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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1982年6月、戦前から異国船に関心を持ってきた川平朝申や、国吉真哲、中今信、曽根信一ら数十人が集い、琉球航海記を中心とした沖縄の歴史・文化・人文の研究調査の発展をはかり、地域社会の思想・文化の向上に寄与することを目的に、会長に川平朝申、事務局に外間政彰で異国船琉球航海記研究会(通称バジル・ホール協会)が発足した。発会の記念講演は照屋善彦琉大教授で、会場にはぺルリ艦隊の乗組員の曾孫にあたるヨセフハンディー夫妻も参加した。川平会長の母と、西平守晴南島史学会大阪支部長夫人の母とは姉妹の関係で、大阪在住の新城栄徳も会員として末席をけがした。
 私(新城栄徳)と川平朝申さんとの出会いは、1959年の『今日の琉球』誌上に連載されていた川平さんの「若き人々のための琉球歴史」を読んだことにさかのぼる。それから10年後。大阪の沖縄関係資料室に叔母さんを訪ねて川平さんが来室していた。夜、私が資料室に行くと、暑い熱いと下着姿の川平さんが「君が新城(あらぐすく)君か、西平(にしんだ)君から君のことを聞いているよ」と握手をしてきた。そして麦門冬に話がおよぶと「君は麦門冬の名前を知っているのか、それだけでも尊敬に値するよ」といって、太い万年筆で「故郷に生まれ故郷で育ち、今また異郷にありて故郷を想う心尊し」と書いてくれた。

1910(明治43)年9月15日、冨山房発行『學生』第一巻第六号 中村清二「琉球とナポレオン」
 中村清二(女優の中村メイコは兄の孫にあたる)「チェンバレン氏は英国の使節を廣東に上陸させて待っている間に朝鮮と琉球を見物し、帰国の途次セントヘレナ島を訪れてナポレオンに会見し琉球の物語をしたとある。」と記している。
□東京大学明治文庫の原本で、1910(明治43)年9月15日、冨山房発行『學生』第一巻第六号:ナポレオン号に「琉球とナポレオン」中村清二(7頁)が掲載されていることが確認出来ました。 その記事の挿絵にはバジル・ホールの著作と同じ挿絵が使用されています。冒頭でバジル・ホール・チェンバレンの祖父としてバジル・ホールが紹介され、はじめの小見出しは「セントヘレナ上陸」。途中の小見出しに「武器なき国」とありました。(2016年7月28日 不二出版 小林淳子)





 
 伊波普猷の弟・普成は1912年9月の『沖縄毎日新聞』に「ベージル・ホール 琉球探検記」連載、11月には「ビクトリヤの僧正 琉球訪問記」(クリフォードの名が出てくる)、1913年4月は「ぺルリ日記」、8月「チャールズ・ルブンウォース 琉球島」を連載している。


1912年11月8日『沖縄毎日新聞』「ベージル・ホール 琉球探検記」
譯者曰く、ベージル・ホールの他の著述の中に、彼は東洋よりの帰途セント・ヘナに立ち寄って、ナポレオンと会見して談たまたま琉球のことに及んで、琉球にては古来戦争がないといふことを話すと、流石のナポレオンは肩をそびやかして、戦争絶えて無しとか、これ決して能はざる也と叫んだ。といふことが書いてあるとのことである。貨幣もない、刑罰もない、武器もない戦争した経験もなければ、戦争のあったといふ伝説もないと云って、はじめから無抵抗主義を取った。琉球政府の対外政策には感服といふ他評しやうがない。かういふ小さい孤島ではコルチャコブやビスマルクのやうな大政治家でもこの政策を取る外致し方がなかったであらう。
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1915年4月9日『琉球新報』麦門冬「眞栄平房昭ー百年前の語学者」
1924年5月『沖縄教育』末吉麦門冬「百年前の英語通ー眞栄平房昭」
□西暦一千八百十六年、即ち今を去ること百八年前、英國の船長ベーシルホール(言語学者チャンバーレン氏の祖父)が率いる探見隊を乗せた二隻の英鑑が朝鮮から琉球へと回航した。キャンプテン、ベージルホールの塔乗した船はメーフラワー號と云ふのであった。此メ―フラワー號乗組員が探見した朝鮮琉球に関した記録が「朝鮮の西海岸及び大琉球探見記」と云ふ浩澣な本となって、英國で出版された。其の原本は沖縄図書館にも一部蔵されている。その琉球の部分だけは先年伊波月城氏に依って飜訳せられ沖縄毎日新聞に連載されたから、記憶された方もあろうかと思ふ。この本は極めて面白く琉球の風土文物が記述描写せられてあるので、言語学者のチャンバーレン氏も、幼い時から、殊に祖父さんがこしらへた本として飜閲愛翫したそうである。チャンバーレン氏が後年日本に渡り文科大学に教鞭を執るようになり、更にわが琉球に来り、言語風俗を調査し、其の有名な琉球語の文法書等を著すようになったのも、動機を溯ればこの本が与えた刺激からであったといふ。
扨て私が茲に紹介せんとする眞榮平房昭とは何人かと云ふに、ベージルホール、チャンバーレン氏の探見記に活躍している一人物メーデーラーのことである。メーフラワー號の乗組員中にヘンリー、ホップナーと云ふ青年学者がいた。この人が調べた琉球語の研究が探見記の巻末に載っているが、ホップナーはメーデーラー即ち眞榮平房昭の助力によりて、あれだけの語彙を蒐集したのである。其の時メーデーラーも又帳面と矢立とを携えて、頻りにホップナーに就いて英語を教わり、双方交換教授をしたといふことである。(以下略)
○1928年ー市河三喜編輯『岡倉先生記念論文集』に豊田實が「沖縄英学史稿」を寄せている。豊田は沖縄県の依頼で1928年3月22日から28日まで英語講習のため那覇に滞在した。そこで沖縄県立沖縄図書館長の真境名安興などの協力を得て沖縄英学史を調べたのが前出の沖縄英学史稿として結実した。中に末吉麦門冬の「百年前の英語通」も引用し真栄平房昭の家譜を書いている。(2011年11月)
豊田実 とよだ-みのる
1885-1972 大正-昭和時代の英語学者。
明治18年9月16日生まれ。青山学院教授などをへて,大正14年九州帝大教授となる。戦後,青山学院院長,同大初代学長。日本英学史学会初代会長。昭和47年11月22日死去。87歳。福岡県出身。東京帝大卒。著作に「日本英学史の研究」など。→コトバンク


1915年12月4日 『琉球新報』神山政良 訳「奈翁とホ氏の琉球問答=セントヘレナ島に於ける=」(1)
12月13日 『琉球新報』神山政良 訳「奈翁とホ氏の琉球問答」(9)
12月14日 『琉球新報』金口木舌ーナポレオンは英の一船長を引見した時▲「卿は曾て尊父が予の事を話すのを聞かれた事があるか▲卿は曾て尊父が予に逢いたいと云うのを聞いたことがあるか▲と云うようなことを荐(しきり)に聴いて居る▲之が絶世の英雄ナポレオンの言葉である▲罪のない可愛い人間性が現れて居るではないか▲又彼が彼の少年時代を送ったブリアンの事なら如何に詰まらぬ事にも非情な興味を持って居た▲と云う事にも人間性の懐味が滲み出て居るではないか▲偶像化された英雄豪傑でも祭壇から引きずり下して見ると▲意外に無邪気な人間性の欠点や凡庸人と異らない人情味が見出される▲近世の芸術は一切の偶像を祭壇から引き下ろそうとして居る▲それは然うとナポレオンが琉球の地理的位置を聴いて▲琉球人の風習制度等が他国の干渉によって影響されたに相違ない▲と話したと云う事は其の炯眼に驚かざるを得ない▲事実我が琉球は他国の干渉に依って風習や制度に影響される處があった▲其處が又渾身活動慾制服慾に満たされたナポレオンが想像することも出来ない▲全然武器なき國として立って行かれた所以となったのだ

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メソジスト教会、後列左が伊波普猷、右2人目が伊波普成、前列和服姿が大久保孝三郎医師、中央がシュワルツ宣教師/1938年『琉球新報』「令女考現学」

1931年12月『琉球新報』伊波普猷「ナポレオンと琉球」/1932年1月 『改造』伊波普猷「ナポレオンと琉球」

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1983年8月 沖縄の雑誌『青い海』125号 「特集・沖縄口よ、おまえは何処へ!」

しまくとぅばプロジェクト2018 しまくとぅば鼎談/座談「南米んじ 琉球(るーちゅー)しまくとぅばー ちゃー なとー
2018年10月14日 14:00~17:00 沖縄県立博物館 講座室「しまくとぅばプロジェクト2018 しまくとぅば鼎談/座談「南米んじ 琉球(るーちゅー)しまくとぅばー ちゃー なとーが?」
 これまで沖縄の近代思想(伊佐眞一氏)、経済と文化(屋嘉宗彦氏)、写真(比嘉豊光氏)について、「しまくとぅば」で論じてきた鼎談シリーズの6回目。
沖縄の「しまくとぅば」は、沖縄・琉球に広がる島じまの言葉です。しかし、それを話しているのは、何も私たち琉球弧に住んでいる人たちばかりではなく、生活の言語としている人たちが、遠く南米にもたくさんいます。沖縄から移民で行った地で、しっかりと根づいています。
今回は、これまで何度もブラジルやアルゼンチンに行って、沖縄からの移民一世だけでなく、そこで生まれ育った二世・三世・四世の人たちと家族同様の付き合いをしてきた大城和喜氏をゲストに迎え、故郷を離れた外国の地で、琉球諸語がいま、どうなっているのかを知ることで、私たち沖縄・琉球におけるしまくとぅばの未来のありようを見つめる機会とします。(※むる しまくとぅばしっ 話し さびーん)

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2022-8 大城和喜『南方見聞録』新星出版
基調講話:「うちなーんちゅぬ 暮らし とぅ 言葉」 大城 和喜 氏(南風原町文化協会 会長)
座談:大城 和喜 氏、伊佐 眞一 氏(沖縄近現代史家)、比嘉 豊光 氏(写真家)、屋嘉 宗彦 氏(法政大学 名誉教授)

比嘉豊光氏(写真家)

大城和喜氏、(南風原町文化協会会長)伊佐眞一氏/左から屋嘉宗彦氏(法政大学名誉教授)、伊佐眞一氏、大城和喜氏、比嘉豊光氏


2018年10月14日『沖縄タイムス』伊佐眞一「歴史を刻んだ沖縄人ー太田朝敷」

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 尚泰侯爵、玉陵に葬られるー1901-8-19 尚泰侯爵、急性カタルで東京にて死去/8-23 尚泰侯爵遺骸、午後7時に東京本邸出発、沖縄青年会が新橋駅まで代表の諸見里朝鴻が神戸まで同行/8-24 尚泰遺骸、午後5時に梅田駅通過、送迎に商業興信社の宮井悦之助、/沖縄広運会社支店長の野里朝義ら参加/同夜、遺骸は球陽丸で那覇向け神戸出帆/8-28 尚泰遺骸、午前7時半に那覇港着。午前10時に大中邸/8-29 尚泰侯爵、午後2時に出棺、玉陵に葬られた。会葬者2万人/1905-2-7 故尚泰侯、尚家邸内から円覚寺に御入廟。


1962年5月  郷土の文化を守る会(会長・山田真山)


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1977年11月24日ー重要文化財「玉陵」修理工事竣工記念

 『朝日新聞』2018年10月19日ー文化審議会は19日、琉球王家の陵墓「玉陵(たまうどぅん)」(那覇市)を国宝に指定するよう文部科学相に答申した。沖縄県では首里城正殿などが国宝だったが太平洋戦争で焼失し、戦後できた文化財保護法のもとでは県内の建造物として初めての国宝指定となる。玉陵は首里城を居城とした琉球第二尚(しょう)王統の歴代の陵墓で、1501年に築造された。首里城跡などとともに世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」を構成する。石垣で囲まれた敷地の奥に3棟の墓室が並び、遺体を安置して白骨になった後に洗ってから納骨する琉球の葬送慣習を伝える。東アジアで独自の発展をした琉球の建築や葬墓制を象徴し、深い文化史的意義があると評価された。

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「私設文学資料室」主宰・新城良一氏、右が屋良朝信氏/沖縄県立博物館・美術館入口の民家前
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沖縄県立博物館・美術館館長室で右が田名真之館長/左から豊見山愛さん、屋良朝信氏、亀海史明氏

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渡口万年筆店で右が渡口彦邦氏、屋良朝信氏/那覇市民ギャラリーで左から屋良朝信氏、伊佐真一氏、高良憲義氏

屋良朝信「富士瓦斯紡績工場」
 川崎は江戸時代には 東海道の宿場の一つとして賑わったが,1872(明治5)年に 新橋-横浜間の鉄道が敷設されて、川崎駅ができるや駅周辺の都市化が急速に進んだ。
明治後期,現在の京浜急行・大師線が開業し多摩川の南岸沿いに工場が建設される。以降、京浜工業地帯の中核となった。
明治初期から大正にかけて建設された主要な工場群;
・1908(明治41)年 東京電気 (後の東芝)・1909(明治42)年 日本蓄音器 (後の日本コロンビア)・1911(明治44)年 東京製線 (後の三菱電線)・1912(明治45)年 日本鋼管 (後のJFE)・1914(大正3)年 富士瓦斯紡績
-関東大震災-
沖縄県出身者は大正初期から紡績工場などへの出稼ぎのため川崎にわたり、親類縁者を呼び寄せた。23年の関東大震災で多くの県人が被災した。特に富士瓦斯紡績川崎工場では沖縄からの出稼ぎ労働者から72人の死傷者を出したという。被災県人を支援しようと震災翌年結成されたのが川崎沖縄県人会だった。初代会長は那覇市出身の玉那覇有盛氏。会員は千人ほどで、多くは富士瓦斯紡績の女工たちだったという。沖縄戦の後は、混乱の中で沖縄に戻れない県人や復員兵らの受け皿となり、琉球芸能を催して慰めとした。「川崎の沖縄県人70年の歩み」で、照屋元義氏(川崎沖縄県人会理事-当時-)は「県人の皆さんが集まり、踊りを練習して、お互い沖縄を忍びながら過ごした」と記している。→2017-6 旅の記憶 〜遊民雑記〜 tomoyaraのblog


1986年7月「川崎の男女共同社会をすすめる会 会報ー吉見周子『川崎の男女共同社会をめざして』」第5号/1985年2月4日『琉球新報』「大震災で散った”沖縄女工たち 〟犠牲者の名簿 川崎市の吉見周子山脇短大講師が発見」「富士瓦斯紡績川崎工場関東大震災時琉球列島出身犠牲者一覧」

仲田ウト 明37,8,5 戸主名 朝政 七女 年齢19 名護村世富慶37 入社 大11,9,18 所属 撚糸科  

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舞踏家・島晴美
与世山彦士、漢那憲和らの世話で13歳年下の島晴美と結婚
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右の色紙は山城正忠に贈ったもの。
与世山彦士(1868年8月28日ー1986年)那覇久米町に生まれる。祖父・振升、父・大成で久米毛氏。小学校は大阪、中学は東京海城の出身。
1920年5月ー『彦士歌集』雑草詩社/このころロシア出身のエリアナ・パヴロワ①に入門、洋舞を研究する。

①1899年(明治32年)3月22日、ロシア・サンクトペテルブルクの貴族の家庭に生まれる。
母・妹とともにロシア革命から逃れ、ヘルシンキ、ハルビン、上海を経て、1920年(大正9年)に日本に入国する。翌1921年(大正10年)、小山内薫が所長を務める東京市本郷区(現在の文京区本郷)の「松竹キネマ研究所」が製作したサイレント映画『君よ知らずや』の主演に抜擢される。1927年(昭和2年)、神奈川県鎌倉郡腰越津村七里ヶ浜(現在の鎌倉市七里ガ浜東)に日本初のバレエの稽古場を開設、東勇作、橘秋子、貝谷八百子、近藤玲子、大滝愛子、島田廣、服部智恵子らを育てた。1937年(昭和12年)、日本に帰化した。→ウィキペディア

1940年12月ー東京から大阪へ「のぼる喫茶店」開業
1958年ー『詩集やどかり』与世山彦士バレエ研究所/1959年ー『童謡集 尾鷲鳶』与世山彦士バレエ研究所
1963年ー『短歌集 母神』

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1987年8月ー9月『沖縄タイムス』幸地建一「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記」/幸地記者がこの連載企画を話したとき真っ先に紹介したのが比嘉正子さんと島晴美さんであった。

1987年5月21日『沖縄タイムス』幸地建一「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記/人類館事件


1988年3月4日『沖縄タイムス』幸地建一「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記/大阪粟国村人会」

2014年8月29日 現在の幸地建一記者

崔承喜
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1936年10月22日ー沖縄新聞社の招待で崔承喜一行(10名)、開城丸で来沖。

1936年8月ー日本民俗協会『日本民俗』第13号□琉球古典芸能の印象ー杉浦非水「大阪第五回内国勧業博覧会で琉球踊りをみた」、山崎紫紅、森律子、上司小剣、東儀和太郎、田辺尚雄「玉城盛重、新垣松含の15年前にみた。年老いた今日ー」、兼常清佐、村山知義、、邦正美、深井史郎、伊庭孝、岡元信吉、土岐善麿

崔承喜□私が琉球舞踊に接したのは、これが最初でありますが、それが非常に優れた民俗舞踊であることに大きな尊さを覚えたとともに、それらは私の舞踊の研究の上に、最近に於いて最も得ることの多かったものであったことを喜びます。
幾分新しく様式化されて演ぜられたように思われる「天川踊り」や「鳩間節」等の作品に最も大きな感銘をもったのでありますが、この様な民俗舞踊に於ける優れた手法は、私達に取って摂取さるべき多くのものを保持して居るように思われます。
私はこれらの琉球舞踊の中で、取り入れらるべきものを取入れんとして、此頃新作のレパートリの或る種のものに試みつつありますが、琉球舞踊を見た時に強く感じましたことは、それが朝鮮の民俗舞踊やシャムの民俗舞踊に類似して居る手法を多く包含して居るように感ぜられたことです。殊に上半身の動きー肩の動きや腕の動きは、朝鮮舞踊によく似ていますし、廻り方に於ける足の動きや手首の動きは、シャム舞踊に似てはいないかと思われました。
「組踊」に於ける様式上の特殊性も、朝鮮の民俗舞踊の中で残されている代表的なものである「山臺劇」等に見いだされるようなものに共通したものをもって居るように感じました。勿論、琉球舞踊にしましても、支那、シャム、朝鮮等の舞踊にしましても、東洋の舞踊に独自な、様式上の多くの類似性をもつことは当然なことでありませう。
このような琉球のもつ優れた民俗舞踊が有能なる舞踊家の手に依って、新たに様式化され、そしてそれが成長して行く日には世界に出して誇り得るものさえももつであろうとさえ思われると共に、この様な舞踊の伝統が何故、私達舞踊家に取って左程注目されていないかと思うのであります。スペイン舞踊等に対する関心も勿論必要でありますが、このような私達の手近にある民俗舞踊への関心も、もっと重要なものではないでしょうか。
この様な東洋の民俗舞踊を研究し、それを基礎として行く時には、東洋風舞踊と洋風舞踊との距離は、私達東洋人の踊る洋風舞踊である限りに於いて、もっと縮めることが出来るだろうと思います。この様な方向は私としまして自己の舞踊の一つの方向にしたいと努めつつありますが、いづれにしましても、今度の琉球舞踊に接し得ましてことは、舞踊を専門とする私達にとりまして大きな幸福でありましたし、この様な豊かな舞踊の伝統をもつ琉球に対しまして朝鮮を故郷とする私としましては、一種の羨望さえ感じました。(1936・6・7)


平成12年12月ー『南涛文学』第16号□牧港篤三「崔承喜の踊りー(略)私は崔承喜の踊る舞台を観た 戦前、那覇市内にあった映画館(平和館)で妖艶な踊り姿を観たのである 水着のような黒い服を着た彼女は 舞台の上で観客をとりこにした」


2004年6月 牧港篤三『沖縄人物シネマー会った人、すれちがった人』ボーダーインク
◎金網の内と外(近藤東)ー戦後は戦前の意匠的な表現からやや離れ、市井の生活の実態をより直截に表現するようになったが、一貫していかなるイデオロギーからも離れた市民の冷静と皮肉を視点とした。職場(国鉄)を土台にした勤労詩運動のオ−ガナイザー、童話作家、「話の泉」ライター、アサヒグラフのコラムニスト(えぴっくとぴっく)などとしても活動。モダニズム関連を中心とする蔵書は神奈川近代文学館に「近藤東文庫」として一括管理されている。 1960年から、日本詩人会理事長・会長を務めた他、国鉄詩人連盟会長、横浜詩人会会長、神奈川近代文学館評議委員などを歴任。1981年神奈川文化賞受賞。


1936年10月(2004年5月『梨園の名優 新垣松含の世界』から)


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1908年9月4日~14日ー沖縄美術運動の夜明・丹青協会第一回絵画展覧会

出品者 山口瑞雨(沖縄師範学校教諭心得)、岸畑久吉(沖縄県立中学校教諭心得)、國友朝次郎(首里区立工業徒弟学校助教諭 日本画ー四條派 岡田玉翠に学ぶ)、長嶺華國、比嘉華山、兼城恵園、川平恵昌、渡嘉敷唯選、金城唯貞、大湾政正、神山元享、親泊英繁、玉城次郎、国吉真義(刑務所職員)

 瑞雨・山口辰吉はその名が示すごとく1868年(明治元年/戊辰)10月21日に生まれた。辰は、十二支の中で唯一「実在しない生き物」で、これは、或る種のカリスマ性の要因となると云われている。





1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会ー真ん中の柱の中列右が瑞雨。瑞雨の上が瑞雨の息子の山口清。左端が比嘉崋山、右へ一人おいて兼城昌興

1908年、沖縄最初の美術団体「丹青協会」が結成されその会長に瑞雨が就いた。11年、2年かがりの「程順則肖像図」の模写が完成。12年の1月、太平洋画会の吉田博、中川八郎、石川寅治が沖縄写生旅行のときの写真には瑞雨や丹青協会メンバーが写っている。

私は山口米庵のひ孫で、善丸と申します。 昨年 12月7日に父 順造が92歳で他界し、山口家のことは今私が記録を残さなければ子孫には皆目わからずじまいになりかねないと、初代、米庵について調べたところ、琉文21に沖縄時代の記録を見ることが出来ました。心より感謝申し上げます。山口家の墓は都営多磨霊園にあります。初代、米庵 瑞雨院米庵智堂居士。 以来代々が埋葬されています。 30年前に母が亡くなった時、墓には地下室が無く、お骨壷を直に埋めていましたが、すべてのお骨壷を掘りあげて一箇所に収納出来るように改修しました。その時、米庵の骨壷はすごく小さいものしか有りませんでした。 なお、家に残っている米庵の掛け軸の写真を添付いたします。

写真左から山口善丸氏、島袋和幸氏

  




山口瑞雨次女 山口まさ(明治29年9月2日生まれ。大正9年6月21日 浅草にて海上晴①と婚姻)

1959年10月12日『琉球新報』□40年ぶりに帰郷 天崇教の海上さんーもと新劇女優で、そのかみの文豪坪内逍遥博士の愛弟子だったという海上美乃さん(62)=首里当蔵出身=が、11日午後4時 泊入港の沖縄丸で帰郷した。海上さんは19歳の時上京、大正10年ごろ旧姓山口真瑳の名で新劇入りしてから坪内逍遥のもとに「人間親鸞」でデビューした人で日本画家山口瑞雨夫人(ママ)である。現在、東京で新宗連東京都支部副会長などをつとめ、もっぱら天崇教の普及活動に余生をささげているという。海上さんは沖縄は40年ぶりで、この日は女学校時代の同級生の千原繁子さん(女医)ら多数が出迎え、再会を喜びあっていた。→1933年5月『沖縄県立第一高等女学校同窓会』に1913年 第10回卒業生に林まさ 旧姓 山口 東京市中野/第12回卒業生に千原繁子 旧姓 渡嘉敷 那覇市上之蔵1ノ18千原医院。

①海上晴
1894年(明治27年)、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に生まれる。旧制・早稲田実業学校(現在の早稲田大学系属早稲田実業学校高等部)を中途退学したが、早稲田大学の坪内逍遥に入門し、文学を学ぶ。島村抱月、沢田正二郎ら演劇人と親交を結び、新劇の世界に入る。「創生劇」を主宰、日比谷野外音楽堂で公演を行った。1920年(大正9年)、日活向島撮影所の革新運動に参加し、同撮影所第三部が製作した田中栄三監督の『朝日さす前』に主演する。以降、同部の消滅まで出演をつづけた。関東大震災以降の1925年(大正14年)、兵庫県西宮市の東亜キネマ甲陽撮影所で映画出演する。1928年(昭和3年)6月、加藤精一、佐々木積とともに帝国劇場専属俳優となる。

1936年(昭和11年)、お告げを受け、天崇教を創立する[1]。教祖としての名は「海上晴帆」である。第二次世界大戦後、1948年(昭和23年)に宗教法人登録を行う。1952年(昭和27年)、黒澤明監督の『生きる』で映画界に復帰、以降、東宝作品を中心に出演する。初期の岡本喜八監督作品の常連で、体格がよく貫禄のある役どころが多かった。→林幹 - Wikipedia
1905年4月『琉球教育』第106号「中頭郡女子研究会ー本年1月中頭郡に遊戯唱歌塗板画の講習会開会せし以来女子は遊戯唱歌に男子は塗板画に興味を起こし且つ教授上に大に必要を感じ引続き有志者の集会を企画し男子は首里山口瑞雨氏宅に女子は宜野湾間切普天間に毎月集合して研究怠らず・・・」

1910年4月6日『沖縄毎日新聞』「丹青協会批評会ー去る3日第10回の作品批評会を若狭町クラブに会するも日本画の山口瑞雨を筆頭として董園、比嘉華山、国吉沖山、義村竹斉、洋画の関屋敬治、親泊、渡嘉敷唯選、松島、山城、中村の面々・・・・」

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1912年2月ー太平洋画会の石川寅治、中川八郎、吉田博と丹青協会

1912年2月15日 沖縄県庁倹徳館で太平洋画会・石川寅治、吉田博、中川八郎の「琉球写生画展覧会」油絵60余点、水彩画20数点 

中川八郎 なかがわ-はちろう
1877-1922 明治-大正時代の洋画家。
明治10年12月2日生まれ。松原三五郎,小山正太郎にまなぶ。風景画を得意とし,文展と帝展の審査員をつとめた。明治34年太平洋画会の創立に参加。大正11年8月3日死去。46歳。愛媛県出身。作品に「北国の冬」「高原の花」「夏の朝」など。 →コトバンク


中川八郎「琉球の刳船」

中川八郎「琉球の山原船」
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1912年3月『みづゑ』86号 中川八郎「沖縄土産」

吉田博 よしだ-ひろし
1876-1950 明治-昭和時代の洋画家,版画家。
明治9年9月19日生まれ。田村宗立(そうりゅう)に師事,のち小山正太郎の不同舎にまなぶ。明治32年中川八郎と渡米,翌年パリへわたる。34年帰国して中川らと太平洋画会を創立し,文展,帝展で活躍,山岳や渓谷の風景画で知られる。大正9年から木版画を制作。戦後,太平洋画会会長。昭和25年4月5日死去。73歳。福岡県出身。旧姓は上田。 →コトバンク


吉田博「崇元寺前」

吉田博「泉崎橋」

吉田博「糸満町市場」

吉田博「首里の市場」

吉田博「糸満町の刳船」

吉田博「雪崎から波上宮」



2015年12月21日ー若狭の大龍神を望んでの帰り、上空を見る

岐路(核の時代)/2015年12月 若狭に「大龍神」降臨


1955年4月12日『琉球新報』「半世紀前の沖縄風景ー明治初期洋画展を飾る 博文公と来島した山本芳翠画伯の絵が初公開」

 冨名腰義珍と親しい小杉未醒が学んだ小山正太郎の「吉野山」「御嶽村遠望」などの作品もあった。大潮會の浦崎永錫会長の肖像画を描いた北連蔵②の「ハンモック」「静物」もある。

1986年12月 『大潮会50周年記念小史』/北連蔵画「浦崎永錫像」
②北蓮蔵 きた-れんぞう1876-1949 明治-昭和時代の洋画家。
明治9年生まれ。同郷の山本芳翠(ほうすい)にまなび,黒田清輝(せいき),久米(くめ)桂一郎の天真道場をへて,東京美術学校(現東京芸大)を卒業。帝国劇場背景部主任となり背景画に洋画を導入,国会議事堂の歴代議長肖像画もかいた。昭和24年12月21日死去。74歳。岐阜県出身。作品に「岩倉具視(ともみ)公病床行幸図」など。 →コトバンク
不同舎と太平洋画会コーナーに満谷国四郎「かりそめの悩み」がある。
満谷は岡山県生。はじめ二世五姓田芳柳に、のち小山正太郎に師事。吉田博らと大平洋画会を創立、海外の博覧会や文展に活躍する。のち大原孫三郎の後援を得てパリへ留学、褐色系を基調とした初期の画風から後期印象派の影響を受けた画風へと一変する。晩年は対象の平面的処理と豊かな色彩により装飾性の強い画風を確立した。帝国美術院会員。昭和11年(1936)歿、63才。 (→コトバンク)

1913年ー在パリ留学生たち(写真上左から長谷川昇、内藤丈吉、梅原龍三郎、水谷鉄也、小柴錦持、満谷国四郎、小林万吾、桑重儀一、沢部清五郎、藤川勇三、和田三造、柚木久太/下左から川島理一郎、小杉未醒、山本鼎、徳永仁臣、菅原精造)

1912年2月ー太平洋画会の石川寅治①、中川八郎②、吉田博③と丹青協会
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①石川寅治
洋画家。高知県生。小山正太郎の不同舎に学び、太平洋画会を起こす。のちに示現会を創立。初期は婦人像を描いたがのちに風景画へ移行し、印象派風の明るい画風を示した。美術教育にも功績がある。日展参事。帝展・新文展審査員。日本芸術院賞恩賜賞受賞。昭和39年(1964)歿、89才。

②中川八郎 なかがわ-はちろう
1877-1922 明治-大正時代の洋画家。
明治10年12月2日生まれ。松原三五郎,小山正太郎にまなぶ。風景画を得意とし,文展と帝展の審査員をつとめた。明治34年太平洋画会の創立に参加。大正11年8月3日死去。46歳。愛媛県出身。作品に「北国の冬」「高原の花」「夏の朝」など。

③吉田博
洋画家。福岡県生。小山正太郎に学ぶ。文展・帝展・日展審査員。太平洋画会会員。昭和25年(1950)歿、73才。 以上コトバンク

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Posted by: ryubun02
  朝6時半のバスで妻と新川にある娘(さやか)が入院している病院へ。東北大震災や原発事故から一か月すぎ天変地異の最中で生まれた子供だからスムーズにとは行かなかった。が、無理に世に出された子供には手術が待っていた。 とりあえず見舞を終えて帰宅。後田多敦氏からの博士(歴史民俗資料学)の学位をいただいたという来信。氏は新聞記者時代から学究タイプだったから本来の姿に立ち戻った感がする。

1978年ー読谷村座喜味で、左からあけみ、その母、その母、手前が江とさやか(嘉手納生まれ)。/ひより

平良次子さん、さやか/写真右ー左から平良次子さん、ひより、さやか、山城みどりさん

 2012年(平成24年)3月11日 本日は東北大震災・原発大事故から1年。新報、タイムスは「34万人 今も避難」と報じている。国際通りを歩くと、脱原発や、原発ゼロのブラカードが目立った。


 斎藤 陽子 2011年(平成23年)3月11日 、一瞬にして突然に2万人以上の人々が亡くなった日・・・あの日あなたは何処で何をしていましたか。3・11を迎えるたびに、月日の経つのは早いものと思ってしまいます。あの日も私は訪日中で、あろうことか日本橋三越の婦人服売り場の試着室で、ちょっと気に入った服を試着しようと、試着室の扉を締めて服を脱ぎ裸になったところに・・・ユラッと来て、瞬間「卒中に襲われたか」と思ったのですが、そのあとの大きな揺れで地震だと判断、とっさに裸の自分に慌てていると、店員から試着室の「ドアが開かなくなるとまずいので、ドアは開けてください」とのことで、開けっ放しの試着室で、大急ぎで揺れる中を這いつくばってオバシャツから始まり洋服を着る努力をするのですが、うまくゆかず焦りました。何とか洋服を着て、まだ揺れる中を這いつくばいながら、デパートの廊下で店員の集団と肩を抱きあい、車座になり揺れのおさまるのを待っていました。頭の中はこのデパートで押しつぶされて死んだら、アメリカからの旅人の私は無縁仏になるのかな・・・とのことなどが脳裏をよぎり恐怖の中にいました。
 その後は日本橋三越から帰宅困難者の群れとなり、小雨降る寒い中を次男の豊洲のマンションの方向を目指し、沢山の人々と歩いていると、後ろから肩を叩く青年がいて、何ごとかと振り返るとインスタントのカイロを渡してくれた事は、緊張の中で他人を思う若い人のいる日本に感激し、うるうるしながらひたすら歩きました。やっとマンションに着いたのは外も暗くなった8時頃、ホットする間もなくマンションのエレベーターは稼働してなく、高層マンションの16階までを登るのに、70歳の老婆は頑張りました。あいにくマンションの持主の次男は海外出張中、東京に居るはずの長男も海外出張中、余震の襲う中をテレビでは東北が炎上している映像を見ながら、初めて東北一帯で津波のあったこと知り、福島の主人方の親戚の事や、前年に女川を訪問して漁業幹部の方から美味しいウニをご馳走になった、お世話になった面々を思い、マンション内の散乱している家具や割れ物の始末と奮闘をしていると、夜が明けてきていました。

 『沖縄の軌跡』97号 編集発行人・島袋和幸〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 ☎ 島袋携帯090-4920-6952
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<袋中上人行化碑>が、{桂林寺}の跡である松山公園の一角にある。左の碑文に「慶長8年(1603)、浄土宗の僧、袋中上人は縁あって来琉。法然上人念仏の教えを弘め、故郷岩城(福島県)「じゃんがら念佛」を普及、現在沖縄の伝統芸能「エイサー」となる。時の琉球尚寧王は上人に深く帰依、桂林寺を建立。ここ松山公園その跡地である。この跡地において、平成16年(2004)2月7日袋中上人沖縄開教400年を記念し、上人顕彰・頌徳の慶讃法要ならびに、第二次大戦戦没者諸霊位の冥福を薦めるため、仏教各宗派寺院、檀信徒等、千数百名の参加を得、俱会一処の法楽を奉修した。願わくはここ沖縄の地に世界平和念仏が弘通され、すべての人々の心に安らぎがもたされることを期し小碑を建立する。平成16年2月吉日  浄土宗宗務総長 水谷幸正」と記されている。


1972年7月ー『古典琉球舞踊の型と組踊五組』月刊沖縄社
□本書に当間一郎氏は「組踊以前の(琉球)芸能はほとんどが宗教的行事の中で演じられ、神への祈願や感謝の意をこめた荘厳なものであった。組踊は村々、島々に古くからあった素朴な神行事や村おどりが反映していると思われる。いまひとつ、組踊の発生をみる上に忘れてならないのは、念仏宗の来琉である。京太郎(チョンダラー)と呼ばれて広い地域にはいりこんでいる。彼らは詞曲をとなえながら人形を踊らせたのである。」と記している。念仏にはエイサーの元祖とされる袋中上人も当然入る。上人は今のいわき市で出生された。今回のエイサーををフクシマの復興祈念とするのも必然的ではある。(2011-9-8大阪・池島保育園で記す。)
 袋中上人の福島に続いて、『琉球浄瑠璃』(1889年)の著者・松山伝十郎も福島出身で東京市会議員。やはり福島出身で1894年5月の『早稲田文学』に「琉球演劇手水の縁」を書いた人物に佐々木笑受郎が居る。佐々木はキリスト教布教のため来沖し『沖縄新聞』主筆もつとめた。ちなみに宮城県人で沖縄最初のガイド本『琉球漫録』(1879年)を書いた人物に渡邉重綱(軍医)が居る。(2011-9-11<アメリカ同時多発テロの日>関西沖縄文庫で記す。)

1889年11月ー松山傳十郎『琉球浄瑠璃』いろは家

松山傳十郎 資料
□1937年10月 『書物展望』石井研堂「琉球浄瑠璃ー前号の、『琉球もの雑本』の記事につれて思い出した[琉球浄瑠璃]の一本を紹介する。[琉球浄瑠璃」は、友人松山いろは氏の著作で、明治22年の発行、四六版92頁、山田美妙序、市川團洲題詞、獨幹放史(大森惟中)跋、その凡例に、『琉球國に、組躍と名づくる歌舞伎狂言あり、其の種類三百以上に達す。而して、其の最著名なるもの五つあり、村原と云ひ、八重瀬と云ひ、忠心身代巻と云ひ、姉妹讐討と云ひ、久志の若按司と云ふ、本書は、則此五大書の一なる久志の若按司を評釈せしものなり』とあり、内容から言えばただ[琉球浄瑠璃」ではなく評釈の二字を冠するのが妥当なようだ。・・・」

 石井研堂ー数種の少年雑誌の編集に携わり、明治41年、『実業少年』*3を創刊したが、明治44年、同誌の廃刊をもって、少年雑誌の編集から離れ、著述生活に入る。研堂は、民間説話収集にも関心を寄せ、『日本全国国民童話』を著した。その一部は関敬吾の『日本昔話集成』*4にも採録されるなど、今日でも評価されている。他に、江戸時代の漂流記・漂流譚を子ども向けに紹介した『日本漂流譚』、資料調査に加え、中濱萬次郎自身へのインタビューに基づく伝記『中濱萬次郎』、創作読物『鯨幾太郎』『少年魯敏遜』など海事関係の著述も多い。→「福島の児童文学者 列伝3 石井研堂 - 福島県立図書館」

石井研堂資料

1926年10月 石井研堂『明治事物起源』春陽堂

石井研堂
生年: 慶応1.6.23 (1865.8.14)
没年: 昭和18.12.6 (1943)
明治・大正・昭和期の在野の文化史家。本名民司。奥州二本松藩領郡山村(福島県郡山市)生まれ。郡山小学校を卒業後,同校教員などを務めたのち上京,明治22(1889)年雑誌『小国民』(のち『少国民』)の編集者となる。当時数多くあった少年雑誌のうちで,同誌が「雑誌界之大王」を標榜するほどの人気雑誌となったのは,近代日本のエリートコースを進まなかった研堂が,かつての自分のような境遇にある独学少年たちの希望にかなった雑誌作りをしたからであろう。そういうセンスは同34年から同37年にかけて刊行された単行本シリーズ『理科十二ケ月』や『少年工芸文庫』にも通底している。その著『明治事物起原』(1908刊,44年改訂増補版)は,明治文化を知る百科事典といえる。吉野作造らの明治文化研究会に属し,明治文化全集の編集にも当たった。<参考文献>山下恒夫『石井研堂』 (坪内祐三) →コトバンク

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Posted by: ryubun02
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 2000年4月大修館書店『カラーワイド新国語要覧』「芥川龍之介」/2005年2月東京書籍『新総合図説国語』「芥川龍之介」/1967年年8月 昭和女子大学近代文学研究室『 近代文学研究叢書』「芥川龍之介」(著作年表に鴉)第27巻 昭和女子大学

 1926年11月1日 『世界』創刊号 編集発行・饒平名智太郎 発行・世界社/創作ー佐藤春夫「白服の悲しみ」/藤森成吉「ゴッホの花」/尾崎士郎「ピストル」/片岡鉄兵「身を固める」/小川未明「生物動揺」/芥川龍之介「鴉片」

1965年2月13日 芥川也寸志、沖縄音楽文化協会の招きで来沖/6月、中山良彦に宛てた芥川也寸志の手紙(也寸志 [生]1925.7.12. 東京[没]1989.1.31. 作曲家。小説家芥川龍之介の三男として生まれる。兄は俳優の芥川比呂志)/1952年9月 『大阪新聞』「美女と盗賊 原作・芥川龍之介 小説『偸盗』」小説「偸盗」→青空文庫

 清水正二郎 しみずしょうじろう 後の直木賞作家・胡桃沢耕史が、大量にエロ文学の執筆・翻訳をしていた祭の筆名。大正14年神奈川生まれ。拓大卒。漁色家としても知られ、源氏鶏太の「精力絶倫物語」のモデルにもなった。(はてなキーワード)
胡桃沢耕史 くるみざわ-こうし
1925-1994 昭和後期-平成時代の小説家。
大正14年4月26日生まれ。昭和32年「近代説話」の同人となり,清水正二郎の本名でポルノ小説を量産する。のち筆名にかえて,57年「天山を越えて」で推理作家協会賞,58年モンゴル抑留体験をえがいた「黒パン俘虜記」で直木賞。ユーモアミステリーに「翔(と)んでる警視」シリーズがある。平成6年3月22日死去。68歳。東京出身。拓殖大卒。(コトバンク)


 比嘉 憲司氏はカメラマンだが 『イッパチの夢を賭ける―ブラジル移民秘話』 2005/3 という著書もある。胡桃沢耕史と親しい。久茂地にあった比嘉氏の事務所(沖縄トップラン)にはよく遊びに行った。胡桃沢耕史が直木賞受賞後の1984年、沖縄での歓迎会に参加した。

比嘉憲司氏が登場する胡桃沢耕史の文庫本

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愛染 恭子と胡桃沢耕史
□愛染恭子(あいぞめ きょうこ、1958年(昭和33年)2月9日 - )は、日本のポルノ監督、元ポルノ女優、元AV女優。千葉県野田市出身、東京都立忍岡高等学校卒業。血液型はB型。旧芸名、青山 涼子(あおやま りょうこ)。→ウィキペデイア
□2013年9月26日『琉球新報』世良利和「発掘 沖縄映画史21-ピンク映画の中の沖縄」で『愛染恭子in沖縄 本番快感ツアー』(1991)が紹介されている。



永井荷風

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