機による東京大空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、4000名を超える方々の募金で設立された、民立・民営の資料センターです。2002年の3月9日、戦禍のもっとも大きかった江東区北砂の地に開館。さらに2007年3月には、いのちと平和のバトンを未来にきちんと受け渡すために、増築を実現しました。

「超空の要塞 B29」
一般市民8万人以上が焼死、100万人以上が被災した東京大空襲や、1万人が焼死したとされる大阪大空襲は、B-29の重要な「戦果」とされる。さらに日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布して海上封鎖を行い、国内航路に大打撃を与えた(飢餓作戦)。

東京大空襲
「知恵蔵2015の解説」太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月10日未明、東京の下町を中心に行われたアメリカ軍による大規模な空襲。東京への空襲は、44年11月24日から、サイパン島などのマリアナ諸島を基地とするB29爆撃機によって100回以上繰り返されていたが、いずれも日中に1万メートル以上の上空から軍需工場を目標とするものだった。しかし3月10日の大空襲は、深夜午前0時8分から2時間半にわたって、B29約300機(基地を出撃したのは325機、東京まで来襲したのは279機)が高度2千メートルという低空から侵入し、町工場と住宅地がひしめく市街地に爆撃を敢行。アメリカ側の公式見解では、「日本の中心部に集中している工業的および戦略的な目標を破壊すること」が目的とあるが、一般民衆への無差別爆撃で戦意を喪失させる意図は明らかだった。B29は、長時間燃焼するナパーム弾を江東区・墨田区・台東区にまたがる40平方キロメートルの周囲に投下し、火の壁で住民の逃げ道をふさいでから、その内側に1665トンの焼夷(しょうい)弾を投下。市街地は完全に炎の海と化し、26万8358戸が焼失。100万8005名が罹災し、死者は8万3793名、負傷者4万918名とされるが(警視庁調査)、実際の死者は10万名を超えると言われている。3月18日に焼け跡を視察した昭和天皇は、「これでとうとう東京も焦土となったね」と感想をもらしたという(加瀬英明『天皇家の戦い』)。
太平洋戦争中における日本側の死者数が東京大空襲に匹敵するのは、沖縄戦(45年4月1日の米軍上陸から6月23日の戦闘終了まで)の軍・義勇軍の死者10万人、県民の死者15万人(総人口の3分の1)、広島の原爆投下による12万人、長崎の原爆投下による7万人だけである。非戦闘員の一般市民を標的に大量殺傷を行う行為は戦争法規違反であるが、空襲から19年後の64年、日本政府は、爆撃計画を立案・指揮したカーチス・E・ルメイ司令官に航空自衛隊育成の功で勲一等旭日大綬章を授与している。毎年3月10日には東京都主催の追悼行事が東京都慰霊堂で行われているが、東京大空襲の記録を残すための施設は、国立にも都立にもなく、民間の「東京大空襲・戦災資料センター」があるだけである。
(秋津あらた ライター / 2009年)

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1974年 『月刊ペン』<特集 ”狂乱”時代をどう生き抜くか>5月号
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①松浦総三「虚構の時代に乗ずる法」

松浦総三 まつうら-そうぞう
1914-2011 昭和後期-平成時代のジャーナリスト。
大正3年11月25日生まれ。改造社の編集者などをへて,昭和30年からフリー。45年早乙女勝元らと「東京空襲を記録する会」を組織し,事務局長。「東京大空襲・戦災誌」を刊行し,50年菊池寛賞。GHQによる言論弾圧史の研究,天皇制批判など,反権力の立場で社会批評を展開した。平成23年7月6日死去。96歳。山梨県出身。中央大中退。本名は総蔵。著作に「占領下の言論弾圧」など。→コトバンク
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1930年3月『日本風俗地理大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社

1930年3月『大東京寫眞帖』忠誠堂(東京市神田区今川小路/高倉嘉夫)〇この写真帖を見られた人々は、東京が革命的な外観的変化をしたことに感嘆されるであろう。それはまったく東京生まれの、東京っ兒でさえが驚く有様であるから、古い写真帖で東京を見ていた地方の人々は更により大きな驚きを感ぜられると思う。新東京を概観すると、道路の総坪数が震災前までは二百八十萬坪であったものが、今では全道路坪数が全市総面積の二割五分を占めることとなり、ロンドンの二割三分を凌駕して、世界一を誇るパリの二割五分と比肩するのだから、これだけでも世界一か二とまで偉くなったわけだ。
 品川から千住まで蜿蜒として貫く道路。十三キロ半、街路にはプラタナスの並木が街を緑化している。そしてその町の左右に立ち並ぶ建物は、表現派、分離派、ライト式、ロマネスク、正統派、曰く何々派に何々式等々々で、その変化に富んだことは、世界建築のデパートを開いたかの観がある。一部の都市美研究家は、「東京はまだまだ汚い」というが裏から見ればそれは完全ではないかも知れないが、道路、建築、公園等を見れば、何といっても革命的に美化したものである。どうぞ、東京人が彼の震災から焼野ケ原と化した、その焦土の上に涙ぐましい努力努力の結晶として打ち建てた新東京の姿を見てやって下さい。

銀座は正に首都の心臓である。試みに夜、尾張町の角に立って街上の風景を見るがよい。電車のスパーク、自動車の警笛、オートバイの爆音、ショーウインドーのきらめき、広告塔の明滅、交通整理のゴー・ストップの青と赤、人間の波、波、男、男、女、女の波である。新しいのも古いのも、お好み次第。新橋から京橋までの両側は悉く一流の商店、カフエー、買いたいものは遠慮なく買ふべく、飲みたい酒は遠慮なく飲むべしである。カフエーはタイガー、ライオン、クロネコなどと動物園見た様だが、中にはきれいな女給さんが、吾人の至るを待っているといふ次第、裏通りにはサイセリア、アホヒ、モンマルトル、メーゾンヤエ、など超モダンの酒場(バー)がある。カフエーがモダン過ぎて困るとなれば、天金の天ぷら、竹葉のうなぎ、上海亭の支那料理、更科のそばなど味覚を楽しませることであろう。お土産を買ふならば、デパートメントに松屋、松坂屋があり、服部、天賞堂等もある。銀座の通りをブラブラと歩いているうちに、いつの間にか京橋を渡り、日本橋通りへ出る。日本橋通り一丁目には、呉服店として江戸時代からその名を謳われた白木屋が、近代的流行の百貨店として橋向ふの三越と相対している。



神田は書店と学校の多いことで、東京市中に異色をはなっている。学校には明治大学、商科大学、中央大学、専修大学、その他私立の中学校、受験予備校があり、書店には古書専門、法律専門、何々専門とこの街に来れば手に入らぬ書籍なしとされている。(略)神田の街が尽きたところに、九段の坂があり、登れば高燈籠と鳥居が聳えて、護国の英霊を祀る別格官幣社靖国神社、本殿を拝して傍なる遊就館に入り各戦役の戦利品、我国の銘刀、乃木将軍の遺物などを見る。九段の傍らには近衛一聯隊の兵舎があり、宮闕守護の干城、ラッパの音もいとど勇ましい。



西郷さんの銅像の前に立って見る。復興の東京は実によく展望できるのだ。それに彰義隊の墓、清水堂、東照宮、五重塔などは徳川将軍家時代の江戸の遺物、趣味も大分懐古的になるが、それでは古い、新しい趣味を求めたいならば、東京府の美術館、帝展、院展、二科、南画展その他一年中展覧会の開かれざるはないから、ここで一つ近代的審美眼といふやつを養って、更に古代の美の世界に遊ぶべく東京帝室博物館があり、美術学校、音楽学校、寛永寺の徳川家廟、子供連れならば動物園にも一寸這入って見る。それらを一巡して山を下れば、不忍の池、池の中央に弁財天、観月橋を渡ればそこには博覧会の会場が、いつも何らかの催しをやっている。







1930(昭和5)年9月1日 本所陸軍被服廠跡に震災記念堂(伊東忠太設計)完成

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1928年11月 エグ・オグニヨフ著/饒平名智太郎・訳『ソウェート学生の日記』世界社
1928年11月『中央公論』饒平名智太郎「出版会のリーダー四人男 講談社の野間氏、改造社の山本氏、新潮社の佐藤氏、平凡社の下中氏其の人と事業の短評。 野間氏は僕の中学時代の国語の先生だ。其頃の野間氏は快活な放胆な、教育者といふよりは一個の遊子ローマンテイストだった。国語の時間に、よく八犬伝を聞かせてくれたものだ。氏の放蕩は、学生の間にも知れ亘っていたから余程遊んだものらしい。それの快打策として当時の中学校長だった大久保氏に世話して貰ったのが、今の野間夫人だ。(以下略)」
1929年7月  饒平名智太郎『プロレタリア芸術教程 第一輯』世界社
1929年11月 饒平名智太郎『プロレタリア芸術教程 第二輯』世界社

1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」

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沖縄県立図書館出品の「程順則肖像」が見える

1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」、写真・ペルリ提督の首里城訪問のジオラマ
1月ー『琉球展覧会出品目録』□永見徳太郎ー琉球女日本男遊楽の図、琉球船競漕の図、琉球人行列/島田佳矢ー琉球木彫聯、琉球木彫額、琉球竹花生、琉球細麻衣(笠、片袖、秋夏模様)、新月型酒入、龍模様花瓶/銘苅正太郎ー東道盆
山村耕花ー麻紅格子衣裳、麻茶地縦格子衣裳、麻紺地蝶梅模様衣裳、麻紺地花笠模様衣裳、麻紺地茄子模様衣裳、麻薄藍地松梅紅葉模様衣裳、木綿薄藍地牡丹鳳凰模様衣裳、木綿白地ドジン、麻風呂敷(三ツ巴に一紋付柳にのし模様)、鼈甲 (廃藩以前婦人使用のもの)、蛇皮線(爪付)、琉球胡弓(弓付)/啓明会ー琉球風俗絵、唐船渡来図、古代紅型裂地(300余年前のもの)、焼物製作に関する証書、紅型型紙図案(15枚)、紅型型紙(11枚)、絣図案(16枚)、絣図案(19枚)、手拭図案(2枚)、墨すり紅型図案(5枚)、風呂敷図案集(2枚)、紅型衣裳(3枚)、古代面 能面(4面)・・・比嘉華山は唐船入港ノ図、尚順は「神猫の絵」、富名腰義珍は唐手軸物、唐手本、唐手写真貼、巻藁(板付)、木刀、十手、唐手術写真、六尺棒などを出品している。①杉浦非水は琉球壺(芳月窯・唐草彫)、琉球壺(南蛮模様彫)を出品。
①杉浦非水 すぎうら-ひすい 1876-1965 明治-昭和時代の図案家。
明治9年5月15日生まれ。グラフィックデザインの開拓者のひとり。地下鉄(昭和2年の開通時)や三越のポスター,たばこのパッケージなどを手がける。図案家の団体「七人社」を設立。昭和10年多摩帝国美術学校(現多摩美大)校長。30年芸術院恩賜賞。光風会会員。昭和40年8月18日死去。89歳。愛媛県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は朝武(つとむ)。(→コトバンク)/日本のデザイン史に燦然と輝くモダンポスターの傑作『三越呉服店 春の新柄陳列会』です。描いたのは、三越の図案部員として次々と傑作ポスターを世に送り出し、「三越の非水か、非水の三越か」と言われるほどの名声を得た近代グラフィックデザインの父・杉浦非水。日本で最初に商業美術という分野を切り拓き、多摩美術学校の初代校長兼図案科主任教授として日本にデザインを根付かせる為に生涯尽力した人物です。(→美の巨人たち)
ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」

1930年3月1日 茅原崋山『内観』第120号「三つの問題=琉球教員会に於ける講演の一節=」〇経済的に貧弱なる琉球は、経済的に貧弱なる日本の縮図であるといふ。私が実際に来て見れば、成程その通りである。(略)琉球の問題は、猶日本に於けるが如く、政治問題ではなくして経済問題である。政治の琉球としては、分裂するのが、自然の勢であるが、経済の琉球としては、コオペレーション即ち共同労作が、必然の理である。コオペレーションが沖縄県人の標語であらねばならぬ。(以下略)

□今帰仁の幸地新政は『北米沖縄人史』に「孤島北山の一角に、新理想主義に燃え、読書会を組織し、そして中央の茅原崋山と呼応した十余名の青年グループがあった」と大正初期のヤンバル青年の雰囲気を伝えている。1914年6月の『沖縄毎日新聞』には「萬朝報記者茅原崋山氏は沖縄は未だ普く王化に服せず従って現代沖縄人の革命的思想を懐ける事を述べて朝鮮、台湾の植民地統治の困難(略)」とある。/私は1988年に崋山の孫で工学院大学の茅原健氏に崋山が來沖したときの『内観』のコピーを送ってもらった。それには琉球にて詠めるとして「櫻花咲ける一月の川の邊に蛍飛び居り沖縄の島」の歌がある。

茅原華山 かやはら-かざん
1870-1952 明治-昭和時代の評論家。
明治3年8月3日生まれ。改進党系の「東北日報」記者のあと,自由党系新聞の記者をつとめ,明治37年万朝報(よろずちょうほう)に入社。大正2年石田友治と「第三帝国」を創刊,民本主義をとなえた。9年個人雑誌「内観」を発刊。昭和27年8月4日死去。82歳。東京出身。本名は廉太郎。著作に「動中静観」など。(→コトバンク)


 

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Category: 04-書の森
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▼  森友学園疑惑に対する行動
■野党×市民の共闘で、森友10万人デモを起そう!■
主催: 森友10万人デモ実行委員会 呼びかけ人会
全体スケジュール
3月5日(日) 11:00~12:00 緊急集会 (国会前)
3月6日(月) 17:00~ 記者会見 (国会記者会館)
3月6日(月)~3月10日(金) 5日連続院内集会 (衆議院会館、参議院会館)
3月12日(日) 11:00~12:00 2000人デモ (国会前)
3月19日(日) 13:30~15:00 10万人デモ (議員会館前 / 総がかり行動と連動)

〇「琉球新報2月25日」【東京】大阪府豊中市の国有地が格安で払い下げられたとして、国会で論戦となっている学校法人「森友学園」(大阪市)の籠池泰典理事長が翁長雄志知事について「現知事は親中華人民共和国派、娘婿も支那の人である。もともと中共に従いたいと心から思っているので、中共の手先かもしれない」などと事実に基づかない内容を、運営する幼稚園のホームページのコラムに記載していることが分かった。

〇「時事通信2月24日」学校法人「森友学園」が国有地を格安に取得した問題をめぐり、安倍晋三首相は24日の衆院予算委員会で、昭恵夫人が同法人の設立する小学校の名誉校長を辞任することを明らかにした。また、同法人が「安倍晋三記念小学校」名で寄付集めをしていたことについて、首相は「遺憾だ」と抗議したことも明らかにした。 

〇「朝日新聞2月23日」大阪府豊中市内の国有地が近隣国有地の約1割の価格で学校法人「森友学園」(大阪市)に小学校用地として売却された問題に絡み、稲田朋美防衛相(日本会議国会議員懇談会政策審議会副会長)は23日の衆院予算委員会分科会で、同学園の籠池泰典理事長(日本会議大阪府代表委員)に防衛相感謝状を贈ったことを明らかにした。そのうえで、同学園が差別的な表現を記した文書を保護者に配布していたことなどを受け、取り消しを検討する考えを示した。

〇『朝日』の世論調査で気になる回答がありました。日米首脳会談で7カ国の入国禁止大統領令を議題にしなかった安倍首相の対応は妥当だ59㌫、妥当でない28㌫というもの。この人権感覚は大いに問題だと思います。英国の労働党はトランプの英国来訪に対し「女王傷つける」と反対を表明しています。今日、民進党は辻元清美立憲フォーラム幹事長ら10人による国有地売却問題で大阪現地調査を行います。日本会議と官邸を恐れてか、この問題に及び腰な大手メディアを動かすにはこうした行動が重要だと思います。「安倍政治を終わらせよう!共謀罪を廃案に」2.21院内集会/午後5時から参議院議員会館講堂で立憲フォーラムと戦争をさせない1000人委員会主催の「共謀法」に反対する院内集会です。平岡秀夫元法相から問題点を解説してもらいます。ご参加ください。(T)

〇「毎日新聞2月17日」共同通信が入手した同園の昨年12月の保護者向け冊子では「(韓国の)心を引き継いだ人たちが日本人の顔をしてわが国に存在することが問題」と記載。園のホームページ(HP)上では「韓国・中国人等の元不良保護者」と一時掲載し、後に「K国・C国人等」に改めた。 籠池氏は今月13日、共同通信の取材に「当園は全ての国を平等に扱っている。HP上の文章は園に批判的な韓国人・中国人の不良保護者がいたから載せた」と話した。 塚本幼稚園は戦前の「教育勅語」を暗唱させるなどの教育で知られる。

天木直人のメールマガジン2017年2月17日[ここで野党が安倍政権を倒せなければ、倒す時はない]+関連

 きょう2月17日、安倍首相の基本姿勢を問う集中審議が衆院予算委員会で行われるという。この集中審議で野党が安倍首相を追い込んで、やぶれかぶれ解散・総選挙に追い込むことができなければ、野党が安倍政権を倒せるときは、もう二度とやってこないだろう。なにしろ衆院予算委員会は国会のハイライトだ。おまけに安倍首相の基本姿勢を問う集中審議だ。各党がエースを投入し、質問協力をして安倍首相を追い込めば、安倍首相は窮する。

 それほど安倍政権はウソと矛盾と犯罪的政策にまみれているからだ。たとえば森友学園に対する国有地不当払い下げ問題だ。もしこの安倍夫妻の犯罪的行為を野党が集中審議で徹底的に取り上げるなら、大手新聞も書かざるを得ない。大手新聞が書けば広く国民の知るところとなる。安倍内閣は総辞職に追い込まれること間違いない。

関連〇「日刊スポーツ2月18日」★日本維新の会の木下智彦が質問して朝日が書いたが「これ以上やるな」と“与党的指示”が出て質問は続かない。15日の衆院財務金融委員会では日本共産党の宮本岳志が質問に立ち、国費から埋設物・土壌汚染除去費用として1億3000万円余を支払ったうえ、これとは別に埋蔵物撤去費用の名目で8億円以上を売却額から差し引いており「国にとってはタダで手放したということだ」と追及した。森友学園の資金力の問題があり、9億円相当の土地を、8年後に購入する予定で借りた。その土地に着工後、大量のごみが出た。すると価格からはごみ処分代の8億円が控除されたという構図だ。★財務省理財局長・佐川宣寿や副総理兼財務相・麻生太郎は「国有財産特別措置法で支払いの分割が認められているもの」などと適正を強調するが学校には適用されていないと認めた。しかし名誉校長に首相・安倍晋三夫人・昭恵、校長には改憲運動団体「日本会議」の大阪支部役員・籠池泰典がいる。何らかの政治的配慮があったのではないかというのが見立てだ。問題に対して適正な質問は野党の質問力が問われ、メディアは取材力が問われる。

関連〇「朝日新聞2月23日」学校法人「森友学園」(大阪市)が大阪府豊中市の国有地を購入し、現地で4月に開設を予定している小学校のホームページ(HP)から、安倍晋三首相の妻昭恵氏についての記載が23日までに削除された。これまでHPの「ごあいさつ」のページで、昭恵氏を顔写真とともに名誉校長として紹介。写真の下には、この小学校について「日本人としての誇りを持つ、芯の通った子どもを育てます」とする記載があった。23日午後の時点で削除されていた。削除について、安倍事務所は「特に聞いていない」と回答した。

関連〇「黒猫の短語2月」金正男が暗殺され、マイケル・フリンが更迭され、さらに加えてタレントのカルト集団への出家なんてのまであって、新聞・TVは連日の大騒ぎ。でもねえ、もっと凄いスキャンダルがこの国では進行中で、世が世ならば総理大臣の首が飛ぼうってほどのものなのに、一部を除いてほとんどの新聞・TVはスルーしている。TVのワイドショーには格好のネタなのに、何やってんだか。「メディアがスルーしている時点でホントなんだろう」という身もふたもない意見をどなたかがつぶやいていたのには笑っちまった。

関連〇「しんぶん赤旗2月17日」幼稚園児に「教育勅語」を唱和させることで知られる大阪市の学校法人「森友学園」(籠池=かごいけ=泰典理事長)が開校を予定している私立小学校が、安倍晋三首相の名前を冠した「安倍晋三記念小学院」と命名して寄付を集めていたことが16日、分かりました。籠池氏が本紙の取材に認めました。

(略)籠池氏は大阪府で改憲右翼団体「日本会議」の代表委員をしています。同学園が運営する幼稚園のホームページで籠池氏は「日本民族のための日本民族の憲法を創出し」「民族性を強く押し出す真性・保守の台頭が急がれます」と改憲の必要性を強調。「安倍政権は歴史のキーポイントを握っている重要な政権」と安倍首相に繰り返し期待を寄せています。

関連〇「日刊ゲンダイ」大阪市淀川区の学校法人・森友学園が運営する「塚本幼稚園」が、「よこしまな考え方を持った在日韓国人や支那人」などと記載した“ヘイト文書”を保護者向けに配布していたことが分かった。大阪府は、憎悪表現に当たる恐れがあると問題視し、法人理事長の籠池泰典園長らから事情を聴いている。

 もし野党が今朝5時のNHKニュースを取り上げれば、稲田防衛相のウソ答弁は今度こそ逃げられない。なにしろ南スーダンの反政府軍指導者マシャールがテレビの前で堂々と内戦再開を宣言したのだ。もはや言葉遊びをしているような段階ではない。間違いなく内戦が激化し、自衛隊が内戦に巻き込まれることになる。それでもウソ答弁を繰り返すなら、稲田防衛相の引責辞任と、安倍首相の任命責任は避けられなくなる。

 そして、やはり極めつけはトランプ大統領の迷走だ。ここにきて一気にトランプ大統領の無能さと政権の内部崩壊が露呈してきた。なにしろ北朝鮮のミサイル発射に一言も自分の言葉を発せられなかったのだ。対中政策にしても、中東政策にしても、次々と前言を翻して腰砕けの醜態を演じている。極めつけはフリン補佐官の辞任だ。この問題は根が深い。成り行き次第では、トランプ大統領の対ロシア政策に決定的な打撃を与えるだろう。

 いや、トランプ大統領の命取りになるかもしれない。そうでなくともトランプはサイコパスだ。サイコパスは嫌になったらいつでも責任を放棄する。トランプ大統領ならやりかねない。そう、脳科学者の中野信子教授は発売中の月刊文藝春秋で予言している。そんなトランプ大統領との首脳会談を急ぎ、個人的緊密関係を強調し、日米同盟強化を自画自賛した安倍首相は、間違いなく世界に恥をさらした。

 その事を国会で野党が本気で追及すれば、さすがの安倍首相も進退窮まるだろう。いや、安倍首相のことだから、それでも強弁を重ねて居座るに違いない。その時こそチャンスだ。これ以上開き直き答弁を繰り返すなら国会は機能しないと言って、野党はすべての国会審議をボイコットするのだ。あらゆる法案審議をストップするのだ。そうすれば安倍首相は、国民に信を問うしかない。やぶれかぶれ解散に打って出るしかない。

 国会審議のボイコットは確かに非常手段だ。国民の反発を受けるかも知れない。しかし、いまの日本は、いや世界は、間違いなく非常事態だ。反発する国民は多いだろうが、その一方で喝采を送る国民もまた多いに違いない。そこに賭けるのだ。何よりも、今の野党には失うものは何もない。それどころか野党滅亡の危機だ。反発を恐れるなどという悠長なことを言っている場合ではないのだ。野党はきょう2月17日の国会を日本の政治史上に残る歴史的な国会にするつもりの覚悟で臨むべきだ。さもなければ野党に残された道は自滅しかない。
 

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毎日新聞 2/11(土)<日米首脳会談>「同盟と経済関係を強化」 共同声明を発表
安倍晋三首相は10日午後(日本時間11日未明)、トランプ米大統領とワシントンのホワイトハウスで会談した。首相は、両国の経済関係を一層深化させるため、麻生太郎副総理兼財務相とペンス副大統領のもとで分野横断的に協議することを提案し、トランプ氏も同意した。両首脳は、沖縄県・尖閣諸島が米国による対日防衛義務を定めた日米安全保障条約第5条の適用対象だと確認した。
安全保障分野では、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の全面返還には同県名護市辺野古への移設が「唯一の解決策」だとして、日米両政府で協力して取り組むことで一致した。トランプ氏は会見で日本の米軍駐留受け入れに「感謝している」と述べた。/〇もと核弾薬庫があった辺野古の自然を破壊し、新基地をこさえて、オキナワに「戦後百年後」も米軍基地を置くつもりのようだ。

「核はこうして貯蔵されている<辺野古の核弾薬庫>」『週刊ポスト』1973年11月15日号<平野部の”70%„が米軍基地の沖縄>

 今日、2月10日は、1963年(S.38)年、アジアアフリカ連帯会義で4・28沖縄デーが決議された記念日。27度線での海上大会もスタート。以来、57年。変わらぬ軍事基地の島。戦後70年を経て、そのリニューアル再編整備が強行され永久基地化が図られている。その4・28を日本独立の日として祝ったのが歴史オンチのアベだった。
 しかし、世界は忘れてはないし、見ている。アメリカンファーストのトランプ、日米安保第一のアベ立憲主義、人権を知らない、金権第一の最悪コンビ会談次第で、日本は世界の笑いものになる。(T)

1944年10月10日「十・十空襲ー那覇の崩壊」アメリカ軍は、南西諸島全域に大空襲を敢行した。10・10空襲と呼ばれるこの空襲によって那覇市は一挙に炎上し壊滅した。空襲は10日の午前7時の第一次から午後3時45分までの第五次まで延べ9百機におよぶ大規模なものであった。第二次の那覇港攻撃に続いて正午をはさんでの第三次攻撃で垣花町が炎上し、第四次攻撃は那覇市街地に集中し、第五次は全機をあげて那覇攻撃に終始した。低空銃爆撃とともに、多数の焼夷弾を投下したため、市内各所に火災が生じ、それが翌朝まで燃えつづけ、全市域の90%が消失した。

罹災戸数は、15、648戸中11、440戸に及んだ。とくに西本町592戸、貸座敷689戸で、上之蔵町602戸、東町552戸、旭町275戸、久茂地町903戸で全焼、西新町は1、146戸のうち1,130戸が焼失、天妃町は371戸のうち370戸が焼失した。また軍民あわせて150隻の船舶が沈み、また交通機関の破壊をはじめ軍需物資、民需物資の被害は大きかった。住民の死傷者は、死者330、負傷者455であった。この空襲によって那覇市庁舎は焼失し、重要書類もことごとく灰となった。→『写真集・那覇百年のあゆみ』

2014年9月6日~10月29日 那覇市歴史博物館「那覇のまつりと10・10空襲」

「10・10空襲罹災地図」 赤色が被災した範囲

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「琉球新報2月25日」第34回東恩納寛惇賞(主催・琉球新報社、後援・第一書房=東京都)の贈呈式が24日、那覇市前島の沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハで行われた。沖縄考古学研究の深化と発展に貢献した元沖縄考古学会会長の新田重清(じゅうせい)氏(84)=糸満市=に、琉球新報社の富田詢一社長が賞状とトロフィー、賞金を手渡し、第一書房からは賞金が贈られた。
2017年2月24日 かりゆしアーバンリゾート・ナハ「第34回 東恩納寛惇賞 贈呈式・祝賀会」

富田詢一「主催者あいさつ」

當眞嗣一「選考経過」


新田重清「受賞者記念講演」


新城栄徳(左)、宮城朝光氏(泉崎・宮城登記測量事務所)




渡嘉敷流あけぼの乃会花岡勝子琉舞道場「かぎやで風」

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1935年10月30日 阿部金剛、昭和会館参観
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1936年8月『改造』阿倍金剛「琉球記」□私は尚男爵と一緒に此の城を飛行機の上から俯瞰した時は、つくづくさう思ったのである。首里城の一角に先ず大ホテルを建てる。城塞は全部ホテルの庭として手を入れる。諸所に散在する尚侯爵家初め各王族の城跡別荘等を開放してドライブ・ウエイを造り滞留客の散歩観光の目標にすること。既設の海水浴場を増大して設備を完全にし、適宜な場所に競馬場、競犬場、ゴルフ・リンクス等を造り辻近くにカジノを建設する。序に海洋博物館をこしらえるのも、まんざらモナコの真似とばかりは云えない。この太平洋に浮かぶ珊瑚礁には無数の珍魚奇貝も棲息しているのだから。飛行場は既に立派なのが出来ているし、航空路は既に開発されているのだから。・・・
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1937年1月『三田文学』安部金剛「琉球二景」
阿部金剛 あべ-こんごう
1900-1968 昭和時代の洋画家。
明治33年6月26日生まれ。岩手県盛岡市出身。父は内務省官僚であった阿部浩東京府知事の長男。岡田三郎助にまなぶ。フランスでビシエールに師事し,藤田嗣治(つぐはる)らの影響をうける。帰国後の昭和4年二科展に初入選。以後,超現実主義的な作品を発表。昭和43年11月20日死去。68歳。慶大中退。作品集に「阿部金剛画集」。(コトバンク)

阿部金剛 「郷愁」 1932 4号 油彩 個展出品作
阿部金剛全盛期の優品である。キリコの日本での移入を考える上で重要な作品でもある。国立近代美術館の大谷省吾氏が「阿部金剛イリュージョンの歩行者」1999本の友社を出されている。阿部金剛を知る基礎資料の決定版である。書斎絵としては一級の格とセンスがあり、男の書斎にはピッタリな作品である。→「絵のある待合室15 l 平塚市岡崎の平園クリニック l」

1936年1月5日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー七島の荒波くぐり①薩藩へ海上伝令 活躍した”琉球飛船„」
1936年1月8日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー”帳面と矢立„で語学の交換教授③愛嬌者の眞榮平」
1936年1月9日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー”捧げ銃„の敬禮下にぺルリ堂々入城④嘉永6年 黒船來琉す」
1936年1月11日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー関番所設けて 佛人の出入監視⑥米艦去り佛艦來琉」
1936年1月12日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー斉彬公渡琉藩士に軍艦購入の密令⑦密使市来の苦心」
1936年1月14日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話ー突如、斉彬公薨去で軍艦購入を中止⑧契約解除で芝居」
1936年1月15日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋全発「秘められた薩琉史話-琉球側の薩摩党頻りに投獄さる 斉彬の壮図遂に空し」









1936年8月15日『改訂版 日本地理風俗大系 九州地方』誠文堂 新光社(小川菊松)

1936年9月29日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋源一郎「糸満人は果して異人種か」
1936年9月30日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋源一郎「久高島の奇習 午年に貞操試験」(写真ー久高島に残る原始的な風葬)」
1936年10月4日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』島袋源一郎「哀切胸を打つ 与那国島の民謡」

1936年10月23日『琉球新報』喜屋武眞榮(女師附属)「新体操要目と運動会(1)」

1936年11月11日『沖縄朝日新聞』鳥小堀浄(當間諭)・文、西條寛・絵「首里風景ー辨ケ岳/与那原街道を右に、大空につ立ってゐる無電の鉄塔を左に、蝙蝠形に腰を据へて、翠緑に煙る霊嶽!辨ケ岳は首里八景中の筆頭にして、霊地久高島の遥拝所である。舊の八、九月は首里人を始め各郡村から参詣者が、バス車庫の後方から敷き詰められたダラダラ坂を上に下りし、賑やかである。嶽頂よりの眺望は碧海あり連峰あり、眼下 傾斜して広かる西原の画板は素晴らしい」

當間諭さんを検索したら『新旧対照暦』の著者というだけである。その著(1976年)に多和田眞淳氏が「この際、當間君に御願いしたいことは、君の新旧対照暦を駆使し、君の多年蓄積したメモ帳のチツを解き放して、最も我が琉球史の壷所をついた、最も簡明な『袖珍琉球史年表』とでも名づけられる、何時でも何処でも迅速に間に合い、真に役立つような『ポケット年表』を編集してもらいたいことである。」とポケット版の琉球史年表を出されることを當間さんに勧めている。

手元にある當間諭さんの年賀状を出してみると、1979年は大阪市住之江区、1980年、82年は大阪の沖縄関係資料室の西平守晴方になっている。83年から那覇市泊が受け取った住所となっている。『沖縄タイムス』の83年4月に「孫と遊ぶ」、86年10月には「新聞から人物を記録」が記事となっている。當間さんがお元気なころ、よくご自宅を訪ねいろいろな話を聴くのがすきであった。人を指すとき「やっこさん」が口癖であった。書斎には新聞の死亡広告のスクラップ帳が所狭しと並んでいた。
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2004年元旦の『日本経済新聞』に「春秋ーイスラムのヒジュラ暦など太陰暦のほか、さまざまな民族や集団のなかに生き続けてきた西暦と異なる時間を壊して地ならしをしていったのは、鉄道や学校といった仕組みである。情報化の進展がそれをさらに進めて古い時間が失われてゆくのが今世紀だとすれば、何気ない新春の眺めもいとおしくみえる」とある。今は『ポケット年表』も時代遅れとなり携帯電話でカバー出来る時代となった。
1936年12月19日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描①崇元寺」
1936年12月20日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描②首里王城」
1936年12月22日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描③那覇の埠頭」
1936年12月23日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描④赤い屋根」
1936年12月24日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑤泉崎橋」
1936年12月25日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑥萬座毛」
1936年12月26日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑦鹽屋灣」
1936年12月27日『大阪朝日新聞 鹿児島沖縄版』大嶺政寛 絵・文「沖縄點描⑧海辺の福木」

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1940年 日本民藝協会同人(識名園で)ー2列目右から5人目が島袋源一郎、前列左から2人目が田中俊雄、左端が土門拳から3人目が式場隆三郎、3列目左が山里永吉、右へ3人目が保田與重郎。3列目右2人目が坂本万七、中央が柳宗悦、前が棟方志功(坂本、土門が写っているので、撮影者は𤘩宮城昇であろう)

第三回訪沖
12月31日ー日本民藝協会主催の「琉球観光団」の団長として、三たび琉球に向け、神戸より湖北丸で出帆。団員26名。<民藝協会同人>柳宗悦、式場隆三郎、浅野長量、浜田庄司、船木道忠、佐久間藤太郎、棟方志功、鈴木繁男、田中俊雄 <販売事務>鈴木訓治、佐々倉健三 <写真>坂本万七、土門拳、越寿雄 <映画>細谷辰雄、猪飼助太郎 <観光事業>水沢澄夫、井上昇三 <その他>遊佐敏彦、同夫人、保田与重郎、浜徳太郎、相馬貞三、宮田武義、鈴木宗平、福井右近。船中で、毎夜、琉球に関する講話を行う。

井上昇三(日本旅行協会)/1940年3月ー『月刊民藝』□観光地としての沖縄ー今回、日本民藝協会が主体となって沖縄見学団が組織された際、水沢氏と小生とは観光方面の仕事に協力する目的で参加したのであった。そして幾多の収穫を得て帰ることが出来た。見学の一端は雑誌「旅」に発表する義務があったのだが、それを果たすに際して非常なる困難に逢着したのである。沖縄を琉球と云はぬ様、沖縄県を物珍しく取り扱はぬ様、特異の風俗・言語を他府県と比較したりその差を強調したりしない様等の注意を払ふ必要を感じたのである。他府県の者として沖縄を旅しての印象を正直に記したり、まだ沖縄を知らぬ人々に出来るだけ沖縄に興味を抱かせる様に紹介しようとしたら、恐らく其の筆者は沖縄県民の多大の激怒を買ふに至るのであらうといふ不安があつたのである。

かかる不徹底なる態度で書かなければならなかつた事は私としては誠に不愉快であり、執筆を終わりても其の後味の悪さは日が経過しても薄くならなかつた。所が本誌から原稿を求められて、ここに「旅」には発表し得なかつた部分と、鮮明な態度をとつている本誌に発表するの機会を与へられた事は深く感謝する次第である。

沖縄は気象学、動物学、植物学、言語学、民俗学殊に最近は工藝等の領域に於いては相当の研究がなされ且つ学界には発表せられている様ではあるが、観光学の分野に於いては他の諸学に比して数段遅れている事は否めない。何故かくもこの沖縄県のみ観光的に残されていたのかといふと、他に種々の理由もあらうけれども第一に本州の諸島と余りにも離れていたといふ簡単な理由に過ぎないと思ふ。同じ島でも佐渡の如くに近いと観光的に発展し過ぎてしまふ位にまでなつてしまふのである。この地理的条件は不幸でもあつたらうが他面に発展を伴ふ堕落から免れる幸福もあつたわけである。

次に兎角観光地といふ所では他から来た観光客の好んで見たがる箇所は地元では見せたくない場所が多いといふ問題がある。之は何処でも起こる問題で日本全体としても考慮しなければならないのである。何も沖縄県だけが考へなければならない問題ではないし、何処の府県でもお互い様である。之はもつと気楽に考へて宜しい問題だと思ふ。唯、好意的に観察して貰ふ様に充分なる説明をして納得して行く事は望ましい事である。之は案内記の書き方に依つて相当の効果は挙げる事が可能だらうと思はれる。
以上先ず云ひ難い点を敢て云つておいて本題に入る事としよう。

今回の沖縄の旅ほど、旅は有益であると知つた経験は従来無かつた。百閒も一見に如かざるの真理も充分に知る事が出来た。沖縄県の観光資源の豊富に恵まれていたのには驚嘆した。一月といふ時季に行つた為に特に感じたのかと思ふが、冬季の温暖な事は強味だと思ふ。霜雪を知らぬ土地に育つ植物の見事さ、沖縄全体が温室の如きではないか。寒中に露地で赤々と花の咲いている國が他にあらうか。海の水は空を溶かした様に綺麗だし、海岸の風景は到る処絵の様に美しい。島全体を風致地区として保存したい位だ。口腹の満足せしむる沖縄料理の美味に泡盛の清烈は此の土地で味つてこそ意義がある。加之、目と耳を楽しませるものには民謡と踊りと芝居がある。其の各々に有機的な機関があつて地方色が強くしみ込んで居り、且つ、にじみ出して居る。之等は一つ一つ切り離すべきではない。だから、どうしても沖縄に来られよ、と呼びかけなければいけない。呼びかける以上は相当の自信を以て臨むべきであらう。

観光地沖縄として出来るなれば次の3項目を実行し得たら立派な観光地として自慢出来ると思ふ。現在の社会、経済事情として早急の実現は困難であらうとは思ふが、なるべく其の実現に努力して完成の日の近からむ事を希望する次第である。何でもかんでも作れるなど無理な事を云ふのではない。出来る時にやれる様に常に心掛けておく事が必要なのである。

交通機関の完備 現在の県営鉄道は観光客には利用されていない様である。船は那覇名護間も毎日は通っていない様であるから、どうしても一番頼りにするのは乗合自動車といふ事にならう。そのバスが常に満員であつた事は、時節柄減車の已むなき為でもあつたらうが、もつと運転回数を多くする必要を示すものであらう。バスの能率増進は道路次第であるから、島内の道路網の拡充は他の意味から云つても重要な事業と云へよう。坂の比較的少ない路線は木炭車でも配してみては如何であらうか。一方には遊歩道も欲しいものである。首里と那覇の間は自動車で早々に過ぎ去るには残念な位眺望の良い所がある。殊に首里から那覇へ下りて来る道が良い。私はわざわざ一度人力車で下つてみた。尤も之はバスに乗れなかつたからでもあつたのだけれども、想像以上によい景色に感嘆の声を発した程であつた。道路は全部ペーヴメントとはならなくても今日国頭方面でも自由にバスを通じてる程度のものがあるのだから、其の完成には比較的困難を感じないですむのではないかとも思はれる。そして自由にバスが走り廻れれば申し分ない。

宿泊設備 旅館は現在に於いては余り優秀とは云い難い様に思はれる。旅館の発達しない理由の一に辻の存在が考へられるかも知れない。が、然し、それとは別に切離しても設備の整つた旅館がもう少し欲しい。何も外国人向きのホテルを建てよと叫ぶわけでは決してない。短期滞在の客はいいとして長期滞在の客に対する設備が不完全ではないだらうか。下宿をするといふ事は事実上不可能らしい。この方面の要望は従来なかつたものか、将来の客一に後考を煩したい問題の一である。僅か20数名の団体客が2軒の旅館に下宿しなければならないといふ事は遺憾であつた。せめて30名は一軒に泊まれなくては不便である。

序でに旅館の食事に就いて一言しておく。旅館に泊まる人といへば原則としてその土地の人ではないのであるから、其の土地の料理を出して貰ひたいものである。この事は沖縄だけの問題ではなく、全国的に共通の大問題なのである。某先生が「旅とは米の飯と鮪の刺身と灘の酒の全国的統一である」と云はれるのを聞いた事がある。が現在では白米が7分搗きに代つただけで他は同様である。尤も沖縄では灘の酒より泡盛が幅を利かしているのは僅かな地方差である。旅館では土地で採れるものを土地風に料理して出せ、といふ要望はこの10数年来幾度か叫ばれて来ながら少しも実行されていない。沖縄でも此の例に洩れなかった。沖縄料理を出してくれと特別に注文しても「豚の角煮」が一度出た位のものであつた。もう我々はうんざりしてしまつて、なるべく旅館では朝飯以外に食はない様に努力せざるをえなかつた。郷に入っては郷に従へといふ事もあるのだから、他の土地に来た者には一度は黙つて土地の料理を食はせる。それではいかんといふ客には所謂旅館の料理ー之を標準料理と云つた友人がいたが一寸面白いと思つたーを出せばよい。少なくとも郷土料理か標準料理か何れを希望するか位は聞いて貰ひたい。況や特に注文しても出さないのは言語道断である。古くなつた鮪の刺身を出して特にもてなしたつもりで居られたのではこつちは大迷惑である。聊か脱線したが、沖縄の如く郷土色の豊かで而も美味な料理が残つている所では一層注意して頂きたいと敢えて述べる次第である。

観光地の施設 崇元寺の電柱や旧首里城の龍樋の柵の如き悪例は出来るだけ速やかに改善して頂きたい。将来は棒杭一本、案内板一枚を立てるのにも注意して頂けば結構である。同じ表示板を立てるにしても、風致を破壊する事も出来れば風致を増す事も出来るのである。ぶちこはしは容易だが、其の回復は困難である。例へば万座毛の鳥居の如きである。故に最初の施設が肝要である。ペンキ塗りの棒杭を立てるよりは豊富に産する石材を用いて工夫すれば却つて効果をあげる事さへ出来はしないだらうか。然し徒に風致保存を唱へて住民の生活を犠牲にしてまでも実行せよなどなどわけのわからない事は云はない。ただ何れにしても建てるものであつたら良きものを建てる事にするといふ心掛けは常に失つて頂き度くないのである。

最後に念を押して申上げておきたい事は観光施設の行き過ぎにならぬ様に戒しむ可き事である。観光地として流行した場所で堕落しなかつた土地は先ず無いといつてよい位である。大阪商船の案内書ではないが「観光処女地」沖縄を汚したくないのは県民・観光客共に望む所でなくてはなるまい。尚一言したい事は、沖縄を観光的に発展せしめて一体どうするのか、といふ質問が出るかも知れないので、敢へて述べるならば、之は県の発展、県民の幸福にまで導かれる事だと云ひたいのである。県として最も恵まれたる観光資源を活用して観光客を吸収し、他府県人に金を落させて、而して県として裕福になれば之が県民の幸福にならないものであらうか。妄言多謝(15、2、9)

1940年
1月3日ー正午那覇着。自動車7台で波上宮へ参拝。糸満町へ赴き、白銀堂参拝。魚市場を見る。辻原の墓に参り、6時半より辻の三杉楼で那覇・首里両市、商船会社主催の歓迎会に出席。琉球料理、四つ竹踊、絣掛踊などを観賞。川津、宝来両館に分宿する。


棟方志功「壺屋窯場の図」サエラ(携帯080-1533-3859)所蔵

1月4日ー工業指導所及紅房で、織物と漆器など陳列品を見学。壺屋、郷土博物館、円覚寺、泡盛工場、尚順男爵邸の桃原農園、夜は真楽座を観る。
1月5日ー尚家霊廟玉御殿拝観、ヨードレの墓に詣で、普天間宮、鍾乳洞から車で万座毛、残波岬へ。7時より珊瑚座で「柳先生御一同歓迎特別興行」を観る。
1月6日ー師範学校講堂で空手術を見学。正午で観光日程を終了。
1月7日ー正午、支那料理屋別天閣で一同昼食、民謡を聞く。3時より那覇市役所における座談会に出席。言語問題にふれ一時警察部長と論戦となる。
1月8日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報紙上に、前日の論戦が大きく報道される。
1月11日ー沖縄県学務部、三新聞紙上に「敢えて県民に訴ふ 民藝運動に迷ふな」を発表する。以後、連日賛否両論が報道される。
1月12日ー団体一行は帰り、浜田、外村、坂本、鈴木らと残留する。
1月14日ー琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報に「沖縄県学務部に答ふるの書」を発表。言語問題論争いよいよ沸騰する。
1月18日ー民藝同人に対する地元有志らの感謝会が、午後6時半より三杉楼で催され、浜田、外村、坂本、鈴木らと出席。五、六十人の人々の真情あふれる感謝のもてなしに感銘する。
1月21日ー尚家より借りた「神猫図」を持ち、飛行機で帰京する。この旅行中、坂本、土門と各地を撮影、二千枚にも達する。また文化映画「琉球の民藝」「琉球の風物」の製作の指導を行う。

第四回訪沖
7月24日ー11月開催予定の皇紀二千六百年奉祝事業の「琉球工藝文化大展覧会」準備のため田中俊雄、坂本万七を伴ない、4回目の訪沖に出発。  沖縄では、言語問題論争がなお続いていた。
8月2日ー沖縄県庁で知事渕上房太郎氏と会見し、標準語絶対反対論者と決めつけられた理由の説明を求める。この日「敢えて学務部の責任を問ふ」を琉球新報に載せる。  展覧会への出品依頼に、尚家をはじめ各方面から古作優品が出さ、陶器百点の外、絵画、染織も加わる。
写真撮影は、主として、「琉球風物写真展」(銀座三越)用の風物撮影を行う。  この間、坂本と撮影した海岸の写真が、海洋警備上の秘密を撮したとされ、警察に連行され、坂本は一夜留置された。
8月22日ー浮島丸にて那覇を発つ。
8月24日ー神戸着

1941年7月『茶わん』蘭郁二郎「琉球のぞ記」寶雲舎
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「茶わん」は陶芸愛好家向けの専門誌で、創刊は昭和六年三月。編集発行人は秦秀雄となっているが、実務は小野賢一郎がとりしきっていた。秦に代わって昭和七年五月号から編集発行人として遠藤敏夫の名がクレジットされる。編集部は芝区三田功運町六番地、聖坂を登り切った辺りにあった。(会津信吾「蘭郁二郎の生涯」)



1941年8月『文学建設』蘭郁二郎「琉球ある記」
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蘭郁二郎 らん-いくじろう 1913-1944 昭和時代前期の小説家。
大正2年9月2日生まれ。「探偵文学」同人となりミステリーをかくが,科学冒険小説に転じ,SF小説の先駆者のひとりとなった。海軍報道班員として台湾にわたり,昭和19年1月5日飛行機事故で死去。32歳。東京出身。東京高工卒。本名は遠藤敏夫。著作に「地図にない島」「地底大陸」など。→コトバンク



1942年9月『朝日新聞』「カメラ腕比べー尚謙・護得久朝章」

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