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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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これは、今年の2月に書いた「暮らしの中のフォルム」の最後部に載せた予告編「織り柄の進化」の発展型である。2月から半年余り5号に亘って色々書き連ねてきたが、そのテーマを忘れていたのではなかった。

暮らしの中のフォルム
 3月に書いた「暮らしの中のフオルム(シーサー編)」の取材の為にカメラを持って街へ出るまで「織物」の事や、まして「織り柄」の事など、全く関心が無かったし、その知識も全く無かった。たまたま当蔵大通りの,左側の写真のビルのベランダの柵が目に飛び込んできた。 「ナンダコリャ!」写真でいうポジとネガの連続模様、その斬新なデザインが心に残った。しかもそれが沖縄伝統の織り柄のデザインを建築に転用するという新しい発想に喝采を浴びせたい気持ちの高まりを覚えたのだった。「そういえば、もう一つあったぞ!」とウチの墓近くの、瑞泉酒造裏手の崎山ハイツにある建物を思いだし、それもカメラに納めた(右の写真)これも同じ柄だが、色が付いたペンキ塗装である。ともに八重山のミンサー織りの柄であると知ったのは後日である。

 この記事の冒頭にも書いたが「織物」や「織り柄」には全く興味を持たなかった僕だが「織物・織り柄」という切り口というか「視座」を持ってしまった以上「将来それに係わる事物に必ず出会うだろう」という、すごく悠長かつ楽観的な蓋然性(がいぜんせい)を信じて、このテーマは脇にほっておいたのだ。ところが、やっぱり「奴はやって来たのだ!」前触れもなく!

 南風原町は「かすりの里」を標榜していて、町には「琉球かすり会館(琉球絣事業協同組合」があり、本部・照屋・喜屋武の各集落はそのメッカとなっている。さらに本部には「かすりロード」という散歩道があり、歩道に施された文様を頼りにたどっていくと、織物工房、織機制作所,湯のし屋(火のし、がアイロンなので湯の熱で絣はシワを伸ばすのか?)その他関連職の工場があったり、ビーマという柄の最小単位の図柄が名前と説明文とともにあちこちの塀や壁に据え付けてある。
 そんな、不思議な空間に旅にでた。今号はその報告である。

絣の現状について
 絣は現在でも日本各地で織られており、洋服、ネクタイ、鞄、タペストリーと装飾やその他小物にも利用されているが、生産に手間がかかるため、割高であるにもかかわらず、もともと普段着の素材のため高級品とは見なされず、需要は伸びていない。いずれも少数の織元が細々と生産するに留まっている・・・・・。とある。
 現代の「ブランド指向」とは対局にあるのであろう『絣』は時代遅れなのかもしれない。『絣』との出会いは僕にとって新鮮なものであった。そういう『絣』を織り続ける人達が居る事を心強くおもった次第。
 現在の僕もビジネスとは程遠い「生業」「稼業」の世界に生きているのだが、生き生きと仕事を続け、平凡な日々を積み重ね、それでいて「平凡」の中に埋もれず「平凡」の中の変化を見極めるシャープな感性を忘れない事・・・・それでいいのだ!・・・・・というのも今回の収穫かな??と思っている。


 

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10/25: 浮世絵①

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 
歌川(安藤)広重「東海道五十三次ー赤阪」/浄泉寺を訪ねると銀杏の集荷と葉っぱの清掃をしていた祖父江住職と話をする機会があった。正法寺にも大蘇鉄があったこと、大橋屋の中庭にあった大蘇鉄がなぜ道路拡張に支障があるのか疑問だという話を向けると「旅籠屋の清須屋(後に廃業)、村木屋(後に新城へ移転)にも蘇鉄があった」となぜか大蘇鉄がそこかしこにあったようなのだ。安藤広重は赤坂宿には泊まっていないとか聞いたが、安藤広重にとって当時賑わっていた赤坂宿の旅籠、飯盛女と大蘇鉄は、切っても切れない題材だったのだろう。(→温泉マニアの巡浴紀行)





豊原国周 とよはら-くにちか
1835-1900 幕末-明治時代の浮世絵師。
天保(てんぽう)6年6月5日生まれ。豊原周信(ちかのぶ),初代歌川国貞にまなぶ。役者絵とくに大首絵(おおくびえ)にすぐれた。83回ひっこし,妻も40回以上かえたという奇行の持ち主。門人に橋本周延(ちかのぶ)がいる。明治33年7月1日死去。66歳。江戸出身。本姓は荒川。通称は八十八。別号に一鶯斎,華蝶楼。(→コトバンク)


『月岡芳年ー衝撃の絵師』(新人物往来社2011・6) 
□妙国寺境内の大蘇鉄(そてつ)は国指定の天然記念物(1924年12月9日指定)である。樹齢1100年余と云う。織田信長は、その権力を以って、天正7年、この蘇鉄を安土城に移植させた。しかし、毎夜「堺妙國寺に帰ろう」と怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄を切りつけたところ、鮮血切口より流れ悶絶の様は恰も大蛇の如く、さしもの信長も怖れ即座に妙國寺に返したと言う。枯れ死寸前の蘇鉄を、哀れにおもわれた日珖上人は法華経一千部を誦したところ、夢枕に、人面蛇身神が現れ「報恩のため、女には産みの苦しみを和らげ、苦難には災厄を逃れ、乏しき者には福寿を授ける」と三つの誓願をした。御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀られています。(ウィキペディア)

月岡芳年【つきおか・よしとし】
生年: 天保10.3.17 (1839.4.30)
没年: 明治25.6.9 (1892)
幕末明治期の浮世絵師。本姓吉岡,俗称米次郎。画号に玉桜,大蘇,魁斎などがある。住居は江戸の中橋,南金六町,本所藤代町など。歌川国芳に師事し,また葛飾北斎,菊池容斎にも私淑したと伝える。嘉永6(1853)年の錦絵初作を皮切りに,武者・役者・美人の錦絵を陸続と発表,また血みどろ絵と呼ばれる残酷な描写の錦絵も周辺絵師と競作した。明治以降は新聞錦絵や新聞・小説の挿絵なども盛んに描くかたわら,上下二枚続きなど新趣向の版画を上梓した。精神に異常をきたし,病没したと伝える。なお,門人からは近代美人画家の雄①を多数輩出した。(→コトバンク) ①芳年の弟子の年方からは鏑木清方、伊東深水を経て岩田専太郎や志村立美らの画家が育っている。同じく弟子の右田年英からは鰭﨑英朋や河合英忠、伊藤彦造が育ち、鰭﨑の弟子には神保朋世もいる。→『月岡芳年ー衝撃の絵師』(新人物往来社2011・6) 



『琉球新報百年史』

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10/23: 三宅鳳白

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

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三宅鳳白 
(1893年5月2日~1957年2月26日)

京都市に生まれる。父は三宅呉暁。京都市立絵画専門学校卒業。山本春挙に師事。帝展、文展、日展で活躍。京都市立絵画専門学校助教授,光華女子短期大学教授をつとめた。

三宅呉暁
(みやけ・ごぎょう)
1864~1919 元治元年3月1日、京都生。
名守広、通称清三郎、別号水月庵・心遠斎など。
森川曽文に師事し四條派を学ぶ。
各種展覧会などで受賞多数。
明治30~40年まで京都市立美術工芸学校教諭。
大正8年8月26日歿。享年55。

10/21: 西村菊雄

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

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1931年7月ー左から許田重友、大嶺政寛、山田有昴、西村菊雄、具志堅以徳、城間、新垣、大城貞盛、大嶺政敏



1936年11月6日~9日 「沖縄日報主催「沖縄洋画展」那覇市公会堂

1936年11月18日 辞令 具志堅以徳、西村菊雄 沖縄県雇・沖縄県工業指導所勤務

書斎の具志堅以徳


西村菊雄・作品ー不屈館所蔵
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1951年2月 雑誌『おきなわ』遠山寛賢(1888年~1966年)「琉洋両楽の発展史」
遠山寛賢(1888年~1966年)は、旧姓を親泊といい、1888年(明治21年)、沖縄県首里市に生まれた。幼少の頃から、板良敷某、糸洲安恒、東恩納寛量らに師事した。それぞれ、どの時期に師事したかは不明であるが、糸洲に師事したのは、遠山が沖縄県師範学校へ入学(1906年)してからであると考えられる。当時の師範学校の唐手師範は糸洲安恒、師範代は屋部憲通が務めていた。在校中の1908年(明治41年)から3年間、遠山は糸洲、屋部の助手を務めた。1911年(明治44年)、師範学校を卒業した。遠山は、徳田安文、真喜屋某らとともに、俗に「糸洲安恒の三羽烏」と呼ばれた。遠山は、ほかに大城某から棒術、釵術を、初代首里区長を務めた知花朝章(知花朝信の本家叔父)から「知花公相君」の型を教わった。1924年(大正13年)には台湾へ渡り、台北の陳仏済、台中の林献堂から中国拳法を学んだ。(→ウィキペディア)
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1956年4月 遠山寛賢『空手道』鶴書房
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1962年6月 沖縄興信所『琉球紳士録』


1960年1月『オキナワグラフ』

沖縄空手の首里手系の流派、小林流をつくった知花朝信氏(1885~1969年)の没後50周年を記念した「小林流開祖拳聖知花朝信顕彰碑」の除幕式が29日、那覇市首里山川町公民館であった。沖縄小林流空手道協会の宮城驍(たけし)会長をはじめ、門弟代表の上原耕作錬士六段ら国内外約80人が新たな空手の聖地誕生を祝った。
 知花朝信は1918年ごろ道場を開設。33年に小林流を命名したとされ、戦後一時期、山川公民館を道場としていたという。宮城会長は「山川公民館は小林流の発祥地。知花先生が指導した門弟らが国内外で活躍している。その功績をたたえたい」と喜んだ。式では知花氏の門下生らが「松村のパッサイ」「クーサンクー大」など伝統の型を演武。山川町自治会の島袋正則会長は「山川町に新たな名所ができた」と歓迎した。→沖縄タイムス2018-7-30
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洲安恒の墓。正面右手に「糸洲安恒先生顕彰碑」が建つ

糸洲安恒の墓。正面右手に「糸洲安恒先生顕彰碑」が建つ


松村宗棍も眠る武氏墓


 花城家(花城長茂)の墓、その造りは、内部にアーチ型の石室を有する亀甲型の墓であり、琉球の文化を今に伝える貴重な建造物あった。道元年間より以前(西暦千七百九十年・西暦千八百年頃)琉球王より拝領し、以来第二次世界大戦の中で最も激しい地上戦が行われた真嘉比に存していたにも拘わらず、破壊されることなく二百年余の年月を経過し現在(平成十四年五月)に至ったものである。しかし、真嘉比古島地区に区画整理事業計画が策定され、花城家の墓も其の取り壊しを那覇市から求められた。
 那覇市からの取り壊しの要求に対し、由緒ある花城家の墓を残すよう十年余に渡り交渉を続けたが入れられず、平成十四年四月に其の取り壊しに同意し、此処に新たな墓を建立した。花城家の墓には、初代真和志村村長であり、明治三十八年に初めて空手の文字を世に顕し、現在の「空手」の隆盛の基礎を築いた、花城のバッサイの創案者、拳聖と称された花城長茂(西暦千八百六十九年ー西暦千九百四十五年)の遺骨も納められている。            平成十四年五月一日記            花城長允


フランスの空手人と新城三郎

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

2013年11月22日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー宮城新昌/宮城昌康」


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牡蠣王・宮城新昌

1963年9月ー『琉球のあゆみ』志良堂清英「この人と一時間ー国造り60年のあゆみ セオドル・ルーズベルト大統領と会見 カキ養殖王 宮城新昌翁と語る」
□アメリカのピユーリタンに根ざすところの、ハリマンの開拓精神も、陽明学に出発した日本の武士道精神も、蔡温の治山治水の経世思想も帰するところ、国威を発揚する基本的な考え方においては、私はおなじだと思うね。アメリカという国は、建国の初めに先ずインディアンと戦い、次に猛獣と闘い、西へ西へと進んで遂に太平洋沿岸に達した。

先進国が未開の民を手なずけて鉄道を敷き、その周辺の民衆を啓蒙し、文明の恵沢に浴せしめる。ハリマンはこの手段によって、五大鉄道を成し遂げ、太平洋沿岸に到達した。パナマ運河は開通し、大西洋の水は太平洋に注ぎ込もうとしていた。当時ハリマンはこの五ツの鉄道をまとめて、ドイツの3B(ベルリン、バグダッド、バンコック)、イギリスの3C(ケープタウンその他)に匹敵する3A(アメリカ、アラスカ、アジア)を結ぶ線を計画し、満鉄に手を出そうとしたけれど、これは失敗に終わった。

アメリカのニューフロントニアにしても、開拓精神にしろ、今日と雖も厳固として変わることはあるまい。根本的精神は西へ進んで太平洋を越えてアジアと提携し、共存共栄を目的として太平洋上に共同の平和文化国家を打ち樹てようというのが、基本的な考え方である。寧ろこれが極く自然な順路で、アメリカ人の考え方は、これがアメリカに課せられた使命であるとすら信じている。(以下略)

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
白保台一 沖縄県立博物館・美術館2代目館長

私は現役の国会議員は会わないことにしているが、引退後の伊江朝雄氏などには川平朝申の縁もあり会った。私の蔵書に現役時代の白保台一『琉球のロマンを今にー大航海時代再現へ向けての「私の提言」』がある。中に「時代は大きく変わりました。世界的流れとして人間社会は『ハード・パワー』(富・権力・軍事等の外発性の力)の時代から『ソフト・パワー』(文化・芸術・精神等の内発性の力)の時代へと静かな転換を見せています。」とある。土門拳展で白保館長とちょっと話したとき同書の話をした。5月17日、館長室で同書にサインをお願いし琉球のロマンを念頭に「西のミラノ 東の琉球」と書いてもらった。

ミラノ□2大産業がやっぱり「ファッション」と「デザイン」。世界中から新鋭クリエータが集まる街として知られるミラノでは音楽や絵画などのアーティストに留まらず、あらゆる「ファッション」や「デザイン」を学ぶ若い学生が世界中から集まる芸術学校が多数存在する学園都市としても有名である。1978年から始まった「ミラノ・コレクション」はパリ、ニューヨークと並ぶ世界3大ファッションショーであるが、これはまさにミラノを象徴しているとも言えるだろう。(→アーモイタリア旅行ガイド)
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写真ー前列左から渡口彦邦氏、山田實さん、白保台一沖縄県立博物館・美術館館長/後列左から宮城修氏、高良由加利さん、新城栄徳

『琉球新報』2013年2月19日
白保台一氏が死去 元衆院議員、沖縄振興に尽力
白保台一氏
 沖縄開発総括政務次官として沖縄振興に尽力した、元衆議院議員で県立博物館・美術館長の白保台一(たいいち)氏が18日午後7時20分、療養していた宜野湾市の国立病院機構沖縄病院で肺炎のため死去した。70歳。仮通夜は19日、本通夜は20日、いずれも午後7時から8時まで、那覇市天久1192の1、那覇葬祭会館第3で執り行われる。告別式は21日の予定。喪主は妻・寿(とし)子さん。白保氏は、八重山郡竹富町出身。日本大学卒。県議を3期9年間務めた後、96年の衆院選で新進党から出馬して初当選。公明党再結成に参加して2000年、03年に再選した。党副幹事長を務め、05年には党農水部会長として食育基本法を自民党と共同提案した。05年の衆院選で落選し、07年に勇退。11年4月から県立博物館・美術館長を務めていた。

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Posted by: ryubun02

2013年10月14日『沖縄タイムス』『琉球新報』「那覇大綱挽」



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久茂地小学校の生徒たち・下は久茂地小学校
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写真・真栄田静子さん

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本日は10・10空襲から69年ー『琉球新報』に「戦前の那覇 街並み模型で復元へ」とある。担当の那覇市歴史博物館の喜納大作さん(29)は「那覇は王国時代から歴史を積み重ね、近代はレトロモダンな街並みがあった。だが10・10空襲であっという間に消えてしまった。こんなにひどいことはない。絶対繰り返してはいけない」との談話もあった。




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Posted by: ryubun02

1974年2月号 雑誌『青い海』30号 大城立裕「岩崎卓爾」、三木健「田代安定」


2017年3月 名越護『南島植物学、民俗学の泰斗 田代安定』南方新社/1934年年10月 南光社『傳記』創刊


1974年1月『伝統と現代』谷真介「岩崎卓爾」、三木健「田代安定」
1974年1月『伝統と現代』「日本フォークロアの先駆者」
田代安定(三木健)/笹森儀助(植松明石)/岩崎卓爾(谷真介)/鳥居龍蔵(小野隆祥)/佐々木喜善(菊池照雄)/柳田国男(牧田茂)/折口信夫(村井紀)/早川孝太郎(野口武徳)/筑土鈴寛(藤井貞和)/中山太郎(阿部正路)/南方熊楠(飯倉照平)/渋沢敬三(宮本馨太郎)/金田一京助(浅井亨)/知里真志保(藤本英夫)/伊波普猷(新里金福)/喜捨場永珣(牧野清)/石田英一郎(松谷敏雄)/菅江真澄(石上玄一郎)/近藤富蔵(浅沼良次)



1985年5月 儀間比呂志・絵 谷真介・文『石になったマーペー 沖縄・八重山地方の伝説から』ほるぷ出版

1974年6月 『岩崎卓爾一巻全集』伝統と現代社
ひるぎの一葉/八重山研究/やえまカブヤー/石垣島気候篇/新撰八重山月令/気候雑纂/作品(俳句・短歌・詩)・その他。
註(語彙註)・・・西平守晴・沖縄関係資料室/岩崎卓爾と気候・・・畠山久尚・元気象庁長官/岩崎卓爾と八重山・・・谷川健一・民俗学者/岩崎卓爾翁のことども・・・瀬名波長宣・元石垣島測候所長/父・岩崎卓爾・・・菊池南海子・岩崎卓爾次女/年譜・書誌・・・谷真介①/後記
①谷真介 たに-しんすけ
1935- 昭和後期-平成時代の児童文学作家。
昭和10年9月7日生まれ。子どもの遊びから生まれた冒険世界を多彩な手法でえがき,作品に「みんながねむるとき」「ひみつの動物園」など。「沖縄少年漂流記」,「台風の島に生きる」(昭和51年児童福祉文化奨励賞)など,ノンフィクションも手がける。東京出身。中央大中退。本名は赤坂早苗。→コトバンク

岩崎卓爾年譜(抄録)ー谷真介
1882年ー8月、上杉茂憲、沖縄県令として八重山(石垣島)を巡回。この年、鹿児島の植物学者・田代安定が農商務省官吏として最初の八重山踏査を行う。
1891年ー10月、岩崎卓爾、第二高等中学校を退学し、北海道庁札幌一等測候所に気象研究生として入所。
1893年ー11月、岩崎卓爾、根室一等測候所に配属。この年、青森の笹森儀助が沖縄本島・先島諸島の民情踏査に赴く。
1894年ー5月、笹森儀助『南島探険』刊。8月、日清戦争始まる。
1897年ー6月、岩崎卓爾、富士山頂の測候を命じられる。10月、岩崎卓爾、中央気象台附属石垣島測候所勤務を拝命。12月、石垣島測候所長心得となる。
1899年ー4月、大島測候所長心得として奄美大島名瀬へ赴く。6月、妻・貴志子が仙台より来る。9月、石垣島測候所長として石垣島に帰任。
1900年ー5月、古賀辰四郎は、黒岩恒、宮島幹之助に協力を仰いで尖閣列島を調査。(尖閣列島の命名は黒岩恒)
1902年ーこの年の末、266年にわたって八重山島民を搾取しつづけていた人頭税廃止となる。
1904年ー2月、日露開戦。7月、鳥居龍造、川平仲間嶽貝塚を発掘調査。
1906年ー2月、菊池幽芳、川平大和墓発掘調査。春、岩崎卓爾、蝶の標本として「アカタテハ」「ヤマトシジミ」を岐阜の名和昆虫研究所へ送る。この年、岩崎卓爾、台北より来島した田代安定と会う。
1910年ーこの年。石垣島に白蟻の被害拡がる。イギリスのノルス来島。
1911年ー1月、『昆虫世界』岩崎卓爾「白蟻に関する通信」、6月、『昆虫世界』岩崎卓爾「白蟻群飛」。6月、強度の地震あり。岩崎卓爾、名蔵川良峡で「イワサキコノハチョウ」発見。
1912年ー4月、岩崎卓爾『八重山童謡集』刊。5月、岩崎卓爾、粟、稲、麦など害する夜盗虫(アハノヨトウムシ)の駆除法を名和昆虫研究所に問い合わせる。
1913年ー2月、貴志子夫人 7人の子を連れて仙台へ帰る。岩崎卓爾、「イワサキゼミ」「イワサキヒメハルゼミ」の新種発見。
1914年ー3月、岩崎卓爾、八重山通俗図書館を創設。5月、御木本幸吉が石垣島富崎で真珠養殖事業を始める、卓爾に協力を仰ぐ。
1916年ー8月、武藤長平七高教授が来島。
1920年ー9月ごろ岩崎卓爾、台風観測中に右眼を失明す。この年、岩崎卓爾『ひるぎの一葉』刊。
1921年ー岩崎卓爾、喜舎場永珣とともに柳田国男を石垣港桟橋に迎える。
1922年ー4月17日、岩崎卓爾、喜舎場永珣とともに上京、柳田国男を訪ねる。4月21日、一ツ橋如水館で開かれた「南島談話会」、出席者、岩崎卓爾、喜舎場永珣、上田万年、白鳥庫吉、三浦新七、新村出、幣原坦、本山桂川、移川子之蔵、中山太郎、折口信夫、金田一京助、東恩納寛惇、松本信広、松本芳夫その他。8月1日、暴風警報が出ているなかを田辺尚雄が民謡研究のため来島。
1923年ー2月、鎌倉芳太郎、桃林寺権現堂の芸術調査で来島。7月、岩崎卓爾、『やえまカブヤー』を八重山通俗図書館から刊行。8月、折口信夫が民俗採集のため来島。
1924年ー9月、岩崎卓爾、文芸同人結社セブン社を主宰、同人誌『せぶん』を創刊。本山桂川、民俗採集で来島、卓爾のすすめに応じて与那国島踏査に赴く→1925年『南島情趣』『与那国島図誌』『与那国島誌』刊行。


2016年6月 備仲臣道『紙碑ー本の周辺 坂本篤 艶本狂詩曲』皓星社〇1926(大正15・昭和元)年、坂本書店出版部から、民俗学者であり文学碑研究家でもある本山桂川を編集者に据えて、南方熊楠の『南方閑話』を発刊したのを手はじめに、中山太郎の『土俗私考』にはじまる「閑話叢書」を刊行
〇2017年3月 『平成27年度 市立市川歴史博物館館報』三村宜敬(市川歴史博物館学芸員)「本山桂川の足跡を探る」
1926年ー1月、八重山に始めてラジオ受信器設置。
1928年ー4月13日、東京代々木の日本青年館、18日が朝日新聞講堂で初めて八重山芸能(第三回郷土舞踊大会)が公演。

□1974年3月 大城立裕『風の御主前 小説・岩崎卓爾伝』日本放送出版協会

□岩崎卓爾 いわさき-たくじ
1869-1937 明治-昭和時代前期の気象技術者,民俗学者。
明治2年10月17日生まれ。32年沖縄石垣島初代測候所長となる。気象観測のかたわら,八重山の民俗,歴史,生物などを研究。退職後も石垣島にとどまり,「天文屋の御主前(うしゆまい)」としたしまれた。昭和12年5月18日死去。69歳。陸前仙台出身。第二高等学校中退。著作に「ひるぎの一葉」「八重山研究」など。→コトバンク

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1885-1934 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治18年8月生まれ。円山派の今尾景年にまなび,京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)を卒業。文展でたびたび褒状をうける。のち日本自由画壇の同人。昭和9年3月2日死去。50歳。京都出身。本名は仁一郎。作品に「画室の花」など。(コトバンク)

□1910年8月9日ー馬山丸で第2観光団(70人余)の一人、松村梅叟(京都市立絵画専門学校生徒)来沖
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1930年代ー首里城 歓会門
首里城の城郭内へ入る第一の正門で、俗に「あまへ御門(あまえうじょう)」といいます。「あまへ」は古い言葉で「よろこび」を意味しており、「歓会」はその漢訳になります。第二尚氏尚真王代(1477~1526)に創建されたといわれるこの門は、中央部に木造の櫓があります。
 沖縄戦で焼失しましたが、1974年(昭和49)に復元されました。□→「首里城公園」


2003年1月15日『琉球新報』「あしゃぎー新城栄徳さん・30年の蓄積をネットに」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02


1997年8月、沖縄県公文書館で「岸秋正文庫の世界」展が開かれるにあたって比嘉晴二郎氏に新城栄徳を介して展評を依頼した。沖縄タイムス8月5日に掲載された。

比嘉晴二郎(梯梧の花短歌会会長)「沖縄文献を長年研究ー岸秋正氏と収集品」

 岸秋正という人は、その没後のことし1月、朝子夫人が夫の長い年月をかけて収集した貴重な沖縄関係の古文書を含む文献資料のすべてを沖縄県公文書館へ寄贈して話題になった人である。もっとも自分自身で多少とも沖縄関係の古文書に関心のある人、あるいは図書館、公文書館の職員ならいざ知らず、普通の人は新聞紙上で岸秋正氏を知るくらいであろう。
数ヶ月前に朝子夫人から、秋正氏の遺稿集『わが青春の思い出』という本が贈られてきた。第1章は、わが青春の思い出、陸軍士官学校(予科)を経て、同学校を卒業、終戦までという副題がついている。第2章は、第2の人生ー。この章は朝子さんの筆になるものである。第3章は、研究発表一覧ー。琉球関係古文文書収集の楽しみ(岸秋正)となっており、北斎の「琉球八景について」「琉球の希書について」「続・琉球の希書について」等となって本編には琉球の希書に対する秋正氏の独自の書誌的な研究が載っている。
ここで秋正氏の夫人朝子さんの父・宮城新昌さんのことを書いておきたい。沖縄の農林学校を卒業してアメリカの西海岸の高等園芸学校に入学、カキの養殖を学んだ。西海岸のオリンピアやカナダに養殖場を持ったりしたが、帰国後は、宮城県下で養蠣(れい)業をおこし、アメリカに種カキ輸出の道を開いたり、垂下式養れい法を考案した。岸氏も宮城県で養れい業に従事。昭和27年秋、長男を一夜にして失ったので養れい業を宮城県の人に譲り、岸一家は東京の麹町に移った。それは昭和28年のことだった。
 沖縄の実業家、宮城仁四郎氏は新昌さんのいとこである。仁四郎氏は、灰燼と化した沖縄で、機械製塩、製糖業と生産業を通じて、また、タバコ、パイン、セメント等の製造で沖縄復興に貢献した人である。仁四郎氏の経営する大東糖業株式会社が東京に出張所をつくることになり、秋正氏に責任者になってほしいという話があり、日本橋の小さな事務所を借り、女性一人を入れた二人だけでささやかなスタートであった。
 さて、秋正氏が、沖縄関係の古文書を収集する動機についてふれたい。大東糖業の専務・大嶺薫氏が、ときどき上京し、骨董趣味のある同氏は、岸氏を同道して、骨董商や古書店をよく回ったらしい。これが秋正氏の沖縄関係古文書収集の発端になったようだ。
沖縄県内にも沖縄関係古文書の収集家がいて、秋正氏も多くの知己を得たらしい。故人となった天野鉄夫さん、私もその小さい収集家の一人であった。私も秋正氏と数回会い、私の乏しい蔵書も一回は見てもらったことがあった。秋正氏は軍人上がりだが、会って話した感じでは誠実な感じのする人であった。

1999年5月『琉文手帖』「沖縄近代文化年表」
○附録Ⅰ、わが琉球学の先達たちー岸秋正氏
岸氏の名前を最初に見たのは1977年の「末吉麦門冬の資料提供申し出る」と言う新聞記事であった。1988年4月、東京古書会館の城北展で、根元書房の佐藤善五郎さんに岸氏を紹介してもらった。この時の事を氏は「沖縄から上京中の新城栄徳氏に会いコーヒーをのみながら種々懇談す。新城氏は『琉球の文化』編集にたづさわっていた人で琉球資料をよく調べられており且つ比嘉晴二郎氏や天野鉄夫氏等よく知っておられる方だ」と記しておられる。お会いしたのはこの時が最初で最後、この時に戴いた氏の名刺が今もある。

岸氏は1917年10月、愛知県一宮市で生まれて、1935年一宮中学校を卒業し陸軍士官学校に入学。この頃、東京の山田真山が名古屋に移り住んで、一宮市公園に9メートルの阿弥陀仏や勢至観音、観世音菩薩を制作(岸文庫に1918年刊の山田真山作品図録がある)。岸氏は1941年9月に陸軍砲工学校卒業、12月の香港攻略戦に参加し、その武功が朝日新聞、満州日日新聞、読売報知など全国の新聞で報道され話題となる。1942年、ガダルカナル島攻略戦に参加。

1943年12月に宮城新昌の次女・朝子と結婚。1946年6月、義父宮城新昌の勧めで宮城県萩の浜にて養蛎業を学ぶ。1947年、千葉県五井町にて養蛎業を始める。1955年5月に大東糖業株式会社東京連絡事務所長となり、本社の大嶺薫専務の骨董屋廻りに同道するうちに琉球関係古文献蒐集に興味をもった。1979年8月、神山政良蔵書の沖縄史料編集所への寄贈に立ち会い、9月の『南島史学』に「琉球の稀書について」と題し発表。

岸氏は1995年12月8日に逝去、78歳であった。その膨大なコレクションは、夫人の朝子さんにより沖縄県公文書館に寄贈された。1977年8月に主な文献を展示した特別展「沖縄へのまなざしー岸秋正文庫の世界ー」が開催された。その図録に展示の資料評価・選定の協力者として私の名前も記されている。

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