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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1929年2月ー伊波普猷、山城亀雄飛行士が操縦する飛行機でロサンゼルス上空を飛ぶ。カリフォルニア各地を巡遊、宮城与徳、屋部憲伝らと交流。
 伊波普猷のよく知られた言説に「・・・さて、沖縄の帰属問題は、近く開かれる講和会議で決定されるが、沖縄人はそ
れまでに、それに関する希望を述べる自由を有するとしても、現在の世界情勢から推すと、自分の運命を自分で決定することの出来ない境遇におかれてゐることを知らなければならない。彼等はその子孫に対して斯くありたいと希望することは出来ても、斯くあるべしと命令すること出来ないはずだ。といふのは、廃藩置県後僅々七十年間における人心の変化を見ても、うなづかれよう。否、伝統さへも他の伝統にすげかへられることを覚悟しておく必要がある。すべては後に来たる者の意志にに委ねるほか道がない。それはともあれ、どんな政治の下に生活した時、沖縄人は幸福になれるかといふ問題は、沖縄史の範囲外にあるがゆゑに、それには一切触れないことにして、ここにはただ地球上で帝国主義が終わりを告げる時、沖縄人は『にが世』から開放されて、『あま世』を楽しみ十分にその個性を生かして、世界の文化に貢献することが出来る、との一言を附記して筆を擱く。」(1947年11月『沖縄歴史物語』沖縄青年同盟)がある。

<あま世>の言葉は、1933年1月15日、琉球新報主催「航空大ページェント」で瀬長島上空を関口飛行士操縦の複葉機から色白の美人・宮森美代子嬢がパラシュートで飛び降りる。それを万余の沖縄県民が見物という新報記事を東京で見た伊波が自身のロサンゼルス上空を飛んだ感動と重ね合わし「おもろ・飛行機」と題し「・・・紫の綾雲、おし分けて出ぢへたる、ふへの鳥の舞ひ、如何し来る鳥が、常世の大ぬしの御使者は有らにゃ、・・・大和世は物事変て、殊に工学のひろましや、珍しや算知らぬー沖縄御間切心一つならば、苦世す甘世なさめ。直り世は実に是からど始まる」とよんだことが初出である。

 異国船研究も、やはり沖縄学(伊波の学問を沖縄学と称したのは折口信夫)の礎を築いた伊波普猷に立ち戻らないといけない。『東恩納寛惇全集』「伊波君の想出」に寛惇は「日清役の頃か、伊波君が在京沖縄青年会雑誌に『爛額雑記』とか云った表題の随筆で、ヴィクトリヤの僧正の琉球訪問記を紹介した。(略)伊波君が『ヴィクトリヤの僧正』を取上げたのは、琉球語聖書の著者ベッテルハイムや、通事板良敷等に興味を有ったからであったらしい」と記している。1904年6月、伊波は鳥居龍蔵の沖縄調査に同行し横浜から尚家の汽船で帰省。鳥居は伊波宅に投宿。伊波は鳥居を沖縄各地に案内、記念にチェンバレンの『琉球文典』を鳥居より贈られる。

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Posted by: ryubun02

1982年6月、戦前から異国船に関心を持ってきた川平朝申や、国吉真哲、中今信、曽根信一ら数十人が集い、琉球航海記を中心とした沖縄の歴史・文化・人文の研究調査の発展をはかり、地域社会の思想・文化の向上に寄与することを目的に、会長に川平朝申、事務局に外間政彰で異国船琉球航海記研究会(通称バジル・ホール協会)が発足した。発会の記念講演は照屋善彦琉大教授で、会場にはぺルリ艦隊の乗組員の曾孫にあたるヨセフハンディー夫妻も参加した。川平会長の母と、西平守晴南島史学会大阪支部長夫人の母とは姉妹の関係で、大阪在住の新城栄徳も会員として末席をけがした。
 私(新城栄徳)と川平朝申さんとの出会いは、1959年の『今日の琉球』誌上に連載されていた川平さんの「若き人々のための琉球歴史」を読んだことにさかのぼる。それから10年後。大阪の沖縄関係資料室に叔母さんを訪ねて川平さんが来室していた。夜、私が資料室に行くと、暑い熱いと下着姿の川平さんが「君が新城(あらぐすく)君か、西平(にしんだ)君から君のことを聞いているよ」と握手をしてきた。そして麦門冬に話がおよぶと「君は麦門冬の名前を知っているのか、それだけでも尊敬に値するよ」といって、太い万年筆で「故郷に生まれ故郷で育ち、今また異郷にありて故郷を想う心尊し」と書いてくれた。

1910(明治43)年9月15日、冨山房発行『學生』第一巻第六号 中村清二「琉球とナポレオン」
 中村清二(女優の中村メイコは兄の孫にあたる)「チェンバレン氏は英国の使節を廣東に上陸させて待っている間に朝鮮と琉球を見物し、帰国の途次セントヘレナ島を訪れてナポレオンに会見し琉球の物語をしたとある。」と記している。
□東京大学明治文庫の原本で、1910(明治43)年9月15日、冨山房発行『學生』第一巻第六号:ナポレオン号に「琉球とナポレオン」中村清二(7頁)が掲載されていることが確認出来ました。 その記事の挿絵にはバジル・ホールの著作と同じ挿絵が使用されています。冒頭でバジル・ホール・チェンバレンの祖父としてバジル・ホールが紹介され、はじめの小見出しは「セントヘレナ上陸」。途中の小見出しに「武器なき国」とありました。(2016年7月28日 不二出版 小林淳子)





 
 伊波普猷の弟・普成は1912年9月の『沖縄毎日新聞』に「ベージル・ホール 琉球探検記」連載、11月には「ビクトリヤの僧正 琉球訪問記」(クリフォードの名が出てくる)、1913年4月は「ぺルリ日記」、8月「チャールズ・ルブンウォース 琉球島」を連載している。


1912年11月8日『沖縄毎日新聞』「ベージル・ホール 琉球探検記」
譯者曰く、ベージル・ホールの他の著述の中に、彼は東洋よりの帰途セント・ヘナに立ち寄って、ナポレオンと会見して談たまたま琉球のことに及んで、琉球にては古来戦争がないといふことを話すと、流石のナポレオンは肩をそびやかして、戦争絶えて無しとか、これ決して能はざる也と叫んだ。といふことが書いてあるとのことである。貨幣もない、刑罰もない、武器もない戦争した経験もなければ、戦争のあったといふ伝説もないと云って、はじめから無抵抗主義を取った。琉球政府の対外政策には感服といふ他評しやうがない。かういふ小さい孤島ではコルチャコブやビスマルクのやうな大政治家でもこの政策を取る外致し方がなかったであらう。

1915年4月9日『琉球新報』麦門冬「眞栄平房昭ー百年前の語学者」
1924年5月『沖縄教育』末吉麦門冬「百年前の英語通ー眞栄平房昭」
□西暦一千八百十六年、即ち今を去ること百八年前、英國の船長ベーシルホール(言語学者チャンバーレン氏の祖父)が率いる探見隊を乗せた二隻の英鑑が朝鮮から琉球へと回航した。キャンプテン、ベージルホールの塔乗した船はメーフラワー號と云ふのであった。此メ―フラワー號乗組員が探見した朝鮮琉球に関した記録が「朝鮮の西海岸及び大琉球探見記」と云ふ浩澣な本となって、英國で出版された。其の原本は沖縄図書館にも一部蔵されている。その琉球の部分だけは先年伊波月城氏に依って飜訳せられ沖縄毎日新聞に連載されたから、記憶された方もあろうかと思ふ。この本は極めて面白く琉球の風土文物が記述描写せられてあるので、言語学者のチャンバーレン氏も、幼い時から、殊に祖父さんがこしらへた本として飜閲愛翫したそうである。チャンバーレン氏が後年日本に渡り文科大学に教鞭を執るようになり、更にわが琉球に来り、言語風俗を調査し、其の有名な琉球語の文法書等を著すようになったのも、動機を溯ればこの本が与えた刺激からであったといふ。
扨て私が茲に紹介せんとする眞榮平房昭とは何人かと云ふに、ベージルホール、チャンバーレン氏の探見記に活躍している一人物メーデーラーのことである。メーフラワー號の乗組員中にヘンリー、ホップナーと云ふ青年学者がいた。この人が調べた琉球語の研究が探見記の巻末に載っているが、ホップナーはメーデーラー即ち眞榮平房昭の助力によりて、あれだけの語彙を蒐集したのである。其の時メーデーラーも又帳面と矢立とを携えて、頻りにホップナーに就いて英語を教わり、双方交換教授をしたといふことである。(以下略)
○1928年ー市河三喜編輯『岡倉先生記念論文集』に豊田實が「沖縄英学史稿」を寄せている。豊田は沖縄県の依頼で1928年3月22日から28日まで英語講習のため那覇に滞在した。そこで沖縄県立沖縄図書館長の真境名安興などの協力を得て沖縄英学史を調べたのが前出の沖縄英学史稿として結実した。中に末吉麦門冬の「百年前の英語通」も引用し真栄平房昭の家譜を書いている。(2011年11月)
豊田実 とよだ-みのる
1885-1972 大正-昭和時代の英語学者。
明治18年9月16日生まれ。青山学院教授などをへて,大正14年九州帝大教授となる。戦後,青山学院院長,同大初代学長。日本英学史学会初代会長。昭和47年11月22日死去。87歳。福岡県出身。東京帝大卒。著作に「日本英学史の研究」など。→コトバンク


1915年12月4日 『琉球新報』神山政良 訳「奈翁とホ氏の琉球問答=セントヘレナ島に於ける=」(1)
12月13日 『琉球新報』神山政良 訳「奈翁とホ氏の琉球問答」(9)
12月14日 『琉球新報』金口木舌ーナポレオンは英の一船長を引見した時▲「卿は曾て尊父が予の事を話すのを聞かれた事があるか▲卿は曾て尊父が予に逢いたいと云うのを聞いたことがあるか▲と云うようなことを荐(しきり)に聴いて居る▲之が絶世の英雄ナポレオンの言葉である▲罪のない可愛い人間性が現れて居るではないか▲又彼が彼の少年時代を送ったブリアンの事なら如何に詰まらぬ事にも非情な興味を持って居た▲と云う事にも人間性の懐味が滲み出て居るではないか▲偶像化された英雄豪傑でも祭壇から引きずり下して見ると▲意外に無邪気な人間性の欠点や凡庸人と異らない人情味が見出される▲近世の芸術は一切の偶像を祭壇から引き下ろそうとして居る▲それは然うとナポレオンが琉球の地理的位置を聴いて▲琉球人の風習制度等が他国の干渉によって影響されたに相違ない▲と話したと云う事は其の炯眼に驚かざるを得ない▲事実我が琉球は他国の干渉に依って風習や制度に影響される處があった▲其處が又渾身活動慾制服慾に満たされたナポレオンが想像することも出来ない▲全然武器なき國として立って行かれた所以となったのだ

1931年12月『琉球新報』伊波普猷「ナポレオンと琉球」/1932年1月 『改造』伊波普猷「ナポレオンと琉球」

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Posted by: ryubun02
 松本清張の『日本の黒い霧』や、春名幹男『秘密のファイル』などの内容はアベ一味から「謀略史観」と矮小化されているが、現実「アメリカの属国ジャパン」(世相ジャパン)を見ると妙に納得せざるを得ない。

2018年10月25日、報道ステーション【報ステ】財務局OB「改ざんは上からの指示」
「森友学園への国有地売却問題をめぐり、国会での真相解明を求める近畿財務局のOBらが25日、野党からの聞き取りに応じた。今年3月、文書の改ざんを指示された近畿財務局の職員が自ら命を絶った。OBらは番組の取材に対して「(文書改ざんは)公務員の発想としてはない。上からの指示がない限りできない」と述べた。
「麻生財務大臣が、森友問題で国税庁長官を辞任した元財務省理財局長・佐川宣寿氏について「極めて有能だった」と述べたことについて、「国会・国民を欺き、犯罪行為に等しいことをした人を評価するのであれば、自殺してしまった職員は一体何だったのか」「麻生大臣があんな態度で大臣であり続けるのは、自殺した職員を知っている周りの人や職員は本当に耐えられない」と語った。

「くろねこの短語」2018年10月24日-(前略)麻生太郎財務相がまた「医療費の税負担あほらしい」と暴言! 医療自己責任論と弱者排除をふりかざす醜悪体質は昔から 「飲み倒して運動も全然しない(で病気になった)人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしくてやってられんと言っていた先輩がいた。良いことを言うなと思った」このクソ発言は、「健康維持のための予防の重要さを説明する際」のものってんだが、これこそ酔っ払いの発言そのものだ。そもそも、この男の発言というのはすべてが銀座のクラブでオネーチャン相手にオダ上げているようなもので、政治家としての理念や哲学なんてものは微塵もありません。かつてもこんな発言してるんだね。「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(患者)の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」ようするに常習犯なわけで、こんな低脳な男に税金で議員報酬払っていると思うと、またしても一瞬の殺意が脳裏を掠めるのもむべなるかな、ってなもんです。
 こんな非常識な男が、ごまめの歯ぎしり・河野君に麻生派のパーティの席で「(河野氏が)政治家として今後伸びるのに何が欠けているかと言えば、間違いなく一般的な常識だ」とのたまったってんだから、そりゃ会場から失笑も漏れようというものだ。こんな男を、総理大臣だ、副総理だ、財務大臣だ、って担ぎ上げるこの国は、それだけでカタストロフが始まってますよ、ったく!クズ政治屋がもうひとり。加計学園献金疑惑の下村君が「憲法改正していないのは日本だけ」ってお子ちゃま発言したってね。まるで、○○ちゃんも持ってるもん、って駄々こねてるガキですね。こんなんで「改憲」なんて口にするのはおこがましいどころか、1万年早い!!

 10月20日『沖縄タイムス』に那覇市長選の最中、石井 啓一国交相(元建設官僚。公明党所属の衆議院議員。 財務副大臣、公明党政務調査会長)が「沖縄防衛局からの辺野古執行停止申し立ては早期に判断する」という。沖縄では公明党の母体の学会員が集票マシーンから本来の人間愛に目覚めてミキコ応援が増えている最中に、東京豊島区生まれの東大土木工学科卒でエリート官僚のくぬひゃぁやちゃぁし判断するちむぇか、結論は分かとぅしが、うむさんやぁ。沖縄の学会員から見じねぇ、でぇじどぅ、どうなぁたぁのどぅしが国会に送たる者が粛々と、うちなぁの自然破壊を進めていちゅることになゆん。本日10月23日のテレビに「第31回日本メガネベストドレッサー賞が発表され、お目出度く石井啓一国交相が登場していた。一億総白痴化テレビにつける薬は無いでげす。

2013年1月25日のヤフー掲示板を見る。「自民党の仕事とは汚職 税金横領 脱税」とある。少し言いすぎだと思うが現状を見ると意外と合っているので引用する。□国の借金が1000兆円に届こうと言うのに月100万円を越える高級を食みボーナスや諸手当をつけ税金や年金を横領しまくって私腹を肥やしつづけている。その一方で国民は5年間で20万人近くが自殺に追い込まれ国策によって医療も雇用も年金も警察も削られ健全な市民生活を送ることさえ出来なくなっている。政府自民党はどこまで腐りきった国民を舐めた政治を続けるつもりなのか。依然特殊法人は存続して数万人の天下りが入り込み毎年数兆円の血税が浪費され続けている。そして彼らから賄賂をキャッシュバックさせて税金を横領している自民党の政治家は財務諸表隠蔽に荷担して決して彼らを処罰する法案を作ろうとはしない。
 2018年6月ー自民党の二階俊博幹事長は、東京都内で講演、少子化問題を巡り「この頃、子どもを産まない方が幸せじゃないかと勝手なことを考える人がいる」と述べたが、アベ総理夫人のことではないだろう。これは田中真紀子の発言「種無しスイカ」だろう。

○那覇市立図書館へ寄った帰り、宮脇書店で守屋武昌『「普天間」交渉秘録』新潮文庫2012年9月を買った。帯に小泉純一郎「一気に読んだ」と絶賛している。だから本書の中の2004年9月のところで、小泉総理「岩国は基地を受け入れるのか」「(神奈川県)座間の反対はないのか」「普天間は転換出来るのか」発言に対し、私(守屋武昌)は「総理のリーダーシップがあれば出来ます」と即答した。また総理が「本当に日本の戦後を終わらせることが出来るんだな」に対し、私は「はい」と答えたという。大田知事「沖縄が求めていたのは単独返還だ。新たな代替施設の建設が付いてくるのは承諾できない」や、「稲嶺知事には、普天間問題をどうしても解決しなければならないという意気込みがないのではないか」と疑念を持ったという。最近も麻生太郎財務相が21日の社会保障制度改革国民会議で、終末期医療について「私は少なくともそういう必要はないと遺書を書いているが、いいかげんに死にたいと思っても『生きられますから』と生かされたらかなわない。さっさと死ねるようにしてもらわないと」などと発言。同書には麻生大臣の発言「沖縄の五ノ日の会(仲村正治、嘉数知賢、西銘恒三郎、安次冨修、西銘順志郎)が俺の所に来た時に、事務方を引かせてから、オメーラ、まさか(辺野古移設の)梯子はずすことはしないだろうなといったら、アイツら皆下を向いて、うつむいているの」も紹介していた。「ゴルゴ13」を愛読しているからか沖縄選出議員を見下し土人扱いしている。コイツがまた安倍内閣の副総理となった。沖縄選出の自民党国会議員がどう出るか見ものではある。→やはり負け犬になった。
 2017-5 世相ジャパン新政権勉強のためジュンク堂那覇店に行き『知られざる日本の特権階級』(2008年9月 宝島社)を買う。

◆イントロダグションー(略)「格差社会」と呼ばれる日本を覆う閉塞感ー庶民が「成り上がり」に負け、「成り上がり」が「上流」に負け続けるサディスティックなゲームはいつまで続くのだろうか。財閥の衰退とは対照的に、外資系金融機関やヒルズ族、女子アナなど、時代の変り目に咲いた突然変異の特権階級も、やがては古きシステムの中に組み込まれ、庶民との間に見えない、強固な壁をつくりあげている。


吉田茂をめぐる人々 父親は土佐民権派の長老、妻の父は薩摩出身で明治維新の功労者・大久保利通の次男、牧野伸顕。吉田の子息から政治家は現れなかったが、外孫、縁戚には政財界の多彩な人脈が広がる。→岸信介、佐藤栄作、安倍晋三、麻生太郎→2005年12月『昭和史の地図』

麻生の豪華な邸宅 ー福岡県飯塚市に約2万坪の邸宅を構えるほか、渋谷区神山町に、マスコミからは「麻生御殿」と呼称された敷地面積2400平方メートルの邸宅を所有しており、これらの邸宅が格差社会の象徴として非難を受け、一部市民が集団で麻生の私邸を「見学」する事案も発生した。→Wikipedia

○『しんぶん赤旗』2013年2月25日□首相の動静欄をみると「東京・富ケ谷の私邸」という言葉が出てきます。ところが、15日付で公開された資産には、地元・山口県下関市や長門市の宅地や住宅、山梨県鳴沢村に持つ別荘など12物件の不動産(表参照)が記載されているものの、この東京都渋谷区富ケ谷の高級住宅地にある私邸は含まれていません。登記簿などによると、1140・69平方メートルにおよぶ広大な土地の所有権は、1991年5月に亡くなった父親の安倍晋太郎元外相から同年11月、母親(岸信介元首相の長女)が4分の3、兄が4分の1を相続しています。岸元首相譲りの邸宅は、99年4月に地下1階、地上3階の「富ケ谷ハイム」(総床面積1937・7平方メートル)という大豪邸に建て替えられました。安倍首相夫妻は、同ハイムの「201」(2、3階部分で計498・32平方メートル)に住んでいますが、所有者は母親のため、資産公開では、国民の目に触れないことになっているわけです。首相は、資産公開にあたって、「特に説明を加えることはない」とコメントしています。閣僚の資産公開では、不動産は固定資産税の課税標準額で示され、株式は銘柄と保有株数だけ、預貯金のうち、普通預金が含まれていないなど、資産の実勢を反映しているものとはいえません。表にある貸付金2800万円も、10口もあるゴルフ会員権の価格なども「1億793万円」のなかには入っていません。


1954年10月 内政問題研究会編『官僚の系譜ー権力の座に居る人たち』厚文社
〇最近の目立った現象の一つは選挙のたびに官僚出身者が進出していることであろう。しかも政党にあっては、佐藤栄作(運輸系)池田勇人(大蔵系)と二代ににわたって与党幹事長をつとめるなど党人としての活躍ぶりもなかなかあなどれないようだ。官僚といえば、戦前内務省華やかしころは、何といっても内務官僚をもって筆頭とした。」軍閥と並んだ内務省が全国知事を握り、網の目のように警察を配置していたのだから無理もない。(略)ーすなわち内務省的な存在ーの確保に狂奔するのも彼らとしては無理からぬことかも知れない。「逆コースの最たるもの」との折紙をつけられながら、いま着々と名称を内政省と変えながらその準備は強引におし進めているのである。右手に警察をもち、左手に自衛隊という軍隊を握る時代もそれほど遠いことではないようだ。

1987年はスポーツ紙でも政治的背景を報じていた。

(略)籠池氏は大阪府で改憲右翼団体「日本会議」の代表委員をしています。同学園が運営する幼稚園のホームページで籠池氏は「日本民族のための日本民族の憲法を創出し」「民族性を強く押し出す真性・保守の台頭が急がれます」と改憲の必要性を強調。「安倍政権は歴史のキーポイントを握っている重要な政権」と安倍首相に繰り返し期待を寄せています。

『しんぶん赤旗』2017年5月13日「安倍首相改憲発言は―「日本会議」のシナリオ」 日本共産党の志位和夫委員長は12日、東京都大田区内で開かれた都議選勝利・躍進をめざす演説会で演説し、憲法9条に3項を設けて自衛隊を明記するとした安倍晋三首相の9条改憲発言のシナリオを書いたのが、改憲右翼団体の「日本会議」であることを明らかにしました。そのなかで、9条に3項を付け加える狙いが、戦力不保持と交戦権を禁じた9条2項の「空文化」を図ることにあると、あけすけに語っていることを告発しました。

翁長雄志氏、右が前田政明氏

翁長那覇市長「挨拶」

2014年9月28日 JA真和志農協ホール「粟国郷友会/第45回敬老会


2014年6月7日

龍の爪は4本

那覇の街には早速「翁長追い落とし」のビラが貼られている。ヤマトの「嫌中」を沖縄に持ち込んでいるところはヤマト系の広告屋が作成したものだろう。あんまり沖縄の事情も知らない輩が「久米村」を敵に回すと仲井真カジノチジにも迷惑が掛かる結果になる。



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1983年8月 沖縄の雑誌『青い海』125号 「特集・沖縄口よ、おまえは何処へ!」

しまくとぅばプロジェクト2018 しまくとぅば鼎談/座談「南米んじ 琉球(るーちゅー)しまくとぅばー ちゃー なとー
2018年10月14日 14:00~17:00 沖縄県立博物館 講座室「しまくとぅばプロジェクト2018 しまくとぅば鼎談/座談「南米んじ 琉球(るーちゅー)しまくとぅばー ちゃー なとーが?」
 これまで沖縄の近代思想(伊佐眞一氏)、経済と文化(屋嘉宗彦氏)、写真(比嘉豊光氏)について、「しまくとぅば」で論じてきた鼎談シリーズの6回目。
沖縄の「しまくとぅば」は、沖縄・琉球に広がる島じまの言葉です。しかし、それを話しているのは、何も私たち琉球弧に住んでいる人たちばかりではなく、生活の言語としている人たちが、遠く南米にもたくさんいます。沖縄から移民で行った地で、しっかりと根づいています。
今回は、これまで何度もブラジルやアルゼンチンに行って、沖縄からの移民一世だけでなく、そこで生まれ育った二世・三世・四世の人たちと家族同様の付き合いをしてきた大城和喜氏をゲストに迎え、故郷を離れた外国の地で、琉球諸語がいま、どうなっているのかを知ることで、私たち沖縄・琉球におけるしまくとぅばの未来のありようを見つめる機会とします。(※むる しまくとぅばしっ 話し さびーん)

基調講話:「うちなーんちゅぬ 暮らし とぅ 言葉」 大城 和喜 氏(南風原町文化協会 会長)
座談:大城 和喜 氏、伊佐 眞一 氏(沖縄近現代史家)、比嘉 豊光 氏(写真家)、屋嘉 宗彦 氏(法政大学 名誉教授)

比嘉豊光氏(写真家)

大城和喜氏、(南風原町文化協会会長)伊佐眞一氏/左から屋嘉宗彦氏(法政大学名誉教授)、伊佐眞一氏、大城和喜氏、比嘉豊光氏


2018年10月14日『沖縄タイムス』伊佐眞一「歴史を刻んだ沖縄人ー太田朝敷」

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 尚泰侯爵、玉陵に葬られるー1901-8-19 尚泰侯爵、急性カタルで東京にて死去/8-23 尚泰侯爵遺骸、午後7時に東京本邸出発、沖縄青年会が新橋駅まで代表の諸見里朝鴻が神戸まで同行/8-24 尚泰遺骸、午後5時に梅田駅通過、送迎に商業興信社の宮井悦之助、/沖縄広運会社支店長の野里朝義ら参加/同夜、遺骸は球陽丸で那覇向け神戸出帆/8-28 尚泰遺骸、午前7時半に那覇港着。午前10時に大中邸/8-29 尚泰侯爵、午後2時に出棺、玉陵に葬られた。会葬者2万人/1905-2-7 故尚泰侯、尚家邸内から円覚寺に御入廟。



1962年5月  郷土の文化を守る会(会長・山田真山)


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1977年11月24日ー重要文化財「玉陵」修理工事竣工記念

 『朝日新聞』2018年10月19日ー文化審議会は19日、琉球王家の陵墓「玉陵(たまうどぅん)」(那覇市)を国宝に指定するよう文部科学相に答申した。沖縄県では首里城正殿などが国宝だったが太平洋戦争で焼失し、戦後できた文化財保護法のもとでは県内の建造物として初めての国宝指定となる。玉陵は首里城を居城とした琉球第二尚(しょう)王統の歴代の陵墓で、1501年に築造された。首里城跡などとともに世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」を構成する。石垣で囲まれた敷地の奥に3棟の墓室が並び、遺体を安置して白骨になった後に洗ってから納骨する琉球の葬送慣習を伝える。東アジアで独自の発展をした琉球の建築や葬墓制を象徴し、深い文化史的意義があると評価された。
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『しんぶん赤旗』9月4日「朝の風『勝利の方程式』ー自公維連携のもとに閣僚・議員を大量投入すること、また、候補者選定は政府に忠実であることを第一条件とすること、そして地元業界をしめつけ、とくに社員を『期日前投票』に動員することーから成る。今回の知事選でもすでに用いられつつある。/『しんぶん赤旗』9月6日「米軍機事故続発を放置した宜野湾市長時代の佐喜真」/『しんぶん赤旗』9月7日「辺野古新基地容認の佐喜真」


2018年8月 沖縄を語るデイゴの会(伊藤わらび)東京都清瀬市梅園2-2-3『デイゴ通信』第27号 「翁長雄志知事の逝去」、島袋和幸「沖縄・伊江島のLCT爆発事故(事件)」/8月6日『毎日新聞』伊江港米軍LCT事故70年 惨劇の記憶、次世代に継承【伊江】伊江港で米軍弾薬処理船(LCT)に積んでいた不発弾が爆発し、村民ら102人が死亡、76人が負傷した事故から、6日で70年を迎えた。同日午後3時半から、伊江港内慰霊碑前で慰霊祭が執り行われる。


玉城 デニ氏→2016年6月19日「米軍属事件に抗議し、被害者を追悼する県民大会」

  沖縄タイムス9/6(木) 7:00配信 -米軍ヘリ「計器に警告」 久米島空港に緊急着陸 2便遅れ94人影響/ 5日午後3時45分ごろ、米軍普天間飛行場所属のUH1多用途ヘリが沖縄県久米島町北原の久米島空港に緊急着陸した。同空港管理事務所によると事前連絡はなく、約1時間半後の午後5時12分に米軍嘉手納基地に向けて離陸した。けが人はいない。同空港への米軍機の緊急着陸は昨年6月に続いて2度目。町には2005年、町宇江城の農道に嘉手納基地のHH60救難ヘリが不時着したこともある。  


『しんぶん赤旗』9月3日「米戦略に組み込まれる自衛隊」

 「くろねこの短語」2018年9月3日-(略)沖縄県知事選で、自民党と日本会議が応援する教育勅語大好きな佐喜真君が、「沖縄県政記者クラブが主催する立候補予定者討論会への参加を断る方針を決めた」ってね。さらに、「マスコミ各社が個別に主催する討論会や対論番組にも一切出席・出演しない」そうで、その理由が「異例の超短期のため日程がつかない」からだとさ。
 でもって、「日本青年会議所(JC)沖縄ブロック協議会が主催する公開討論会だけには出席する」ってんだから、ようするに仲間の前では大口叩くけど、異論反論が飛び出すメディアの前からは逃げるが勝ちってことなんだね。その裏側には、「辺野古新基地建設反対」という争点隠しがあるに決まってます。そもそも、教育勅語大好きな佐喜真君は、宜野湾市長選の時にも辺野古基地建設にはまったく触れることなく、徹底した争点カ隠しを貫いたんだね。今回も、まったく同じ姑息な戦術ってわけだ。

 「くろねこの短語」2018年9月2日-(略)だからこそ、総裁選で「改憲」を喚いて、3選したら民意はここにありってことで国会発議をゴリ押ししようってことなんだろう。自民党の会合で「(憲法改正を)発議しないというのは、国会議員の怠慢ではないか」と阿呆なことぬかしたのも、無知と同時にそうした焦りがあればこそなのかもね。それにしても、「改憲の発議をしないのは国会議員の怠慢」とは馬鹿もほどほどにしろってなもんです。国会議員には憲法遵守の義務こそあれ、改憲の発議の義務なんてありません。
 こういう暴言、妄言に反論がまったく聞こえてこない自民党ってのは、相当に劣化しているんだね。恥ずかしくないのかねえ、どいつもこいつ。結局のところ、そんな初老の小学生に尻尾振っちゃう昼間の幽霊・岸田君や出戻り聖子ってのは、自分の無知さ加減を自ら曝け出しているようなものだ。

 「くろねこの短語」2018年9月1日-(略)日本のメディアは政治家と暴力団の関係についてけっこう鷹揚だけど、世界はそうはいきません、。特にアメリカはバブル時代に、日本のヤクザに地上げなどで手痛い目にあってますからね。それもあって、日本のヤクザには容赦ありません。いくらトランプにおべっか使おうと、ヤクザ絡みの今回の案件は、うまくいけばペテン総理追い落としのきっかけになるやもしれぬ・・・なんて淡い期待を寄せてしまうのはくろねこだけだろうか。それにしても、ペテン総理とヤクザとの黒い交際を一切報じないこの国のメディアってのは、もはや国に仇なす存在に成り下がっているってことなんだろうね。
最後に、沖縄県が辺野古埋め立て承認を撤回。玉城デニー君の県知事選出馬表明の直後という絶妙のタイミングを狙ったってことは、知事選の争点は「辺野古基地建設反対」ということを明確にしたってことだ。これで、教育勅語大好きな佐喜真君の誤魔化しはきかなくなること確実だろう。

 「くろねこの短語」2016-10-22-鳥取で震度6弱。南海地震との関連も囁かれているから、油断は禁物だろう。周辺の原発も心配だ。火山活動も活発になっているし、自然の警告にしっかりと耳を傾けないと、大変なことになりますよ。ま、民の声にも耳を傾けないんだから、自然の警告なんか聞こえるはずもないんだが、耳を傾けないどころか罵詈雑言を民に浴びせるのがここの国の権力機構ってものなんだね。沖縄・高江でチンピラ機動隊員が「土人」「シナ人」と市民を罵ったのはその典型なんだが、その言い訳がこれまたイカれまくっていてもう笑っちゃいます。「(抗議する人が)体に泥をつけているのを見たことがあり、とっさに口をついて出た」「過去に(抗議する人に対して)『シナ人』と発言する人がいて、つい使ってしまった」
 でもって、「侮蔑的な意味があるとは知らなかった」とさ。「体に泥」云々は言い訳としてもとても合理的とはいえません。ちったあ頭使えよってなもんです。もっとも、頭使ってないから、こういう差別的言辞を感情にまかせて口にしちまうってことか。・・土人発言「侮蔑的な意味知らなかった」 機動隊員に戒告
 どうやらこのチンピラ機動隊員は関西の悪名高き右翼団体と昵懇の間柄らしく、基地反対運動に嫌がらせをしにきたその団体のメンバーを満面の笑みで迎えている動画がネトでは流れている。そういえば、ネットでは「○○土人」って言葉をネトウヨ諸君は平気で使っているようだから、このチンピラ機動隊員も日常的に使ってたんじゃないのかねえ。
 戒告処分で配置転換になったそうだが、こういう輩が捜査現場に配属されたら、さぞかし取り調べでは暴言吐きまくって容疑者を恫喝したりするんだろう。こういう輩に「出張ご苦労様」とエールを送って、チンピラ大阪府知事の松井君が大炎上してざまあみろなんだが、それにまた輪をかけたような無責任発言して呆れられているのが何様のつもり沖縄担当相・鶴保君だ。「ことさらに、我々が『これが人権問題だ』というふうに考えるのではなくて、これが果たして県民感情を損ねているかどうかについて、しっかり虚心坦懐(きょしんたんかい)に、つぶさに見ていかないといけないのではないか」
 「私は今のこのタイミングで、『これは間違っていますよ』とか言う立場にもありませんし。また、正しいですよということでもありません。自由にどうぞというわけにもいきません。従って今のご質問で、私が答えられるとするならば、これはつぶさに見ていかざるを得ない」頭悪いなあ。ていうか、もう腐ってますね、何から何まで。沖縄担当相としての自覚があれはぜ、「『これは間違っていますよ』とか言う立場にもありません」なんて言葉は間違っても口にしたりはしませんよ、ったく。この男に限らず。空母の甲板をヒールで歩く防衛大臣しかり、TPP強行採決をほのめかす農水大臣しかりで、当事者能力のない閣僚ばかりなんだよね、ペテン内閣ってのは。
 それにしても、TV各局は「土人」「シナ人」発言にちょいと無頓着すぎやしないか。こういうメディアの煮え切らない態度が、ヘイトの風潮を助長しているのは間違いない。特に大阪のTVはけっこうつむじが右に曲ったタレントが言いたい放題というイメージが強いんだけど、実はそんなことはなくて今回の「土人」「シナ人」発言についてかなり踏み込んだ批判を展開している番組がありました。ああ、まだこういう番組を制作する気概のあるスタッフがいるのかと、ちょいとホッとする秋も深まる土曜の朝であった。

 2016年10月ー大正区の大正会館で琉球新報移動編集局フォーラム「沖縄文化が育む絆ー大阪沖縄県人の歩み」○嘉手川会長が会員の高齢化、その他で会員が減っているので「県系人以外も会員に」と。この問題は、東京の県人会でもかつて出ていたが、2世、3世になると県人会、郷友会付き合いも煩わしくなる。古くて新しい問題だが、大阪駅前のビルには各県の事務所があって県人会の連絡先にもなっている。特に離島県は何らかの参考になると思う。

  「粟野仁雄」2018年11月ー2013年5月に当時の橋下徹市長が「慰安婦制度が必要なのは誰だってわかる」などと発言したこと。これにサ市が反発し、橋下市長の訪問を拒否した。サ市の議会は橋下発言を非難する決議を採択。15年9月には「慰安婦」像を中華街の公園に設置する市民団体の意向を支持する議決をした。橋下市長は反論する書簡を送付し、「橋下後継」の吉村市長は17年9月、「慰安婦像を公有化するなら姉妹都市を解消する」とする書簡を送った。同年11月にサ市議会は全会一致で寄贈受け入れを議決。吉村市長は「碑文の『日本軍が強制連行し、数十万人の女性を性奴隷にし、そのほとんどが捕虜のうちに亡くなった』は一方的な主張。確実に歴史的事実でないものは日本バッシングになる」と姉妹都市解消を表明していた。
 ブリード市長は「1人の市長が、60年以上続いた関係を一方的に終わらせることはできない」と反論していたが、解消した吉村市長「姉妹都市は高度な信頼関係で成り立つ。史実に基づかないものを公共物として積極的に受け入れたことは残念」と会見した。 地方自治法では姉妹都市の締結や解消に議会の決議は必要ではない。大阪市では慣例的に市長が市議会の各派幹事長会に諮ってきたが、吉村市長が所属する大阪維新の会以外の会派は解消に反対した。大阪都構想で市長が取り込みたい公明党も「自治体交流に国の政治を持ち込むのはどうか。近隣諸国とぎくしゃくしている時期こそ、姉妹都市交流が生きるのでは」(土岐恭生幹事長)としていた。
 サンフランシスコ講和条約(1951年)から7年目での姉妹都市締結は、日米大戦の恩讐を乗り越えて築かれた意義深い国際交流史だ。市長の独断が許されるべきではない。

  「くろねこの短語」2018年10月27日-私人の嫁が図々しくも「夫人外交」だと。こんなんじゃ、公文書改竄で自ら命を絶った財務省職員が浮かばれない。一生罪を償いしやがれ!!。そんなことより、ついに国連人権委員会が福島第一原発事故による放射能汚染の危険性に言及した。「日本政府には『子供の被ばくを最小限にする義務がある』」という訴えは、もっと早くに日本人が自覚しなくてはいけないことだったんだよね。「1ミリシーベルト以下」という決まりを、事故後に「放射線被ばく線量が年間20ミリシーベルト以下」と勝手に変更した原子力村のやり口は、実は世界中が懸念してたってことなのだ。
 オリンピックを前にして放射能汚染をなかったことにしようというペテン政権の悪巧みは世界に通用しないってことだ。オリンピックをボイコットする国も出てくるかもね。ああそれなのに、「被災地の風評被害が助長されかねない」って日本は反論してるってんだから、ますます世界から孤立するこになりますよ。

  「くろねこの短語」2018年10月26日-(前略)2012年にシリア内戦を取材中に銃撃されて亡くなったジャーナリストの山本美香さんの同僚で、自身もジャーナリストである石丸次郎さんが当時を振り返りこんなコメントをしている。「バッシングは論外だが、死んだからといって過剰に英雄視するのも違和感がある。リスクを避ける準備が十分だったか、ジャーナリスト側の検証も必要なはずだ。だが、原因や再発防止の議論は進まなかった」(東京新聞「こちら特報部」より)したり顔のTVニュースのコメンテーターに聞かせてやりたいね。紛争地帯に限らず、犯罪多発の危険地帯などへの取材だって、勇気あるシャーナリストの存在があればこそなのだ。ベトナム戦争の悲惨さだって、それを伝えるジャーナリストがいなければけっして世界に発信されることはなかった。TVという安全地帯でごたく並べているようなのは、ジャーナリストでもなんでもないってことだ。
 「自己責任」なんて言葉が政治家の口から出始めたのは、2004年に高遠菜穂子さんたちがイラクで武装勢力に拘束されたのがきっかけなんだね。自民党幹事長だった安倍晋三、官房長官だった福田康夫、文部科学大臣だった河村建夫たちが「自己責任」をほのめかし、公明党の冬柴鉄三は「損害賠償請求をするかどうかは別として、政府は事件への対応にかかった費用を国民に明らかにすべきだ」なんてことまでのたまってくれた。さらに、防災担当大臣の井上某にいたっては、「家族はまず『迷惑をかけて申し訳なかった』と言うべきで、自衛隊撤退が先に来るのはどうか。多くの方に迷惑をかけたのだから、責任を認めるべきだ」なんてことまで喚いていたんだから、こんなのが国民の負託を請けた国会議員ってことに改めて怒りを覚える。


「くろねこの短語」2018年10月25日/2018年10月25日『しんぶん赤旗』「戦後最悪の反動政権 一刻も早く終わらせよう」

「くろねこの短語」2018年10月23日-(前略)それにしても、なんのための検証委員会だったんだろうね。こうした御用有識者ってのがペテン政権ではすぐしゃしゃり出てくるけど、腐った政治家と役人の裾野がいかに広がっているかってことの証明でもあるんだね。そんなんだから、車椅子の市議に対して「ブルジョワ障害者」と暴言を吐くさいたま市議のような男が出てくるんだね。もうこの国はダメかもしれんね。
 ところで、フランス大統領のマカロンじゃなかったマクロンがトランプのINF廃棄条約離脱表明に「特に欧州の安全保障と戦略的な安定という点で、条約の重要性を強調」するこど釘を刺したってね。本来なら被爆国である日本が真っ先にトランブを諭すべきなのに、静観の構えだけでなく「ロシアによる深刻な条約違反」(菅官房長官)なんてことも言い出す始末だ。何が「核保有国と非核保有国との橋渡し役」だ。臍で茶を沸かしちゃいますよ、ったく。
 最後に、生活保護叩きの鬼嫁・片山君が文春を名誉毀損で訴えたそうだ。飛んで火に入る夏の虫ってところか。早いころ消えてなくなれ!!

「くろねこの短語」2018年10月17日-(前略)舌の根も乾かぬうちにとくれば、初老の小学生・ペテン総理だ。オール沖縄・玉城君との面談では「沖縄の方々の気持ちに寄り添いながら基地負担の軽減に全力を尽くす」ってほざいてたくせに、なんとまあ、「辺野古沿岸部の埋め立て承認を撤回した県への対抗措置」として「行政不服審査を請求」するんだとさ。これのとこが「沖縄の方々の気持ちに寄り添う」ことなんだろうね。しかも、ペテン総理自身は税金ばら撒きにさっさと外遊と洒落込んでいるってんだから、ホント、こいつの無責任ぶりにはそろそろゴルゴ13に登場願うしかないかもね。こういうのを、世間では卑劣漢(=くず野郎)と言います。

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屋良朝信 やら・とものぶ 川崎沖縄県人会会員。1949年川崎市川崎区生まれ。両親に連れられ幼い頃から沖縄を訪れる。学生運動が盛んだった10代の終わり頃、在籍した都内の明治大では休講が続いた。作家・小田実さんの著書の影響を受けて休学、「何でも見てやろう」とバックパッカーの旅に出た。北欧や英国の街角で、ギターを抱えて日本の歌を歌った。1年間で復学。卒業後、沖縄や欧州、アジアの安宿を泊まり歩く旅を30歳近くまで続けた。旅の途中、親交を深めた日本人の尺八奏者とも楽曲を制作した。その後、出版社や電子部品メーカー勤務などを経験。退職後は沖縄出身者やその子孫を応援する。

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「私設文学資料室」主宰・新城良一氏、右が屋良朝信氏/沖縄県立博物館・美術館入口の民家前
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沖縄県立博物館・美術館館長室で右が田名真之館長/左から豊見山愛さん、屋良朝信氏、亀海史明氏

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渡口万年筆店で右が渡口彦邦氏、屋良朝信氏/那覇市民ギャラリーで左から屋良朝信氏、伊佐真一氏、高良憲義氏

屋良朝信「富士瓦斯紡績工場」
 川崎は江戸時代には 東海道の宿場の一つとして賑わったが,1872(明治5)年に 新橋-横浜間の鉄道が敷設されて、川崎駅ができるや駅周辺の都市化が急速に進んだ。
明治後期,現在の京浜急行・大師線が開業し多摩川の南岸沿いに工場が建設される。以降、京浜工業地帯の中核となった。
明治初期から大正にかけて建設された主要な工場群;
・1908(明治41)年 東京電気 (後の東芝)・1909(明治42)年 日本蓄音器 (後の日本コロンビア)・1911(明治44)年 東京製線 (後の三菱電線)・1912(明治45)年 日本鋼管 (後のJFE)・1914(大正3)年 富士瓦斯紡績
-関東大震災-
沖縄県出身者は大正初期から紡績工場などへの出稼ぎのため川崎にわたり、親類縁者を呼び寄せた。23年の関東大震災で多くの県人が被災した。特に富士瓦斯紡績川崎工場では沖縄からの出稼ぎ労働者から72人の死傷者を出したという。被災県人を支援しようと震災翌年結成されたのが川崎沖縄県人会だった。初代会長は那覇市出身の玉那覇有盛氏。会員は千人ほどで、多くは富士瓦斯紡績の女工たちだったという。沖縄戦の後は、混乱の中で沖縄に戻れない県人や復員兵らの受け皿となり、琉球芸能を催して慰めとした。「川崎の沖縄県人70年の歩み」で、照屋元義氏(川崎沖縄県人会理事-当時-)は「県人の皆さんが集まり、踊りを練習して、お互い沖縄を忍びながら過ごした」と記している。→2017-6 旅の記憶 〜遊民雑記〜 tomoyaraのblog


1986年7月「川崎の男女共同社会をすすめる会 会報ー吉見周子『川崎の男女共同社会をめざして』」第5号/1985年2月4日『琉球新報』「大震災で散った”沖縄女工たち 〟犠牲者の名簿 川崎市の吉見周子山脇短大講師が発見」「富士瓦斯紡績川崎工場関東大震災時琉球列島出身犠牲者一覧」

仲田ウト 明37,8,5 戸主名 朝政 七女 年齢19 名護村世富慶37 入社 大11,9,18 所属 撚糸科  

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10/08: 崔承喜

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崔承喜
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1936年10月22日ー沖縄新聞社の招待で崔承喜一行(10名)、開城丸で来沖。

1936年8月ー日本民俗協会『日本民俗』第13号□琉球古典芸能の印象ー杉浦非水「大阪第五回内国勧業博覧会で琉球踊りをみた」、山崎紫紅、森律子、上司小剣、東儀和太郎、田辺尚雄「玉城盛重、新垣松含の15年前にみた。年老いた今日ー」、兼常清佐、村山知義、、邦正美、深井史郎、伊庭孝、岡元信吉、土岐善麿

崔承喜□私が琉球舞踊に接したのは、これが最初でありますが、それが非常に優れた民俗舞踊であることに大きな尊さを覚えたとともに、それらは私の舞踊の研究の上に、最近に於いて最も得ることの多かったものであったことを喜びます。
幾分新しく様式化されて演ぜられたように思われる「天川踊り」や「鳩間節」等の作品に最も大きな感銘をもったのでありますが、この様な民俗舞踊に於ける優れた手法は、私達に取って摂取さるべき多くのものを保持して居るように思われます。
私はこれらの琉球舞踊の中で、取り入れらるべきものを取入れんとして、此頃新作のレパートリの或る種のものに試みつつありますが、琉球舞踊を見た時に強く感じましたことは、それが朝鮮の民俗舞踊やシャムの民俗舞踊に類似して居る手法を多く包含して居るように感ぜられたことです。殊に上半身の動きー肩の動きや腕の動きは、朝鮮舞踊によく似ていますし、廻り方に於ける足の動きや手首の動きは、シャム舞踊に似てはいないかと思われました。
「組踊」に於ける様式上の特殊性も、朝鮮の民俗舞踊の中で残されている代表的なものである「山臺劇」等に見いだされるようなものに共通したものをもって居るように感じました。勿論、琉球舞踊にしましても、支那、シャム、朝鮮等の舞踊にしましても、東洋の舞踊に独自な、様式上の多くの類似性をもつことは当然なことでありませう。
このような琉球のもつ優れた民俗舞踊が有能なる舞踊家の手に依って、新たに様式化され、そしてそれが成長して行く日には世界に出して誇り得るものさえももつであろうとさえ思われると共に、この様な舞踊の伝統が何故、私達舞踊家に取って左程注目されていないかと思うのであります。スペイン舞踊等に対する関心も勿論必要でありますが、このような私達の手近にある民俗舞踊への関心も、もっと重要なものではないでしょうか。
この様な東洋の民俗舞踊を研究し、それを基礎として行く時には、東洋風舞踊と洋風舞踊との距離は、私達東洋人の踊る洋風舞踊である限りに於いて、もっと縮めることが出来るだろうと思います。この様な方向は私としまして自己の舞踊の一つの方向にしたいと努めつつありますが、いづれにしましても、今度の琉球舞踊に接し得ましてことは、舞踊を専門とする私達にとりまして大きな幸福でありましたし、この様な豊かな舞踊の伝統をもつ琉球に対しまして朝鮮を故郷とする私としましては、一種の羨望さえ感じました。(1936・6・7)


平成12年12月ー『南涛文学』第16号□牧港篤三「崔承喜の踊りー(略)私は崔承喜の踊る舞台を観た 戦前、那覇市内にあった映画館(平和館)で妖艶な踊り姿を観たのである 水着のような黒い服を着た彼女は 舞台の上で観客をとりこにした」


2004年6月 牧港篤三『沖縄人物シネマー会った人、すれちがった人』ボーダーインク
◎金網の内と外(近藤東)ー戦後は戦前の意匠的な表現からやや離れ、市井の生活の実態をより直截に表現するようになったが、一貫していかなるイデオロギーからも離れた市民の冷静と皮肉を視点とした。職場(国鉄)を土台にした勤労詩運動のオ−ガナイザー、童話作家、「話の泉」ライター、アサヒグラフのコラムニスト(えぴっくとぴっく)などとしても活動。モダニズム関連を中心とする蔵書は神奈川近代文学館に「近藤東文庫」として一括管理されている。 1960年から、日本詩人会理事長・会長を務めた他、国鉄詩人連盟会長、横浜詩人会会長、神奈川近代文学館評議委員などを歴任。1981年神奈川文化賞受賞。


1936年10月(2004年5月『梨園の名優 新垣松含の世界』から)


本荘幽蘭

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1908年9月4日~14日ー沖縄美術運動の夜明・丹青協会第一回絵画展覧会

出品者 山口瑞雨(沖縄師範学校教諭心得)、岸畑久吉(沖縄県立中学校教諭心得)、國友朝次郎(首里区立工業徒弟学校助教諭 日本画ー四條派 岡田玉翠に学ぶ)、長嶺華國、比嘉華山、兼城恵園、川平恵昌、渡嘉敷唯選、金城唯貞、大湾政正、神山元享、親泊英繁、玉城次郎、国吉真義(刑務所職員)

 瑞雨・山口辰吉はその名が示すごとく1868年(明治元年/戊辰)10月21日に生まれた。辰は、十二支の中で唯一「実在しない生き物」で、これは、或る種のカリスマ性の要因となると云われている。





1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会ー真ん中の柱の中列右が瑞雨。瑞雨の上が瑞雨の息子の山口清。左端が比嘉崋山、右へ一人おいて兼城昌興

1908年、沖縄最初の美術団体「丹青協会」が結成されその会長に瑞雨が就いた。11年、2年かがりの「程順則肖像図」の模写が完成。12年の1月、太平洋画会の吉田博、中川八郎、石川寅治が沖縄写生旅行のときの写真には瑞雨や丹青協会メンバーが写っている。

私は山口米庵のひ孫で、善丸と申します。 昨年 12月7日に父 順造が92歳で他界し、山口家のことは今私が記録を残さなければ子孫には皆目わからずじまいになりかねないと、初代、米庵について調べたところ、琉文21に沖縄時代の記録を見ることが出来ました。心より感謝申し上げます。山口家の墓は都営多磨霊園にあります。初代、米庵 瑞雨院米庵智堂居士。 以来代々が埋葬されています。 30年前に母が亡くなった時、墓には地下室が無く、お骨壷を直に埋めていましたが、すべてのお骨壷を掘りあげて一箇所に収納出来るように改修しました。その時、米庵の骨壷はすごく小さいものしか有りませんでした。 なお、家に残っている米庵の掛け軸の写真を添付いたします。

写真左から山口善丸氏、島袋和幸氏

  




山口瑞雨次女 山口まさ(明治29年9月2日生まれ。大正9年6月21日 浅草にて海上晴①と婚姻)

1959年10月12日『琉球新報』□40年ぶりに帰郷 天崇教の海上さんーもと新劇女優で、そのかみの文豪坪内逍遥博士の愛弟子だったという海上美乃さん(62)=首里当蔵出身=が、11日午後4時 泊入港の沖縄丸で帰郷した。海上さんは19歳の時上京、大正10年ごろ旧姓山口真瑳の名で新劇入りしてから坪内逍遥のもとに「人間親鸞」でデビューした人で日本画家山口瑞雨夫人(ママ)である。現在、東京で新宗連東京都支部副会長などをつとめ、もっぱら天崇教の普及活動に余生をささげているという。海上さんは沖縄は40年ぶりで、この日は女学校時代の同級生の千原繁子さん(女医)ら多数が出迎え、再会を喜びあっていた。→1933年5月『沖縄県立第一高等女学校同窓会』に1913年 第10回卒業生に林まさ 旧姓 山口 東京市中野/第12回卒業生に千原繁子 旧姓 渡嘉敷 那覇市上之蔵1ノ18千原医院。

①海上晴
1894年(明治27年)、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に生まれる。旧制・早稲田実業学校(現在の早稲田大学系属早稲田実業学校高等部)を中途退学したが、早稲田大学の坪内逍遥に入門し、文学を学ぶ。島村抱月、沢田正二郎ら演劇人と親交を結び、新劇の世界に入る。「創生劇」を主宰、日比谷野外音楽堂で公演を行った。1920年(大正9年)、日活向島撮影所の革新運動に参加し、同撮影所第三部が製作した田中栄三監督の『朝日さす前』に主演する。以降、同部の消滅まで出演をつづけた。関東大震災以降の1925年(大正14年)、兵庫県西宮市の東亜キネマ甲陽撮影所で映画出演する。1928年(昭和3年)6月、加藤精一、佐々木積とともに帝国劇場専属俳優となる。

1936年(昭和11年)、お告げを受け、天崇教を創立する[1]。教祖としての名は「海上晴帆」である。第二次世界大戦後、1948年(昭和23年)に宗教法人登録を行う。1952年(昭和27年)、黒澤明監督の『生きる』で映画界に復帰、以降、東宝作品を中心に出演する。初期の岡本喜八監督作品の常連で、体格がよく貫禄のある役どころが多かった。→林幹 - Wikipedia
1905年4月『琉球教育』第106号「中頭郡女子研究会ー本年1月中頭郡に遊戯唱歌塗板画の講習会開会せし以来女子は遊戯唱歌に男子は塗板画に興味を起こし且つ教授上に大に必要を感じ引続き有志者の集会を企画し男子は首里山口瑞雨氏宅に女子は宜野湾間切普天間に毎月集合して研究怠らず・・・」

1910年4月6日『沖縄毎日新聞』「丹青協会批評会ー去る3日第10回の作品批評会を若狭町クラブに会するも日本画の山口瑞雨を筆頭として董園、比嘉華山、国吉沖山、義村竹斉、洋画の関屋敬治、親泊、渡嘉敷唯選、松島、山城、中村の面々・・・・」

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1912年2月ー太平洋画会の石川寅治、中川八郎、吉田博と丹青協会

1912年2月15日 沖縄県庁倹徳館で太平洋画会・石川寅治、吉田博、中川八郎の「琉球写生画展覧会」油絵60余点、水彩画20数点 

中川八郎 なかがわ-はちろう
1877-1922 明治-大正時代の洋画家。
明治10年12月2日生まれ。松原三五郎,小山正太郎にまなぶ。風景画を得意とし,文展と帝展の審査員をつとめた。明治34年太平洋画会の創立に参加。大正11年8月3日死去。46歳。愛媛県出身。作品に「北国の冬」「高原の花」「夏の朝」など。 →コトバンク


中川八郎「琉球の刳船」

中川八郎「琉球の山原船」
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1912年3月『みづゑ』86号 中川八郎「沖縄土産」

吉田博 よしだ-ひろし
1876-1950 明治-昭和時代の洋画家,版画家。
明治9年9月19日生まれ。田村宗立(そうりゅう)に師事,のち小山正太郎の不同舎にまなぶ。明治32年中川八郎と渡米,翌年パリへわたる。34年帰国して中川らと太平洋画会を創立し,文展,帝展で活躍,山岳や渓谷の風景画で知られる。大正9年から木版画を制作。戦後,太平洋画会会長。昭和25年4月5日死去。73歳。福岡県出身。旧姓は上田。 →コトバンク


吉田博「崇元寺前」

吉田博「泉崎橋」

吉田博「糸満町市場」

吉田博「首里の市場」

吉田博「糸満町の刳船」

吉田博「雪崎から波上宮」

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「茶わん」は陶芸愛好家向けの専門誌で、創刊は昭和六年三月。編集発行人は秦秀雄となっているが、実務は小野賢一郎がとりしきっていた。秦に代わって昭和七年五月号から編集発行人として遠藤敏夫の名がクレジットされる。編集部は芝区三田功運町六番地、聖坂を登り切った辺りにあった。(会津信吾「蘭郁二郎の生涯」)



1941年8月『文学建設』蘭郁二郎「琉球ある記」
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1971年10月 蘭郁二郎『地底大陸』桃源社

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蘭郁二郎 らん-いくじろう 1913-1944 昭和時代前期の小説家。
大正2年9月2日生まれ。「探偵文学」同人となりミステリーをかくが,科学冒険小説に転じ,SF小説の先駆者のひとりとなった。海軍報道班員として台湾にわたり,昭和19年1月5日飛行機事故で死去。32歳。東京出身。東京高工卒。本名は遠藤敏夫。著作に「地図にない島」「地底大陸」など。→コトバンク

1935年10月30日 阿部金剛、昭和会館参観

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1889年11月ー松山傳十郎『琉球浄瑠璃』いろは家

松山傳十郎 資料
□1937年10月 『書物展望』石井研堂「琉球浄瑠璃ー前号の、『琉球もの雑本』の記事につれて思い出した[琉球浄瑠璃]の一本を紹介する。[琉球浄瑠璃」は、友人松山いろは氏の著作で、明治22年の発行、四六版92頁、山田美妙序、市川團洲題詞、獨幹放史(大森惟中)跋、その凡例に、『琉球國に、組躍と名づくる歌舞伎狂言あり、其の種類三百以上に達す。而して、其の最著名なるもの五つあり、村原と云ひ、八重瀬と云ひ、忠心身代巻と云ひ、姉妹讐討と云ひ、久志の若按司と云ふ、本書は、則此五大書の一なる久志の若按司を評釈せしものなり』とあり、内容から言えばただ[琉球浄瑠璃」ではなく評釈の二字を冠するのが妥当なようだ。・・・」

 石井研堂ー数種の少年雑誌の編集に携わり、明治41年、『実業少年』*3を創刊したが、明治44年、同誌の廃刊をもって、少年雑誌の編集から離れ、著述生活に入る。研堂は、民間説話収集にも関心を寄せ、『日本全国国民童話』を著した。その一部は関敬吾の『日本昔話集成』*4にも採録されるなど、今日でも評価されている。他に、江戸時代の漂流記・漂流譚を子ども向けに紹介した『日本漂流譚』、資料調査に加え、中濱萬次郎自身へのインタビューに基づく伝記『中濱萬次郎』、創作読物『鯨幾太郎』『少年魯敏遜』など海事関係の著述も多い。→「福島の児童文学者 列伝3 石井研堂 - 福島県立図書館」

石井研堂資料

1926年10月 石井研堂『明治事物起源』春陽堂

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
清水正二郎 しみずしょうじろう (読書)
後の直木賞作家・胡桃沢耕史が、大量にエロ文学の執筆・翻訳をしていた祭の筆名。大正14年神奈川生まれ。拓大卒。漁色家としても知られ、源氏鶏太の「精力絶倫物語」のモデルにもなった。(はてなキーワード)
胡桃沢耕史 くるみざわ-こうし
1925-1994 昭和後期-平成時代の小説家。
大正14年4月26日生まれ。昭和32年「近代説話」の同人となり,清水正二郎の本名でポルノ小説を量産する。のち筆名にかえて,57年「天山を越えて」で推理作家協会賞,58年モンゴル抑留体験をえがいた「黒パン俘虜記」で直木賞。ユーモアミステリーに「翔(と)んでる警視」シリーズがある。平成6年3月22日死去。68歳。東京出身。拓殖大卒。(コトバンク)


愛染 恭子と胡桃沢耕史
□愛染恭子(あいぞめ きょうこ、1958年(昭和33年)2月9日 - )は、日本のポルノ監督、元ポルノ女優、元AV女優。千葉県野田市出身、東京都立忍岡高等学校卒業。血液型はB型。旧芸名、青山 涼子(あおやま りょうこ)。→ウィキペデイア
□2013年9月26日『琉球新報』世良利和「発掘 沖縄映画史21-ピンク映画の中の沖縄」で『愛染恭子in沖縄 本番快感ツアー』(1991)が紹介されている。



永井荷風

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