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Category: 04-書の森
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1924年10月 坂口総一郎『沖縄植物総目録』石塚書店


画・伊東忠太



1925年2月 坂口総一郎『沖縄写真帖』第一輯

1925年11月ー坂口総一郎『沖縄写真帖』第弐輯/池野成一郎□序ー私は大正14年1月沖縄本島を旅行した。しかも此写真帖の著者坂口君の御親切な案内を受けて、その旅は実に愉快であった。その旅の事を考えると今でもその時の愉快さがありありと頭の中に浮み出でて胸のあたりがすつとする。私は旅が大好きだ。明治21年生まれて初めての旅をして以来私は毎年多少の旅行をしない事はない。外国の旅行は別として日本内地は勿論、台湾、朝鮮、樺太その外小笠原島や対馬、隠岐の様な離れ島でも私の足はその土を踏んでいる。その数百回に亘る旅行はいつでも多少面白かつたに相違ないが併し大正14年1月の沖縄旅行は私が尤も面白いと思つた旅行の中の一つである。沖縄にはフルギがある、ヘゴがある、アダンがある、ガジュマルがある、植物の平凡な東京に住む植物学者の私に取つて沖縄が面白いのは当然だが併し沖縄の面白いのはただ植物ばかりでは無い。動物も面白い、風俗、建物、言語、風景皆内地と違つているから面白い隋つて植物学者も行くべし、動物学者も行くべし、人類学者も、建築学者も、博言学者も誰れも彼れも、苟くも珍奇な事物を見て智識を得ようと思ふ人は皆行くべしだ。併し如何に沖縄へ旅行したくとも暇のない人もあり、又旅費が思ふ様にならない人もある。それ等の人は此写真帖を見て沖縄の動植物や、建物、風俗抔の一班を知るがよい。尚ほ沖縄も内地との交通が繁くなるにつれ、風俗等も段々内地のものに近くなり、古い建築物も追々朽ちはて、おまけにヘゴやヒルギの様な珍しい植物がやたらに切り倒される今日だから今の内に此写真帖が出版されるのは誠に時を得たものだと思ふ。此点に於て坂口君の御骨折を感謝すると同時に此写真帖が第三輯以下次々と出版される事を祈る。


1960年1月17日『琉球新報』坂口総一郎「順応する生活態度ー40年前クリ舟で体験した人生観」

坂口総一郎 さかぐち そういちろう 1887-1965
 和歌山県海草郡岡崎(現・和歌山市岡崎)生まれ。博物科教員。大正七(一九一八)年、海草中学校(現・向陽高校)教諭、同九年十一月より沖縄県立第一中学校に赴任、同十四年、和歌山県師範学校教授となり、昭和三年には県史蹟名勝天然記念物調査委員、同四年、行幸事務委員なども務めている。『紀州植物目録』等の著書がある。
 熊楠を尊敬し、大正九年八月、熊楠の高野山植物調査に、同じ海草中学の同僚、宇野確雄(一八九一~一九八四)を誘い随行、三日余の起居を共にした。この時、坂口は愛用のカメラを持参、熊楠の動静を数枚の写真に収め、後日「南方先生の高野登山随行記」を『大阪朝日新聞』(紀伊版)に投稿した。だが、この投稿とそれに添えた写真が「新聞に出さぬ約束にて大門辺でとりし写真を新聞に出せし」として熊楠の逆鱗(げきりん)に触れ、以後疎遠が続くことになる。この時宇野にも写真があったことが最近わかった。それは東京・高田屋での撮影として周知の浴衣を裏返して着た全身像で、宇野はこれに「一乗院裏庭でピントを合わせるいとまもなく自分が写した」といった意味の説明を付している。
 昭和四年、昭和天皇の紀伊行幸にあたり、坂口は行幸事務委員(文書係)を務め、その後、白浜に建設された行幸記念博物館長などにも就いた。 〔中瀬 喜陽〕

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1936年6月18日ー昭和会館で「実業学校協会第二回研究発表会」
勝連盛英「開会の辞」/商業校・安座間永盛「資産評価と減価償却に就いて」/農林校・我謝栄彦「砂糖の常識」/水産校・西村憲五「魚糧に関する新見解」/工業校・貴島兼文「印刷の常識」/沖縄製糖株式会社・末廣幸次郎(特別講演)「県状の認識と振興の方途」


1936年9月『沖縄教育』第241号 我謝榮彦「砂糖の常識」(1)
〇目次ー1、砂糖の起源/1、本県に於ける甘蔗栽培及び製糖の起源/本県産業上に於ける砂糖の位置/1、本県農業上に於ける砂糖の位置/5、本県含蜜糖の移出先/6、黒糖の品位/7、世界に於ける日本糖業の位置/8、砂糖の消費量/9、砂糖の消費税

1936年10月『沖縄教育』第242号 我謝榮彦「砂糖の常識」(下)
10、砂糖の種別/11、砂糖の性状/12、砂糖の栄養価値/13、砂糖の物質代謝/14、砂糖品質の鑑識法/15、砂糖取扱上の及使用上の注意/16、其の他



我謝栄彦 がじゃ-えいげん
1894-1953 大正-昭和時代の農業技術者。
明治27年7月8日生まれ。昭和18年農事試験場普天間(ふてんま)試験地主任技師となる。戦後は与儀(よぎ)農事試験場長。サツマイモなどの品種改良にとりくみ,新種「比謝川(ひじゃがわ)」1号・2号を育成した。沖縄農業に関する著作もおおい。昭和28年3月15日死去。58歳。沖縄県出身。中頭(なかがみ)農学校卒。→コトバンク

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1936年9月『沖縄教育』第241号 真栄田義見「漢字は隠退すべきか」


写真左から具志堅宗精復旧期成会長、真栄田義見、川平朝申、不詳、山里永吉

1968年11月『今日の琉球』真栄田義見「弁財天堂の復元なるー474年前の宝形作りを再現」




真栄田義見の本
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1925年 秋ー????宮城昇、仲泊良夫(白金三光町の明治学院文科の寄宿舎)と伊波文雄(小石川の伊波普猷宅に寄宿)に連れられて中野の山里永吉下宿を訪ねる。仲泊の同級生に仲村渠、渡辺修三、平川泰三、矢島などがいた。またダダイストの辻潤、詩人サトウハチロー、後藤寿夫(林房雄)らと交遊していた。

沖縄/ 1933年7月 『詩誌 闘魚』第貮輯 カット・装・ジュン
 仲泊良夫「抽象の魔術ー(略)言語は残酷な死刑執行人である。私は自分の書きたいと思う事を書いていない。脳髄を全部露出することは醜悪なる猿である。創造を現実的に考えることは私には不可能である。凡ての現実は凡ての箴言に過ぎない。私は箴言を信じないように精神を信じない。抽象を精神的に考える人間は浪漫的な猫に過ぎない。抽象は異常なる砂漠の花に等しい。抽象は夢想ではない。私は私の創造に就ては極端に孤独なタングステン電球である。人間の馬鹿げた文學活動それはインク瓶をさげた犬の活動にすぎない。どうして諸兄は対象に向かって本能的批判をするのか。詩人のスタイルは本能の鎖をたちきった時に開くバラである。・・・」

闘魚消息ー 山之口貘氏・通信は東京市本所区東両国4ノ56吉川政雄気付/與儀二郎氏・6月10日出覇/仲泊良夫氏・島尻郡与那原2080/比嘉時君洞氏・6月初め久米島より出覇/泉國夕照氏・5月下旬退院/山里永吉氏・『戯曲集』新星堂書房より近く刊行さる、目下印刷中/國吉眞善氏・第参輯より闘魚同人加盟/イケイ雅氏・病気療養中。

沖縄/1933年9月 『詩誌 闘魚』第参輯 カット・装・ジュン
仲泊良夫「世界の創造ー或ひは観念への革命ー乾燥した時間に於て生誕する救世主/循環する世界それは革命する世界である/透明な詩人の純粋の夢/海底の少女と海底の美少年の戦争」 
  馬天居士『おらが唄』石敢當社(豊見城高良)ー著者馬天居士氏は、ゴミゴミした都会に住んでいる人ではない。そして世に謂う文藝人ではない。氏はあくまでも土に生きる人であり、野に遊ぶ人である。この”おらが唄〝の一巻を愛誦してみたまえ。俳句あり、川柳あり、短歌あり、そして軍歌あり、更に琵琶歌がある。だがそれらの作品はわれわれに何を考えさせるか。われわれは文藝意識に縛られている自分らのいぢけた存在をふりかえってにるにちがいない。それだけにおらが唄の一巻は、野性的な香りを放ち、自由な奔放さに流れ、また一面には辛辣すぎる皮肉さがある。社会のあらゆる階級的の上に端座したる馬天居士氏の八方睨みの静けさを愛する。

  闘魚消息ー 與儀二郎氏・7月御祖母死去謹んで哀悼を表す/ 外山陽彦氏・島尻郡久米島仲里村役場気付/新屋敷幸繁・8月10日帰省。8月28日上鹿/南青海氏・与那原216/宮里靜湖氏・島尻郡久米島仲里校/川野逸歩氏・島尻郡具志川村役場/伊波南哲氏・東京市淀橋区淀橋643/志良堂埋木氏・朝日新聞社主催の文芸懇談会を風月樓にて7月22日開催す/イケイ雅氏・休暇中は中頭郡与那城村字饒邊3へ滞在/山里永吉氏・『山里永吉集』出づ大衆小説「心中した琉球王」文芸春秋社オール読物号8月号へ所載。

沖縄/ 1933年11月 『詩誌 闘魚』第四輯 カット・装・ジュン
  闘魚消息ー與儀二郎氏・名護町字名護801山入端方へ転居/宮良高夫氏・現在沖縄日報社内/花城具志氏・闘魚社内気付/外山陽彦氏・土木工事多忙の為休稿/有馬潤氏・菓子店「ひなた屋」開業/原神青醉・歌誌「みちしほ」編輯せる氏は同誌一周年紀念号発刊に際し原神青醉歌集を近刊/山里永吉氏・「永吉集」好評。9月上旬 幸楽亭に於いて刊行祝賀会。出席者50名盛況


1936年5月『沖縄教育』第237号 仲泊良夫 訳「苦悩の首府」


写真1935年頃辻ー後列右からー山里永吉、仲泊良夫 前列中央が松田枕流(賀哲の弟)

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宮城護氏 作品「聖地カルスト杜御嶽」

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開館10周年を記念して、2012年3月に開催した収蔵品展に続き、2012年以降、那覇市歴史博物館にご寄贈いただいた資料を展示紹介します。





2017年4月9日 展示解説会

2017年4月23日、新城喜一氏


2017年4月18日~23日 那覇市民ギャラリー「新城喜一 絵画展『島のメルヘン』」





写真右から、新城栄徳氏、新城栄市氏、新城あけみ、新城喜一氏、左端は不詳


写真上ー左から金城竹治氏、新城喜一氏、新城栄徳

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新城あけみ

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『沖縄教育』で重要な役割を果たした島袋源一郎は「『沖縄教育』変遷と思ひ出」(1937年4月『沖縄教育』248号)の中で、「又吉康和氏を抜擢し敏腕を振るって貰うことにした。ここに於いて『沖縄教育』は一躍そのレベルを高め中央学界諸名士の論説を掲載する等大いに充実し、未だ嘗て見ない権威ある雑誌となるに至った」と記し、又吉の仕事を高く評価している。
 又吉康和は1906年の『琉球新報』に「満韓旅行雑感」を書いている。1908年、沖縄県立中学校を卒業。同窓に仲吉良光、饒平名智太郎、森田孟睦が居た。早稲田在学中によく東京劇信を仲吉良光の居る琉球新報に送った。子供(康哉)が生まれ、生活のため早稲田を中退。大阪で遊び帰沖。1915年10月、当真嗣合、仲吉良光、末吉麦門冬、嘉手川重利、小橋川朝明が「閥族打破」を理由に琉球新報を退社したが、その後任記者に又吉康和、新崎盛珍が仲吉良光、末吉麦門冬らの面接を受けて琉球新報に入社した。
 又吉は知名士の夫人たちを訪ねて聞き書きを琉球新報に連載した。また芸能、伝説の名所も連載している。1919年、太田朝敷について琉球新報を退社し『沖縄時事新報』創刊に参加した。そこで末吉麦門冬と再会することになる。1920年、沖縄時事新報の内紛で太田朝敷と共に退社。沖縄時事新報は改題し『沖縄タイムス』となる。又吉は1923年10月に『沖縄教育』編集主任となった。『沖縄教育』編集後記で「私は人間の生活は総てが教育だと、こう広く解釈し、従来取り扱ってきた教育雑誌のように範囲を限らないで、あらゆる方面の材料を蒐集したいと思って居ます」、また「今般帝都の大震災により中央集権の弊害を痛切に感じた」と記した。
 又吉は、山城正忠を『沖縄教育』の詩歌の選者に迎えて雑誌の幅を広げた。1925年9月発行の『沖縄教育』は、表紙題字を山城正忠が書き、カット「獅子」は山口重三郎(山之口貘)である。又吉は編集後記で「貘氏は今般中央の『抒情詩』に日向スケッチ他三篇入選しました之より琉球詩人がどしどし中央の詩壇に出現せんことを念じます」。救世者は政治家ではなく、それは詩人と哲人であります」と記し、国吉真哲と一緒に貘を上京させている。

写真下は1925年8月16日、貘2度目の上京前に後列左から又吉康和、国吉真哲、国吉真才、一人置いて貘
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写真ー1958年・前列左から末吉安久、不詳、国吉真哲、南風原朝光、不詳、山之口貘

1925年10月 沖縄県教育会同人(又吉康和)『琉球』小沢書店

□鎌倉芳太郎氏は寫眞や装幀に助言され・・・、表紙は羽田会長の案に出たもので、若狭町の知念と云ふ老舗の作製に成る純琉球物です。







中央ー又吉康和、左は新垣美登子

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1937年4月『沖縄教育』弟248号に島袋源一郎が「『沖縄教育』変遷と思ひ出」を記している。□明治42年末に至り吾等の先輩 親泊朝擢氏が教育会専任幹事に抜擢され、筆まめな同氏の努力によって、山口瑞雨先生揮毫の芭蕉図案の表紙で前例のない程美しい内容も比較的豊富な『沖縄教育』が、東京三秀舎で印刷され毎月発行となって、教育界に清新の気を注いで呉れることになった。(略)大正12年10月現琉球新報主筆たる又吉康和氏を抜擢して敏腕を振って貰ふことにした。此に於いて『沖縄教育』は一躍其のレベルを高め中央学界諸名士の論説を掲載する等大いに充実し、未だ嘗て見ない権威ある雑誌となるに至った。大正15年 又吉康和氏の後任として國吉眞哲氏が編集幹事となり、引き続き豊富な雑誌を刊行し昭和3年4月第168号迄続いたが、(略)昭和7年11月、島袋源一郎代わって就任し予定の職員録を出し、翌昭和8年1月より経費の捻出を計って毎月刊行に引直した結果、投稿者並びに読者に多少の関心を繋ぐことを得且従来鹿児島市に於いて印刷していたのを那覇市内に於いて印刷せしむることとし、其の刺激によって印刷も漸次向上するに至ったのは事実である。

1937年3月 『沖縄教育』島袋源一郎「姓の統一に関する私見」
□(略)吾等の先輩、漢那、伊波、東恩納、仲宗根、比嘉、其他の方々の姓も最初は随分風変りな稱へ方だと思われたに違いないが、今日では学界や全国的に漸次知られて別に変な姓だと思う人もあるまい。(略)之について考えるべきことは教職員又は父兄の内祖先伝来の姓の呼稱を改変することを好まぬ方々のあることで、之は勿論当の御本人の意思を尊重することが常識であり、禮であるので強いて第三者が勝手に読み換える譯にはゆくまいと思う。

□部落とは、『広辞苑』に「比較的少数の家を構成要素とする地縁団体。共同体としてまとまりをもった民家の一群」とある。ヤマトでは部落で連想するのが「被差別部落」。沖縄の地域史でも言葉では部落と言っても、文字にするときは「村落」とするのが多い。

1939年5月 『沖縄教育』第273號 島袋源一郎「郷土雑記ー部落の発達②」
□五、部落移転
前に述べたように、昔の部落は大抵御嶽の付近即ち高原地や山の中腹なる傾斜地に発生し、神人共存共在の意識を以て防禦地帯に住んでいたのであるが、漸次狩猟生活から農業生活に移り、戦争時代から平和時代に入ると共に交通の不便や農業上の便利といった諸条件のために、御嶽即ち神山の付近から下方の平地に移転したのである。

之を実際に就いて例を挙げて見ると名護町の各部落の如きは全部山地又は中腹の古生層より現在の砂地に移転したので今でも字名護の旧部落は名護城の如き、昔ながらに神職たる祝女、根神、ホソメ神、掟神の4軒だけは神山の中腹に残っている。今帰仁城の付近に阿応理恵火神御殿やノロ火神殿内、根神火神殿内などの散在しているのは部落が下方の砂地に移転した後も猶ほ神職だけは神に仕えて昔の儘に御嶽の麓なる城下に残っていたことを物語るものである。

中頭郡西原村、中城村の東海岸各部落の如きも其の昔は殆ど皆もっと高い地点から現地位に移転したものであり、或いは西原間切内間村から嘉手苅村が派生したように分裂して新部落を形成したものもあり、小那覇の如く新しく創立された部落もある。中城村伊舎堂の如き昔は中城城の北字大城の前方伊舎堂原にあったので今でも旧家は旧正月になると初水を汲みにあの嶮崚な坂道を登って旧部落の古井に行くのである。

余り煩雑になるので一々各村の実例を列挙することを差し控えることにするが、大抵の部落移転の年代は大凡3百年前から2百年前と見做してよかろうと思う。
□六、部落の祭祀
□七、殿(方言トン)

1939年6月 『沖縄教育』第274號 島袋源一郎「郷土雑記ー部落の発達③」
□八、部落と城郭
私は数年来公務の余暇、郷土史料発掘の目的を以て沖縄本島の城址を踏査して陶瓷片を採集すると共に、城下の部落調査を行い、更に進んで出来ることなら本島及び付近の島々の部落を全体的に調べて其の発生、門中(氏族)の組織移転と発達、神事及び年中行事の状況生活状態等諸般の事項に就いて調査を遂げ之を文献に遺したいという願望を持っている。現在蒐集し得た城に関する資料だけでも何れ適当の機会に纏めて発表致したいと思うが目下判明している城址でも島尻郡凡50、中頭郡凡24,5、国頭郡凡10、首里那覇3、付近離島凡10、合計90数か所に達している。(略)

□九、移転の常則

□十、部落の発達

□十一、部落発達と家號

□十二、部落と門中組織

1941年1月『沖縄教育』第293号 島袋源一郎〇「列聖珠藻」と沖縄方言/おことはりー現下本県の実際問題として標準語普及の必要なることは今更申す迄もなく、筆者は之が励行に関し長年月努力を続けている一人でありまして此の点に於いては敢えて人後に落ちない自信を持っています。しかし之がために沖縄方言を蔑視すべき理由は毛頭なく、又しているのでもなく、況や方言研究の学術的価値を没却すべき筋合いのものでないことは何人も承知のことであります。否標準語励行の急速なる丈け速に方言を調査蒐集して記録に残すべき必要を痛感する次第です。
 本質的にいうと、寧ろ標準語に習熟せざるの故を以て躊躇し萎縮しているよりも、彼の四百年前方言混じりの金石文を建てて誇りにしていた時代の人々のように剛健質朴で、多少方言は交っても自己の思想感情を臆せずに表現する度胸が望ましいと考えています。読者請う御諒恕あらんことを。


島袋源一郎顕彰碑の前で、新城栄徳(渚さん撮影)

□石川正通「ふりむん随筆」
国名と人名と同じもので付ける方の勝手だ。外からとやかく言う筋合いのものではない。

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上里朝秀(明星大学教授/1965年9月17日死去、75歳)
首里出身/沖縄師範をへて広島高等師範、京都大学卒業。/成城学園大学教授、同大学総長代理を歴任。

1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

1912年3月ー沖縄師範学校卒業生に仲原善忠、上里朝秀、島袋盛敏、與世里盛春、山内盛彬
1915年1月16日『琉球新報』「亡父朝徹葬儀ー男上里朝秀、朝宜」
1920年9月15日『沖縄朝日新聞』「弟朝宜、兵庫県三田に於いて病没ー兄上里朝秀、朝徹、朝義」

上里朝秀の著作



1924年6月『祖先の生活』イデア書院〇はしがきーこれまでの歴史は多く政治と戦争の歴史であった。ところが近年歴史の見方が進んで来て、文化史風俗史経済史社会史といったようなものが、だんだんと研究され、しかもこれらのものは前のものにもまし」て重んぜられられるようになって来た。まことに喜ばしいことである。/内が学校であり、川が学校であるという具合に、行くところすべてが学校であった。ずいぶん大きな学校ではないか。私たちもいつも小さな学校にばかり閉じこもらないで、時にはかような大きな学校で大きな先生から、おけいこをしてもらうことも必要である。西洋のあるえらい学者が、「社会は大学校なり」といっているが、もっと大きくして「宇宙は大学校なり」と言うことが出来る。

関連〇1927年10月『沖縄教育』165号 小原国芳「教育道に就て(1)昭和2年度夏季講習概要筆記」ー那覇の港に船が入ると前面に石垣の壁が見える。あれを見た時自分は直覚的に龍宮だと思った。浦島太郎の作者はきっと琉球に来たことのある人ではないかと思われる。私も遂に琉球まで来てしまいました。私の郷里は大隅半島の尖端である。学生時代にはよく琉球の婦人が琉装して反物を売って歩いているのを見たから琉球に来ても意外の処とは感じない。それに私の学園で五主任の中二人までが琉球の人である。仲原(善忠)君と上里君で、仲原君は30何万円という学園の予算を一人で切盛りしている。両君からも宜しくということでありました。」 

関連〇1931年4月『沖縄教育』188号 神田精輝「歴史教材の価値観ー上里朝秀氏著『国史教材の価値及取扱』を読みて」

関連〇1965年10月10日 石川正通□上里朝秀先生鎮魂歌ー七つの海を越え越えて/十万億土隔つとも/五倫五常の化身たる/翁の永生疑はず/見て進む人の世の/にも野にも山々に/告げ鳥の囀りは/づる人を称ふなり/先の世今の世後の世を/行き抜く信仰揺ぎなく/のこし給ひし功績に/遺賢の教へ仰ぐかな/徳は孤ならず我等皆/ををしく起ちてこの人を/偲びて生涯を/ぶじ平穏に送りなん

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1899年6月ー西村時彦『南島偉功傳』誠之堂書店(東京)
1935年5月ー永長信雄編『奄美大島歴史物語』中央大学奄美学友会
1938年1月ー文英吉『南島』新年号□南島社(名瀬町)
1947年2月ー『自由』第2巻第1号□自由社ー重江国雄、肥後豊

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1950年5月ー『大奄美年鑑』奄美文明社(藤原岡恵)
1953年9月ー週刊『琉球国際新聞』琉球国際新聞社(藤原岡恵)

1956年4月ー九学会連合奄美大島共同調査委員会『奄美の島々』毎日新聞社
1960年6月ー島尾敏雄『離島の幸福・離島の不幸』未来社
1964年4月ー外間正栄・福地曠昭『復帰10年目の奄美教育の現状』沖縄教職員会
1964年6月ー奄美郷土研究会(島尾敏雄)『奄美郷土研究会報』第6号
1964年12月ー栄喜久元『奄美大島・与論島の民俗』
1971年1月ー沖縄文化協会『沖縄文化』33・34号「奄美特集」
1971年3月ー昇曙夢『大奄美史』奄美社
1971年11月ー南潮時報社(田村佐衛源・芦屋市)『南潮時報』第232号
1972年10月ー鹿南太陽新聞社(角島直門)『鹿南太陽新聞』第1号

1980年5月ー藤原南風『新奄美史』奄美春秋社



海ゆかば 戦艦大和他特攻艦隊戦士慰霊塔/名瀬市大浜海岸で採集される皇太子殿下


高松宮殿下ご夫妻の奄美訪問/金井正夫(元和歌山県知事)〇金井 正夫(かない まさお、1892年(明治25年)2月 - 1979年(昭和54年)10月4日)は、日本の政治家、裁判官、弁護士。 衆議院議員、和歌山県知事。 旧名、当央。 [経歴] 鹿児島県において金井当説の五男として生まれる。 1915年に正夫と改名。 1919年、京都帝国大学法学部英法科を卒業。 司法官試補となり、以後、予備判事、大阪地方裁判所兼大阪区裁判所判事を歴任。 また、関西大島郡人会を創立し会長となる。 1923年から12年間にわたり関西大学講師として務めた。 1928年、判事を退官し弁護士となる。 1932年2月、第18回衆議院議員総選挙に鹿児島県第三区から立憲政友会の所属..→ウィキ


永野芳辰(元高知県知事)〇鹿児島県大島郡笠利村佐仁(奄美大島、現奄美市)で、永野孫七の長男として誕生。1918年(大正七年)鹿児島県立二中、1922年(大正11年)第七高等学校造士館、1925年(大正14年)京都帝国大学法学部政治学科を卒業。愛知県属を振り出しに沖縄県、福島県、北海道、東京府各課長、北海道拓殖部長を経て1941年(昭和15年)大政翼賛会地方部長に就任。その後秋田県総務部長兼学務部長、広島県部長・経済部長、同内政部長を経て、1945年(昭和20年)10月、高知県知事に就任。1946年(昭和21年)1月、九州地方商工局長に転任。しかし大政翼賛会時代翼賛選挙の担当部長として活躍したことが仇となりGHQの公職追放令に該当のため政界進出の野望を断念する。ウィキ/昇曙夢


徳三宝ー『新奄美史』奄美春秋社
徳三宝〇1887年、徳之島生まれ。明治、大正、昭和初期に柔道界の実力者として全国に名をはせた。中学生で柔道を始めた。「九州に徳三宝の敵なし」と言われ、19歳で上京、嘉納治五郎が創設した柔道の総本山・講道館の門をたたいた。「実力日本一」「柔道の鬼」の異名で活躍。あまりの強さに「徳三宝に膝をつかせたら一本をとったことになる」との伝説も。早稲田大などで師範を務め、45年に東京大空襲に遭い、58歳で死去した。 →コトバンク



豊千里(洋画家)ー『新奄美史』奄美春秋社


重村三雄(1929年~2012年 洋画家・彫刻師)ー『新奄美史』奄美春秋社



関西奄美会ー『新奄美史』奄美春秋社


東京奄美会ー『新奄美史』奄美春秋社


森村元栄四郎『サンデー奄美』ー『新奄美史』奄美春秋社
1981年10月ー森村元栄四郎『サンデー奄美』第191号

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奄美新聞(東京・関西)

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奄美の雑誌

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