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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

那覇市上泉町にありて辻町遊女の拝所となれり



波上神宮以前の御拝所に祀りたる


田村浩 たむら-ひろし
1886-1945 大正-昭和時代前期の官吏,沖縄研究者。
明治19年5月5日生まれ。沖縄県の県視学,国頭(くにがみ)郡長,県産業課長をつとめ,その間に沖縄の地割制度や村落を調査・研究。のち東北各県の経済部長などを歴任した。昭和20年7月4日死去。60歳。群馬県出身。日大卒。著作に「沖縄経済事情」「琉球共産村落之研究」など。→コトバンク


  

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02




1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
日本画家。1898年大阪生。本名は秀夫。京都絵専卒。北野恒富・西山翠嶂・小松均に師事する。美人画・仏画を能くする。帝展・文展・院展に入選する。1933年の住所ー京都上京区鹿ケ谷法然院町61。1981年(昭和56年)歿、83才。 (→コトバンク参照)

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1926年ー初来沖
1928年ー『川柳 大大阪』表紙絵
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1935年ー2回目の来沖
1960年ー3回目の来沖
1961年5月17日ー『京都日出新聞』「京にくる琉球の古典舞踊ー樋口画伯が恩返し。知名士らで”みる会”」
1961年5月31日ー『琉球新報』「京都の画家・樋口富麻呂さんが、沖縄を訪れた際モデルになった上津真紀子さん(24)を京都に招待。」


Category: 01-人物名鑑
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左から9番目に宮城源四郎(大宜味村字塩屋)の名がある。宮城保氏の父である。



沖縄コレクター友の会ー前列右から二人目ー宮城保氏



大阪は1923年に関東大震災を機に沖縄青年たちの赤琉会が結成された。それを母体にして24年に関西沖縄県人会(渡口精鴻会長)が結成された。28年には『(関西)沖縄県人住所案内』が発行された。1935年8月には大阪市西成区鶴見橋通り6ノ4の関西沖縄興信社から『関西沖縄興信名鑑」』が発刊された。同社の顧問、編集同人に豊川忠進、眞栄田勝朗、下地玄信、山城興善、翁長良孝、古波蔵太郎、比嘉繁雄、古波蔵加壽が居る。

本名鑑の序文「関西地方は大阪市を中心として我国産業都市の中心地であると共に又最大の経済都市である。就中大阪市は人口三百有余人を擁し近代的文化施設は施され世界第三位の大都市である。殊に関西地方を理想郷に求めて来阪する県民は其数実に5万人と註されて居る。学者、弁護士、医師、実業家、学生、労働者、紡績女工等ありて各方面に亘りて各々其の職業生線(ママ)に健闘しつつあるは刮目に値する。近時我が県民が各方面に著々として地位を確保し成功しつつあるは吾人の意を強うして祝福せざるを得ない。然るにいまだ県民の消息近況を知るに完全なる機関なきは甚だ遺憾とする所である。茲に於いて吾人は『関西沖縄興信名鑑』を上梓し県民の頒布状態並びに活動状態及び職業、居所を詳細に記述して県民諸氏の座右に供せんとす。幸いに本名鑑が県民多数の連絡機関と徒然の好伴侶として聊かなりとも裨益する所あらば幸甚である。」とする。

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Category: 04-書の森
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中村不折「猗器の誡(ききのいましめ)」 昭和16年(1941)
水を満たすと覆る猗器(画面左)を人間の高慢な心にたとえた、中国春秋時代の故事を題材とした作品。画面中央の人物は孔子である。[
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1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会ー左端が比嘉崋山、右へ一人おいて兼城昌興




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辻遊廓
戦前の沖縄観光において辻遊廓は重要な役割を担っていました。昼間、県内各地の観光名所を巡ったあと、夜は辻にて料理や舞踊を楽しみました。名所旧跡以外の観光スポットが少ない当時、辻が料理・音楽・舞踊といった沖縄文化の提供地となっていました。また、観光パンフレットやお土産用の絵ハガキに辻の女性の起用や、「那覇飛行場開き」といったイベントで辻の「美妓」によって、出店の飲食物が来場者に振舞われることもありました。当時の辻の女性は現在でいう観光キャンペーンガールの役割を果たしていました。→2013-8『戦前の沖縄観光~ディスカバー・オキナワ~』



1938年9月15日『大阪球陽新報』
□行雲流水ー辻遊廓問題は一応ケリが着いたかと思ったが余燼はまだブスブス燻って却々消えそうにもない。その顕著な一例は沖縄基督教聯盟の真剣な粛正運動である。同聯盟の熱意の籠った純理論には如何なる有力者も眞ッ向から反対を唱えることは出来まいだろうが其処が多年の因習と利害関係の錯綜した辻遊廓の事だからそう簡単に解決はつくまい。

家主や廓内の商売人からすれば全くの死活問題に違いないから凡ゆる手段を講じて之が阻止運動に出づべきは逆賭するに難くはない。然し改善論者側ではそんな個人的の利害問題などテンで眼中に置かず県の体面問題及び明日の沖縄を担ふべき青年の死生問題として重大視しているから決して馬鹿には出来ない。

県外識者中には沖縄から大人物が出ないのは辻と泡盛の為だと嘆いている人もあり「人生をテーゲードヤル」と茶化している不真面目の壮年老人連中は何うでもいいが未来ある青年だけは救わねばならぬと叫んでいる。大阪湯浅商店主の山川氏などは那覇市が辻遊廓から上がる公課を唯一の財源として之を擁護するのは淫売した不浄の金を重要予算として奨励しているようなもので市の不面目是より甚だしきはなく恥を天下に曝すものだと慨嘆している。

辻を市経済の有力機関だとの考え方が抑々の間違いで寧ろ家庭経済の破壊者であり産業発展の敵といっても過言ではない。那覇、首里の名家で辻のために産を破ったもの幾何なるを知らず農村民にして粒々辛苦折角儲けた虎の子を遊女に奪われて帰る旅費もなくなったという実例はザラにある。中には農村青年の娯楽機関として辻必要論を叫ぶ者もあるが以ての外の暴論で慰安の方法は演劇、映画等其他情操方面に幾らでもある。沖縄の都鄙を通じて演劇が発達しないのも辻許りに関心を持っている為で、この意味から云っても辻は精神文化の阻害者であり県民を亡国の民たらしむる囮である



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○一向宗の法難と廓
王朝時代の沖縄では御國元(薩摩)にならって一向宗の信仰を厳禁されていたが泉崎の名家仲尾次親雲上政隆や、備瀬筑登之などに依って密かに布教されその信者も相当の数を得ていたが遂に発覚されて仲尾次翁を始めその信者が処罰されたことがある。この仲尾次翁は初め辻の女郎屋に御本尊を安置して熱心に信仰し、また布教していたが、次第に信者も多くなり遊廓では都合が悪く自宅にこれを移したが、遂に発覚されて八重山に流刑されたのであるこの仲尾次翁の「法難日記」の一節に   荒神之前の牛あんま、真中のさまのかめあんま、雲登留の牛あんぐわ、も座窂より同日出窂云々とあるから処罰された信者の内には遊女だちもおたようである。

また、仲尾次翁の法難当時、大島あたりに行っていたので難をのがれたが明治10年10月 田原法水師の法難事件に殉した、備瀬筑登之の白状した所によると弘化元年渡地傾城荒神の前ウシ方で始めて一向宗を信仰したが、文久元年12月本山から御本尊を請受けて自宅で内秘に信仰していたが、元治元年に露顕を恐れて一旦本尊を本山に還したことにして、辻の染屋のカマ方に預けそこで法話をしたり経典を講じたりしていた。

明治9年5月に眞教寺の先代、田原法水師が商人田原里治と偽って大有丸で那覇に着き、長嶺筑登之の宅に宿して密かに辻遊郭で布教をし10月ごろまでに遊廓で78十人の信者を得た。
備瀬筑登之はその年の6月ごろ、辻の亀の油香々小で始めて法水師と会って、ともに布教につとめていたが遂に彼の法難に逢ったのである。このように禁制当時の一向宗の信仰や布教が遊廓を中心としてなされたことは、当時の遊廓がその取締もゆるくまた彼女だちが秘密を洩らすことなきを信頼してこの場所を選定されたのであろう。

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目次
編纂者の言葉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・柳田國男
○比嘉春潮・島袋源七の二君は、最初からの援助者であった。と云はうよりも私は寧ろこの二人の沖縄衆によって、動かされたやうな気持ちである。各篇の配列は大体に筆者の年齢順によることにして見た。但し終りの両君だけは、それ程に年が若くはないのである。

沖の泡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・幣原坦
ウルマは沖縄の古称なりや・・・・・・・・・・・・・・・・伊波普猷
沖縄の土俗・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・稲垣國三郎
地割制・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東恩納寛惇
岩崎卓爾翁と正木任君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大島廣
女の香爐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・折口信夫
性的結合の自由とミソギ・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥野彦六郎
セヂ(霊力)の信仰について・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲原善忠
耳学問・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・島袋盛敏
万葉と神座 附・沖縄神道の日本古代神道史性・・・奥里将建
八重山を憶ふ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮良當壮
琉球の地方算法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・須藤利一
琉球の同族団構成(門中研究)・・・・・・・・・・・・渡邊萬壽太郎
南島の入墨(針突)について・・・・・・・・・・・・・・・・・・小原一夫
阿兒奈波の人々・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・島袋源七
尾類考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・柳田國男
○見やうによっては婚姻制の進歩であるが、その為に女の地位の又少し悪くなったまでは否むことが出来ない。是に対して他の一方の自由な女、幾度もツレアヒをかへて活きて行く者は、近畿地方ではジダラクといひ、隠岐の島などではタマダレ者又はドウラク者とも言って居たが、それもぢっとはして居ないで、新たに基礎を作り又組織を設けようとしたのである。我々の如く旧い一方の世界に住む者には、其當否を批判する力も無いが、是が幾つかの面白くないことの原因になって居ることだけは確かなやうである。だから改めて原因に遡って、もう一度詳しく知る必要があるわけで、斯んな疑問にすら答へられぬやうだったら、實は文化史などは尊敬するにも足らぬのである。(22,1,7)

□柳田國男『南島旅行見聞記』○1921念1月 地方小説の舞台 那覇には日刊四つあり。文学好きの青年多く之に参与せり。/渡地と思案橋 渡地中島の二遊郭は十数年前に廃せられ、今は辻一箇所となる。中島は停車場辺、渡地は旧宅存す。思案橋のありし地は久しき以前埋立てられ、今通堂より西本町に入る大通なり。県庁はもとこの此近くに在りき。在番屋敷。


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○エス、エス「萬葉歌と琉歌」(上)
昔の大和人の歌と、琉球人の歌とは其の思想や感情や表現法等に於いて著しく似通うた処がある。古今集以後の和歌が琉歌に影響を及ぼした事は想像もつくが萬葉集に至っては大和人でさえ訓話解釈に苦しんだもので、波路はるかの琉球人には到底手に入れる事さへも至難の事であったらろうと思われる。それが随所に似た歌を見出すことは誠に面白い事である。

萬葉ー目には見て手には取られぬ月の中に桂の如き妹を如何にせむ
琉歌ー玉こがね無蔵や水の上のお月をがみつめなげな自由もならぬ

萬葉ー夕されば物思ひまさる見し人の言とふ姿おもかげにして
琉歌ー夕間暮とつれて立ちゆる面影に浅間しや我肝とれていきゆさ



⑪/1928年7月 南島研究会『南島研究』第3輯
○エスエス「萬葉歌と琉歌」(下)
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1932年2月 太田朝敷『沖縄県政五十年』「普通語奨励にも意義はあるが、この奨励が公式的に方言禁止の傾向を帯びることが往々あるのは考えものだ。余り普通語を強いるやうになると、私は県人の性格に不純の変化を生ずる恐れがあると思ふ。母の乳房をいじりながら頭に沁みこんだ方言には、いふにいはれぬ微妙の力がある・・・・・普通語の奨励より今日最も必要とするのは『趣味の一致』である。」

1934年7月 『養秀ー創立五十周年記念』第35号 仲宗根政善「思い出ー母の懐から習ひ覚えた方言は忘れようしても忘れられるものでもなく更に覚えようともよし只其れ以上に標準語を習得すること是れが普通語奨励ではなかろうか。」

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仲宗根政善の本
仲宗根政善 略年譜(沖縄言語研究センター)

1942年(昭和17年)
女子師範付属国民学校主事に任命される。
1943年(昭和18年)
新制師範沖縄師範学校女子部教授兼予科主事に任命される。
1945年(昭和20年)
沖縄,戦場と化す。
3月24日晩,貴重資料の中から方言ノート2冊をリュックサックにおしこみ,城岳の家を出,そのまま,女生徒を引率して,南風原陸軍病院に向かう。第1外科に配属。
5月25日,米軍,南風原陸軍病院近くまで侵攻,南部へ移動しなければならなくなり,方言ノートを壕の奥の抗木におし込み,壕脱出。島尻摩文仁村波平第1外科壕に入る。
6月18日晩,軍は解散命令を発して,学徒動員を解く。第1外科勤務の生徒は伊原の壕で解散。
6月19日未明伊原道路上で負傷。砲弾の破片はまだ首筋に残る。
6月23日,喜屋武海岸で米軍に包囲され,生徒12名と一緒に捕虜となる。
8月15日,ポツダム宣言受諾。終戦。東恩納にあった教科書編集所で,戦後の小中高校の教科書編集に従事。
1946年(昭和21年)
沖縄文教部(東恩納在,部長・山城篤男)編集課長に任じられる。
金城和信夫妻が中心となり,摩文仁に集まっていた真和志村民によって,「ひめゆりの塔」が建立された。7日に除幕式と第1回の慰霊祭を挙行。戦死した生徒たちを弔った「いはまくらかたくもあらむやすらかにねむれとぞいのるまなびのともは」の歌をささげる(4月)。後に真和志村民によってその歌碑が建てられた。
沖縄師範健児之塔(建立,昭和21年3月)に,「いはまくら」と同日詠んだ「みんなみのいはをのはてまでまもりきてちりしたつのこくもまきのぼる」の歌が後に刻まれる。

写真-[]いわまくらの碑(山田實氏撮影)
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(角川文庫)「真新しい塔に祭られた二百余名の御霊の前にぬかずいて、仲宗根はとぶらいの歌をささげた。 いはまくらかたくもあらむやすらかにねむれとぞいのるまなびのともは  この歌を真和志村民がきざんで歌碑を建てた。」「まえがきー原子爆弾で人類は破滅へとすすみつつある。核戦力増強による核抑止力では戦争はなくならない。地上から戦争をなくすことはとうてい不可能である。生命は尊い。こうした厳粛な事実をもっと深く考えるのでなければ永遠の平和は望めない。」

□2012年6月 仲程昌徳『「ひめゆり」たちの声ー『手記』と「日記」を読み解く』出版舎Muɡen(上間常道氏寄贈)
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Category: 01-人物名鑑
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名度山愛順(山田實撮影)
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01/24: 村社講平

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むらこそこうへい【村社講平】 1905(明治38)‐
日本陸上競技長距離界の一時代をつくったランナー。酒造業を営む一家の五男として,宮崎県赤江町に生まれる。日露講和条約締結に因んで講平と命名されたという。宮崎中学時代に,同校卒業の熊谷一弥選手のアントワープ・オリンピック(1920)におけるテニス競技銀メダル獲得の報道に接し,長距離競走への興味を高めた。兵役を終えて県立図書館に勤め,織田幹雄の金メダル獲得に触発されながら一層練習に打ち込む。27歳にして中央大学進学を決意し,苦学と独創的な練習によって,第21回全日本選手権大会で5000m,1万m両種目に優勝。

01/24: 宮平初子

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宮平初子






宮平初子 みやひら-はつこ
1922- 昭和-平成時代の染織家。
大正11年11月6日生まれ。沖縄県立女子工芸卒業後,上京して日本民芸館や柳悦孝(よしたか)の工房で染織技法をまなぶ。昭和16年郷里の沖縄県にかえり,母校でおしえるかたわら首里織物の技法を研究。戦後,首里織物の技術保存と技術者の組織化につとめ,45年宮平染織工房を設立。平成10年人間国宝。→コトバンク
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柳田国男 やなぎた-くにお
1875-1962 明治-昭和時代の民俗学者。
明治8年7月31日生まれ。井上通泰(みちやす)の弟。松岡静雄,松岡映丘(えいきゅう)の兄。農商務省にはいり,法制局参事官をへて貴族院書記官長を最後に官を辞し,朝日新聞社客員論説委員,国際連盟委員として活躍。かたわら雑誌「郷土研究」の刊行,民俗学研究所の開設などをすすめ,常民の生活史をテーマに柳田学とよばれる日本民俗学を創始。昭和24年学士院会員,同年日本民俗学会初代会長。26年文化勲章。昭和37年8月8日死去。87歳。兵庫県出身。東京帝大卒。旧姓は松岡。著作に「遠野(とおの)物語」「海上の道」など。
【格言など】我々が空想で描いて見る世界よりも,隠れた現実の方が遥かに物深い(「山の人生」)→コトバンク


1962年10月 琉球大学民俗研究クラブ『民俗=柳田国男先生追悼号=』第5号


1975年8月10日 大阪市立博物館「生誕百年記念 柳田国男」展

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写真ー窪徳忠御夫妻を囲んで、石垣繁氏、石垣博孝氏


2014年1月1月『沖縄タイムス』「うちなぁタイムス」



左ー石垣繁氏、新城栄徳

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1978年11月 『沖縄紅型 城間栄喜作品集』京都書院□渡名喜明-終戦直後首里市に文化部が設置され、部長の豊平良顕氏を先頭に活発な文化運動が行われた。首里城をはじめとする市内の旧跡からは市民の手で文化財の残欠の収集活動が盛んに行われ、昭和21年3月には首里市郷土博物館が設立された。城間栄喜氏は仕事のことで博物館に出入りし、館長を兼ねた豊平氏や2代館長の原田貞吉氏の激励を受けた。実業家の稲嶺一郎氏や名渡山愛順氏の激励があったのもこの時期である。昭和25年にはじめて国展に首里風景の紅型を出品した。昭和27年まで出品を続け、毎回入選した。戦後の混乱が続くなかで、一介の職人が日本本土の展覧会に作品を出品し、入選したというニュースは時の文化人を驚かせたものだと城間氏は笑って語る。

城間氏の紅型は次第に人々の注目をひくようになった。昭和27年から画家の末吉安久氏をはじめとして同じく画家の大城貞成、屋宜元六、森田永吉氏等が紅型を習うためにつぎつぎ城間氏のもとに通い始めた。4氏ともに沖縄美術家連盟の会員として、また末吉、大城、屋宜の3氏は、豊平良い顕氏等の主唱で昭和24年から始まった沖縄タイムス社主催の「沖展」の当初からの主要メンバーとして、時の沖縄画壇の指導的立場にあった人々である。名渡山千鶴子、渡嘉敷貞子、藤村玲子さん等女性グループが城間氏の工房に通うようになったのもこの年である。紅型の家系とは無縁な画家や女性が本格的に紅型を学ぶということは、戦前では考えられないことであり、これらの人々が紅型復興にはたした役割を思うとき、この昭和27年という年は戦後の紅型の歴史のなかで画期的な意義を持つ年である。この年の10月に城間氏は高江洲鶴子さんと再婚、鶴子さんは家業を手伝っていた長女道子さんとともに城間氏を助けることになった。

翌年の昭和28年5月に、城間氏を中心に「琉球紅型技術保存会」がつくられた。メンバーは画家の名渡山愛順、末吉安久、大城皓也、大嶺政寛、大城貞成、屋宜元六、主婦の名渡山鶴子、渡嘉敷貞子の各氏である。やるからには昔通りのすばらしい紅型をつくろう、というのが会員に共通する思いであった。いつまで続くともわからない米軍支配のもとで、そして日本復帰など思いもよらない状況下で、画家や新聞人をはじめとする住民の伝統文化再建にかける意気込みはすさまじかった。終戦直後から芸能活動は盛んであったが、柳宗悦の沖縄文化論等を支えにして、伝統工芸復興の気運もいよいよ高まってきた。紅型復興はその先端を行く運動となり、「紅型技術保存会」は産業としての道を模索すべく「琉球紅型技術振興会」に改称、琉球政府から15万円の補助金を受けた。この補助金は材料の購入費や工房の建築費用となったほか、東京在住の鎌倉芳太郎氏所蔵の紅型型紙を複写する費用に当てられた。大嶺政寛氏が上京して染色作家の岡村吉右衛門氏とともに鎌倉氏を訪ねたところ、、同氏は所蔵する型紙のなかからすぐれた型紙3百枚を快く選ばせてくれたという。複写された型紙が紅型復興に大いに役立ったことはいうまでもない。
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01/21: 城間喜宏

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2012年10月10日~14日 美術研究会「白馬会」絵画展
出品者・上原はま子/与那嶺芳恵/高野生優/佐久間フサ子/島袋孝勇/鶴見伸/高原武子/具志堅古秀/城間喜宏/宮里友三
□具志堅古秀「チムグクルー沖縄の祖先崇拝は、人との和合にある。チムグクルは、まさに和を表現された言葉である。(略)今、沖縄では、オスプレイや基地問題もあり、チムグクルで世界に発信する時ではないか。」


写真左が城間喜宏氏、沖縄文化の杜の金城美奈子さん


2015年7月19日 写真左から宮城保武氏、城間喜宏氏、宮里昌信氏

□城間喜宏略歴
1935年  沖縄県那覇市生まれ
1958年  第1回個展
1960年  第12回沖展『榕樹』初入選
1961年  第46回二科展『殻』初入選
1962年  大浜用光、大嶺實清らと「グループ耕」結成
1965年  沖展会員
1967年  第10回新象展『饒舌1』『饒舌2』初入選
1968年  「亜熱帯派」結成。新象作家協会会員
1970年  「沖縄新象作家協会」結成
1982年  ジュネーブ第21回個展(スイス・ギャルリーチェキ)
1983年  サロン・ドートンヌ会員
1983年  第17回沖縄タイムス芸術選賞大賞
1986年  沖縄国際美術家協会結成
1987年  メキシコ美術賞展『曼荼羅宇宙幻想』優秀賞
1996年  沖縄戦後美術の流れシリーズ1『亜熱帯の島から』『滴』出品
1997年  個展(那覇市民ギャラリー)画業40年記念
2004年  県文化功労賞
                       (□→沖縄県立博物館・美術館)

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01/21: 大城皓也

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1935年4月「第一回沖縄洋画協会展」①大嶺政寛 ②大嶺政敏 ③大城皓也 ④大城皓也夫人 ⑤末吉安久 ⑥具志堅以徳 ⑦桃原思石 ⑧山田有昂 ⑨西銘生一 ⑩國吉眞喜 ⑪宮平清一⑫許田重勲 ⑬渡嘉敷唯盛 ⑭安仁屋政栄


大城皓也(山田實さん撮影)
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昭和50年7月 『大城皓也の世界』同編集委員会
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Category: 04-書の森
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11月15日『琉球新報』「八重山芸能団を囲んでー東京料亭なはの女将が上江洲文子さんが一行をねぎらうため招待」
11月18日『沖縄タイムス』「東京でうけた八重山芸能ー2・3日は日本青年館、6日は早稲田大学大隈講堂」
11月27日『琉球新報』「絶賛浴びた八重山芸能ー本社で東京公演を語る」
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題字ー兼次市長書  表紙ー徳村政雄氏宅 左から木麻黄、手前はバナナ、中央が椰子 右が黒木、裏はガジュマル


那覇市役所屋上の「やまびこの鐘」は兵庫県民の友愛の贈物/4月16日午後1時 那覇港に立寄った南極観測船「宗谷」

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泊港


上之屋外人住宅

東京銀座通り会から贈られた国際通りの柳





首里「末吉公園」ー熱帯植物の群生する首里末吉公園社壇は、那覇市を一眺におさめる景勝の地として、公園指定が急がれており、また世界平和を祈願して、近く建立される山田真山画伯の「平和慰霊象」が建てられると、いよいよ那覇市の近郊をかざることになります。



じゅり馬行列の獅子舞




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若狭市営住宅

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メーデー



那覇市商工祭でにぎわう広告カーニバル



安里上空から見た国際中央大通り



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写真ー高安重正

大峰林一作成「高安重正氏関連文献資料」(部分)


特高がでっち上げた「日本共産主義者団組織一覧表」(昭和14年10月20作成)高江洲重正と記している。


1967年1月1日『沖縄・小笠原事情』高安重正「『沖縄事情』創刊のころー1959年はじめ、それまで大阪で発行されていた『基地沖縄』を東京に移して発行し宣伝していたが、このような形ではまずいということで、沖縄問題懇談会の機関紙として『沖縄事情』を発行することが決定され、1959年3月に第1号が発行」 


1970年6月  沖縄返還同盟機関紙『沖縄』写真ー左から高安重正常任理事、又一郎氏、親川仁助氏


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Category: 01-人物名鑑
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1955年8月  警視庁正門、左から宮本顕治、紺野与次郎、志田重男、志賀義雄、2列目中央に松本三益

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1956年 四原則貫徹・県民代表として本土渡航の瀬長亀次郎沖縄人民党書記長を羽田空港で出迎える松本三益(瀬長の右)、志多伯克進(瀬長の左)

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1967年11月 新宿・酒礼門で「瀬長亀次郎歓迎会」中央に瀬長亀次郎、その左が松本三益、右隣りに比嘉春潮

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1974年7月15日 那覇市民会館「日本共産党創立52周年記念集会」で中央委員会を代表して講演する松本三益

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1987年10月 東京調布市で第28回「赤旗まつり」の沖縄物産店で懇談する、左より古堅美吉、瀬長亀次郎、松本三益

Category: 04-書の森
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2014年1月12日ー沖縄タイムス南部総局にて左が島袋和幸氏、内間健氏(手にしているのは沖縄タイムス南部総局がまとめた『十五の春ー沖縄離島からの高校進学』)


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Category: 04-書の森
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写真左から大城宗精氏、新城栄徳、漢那憲治氏(梅花女子大学教授)
□大城宗精ー1932年1月生まれ。1958年ー琉球政府立法院事務局図書室。1967年ー琉球政府厚生局医学図書室。1972年ー沖縄県立図書館、73年に同館長。86年ー沖縄県立博物館長~1992年定年退職。昭和51年12月 大城宗清『歌集 古里の土』新星図書


昭和51年12月 大城宗清『歌集 古里の土』新星図書

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01/10: 嘉数能愛

Category: 01-人物名鑑
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嘉数能愛

○嘉数 wrote:
能愛の孫にあたる嘉数能彦と申します。このようなサイト
があることを知り嬉しく思います。03/27 16:47:17

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Category: 04-書の森
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2014年1月 俳句同人誌『天荒』47号 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 
電話・FAX098-936-2536




Category: 01-人物名鑑
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1886年11月  在京沖縄学生「勇進社」結成。(1888年3月沖縄学生会と改称)

前列向かって右から宮平良応、大宜見朝英、小橋川朝重、渡慶次柴起。2列目ー和宇慶良忠、仲吉朝助、高宮城朝文、花城長清、新城安定、高嶺朝教、諸見里朝鴻、比嘉。3列目ー富永實益、富島良功、糸満盛三郎、富川盛睦、岡崎、嘉数詠清、花城、山口全述。後列ー真境名安宏、大田朝敷、渡久地政勗、護得久朝惟、桃原良得、高嶺朝申、百名朝申、百名朝計、謝花昇
Category: 04-書の森
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金毘羅宮は1935年2月に沖縄糖商同業組合が建立されたもので今では知る人も少ない。
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1935年3月11日 三重城金比羅宮鎮座奉祝祭並竣工式


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1938年3月『沖縄日報』「沖縄糖商同業組合」(上右から2番目に平敷慶福の砂糖委託商)□平敷慶福の子が平敷慶久


1939年 『日報の沖縄人名録』沖縄日報社
□金比羅会ー会長・平敷慶福/副会長・儀間光裕/副会長・森新太郎

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右から二人目が平敷慶久

同期生ー平敷慶久(琉球中央倉庫社長)、仲村清栄(第一相互銀行頭取)、野崎真雄(南西火災海上保険社長)子息に野崎真明氏も保険業。久髙唯栄(琉球銀行業務部長)、宮島長純(沖縄工業高校校長)

1958年4月


1960年 琉球中央倉庫株式会社ー前列右から3人目が平敷慶久




1966年 沖縄タイムス社『現代沖縄人物3千人』平敷慶福の子・平敷慶久

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Category: 02-関西の沖縄
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1973年5月14日ー大阪『朝日新聞』「守れ!沖縄の心と自然ー埋もれた文化掘起す」





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去年の暮、部屋の掃除で古い戸籍謄本を見つけた。懐かしい。


本日正午、新都心上空を思いやり予算でオスプレイ1機がヨタヨタ飛んでいた。

●沖縄の自然破壊に狂奔する日本政府。オスプレイ1危100億円とともに押し付けるアメリカのオバマ大統領(黒人奴隷の末裔ー自民党の丸山和也参院議員)。□→瀬長瞳『生きてさえいれば』沖縄タイムス社2010年7月に□はじめにー1945年8月、日本はアメリカの原子爆弾で、一瞬にしてたくさんの人が殺されました。地震や津波よりも多い大量殺人でした。アメリカでは、今も、国内外で人殺しが行われています。アメリカ人は、百人中九十人が武器(ピストル等)を常時携帯しているといわれています。寝るときも寝室に武器を隠し持っているといいます。人を殺す人は『何故殺したのか』と、いつも何らかの理由を述べます。しかし殺された人は理由を述べることはありません。いや、理由など必要ないのです。何故なら死んだ人は、もう二度と生き返ることが出来ないからです。大量に人を殺せる人は、法律で保障された国家元首です。国の指導者が堂々と胸を張って、あたりまえのように、勝手に自分の都合のいい理由を作って大量殺人(戦争)を行ないます。それは歴史が証明しています。日本では昭和天皇(15年間に何千万人ものアジア人、日本人を死に追いやりました)、アメリカでは、歴代大統領(広島、長崎の原爆投下、朝鮮戦争、ベトナム、イラク、アフガンなど)が思い浮かびます。


一昨日の新報に共産党の赤嶺政賢沖縄県委員長が「仲井真県政が『辺野古断念を』と明言しないことに沖縄県民には不信感がある。高江ヘリパット建設、那覇軍港の移設は認めており、基地のたらい回しにつながる」とカジノチジの優柔不断さを述べ、普天間飛行場は「直ちに閉鎖し撤去すべきだ」と明快だ。しかし辺野古移設で目を奪われている最中ヤマトの岩国、佐世保、横須賀といった在日米軍基地にも注目することは重要だ。これはヤマトの新聞の力量が問われる。安倍首相の靖国参拝で中国、韓国は何やら怒っているが、それを容認しているアメリカに対して抗議すべきだ。アメリカ、黒人大統領の指導がなってないからで、アメリカは属国日本への指導力を発揮してもらいたいものだ。ま、余り文句をいうと「思いやり予算」を減らされるのも怖い。次に「美しい意日本」の安倍首相がアメリカに要求するのは国連の常任理事国入りだ。これは敗戦国の日本にとって悲願だが不可能に近い。

2015年4月記●1月30日の地元紙「防衛省がヘリ発注せず東京高裁が富士重工業に国が350億賠償命令」。関連して、桜林美佐『誰も語らなかった防衛産業』(並木書房2010年8月)に「コンビニ市場より小さい日本の防衛産業」と題しストックホルム国際平和研究所による2005年~2009年の世界の通常兵器輸出上位国は、1位がアメリカ、2位ロシア、3位ドイツ、4位フランス、5位イギリス、オランダ6位イタリア、スペイン9位が中国、スウェーデンで、アメリカの輸出は70億ドル以上で、世界市場の30%を占めている。と記されている。

01/07: 2

Category: 99-未分類
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01/07: 1

Category: 99-未分類
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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
伊姓安冨祖家譜ー五世良顕奥川親雲上忠祐第三子・忠則ー長男・忠頼ー長男・忠邦ー長男・忠良ー長男・正方=正懿ー長男・正元ー三男・正憲ー忠恵ー豊川忠進→□1992年5月ー屋部憲次郎『伊姓安冨祖家譜訳注』(那覇市歴史博物館所蔵)


1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

1939年1月15日ー『大阪球陽新報』豊川忠進「普通語の励行を」

1839年5月1日ー『大阪球陽新報』「新郎新婦ー沖縄県東風平小学校長・安冨祖忠亮氏長男、現広島県向島小学校訓導・安冨祖忠清(28)氏は今回国頭郡名護町生まれ第三高女学校出身の宮城靖子(21)嬢と婚約整い4月30日北区天満宮で華燭の典を挙げたが新夫婦は同日の夜行列車で相携えて廣島に出発した。なお安冨祖氏は豊川弁護士の甥である」

1945年1月14日ー『沖縄新報』死亡広告「靖子儀 永々病気中のところ昨日死去ー夫・安冨祖忠清 男・忠雄 父・忠亮」


1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』

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1965年ごろ/左から、名嘉正成(大都設備工業代表)、豊川忠進(1928年、関西沖縄県人会長。39年、沖縄生活更新協会大阪後援会会長。45年、関西沖縄人連盟会長)、奥間錫(大阪沖縄県人会連合会5代目会長)、翁長良孝(1946年、沖縄人連盟西淀川支部会長)。撮影・西平守晴

1968年1月『オキナワグラフ』「1967年10月ー豊川忠進、大阪沖縄県人有志から胸像を贈られる」

1989年8月23日ー『琉球新報』西平守晴「士(さむれー)の誇りー豊川忠進氏は明治21年10月3日、沖縄県首里市赤平の名門安冨祖家の二男として生まれたが、廃藩置県後の凋落する厳しい士族の中で育ち、幼少期は豊見城の美しい自然の中で成長した。生来の向学と進取の気質は豊川少年をして沖縄で安閑と過ごすことを許さず、1906年弱冠16歳で単身ハワイへ渡航。苦学力行の末、語学力を完全に修得し、1916年早稲田大学に進み、1922年司法試験の難関を突破し国際的司法人として活躍するのだが、この豊川少年をこうして育て上げた陰に母堂の薫育が大きな影響を与えたもので、常に『さむれーぬ、かどう、とうすな』と口喧しくしつけられたとのことだった。そして16歳の吾が子を未知の国ハワイへ送り出す時、琉歌を書いた紙片『いかに月むらす、あばらやに居てん、肝や十尋家ぬ金ぬ座敷』を手渡されたのが、豊川忠進氏の生涯の座右の銘となり、古風なまでに『士の誇り』を守り通した最後の人だった。」

Category: 02-関西の沖縄
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写真左から萌子さん,金城美奈子さん

2014年1月3日ー「トコトコ歩く馬のおもちゃづくり」写真左から萌子さん、上運天研成氏、冝保はるなさん


2014年1月2日ー「馬ぐゎーをつくろう」
Category: 02-関西の沖縄
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「富士山」撮影・山田勉氏□(社)日本写真家協会会員〒900-0033 沖縄県那覇市久米1-1-14 電話098-868-3841

1937年10月の『月刊琉球』の葉書回答に山田有登の返事がある。「子供たちの名をお尋ねですが、夫々生まれた土地とも関係します。長女は石川県金沢市で宿し三州田原町の生まれ、女は貞操が第一と貞子、長男は三河武士家内の里が勝の通り名ゆえ有勝。次女は兵庫県鳴尾生まれ信子、次男も鳴尾(現・西宮市鳴尾町)で10月生まれ宅の前が一面稲田が實っていたので實。



1月3日ー山田實さん、自宅にて


1月12日ー山田實さん、自宅にて左ー島袋和幸氏

2013年12月 鳥原学『日本写真史』(上)中央公論新社□沖縄人の沖縄ー戦後の沖縄では1950年代からアマチュア団体の結成など、活発な活動がはじまっていた。その中心人物のひとりが山田實(1918年~)である。・・・

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Category: 04-書の森
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朝9時、年賀状を見て、昨日のニシムイ水を屋部公子さん(太田朝敷孫)、山田實さんに持って行く。
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昭和10年10月6日、東京市品川区大井町の伊禮肇宅にてー太田朝敷を中心に前列左から千絵子(音子)とその娘の菊子、公子、房子。後列左から2番目 長男正雄、雪子、武子
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波上宮にある明治天皇像


波上宮を通ってソープランド密集地の辻を通った。橋下大阪市長の顔が浮かんだ。




三重城の金毘羅宮



大田昌秀「沖縄戦・ホロコースト写真展示館」


末吉麦門冬が没した所


『琉球新報』創刊の地(タクシーが止まっている辺り)



正面ビル2階が「青い海出版社」が在ったところ


真教寺ーこの寺で末吉麦門冬の追悼会、太田朝敷の琉球新報社葬が執り行われた。


真教寺境内の「石川啄木歌碑」

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伊波普猷 生家跡



真喜志好一さんの事務所

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