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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 やまとぅーのネトウヨが若狭に龍よりシーサー(獅子)を建てろというので国際通りを見てまわった。国際通りのさいおんスクエアにあるさいおんうふシーサーは那覇市の新シンボルとして2012年に完成したシーサーで高さ3.4m、重さは約3トンある巨大シーサー。「壺屋うふシーサー」は壺屋のやちむん通り入口にある牧志壺屋線シンボル広場にある。この2頭のシーサーは歴史のある伝統の壺屋焼で同時期に作られた兄弟のシーサーだ。


「うふっ あたし建っちゃイケなかったのかしらん♥」

 県内のマンションの入口には必ずという程、シーサーがある。民芸品には大小様々なシーサー、シーサー美術館、壺屋のやちむんにはシーサーは定番である。シーサー専門のやちむん店もある。国際通りの出口入口にもある。那覇市役所入口のシーサー、パレットくもじには島常賀のシーサー県庁の前には愛のシーサーというのもある。市内の屋根にはシーサーはつきものだ。
まぁとかくシーサーは国際通りだけでも溢れかえって飽和状態だ。これ観光客向けシーサーの小さなものはいいとしてこれ以上大きなシーサーは要らない。


山之口貘色紙

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沖縄県立博物館・美術館のシーサー


山里公男所蔵


沖縄「説法獅子吼・兵戈無用 Tシャツ」

末吉陶器工房(携帯080-3966-0445)
→ブログ「獅子造り陶工の独り言」http://yasutika182.blog.fc2.com/

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おもろまち


金城実「残波大獅子」


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Posted by: ryubun02
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2016年1月24日ー写真左から山田勉氏、西村貞雄氏、山田實さん、比嘉清眞氏。うしろが古堅希亜氏
2015年1月  那覇市民ギャラリー「比嘉清眞 写真展『年輪コンテスト』」






2014年8月 『年輪 比嘉清眞写真集』

1984年9月 沖縄の雑誌『青い海』136号 比嘉清眞「写真/針突(ハジチ)」
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2013年1月22日~27日 那覇市民ギャラリー「比嘉清眞 写真展(年輪ⅤⅢ 生活)」


1970年10月 栗原達男『写真報告 オキナワ1961~1970』朝日新聞社(山田實所蔵)

山田實様 勉様   2012、10、25
沖縄へ1961年2月~3月と2ヶ月近い 旅をした写真に、その後朝日の出版写真部で6年間勤めた後で辞め、1968年から沖縄へ数回来てまとめました、本土復帰前の沖縄の「写真報告」です。自分の本の中で一番いとおしい内容です。山田さんにお目にかかれたのも1961年2月でした。 感謝をこめて
栗原達男



1994年3月 栗原達男『名作ひとり旅』トラベルジャーナル

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2016年1月24日 ニッコールクラブ沖縄支部「第51回 写真展」会員に囲まれた山田實さん(旗の後)


中山良哲氏と作品「路地のヒーロー」「路地の哀愁」



写真/1969年8月 東松照明『OKINAWA沖縄OKINAWA』



東松照明の本

東松照明 とうまつ-しょうめい
1930- 昭和後期-平成時代の写真家。
昭和5年1月16日生まれ。昭和29-31年岩波写真文庫のスタッフ。34年奈良原一高らとVIVOを結成。社会派カメラマンとして戦後の日本を記録し,次世代の写真家に影響をあたえた。50年日本写真協会年度賞。51年毎日芸術賞,芸術選奨。平成11年日本芸術大賞。愛知県出身。愛知大卒。本名は照明(てるあき)。写真集に「太陽の鉛筆」「光る風―沖縄」など。(→コトバンク)

私が東松照明作品に出会ったのは1969年3月発行の『血と薔薇』(澁澤龍彦編集)所載「楽屋」であった。同誌には当然ながら澁澤の魔道の先達・稲垣足穂も執筆している。
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右が東松照明氏、新城栄徳/左が東松照明氏、新城栄徳


2012年9月11日「山田實展」で左が東松照明氏、山田實さん〈/b>

2011年9月 『東松照明と沖縄ー太陽へのラブレター』沖縄県立博物館・美術館
7日午後4時、山田實さんのところに行くと新報・タイムスの記者が東松さんの思い出を聞いていた。

2015年12月17日『週刊ほーむぷらざ』「夫の遺志を継ぎ技術も次世代にー写真家・東松照明を支え、後進の育成も 東松泰子さん」
東松照明(2012年12月14日午後0時50分、肺炎のため那覇市の病院で死去)


2016年8月16日~21日 那覇市民ギャラリー「東松照明ー新編 太陽の鉛筆」主催・フォトネシア沖縄



2016年8月16日 写真左から東松泰子さん、東松照明像、新城栄徳



1969年8月 東松照明『OKINAWA沖縄OKINAWA』


2016年8月16日 泊小学校近郊


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Posted by: ryubun02
1967年2月25日 第9回文春講演会(講師/黒岩重吾①・梶山季之②・加藤芳郎)
①黒岩重吾くろいわじゅうご[生]1924.2.25. 大阪[没]2003.3.7. 西宮
小説家。同志社大学に学び,在学中,学徒動員で出征,ソ満国境で敗戦を迎えた。さまざまな職業を転々としたのち,同人誌『近代説話』に参加,『背徳のメス』 (1960) で直木賞を受け,作家として認められた。→コトバンク


大森実 おおもり-みのる
1922-2010 昭和後期-平成時代のジャーナリスト。
大正11年1月13日生まれ。昭和20年毎日新聞大阪本社に入社。ニューヨーク支局長,ワシントン支局長をへて,37年外信部長。ベトナム戦争報道「泥と炎のインドシナ」の記事が駐日アメリカ大使から抗議をうけ,41年退社。42年「東京オブザーバー」紙を創刊したが,45年廃刊。のちアメリカにすんで活動。平成22年3月26日死去。88歳。兵庫県出身。神戸高商卒。著作に「国際事件記者」「戦後秘史」など。→コトバンク


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月刊「噂」──昭和30年代後半~40年代の代表的な流行作家である梶山季之が、自身で経費を負担して発行しつづけた月刊誌である。「噂」は、文壇の知られざる話題を紹介し、マスコミ批評をいちはやく手がけるなど、後の出版界に多大な影響を与えた。
梶山季之 かじやま-としゆき
1930-1975 昭和時代後期の小説家。
昭和5年1月2日朝鮮京城生まれ。ルポライターとなり,「週刊文春」でトップ屋として活躍。昭和37年産業スパイ小説「黒の試走車」で文壇にデビュー。推理小説,風俗小説,時代小説などの分野におおくの作品を発表した。昭和50年5月11日死去。45歳。広島高師卒。作品はほかに「赤いダイヤ」「李朝残影」など。→コトバンク

③加藤芳郎かとうよしろう[生]1925.6.25. 東京,代々幡[没]2006.1.6. 東京,新宿
まんが家。14歳でまんが家を志して東京府立第六中学校夜間部在学中から各誌に投稿を続け,1941年近藤日出造編集の月刊誌『漫画』に投稿し 1等となる。太平洋戦争時は川端画学校に学ぶが中国に出征,戦後は東京都公園緑地課に勤めながらまんがを描き,1947年に独立。 →コトバンク

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01/22: 伊江朝貞

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1929年1月27日『臺灣日日新報』(仲村顕氏提供)
○屏東南洋医院主伊江朝貞氏が嘗て大手術を受けて或は再び起ち得ぬ事ともならば、とて家に伝わる父祖の偉業の蹟、琉球王国の秘話を纏め、沈黙を破りてと題して綴ったものを資料として未だ見ぬおきなはを覗いて観る独立の王国であった日本に貢し明朝に貢し反覆極まりなかりし両属の国、それが平和な忠誠な今日の沖縄県の前身である。平和であり忠誠であるだけ現在の朝鮮やた臺灣の住民の一部に流れる或種の思想に鑑みおきなは物語を書く事とした。(麦門冬)

1929年3月『沖縄県人事興信録』「伊江朝貞」

新垣信一(1887年~1945年)
首里の石川和男氏から1915年1月発行の新垣信一訳編『琉球語讃美歌附箴言』資料、CDが贈られてきた。
□石川和男 みどり印刷〒903-0823沖縄県那覇市首里大中町1-36-2 TEL098-884-3702


新垣信一略年譜
1887年11月25日 西原間切末吉村の農家の長男として生まれる
1907年3月 新垣信一、沖縄県師範学校卒業、同期に島袋源一郎、大山岩蔵が居た。→1982年1月 大山一雄、山川岩美『遺稿・回想 大山岩蔵』
           宜野湾尋常高等小学校訓導
1908年2月   日本メソヂスト首里教会大保富哉氏より受洗
1915年1月 「標準語励行の喧しい時代に於いてなお、琉球語(方言)は農村地域では心に響く言であり、『太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。』(ヨハネ傳福音書第一章第一節)に説く如く、新垣信一師が津覇傳道所(日本基督教会首里傳道所の伊江朝貞指揮監督のもと)を設立してすぐに、その傳道の書として『訂正増補琉球語賛美歌及箴言』を出版したのも茲にその基があるといえよう。」
1930年2月 新垣信一訳編『増補改訂琉球語讃美歌附箴言』那覇基督教会青年会 印刷者・照屋寛範
1934年7月 新垣信一訳編『改訂増補琉球語讃美歌附箴言』那覇基督教会青年会 印刷者・照屋寛範

CD「首里日本基督教会牧師 新垣信一譯編 増補改訂琉球語讃美歌附箴言」

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写真左からー粟国村長の新城靜喜氏、玉寄貞夫氏(世界のそてつを守る会℡098-862-0906)、来賓の大田昌秀氏(沖縄国際平和研究所理事長)、伊良皆賢哲・粟国村教育長











あぐに/2015年11月7日ー那覇市若狭・宝楽「粟国中学校 第16期生会」

2012年ー新城栄徳・同期生会


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那覇市歴史博物館 2016-01-08(金) ~ 2016-03-09(水)「沖縄の文様~いろ・かたち・うごき~  」
 沖縄では、琉球王国時代から様々な工芸品が作られてきました。これらに表現された文様は、貿易などを通して交流のあった日本や中国、東南アジアなど周辺諸国からもたらされ、取り入れられたものです。例えば、紅型(びんがた)に描かれる文様は、大きく分けて中国系と日本系のものの2系統があります。中国系には龍や鳳凰(ほうおう)、蝙蝠(こうもり)、蓬莱山(ほうらいさん)などがあり、日本系には梅や桜、菖蒲(しょうぶ)、紅葉(もみじ)、雪などがあります。これら動物や植物などそのほとんどは沖縄には存在しないものですが、絵画や染織品などを通して文様が伝わり、その文様が琉球・沖縄で定着したものと考えられています。

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首里当蔵(とうのくら)県立芸大近くの又吉家


県立芸大学食棟.

みどり風通信 石川和男「絵画ギャラリー」
「みどり印刷」ここをクリック

「みどり風通信 独立22号」
先週、15日、京都大学の学生、教員、職員の有志(自由と平和のため京大有志の会)が、安保法案に反対して、韻文調の(詩のような)声明文を発表した、それが感動を呼び賛同の波が広がっている。そこで「みどり風通信 独立22号」として皆様にご紹介すると同時に記録の為に書き残す事とした。
「みどり印刷」ここをクリック

戦争は、防衛を名目に始まる。
戦争は、兵器産業に富をもたらす。
戦争は、すぐに制御が効かなくなる。

戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。
戦争は、兵士だけでなく、老人や子供にも災いをもたらす。
戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。


精神は、操作の対象物ではない。
生命は、誰かの持ち駒ではない。


海は、基地におしつぶされてはならない。
空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。


血を流すことを貢献と考える普通の国よりは
知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。


学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。
学問は、権力の下僕ではない。


生きる場所と考える自由を守り、創るために、
私たちはまず、思い上がった権力にくさびをうちこまなくてはならない。



自由と平和のための京大有志の会

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龍神と初日


1920年11月 『日本及日本人』南方熊楠「大本といふ神號」/麥生(末吉安恭)「薩人の虐殺」→吉田茂の妻:雪子は牧野伸顕伯爵の娘で大久保利通の孫。1941年に死別。後妻は喜代(元新橋の芸者)である。アベや麻生にも薩摩の大久保利通の血が流れている。まぁ歴代の総理は皆親戚だが。

2016年1月9日『沖縄タイムス』に「猫の画家藤田嗣治 犬も好き」というのがあった。前に麦生(末吉安恭)が猫にふれた随筆を紹介したから今度は犬について紹介する。
1919年4月『日本及日本人』麦生(末吉安恭)□無筆の犬ー無筆の犬といふ話は早く醒唾笑(元和9年)①に出づ。曰く「人喰ひ犬のある処へは何とも行かれぬなど語るに、さる事あり、虎といふ字を手の内に書いて見すれば、喰はぬと教ゆる。後犬を見、虎といふ字を書きすまし、手をひろげ見せけるが、何の詮もなく、ほかと喰ふたり。悲く思ひ、或僧に語りければ、推したり、其犬は一圓文盲にあったものよ」云々。

①醒睡笑(せいすいしょう)は庶民の間に広く流行した話を集めた笑話集。著者は茶人や文人としても知られる京(京都)の僧侶、安楽庵策伝。8巻1,039話の話を収録している。「眠りを覚まして笑う」の意味で『醒睡笑』と命名された。この命名時点を完成とみて1623年(元和9年)成立とする資料と、後述の板倉重宗への献呈と奥書の付与の時点を完成と見て1628年(寛永5年)成立とする資料とがある。「醒酔笑」と記す資料もあるが正当ではない。→ウィキペディア

1919年4月『日本及日本人』麦生(末吉安恭)□犬面冠者ー海東繹史六十一②に「又漸州人○人、被処入倭、親見秀吉、左○有黒○数点、面○犬形、約60余、止一子方三歳」云々、鮮人の眼に映じた秀吉は犬面冠者なるが如し。犬にせよ猿にせよ五十歩百歩、秀吉の面貌の醜に近かりしことは想像が」つく。

かいとうえきし【海東繹史】
朝鮮,李朝の学者韓致奫(かんちえん)(1765‐1814)が中国,日本の書籍545部から朝鮮関係記事を集めて編纂した書籍。70巻26冊。東夷諸国と檀君時代から高麗までの歴史を述べた〈世紀〉をはじめ,全体を17の志・考に分け,引用文に考証と見解が加えてあり,正祖時代の実学派の一大成果といわれる。続編に,韓致奫の遺稿を彼のおい韓鎮書が編纂した《地理考》15巻があり,地理研究資料として評価が高い。→コトバンク


1936第23回二科美術展覧会 饒平名智行「唐破風」


龍神と月

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1966年5月『守礼の光』表紙「玉城節子さんの真乙女『竜神の舞い』の舞台より」



1972年1月 沖縄の雑誌『青い海』



儀間比呂志の絵本 1978年『りゅうと にわとり』ひかりのくに


儀間比呂志の絵本 2016年1月『りゅうになりそこねたハブ』福音館書店


1976年 渡口精真(狛江市)の年賀状

2003年8月 原田禹雄『琉球を守護する神』榕樹書林
〇醍醐寺の清瀧宮は、醍醐寺の鎮守の杜で、理源大聖宝が、醍醐寺を開基したときに勧請した。祭神の清瀧明神とは、裟伽羅龍王の第三王女である。この神は、唐の青龍寺の鎮守神であったのを、弘法大師空海が帰朝するときに勧請し、それを、聖宝が醍醐寺に勧請したとされる。もともと醍醐は、水とのゆかりの深い霊地である。上醍醐に勧請された清瀧宮もまた、醍醐水のかたわらに建立された。青龍①の二字に、それぞれサンズイヘンをつけて清瀧としたところも、請雨の祈祷に名をはせた醍醐寺らしい配慮がしのばれる。下醍醐の清瀧宮は、承徳三年(1099)に、上醍醐から勧請された。(略)袋中は『琉球神道記』で≪私云く、爾ば琉球の二字、恐らくは龍宮の韻なり。那覇は、阿那婆達龍王の所居なるべし≫(略)袋中は、琉球を守るキンマモンに、この白い蛇体、ないし、龍体の神を感得していたらしい。いや、天照大神も蛇体と思っていた節がある。


①青竜(せいりゅう、せいりょう、拼音: qīnglóng チンロン)は、中国の伝説上の神獣、四神(四象)の1つ。東方青竜。蒼竜(そうりゅう)ともいう。福建省では青虎(せいこ)に置き換わっている。現代日本語では青は英語で言うブルーを意味することが多いが、「青」の原義は青山(せいざん)・青林(せいりん)のように緑色植物の色であり、本来は緑色をしているとされる。東方を守護する。長い舌を出した竜の形とされる。青は五行説では東方の色とされる。また、青竜の季節は春とされている。天文学上は、二十八宿の東方七宿に対応する。東方七宿(角宿・亢宿・氐宿・房宿・心宿・尾宿・箕宿)をつなげて竜の姿に見立てたことに由来する。道教における人格神化した名前では、東海青龍王敖広と呼ばれる[要出典]。清瀧権現の善女龍王は中国・青龍寺に飛来したという。秩父神社の「つなぎの龍」が青龍である。俳句において春の季語である「青帝(せいてい)」・「蒼帝(そうてい)」・「東帝」と同義であり、春(東・青)の象徴である。但し、「炎帝」・「白帝」・「玄帝(冬帝)」と違い、「青帝」はあまり使われない季語であるため、小型の歳時記や季寄せから削除されている場合が多い。なお、春のことを「青春」ともいう。→ウィキペディア


味の店三郎(那覇市若狭1-14-10 電話098-868-8348)

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レストラン宝楽


沖縄県立第二高等女学校跡「白梅の乙女たち」(1984(昭和59) 西村貞雄・制作 )


沖縄県立博物館の封筒



   

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Posted by: ryubun02
1926年11月『民族』末吉安恭「沖縄の猿の話」


末吉安久・筆写(1926年『民族』末吉安恭「沖縄の猿の話」)

○猿は現在はもう沖縄には居らぬが、以前は居たものと考えられて居る。或は島人の先住地に居たことを意味するのかも知れぬが、兎に角に口碑としては残って居るのである。
 沖縄人の口碑では、猿は人間から化生したものとなって居る。或処に金持ちの藍染屋の腹のよくないのと、貧乏な老人夫婦の心の正しいのとが、鄰(となり)合って住んで居た。歳の暮に貧乏人の方は食う物が無く、空腹を抱えて居ると、神様が現れて、先ず湯を沸かして淋浴をせよと命ぜられ、其の湯の中に薬をふり入れて下さって、それで湯を使うと忽ち身も若返った。次には鍋釜を洗えと命ぜられ、それにも薬をかけて下さると、うまい食物が自然に煮えて出て来た。二人がそれを食って年を取ったのを、腹黒の藍染屋も羨ましく思い、まだ遠くへは行くまいと神様に追い付いて御願いをした。若返るつもりで淋浴をすれば忽ち猿になって、きやっきやっと鳴いて山へ行ってしまった。其跡の家へは以前の老人夫婦が入って住み裕福に暮らすことになったが、元主人の猿が毎日やって来て邪魔をする。それを神に御願いすると、黒い石を焼いて戸口に置けと教えられる。猿はやって来て焼け石とは知らずに腰をかけ、尻に焼けどをしてきやっきやっと叫んで遁げ去った。猿の尻の今も赤いのは、焼け石がくっついて離れない故である。
 次には猿の滅亡伝説である。慶良間(ケラマ)島は今でも鹿の産地だが、以前は猿も此の島に住んで居た。猿は横着物で鹿の背に乗って乗りまわすので、始めは我慢もしたが後には鹿もたまらなくなり、猿を載せたまま海に入っては、水を潜って猿を溺らせてしまった。鹿は水泳ぎが達者だが、猿には水心が無いので、遂には慶良間にも猿が一疋も居なくなってしまった。

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