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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 本日午前8時前、関西で震度6弱の強い地震があった。とテレビ各社が報じていた。また、関西電力(9503.T)は、美浜・高浜・大飯の3原発で異常はない。NHKは、福井県の敦賀原発1号機、2号機についても、異常は感知されなかった、とも。連れ合いが東大阪の息子夫婦にメールを送ろうとしたら、息子の妻から「地震がありましたが、二人とも影響ないです」とメール。

 若狭湾は原発銀座(17基の原発があり、今なにかと話題の高速増殖炉”もんじゅ〟もある)であるが、オキナワは台風銀座。またオキナワは超クルマ社会でクルマで溢れ返って停滞だらけ。北京の大気汚染は笑えない。なおかつ米軍・自衛隊の基地銀座(使い古されているが『基地の中にオキナワがある』というのもある)でもある。狭い与那国や、宮古、八重山にも自衛隊は島を守る(皇軍は守らなかったどころか、投降し捕虜になったのも多い)という美名のもとに、新たに「基地」をつくろうとしている。安保下では自衛隊基地には当然のように米軍機もやってくるので第2第3の普天間基地となるのは目に見えている。自衛隊基地をつくるのであれば、米軍と小指、ではなく手を切って自前の自衛隊にしてもらいたい。まぁ無理か。
 若狭湾の先端に突き出た常神半島の民家の裏庭にある、およそ樹齢1,300年の大ソテツ。国指定天然記念物です。日本海側で最も北にあり、大きく古いものはとても珍しいといわれています。根元から樹高4.5〜6.5mの支幹5本と、樹高1.5〜3.0mの支幹8本に分かれ、その全幹の周囲は5.2mあります→常神の大そてつ 国指定天然記念物

1991年7月 日本旅文庫『琵琶湖・若狭湾』昭文社


2016年7月1日 那覇・若狭龍神

 1994年3月 松本三益『自叙』□戦争に反対した人ー(略)1941年(昭和16年)あの真珠湾攻撃で太平洋戦争がはじまる直前の10月、久場マカト(68歳)、宮城ツラ(77歳)、新垣カマ(68歳)の3人の女性が御先神という宗教結社をつくって、お先神が真の神で、天皇は御先神の子孫であって下民の資格しかない、と古事記の天孫降臨の建国神話を否定しています。これは国体を否定し、皇室の尊厳をきずつけたということで、治安維持法違反で検挙されています。(略)ここでは、こんな事も弾圧の対象にされたという意味で理解していただきたいと思います。

久場カマド(1972年12月19日死去、99歳)「御先神教」
久場カマド
1925年8月8日ー久場カマド「御先神教」(伊計島に降臨した神)を那覇久米町で開教、若狭は久米に隣接する。

 1927年1月1日ー出口王仁三郎、波上神社に参拝。2日は首里城見物、那覇市公会堂で講演、会場で御先神教の久場カマドが神がかりとなり大声を発す。

久場カマド(1873年~)
久場を教祖とする那覇市在の宗教結社「御先神(うさちがみ)」の教義内容が、「真の神は御先神で、天皇はその子孫であって下民の資格しかない」と唱えたことから久場は国体を否定し、皇室の尊厳を冒涜するものとして、1941(昭和16)年10月2日、治安維持法違反により検挙された。→1997年1月 『近代日本社会運動史人物大辞典』「久場カマド」
2004年8月26日「蘇鉄庵」
 園比屋武御嶽石門

沖縄県那覇市にある拝所(うがんじゅ)の石門。首里城の守礼門と歓会門の中間にあり、石門と後方の山地を総称して園比屋武御岳という。石門は永正16年(1519)に建立。昭和8年(1933)国宝に指定されたが、沖縄戦の戦禍を被り大破した。戦後、修復され、昭和47年(1972)重要文化財。平成12年(2000)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。→g辞書
 戦後最初は山田真山により修復されたが、後に西村貞雄によって修復された

 『琉文手帖』(1999年5月)「沖縄近代文化年表」の明治44年6月のところに、首里旧城正殿(女子工芸学校)、地震(6-15)や暴雨風(6-18)のため天井破損とある。6月29日には今村明恒東京帝大助教授、北琉球大地震のため京城丸で来沖とある。

 いまむらあきつね【今村明恒】 1870‐1948(明治3‐昭和23)
明治,大正,昭和にまたがって活躍した日本の代表的な地震学者。旧鹿児島藩士今村明清の三男に生まれる。1894年帝国大学理科大学物理学科卒業。その後陸軍教授となり帝国大学助教授を兼ね,また震災予防調査会委員となる。1923年東京帝国大学教授,29年地震学会を創立し会長となる。31年帝大教授を退職,文部省学術研究会議地球物理学部長となり,また帝国学士院会員。1905年統計的見地から関東地震を予言し大森房吉と大論争したことは有名。⇒コトバンク

□1995年8月 加藤祐三『沖縄でも地震は起きる』ボーラ―インク
○沖縄は阪神と同じプレートー阪神と沖縄は大きく見て地質構造学的に同じような位置にあり、阪神で起きるような地震は沖縄でも起きる。・・1882年7月25日の午前1~2ごろ、沖縄本島南部を中心に地震による大きな被害が発生していたことが最近明らかになった。この地震は琉球大学法学研究科の大学院生、森宣雄君から情報提供を受けて調べた結果わかったもので、信頼するに足る互いに独立したいくつかの文書から、この被害地震の存在が確認された。・・この地震による被害は那覇がとくに多く、首里城の石垣が90メートルにわたって崩れ、那覇で石垣が500カ所、文献によっては600カ所で崩れた。これは震度5の地震である。・・

 2011年3月19日ー東北・関東大地震・大津波・原発大事故
 3月18日ーアメリカ政府は福島第一原発から80キロ以内のアメリカ人に対し避難を改めて勧告したという。先日のカン総理」とアメリカ大統領の電話会談は「どうしょうも無い」ということだったのか
3月19日ー『沖縄タイムス』「震災死者6911人ー『阪神』超え戦後最悪」「原発事故レベル5 福島第一 スリーマイル級」、『琉球新報』「犠牲者6911人」「評価『レベル5』スリーマイル同水準」。テレビでは特にNНKが相変わらずネクタイを締め身だしなみを整えたアナウンサーやコメンティタ―が冷静沈着に発言し全く危機感は感じられない。まあ見ていて楽観的になり精神衛生的には良いかもしれない。民放は日常の番組となりコマーシャルも多い。
 テレビ放送は原発大事故は東京消防庁が目立ち自衛隊が印象は薄い。自衛隊員の安全確保優先で救助作業を行っているらしい。しかしこれで核戦争が起こったとき、どう対処するか心配になる。ここはやはり国民の安全を優先にすべきである。国民」は兵器の所持は禁止されているのだから。カン総理はアメリカの黒人大統領と電話で会見したそうだが「思いやり予算」(1995年ー2714億円、・・・2010年ー1881億円)は要らないという話なのか。今も沖縄上空を飛ぶ軍用機の燃料もただちに被災者に回すべきだ。
 3月20日ー那覇は今日も暑く汗ばんでいる。市内は車で溢れかえって、スーパーは商品であふれている。こういう亜熱帯の島に無機的な軍事基地が一等地を占めている沖縄島!。何時まで基地は居るつもりなのか。新聞も評論家もガス抜きばかりせず真摯に取り組んでほしいものだ。東北・関東大震災は地震だけでなく大津波、人災の原発大事故。加えて、無情にも雪が降る。原発の大事故では自衛隊は核戦争では役に立たないのが明確になった。テレビや本で稼いでいる田母神とかいう自衛隊幹部は後輩にどういう教育をしたのか問われる。カン総理が自民党総裁に入閣を要望したが断られたようである。原発は元々は自民党時代から進められたもので自民党総裁も結果責任を取るべきだ。

 3月23日ーテレビは石原軍団やタケシ軍団が覇権を争っている。世はまさに「国難」である。にも関わらず、ネクタイを締めた原発の専門家と称するコメンティタ―が出演料を稼いでいる。そんな暖房の利いたスタジオで喋るヒマがあれば現場に行きアドバイスなりで協力すべきであろう。テレビも節電のため出来るだけ消そうではないか。そして新聞や週刊誌を見よう。

 1963年ー岡本太郎「妖怪ー放射線の怖ろしさは誰でも知っている。ましてや日本人は現実的に被害をこうむり、恐怖の実感は身にこたえているはずなのだが、誰でも、いやなことは敬遠し、なるべく忘れてしまおうとする。それに奇妙に宿命論者だ。だから案外のんびりしている。」
1967年5月ー『スペース・デザイン』岡本太郎□藝術と遊びーわれわれはひたすらに、生きるために生きている。さらに残酷にいえば、すべての生命はその帰結である<死>に向かっている。生きるということ自体、遊びではないか。

 1995年2月6日『朝日新聞』「窓ー中国の人々にとっても、今度の地震はひとごとではない。神戸には多くの華僑や留学生らが住んでいる。そのうえ、今から19年前、河北省唐山を襲った大地震の記憶がまだ生々しいからである。唐山地震は午前3時すぎに起こった。石や煉瓦を積んだだけの民家は全滅し、死者24万人、重傷者8万人を出した。・・阪神と唐山。この二つの大地震から、日本も中国も、それぞれに教訓を引き出すことができないだろうか。」

□2003年1月1日『日本経済新聞』「失くしたものはー街は『無』があふれていた。無気力、無反応、無関心、無目的、無作法、無表情、無常識、無責任、無自覚、無自己、無抵抗、無意識、無批判、無能力、無学力、無教養、無節制、無定見、無思想、無プロセス」

 2005年1月7日『琉球新報』の社説に「スマトラ沖地震・津波被災は死者15万人以上という未曽有の自然災害となった。負傷者は50万人、被災者は5百万人にも達する。米軍の津波救援は被災国のすきを利用し、軍備強化を狙う。これでは『火事場泥棒』と同じではないか。」とある。今回例のメアもドサクサにまぎれ日本担当に戻ったようだ。
 2011年3月18日ー『琉球新報』社説
 効果的な人道支援を行うのに、国境や官民、軍の立場の違いなど言っている場合ではない。しかし、ここぞとばかりに軍の貢献を宣伝するとは、どういう神経なのか。東日本大震災への米軍の災害支援に絡めて、在日米軍が普天間飛行場の「地理的優位性」や在沖海兵隊の存在意義などをアピールしている。強い違和感を覚える。在沖米総領事館は、沖縄から基地従業員を含む海兵隊所属の約480人や普天間、嘉手納両基地所属ヘリ、第31海兵遠征部隊の兵員2200人が災害支援で被災地へ向け派遣されたと発表した。
 未曽有の大震災に伴う死者や行方不明者の捜索、被災者救援は急務だ。原発事故に伴う放射能への被ばくリスクがある地域で救援に取り組む人々には敬意を払いたい。しかし、災害支援は売名行為ではない。人道上の見地から本来、見返りを期待しない、崇高な精神でなされるべきものだろう。在沖米海兵隊は「普天間基地の位置が、第3海兵遠征軍の災害活動に極めて重要であることが証明された」「普天間基地が本土に近いことは極めて重要」と普天間飛行場の地理的優位性を強調する。悲しみに打ちひしがれる死者・行方不明者の家族や被災者への配慮はないのか。そもそも近傍の基地ではなく、被災地から遠く離れた普天間基地がなぜ重要なのか。地震発生から3日経ての出動なのに「即応」でもあるまい。
 米軍の説明は、独り善がりで筋が通らない。政治的打算に基づく言動は、県民、国民の米外交に対する信頼回復にとって、かえってマイナスだろう。「沖縄はごまかしとゆすりの名人」などと差別発言をして更迭された米国務省のケビン・メア前日本部長を東日本大震災の日米間の調整担当に充てたのも不可解だ。メア氏は発言発覚後も学生が作成した発言録について「正確でも完全でもない」と非を認めず、今もって県民に謝罪をしていない。日本の「和」の文化を「ゆすり」と同一視する差別発言をしながらこれも撤回せず、災害支援で復権を目指すつもりか。発言の撤回も反省もない人種差別主義者の復権など願い下げだ。はっきりさせよう。米軍がどのようなレトリックを使おうとも、県民を危険にさらす普天間飛行場やその代替施設は沖縄にいらない。

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コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com


2081年6月17日 「中の橋上空」ひより撮影/ひより、「ゆいむい」で撮影

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6月30日 なは市民活動支援センター 飛び安里研究会「沖縄の花火師〔飛び安里〕世界で最も早く空を飛んだ」

2018年5月27日『沖縄の軌跡』第196号《伊江島と核》 /6月10日『沖縄の軌跡』第197号《NHKスペシャル・基地の島沖縄はこうして生まれた》編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)

1943年9月 月刊『文化沖縄』新垣源蔵「琉球の火術雑考」 
○「頂姓系図」支流(越来村字越来の安里家の系図)によると、この内の一人安里筑登之は、安里家六世の祖安里周英と云ふ者で、この人の父が周當で、有名な火花師である。沖縄で始めて焰硝製出に成功した人である。宮里良保氏の発表された飛行機の発明者も、安里周祥でなくこの周當だと自分は考へている。何故なら周祥はこの人の四男であり、系図には事跡は明らかでない。・・・
1943年10月 月刊『文化沖縄』与那国善三「飛び安里の話」
 

琉球の「飛び安里」を世界に紹介した宮里良保


2015年6月 島袋恒政・島袋和幸『鳥人・飛び安里考』大和印刷(電話 03-3862-3236)定価・送料共1000円
発行ー『沖縄の軌跡』発行人・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
島袋和幸「沖縄の鳥人<飛び安里・花火師>」
 沖縄の鳥人<飛び安里・花火師ヒハナジ>は、ことに沖縄では偉人と言われている。それは、約二百年前に<飛行>、つまり空を飛ぶ事について試行錯誤していた可能性があるからだ。その<飛び安里>について、彼が研究したであろう<飛ぶ>という事と、<沖縄の偉人>としてのロマンから、飛び安里について多くの方々が新聞や雑誌。書物などで言及されている。一方マスコミで取り上げられたことも数多いのである。しかし、こうした取り組みの中にあって、決定的な文献が無いとか、実際に飛んだ<飛び安里>とは一体誰なのかとか、又、飛んだ場所等についても諸説があったりで、実際には多くの方々を巻き込んで議論が尽きないのである。
 こうした中で島袋恒政氏は、「二百年前の初飛翔/コンピューターで性能解明へ」(『沖縄タイムス』昭和62年2月14日)、「<跳び安里>のロマン再び/資料から模型製作/二百年前に精巧な設計」」(『沖縄タイムス』昭和62年5月10日)という新聞記事になる、<想像図>を国立国会図書館で発見している。それは約30年も前のことで、これ以降、地元新聞紙上や雑誌などで盛んに取り上げられた。その後も、同氏は各種資料や書物に真実を求めて追求してきた。安里家の遺族関係者や、貴重な証言、珍しい資料などが埋もれてしまう前に記録しておきたいという強い思いがある。
 私は、約20年前に<飛び安里>研究に緒をつけた『科学画報』の記者、宮里良保について人となりを記録していた。さらに、15年前ほど前から民間航空の始祖である奈良原三次(奈良原繁沖縄県知事の嗣子)についても記録を行っていた。そして、いがいにも沖縄人の飛行機研究者が明治・大正期の早い時期から多かった事を知る。こうした事情等を島袋恒政氏の<飛び安里>についての博識な知識と、資料の記録をお手伝いしたいと思った次第である。

1999年3月28日『琉球新報』【南風原・玉城】「飛び安里の夢、再び」。南風原町の町おこしグループ「すきです南風原・夢・未来委員会」(島袋宗一会長)が、琉球王朝時代に空を飛んだ「飛び安里」の羽ばたき機をこのほど復元させ、27日午後、玉城村前川の丘陵地で初フライトにチャレンジした。想像図を基に約半年がかりで製作した復元機は、絶好の北風を受け、ふわりと空へ。伝説の翼が時を超えてよみがえった。 「町おこしのため、皆で何かできることはないか」と「飛び安里」の復元飛行を発案したのが、同委員会を立ち上げた8年前。島袋さんが会長に就任した2年前から本格的な作業に取り組み、昨年9月に復元機の製作に着手。試行錯誤を繰り返しながら、延べ60人がかりで完成にこぎつけた。
機体は、メンバーの島袋恒政さんが国会図書館から見つけてきた「飛び安里の羽ばたき機」の想像図を基に設計。主翼の幅が8・6メートル、長さ4・6メートル、高さ1・6メートル、重量25キロ。竹の骨組みで、翼はパラグライダーの素材を活用。一部に南風原町特産の絣(かすり)も取り入れた。初フライトのこの日、本番直前まで豪雨に見舞われたが、関係者の祈りが通じたのか雨も上がり、風速約5メートルの絶好のコンディションに。パイロット役としてパラグライダーインストラクターの仲里裕和さん(44)=佐敷町=が、機体に乗り込み準備が整った。
城間俊安町長をはじめ、多くの関係者が見守る中、タイミングを見計らって助走を開始。ハンググライダーの離陸の要領で斜面を駆け降りると、風を受けた機体はふわりと空中へ。高さ二メートルほどで、約15メートル飛行し、わずか数秒ながら初フライトは無事成功した。飛行を見守っていた島袋会長は「やった。すごい」と感激の第一声。「次はもっと飛べると確信した。これで目的は達成した。230年前の飛び安里の話も、これで実証された」と笑顔を見せた。ぶっつけ本番で緊張ぎみだった仲里さんは「思ったより難しかった。しかし、これでコツはつかめた。この機体で飛ばせてもらっただけで満足です」と話した。

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新宿 THE GALLERY 1(〒163-1528新宿区西新宿1-6-1 新宿エルタワー28階 ニコンプラザ新宿内) 2018年7月17日(火)~7月30日(月)「生誕100年記念 山田實写真展『きよら生まり島 -おきなわ』 」
トークイベント: ※申込不要・参加費無料
2018年7月17日(火)19:00~20:30
仲嶺絵里奈(写真史家)×鳥原 学(写真評論家)
2018年7月28日(土)19:00~20:30 金子隆一(写真史家)

 山田實(1918~2017年)は、いま世界的にも注目されている沖縄写真の礎を作った写真家である。
 沖縄戦で命も歴史も失われ、真っ白になって始まった「アメリカ世」の沖縄でカメラを持った山田實が見たものは、普通に生きている沖縄の男や女そして子どもたちであった。そのまなざしは、なにものにもとらわれない清々しくまっすぐなものである。そして山田の写真は、社会的な何ごとかを強く訴えるものではなく、表現として強固なスタイルを構築することや目指すものでもなく、あまりにも普通のことを普通に無造作に写し出している。それは山田實というカメラを持った人間が生きてきた沖縄という日常を等価に現しているといえよう。
 今あらためて山田實の写真を見ることは、占領から復帰を経てイメージ化された「美しい南の島・沖縄」に織り込まれ見えなくなった沖縄の日常の襞を掘り起こすだけでなく、山田實という写真家の「きよら」なまなざしを経験することとなるにちがいない。(ディレクター:金子隆一/写真史家)

2017年9月22日『沖縄タイムス』仲嶺絵里奈「展評ー山田實展」/2014年3月ー左から豊里友行氏、山田實さん、金子隆一氏、仲嶺絵里奈さん

山田實(やまだ みのる)氏プロフィール
1918年 兵庫県で生まれる
1920年 家族と沖縄に渡る
1941年 明治大学専門部商科本科卒業。日産土木株式会社入社、満州に赴任
1945年 北満州で終戦、シベリアに抑留
1952年 沖縄へ帰還、「山田實写真機店」開業
1959年 「沖縄ニッコールクラブ」結成(会長就任)
1972年 本土復帰に伴い、「沖縄ニッコールクラブ」は「ニッコールクラブ沖縄支部」に改称(支部長就任)
1978年 沖縄タイムス芸術選賞大賞受賞
2002年 写真集『子どもたちのオキナワ 1955-1965』刊行、地域文化功労者表彰、沖縄県文化協会功労者賞受賞
2012年 『山田實が見た戦後沖縄』刊行、写真展「人と時の往来 -写真でつづるオキナワ」(沖縄県立博物館・美術館)
2013年 第29回写真の町東川賞 飛騨野数右衛門賞受賞
2017年 逝去
パブリックコレクション 沖縄県立美術館、東京都写真美術館、北海道 東川町


山田實の本


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2018年6月5日~10日 沖縄県立博物館・美術館 県民ギャラリー「第23回 日本の美術 大賞受賞記念 砂川惠光展」

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儀間比呂志 1923年3月5日 - 2017年4月11日

 ぼくは大正12年に、沖縄の那覇の久米村でうまれた。(妹に山田和子、湖城智子、弟に達、進)久米村は、中国の三十六姓の子孫です。琉球王朝が、中国から、技術者とかを招聘した。今でいう技術導入ですね。そして久米村に集めて住まわせたわけです。このことを考えてみると、中国人は世界中にちらばっていて、華僑になっていますが、なかなかその国々の中へ同化してしまうことがない。ところが沖縄では、そういう中国人の根強い意識さえ、沖縄化してしまった。沖縄には華僑はない。みんな沖縄人になって、ずっときた。そうした子孫です、ぼくは。小さい頃の記憶だと、村ではよく中国風の祭りをやったり、清明祭という」祖先をまつる祭りを、一族一門集まってやったことがあった。→1973年1月『やぽねしあ』儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」


1940年5月7日 儀間比呂志、家を出て那覇港(母が見送り)から神戸、横浜と船を乗り継ぎ読谷村の呼び寄せ移民とともに15日目にテニアン島で下船した。→儀間比呂志「私の原風景」(1989年11月 『沖縄美術全集4』付録)。

 テニアン島には、1万人以上の県人が住んでいる。”沖縄県人の行くところ、歌、三味線あり〟で、そこに常設の郷土劇場があっても、不思議ではなかった。その球陽座という定員3百名ぐらいの小さな劇場は、異郷に「ふるさと」を求める人びとで膨れあがっていた。人びとは、役者がウチナーグチで演ずる一挙手投足に泣き、笑い、喝采し、フィフィと指笛を鳴らす。私の目頭も熱くなりっぱなしだった。なかでも座長・渡嘉敷守良の舞う「諸屯」は圧巻。長身に、色鮮やかな紅型衣裳をまとい、華麗に空間を切る名優の絶妙な古典女踊りは、妖しいまでに美しく、私たちを陶然とさせた。以来、昭和17年末、座が閉鎖されるまでの2年余を私は、道具方をし、太鼓をたたき、芝居絵を描きながら、沖縄芸能の世界に、どっぷりと漬かった。私のテニアンの青春の、もう一つのエポックは、わずか5か月ではあったが、彫刻家杉浦佐助先生に師事して、本格的に造形の基礎と理論を学んだことだろう。満二十歳にになった私は、郷里から徴兵検査の令状を受け取った。テニアンに残れば徴兵猶予もできたが杉浦先生は「帰りなさい。生きて、良い絵を描くんだ」その言葉を胸に、昭和18年5月12日、テニアンの青春に別れを告げた。→1983年8月29日『読売新聞』儀間比呂志「青春紀行124 南洋の果て・・・沖縄の心」

2008年5月 儀間比呂志『南洋いくさ物語 テニアンの瞳』海風社

 沖縄で徴兵検査に合格して、横須賀の海軍に入り工作兵にされた。一応の訓練期間が終わると南方方面へ行く軍艦に乗るために待機。防空壕を掘ったり、軍需工場の警備をしたりしていた。1年ぐらいで終戦。沖縄は玉砕して、親兄弟はみんな死んでしまっているという。沖縄へは帰れない。兵舎から出ないといけない。敗戦袋一つかついで復員列車にのった。その列車の終点が大阪。焼野原をうろうろして、阿倍野の寺田町、あの当たりはまだ家が残っていて、そこである家の2階に下宿した。→1973年1月『やぽねしあ』儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」

1946年春ー大阪市美術館に新設された附属研究所洋画部で、赤松麟作、須田国太郎、小磯良平の先生たちから油絵の指導を受けた(儀間比呂志「若い日の私」)。

1950年4月、大阪市立美術研究所で一緒に学んでいた村上夫美恵(1927年生。京都丹波)と結婚

儀間比呂志の弟の儀間進氏、右が妹の智子さん/儀間比呂志が1951年に沖縄の家族に宛てた手紙
この初めての手紙が沖縄の家族に届いて、6月に長男が誕生

1955年ー高橋亨「自費出版にはげんだ初期から」〇大阪の心斎橋筋で似顔絵かきをしていた儀間比呂志に合ったときのことを、ぼんやりとだが、覚えている。新聞記者として美術を担当しはじめてまもない1955年頃だったと思う。そのころ似顔絵かきのアルバイトをする画家たちのことが話題になっていたのであろう。それで取材に訪れた私に、かれは新聞記者には話をしないことにしているが、あんたならええといいながら近くの喫茶店にさそってくれた。1人百円で1日5百円くらの稼ぎになればさっさと引き揚げることにしていたと『儀間比呂志が沖縄について彫って語る本』(1982年3月・みやざき書店刊ー本文は1980年の朝日新聞連載対談再録)で語っているが、そのときも確かそんなことをいいながら似顔絵かきの道具を片付けていたような記憶がある。→1994年5月 『版画集 儀間比呂志の沖縄』海風社
〇高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。


1956年5月12日~14日 第一相互銀行(3階)「儀間比呂志 個人展」〇私は現代の沖縄に生きる人間像への創造を続けています。現代人の苦悩不安あらゆる困難なる時代にたくましく生きるオキナワのすがたは私に大きな感動をあたへます。出品作『生きる』『待つ』『あんまー』等はその一連のこころみですが造形的な処理に未だ難点を残して居りますし思想と造形を如何に立体的に構式するかが今後の私の課題なのです。

1956年5月16日『沖縄タイムス』新川明「沖縄画壇の収穫ー(儀間比呂志個展評)」


1957年3月 儀間比呂志・野口昭二『詩と版画 琉球』ユマニテ書店(大阪市南区櫓町14)。→1957年5月『図書新聞』火野葦平「『ちぎれた縄』という芝居を書いていて、自分も沖縄の苦しみのなかに入ってみようと試みたばかりの私には、この、詩と版画とで彩られた『琉球』という美しい本を、異様な息苦しさなしでは、最後のページまで見終わることができなかった・・・」


1957年5月『新日本文学』儀間比呂志(表紙絵)/1957年11月『新日本文学』山之口貘「沖縄島の霜多正次」


1957年6月9日『琉球新報』石野朝季「関西の沖縄地帯ー郷里の体臭ただよう ミナト神戸に沖縄通いの船」/1957年10月27日「商都に生きる(2)儀間比呂志ー商都のボヘミアン 画面に”生きるうた〟を」〇『何んやて”商都に生きる〟?そらきみ、オレの場合はちがうな。そらたしかに、ここでメシ食って、ここの空気を吸って・・・つまりここで生きてるにはちがいないが、ほんとのいみで”生きる〟となると”沖縄に生きる〟とでも云いたいな。』のっけからこうである。うるさい男だ。が、かれのいうのももっともなはなし。かれくらい商都に似つかわしくない風体の人間も少ない。

 儀間比呂志「母と子」1972年/新川明氏、石野朝季氏(右)


1957年3月『第9回沖展』/1958年3月『第10回沖展』儀間比呂志「那覇の市場」/1959年3月『第11回沖展』儀間比呂志「荒地」「働く女」


1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)

1961年4月30日『琉球新報』「小学生のころからわたしは絵が好きでした。これは、担任の先生が今も沖縄で活躍しておられる画家の大嶺政寛さんで、つねに絵の話を聞かされていたせいもあったようです。・・・」/写真ー儀間比呂志の父・昌(次男、兄に盛)、母・初子(蔡氏神山家)

1963年6月11日~13日 沖縄タイムスホール「第4回 儀間比呂志作品展」


1966年1月 儀間比呂志『版画風土記 沖縄』題字/榊莫山 編集/高橋亨

榊莫山ー三重師範学校在学中、学徒出陣で徴兵され、沖縄に派遣される予定だったが、艦船がなかったために鹿児島で足止めされ、そこで敗戦を迎える→ウィキ)


1966年『現代沖縄人物三千人ー人事録ー』沖縄タイムス社

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1966年7月 沖縄タイムスホール「第5回 儀間比呂志個展」
宮本常一 1907(明治40)年〜1981(昭和56)年
 1907(明治40)年、大島郡家室西方村(現 周防大島町)で生まれました。大阪府天王寺師範学校を卒業後、小学校の教員となったころから民俗学への関心を深め、民俗学者・柳田國男の指導を受けました。1939(昭和14)年、渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアム(現神奈川大学日本常民文化研究所)の研究員となります。以後、全国の離島や農山漁村などを訪ね、特に「歩く・見る・聞く」ことを大事にしながら地域の人々と語らい、記録し、生活の移り変わりを明らかにしました。
 常一は「暮らしの中の工夫こそが文化」と考え、周防大島では、常一の呼び掛けで生活文化の継承を目的に、失われ始めていた民具が集められ、それらは「久賀の諸職用具」「周防大島東部の生産用具」として国の重要有形民俗文化財に指定されました。また、周防猿まわしの復活を支えたほか、離島振興法の成立に力を尽くし、離島でも水道や電気が使えるようになりました。日本観光文化研究所所長、武蔵野美術大学教授などを務め、満73歳で亡くなりました。→山口県の先人たち




儀間比呂志ー1967年11月『新沖縄文学』7号「理知的な人<追悼・安谷屋正義>『作家は死んでからが勝負だよ、儀間くん』といつか彼がもらした言葉がいまあらためて私の胸を打つ。」/1971年12月『新沖縄文学』21号「儀間比呂志版画集」/1974年10月『新沖縄文学』26号「表紙絵」/1975年2月『新沖縄文学』27号「表紙絵」/1975年11月『新沖縄文学』30号「土地に根ざした『心』


1968年8月『今日の琉球』「好評を博した儀間比呂志個展」

1969年7月 『儀間比呂志版画集 沖縄』題字/榊莫山〇高橋亨「儀間比呂志の具象画と沖縄」


1970年4月 霜多正次『虜囚の哭』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)

1970年11月 川平朝申 再話/儀間比呂志 版画『ねむりむし じらぁ』福音館書店

1971年1月 霜多正次『明けもどろ』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)

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1978年6月 沖縄の雑誌『青い海』№74「青い海ギャラリー 稲嶺成祚『母と子』」


2017年10月『稲嶺成祚 画集』/稲嶺成祚「新城栄徳」

左が岸本徹也氏、稲嶺成祚氏
2014年5月6日~12日 リウボウ7階・美術サロン「稲嶺成祚 絵画展」

左が新城栄徳、稲嶺成祚氏

1982年 沖縄の雑誌『青い海』10月号 「座談会・”沖縄”を描くということ」(喜久村徳男・金城規克・宮城明/司会・稲嶺成祚)


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1994年5月 『版画集 儀間比呂志の沖縄』海風社
〇大江健三郎「真に沖縄的な画家ー儀間比呂志の仕事は、あえてこの言葉をもちいれば、いまやわれわれの南島の絵画の代表ということができるだろう。(略)いま本土日本からおしよせる沖縄の自然破壊、また人間のうちなる自然破壊について、もっとも暗くもっとも激しい怒りをあらわしているのを、僕は知らぬということはできない。」

〇高橋亨「自費出版にはげんだ初期から」


1995年8月 儀間比呂志『沖縄戦 朝鮮人軍夫と従軍慰安婦』清風堂書店ー□船越義彰「喜屋武岬海岸」、□儀間比呂志ー私の沖縄戦版画〇実際、戦争の本当の犠牲者は、子どもたちではないだろうか。私たちは、あの状況のなかで、戦争に反対することはできなかった。その結果、ずるずると、破滅にのめりこんだ。そして、多くの子どもたちを不幸な目に逢わせた。言うなれば、当時の大人一般は、等しく戦犯であろう。「あの時は・・・・・・」の言いわけはすまい。しかし黙するわけにはいかない。やることは、再びあの愚をくりかえさない努力をすることではないだろうか。沖縄県民が体験した「いくさは、ならんどォ」の執念には、人間にとって根源的な人類の「共存」という命題がこめられている。あとがき〇作家の船越義彰氏が寄せられた自らの体験記は、沖縄戦について、私の言いたらない面を補って余りあるものがある。感謝の意を」表したい。なお、取材の面では、山内栄氏に大変お世話になった。あわせて、本書の刊行を心よく引き受けて下さった清風堂の面屋龍延社長にも心からお礼を申しのべたい。
   
2917年7月『沖縄9条連たより』山内榮「六-二三と八・一五のはざまでー戦後七二年・憲法施行七〇年の年に考える」/儀間比呂志「むんじゅる笠」(新城栄徳 所蔵)


1997年4月 儀間比呂志『マジムンのうた』ルック(東京都豊島区巣鴨1-20-9)


2004年5月 儀間比呂志『沖縄戦版画シリーズ 戦争と平和』増川白陽「タイトル文字」画廊サエラ(松岡勇)/画廊サエラの松岡勇氏(左)、儀間比呂志


2005年10月3日『しんぶん赤旗』「日曜インタビュー/儀間比呂志さんーハンセン病差別なくしたい」


2006年6月 琉球大学文芸部『伝言』創刊号(表紙・儀間比呂志)


2009年9月『詩画集 琉球愛歌』右の儀間作品は1981年4月 野ざらし延男『沖縄俳句総集』にも使われている。
2009年9月 儀間比呂志×MONGORU800『詩画集 琉球愛歌』ハイウェーブ〇新川明(沖縄タイムス社社長)(前略)儀間版画には土俗的な祭りや風物を描く風土記的な世界と米軍基地や沖縄戦を告発する社会派的世界があるが、一貫しているのは沖縄=琉球に向ける深い愛のまなざしであり、権力の不条理に対する怒りと抵抗の意志である。それはつまるところ人間性の追求に立脚するものだが、こうした儀間版画の世界に<MON8>が発する詩句のエッセンスが対置されるとき、両者の魂のメッセージは共鳴し、増幅されて新しい世界が創り出されることに驚嘆せざるを得ないのである。まさに世代を超えて響き合う、沖縄発の人間賛歌がここに誕生していることを確認できるからである。〇儀間崇ー僕が先生を知ったのは5年前。「百々」の制作にあたって、たくさんの作品を見せて頂きました。(略)戦前に十代で家出!、南洋での暮らし、戦後の大阪、現在の沖縄・・・。「ボクは動いてないと死んでしまいますよ。ハッハッハ・・・」とシャレにならないジョークを飛ばされる程、先生は常に動き続け、先の先まで見据え、今も日々作品を創り続けています。その姿を見ると、もの凄いエネルギーをもらえて、自分もガンガン行かないと!という気になります。僕は先生と同じ儀間というのですが、儀間家には昔から「亀は食べちゃダメだ」という言い伝えがあって、その事を詩にした曲があるのですが、先生にも同じ言い伝えがあり、ルーツは一緒だと分ったり・・・


4月10日ー平良次子さん、豊見山愛さん/ひより
2018年3月17日~4月10日 南風原文化センター「儀間比呂志1周忌追悼特別展 絵本『ツルとタケシ』原画展」


2018年5月18日 写真左から、前列ー佐喜眞道夫氏、新川明氏。後列ー池原盛浩氏、豊見山愛さん、新城栄徳、喜友名ひとみさん(渡邊愛依さん撮影)


2018年6月 『版画芸術』№180 豊見山愛「儀間比呂志ー木版に刻んだ沖縄の記憶」

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「くろねこの短語」2018年6月16日ーカジノ法案強行採決! 「特定資金貸付業務」でサラ金常設のカジノが誕生・・・借金地獄で自己破産続出か!?&「拉致問題は解決済み」と北から冷や水!!
 森友・加計学園疑獄にかまけていないで重要法案の審議をしろ、てなことを喚いていたくせに、だったら審議しようじゃないかと国会が動き出したとたんに強行採決だと。しかも、世論調査では今の国会で成立させる必要はないという意見が70%を超えているカジノ法案を問答無用で強行採決するとは、国会ってのは何のためにあるんだろうと改めて考えさせられてしまう・・・ていうか、怒りに震える梅雨寒の朝である。

 「立憲フォーラム1119通信」2018年6月15日ー米朝共同声明 いろいろな訳文が出回るなか トランプ、金両首脳への疑問や批判が急速にひろがっています。トランプ大統領の短命政権をめざす論評も。背景には米韓日の産軍官複合の思惑も透けて見える思いです。トランプ大統領の生命の安全確保も大事ではないか。軍縮に取り掛かったケネディー大統領事件を繰り返してはならない。
 
「くろねこの短語」2018年6月14日ー(略)ひょっとして朝鮮半島の平和を誰も望んでないんじゃないの、と思いたくなるほど新聞・TVでは米朝首脳会談に否定的な意見が飛び交っている。そもそも、即行で非核化しろなんてのは無理な話で、そんなこというならアメリカも同じことしてみやがれってなもんです。段階的にせよ、非核化に進んで行くならけっこうなことだと思うのはシロートの僻目というものでしょうか。
 それよりも、森友学園疑獄だ。米朝首脳会談をいいことに、新聞・TVはすっかり総理夫妻の犯罪を葬り去ろうとしているようで、昨日のエントリーで紹介した「8億円値引きの国有地で10億円の借り入れ」というニュースなんかほとんどスルーされちゃってます。(略)
  さらに、「昭恵夫人から『良い土地ですから、前に進めて下さい』とのお言葉を頂いた」という籠池前理事長の主張を裏付けるように、「昭恵夫人の名前を交渉記録に記載した」と近畿財務局職員が証言していたことが発覚した。この交渉記録を記載した書類は見当たらないというのが財務局の言い分だけど、実際に記載したという証言があるということは、やはりそこにやましさがあるから隠しているんじゃないかってことになるんだね、世間の常識では。
 森友だけじゃなくて加計学園疑獄もまだ終わったわけじゃない。これからも、ペテン総理およびその私人の嫁の関与を示唆する新たな事実が発覚する可能性は極めて高い。新聞・TVはそれでもダンマリを決め込むつもりなのだろうか。最後に、くろねこも参加するところの「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」は、「佐川宣寿前国税庁長官らを不起訴としたのを不服として、大阪第1検察審査会に審査を申し立て」をしました。逃げ得は許しませんよ!


2018年6月 豊里友行写真集『おきなわ辺野古ー怒り・抵抗・希望』沖縄書房/自然保護団体の船を妨害するアベの走狗・海保CB

 「くろねこの短語」2018年6月11日ー(前略)ーさらに、去年の衆議院選の新潟県比例代表党派別得票数と今回知事選結果を比べると、
自民+公明 54.3万→54.6万票 
立憲+共産+社民40.5万→50.9万票 
 となり、自公が横ばいなのに野党共闘は10万票上乗せしているんだね。けっして、野党共闘がボロ負けしたわけではなく、この結果に土建政治の二階君あたりはヒヤヒヤなんじゃないだろうか。
 これはシロートの判断にすぎないけど、でもこういう分析をなぜ新聞・TVはスルーして、決まり文句を並べた情緒的な報道をするんだろう。 

ま、G7の報道なんかも、上っ面の印象報道ですからね。まるで、トランプがペテン総理にアドバイスを求めたかのような記事まであったけど、実際はこんな具合(↑)

 「くろねこの短語」2018年6月9日ー映画『万引き家族』でカンヌ映画祭のパルムドール賞に耀いた是枝裕和監督が、文科相のヨガ林君の「祝意」に対して、
 映画がかつて、「国益」や「国策」と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですがこのような「平時」においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています。
 として辞退を表明した。権力との距離感とはこうことだ。表現者としての是枝監督の矜持に万雷の拍手を送りたい で、話変わって、ペテン総理がトランプに阿ったあげくに、「ボーイングの航空機や農産物など数十億ドル分の米国製品を購入」って言ったってっね。トランプが売り込んだって報道もあるけど、実際は「安倍がそう言ってたよ」ってトランプがバラしちゃってます。米朝首脳会談で拉致問題を取り上げてもらうためのバーターだったんじゃないか・・・妄想だけど。
 「拉致問題は最終的に私と金正恩委員長との日朝会談で解決しなければならない」
「日朝平壌宣言に基づき、不幸な過去を清算し、国交正常化し、経済協力を行う用意がある」
 だとさ。北のカリアゲ君にすれば、「何をいまさら」ってなもんです。そもそも、なんでアメリカにまで行って「日朝会談云々」なんて言い出すのかねえ。それを言うなら、まずは拉致被害者家族の前で言ってみやがれ。
 それにしても、「最大限の圧力」って拳はどこ行っちゃったんだろうね。こんなチキン野郎なんだもの、そりゃあ北のカリアゲ君にだって足元見られますよ。米朝首脳会談で一定程度の折り合いがついて「朝鮮戦争終結宣言」なんかされてごらんなさい、「圧力、圧力」と喚いていたペテン総理は蚊帳の外どころか、トランプの言いなりに莫大な経済協力を押し付けられますから。こんな言葉は使いたくないが、これこそ「反日」であり「売国」じゃないのか、ネトウヨ諸君!最後に、北海道大学が「学術会議の声明尊重」して、軍事研究につながりかねない防衛省の助成を辞退したってね。北大の英断にも、万雷の拍手を!!

  「くろねこの短語」2018年6月8日ー(前略)この話は、ペテン総理の「ばくしんの友」である雲隠れ孝太郎が国会で証言するのがまず国民に対す礼儀ってものだ。90億円という補助金が投入されるんだから、「思わず嘘ついちゃいました」で誤魔化そうたってそうはいかない。
 仮にそれが事実だとすれば、それは明らかに学園ぐるみの詐欺行為だ。自民党は証人喚問を頑なに拒否する理由はどこにもない。なんてったって、一介の事業者である加計学園が行政を騙して、自分たちの都合のいいように事が進むように画策してたってことなんだから、ここで国政調査権を発揮しないでどうするよ、おい!
 新聞・TVだって、ドン・ファン殺人事件にかまけてるんじゃありませんよ、ったく。今日なんかは、おそらくジャニーズでワイドショーはてんやわんやになることだろう。いいかげんにしやがれ、ってなもんです。


全日本民医連厚生事業協同組合『共済だより』「伝えていきたい私の民医連」「いま、沖縄に連帯してー安倍内閣はこれまで、普天間基地の危険性を除去するための『代替施設』と言い続けてきましたが、新たな飛行場はそれ以上に危険な施設であることが明らかになりました。核兵器貯蔵の疑いもある弾薬庫に米軍機が墜落した場合、どれだけの被害になるのか想像もできません。」


2018年6月 『月刊琉球』№57 与那嶺功「沖縄振興ー隠れた潮流 大東亜・植民政策・ナショナリズム③」

 「くろねこの短語」2018年6月6日ーデータ改竄で神戸製鋼に強制捜査。その理由は「悪質で大規模だから」だとさ。シュレッダー佐川君を筆頭に20人が連座した公文書改竄は大規模じゃないのかねえ・・・なんてため息もつきたくなろうというものだ。
 ところで、会計検査院までが、森友学園のごみ撤去費用報告書の内容について事前に国交省にお伺いたててたってね。そのおかげでごみ撤去費用の試算額が報告書から削除されたんだと。会計検査院ってのは、憲法90条に基づいて、内閣から独立した機関なんだよね。それがこれだもんね。財務省の役人を不起訴にした検察と同じで、独立どころか政権のご意向にペッタリなんだから、この世に正義なんてものは存在しないってことだ。

 「田中龍作ジャーナル」2018年6月5日ー「【新潟県知事選】自公候補 花角大阪航空局長時代に森友問題の種は宿った」 

 「くろねこの短語」2018年6月3日ー(前略)ーいや、待てよ、あの男のことだから何の痛痒も感じていないかもね。なんてったって、子供でもわかるような嘘ついても平然としていられる御仁ですからね。でなけりゃ、とっくのとうに恥ずかしく辞任してるでしょうから。そんなペテン総理には自民党支持者もどうやら愛想をつかしているようで、自民党が実施した世論調査では内閣支持率はなんと20.6%まで低下しているんだとか。メディア比べて、自民党の世論調査は選挙に直結するだけにシビアなものなんだね。てことは、メディアの言う「下げ止まり」ってはあまりにも実体からかけ離れているってことだ。(略)
 これには、おそらくペテン総理も心中穏やかではないだろう。そんなんだから、やらなくてもいい日米会談で日本を留守にしようとしているのかもね。主犯がいなければ、モリ・カケ疑獄は小休止にならざるを得ませんから。
 「私は嘘は申しません」という嘘は有名だが 「私は嘘を言ってました」という嘘は初めて聞いた。なんてツイートが話題になっているけど、それ程に加計学園事務局長とやらの謝罪会見(?)は世間を舐めくさったものだったってことだ。しかも知事不在のタイミングを狙っての謝罪だから、そりゃあ中村愛媛県知事だって補助金について言及したくもなろうというものだ。これまで支出した14億円についても、「おかしなことになれば、返還を求める権利は担保されている」と言ってるし、これからの予定されている補助金の見直しについても、「行方次第では、一般的にあり得る」とコメントしている。県議からも、「学園への信頼が損なわれた。6月議会で支出の是非を問いたい」という声も上がっているそうだから、ひょっとしたら加計学園の補助金による自転車操業は「ひとつの嘘」で崩壊するかもしれない。




 「くろねこの短語」2018年6月2日ー(前略)ー公文書には一家言持つ元首相、「あなたとは違うんです」の福田君がインタビューに答えて、「不起訴で、おとがめなしということになってしまったら、あの事件で、みずから命を絶った人のことはいったいどうなるのか」と指摘したそうだが、大阪地検の腰抜けどもにとってはさぞかし耳が痛いことだろう。
 公文書改竄という犯罪が捜査当局からお咎めなしよってお墨付きもらっちゃったんだから、これからは政治家も官僚もやりたい放題になるんでしょうね。なんてったって、「記録より記憶」が国会では重視されるそうだから、公文書なんかあってもなくても同じってことだ。政治資金の帳簿上の誤魔化しなんか日常茶飯になるんじゃないか。ひょっとこ麻生に言わせれば、悪質でなければなんでもありってことなんだからさ。

 「くろねこの短語」2018年6月1日ー(前略)大阪地検の不起訴処分を受けて自民党は「これで幕引き」ってなこと言ってるようだが、おいおい、官僚が虚偽の文書を国会に提出したってことはそれだけで犯罪的な行為なんであって、それはとりもなおさず国会を愚弄したってことなんだよね。それもわからないなら、政治家なんか辞めちまえってことだ。
 それにしても、凄い国になったものだ。役人が公文書を300ケ所も改竄してたというのに、なんのお咎めも受けないんだものね。そして、そのトップである大臣が「悪質な改竄ではない」って居直ってるんだから、何をかいわんやなのだ。これで舞台は検察審査会に移るわけで、まだ勝負は終わってませんから、そこんとろよろしく。
 お次は、加計学園のとんでも謝罪会見だ。なんとまあ、薄ら笑い浮かべて、「その場の雰囲気で、ふと思ったことを言った」「うそというか、そういう思いをもって説明したんだと思う」だとさ。ひと目でこいつは嘘ついてるってわかる猿芝居をニヤつきながら演じてくれちゃって、渡辺良人とかいう加計学園事務局長がかなり胡散臭い人物ということは確認できた。と思ってたら、想像以上に裏がありそうな人物で、あのSDI創建の社長してたとか。そこんところを「ネッドケリラ」さんが暴露しているので、興味のある方をそちらをどうぞ。


 「くろねこの短語」2018年5月26日ー(前略)いやあ、それにしても、籠池のおっさんはタフですね。10ケ月という不当拘留にもめげずに、記者会見では籠池節がポンポン飛び出して、一発で会見場の主導権を握っちゃうんだからね。「嘘が堂々とまかり通るようになったら日本が滅びる」ってのはまさに正論で、いまこの国かが抱えている闇ってのはすべてこの言葉に行き着くんだね。
 そうした嘘が罷り通る伏魔殿が財務省で、なんとひょっとこ麻生がペーパー読みながら謝罪会見だとさ。役人が用意したペーパーを無造作に読み流しながらのどこが謝罪だ。しかも、本人の去就に関する記者の質問に、「おっと、もう一個あった」だとさ。もう、人として壊れちゃってて、自分がどう思われようと、まったく関心がないんだね。これって、ボケの兆候なんじゃないのか。
 国民がどう思おうとおかまいなしってのは自民党も得意とするところで、なんとまあ、「でたらめデータ」が発覚してるってのに働かせ方改革法案を強行採決しちまいました。ジャパンライフの広告塔の厚労大臣・加藤君は、強行採決直後にヒトラーまがいに右手を上げてどや顔しとりました。採決のドサクサの中で、大きく手を振ってはしゃぐ自民党の女性議員がいたんだが、どうやら山梨選出の堀内のり子とか言う陣笠だそうだ。恥を知れ!

 

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□1926年、渋沢栄一の孫・渋沢敬三が石黒忠篤と台湾から来沖。沖縄県沖縄図書館で仲吉朝助の『琉球産業資料』を複写、これは後に小野武夫によって『近世地方経済史料』に収録される。渋沢は案内役をつとめた沖縄県殖産課長・田村浩の著『琉球共産村落之研究』を岡書院から出版させた。同行した石黒は石黒忠悳の息子、妻は穂積重陳の娘で渋沢栄一の孫娘。渋沢敬三は南方同胞援護会(現・沖縄協会)の初代会長で、また東洋大学名誉学位第1号でもある。

右端が吉田嗣延

1968年11月
『沖縄問題基本資料集』南方同胞援護会
編集スタッフ本会編集委員/責任者=吉田嗣延 委員=城間得栄、宮良長欣、河野忍、久保田芳郎、比嘉正詔 沖縄資料センター編集委員/新崎盛暉、屋宜宣仁、我部政男、比屋根照夫

1972年7月
『追補版 沖縄問題基本資料集』南方同胞援護会
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財団法人・沖縄協会(東京都千代田区霞が関3-6-15グローリアビル内)


吉田嗣延『小さな闘いの日々ー沖縄復帰のうらばなしー』文教商事/吉田嗣義『老人ホームはいまー現場からの報告』ミネルヴァ書房

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沖縄大学の吉田嗣延文庫/1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社

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山田實さんは二中樹緑会の会員であった。その樹緑会の古い写真には大嶺政寛・政敏兄弟も写っている。最近、大嶺隆氏が沖縄本や雑誌に沖縄にこだわって発言しているのが目につく。私は画家・大嶺政寛さんには色々と可愛がってもらっていた。政寛さんの弟が画家・政敏、その子が隆氏である。1984年ー国会図書館に寄って帰り沖縄協会に行き、吉田嗣延氏に挨拶すると河野忍さんを紹介された。河野さんは部下の隆氏に私を紹介した。隆氏は私の話を聞き機関紙『沖縄』で紹介してくれた。
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河野忍さんハガキ→新城栄徳宛/河野さんが紹介されている沖縄の新聞1985年1月17日
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グローリアビル入口で右・河野忍さん、新城栄徳

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上ー饒平名智太郎の本。 下ー饒平名(永丘)智太郎と甥の知念良秀。右ー知念良秀氏(佐倉市の知念宅前で/撮影・新城栄徳)

□2005年5月『琉球弧の雑誌展』新城栄徳「饒平名智太郎と親泊康永」沖縄タイムス社

東京本郷にあった知念良秀氏経営の「沖縄民芸社」守礼門が印象的だ。
□1970年3月『オキナワグラフ』ー知念良秀さん(千葉県佐倉市新町96番地)/わたしが扱っている品数は多いですよ。沖縄産のもの、沖縄に関するものなら何でも、と言ってもいいでしょう。レコード、切手、書籍、漆器、貝彫刻、bべっ甲、カツオ節、パインジュース、絵ハガキ、スライドなどなど。商社なみの取り揃えぶりです。東京郵便切手商協同組合に入っており、琉球郵便切手は沖縄でより安く売る店を自慢にしていますが、切手収集ブームは根強いものがあり、今後も収集家が減ることはないでしょう。復帰のあかつきには琉球郵便も当然廃止されることになるわけで、今のうちに集めておかれるよう宣伝している次第です。最近は発行部数が需要にくらべて少ないようです。またデザイン、色彩ももっと良くしてくれるよう琉球政府に働きかけています。世界には珍しい切手を発行することで国家財政を潤している国もあるほどで、積極的な売り込みに出てほしい。
レコードは20年も30年も昔に上京した人が懐かしがって買いに来たり、集団就職の青少年や学生などが故郷を思い出すよすがに買い求めていきます。沖縄にはいい民謡が数知れずあります。それらをどしどし吹き込んでレコード化させ、シリーズで出せば注目されるでしょう。沖縄物産を売ること、それは私の生きがいです。

知念良秀
 2004年2月28日『沖縄タイムス』新城栄徳(うちなー書の森 人の網)ー那覇に住んでいると東京は遠くなる。2002年夏、琉球書院の大城精徳氏から電話があり、「千葉の佐倉におられる知念良秀氏から早めに来てほしいと君への連絡があった」という。台風が接近中だったので東大阪市の自宅に行き新幹線で上京。上野の西郷隆盛銅像に近い駅から佐倉市へ向かう。翌日、台風の風雨の中、みつい夫人運転の車で知念氏と子息宅に行き成田空港地域共生委員会伝承部会調査員の取材に応じた。伝承部会『2002年度調査報告書』に「永丘智太郎氏のご親類であることから、知念氏に昨年7月に聞き取り調査を行った。その際、永丘氏について研究されている新城栄徳氏(那覇市在住)も同席した」とある。知念氏と永丘については1998年5月の琉球新報「東京で活躍した出版人2人/饒平名(永丘)智太郎と親泊康永」で書いた。永丘は1914年、上海の東亜同文書院で学び北京の共同通信英文記者を経て改造記者となり孫文、片山潜らに知遇を得た。

知念良秀氏は沖縄戦で、球部隊の通信兵として激戦地をさまよった。港川で捕虜となりハワイの収容所へ。そして送還され胸を患い金武の保養院から国立佐倉療養所に入所。社会復帰を果たし、1965年、趣味の切手商を経て沖縄物産を手がけ東京本郷で沖縄民芸社を経営する。知念氏は歌誌『九年母』の古い同人。『松田守夫歌集』(1964年)に知念良秀兄と題し「朝明けてつばめ飛び交う街の空日本に君を今日発たしめむ」とある。帰る際に、知念氏は真新しい墓の写真を見せてくれた。それが2003年3月6日享年77歳で亡くなられた氏との別れとなった。氏からおくられた歌「下総に移りきてすでに30余年鉢の蘇鉄は枯れ果てにけり」「故里の梯梧の花の咲く頃に我は行きたし久茂地川辺に」。知念氏は「沖縄物産を売ることが生きがい」と常に語っていた。氏に言われた「東京の沖縄物産史を調べてほしい」が宿題に。最近、関東沖縄物産協会で知念氏と共に活躍した宮城三吉氏(沖東物産)に浦添のご自宅で話を伺った。

饒平名智太郎②

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 2011年5月1・11日『新美術新聞』光田ゆり「新美術時評・震災後の美術」に「美術は非常時に無力ではないか、という言葉は、阪神大震災のときにも発されていた。しかし被災地のがれきのなかに人々が一心に探したのが、家族の写真や記念の品だったことをテレビで知ったとき、人が生きた歴史と記憶を証するものがどれほど大切かを改めて教えてもらえた。(略)個人の記憶は地域の記憶と相互に織り込みあい、時代や歴史をつくる。そこから人は引き剥がせない。人が考え求めたことを証する物品や情報を失うことは、人の存在を損ないかねない欠落をもたらしてしまうことなのだと思える。(略)今こそ大型展覧会中心主義を見直し、美術作品と資料・情報の蓄積の場としての美術館像を提示する時ではないだろうか。地域の文化の記憶を共有し新しい活動につなげていくー」と、人が考え求めたことを証する物品や情報を失うことは、人の存在を損ないかねないと強調している。
人は今、現在起こっていることは余り気にしないものである。無くなって初めて気づくものが多い。そこで記憶が薄れないうちに那覇市史編集室について回想してみる。



1945年4月ー『沖縄新報』『琉球週報』

1961年5月20日ー那覇・首里市制施行40周年を記念して市史編集を企画。担当は企画部企画室広報係(嘱託1人)
     9月29日ー那覇市史編集委員会発足(委員15人)
1966年10月30日ー初の『那覇市史』刊行。『資料編第2巻上(近代新聞集成)』。
1967年7月15日ー那覇市史の編集、課相当の総務部市史編集室で本格的にスタート
1968年4月12日ー那覇市史編集室、家譜のマイクロ撮影を始める

1970年3月ー那覇市史編集室「市立那覇史料館」構想/史料館は、歴史博物館と文書館の両方の性格をかねた綜合資料館とし、設立時期は「那覇市制施行50周年を記念して市史編集室内に設立し、72年の復帰の時点で独立した建物をつくり移転」とある。建設経費として20万ドルを見込んでいた。主要事業に機関誌(市販)の発行をあげている。

1970年7月ー『那覇市史ニュース』第一号/第二号

1970年ー『那覇市史ニュース』第五号

1971年5月28日ー那覇市制50年記念「歴史民俗資料展」を那覇市民会館、琉球政府立博物館で開催
1974年3月4日ー新城栄徳、那覇市役所内の那覇市史編集室を初めて訪ね大阪で戦前に出された雑誌『新沖縄』を見る

1977年3月


1977年5月ー『那覇の民俗編集ニュース』№17


資料・安藤佳翠

1991年4月22日『沖縄タイムス』「那覇市史編集室にあった新聞コピーは、那覇市泊の収集家・新城栄徳さん(42)が以前持ち込んでいた。新城さんによると、2年ほど前に名護市立博物館で戦前の新聞をめくっていて偶然目に・・・」

那覇市歌の制定については、戦禍で資料が失われたため、正確なことはわかっていません。 しかし、戦前の新聞の記録や作詞家の安藤氏の当時の日記などから、制定されたのは、1929年(昭和4年)ころと推定されています。 現在、市歌は、市の様々な式典や行事などで演奏されている外、ラジオの広報番組「那覇市民の時間」 のオープニング、エンディングのテーマ曲としても使われていて、広く市民に親しまれています。
市歌(楽譜)
作詞:安藤佳翠(あんどう かすい) 作曲:宮良長包(みやら ちょうほう)
1. あけぼの清き南(みんなみ)の 港にぎわう百船(ももふね)や まちはいらかの数増して 弥(いや)栄えゆくわが那覇市  
2. みどりも深き奥武山(おうのやま) めぐる入江の水なごみ 清き心に諸人の むつみしたしむわが那覇市  
3. ゆかりも古き波の上 あおぐ誠を捧げもて 理想の自治に進まなん 希望(のぞみ)かがやくわが那覇市

那覇/那覇市制90年
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1921年
3月6日ー『琉球新報』「中城湾ご仮泊に関し警保局長より県へ公電あり御上陸は不明なるも」
3月6日ー東宮(昭和天皇)来沖

3月7日ー『琉球新報』「此れ眞に千載一隅の栄誉!東宮殿下昨日中城湾に御仮泊 御上陸御自ら民情を御視察遊ばさる」

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□『史料編集室紀要』第25号 小野まさ子「新聞資料『那覇首里市制紀念号』について」

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