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1983年3月 伊佐常喜(尼崎市)『遥かなる星のかなたに』「1940年6月30日ー伊良部村の連絡船『伊良部丸』沈没事件で70数名の犠牲者」


1978年8月 新里清篤編『記録と証言 あゝ学童疎開船対馬丸』対馬丸遭難者遺族会

ヒーサン(寒い)、ヤーサン(ひもじい)、シカラーサン(寂しい)
〇沖縄から本土への学童疎開は1944(昭和19)年7月7日、政府の緊急閣議で決定した。この日サイパン島が玉砕、民間人を巻き込んだ戦闘は衝撃を与えた。次は沖縄である。閣議決定は「本土へ8万人、台湾へ2万人、計10万人を7月中に引き揚げさせよ」であった。鹿児島県知事へも奄美群島からの引き揚げを命じている。疎開業務は警察部が所管となり、進められた。学童疎開は文部省の指示を受け県教育課が計画を推進した。疎開業務は容易には進まなかった。米軍の潜水艦が沖縄・鹿児島間の海上で日本の艦船を沈め、多くの犠牲者が出ていることは公然の秘密になっていた。県外へ、しかも危険な航海。親たちは反対した。校長らは説得に懸命になった。一人でも多くの疎開学童を集められる教師が優秀な先生といわれた。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社
〇他府県での学童疎開も1944年8月から国民学校初等科3年から6年生を対象に始まった。大都市への本格的空襲が予想されるようになり、被害を防ぐ観点から戦火にさらされそうな地域に居住する学童をより安全な地域に一時移住させた。防空体勢の強化、次代の戦力を培養する目的の国策として実施された。具体的には東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、大阪、神戸などから約45万人の学童が34都道府県の旅館や寺院など約7千カ所に疎開した。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社
〇1943年4月、新里清篤は妻の千代子と共に本部国民学校にへ赴任した。翌年7月にはサイパン島が玉砕、間もなく沖縄県内政部長名で「学童集団疎開実地要綱」の通報が学校に届いた。立場上、新里は「父兄、学童に疎開を呼び掛けるには、まずわが家族を率先させねば・・・・・・」と考えた。鹿児島への海路は既に何隻もの船が撃沈され、”魔の海„と化しており、船旅は一大決心を必要としていた。対馬丸には千代子、長男、二男、長女の3人の子供、そして「孫が疎開するなら、自分も」と言ってきた母親のナベの5人が乗船、全員が帰らぬ人となってしまう。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社

1995年5月 琉球新報編集局学童疎開取材班(池間一武、照屋直、崎原孫雄)『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社

1913年 第一大里尋常小学校の分教場として御殿山に開設され,1941年 与那原国民学校として独立校として開校された。→与那原町立 与那原小学校

1995年8月 与那原町学童疎開史編集委員会『与那原の学童集団疎開』与那原町教育委員会/新垣隆一2代与那原国民学校長(1943年の教職員名簿に「與那原國民学校 校長 正七 六待一五六〇加 新垣隆一」)

1995年8月 与那原町学童疎開史編集委員会『与那原の学童集団疎開』与那原町教育委員会
 上原敏雄・引率教諭「与那原国民学校第一次学童疎開」1944年8月15日ー疎開申込児童188名、引率教員、養護婦、世話人、合計218名が親川に集合し、トラック3台に分乗して那覇に向かった。那覇では宿舎浦崎旅館に男子、那覇旅館に女子、津波旅館に女子と家族が分宿して乗船待機をした。8月17日ー「いかだ用の棒と縄の準備をせよ」との達示で海上輸送の不安を感じた父兄が、18日早朝、疎開取り消しのため宿舎に殺到して混乱状態になった。新垣隆一校長の出覇、父兄会、大多数取消し、荷物整理に津嘉山朝吉先生を主任に全力を注いで下さった。
 残り児童95名、引率関係者合わせて119名、8月21日午後7時ー和浦丸(那覇の子どもたちの荷物も乗せる)に乗船。左右に2隻の護衛艦の5船団で、時折飛んでくる飛行機に守られ、航海を続ける。22日夜半ー僚船対馬丸の悲報、最悪状態。魚雷が左右に白波を立てて、舷めがけてやって来る。ジグザグの航路・・・(略)1946年10月26日帰還。那覇港に降り立つとDDTの洗礼を受け、トラックに乗せられ、懐かしい荒れ果てた与那原を右手に見ながら久場埼の収容所に下り立った。玉那覇栄三先生に迎えられ感激の涙がしみ込み、実にうれしかった。一夜明かし、あこがれの与那原へ向かった。変わり果てた親川で、子どもたちを父兄に引き渡すことが出来たことを、疎開関係各位に心からお礼を申し上げる。帰還を迎えて下さるはずの新垣隆一校長は戦死、佐久本嗣矩校長先生ほか、疎開児童の父兄方に迎えられ、帰還報告を済ませた。児童たちと引率教員は、佐久本先生を校長とする与那原初等学校所属となった。

 安谷屋勇・引率教諭「与那原国民学校第一次学童疎開」昭和19年。それはよい年ではなかった。日本軍は南方戦線で次々と敗れ、7月7日にはついにサイパン島が陥落して、米軍の沖縄上陸は必至の状況になっていた。すでに沖縄には守備軍として、球部隊、山部隊、石部隊、武部隊の約10万に及ぶ精鋭が配備されていた。国民学校はいずれもその兵舎に併用され、兵隊と児童の雑居で、正常の授業はできなくなっていた。与那原国民学校にも部隊の一隊が駐屯していたが、その行事板には米軍上陸予想月日が掲示され、上陸近しを感じさせるほど、戦局は緊迫していた。
 8月21日ー焼けつくような酷暑の中、那覇港近くの西新町広場に集結した。何しろ一般疎開を含めて約5千人に及ぶ大集団に、それを取り巻く見送り人で混雑を極めていた。(略)港外には護衛艦二隻と輸送船三隻の、計五隻編成の船団が待っていた。輸送船はいずれも、陸軍所属の老巧化した数千トン以上の貨物船だと言われていた。それは和浦丸、対馬丸、暁空丸であった。島尻地区は最初、対馬丸に割り当てられていたが、いつの間にか和浦丸に変更され、対馬丸には那覇地区が割り当てられていた。対馬丸は僚船三隻中、最も外観が良かった。真偽のほどは不明だが、那覇地区のクレームによって変更されたとのうわさが流れていた。船団は午後7時ごろ錨を上げ、ゆっくり動き出して港を後にした。行く先は長崎港、疎開先は熊本県日奈久町である。・・・

 津嘉山朝吉・引率教諭「与那原国民学校第二次学童疎開」わが子を戦火にさらすより疎開させようと、学童疎開を希望する残余の生徒が集められた。時の新垣隆一校長の強い要請により、最終的に私が引率教師となった。昭和19年9月15日には、学童疎開第二陣(学童数40人、安里国民学校の5人を含む)として、輸送艦「室戸丸」で那覇港を出航した。室戸丸が最後の学童疎開船だったようだ。9月24日ー室戸丸、鹿児島に入港(錦生旅館に投宿)。9月30日ー疎開先の熊本県湯浦町(現芦北町湯浦)に到着。宿舎は寿旅館。湯浦国民学校に転入。

対馬丸犠牲者(1、484人)の慰霊碑・小桜の塔/対馬丸犠牲者「刻銘板」与那原出身は瑞慶村マカト、瑞慶村光子、長嶺澄子

対馬丸犠牲者「刻銘板」粟国出身は玉寄オツル、玉寄マサ子、玉寄恵美子/海鳴りの像-赤城丸犠牲者(406人)・嘉義丸犠牲者(368人)・開城丸犠牲者(10人)・湖南丸犠牲者(577人)・台中丸犠牲者(186人)

1983年4月雑誌『青い海』№122 「座談会ー海の戦後はいつ終わるー戦時遭難船の遺族は訴える」出席者・湖南丸遺族会・赤嶺広吉、大城敬人/嘉義丸遺族会・吉本英吉、仲宗根トヨ/赤城丸遺族会・又吉久全、翁長春元 司会・玉城朋彦


儀間比呂志「モニュメント『海鳴りの像』戦後の沖縄の心は『戦はならんどー』である」

     
写真ー全員対馬丸に乗り込んだ学童たち。後列左から4人目 山里昌男14歳(翁長良明所蔵)

 「日の本」2014年8月16日12時33分秋篠宮ご夫妻は16日、長男・悠仁さまらお子さま方と東京・新宿の京王プラザホテルを訪れ、戦時中に約1500人が犠牲になった「対馬丸事件」の慰霊の集い「学童疎開船を語り継ぐつどい2014」に出席した。会場で、秋篠宮ご一家は「対馬丸事件」の生存者らとともに黙禱(もくとう)し、犠牲者をしのんだ。続いて、沖縄県から参加した小学生が、生存者の仲田清一郎さん(78)に質問するコーナーがあり、悠仁さまは長女・眞子さま、次女・佳子さまと熱心に聴き入っていた。また、ご一家は対馬丸事件関連の展示も鑑賞。悠仁さまは紀子さまの説明を受けながら、生存者が当時の様子を描いた絵などに見入っていた。

 仲田清一郎2020-5-12 秋篠宮ご一家の前で20分間対馬丸についてお話致しましたが、主催者から与えらた時間内ではとてもお話しできるものではなく、今でも心残りがしています。その後も秋篠宮様にはお会いする機会がありましたが、TV画面と違って、男前といった感じでした。また紀子様は琉球舞踊を習われた方で、外間守善先生のセミナーに参加され私も近くで拝見しました。また小学2年生の悠仁親王が気を付けの姿勢で私にお辞儀をされたのと、20分間姿勢をお崩しにならなかったのも驚きでありました。


1990年6月 『川嶋紀子さんの魅力のすべて』ブレーン出版/1941年2月 『元大阪市長池上四郎君照影』元大阪市長池上四郎君彰徳會

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2023-3 ライブハウスの一角に「あいち沖縄文庫」誕生 800冊、渡久地政司さん、阪井芳貴さんらが寄贈 


1971年8月 雑誌『青い海』4号 渡久地政司「角を磨け、素っ裸になれー選挙・議会・若者のことなどー」

1987年8月 『やまとの群星/関西で活躍する沖縄の県人たち』琉球新報社 「渡久地政司」→本書は元『青い海』編集発行人で作家の津野創一が編集協力した。

愛知の中の沖縄 事柄覚  渡久地政司作成



愛知沖縄県人会連合会総会・ゆんたく会・敬老会■ 2019年3月10日 豊田市鴛鴨町・鴛鴨公民館
最長老の屋嘉比信子さん(95)と比嘉俊太郎さん(80)屋嘉比さんは名古屋市今池で沖縄料理「糸満」を30~50年前に経営されていた方です。比嘉さんは、那覇高→名古屋工業大学→愛知工業大学名誉教授→愛知沖縄県人会連合会会長をなさった方です。お二人ともお元気でした。

1986年3月、琉球新報の松島弘明記者から、名古屋、三重のウチナーンチュの取材で大阪に来るという葉書(中城城跡)をもらった。後に琉球新報大阪支社に行き、私も旧知の人たちに会いたく名古屋に同行した。名古屋の県事務所の職員は大阪の県事務所でなじみのある人たちばかりであったので名古屋、三重のウチナーンチュ情報はすぐに得られた。
松島記者は取材過程で、「愛知県沖縄県人会会員名簿」「でいごの会会員名簿」(1974年10月)、「三重県沖縄県人会名簿」(1974年)、「沖縄県名古屋経営者会名簿」(1985年)などを入手した。麦門冬・末吉安恭の甥の佐渡山安正、佐渡山安治さん兄弟、粟国の末吉和一郎さんの取材には同行した。大濱皓氏は病気で会えなかった。
2010年1月31日、沖縄文化の杜で仲村顕さんから愛知の沖縄の話を聞いた。豊橋市に田島利三郎、犬山市には久志富佐子の墓があるという(後日、墓の写真も見た)。


1965年7月 名城大学沖縄県人会『南端』(責任者・糸数哲夫)
糸数哲夫
昭和36年ー那覇高校卒。昭和44年ー名城大学大学院法学研究科修、商学修士、法学修士。昭和44年ー名古屋在加茂会事務所入所。昭和50年ー那覇市にて税理士事務所開業→現在は沖縄県宜野湾市字我如古。

 大阪・沖縄関係資料室で『阿姓家譜』(阿姓南風原按司守忠 7世西平親雲上守安4男)の原本を見たことがある。資料室主宰の西平守晴氏が実兄から譲られたものである。複製本が那覇市歴史博物館にある。『氏集』を見ると、阿氏には前川、渡名喜、西平、小濱、渡嘉敷、宮平、瀬良垣、伊舎堂、與儀、喜瀬、山元、安和、佐久田、眞謝、江田、金城、照屋の諸家がある。
 名古屋の渡久地政司(とぐち まさしー1937(昭和12)年6月2日、大阪市で生れる。豊田市で育つ。73歳、第3の人生のスタート。体と思考を「解す」だけでなく鍛える。)氏のブログに氏の調査で「○ 太田守松  父渡名喜守重、母なべの長男として沖縄県那覇市東町1丁目20番地で明治35年(1902)生まれる。泉崎小学校、沖縄1中卒、神戸高等商業学校卒。滋賀県立彦根商業学校教諭(大正14年4月)。昭和3年短歌会『国民文学』に入社・植松寿樹に師事。以後、短歌運動。昭和22年3月、日本キリスト教団彦根教会で洗礼。1947年(昭和22年10月)、渡名喜姓を先祖が使用していた太田姓に改名。昭和23年、彦根市立西中学校校長。昭和27年、彦根YWCA創立理事長。昭和34年、井伊大老開国百年祭奉賛会事務局次長。昭和38年、原水爆禁止彦根市協議会会長。昭和45年1月、脳溢血で逝去(67)。
○ 太田菊子  父豊見山安健、母オト(1882年生まれ)の長女として 1905年(明治38)沖縄県那覇市で生まれる。沖縄県立第1高等女学校卒業1921年(大正10)、東京山脇高等女学校卒業1924年(大正13)。大正14年12月、渡名喜守松と結婚。平成5年(1993)逝去(88)・1962年(昭和37年2月)。長年同居の母オト逝去(80歳)。」と太田守松と夫人が紹介されている。守松氏も阿氏である。


2019年3月5日 寒緋桜 満開■沖縄・名護市の農事試験場をルーツにする寒緋桜が満開となりました。場所は宮上公園東側とその後方。3月5日、青空をもピンクにしかねないくらいの勢い、通行中の人々は「まぁ奇麗」の歓声をあげていました。

「渡久地政司ブログ」(略記)2005年7月28日 
■ 愛知の中の沖縄 事柄覚 ■
● 名古屋市東区徳川町にある徳川美術館には、琉球王国の文化財が多く収蔵されている。…徳川美術館に20点の琉球楽器、むかし御座楽(うざがく)に使われた楽器が保存
…、寛政8(1796)年に江戸上がりの使者から贈られたという記録が残って…出自がはっきりしているのは、日本中で徳川美術館の楽器だけ…。
  大野道雄「徳川美術館の琉球楽器」から抜粋。
● 琉球王国賀慶使・恩謝使(琉球国使江戸上がり)が1610年から1872年までの間、18回おこなわれている。上がり、下がりを入れると約34回、愛知の土地を通過している。
1610(慶長15)年の場合、上がり…8月2日美濃大垣泊、3日尾張清州・成興寺泊、5日岡崎泊、6日吉田(豊橋)泊。下り…9月22日木曽福島泊、24日美濃路落合泊、27日岐阜本誓寺泊…であった。
 佐渡山安治(詳細は後記)の調査によれば、寛延(1749)年の江戸上がりの時に殉死した「麻氏渡嘉敷親雲上真厳玄性居士之墓」(古塚達朗「江戸上りの足跡」96-4-2沖縄タイムスでは墓は行方不明とある。しかし、佐渡山安治資料「寛延2年の墓碑」76-3-28沖縄タイムスでは、所在地を発見、と写真入りの記事がある。)と天保3(1832)年に殉死した富山親雲上の墳墓が名古屋市緑区鳴海の瑞泉寺にある。佐渡山安治資料昭和54-12-14沖縄タイムスには、…11月4日、26年ぶりで待望の琉球行列を名古屋に迎える段になって「琉球人通行朝7ツ(午前4時)より本町通京町其外通りに提灯をだし賑合、此日薩摩五ツ過(午前8時)頃御通行、琉球人の行列に先立って、稲葉宿から棺桶が一つ、ひっそりと運ばれて…」。
● 明治26(1893)年9月1日から10日ま で名古屋市で沖縄芝居の興行が行われている。御園座の近くにあった千歳座(広小路南桑名町)。出し物は女花笠踊、上りの口説、下りの口説、女団扇踊、国頭(クンジャン)さばくいなど…、全部ウチナーグチで演じ、客の入りはよくなかったようで、入場料の値引きをしている。明治30(1897)年6月13日、再び名古屋を訪れ、南伏見町の音羽座で公演している。 大野道雄資料から抜粋。

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2018年8月23日NHK沖縄

 [大弦小弦]子どものころ読んだ絵本というのは、記憶の深いところに… 沖縄タイムス 2018年7月22日
 子どものころ読んだ絵本というのは、記憶の深いところに保存され、簡単には失われない。県立博物館・美術館で開かれている個展「儀間比呂志の世界」で絵本「かえるのつなひき」を見て実感した
▼題名には覚えがないのに、作中のカエル「ちゃすがやー」のせりふや、彼らが1列になって踊る姿に懐かしさを覚えた。絵本の存在は、儀間さんの作品が世代を超えて支持される理由の一つ
▼戦争をテーマにした作品だけでなく、民話風な題材でも、弱い者や民衆に寄り添う確固としたメッセージを込めた。例えば「ふなひき太良」は台風被害で苦しむ島の人々に理不尽な要求をする役人を、主人公の太良が懲らしめる話だ
▼展示会は昨年4月に亡くなった儀間さんの版画を中心に、100号サイズの油彩画やレリーフなど約90点を集めた。大胆な構図が見る者に迫ってくる沖縄戦を描いた版画、鮮やかな色彩が美しい琉球舞踊を描く手彩色の作品
▼大阪で、故郷沖縄の人々や、伝統文化の魅力を表現しようと奮闘し続けたエネルギーが会場中に満ちている。展示作からは版木に押し付けられたバレンの圧までが伝わる
▼「ふなひき太良」の後書きで「いまでも沖縄の人たちは、自分たちのほんとうの生活をかちとるために、たたかい続けています」と書く。力強い作品群は私たちにパワーを与えてくれる。(玉城淳)

2018年7月19日 NHK沖縄放送局 「沖縄 NEWS WEB 版画家儀間比呂志さんの作品」那覇市出身の儀間比呂志さんは、沖縄戦の体験者の話をもとにした作品や、沖縄の風土や歴史に根ざした作品を描き続け、去年、94歳で亡くなりました。展示会は儀間さんを追悼し、多くの人に作品について知ってもらおうと、那覇市の県立博物館・美術館で開かれています。このうちガマの中で旧日本軍の兵士が銃剣で住民を突き刺す瞬間を描いた作品は、「皇軍は勇戦した」というタイトルが付けられていて、旧日本軍への痛烈な皮肉が込められています。
また、絵本作家としても活動した儀間さんの代表作、「ふなひき太良」の原画17点も展示されていて、飢きんに苦しむ村人から年貢をとろうとする薩摩の役人を追い払う様子が生き生きと描かれています。県立博物館・美術館の豊見山愛主任学芸員は、「儀間比呂志の多才で多作な表現に触れて頂ける展覧会なので、多くの人に見てもらいたいです」と話していました。


2018年7月18日 写真左から新城栄徳、儀間にデザインを依頼した皿を持つ早野充氏、豊見山愛さん(撮影・町田恵美さん)/皿の原画(所蔵・ギャラリー象)〇早野氏は沖縄都ホテル総料理長のときペリー料理再現に取り組んだ。経緯は1985年11月『南島』に「ペリー艦隊の招待料理―その再現経過― 桑原守也 早野充 」として記されている。

2018年7月13日 RBCニュース「儀間比呂志展始まる」
2018年7月13日 OTV ニュース「儀間比呂志展」(儀間比呂志の生前の動画)

2018年07月13日(金) ~ 2019年01月06日(日) 沖縄県立博物館・美術館 コレクション展「儀間比呂志の世界展 」
儀間比呂志(ぎま ひろし1923-2017)は、沖縄の画家、版画家であり、絵本作家です。郷土を愛する情熱的なメッセージを込めた絵本は、沖縄の民衆に根ざした歴史を伝え、多くの子どもたちの心を虜にしました。人物描写を得意とする儀間作品の特徴は、南方系の女性を太く黒い線で描いた油絵や、沖縄の美しい風土、その美しさを奪った戦争などをテーマにした木版画で、1970年以降は版画に専念します。
本展は、2017年に他界した儀間比呂志による油絵、木版画を中心とした追悼展です。

1995年9月 『島を出た民の戦争体験集』沖縄県人会兵庫本部/2017年5月『榕樹』第426号


山田薫氏、儀間進氏、山田聡氏/謝花聡恵さん、玉那覇英人氏、富原圭子さん

喜友名ひとみさん、新川明氏、儀間進氏/儀間進氏、山田和子さん、渡口彦邦氏

写真左から田名真之氏、儀間進氏、新川明氏、平良京子さん

儀間進氏と田名真之氏/山内栄氏


儀間ファミリーと池原盛浩氏(右)/儀間ファミリーと田名真之氏(左)

儀間進氏、喜久村徳男氏/兄・比呂志の遺影の前で儀間進氏



2018-7-14『沖縄タイムス』「沖縄を彫った版画家 儀間比呂志さん追悼展開幕 写真ー生前の儀間さんと親交のあった山内栄氏」

2018-7-14『琉球新報』

原爆の図 丸木美術館「追悼・儀間比呂志展」

2018年8月15日『埼玉新聞』「儀間比呂志 沖縄を描き続けた版画家 丸木美術館(東松山)」

2018年8月18日『毎日新聞』「版画で伝える沖縄戦 儀間比呂志さん追悼展」/8月21日『沖縄タイムス』「埼玉丸木美術館で儀間比呂志展」


大濱聡2020-6-26

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左から古謝景進氏、儀間比呂志さん

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1976年9月『青い海』56号 宮城篤正「浦添の文化財散歩」


2018年10月 『うらそえ文藝』第23号「特集・宮城篤正」


2019年1月6日『沖縄タイムス』「週刊沖縄空手第93号-宮城篤正さん(79)」


写真左から宮城篤正氏、平川信幸氏、倉成多郎氏、前田孝允氏、新城栄徳、佐藤文彦氏、翁長良明氏

1913年
6月ー『琉球新報』大崎範一「琉球の陶器問題」連載

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昭和期ー沖縄県物産大連斡旋所主催「琉球古典焼漆器即売会」

1970年7月ー『ヤチムン研究会誌』創刊号□事務局・那覇市首里大中町1の1琉球政府立博物館内

1971年
8月ー『ヤチムン会誌』第2号□事務局・琉球政府立博物館内

1972年
3月ー『琉球の文化』<特集・琉球の焼物>創刊

8月ー『ヤチムン会誌』第3号□編集責任・宮城篤正(沖縄県立博物館)
10月ー大城精徳、宮城篤正『琉球の古陶ー古我知焼』琉球文化社


1973年
12月ー『やちむん』<特集・壺屋>□編集ヤチムン会(宮城篤正)発行・琉球文化社

1975年
4月ー『やちむん』第5号□編集責任・宮城篤正(沖縄県立博物館)
1977年
5月ー『やちむん』第6,7号<特集・沖永良部島>□沖縄県立博物館(宮城篤正)
1979年
10月ー『沖縄の名匠・金城次郎陶器作品集』沖縄タイムス社
10月ー『図録・沖縄の古窯』やちむん会□沖縄県立博物館内(宮城篤正)
1984年
10月ー『やちむん』<特集・浜比嘉島>第8号□事務局・琉球文化社内

1986年
7月ー『やちむん』第9号□事務局・琉球書院内
1987年
12月ー『企画展・現代沖縄の陶芸ー天野鉄夫コレクション』沖縄県立博物館
1989年
8月ー小渡清孝「沖縄の古窯」(第179回沖縄県立博物館文化講座)



1991年9月ー『企画展・壺屋陶工遺作展』沖縄県立博物館
1996年
11月ー『沖縄の古窯・古我知焼』名護博物館
1998年
2月ー『壺屋焼物博物館常設展ガイドブック』
2001年
1月ー『企画展・くらしの焼物』宜野湾市立博物館
2004年
9月ー宮城篤正監修『翁長良明コレクション・琉球の酒器』



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宮城篤正「星雅彦さんを悼む」




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1984年3月 雑誌『青い海』130号「特集・沖縄味覚徒然/」泡盛と琉球料理

1980年9月ー藤井つゆ『シマ ヌ ジュウリ』道の島社1981年
1月ー日本調理師協会『協調』「沖縄に招かれて」(写真)
12月ー日本調理師協会『協調』「沖縄県支部第4回・秋の料理大講習会」(写真)
1982年
1月ー日本調理師協会『協調』「沖縄県支部料理講習会」(写真)
2月ー日本調理師協会『協調』「琉球料理献立」(写真)
沖縄県調理師協会(安里幸一郎会長)『沖調会報』創刊号
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1983年9月 『沖縄ハーバービューホテル 10年のあゆみ』琉球総合開発
1983年 日本調理師協会誌『協調』「写真ー沖縄秋の料理大講習会」

1984年
1月ー沖縄の雑誌『青い海』120号<沖縄そばと生活文化史>
9月ー沖縄ハーバービューホテル調理部『沖縄の素材を生かす西洋料理』新星図書出版
1985年
1月ー沖縄調理師協会『沖調会報』第7号□略歴・中村喜代治、玉寄博昭、山川敏光、福永平四郎
1月ー日中調沖縄県支部『交友誌』
4月ー安里幸一郎『沖縄の海産物料理』新星図書出版
6月ー石川調理師会『石調だより』第2号
7月ー『月刊専門料理』<創刊20周年記念号>柴田書店

1985年11月『おきなわJOHO』「中ノ橋食堂」

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昭和60年度「現代の名工・調理師部門」左から村上信夫氏、土井廣次氏、安里幸一郎氏

1987年3月 日本調理師協会誌『協調』「写真ー昭和62年度 沖縄県調理師連合会新年の集い」/辻元亮裕「沖縄調理師会新春総会」
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1988年4月ー柴田書店書籍部『味を奏でる人たち』「安里幸一郎(魚安)ー沖縄から本土へ、そして沖縄へ」
1988年4月 喜屋武マサ『沖縄豆腐料理80選』那覇出版社
1988年4月 『聞き書 沖縄の食事』農文協
1988年9月 『塩浜康盛追想集』(ホテル球陽館館主、沖縄ペルー協会初代会長)
1989年6月27日『琉球新報』「コンベンションセンターで第27回全飲連全国沖縄県大会ー21世紀の食文化は沖縄から」
1990年5月 『東急ホテルの歩み』東急ホテルチェーン

1991年8月ー(社)日本全職業調理士協会『料理四季報』<沖縄特集・沖縄 夏の料理>表紙□安里幸一郎「調理一言ー郷土料理は、『土産土法』という料理の原点である。郷土の素材を開発し、料理人として満足のいく献立を作っていくことが、調理師の使命であろう。さらに召し上がる人のことを念頭におき思いやりという心の薬味を添えたいと思って、常に庖丁を握っている。」
1993年1月ー『FUKUOKA STYE ⅤoⅠ.6』「特集・屋台ー食文化と都市の装置」
1993年11月27日『沖縄タイムス』「土曜グラフィックス こんにちは外国のおコメ」
1994年5月18日『琉球新報』「ビジュアル版 コメ戦争ー崩壊寸前の食管制度」

1997年 『サライ』大8号「中華街ーチャイナタウン三都物語」

2000年11月 リゾート時代の波受け「那覇東急ホテル」閉館

2002年3月3日『沖縄タイムス』新城栄徳 書評/中田謹介『笹森儀助「南島探検」百年後を歩く』編集工房風

沖縄にかかわりのある東京の編集者といえば、岩波書店を辞めて『酒文化研究』を創刊した田村義也氏などが浮かぶが、本書の著者・中田謹介氏も農文協(社団法人農山漁村文化協会)に36年間勤め『日本農書全集』(第34巻は沖縄編)や、『日本の食生活全集』(第48巻は沖縄の食事は沖縄タイムス出版文化賞を受賞)などの企画・編集に携わった。そして沖縄近世文書探索の先に明治の3大探検家の一人といわれた笹森儀助に出会い、その著『南島探検』が描いた沖縄と中田氏が見た沖縄によって本書が生まれた。
本書はまず笹森のいう女の元服「入墨」(針突)にふれ「いま沖縄で入墨をした女性を見るのは困難である」とし、知人たちのそれぞれのおばあさんの思い出を記し、友人を介して手に入墨をした老人ホームのおばあさんに面談する。次に風土病(マラリア)について「八重山の歴史は、マラリアとの闘いの歴史といっても過言ではない」と戦争マラリアにもふれ、昨今の「癒しのシマ」とか言われ観光ボケした”沖縄土人”が忘れがちなことを思い出させる。
「首里城の語る百年」の項では、前出の編集にかかわった尚弘子、新島正子、仲地哲夫の諸氏に首里城復元についての感想を聞いている。そしてドイツ人の著した『大正時代の沖縄』を引用し「たまたま偶然に居合わせた一人の建築家(伊東忠太)の干渉によってー」、首里城はからくも消滅を免れたとある。が、たまたまではなく、鎌倉芳太郎が沖縄からの新聞を見て伊東に首里城正殿の取り壊しを報告。そして伊東が内務省から取り壊し中止の電報を出し、尚侯爵家で神山政良、東恩納寛惇らと協議を成し沖縄調査に赴いたものである。
本書は編集者が、どのように本を作っていたのか、どう沖縄に向かい合っていたのか分かり資料的にも価値がある。終わりに中田氏の川柳「ヘリポート生むは騒音サンゴの死/普天間の移設皇居が最適地」を紹介する。中田氏を、こころ優しき無頼派と見た。

2004年10月19日『琉球新報』「ビジュアル版 キノコの世界」

2008年10月29日『琉球新報』「ビジュアル版 世界の肥満事情」


2017年11月 鄔揚華(ウ・ヤンファ)『御冠船料理の探究 文献資料と再現作業』 出版舎Muɡen

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左から、新城栄徳、鄔揚華さん、天願恭子さん
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湖城渓南の書を観る鄔揚華さん、屋部夢覚氏


青山恵昭 2019-5-10 〇今日の〝黒糖酒記念日〟は笠利出身の友人からいただいた「里の曙」を、スクトーフをつまみにして嗜むことにしよう!そして、父の生マリジマ・ゆんぬの「島有泉」で仕上げよう。人口11万余の島々に蔵元が18もあるってスゴイ!


料亭那覇

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1973年12月 沖縄の雑誌『青い海』1月号 通巻19号 新島正子「ドゥルワカシー」

1938年『琉球新報』「令女考現学」
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新島正子さん


新島正子ー1965年12月『守礼の光』83号から料理紹介


1971年4月 新島正子『琉球料理』新島料理学院


1983年3月 新島正子『私の琉球料理』柴田書店


1986年12月ー新島正子さん、新城三郎に厚生大臣表彰


写真左から由井晶子さん、新島正子さん、新城栄徳

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新島正子『夢おいかけて』に大阪時代の写真に新今里、天王寺舟橋(昭和29年7月移転)の医院が写っている。
正子さんの夫君・盛夫氏が経営していたが、盛夫氏は昭和29年11月に脳溢血で死去、享年48歳であった。

正子さんの父君は古波倉正栄医学博士で、その追悼集『面影』には正栄博士が琉球結核予防協会副会長であったので結核予防協会専務理事の川平朝申氏装画がある。當山堅一『傘寿を越えて』も當山博士は、川平朝申氏の義兄弟で結核予防協会那覇診療所所長もつとめていたのでやはり川平氏の装画がある。

1940年2月、東亜出版社から発行された新垣恒政『醫療宣撫行』は当局の指示で切り取りが多い。

山川文信歌集『還暦』(1958年11月)には金城清松、古波倉正栄、久高将旺、大山岩蔵、上地一史、山城篤男、川平朝令、志喜屋孝信が文章を寄せている。

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「くろねこの短語」2019年2月14日-(前略) ペテン、ひょっとこ、貧相の3悪人が、統計偽装に深く関わっていることは、状況証拠からはほぼ間違いないんじゃないのかねえ。でなけりゃ、厚労省の役人が何の得にもならない統計偽装に手を染めるわけがありません。
ところで、官邸による東京新聞の望月記者の口封じ工作なんだが、「事実に基づかない質問を繰り返している」という言い掛かりについて、顔も頭も貧相な官房長官・ガースーが改めて「事実に基づかない発言は控えてほしいという依頼をした。それに尽きる」とドヤ顔したってね。バカ言ってらあ。事実かどうかを確認するための質問じゃないか。それが官邸の広報マンである官房長官の会見というものだ。こんな言い草が罷り通るようになっちゃ、世も末ってもんだ。
 最後に、「がっかり」発言のカーペンター桜田君だ。なんと、オリンピック担当でありながら五輪憲章を読んでないってね。「話には聞いているが、自分では読んでいない」って答弁したそうで、「話には聞いているが」ってバカじゃないの。そう言えば、こやつはサイバーセキュリティ担当でありながら、「USBって何ですか?」と発言して、世界中が目ン玉飛び出るほど驚いたんだよね。こんなポンコツが適材適所ってんだから、そんなのを任命したペテン総理もまた度し難いポンコツってことだ。

 「くろねこの短語」2019年2月13日「悪夢」発言をめぐる国会論争を「泥仕合」と矮小化するテレビ朝日の体たらく!&徴兵制をイメージさせる「自治体6割が自衛隊募集に非協力的」発言の危うさ!!水泳の池江璃花子が白血病というニュースはなんとも痛ましい。とにかく祈るしかないのだが、なんとまあオリンピック担当大臣であるカーペンター桜田君が「期待している選手なのでガッカリしている」「盛り上がりが下火にならないか心配」と発言して炎上している。どうしてこうも無神経な言葉を吐けるのかねえ。政治家以前に人として問題だろう。人として問題とくれば、その筆頭が初老の小学生・ペテン総理だ。昨日の国会では、「悪夢」発言をめぐってフランケン岡田君とやりあったんだが、終始薄笑いを浮かべて「言論の自由」だとさ。そうかいそうかい。だったら、これからは「詐欺師」「ペテン師」嘘つき野郎」「低脳」「愚鈍」etcなんて罵詈雑言も、遠慮なくぶつけさせてもらいまっせ。なんてったって、言論の自由なんだから。
 さらに、こんな思いつくままの何のエビデンスもない下衆発言してます。「悪夢でないというなら、なぜ民主党という名前を変えたのか。イメージが悪いから変えたんだろうと推測する人たちがたくさんいる」しかしなんですな、イメージが悪いから名前変えたんだろう」ってんなら、これまでさんざん言い換えや言葉のすり替えをしてきたってのは、「イメージが悪い」という自覚があったってことになるね。語るに落ちるとはこのことか。


 「くろねこの短語」2019年2月12日-(統計偽装のドサクサにまぎれて加計学園とズブズブの萩生田君がよからぬことを口走っている。なんでも、統計偽装を厚労省の役人にすべておっかぶせることで、あたかも霞ヶ関改革のように見せかけて内閣人事局の権力をさらに強化しようとているんだとか。曰く、「(採用の)最終決定権は人事院や、せっかく内閣人事局をつくったんですから、“外の目”で最終決定したらいいと思う」つまり、幹部人事だけでなくすべての官僚の採用までも牛耳ろうというわけだ。そうなったら、採用された官僚は官邸が雇い主みたいなもんなんだから、そりゃ忖度しまくるのは目に見えている。ていうか、そうしなければ出世も覚束ない。統計偽装なんてのはお茶の子さいさい、官邸の言いなりに公文書改竄なんてのは当たり前になっちまうだろうことは容易に想像がつこうというものだ。
 内閣人事局に官僚の採用権なんか許したら、公僕なんて言葉はもうなくなりますね。権力の犬だらけの霞ヶ関となって、この国はひたすら滅亡への道を歩み続けることになるでしょう。それにしても、こういう声が初老の小学生・ペテン総理の周辺から上がっていることに、なんで新聞・TVは鈍感なのかねえ。それとも鈍感の振りをしているのか。報道番組からは、政権への怒りはまったく感じられず、どいつもこいつも他人事のように評論家面しておざなりなこと言うばかり。そして、最後はお決まりの「野党がだらしないから」で終わるんだよね。ジャーナリストとしての矜持も誇りもないくせに、一般サラリーマンの平均給与をはるかに上回る高給を手にするんだからお気楽なことだ。きっと、戦前もこんなんだったんだろうなあ。「我々が歴史から学ぶことは、人間は決して歴史から学ばないということだ」・・・ヘーゲルの言葉が身に沁みる寒さもピークの冬の朝であった。

 「くろねこの短語」2019年2月9日-(前略) 舐めてるってくれば、大西なんたらと共に出席した特別監察委員会委員長の樋口美雄シェンシェイだ。なんと、監察委の再調査について質問されて、「監察委員会ではなく、独立行政法人の理事長の立場で国会に呼ばれている」とぬかして答弁拒否しやがりました。どこ向いた調査していたかわかろうというものだ。
 新聞・TVの論調は野党のだらしなさに集中しているけど、この樋口なんたらの舐めた態度はそれ以上に糾弾されるべきだろう。それにしても大西、樋口、そして官房長の定塚の偽装トリオを見ていると、蛙のツラになんとやらなんて言葉が脳裏を掠める予算委員会なのであった。

 「くろねこの短語」2019年2月7日-(前略) 首相「森羅万象すべて担当」 でも統計不正報告書は未読
 それにしても、「森羅万象」とはねえ。てことは、「何でもアベのせい」ってのはある意味正しいってことね。「森羅万象」とは「あらゆる現象、宇宙に存在する一切のもの」を意味しているんだから、雨が降ろうが槍が降ろうがすべての責任はペテン総理にあるってことだ。



 「くろねこの短語」2019年2月4日ー「アベノミクス」は「安倍のみクズ」・・・こんな洒脱な言葉をネットで見つけて思わずニヤリの月曜の朝である。でもって、もうひとりのクズ、ひょっとこ麻生が性懲りもなくど阿呆ぶりをさらけ出してくれたってね。なんでも、地元・福岡での会合で、少子高齢化についてこんなクズ発言したそうだ。「いかにも年寄りが悪いという変な野郎がいっぱいいるけど、間違っていますよ。子どもを産まなかった方が問題なんだから」確か、こやつは以前に「90になって老後が心配とか、訳の分からないことを言っている人がテレビに出ていたけど、『お前いつまで生きているつもりだ』と思いながら見ていました」ってぬかして、「老人はとっとと死ねってことか」と顰蹙買ったことがあった。
 ようするに、こやつの発言ってのは、いつだって銀座のクラブでネーチャン相手にオダ上げている類のものなんだね。金持ちの老人のたわ言ならまだしも、こんな下衆な男が総理大臣だ、財務大臣だってでかい面していることにこの国の悲劇がある。子供を産む産まないは個人の自由だし、なによりも産みたくても産めないひとだっているんだよね。そうしたひとたちへの最低限の配慮ができないほどに愚鈍だってことだ。どうせな阿呆なら、いっそのことペテン総理に言ってやれ。「子どもを産まなかった方が問題なんだから」ってさ。

 「くろねこの短語」2019年2月3日-(前略)でもって、この脅迫まがいの文書は、総理大臣官邸報道室長の上村秀紀の名前で送られているんだね。先の東京新聞への抗議文もこの男の仕業で、記者会見では「簡潔にお願いします」なんて茶々入れて望月記者の質問をどうにかなきものにしようといつも汗かいている御仁だ。
 それはともかく、いち記者の質問を規制しろと言わんばかりの文書を記者クラブに送りつけるってことは、いわゆるひとつの言論封殺と言っても過言ではない。この文書が送りつけられたのは昨年末のことだそうだが、いまだに記者クラブから抗議の声が聞こえてこないってことに、この国のメディアがいまどんな悲惨な状況に置かれているかわかろうというものだ!!




2019年1月31日『しんぶん赤旗』「福島第一事故から8年ー汚染水タンク増え続けー毎日約100~150トン余裕わずか」

 「くろねこの短語」2019年1月28日-(前略)最後に、昨夕、テレビ朝日『サンデーステーション』を観ていたら、突然、アナウンサーが「ニュースの途中ですが速報です」と一言。何事かと身構えたら「嵐、活動休止」だとさ。いやあ、ずっこけました。しかも、2年先の話だと。これからの2年間を解散ビジネスで稼ごうというジャニーズの広報だったってわけだ。NHKも相撲中継中にテロップで速報を流したとか。世界で一番芸能ニュースが多い国と揶揄されるのもむべなるかなってことだ。

「くろねこの短語」2019年1月24日-(ワシントン・ポストによれば大統領に就任して以来のトランプの嘘が8158回なんだとか。これを朝日新聞が記事として取り上げているんだが、そんなことより初老の小学生・ペテン総理の嘘をしっかりと検証するのが社会の木鐸としての務めじゃないのか。そんなことより、会員情報を捜査令状もなしに警察に提供していたTカードの不埒さだ。厚生省の「毎月勤労統計」の違法調査や日ロ首脳会談なんかが重なって、あまり大きなニュースになっていないようなんだが、これってキャッシュレスがデフォルト化される時代にあってかなり深刻な問題なんだね。
 なんてったってカードってのは個人情報の宝庫ですからね。これを警察が捜査令状もなしに勝手に利用できるってことになったら、プライバシーなんて雲散霧消しちゃいます。会員情報の提供を会員に内緒で、しかもそこには何の躊躇いもないTカードは企業倫理のカケラもないってことだ。業務停止どころか、カード業界から退場させるべきだろう。そして、こうした情報提供がTカードだけではないかもしれないという不安に苛まれる今日この頃なのだ。

 「くろねこの短語」2019年1月23日-(前略)「さて、話変わって、日ロ首脳会談だ。共同記者会見で、初老の小学生・ペテン総理は、こうのたまった。「相互に受け入れ可能な解決策を見出すための共同作業を力強く進めていく決意をプーチン氏と確認した」 ははは、いまさらこれかい。こんなんでわざわざロシアまで私人の嫁連れて遠足に行かれちゃ、たまったもんじゃありません。ようするに、プーチンに軽くあしらわれたってことなんだね。いみじくも、ヤッシー田中君がfacebookでこんな書き込みしてました。
ウラジミール・プーチン大統領の三段論法????????共同記者発表not記者会見
①1956年の日ソ共同宣言に基づく日露平和条約締結への安倍晋三首相の意欲を確認した
②(平和条約締結に向け)骨が折れる作業が今後控えている
③日露平和条約は両国の国民に受け入れられ、世論に支持されるものでなくてはならない
 こうやって経済援助だけ引き出されて、ズルズル行くが関の山なんでしょう。ペテン総理の外交とは会談することと見つけたり、ってなもんです。

 「くろねこの短語」2018年12月31日 年末恒例、笑いおさめ! シンゾー阿呆語録!! 皆さま、良いお年を!!
初老の小学生・ペテン総理の年末は、ゴルフ三昧と鮨友との酒池肉林。なんとも、いい気なもので。



『朝日新聞』12月29日ー衆院沖縄3区補選(来年4月21日投開票)で、自由党が擁立するジャーナリストの屋良朝博(やらともひろ)氏(56)が29日、沖縄市で記者会見し、立候補することを表明した。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画に反対する立場で、玉城デニー知事を支える「オール沖縄」勢力の候補として支持を訴える考えを示した。補選は、自由党幹事長だった玉城氏の知事転出に伴うもの。沖縄3区は辺野古を抱える選挙区だ。
〇2,012年12月9日の15時、ジュンク堂那覇店1階エスカレーター横特設会場にて、佐藤学(沖縄国際大学教授)さんも交えて、「誤解だらけの沖縄・米軍基地」発売記念 特別講演会。
屋良朝博(フリーランサー・元沖縄タイムス論説委員)×岡留安則(ジャーナリスト・元「噂の真相」編集長)×佐藤学(沖縄国際大学教授) 特別講演会


屋良朝博氏、 岡留安則氏、佐藤学氏

元「噂の真相」編集長・岡留安則が2019年1月31日0時16分、右上葉肺がんのため死去いたしましたことを、「噂の真相」元スタッフ一同より、ご報告。2016年に脳梗塞を発症し、その後、肺がんが発見されたため、治療につとめておりましたが、力尽き、那覇市内の病院で息を引き取りました。享年71でした。→リテラ

大濱聡「岡留安則さんを偲ぶ会」

 「くろねこの短語」2018年12月29日ー(前略)・大納会の東証は下落、2万円台は維持 7年ぶり年間下落 ・ETF 6・5兆円過去最高 日銀の株式買い、歯止めなく

 ところで、辺野古の海を埋立てている土砂に違法性があるってね。なんでも、「沖縄産の黒石岩ずり」ってのが仕様書で取り決められていたのに、実は赤土が仕様されているとか。それが、ドローンによる上空からの撮影でバレちゃったんだとか。当事者である琉球セメントは調査を拒否しているそうで、そのことについて東京新聞のモンチッチ望月記者が鋭く追及したところ、顔も頭も貧相な官房長官・ガースーは質問にまともに答えることなく会見場を後にしたそうだ。でもって、その際のやりとりの書き起こしがあるので、是非ともご一読を。殴りたくなりますよ・・・ということでお後がよろしいようで。
(これより引用)
望月「民間業者の仕様書には沖縄産の黒石岩ずりとあるのに、埋め立ての現場では、今、赤土が広がっています。琉球セメントは県の調査を拒否してまして、沖縄防衛局は実態把握ができていないとしています。埋め立てが適法に進んでいるか?確認ができておりません。これ、政府としてどう対象するおつもりなんでしょうか?」
菅「法的に基づいてしっかり行っています。」
官邸スタッフ「この後、日程がありますので、次の質問、最後でお願いします!」
望月「望月です。あの~、適法かどうかの確認をしてないということを聞いてるんですね。粘土分を含む赤土の可能性が指摘されてるのにも関わらず…。」
官邸スタッフ「(望月記者の質問を、遮るように)質問は簡潔にお願いします!」
望月「発注者の国が事実確認をしないのは、これ、行政の不作為に当たるのでないでしょうか?」
菅「そんなことはありませんっ!」
望月「それであれば政府としてしっかり確認をさせ、仮に赤土の割合が高いのなら…」
官邸スタッフ「質問は簡潔にお願いします!」
望月「改めさせる必要があるんじゃないですか?」
菅「今答えた通りです。」
官邸スタッフ「はいっ!ありがとうございました!」
菅、足早に去る。

 「くろねこの短語」2018年12月27日ー(前略)・最後に、フォトジャーナリストの広河隆一がセクハラだとさ。「(女性たちは)僕に魅力を感じたり憧れたりしたのであって、僕は職を利用したつもりはない」なんて言い訳は、クズすぎるだろう。思想信条にかかわりなく、こういう男がこの世の中にはまだまだ跋扈してていることが恥ずかしい。
関連→2015年9月25日に放送されたTBS「ゴロウ・デラックス」は荒木さんの特集で、KaoRiさんの半裸の写真が紹介された。荒木さんは番組内で、KaoRiさんのことを「俺の女」と呼び、「彼女を10年撮っているのは、好きだから。恋人(コイビト)じゃなくてコイジン。愛人になるとマンションくらい買ってあげなきゃいけないだろ。だからコイジン」などと発言していた。2015年11月22日に放送されたNHK「日曜美術館」の荒木さんの特集では、撮影の現場に取材カメラが入った。ファインダーを覗く荒木さんがKaoRiさんに近づき、着物の襟元を広く開けながら、「いいなぁ、NHKにおっぱい出るといいなぁ」とつぶやいていた。荒木さんは2008年に前立腺がんの手術をし、2013年には右目を失明。ネガティブな出来事も作品に昇華し、精力的に活動を続けていたときだった。

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1932年 東恩納寛惇、年末までに首里侯爵邸に通い2000冊の文献を読破
1933年 東恩納寛惇、元旦に琉球音楽家の伊佐川、池宮城、太田、仲本の演奏を聞き、翌日は金武良仁の演奏を聞く。
1933年1月 『沖縄教育』第百九十八号<昭和会館落成記念>□島袋源一郎昭和会館主事「昭和会館の建設に際して」/西田直二郎「歴史と琉球の史蹟」/喜田貞吉「琉球民族の研究に就いて」/島袋全発沖縄県立第二高女校長「おもろさうしの読方」/宮里正光「国語読本に現れた古事記の神話及伝説」
1933年1月23日 東恩納寛惇、箱根丸で横浜港出港。
1933年2月 『沖縄教育』第百九十九号<郷土史特集号>
1933年8月16日 東京美術学校講師鎌倉芳太郎、教育参考館見学
1933年8月128日 昭和会館で謝花昇に関する座談会開く
1934年4月27日 昭和会館で沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し沖縄郷土協会発足
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1934年7月30日 沖縄郷土協会評議員会(昭和会館)、郷土博物館の建設とペルリ提督上陸記念碑建設のため県下から2万円の募集を協議。
1934年12月 島袋源一郎『林政八書』沖縄郷土協会/沖縄書籍株式会社
1935年3月11日 三重城金比羅宮鎮座奉祝祭並竣工式 
1935年5月13日 沖縄MTL(MISSION.TO.LEPERS)結成。
□青木恵哉の話で那覇東町救世軍の花城武男大尉が、救らいに関心が深い日本キリスト教会の服部団次郎牧師、那覇日基の野町牧師、那覇メソジスト教会の北村健司牧師、首里パプテスト教会の照屋寛範牧師などに呼びかけ運動を開始。沖縄MTLが結成された。理事長にクリスチャンで沖縄教育界の重鎮、島袋源一郎が就任した。→川平朝申『沖縄庶民史』月刊沖縄社
1935年8月 『沖縄教育』第228号 島袋源一郎「教育参考館施設の経路」(1)
1935年9月14日 井上友一郎、昭和会館参観
1935年9月25日 尚文子、昭和会館参観
1935年10月 『沖縄教育』第230号 
□教育参考館資料目録二 金石文拓本の部
安國山樹花記、真珠湊碑、國王頌徳碑、万歳嶺記、官松嶺記、円覚禅寺記、頌徳植樹碑、松尾碑文、大道松尾碑文、下馬碑、一翁寧公碑、新築石垣記、やらざ森城碑、浦添城碑、太平橋、廣徳寺親方碑、極楽山碑、津嘉山森墓、王舅達魯金大人、本覚山墓碑、毛國鼎墓、菊隠和尚墓碑、池城墓、金剛嶺、津屋口墓、
1935年10月30日 安部金剛、昭和会館参観
1935年11月 『沖縄教育』第231号(表紙・島袋寛平) 「教育参考館資料目録五 染織工の部」
1935年12月6日 昭和会館で藤山一郎独唱会
1935年12月20日 島袋源一郎、折口信夫を案内して首里へ

11月19日
1936年1月 『沖縄教育』第233号 「教育参考館資料目録六 漆器及家具の部」
1936年3月17日 岡田弥一郎博士、昭和会館参観
1936年3月18日 京都市檀王法林寺信ケ原良哉住職、昭和会館参観/島袋源一郎、世持神社の用件で台中丸で上京。
1936年2月 『沖縄教育』第235号(表紙・宮平清一) 「教育参考館資料目録八 陶磁器之部」
1936年3月ー沖縄県『史蹟名勝天然記念物一覧』を発行した。
1936年4月 『沖縄教育』第236号(表紙・中川伊作)
1936年4月10日 仲吉朝宏、教育参考館幹事
      4月ー那覇市公会堂で「南島美術展」
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5月ー東京で折口信夫斡旋の「琉球古典芸能大会」開かれる。写真ー3列目右から島袋源一郎、金武良章、伊波普猷、親泊興照(雅叙園で)
1936年5月30日・31日ー折口信夫の斡旋で「琉球古典芸能大会」日本青年館
1936年6月1日ー日本民俗協会『日本民俗』第12号□解説ー折口信夫「組踊りの話」、伊波普猷「組踊りの独自性」、東恩納寛惇「台詞・隈・服装」、比嘉春潮「琉球の村芝居」、小寺融吉「舞踊を観る人に」/島袋全発「てきすと」ー昔楽、舞踊、組踊「執心鐘入、二童敵討、銘刈子、花売の縁
1936年6月11日 沖縄の新聞□帝都の芸術家達、沖縄に憧るー東京で催された琉球芸能団一行の監督として上京中だった沖縄県教育会主事島袋源一郎氏は昨日帰県、未曽有の感激を帝都の人士に与えた帝都公演の模様を左の如く語った。 私共は初め難しい本県の古典芸術を東京の人士が分かってくれるか何うか非常に危く思った、然しながら二日間4回に亘っての上演の結果は大変な盛況で而も東都に於ける芸能界は勿論、学術、音楽、美術等、凡ゆる文化層の人々に予想外の人気を以て迎えられ非常な反響を与えたのであった。琉球芸能を通じて古琉球の文化を紹介し併せて沖縄県を新しく認識せしめたのは今回の最も大きな成果である、私共は主催者たる民族協会や、資金を提出して下さった、文化聯盟の松本學氏並びに凡ての斡旋に努めて下さった折口信夫博士に心からなる感謝の辞を送らなければならない。
公演が終わってから雅叙園で在京県人有志により一行に対す感謝の会が催されたが、伊江朝助男の開会の挨拶ののち伊波普猷氏やその他の人々から大大次のような感想が述べられた。我々は沖縄県人として是まで何ものも誇るものはなかったが今回の公演によって帝都に於いても誇るに足る琉球芸能を紹介し今後は県人として肩身の狭い思いをしなくてすむようになった。
又東京では琉球の団十郎が来たというので本家の市川三升及び奥さんの市川翠扇(団十郎の娘)さん等は揃って観劇にきたが幕間に楽屋へきて衣服、調度、髪飾り等を熱心に手にとってみるという程であった。その他美術界のそうそう藤島武二、岡田三郎助氏其他4,5名の方々がきて若衆踊や女踊をスケッチしたりした。そしてこれまで沖縄を忘れていたのは残念である是非近い中に遊びにいきたいと話していた。それからこの様な立派な芸術を育てて下さったのは尚侯爵家御祖先の賜物であると一同、侯爵家へ挨拶に上り御礼を申し述べた。
1936年6月13日 沖縄県教育会主催「山田耕作講演会」
1936年6月22日 参考館参考品、首里城北殿に移転
1936年7月ー沖縄県教育会『沖縄教育』№239□島袋盛敏「琉球芸能感想記」、上間正敏「古典芸能帝都公演に就て」
1936年7月4日、首里城北殿内に郷土博物館が開館。沖縄県教育会と沖縄郷土協会のコンビにより往時の荘厳な姿を再現した由緒ある首里城内北殿は本県唯一の郷土博物館としてまた首里市の新名物として輝かしく誕生し午後5時から隣接の首里第一小学校に於いてその落成式・開館式は島袋源一郎の挨拶ではじまった。来賓として県より清水谷総務部長、平山裁判所長、古思司令官、金城那覇市長ら官民3百名が列席。祝電ー東恩納寛惇「新シキ力ハ古キ栄ヨリ生レン 遥ニ祝ス」/伊波普猷「開館ヲ祝ス」/下地玄信「県ノ為メ偉大ナル功績ヲタタエ御盛典ヲ祝ス」
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1936年7月4日 沖縄県教育会附設博物館落成・開館式。1936年8月 『沖縄教育』第240号<博物館開館紀念> 仲吉朝宏「開館するまで」「雲海空青録」/「沖縄郷土博物館資料紹介(1)皇室御関係の御宝物 (2)古琉球の漆器」
沖縄県教育会附属「郷土博物館」が開館。所蔵目録□漆器之部ー螺鈿/硯屏(文房具衝立)琉球国王御愛用の品、食籠(方言クイチクン)聞得大君御使用品、食籠(台付)郷土協会出陳、料紙文庫、五段御重箱、御菓子皿(薔薇模様入大皿)、御菓子器(支那製厚貝象)、鏡台、茶盆、香箱、印籠(山水図案)、印籠(山水寿老人)、印籠(梅花)、三方(唐草模様)、煙草盆、御椀(冊封使歓待様、伊江男爵寄贈)、御酒盃台。堆錦/中央卓(郷土協会出陳)、料紙文庫、四段御重(流水に桜花模様)、四段御重(水に貝)、東道盆、印籠(山水朱塗)、印籠(獅子黒塗)、菓子器(海草に金魚の図案)。沈金/料紙文庫、御徳盆・御米盤(祭祀用、元侯爵家御蔵品)、御米盤(かつぎ御米盤、玉貫瓶一対外箱共)、御椀、菓子器(六角形)、サシクイー(小道具入)、朱塗(菜飯ゆつぎ用)、毛彫沈金(名工新垣の作)。蒔絵/印籠(山水)、木盃(金蒔絵)、硯蓋、四段御重(草花に轎車)、四段御重(唐子絵山水)、四段御米盆(唐草模様)、大型四段御重(琉球蒔絵)、東道盆(支那製箔絵)、香箱(唐子絵、唐草模様)、弁当(亀甲紋)、弁当(山水、唐子絵)、弁当(山水、外間カメ子寄贈)、小道具箱(女持、支那製唐子絵)、御盆(長方形、支那製唐子絵)、東道盆、野弁当、折盆(三方、支那製唐子絵、唐草金模様入)、御酒盃台
□図表之部
喜屋武村古地図、島尻郡村図、大日本全図、台湾地図、幕府時代学校図、薩摩琉球古地図、支那全図、北京城内図、鍼灸図解、日本城閣の図、旧藩生理巻物、旧藩庭作手本、旧藩弓術手本、琉球歴代対照表(歴代王統表)、治家捷経(蔡温著作表解)、那覇泉崎古地図、石鼓山全景、唐船設計図、接貢船設計図

1936年7月18日 中村清二、首里市見物。北殿の郷土博物館見学「宜湾朝保短冊、天王寺仏壇の抽戸の彫刻、野外遊楽用の携帯道具、燭火を反射する目的の凹面鏡、古陶器、官吏の冠及び帕、婦人の衣裳、紅型染め標本、漏刻などを見る。/7月26日、一行は集合地たる波上神社鳥居際で同所からバスに乗って午前8時出発した。同行は新垣氏の外に谷本氏と沖縄教育会主事の島袋源一郎氏と工業指導所の窯業部の鈴木利平氏と余と其他の人と併せて一行9人であった。→1947年1月 中村清二『硬と軟』要書房
1936年8月28日、昭和会館で沖縄観光協会の設立協議会も島袋源一郎の挨拶ではじまった。観光協会の会長に那覇市長が就任した。協会趣意書に「空にはダグラス機が就航しました。福岡台湾は勿論東京、大阪、朝鮮、満州からも沖縄に一と飛びに行ける便利な時代になりました。海には大阪商船の新造船が愈々来春から配船せられ大阪那覇間の航程が三日に短縮されようとしています。空に飛行機、海に優秀船、陸に無線電話があれば沖縄ほど旅行の好適地は他になかろうと思われます」とある。
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1936年9月ー日本民俗協会『日本民俗』第14号□琉球古典芸能を語るー伊波普猷、伊原宇三郎、片山春帆、佐藤惣之助、坂本雪鳥、清水和歌、谷川徹三、鳥居言人、中山晋平、昇曙夢、比嘉春潮、松本亀松、塩入亀輔
1936年10月ー日本民俗協会『日本民俗』第15号□琉球の古典芸能を語るー伊波普猷、比嘉春潮、塩入亀輔、中山晋平
1936年10月16日 昭和会館で「山崎延吉農事講習会」
1936年11月ー日本民俗協会『日本民俗』第16号□琉球の古典芸能を語るー坂本雪鳥、松本亀松、谷川徹三、清水和歌、昇曙夢、原田佳明、伊原宇三郎、片山春帆
1936年12月ー日本民俗協会『日本民俗』第17号□琉球の古典芸能を語るー鳥居言人、松本亀松、片山春帆、伊波普猷、比嘉春潮、北野博美、折口信夫、小寺融吉、西角井正慶
1936年12月25日 昭和会館で「空手道振興協会発会式」
1937年2月  沖縄空手道振興協会(昭和会館内)会長ー蔵重久知事、副会長ー古思了聯隊区司令官陸軍大佐、副会長ー金城紀光那覇市長、総務部長ー平野薫学務部長、宣伝部長ー島袋源一郎教育会主事、指導部長ー屋部憲通
1937年3月5日 比嘉朝健、郷土博物館に来館
1937年3月19日 『大阪朝日新聞』「日本最初の聖書 ベッテルハイム琉球語バイブル写本 アメリカの宣教師ブール氏から沖縄県教育会主事島袋源一郎氏に贈られた。早速県立図書館の珍書として所蔵」
1937年4月27日、午後7時入港の首里丸でベッテルハイム孫ベス・プラット夫人がルーズベルト米大統領の親書を持参来沖。宝来館で休息、波上宮参拝、護国寺、善興堂病院を訪問。午後は金城那覇市長を訪問、又吉康和の案内で泊の仲地紀晃宅、天久寺、外人墓地。/5月2日、金城那覇市長公舎で晩餐会、来賓として北村、阿嘉、野町の3牧師、山田有登、島袋源一郎、屋冨祖徳次郎、親泊政博ら。、プラット夫人作の油絵「ベッテルハイム像」を那覇市に贈呈。
1937年4月28日~30日 昭和会館で「袋中上人、尚寧王、儀間真常顕彰展覧会」
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1937年  沖縄MTLのメンバーの愛楽園敷地視察ー写真左から当山正堅、4人目・當間重剛、山田有登、島袋源一郎、8人目・野町牧師
1937年11月3日 粟国校二宮尊徳像銅像除幕式
1937年11月4日  那覇尋常高「河村只雄講演会」
1937年11月10日 島袋源一郎、世持神社鎮座祭出席
1937年11月7日  首里市図書館開館式、島袋源一郎参列
1937年11月17日 昭和会館で「トラウツ博士、二見孝平、下地玄信講演会」  

1938年8月下旬 沖縄県衛生課撮影「屋我地癩療養所 愛楽園全景」 
1939年4月11日~13日 昭和会館で琉球新報主催「琉球民芸品展」


1939年8月5日

1939年8月「首里城南殿で沖縄郷土協会主催『三線祭』」

1939年8月6日『琉球新報』「永久に郷土の藝術に甦れ 名器『與那』迎え三線祭/沖縄郷土協会の主催で5日午後2時から首里城南殿において神式による本県初めての三線祭が執行された」「三線名器を6日から3日間、郷土博物館で展示」「後世に伝える『三絃宝鑑』計画」

1939年9月24日『琉球新報』東恩納寛惇「故山点描(6)三線祭」

〇2019年2月、沖縄県立博物館に行くと、久部良さんが東恩納寛惇の子息らの写真を見せてくれた。子息の洋氏は故人、夫人の文江さん、孫の裕一さんはアーティストとしてネットにも登場している。

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