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Category: 04-書の森
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宮城護氏 作品「聖地カルスト杜御嶽」

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Posted by: ryubun02
開館10周年を記念して、2012年3月に開催した収蔵品展に続き、2012年以降、那覇市歴史博物館にご寄贈いただいた資料を展示紹介します。



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Posted by: ryubun02
 はしがきー此の一篇の論旨から述べてみたい。南島の命名の民俗及び人名の原義を研究する為めに私は各地方各島々の人名、童名を出来るだけ採集した。それを採集しているうちに古事記及日本書紀、萬葉集、風土記を始め我国の古典に出て来る神名や人名の「名の本義」を独自の立場から研究してみることにした。その結果はどうであるか。先づ私を最も驚かしたことは吾々南島人の珍妙な童名は嘗て吾が日本民族が広く愛用したもので決して琉球人独特の珍名ではないことを看破したことである。何れこれに就ては稿を改めて報告したい。次に名の本義を研究していると、之迄発表されている古典研究者国文学者などの説に疑問を持つに至ったのである。そうして、之はどうしても吾々民俗学を研究しているものの仕遂げねばならぬ研究だと思い、ここに民俗学徒の立場から記紀の神名人名を考察することにした。先づその手始めに記紀の天岩戸の所に出て来る思金神及天津麻羅の名の本義を明らかにし世上流布されている古典研究者国文研究者の見解に再吟味を煩わしたいと思う。
 
(略)
以上記紀の神名、思金神及天津麻羅の名の本義に就て在来の学者の説を批判し検討した結果その誤なるを指摘し、南島民俗の資料を以て之が再吟味をなし、自己の新しき説を提示したのであるが、振り返って何故に之迄の国文研究者が之等神名の本義をつかむことが出来なかったかに就てよく考えてみる必要がある。私は在来の学者が記紀の物語を批判する心構えが不足している結果ではないかと思う。即ち記紀にある民俗をもっとも古いものとして、それ以前の考察を怠っている結果ではないか。記紀が決して古いものでない証拠には神名に沢山の民間語源説がつきまとうて、それで物語を構成している民間語源説話の出来る時代には既にそのものの原義が不明になっていた時代になっていたことを意味している。記紀の物語はそんな時代に生まれたものであって、決して原始的な本然の姿を吾々には伝えていない。故にこれら神名の原義を突き止めるには先づ記紀の物語に脚色を打破し、民間語源説話を全然離れて独自の自由な立場からその真相をつかむようにすべきであろう。


1965年2月 源武雄『琉球歴史夜話』月刊沖縄社


1972年3月 真栄田義見・三隅治雄・源武雄 編『沖縄文化史辞典』東京堂出版


1973年10月 『琉球の文化』第四号 源武雄「朝薫の人及び芸術についての覚書」


 1983-8-19『琉球新報』源武雄「鎌倉芳太郎先生と首里城復元」


1992年8月10日 『沖縄タイムス』湧上元雄「源武雄氏を悼む」

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Posted by: ryubun02
1925年10月 沖縄県教育会同人(又吉康和)『琉球』小沢書店

□鎌倉芳太郎氏は寫眞や装幀に助言され・・・、表紙は羽田会長の案に出たもので、若狭町の知念と云ふ老舗の作製に成る純琉球物です。






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1937年4月『沖縄教育』弟248号に島袋源一郎が「『沖縄教育』変遷と思ひ出」を記している。□明治42年末に至り吾等の先輩 親泊朝擢氏が教育会専任幹事に抜擢され、筆まめな同氏の努力によって、山口瑞雨先生揮毫の芭蕉図案の表紙で前例のない程美しい内容も比較的豊富な『沖縄教育』が、東京三秀舎で印刷され毎月発行となって、教育界に清新の気を注いで呉れることになった。(略)大正12年10月現琉球新報主筆たる又吉康和氏を抜擢して敏腕を振って貰ふことにした。此に於いて『沖縄教育』は一躍其のレベルを高め中央学界諸名士の論説を掲載する等大いに充実し、未だ嘗て見ない権威ある雑誌となるに至った。大正15年 又吉康和氏の後任として國吉眞哲氏が編集幹事となり、引き続き豊富な雑誌を刊行し昭和3年4月第168号迄続いたが、(略)昭和7年11月、島袋源一郎代わって就任し予定の職員録を出し、翌昭和8年1月より経費の捻出を計って毎月刊行に引直した結果、投稿者並びに読者に多少の関心を繋ぐことを得且従来鹿児島市に於いて印刷していたのを那覇市内に於いて印刷せしむることとし、其の刺激によって印刷も漸次向上するに至ったのは事実である。

1937年3月 『沖縄教育』島袋源一郎「姓の統一に関する私見」
□(略)吾等の先輩、漢那、伊波、東恩納、仲宗根、比嘉、其他の方々の姓も最初は随分風変りな稱へ方だと思われたに違いないが、今日では学界や全国的に漸次知られて別に変な姓だと思う人もあるまい。(略)之について考えるべきことは教職員又は父兄の内祖先伝来の姓の呼稱を改変することを好まぬ方々のあることで、之は勿論当の御本人の意思を尊重することが常識であり、禮であるので強いて第三者が勝手に読み換える譯にはゆくまいと思う。

□部落とは、『広辞苑』に「比較的少数の家を構成要素とする地縁団体。共同体としてまとまりをもった民家の一群」とある。ヤマトでは部落で連想するのが「被差別部落」。沖縄の地域史でも言葉では部落と言っても、文字にするときは「村落」とするのが多い。

1939年5月 『沖縄教育』第273號 島袋源一郎「郷土雑記ー部落の発達②」
□五、部落移転
前に述べたように、昔の部落は大抵御嶽の付近即ち高原地や山の中腹なる傾斜地に発生し、神人共存共在の意識を以て防禦地帯に住んでいたのであるが、漸次狩猟生活から農業生活に移り、戦争時代から平和時代に入ると共に交通の不便や農業上の便利といった諸条件のために、御嶽即ち神山の付近から下方の平地に移転したのである。

之を実際に就いて例を挙げて見ると名護町の各部落の如きは全部山地又は中腹の古生層より現在の砂地に移転したので今でも字名護の旧部落は名護城の如き、昔ながらに神職たる祝女、根神、ホソメ神、掟神の4軒だけは神山の中腹に残っている。今帰仁城の付近に阿応理恵火神御殿やノロ火神殿内、根神火神殿内などの散在しているのは部落が下方の砂地に移転した後も猶ほ神職だけは神に仕えて昔の儘に御嶽の麓なる城下に残っていたことを物語るものである。

中頭郡西原村、中城村の東海岸各部落の如きも其の昔は殆ど皆もっと高い地点から現地位に移転したものであり、或いは西原間切内間村から嘉手苅村が派生したように分裂して新部落を形成したものもあり、小那覇の如く新しく創立された部落もある。中城村伊舎堂の如き昔は中城城の北字大城の前方伊舎堂原にあったので今でも旧家は旧正月になると初水を汲みにあの嶮崚な坂道を登って旧部落の古井に行くのである。

余り煩雑になるので一々各村の実例を列挙することを差し控えることにするが、大抵の部落移転の年代は大凡3百年前から2百年前と見做してよかろうと思う。
□六、部落の祭祀
□七、殿(方言トン)

1939年6月 『沖縄教育』第274號 島袋源一郎「郷土雑記ー部落の発達③」
□八、部落と城郭
私は数年来公務の余暇、郷土史料発掘の目的を以て沖縄本島の城址を踏査して陶瓷片を採集すると共に、城下の部落調査を行い、更に進んで出来ることなら本島及び付近の島々の部落を全体的に調べて其の発生、門中(氏族)の組織移転と発達、神事及び年中行事の状況生活状態等諸般の事項に就いて調査を遂げ之を文献に遺したいという願望を持っている。現在蒐集し得た城に関する資料だけでも何れ適当の機会に纏めて発表致したいと思うが目下判明している城址でも島尻郡凡50、中頭郡凡24,5、国頭郡凡10、首里那覇3、付近離島凡10、合計90数か所に達している。(略)

□九、移転の常則

□十、部落の発達

□十一、部落発達と家號

□十二、部落と門中組織


島袋源一郎顕彰碑の前で、新城栄徳(渚さん撮影)

□石川正通「ふりむん随筆」
国名と人名と同じもので付ける方の勝手だ。外からとやかく言う筋合いのものではない。

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Posted by: ryubun02
2003年11月8日 『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー 書の森 人の網⑩親泊朝擢」
戦後、一家心中した「親泊大佐」のことを大城立裕氏や豊川善一氏、井川良久氏、澤地久枝さんが書かれているので、私はその祖父と父について紹介する。『沖縄大百科事典』の親泊朝擢はかつて台湾に居た川平朝申氏が執筆している。1916年の『沖縄県人事録』に朝擢が北谷尋常高等小学校長として掲載され、1937年の『沖縄県人事録』には無く弟の朝輝が小樽市助役として掲載されている。

朝擢は1875年、父朝啓、母ウトの二男として首里大中に生まれる。父の朝啓は伊江朝助の随筆に「時の評定所は浦添朝昭の大虎の下に、虎小(グワー)と称する秀才があった。外間完薫、親泊朝啓、諸見里朝奇、比屋根安栄である」と出てくる。このうち浦添と朝啓は設置されたばかりの沖縄県庁に勤務。朝啓が丸岡莞爾知事死去に際しての追悼歌「月花につくす心はいく千代もふみのかかみに見ゆる君かな」。

笹森儀助『南島探検』に「1893年9月2日、県庁編纂主任掛親泊朝啓(琉球人)来訪ス、談、武器及其沿革ニ及フ」と朝啓のことだ出ている。ちなみに同書は琉球新報創刊にもふれている「9月23日、去ル15日ヨリ『琉球新報』ヲ発兌セリ、東京ヨリ記者2名来リ(略)開筵ノ式ニ招待状アルヲ以テ、本日答礼セリ」。

幣原坦は、1894年に来沖し、その著『南島沿革史論』の「南遊史話」に「沖縄県旧慣取調嘱託員親泊朝啓君には多く質問を試み」と出てくる。朝啓は旧慣に精通している。だから97年、佐々木笑受郎が公同会運動を復藩党として『大阪毎日新聞』に運動が成功したあかつきの「内閣名簿」に朝啓の役割を司法大臣に、内閣総理が尚順で太田朝敷を書記官長と準えて通信している。

朝擢は沖縄県師範学校を卒業後、仲吉ウシと結婚。北谷、首里の小学校の訓導を経て1901年、大宜味尋常高等小学校の校長となる。この年に朝啓が死去。2年後、長男の朝省(親泊大佐)が生まれている。11年、県学務課に勤務傍ら『沖縄教育』編輯主幹となる。このころから『沖縄毎日新聞』に蓬莱庵の名前で「人物月旦」を連載した。→『沖縄教育』誌上のペンネーム/素位学人、沖の島人、しののめ生、幻、編輯子

朝擢は『沖縄教育』編輯主幹を第60号(11年4月)から102号(15年7月)まで担当した。11年8月の64号は「偉人傳」で、巻頭には「汝の立つところを深く掘れ、そこには泉あり」と記され、岸本賀昌が「我琉球」とあいさつで始まり、当真嗣合の「琉球人の胸中に蘇生して・・・」で終わっている。

朝擢は『琉球見聞録』『沖縄県案内』『沖縄県写真帖』も刊行した。その功績は大宜味小学校の像とともに刻印され消えることはない。

1911年8月 親泊朝擢・編集発行『沖縄教育』第64号 本会創立二十五記念<偉人伝>
巻頭「汝の立つところを深く掘れ、そこには泉あり。ニーチェ」
○序・・・・・岸本賀昌・沖縄私立教育会長「我琉球廣袤小なりと・・・」 
○口絵「首里城趾」「中城趾」「護佐丸之墓」「大和御神」「蔡温筆跡」「宜湾朝保肖像及筆跡」「宜湾朝保筆跡」「程順則筆跡」「儀間真常之墓」「野國總管之墓」「總管野國由来記」「自了筆」「殷元良筆」
○沖縄の代表的政治家ー向象賢 蔡温 宜湾朝保・・・・・・・・・・・・・伊波普猷
○産業界の二大恩人ー儀間真常 野國總管・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○名護聖人程順則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・當眞嗣合
○二大画伯-自了と殷元良・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○劇詩家玉城朝薫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○三山統一の英主尚巴志王・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・親泊朝擢
○南島の忠臣護佐丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・當眞嗣合

○1917年8月 親泊朝擢『沖縄県写真貼』小沢書店
□名筆ー蔡温  程順則  宜湾朝保  尚温王  尚育王 
□名画ー自了 殷元良 小橋川朝安 筆山


1913年ー写真中央が横山健堂,、右より伊波普猷、当真嗣合、伊江朝助、親泊朝擢、太田朝敷、崎浜秀主

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前列右から、嵩原安冝、神山政良、漢那憲和、尚昌、太田朝敷。他に親泊朝擢、東恩納寛惇、上運天令儀、山田真山らが居る。
1915年「尚昌侯爵帰朝祝賀会」東京沖縄県人会

1920年、親泊朝擢上京し、東京高等師範附属小学校書記。

1934年、親泊朝擢、二男・朝晋が台湾嘉義高等女学校教諭となって赴任の折台湾に同行す。

1946年4月、台湾から引揚げ その後 朝晋(在千葉市)、3男西垣朝圭(在東京)等に居住。
1966年6月4日、親泊朝擢 老衰にて死去。

□井伊文子さんは1917年5月、東京麹町の琉球屋敷で父・尚昌と、九州小倉藩主の小笠原家から嫁いだ母・百子の長女として誕生。命名は東恩納寛惇である。

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上里朝秀(明星大学教授/1965年9月17日死去、75歳)
首里出身/沖縄師範をへて広島高等師範、京都大学卒業。/成城学園大学教授、同大学総長代理を歴任。

1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

1912年3月ー沖縄師範学校卒業生に仲原善忠、上里朝秀、島袋盛敏、與世里盛春、山内盛彬
1915年1月16日『琉球新報』「亡父朝徹葬儀ー男上里朝秀、朝宜」
1920年9月15日『沖縄朝日新聞』「弟朝宜、兵庫県三田に於いて病没ー兄上里朝秀、朝徹、朝義」

上里朝秀の著作



1924年6月『祖先の生活』イデア書院〇はしがきーこれまでの歴史は多く政治と戦争の歴史であった。ところが近年歴史の見方が進んで来て、文化史風俗史経済史社会史といったようなものが、だんだんと研究され、しかもこれらのものは前のものにもまし」て重んぜられられるようになって来た。まことに喜ばしいことである。/内が学校であり、川が学校であるという具合に、行くところすべてが学校であった。ずいぶん大きな学校ではないか。私たちもいつも小さな学校にばかり閉じこもらないで、時にはかような大きな学校で大きな先生から、おけいこをしてもらうことも必要である。西洋のあるえらい学者が、「社会は大学校なり」といっているが、もっと大きくして「宇宙は大学校なり」と言うことが出来る。

関連〇1927年10月『沖縄教育』165号 小原国芳「教育道に就て(1)昭和2年度夏季講習概要筆記」ー那覇の港に船が入ると前面に石垣の壁が見える。あれを見た時自分は直覚的に龍宮だと思った。浦島太郎の作者はきっと琉球に来たことのある人ではないかと思われる。私も遂に琉球まで来てしまいました。私の郷里は大隅半島の尖端である。学生時代にはよく琉球の婦人が琉装して反物を売って歩いているのを見たから琉球に来ても意外の処とは感じない。それに私の学園で五主任の中二人までが琉球の人である。仲原(善忠)君と上里君で、仲原君は30何万円という学園の予算を一人で切盛りしている。両君からも宜しくということでありました。」 

関連〇1931年4月『沖縄教育』188号 神田精輝「歴史教材の価値観ー上里朝秀氏著『国史教材の価値及取扱』を読みて」

関連〇1965年10月10日 石川正通□上里朝秀先生鎮魂歌ー七つの海を越え越えて/十万億土隔つとも/五倫五常の化身たる/翁の永生疑はず/見て進む人の世の/にも野にも山々に/告げ鳥の囀りは/づる人を称ふなり/先の世今の世後の世を/行き抜く信仰揺ぎなく/のこし給ひし功績に/遺賢の教へ仰ぐかな/徳は孤ならず我等皆/ををしく起ちてこの人を/偲びて生涯を/ぶじ平穏に送りなん

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1930年7月 今和次郎・吉田謙吉『モデルノロヂオ「考現學」』春陽堂


1935年11月『沖縄教育』231号 山里和弘「(那覇)市内盛り場 考現學的瞥見」
関連〇1935年4月『沖縄教育』224号 山里和弘「算術教科書にある他科教材の検討」/1936年1月『沖縄教育』233号 山里和弘「物価指数より見たる昭和十年の商況」/1936年4月『沖縄教育』236号 山里和弘「算術科入学考査問題を見て」

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渡口睦子さん
 那覇でも1938年の『琉球新報』に「令女考現学」と題して令嬢たちが紹介されているので、考現学というのは新聞記者の間では定着していたと思う。柳田民俗学は意識的に思想警察ににらまれる恐れのある「性」「都市」などを学の対象からはずした。別の民俗学の流れの南方熊楠、中山太郎、今和次郎らは積極的に追求した。あまり理屈は並べたくないが、カーライルは「現在というものは過去のすべての生きた集大成である」、禅は「会得し実践するものであって空論のためにあるのではない」というのは金言で、現在、今からの発想が重要だと強調している。現実の問題として「格差」「核基地」が日米でも話題になっているが、これらを考える対象にした学究は少ない。かつての「琉球国」も、未来の「琉球国」も「今」を抜きにしては単なるオタク(ネトウヨ・ネトサヨ)だ。「琉球国」を「日本国」に置き換えても良い。

 欧化政策で富国強兵を目指す方針の明治維新政府にとっては江戸期は否定すべきものであるが、好古の対象となって江戸学の三田村鳶魚らが登場する。和歌山の作家・神坂次郎氏は末吉麦門冬、熊楠、鳶魚を一括りにして『南方熊楠の宇宙ー末吉安恭との交流』という著をまとめられた。私は10代後半、東京古書会館の古書即売展で、金城朝永の『異態習俗考』を入手し。酒井潔『愛の魔術』の贅沢版を捲ったことがある。酒井は、風俗大衆雑誌のオルガナイザーの梅原北明の盟友で、澁澤龍彦の「魔道」にも先鞭をつけている。金城も伊波普猷も風俗雑誌に論考を発表していた。
 趣味や蒐集が庶民の間に広がり切手・古銭・絵葉書・燐票などが蒐集の対象となった。江戸期から続く趣味人たちのネットワークは、明治期には山中共古、淡島寒月などの研究・趣味誌とつながる。のちに逸翁の美術雑誌『美術・工芸』を創刊する山内神斧(日本画家。1877大阪生。名は金三郎。明治43年東美校卒。文展入選) は1926年に『壽々3』で「琉球の玩具」「淡島寒月」を図で紹介した。

逸翁・小林一三資料
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Category: 03-所感
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コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com

2016-11 ひより「作品
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アメリカ属国化、ここに極まれり
 日本テレビ『行列のできる法律相談所』で弁護士の橋下徹と共に出演し人気をとったものに、やはり弁護士の丸山和也が居る。丸山和也・自由民主党参議院政策審議会副会長は2016年2月17日、参議院の憲法審査会において、以下の発言を行った。「憲法上の問題でもありますけれど、ややユートピア的かもわかりませんけれども、例えば、日本がですよ、アメリカの第51番目の州になるということについてですね、憲法上どのような問題があるのか、ないのか。例えばですね、そうするとですね、集団的自衛権、安保条約はまったく問題になりません。例えば、いまは拉致問題というのがありますけれど、拉致問題すらおそらく起こっていないでしょう。それから、いわゆる国の借金問題についてとかですね、こういう行政監視のきかないような、ずたずたの状態には絶対なっていないと思うんですよ。これはですね、日本がなくなることではなくて、例えば、アメリカの制度になれば(略)日本州の出身が米国の大統領になるって可能性が出てくるようなんですよ。(以下略)」 〇丸山 和也(まるやま かずや、1946年1月23日 - )は、日本の政治家、元法務官僚、タレント、歌手。自由民主党所属の参議院議員(2期)、自由民主党参議院政策審議会副会長。自民党法務部会長 弁護士(登録番号:13673、第一東京弁護士会)、丸山国際法律・特許事務所代表。丸山総合法律事務所代表。→ウィキ

 橋下徹大阪市長による文楽への補助金見直し問題で、『上方芸能』は2012年6月号で「文楽を守れ!―132氏からの熱いメッセージ」と題した特集を組み、ドナルド・キーンや竹下景子がメッセージを寄せた。キーンは、文楽が「生を受け」た大阪での橋下の伝統軽視の姿勢を、「真にひどい話」と呆れ、日本における古典教育の希薄さを指摘しながら、「もし(文楽が)死に絶えるのなら、大阪の政治家の蛮行を世界は決して許さず、また忘れることもないでしょう」と批判した。
〇ドナルド・キーン(1922年6月18日 - )は、アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作がある。日本国籍取得後、本名を出生名の「Donald Lawrence Keene」から、カタカナ表記の「キーン ドナルド」へと改めた。通称(雅号)として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)を使う。→ウィキ
〇『琉球新報』2012年12月18日  <金口木舌>ドナルド・キーンさんの記憶
戦争とは悲惨なものだ。67年前に苛烈な地上戦を経験した沖縄では、その教訓を伝えようと継承を続けている
▼このほど来県した日本文学者のドナルド・キーンさんは、米軍の通訳として沖縄戦を体験した。平和主義者のキーンさんは「無意味に大勢の人が死んだ。生涯忘れられない」と、戦争のむごさを語っている
▼しかし、キーンさんの心には、当時感じた沖縄の人の温かさも残っているようだ。戦争のさなか、部下だった県系2世の比嘉武二郎さんに、おばの家に昼食に招待され歓待を受けたという。「敵を見たら憎いと思うはずだが、『ようこそ』と丁寧に言われ、とても温かい雰囲気だった」と振り返る
▼「沖縄戦 米兵は何を見たか」(吉田健正著)でも、このエピソードが紹介されている。昼食をもてなされたキーンさんは、片言のウチナーグチで「クヮッチーサビタン(ごちそうさま)」と感謝した。キーンさんが唯一知っているウチナーグチだったという
▼国や文化が違っていても、人々はつながり合い、心を通わせることができることを教えてくれる。「人間は交渉ができる」とキーンさんが言うように、各地で起こる紛争を平和的に解決し、二度と愚かな戦争を繰り返してはならない
▼67年前の記憶を今も語り続けているキーンさん。私たちも、多くの犠牲によって学んだ教訓を必ず次の世代につなげられるはずだ。

折口信夫「日本文学系図」

1976年12月発行の中公文庫『折口信夫全集』第31巻の「日本文学系図」は、昭和の初年の頃から著者が考案し、大きな紙に図式化し、時に触れて幾度か紙を継ぎはぎ、補訂したもので、原図はすこぶる錯雑していて、未だ定稿とは謂えないと思われるが、著者の日本文学史の体系を知るに簡便であるので、あえて巻末に収録した」とある。全集31巻には、折口の書簡が紹介されている。ネット上には上記の図の鮮明なものがあり、折口の「日本文学の発生」も読める。大正10年8月に大阪朝日新聞編集所に宛てた絵葉書には表の琉球美人は「尾類ズリ(遊女)といふもの」と書かれている。



1966年6月 添田知道『日本春歌考 庶民のうたえる性の悦び』光文社
〇添田知道そえだともみち(1902―1980) 文筆家。筆名添田さつき。放浪の演歌師として著名な添田唖蝉坊(あぜんぼう)の長男。東京・浅草に生まれ、日本大学中学中退後、堺利彦(さかいとしひこ)の売文社で働く。父親に倣って演歌の作詞・作曲などを手伝い、また大衆小説も書く。戦争下の1942年(昭和17)、自分が卒業した貧民街の万年小学校長坂本龍之輔をモデルに、書き下ろし長編小説『教育者』で第6回新潮社文芸賞を受ける。全四巻、2400枚のこの大長編は、未完のまま終わった。63年(昭和38)『演歌の明治大正史』で第18回毎日出版文化賞を受賞。ほかに『日本春歌考』(1966)などがある『『添田唖蝉坊・知道著作集』五巻・別巻一(1982・刀水書房)』 。→コトバンク


1972年7月ー竹中労(装幀・挿絵 竹中英太郎)『琉球共和国ー汝、花を武器とせよ!』三一書房
1975年8月ー竹中労(装幀・挿絵 竹中英太郎)『琉歌幻視行ー島うたの世界』田畑書店


1974年8月 内山惣十郎『浪曲家の生活』雄山閣
〇内山 惣十郎(うちやま そうじゅうろう、1897年12月19日 - 1973年2月6日)は、日本の演出家、劇作家、脚本家、作詞家、俳優である。浅草オペラの時代(1917年 - 1923年)に、その草創期から関わった。榎本健一『カフェー・ナンセンス』の作詞家としても知られる。→ウィキ

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Posted by: ryubun02
 『週刊朝日』 2017年3月24日 室井佑月〇・・・森友学園の話に戻る。安倍夫妻や日本会議に所属する議員が、はじめは素晴らしいと絶賛していたこの学園が経営する幼稚園の教育を知って、彼らが我々国民になにを望んでいるかがわかった人もいるように思う。3月1日、森友学園の籠池泰典理事長が自民党の鴻池祥肇参院議員へ封筒に入ったものを渡そうとし、口利きのお願いをしたことが発覚した。もう一人、名前が出てきたのは大阪維新の会の中川隆弘大阪府議だ。鴻池さんに籠池さんを会わせたのは、元秘書だった黒川治兵庫県議と言われている。中川さんに籠池さんを紹介したのは、山口県防府市の松浦正人市長だ。みな日本会議とつながりがある。てか、安倍内閣の人間、ほとんどが日本会議メンバーで、国会議員にもわんさかいる。この団体(日本会議)が牛耳るこの国でいいのだろうか? そこの部分を、国民全員で考えるときがきたのじゃないか


大阪朝日新聞「博覧会附録 場外余興」(1903年3月1日)
○人類館 斜に正門に対して其建物あり。準備の都合にて開館は来る五日頃となるべく夜間開館の事は未定なりと云へば当分は昼間のみならん。内地に近き異人種を聚め其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて北海道アイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、瓜哇一名、バルガリー一名、都合二十一名の男女が各其国の住所に摸したる一定の区画内に団欒しつゝ日常に起居動作を見すにあり。亦場内別に舞台如きものを設け其処にて替はる/\自国の歌舞音曲を演奏せしむる由にて観客入場の口は表にありて出口は裏にあり。通券は普通十銭、特等三十銭にして特等には土人等の写真及び別席にて薄茶を呈すとの事。

後列左端がヤマトの土人、その前が琉球人3人。中央のアイヌ人、今は髭が白いが若い頃の金城実さんにそっくりだ。金城さんは、在阪当時、共産党から「暴力的だ」と批判されたが、現在の大阪の知事、市長の劣化を見るにつけ、金城さんのような人物が必要だと感じる。沖縄には、山城博治氏や目取真俊氏らが居る。とにかくオキナワに辺野古核基地を押し付けるのが「差別」だということが分からない(知らんふーなーか)アベ政治は潰さないといけない。オキナワの自公と共に。とにかく、革新勢力は屁理屈を並べる前に、成すべきことは国会議員を増やすことだ。

〇大阪では学校法人「森友学園」(大阪市)の不透明な国有地払い下げ問題をめぐり、「浪速のエリカ様」こと上西小百合衆院議員「維新が食い物」と強調に対し、松井一郎大阪府知事が代表を務める政党「日本維新の会」の対立が激化。〇毎日新聞3月15日ー「日本維新の会の松井一郎代表(大阪府知事)は15日、森友学園の民事訴訟への関与を否定する国会答弁を撤回した稲田朋美防衛相の辞任を野党が求めていることについて「今回の件は、防衛大臣としては関係ない。辞任させるのは単なる政局作りにしか見えない。辞める必要はない」と擁護した。この松井知事は、学校法人「森友学園」(大阪市)の小学校設置認可をめぐる問題で、前任の橋下徹氏が15日朝までに、一連の小学校認可の手続きについて、「明らかにミス」などとツイッターに投稿し、自身らの責任を認めたと云うのに、キモい防衛大臣を擁護。

 目取真俊さん不起訴「諸般の事情を考慮」は12日、名護市辺野古沖からフロートを越えて米軍キャンプ・シュワブの制限区域に入ったとして、刑特法違反容疑で逮捕された芥川賞作家の目取真俊さん(56)を不起訴(起訴猶予)処分にした。(毎日新聞-2016/10/12)/遊ん沖縄在住の芥川賞作家、目取真俊(めどるましゅん)さん(56)が、沖縄県北部やんばるの森で進む米軍ヘリコプター離着陸帯(ヘリパッド)建設に反対する住民らの動きをブログで日々発信している。 14日に大阪市であった講演会・・・(毎日新聞-2016/10/14)



ハシシタの傍にいつもマツイが居る
2012年8月 小西進『「橋下総理」でいいんですか❔記者が見たウソ・ホント』日本機関紙出版センター
○はじめにーテレビの中の橋下さんー2008年1月の大阪府知事選挙に出馬表明するまで、橋下徹さんは「タレント弁護士」としてテレビのバラエティ番組などに出演していたらしいですね。しかもかなりの人気を集めて、知名度は全国区だったらしい。「らしい」というのは「茶髪」にサングラス、ジーパン姿」という「タレント弁護士」としての橋下さんの姿を、私自身はテレビで一度も見たことがなかったからです。(略)橋下さんの「恩人」である、やしきたかじん氏、島田紳助氏のことは前から知っていました・・・

 差別発言擁護を「出張ご苦労様」とツイートしたマツイ知事の、その元凶はハシモトに遡る。あんだけ大騒ぎした「大阪都」構想は何処に行ったか。ま、都にして老いた石原慎太郎都知事のように利権を貪るつもりだったらろうが。ハシシタ失政のシンボルタワーの旧WTCビル(咲洲庁舎)が聳える。大阪市民に総計1051億5千万の損害を与えたものだ。

□会見の場所でハシシタ市長が聴衆者から「天狗になるなよ」と言われ、キレて「出て行ってください!」といったという。別の会見場で男性から「政党交付金は税金の無駄遣いではないと(考えているのか)」と聞かれた際、ハシシタ市長は「赤旗よりはまし。世の中であんな役に立たない新聞はない」といったという。で、赤旗の記事を沖縄県立図書館へ見にいった。ハシシタに嫌われる新聞は良い新聞だ。


『琉球新報』2016年10月20日


[レイバーネット日本]2016年10月20日
差別助長の政治こそ問題~「土人発言」大阪府警本部前で抗議行動 -沖縄県東村高江で、ヘリパッド建設に反対する市民に対し、大阪府警の20代の機動隊員が、「土人」「シナ人」と侮蔑的な発言をしたことを受け、10月19日(水)17時から、大阪府警本部前で抗議行動が行われ、約70名が参加しました。通常、抗議行動が始まるとすぐさま止めに入る大阪府警も、この日はテレビカメラを意識してか遠巻きから様子をうかがっていました。参加者からは次々と悲しみと怒りに溢れたアピールが行われ、そびえ立つ大阪府警のビルに向かって、「大阪府警は大阪帰れ」「大阪府警は謝罪しろ」「沖縄差別を許さない」などの力強いシュプレヒコールが繰り返されました。


 印象的だったのは、大阪府警の傲慢で、暴力的かつ差別的な言動の根源は、維新の会による政治を許してきた大阪の状況にあるのではないかと話す人々が多くいたことです。最近大阪で起きた市場ずしや阪急バスによる韓国人差別、道頓堀で起きた韓国人旅行者に対する暴行、「本日は多数の外国人のお客さまが乗車されており、大変混雑しておりますので、日本人のお客さまにはご不便をおかけしております」と車内アナウンスを行った南海電鉄の対応など(全て大阪!)、差別が日常化する土壌を作って来た背景には、公務員バッシング、朝鮮学校への補助金停止など差別と対立を煽ってきた維新政治が影響しているとの発言も行われました。

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 1158年 太宰大弐に任ぜられた平清盛は、太宰府に赴任することはなかったが、宋商船が運んでくる唐物に強い興味を抱き、やがて宋人を太宰府から瀬戸内海へと招いた。
☆神戸の灘の薬師さんの傍らで長年「国語」の研究に専念していた奥里将建翁、最後のまとめとして1964年「沖縄に君臨した平家」を沖縄タイムスに連載(10-8~12-11)した。□10月11日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」(4)怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」→「琉文21」雑誌『おきなわ』/1926年4月ー奥里将建『琉球人の見た古事記と萬葉』青山書店

1167年 平清盛、太政大臣となる

写真ー重要文化財本堂 昭和大修営落慶記念  昭和四十四年五月十八日 六波羅蜜寺
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
 現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
 源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8,000基が出土した。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。

1260年 英祖王、即位
      ☆麦門冬・末吉安恭は「琉球画人伝」の中で、この時代を「仏教の起源と芸術の揺籃」と称す       補陀落僧禅鑑、葦軽船で琉球に漂着、英祖王保護のもと極楽寺(のち龍福寺)を創建
1281年 島津長久ら薩摩国の兵を率いて壱岐にて元軍を攻める。
1372年 1月、楊載、来琉
1377年 琉球国王察度、南山王承察度ら明に使者を遣わし馬、方物を貢す。北山王帕尼芝、明に使         者、方物を貢す。頼重法印(真言宗)、薩摩坊津から来琉。
1402年 足利義満、島津伊久に明を侵す鎮西海賊の取締を命ず。
       明使が北山第に足利義満を訪ね国書・大統暦、賜物を伝える。
1404年  時中、来琉し武寧に皮弁冠服が頒賜される。
1406年 武寧、寨官の子石達魯ら6人を明に遣わし国子監に学ばせる。
1410年 琉球国官生模都古ら2人、明の国子監に入り学を受ける。
1413年 中山王思紹、太勃奇を明に遣わし馬を貢し、寨官の子ウ同志久・周魯毎らを送り国子監で学ばせる
1415年 琉球国山南王汪応祖の世子他魯らを明朝に遣わす。足利義持、琉球国思紹に「りうきう国よ        のぬし」で書簡を送る。
1418年 琉球国中山王思紹、長史の懐機らを明に遣わす
1425年 柴山(中官)来琉、勅を齎らし巴志に中山王を嗣がせる。「中山門」扁額を掲げる。

1427年 安国山樹華木之記碑

沖縄県公文書館玄関にある安国山樹華木之記□首里王城の威容を増し、合わせて遊息の地とするため、王城の外の安国山に池(龍潭)を掘り、台を築き、松柏・花木を植え、太平の世のシンボルとして永遠の記念とする。

1429年 巴志、三山統一 
1430年 巴志、明帝から尚姓を授けられる
1443年 朝鮮通信使の書状官として申叔舟が来日
1453年 朝鮮国、琉球国使者道安の齎らした日本琉球地図表装
1456年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し大聖寺、天尊殿、相国寺、普門寺、建善寺、長寿寺、天竜寺、広厳        寺、報恩寺、大安寺に寄進
1457年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し霊応寺、永福寺、大禅寺、上天妃宮、天妃宮、竜翔寺、潮音寺、万       寿寺、魏古(越来)に寄進
1458年 尚泰久王、万国津梁の鐘を正殿にかける。
  
  万国津梁の鐘(沖縄県立博物館・美術館)

      尚泰久王、梵鐘を鋳造し永代院に寄進
       尚泰久王、梵鐘を鋳造し一品権現御宝殿、東光寺に寄進
1461年 島津立久、尚徳の国王即位を祝い太平書を賜う
 
1466年 琉球国王尚徳の使者芥隠承琥、足利義政に拝謁、方物を献ず。
       □7月28日ー琉球の使者一行が将軍・足利義政に謁見、方物も献上する。
        8月1日ー琉球正使・芥隠西堂から蔭涼軒(季瓊)真蘂に大軸(中国から琉球国王に贈られ        たもの)、南蛮酒を贈る。(義政時代6度目の琉球人参洛)。
    

雪舟が描いた琉球人

『自治おきなわ』1996年7月号に私(新城栄徳)は「京都の博物館で『国々人物図巻』を見たことがある。明に渡った雪舟が北京の街で見かけた珍しい人びとを写生したものを弟子が模写したもので、その中に世界の海を駆け回ったイメージに重なる琉球人像がある。」と書いた。明代の類書『万金不求人』に和寇図と共に大琉球國人も載っている。長崎県立美術博物館の正保版『万国人物図』にも琉球人が登場している。多くの絵師たちが好んで万国人物図を画題にしていたようだ。私は雪舟の弟子の絵の写真(琉球人)を琉球新報の岡田輝雄記者に提供。これは1991年9月発行の『新琉球史』(古琉球編)に載った。同様に佐久田繁月刊沖縄社長に提供したものは99年9月発行の『琉球王国の歴史』に載った。

1474年 尚円、島津忠昌の家督相続を祝う
1480年 足利幕府、応仁・文明の乱が終わったので琉球に朝貢船を送るよう島津忠昌に催促させる。
1482年 琉球国尚真、奏して陪臣の子蔡賓ら5人を南京国子監において読書させることを乞う。
1492年 ドイツ人地理学者マルティン・ベハイム、地球儀を作成
1492年 尚真王、先王尚円を祀るため円覚寺建設に着手
1497年 万歳嶺記、官松嶺記を建設。円覚寺禅寺記碑
1502年 朝鮮王季揉から贈られた方冊蔵経収集のため円鑑池に小堂を建設(1621年に弁財天像を       安置)
1507年 尚真王、書を島津忠昌に送り修好の意志を伝える
1508年 島津忠治、尚真に書を送り、島津氏の印判(琉球渡海朱印状)を持たない商人を点検し船財       等を収公を許す
1510年 尚真王、官生蔡進ら5人を南京国子監において読書を乞う。
1527年 尚清王、智仙鶴翁を遣わし明皇帝の日本宛の国書を齎す。足利義晴、書を尚清に送り日明       和与の斡旋を謝す。
1530年 月船寿桂、「鶴翁(智仙)字銘并序」で為朝伝、琉球附庸説に言及。
1531年 『おもろさうし』第一巻、成る
1534年 5陳侃(正史)、高澄(副史)那覇着。7尚清冊封の礼。9冊封使、開洋。10陳侃『使琉球録』        著わす

1550年 5月4日ー足利義晴、近江穴太(現滋賀県大津市穴太)にて死去。享年40(満39歳没)。

1556年 島津貴久、尚元王が建善寺月泉を遣わしたことに答書し隣交を求める。
1561年 郭汝霖(正史)、李際春(副史)
1568年(永禄11)9月 織田信長、将軍足利義昭を奉じ上洛、当面の仮御所として義昭は本國寺に入      り、信長は清水寺を宿所とした。 
1569年(永禄12) 仮幕府のおかれた本國寺が襲撃にあったことから、信長は義昭のために二条城        (二条御所)を築く。
1569年(永禄12年)、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、ルイス・フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている。フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、戦国期研究における重要な資料の一つになっている。その後は九州において活躍していたが、1580年(天正8年)の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。1583年(天正11年)、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後に『日本史』とよばれることになる。→ウィキ


松田 毅一(まつだ きいち、1921年5月1日 - 1997年5月18日)は、日本の歴史学者。香川県高松市出身、大阪市育ち。専門は戦国時代から江戸時代初期の日欧交渉史、特にポルトガル・スペインとの関係史。ヨーロッパ各地(ポルトガル・スペイン・バチカン等)やフィリピン、マカオ等の文書館に保存されている日本関係史料の発見・翻訳・紹介に取り組み、また多数の著書・論文を発表して日本における上記分野の研究の進展に貢献する一方、こうした研究成果の一般市民への啓発・普及、関係諸国との学術・文化交流にも尽力した。→ウィキ

1575年 琉球国の紋船(使僧天界寺南叔、使者金武大屋子)、鹿児島に着く。印判を持たない商船に       交易を許したこと、島津使僧広済寺雪芩津興を粗略のことに島津氏に弁明。
1579年 簫崇業(正史)、謝杰(副史)来琉。簫崇業「那覇と首里の二ヶ所で、馬市(mashi)が設けら        れている。物を売るのはおおむね女-」。
1580年 琉球国尚真、島津義久に九州大半の帰伏を祝い隣交を求める。
1586年(天正14)  豊臣秀吉、聚楽第、方広寺大仏殿造営はじまる。
○国立博物館隣にある豊国神社は、豊臣秀吉死去の翌年の1599年、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。方広寺にあった大仏は、天保年間に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。この大仏は私もよく見にいったが1973年3月28日深夜の火災によって焼失した。


方広寺の大仏

1587年 島津義久、豊臣秀吉に降伏。
1590年 豊臣秀吉、尚寧王に書を送り、全国統一を強調。政化を異域に弘め四海を一家となす志を述べる。

1594年 尚寧王、島津義久に国家衰微のため唐入りの軍役は調達できない旨答える。


1976年2月 神坂次郎『徳川家康ー物語と史蹟をたずねて』成美堂出版
○二百七十年の徳川王国を築いた鼻祖だけあって、家康の史料は膨大である。明治以降に書かれた伝記でさえ(史料や研究書は別にしても)数えてみれば五十余冊ある。しかし、書くときめた以上、手当たりしだい、目に触れるかぎり読み倒してやろうと勇猛心を奮いたたせたのだが、これは軽率であった。なにしろ生身の家康というのは、幕府が神格化し御用学者たちが三世紀にわたって阿諛(おもねりへつらう意)をきそい、目も鼻も弁じぬまでに”神君〟の厚化粧をほどこしてしまったような扁平な人間ではない。その心意は複雑で矛盾にみち、屈折している。・・・

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写真左/1999年5月11日沖縄ハーバービューホテルで神坂次郎氏(作家・熊野の生き字引で司馬遼太郎の文学仲間)、新城栄徳。麦門冬・末吉安恭の取材を終えての祝盃。撮影・末吉安允
写真右/1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談司馬遼太郎『街道をゆく6』朝日新聞社
○大阪の都島本通で、篤志でもって「沖縄関係資料室」をひらいていおられる西平守晴氏にもきいてたしかめることができた。西平氏は、「そうです、そんな話があります」といって、南波照間の「南」を、パイと発音した。ついでながら本土語の南風(はえ)は沖縄でも「南」の意味につかう。本土語の古い発音では、こんにちのH音が古くはF音になり、さらに古くはP音になる。つまり花はパナである。八重山諸島の言葉はP音の古発音を残していて、南(ハエ)が南(パイ)になるらしい。西平氏はこのまぼろしの島を、「パイ・ハテルマ」と、いかにもその島にふさわしい発音で言った。


左から徳川家康、秀忠、家光

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尚寧王
1602年 徳川家康、陸奥国伊達氏領に船で漂着した琉球人を島津忠恒に送還させる。
1604年 野国総官、渡唐、帰国(05年)のとき蕃薯を持ち帰る。
1605年 本多上野介正純、長崎奉行小笠原一庵に平戸漂着の琉球船の荷物没収を命ず。
1606年 山口駿河守直友、薩摩商人の渡海が琉球出兵の妨げにならないよう分別を促す。
1608年 山口駿河守直友、島津家久に、琉球出兵の準備と、再度琉球国王に家康への来聘を促す交渉を命ず。
1609年 3-4島津軍、琉球出兵で山川湊を出帆。

1609年(慶長14)4月 薩摩軍、琉球侵攻/5月 鹿児島に中山王・尚寧を連れ帰る 

○南方熊楠「大本といふ神號」/麥生(末吉安恭)「薩人の虐殺」〇雪嶺先生の著「大塊一塵」の中に露國人は我が薩摩人と其の性格類似の點があると云はれた。私も其の卓見に当時敬服」した一人である。尼港事件で露人の残虐性を知った私は薩人にも又似たやうな残虐性をその過去の歴史から発見した。薩摩人には少々憚ることだが雪嶺先生も嘗て言はれたことだから参考の為めに引張出さう。それは慶長14年島津氏が琉球を討った時薩摩の兵が非戦闘員なる琉球の土民を虐殺したことである。その虐殺を試みた当人の書いたものだからこれ程慥かなことはあるまい。中山國幷大島徳之島永良部島喜界島責取日記と云ふににある。曰く「御手之士6人7島勢240人那覇之方へ御超被成候3月の事なれば老若男女麥畠の草取に集り居り候が此人々之風情を見て驚ふるひはなき麥畠の中に随居候を美濃守殿(樺山資高)より7島詰船頭之内願作へあの者引出し一々切捨可被仰付候に付皆引出し切捨申候。私刀は前方被ト候備前にて候が十二三人程切候得共少も痛不申候與申候」云々。薩摩バルチザンの得意想ふべきである。(1920年11月 『日本及日本人』)

 2006年5月13日ー午後は、近鉄丹波橋で降りて、御香宮神社に行く。名水「御香水」が境内にある。この神社には京都市天然記念物のソテツがあり、その実は「延命厄除そてつ守」になっている。鳥せい本店側では名水「白菊水」、月桂冠大倉記念館では名水「さかみづ」を飲んだ。同時に昼間からきき酒で顔が赤くなった。

御香宮神社
近鉄奈良駅西口を出て地下道を通って近鉄高天ビルに出て歩道を西の方に歩くと直ぐ通称「山の寺」という看板が見える。奧まったところに「葵」の紋を打った山門が建っているところが浄土宗降魔山「念仏寺」である。門をくぐると降魔山と記された燈篭がある。その傍らに蘇鉄。1614年(慶長19年)11月15日徳川家康が大阪冬の陣の折、木津の戦いで真田幸村の軍勢に敗れ、奈良へ逃げ延び、この地の小字山の寺に至って、桶屋の棺桶の中に隠れ、九死に一生を得た。その後に、家康が豊臣方を破って、天下が治まった、1622年(元和8年)徳川家康の末弟で当時伏見城代を務めていた松平隠岐守定勝が、ここ油坂・漢国町を買い受け、袋中上人を開山として諸堂を建立したのが、山の寺「念仏寺」の始めである。

浄土宗降魔山「念仏寺」

〇御香宮神社は徳川家と深い関わりがある。徳川家康が豊臣秀吉のあとをうけ伏見城で天下の政事をとったおり、尾張、紀伊、水戸の御三家の藩祖と、秀忠の娘千姫はこの伏見で誕生している。御香宮を産土神として特別な崇敬を払っている。御香宮の神門は1622年に水戸中納言頼房(水戸光圀の父)が伏見城大手門を寄進したものと言われている。
□御香宮神社は江戸末期の慶応4年(1868)正月に勃発した「伏見・鳥羽の戦」では、吉井孝助率ら官軍(薩摩藩など)の屯所となった。片や幕府軍は大手筋通りを隔てた南側200mほど離れた伏見奉行所に陣(伝習隊、会津藩、桑名藩、新撰組などが)を構えた。大砲・鉄砲などの弾が激しく飛び交ったが、御香宮は幸いにして戦火には免れている。官軍の屯所となった境内には「明治維新伏見の戦跡」の石碑がある。□→1983年9月ー山本眞嗣著・水野克比古撮影『京都伏見歴史紀行』山川出版社

○「(略)この根抜けざることは、間々聞き候が、何に因し候や。右の袋中上人には、更に『琉球往来記』と申す書これあるやに承り候が、御存知なきや。若し御存知にて候はば、其の本の所在御示し下され度候。沖縄図書館にて琉球に関する書類を集め中に候が、加州金沢の俳人堀田麦水(天明3年63才没)の著書に『琉球属和録』『南島変』『慶長中外伝』(66巻)とあり。御存知なきや。「属和録」は写本にて(欠本)1部沖縄図書館にあれど他はこれなく候。加州金沢の俳人堀田麦水。屈麦水と称す。樗庵、暮柳舎と号、通称池田屋長佐衛門。」(1918年5月27付の南方熊楠宛の末吉安恭書簡) 新城■麦水というのは角川『俳文学大辞典』に俳諧師・稗史実録作者とある

1610年(慶長15)8月2日 島津家久、中山王・尚寧を連れて駿府に参る/8日 島津家久、中山王・尚寧を連れて登城し徳川家康に拝謁/王弟、具志頭王子尚宏、家康に対面後に病死し興津の清見寺に葬られた。/18日 家久と中山王・尚寧に饗応で猿楽、頼宣、頼房が舞う。その間酒宴  
1610年(慶長15)8月25日 島津家久、中山王・尚寧を連れて江戸に参着/28日 尚寧、登城し台徳院(秀忠)に拝謁/9月20日 島津家久、中山王・尚寧を連れて木曽路より帰国



○琉球国中山王尚寧起請文(部分・島津家文書)。起請文は戦国時代、忠誠を誓うもの。豊臣秀吉の拾丸(秀頼)への忠節を尽くさせる血判誓紙も烏点の牛王(うてんのごおう)宝印があるので熊野信仰の流れのひとつであろう。
〇熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、古来より多くの人々の信仰を集めました。今なお多くの参詣者が訪れ、熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山の一つ。夫須美神(ふすみのかみ)を御主神としてそれぞれに神様をお祀りしている。伊弉冉尊(いざなみのみこと)とも言われる夫須美神は、万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、縁結びの神様また、諸願成就の神としても崇められている。社殿は、仁徳天皇の御世(317年)に現在の位置に創建され、平重盛が造営奉行となってから装いを改め、やがて、織田信長の焼討に遭ったのを豊臣秀吉が再興した。徳川時代に入ってからは、将軍吉宗の尽力で享保の大改修が行われている。→「那智勝浦観光ガイド」参照






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浦添市美術館で/左、新城栄徳、徳川義宣氏(徳川美術館館長)( 徳川美術館 hp)□徳川 義宣(とくがわ よしのぶ、1933年12月24日 - 2005年11月23日)は、尾張徳川家第21代当主。美術史家、財団法人徳川黎明会会長、徳川美術館長。養子のため徳川家の血筋はついでいないが、多数の著作や講演でのアピールで、他の御三家以上に露出度を高めた。徳川家康の遺訓だとされていた「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」は、家康のものではなく、徳川光圀のものであると確認した。(ウィキペディア)


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 私にとって、絵本は保育園や幼稚園を連想する。ここで戦前の那覇市内の幼稚園をみる。1876年に東京に官立の「東京女子師範学校附属幼稚園」が設立されている。那覇では遅れて、1893年に天妃尋常高等小学校附属幼稚園が設立された。1907年4月、真教寺の田原法馨らが真教幼稚園を設立している。同年1月の『琉球新報』に森柳子が「愛花幼稚園生に就いて」を書いている。翌年11月の『琉球新報』には「森柳子主宰になれる那覇区内字久米安仙坂の善隣幼稚園は元愛花幼稚園の改称せしもの」とある。1930年に永田ツルが愛泉幼稚園、32年に那覇市が上山幼稚園を設立した。33年には八重山でヤエマ幼稚園が設立されている。

□→2004年1月 斎木喜美子『近代沖縄における児童文化・児童文学の研究』風間書房

沖縄県立「沖縄図書館」100年
今年は沖縄県立「沖縄図書館」が開館されて百年になる。ここ沖縄では去った大戦で文化財や建築物や多くの人命が失われた。新聞も図書館、博物館も、学校や首里城も、厳密にいうと系譜的には戦前と切れている。だが今こそ伊波普猷の開館初期の理想に立ち返り系譜の糸を太くする努力も大事であろうと思われる。

沖縄県立沖縄図書館の初代館長は言うまでもなく伊波普猷であるが、厳密には嘱託館長で正式な館長になったのは12年後である。伊波の図書館には当時としては画期的な児童室があった。ここで、その背景をみてみる。1874年、新島襄がアメリカでの修行と勉学を終えて帰国。故郷の群馬県安中に一時帰郷した。そこでアメリカ文化やキリスト教の話を若者たちにした。その中に16歳の湯浅半月も居た。1875年11月、新島襄は山本覚馬、J・D・ディヴィスと協力して「同志社英学校を」を設立した。1877年、半月は同志社に入学。1885年に渡米しオハイオ州オペリン大学神学科やエール大学で学んだ。1891年、帰国し直ちに母校同志社の教授。1899年に平安教会の牧師。1901年に新設の京都帝大法学部講師となり大学附属図書館事務にも従事した。

1900年9月、伊波普猷は京都の第三高等学校に入学。01年夏に京都でコレラ流行、伊波は一時東京に避難したという。このころ極度の神経衰弱で、気を散らすため考古学会に入り宇治辺りまで出かけた。また西本願寺の仏教青年会主催の講義や平安女学園音楽講師だったオルドリッチ女史のバイブルクラスにも出入りした。伊波は03年7月に第三高等学校を卒業し9月、東京帝大文科大学に入学した。

1902年、湯浅半月(44歳)はアメリカへ図書館事業調査のため旅立った。アメリカではシカゴ大学図書館学校、オルバニー市の図書館学校で貸出の必要性と児童室の必要性を学んだ。1904年、半月は京都府立図書館長に就任。京都府は09年に岡崎公園内に工費15万円を投じ、図書館本館を完成(□→武田五一)。そこには日本最初の児童閲覧室が設けられた。また半月はM・デューイの「十進分類法」を取り入れ「和漢図書分類目録」(美術工芸編、歴史地誌編等10分類全16冊)を刊行した。このときの蔵書は現在、京都府立総合資料館にある。因みに京都府立図書館の一部と、奈良県立図書館( http://www.library.pref.nara.jp/index.html )の建物は移築され今も残っている。

1906年、宮古の比嘉財定が第五高等学校を終え東京帝大法科大学に入学した。在学中、柳田國男に出会い、比嘉は柳田に「比嘉村の話」をする。比嘉は10年7月に東京帝大を卒業。農商務省勤務を経て1915年にアメリカ留学。17年にカリフォルニア州立スタリント病院で死去。

1909年8月、伊波普猷は3週間にわたって鹿児島、山口、大阪、京都、奈良の図書館を視察する。そこで伊波は財政的規模を奈良図書館に求め、運営に関しては湯浅半月京都図書館長のアドバイスを受けた。
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湯浅半月京都図書館長。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館創設にあたって半月のアドバイスを受けている。京都図書館は1909年2月落成した。現在は外観だけ残して、後ろにガラス張りのビルが新築された。 

 1910年5月、伊波の友人、八重山の岩崎卓爾が図書館に新渡戸稲造『英文武士道』など、漢那憲行が薄田泣菫『二十五弦』ほか、浦添朝忠は『資治通鑑』など700冊を寄贈。6月には末吉麦門冬が『俳句の研究』『蜀山人全集』などを寄贈している。かくして琉球学センターとも云うべき沖縄県立沖縄図書館は8月1日、那覇の南陽館で開館式を迎えた。折りしも8月22日は「日韓併合」があった。沖縄図書館の児童書は「中学世界、少女世界、少女之友、少年之友、日本少年、少年、少女、幼年之友、幼年画報」などがあった。

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1910年7月31日『沖縄毎日新聞』

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奈良県立図書館ー1908年に奈良公園内に建てられたもの。昭和43年に郡山城内に移築された。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館のモデルを奈良県立図書館に求めた。

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1870年□名妓小三-鳥取藩士松田道之と祇園下河原の大和屋お里との間に、ぎん(鈴木小三)が生まれる。

写真ー名妓小三

1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。1872年9月に琉球藩が設置されると川崎正蔵も戸籍寮の根本茂樹らと来琉し沖縄物産調査を行った。川崎は「日琉間に郵便定期航路を開き、武断政策よりも経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島密に認められた。

1875年9月、日本国郵便蒸気汽船会社解散にともない明治政府は大有丸を琉球藩に下付。11月、郵便汽船三菱会社が琉球航路を開始した。

1876年8月27日の『朝野新聞』に「沖縄は他県からの商人50人、陸軍省派遣の職工138人、女性1人」と報じられた。同年、琉球正史『球陽』の書き継ぎが終わっている。


1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった


1879年5月4日 京都『西京新聞』「琉球ばなし」

1879-5-27 藩王尚泰、東海丸で東京向け那覇港出帆(6-4神戸で2泊)

1880年6月に、郵便汽船三菱会社の貫効丸が琉球、鹿児島・大島、神戸間を運航をはじめた。翌1881年3月に東京上野で開催の第二回内国勧業博覧会に沖縄からも織物、陶器、漆器が出品された。

1881年5月18日に上杉茂憲が沖縄県令として赴任してきた。7月の大阪『朝日新聞』に「沖縄県泡盛酒」の広告が載った。翌1882年の『朝日新聞』の3月「首里城が陸軍省所轄永世保存城と定まる」の記事、6月には「琉球カスリ-西平筑登之」の広告も載った。


1882年11月16日、第1回沖縄県費留学生の大田朝敷、謝花昇、岸本賀昌、高嶺朝教、今帰仁朝蕃が那覇港から平安丸で上京、29日には神戸に寄っている。
1883年4月に岩村通俊が沖縄県令として赴任した。12月には西村捨三が沖縄県令となる。

1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。→1996年6月『大阪春秋』堀田暁生「自由亭ホテルの創業ー大阪最初のホテルー」

1885年2月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し金毘羅宮①参詣。西村は中井弘(櫻洲山人)滋賀県令と計り尚泰に近江八景遊覧にさそう。8月には元彦根藩士で西村と同士であった横内扶が沖縄県七等属として赴任する。9月、郵便汽船三菱会社、共同運輸会社と合併し日本郵船会社となる。1886年3月、山県有朋内務大臣、益田孝、西村捨三らと同行し来沖。


写真ー西村捨三
生年: 天保14.7.29 (1843.8.24) 没年: 明治41.1.14 (1908)
明治期の官僚。父は彦根藩(滋賀県)作事奉行西村又治郎,母は貞。幼君井伊愛麿(直憲)に仕え,藩校弘道館に学んだのち同館国学方教授長野義言(主膳)の推薦を得て藩命により江戸に留学,塩谷宕陰に学んだ。この留学中の放蕩に対し,父が幼名の得三郎を捨三に改めると訓戒したのが名の由来。のち一代限騎馬徒士,藩校教授となる。その間京都周旋方として情報収集に当たり,大政奉還後は朝旨遵奉という藩の方針の下で東山道征討に参加した。明治5(1872)年旧藩主直憲に従い欧米を視察,10年内務省に出仕し,警保局長,土木局長などを歴任した。22年大阪府知事に転じ淀川改修,上水道整備に尽力し,次いで農商務次官のとき平安神宮創建に参画。大阪築港にも貢献した。
(コトバンク・長井純市)


①ことひら‐ぐう 【金刀比羅宮】
香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町にある神社。祭神は大物主神を主神とし、崇徳天皇を配祀(はいし)。海上安全の守護神として信仰される。明治初頭までは神仏習合で、象頭山(ぞうずさん)金毘羅(こんぴら)大権現と称した。琴平神社。こんぴらさん。→コトバンク


写真ー尚泰

1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。



1889年12月11日『大阪朝日新聞』「琉球の和歌」


写真ー丸岡莞爾 まるおか-かんじ
1836-1898 幕末-明治時代の官僚,歌人。
天保(てんぽう)7年5月28日生まれ。鹿持雅澄(かもち-まさずみ)に国学をまなび,坂本竜馬(りょうま)らとまじわり脱藩して長崎にすむ。維新後,内務省社寺局長などをへて沖縄県知事,高知県知事となる。明治31年3月6日死去。63歳。土佐(高知県)出身。本姓は吉村。字(あざな)は山公。通称は三太,長俊。号は建山,掬月,蒼雨など。歌集に「蒼雨余滴」。(コトバンク)

1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。

□琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一が父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

 1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘①の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社②を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』

②六孫王神社
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大城弘明氏撮影

□六孫王は、清和天皇の六男を父として生まれ、経基と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていた。十五才にて元服、源の姓を賜わり、先例に従い臣籍に加えられたとある。承平・天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられた。王は現在の社地に住居を構え、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言された。王の長子満仲公は遺骸を当地に埋葬され(本殿後方に石積の神廟がある)その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりである。(平安時代中期)
 境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社がある。(6月13日弁財天御開帳祭)
 江戸時代五代将軍綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。毎年十月体育の日に例祭(再興が元禄より始まり宝永年間に完成したゆえ別名“宝永祭”とも謂われる)が行われる。
 王の後裔には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将が多数輩出され、それぞれ子孫繁栄されている。
 昔は、六ノ宮権現とも呼ばれ、今昔物語に「六の宮」それを基に芥川龍之介が「六の宮の姫君」にも載せている。小泉八雲著の「怪談」には、「弁天の同情」と題して不思議な夫婦の出会いの話が紹介されている。

「小泉八雲」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1898年、那覇の喜屋武元持が酒造原材料仕入部を大阪に設置。小嶺幸之は大阪の漆商鳴神孫七と特約し製漆販売を開始、小嶺は後に広運社の常務になる。教育家・高良隣徳は滋賀師範学校教諭から奈良県立中学校教諭として赴任。1899年4月、在阪の銀行、商船会社、商店などの沖縄に縁故がある人たちが集う懇親会が大阪西長堀の岸松館で開かれた。

へいあんじんぐう【平安神宮】
京都市左京区に鎮座。桓武天皇と孝明天皇(1940年合祀)をまつる。桓武天皇の平安京遷都1100年記念祭に当たり,官幣大社として1895年創建された。社殿は平安京の大極殿,応天門を模したもの。例祭は4月15日。10月22日には神幸祭があり,平安時代より明治維新までの服装・風俗をまね,時代順に行列・供奉するので時代祭と称し有名である。境内の神苑は名園として名高い。→コトバンク

□大阪市港区の天保山公園には大阪港築港の功労者、第六代大阪府知事の西村捨三の銅像がある。西村捨三は彦根藩の出身で、若き日に井伊家第17代直憲に仕えた。西村翁は往時を偲んで、井伊家の庭園にあった名石朝陽岡をもらい受け、自宅の庭に置いていた。昭和32年西村翁の銅像を建設するに当たってこの石もこの地に移されることになった。



1909年4月『琉球新報』□師範中学旅行生の消息ー4月6日、火曜日、神戸、京都 午前9時半汽車にて神戸駅を発し12時京都に着。直ちに東本願寺に参詣致し建築の壮大な に驚き入り候。これより途中耳塚を右に見立て豊国神社に詣で旧伏見桃山殿の唐門大仏殿、国家安康の大鐘を見て博物館に入り歴史美術上の珍品に知囊を養い三十三間堂を経て桃山御殿に詣で血天井を見。妙法院西大谷を過ぎて清水寺に詣で候・・・。


写真ー池上四郎ー1877年、池上は警視局一等巡査として採用され、間もなく警部として石川県に赴任した。その後、富山県などの警察署長、京都府警部などを歴任し、1898年からは千葉県警察部長、兵庫県警察部長を務めた。1900年には大阪府警察部長となり、その後13年間に渡って大阪治安の元締めとして活躍した。その清廉で、自ら現場に立ち責任を果たす働きぶりと冷静な判断力は、多くの市民からの信頼を集めた。1913年、市政浄化のため、池上は嘱望されて大阪市長に就任した。財政再建を進める一方、都市計画事業や電気・水道事業、さらには大阪港の建設などの都市基盤を整備し、近代都市への脱皮を図った。御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現を見た。また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。1923年には大阪電燈株式会社を買収し、電力事業を市営化した。また1923年9月に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。(ウィキメディア) 池上の曾孫が沖縄に何かと縁がある秋篠宮紀子さん


1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。


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〇毎日新聞3月14日ー「安倍晋三記念小学校」として寄付集めを行っていた。首相は疑惑発覚当初の2月17日、国会で「(理事長は)私の考えに共鳴している方」「妻から森友学園の先生の教育への熱意は素晴らしいと聞いている」と述べたが、その後の答弁では「(寄付集めに名前が無断使用され)教育者の姿勢としてはいかがなものか」などと批判した。首相ブレーンの一人とされる麗沢大学教授の八木秀次氏と、京都大学名誉教授の中西輝政氏は、顔写真が載ったことに「無断使用だ。学校を推薦したことはない」と怒る。

 14年に講演した八木氏は「籠池氏は愛国と言えば何でも許されると考えているフシがあった。『なんちゃって保守』とひとくくりにされたくない」と話した。12年に講演した中西氏は上げ潮の保守思想に商機を見いだす人たちが増えていると分析。「学園に思想性は感じられなかった。園児の教育勅語唱和は誰かに見せるためのショーのようだと思った」と振り返る。ジャーナリストの桜井よしこ氏は、疑惑について政治家の関与を明らかにすべきだとしたが、学園の教育方針には言及しなかった。

 政治評論家の竹田恒泰氏から回答は得られなかった。自身のツイッターでは「教育勅語の徳目を教えている点など共感できるところがあり、幼稚園で2回講演した」「それにしても運動会の宣誓はやりすぎ」とする。一方、森友学園を「日本を立て直そうとがんばっている」とツイッターで擁護する人物がいる。元航空幕僚長の田母神俊雄氏=公職選挙法違反の罪で公判中=だ。学園で過去に講演したこともある。「現在の騒動は反日的日本人たちの日本潰しの行動なのです」ともつぶやく。だが、パンフレットに同氏の顔写真はなかった。

〇赤澤竜也 ー稲田朋美防衛大臣虚偽答弁スクープの裏側 - 稲田朋美氏の虚偽答弁騒動を巻き起こした作家・菅野完さんによる「籠池泰典氏緊急独占インタビュー」。この取材が行われた長い一日を随伴者として同行した立場から。→ヤフーニュース3/15(水) /動画【HBO】籠池泰典氏緊急独占インタビューby菅野完_1 。



〇鴻池祥肇ー2009年1月15日発売の「週刊新潮」に、鴻池官房副長官の「議員宿舎」に泊まる超一流企業の「美人妻」と題した写真付きの記事が報じられた。同日、内閣官房長官の河村建夫から首相官邸に呼び出され、「政府の中枢にある人が誤解されるのは不適切だ」と厳重注意を受けた。麻生太郎首相の側近中の側近である鴻池祥肇官房副長官(68)に、議員宿舎での美人妻とのダブル不倫疑惑が直撃した。15日発売の週刊新潮が報じている。定額給付金を含む第2次補正予算案の衆院通過にホッとしたのもつかの間、麻生派参院議員から吹き出したスキャンダルは首相にとって打撃だ。国民の税金で建てた議員宿舎が舞台のため、野党は「辞任は不可避」と国会で追及する構えで、首相の任命責任も問われそうだ。

〇経済産業省は大阪での開催を目指す2025年の国際博覧会、いわゆる万博について、13日に開かれた有識者らによる検討会で概要などを取りまとめた報告書の案を示しました。そして通常の資料とは別に、関西弁で書かれたものを作成し配布しました。この中では、万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」を「いのちがキンキラキンに輝く未来社会のデザイン」としたうえで、かっこ書きで(横文字苦手やけどな)と表記しました。また、万博のことを「人類共通のゴチャゴチャを解決する方法を提言する場」と表現したうえで、ゴチャゴチャの例として、「社会重圧、ストレス」とし、かっこ書きで(例えばやな、精神疾患)という言葉を使っています。これについて世耕経済産業大臣は、14日の閣議のあとの会見で「関西出身の私が見てもセンスのよい内容だとはとても思えない」と述べたうえで「不適切な表現も入っている。おわびして撤回をさせていただきたいと思う」と述べ、陳謝しました。→アベチャンネル〇撤回してもネット上は残るで。シマクトゥバも「他山の石」と心したい。

朝日新聞デジタル 3/14(火) 稲田防衛相、答弁を訂正・謝罪 森友訴訟の関与巡り
 民進党の升田世喜男氏の質問に「(13日の参院予算)委員会で突然、12年前の資料に基づく質問をされ、全く私の記憶に基づき答弁した。今朝の報道で、13年前の裁判所の出廷記録が掲載された。2004年12月9日、夫の代わりに出廷したことを確認できたので、訂正しおわびする」と述べた。
 稲田氏はこれまでの国会質疑で、同法人理事長を退任する意向を示した籠池(かごいけ)泰典氏との関係について、「籠池夫妻から何らかの法律相談を受けたことはない」「裁判を行ったこともない」などと否定。「ご主人と稲田朋美先生で私に対する顧問弁護士でした」と籠池氏が証言したインタビューが13日にインターネット上で公開された後も、同日の参院予算委員会で「全くの虚偽だ」と反論していた。
 しかし、2004年12月に学園が起こした民事訴訟の第1回口頭弁論に、原告側代理人弁護士として出廷したことを示す大阪地裁作成の記録があることが一部報道で発覚した。

3月10日、午後5時半からの籠池森友理事長会見をNHKで見ていたときに突然テロップが入り、南スーダンからの自衛隊の撤収を報じました。そしてあの岩田記者が現れて解説、安倍首相の発表場面となります。これほど露骨な森友隠しはないと呆れました。何故、昨日の籠池会見に重ねて発表しなければならないか? これ以上の森友追及が政権の土台を揺るがしかねないとの恐れからでしょう。そして、毎年行ってきた3・11の首相会見の見送り。昨日、朴大統領が罷免されましたが韓国憲法裁の決定の文言を引きます。「憲法は大統領を含む全ての国家機関の存立根拠で、国民は憲法を作り出す力の源泉だ」「一連の言動を見ると、違憲行為が繰り返されないようにする憲法を守る意思が見られない。……朴氏を罷免することで得られる憲法を守る利益は圧倒的に大きい」。安倍政権にこそ突きつけたい内容です。→3・11H
 
2017年3月9日(木)、東京都千代田区の参議院議員会館にて、森友10万人デモ実行委員会の呼びかけによる「野党×市民の共闘で、森友10万人デモを起そう! ~5日連続院内集会」(4日目)が開催され、日本共産党の清水忠史議員、民進党の山尾志桜里衆議院議員、評論家の佐高信氏らが登壇し、清水議員は、一番最初の私学審議会で、森友学園に認可適当を与えた松井一郎大阪府知事の責任について言及した。〇これについて、大阪府の松井知事は13日、「当時、国からは国有地の売り渡しを審議会にはかるため、小学校の認可の見込みを発表してくれと言われた。国の担当者が大阪府教育庁の私学課に何度も足を運んでいた」と述べ、府の私学審議会が答申をまとめたのは、国有地の売却を早く進めたい国の要請を受けたものだったという認識を示しました。→アベチャンネル

この森友学園の疑惑の本丸は麻生ではないかという話はずっと流れていた。麻生は国有地払い下げ疑惑の中心にある財務相のトップであり、また、籠池夫妻から口利きの依頼があったことを認めた鴻池祥肇議員も、麻生の筆頭家老と言われていた人物だ。また、前出の「週刊朝日」でも、与党幹部が「大物政治家X氏が関与しているという話がある」「鴻池氏が表に出て釈明したのも、X氏を守る防波堤になって幕引きするシナリオがあったのではないかと言われている」と、麻生財務相の関与を思わせる証言を行っている。もちろん、奥下一家と橋下の密接な関係を考えると、小学校設置基準を緩和した当事者である松井一郎府知事の周辺や維新の会に働きかけが行われていた可能性もある。今後、この記事がきっかけとなり、森友学園疑惑の闇が暴かれることになればいいのだが。→LITERA

安倍首相の「南スーダンPKO部隊撤収」緊急会見は森友学園・籠池理事長の会見報道潰しと支持率低下対策ー本日、17時30分から学校法人森友学園の籠池泰典理事長による記者会見が行われ、小学校の設置認可を取り下げた件や理事長退任の意向を発表。当然、夕方のニュース番組では各局ともこの模様を伝えていたが、そんななかで突然、大きなニュースが入ってきた。なんと、安倍首相が「南スーダンからPKO部隊を撤収させる」と緊急会見を開いたのだ。
 南スーダンはいつ大規模な戦闘が起きてもおかしくない状態で、PKO部隊撤退は当然だが、しかし、これはどうやら、安倍首相による“森友学園報道潰し”の姑息な作戦だったらしい。「籠池理事長が17時30分から会見を開くことは、今日午後15時ごろの早い時間でわかっていて、各社とも大々的に報道する体制を組んでいた。ところが、18時の直前になって、突如、安倍首相が緊急会見を開くという連絡が入ってきた。そして、18時5分から南スーダンから撤退するという会見が始まったんです。タイミングからして、籠池理事長の会見を大きく扱わないよう18時台のトップニュースにぶつけてきたとしか思えない」(全国紙政治部記者)LITERA(リテラ)2017.03./10

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Category: 04-書の森
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YouTube「京福電鉄(嵐電)嵐山本線(四条大宮-嵐山)前面展望ビデオ 」を見た。京都は、大阪などと違って風景は極端には変わらないので、京都在住の独身時代を思い出した。地図の下左に京福電車路線が見える。


1972年6月24日『朝日新聞』「季刊誌『琉球の文化』 本土の書店にも登場」

1972年、京都書院に『琉球の文化』を置いてもらうとき染織と生活社(田中直一代表取締役)を訪ね編集長の富山弘基氏に相談した。京都書院は美術関連の出版社で鎌倉芳太郎の『古琉球紅型』も発行。京都書院河原町店は現代美術の本も豊富で私の好きな場所でもあった。富山編集長の御宅で布コレクションを見せてもらったり、富山編集長依頼の贈物を読谷花織の名工に持って行ったこともある。

染織と生活社『染織と生活社』


京都を楽しむ大人マガジン『月刊京都』。京都の出版社・白川書院から1950年に創刊され、京都ファンに広く親しまれている月刊誌です。古くて新しい京都の魅力は何か。マチ、モノ、コトを深く掘り下げて丁寧に取材、魅力の本質を伝えます。→白川書院ブログ


『なごみ 茶のあるくらし』淡交社〇1980年グラフィック茶道誌『なごみ(和)』創刊。なごみとは、心を和して「あい和む」の意。今日ほど、この和の心が渇望されている時代はありません。日々のくらしのなかで、和を尊ぶ心を形にしてきた総合文化茶の湯に範をとり、現代の「茶のあるくらし」すなわち「和のあるくらし」を小誌はヴィジュアルに提案します。淡交社ブログ




京都絵葉書ー戦前

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

左ー観世音菩薩/この絵は惠心僧都の傑作「聖衆来迎」の一部であります。僧都は大和國の人で(平安時代の半頃)学者、芸術家、宗教家として名高い方です。(相良徳三氏著『日本美術史』)〇恵心僧都/平安中期の天台宗の僧。恵心流の祖。大和生。諱は源信、恵心僧都は通称。良源に師事し、顕密二教を学ぶ。また『往生要集』を著し、以後の浄土宗信仰の展開に大きな影響を与え、宋でも高く評価された。寛仁元年(1017)寂、76才。

はしがきー日本の文明が今日のように進んで来るまではずいぶん長い年月を経ています、しかもそれは日本人の力だけで進んで来たのではなく、朝鮮、支那、印度及び欧米各国の人々の助けをうけていることも少なくありません。吾々の祖先はこれら諸外国のすぐれた学問、宗教、芸術を一生懸命に取り入れたばかりでなく、ほんとに日本独自の文明を生み出そうと苦しんで来ました。しかしながら漢字、漢学、仏教、キリスト教、科学というような今日の文明の大本になっているのは残念ながら外国から入って来たものが多いのは明らかな事実です。(略)今までの歴史は多く戦争と政治の歴史でありました。しかし戦争や政治は歴史のほんの一部分であって全部ではありません。吾々の先祖の生活や功績を知るためにはもっと広く、いろいろの方面から研究して見なければなりません。

目次
日本と朝鮮ー(前略)しかし天孫族すなわちニニギの尊の一団体は朝鮮を通って来たのだろうと考えられるから高天原も朝鮮か、その北の方満州のどこかにあっただろうと想像することが出来ます。
遣唐使(支那への御使い)
遣唐使を止めて/
80歳の留学僧真如上人 高岳親王〇澁澤龍彦「高丘親王航海記」を史実のほうでみると、高岳親王は平城天皇第三皇子、在原業平のおじに当たる人である。薬子の変に絡み、皇太子を廃されるが後に出家、真如の号を得て空海に師事、その高弟となっている。親王は六十四歳で入唐を果たすが、六十七歳のとき広州から海路天竺へと向かい、そのまま消息を絶った。一説には、マレー半島南端で虎の害により亡くなったとも伝えられる。(眞耶ライブラリー)
宋と日本の交通ー1、宋人に祀られた惠心僧都 2、平清盛の貿易 3、武士の生活tと異国趣味
元寇とアメリカ発見
日明貿易と海賊船(倭寇) 
ポルトガル人と鉄砲の伝来
フランシスコ・ザビエールと日本
朝鮮征伐と日本の産業)
ー捕虜になって来た人々と陶器業
徳川家康と外国貿易ー貿易商家康
国を鎖すまで
オランダ語を学ぶ人々
外国人の侵入におびえた人々



『青年沖縄』3号

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『青年沖縄』4号の編集は神村朝堅



1992年7月(1981年3月 第1刷)『柳田國男写真集』岩崎美術社〇2段目、3段目に比嘉春潮と共に仲原善忠も見える

仲原善忠 なかはら-ぜんちゅう
1890-1964 大正-昭和時代の教育者,沖縄研究家。
明治23年7月15日生まれ。大正13年東京の成城学園教諭となり,のち経営にもあたる。戦後,沖縄人連盟会長,沖縄文化協会会長などをつとめる。昭和23年同協会の機関誌「沖縄文化」を創刊,古歌謡「おもろ」の研究につくした。昭和39年11月25日死去。74歳。沖縄県出身。広島高師卒。著作に「おもろ新釈」など。 →コトバンク
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1899年6月ー西村時彦『南島偉功傳』誠之堂書店(東京)
1935年5月ー永長信雄編『奄美大島歴史物語』中央大学奄美学友会
1938年1月ー文英吉『南島』新年号□南島社(名瀬町)
1947年2月ー『自由』第2巻第1号□自由社ー重江国雄、肥後豊

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1950年5月ー『大奄美年鑑』奄美文明社(藤原岡恵)
1953年9月ー週刊『琉球国際新聞』琉球国際新聞社(藤原岡恵)

1956年4月ー九学会連合奄美大島共同調査委員会『奄美の島々』毎日新聞社
1960年6月ー島尾敏雄『離島の幸福・離島の不幸』未来社
1964年4月ー外間正栄・福地曠昭『復帰10年目の奄美教育の現状』沖縄教職員会
1964年6月ー奄美郷土研究会(島尾敏雄)『奄美郷土研究会報』第6号
1964年12月ー栄喜久元『奄美大島・与論島の民俗』
1971年1月ー沖縄文化協会『沖縄文化』33・34号「奄美特集」
1971年3月ー昇曙夢『大奄美史』奄美社
1971年11月ー南潮時報社(田村佐衛源・芦屋市)『南潮時報』第232号
1972年10月ー鹿南太陽新聞社(角島直門)『鹿南太陽新聞』第1号

1980年5月ー藤原南風『新奄美史』奄美春秋社



海ゆかば 戦艦大和他特攻艦隊戦士慰霊塔/名瀬市大浜海岸で採集される皇太子殿下


高松宮殿下ご夫妻の奄美訪問/金井正夫(元和歌山県知事)〇金井 正夫(かない まさお、1892年(明治25年)2月 - 1979年(昭和54年)10月4日)は、日本の政治家、裁判官、弁護士。 衆議院議員、和歌山県知事。 旧名、当央。 [経歴] 鹿児島県において金井当説の五男として生まれる。 1915年に正夫と改名。 1919年、京都帝国大学法学部英法科を卒業。 司法官試補となり、以後、予備判事、大阪地方裁判所兼大阪区裁判所判事を歴任。 また、関西大島郡人会を創立し会長となる。 1923年から12年間にわたり関西大学講師として務めた。 1928年、判事を退官し弁護士となる。 1932年2月、第18回衆議院議員総選挙に鹿児島県第三区から立憲政友会の所属..→ウィキ


永野芳辰(元高知県知事)〇鹿児島県大島郡笠利村佐仁(奄美大島、現奄美市)で、永野孫七の長男として誕生。1918年(大正七年)鹿児島県立二中、1922年(大正11年)第七高等学校造士館、1925年(大正14年)京都帝国大学法学部政治学科を卒業。愛知県属を振り出しに沖縄県、福島県、北海道、東京府各課長、北海道拓殖部長を経て1941年(昭和15年)大政翼賛会地方部長に就任。その後秋田県総務部長兼学務部長、広島県部長・経済部長、同内政部長を経て、1945年(昭和20年)10月、高知県知事に就任。1946年(昭和21年)1月、九州地方商工局長に転任。しかし大政翼賛会時代翼賛選挙の担当部長として活躍したことが仇となりGHQの公職追放令に該当のため政界進出の野望を断念する。ウィキ/昇曙夢


徳三宝ー『新奄美史』奄美春秋社
徳三宝〇1887年、徳之島生まれ。明治、大正、昭和初期に柔道界の実力者として全国に名をはせた。中学生で柔道を始めた。「九州に徳三宝の敵なし」と言われ、19歳で上京、嘉納治五郎が創設した柔道の総本山・講道館の門をたたいた。「実力日本一」「柔道の鬼」の異名で活躍。あまりの強さに「徳三宝に膝をつかせたら一本をとったことになる」との伝説も。早稲田大などで師範を務め、45年に東京大空襲に遭い、58歳で死去した。 →コトバンク



豊千里(洋画家)ー『新奄美史』奄美春秋社


重村三雄(1929年~2012年 洋画家・彫刻師)ー『新奄美史』奄美春秋社



関西奄美会ー『新奄美史』奄美春秋社


東京奄美会ー『新奄美史』奄美春秋社


森村元栄四郎『サンデー奄美』ー『新奄美史』奄美春秋社
1981年10月ー森村元栄四郎『サンデー奄美』第191号

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Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com

2016-11 ひより「作品」

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
松山伝十郎(1866年10月~1935年2月7日)
1889年11月ー松山傳十郎『琉球浄瑠璃』いろは家


松山傳十郎 資料
□1937年10月 『書物展望』石井研堂「琉球浄瑠璃ー前号の、『琉球もの雑本』の記事につれて思い出した[琉球浄瑠璃]の一本を紹介する。[琉球浄瑠璃」は、友人松山いろは氏の著作で、明治22年の発行、四六版92頁、山田美妙序、市川團洲題詞、獨幹放史(大森惟中)跋、その凡例に、『琉球國に、組躍と名づくる歌舞伎狂言あり、其の種類三百以上に達す。而して、其の最著名なるもの五つあり、村原と云ひ、八重瀬と云ひ、忠心身代巻と云ひ、姉妹讐討と云ひ、久志の若按司と云ふ、本書は、則此五大書の一なる久志の若按司を評釈せしものなり』とあり、内容から言えばただ[琉球浄瑠璃」ではなく評釈の二字を冠するのが妥当なようだ。・・・」

1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。

□琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一が父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

1893(明治26)年ー大阪道頓堀角座で琉球太鼓踊り
□1893年7月『歌舞伎新報』「琉球芝居ー沖縄県琉球には昔より音楽師と称えて一種の歌舞を演奏するもの士族の間に伝えられ居たるところ去る明治22年中いづれも俳優の鑑札を受けて我が役者の如きものとなり其の組5組もあるよしにてこのたび其の一組が大阪角の芝居へ乗り込むことに決定し既に去る2日を以って那覇港を解覧し本日ごろは遅くも到着したる手筈なるがー」

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「琉球国演劇」の横断幕があるのが角座。下が角座で配られたもの nullnull
□沖縄芝居ー明治26年に大阪・京都・名古屋で公演
1991年1月、池宮正治琉大教授と電話での話で大阪の新聞で沖縄関係を調べているとの話をすると、それなら芸能、特に渡嘉敷守良の芝居も心がけて見てくれと示唆された。それで見当をつけて中之島図書館で大阪朝日新聞、大阪毎日新聞を、京都府総合資料館で日出新聞、名古屋では扶桑新聞をめくると次々と沖縄芝居の記事が出てきた。国会図書館にも行き雑誌も見た。

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1991年3月23日『沖縄タイムス』「沖縄芝居・明治26年に本土初公演」
私は学者でもないので、紀要代わりに同年3月の沖縄タイムスに「沖縄芝居ー明治26年に本土初公演」を発表した。池宮教授は琉球新報に「沖縄芝居参上ー明治26年/京阪・名古屋公演」を書き92年12月発行の『新琉球史』に収録された。沖縄芝居の大阪公演で販売した『琉球踊狂言』は三重新聞社(津市大門町56番屋敷)から出ている。話は例の如く横道に逸れるが津市から南の方へ行くと玉城町がある。『朝日新聞』を大新聞に育て上げた村山龍平の生まれたところである。後に龍平が亡くなり、村山家は莫大な相続税問題が持ち上がる。それを解決したのが宮古島出身の下地玄信。下地は一軒の豪邸と高級車が贈られた。


□1894年11月15日『日出新聞』「大温習会の下温習ー祇園座の琉球芝居の役者から習った琉球舞を入れー」(太鼓踊り)→1919年3月13日『日出新聞』に記念写真あり。

1900年3月13日『琉球新報』垣花山人□「矯風会の演劇を見るー(略)その幕の長きは夜の長きより長く欠伸数回これを会員に尋ぬるに道具すなわち飾り付けその他都て演題に付添う座敷なり庭園なりの趣きを飾り付ける是を道具方と言う。その幕に従って刀剣なり烟艸入なり下駄なり掛物なり都て携帯品を調度する者を小道具方と言う。矯風会員は此の二役を兼ね演芸をなるには只驚くの外なし故に幕の長引くは当然・・・・・・・」

1902年3月 上の芝居で東洋活動写真會「北清事件、米西戦争実記 その他」上映
1902年4月 上の芝居で「活動大写真會」


1903年3月ー「学術人類館」開館
□伊佐眞一〇過ぎ去った歴史上の事蹟や問題は、それらが過去の時点で完結することなく、つねに現在のありようとの因果関係において考察されていく。使い古されたフレーズでいえば、琉球・沖縄史は伊波にとってたえず現代史との往復作用の対象になったわけである。(略)大阪朝日新聞がはしなくも本音を正直に吐露して報じた人類館陳列の記事ー「内地に近き異人種」との文言を伊波が目にしたかどうかはわからぬが、そうしたヤマトに広く流通する沖縄観は、彼の頭からかたときも離れることはなかった。」
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1903年の大阪ー天王寺・第五回内国勧業博覧会会場付近
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第五回内国勧業博覧会会場
□1903年3月ー山本桃洲(朝日新聞記者)『第五回内国勧業博覧会場内案内記』駸々堂「大阪の西田正俊氏が設置された人類館」
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1903年の大阪ー梅田・中之島付近
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1903年の大阪ー大正区付近

1906年3月『琉球新報』



1906年4月『琉球新報』
      6月 上の芝居・球陽座で「紺屋之染經」上演

1906年4月 上の芝居・球陽座渡嘉敷一派「都踊旭乃影」上演/下の芝居・沖縄座「黒金座主の魔術と北谷王子の傳話」上演


1907年6月 『琉球新報』「尚家会計課ー最新式活動写真売却広告」□浜離宮ニ於ケル東郷大将「ムーア」中将歓迎会実況/宮島の絶景/アルプス山デ汽車ニテ通行中の絶景/日光の建物及瀧/岩崎邸ニ於ケル聨合艦隊歓迎園遊会ノ実況/近衛師団ノ仮装行列/トランプノ奇術/芸者ト鳩・・・

1907年9月 下の芝居・沖縄座で「京阿波根由来記」上演/球陽座で「大新城忠勇噺」上演


1911年11月『琉球新報』□「蔡氏九世忠義録ー尚豊王御即位マデ七場ニ仕組ミ大道具仕掛ニテ開演可仕候ー」


1912年5月『沖縄毎日新聞』「中座 琉球史劇 楚辺暗川ー琉球音楽ノ祖先 赤犬子」


1912年5月20日『琉球新報』

1913年4月25日~11月22日『大阪毎日新聞』菊池幽芳「百合子」


1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。

1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。


1913年10月15日ー那覇の香靄座、大阪杉本商会特約で活動写真常設館「パリー館」開設


パリー館「アルジェリア カンタラの風景」



1914年3月1日ー那覇区字東仲毛で「常設活動写真帝国館」開館

1914年3月 那覇の常設活動写真帝国館で「百合子」上映


1914年4月 「米国海軍水雷演習」


1914年6月『琉球新報』



1914年10月『琉球新報』


1916年6月16日『琉球新報』

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1919年ー京都都踊りで琉球太鼓踊りー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り
□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
 □又吉栄義
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1951年5月16日未明、又吉栄義、大阪市大正区泉尾浜通り4丁目42番地で急逝(享年67歳)

1952年9月21日『球陽新報』「20日、21日に境川の大交会館で琉球芸能鑑賞会、東京の児玉清子らが仲里節、布晒し、もうあしび、伊野波節、作田節、関西芸能会の又吉秀子が諸屯、沖縄芸能保存会関西本部が三味線・琴」


〇2007年9月 東京・沖縄芸能保存会 編『躍 うどぅいー児玉清子と沖縄芸能』新星出版

1953年3月21日『球陽新報』「関西芸能界の一異彩たる川田礼子姉妹は先般の日劇”日本民謡集”で東都にデビューすることになった」



2003年3月28日『沖縄タイムス』


1953年6月11日『球陽新報』「東京日本橋芳町に開店挨拶ー琉球料亭なは・上江州文子」

1953年12月21日『球陽新報』「大阪市梅田桜橋の琉球料理屋・ゆんたで沖縄民芸品展示会」

1954年2月21日『球陽新報』「芸能保存会関西本部役員ー顧問・豊川忠進、山川宗信、下地玄信、幸地長堅、翁長良孝、宮城清市/相談役・又吉嘉昭、宮平守松/会長・宮里政男/副会長・金城徳次郎、比嘉良助、外間宏裕/監査・宮城政栄、具志堅興盛、西銘春雄/書記・永山盛保」
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1955年1月21日『球陽新報』「摩文仁賢栄氏、東区北久太郎町に糸東流新道場開き」

1955年4月1日『球陽新報』「新川嘉徳氏の公演会」

1955年4月21日『球陽新報』「明治座上演・矢田彌八作・琉球の簪」連載

1955年10月21日『球陽新報』「親泊興照氏、大阪でも沖縄舞踊をひろめる」

1969年1月『沖縄の芸能』邦楽と舞踊社□3、流派と現状 
仲井真元楷「現地における」
石野朝季「本土におけるー『沖縄の伝統芸能は、日本本土で命脈を保っている芸能家の手で保存しないかぎり消えてゆくしかない。さいわい鹿児島には舞踊界の渡嘉敷守良、熊本には野村流音楽の池宮喜輝両師匠(共に故人)が疎開で健在であり、二人を東京に招いて弟子を養成、沖縄に再び平和が甦えるときまで、郷土にかわって伝統保存の担い手になろう』と、1947年春、東京沖縄芸能保存会が伊江朝助、比嘉良篤、戦前沖縄で新聞経営、安富祖流音楽の有数な弾き手でもあった武元朝朗(1953年10月6日没)らの手で結成された。結成翌年の1948年11月には、有楽町の読売ホールで第一回公演。」

1972年2月『青い海』』№10<復帰不安の沖縄>□「優れた沖縄を語りたいのですー若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」、嘉手川重喜「沖縄の歌劇(4)辺土名ハンドーグヮー」


1972年3月 『青い海』春季号 「青い海芸能ー情熱と美の琉舞を大阪の地に  金城康子」
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那覇大綱引きで子息の衣装を整える金城康子さん

1974年6月『青い海』№33<本土の中の沖縄>□霜多正次「ウチナーとヤマトゥ」、津嘉山政栄「大阪・教育の現場から」、高良重一「夜間中学の中の沖縄」、山城昌成「第二の故郷、和歌山で」、金城朝夫「沖縄の東京難民」「大阪沖縄会館ー盛大に竣工祝賀会」「沖縄青年 山口重光君を支援する全国連絡会議ー平尾町46末広荘・山城三郎」「本土在県人会・公共団体・企業一覧」

1975年12月『青い海』№48<沖縄の芸能ー舞踊と音楽>□宮城能造「よもやま芸談」、関西版『仲村米子舞踊研究所第一回発表会、松葉舞踊研究所が五周年記念公演、川田琉球舞踊団として初の関西公演、儀間比呂志新作版画展開かれる」、仲村喬次「武下和平ー島人の心意気を唄う(略)初心が忘れられていくのはテレビの流行歌手たちを見るまでもない。人の心を打たなくなった民謡は、もはや(しまうた)の生命を絶ったもひとしい。」、知念正光(琉装史研究者)「ルポ・東京周辺の沖縄芸能」、崎山任「三味線音楽とアカインコの業績」、「渡嘉敷守良・ある俳優の記録ー芸談、組踊の型」、伊礼正栄「関西の中の沖縄芸能ー悲愴な使命感で、”失われた沖縄”にかわって、ふるさとの伝統と文化を守ろうとした本土の県人たち」

1976年8月『青い海』№55<奄美の民話と伝説を訪ねて>□となきあきら「喜劇の王様・小那覇舞天を偲ぶ」「郷友会めぐり・その2 大阪羽地郷友会」「東京、神奈川で第二回エイサーの夕べーゆうなの会が企画挙行」「大阪の松葉舞踊研究所の大城奈津子ちゃん(小1)と我喜屋みゆきちゃん(中1)が琉球新報主催・第12回琉舞子ども大会で受賞」


1981年12月 沖縄の雑誌『青い海』1月号 上原直彦「昭和にフクバル節あり」
1994年1月 『脈』第48号「普久原朝喜 特集」/1993年10月 『普久原朝喜顕彰碑建立記念誌チコンキーふくばる』同実行委員会(中根章)


1982年6月ー沖縄県人会兵庫県本部(編集委員長・上江洲久)『ここに榕樹ありー沖縄県人会兵庫県本部35年史』□元『青い海』編集長の津野創一が執筆、津野さんは後に県人会機関紙『榕樹』の編集にも携わる。私(新城栄徳)も資料収集に協力した。
□第五回勧業博覧会といえば、沖縄にとっては忘れることのできない人類館事件に結びつく。のちのちの久志芙沙子の筆禍事件や、解放教育読本『にんげん』問題にもつながる。
□1945年11月3日ー尼崎沖縄人連盟結成大会が尼崎中学校で開かれる。会長・大城盛通、副会長・大山朝繁、砂川恵哲、幹事長・赤嶺嘉栄
□兵庫の中の沖縄芸能ー出稼ぎ労働者の中に、琉球民謡界の大御所的存在だった普久原朝喜もいた。いま、関西には古典音楽で野村流古典音楽保存会関西支部と野村流音楽協会関西支部がある。いずれも又吉嘉昭、又吉栄義の指導と努力によるものであり、歴史も古い。民謡の方では琉球民謡協会関西本部がある。(略)県人会活動と文化運動が新たな接点をつくり出していく時期に来たようである。

1985年2月『青い海』№140<21世紀への要石・国際センター>□「新刊案内ー『沖縄の遊廓ー新聞資料集成』、『文人・末吉麦門冬』」



大城豊子師匠
1997年10月 大正区役所ホール「雅びの舞い/八重山民謡・沖縄民謡の集い」大城豊子琉舞研究所
2000年3月12日ーアゼリア大正ホール「第七回 琉球古典舞踊の夕べ」(主催・大城豊子琉舞研究所)

 

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2017年2月 同人誌『南溟』2号 『南溟』同人会 〒904-2166 沖縄市古謝津嘉山町8番9号
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比嘉座ぬ比嘉陽花さん一人芝居「カンポーヌクェーヌクサー」□この比嘉さん、老いぼれネトウヨがよく取り上げて批判しているが、それだけ注目されているということだ。本人にしてみれば有難迷惑だろう。

「沖縄戦の図」の前で一人芝居、いくさの記憶継承 佐喜眞美術館

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