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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
米軍反対の抗議に那覇と東京で数千人が集まる【デイブ・オーナウアー記者、チヨミ・スミダ記者】

キャンプ・フォスター、沖縄発――約6万5000人の人波が日曜日に陸上競技場を埋め尽くし、米軍の沖縄撤退と海兵隊の普天間飛行場を同島の遠隔地に移す計画の撤回を要求した。同様のデモンストレーションが日本の47都道府県のうち41都道府県でも計画されていた。東京では、米軍撤退の要求に呼応し、安倍晋三首相を厳しく非難するために7000人以上の人びとが日本の国会議事堂の外に集まった。米国人軍属に容疑がかかっている20歳の女性の殺害を含む最近の犯罪の多発は沖縄で、日本の他の地域に比して当地での米軍部隊の数が不釣り合いに大きいことや、1972年の沖縄の施政権回復ののちでも中央政府による放置と背信の意識に対する憤慨を呼び起こしてきた。米軍兵士やその家族、その他の地位協定の対象者は、抗議行動の地域を避けるよう強く勧められたが、翁長雄志知事は海兵隊の全面撤退を要求した。「女性の人権を踏みにじった非人間的で野蛮な行為を決して許さない。私は憤慨している」と、翁長は語った。その彼は基地反対の公約で選挙に勝った。

 那覇の奥武山競技場では、発言者たちは次々に感情的な演説を行い、二人の日本人記者は泣いていた。ある学生は群衆に日本語で話した後、「私たちは沖縄の復帰後も70年間、惨酷な仕打ちに耐えてきた」と英語で語った。「私たちはこの国があなた方の友人、あなた方の隣人でありたいと願っている。しかし私たちは、基地がなくなることを願っている。この状況は、私たちの国があってほしいものではない」。稲嶺進名護市長は、第2次世界大戦以来の数十年間、「何も変わらなかった」と加えた。沖縄は、米軍の侵攻後の長い戦闘で荒廃させられ、それから米軍がこの島の支配権を握った。

高里鈴代は、軍隊に反対する女性グループである「基地・軍隊を許さない行動する女性たちの会」(英文では「軍隊の暴力に反対する沖縄の女たちの行動」)の共同代表だが、4月に行方不明になって1か月後に沖縄の森の中で死体となって発見された島袋里奈(20歳)の父親が書いた手紙を読み上げた。その手紙の中で彼は、彼が失ったものと米軍人・軍属の犯罪のそのほかの犠牲者の被害を嘆いた。ケネス・フランクリン・ガドソンは、民間の基地労働者だが元海兵隊員で、妻の姓であるシンザトを名乗っているが、日本の捜査当局から、知らない人をレイプするために探し回り島袋を殺害した嫌疑をかけられている。「なぜ私の娘が犠牲にならなければならないのでしょうか?」と彼女の父は手紙で述べた。「なぜそれが娘なのでしょう? どうして娘は殺されなければならないのでしょうか? 私はいま、数えきれない家族たちがこれまでに感じてきた悲しみと苦痛を共にしています」。

呉屋守将は「かりゆし」グループの会長だが、犠牲者の父親の願いを果たすために――彼の娘を最後の犠牲者とするために、あらゆることをすると語った。「今日は“父の日”です。野蛮な殺害がなかったならば、犠牲者の家族は今日を幸せな日として楽しんでいたでしょう」と呉屋は語った。翁長は、島袋の遺体が発見された現場を訪れ、花を捧げて、彼女を守れなかったことを詫びたと語った。彼は、1995年に3人の米兵が小学生の女児をレイプした時、そのようなことが再び起こらないようにすると誓ったが、「それを防ぐために政治制度を変えることができなかった」と語った。

 東京の国会議事堂でのデモンストレーションは、「許すな! 女性の殺害」「彼女のいのちを返せ」とコールした。「これらの事件は基地がある限り起こる」と主催メンバーの一人、菱山南帆子は群衆に語った。「私たちの平和は沖縄の犠牲の上にある」。そこでは意見の多くが首相に反対するもので、彼はアドルフ・ヒトラーとして数多くのポスターに描かれていた。参加者たちは安倍を、米軍の日本駐留を許容することで沖縄での最近の事件に責任があると非難した。「安倍政権を退陣させるためにみんなで手をつなごう。安倍政権は諸悪の根源だ」と、主催団体の一つの代表である高田健は語った。

 沖縄では、翁長は、辺野古の新飛行場を人口過密地域にある普天間飛行場の移設問題の「唯一の解決策」と主張する安倍内閣を批判した。「私たちと中央政府を隔てる高い壁がある・・・。私はその壁を打破するために全力を尽くすと決意している」と翁長は語った。中央政府への長く煮えたぎる憤慨もまた明白だった。「私たち沖縄人は、本土の人びとに不信感を抱いている」と那覇の当真(?)シズオ(72歳)は語ったが、彼はすべての海兵隊が沖縄から撤退するのを見たい多くの人びとの意見をそっくり繰り返した。「その不信感は簡単にはなくならないだろう」と。

アメリカ人であるビル・オドンネルは、1969~70年に当地に駐留した後、沖縄で暮らす72歳の元海軍3等下士官だが、それらの発言を聞いて語った。「われわれは帰国すべきだ」、1972年に「帰国すべきだった」と。「ここは、かつては太平洋の要石だった」とニューヨーク州のジェネヴァ出身のオドンネルは言った。「今はもう、そうではない」と。人びとは県民大会(“沖縄の抗議”)の開始予定の午後2時の2時間前から集まり始め、競技場の内側と外壁側の座席をすぐに埋めつくした。数百人以上が外のビデオモニターで見るために引き返した。日本中の200と推定されるメディアもまた同席し、ニュースのヘリコプターが頭上をぶんぶんと飛び回った。主催者は抗議の参加者数を6万5000人と発表した。

翁長は、会場に到着した時と演説の区切りごとに大きな拍手喝さいを受けた。集会のあと、彼は記者たちに沖縄人の怒りは限界に達したと語った。「これを再び繰り返させないために、私は地位協定の抜本的な改定と海兵隊の撤退、沖縄駐留軍の縮小を要求することになる」と翁長は語った。「これは私のゆるぎない決意だ」と。出された集会決議は同じ方向に沿っていた。このようなデモンストレーションは、――在日米軍の半分以上が駐留する――沖縄そのほかで感情を燃え上がらせる一連の犯罪によって火をつけられた。

島袋の殺害、海軍兵士による日本人女性のレイプ、飲酒運転と結びつけられてきたもう一人の海軍兵士による車線をはみ出した衝突事故は、米軍兵士への飲酒制限と自由の規制をもたらし、先月のバラク・オバマ大統領の歴史的な日本訪問を傷つけた。そこで彼は、広島を訪問した最初の現職米国大統領となったのだが。     <星条旗新聞のクスモト・ハナ記者がこの報告に貢献した>■(訳:筑紫)
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1998年6月15日 『月刊ぶくぶく』新城栄徳「与座弘晴について再び」


2003年5月 城間自治会『与座弘晴の世界』/1987年 不二出版『日本読書新聞』復刻

  
1936年11月 内田鐵洲『動ぜざる信念の書』指南社/1937年5月 仲宗根源和『空手の話』指南社(榕樹書林復刻)

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写真ー与座弘晴

1999年3月24日『琉球新報』
浦添市「城間字誌」編集で発掘/昭和初期/国内出版界で活躍/城間出身の故与座弘晴氏/記者の入門書も著す
【浦添】昭和初期、東京で書評紙「読書新聞」や「新聞雑誌編集者・記者の基礎知識」など多くの本を著した浦添市城間出身者のいたことが「城間字誌」編集調査の過程で、23日までに明らかになった。これらの本が世に出たのは1930年から39年まで。字史関係者らは「出版の分野で偉大な県出身者がいたことが明るみに出た。沖縄近代史を補完する意味でも貴重な発見」と話している。本は同字公民館の「文庫コーナ」(仮称)で市民に公開される予定だ。
その人は、故・与座弘晴(旧名・正仁)氏。1898年に城間に生まれ、沖縄県師範学校を卒業し、具志頭小学校、浦添尋常高等小学校の教諭を経て、さらに学問、見聞を広めるために上京して早稲田大学に入学した。1930年に東京で「読書新聞」を発刊。安定した紙面と内容で書評専門紙として、当時の三大書評紙の一角を飾った。
城間字史編集にかかわっている浦添市中央公民館の又吉盛清館長と比嘉武宏自治会長が国立国会図書館で調査する中で明らかになった。
今回、与座氏がかかわった「日本読書新聞」(「読書新聞」が前身)など27冊のうち、15冊を複写で収集。うち11冊は本人が著したもので、与座氏の思考、人生論、新聞・雑誌・書籍発刊の入門書に大別される。特に入門書には「新聞雑誌編集者・記者の基礎知識」「新聞雑誌書籍出版と経営の実際知識」などあり、又吉さんらは「あの当時、ジャーナリストや出版編集者を育成する第一人者の地位にあったと思われる」と話している。
また、同字誌編集委員会の津波清事務局長らも「こうした出版関係者は、研究からこぼれることが少なくない。沖縄近代史を補完する意味でも貴重な調査結果になった」と話し、与座氏の15冊は製本し、市民、県民に広く公開する予定だ。




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1991年1月 伊佐眞一 編著『アール・ブール : 人と時代』伊佐牧子


写真・ブール師(the Rev. Earl Rankin Bull,1876~1974)/ブール文庫









伊佐眞一[アール・ブールと伊波普猷]
伊波普猷は,アール・R・プール宛て1926年1月30日付の手紙で, その末尾を次の言葉で閉じている。 「琉球は昨今非常な窮境に陥って国家の手で救済されなければ ならないやうになってゐますが何だかもう助からないやうな気がします。 この不幸なる民族の為に尚一層御奮闘下さることをお願ひします。」 この書翰は,その年,大正15年5月に, プールが中心になって準備をすすめていた ベッテルハイム渡琉80周年記念事業にちなむ2つのモニュメント, つまり石材記念碑の建立と一対をなす, ブールのベッテルハイム伝への序文を求められたことに対する返信であった。 「一月十一日附の御手紙は,方々まわりまわって, 今朝やっと手許に届きました」というのは,たぶんにブールが, 前年の伊波の上京を知らないで, 沖縄の住所に向けて出したためであろう。 かくて30日の朝になってやっと手紙を読んだ伊波は, その日のうちにペンをとったのであるが,この最後の一節には, 当時の沖縄経済の疲弊状態と, かくなるまでに至った真因についての伊波の認識が 端的にあらわれていると同時に, ブールを媒介にしたキリスト教とのかかわり, さらには沖縄「救済」についての思考のパターンが, くっきりと浮き出ているように思える。 ・・・


2016年2月26日 沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ「第33回 東恩納寛惇賞 贈呈式」祝賀会写真右から嵩元政秀氏(第32回東恩納寛惇賞)、新城栄徳、①照屋善彦氏(第24回東恩納寛惇賞)

①照屋善彦[資料収集の鬼:ブール師]
ブール師(the Rev. Earl Rankin Bull,1876~1974)は, 米国のメソジスト監督教会から,1911年, 九州・沖縄地区へ派遣され延べ15年間日本で伝道をした宣教師である。 師は沖縄での本務であるキリスト教の布教のほかに, 中学校での英語を教え, また幕末に来琉した英宣教医ベッテルハイムの記念碑を建立 (大正15年)したりして,大正時代の沖縄で顕著な活動をした。 また師は戦後, 琉球大学附属図書館に「ブール文庫」を寄贈した人としても知られている。 当文庫が設置された1958年頃の琉球大学附属図書館には 蔵書数が著しく少なく, 大学の使命である教育と研究にも支障をきたす状態であった。 特に,洋書の蔵書に至っては寥々たるものであったので, ブール文庫が琉球大学に寄贈された意義は大きい。 筆者や同僚で沖縄の対外関係史を研究していた者にとって, 当文庫はまさに干天に慈雨の如く有り難い贈り物であった。

ブール師は,沖縄への派遣が決定した1911年以後, 終生異常なほどの情熱と執念をもって, 「沖縄」と沖縄における プロテスタント宣教の開拓者ベッテルハイム研究に打ち込んだ。 19世紀中葉,ベッテルハイムが派遣(1846 ~54)された沖縄こそ, 日本キリスト教史における最初のプロテスタント伝道が 開始された場所であったからであろう。 アヘン戦争(1840 ~42) 後のアジアにおける国際情勢の大変化をうけて, カトリック・プロテスタントの中国をはじめ東アジアでの伝道活動が活発になった。 幕末の激動する琉球で, ベッテルハイムが フランスのカトリック宣教師と伝道活動を展開した史的意義は大きい。

師は,ベッテルハイムの研究に着手するや, 精力的に関係資料の大部分を収集し, その研究の成果を英文や邦文で次々と雑誌や新聞紙上で発表した。 特にベッテルハイムの日記・書簡や,彼を派遣した琉球海軍伝道会 (Loo Choo Naval Mission,本部はロンドン在)の報告書等の マイクロフィルム・コピーを師が自費で取り寄せたことは, ベッテルハイム研究史上での最大の功績である。 永い歴史があり公共機関でもない宗教団体から外国人や部外者が, 個人の研究に必要な関係資料を入手することが 如何に至難の技であるかということを, 筆者自身イギリスやフランスで身をもって体験したからである。 恐らくブール師は,欲しい資料に対する鋭い臭覚と 持ち前の粘り強さを発揮して入手したに違いない。 このような彼の精力的な資料収集活動については, 伊佐眞一氏の好著『アール・ブール - 人と時代』 (1991年)で詳しく述べられている。

ベッテルハイム研究は,琉球が置かれた当時の複雑な国際情勢の下で, 基本資料も多彩である。 (1)ベッテルハイムの日記・書簡と琉球海軍伝道会の報告書等, (2)ベッテルハイムが滞在中に接触した欧米人関係の関連資料。 例えばイギリス政府関係(本国・香港政庁・英国東洋艦隊等), 米国のペリー提督の合衆国艦隊,フランスの宣教師や同国艦隊, 欧米の民間船,ロシアのプチャーチン提督の関係資料等である。 さらに, (3)伝道地である琉球の王府(評定所文書等)と薩摩藩や幕府の関連資料, (4)琉球王国の宗主国である清国に関連した資料などがある。 これらの多岐にわたる膨大な資料群の中で, ブール師は(1)と(2)の関係資料の大半を収集している。 その他に琉球海軍伝道会の創立者のクリフォードは, 1816年に沖縄島を訪れたバジル・ホール一行に随行したので, バジル・ホールやマクラウドの航海記も参考にする必要がある。 その他ホールの前後に多数沖縄に来航した英国船関係の資料や, 当時の琉球を中心にした東アジア関係の欧文資料も研究に必要だが, ブール師はこれらの関係資料を戦前・戦後とも精力的に収集している。 年々充実していく本附属図書館で, ブール文庫は依然として貴重な資料の宝庫である.
(琉球大学人文学科教授)



伊佐眞一氏宅で,左が新城栄徳、伊佐眞一氏

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 2012年4月11日スマトラ島沖地震は、現地時間15時38分(UTC午前8時38分)にインドネシア西部、スマトラ島北西沖のインド洋で発生。

  PAC3配備のニュースを見ていると、正に日本軍=自衛隊の戦争突入・戦争挑発の観がして、激しい怒りと、屈辱感を覚えています。これが、日本復帰40年の象徴だと思います。沖縄の全住民が総決起して抗議したいものです。
◆4月11日(水) 午後6時から  那覇市・県民広場
2012年4月11日5時半に傘をさして家を出る。途中元県会議員の宮里氏に出会い会場まで同行する。県民広場は屋根があって雨天に丁度良い。会場には真栄里、詩人の高良、小説家の目取真、琉大の新城、彫刻家の金城、県会議員の前田、元国会議員の古堅、与那原町会議員らの諸氏が居た。政党は当然とは云え日本共産党、社大党、社民党だけであった。最近タイムスも新報も通信社垂れ流しの北朝鮮情報が多い。またタイムス、新報連載の「新日本の幸福」という通信社のヨタ記事は、明らかにガレキ受入反対を訴える母親の切実な感情が如何にも悪いというイメージを定着させようと企んでいる。2チャンネルの方ががマトモに見えてくる。□横道に逸れたが翌日の集会デモの記事は新報は4行で済まし、タイムスは写真付きで目立っていた。これで記者の感覚が分かる。
 
 北朝鮮のミサイル騒ぎでまた例のごとくPAC3の出番である。尖閣もそうであるがアメリカの軍事基地が中国や北朝鮮に対して何ら抑止(ゆくし)力にもなっていない証左である。選挙前。原発が古くなっても特別に延長、国営放送が一応反対の意見も紹介はするが、しっかり原発賛成の小母ちゃんも登場させ「原発で仕事を得ている人も大事」と言わす。東電側も悪びれもせず前の民主党の指示で動いたんだという。とかく世論調査もアベに有利な状況を醸し出す。あまりにも幼児でもわかる国営、読売、産経のヤラセの横行。そのPAC3だが時事ドットコムニュースによれば、運用しているのは防空を担当する航空自衛隊で、08、09年に米国の試験場で模擬ミサイルの迎撃訓練を行なっている。なお、PAC3のミサイル本体の価格は、導入当初1基当たり約8億円、とある。




会場の入り口ではアベ政治が潰したい『沖縄タイムス』『琉球新報』の特集が配布されていた。
  
中央が赤嶺政賢1947年12月18日(68歳)沖縄県那覇市の農家に生まれる。那覇市立高良小学校、那覇市立小禄中学校、沖縄県立那覇高等学校、東京教育大学(現筑波大学)文学部卒業。東京教育大学在学中の1967年、日本共産党に入党。1971年、東京教育大学を卒業。沖縄県石垣市の沖縄県立八重山高等学校、沖縄県立八重山商工高等学校で教師を務める。1985年、那覇市議会議員選挙に出馬し、初当選。那覇市議会議員を3期務めた後、2000年の第42回衆議院議員総選挙に日本共産党公認で沖縄1区から出馬。沖縄1区では公明党前職の白保台一に敗れたが、重複立候補していた比例九州ブロックで復活。ウィキペディア 公式サイト「日本共産党衆議院議員 赤嶺政賢のホームページ」


糸数慶子参議院議員、沖縄社会大衆党委員長。○1947年沖縄県中頭郡読谷村生まれ。米軍統治下で育ち、米軍基地・読谷補助飛行場で実施されたパラシュート演習で投下されたトレーラーに小学生の少女が圧殺された事件(1965年6月11日)をきっかけにはじまった米軍抗議集会に初参加。1966年に読谷高等学校卒業後、琉球放送の番組「土曜ワイド」アシスタントや、沖縄バス・東陽バス等のバスガイドに勤務。沖縄県の歴史や現状を県外、国外の人に伝えるバスガイド経験は20年におよぶ。1989年に沖縄大学短期大学部非常勤講師、1990年にYMCAホテル専門学校非常勤講師を経て、1992年には沖縄社会大衆党の要請と、「私が家事・育児、みんなやるから出なさい」と言う夫・隆(当時沖縄タイムス記者)の言葉で、沖縄県議会選挙(那覇選挙区)に出馬、得票数第2位で初当選した。以後3期連続当選。 ウィキペディア



玉城 デニー(1959年10月13日/ 56歳)
は、日本の政治家、元タレント。生活の党と山本太郎となかまたち所属の衆議院議員、生活の党と山本太郎となかまたち幹事長兼国会対策委員長。元沖縄市議会議員。本名は玉城 康裕。□静かで荘厳な雰囲気の中で悲しみと抗議を示す歴史に残る県民大会となった。日米両政府は目に見える形で解決策を実行しなければならない。(20日『沖縄タイムス』)



本日(20日)の『沖縄タイムス』『琉球新報』は当然ながら沖縄県民大会記事で溢れかえっていた。
 菅義偉官房長官(秋田県出身/1973年法政大学法学部卒業)は20日午前の記者会見で、元米兵による女性殺害容疑事件に抗議した沖縄県民大会に自民、公明両党が参加しなかったことに関連し、「よく県全体(の大会)という話がされるが、それはまったくあたらない。沖縄にある11市のうち9人の市長が出席していない。自民、公明、さらに維新も出席しなかった。(だから辺野古が唯一)」とコピペ発言。まぁ、云うだけヤボと思うけど少しは気の利いたこと喋れねーのか。

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Posted by: ryubun02
  本日(6月19日)朝のYahoo!ニュースで3番目に「沖縄 きょう大規模な県民大会 」「県民大会の政治利用に懸念の声も」とあるが、後の方はアベに応えての記事だろうが、ソ連や共産中国はとっくに消滅し独裁体制の北朝鮮を根拠に相変わらず一昔前の「反共宣伝」。この大会も今までのようにガス抜きで終わることなしに次の選挙でアベ勢力をガス抜きにしないといけない。基地オキナワの実質上アメリカ統治のためのアベ政治を変えて行くのは革命でなく選挙だということは小学生でも分かる。断っておきたいが翁長知事(1975年法政大学法学部法律学科卒業)は安保容認。矛盾を抱えて「在沖米海兵隊の撤退」(この文句があるからアベ勢力は不参加)の大会に参加しているのだ。今のように露骨に新基地を押し付けるアベ手法はオキナワの「海兵隊の撤退」から「嘉手納基地撤去」に替わるのは目に見えている。


県民大会の途次、県議会前で昼食時間で聞く人が極端に少なく何やら選挙演説をしていた公明党、たしか参院選比例区に沖縄は自民党公認は歌手の今井エリカ(32)のはずだが。

モノレール旭橋駅周辺地区再開発事業の那覇バスターミナル部分。奥の左に那覇のヘソとも云うべき仲島の大石(沖縄県指定史跡・天然記念物)が見える。

『沖縄タイムス』「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾!被害者を追悼し海兵隊の撤退を求める県民大会」(主催・オール沖縄会議)が19日午後2時から、那覇市の奥武山公園陸上競技場をメーン会場に開かれ、主催者発表で6万5千人が参加した。米軍関係の事件や事故を根絶するため在沖米海兵隊の撤退などを求める決議を採択。会場は被害者への鎮魂の思いと静かな怒りに包まれ、二度と事件を繰り返させない決意を日米両政府に突き付けた。

 会場の入り口では様々な団体がチラシを配布、『聖教新聞』(公明党)のライバル『顕正新聞』(日蓮正宗から破門、独立した新宗教団体冨士大石寺顕正会が発行する言論機関紙で顕正新聞社の名前で発行されるWiki)、『長周新聞』(地元選出の内閣総理大臣・安倍晋三に対しては市政批判の材料として用いたりする事例もある一方で、安倍個人への批判はさほど大きくないWiki)、『解放』(解放社(かいほうしゃ)は日本の出版社。新左翼組織・「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」(革マル派)の公然拠点になっており、公安警察による監視対象の一つになっているWiki)など。


上左が中根氏、右はその友人で京都から参加、アベ政治が最も嫌う日本共産党シンパの方々(左から本庄孝夫氏、原田完氏、池田哲也氏)


 

大阪からも参加



詩人・芝憲子さん


啄木研究家・宮城義弘氏


左が詩人の高良勉氏□2016年6月ー高良勉『山之口貘詩集』岩波文庫/中央が画家の新垣安雄氏□2016年7月2日~10日 南風原文化センター(☎098-889-7399)「「第2回・遊子の風展ー千葉柏・沖縄交流展」/右端が写真家の大城弘明氏□2016年6月~8月29日ー不屈館(☎098-943-8374)「大城弘明写真展ー地図にない村」


どこの国か聞きそびれたが外人も取材で参加(そのうちの一人はDennis J.Frost,Ph.D.)
○琉大への留学経験もあるデニス・フロスト教授(39/ミシガン州カラマズー大学)は「温厚で優しい沖縄県民の湧き上がる怒りを見た」と述べ、日本本土による断続的な沖縄差別の撤廃と、日米地位協定の抜本的見直しが急務であると指摘。(『琉球新報』20日)





 写真・呉屋守将金秀グループ会長ー在日米国大使館が、米軍属女性暴行殺人事件を受けて19日に那覇市で開催される県民大会について「平和的であるように意図したデモであっても、対立的になり、暴力に発展する可能性がある」と表現し、米国人に対し会場周辺に近づかないよう呼び掛けている。同大使館が17日に、在日米国人向けにウェブサイトで発表した。この広報文は17日から大使館ウェブサイトに英文で掲載されている。大会を主催するオール沖縄会議共同代表の呉屋守将金秀グループ会長は「事件の被害者を追悼するという趣旨で開催する県民大会は、暴力的な行動とは真逆だ。米側は事態の重さを理解していない。現場を見に来てほしい」と話す。


会場の外でも大型テレビで放映され黙とう。


 今晩(19日)のニュースでは、アベチャンネル(国営放送の全国ニュースの別名)は全国ニュースでは報じてなく、九州・沖縄のニュースでサラッと報じていた。読売と産経は相変わらずアベ新聞で「政治色のない追悼の場を求めていた自民、公明両党などは参加を見送り、超党派での開催にはならなかった」などと嫌味を並べる。アベチャンネルが少し前に報じた世論調査と似た数字がアベに追従・読売新聞社にも出ていた。読売は17~19日全国世論調査を実施。それによると、参院比例選での投票先は、自民党が35%、民進党は12%、公明党、おおさか維新の会は各7%、共産党の4%などが続いた、と。相変わらず共産党の支持は公明党より少ないと嘯く。20日の産経新聞は県民大会の報道で例のごとく嫌味を加えて報じていた「辺野古では米軍基地前の歩道を基地反対派のテントが占拠。関係ない「原発反対」の旗を掲げたり、「お前らのためにやっている」と押しつけがましく言われたりすることもある。「地域住民の多くが反対派は自分たちの都合しか考えないイメージを持っている。今回も選挙前だから(県民大会を)開いたのではと勘ぐってしまう」だと。今晩(20日)のアベチャンネル(国営放送の全国ニュースの別名)は全国ニュースでまた全国世論調査で前と似たり寄ったりのアベ追従の数字を垂れ流していた。

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Category: 03-所感
Posted by: ryubun02


2010年12月28日ーついでに、嘉手納まで散歩すると「知花たたみ店」(代表者・知花久明 〒904-0203 嘉手納町字嘉手納463-13-新町2号館106号 ☎098-956-2601 携帯090-1870-4104)があった。そこの名刺には漫画で似顔絵が描かれている。妻の末妹の夫の名刺「テシオ学習塾」(塾長・具志堅盛次 〒905-0401 今帰仁村仲宗根177 ☎0980-56-4186)にも漫画の似顔絵があった。

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2016年6月13日『沖縄タイムス』辺野喜(陳)宝来「沖縄と台湾 交流へ同好会発足」
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スミソニアン博物館のフランクA・テーラー館長に琉球絣を贈る琉球政府立博物館の大城精徳(右)、左が八重山琉米文化会館の長田信一、中央が文化人類学課のユージン・ネズ博士

○去る5月16日から8月14日の3か月間、米民政府派遣の技術研修員として、アメリカ各地の博物館や美術館などを八重山琉米文化会館館長の長田信一氏とともに視察してきた。(略)アメリカの博物館は1930年代から急速な発展を遂げ、現在では大小合わせて、全米で4千館近くもあるといわれている。これは、現在のアメリカの人口約2億人とみて、約5万人に一つの博物館という割り合いになる。この中には美術館はもちろん児童博物館や大学付属博物館、それに記念館などが含まれている。というのはアメリカでは資料を所蔵し、その調査、展示および普及教育を行っている施設は、その固有の名称がどうであれ”Ⅿuseum〟と考えられているからである。

○ワシントン市のスミソニアン博物館(The Smithsonian lnstitution)-ここの巡回展示部の主催で、先年、琉球の古文化財がおよそ全米に紹介されたり、また最近では文化人類学室のアジア・ホールに沖縄関係資料陳列ケース(紅型、織物および玩具数点)を新たに加えるなど、沖縄とも関係の深い機関である。筆者はここで4週間の視察研修を受けたが、毎日が驚きの連続であった。(略)スミソニアンは国立になっているが、連邦政府のどの省にも属さず、大統領、副大統領、大審院首席判事、それに大統領の閣僚を会員とする特別な機関である。その運営の最高機関はスミソニアン理事会で、これには副大統領、大審院首席判事、上下両院の議員各々3名、そして国会から任命された一般市民6名の計14名からなっている。一般市民6名のうち、2人は首都ワシントン居住者で、他の4名は各々違った州から任命され同州から2名任命することはできない。アメリカの博物館は公共私立を問わず、ほとんどがこの理事会制度をもって運営されている。

 ○公立の博物館ー代表的なものとして、筆者が訪ねた中ではミルウォーキー公立博物館とオークランド公立博物館がある。ミルウォーキー公立博物館は自然史博物館の性格に、その地方の歴史資料を加えたもので、ここも総工費6百万ドルを投じて1963年4月に新館が落成したばかりである。陳列場以外は殆ど旧館からの移動も終わり、活気に溢れていたが、陳列場の移動は3割程度で、年次計画で1971年までかかるとのことであった。(略)博物館に対する寄付は多くの場合「博物館の友」を通じてなされ、また、この種の寄付に対しては、学校や教会に対するそれと同じように、年間所得の30パーセントまでは免税されるという特典があたえられていた。このような免税制度は、もてる国アメリカよりも、むしろ沖縄のようなところで、絶対に施されるべき性質のものではないかと考えられた。

 カリフォルニア州のオークランド市では、現在歴史博物館と自然科学博物館、それに2カ所に分設された美術館があるが、これらを1カ所にまとめようとやはり6百万ドルの建築費を投じて新館を建設中であった。館長の説明によると、完成のあかつきには博物館活動のみでなく、オークランド市のあらゆる文化活動の中心になる一大文化センターになるということだった。オークランド市はオークランド湾をはさんで、サンフランシスコと向かい合っている人口約40万の都市である。建設の過渡期にある那覇市としては、これまで文化事業面に力を入れる余裕がなかったと思われるが、そろそろ文化面に市政を反映させてもいいころではなかろうか。

 私立のボストン美術館は、中国、日本、インド、メソポタミア、エジプト、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパ諸国およびアメリカの美術工芸品をアメリカで最も多く所蔵している世界屈指の美術館の一つである。今少し具体的にいうと、同美術館の東洋部(岡倉天心と最もゆかりが深い)の収蔵品数が約40万点でアメリカで最大、西洋画部は、12世紀のフレスコ画、14,15,16世紀のパネル画、そして17世紀から今日に至るキャンバス画、総計約2千点、そのうちの印象派の作品数がアメリカで最大、たとえば印象派の巨匠モネーの作品が陳列されているだけでも60余点に及んでいた。(略)同美術館についてどうしても言及しなければならないものに、教育普及活動がある。特に同博物館は、教育活動の先駆者といわれるだけあって、大変な力の入れようであった。

■関連・1997年7月 電通総研『情報ビッグバン・日本の挑戦ー「日本と日本人の未来を描く」フォーラムからの提言』○文化だけが社会づくりの求心力であるとすれば、社会は過去に引きずられてしまいます。社会を新しい変化の側に引き寄せていく求心力は、来るべき社会へのイメージの共有と、次なる変化への合意形成の中から生まれます。/情報ネットワーク社会が、インターネットや携帯電話、多チャンネル放送などによって、その姿を現すにつれ、日本でも海外でも、負の側面が観察され指摘されるようになりました。そのひとつが、社会から孤立した「孤人化」「オタク化」の現象。個人情報がハッカーなどの手によって漏れ、匿名で悪意に満ちたウワサを流し、マネーカード暗証番号の流用などのリスクの問題も出てきた。

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2005年5月 勝谷誠彦・藤波俊彦『世界がもし全部アメリカになったら』アスコム
○地球上には約17万発の核弾頭、これなら70回この世は破滅できる/アメリカのように世界で殺人が起きたなら1日949人が殺される/もし世界がアメリカのように犯罪王国になったら1年に2億5276万件の犯罪/もし世界すべてがアメリカのような銃社会になったら46億丁の銃が出回る/もし世界すべてがアメリカのように電気をじゃんじゃん使ったら全世界の電力消費量は現在の5.6倍になる/世界がアメリカになると石油は7年で掘り尽くす/もし世界すべてがアメリカのように二酸化炭素をどんどん出したなら、東京の江東区、江戸川区、墨田区、葛飾区は海面下に。上海は3分の1が水没/アメリカは弁護士さんの国。日本は6326人に1人、アメリカは267人に1人いる。だから世界の訴訟費用は557兆7455億円になる。それに携わる弁護士も2356万人/世界中の人々がアメリカのように乗用車を持ったなら29億2863万台もの乗用車が出現する/世界がアメリカになったらジョージ・w・ブッシュが地球上に191人


2010年9月『図解!在日米軍基地完全ガイド』洋泉社


2010年10月 ドルー・ギルピン・ファウスト著/黒沢眞里子 訳『戦死とアメリカー南北戦争62万人の死の意味』彩流社
□本書によると戦死者62万という。南北戦争の約40年後に起き、プレ世界大戦とまで呼ばれた日露戦争の戦死者は、両軍合わせて約10万。二つの大戦での米軍の戦死者の累計は約50万。南北戦争に及ばない。南北戦争は国家間戦争ではない。内戦だ。ゆえに世界史での扱いも軽くなりがち。だが死者数では20世紀の戦争を先取りした。


2010年12月 クリス・マクナブ著/増井志津代 監訳/角敦子 訳『アメリカ先住民戦いの歴史』原書房
□ヨーロッパ人の新大陸開拓から19世紀末までの入植者とアメリカ先住民の戦闘を、さまざまな視点から多角的にとらえ、詳細に分析し解説する。布陣図や地図など、200点を超える写真と図版を収める。


2011年6月 明石紀雄/飯野正子『エスニック・アメリカ第3版』有斐閣

渡口彦邦(渡口萬年筆店)さんの見た「世界のウチナーンチュ大会」
2011年10月12日「前夜祭パレード」
渡口 彦邦 写真2

2012年6月23日「いとまんハーレー」

本日は慰霊の日なので糸満のハーレーを英語塾の仲里正雄氏、ポール氏ファミリー、ジェームス君(James Rhys Edwards, https://ucla.academia.edu/JamesRhysEdwards)と同行し見物。正午には皆で黙祷した。
2012年7月20日、米コロラド州オーロラ(Aurora)の映画館で、映画「バットマン(Batman)」シリーズ最新作(当時)の上映中に男が銃を乱射。12人が死亡、70人以上が負傷した。服役中のジェームズ・ホームズ(James Holmes)受刑者には、仮釈放なしの終身刑が言い渡された。。【翻訳編集】 AFPBB News

2012年12月14日、米コネティカット(Connecticut)州ニュータウン(Newtown)のサンディフック小学校(Sandy Hook Elementary School)で、若い男が銃を乱射。児童20人を含む26人が死亡。容疑者は自殺。同容疑者は事件直前に自身の母親を銃で殺害している。【翻訳編集】 AFPBB News

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2013年5月3日 ポール氏夫妻

 ヨーロッパからの移民は1855年に建てられたキャッスル・クリントンを通った後自由の女神②(1886年フランスより贈呈)に見守られ1892年に始まったエリス島の入国審査を通る形となった。②アメリカ合衆国,ニューヨークのマンハッタンの沖合い,ニューヨーク湾に浮かぶリバティ島に立つ巨大な女神像。アメリカ合衆国の誕生 100年およびアメリカとフランス両国の変わらぬ友好を記念し,1886年フランスから寄贈された。→コトバンク

自由の女神。ベタな観光も良いものです。私が行った日にはリバティー島に上陸することができなかったので(6月28日)、船上から。以前のハリケーンの影響でまだ工事をしていました。この日から約1週間後の7月4日「独立記念日」から開放されました。遠目だったので、「あぁ、大きいね!」といった感じで終わりました。船から見るマンハッタン島の眺めが面白かったです。。→沖縄女性ー2013.07.11

 ニューヨーク市地下鉄は現在MTAが一括管理しているが当時はインターボロー・ラピッド・トランジット、ブルックリン・マンハッタン・トランジットに分割管理されていた。インディペンデント・サブウェイ・システムの始まりにより1904年に統一され、5区に人口が一気に広がることとなる。1903年のウィリアムズバーグ橋、1909年のマンハッタン橋の完成はマンハッタンとの交通をより活性化させブルックリンのベッドタウンが発達した。1923年2月1日には世界最大の鉄道ターミナルとなるグランド・セントラル駅が開業(以前から同じ場所にターミナル自体は存在した)。ペンシルベニア駅は1910年に完成している。


グランドセントラル駅。最近、東京駅と姉妹駅の締結をしたそうです。レトロな駅です。シャンデリアや天井に星座の装飾が施されていて、アーチ状の窓などとても雰囲気のある駅。駅中央の案内所(写真)の時計も良かったです。NYに行く飛行機で知り合ったおじいさんと滞在最終日にここで待ち合わせをして食事に行きました。良い出会いもあるものです。→沖縄女性ー2013.07.11

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  今売り出し中の若手(❔)写真家・豊里友行(TOYOZATO TOMOYUKI)クンの「とよチャンネル4」で仲程昌徳『沖縄の投稿者たちー沖縄近代文学資料発掘ー』ボーダーインクが紹介されている。「戦前、中央の文芸雑誌に詩や俳句などを投稿した ウチナーンチュの作品を発掘・紹介されていて瞠目の文学資料発掘の書。創作の重要性を注視しがちだが、この歴史に埋もれがちな文学作品の歴史を掘り起こし記録する仕事も重要性だと私は、声を大にして言いたい。貴重な仕事」と豊里クンは強調している。

 私の東京時代1964年、神保町の古本大学に遊学し乱読を極めたが、読んだものの大半は記憶にない。。その間、中学のころからの漫画や民俗学に加えて、探偵雑誌や実話もの雑誌が目茶目茶安いので買って切り抜いて手帖にスクラップにしていたが、これも放浪性ゆえか殆ど残っていない。仲程氏は大学の先生なので系統だって文学関係の資料を国会図書館や国立、私立の大学図書館で収集していることは30余年まえから知っていた。仲程氏の本書発刊は『沖縄の投稿者たちー沖縄近代文学資料発掘ー』のあとがきで本書の発刊理由を「若い研究者に、大切な時間を、同じような資料集めにこれ以上浪費させたくない」ということである。私などは同じ資料収集でも興味の赴くままで、かつ結論は必要としない。

 本書を見て思いついたことを書き留める。目次は1 『文庫』と沖縄の投稿者たち/ 2 『明星』と沖縄の投稿者たち/ 3 『創作』と沖縄の投稿者たち/ 4 『スバル』と沖縄の歌人たち /5 『文章世界』と沖縄の投稿者たち /6 『ホトトギス』と沖縄の俳句作者たち/7 『趣味』と沖縄の投稿者たち、となっている。写真や図がないことは少々不満である。写真家・豊里クンを冒頭に持ってきたのはそういう意味である。かの西郷隆盛の写真もまだ確認されていないが銅像などでイメージとしては定着している。本書に出ているウチナー投稿者たちの写真が現在あるのは、西平野の守、紅梯梧、煙波、汀鳥、麦門冬・詩華兄弟、名護朝扶、山城正忠、上間正雄、小橋川南村、、尚球、比嘉良篤、神山宗勲、渡久地政馮、上里無春、東恩納寛敷らであるが近年、摩文仁朝信の写真が新聞で紹介された。


左から俳人・東風平汀鳥、麦門冬、國吉朝秀、末吉安慶、名護朝扶、最後の女の子は不詳。



写真左から二人目の立っているのが山城正忠、その下が上間正雄、4人目の立っているのが末吉麦門冬、その下の真ん中が渡嘉敷唯選。庭で左に立っているのが池宮城積宝、右が名護朝扶


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1909年2月28日『沖縄毎日新聞』「合衆国の東洋政策(4)」連載

1909年3月16日『沖縄毎日新聞』「米国石油販売広告ー紐育スタンダード石油会社① 鹿児島米油組合委託販売所/沖縄県下特約販売店・濱田平畩(那覇区字東市場角)、山下分店(那覇区字東町端)、富士丸支店(那覇区字西八十八番地矢野店隣) 」
①紐育スタンダード石油会社1911年にシャーマン法(反トラスト法)違反で解散を命じられ33の独立会社に解体されるまで、アメリカの石油産業を支配していた巨大トラスト。1897年にはニュー・ジャージー州法人の持株会社として再編成された。しかし、1911年、この持株会社もシャーマン法違反として解散を命じられ、ニュー・ジャージー・スタンダード石油(後のエクソン)、ニューヨーク・スタンダード石油(後のモービル)、カリフォルニア・スタンダード石油(後のシェブロン)はじめ33の独立会社に解体された。[佐藤定幸]→コトバンク

1909年3月17日『沖縄毎日新聞』「オペルク氏の沖縄観察談ー私は瑞典(スウェーデン)人でありまして英語で御話する事は随分困難な業ですけれど其英語は私に取っても外国である。また諸君に取っても外国でありますから同じ者同士で暫く御静聴御願いします・・・」

1909年3月19日『沖縄毎日新聞』「燈用石油の話/(略)世界に於ける石油の主産地ー北米合衆国露西亜ガリシア、ルーマニヤ、東印度諸島印度日本などで此の中で最も盛んなのは合衆国及び露国である北米のペンシルバニヤは實に最初に石油業が発達した土地で此地に石油が多いということは・・・・・」

1909年3月23日『沖縄毎日新聞』迂齊「米国便ー来て見れば聞く程もなし富士の山で米国の文明も故国にて思った程に結構なものには無之候愈々真相を知るに従ひ却て感心ならぬ處も多に有之候・・・・」
1909年4月29日『沖縄毎日新聞』「内外新聞記者恊会発起会」

1909年11月、アメリカ人・ウォーナー①来沖。

1991年5月30日『琉球新報』松島弘明「文化ノート/ウォーナー資料を追え」
1996年5月17日『沖縄タイムス』「ワーナー資料沖縄の民芸品 米博物館が保存」
 ①ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881年8月1日 - 1955年6月9日)は、アメリカの美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされるが異論も多い。マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903年ハーバード大学卒業。卒業後ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣された。1910年にロンドンで開催される日本古代美術展の準備をしていた岡倉らを手伝い、3冊の詳細な出品カタログ『日本の寺とその宝物』の英訳に協力した。帰国後東洋美術史を講義、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長を務めるなど、東洋美術の研究をした。1946年、米軍司令部の古美術管理の顧問として来日。朝河貫一とは親交が深く、数々の書簡を交わしたりウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。→ウィキペディア
○日本各地にはウォナー記念碑が6か所もある。最初の法隆寺の碑から、最後はJR鎌倉駅前の碑。

1911年6月8日 尚昌、神山政良、イギリス留学の途次サンフランシスコ着、安仁屋政修(沖縄県人会会長)らが出迎える。

1991年5月27日『沖縄タイムス』宮城悦二郎「ジョン・W・ダワ―教授のこと」
1991年9月 『新沖縄文学』「特集/アメリカ文化との遭遇」89号 ジョン・W・ダワ―「講演録 人種偏見と日米摩擦」


1911年10月23日『琉球新報』「『新日本』<アメリカ號>広告ー近世文明上エジソンの功績」
アメリカ文化/発明王エジソン
1922年、エジソンはアメリカ国内でジャーナリストとの対談をおこなった際、当時の日本について「日本は進歩的で進取の気性に飛んだエネルギッシュな国である。日本国民をその小さな島国に永久に閉じこめておくことは出来ない」と述べ、日本の拡張政策に理解を示した。→(ウィキペディア)

○1927年ー大阪で普久原朝喜が「マルフクレコード」設立□朝喜は親の借金を返済し、実家も新築した。新しい家には、蓄音機を発明した米国の発明王エジソンの肖像画を掲げた。「偉い人だから手を合わせて拝みなさい」と養父は私たち家族に言って聞かせたものだった。(普久原恒勇)
1931年11月27日に日比谷公会堂にて行われたエジソン追悼会の席上、追悼会長であった金子堅太郎によって「日露戦争の戦費調達のため訪米した際、エジソンより秘密研究室で働く日本人を紹介されたのが岡部芳郎君」と紹介された。→(ウィキペディア)
○おもちゃのまちバンダイミュージアム(栃木県下都賀郡壬生町おもちゃのまち)バンダイの玩具を主とした博物館「エジソンミュージアム」
○京都男山の石清水八幡宮境内にトーマス・エジソン記念碑。白熱電球の改良に際し当社境内の竹を使用したため、2月11日にはエジソン生誕祭も行われる。
○電電宮(でんでんぐう)、京都市西京区嵐山の法輪寺の鎮守社で、電気・電波の祖神として信仰されている神社。電電塔には電気研究者の代表としてエジソン、電波研究者の代表としてヘルツの銅製の肖像が掲げられている。昭和44年(1969年)に大阪万博を記念して社殿が再建。昭和54年(1979年)1月に電電宮護持会(電電宮並びに電電塔奉賛会)が結成され、電電宮・電電塔の維持を行っている。今日では、電気・電波だけでなくコンピュータ関係者や電気通信事業者からも信仰を集めている。→(ウィキペディア)

1911年11月11日、ブール、シュワルツとともに来沖。→1991年1月 ①伊佐眞一『アール・ブール 人と時代』

1912年3月27日にポトマック公園で、ヘレン・タフト大統領夫人と珍田日本大使夫人によって桜(ソメイヨシノ種)が植えられた、という。桜の穂木は東京荒川の桜並木だが、台木は兵庫県東野村で育てたものという。詳しくはネット検索で見てほしい。最近、アメリカの首都は何処にあるかと検索したら前記の桜の話が出てきた。アメリカ合衆国の首都はワシントン・コロンビア特別区(Washington,District Of Columbia)で1790年7月16日に設立。


1913年2月2日ー琉球新報記者だった富川盛睦(ニューヨークで小橋川朝重撮影)

1913年 山田有登、大阪市聖バルナバ病院に勤務。→『沖縄県人録』(1937年)に「山田有登君は那覇市の出身。明治17年1月22日を以て生まれる。沖縄県立中学校を経て金沢医学専門学校に学び、明治42年同校を卒業するや、直ちに石川県立病院に勤務して研鑽を積み同44年6月に愛知県渥美郡田原病院に転じて更に其の蘊奥を極め、大正2年聘せられて大阪市聖バルナバ病院に勤務。同9年転じて久原鉱業経営の鉱山病院に勤務。同11年退職帰県して久米大道りに開業。昭和11年、那覇市に逓信診療所開設されると其の初代所長となり今日に至る。なお君は学生時代野球選手たりしだけに野球に趣味あり」とある。→2011年9月23日、以前から気になっていた天王寺の聖バルナバ病院をのぞく。受付で病院の案内パンフレットをもらう。それによると、同病院は1873年にアメリカ聖公会により派遣された宣教医師Henry Laningが大阪川口居留地に米国伝道会施療院を開設したのに始まる。1923年に川口から天王寺細工谷の現在地に移転しているから、写真家の山田實さんの父・有登は同病院に1913年から1920年まで勤務。その時の場所は川口ということになる。

□川口が貿易港として継続的発展をなしえなかったのは、安治川河口から約6km上流に位置する河川港であるため水深が浅く、大型船舶が入港出来なかったことによる。そのため、外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へと移住していった。彼らに代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として病院、学校を設立し経営を行った。平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院等はこの地で創設されたのである。それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、大阪の上町エリア(天王寺区・阿倍野区など)へ次々と移転して川口は衰退への道をたどることになる。対照的に大型外国船が集まるようになった神戸港は、1890年代には東洋最大の港へと拡大していった。(→ウィキペディア)

1914年5月9日『沖縄毎日新聞』伊波月城「日光浴ー新文明の先駆者たる北米合衆国の平民詩人ワルトホヰットマン②は3、40年これを実行したのである。・・・」
②ウォルター・ホイットマン はアメリカ合衆国の詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。超越主義から写実主義への過渡期を代表する人物の一人で、作品には両方の様相が取り込まれている。アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人でもあり、しばしば「自由詩の父」と呼ばれる。→ ウィキペディア
1914年6月26日『沖縄毎日新聞』「粗枝大葉ー19世紀の偉大なるアメリカ人ワルト、ホイットマンは大いなる都会とは・・・・」

1915年8月ー前暁鐘社の野里朝淳がマウィ島カフルイ港で写真屋開業

1916年6月9日『琉球新報』平良生(在ロスアンゼルス)「米国通信」
1917年9月、山入端隣次郎、アメリカよりT型フォードを3台導入し沖縄自動車商会を開業、運転手は福井県出身の大宮孝太郎。大宮は沖縄県「運転手免許証」(大正6年10月8日発行)第一号である。12月、布哇沖縄海外協会(當山善真)『会報』□表紙「汎太平洋と布哇」、大城幸之一「沖縄県の疲弊と之が対応策」、比嘉静観「沖縄県救済策」、大田朝敷「沖縄本島巡講行脚」、新城北山「布哇沿岸の琉球民族」/沖縄県海外協会(又吉康和)『南鵬』第1巻第2号□大田朝敷「ハワイと沖縄の関係」
1917年11月23日『琉球新報』「64年前ペリーと琉球を経て浦賀に上陸したハーデー翁が17日来日」

1919年 宮城与徳、父与正の呼び寄せで渡米→1921年ー屋部憲傳、又吉淳、幸地新政らと「黎明会」結成。
1920年1月17日 アメリカ合衆国憲法修正18条(全国禁酒法)が発効□1933年12月廃止

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西村眞次
1909年10月21日ー眞次長男・朝日太郎、牛込区新小川町にて生まれる。
1931年4月ー西村眞次『人類性文化史』武侠社
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1935年9月 西村眞次『史的素描』章華社

1936年8月ー『短歌研究』改造社□西村眞次「啄木君の憶い出」
1942年4月ー西村眞次『萬葉集の文化史的研究』東京堂
1942年8月ー西村眞次『大東亜共栄圏』博文館出版
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1946年5月ー西村朝日太郎、国立国会図書館創立事務を担当。
1957年11月ー西村朝日太郎、バンコクの第9回太平洋学術会議に出席。帰途タイ沿岸の漁労文化を調査。沖縄八重山の漁労文化も調査。
1966年2月ー西村朝日太郎、早稲田大学より米国セントルイス市のワシントン大学へ客員教授として赴任。
1988年5月ー西村朝日太郎、新城栄徳宛手紙「岸畑久吉氏早大文学部の主事を永らく勤めていた方で小生にとっても懐かしい方です」

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日夏耿之介の本/左下ー東恩納寛惇宛の日夏書簡(東恩納寛惇文庫蔵)
1917年12月ー日夏耿之介「まことの詩は、詩篇ではなくて詩人其のものである」
1931年10月-崎原好仁遺稿集『琉球のローマンス』(装丁・岸畑久吉)□日夏耿之介「好仁君崎原氏南島に人となりて早稲田大学文学部にまなび、その業まさに成らむとして癘疾俄かにいたり、卒然として逝く。君が丹念の資性素僕の感情は、まさしく命永く存らへて最も佳くその天賦を発揮すべかりしもの、半道に僵るるのなげきは、啻に遺子戚族の哀哭にとどまらむや、生まれて学を等しうするわれらの綿々限りなき愍惜也。いまその遺文、同学厚情の僚友等が手によりて開雕せられむとす。顧みて仲々然として剥哀をあらたにす。虔みて悼む」
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1942年5月ー日夏耿之介『風塵静寂文』桜井書店□「母は詩人としての小泉八雲、学者としての南方熊楠翁の清節高風に傾倒した」
1942年9月ー日夏耿之介『黄眠零墨』擁書閣赤門書房□「『おもろさうし』ー伊波普猷/南島古神謡の校冊は、別に伊波氏の選釋本あつて、吾々琉球語に縁のないものも些かこれを解釋することが出来るが、予の立場からいうても、いろいろー。詳かに上げる余裕がないがーな點で、實にいろいろな點で、庇陰をうける本である」


日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ、1890年(明治23年)2月22日 - 1971年(昭和46年)6月13日)は、日本の詩人、英文学者。本名は樋口國登(ひぐち くにと。通称は圀登)。号は夏黄眠、黄眠道人、黄眠堂主人など30数種類を数える。広範な学識と多岐にわたる文学活動で「学匠詩人」と称される。詩人としては自らゴスィック・ローマン詩體と称す高踏的で荘重幽玄な詩風であり、その神秘主義的な象徴詩は他に類をみない個性を放っている。また訳詩、文学論考、随筆などの幅広い著作があり、明治・大正期の文学論でも知られる。→ウィキペディア
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1942年6月19日 博物館嘱託鳥越憲三郎、昭和会館来館

鳥越憲三郎資料
1955年1月10日ー『沖縄タイムス』鳥越憲三郎「志喜屋の復活神事ー牛を殺す濱御願」

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 伊波普猷の弟・普成は1912年9月の『沖縄毎日新聞』に「ベージル・ホール 琉球探検記」連載、11月には「ビクトリヤの僧正 琉球訪問記」(クリフォードの名が出てくる)、1913年4月は「ぺルリ日記」、8月「チャールズ・ルブンウォース 琉球島」を連載している。


1915年4月9日『琉球新報』麦門冬「眞栄平房昭ー百年前の語学者」

1924年5月『沖縄教育』末吉麦門冬「百年前の英語通ー眞栄平房昭」
□西暦一千八百十六年、即ち今を去ること百八年前、英國の船長ベーシルホール(言語学者チャンバーレン氏の祖父)が率いる探見隊を乗せた二隻の英鑑が朝鮮から琉球へと回航した。キャンプテン、ベージルホールの塔乗した船はメーフラワー號と云ふのであった。此メ―フラワー號乗組員が探見した朝鮮琉球に関した記録が「朝鮮の西海岸及び大琉球探見記」と云ふ浩澣な本となって、英國で出版された。其の原本は沖縄図書館にも一部蔵されている。その琉球の部分だけは先年伊波月城氏に依って飜訳せられ沖縄毎日新聞に連載されたから、記憶された方もあろうかと思ふ。この本は極めて面白く琉球の風土文物が記述描写せられてあるので、言語学者のチャンバーレン氏も、幼い時から、殊に祖父さんがこしらへた本として飜閲愛翫したそうである。チャンバーレン氏が後年日本に渡り文科大学に教鞭を執るようになり、更にわが琉球に来り、言語風俗を調査し、其の有名な琉球語の文法書等を著すようになったのも、動機を溯ればこの本が与えた刺激からであったといふ。

扨て私が茲に紹介せんとする眞榮平房昭とは何人かと云ふに、ベージルホール、チャンバーレン氏の探見記に活躍している一人物メーデーラーのことである。メーフラワー號の乗組員中にヘンリー、ホップナーと云ふ青年学者がいた。この人が調べた琉球語の研究が探見記の巻末に載っているが、ホップナーはメーデーラー即ち眞榮平房昭の助力によりて、あれだけの語彙を蒐集したのである。其の時メーデーラーも又帳面と矢立とを携えて、頻りにホップナーに就いて英語を教わり、双方交換教授をしたといふことである。(以下略)

○1928年ー市河三喜編輯『岡倉先生記念論文集』に豊田實が「沖縄英学史稿」を寄せている。豊田は沖縄県の依頼で1928年3月22日から28日まで英語講習のため那覇に滞在した。そこで沖縄県立沖縄図書館長の真境名安興などの協力を得て沖縄英学史を調べたのが前出の沖縄英学史稿として結実した。中に末吉麦門冬の「百年前の英語通」も引用し真栄平房昭の家譜を書いている。(2011年11月)

豊田実 とよだ-みのる
1885-1972 大正-昭和時代の英語学者。
明治18年9月16日生まれ。青山学院教授などをへて,大正14年九州帝大教授となる。戦後,青山学院院長,同大初代学長。日本英学史学会初代会長。昭和47年11月22日死去。87歳。福岡県出身。東京帝大卒。著作に「日本英学史の研究」など。→コトバンク



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2014年10月19日(日)<旗頭行列・那覇大綱挽 >国際通り、国道58号久茂地交差点

2015年4月17日『沖縄タイムス』「ジョン・ダワーさんー転換期を語る⑥『愛国』とは戦争責任を認めること」 

2015年10月11日 那覇大綱挽





2015年12月3日『朝日新聞』カリフォルニア州サンバーナディノの福祉施設で2日午前11時ごろ(日本時間3日午前4時ごろ)、銃乱射事件が発生した。地元警察によると、容疑者は最大で3人おり、死者が14人確認されたほか、負傷者も14人以上出ているという。容疑者が逃走した可能性があるが、身元や動機につながる情報はなく、テロ事件かどうかは分からないという。事件が起きたのは発達障害がある人たちのケアなどをするNPOの施設の中という。CNNなどによると、施設は他の団体にも貸し出しており、事件が発生した時には何らかの行事が開かれていたらしい。警察によると、容疑者たちはライフルのような銃を使用し、防護服などを着ていたという。容疑者たちが事件後にRVで逃走した可能性もあり、警察は広範囲で警戒を強めながら捜査をしている。サンバーナディノはロサンゼルスから東に約100キロにある、人口が約20万人の都市。


写真左からダニエル・パック・スティーブンス氏(インディアナ州ホウバート在住)、夫人。新城栄徳
2016年1月13日 農連市場近くの喫茶店

2016年1月   高江洲 歳満 『誤国: “辺野古”に至る琉球・沖縄の事件史』 東海教育研究所
 
2016年1月6日『朝日新聞』オバマ米大統領は5日、ホワイトハウスで演説し、大統領令による新たな銃規制強化策を正式に発表した。演説では銃乱射事件で犠牲になった子どもたちに触れ、涙を流しながら「みんなで立ち上がり、国民を守らなければならない」などと訴えた。

2016年2月21日『朝日新聞』米ミシガン州カラマズー周辺で20日夜(日本時間21日午前)、複数の無差別発砲事件が起き、AP通信によると少なくとも6人が死亡、複数がけがを負った。警察は21日未明に容疑者とみられる男を逮捕し、捜査を進めている。地元テレビ局によると、発砲事件の現場は少なくとも3カ所ある。最初の事件が発生したのは午後6時ごろで、市内のアパートの駐車場で女性が複数回撃たれて重傷を負った。その後、近くの車の販売店で2人が死亡し1人がけがを負い、さらに約3キロ離れたレストランの駐車場で4人が死亡した。被害者の中には子供も含まれているという。警察は当初、死者を7人と発表した。被害者の間につながりはなく、警察はいずれの事件も同じ容疑者が無差別に起こしたとみて捜査。車で逃げた白人の男の行方を追っていたところ、市中心部で近くに住むジェイソン・ダルトン容疑者(45)を逮捕したという。カラマズーはミシガン州の南西部にある、人口約7万5千人の都市。

2016年6月13日『朝日新聞』米フロリダ州オーランドのナイトクラブで男が銃を乱射して50人が死亡した事件で、オバマ米大統領は12日午後、ホワイトハウスで記者会見し、「テロ行為であり、ヘイト行為である」と非難した。オバマ氏は「米国史上最悪の銃撃事件だ」とし、事件を「ひどい虐殺」とも表現した。6日『読売新聞』オーランドはマイアミなどと並ぶフロリダの主要都市の一つで、ディズニー・ワールドなどのテーマパークも多く、訪れる日本人観光客が多い。銃撃が起きたナイトクラブは、地元では同性愛者らが集うダンスクラブとして知られており、発生は日曜の未明だったことから、ほぼ満員の状態だったという。


 アメリカの上院議会は6月20日、銃の購入時に身辺調査などを義務付ける与野党提出の銃規制強化案を提出したが、採決に進むための動議は否決された。フロリダ州オーランドで12日に発生した、近代アメリカ史上最も悲惨な銃乱射事件を受けて銃規制への動きが高まる中、それでもアメリカ上院は行動に至らなかった。(ハフィントンポスト-2016/06/22)暴言王ではなおさら銃規制は銃緩和になるだろう。

 日米両政府は1日、在沖縄米海兵隊グアム移転協定に基づき、海兵隊がグアム島フィネガヤン地区に建設する単身下士官用隊舎の建設費として、日本が1億1316万ドル(約115億円)を拠出することで合意し、交換公文に署名した。2009年に締結したグアム移転協定は沖縄の負担軽減のため、日本が移転費用を最大28億ドル負担すると定めている。今回決まったのはその一部で、これまでに拠出した分を合わせた総額は12億7500万ドル。時事通信2016/08/01

 沖縄県の翁長雄志知事が、米軍普天間飛行場(宜野湾市)所属機の訓練移転先としておおさか維新の会が提案している鹿児島県西之表市の馬毛まげ島を視察したことに対し、西之表市議会は2日、視察に抗議し、移転を断固拒否するとの決議案を全会一致で可決した。決議は「沖縄県に米軍専用施設が集中していることは深く思慮すべき」としながらも、馬毛島への訓練移転について「種子島、屋久島、鹿児島県本土などの周辺自治体への悪影響(不安)は必至。断固拒否する」としている。(読売8月2日)沖縄は現在、日米も辺野古以外無いと云って日本国が総掛りで強引に新基地工事を強行している。加えて本土移転となると、「移転を断固拒否するとの決議案」が次々連発されて、反基地運動やアンポ闘争が勃発しアベ内閣が倒れる恐れがある。隣県でありながら沖縄が日米に新基地が強行されている現実(沖縄の怒り)を無視し、そういうワザとらしいパーフォマンスより地道に住民生活に影響のある目の前にある原発や自衛隊鹿児島地方協力本部種子島駐在員事務所 陸上自衛隊佐多射撃場・鹿児島県肝属郡南大隅町佐多辺塚 の心配でもしたらいかがか。

公約で不信任案可決を踏まえた「都議会冒頭解散」を打ち上げ、選挙戦では「東京大改革」「たった一人の戦い」を強調していたが例の国営放送は早々と当選確実を打った。こういう事態を想定し、石原慎太郎は26日、自民党本部で開かれた元総務相の増田寛也(64)の総決起集会で、「大年増の厚化粧。あの人はウソつきだ」などと小池氏をこき下ろした。またアベ晋三首相(61)は結局、自公都連推薦の増田寛也元岩手県知事の応援に来なかった。民進党の岡田克也代表も責任を取って30日、党本部で会見し、党代表選(9月2日告示、15日投開票)に立候補はしないと言明している。小池劇場から都民が覚めた時には・・・。(ヽ゚ロ゚)(ヽ゚ロ゚)(ヽ゚ロ゚)



『MAMOR』106号~108号ー 防衛省が編集協力しているからできる肉薄取材で、その活動内容と、自衛官の素顔に迫る、わが国唯一の自衛隊オフィシャルマガジン。

しんぶん赤旗 2016年7月30日
 東京都知事選(31日投票)で“初の女性都知事に”と売り込む小池百合子氏ですが、自身の公式サイトで、家庭教育支援議員連盟(通称=「親学」推進議連)の勉強会に参加していたこと(現在は削除)を明らかにしており、その子育て観を危ぶむ声が広がっています。「親学」とは、今回の都知事選で小池候補を支持し、日本の過去の侵略戦争を美化する改憲勢力の「新しい歴史教科書をつくる会」の元副会長の高橋史朗明星大学教授が提唱してきたもので、親の育て方と子どもの発達障害を結びつける特異な議論を展開。同議連は2012年4月に安倍晋三会長(現首相)、下村博文事務局長(元文科相)という体制で発足し、「親学」にもとづいた子育て観を推進するための法律をつくろうと活動。同年5月には、大阪維新の会がこの考えを「家庭教育支援条例案」に盛り込み、大阪市議会に提案しようとして、「発達障害は親のせいだというのか」との批判が上がり、撤回せざるをえなくなりました。

 
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1981年 『琉大法文学部紀要 語学文学論集№26』亀川正東「ポーに於ける異端と性の假設On Heresy and Sexual Benavior of E.A.Poe」
1982年7月 朝日新聞東京本社企画部『原爆展』(10月12日ー沖縄三越)

1982年12月 宮城悦二郎『占領者の眼』那覇出版社

1982年12月 宮城悦二郎『占領者の眼』那覇出版社

写真左から渡口善明氏、新城栄徳、宮城悦二郎氏
□宮城悦二郎氏死去/元琉球大教授 ①宮城悦二郎氏(みやぎ・えつじろう=元琉球大教授、元沖縄県立公文書館館長)2004年6月7日午前10時、肺がんのため那覇市の病院で死去、71歳。沖縄県出身。自宅は那覇市首里汀良町2の25の5。葬儀・告別式は9日午後2時から那覇市首里寒川町1の2、安国寺で。喪主は妻逸子(いつこ)さん。戦後の沖縄で米誌などの記者を務めた後、琉球大で米国の沖縄占領史や米統治下の沖縄マスコミを研究。「沖縄戦記録フィルム1フィート運動」など平和運動にも参加した。

アメリカ合衆国のコネティカット州グリニッジのマイアナス河にかかるマイアナス橋は、 1983年6月28日に金属疲労により部品が破断し吊り径間が30mに渡って崩落しました。(いちらん屋)

1984年2月 『シンポジウム 核と沖縄』日本科学者会議沖縄支部
1984年5月 高嶺朝一『知られざる沖縄の米兵ー米軍基地15年の取材メモから』高文研

1985年8月16日 『週刊レキオ』「原爆はどうなっているのか!」

1986年1月 ワールドフォトプレス『核兵器図鑑』光文社

1986年3月 ジョゼフ・ガースン/原水爆禁止日本協議会『デッドリー・コネクションーアメリカ反核運動からの告発』新日本出版社
1986年4月  ウクライナ共和国にあるチェルノブイリ原発で爆発事故

1986年7月 日本ペンクラブ編『ニューヨーク読本1ニューヨークを知る』福武文庫
○立花隆□ニューヨーク’81ーアスター一族の先祖、J・J・アスター①もまたアメリカン・ドリームの典型である。彼はドイツのウォルドーフから、1784年に移民してきて、パン屋のパン焼き職人になるところからはじめた。やがて、毛皮の取引が最も儲かる(略)アメリカの中国貿易は彼がはじめた。その晩年、どちらからも手を引き、その富を次々に不動産投資にふり向けた。

 (略)ユダヤ人の場合は、同じ民族とはいえ、ディアスポラ(世界放浪)の間に、宗教文化的側面を除くと異化がすすんでいたから、同じ民族の間でも差別があった。一番先にニューヨークに定着したのは、スペイン系のユダヤ人で、19世紀には大金持ちになっていた。そのころからドイツ系ユダヤ人たちがやってくるようになったが、彼らはスペイン系ユダヤ人から厳しく差別された。やがてドイツ系ユダヤ人たちも金融界で成功するものが続出した。彼らが成功をおさめたころ、東欧系ユダヤ人の波がやってきたが、今度はドイツ系ユダヤ人が東欧系ユダヤ人を差別した。(略)誰からも差別される黒人は黒人で、差別の対象をユダヤ人に見つけた。

(略)ニューヨークでは、犯罪を日常としている人間が、明らかに警察官の数倍はいるのだ。貧困と犯罪という病気からニューヨークが癒えるための処方箋はまだ誰も書いていない。高層ビルの中の繁栄の陰で、この病気と、先に述べたインフラストラクチャーの老巧化による機能不全という病気とが、ニューヨークの体内を芯の部分から蝕みつつある。(略)ニューヨークには、病気で死ぬ以前に、物理的破壊によって死ぬ可能性もある。一つはアメリカ人が皆恐れている核戦争の可能性。もう一つは、アメリカ人が誰も予想していない地震の可能性である。地震には全く無防備である。(ビルだけでなく、橋もトンネルも高速道路も)(略)建築家のことばを借りれば、「東京の高層ビルは大地に突き刺してあるが、ここのビルは、岩の上に置いてあるだけ」なのだ。

①ジョン・ジェイコブ・アスターは、アスター一族の初代となる著名な一員であり、アメリカ合衆国では最初の百万長者になった。アメリカでは初めてトラストを創設し、毛皮貿易、不動産およびアヘンからその資産を築いた。アスターはその事業からの撤退後、残りの人生を文化のパトロンであることで過ごした。鳥類学者ジョン・ジェームズ・オーデュボンや詩人で作家のエドガー・アラン・ポーを支援し、またヘンリー・クレイの大統領選挙運動を支えた。1848年にアスターが死んだ時にはアメリカ合衆国で最もリッチな人物となっており、少なくとも2,000万ドルと見積もられる資産を遺した。その遺志でニューヨーク市の大衆のためにアスター図書館を建てる費用として40万ドルを遺贈した(後にニューヨーク公共図書館に統合された)。またドイツの故郷ヴァルドルフにある救貧院には5万ドルを寄付した。アスターはその遺産の大半を次男のウィリアム・バックハウス・アスター・シニアに遺した。長男のジョン・ジェイコブ2世は精神障害があり、その人生を全うするに十分な医療費は遺された。ウィキペディア



1987年8月 ラブ・オーシュリー/上原正稔 編『青い目が見た大琉球』ニライ社

1989年1月 野村達明『フロンティアと摩天楼 新書アメリカ合衆国史②』講談社□自由放任経済への批判ー1879年に出たヘンリー・ジョージの『進歩と貧困』は、アメリカ出版史上の10大ベストセラーの一つに数えられている。『進歩と貧困との結合がわれわれの時代の大きな謎である』とジョージは書いた。そして彼は新開地サンフランシスコで投機業者による土地買占めをみて、この謎を解けたと思った。(略)1886年、彼はニューヨーク統一労働党からニューヨーク市長選挙戦にかつぎ出され、惜敗したが、セオダー・ローズヴェルト以上の得票を得たのである。

1989年2月 上杉忍『バクス・アメリカーナの光と陰ー新書アメリカ合衆国史③』講談社□結びにー「アメリカには黒人とか、プエルトリコとか、メキシカンとか、そういうのが相当おって、平均的にみたらまだ非常に低い」という中曽根元首相の自民党全国研修会での発言(1986年9月)が、全世界から猛反発をくらったのは記憶に新しい。(略)中曽根氏の発言は、ごく普通の日本人の、いわば『世俗的常識』を述べたまでだったからである。

1990年5月 『平和だいすき ノーモア ヒロシマ・ナガサキ45』原水爆禁止日本協議会

1990年10月 岡島成行『アメリカの環境保護運動』岩波新書→開拓精神に彩られたアメリカの歴史は、自然破壊の歴史でもあった。だが、それゆえに早くから自然保護の思想が芽生え、現代の活発な環境保護運動へとつながっていく。しばしば政治の場で闘い、幅広いネットワークを生かすこの国の多様な運動のスタイルと、それを支える自然観を、大小の市民グループへのインタヴューもまじえて紹介する。

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○右側下の天牛新一郎のハガキに「今度長い間御贔屓に相成りました道頓堀角座前の天牛新一郎書店が家主さんの一身上の都合で立ち退く事になりました。誠に残念でございますが、9月15日を持ちまして閉店させて頂きます。これから孫の高志の周防町店を手伝ってやろうと思っております。私もこの11月で88歳になりますが、お蔭さまでまだまだ元気でございますので、活躍いたしたいと思っております。」と記されている。その傍に、『中央公論』1980年12月の「お辞儀の天牛ー70年つづける古書店主ー」として天牛さんの1日が写真で紹介されている。○阪急古書のまち(はんきゅうこしょのまち)は、大阪市北区にある、阪急電鉄の高架下を利用した古書店街。古書店街ではあるが、美術品を扱う店や紀伊国屋書店の楽譜等を専門に扱う店などもある。


○そごう心斎橋本店ー大阪府大阪市中央区にあるショッピングセンター。1935年から2000年まであった「そごう大阪店」の閉店後、2005年に「そごう心斎橋本店」としてリニューアルオープン、2009年に閉店。建物は同年改装後に「大丸心斎橋店・北館」として開店した。 →コトバンク

○神戸・三宮の商業複合ビル「サンパル」にある古書街「サンパル古書のまち」で、唯一営業を続けていた「ロードス書房」が8月末で閉店する。県内の郷土史資料を中心に集め、長く歴史研究者らに愛されてきたが、ビルの衰退や店主の病気などのため退店を決意。阪神・淡路大震災を乗り越え、約30年続いた個性派古書街が姿を消す。古書のまちは1986年に8店舗でスタート。それぞれ和本や文芸書、全集、雑誌など異なる分野の専門書をゆっくり探せる空間だったが、経営不振や後継者不在で徐々に撤退が進んだ。→神戸新聞2013-8-3

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2015年6月 来間泰男『沖縄の覚悟 基地・経済・“独立”』日本経済評論社(〒101-0051千代田区神田神保町3-2 ☏03-3230-1661)定価3200円+消費税

2015年5月27日『琉球新報』来間泰男「5・17県民集会とこれから 私の視座ー土地接収の歴史、確認を より慎重、正確な発言課題」

農業経済学者・来間泰男
2002年7月の『沖縄タイムス』「復帰30年ー沖縄の縮図38」で「基地返還で、農業・工業・商業の発展は、まず考えられない。たとえ経済的打撃があっても、基地は返還されるべき。苦難を覚悟で惰眠から目覚めるしかない。」と来間泰男氏は述べている。現在の課題としては、「基地」を「原発」に置き換えても良い。


)<br />
 <b>国場幸一会長(国場組社長)</b><br />
2012年3月2日『琉球新報』<b>国場氏「辺野古」訴え あす訪米、推進要請</b>     <br />
 県防衛協会の国場幸一会長(国場組社長)が3日から訪米し、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を推進する立場から米政府などに要請行動することが1日、分かった。国場氏によると、名護市辺野古の地元関係者、グアムへの在沖米海兵隊移設を推進するメンバーも同行するという。<b>県防衛協会長</b>の立場で要請するとしているが、国場氏は現在、県商工会議所連合会長、県内の主要経済団体が加盟する県経済団体会議の議長も務めている。国場氏の訪米要請で、辺野古推進が県経済界の総意と受け止められる懸念もある。国場氏らは米時間の5日から米国務省、国防総省や上下両院議員らを訪ね、辺野古移設を進めるよう要請する。グアムのメンバーは在沖米海兵隊のグアム移転を早急に進めるよう求めるという。国場氏は「最近の県内からの訪米行動で沖縄県民は全員辺野古に反対しているという話が伝わっているが、県<b>民の中には辺野古移設に賛同し、推進してほしいという人もいることを説明したい」と述べた。</b><br />
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Category: 02-関西の沖縄
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大阪は1923年に関東大震災を機に沖縄青年たちの赤琉会が結成された。それを母体にして24年に関西沖縄県人会(渡口精鴻会長)が結成された。28年には『(関西)沖縄県人住所案内』が発行された。1935年8月には大阪市西成区鶴見橋通り6ノ4の関西沖縄興信社から『関西沖縄興信録』が発刊された。同社の顧問、編集同人に豊川忠進、眞栄田勝朗、下地玄信、山城興善、翁長良孝、古波蔵太郎、比嘉繁雄、古波蔵加壽が居る。

本名鑑の序文「関西地方は大阪市を中心として我国産業都市の中心地であると共に又最大の経済都市である。就中大阪市は人口三百有余人を擁し近代的文化施設は施され世界第三位の大都市である。殊に関西地方を理想郷に求めて来阪する県民は其数実に5万人と註されて居る。学者、弁護士、医師、実業家、学生、労働者、紡績女工等ありて各方面に亘りて各々其の職業生線(ママ)に健闘しつつあるは刮目に値する。近時我が県民が各方面に著々として地位を確保し成功しつつあるは吾人の意を強うして祝福せざるを得ない。然るにいまだ県民の消息近況を知るに完全なる機関なきは甚だ遺憾とする所である。茲に於いて吾人は『関西沖縄興信名鑑』を上梓し県民の頒布状態並びに活動状態及び職業、居所を詳細に記述して県民諸氏の座右に供せんとす。幸いに本名鑑が県民多数の連絡機関と徒然の好伴侶として聊かなりとも裨益する所あらば幸甚である。」とする。

現在、大正区は「リトル沖縄」とも称されているので名鑑の大正区之部を名前・(出身地)・職業の順に略記する。
北恩加島町/糸数亀助・糸数福盛(島尻)鉄工所、石川清方・石川松吉(中頭)商業、石川徳次郎(首里)鉄工所、糸数蒲・糸数正一(島尻)、糸村昌進(中頭)、石原昌三郎(中頭)塗工、稲福善太郎・稲福米男(国頭)履物商、稲福清一・伊佐川盛峯(中頭)、伊佐牛栄・伊佐牛清・糸数清吉(国頭)、糸数義男(国頭)酒醤油・日用品商、糸数敏(島尻)商業、伊是名興雄(那覇)運搬業、石嶺正吉(島尻)運搬業、伊佐川信行(中頭)製油工場、稲嶺盛休(国頭)、稲嶺盛次郎(中頭)製材所、伊波善徳(島尻)鉄工所、糸数孝清・糸数蒲戸(国頭)喫茶店(喫茶酒場・和洋御料理 日之出家)、末吉業祐(国頭)雑貨商、池原安平(国頭)商業、伊佐栄吉(島尻)理髪職、伊佐眞栄(島尻)運転手、伊集守芳(島尻)、稲福盛貴(中頭)

花城清吉(島尻)鋳物工場、花城幸明(中頭)、花城秀正(島尻)、原國盛善(島尻)、花城安次(国頭)鉄工所、原國盛徳(島尻)鉄工所、平安座唯寛(中頭)製材所、平安座太郎(中頭)豆腐屋、豊里洋子(国頭)産婆、當山元光(国頭)製材所、當山松吉(国頭)、豊里友盛(中頭)、友寄信徳(中頭)、豊里友栄(国頭)、當山全太郎(国頭)鋳物工場、當山王雄、當山太郎(中頭)、知念徳(島尻)、知念安正(国頭)、知念政栄(中頭)、知念次郎(島尻)、知念安康(島尻)商業、知念栄進(島尻)、知念順太郎(島尻)製材所、知名十助(島尻)、知念松三(島尻)製材所、知念武蔵(島尻)、知花前明(国頭)、知念次郎(島尻)、知念良助(島尻)鉄工所、知念徳助(島尻)製材所、知名定成(中頭)

禰覇盛郎(中頭)製材所、禰覇盛雄(中頭)、大城博保(島尻)解船業、大城久次郎(島尻)、大城喜詠(中頭)商業、大城牛助(島尻)、大城平忠(島尻)商業、大城福市(島尻)商業、大城勝次(島尻)鋳物工場、大城秋吉(中頭)、親川孫三郎(国頭)製材所、大城善光(国頭)ニューム工場、大城廣助(島尻)製本屋、大城仁清(島尻)、親川松助(国頭)、大城充光(島尻)、大城喜定(島尻)、大城清堅(島尻)商業、大嶺太郎(中頭)、奥村嘉栄(国頭)、大城梅昌(国頭)、大城候八郎(国頭)、大城眞栄(国頭)、大城良吉(中頭)製材所、大城清秀(中頭)製材所、大城喜運(島尻)製材所、大峯次幸(国頭)、親川金助(国頭)、大湾朝康(島尻)運搬業、親泊元恭(島尻)運搬業、大城眞苅(島尻)運搬業、大城清太郎(国頭)鋳物工場、小那覇安徳(国頭)製材所、大城亀(島尻)、大村恭仁(島尻)、親川豊治(国頭)

大城正達(島尻)、大城恒一(島尻)薪炭商、親川鍋助(国頭)、親川孝次(国頭)製材所、親川孝徳(国頭)製材所、大城源盛(国頭)鉄工所、大城清次郎(国頭)製材所、大城徳太郎(国頭)製材所、大城仁豊(島尻)練炭所、大城亀一(島尻)練炭所、大城一増(島尻)薪炭商、大城正一(島尻)、大城吉造(島尻)解船業、大城一廣(島尻)運搬業、大城盛通(島尻)、大城嗣得(国頭)、大城亀太郎(国頭)、大城鉄雄(国頭)自動車業、久高幸吉(国頭)製材所、久高幸次郎(国頭)製材所、国場三郎(島尻)、久場憲松(国頭)、桑江朝昆(島尻)製材所、桑江常三(島尻)商業、久場川徳信(国頭)、久場川豊太郎(国頭)、久場川恒永(国頭)酒類商、久場徳三郎(国頭)、久高将生(中頭)、神谷清助(島尻)、神谷隆清(島尻)鉱油所、嘉手川東栄(国頭)、嘉陽宗光(中頭)

嘉数太郎(島尻)、嘉数三郎(島尻)鉄工所、嘉手苅東久、神里勇行(島尻)トタン工場、神谷蒲吉(島尻)鉄工所、我如古盛永(島尻)、嘉数亀蔵(島尻)、嘉数明光(中頭)、嘉数三次郎(島尻)、神山木啓(中頭)運搬業、神谷武助(中頭)、与儀實正(島尻)職工、与古田稚紹(宮古)薪炭商、吉原蒲おお一(宮古)鉄工所、与那嶺孫四郎(国頭)製鋼所、米須清亀(中頭)、吉本善幸(島尻)、与那嶺盛輝(中頭)、与儀實栄,世名城盛保、与那城盛仁(中頭)鉄工所、与名信栄(島尻)運搬業、与那嶺信一(那覇)商業、与那城正進(国頭)雑木商、平良源政(国頭)製材所、平良孝次(国頭)製材所身、玉城蒲(島尻)、玉寄長重(島尻)造船所、高江州次郎(中頭)鉄工所、高江州義武(国頭)製材所、平良三郎(島尻)、玉城亀(島尻)、平良盛吉(国頭)、澤岻安道(国頭)、澤岻安栄(国頭)、澤岻安通(国頭)鉄工所、玉寄亀助(島尻)、玉城嘉眞、玉寄松助(中頭)、高里良生

玉木義雄(首里)、平良明幸(宮古)、玉城幸栄(島尻)練炭所、玉城牛一(島尻)、玉城松寿(島尻)鋳物工場、玉寄長英(中頭)、平良仁幸(中頭)、玉城幸俊(国頭)、平良千代次(国頭)、玉城敏清(国頭)、平良善造(国頭)、玉城幸信(国頭)、玉城恒一(島尻)写真業、高江州次郎(中頭)行商、玉城正光(島尻)鉄工所、棚原良正(中頭)、玉城彌助(国頭)、玉城啓正(国頭)製材所、田島亀吉(島尻)鋳物工場、田港朝福(国頭)商業、平良良栄(中頭)、祖堅加那(国頭)、津波久太郎(国頭)大工、津波時太郎(国頭)、津嘉山朝信(島尻)、瑞慶覧長眞(島尻)、根路銘安徳(中頭)、長田亀助(島尻)鋳物工場、長田浩(島尻)鋳物工場、仲宗根松(中頭)練炭工場、仲宗根四郎(島尻)製鋼所、中村清之助(国頭)製材所、仲村唯夫(島尻)、仲宗根平三郎(国頭)、仲泊栄久(島尻)伸銅所、仲宗根蒲吉(中頭)、仲嘉盛保(島尻)、仲尾眞静(国頭)商業


宮城源清(国頭)米穀商□1987年7月16日『沖縄タイムス』「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記」<14>□宮城ユキ(93歳)ー今帰仁サンタケ生まれ、兄弟に県視学、医師二人がいた。夫は羽地我部祖河生まれの宮城源清。源清が早稲田大を卒業し渡米、ユキは呼び寄せでロサンゼルスへ渡った。6年間で沖縄で借りた負債を返し帰沖。すぐ大阪へ。照屋源徳らと米穀店を大正15年に開店する。宮城清市は昭和5年、宮城源清、津波久太郎、宮城源一、翁長良孝、古我知昌繁らと羽地村人会を発足させた。

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Posted by: ryubun02

2003年8月23日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網ー楽しみの一つ、『小学館の雑誌』」

1953年1月『琉球新報』
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1962年3月ー『オキナワグラフ』安村書店(安村善太郎・経営)
○父が定期的に那覇から粟国に送ってくれた小学館の少年雑誌は父の従兄弟の安村(安里)書店から買ったもの。

マンガや挿絵は出版文化とは表裏をなすもの。そこで戦前の沖縄の書店でどういう本が売られていたのかみてみたい。

1898年、那覇区泉崎の豊盛書林と、西の三笑書店には沖縄県尋常小学校読本も販売しているが、一般書も扱っている。世界年鑑、中等東洋史、中等日本歴史、算術新教科書、新撰算術、新式速記術、新撰日本外史、通俗世界歴史、世界文明史、詠歌自在、詠歌辞典などがある。

同時期の『琉球新報』には一般書や印刷物の広告が載っている。今でいう通信販売である。大阪の芳文館写真部「奇形嬌態裸体美人写真」、大阪の明文社の「画入男女たのしみ草紙」などである。学生向けの通信教育に東京学館の「自宅独習生徒募集」や帝国中学協会「諸学講義録」があるが、どちらも英学、国語学、心理学、論理学、教育学、算術、詩文学、幾何学、三角法、簿記学、代数学、化学、速記学などで内容は共通している。相前後して「ライオンはみがき」、「鳥井合名会社」の広告も目立つ。

1900年、村田弥三郎が、那覇警察署前で東京各新聞の取次ぎを始めている。博愛堂(小沢朝蔵)も新聞広告に近事画報社の「戦時画報臨時増刊号・日本海大海戦紀念帖」を載せ売り出しを図っている。近事画報社は1901年の『琉球新報』に広告「通俗小説文庫ー毎月1冊刊行」を載せている。並んで、東京日本橋の三越呉服店や「中将湯」の広告もある。

1902年の『琉球新報』の広告に京都の島津製作所の「博物地理歴史標本」がある。04年の広告には太田胃散、浅田飴、今治水なども出てくる。07年には十合呉服店(大阪・神戸・京都)、アサヒ、サッポロ、エビスビールの広告も目立つようになる。08年の広告に「実業之日本」、1911年の広告には博文館の常用日記や、「女学世界」、冨山房の「新日本」がある。那覇の円山勉強店の「キリンビール」売り出し広告もある。

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Posted by: ryubun02
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『琉球語讃美歌概説』より抜粋 
(キリスト教の日曜)礼拝は祈祷・讃美・聖書朗読で始まるが、その頃は日本語の聖書及び讃美歌が使用され、琉球語の通訳を付けたり講話や説教が琉球語でおこなわれたりした。明治20年西原間切末吉村(現那覇市首里末吉町)で出生した新垣信一は1907(明治40年)沖縄県師範学校を卒業し(同期に宮良長包)1909(明治42年)12月に中部農村の津覇尋常小学校(現中城村津覇小)の訓導となった。首里メソジスト教会員として旧約聖書箴言(しんげん)の要句を琉球語に訳し生徒等の教導に尽くしていたが、讃美歌も琉球語に訳し、自ら「琉球語の聖句並びに讃美歌帳」を編纂した。

 1914(大正3)年4月に津覇日本基督伝道所(教会)を設立、その教本として「琉球語讃美歌及箴言」を出版、1930(昭和5)年2月に改訂して『琉球語讃美歌附箴言』を編纂し、これが戦後も数多く復刻、抄録され、琉球の人々に親しまれてきたものである。琉球語讃美歌60篇琉球語箴言140条である。今日では信徒それぞれの信仰の思いを琉球民謡の節にのせて歌う民謡讃美歌にも展開されている。
 琉球語讃美歌は、H.B.シュワルツ宣教師のもと、伊波普猷、伊波普成(普猷の弟、新聞記者)、浦添朝長氏らにより15篇が訳され、全体で75篇(実数65篇)である。沖縄におけるキリスト教信徒は当初「本土出身者層〈寄留商人・公務員そして、その子弟〉」から「首里や那覇の旧士族層」(明治末)そして「地元の婦女子層〈地方の農村〉」と拡がりを見せるなかで『琉球語讃美歌附箴言』は広い階層と地域で愛唱・愛読され沖縄におけるキリスト教伝道に大いに貢献した。


「琉球語讃美歌」の特徴
 先ず、この讃美歌にはシザという語が(1番・6番・7番・8番・69頁)と6箇所に出て来る。 現代一般に琉球語(ウチナーグチ)を生活の中で使用している人たちにも、このシザは意味不明であろう。日常の会話には使用されていないので解説する。尚、シージャ(兄、姉、年長者)の意とは異なる。シザとは、神に対する生身の人間という意味で仏教で云う衆生(シュジョウ)生命ある全てのものに近い意味であろうと思う。その他、ぬんじゅ(うんじゆ〈貴方の最高形〉が同じく6箇所、しでぃる(拝受する、受け賜る)が5箇所、生(あむ)りみしょちゃる(お生まれになった)等の御殿言葉(うどぅんくとぅば)が随所に使用されていて、讃美歌の持つ荘厳な雰囲気や、文語体の持つ凜とした趣をよく伝えている。また一般の会話には使用されず、琉歌でのみしか使われない「言い回し」を使用することで詩歌としての品格も同時にそなえている。
 一方、「箴言(教訓の意をもつ短い句)」は逆に解りやすい一般会話調に終始していて、キリスト教の枠を超えて新時代に適合する近代合理主義を提唱しているようにも読める。僕が笑っちゃったのは60番「朝ん ゆさん 隣ぬ家んかい 立ち入りすな 後ーにりらりゆん」用も無くむやみに隣家に出入りするな、あきれ果てられるぞ!という意だが実に実践的である。そのような人も多かった(近代人としてのマナーに欠けた人が多くいた)のだろう。

御殿言葉(うどぅんことば)
 琉球語のうち、首里言葉(すいくとぅば)は士族言葉として有名だが実は士族言葉の上に御殿言葉(うどぅんくとぅば)があった。御殿言葉は主に王子・按司およびその家族内で話されていた。例えば、「おじいさん」は士族言葉では「たんめー」。平民言葉では「うすめー」というが、御殿言葉では{ウフジュンジャンシーメー」と云った。中城御殿には王世子の母君「アットーガナシーメー」が暮しておられた。敬語表複雑な御殿言葉は知名茂子著・尚 弘子監修の『松山御殿の日々』に詳しい。戦後、身分制度が無くなると供に〈言葉〉自体も雲散霧消し、昭和30年代頃には、ほぼ完全に使用されなくなったという。

「ぬんじゅ」にまつわる面白い話
親父は、出生前後の両親の離婚により母方の祖母とその連れ合い(血縁は無かったがとても可愛がってくれた)三人で首里当蔵で暮していた。(僕の)曾祖母は初め中城御殿でのちに美里御殿(ンジャトゥウドゥン)でアガマー(女中頭)として奉公し、(父の)義理の祖父は人力車夫として那覇の街に出ていた。ある日、曾祖母は勤め先から3~4歳の女児を家に連れて来ていたが緊張のせいかオモラシをしてしまったそうである。すると曾祖母はその女の子に「ヌンジョー シーバイ シーブサラーヌーンチ シーバイ シーブサン ディ イミソーランガ!」(あなた様はオシッコがしたかったのならなぜオシッコがしたいとおっしゃって下さらないのですか!)と言うなりお尻をまくってペチペチペチと叩いたそうである。当時小学校低学年の親父はそれを見て言葉と行動のギャップに可笑しいやらビックリするやらであったと語っていた。
首里北方(ニシカタ)に集中する御殿・殿内(ウドゥン・トゥンチ)では厳格な身分制度や複雑な敬語表現がありながらも(奉公人は下男下女ではなく)同時に「長幼の序」も並存するという、現代の沖縄県民には理解のしにくい世界があったんだろうと想像する。

 此処からは、勝手な僕の想像ではある。沖縄県民は凄惨な沖縄戦を体験し、戦後の苦難の歴史を生き抜いてきた。そして日本国の中でも民主主義(デモクラシー)に敏感な地域を創ってきた。そのベースには「ぬんじゅのエピソード」に見られるように、「本音」と「建前」を使い分けたり「本音だけ」「建前だけ」で生きてきたのではなく、異なる価値を融合・調和させて生きてきたのではないだろうか?沖縄県民のメンタリティーの基底にそんなセンスが宿っていなければ現在の「オール沖縄」は説明がつかない。
保守と革新の対立構図のみでの政治観では未来の沖縄を描くことは不可能だからである。 誠(マクトゥ) ソーケー ナンクル ナイサという言葉もある。※長幼の序=子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむという在り方。→五倫(孟子)


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