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Category: 04-書の森
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2016年1月1日 沖縄県立博物館・美術館 「元旦寄席 動物ものまねー江戸家まねき猫① 落語ー春雨や雷太②」

①えどや まねきねこ芸人
江戸家 まねき猫は、東京都中央区出身の寄席芸人・歌手・俳優。父は三代目江戸家猫八、兄は四代目江戸家猫八。 ウィキペディア

②春雨や雷太(はるさめや らいた)
春雨や 雷太は、東京の落語家。本名は宮尾 卓。千葉県習志野市出身。公益社団法人落語芸術協会に所属。 2006年に四代目春雨や雷蔵に入門。前座となる。2010年二つ目に昇進。出囃子は乗合船であり、2011年にはTVドラマ『デカワンコ』に出演した。 →ウィキペディア

1919年8月15日 『日本及日本人』763号 麦生(末吉安恭)「猫をかぶる」
○仁勢物語①に「いにしへは有もやしけん今はなし鼠のねこをかぶるものとは」とあり、かぶるは被るにあらず齧る意なるが如し。猫をかぶると、今云う言葉もそれよりや変じけん。
①仁勢物語にせものがたり
仮名草子。作者未詳。烏丸光広の作とも伝えられるが疑わしい。2巻。寛永年間 (1624~44) 刊。書名は『伊勢物語』のもじりで,にせ (偽) の意をも含んでいる。「むかし男」を「をかし男」に変えるなど『伊勢物語』の本文をもじり,当代化した戯文。 →コトバンク

1919年8月15日 『日本及日本人』763号 麦生(末吉安恭)「猫の額」
○猫の額のような所という猫の額が、昔は別の意味に用いられしこと、長門本平家物語②に「猫のひたいにある物を鼠のねらうに似たり」とあるにて知らる。不可能の事をなさんとするに譬えられたり。
②平家物語へいけものがたり
鎌倉時代の軍記物語。作者は諸説あるが,『徒然草』に記す信濃前司行長説が有力。成立年未詳。原作は鎌倉時代前期の承久の乱 (1221) 以前の成立で3巻と推定される。南北朝時代頃までに増補改修が行われ,6巻 (延慶本) ,12巻 (八坂本) ,20巻 (長門本) などがあり,『源平盛衰記』 48巻も一異本と認められる。→コトバンク
2015年12月15日 『琉球新報』友寄貞丸「かちゃい ほーちゃいー週刊誌時評」

○(略)目くらましで普天間の4ヘクタール(0.8%)返還を言い出したが、九州場所で横綱白鵬が繰り出した〝猫だまし‶の方がまだまし?まやーさってーならんどー!


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青年・謝花雲石

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雲石・謝花寛剛(1883年4月1日~1975年2月21日)
1911(明治44)年朝鮮に渡り、朝鮮総督府臨時土地調査局に務めるかたわら、海岡・金圭鎮に師事し王義之の書法を学ぶ。22年沖縄県庁に書記として務める。この頃「大本瑞祥会」に入会し「人は神意を実行する機関としてつくられたものであり、神の理想たる天国のすがたを地上に実現することが人生の目的であり使命である」ことを人生観にする。35年昭和神聖会沖縄支部相談役、戦後には大本琉球主会の会長を務めた。「日本に書き方はあっても書道はない」と言いきる。(1997年1月『近代日本社会運動史人物大事典』新城栄徳「謝花寛剛」)


謝花雲石・大本沖縄支部長


1972年 うりずん若夏社『LOGOS


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2009年6月9日『沖縄タイムス』「謝花雲石 戦前の書ー写真家山田實さんの兄保管」




昭和19年4月28日 雲石道人書「営州刺史・高使君・懿候碑」

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2015年12月 「『月刊文化沖縄』解説・総目次・索引」不二出版

目次 カラ―口絵 表紙総覧
『月刊 文化沖縄』原本と復刻版の対照表
Ⅰ 解題 1940年代前半の沖縄の雑誌『月刊 文化沖縄』について・・・・・・・粟国恭子
   解説 1940年代前半の沖縄の雑誌『月刊 文化沖縄』と『沖縄教育』・・近藤健一郎
   解説 映画・演劇から見る『月刊 文化沖縄』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・世良利和
   解説 画人・安太郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新城栄徳
Ⅱ  総目次
   総目次・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・作成・新城栄徳
Ⅲ  索引

不二出版株式会社 東京本社 郵便番号 :113-0023. 住所 :東京都文京区向丘1-2-12
電話番号 :03-3812-4433 .FAX :03-3812-4464
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2015年12月21日ー若狭の大龍神を望んでの帰り、上空を見る

岐路(核の時代)/2015年12月 若狭に「大龍神」降臨


1955年4月12日『琉球新報』「半世紀前の沖縄風景ー明治初期洋画展を飾る 博文公と来島した山本芳翠画伯の絵が初公開」

山本芳翠と琉球コーナーには芳翠「琉球風景」が2点。
 私は、首里城復元に情熱を注いだ又吉眞三氏とは懇意にしてもらっていた。又吉氏は沖縄県建築士会会長、沖縄県文化財保護審議会会長もつとめ琉球の建築文化史にも詳しい。私は宮内庁三の丸尚蔵館の山本芳翠①「琉球中城之東門」の門は又吉氏と検討し「美福門」と断定、沖縄美術全集の年表にその旨を記した。また首里城北殿の階段の問題②も相談に乗ってもらい新聞に発表した。
①山本芳翠

1887年(明治20)11月21日 伊藤博文総理大臣、大山巌陸軍大臣、仁礼海軍大臣ら軍事視察のため軍艦で、画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南③を同行して来沖。山本芳翠、首里城美福門、崇元寺などを描く(参照1989年11月 『沖縄美術全集』6巻 新城栄徳「沖縄美術・工芸年表」)
③森 槐南(もり かいなん、文久3年11月16日(1863年12月26日) - 明治44年(1911年)3月7日)は、明治期日本の漢詩人、官僚。名古屋生まれ。父森春濤も漢詩人で、母の森清子(春濤の後妻)は女流歌人。名は公泰、字は大来(たいらい)。別号を秋波禅侶、菊如澹人。通称は泰二郎(泰次郎/泰治郎)で、詩壇以外では森泰二郎の名で呼ばれた。鷲津毅堂、三島中洲に師事。枢密院属、図書寮編集官、式部官などを歴任。帝国大学では文科大学講師として中国文学を教えた。随鴎詩社を主宰。明治漢文学の中心的存在であった。三条実美、伊藤博文など明治政府の要人とも親しくして、1909年10月、ハルビンでの安重根による暗殺事件の際に秘書官として同行し被弾したが、軽傷だった。約1年半後に49歳の若さで他界。→ウィキペディア


①「琉球中城之東門」/北連蔵画「山本芳翠像」

1887年12月9日『郵便報知新聞』○伊藤、大山両大臣沖縄県滞在中の記事ー沖縄県那覇港よりの通信に拠る伊藤、大山両大臣の一行は浪速艦に乗り込み葛城、海門の二艦之を警衛し去月21日正午12時當港に到着せり伊藤大臣は第一号官舎へ、大山大臣は汽船問屋池畑方へ、仁禮中将、伊東少将は建築組山川宅へ、東園侍従は第百四十七国立銀行支店へ夫々投宿せり此日は何れも船中の疲れなりしや投宿の儘何事もなかりしが翌日22日午前中両大臣の一行は沖縄県庁、警察本署、県立医院、高等小学校、裁判所、監獄署の諸所を巡視し午後は首里へ登り尋常師範学校、中学校を巡視せり尤も・・・



翌23日は早天より那覇を距る八里余にして中城間切なる琉球第一の勤王家護佐丸王の古城を巡視し帰りて首里なる中城尚典氏の館に赴き・・・

芳翠作「琉球東城旧跡之眺望」/写真「中城城内ヨリ遠望の景」(宮内庁書陵部所蔵)

②首里城北殿の階段 大龍柱は正面を向いている。
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2012年7月『沖縄の軌跡』86号 発行人・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)

 冨名腰義珍と親しい小杉未醒が学んだ小山正太郎の「吉野山」「御嶽村遠望」などの作品もあった。大潮會の浦崎永錫会長の肖像画を描いた北連蔵②の「ハンモック」「静物」もある。

1986年12月 『大潮会50周年記念小史』/北連蔵画「浦崎永錫像」
②北蓮蔵 きた-れんぞう1876-1949 明治-昭和時代の洋画家。
明治9年生まれ。同郷の山本芳翠(ほうすい)にまなび,黒田清輝(せいき),久米(くめ)桂一郎の天真道場をへて,東京美術学校(現東京芸大)を卒業。帝国劇場背景部主任となり背景画に洋画を導入,国会議事堂の歴代議長肖像画もかいた。昭和24年12月21日死去。74歳。岐阜県出身。作品に「岩倉具視(ともみ)公病床行幸図」など。 →コトバンク
不同舎と太平洋画会コーナーに満谷国四郎「かりそめの悩み」がある。
満谷は岡山県生。はじめ二世五姓田芳柳に、のち小山正太郎に師事。吉田博らと大平洋画会を創立、海外の博覧会や文展に活躍する。のち大原孫三郎の後援を得てパリへ留学、褐色系を基調とした初期の画風から後期印象派の影響を受けた画風へと一変する。晩年は対象の平面的処理と豊かな色彩により装飾性の強い画風を確立した。帝国美術院会員。昭和11年(1936)歿、63才。 (→コトバンク)

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東松照明の本

東松照明 とうまつ-しょうめい
1930- 昭和後期-平成時代の写真家。
昭和5年1月16日生まれ。昭和29-31年岩波写真文庫のスタッフ。34年奈良原一高らとVIVOを結成。社会派カメラマンとして戦後の日本を記録し,次世代の写真家に影響をあたえた。50年日本写真協会年度賞。51年毎日芸術賞,芸術選奨。平成11年日本芸術大賞。愛知県出身。愛知大卒。本名は照明(てるあき)。写真集に「太陽の鉛筆」「光る風―沖縄」など。(→コトバンク)

私が東松照明作品に出会ったのは1969年3月発行の『血と薔薇』(澁澤龍彦編集)所載「楽屋」であった。同誌には当然ながら澁澤の魔道の先達・稲垣足穂も執筆している。
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右が東松照明氏、新城栄徳/左が東松照明氏、新城栄徳


2012年9月11日「山田實展」で左が東松照明氏、山田實さん〈/b>


2011年9月 『東松照明と沖縄ー太陽へのラブレター』沖縄県立博物館・美術館
7日午後4時、山田實さんのところに行くと新報・タイムスの記者が東松さんの思い出を聞いていた。

2015年12月17日『週刊ほーむぷらざ』「夫の遺志を継ぎ技術も次世代にー写真家・東松照明を支え、後進の育成も 東松泰子さん」
東松照明(2012年12月14日午後0時50分、肺炎のため那覇市の病院で死去)

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末吉發 略歴 1928年ー伊是名村生まれ 沖展写真部会員 俳句会天籟通信同人
 総理来て椅子きしませて帰る夏 総理一行の約1時間の摩文仁滞在にかかる費用は3千万円という。毎年同じようなセリフを読み上げるのに巨額の費用をかけてやってくる。歴代の総理はアメリカへ顔を向けるばかりで沖縄へは基地の負担を強いて来た。慰霊祭の会場には総理の弔辞が虚ろに響く。

 蝉や弔辞は一行あれば足る 六月二十三日、毎年沖縄慰霊の日には総理をはじめ多くの方々が祭壇の前で弔辞を読み上げる。多くの人を戦場へ送り、死ねばやって来て慰霊の辞を滔々と述べる。マッチポンプの感じがしないでもない。決まりきった虚しい言葉の羅列より「辺野古に基地は造りません」とひとこと言えばそれがなによりの慰霊の言葉になるのだが。

2016年1月14日『沖縄タイムス』「俳句と写真で反戦記ー元鉄血勤皇隊 忘れぬ思い 末吉發さん(87)」
2016年1月27日『沖縄タイムス』大城立裕「書評/末吉發 著『俳句と写真集 どこにも仏桑華』」
2016年1月31日『琉球新報』「亡き友悼み戦跡写真集 元鉄血勤皇隊 南城の末吉發さん 俳句も添える」

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2015年12月 『オキナワンブルー 豊里友行写真集』未来社


2014年3月ー左から豊里友行氏、山田實さん、金子隆一氏、仲嶺絵里奈さん

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2015年12月8日~13日 沖縄県立博物館・美術館 県民ギャラリー「城間いさみ写真展ー世界のウチナーンチュの祈り」



写真ー城間いさみ氏



写真左が城間いさみ氏、新城栄徳

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12月17日ー「龍神」工事を見学、はるか上空にはアメリカ戦闘機が「思いやり予算」で爆音を轟かしトンでいた。この日の地元紙にシュワブ前の市民の批判がある、「日本が思いやり予算を出し、新基地を差し出すから米軍はここにとどまっている。国民が困っているのに何をしているのか。わじわじーする。」、山城博治沖縄平和運動センター議長は「日本が光熱水道費や施設建設費を負担し、米兵にとって沖縄はパラダイスになっている。本来は米国が負担すべきで、(アベ政治の)属国の極み。歯ぎしりする思いだ」。

 
2015年12月12日ー龍神(台風、地震対策で首里城のものよりは太目)2体の前でひより

b>東洋では、中国の竜は神獣・霊獣であり、『史記』における劉邦出生伝説をはじめとして、中国では皇帝のシンボルとして扱われた。水中か地中に棲むとされることが多い。その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔すると言われ、また口辺に長髯をたくわえ、喉下には一尺四方の逆鱗があり、顎下に宝珠を持っていると言われる。秋になると淵の中に潜み、春には天に昇るとも言う。
→ウィキペディア
 西洋のドラゴン(龍)「ヨハネの黙示録」第12章3-9
また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。4その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。〔……〕7さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、8勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。9この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。→ウィキペディア



1918年7月10日 南方熊楠宛 ←末吉安恭書簡
○拝啓。波之上をナンミンと訓むこと、曩に御答へ致し候が、今波之上神社の由来を『八社縁起』と申す書によりて一寸申上候。波之上もその八社の中にて「紀伊之国熊野三社大権現也。本宮伊弉冊尊。相殿の左は速玉男神、右は事解男神」とあり。紀州熊野の権現を勧誘したること、他の六社も同じ。貴地(和歌山)ともこの波之上は因縁関係これある儀と存ぜられ候。(以下略)

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2015年12月8日~13日 那覇市民ギャラリ―『沖縄新象展』川平 恵造「夏シリーズⅠ」

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写真右が新城征孝氏、翁長直樹氏


写真右が新城征孝氏、翁長良明氏

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2015年12月『現代公論』<特集・国連演説に見る翁長知事の本質>閣文社




○現代公論 | 閣文社 公式サイト→kakubunsha.com/tag/現代公論/

○税金については高良倉吉にもはっきり言っておきたいのだが、コイツはどう考えても民間では通用しそうもなく、税金がなければトイレットペーパーも買えない糞ナマポのくせに、やたら偉そうである。コイツは、県民の事を知性がないなどとしばしばけなしている。なあ倉吉よ、お前は知性がないから文学部にいるんだよ?知性のある奴が文学部とか行くわけねーだろバーカ→2015年10月:龍柱に反対する市民の会

○八重山日報「冊封儀式廃止呼びかけきょう那覇市でデモ」の記事が人気記事ランキングで2位に!『八重山日報』が私たちイベントの記者会見を記事にして下さいました。→2015年11月09日:龍柱に反対する市民の会


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写真前列左から仲尾次政補、山田實、仲尾次、山田豊、山田有登、その前が山田保、山田昭、山田。後列左が山田實姉の貞子、右が山田實母 1929年10月 山田家の庭で

 12月7日、山田写真機店に遊びに行く。山田勉氏に山田さんの親族を尋ねてみた。山田さんの姉は仲尾次家に嫁いだが,娘に片岡道子①さんが居る。→「片岡マンドリン研究所 » 片岡道子の日記」

①片岡 道子 Michiko Kataoka
マンドリンを比留間きぬ子氏に師事し、児童アンサンブルを経て比留間マンドリンアンサンブルの一員として演奏活動を始める。
1968年「第1回日本マンドリン独奏コンクール」で第1位入賞。1970年第1回リサイタルを東京ほか各地で開催し、独奏活動を本格的に始め、放送、室内楽、オペラなど幅広い活動に取り組む。1978年トリオノーボを結成、数多くのリサイタル、サロンコンサートで活躍し、1998年CD「さくら/SAKURA」をリリース。1987年比留間賢八生誕120周年記念演奏会でコンサートマスターをつとめる。アメリカマンドリン講習会(1996,1997)、神戸国際音楽祭(1998、2005)、ヨーロッパ国際撥弦楽器フェスティヴァル(1998)、ドイツ国際撥弦楽器フェスティヴァル(2000)に招待され参加。香川県・瀬戸内国際ギター・マンドリンフェスティヴァル&ゼミナール(1997、1999、2001、2003、2006)、ドイツ・ヴァイカースハイム国際音楽祭&講習会(2005)の各講師をつとめるとともに片岡マンドリンアンサンブルとして、また独奏、二重奏などで演奏し好評を得る。演奏活動とともに数々の演奏会の企画も手掛け、片岡マンドリン研究所その他で後進の指導にも力をそそいでいる。

山田さんの弟・保氏は最近亡くなられたが、歯医者で兄のバトラー歯科医院につとめた。長女に山田美保子②が居る。
②山田 美保子 (1957-)
"山田 美保子"(やまだ みほこ、1957年5月4日 - )は、東京都世田谷区出身の放送作家・芸能コラムニストである。ホリプロに所属していた。 [来歴] *歯科医の家庭に生まれる。青山学院初等部から青山学院中等部・青山学院高等部を経て青山学院大学文学部日本文学科卒業。TBSラジオの「954情報キャスター」を務めた。 *その後は現在にかけて放送作家として活動する一方、テレビ・ラジオのコメンテーターとして出演している。競輪ファン。 *特に日本テレビのワイドショーに出演している芸能レポーターや梨元勝と親交がある。

 2012年7月ー本日の地元紙を見ると、粟国村長選挙で新城静喜氏が309票で再選されている。対抗馬の與那城弘明氏は275票。34票差で健闘していた。『サンデー毎日』7.22号にヤガン折目を取材した「沖縄県 粟国島 女が守る島の祭」(写真・文 裵昭)が載っている。同誌には写真家・山田實氏の姪・山田美保子も「ワイドショーの恋人」を連載。また佐野眞一「新 忘れられた日本人ー村岡伊平治」も連載されている。

1999年7月ー山田美保子『ヘンだと思ってたけど やっぱりヘンだった あのヒトたち』双葉社
2005年『週刊新潮』1/27号□山田美保子「秘密の花園(135回)」/「『尖閣諸島』のオーナーは政界フィクサー『菅原通済』の元秘書だった』」

1963年1月、筑摩書房『世界ノンフィクション全集38』に「人買い伊平治自伝」が「夜の大統領カポネ」と共に収録されている。この自伝は戦前台湾に居た河合譲が自宅で伊平治に確認していたもので、戦後に金関丈夫の世話で再び入手。そして1954年の『文芸春秋』別冊(8月号)に発表。また1959年10月に平凡社『日本残酷物語』第一巻に寄稿している。1964年には菊田一夫脚色で森繁劇団が東宝劇場で公演した。學藝書林『ドキュメント日本人6 アウトロウ』でも伊藤晴雨らと共に取りあげられていた。

1987年に松永伍一が『経済往来』に「交流史の序曲3南洋の金さん村岡伊平治」を発表。神坂次郎氏も講談社文庫から『おれは伊平次』を出しておられる。そのカバーには「村岡伊平次。故郷の島原を逃げ出し、南方で女衒として名を馳せ、女郎屋に賭博場、からゆき貿易で財を築き、3千有余の妓たちを連れ新天地を拓き、あげくは南洋の美姫を妻とし、珊瑚礁の島の国王となった男。幾多の伝説に彩られたその生涯を雄渾に描く。明治の時代に、こんな痛快に行きぬいた日本人がいた!」とある。
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 この「龍柱」は那覇市と中国福州市が、昭和56年(1981年)の友好都市締結から平成23年(2011年)で30周年を迎え、今後の両市の友好・交流を記念して建設されたものであるので、正式には「那覇・福州友好都市交流シンボル像」と云う味も素っ気もない名称だ。だから私は下記のようなことも踏まえて若狭「龍柱」を若狭「龍神」とした。
 
 私は大分前から龍柱とは縁がある。首里城復元に関わっていた又吉眞三氏から、「新城君、君の提供した資料で寸足らずの龍柱が本来の高さに復元出来そうだ」と喜んで居られ、かつ話された、その資料を『首里城復元期成会会報』第7号で紹介してほしいと。同誌に載せたのが比嘉朝健「琉球の石彫刻龍柱」である。
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□本稿は1927年(昭和2)3月発行の『アトリエ』第4巻第3号の同氏(1899~1945)論文から転載したもので、新城栄徳氏から資料の提供を受けた。
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又吉眞三氏を囲んでー右から3人目が又吉眞三氏、左奥から西村貞雄氏、新城栄徳 

2014/首里城写真
最近、首里城にちなむ映像写真が話題となっている。4月21日の新報、タイムスの「焼失前の首里城カラー映像」や、5月4日の新報、タイムスの東京在住の写真収集家の「明治の沖縄29枚」である。来る5月20日~6月22日、沖縄県立博物館・美術館で「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した美」が始まる。首里城関係写真も多い。

首里城北殿の階段
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今の所、写真で古いと思われるものは伊藤勝一コレクションの「首里城」である。龍柱が本来の高さで正面向きだ。


今回東京で見つかった明治の沖縄写真は、沖縄写真史の基礎資料とも云うべき『青い目が見た「大琉球」』(1987年8月ニライ社)を見ると1893年3月に来沖したバジル・ホール・チェンバレンの「琉球紀行」で使われた写真にあるから、殆どがチェンバレンが関わっていると思われる。

バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850年10月18日 - 1935年2月15日)は、イギリスの日本研究家。東京帝国大学文学部名誉教師。アーネスト・サトウやウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston)とともに、19世紀後半~20世紀初頭の最も有名な日本研究家の一人。彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり、日本についての事典"Things Japanese"や『口語日本語ハンドブック』などといった著作、『古事記』などの英訳、アイヌ[1]や琉球[2]の研究で知られる。→ウィキペディア


1997年11月 川平朝申『終戦後の沖縄文化行政史』月刊沖縄社
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□現在の大龍柱は沖縄神社拝殿の名残を留めて向き合っている。本来は正面向きである。みーぬしんは下方に付いていて、うなーを見下ろすようになっている。真ん中の写真は現在は沖縄県立博物館・美術館にある龍柱で、暑がりの息子が立っている。


2015年12月6日

 8日の産経ニュースは「姿を現した2体の龍柱 那覇で設置工事完了 「翁長市政」で推進 中国向け?事業に批判も」と、右派らしく判で押したように報じていた。
若狭
□1979年6月ー邦光史郎・日竎貞夫『丹後若狭路』(カラーブック467)保育社□邦光史郎「若狭・丹後の旅ー敦賀湾の美しさを手放しで礼讃できないのは、この半島に建設された原子力発電所があるからで、福井県は世界でも例を見ない、原子力発電所のメッカで、ずらりと各種タイプの原子炉や、高速増殖炉が並んでいて、不気味である。原子力発電の安全性は保証つきだと政府や電力会社が囃し立て、一基について十億円を超える金が地元に落ちるというので、市町村は原子力発電所の誘致に熱心だが、もし万一事故が起こったら、死の灰に汚染されないとも限らないのである。(略)美しい北陸の海岸は、原子炉の墓標の立ち並ぶ死の海と化しかねない。目先の欲に釣られて、郷土の美を売るようなことはしたくないものである。」



2015年11月22日ー若狭に完成間近の龍柱
 那覇市の若狭緑地で市が建設を進めている「龍柱」事業は本体の石材設置作業が22日までに完了し、2体のうちの1体は、覆っていたブルーシートの上半分が外された。前足を掲げた龍の顔面などを見ることができる。1体は海に向かって右側の柱。 現在、周辺整備などの外構工事を進めており、12月25日までに終了する予定。中国福州市との友好都市締結30周年を記念し、計画された。 同事業は当初、一括交付金2億6700万円を使って進めていたが、工事が遅れるなどして活用を断念。市の単独予算を持ち出し工事を再開していた。6月に会計検査院の実施検査を受けたが、「不適切」などの指摘はなかった。→11月23日沖縄タイムス

日本共産党の志位和夫委員長は3日、国会内で記者会見し、
 戦後の米軍による土地の強奪、「銃剣とブルドーザー」を用いた無法な基地拡張が沖縄の基地問題の原点であり、「海上の銃剣とブルドーザー」による辺野古新基地を許すのか、この間の一連の選挙で示された新基地建設は許さないという民意を無視することが許されるのかと、知事が問題提起したことの重要性を強調しました。
(略)知事の問題提起に対し、国側代理人が「政治的議論をする場ではない」と言い放ったことについて、志位氏は「沖縄の基地問題について聞く耳を持たない、議論もしないという態度は許し難い。まさにごう慢、強権を象徴するような発言です。いまの安倍政権の姿勢が表れている」と批判。

 上記の志位和夫委員長の発言の通りアベ政治はアメリカ黒人大統領オバマ軍の協力も得て下記の通り「まさにごう慢、強権を象徴」粛々と沖縄県民の怒りをかっている。次の選挙で自公は壊滅させねば沖縄の未来は無い。

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1982年11月 沖縄の雑誌『青い海』117号<特集・「墓」・祖先との語らい>
沖縄人にとって「墓」とは何か!?・・・・・・・・・・・・・・・・・名嘉真宜勝・関根賢司
死後の世界ー魂のゆくえ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・崎原恒新
平安座島の石棺ー石棺文化の神様・・・・・・・・・・・・・・・太田良博
<ヤドリ人と門中>ーよその土地に住みつくとはー・・・多和田真助
沖縄の墓ーその分類と推移・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金城睦弘
石工達の遺産ー「墓」を通しての琉球弧のイメージ・・・・太田守雄
「墓」・「葬制」についての文献一覧(年表)・・・・・・・・・・・・長嶺操

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
ブラウン管テレビが見られなくなったので久しく見なかったビデオをダンボール箱から出して見た。その一つが日本誕生である。関連ー歌として、須佐之男命が櫛名田比売と結婚したときに歌い、和歌の始まりとされる「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」や、倭建命が東征の帰途で故郷を想って歌った「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し うるわし」。

 伊邪那岐・伊邪那美の両神の国産みを中心に日本神話の幻想的な映像から始まり、主題である日本武尊の物語に入る。
小椎命(おうすのみこと)は、その勇猛な性格を父(景行天皇)に警戒され、九州の熊曽征伐を命じられる。巧みな計略で見事に熊曽を討ち取った小椎は、熊曽から日本武尊の名を与えられる。しかし大手柄を建てて都に帰った日本武尊に、天皇は休む間もなく東国の征伐を命じる。父は自分を嫌っているのか、と沈痛な気分で、途中伊勢の倭姫を訪ねた日本武尊は、一振りの剣(天叢雲剣、別名・草薙の剣)を与えられて力付けられ、その剣の由来を聞く。それは神代の昔、須佐之男命が八岐大蛇を退治した際に手に入れたものであった。剣は、東国でだまし討ちにあって猛火に囲まれた日本武尊の命を救う。だが、帰国途上で日本武尊は、反逆をたくらむ大伴一派の攻撃にあい、命を落とした。彼の魂は1羽の白鳥となって空に向かい、大伴の一味と手勢は神罰により洪水と溶岩流に飲まれて全滅した.→ウィキペディア


伊邪那岐神 - 脇田博行、伊邪那美神 - 村松恵子/天宇受女命 - 乙羽信子


思金神 - 柳家金語楼、玉祖命 - 榎本健一/天照大神 - 原節子①

①映画「東京物語」や「晩春」など、小津安二郎監督作品に欠かせない女優として活躍した原節子(はら・せつこ、本名=会田昌江あいだ まさえ1920年6月17日 生)さんが2015年9月5日(満95歳没) 、肺炎のため神奈川県内の病院で死去した。95歳、横浜市横浜市保土ケ谷区出身。
○2015年12月3日『琉球新報』小那覇全人「ティータイム 原節子さんを悼む」

天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡(やたのかがみ)を作らせた。玉祖命に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせた。

天児屋命と太玉命を呼び、雄鹿の肩の骨とははかの木で占い(太占)をさせた。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。アメノコヤネが祝詞(のりと)を唱え、天手力雄神が岩戸の脇に隠れて立った。天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。これを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と太玉命が天照大神に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていたアメノタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。こうして天照大神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。.→ウィキペディア

クマヤ洞窟ー多数ある天の岩戸伝説の最南端地でもあり、江戸時代の国学者藤井貞幹が、神武天皇は沖縄の恵平屋恵に生まれたという説の根拠として、この洞窟が天の岩戸伝説のものであるという説を「衝口発」という本で発表しました。本居宣長達は「紺狂人」という本で反論し論争になったという史実があります。

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Posted by: ryubun02
 私は1996年7月発行の『自治おきなわ』に「関西におけるウチナーンチュの歩み」を書き、その末尾に「最後にー私は大阪で創刊された雑誌『青い海』を全冊、合本し愛蔵していて、その中に載っている事項や人名に解説、注釈を加えてみたいと常に思っていた。『関西沖縄年表』はその過程の副産物でもある。最近またぞろ、自分は安全な所(戦争最高責任者の追及は棚に上げる)に身を置いてウチナーンチュの戰爭責任だの、加害者だのと騒ぎ立てる、クサレヤマトーのインテリ(インチキとハッタリ)文化人が目立ちはじめた。」と書いたが、亡くなられた牧港篤三さんなんかは沖縄戦に新聞人として加担したと自虐的に自分を責めておられた。山里永吉もその意味では戦争協力に加担していたことは否めない。友人の伊佐眞一氏などは伊波普猷や山之口貘の戦争責任も追及している。だが、こういったことはウチナーンチュ自身が追及し反省することで、やまとぅーはやまとぅーで自分の住んでいるところのハエでも追えば良い問題である。しかし現実のニホンはアメリカ属国である。ニホン国民は戦争の出来る核大好きアベ政治(それを支える日米利権官僚)、大阪ではアベ政治の別働隊・日の丸大好き維新を誕生させたので戦争の反省や戦争責任問題が出るような環境にはない。

戦時体制下の沖縄/1941年3月 『月刊文化沖縄』「口絵写真」





□新たなる闡明ー地方文化の振興急務が叫ばれる。新体制政治下の翼賛運動に重要な役割を帯ぶるからである。わが沖縄の文化を再検討し、強調・是正するに絶好の機会は到来したのである。殊に吾が沖縄は古来特種の文化國であり、他県の追随を許さぬものが多い。是を昴揚してわが地方性を振興、新國民文化の建設発展に、合流せしめねばならぬ。而して此の目的遂行のためには県民各自の職域奉公による協力を必要とする。

県民生活の水準を文化的に高めしめる。之れ特にわが県下に於いて緊急要項たる事は、識者の誰しもが痛感する所であらう。『月刊文化沖縄』微力たりと雖も、此の重大使命を擔って邁進せんを誓ひ、茲に態度を闡明して新たなる声明を送る。単なる文藝運動なりと誤解してはならぬ。県民の文化生活への啓蒙運動をも兼ねるは勿論、併せて新國民たる堅実思想の培養、指導の実を擧げんとするものである。

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Posted by: ryubun02
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新城栄徳(博物館 ふれあい体験室・渡部貴子撮影)


手元にあるアイヌ民族資料
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左が新城あけみ
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萱野茂【かやのしげる】
アイヌ文化運動家。北海道生れ。アイヌ文化の伝承・保存に努め,1972年にシシリムカ二風谷アイヌ資料館(のち二風谷アイヌ資料館)を設立し,館長(2006年退任)。(1926-2006) →コトバンク