Archives

You are currently viewing archive for October 2013
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null

null
null
「末吉麦門冬」

null
「原田紅梯梧」

null
「山田真山」

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
2010年7月1日、陶芸家の末吉安允氏と連れ立って雨の中、旧三和村魂魄塔、那覇市旭ヶ岡、浦添浦和塔の地蔵菩薩を参拝する。途次、豊見城市のギャラリー春秋(城谷初治〒901-0235豊見城市字名嘉地108/電話098-850-1261)、伊波普猷の墓、浦添グスクようどれ館に寄る。不思議とお地蔵さんの前に行くと雨は止む。浦添グスク周辺は英祖王統の頃に浦添ようどれと極楽寺が造営されたと伝わる。察度王統の頃に大規模なグスクになっている。

null
写真左から糸満、旭ヶ岡、浦添の地蔵尊。糸満の和光地蔵尊は管理され清掃もされている。ブログで見ると2005年5月の琉球新報に「糸満市米須の沖縄バス運行管理士の山城健一(58)氏が地主から300万円で買取り公園化した」とある。
1964年6月 島田叡氏事蹟顕彰会『沖縄の島守 島田叡 親しきものの追憶から』
null
1952年9月30日ー出口常順氏の「島守の塔」墓参

1952年9月27日、出口常順大阪四天王寺管長は戦没者慰霊と伝道の目的で来沖。戦死した島田知事とは三高の同窓。9月29日『沖縄タイムス』出口常順「沖縄来島について」□出口常順(明治33年11月7日~平成6年3月3日)ー愛知県知多郡武豊町で中川八平、いく4男。明治41年11月ー出口兵三郎の養子となる。明治44年3月ー大阪四天王寺山内東光院、市川圓常大僧正の徒弟となる。大正12年3月ー第三高等学校卒業。大正15年3月ー京都帝国大学文学部哲学科卒業。昭和2年12月ー四天王寺執事に就任。昭和5年三月ー比叡山専修院卒業。昭和7年6月ー四天王寺海外留学生として欧米に2年滞在。昭和20年4月ー四天王寺悲田院常務理事就任。昭和26年2月ー和宗総本山四天王寺管長就任。学校法人四天王寺学園理事長就任。社会福祉法人四天王寺福祉事業団理事長就任。昭和44年12月ーインド・セイロン・カンボジャ仏跡巡拝。昭和50年ー天台仏教教団の顧問として中国を視察。

null
写真・四天王寺の蘇鉄
平成6年4月6日午後1時~3時  四天王寺第百壱世 出口常順儀 慈光心院常順法印大和尚 本山葬
2011年11月11日『琉球新報』「大阪の長沼さん和光地蔵を巡る」

» Read More

Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02


1979年6月 沖縄の雑誌『青い海』84号 座談会「大阪で考えた”観光沖縄“」嘉手川重義・他4人

1981年、『ハイサイおきなわ』編集人 玉城利則、発行人は嘉手川重義(現大阪沖縄県人会連合会長)
null
null
null


左が嘉手川重義氏、新城栄徳
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
「みどり印刷」ここをクリック
これは、今年の2月に書いた「暮らしの中のフォルム」の最後部に載せた予告編「織り柄の進化」の発展型である。2月から半年余り5号に亘って色々書き連ねてきたが、そのテーマを忘れていたのではなかった。

暮らしの中のフォルム
 3月に書いた「暮らしの中のフオルム(シーサー編)」の取材の為にカメラを持って街へ出るまで「織物」の事や、まして「織り柄」の事など、全く関心が無かったし、その知識も全く無かった。たまたま当蔵大通りの,左側の写真のビルのベランダの柵が目に飛び込んできた。 「ナンダコリャ!」写真でいうポジとネガの連続模様、その斬新なデザインが心に残った。しかもそれが沖縄伝統の織り柄のデザインを建築に転用するという新しい発想に喝采を浴びせたい気持ちの高まりを覚えたのだった。「そういえば、もう一つあったぞ!」とウチの墓近くの、瑞泉酒造裏手の崎山ハイツにある建物を思いだし、それもカメラに納めた(右の写真)これも同じ柄だが、色が付いたペンキ塗装である。ともに八重山のミンサー織りの柄であると知ったのは後日である。

 この記事の冒頭にも書いたが「織物」や「織り柄」には全く興味を持たなかった僕だが「織物・織り柄」という切り口というか「視座」を持ってしまった以上「将来それに係わる事物に必ず出会うだろう」という、すごく悠長かつ楽観的な蓋然性(がいぜんせい)を信じて、このテーマは脇にほっておいたのだ。ところが、やっぱり「奴はやって来たのだ!」前触れもなく!

 南風原町は「かすりの里」を標榜していて、町には「琉球かすり会館(琉球絣事業協同組合」があり、本部・照屋・喜屋武の各集落はそのメッカとなっている。さらに本部には「かすりロード」という散歩道があり、歩道に施された文様を頼りにたどっていくと、織物工房、織機制作所,湯のし屋(火のし、がアイロンなので湯の熱で絣はシワを伸ばすのか?)その他関連職の工場があったり、ビーマという柄の最小単位の図柄が名前と説明文とともにあちこちの塀や壁に据え付けてある。
 そんな、不思議な空間に旅にでた。今号はその報告である。

絣の現状について
 絣は現在でも日本各地で織られており、洋服、ネクタイ、鞄、タペストリーと装飾やその他小物にも利用されているが、生産に手間がかかるため、割高であるにもかかわらず、もともと普段着の素材のため高級品とは見なされず、需要は伸びていない。いずれも少数の織元が細々と生産するに留まっている・・・・・。とある。
 現代の「ブランド指向」とは対局にあるのであろう『絣』は時代遅れなのかもしれない。『絣』との出会いは僕にとって新鮮なものであった。そういう『絣』を織り続ける人達が居る事を心強くおもった次第。
 現在の僕もビジネスとは程遠い「生業」「稼業」の世界に生きているのだが、生き生きと仕事を続け、平凡な日々を積み重ね、それでいて「平凡」の中に埋もれず「平凡」の中の変化を見極めるシャープな感性を忘れない事・・・・それでいいのだ!・・・・・というのも今回の収穫かな??と思っている。


 

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
null

null
那覇市立神原中学校の敷地内では、ガーブ川沿いに美しいトックリキワタが立ち並んでいる。

1980~90年代にかけて、故天野鉄夫先生宅の庭に育つトックリキワタは特に「天野株」と呼ばれ、満開時には樹冠がピンク色に染まりかなり有名だった。見ごろになると、新聞紙上にもと紹介され話題になった。そのことも影響してか徐々に植木市で苗が売られるようになり、瞬く間に沖縄中にひろがり、熱帯花木ブームの火付け役になった。→沖縄県森林緑地課

null
城岳小学校の通り

null
null
楚辺界隈

» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

2013年10月26日『琉球新報』


null
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

辺野古新基地NO

2013年10月 森宣雄・鳥山淳編著『「島ぐるみ闘争」はどう準備されたか』不二出版

□小林淳子さんから本書が送られてきた。本書は加藤哲郎・森宣雄・鳥山淳・國場幸太郎編『戦後初期沖縄解放運動資料集』(全3巻、不二出版、2004-05年)のDVD版の別冊として刊行されたもの、という。私も「琉文21」で沖縄人民党機関紙『人民』を入れ始めたばかりで、本書は表面に出ない非公開の資料を使っているので参考にしたい。ところで、副題の「沖縄が目指す<あま世>への道」の経緯で伊波普猷の絶筆で残した<あま世>うんぬんとあって、伊波が戦後の発言したと勘違いされる恐れがあるので少しくふれておく。1933年1月、琉球新報主催「航空大ページェント」で瀬長島上空を関口飛行士操縦の複葉機から色白の美人・宮森美代子嬢がパラシュートで飛び降りる。それを万余の沖縄県民が見物という新報記事を東京で見た伊波が自身のロサンゼルス上空を飛んだ感動と重ね合わし「おもろ・飛行機」と題し「・・・紫の綾雲、おし分けて出ぢへたる、ふへの鳥の舞ひ、如何し来る鳥が、常世の大ぬしの御使者は有らにゃ、・・・大和世は物事変て、殊に工学のひろましや、珍しや算知らぬー沖縄御間切心一つならば、苦世す甘世なさめ。直り世は実に是からど始まる」とよんだ。<あま世>の初出はこれである。

本書の編者・鳥山淳氏は琉球新報社から2007年に発行された『不屈 瀬長亀次郎日記』の解説者でもあるが、同書には国場幸太郎氏の「あの瞬間 元人民党幹部 国場幸太郎」、内村千尋さんの「国場幸太郎さんの思い出」も載っている。少し話はそれたが、本書は国場幸太郎 著「沖縄の人びとの歩みー戦世から占領下のくらしと抵抗」も柱となっていて貴重な証言となっている。特に「CIC(米軍諜報部隊)との対決ー拉致と拷問」は圧巻で「民主主義」「自由の国」と自称するアメリカの軍隊の本質が暴露されている。今現在のオキナワは日米防衛利権(安保)の上で動かされている。昨今の「秘密保護法案」なるものがその象徴的な動きだ。つまりが日米密約、公安警察、原発の暴露・追及が「犯罪」になる法案だ。とにかく何が秘密なのかも秘密といったフザケタ法案だ。こういった法案を盾に国民を弾圧した戦前の特高警察が先ず頭に浮かぶが、戦後はCICがその役割を担っていた。その遺伝子は下記のように今も生きているようだ。

10月27日『琉球新報』社説□広がる盗聴疑惑 凋落する大国の傲りと焦りー米国情報機関の国家安全保障局(NSA)が外国の指導者35人の電話を盗聴していた、と英紙ガーディアンが報じた。米中央情報局(CIA)の元職員から提供された機密文書の内容だ。ドイツのメルケル首相への盗聴疑惑が浮上したばかりであり、それ以外の国の指導者への盗聴も十分に類推できる。フランスでは7千万件以上の通話やメールの傍受があったと報じられ、欧州連合(EU)は米国への反発と不信を募らせている。ドイツやフランスは米国に事情説明を求め、再発防止策を協議する意向だ。米オバマ政権はこの事態を深刻に受け止め、誠意ある説明と改善策を示す必要がある。(略)こう見ると、一連の盗聴活動はテロ防止というより、政治や経済などの分野で情報を集め、外交上優位に立ちたいとの思惑が働いている。デフォルト(債務不履行)危機に見られるように、政治、経済、外交などあらゆる分野で国際社会における米国の威信は揺らいでいる。やみくもな盗聴活動には、これまでは黙っていても入ってきた情報が、威信低下に伴い集まりにくくなっているという事情もあるのではないか。凋落(ちょうらく)する大国の傲(おご)りと焦りを見る思いだ。「指導者35人」に日本の首相も入っている可能性が高い。米国内の日本大使館が盗聴対象になっていたことは既に明らかだ。日本政府も各国同様、厳しい態度で臨むべきだ。特定秘密保護法を制定し、あれこれ理由を付けて「国家の秘密」を保護しても、盗聴を許しては国益は守れない。まさか米国に限っては盗聴を認める、というわけではあるまい。ここでも従属姿勢を見せれば、日本の威信も失墜する。


2013年12月14日『沖縄タイムス』納富香織「読書ー森宣雄・鳥山淳編著『「島ぐるみ闘争」はどう準備されたか』不二出版」

10/25: 浮世絵①

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 
歌川(安藤)広重「東海道五十三次ー赤阪」/浄泉寺を訪ねると銀杏の集荷と葉っぱの清掃をしていた祖父江住職と話をする機会があった。正法寺にも大蘇鉄があったこと、大橋屋の中庭にあった大蘇鉄がなぜ道路拡張に支障があるのか疑問だという話を向けると「旅籠屋の清須屋(後に廃業)、村木屋(後に新城へ移転)にも蘇鉄があった」となぜか大蘇鉄がそこかしこにあったようなのだ。安藤広重は赤坂宿には泊まっていないとか聞いたが、安藤広重にとって当時賑わっていた赤坂宿の旅籠、飯盛女と大蘇鉄は、切っても切れない題材だったのだろう。(→温泉マニアの巡浴紀行)





豊原国周 とよはら-くにちか
1835-1900 幕末-明治時代の浮世絵師。
天保(てんぽう)6年6月5日生まれ。豊原周信(ちかのぶ),初代歌川国貞にまなぶ。役者絵とくに大首絵(おおくびえ)にすぐれた。83回ひっこし,妻も40回以上かえたという奇行の持ち主。門人に橋本周延(ちかのぶ)がいる。明治33年7月1日死去。66歳。江戸出身。本姓は荒川。通称は八十八。別号に一鶯斎,華蝶楼。(→コトバンク)


『月岡芳年ー衝撃の絵師』(新人物往来社2011・6) 
□妙国寺境内の大蘇鉄(そてつ)は国指定の天然記念物(1924年12月9日指定)である。樹齢1100年余と云う。織田信長は、その権力を以って、天正7年、この蘇鉄を安土城に移植させた。しかし、毎夜「堺妙國寺に帰ろう」と怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄を切りつけたところ、鮮血切口より流れ悶絶の様は恰も大蛇の如く、さしもの信長も怖れ即座に妙國寺に返したと言う。枯れ死寸前の蘇鉄を、哀れにおもわれた日珖上人は法華経一千部を誦したところ、夢枕に、人面蛇身神が現れ「報恩のため、女には産みの苦しみを和らげ、苦難には災厄を逃れ、乏しき者には福寿を授ける」と三つの誓願をした。御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀られています。(ウィキペディア)

月岡芳年【つきおか・よしとし】
生年: 天保10.3.17 (1839.4.30)
没年: 明治25.6.9 (1892)
幕末明治期の浮世絵師。本姓吉岡,俗称米次郎。画号に玉桜,大蘇,魁斎などがある。住居は江戸の中橋,南金六町,本所藤代町など。歌川国芳に師事し,また葛飾北斎,菊池容斎にも私淑したと伝える。嘉永6(1853)年の錦絵初作を皮切りに,武者・役者・美人の錦絵を陸続と発表,また血みどろ絵と呼ばれる残酷な描写の錦絵も周辺絵師と競作した。明治以降は新聞錦絵や新聞・小説の挿絵なども盛んに描くかたわら,上下二枚続きなど新趣向の版画を上梓した。精神に異常をきたし,病没したと伝える。なお,門人からは近代美人画家の雄①を多数輩出した。(→コトバンク) ①芳年の弟子の年方からは鏑木清方、伊東深水を経て岩田専太郎や志村立美らの画家が育っている。同じく弟子の右田年英からは鰭﨑英朋や河合英忠、伊藤彦造が育ち、鰭﨑の弟子には神保朋世もいる。→『月岡芳年ー衝撃の絵師』(新人物往来社2011・6) 



『琉球新報百年史』

» Read More

10/23: 三宅鳳白

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

null

三宅鳳白 
(1893年5月2日~1957年2月26日)

京都市に生まれる。父は三宅呉暁。京都市立絵画専門学校卒業。山本春挙に師事。帝展、文展、日展で活躍。京都市立絵画専門学校助教授,光華女子短期大学教授をつとめた。

三宅呉暁
(みやけ・ごぎょう)
1864~1919 元治元年3月1日、京都生。
名守広、通称清三郎、別号水月庵・心遠斎など。
森川曽文に師事し四條派を学ぶ。
各種展覧会などで受賞多数。
明治30~40年まで京都市立美術工芸学校教諭。
大正8年8月26日歿。享年55。

10/21: 西村菊雄

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

null
1931年7月ー左から許田重友、大嶺政寛、山田有昴、西村菊雄、具志堅以徳、城間、新垣、大城貞盛、大嶺政敏



1936年11月6日~9日 「沖縄日報主催「沖縄洋画展」那覇市公会堂

1936年11月18日 辞令 具志堅以徳、西村菊雄 沖縄県雇・沖縄県工業指導所勤務

書斎の具志堅以徳


西村菊雄・作品ー不屈館所蔵
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02




糸洲安恒の墓。正面右手に「糸洲安恒先生顕彰碑」が建つ


松村宗棍も眠る武氏墓


 花城家(花城長茂)の墓、その造りは、内部にアーチ型の石室を有する亀甲型の墓であり、琉球の文化を今に伝える貴重な建造物あった。道元年間より以前(西暦千七百九十年・西暦千八百年頃)琉球王より拝領し、以来第二次世界大戦の中で最も激しい地上戦が行われた真嘉比に存していたにも拘わらず、破壊されることなく二百年余の年月を経過し現在(平成十四年五月)に至ったものである。しかし、真嘉比古島地区に区画整理事業計画が策定され、花城家の墓も其の取り壊しを那覇市から求められた。
 那覇市からの取り壊しの要求に対し、由緒ある花城家の墓を残すよう十年余に渡り交渉を続けたが入れられず、平成十四年四月に其の取り壊しに同意し、此処に新たな墓を建立した。花城家の墓には、初代真和志村村長であり、明治三十八年に初めて空手の文字を世に顕し、現在の「空手」の隆盛の基礎を築いた、花城のバッサイの創案者、拳聖と称された花城長茂(西暦千八百六十九年ー西暦千九百四十五年)の遺骨も納められている。            平成十四年五月一日記            花城長允

» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

2013年11月22日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー宮城新昌/宮城昌康」


null

牡蠣王・宮城新昌

1963年9月ー『琉球のあゆみ』志良堂清英「この人と一時間ー国造り60年のあゆみ セオドル・ルーズベルト大統領と会見 カキ養殖王 宮城新昌翁と語る」
□アメリカのピユーリタンに根ざすところの、ハリマンの開拓精神も、陽明学に出発した日本の武士道精神も、蔡温の治山治水の経世思想も帰するところ、国威を発揚する基本的な考え方においては、私はおなじだと思うね。アメリカという国は、建国の初めに先ずインディアンと戦い、次に猛獣と闘い、西へ西へと進んで遂に太平洋沿岸に達した。

先進国が未開の民を手なずけて鉄道を敷き、その周辺の民衆を啓蒙し、文明の恵沢に浴せしめる。ハリマンはこの手段によって、五大鉄道を成し遂げ、太平洋沿岸に到達した。パナマ運河は開通し、大西洋の水は太平洋に注ぎ込もうとしていた。当時ハリマンはこの五ツの鉄道をまとめて、ドイツの3B(ベルリン、バグダッド、バンコック)、イギリスの3C(ケープタウンその他)に匹敵する3A(アメリカ、アラスカ、アジア)を結ぶ線を計画し、満鉄に手を出そうとしたけれど、これは失敗に終わった。

アメリカのニューフロントニアにしても、開拓精神にしろ、今日と雖も厳固として変わることはあるまい。根本的精神は西へ進んで太平洋を越えてアジアと提携し、共存共栄を目的として太平洋上に共同の平和文化国家を打ち樹てようというのが、基本的な考え方である。寧ろこれが極く自然な順路で、アメリカ人の考え方は、これがアメリカに課せられた使命であるとすら信じている。(以下略)

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

題字揮毫・東大寺清水公俊師

○売笑の起源と遊女の変遷 娼婦の元祖は巫女である
○芸妓の揺籃とその成長 三味線伝来を画期として独立すー(略)茲に正親町院の文禄年間、琉球から蛇皮線が伝来し、それが堺の琵琶法師の工夫で本手、破手などの組歌が出来、次第にはやり出して小唄、地唄、長唄などが盛んに流行するようになると、従来ただ色だけを売っていた遊女の間にもこれを唄うものを生じ、又私娼の間にも堪能なるものが出来て、遂に三味線という芸だけで独立する女が出来ました。

○公娼制度の濫觴と遊廓の発達 豊太閤は遊廓開基の大恩人ーそれが一の営業として公認された形になったのは、鎌倉時代の『遊裙別當』(足利時代には『傾城局』)といふのが其の濫觴であり、更に一歩前進して公娼を保護し、且つこれを取締まるために遊廓を公許するようになったのは豊公の英断に出でたのであります。豊臣秀吉が天下を平定してから、京都に初めて柳町遊廓(後の島原遊廓)が新設されました。以後ー奈良・木辻、駿河府中、大阪瓢箪町(後の新町廓)などが出来た。・・・江戸吉原遊廓、大阪松島遊廓、大阪飛田遊廓、兵庫の遊廓

○遊里と社寺ー祭礼と遊女ー(略)琉球辻の遊廓の開祖は浦添王子の妃であると伝えられ、その命日である旧正月廿日には『廿日正月』又は『尾類馬ずりうま』と言って廓内の名妓が総出になり、花魁道中のような行列絵巻が繰りひろげられます。

平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)
羽地村に生まれる。沖縄県立一中を中退し沖縄毎日新聞記者。記者の傍ら、琉球史、琉球古典音楽を研究。羽衣、羽生、平氏、野の人というペンネームで論文、随筆を新聞、雑誌に発表。

» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
白保台一 沖縄県立博物館・美術館2代目館長

私は現役の国会議員は会わないことにしているが、引退後の伊江朝雄氏などには川平朝申の縁もあり会った。私の蔵書に現役時代の白保台一『琉球のロマンを今にー大航海時代再現へ向けての「私の提言」』がある。中に「時代は大きく変わりました。世界的流れとして人間社会は『ハード・パワー』(富・権力・軍事等の外発性の力)の時代から『ソフト・パワー』(文化・芸術・精神等の内発性の力)の時代へと静かな転換を見せています。」とある。土門拳展で白保館長とちょっと話したとき同書の話をした。5月17日、館長室で同書にサインをお願いし琉球のロマンを念頭に「西のミラノ 東の琉球」と書いてもらった。

ミラノ□2大産業がやっぱり「ファッション」と「デザイン」。世界中から新鋭クリエータが集まる街として知られるミラノでは音楽や絵画などのアーティストに留まらず、あらゆる「ファッション」や「デザイン」を学ぶ若い学生が世界中から集まる芸術学校が多数存在する学園都市としても有名である。1978年から始まった「ミラノ・コレクション」はパリ、ニューヨークと並ぶ世界3大ファッションショーであるが、これはまさにミラノを象徴しているとも言えるだろう。(→アーモイタリア旅行ガイド)
null


写真ー前列左から渡口彦邦氏、山田實さん、白保台一沖縄県立博物館・美術館館長/後列左から宮城修氏、高良由加利さん、新城栄徳

『琉球新報』2013年2月19日
白保台一氏が死去 元衆院議員、沖縄振興に尽力
白保台一氏
 沖縄開発総括政務次官として沖縄振興に尽力した、元衆議院議員で県立博物館・美術館長の白保台一(たいいち)氏が18日午後7時20分、療養していた宜野湾市の国立病院機構沖縄病院で肺炎のため死去した。70歳。仮通夜は19日、本通夜は20日、いずれも午後7時から8時まで、那覇市天久1192の1、那覇葬祭会館第3で執り行われる。告別式は21日の予定。喪主は妻・寿(とし)子さん。白保氏は、八重山郡竹富町出身。日本大学卒。県議を3期9年間務めた後、96年の衆院選で新進党から出馬して初当選。公明党再結成に参加して2000年、03年に再選した。党副幹事長を務め、05年には党農水部会長として食育基本法を自民党と共同提案した。05年の衆院選で落選し、07年に勇退。11年4月から県立博物館・美術館長を務めていた。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2013年10月14日『沖縄タイムス』『琉球新報』「那覇大綱挽」



null
久茂地小学校の生徒たち・下は久茂地小学校
null
null
null



null
写真・真栄田静子さん

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
null
沖縄ブラジル協会「ミス琉装」□国際貿易学を学ぶ大学生の比嘉ジュリアナさん(23)=3世、ヴィラ・カロン支部

null
null
null
null
null
null
null
null
null
null
null

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

本日は10・10空襲から69年ー『琉球新報』に「戦前の那覇 街並み模型で復元へ」とある。担当の那覇市歴史博物館の喜納大作さん(29)は「那覇は王国時代から歴史を積み重ね、近代はレトロモダンな街並みがあった。だが10・10空襲であっという間に消えてしまった。こんなにひどいことはない。絶対繰り返してはいけない」との談話もあった。




Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
1972年11月『別冊経済評論』「日本のアウトサイダー」
桐生悠々(むのたけじ)/宮武外骨(青地晨)/伊藤晴雨(石子順造)/高橋鐵(竹中労)/沢田例外(森長英三郎)/安田徳太郎(安田一郎)/田中正造(田村紀雄)/菊池貫平(井出孫六)/山口武秀(いいだもも)/北浦千太郎(しまねきよし)/古田大次郎(小松隆二)/平塚らいてぅ(柴田道子)/高群逸枝(河野信子)/長谷川テル(澤地久枝)/宮崎滔天(上村希美雄)/橘撲(髙橋徹)/西田税(松本健一)/謝花昇(大田昌秀)/南方熊楠(飯倉照平)/出口王仁三郎(小沢信男)/山岸巳代蔵(水津彦雄)/尾崎放哉(清水邦夫)/添田唖蝉坊(荒瀬豊)/辻潤(朝比奈誼)/稲垣足穂(折目博子)/天龍(秋山清)/淡谷のり子(加太こうじ)/谷川康太郎(猪野健治)

1974年1月『伝統と現代』「日本フォークロアの先駆者」
田代安定(三木健)/笹森儀助(植松明石)/岩崎卓爾(谷真介)/鳥居龍蔵(小野隆祥)/佐々木喜善(菊池照雄)/柳田国男(牧田茂)/折口信夫(村井紀)/早川孝太郎(野口武徳)/筑土鈴寛(藤井貞和)/中山太郎(阿部正路)/南方熊楠(飯倉照平)/渋沢敬三(宮本馨太郎)/金田一京助(浅井亨)/知里真志保(藤本英夫)/伊波普猷(新里金福)/喜捨場永珣(牧野清)/石田英一郎(松谷敏雄)/菅江真澄(石上玄一郎)/近藤富蔵(浅沼良次)





「発禁本」資料  
現代筆禍文献大年表
明治28年3月     沖縄県私立教育会雑誌(沖縄県 安井宗明)
明治33年10月    沖縄青年会会報(渡久地政瑚)
大正5年         沖縄民報6月15日第677号
大正10年2月     不穏印刷物2枚「沖縄庶民会創立委員発行」
大正13年11月    沖縄タイムス「11月13日14日亘る難波大助に係る不敬事件判決言渡に関する記事」
大正14年5月      地方行政5月号 神山宗勲「燃え立つ心」

 1978年、桃源社発行の酒井潔『愛の魔術』に澁澤龍彦が解説で「酒井潔は堅苦しい学者ではなく、何よりもまず、面白く語って読者を楽しませようとする、根っからのエンターティナーがあった。それは本書をお読みになれば、誰にでも十分に納得のいくことであろう。明治の南方熊楠ほどのスケールの大きさは望むべくもないが、彼自身も南方に傾倒していたように、その方向の雑学精神の系統をひく人物であったことは間違いあるまい」と書いている。

麦門冬ー熊楠ー岩田準一ー乱歩
1931年6月には竹久夢二が元北米の邦人新聞記者・翁久充の企画で、サンフランシスコに入り、1年余にわたり米国に滞在し、ロスを中心に展示会や在米見聞記「I CAME I SAW」の題で新聞連載、スケッチ旅行などをしている。アワビ漁で成功した小谷源之助はポイント・ロボスの海岸に来客用の別荘を建て芸術家や文人、政治家らを宿泊させていた。夢二研究家の鶴谷壽(神戸女子大教授)が夢二と宮城与徳(画家・ゾルゲ事件に連座)が小谷家の方と一緒に写っている写真を発表している。夢二は翁と新聞社のストのことで喧嘩別れをし、気の合う若い与徳としばらく一緒に生活しながら絵を描いていたようである。夢二は翌年の10月にはヨーロッパへと足をのばし、欧州各地を渡り歩き、ドイツの邦人グループと一緒になってユダヤ人救済運動に関わっている。彼は平民社の幸徳秋水とも交流し、医師の安田徳太郎とのつながりもある。彼の反戦のコマ絵をみると、夢二の美人画はもの悲しい憂いにみち、放浪とロマンを追い続けた夢二の後ろ姿に重なる。(大城良治)


夢二の弟子に岩田準一が居る。□岩田準一 いわた-じゅんいち 1900-1945 昭和時代前期の挿絵画家,民俗研究家。明治33年3月19日生まれ。中学時代から竹久夢二と親交をもつ。江戸川乱歩の「パノラマ島奇譚」「鏡地獄」などに挿絵をかく。郷里三重県志摩地方の民俗伝承の研究や,男色の研究でも知られ,南方熊楠(みなかた-くまぐす)との往復書簡がある。昭和20年2月14日死去。46歳。文化学院卒。旧姓は宮瀬。著作に「志摩のはしりかね」など。(コトバンク)□→「岩田準一と乱歩・夢二館(鳥羽みなとまち文学館」(.所在地〒517-0011三重県鳥羽市鳥羽2丁目 交通アクセス鳥羽駅から徒歩で10分 ..お問合わせ0599-25-2751) .

2013年10月 飯倉照平『南方熊楠の説話学』勉誠出版



本書『南方熊楠の説話学』にも、「『南方熊楠全集』の校訂をおわって」と題して「平凡社の池田敏雄さんが、そのころまだ代々木駅の近くにあった中国の会の事務所へたずねて来てくれたのは、たしか1969年のはじめごろ{正しくは4月}であったと思う。乾元社版の『南方熊楠全集』に手を加えて出したいが、誤植も少なくないと思われるので目を通してほしいこと、さらに引用されている漢文を読み下し文に直し、全体の表記も読みやすくしたいので手伝ってもらえないか、というのが用件であった。戦争中に『民俗台湾』という雑誌の編集をしていた池田さんから、わたしは中国の昔話や民俗学の本を借りたことがある。また、わたしが以前によその出版社で校正の仕事をしていたことも、依頼されたきっかけの一つになっていたかもしれない。」と「『南方熊楠全集』の校訂に携わるきっかけを書かれておられる。

null
null
2012年10月『熊楠WORKS』№40に飯倉照平さんが「『漫画』好きの伊東忠太」を記され中に「筆者は、平凡社の『南方熊楠』全集の校訂にたずさわる前に、前後10年近く歴史の復習を旨とする雑誌『中国』の編集を手伝っていた時期がある。」と、かつて私も愛読していた『中国』との関わりについてもふれておられる。同号には考古学者・森浩一氏の第22回南方熊楠賞授賞式も載っていた。

» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1885-1934 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治18年8月生まれ。円山派の今尾景年にまなび,京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)を卒業。文展でたびたび褒状をうける。のち日本自由画壇の同人。昭和9年3月2日死去。50歳。京都出身。本名は仁一郎。作品に「画室の花」など。(コトバンク)

□1910年8月9日ー馬山丸で第2観光団(70人余)の一人、松村梅叟(京都市立絵画専門学校生徒)来沖
null

null

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
null
宮城保武氏、金城規克氏、小橋川肇氏


null
沖縄の雑誌『青い海』
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


null
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
司馬遼太郎 しば-りょうたろう
1923-1996 昭和後期-平成時代の小説家。
大正12年8月7日生まれ。産業経済新聞社勤務中の昭和35年「梟(ふくろう)の城」で直木賞。36年作家生活にはいり,変革期の人物を題材に,「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「翔(と)ぶが如く」などの歴史小説を多数発表した。紀行「街道をゆく」のほか,司馬史観とよばれる日本論,日本人論もおおい。平成5年文化勲章。芸術院会員。平成8年2月12日死去。72歳。大阪出身。大阪外国語学校(現大阪外大)卒。本名は福田定一。 【格言など】智はときに深く秘せられねばならない(「新史太閤記」)→コトバンク

〇1972年2月、『青い海』「優れた沖縄を語りたいのですー若者がつどう沖縄関係資料室」/2月5日『サンデー沖縄』「カメラルポー賑わう沖縄関係資料室」/5月9日『読売新聞』「町の学会ー沖縄関係資料室」/5月11日『神戸新聞』「訴える沖縄の心ー西平守晴さん」/5月14日『朝日放送』新城栄徳「沖縄差別?無知による偏見ですね」/9月、『琉球の文化』第1号□「琉球文化社関西支局(沖縄関係資料室内)・新城栄徳」/12月、『青い海』第19号□西平守晴「混迷する県人会」□新城栄徳、新里金福と関広延対談をセットする


1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談司馬遼太郎『街道をゆく6』朝日新聞社
○大阪の都島本通で、篤志でもって「沖縄関係資料室」をひらいていおられる西平守晴氏にもきいてたしかめることができた。西平氏は、「そうです、そんな話があります」といって、南波照間の「南」を、パイと発音した。ついでながら本土語の南風(はえ)は沖縄でも「南」の意味につかう。本土語の古い発音では、こんにちのH音が古くはF音になり、さらに古くはP音になる。つまり花はパナである。八重山諸島の言葉はP音の古発音を残していて、南(ハエ)が南(パイ)になるらしい。西平氏はこのまぼろしの島を、「パイ・ハテルマ」と、いかにもその島にふさわしい発音で言った。


5月、『琉球の文化』第5号□琉球文化社関西連絡所(青い海出版社内・新城栄徳)


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


1987年7月 大城立裕『私の仏教平和論ー戦争を抑止する英知をもとめて』佼成出版社
○教科書については、文部省の検定姿勢に見られるように愛国心の涵養を過度に意識することを警めなければならない。今日愛国心のことを熱心に説く側が、国民の現状に何を恐れてているのかは、かならずしも明瞭でないが、国防の危機に備えてのことであるとすれば、それこそ危険であろう。
○国家秘密保護法も、不安を先取りしての企画である。その不安が絶対にないとは言えないだろうが、私がいま心配しているのは、法律が成立したあとひとり歩きすることである。そのとき運用者の支配欲に迎えられて、横暴をはたらく恐れがある。今日のように情報を盗む技術が発達し、加えて管理されることに抵抗を失っている時代には、とくにその恐れが大きい。

10/06: 照屋寛善

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1920年1月沖縄県首里に生まれる。1942年九州医専(現久留米大学)卒業。内科の軍医になり南洋のナンボン島などに駐留。1946年復員、九州医専で勉強、後沖縄に帰る。宜野座の松田診療所勤務。沖縄には医師が少なく過労気味であったので1950年にそのことを訴えた。この反響は大きかった。既に始まっていた医学部留学制度は、50年には2回も募集があり、また、本土で勉強している沖縄出身の医師も帰還した人もいる[1]。真和志診療所勤務。1951年2月結核発病。コザ病院に入院。治癒。1956年琉球衛生研究所所長。同年11月宮古島でソテツ中毒が発生。報告する。1960年2月訪問中の日本医師会武見太郎会長に直訴し、日本の厚生省や医師会からの医療援助を取りつける[2]。1960年3月30日学位論文「琉球列島におけるハブ咬症の疫学的研究 」東京大学に受理。1961年琉球政府厚生局次長。1963年政府立那覇看護学校校長。1973年沖縄県公害衛生研究所医監。1978年琉球大学保健学部教授。1979年同学部長。1981年琉球大学医学部教授。1985年同退官。琉球大学名誉教授。1990年老人保健施設オリブ園施設長。2004年没。→ウィキペディア

写真左から平山良明氏、照屋寛善氏


沖縄の古典芸能研究[編集]『<民俗芸能資料>「くていぶし」について』まつり通信 88. 1968
『しゅんだう考――その解釈と鑑賞』 沖縄芸能歴研究 1, 1976
『琉球古典舞踊打組踊「しゅんだう」について』 沖縄タイムス 1977年11月29日
『琉歌と唱謡法―その間投詞を中心に』沖縄芸能史研究 6, 1982
『【特集】沖縄の芸能・批判と提言《提言》一藝能史研究者の発言』 新沖縄文学 第58号 1983
『十七八節について』青い海 136 October 1984.
『続・琉球古典舞踊、打組踊「しゅんどう」について』 掲載 窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集 沖縄の宗教と民俗 1988
照屋寛善著『沖縄の古典芸能』 南島文化叢書 9 1989
『組踊所感』 小野重朗先生傘寿記念論文集 南西日本の歴史と民俗 1990
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02


1997年8月、沖縄県公文書館で「岸秋正文庫の世界」展が開かれるにあたって比嘉晴二郎氏に新城栄徳を介して展評を依頼した。沖縄タイムス8月5日に掲載された。

比嘉晴二郎(梯梧の花短歌会会長)「沖縄文献を長年研究ー岸秋正氏と収集品」

岸秋正という人は、その没後のことし1月、朝子夫人が夫の長い年月をかけて収集した貴重な沖縄関係の古文書を含む文献資料のすべてを沖縄県公文書館へ寄贈して話題になった人である。もっとも自分自身で多少とも沖縄関係の古文書に関心のある人、あるいは図書館、公文書館の職員ならいざ知らず、普通の人は新聞紙上で岸秋正氏を知るくらいであろう。

数ヶ月前に朝子夫人から、秋正氏の遺稿集『わが青春の思い出』という本が贈られてきた。第1章は、わが青春の思い出、陸軍士官学校(予科)を経て、同学校を卒業、終戦までという副題がついている。第2章は、第2の人生ー。この章は朝子さんの筆になるものである。第3章は、研究発表一覧ー。琉球関係古文文書収集の楽しみ(岸秋正)となっており、北斎の「琉球八景について」「琉球の希書について」「続・琉球の希書について」等となって本編には琉球の希書に対する秋正氏の独自の書誌的な研究が載っている。

ここで秋正氏の夫人朝子さんの父・宮城新昌さんのことを書いておきたい。沖縄の農林学校を卒業してアメリカの西海岸の高等園芸学校に入学、カキの養殖を学んだ。西海岸のオリンピアやカナダに養殖場を持ったりしたが、帰国後は、宮城県下で養蠣(れい)業をおこし、アメリカに種カキ輸出の道を開いたり、垂下式養れい法を考案した。岸氏も宮城県で養れい業に従事。昭和27年秋、長男を一夜にして失ったので養れい業を宮城県の人に譲り、岸一家は東京の麹町に移った。それは昭和28年のことだった。

沖縄の実業家、宮城仁四郎氏は新昌さんのいとこである。仁四郎氏は、灰燼と化した沖縄で、機械製塩、製糖業と生産業を通じて、また、タバコ、パイン、セメント等の製造で沖縄復興に貢献した人である。仁四郎氏の経営する大東糖業株式会社が東京に出張所をつくることになり、秋正氏に責任者になってほしいという話があり、日本橋の小さな事務所を借り、女性一人を入れた二人だけでささやかなスタートであった。

さて、秋正氏が、沖縄関係の古文書を収集する動機についてふれたい。大東糖業の専務・大嶺薫氏が、ときどき上京し、骨董趣味のある同氏は、岸氏を同道して、骨董商や古書店をよく回ったらしい。これが秋正氏の沖縄関係古文書収集の発端になったようだ。

沖縄県内にも沖縄関係古文書の収集家がいて、秋正氏も多くの知己を得たらしい。故人となった天野鉄夫さん、私もその小さい収集家の一人であった。私も秋正氏と数回会い、私の乏しい蔵書も一回は見てもらったことがあった。秋正氏は軍人上がりだが、会って話した感じでは誠実な感じのする人であった。

1999年5月『琉文手帖』「沖縄近代文化年表」
○附録Ⅰ、わが琉球学の先達たちー岸秋正氏
岸氏の名前を最初に見たのは1977年の「末吉麦門冬の資料提供申し出る」と言う新聞記事であった。1988年4月、東京古書会館の城北展で、根元書房の佐藤善五郎さんに岸氏を紹介してもらった。この時の事を氏は「沖縄から上京中の新城栄徳氏に会いコーヒーをのみながら種々懇談す。新城氏は『琉球の文化』編集にたづさわっていた人で琉球資料をよく調べられており且つ比嘉晴二郎氏や天野鉄夫氏等よく知っておられる方だ」と記しておられる。お会いしたのはこの時が最初で最後、この時に戴いた氏の名刺が今もある。

岸氏は1917年10月、愛知県一宮市で生まれて、1935年一宮中学校を卒業し陸軍士官学校に入学。この頃、東京の山田真山が名古屋に移り住んで、一宮市公園に9メートルの阿弥陀仏や勢至観音、観世音菩薩を制作(岸文庫に1918年刊の山田真山作品図録がある)。岸氏は1941年9月に陸軍砲工学校卒業、12月の香港攻略戦に参加し、その武功が朝日新聞、満州日日新聞、読売報知など全国の新聞で報道され話題となる。1942年、ガダルカナル島攻略戦に参加。

1943年12月に宮城新昌の次女・朝子と結婚。1946年6月、義父宮城新昌の勧めで宮城県萩の浜にて養蛎業を学ぶ。1947年、千葉県五井町にて養蛎業を始める。1955年5月に大東糖業株式会社東京連絡事務所長となり、本社の大嶺薫専務の骨董屋廻りに同道するうちに琉球関係古文献蒐集に興味をもった。1979年8月、神山政良蔵書の沖縄史料編集所への寄贈に立ち会い、9月の『南島史学』に「琉球の稀書について」と題し発表。

岸氏は1995年12月8日に逝去、78歳であった。その膨大なコレクションは、夫人の朝子さんにより沖縄県公文書館に寄贈された。1977年8月に主な文献を展示した特別展「沖縄へのまなざしー岸秋正文庫の世界ー」が開催された。その図録に展示の資料評価・選定の協力者として私の名前も記されている。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02