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Category: 04-書の森
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1973年5月 沖縄の雑誌『青い海』23号 宮城鷹夫「作曲家・宮良長包の生涯」


1966年12月 宮城鷹夫/カメラ・宮城護『神話の島・久高』沖縄タイムス社


1967年8月 宮城鷹夫/津野力男・カメラ『久米島の旅情=歌と史跡と名勝の島=』沖縄タイムス出版部


2009年2月 宮城鷹夫『沖縄から見た台湾ーあなたの知らない時代 あなたも知っている時代』講談社出版サービスセンター

儀間比呂志氏、宮城鷹夫氏/左から新城栄徳、宮城鷹夫氏


2003年6月ー那覇市民ギャラりー「石扇展」で右から息子、宮城鷹夫氏/2017年5月21日 ホテルロイヤルオリオン「三木健『空白の移民史』出版祝賀会」で、宮城鷹夫氏(中央)、右、池間一武氏
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1924年10月 坂口総一郎『沖縄植物総目録』石塚書店


画・伊東忠太



1925年2月 坂口総一郎『沖縄写真帖』第一輯

1925年11月ー坂口総一郎『沖縄写真帖』第弐輯/池野成一郎□序ー私は大正14年1月沖縄本島を旅行した。しかも此写真帖の著者坂口君の御親切な案内を受けて、その旅は実に愉快であった。その旅の事を考えると今でもその時の愉快さがありありと頭の中に浮み出でて胸のあたりがすつとする。私は旅が大好きだ。明治21年生まれて初めての旅をして以来私は毎年多少の旅行をしない事はない。外国の旅行は別として日本内地は勿論、台湾、朝鮮、樺太その外小笠原島や対馬、隠岐の様な離れ島でも私の足はその土を踏んでいる。その数百回に亘る旅行はいつでも多少面白かつたに相違ないが併し大正14年1月の沖縄旅行は私が尤も面白いと思つた旅行の中の一つである。沖縄にはフルギがある、ヘゴがある、アダンがある、ガジュマルがある、植物の平凡な東京に住む植物学者の私に取つて沖縄が面白いのは当然だが併し沖縄の面白いのはただ植物ばかりでは無い。動物も面白い、風俗、建物、言語、風景皆内地と違つているから面白い隋つて植物学者も行くべし、動物学者も行くべし、人類学者も、建築学者も、博言学者も誰れも彼れも、苟くも珍奇な事物を見て智識を得ようと思ふ人は皆行くべしだ。併し如何に沖縄へ旅行したくとも暇のない人もあり、又旅費が思ふ様にならない人もある。それ等の人は此写真帖を見て沖縄の動植物や、建物、風俗抔の一班を知るがよい。尚ほ沖縄も内地との交通が繁くなるにつれ、風俗等も段々内地のものに近くなり、古い建築物も追々朽ちはて、おまけにヘゴやヒルギの様な珍しい植物がやたらに切り倒される今日だから今の内に此写真帖が出版されるのは誠に時を得たものだと思ふ。此点に於て坂口君の御骨折を感謝すると同時に此写真帖が第三輯以下次々と出版される事を祈る。


1960年1月17日『琉球新報』坂口総一郎「順応する生活態度ー40年前クリ舟で体験した人生観」

坂口総一郎 さかぐち そういちろう 1887-1965
 和歌山県海草郡岡崎(現・和歌山市岡崎)生まれ。博物科教員。大正七(一九一八)年、海草中学校(現・向陽高校)教諭、同九年十一月より沖縄県立第一中学校に赴任、同十四年、和歌山県師範学校教授となり、昭和三年には県史蹟名勝天然記念物調査委員、同四年、行幸事務委員なども務めている。『紀州植物目録』等の著書がある。
 熊楠を尊敬し、大正九年八月、熊楠の高野山植物調査に、同じ海草中学の同僚、宇野確雄(一八九一~一九八四)を誘い随行、三日余の起居を共にした。この時、坂口は愛用のカメラを持参、熊楠の動静を数枚の写真に収め、後日「南方先生の高野登山随行記」を『大阪朝日新聞』(紀伊版)に投稿した。だが、この投稿とそれに添えた写真が「新聞に出さぬ約束にて大門辺でとりし写真を新聞に出せし」として熊楠の逆鱗(げきりん)に触れ、以後疎遠が続くことになる。この時宇野にも写真があったことが最近わかった。それは東京・高田屋での撮影として周知の浴衣を裏返して着た全身像で、宇野はこれに「一乗院裏庭でピントを合わせるいとまもなく自分が写した」といった意味の説明を付している。
 昭和四年、昭和天皇の紀伊行幸にあたり、坂口は行幸事務委員(文書係)を務め、その後、白浜に建設された行幸記念博物館長などにも就いた。 〔中瀬 喜陽〕
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1926年8月 久場長文『琉球植物帯』沖縄県教育会


1966年 沖縄タイムス社『現代沖縄人物3千人』

1978年3月 久場長文『漢詩集・綵雲』□真栄田義見「序文」
〇沖縄県立図書館所蔵は著者の久場長文が国吉真哲に贈ったもの。
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1、大正15年4月  世界社を創設し社主兼主幹として『世界』を経営した。『世界』は日本の「ネーション」誌を以て任じたが時代に先行しすぎて永続しなかった。→永丘智太郎 略歴 〇岩波書店の雑誌『世界』は1946年1月創刊、誌名は谷川徹三の発案。


□『世界』創刊号は新垣讓氏が熊本県立図書館に所蔵されていることを突き止めて書誌的なコピーを新城栄徳に贈られた。
大正15年11月1日 『世界』創刊号 編集発行・饒平名智太郎 発行・世界社/発刊の言葉ー『世界』が世の光を見るまでには1年かかりました。人は胎内にあること10ヶ月にして産声をあげますけれど、『世界』は、編者の頭の中で丸1年育くまれました。実に難産でありました。難産であっただけに、生れた『世界』は、雄々しく颯爽たる姿をしています。/評論雑誌界が、一般に行詰ったといふことをよく聞きます。それは今までの雑誌が、読者本位でなく、経営者たる資本家本位であるがため、無暗と厖大に編輯されるからであります。この評論雑誌界の行詰りを転向するのが、『世界』の使命であります。/『世界』は読者のインタレストにたいしては、どんな犠牲も拂ふことを辞しない、読者のための読者の雑誌であらしめたいと思っています。この點で『世界』は、十分に存在の理由をもちます。/『世界』は評論雑誌界の新しい方向を指す革命児で、読者以外に何等の背景がないといふことも断言出来ます。
目次
岡本一平「政治漫画」/安倍磯雄「公平なるべき選挙」/堀江帰一「社会問題の研究、運動と学生」/青野李吉「文芸・社会雑感」/長田新「現代の教育哲学に就て」/三輪寿壮「労農党成立後の活動」/三宅雪嶺「後藤子の最近政治運動」/馬場恒吾「普選市議選の教訓」/山川均「無産階級運動の左右両翼の対立」/長谷川如是閑「二三の断想」
創作ー佐藤春夫「白服の悲しみ」/藤森成吉「ゴッホの花」/尾崎士郎「ピストル」/片岡鉄兵「身を固める」/小川未明「生物動揺」/芥川龍之介「鴉片」
海外論断
澤田謙「『自動車王』フオード」/下田将美「堅実なる財界整理に禍する日銀の利下」/遊佐敏彦「婦人職業生活の諸相」/石川武美「経営一家言」/饒平名智太郎「英国炭鉱争議の大立物クック」/國富信一「秋の空」/三角頭巾「内務省の人事系統」/三宅大輔「六大学野球リーグ戦予想」/森光子「ある遊女の実話」 
六大学通信


永丘智太郎 略歴
本籍         東京都北多摩郡武蔵野市吉祥寺2733
住所         千葉県印旛郡遠山村三里塚沖縄農場
東京のアドレス   都下田無町2729 誠和寮内永丘私室
出生地        沖縄県那覇市若狭町
出生年月日     明治24年2月3日
旧姓         饒平名を廃し祖父永丘家を復興
 
写真ー饒平名智太郎/昭和13年2月19日『琉球新報』「改姓広告」

学業
1、明治41年3月   沖縄県立中学校を卒業した。
○1908年・第20回卒業ー新垣朝光(県属)、上原章、上間長八(今帰仁今泊)、奥島憲慶(読谷山小学校長)、大嶺眞和、大湾政順(那覇市役所)、大見謝恒英(百四十七銀行那覇支店)、大湾喜福、嘉手川重輪(大阪税務監督局)、垣花恵祥(県庁)、我部政仁(東京小学教員)、嘉手川重位(那覇松山小学訓導)、川津博(早稲田文科卒)、神里常吉、金城嘉輔、嘉手納順範(在東京)、金城蒲戸(安里小学校訓導)、我謝秀輝、金城至蒲、許田重発(那覇尋常高等小訓導)、岸本幸厚(沖縄タイムス理事)、宜名眞邑挙(真和志小学校訓導)、久高将吉(工学士 京都市上市区田中町字大溝6)、城間垣貴(東京小学教員)、國吉良實(明大卒 泉崎)、小波津保光 、小橋川照顕(那覇市議)、小湾喜長(私立農業大学卒 中頭郡 技手)、佐久川恵柔(台南製糖会社嘉手納工場)、佐多忠三(台南製糖宜野湾工場)、島袋賀麻、謝花寛廉(在東京)、鹽谷亥之助、垂野光久、玉城友善(早稲田卒 本校在勤)、大工廻盛敏(沖縄県物産検査所産業主事補)、高志武盛蔚(津波小学校訓導)、照屋寛純(首里男子校訓導)、渡久地政佑(台南製糖会社高嶺工場)、東郷實(鹿児島県)、長友一郎(東京高商卒 郵船会社孟買支店)、名城嗣敏(在東京)、仲尾次政潤、名城嗣頼(南米ペルー)、今帰仁朝興(中頭郡書記)、仲吉良光(早稲田文科卒 在米)、今帰仁朝規(早稲田文科卒 糖商組合)、長嶺精一(佐敷小学校)、饒平名智太郎(在東京 改造社)、西平守由(広島高等師範卒 本校教諭)、新名栄蔵(那覇区旭町)、樋口敏彦(東京高工教員養成所卒 東京市役所建築課都市計画部)、比嘉賀秀(牧師)、弘中一郎、外間善助(国頭郡屁辺野喜小学校長)、外間誠昌(師二卒)、真境名安行(熊本医専卒 中頭郡勝連村医)、眞玉橋朝信(南風原小学校訓導)、又吉康和(名護)、松村嘉實(師二卒)、宮城普本(熊本医専卒 在大阪)、森田孟睦(高工卒 東京警視庁)、飛岡太郎(基隆台湾倉庫株式会社)、屋我宗恭(沖縄朝日新聞社)、山口房良(首里女子小学校長)、屋部憲重(泊小學訓導)、山城次郎(在南米)、吉嶺伊津(神戸山中廻送店)→1923年2月 沖縄県立第一中学校同窓会『同窓会報 第一号』


1、それから東京高等商業学校(明治42年4月)と上海の東亜同文書院(大正3年4月)に県費で入学したが、前者は家事の都合、後者は病気のため、何れも中退に終わった。大体学校よりも独学で素養をつけた。

1911年7月 饒平名智太郎、物産陳列所雇(~1912年6月)


1912年10月28日『琉球新報』

職業
1、大正5年9月   北京の共同通信に英文記者として入社3年間勤務した。

1、大正8年9月   改造社に記者として採用され、6年間の在勤中印度及びロシア問題を研究した。此間に北支、満州、シベリア(浦塩)に遊んだ。孫文、ヨツフエ、カラハン、片山潜等に知遇を得たのも此時代。浦塩に行ったのは、関東震災羅災労働者救援委員会(松岡駒吉、布施辰治其他学者グループを以て構成)の代表としての資格であった。

1922年4月  『改造』饒平名智太郎「真理の把握とガンヂーの運動」
1922年5月  『改造』饒平名智太郎「サチャグラハ運動」
1922年5月  鹿子木員信②・饒平名智太郎『ガンヂと真理の把握』改造社
②鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。大日本言論報国会の事務局長として国粋主義思想運動をリードし、戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された。妻は教育者である鹿子木コルネリア、息子にベルリンオリンピックに出場したバスケットボール選手、鹿子木健日子がいる。「プラトン哲学の研究」で文学博士(東京帝大)。→ウィキペデイア

1922年8月  饒平名智太郎『ガンヂ審判の日』改造社
1922年10月 『改造』饒平名智太郎「松岡駒吉君」
1922年11月 『改造』饒平名智太郎「ケマール・パシャ」
1923年4月  『改造』饒平名智太郎「水平社大会特派記ー(略)水平運動は決して彼等のみの解放運動に止まってはいけない。彼等の解放運動であると同時に、全無産階級を解放するの運動でなければならない。幸ひ彼等はその方向を指して突進しつつあるのを私は見た。私は彼等の前途を祝福しながら筆を擱かう。」
1924年3月  『改造』饒平名智太郎「ルイコフの片鱗」



1961年1月11日『沖縄タイムス』永丘智太郎「遺稿・難民のころ」①~1月18日⑦
御料牧場の開放ー昭和20年10月ごろ、久米島出身の与世盛智郎①(本願寺の海外布教師)が中支方面から引き揚げて来ていた。引き揚げ者やら復員軍人やら彼を取り巻く一族郎党は多く皆が困っていたので、いわゆる集団入植を計画して沖縄協会に何べんか私を訪ねて来た。富士山の麓か浜名湖の近くにある御料地は如何だろうかという話であった。彼は農業をやった経験はなし、入植適地か如何か、だれも下検分に行ったわけではなかったから、私も容易に動こうとはしなかった。

私は戦前、与世盛君とは一度会ったことがあり、宮城聡が私の職場に連れて来て紹介されていたので、人間的に信頼をおいていた。そこへ行くと理事長の伊江さんは、初対面の素性のわからない人には警戒的であった。幸いなことに、沖縄協会に来てくれた那覇の人で城間君(恒加翁の長男)といって、慶応大の助手をしていて、毎年夏になると実習に千葉県の三里塚御料牧場に行ったことがあり牧草地帯だから地味肥沃で絶好な入植地だと太鼓判をおしてくれた。この城間君を与世盛君に紹介することによって、初めて与世盛君のアイディアも生かされた。現地へは、同君が率先して久米島の若い人々を連れて調査に乗り込むし、山城君や儀間君など血気盛んな青年たちも視察に行って、極めて入植適地であることがわかったので、私は初めて宮内庁は御料地百町歩の開放ー「郷土を失って帰ろうにも帰れない沖縄の難民を、沖縄協会においてあっせん入植させたいから、特別の詮議で許可を乞う」旨の陳情書をしたためた。伊江男や高嶺君も宮内庁の官僚に知人があって奔走してくれた。宮内庁への運動には、伊江さんは当時まだ顔がきいた。

そこで沖縄協会としては、神奈川逗子の沼間寮、横浜金沢八景の引揚寮、および埼玉県のわらび寮に収容されていた県人から入植希望者を募集し、与世盛君を団長として18人の先遣隊を現地に送り込んだのは、昭和21年3月6日であった。この中から現在に至るまで定着している者は、11人あり、唯一人の婦人として私の家内が初めから加わっていた。この先遣隊が、いわば三里塚開拓の中核隊であり、久米島一統が5家族あった。(それから二次三次の入植補欠募集で久米島は更に数家族増えた)その後、宮内庁はマッカーサー総司令部の強要によって、全国にある大部分の御料地を放擲せねばならなかった。三里塚においては、千四百町歩の内千町歩は大蔵省へ物納(税金)として収めることになり、大蔵省はその土地をそっくり開拓財産として農林省へ回付した。農林省は、千葉県の開拓課に処分を一任した。宮内庁からは、千葉県知事に対して沖縄協会へは、優先的に土地を分譲するよう特別の指示を出してくれ、その旨沖縄協会へも通達があった。


『久米島と私』/上江洲智泰

■2002年の10月、久しく山之口貘記念会を預かっていた若夏社の山川敏江さんの案内で上江洲智一氏に会い、父君・智泰の回想録『久米島と私』を頂いた。中に南満の公主嶺に航空兵として滞在した話、上海で布教していた義父・与世盛智郎(西本願寺僧侶)と千葉県三里塚の御料牧場を永丘智太郎名(沖縄人連盟)で宮内省、千葉県との交渉、「沖縄農場」として入植した話、そこで世話になったのが与世里盛春農業学校校長だったことが記されている。


与世盛智郎1981年ー与世盛智郎『50年計画ー理想の久米島建設』/1979年3月ー与世盛智郎『沖縄仏教読本ー本願寺派』久米島本願寺布教所/真喜志康徳氏宛の与世盛智郎ハガキ
    写真ー与世盛智郎①


1947年11月28日『自由沖縄』


1947年8月15日『自由沖縄』

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1936年6月18日ー昭和会館で「実業学校協会第二回研究発表会」
勝連盛英「開会の辞」/商業校・安座間永盛「資産評価と減価償却に就いて」/農林校・我謝栄彦「砂糖の常識」/水産校・西村憲五「魚糧に関する新見解」/工業校・貴島兼文「印刷の常識」/沖縄製糖株式会社・末廣幸次郎(特別講演)「県状の認識と振興の方途」


1936年9月『沖縄教育』第241号 我謝榮彦「砂糖の常識」(1)
〇目次ー1、砂糖の起源/1、本県に於ける甘蔗栽培及び製糖の起源/本県産業上に於ける砂糖の位置/1、本県農業上に於ける砂糖の位置/5、本県含蜜糖の移出先/6、黒糖の品位/7、世界に於ける日本糖業の位置/8、砂糖の消費量/9、砂糖の消費税

1936年10月『沖縄教育』第242号 我謝榮彦「砂糖の常識」(下)
10、砂糖の種別/11、砂糖の性状/12、砂糖の栄養価値/13、砂糖の物質代謝/14、砂糖品質の鑑識法/15、砂糖取扱上の及使用上の注意/16、其の他



我謝栄彦 がじゃ-えいげん
1894-1953 大正-昭和時代の農業技術者。
明治27年7月8日生まれ。昭和18年農事試験場普天間(ふてんま)試験地主任技師となる。戦後は与儀(よぎ)農事試験場長。サツマイモなどの品種改良にとりくみ,新種「比謝川(ひじゃがわ)」1号・2号を育成した。沖縄農業に関する著作もおおい。昭和28年3月15日死去。58歳。沖縄県出身。中頭(なかがみ)農学校卒。→コトバンク
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1936年9月『沖縄教育』第241号 真栄田義見「漢字は隠退すべきか」


写真左から具志堅宗精復旧期成会長、真栄田義見、川平朝申、不詳、山里永吉

1968年11月『今日の琉球』真栄田義見「弁財天堂の復元なるー474年前の宝形作りを再現」




真栄田義見の本
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1925年 秋ー𤘩宮城昇、仲泊良夫(白金三光町の明治学院文科の寄宿舎)と伊波文雄(小石川の伊波普猷宅に寄宿)に連れられて中野の山里永吉下宿を訪ねる。仲泊の同級生に仲村渠、渡辺修三、平川泰三、矢島などがいた。またダダイストの辻潤、詩人サトウハチロー、後藤寿夫(林房雄)らと交遊していた。

沖縄/ 1933年7月 『詩誌 闘魚』第貮輯 カット・装・ジュン
 仲泊良夫「抽象の魔術ー(略)言語は残酷な死刑執行人である。私は自分の書きたいと思う事を書いていない。脳髄を全部露出することは醜悪なる猿である。創造を現実的に考えることは私には不可能である。凡ての現実は凡ての箴言に過ぎない。私は箴言を信じないように精神を信じない。抽象を精神的に考える人間は浪漫的な猫に過ぎない。抽象は異常なる砂漠の花に等しい。抽象は夢想ではない。私は私の創造に就ては極端に孤独なタングステン電球である。人間の馬鹿げた文學活動それはインク瓶をさげた犬の活動にすぎない。どうして諸兄は対象に向かって本能的批判をするのか。詩人のスタイルは本能の鎖をたちきった時に開くバラである。・・・」

闘魚消息ー 山之口貘氏・通信は東京市本所区東両国4ノ56吉川政雄気付/與儀二郎氏・6月10日出覇/仲泊良夫氏・島尻郡与那原2080/比嘉時君洞氏・6月初め久米島より出覇/泉國夕照氏・5月下旬退院/山里永吉氏・『戯曲集』新星堂書房より近く刊行さる、目下印刷中/國吉眞善氏・第参輯より闘魚同人加盟/イケイ雅氏・病気療養中。

沖縄/1933年9月 『詩誌 闘魚』第参輯 カット・装・ジュン
仲泊良夫「世界の創造ー或ひは観念への革命ー乾燥した時間に於て生誕する救世主/循環する世界それは革命する世界である/透明な詩人の純粋の夢/海底の少女と海底の美少年の戦争」 
  馬天居士『おらが唄』石敢當社(豊見城高良)ー著者馬天居士氏は、ゴミゴミした都会に住んでいる人ではない。そして世に謂う文藝人ではない。氏はあくまでも土に生きる人であり、野に遊ぶ人である。この”おらが唄〝の一巻を愛誦してみたまえ。俳句あり、川柳あり、短歌あり、そして軍歌あり、更に琵琶歌がある。だがそれらの作品はわれわれに何を考えさせるか。われわれは文藝意識に縛られている自分らのいぢけた存在をふりかえってにるにちがいない。それだけにおらが唄の一巻は、野性的な香りを放ち、自由な奔放さに流れ、また一面には辛辣すぎる皮肉さがある。社会のあらゆる階級的の上に端座したる馬天居士氏の八方睨みの静けさを愛する。

  闘魚消息ー 與儀二郎氏・7月御祖母死去謹んで哀悼を表す/ 外山陽彦氏・島尻郡久米島仲里村役場気付/新屋敷幸繁・8月10日帰省。8月28日上鹿/南青海氏・与那原216/宮里靜湖氏・島尻郡久米島仲里校/川野逸歩氏・島尻郡具志川村役場/伊波南哲氏・東京市淀橋区淀橋643/志良堂埋木氏・朝日新聞社主催の文芸懇談会を風月樓にて7月22日開催す/イケイ雅氏・休暇中は中頭郡与那城村字饒邊3へ滞在/山里永吉氏・『山里永吉集』出づ大衆小説「心中した琉球王」文芸春秋社オール読物号8月号へ所載。

沖縄/ 1933年11月 『詩誌 闘魚』第四輯 カット・装・ジュン
  闘魚消息ー與儀二郎氏・名護町字名護801山入端方へ転居/宮良高夫氏・現在沖縄日報社内/花城具志氏・闘魚社内気付/外山陽彦氏・土木工事多忙の為休稿/有馬潤氏・菓子店「ひなた屋」開業/原神青醉・歌誌「みちしほ」編輯せる氏は同誌一周年紀念号発刊に際し原神青醉歌集を近刊/山里永吉氏・「永吉集」好評。9月上旬 幸楽亭に於いて刊行祝賀会。出席者50名盛況


1936年5月『沖縄教育』第237号 仲泊良夫 訳「苦悩の首府」


写真1935年頃辻ー後列右からー山里永吉、仲泊良夫 前列中央が松田枕流(賀哲の弟)

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宮城護氏 作品「聖地カルスト杜御嶽」

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開館10周年を記念して、2012年3月に開催した収蔵品展に続き、2012年以降、那覇市歴史博物館にご寄贈いただいた資料を展示紹介します。





2017年4月9日 展示解説会

2017年4月23日、新城喜一氏

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『沖縄教育』で重要な役割を果たした島袋源一郎は「『沖縄教育』変遷と思ひ出」(1937年4月『沖縄教育』248号)の中で、「又吉康和氏を抜擢し敏腕を振るって貰うことにした。ここに於いて『沖縄教育』は一躍そのレベルを高め中央学界諸名士の論説を掲載する等大いに充実し、未だ嘗て見ない権威ある雑誌となるに至った」と記し、又吉の仕事を高く評価している。
 又吉康和は1906年の『琉球新報』に「満韓旅行雑感」を書いている。1908年、沖縄県立中学校を卒業。同窓に仲吉良光、饒平名智太郎、森田孟睦が居た。早稲田在学中によく東京劇信を仲吉良光の居る琉球新報に送った。子供(康哉)が生まれ、生活のため早稲田を中退。大阪で遊び帰沖。1915年10月、当真嗣合、仲吉良光、末吉麦門冬、嘉手川重利、小橋川朝明が「閥族打破」を理由に琉球新報を退社したが、その後任記者に又吉康和、新崎盛珍が仲吉良光、末吉麦門冬らの面接を受けて琉球新報に入社した。
 又吉は知名士の夫人たちを訪ねて聞き書きを琉球新報に連載した。また芸能、伝説の名所も連載している。1919年、太田朝敷について琉球新報を退社し『沖縄時事新報』創刊に参加した。そこで末吉麦門冬と再会することになる。1920年、沖縄時事新報の内紛で太田朝敷と共に退社。沖縄時事新報は改題し『沖縄タイムス』となる。又吉は1923年10月に『沖縄教育』編集主任となった。『沖縄教育』編集後記で「私は人間の生活は総てが教育だと、こう広く解釈し、従来取り扱ってきた教育雑誌のように範囲を限らないで、あらゆる方面の材料を蒐集したいと思って居ます」、また「今般帝都の大震災により中央集権の弊害を痛切に感じた」と記した。
 又吉は、山城正忠を『沖縄教育』の詩歌の選者に迎えて雑誌の幅を広げた。1925年9月発行の『沖縄教育』は、表紙題字を山城正忠が書き、カット「獅子」は山口重三郎(山之口貘)である。又吉は編集後記で「貘氏は今般中央の『抒情詩』に日向スケッチ他三篇入選しました之より琉球詩人がどしどし中央の詩壇に出現せんことを念じます」。救世者は政治家ではなく、それは詩人と哲人であります」と記し、国吉真哲と一緒に貘を上京させている。

写真下は1925年8月16日、貘2度目の上京前に後列左から又吉康和、国吉真哲、国吉真才、一人置いて貘
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写真ー1958年・前列左から末吉安久、不詳、国吉真哲、南風原朝光、不詳、山之口貘

1925年10月 沖縄県教育会同人(又吉康和)『琉球』小沢書店

□鎌倉芳太郎氏は寫眞や装幀に助言され・・・、表紙は羽田会長の案に出たもので、若狭町の知念と云ふ老舗の作製に成る純琉球物です。







中央ー又吉康和、左は新垣美登子

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1937年4月『沖縄教育』弟248号に島袋源一郎が「『沖縄教育』変遷と思ひ出」を記している。□明治42年末に至り吾等の先輩 親泊朝擢氏が教育会専任幹事に抜擢され、筆まめな同氏の努力によって、山口瑞雨先生揮毫の芭蕉図案の表紙で前例のない程美しい内容も比較的豊富な『沖縄教育』が、東京三秀舎で印刷され毎月発行となって、教育界に清新の気を注いで呉れることになった。(略)大正12年10月現琉球新報主筆たる又吉康和氏を抜擢して敏腕を振って貰ふことにした。此に於いて『沖縄教育』は一躍其のレベルを高め中央学界諸名士の論説を掲載する等大いに充実し、未だ嘗て見ない権威ある雑誌となるに至った。大正15年 又吉康和氏の後任として國吉眞哲氏が編集幹事となり、引き続き豊富な雑誌を刊行し昭和3年4月第168号迄続いたが、(略)昭和7年11月、島袋源一郎代わって就任し予定の職員録を出し、翌昭和8年1月より経費の捻出を計って毎月刊行に引直した結果、投稿者並びに読者に多少の関心を繋ぐことを得且従来鹿児島市に於いて印刷していたのを那覇市内に於いて印刷せしむることとし、其の刺激によって印刷も漸次向上するに至ったのは事実である。

1937年3月 『沖縄教育』島袋源一郎「姓の統一に関する私見」
□(略)吾等の先輩、漢那、伊波、東恩納、仲宗根、比嘉、其他の方々の姓も最初は随分風変りな稱へ方だと思われたに違いないが、今日では学界や全国的に漸次知られて別に変な姓だと思う人もあるまい。(略)之について考えるべきことは教職員又は父兄の内祖先伝来の姓の呼稱を改変することを好まぬ方々のあることで、之は勿論当の御本人の意思を尊重することが常識であり、禮であるので強いて第三者が勝手に読み換える譯にはゆくまいと思う。

□部落とは、『広辞苑』に「比較的少数の家を構成要素とする地縁団体。共同体としてまとまりをもった民家の一群」とある。ヤマトでは部落で連想するのが「被差別部落」。沖縄の地域史でも言葉では部落と言っても、文字にするときは「村落」とするのが多い。

1939年5月 『沖縄教育』第273號 島袋源一郎「郷土雑記ー部落の発達②」
□五、部落移転
前に述べたように、昔の部落は大抵御嶽の付近即ち高原地や山の中腹なる傾斜地に発生し、神人共存共在の意識を以て防禦地帯に住んでいたのであるが、漸次狩猟生活から農業生活に移り、戦争時代から平和時代に入ると共に交通の不便や農業上の便利といった諸条件のために、御嶽即ち神山の付近から下方の平地に移転したのである。

之を実際に就いて例を挙げて見ると名護町の各部落の如きは全部山地又は中腹の古生層より現在の砂地に移転したので今でも字名護の旧部落は名護城の如き、昔ながらに神職たる祝女、根神、ホソメ神、掟神の4軒だけは神山の中腹に残っている。今帰仁城の付近に阿応理恵火神御殿やノロ火神殿内、根神火神殿内などの散在しているのは部落が下方の砂地に移転した後も猶ほ神職だけは神に仕えて昔の儘に御嶽の麓なる城下に残っていたことを物語るものである。

中頭郡西原村、中城村の東海岸各部落の如きも其の昔は殆ど皆もっと高い地点から現地位に移転したものであり、或いは西原間切内間村から嘉手苅村が派生したように分裂して新部落を形成したものもあり、小那覇の如く新しく創立された部落もある。中城村伊舎堂の如き昔は中城城の北字大城の前方伊舎堂原にあったので今でも旧家は旧正月になると初水を汲みにあの嶮崚な坂道を登って旧部落の古井に行くのである。

余り煩雑になるので一々各村の実例を列挙することを差し控えることにするが、大抵の部落移転の年代は大凡3百年前から2百年前と見做してよかろうと思う。
□六、部落の祭祀
□七、殿(方言トン)

1939年6月 『沖縄教育』第274號 島袋源一郎「郷土雑記ー部落の発達③」
□八、部落と城郭
私は数年来公務の余暇、郷土史料発掘の目的を以て沖縄本島の城址を踏査して陶瓷片を採集すると共に、城下の部落調査を行い、更に進んで出来ることなら本島及び付近の島々の部落を全体的に調べて其の発生、門中(氏族)の組織移転と発達、神事及び年中行事の状況生活状態等諸般の事項に就いて調査を遂げ之を文献に遺したいという願望を持っている。現在蒐集し得た城に関する資料だけでも何れ適当の機会に纏めて発表致したいと思うが目下判明している城址でも島尻郡凡50、中頭郡凡24,5、国頭郡凡10、首里那覇3、付近離島凡10、合計90数か所に達している。(略)

□九、移転の常則

□十、部落の発達

□十一、部落発達と家號

□十二、部落と門中組織

1941年1月『沖縄教育』第293号 島袋源一郎〇「列聖珠藻」と沖縄方言/おことはりー現下本県の実際問題として標準語普及の必要なることは今更申す迄もなく、筆者は之が励行に関し長年月努力を続けている一人でありまして此の点に於いては敢えて人後に落ちない自信を持っています。しかし之がために沖縄方言を蔑視すべき理由は毛頭なく、又しているのでもなく、況や方言研究の学術的価値を没却すべき筋合いのものでないことは何人も承知のことであります。否標準語励行の急速なる丈け速に方言を調査蒐集して記録に残すべき必要を痛感する次第です。
 本質的にいうと、寧ろ標準語に習熟せざるの故を以て躊躇し萎縮しているよりも、彼の四百年前方言混じりの金石文を建てて誇りにしていた時代の人々のように剛健質朴で、多少方言は交っても自己の思想感情を臆せずに表現する度胸が望ましいと考えています。読者請う御諒恕あらんことを。


島袋源一郎顕彰碑の前で、新城栄徳(渚さん撮影)

□石川正通「ふりむん随筆」
国名と人名と同じもので付ける方の勝手だ。外からとやかく言う筋合いのものではない。

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上里朝秀(明星大学教授/1965年9月17日死去、75歳)
首里出身/沖縄師範をへて広島高等師範、京都大学卒業。/成城学園大学教授、同大学総長代理を歴任。

1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

1912年3月ー沖縄師範学校卒業生に仲原善忠、上里朝秀、島袋盛敏、與世里盛春、山内盛彬
1915年1月16日『琉球新報』「亡父朝徹葬儀ー男上里朝秀、朝宜」
1920年9月15日『沖縄朝日新聞』「弟朝宜、兵庫県三田に於いて病没ー兄上里朝秀、朝徹、朝義」

上里朝秀の著作



1924年6月『祖先の生活』イデア書院〇はしがきーこれまでの歴史は多く政治と戦争の歴史であった。ところが近年歴史の見方が進んで来て、文化史風俗史経済史社会史といったようなものが、だんだんと研究され、しかもこれらのものは前のものにもまし」て重んぜられられるようになって来た。まことに喜ばしいことである。/内が学校であり、川が学校であるという具合に、行くところすべてが学校であった。ずいぶん大きな学校ではないか。私たちもいつも小さな学校にばかり閉じこもらないで、時にはかような大きな学校で大きな先生から、おけいこをしてもらうことも必要である。西洋のあるえらい学者が、「社会は大学校なり」といっているが、もっと大きくして「宇宙は大学校なり」と言うことが出来る。

関連〇1927年10月『沖縄教育』165号 小原国芳「教育道に就て(1)昭和2年度夏季講習概要筆記」ー那覇の港に船が入ると前面に石垣の壁が見える。あれを見た時自分は直覚的に龍宮だと思った。浦島太郎の作者はきっと琉球に来たことのある人ではないかと思われる。私も遂に琉球まで来てしまいました。私の郷里は大隅半島の尖端である。学生時代にはよく琉球の婦人が琉装して反物を売って歩いているのを見たから琉球に来ても意外の処とは感じない。それに私の学園で五主任の中二人までが琉球の人である。仲原(善忠)君と上里君で、仲原君は30何万円という学園の予算を一人で切盛りしている。両君からも宜しくということでありました。」 

関連〇1931年4月『沖縄教育』188号 神田精輝「歴史教材の価値観ー上里朝秀氏著『国史教材の価値及取扱』を読みて」

関連〇1965年10月10日 石川正通□上里朝秀先生鎮魂歌ー七つの海を越え越えて/十万億土隔つとも/五倫五常の化身たる/翁の永生疑はず/見て進む人の世の/にも野にも山々に/告げ鳥の囀りは/づる人を称ふなり/先の世今の世後の世を/行き抜く信仰揺ぎなく/のこし給ひし功績に/遺賢の教へ仰ぐかな/徳は孤ならず我等皆/ををしく起ちてこの人を/偲びて生涯を/ぶじ平穏に送りなん

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 1158年 太宰大弐に任ぜられた平清盛は、太宰府に赴任することはなかったが、宋商船が運んでくる唐物に強い興味を抱き、やがて宋人を太宰府から瀬戸内海へと招いた。
☆神戸の灘の薬師さんの傍らで長年「国語」の研究に専念していた奥里将建翁、最後のまとめとして1964年「沖縄に君臨した平家」を沖縄タイムスに連載(10-8~12-11)した。□10月11日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」(4)怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」→「琉文21」雑誌『おきなわ』/1926年4月ー奥里将建『琉球人の見た古事記と萬葉』青山書店

1167年 平清盛、太政大臣となる

写真ー重要文化財本堂 昭和大修営落慶記念  昭和四十四年五月十八日 六波羅蜜寺
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
 現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
 源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8,000基が出土した。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。

1260年 英祖王、即位
      ☆麦門冬・末吉安恭は「琉球画人伝」の中で、この時代を「仏教の起源と芸術の揺籃」と称す       補陀落僧禅鑑、葦軽船で琉球に漂着、英祖王保護のもと極楽寺(のち龍福寺)を創建
1281年 島津長久ら薩摩国の兵を率いて壱岐にて元軍を攻める。
1372年 1月、楊載、来琉
1377年 琉球国王察度、南山王承察度ら明に使者を遣わし馬、方物を貢す。北山王帕尼芝、明に使         者、方物を貢す。頼重法印(真言宗)、薩摩坊津から来琉。
1402年 足利義満、島津伊久に明を侵す鎮西海賊の取締を命ず。
       明使が北山第に足利義満を訪ね国書・大統暦、賜物を伝える。
1404年  時中、来琉し武寧に皮弁冠服が頒賜される。
1406年 武寧、寨官の子石達魯ら6人を明に遣わし国子監に学ばせる。
1410年 琉球国官生模都古ら2人、明の国子監に入り学を受ける。
1413年 中山王思紹、太勃奇を明に遣わし馬を貢し、寨官の子ウ同志久・周魯毎らを送り国子監で学ばせる
1415年 琉球国山南王汪応祖の世子他魯らを明朝に遣わす。足利義持、琉球国思紹に「りうきう国よ        のぬし」で書簡を送る。
1418年 琉球国中山王思紹、長史の懐機らを明に遣わす
1425年 柴山(中官)来琉、勅を齎らし巴志に中山王を嗣がせる。「中山門」扁額を掲げる。

1427年 安国山樹華木之記碑

右ー沖縄県公文書館玄関にある安国山樹華木之記□首里王城の威容を増し、合わせて遊息の地とするため、王城の外の安国山に池(龍潭)を掘り、台を築き、松柏・花木を植え、太平の世のシンボルとして永遠の記念とする。

1429年 巴志、三山統一 
1430年 巴志、明帝から尚姓を授けられる
1443年 朝鮮通信使の書状官として申叔舟が来日
1453年 朝鮮国、琉球国使者道安の齎らした日本琉球地図表装
1456年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し大聖寺、天尊殿、相国寺、普門寺、建善寺、長寿寺、天竜寺、広厳        寺、報恩寺、大安寺に寄進
1457年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し霊応寺、永福寺、大禅寺、上天妃宮、天妃宮、竜翔寺、潮音寺、万       寿寺、魏古(越来)に寄進
1458年 尚泰久王、万国津梁の鐘を正殿にかける。
  
  万国津梁の鐘(沖縄県立博物館・美術館)

      尚泰久王、梵鐘を鋳造し永代院に寄進
       尚泰久王、梵鐘を鋳造し一品権現御宝殿、東光寺に寄進
1461年 島津立久、尚徳の国王即位を祝い太平書を賜う
 
1466年 琉球国王尚徳の使者芥隠承琥、足利義政に拝謁、方物を献ず。
       □7月28日ー琉球の使者一行が将軍・足利義政に謁見、方物も献上する。
        8月1日ー琉球正使・芥隠西堂から蔭涼軒(季瓊)真蘂に大軸(中国から琉球国王に贈られ        たもの)、南蛮酒を贈る。(義政時代6度目の琉球人参洛)。
    

雪舟が描いた琉球人

『自治おきなわ』1996年7月号に私(新城栄徳)は「京都の博物館で『国々人物図巻』を見たことがある。明に渡った雪舟が北京の街で見かけた珍しい人びとを写生したものを弟子が模写したもので、その中に世界の海を駆け回ったイメージに重なる琉球人像がある。」と書いた。明代の類書『万金不求人』に和寇図と共に大琉球國人も載っている。長崎県立美術博物館の正保版『万国人物図』にも琉球人が登場している。多くの絵師たちが好んで万国人物図を画題にしていたようだ。私は雪舟の弟子の絵の写真(琉球人)を琉球新報の岡田輝雄記者に提供。これは1991年9月発行の『新琉球史』(古琉球編)に載った。同様に佐久田繁月刊沖縄社長に提供したものは99年9月発行の『琉球王国の歴史』に載った。

1474年 尚円、島津忠昌の家督相続を祝う
1480年 足利幕府、応仁・文明の乱が終わったので琉球に朝貢船を送るよう島津忠昌に催促させる。
1482年 琉球国尚真、奏して陪臣の子蔡賓ら5人を南京国子監において読書させることを乞う。
1492年 ドイツ人地理学者マルティン・ベハイム、地球儀を作成
1492年 尚真王、先王尚円を祀るため円覚寺建設に着手
1497年 万歳嶺記、官松嶺記を建設。円覚寺禅寺記碑
1502年 朝鮮王季揉から贈られた方冊蔵経収集のため円鑑池に小堂を建設(1621年に弁財天像を       安置)
1507年 尚真王、書を島津忠昌に送り修好の意志を伝える
1508年 島津忠治、尚真に書を送り、島津氏の印判(琉球渡海朱印状)を持たない商人を点検し船財       等を収公を許す
1510年 尚真王、官生蔡進ら5人を南京国子監において読書を乞う。
1527年 尚清王、智仙鶴翁を遣わし明皇帝の日本宛の国書を齎す。足利義晴、書を尚清に送り日明       和与の斡旋を謝す。
1530年 月船寿桂、「鶴翁(智仙)字銘并序」で為朝伝、琉球附庸説に言及。
1531年 『おもろさうし』第一巻、成る
1534年 5陳侃(正史)、高澄(副史)那覇着。7尚清冊封の礼。9冊封使、開洋。10陳侃『使琉球録』        著わす

1550年 5月4日ー足利義晴、近江穴太(現滋賀県大津市穴太)にて死去。享年40(満39歳没)。

1556年 島津貴久、尚元王が建善寺月泉を遣わしたことに答書し隣交を求める。
1561年 郭汝霖(正史)、李際春(副史)
1568年(永禄11)9月 織田信長、将軍足利義昭を奉じ上洛、当面の仮御所として義昭は本國寺に入      り、信長は清水寺を宿所とした。 
1569年(永禄12) 仮幕府のおかれた本國寺が襲撃にあったことから、信長は義昭のために二条城        (二条御所)を築く。
1569年(永禄12年)、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、ルイス・フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている。フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、戦国期研究における重要な資料の一つになっている。その後は九州において活躍していたが、1580年(天正8年)の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。1583年(天正11年)、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後に『日本史』とよばれることになる。→ウィキ


松田 毅一(まつだ きいち、1921年5月1日 - 1997年5月18日)は、日本の歴史学者。香川県高松市出身、大阪市育ち。専門は戦国時代から江戸時代初期の日欧交渉史、特にポルトガル・スペインとの関係史。ヨーロッパ各地(ポルトガル・スペイン・バチカン等)やフィリピン、マカオ等の文書館に保存されている日本関係史料の発見・翻訳・紹介に取り組み、また多数の著書・論文を発表して日本における上記分野の研究の進展に貢献する一方、こうした研究成果の一般市民への啓発・普及、関係諸国との学術・文化交流にも尽力した。→ウィキ

1575年 琉球国の紋船(使僧天界寺南叔、使者金武大屋子)、鹿児島に着く。印判を持たない商船に       交易を許したこと、島津使僧広済寺雪芩津興を粗略のことに島津氏に弁明。
1579年 簫崇業(正史)、謝杰(副史)来琉。簫崇業「那覇と首里の二ヶ所で、馬市(mashi)が設けら        れている。物を売るのはおおむね女-」。
1580年 琉球国尚真、島津義久に九州大半の帰伏を祝い隣交を求める。
1586年(天正14)  豊臣秀吉、聚楽第、方広寺大仏殿造営はじまる。
○国立博物館隣にある豊国神社は、豊臣秀吉死去の翌年の1599年、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。方広寺にあった大仏は、天保年間に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。この大仏は私もよく見にいったが1973年3月28日深夜の火災によって焼失した。


方広寺の大仏

1587年 島津義久、豊臣秀吉に降伏。
1590年 豊臣秀吉、尚寧王に書を送り、全国統一を強調。政化を異域に弘め四海を一家となす志を述べる。

1594年 尚寧王、島津義久に国家衰微のため唐入りの軍役は調達できない旨答える。


1976年2月 神坂次郎『徳川家康ー物語と史蹟をたずねて』成美堂出版
○二百七十年の徳川王国を築いた鼻祖だけあって、家康の史料は膨大である。明治以降に書かれた伝記でさえ(史料や研究書は別にしても)数えてみれば五十余冊ある。しかし、書くときめた以上、手当たりしだい、目に触れるかぎり読み倒してやろうと勇猛心を奮いたたせたのだが、これは軽率であった。なにしろ生身の家康というのは、幕府が神格化し御用学者たちが三世紀にわたって阿諛(おもねりへつらう意)をきそい、目も鼻も弁じぬまでに”神君〟の厚化粧をほどこしてしまったような扁平な人間ではない。その心意は複雑で矛盾にみち、屈折している。・・・

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写真左/1999年5月11日沖縄ハーバービューホテルで神坂次郎氏(作家・熊野の生き字引で司馬遼太郎の文学仲間)、新城栄徳。麦門冬・末吉安恭の取材を終えての祝盃。撮影・末吉安允
写真右/1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談司馬遼太郎『街道をゆく6』朝日新聞社
○大阪の都島本通で、篤志でもって「沖縄関係資料室」をひらいていおられる西平守晴氏にもきいてたしかめることができた。西平氏は、「そうです、そんな話があります」といって、南波照間の「南」を、パイと発音した。ついでながら本土語の南風(はえ)は沖縄でも「南」の意味につかう。本土語の古い発音では、こんにちのH音が古くはF音になり、さらに古くはP音になる。つまり花はパナである。八重山諸島の言葉はP音の古発音を残していて、南(ハエ)が南(パイ)になるらしい。西平氏はこのまぼろしの島を、「パイ・ハテルマ」と、いかにもその島にふさわしい発音で言った。


左から徳川家康、秀忠、家光

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尚寧王
1602年 徳川家康、陸奥国伊達氏領に船で漂着した琉球人を島津忠恒に送還させる。
1604年 野国総官、渡唐、帰国(05年)のとき蕃薯を持ち帰る。
1605年 本多上野介正純、長崎奉行小笠原一庵に平戸漂着の琉球船の荷物没収を命ず。
1606年 山口駿河守直友、薩摩商人の渡海が琉球出兵の妨げにならないよう分別を促す。
1608年 山口駿河守直友、島津家久に、琉球出兵の準備と、再度琉球国王に家康への来聘を促す交渉を命ず。
1609年 3-4島津軍、琉球出兵で山川湊を出帆。

1609年(慶長14)4月 薩摩軍、琉球侵攻/5月 鹿児島に中山王・尚寧を連れ帰る 

○南方熊楠「大本といふ神號」/麥生(末吉安恭)「薩人の虐殺」〇雪嶺先生の著「大塊一塵」の中に露國人は我が薩摩人と其の性格類似の點があると云はれた。私も其の卓見に当時敬服」した一人である。尼港事件で露人の残虐性を知った私は薩人にも又似たやうな残虐性をその過去の歴史から発見した。薩摩人には少々憚ることだが雪嶺先生も嘗て言はれたことだから参考の為めに引張出さう。それは慶長14年島津氏が琉球を討った時薩摩の兵が非戦闘員なる琉球の土民を虐殺したことである。その虐殺を試みた当人の書いたものだからこれ程慥かなことはあるまい。中山國幷大島徳之島永良部島喜界島責取日記と云ふににある。曰く「御手之士6人7島勢240人那覇之方へ御超被成候3月の事なれば老若男女麥畠の草取に集り居り候が此人々之風情を見て驚ふるひはなき麥畠の中に随居候を美濃守殿(樺山資高)より7島詰船頭之内願作へあの者引出し一々切捨可被仰付候に付皆引出し切捨申候。私刀は前方被ト候備前にて候が十二三人程切候得共少も痛不申候與申候」云々。薩摩バルチザンの得意想ふべきである。(1920年11月 『日本及日本人』)

○「(略)この根抜けざることは、間々聞き候が、何に因し候や。右の袋中上人には、更に『琉球往来記』と申す書これあるやに承り候が、御存知なきや。若し御存知にて候はば、其の本の所在御示し下され度候。沖縄図書館にて琉球に関する書類を集め中に候が、加州金沢の俳人堀田麦水(天明3年63才没)の著書に『琉球属和録』『南島変』『慶長中外伝』(66巻)とあり。御存知なきや。「属和録」は写本にて(欠本)1部沖縄図書館にあれど他はこれなく候。加州金沢の俳人堀田麦水。屈麦水と称す。樗庵、暮柳舎と号、通称池田屋長佐衛門。」(1918年5月27付の南方熊楠宛の末吉安恭書簡) 新城■麦水というのは角川『俳文学大辞典』に俳諧師・稗史実録作者とある

1610年(慶長15)8月2日 島津家久、中山王・尚寧を連れて駿府に参る/8日 島津家久、中山王・尚寧を連れて登城し徳川家康に拝謁/王弟、具志頭王子尚宏、家康に対面後に病死し興津の清見寺に葬られた。/18日 家久と中山王・尚寧に饗応で猿楽、頼宣、頼房が舞う。その間酒宴  
1610年(慶長15)8月25日 島津家久、中山王・尚寧を連れて江戸に参着/28日 尚寧、登城し台徳院(秀忠)に拝謁/9月20日 島津家久、中山王・尚寧を連れて木曽路より帰国

 大正13年12月 藤田親義『琉球と鹿児島』末吉莫夢「薩摩関係の琉球五異人ー鄭迵謝那利山/薩摩関係の異人として、私は先ず第一に鄭迵謝那親方利山を挙げる。彼は慶長役の時の三司官の一人で、琉球に於いて最も勢力を振い、遂に対薩摩外交を誤り、其身も薩摩に於いて戮された人であるが、琉球の歴史に於いては出色の人物である。」
1611年9月19日 鄭迵・謝名親方利山、斬首

○1983年12月 新里堅進作画(川平朝申解説)『史劇 謝名親方』全教出版
謝名 利山(じゃな りざん、嘉靖28年(1549年/天文18年) - 万暦39年9月19日(1611年10月24日/慶長15年))は、琉球王国の政治家。謝名親方(ウェーカタ)の呼び方で一般に知られる。

 唐名は鄭迵(ていどう)。称号は親方。鄭氏湖城家九世。久米村(現・那覇市久米)出身で久米三十六姓の末裔の一人。父・鄭禄の次男として生まれる。1565年、16歳のとき官生に選ばれて明に留学し、翌年、南京の国子監へ入学する。1572年、帰琉。その後は都通事をへて長史となり、進貢使者として数度渡唐する。1580年、総理唐栄司(久米村総役)となる。 1605年、城間親方盛久を讒言して百姓の身分に貶め、自らは三司官となった。薩摩侵略の際には三重城に陣取り那覇港の防衛を行うも尚寧王の降伏によりともに連行される。その後、薩摩藩から起請文に署名するよう求められるが、ただ一人これを拒否し処刑された。(→ウィキペディア)

2005年12月『うるまネシア』第7号□後田多敦「記憶の風景を訪ねて(1)ー鄭迵謝那親方利山顕彰碑ー」
      
鄭迵・謝名親方利山顕彰碑 と神坂次郎氏○鄭氏の門中(一族)によって1983年3月に建てられた顕彰碑が元の久米村に近い那覇市若狭の旭ヶ丘公園にある。

神坂次郎 こうさか-じろう
1927- 昭和後期-平成時代の小説家。
昭和2年3月2日生まれ。第二次大戦後郷里の和歌山県にすみ,歴史小説をかく。昭和57年「黒潮の岸辺」で日本文芸大賞。59年,18年をかけてまとめた「元禄御畳奉行の日記」がロングセラーになる。62年「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」で大衆文学研究賞。平成15年長谷川伸賞。陸軍飛行学校卒。本名は中西久夫。著作はほかに「熊野御幸(ごこう)」「奇妙(けったい)な侍たち」など。(→コトバンク)



○琉球国中山王尚寧起請文(部分・島津家文書)。起請文は戦国時代、忠誠を誓うもの。豊臣秀吉の拾丸(秀頼)への忠節を尽くさせる血判誓紙も烏点の牛王(うてんのごおう)宝印があるので熊野信仰の流れのひとつであろう。
〇熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、古来より多くの人々の信仰を集めました。今なお多くの参詣者が訪れ、熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山の一つ。夫須美神(ふすみのかみ)を御主神としてそれぞれに神様をお祀りしている。伊弉冉尊(いざなみのみこと)とも言われる夫須美神は、万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、縁結びの神様また、諸願成就の神としても崇められている。社殿は、仁徳天皇の御世(317年)に現在の位置に創建され、平重盛が造営奉行となってから装いを改め、やがて、織田信長の焼討に遭ったのを豊臣秀吉が再興した。徳川時代に入ってからは、将軍吉宗の尽力で享保の大改修が行われている。→「那智勝浦観光ガイド」参照





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浦添市美術館で/左、新城栄徳、徳川義宣氏(徳川美術館館長)( 徳川美術館 hp)□徳川 義宣(とくがわ よしのぶ、1933年12月24日 - 2005年11月23日)は、尾張徳川家第21代当主。美術史家、財団法人徳川黎明会会長、徳川美術館長。養子のため徳川家の血筋はついでいないが、多数の著作や講演でのアピールで、他の御三家以上に露出度を高めた。徳川家康の遺訓だとされていた「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」は、家康のものではなく、徳川光圀のものであると確認した。(ウィキペディア)

1607年(慶長12年・宣祖40年)には、江戸時代はじめての朝鮮通信使が幕府に派遣され、6月29日(旧暦5月6日)に江戸で将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見した。ただし、このときから3回目までの名称は、回答兼刷還使とされている。→ウィキ
 
1610年(慶長15)8月2日 島津家久、中山王・尚寧を連れて駿府に参る/8日 島津家久、中山王・尚寧を連れて登城し徳川家康に拝謁/王弟、具志頭王子尚宏、家康に対面後に病死し興津の清見寺に葬られた。/18日 家久と中山王・尚寧に饗応で猿楽、頼宣、頼房が舞う。その間酒宴

1610年(慶長15)8月25日 島津家久、中山王・尚寧を連れて江戸に参着/28日 尚寧、登城し台徳院(秀忠)に拝謁/9月20日 島津家久、中山王・尚寧を連れて木曽路より帰国


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 私にとって、絵本は保育園や幼稚園を連想する。ここで戦前の那覇市内の幼稚園をみる。1876年に東京に官立の「東京女子師範学校附属幼稚園」が設立されている。那覇では遅れて、1893年に天妃尋常高等小学校附属幼稚園が設立された。1907年4月、真教寺の田原法馨らが真教幼稚園を設立している。同年1月の『琉球新報』に森柳子が「愛花幼稚園生に就いて」を書いている。翌年11月の『琉球新報』には「森柳子主宰になれる那覇区内字久米安仙坂の善隣幼稚園は元愛花幼稚園の改称せしもの」とある。1930年に永田ツルが愛泉幼稚園、32年に那覇市が上山幼稚園を設立した。33年には八重山でヤエマ幼稚園が設立されている。

□→2004年1月 斎木喜美子『近代沖縄における児童文化・児童文学の研究』風間書房

沖縄県立「沖縄図書館」100年
今年は沖縄県立「沖縄図書館」が開館されて百年になる。ここ沖縄では去った大戦で文化財や建築物や多くの人命が失われた。新聞も図書館、博物館も、学校や首里城も、厳密にいうと系譜的には戦前と切れている。だが今こそ伊波普猷の開館初期の理想に立ち返り系譜の糸を太くする努力も大事であろうと思われる。

沖縄県立沖縄図書館の初代館長は言うまでもなく伊波普猷であるが、厳密には嘱託館長で正式な館長になったのは12年後である。伊波の図書館には当時としては画期的な児童室があった。ここで、その背景をみてみる。1874年、新島襄がアメリカでの修行と勉学を終えて帰国。故郷の群馬県安中に一時帰郷した。そこでアメリカ文化やキリスト教の話を若者たちにした。その中に16歳の湯浅半月も居た。1875年11月、新島襄は山本覚馬、J・D・ディヴィスと協力して「同志社英学校を」を設立した。1877年、半月は同志社に入学。1885年に渡米しオハイオ州オペリン大学神学科やエール大学で学んだ。1891年、帰国し直ちに母校同志社の教授。1899年に平安教会の牧師。1901年に新設の京都帝大法学部講師となり大学附属図書館事務にも従事した。

1900年9月、伊波普猷は京都の第三高等学校に入学。01年夏に京都でコレラ流行、伊波は一時東京に避難したという。このころ極度の神経衰弱で、気を散らすため考古学会に入り宇治辺りまで出かけた。また西本願寺の仏教青年会主催の講義や平安女学園音楽講師だったオルドリッチ女史のバイブルクラスにも出入りした。伊波は03年7月に第三高等学校を卒業し9月、東京帝大文科大学に入学した。

1902年、湯浅半月(44歳)はアメリカへ図書館事業調査のため旅立った。アメリカではシカゴ大学図書館学校、オルバニー市の図書館学校で貸出の必要性と児童室の必要性を学んだ。1904年、半月は京都府立図書館長に就任。京都府は09年に岡崎公園内に工費15万円を投じ、図書館本館を完成(□→武田五一)。そこには日本最初の児童閲覧室が設けられた。また半月はM・デューイの「十進分類法」を取り入れ「和漢図書分類目録」(美術工芸編、歴史地誌編等10分類全16冊)を刊行した。このときの蔵書は現在、京都府立総合資料館にある。因みに京都府立図書館の一部と、奈良県立図書館( http://www.library.pref.nara.jp/index.html )の建物は移築され今も残っている。

1906年、宮古の比嘉財定が第五高等学校を終え東京帝大法科大学に入学した。在学中、柳田國男に出会い、比嘉は柳田に「比嘉村の話」をする。比嘉は10年7月に東京帝大を卒業。農商務省勤務を経て1915年にアメリカ留学。17年にカリフォルニア州立スタリント病院で死去。

1909年8月、伊波普猷は3週間にわたって鹿児島、山口、大阪、京都、奈良の図書館を視察する。そこで伊波は財政的規模を奈良図書館に求め、運営に関しては湯浅半月京都図書館長のアドバイスを受けた。
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湯浅半月京都図書館長。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館創設にあたって半月のアドバイスを受けている。京都図書館は1909年2月落成した。現在は外観だけ残して、後ろにガラス張りのビルが新築された。 

 1910年5月、伊波の友人、八重山の岩崎卓爾が図書館に新渡戸稲造『英文武士道』など、漢那憲行が薄田泣菫『二十五弦』ほか、浦添朝忠は『資治通鑑』など700冊を寄贈。6月には末吉麦門冬が『俳句の研究』『蜀山人全集』などを寄贈している。かくして琉球学センターとも云うべき沖縄県立沖縄図書館は8月1日、那覇の南陽館で開館式を迎えた。折りしも8月22日は「日韓併合」があった。沖縄図書館の児童書は「中学世界、少女世界、少女之友、少年之友、日本少年、少年、少女、幼年之友、幼年画報」などがあった。

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1910年7月31日『沖縄毎日新聞』

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奈良県立図書館ー1908年に奈良公園内に建てられたもの。昭和43年に郡山城内に移築された。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館のモデルを奈良県立図書館に求めた。

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1870年□名妓小三-鳥取藩士松田道之と祇園下河原の大和屋お里との間に、ぎん(鈴木小三)が生まれる。

写真ー名妓小三

1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。1872年9月に琉球藩が設置されると川崎正蔵も戸籍寮の根本茂樹らと来琉し沖縄物産調査を行った。川崎は「日琉間に郵便定期航路を開き、武断政策よりも経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島密に認められた。

1875年9月、日本国郵便蒸気汽船会社解散にともない明治政府は大有丸を琉球藩に下付。11月、郵便汽船三菱会社が琉球航路を開始した。

1876年8月27日の『朝野新聞』に「沖縄は他県からの商人50人、陸軍省派遣の職工138人、女性1人」と報じられた。同年、琉球正史『球陽』の書き継ぎが終わっている。


1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった


1879年5月4日 京都『西京新聞』「琉球ばなし」

1879-5-27 藩王尚泰、東海丸で東京向け那覇港出帆(6-4神戸で2泊)

1880年6月に、郵便汽船三菱会社の貫効丸が琉球、鹿児島・大島、神戸間を運航をはじめた。翌1881年3月に東京上野で開催の第二回内国勧業博覧会に沖縄からも織物、陶器、漆器が出品された。

1881年5月18日に上杉茂憲が沖縄県令として赴任してきた。7月の大阪『朝日新聞』に「沖縄県泡盛酒」の広告が載った。翌1882年の『朝日新聞』の3月「首里城が陸軍省所轄永世保存城と定まる」の記事、6月には「琉球カスリ-西平筑登之」の広告も載った。


1882年11月16日、第1回沖縄県費留学生の大田朝敷、謝花昇、岸本賀昌、高嶺朝教、今帰仁朝蕃が那覇港から平安丸で上京、29日には神戸に寄っている。
1883年4月に岩村通俊が沖縄県令として赴任した。12月には西村捨三が沖縄県令となる。

1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。→1996年6月『大阪春秋』堀田暁生「自由亭ホテルの創業ー大阪最初のホテルー」

1885年2月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し金毘羅宮①参詣。西村は中井弘(櫻洲山人)滋賀県令と計り尚泰に近江八景遊覧にさそう。8月には元彦根藩士で西村と同士であった横内扶が沖縄県七等属として赴任する。9月、郵便汽船三菱会社、共同運輸会社と合併し日本郵船会社となる。1886年3月、山県有朋内務大臣、益田孝、西村捨三らと同行し来沖。


写真ー西村捨三
生年: 天保14.7.29 (1843.8.24) 没年: 明治41.1.14 (1908)
明治期の官僚。父は彦根藩(滋賀県)作事奉行西村又治郎,母は貞。幼君井伊愛麿(直憲)に仕え,藩校弘道館に学んだのち同館国学方教授長野義言(主膳)の推薦を得て藩命により江戸に留学,塩谷宕陰に学んだ。この留学中の放蕩に対し,父が幼名の得三郎を捨三に改めると訓戒したのが名の由来。のち一代限騎馬徒士,藩校教授となる。その間京都周旋方として情報収集に当たり,大政奉還後は朝旨遵奉という藩の方針の下で東山道征討に参加した。明治5(1872)年旧藩主直憲に従い欧米を視察,10年内務省に出仕し,警保局長,土木局長などを歴任した。22年大阪府知事に転じ淀川改修,上水道整備に尽力し,次いで農商務次官のとき平安神宮創建に参画。大阪築港にも貢献した。
(コトバンク・長井純市)


①ことひら‐ぐう 【金刀比羅宮】
香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町にある神社。祭神は大物主神を主神とし、崇徳天皇を配祀(はいし)。海上安全の守護神として信仰される。明治初頭までは神仏習合で、象頭山(ぞうずさん)金毘羅(こんぴら)大権現と称した。琴平神社。こんぴらさん。→コトバンク


写真ー尚泰

1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。



1889年12月11日『大阪朝日新聞』「琉球の和歌」


写真ー丸岡莞爾 まるおか-かんじ
1836-1898 幕末-明治時代の官僚,歌人。
天保(てんぽう)7年5月28日生まれ。鹿持雅澄(かもち-まさずみ)に国学をまなび,坂本竜馬(りょうま)らとまじわり脱藩して長崎にすむ。維新後,内務省社寺局長などをへて沖縄県知事,高知県知事となる。明治31年3月6日死去。63歳。土佐(高知県)出身。本姓は吉村。字(あざな)は山公。通称は三太,長俊。号は建山,掬月,蒼雨など。歌集に「蒼雨余滴」。(コトバンク)

1893年、寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。


芝原佐一資料

□琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一が父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

 1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘①の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社②を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』

②六孫王神社
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大城弘明氏撮影

□六孫王は、清和天皇の六男を父として生まれ、経基と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていた。十五才にて元服、源の姓を賜わり、先例に従い臣籍に加えられたとある。承平・天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられた。王は現在の社地に住居を構え、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言された。王の長子満仲公は遺骸を当地に埋葬され(本殿後方に石積の神廟がある)その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりである。(平安時代中期)
 境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社がある。(6月13日弁財天御開帳祭)
 江戸時代五代将軍綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。毎年十月体育の日に例祭(再興が元禄より始まり宝永年間に完成したゆえ別名“宝永祭”とも謂われる)が行われる。
 王の後裔には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将が多数輩出され、それぞれ子孫繁栄されている。
 昔は、六ノ宮権現とも呼ばれ、今昔物語に「六の宮」それを基に芥川龍之介が「六の宮の姫君」にも載せている。小泉八雲著の「怪談」には、「弁天の同情」と題して不思議な夫婦の出会いの話が紹介されている。

「小泉八雲」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1898年、那覇の喜屋武元持が酒造原材料仕入部を大阪に設置。小嶺幸之は大阪の漆商鳴神孫七と特約し製漆販売を開始、小嶺は後に広運社の常務になる。教育家・高良隣徳は滋賀師範学校教諭から奈良県立中学校教諭として赴任。1899年4月、在阪の銀行、商船会社、商店などの沖縄に縁故がある人たちが集う懇親会が大阪西長堀の岸松館で開かれた。

へいあんじんぐう【平安神宮】
京都市左京区に鎮座。桓武天皇と孝明天皇(1940年合祀)をまつる。桓武天皇の平安京遷都1100年記念祭に当たり,官幣大社として1895年創建された。社殿は平安京の大極殿,応天門を模したもの。例祭は4月15日。10月22日には神幸祭があり,平安時代より明治維新までの服装・風俗をまね,時代順に行列・供奉するので時代祭と称し有名である。境内の神苑は名園として名高い。→コトバンク

□大阪市港区の天保山公園には大阪港築港の功労者、第六代大阪府知事の西村捨三の銅像がある。西村捨三は彦根藩の出身で、若き日に井伊家第17代直憲に仕えた。西村翁は往時を偲んで、井伊家の庭園にあった名石朝陽岡をもらい受け、自宅の庭に置いていた。昭和32年西村翁の銅像を建設するに当たってこの石もこの地に移されることになった。



1909年4月『琉球新報』□師範中学旅行生の消息ー4月6日、火曜日、神戸、京都 午前9時半汽車にて神戸駅を発し12時京都に着。直ちに東本願寺に参詣致し建築の壮大な に驚き入り候。これより途中耳塚を右に見立て豊国神社に詣で旧伏見桃山殿の唐門大仏殿、国家安康の大鐘を見て博物館に入り歴史美術上の珍品に知囊を養い三十三間堂を経て桃山御殿に詣で血天井を見。妙法院西大谷を過ぎて清水寺に詣で候・・・。


写真ー池上四郎ー1877年、池上は警視局一等巡査として採用され、間もなく警部として石川県に赴任した。その後、富山県などの警察署長、京都府警部などを歴任し、1898年からは千葉県警察部長、兵庫県警察部長を務めた。1900年には大阪府警察部長となり、その後13年間に渡って大阪治安の元締めとして活躍した。その清廉で、自ら現場に立ち責任を果たす働きぶりと冷静な判断力は、多くの市民からの信頼を集めた。1913年、市政浄化のため、池上は嘱望されて大阪市長に就任した。財政再建を進める一方、都市計画事業や電気・水道事業、さらには大阪港の建設などの都市基盤を整備し、近代都市への脱皮を図った。御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現を見た。また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。1923年には大阪電燈株式会社を買収し、電力事業を市営化した。また1923年9月に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。(ウィキメディア) 池上の曾孫が沖縄に何かと縁がある秋篠宮紀子さん


1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。


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1899年6月ー西村時彦『南島偉功傳』誠之堂書店(東京)
1935年5月ー永長信雄編『奄美大島歴史物語』中央大学奄美学友会
1938年1月ー文英吉『南島』新年号□南島社(名瀬町)
1947年2月ー『自由』第2巻第1号□自由社ー重江国雄、肥後豊

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1950年5月ー『大奄美年鑑』奄美文明社(藤原岡恵)
1953年9月ー週刊『琉球国際新聞』琉球国際新聞社(藤原岡恵)

1956年4月ー九学会連合奄美大島共同調査委員会『奄美の島々』毎日新聞社
1960年6月ー島尾敏雄『離島の幸福・離島の不幸』未来社
1964年4月ー外間正栄・福地曠昭『復帰10年目の奄美教育の現状』沖縄教職員会
1964年6月ー奄美郷土研究会(島尾敏雄)『奄美郷土研究会報』第6号
1964年12月ー栄喜久元『奄美大島・与論島の民俗』
1971年1月ー沖縄文化協会『沖縄文化』33・34号「奄美特集」
1971年3月ー昇曙夢『大奄美史』奄美社
1971年11月ー南潮時報社(田村佐衛源・芦屋市)『南潮時報』第232号
1972年10月ー鹿南太陽新聞社(角島直門)『鹿南太陽新聞』第1号

1980年5月ー藤原南風『新奄美史』奄美春秋社



海ゆかば 戦艦大和他特攻艦隊戦士慰霊塔/名瀬市大浜海岸で採集される皇太子殿下


高松宮殿下ご夫妻の奄美訪問/金井正夫(元和歌山県知事)〇金井 正夫(かない まさお、1892年(明治25年)2月 - 1979年(昭和54年)10月4日)は、日本の政治家、裁判官、弁護士。 衆議院議員、和歌山県知事。 旧名、当央。 [経歴] 鹿児島県において金井当説の五男として生まれる。 1915年に正夫と改名。 1919年、京都帝国大学法学部英法科を卒業。 司法官試補となり、以後、予備判事、大阪地方裁判所兼大阪区裁判所判事を歴任。 また、関西大島郡人会を創立し会長となる。 1923年から12年間にわたり関西大学講師として務めた。 1928年、判事を退官し弁護士となる。 1932年2月、第18回衆議院議員総選挙に鹿児島県第三区から立憲政友会の所属..→ウィキ


永野芳辰(元高知県知事)〇鹿児島県大島郡笠利村佐仁(奄美大島、現奄美市)で、永野孫七の長男として誕生。1918年(大正七年)鹿児島県立二中、1922年(大正11年)第七高等学校造士館、1925年(大正14年)京都帝国大学法学部政治学科を卒業。愛知県属を振り出しに沖縄県、福島県、北海道、東京府各課長、北海道拓殖部長を経て1941年(昭和15年)大政翼賛会地方部長に就任。その後秋田県総務部長兼学務部長、広島県部長・経済部長、同内政部長を経て、1945年(昭和20年)10月、高知県知事に就任。1946年(昭和21年)1月、九州地方商工局長に転任。しかし大政翼賛会時代翼賛選挙の担当部長として活躍したことが仇となりGHQの公職追放令に該当のため政界進出の野望を断念する。ウィキ/昇曙夢


徳三宝ー『新奄美史』奄美春秋社
徳三宝〇1887年、徳之島生まれ。明治、大正、昭和初期に柔道界の実力者として全国に名をはせた。中学生で柔道を始めた。「九州に徳三宝の敵なし」と言われ、19歳で上京、嘉納治五郎が創設した柔道の総本山・講道館の門をたたいた。「実力日本一」「柔道の鬼」の異名で活躍。あまりの強さに「徳三宝に膝をつかせたら一本をとったことになる」との伝説も。早稲田大などで師範を務め、45年に東京大空襲に遭い、58歳で死去した。 →コトバンク



豊千里(洋画家)ー『新奄美史』奄美春秋社


重村三雄(1929年~2012年 洋画家・彫刻師)ー『新奄美史』奄美春秋社



関西奄美会ー『新奄美史』奄美春秋社


東京奄美会ー『新奄美史』奄美春秋社


森村元栄四郎『サンデー奄美』ー『新奄美史』奄美春秋社
1981年10月ー森村元栄四郎『サンデー奄美』第191号

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Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
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2016-11 ひより「作品」

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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02

1911年11月『琉球新報』□「蔡氏九世忠義録ー尚豊王御即位マデ七場ニ仕組ミ大道具仕掛ニテ開演可仕候ー」


1912年5月『沖縄毎日新聞』「中座 琉球史劇 楚辺暗川ー琉球音楽ノ祖先 赤犬子」


1912年5月20日『琉球新報』

1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。


1913年10月15日ー那覇の香靄座、大阪杉本商会特約で活動写真常設館「パリー館」開設
1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。



1914年3月1日ー那覇区字東仲毛で「常設活動写真帝国館」開館

1914年3月 那覇の常設活動写真帝国館で「百合子」上映


1914年4月 「米国海軍水雷演習」


1914年6月『琉球新報』



1914年10月『琉球新報』


1916年6月16日『琉球新報』

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1919年ー京都都踊りで琉球太鼓踊りー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り

□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」


1923年12月ー赤琉會(日本労働総同盟予備軍倶楽部)発足
1924年3月ー関西沖縄県人會機関誌『同胞』創刊


大阪人権歴史資料館の学芸員・仲間恵子が1994年6月『季刊・リバティ』に「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号ー関西に生きるウチナーンチュ(沖縄人)の第一歩ー」と題して『同胞』を翻刻、紹介している。2003年3月の『水平社博物館研究紀要』第五号にも仲間は「1920年代の在阪沖縄青年の運動」と題し『同胞』を紹介している。『同胞』は「沖縄県人同胞会」の機関誌として1924年3月に大阪市北区西野田吉野町で発行された。『同胞』は五号を数えると謄写版刷からタブロイド版印刷となった。


1924年5月ー真栄田三益らが中心となって日本労働総同盟予備軍倶楽部(赤琉会)を結成。大阪市電、私鉄の労働争議の応援などに旗を持って参加。大阪天王寺公園でー大阪のメーデーに参加した関西沖縄県人会の活動家。前列右から2人目が上里春生、4人目が眞榮田三益、その後が眞榮田之璞、後列右の旗手は宜保為貞


1925年  前列右から2人目が阿波連之智、4人目が眞榮田之璞、前列左から2人目が浦崎康壮、後列右端が浦崎康慶、3人目が眞榮田三益


写真右・松本(真栄田)三益さん、新城榮徳
真栄田一郎については安仁屋政昭氏が『沖縄大百科事典』に詳細に記しておられる。林世功の一族である。本名は之璞、写真はその墓の前で左から姪の上原美津子、池宮城秀意、瀬長亀次郎、城間得栄(国吉真哲撮影)。右は国家権力により弾圧された真栄田一郎の遺体写真(国吉真哲撮影)。真栄田家・8世は世佐、9世が傳詩、10世が正隆で一郎はその4男。兄に之琛(真栄田勝朗)、之璟、之か、姉の冬子(まかと)は伊波普猷の妻。関西沖縄県人会、沖縄人連盟を組織した真栄田(松本)三益は親戚である。

1933年5月ー『琉球新報』桑江常格□同志前田一郎を悼む/歴史上の一人物としてー(略)同志前田は理論家ではなかった。彼の長所は頭の中で理論をデッチ上げるのではなくして自身の信ずるところを行動において現すところにあった。(略)彼が16、7歳のころから沖縄のアナーキストたちと行動を共にし後にマルクス主義に転向して大正13年から14年にかけての関西沖縄県人会草創期を経て××党沖縄支部結成時代から死ぬまでの彼の行動の中によく現れている。彼がマルクス主義者としての活動は大正14年の春に当時関西沖縄県人会の仕事をしていた真栄田三益の紹介で県人会事務所に来たときから始まる」

nullnull写真ー左・松本(真栄田)三益さん、右・新城栄徳と真栄田三益さん

浦崎康華『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社1977年11月)
『同胞』を詳細に紹介した最初の本は、浦崎康華『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社1977年11月)である。浦崎翁は関西沖縄県人会の創立メンバーで当時を知る有力な人物である。私は1982年5月に浦崎翁を那覇市泊に訪ねて、関西沖縄青年の運動のことを聞いた。浦崎翁は社会運動だけでなく文化全般に通じている。前出の著は国吉真哲翁の序文がある。偶然なことに私は浦崎翁から国吉翁も紹介されることになる。


浦崎康華『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社1977年11月)
〇国吉真哲□序ー沖縄は慶長年間のの薩摩の武力侵入にはじまり、明治政府の琉球処分、それに第二次世界大戦によるアメリカの軍事占領と大きな惨禍と犠牲を強いられてきた。明治政府の沖縄に対する植民地政策により明治、大正をつうじて沖縄のこうむった打撃は大きく、明治末年には首里、那覇の中産階級はほとんど凋落し、地方農村も荒廃し沖縄人の生活は窮乏のどん底になげこまれた。ことに明治政府は日清、日露と二度にもわたって戦争を強行し大正に入ってからは第一次世界大戦が1914年(大正3年)8には米騒動が起こって全国的に波及し社会不安が高まって行った。浦崎氏の思想運動・社会運動への出発もこのあたりから始まっている。(略)
沖縄の第一回メーデーは1921年(大正10年)5月1日に行われている。中央メーデーに、わずか1年おくれて行われていることは沖縄の置かれている地位が中央の政治的、社会的諸条件に類似するためであろう。メーデーは無政府主義者の城田徳隆らと社会主義者の山田有幹らの共催によるものであるが、このころはまだアナーキズムとボルシェヴィーズムの対立は生じてなかったようだ。

〇浦崎康華□うるわしい同志愛ー沖縄の初期社会運動家はみんな童名をもっていた。特に首里、那覇出身は本名(名乗)はあまり用いないで、泉正重はカマデー、伊是名朝義はヤマー、座安盛徳はカミジュー、辺野喜英長はマツー、城間康昌はジルー、渡久地政憑はサンルー、東恩納寛敷はタルー、宜保為貞はサンルー、阿波連之智はカミー、松本三益はタルー、比嘉良児はサンルーといった。相手が年長であればヤッチー(兄)をつけてマツー・ヤッチー(マツー兄)と呼んでいたので、非常になごやかで同志愛で結ばれていた。ときにはアナ・ボル論争もあることはあったが目くじらを立てて口論することはなかったし、みんな生存中の友好関係は変わらなかった。われわれからいえばソ連や中国などで、ときどき起こる指導権争いや権力闘争に類したようなことは全くなかった。これは社会運動の分野ばかりでなく新聞人同志もそうであった。
1923年9月1日 関東大震災
この年 普久原朝喜、来阪
1926年10月 沖縄県大阪物産斡旋所設置
1927年3月 宮城清市、来阪
1929年4月4日 照屋林助、大阪で生まれる

1935年5月 大正区沖縄県人会結成(宮城清市会長)
この頃、嘉手苅林昌来阪
1935年8月 『関西沖縄興信名鑑』刊
1937年 大里喜誠、彦根高等商業学校(現滋賀大学)卒業
1937年7月25日 『大阪球陽新報』創刊/8月 親泊康永、大阪球陽新報東京支局長
この頃 知名定繁、来阪し普久原朝喜に民謡、又吉栄義に古典音楽を学ぶ
1938年3月 大阪球陽新報主催「書画展覧会」都島幼稚園。山城正忠来阪
1939年  比嘉恒敏、大阪の「大阪発動機」に単身で就職。1944年、父恒徳、母ジル、長男恒啓を対馬丸で亡くす。1945年、妻光子、次男恒次を大阪大空襲で亡くす→2015年10月10日 仲松昌次『「艦砲ぬ喰ぇー残さー」物語ー「でいご娘」と父・比嘉恒敏が歩んだ沖縄』ボーダーインク

1939年5月30日 大阪港区市岡会館で
1939年12月1日『大阪球陽新報』「14日・市岡会館で本社主催ー演劇と舞踊の夕ー組踊・執心鐘入」

1940年2月1日『大阪球陽新報』「2月10日より戎座ー戎座扇子家玉四郎一座・伊集、野村、良順、蘭繁合同ー日支風雲録、八重山アカハチ、上リ口説、花風、仲里節、鳩間節、下リ口説、萬歳、下千鳥節、いりしな節、天川、戻リ駕、その他数番」

1940年3月1日『大阪球陽新報』「2月15日から梅田映画劇場で日劇ダンシング・チームによる”楽しき日劇”上演、琉球おどり」

1940年4月1日『大阪球陽新報』「伊波南哲原作・八重山レビウ、3月に横浜宝塚劇場で上演、4月1日から20日間丸の内日本劇場で上演」

1940年6月1日『大阪球陽新報』「戎座の陣容強化ー5月1日旗上興行以来、比嘉正義、多嘉良朝成・カナ子夫妻、我如古彌栄・やす子親子等16名の一座」

1940年10月15日『大阪球陽新報』緑葉生「日劇に於ける新垣澄子の踊り」「24日・西区岡島会館ー関西球陽会後援ー島晴美舞踊公演ー琉球民謡に新しく振付けした花笠踊、美しき風景、ふるさとの唄3種は鳩間節、ションガネ、瓦屋節、浜千鳥節を取材新作したもの」「戎座の郷土芝居に仲井間盛良加入」

1940年11月8日『沖縄日報』

1941年5月7日ー舞踊家・玉城節子、那覇辻町で生まれる。3ヶ月目に父・友盛の仕事で大阪へ。(1946年、帰沖し石川市に住む) 

パリー館「アルジェリア カンタラの風景」


 

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