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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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1972年5月13日ー大阪『日本経済新聞』「民芸品・図書を守ろうー都島の『沖縄資料室』」

1972年 沖縄関係資料室「暑中お見舞いハガキ」

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1973年5月14日ー大阪『朝日新聞』「守れ!沖縄の心と自然ー埋もれた文化掘起す」
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 やまとぅーのネトウヨが若狭に龍よりシーサー(獅子)を建てろというので国際通りを見てまわった。国際通りのさいおんスクエアにあるさいおんうふシーサーは那覇市の新シンボルとして2012年に完成したシーサーで高さ3.4m、重さは約3トンある巨大シーサー。「壺屋うふシーサー」は壺屋のやちむん通り入口にある牧志壺屋線シンボル広場にある。この2頭のシーサーは歴史のある伝統の壺屋焼で同時期に作られた兄弟のシーサーだ。


「うふっ あたし建っちゃイケなかったのかしらん♥」

 県内のマンションの入口には必ずという程、シーサーがある。民芸品には大小様々なシーサー、シーサー美術館、壺屋のやちむんにはシーサーは定番である。シーサー専門のやちむん店もある。国際通りの出口入口にもある。那覇市役所入口のシーサー、パレットくもじには島常賀のシーサー県庁の前には愛のシーサーというのもある。市内の屋根にはシーサーはつきものだ。
まぁとかくシーサーは国際通りだけでも溢れかえって飽和状態だ。これ観光客向けシーサーの小さなものはいいとしてこれ以上大きなシーサーは要らない。


山之口貘色紙

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沖縄県立博物館・美術館のシーサー


1989年2月 『わたしのシーサー あなたのシーサー 沖縄獅子の魅力集』週刊レキオ社
大城精徳□獅子が中国伝来のことばであることはいうまでもないが、先に述べた日本語のシシとは違い、中国語ではライオンを意味することばなのである、しかし中国には元来ライオンは棲息していないので、この中国語も外来語だった。中国人がライオンに接したのは西域との交易を通してであった。時代は漢代であよそ2千年前である。西暦76年には今のアフガニスタンとイラン東部に興った「安息」(パルティア帝国)という国から獅子が献上品としてもちこまれたこともあった。この地方の当時のことばではライオンのことを「シ」(SHI)といった。この「シ」という音に中国では、はじめ「師」という漢字を当て、のちに犭偏をつけて「獅」になったとのことである。獅子の「子」については中国語によくみうけられる接尾語で特別な意味はない。


山里公男所蔵


沖縄「説法獅子吼・兵戈無用 Tシャツ」

末吉陶器工房(携帯080-3966-0445)
→ブログ「獅子造り陶工の独り言」http://yasutika182.blog.fc2.com/

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おもろまち


金城実「残波大獅子」


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1995年2月 『ドラゴンブックレット』№.1
199511月 『ドラゴンブックレット』№.2

1997年2月 『ドラゴンブックレット』№.3





1995年2月『ドラゴンブックレット』№1 



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〇15世紀半ばまでに建立されていた上天妃廟には龍王殿が併置されていた。『琉球国由来記』卷九によると、龍王殿はもともと中三重城にあったという。(略)近世には旱魃になると久米村の官員が天尊廟と龍王殿で雨乞いの祈願を行った。大旱魃の際には龍王像を龍船に乗せて豊見城に運び、城内の雩壇で祈願する定めであった。(略)雨の神としての龍王の信仰は沖縄諸島の農村にも伝わり、明治の頃の雨乞いでは、「龍王加那志雨タボリ」(竜王さま雨を賜われ)という雨乞い歌がうたわれた。(平敷令治)

○久米至聖廟(孔子廟)の本殿、大成殿。ー孔子様の像と4人のお弟子様の像も祀られています。(略)天尊というのは雷を扱う神様の様です。隣に龍王様もいますので、戦前は、久米や那覇近辺の方は、日照りが続くとこちらで雨乞いを行ったそうです料亭「松の下」があった時は、玄関近くの中庭としてこの石が置いてあったそうです。飾りの龍の口から水も流れ出ていたそうです。神聖な場所として、昔から拝まれジュリ馬の奉納も行われているそうです。。→「那覇まちま~い 若狭下町物語 波の上チャンプルータウン」
久米孔子廟

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新城喜一画
1933年4月7日ー久米孔子廟

(社)久米崇聖会 1914年(大正3年5月)、孔子廟・明倫堂を組織的に管理運営するため久米村の有志により社団法人として設立されました。太平洋戦争で一時中断しましたが戦後復活し、2014年(平成26年)には100周年を迎える歴史の古い団体です。戦後は那覇市若狭の天尊廟地内に構え、道徳の高揚を図り久米至聖廟(久米孔子廟)、天尊廟、天妃宮、明倫堂などの維持管理と釋奠祭禮の祭祀、人材の育成、もって地域社会への貢献、広く国際平和のために寄与することを目的として活動しています。□→「久米至聖廟」

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写真ー松本晴文氏と作品

写真左から大宜見朝秀氏、小谷武彦氏

写真左から大宜見朝秀氏、小谷武彦氏、山田實さん、松本晴文氏、西村貞雄氏①
①西村貞雄氏は龍柱竣工お披露目式参加を終えての見学。龍柱について「天に昇り、ニライカナイに向かう意味合いを持つ特別なもので、琉球独自のもの」と説明。
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2016年1月24日ー写真左から山田勉氏、西村貞雄氏、山田實さん、比嘉清眞氏。うしろが古堅希亜氏
2015年1月  那覇市民ギャラリー「比嘉清眞 写真展『年輪コンテスト』」






2014年8月 『年輪 比嘉清眞写真集』

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2016年1月24日 ニッコールクラブ沖縄支部「第51回 写真展」会員に囲まれた山田實さん(旗の後)


中山良哲氏と作品「路地のヒーロー」「路地の哀愁」

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1967年2月25日 第9回文春講演会(講師/黒岩重吾①・梶山季之②・加藤芳郎)
①黒岩重吾くろいわじゅうご[生]1924.2.25. 大阪[没]2003.3.7. 西宮
小説家。同志社大学に学び,在学中,学徒動員で出征,ソ満国境で敗戦を迎えた。さまざまな職業を転々としたのち,同人誌『近代説話』に参加,『背徳のメス』 (1960) で直木賞を受け,作家として認められた。→コトバンク


大森実 おおもり-みのる
1922-2010 昭和後期-平成時代のジャーナリスト。
大正11年1月13日生まれ。昭和20年毎日新聞大阪本社に入社。ニューヨーク支局長,ワシントン支局長をへて,37年外信部長。ベトナム戦争報道「泥と炎のインドシナ」の記事が駐日アメリカ大使から抗議をうけ,41年退社。42年「東京オブザーバー」紙を創刊したが,45年廃刊。のちアメリカにすんで活動。平成22年3月26日死去。88歳。兵庫県出身。神戸高商卒。著作に「国際事件記者」「戦後秘史」など。→コトバンク


梶山季之 かじやま-としゆき
1930-1975 昭和時代後期の小説家。
昭和5年1月2日朝鮮京城生まれ。ルポライターとなり,「週刊文春」でトップ屋として活躍。昭和37年産業スパイ小説「黒の試走車」で文壇にデビュー。推理小説,風俗小説,時代小説などの分野におおくの作品を発表した。昭和50年5月11日死去。45歳。広島高師卒。作品はほかに「赤いダイヤ」「李朝残影」など。→コトバンク

③加藤芳郎かとうよしろう[生]1925.6.25. 東京,代々幡[没]2006.1.6. 東京,新宿
まんが家。14歳でまんが家を志して東京府立第六中学校夜間部在学中から各誌に投稿を続け,1941年近藤日出造編集の月刊誌『漫画』に投稿し 1等となる。太平洋戦争時は川端画学校に学ぶが中国に出征,戦後は東京都公園緑地課に勤めながらまんがを描き,1947年に独立。 →コトバンク

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01/22: 伊江朝貞

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1929年1月27日『臺灣日日新報』(仲村顕氏提供)
○屏東南洋医院主伊江朝貞氏が嘗て大手術を受けて或は再び起ち得ぬ事ともならば、とて家に伝わる父祖の偉業の蹟、琉球王国の秘話を纏め、沈黙を破りてと題して綴ったものを資料として未だ見ぬおきなはを覗いて観る独立の王国であった日本に貢し明朝に貢し反覆極まりなかりし両属の国、それが平和な忠誠な今日の沖縄県の前身である。平和であり忠誠であるだけ現在の朝鮮やた臺灣の住民の一部に流れる或種の思想に鑑みおきなは物語を書く事とした。(麦門冬)

1929年3月『沖縄県人事興信録』「伊江朝貞」

1929年4月 『沖縄』(鹿児島市 沖縄社・座安盛徳)□神山宗勲ー今回氏外6名の同人組織で悪魔社を組織 「藝術と生活との不可分離的相関関係の本質的理念に基き」4月號より 文藝雑誌『悪魔』を創刊 詳細は東京市外龍野川町田端800番地其社へ問合せられたし。

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写真左からー粟国村長の新城靜喜氏、玉寄貞夫氏(世界のそてつを守る会℡098-862-0906)、来賓の大田昌秀氏(沖縄国際平和研究所理事長)、伊良皆賢哲・粟国村教育長





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那覇市歴史博物館 2016-01-08(金) ~ 2016-03-09(水)「沖縄の文様~いろ・かたち・うごき~  」
 沖縄では、琉球王国時代から様々な工芸品が作られてきました。これらに表現された文様は、貿易などを通して交流のあった日本や中国、東南アジアなど周辺諸国からもたらされ、取り入れられたものです。例えば、紅型(びんがた)に描かれる文様は、大きく分けて中国系と日本系のものの2系統があります。中国系には龍や鳳凰(ほうおう)、蝙蝠(こうもり)、蓬莱山(ほうらいさん)などがあり、日本系には梅や桜、菖蒲(しょうぶ)、紅葉(もみじ)、雪などがあります。これら動物や植物などそのほとんどは沖縄には存在しないものですが、絵画や染織品などを通して文様が伝わり、その文様が琉球・沖縄で定着したものと考えられています。

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 粟国恭子さんから『越境広場』1号を恵まれた。粟国さんは同誌に「島に吹く『風』とウタの記憶ー周辺のポリティクスー」、謝花佐和子さんは「映像ー心の目で見る『ことば』」を書いている。紹介が後先になったが、特集1は<1995・沖縄>、特集2<追悼 真喜志勉>、今、辺野古でアベ国策に抵抗しているヒコクミン・山城博治氏の「インタビュー わが原点、われらが現場、抗う沖縄の思想」など。今回は老練書き手の大田静男「『セミの歌』が聴こえてくるとき」を見ることにする。

○「日本は戦後70年間戦争をしていない」のだそうですね。基地を提供している国が、戦争をしていないなどとは、欺瞞ですな。嘘っぱちだとおもいませんか。なんでかって?潜在主権て知らない?砂川判決知っているのにな~? 沖縄平和ゼロ年ですよ。知ってください。憲法ゼロ年です。(略)資源のない国、島国ニッポン。ミサイルを原子力施設に打ち込まれたら、国家は存立しなくなる。なんと、山本太郎議員が同じようなことを言ってアベ総理を追及していたな。答えられるわけがない。柴又の寅さんではないが、それをいっちゃお終いだよ。アイアムソウリーはそれをよくご存じだ。守るべき国民の屍累々。アア~ウウートードゥ。(略)嘘つきの始まりは政治家。そして国家。嘘つき国家の、嘘つき軍隊が武器を持ってやってくる。戦前の二の舞。ああ、70年も経つとみんな健忘症になるのですな~。

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 近所の古本屋で『週刊ダイヤモンド』①「読書を極める」を買った。図書館の指定管理者制度の話題。神奈川県海老名市立図書館の蔵書はシリーズ本の欠巻、タイ観光本の”裏の夜遊び”が並んでいて、1階は蔦屋書店、スターバックスコーヒーで占められているという。指定管理者制度は、硬直したお役所仕事に新しい発想と運営ノウハウをもたらす効果はあるかも知れないが・・。巻末に桜井よし子の「史上初となる女性総統の可能性高い蔡民主進歩党主席が語る台湾の将来」が載っている。これは地元2紙が「台湾総統に民進党蔡氏」と報じている。その前日の地元2紙には沖縄県立博物館・美術館を管理する沖縄県文化観光スポーツ部、安里進沖縄県立博物館・美術館館長、同館の指定管理者の上原徹文化の杜共同企業体代表が「博物館、施設料約200万過徴収」と報じ。続けて次の県立博物館・美術館の指定管理者は「沖縄美ら島財団」が担うと報じていた。

①私は『琉球新報百年史』の年表に「1941年1月 ダイヤモンド社・石山賢吉、臺灣の帰途来県」と記した。
石山賢吉 いしやま-けんきち1882-1964 大正-昭和時代の出版人。
明治15年1月2日生まれ。「実業之世界」「毎夕新聞」などの記者をへて,大正2年ダイヤモンド社をおこし,経済誌「ダイヤモンド」を創刊。昭和22年衆議院議員(日本自由党)となるが公職追放。30年菊池寛賞。31年日本雑誌協会初代会長。昭和39年7月23日死去。82歳。新潟県出身。慶応義塾商業卒。 →コトバンク
○昭和17年5月『月刊文化沖縄』石山賢吉「国民の訓練」

 沖縄文化の杜 〒900-8678 沖縄県那覇市久茂地2丁目2番2号 TEL 098-851-5403/FAX 098-941-2392。
2008年に創刊60周年を迎える沖縄タイムス社(豊平良考社長)が創刊60周年記念事業の一環として、文化事業を中心に企画運営し、調査研究機能などシンクタンク的な役割も兼ねる会社として設立された。沖縄タイムス社の100%出資により誕生した会社。 「文化」を柱に文化事業や各種調査などで、沖縄社会へ貢献することを目指す。沖縄タイムス社は創刊1周年記念事業として、1958年に沖縄美術展覧会(沖展)を開催し、沖縄戦後美術の振興に協力。また、沖縄県立博物館の前身は、戦後まもなく住民が自主的、自発的に設立した「首里市郷土博物館」(首里博物館)がその前身ですが、その首里博物館の設立に尽力したのが、沖縄タイムス社創設者である豊平良顕や上間正諭らでした。特に豊平は同博物館の初代館長を務め、県立博物館の初代館長として博物館史に刻まれています。沖縄文化の杜は沖縄タイムス社が沖縄で果たしてきた役割を受け継ぎつつ、2007年11月にオープンした県立博物館・美術館の指定管理者である「文化の杜共同企業体」の筆頭会社として、沖縄の文化・社会に貢献できる会社を目指す。

2013年12月『「時の眼ー沖縄」批評誌N27』№2 上原誠勇「アートから沖縄の『骨』を抜く県立芸大と県文化振興会の仕掛け」


○美術で「地域興し」、誰のため?/今も「三無主義」の若者たち/沖縄の芸大で「沖縄」を直視させない/「骨抜き」の沖縄アート界/沖縄県文化振興会の文化活動助成の現状/アートに政治がなめさせる「アメ」ーその助成金は人々が支払った税金の一部である。300万円~1000万円の助成に群がっている団体がなんと多いことか。その実態を知るや、ガッカリして言葉も出ない。


2012年9月9日 オスプレイ阻止 島ぐるみ9・9県民大会

國吉和夫氏/上原誠勇氏

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首里当蔵(とうのくら)県立芸大近くの又吉家


県立芸大学食棟.

みどり風通信 石川和男「絵画ギャラリー」
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2016年1月9日『沖縄タイムス』に「猫の画家藤田嗣治 犬も好き」というのがあった。前に麦生(末吉安恭)が猫にふれた随筆を紹介したから今度は犬について紹介する。
1919年4月『日本及日本人』麦生(末吉安恭)□無筆の犬ー無筆の犬といふ話は早く醒唾笑(元和9年)①に出づ。曰く「人喰ひ犬のある処へは何とも行かれぬなど語るに、さる事あり、虎といふ字を手の内に書いて見すれば、喰はぬと教ゆる。後犬を見、虎といふ字を書きすまし、手をひろげ見せけるが、何の詮もなく、ほかと喰ふたり。悲く思ひ、或僧に語りければ、推したり、其犬は一圓文盲にあったものよ」云々。

①醒睡笑(せいすいしょう)は庶民の間に広く流行した話を集めた笑話集。著者は茶人や文人としても知られる京(京都)の僧侶、安楽庵策伝。8巻1,039話の話を収録している。「眠りを覚まして笑う」の意味で『醒睡笑』と命名された。この命名時点を完成とみて1623年(元和9年)成立とする資料と、後述の板倉重宗への献呈と奥書の付与の時点を完成と見て1628年(寛永5年)成立とする資料とがある。「醒酔笑」と記す資料もあるが正当ではない。→ウィキペディア

1919年4月『日本及日本人』麦生(末吉安恭)□犬面冠者ー海東繹史六十一②に「又漸州人○人、被処入倭、親見秀吉、左○有黒○数点、面○犬形、約60余、止一子方三歳」云々、鮮人の眼に映じた秀吉は犬面冠者なるが如し。犬にせよ猿にせよ五十歩百歩、秀吉の面貌の醜に近かりしことは想像が」つく。

かいとうえきし【海東繹史】
朝鮮,李朝の学者韓致奫(かんちえん)(1765‐1814)が中国,日本の書籍545部から朝鮮関係記事を集めて編纂した書籍。70巻26冊。東夷諸国と檀君時代から高麗までの歴史を述べた〈世紀〉をはじめ,全体を17の志・考に分け,引用文に考証と見解が加えてあり,正祖時代の実学派の一大成果といわれる。続編に,韓致奫の遺稿を彼のおい韓鎮書が編纂した《地理考》15巻があり,地理研究資料として評価が高い。→コトバンク
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1921年 沖縄県立農林学校卒


1969年11月 デパートリウボウ・琉球新報社「南蛮古陶展」で、左から外間正幸(1969年~1981年ー琉球政府立博物館館長)、大嶺薫(1946年~53年ー東恩納博物館長)、山里永吉(1955年~58年ー琉球政府立博物館館長)



1945年8月 石川市東恩納にアメリカ軍政府「沖縄陳列館」設立

□今秋、那覇新都心に沖縄県立博物館・美術館がオープンする。外見からも最高の文化施設になると確信するのは私一人ではないと思う。「沖縄の戦後は石川から始まった」とよく聞くが、戦後初の博物館が石川市にあったことを知る人は少なくなってきている。東恩納の民家を使っての博物館で民家は今も健在で2005年3月に石川市の文化財として指定を受けている。民家は沖縄市から石川に向け国道329号の栄野比の坂を上がり切ったところの交差点を右に入った住宅地にある。
1945年8月に米国海軍政府のハンナ少佐らが中心となり、石川市東恩納の軍政府コンセット群の一隅残っていた民家(平良栄徳宅)を転用し沖縄陳列館が設立された。大宜味村に避難していた大嶺薫が招かれハンナ少佐の下で陳列館の資料収集に駆け回る。大嶺は琉球の古美術、歴史、考古学に幅広い知識を持った研究者でもあり戦前から古美術品を収集していた。私のコレクションに東恩納博物館当時の事務資料がまとまってある。紙面の都合上主なものを紹介する。
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(2007年10月7日『琉球新報』翁長良明(携帯090-3793-8179)「戦後の象徴『石川』旧東恩納博物館」)


1970年10月12日『琉球新報』山里永吉「シュープ大将と大嶺薫」

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龍神と初日


1920年11月 『日本及日本人』南方熊楠「大本といふ神號」/麥生(末吉安恭)「薩人の虐殺」→吉田茂の妻:雪子は牧野伸顕伯爵の娘で大久保利通の孫。1941年に死別。後妻は喜代(元新橋の芸者)である。アベや麻生にも薩摩の大久保利通の血が流れている。まぁ歴代の総理は皆親戚だが。


1936第23回二科美術展覧会 饒平名智行「唐破風」


龍神と月
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1966年5月『守礼の光』表紙「玉城節子さんの真乙女『竜神の舞い』の舞台より」



1972年1月 沖縄の雑誌『青い海』



儀間比呂志の絵本 1978年『りゅうと にわとり』ひかりのくに


儀間比呂志の絵本 2016年1月『りゅうになりそこねたハブ』福音館書店


1976年 渡口精真(狛江市)の年賀状

2003年8月 原田禹雄『琉球を守護する神』榕樹書林
〇醍醐寺の清瀧宮は、醍醐寺の鎮守の杜で、理源大聖宝が、醍醐寺を開基したときに勧請した。祭神の清瀧明神とは、裟伽羅龍王の第三王女である。この神は、唐の青龍寺の鎮守神であったのを、弘法大師空海が帰朝するときに勧請し、それを、聖宝が醍醐寺に勧請したとされる。もともと醍醐は、水とのゆかりの深い霊地である。上醍醐に勧請された清瀧宮もまた、醍醐水のかたわらに建立された。青龍①の二字に、それぞれサンズイヘンをつけて清瀧としたところも、請雨の祈祷に名をはせた醍醐寺らしい配慮がしのばれる。下醍醐の清瀧宮は、承徳三年(1099)に、上醍醐から勧請された。(略)袋中は『琉球神道記』で≪私云く、爾ば琉球の二字、恐らくは龍宮の韻なり。那覇は、阿那婆達龍王の所居なるべし≫(略)袋中は、琉球を守るキンマモンに、この白い蛇体、ないし、龍体の神を感得していたらしい。いや、天照大神も蛇体と思っていた節がある。


①青竜(せいりゅう、せいりょう、拼音: qīnglóng チンロン)は、中国の伝説上の神獣、四神(四象)の1つ。東方青竜。蒼竜(そうりゅう)ともいう。福建省では青虎(せいこ)に置き換わっている。現代日本語では青は英語で言うブルーを意味することが多いが、「青」の原義は青山(せいざん)・青林(せいりん)のように緑色植物の色であり、本来は緑色をしているとされる。東方を守護する。長い舌を出した竜の形とされる。青は五行説では東方の色とされる。また、青竜の季節は春とされている。天文学上は、二十八宿の東方七宿に対応する。東方七宿(角宿・亢宿・氐宿・房宿・心宿・尾宿・箕宿)をつなげて竜の姿に見立てたことに由来する。道教における人格神化した名前では、東海青龍王敖広と呼ばれる[要出典]。清瀧権現の善女龍王は中国・青龍寺に飛来したという。秩父神社の「つなぎの龍」が青龍である。俳句において春の季語である「青帝(せいてい)」・「蒼帝(そうてい)」・「東帝」と同義であり、春(東・青)の象徴である。但し、「炎帝」・「白帝」・「玄帝(冬帝)」と違い、「青帝」はあまり使われない季語であるため、小型の歳時記や季寄せから削除されている場合が多い。なお、春のことを「青春」ともいう。→ウィキペディア


味の店三郎(那覇市若狭1-14-10 電話098-868-8348)

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レストラン宝楽


沖縄県立第二高等女学校跡「白梅の乙女たち」(1984(昭和59) 西村貞雄・制作 )


沖縄県立博物館の封筒



   

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1926年11月『民族』末吉安恭「沖縄の猿の話」


末吉安久・筆写(1926年『民族』末吉安恭「沖縄の猿の話」)

○猿は現在はもう沖縄には居らぬが、以前は居たものと考えられて居る。或は島人の先住地に居たことを意味するのかも知れぬが、兎に角に口碑としては残って居るのである。
 沖縄人の口碑では、猿は人間から化生したものとなって居る。或処に金持ちの藍染屋の腹のよくないのと、貧乏な老人夫婦の心の正しいのとが、鄰(となり)合って住んで居た。歳の暮に貧乏人の方は食う物が無く、空腹を抱えて居ると、神様が現れて、先ず湯を沸かして淋浴をせよと命ぜられ、其の湯の中に薬をふり入れて下さって、それで湯を使うと忽ち身も若返った。次には鍋釜を洗えと命ぜられ、それにも薬をかけて下さると、うまい食物が自然に煮えて出て来た。二人がそれを食って年を取ったのを、腹黒の藍染屋も羨ましく思い、まだ遠くへは行くまいと神様に追い付いて御願いをした。若返るつもりで淋浴をすれば忽ち猿になって、きやっきやっと鳴いて山へ行ってしまった。其跡の家へは以前の老人夫婦が入って住み裕福に暮らすことになったが、元主人の猿が毎日やって来て邪魔をする。それを神に御願いすると、黒い石を焼いて戸口に置けと教えられる。猿はやって来て焼け石とは知らずに腰をかけ、尻に焼けどをしてきやっきやっと叫んで遁げ去った。猿の尻の今も赤いのは、焼け石がくっついて離れない故である。
 次には猿の滅亡伝説である。慶良間(ケラマ)島は今でも鹿の産地だが、以前は猿も此の島に住んで居た。猿は横着物で鹿の背に乗って乗りまわすので、始めは我慢もしたが後には鹿もたまらなくなり、猿を載せたまま海に入っては、水を潜って猿を溺らせてしまった。鹿は水泳ぎが達者だが、猿には水心が無いので、遂には慶良間にも猿が一疋も居なくなってしまった。

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