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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1898年(明治31)12月ー『日本全国商工人名録』「沖縄県 琉球國(那覇区及首里区)」
琉球國那覇区及首里区商工人名
紺絣製造 
伊波奥表ー泊、知念嘉道ー泊、渡口まつるー西、永田新太郎ー西、國吉眞輔ー泊、國吉眞福ー泊、國吉眞喜ー泊、小禄朝亮ー首里区眞和志
反布商
糸満盛訓ー西、井ノ口政次郎ー東、新名助次郎ー西、与世田昌快ー西、与儀幸包ー西、仲村カレ致嘉ー西、松堂恵英ー西  
米穀商
飛岡吉太郎ー西、友寄喜信ー西、大峰柳吉ー西、大坪岩次郎ー西、海江田丑之助ー西、中馬辰次郎ー西、矢野治右衛門ー西、児玉利吉ー西、小牧籐助ー西、鮫島武八郎ー西
漆器製造販売
琉球若狭組漆工所ー若狭町、米田惣四郎ー西、米次源吉ー西
海産物商・古賀辰四郎ー西
沖縄県銀行会社 
銀行第百四十七銀行沖縄支店ー那覇区東
会社・沖縄開運株式会社(肥後孫佐衛門)ー那覇区西、廣運社(護得久朝惟社長)ー那覇区西、八重山鉱業合資会社(大峰柳吉社長)
新聞社・琉球新報社(大田朝敷社長)
工場・小嶺合資漆工所ー那覇区西


 株式会社東京商工リサーチ1892年に、「商工社」として創業(業界最古)。1933年5月に、「株式会社東京商工興信所」を設立して法人化。1974年に、商号を現在の「株式会社東京商工リサーチ」に変更している。 帝国データバンクにつぐ国内第2位の信用調査会社であり、日本全国に82(支社8、支店74)の事業所を構える。 1994年に世界最大手の信用調査会社ダンアンドブラッドストリート(英語版)(D&B)と提携。これにより、国内与信・海外与信情報(世界200カ国超・2億件以上の企業データベース)を一手に提供できる体制となった。 →ウィキ

1977年10月 『日本探偵名鑑』エス・アイ・エス(横浜)戸川猪佐武、草野唯雄「すいせんのことば」「有力調査機関の概要①東京商工リサーチ②帝国興信所③東亜興信所 テイタンの歴史」


1986年11月 露木まさひろ『興信所』朝日新聞社

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Posted by: ryubun02
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  東京人の伊高浩昭が著『双頭の沖縄』の中で、本書の著者の安里英子をウタキ研究者として「おきなわの戦後の終了はいつなのかと訊かれるが、米軍基地がたくさんあって恒常的な戦争状態にあるため、ポスト戦後という実感はない」とその発言を紹介している。また、伊高は沖縄人の未来への鍵は「心と自然の固有の豊かさを再現させるべく努力することではなかろうか」とも述べ安里と同じ結論に達している。
安里が1977年、「まちづくり・むらづくりとは何かを考える」として雑誌『地域の眼』を創刊し、沖縄のシマを訪ね歩いて得た土地勘も本書のバックボーンのひとつであり、副題の「沖縄のたましい」は沖縄のこころと同義であろう。本書はその具現者のひとり、歌人・桃原邑子を所々に登場させている。評者が戦前の新聞掲載の桃原夫妻作品を送ったことに対して、桃原邑子は礼状で「どっさりと届きました。どれも、どれも私の記憶にないものばかり、活字になったものは永久に消えないんだー言葉は消えてしまうけれど、活字になったら日本が亡びない限り消えないもの」と記し少女のように喜んでいた。 
昨今は「沖縄のこころ」などに根拠を示せと難癖をつける手合いも出てきて異臭を放っている。特に「イチャリバチョーデー」であるが、これは1909年8月、沖縄毎日新聞に笑古・真境名安興が集めた沖縄俚諺の中に「行逢我兄弟(いちぇーわちょうだい)」とあるから古い、むろん「兄弟は他人のはじまり」というのもある。
本書の後半で「軍隊、米兵によるレイプ事件」を扱っている。そのペン先が乾かないうちに今回の北谷町美浜のレイプ事件、著者の行動は素早く女性グループと共に抗議しているのがテレビに写っていた。同事件で小泉・田中内閣のハッタリ性も暴露された。

安里英子さん-1948年、那覇市生まれ。沖縄大学非常勤講師。主な著書に『揺れる聖域』(1990年)、『琉球弧の精神世界』(1999年)、『凌辱されるいのち』(2008年)などがある。CTS阻止闘争や新石垣空港問題にかかわり、90年代には島々の聖地を回り、開発状況をルポした。現在は朝鮮人軍夫を追悼する「NPO法人・沖縄恨之碑の会」の代表もつとめる。第40回山之口貘賞を受賞。


勝連盛英
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1937年4月ー『沖縄教育』勝連盛英(沖縄県立女子工芸学校長)「首里に於ける廃藩置県前の教育制度」
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首里市図書館
□話の卵ー旧城下龍潭池田畔に近代的明朗さを誇るスレート葺の瀟洒な首里市図書館は既に工事完成し今や開館を待つばかりである。初代館長には我那覇朝義氏、書記に富原守清、金武朝健両氏任命され職員も揃った。
・・・しかし建物は立派に出来上がったが、今度は肝腎の蔵書がないので、同市では各方面知名の士に書籍の寄贈方を依頼したところ県内やまたは遥々東京在住の県人から寄贈本が届きつつある。
数年前に物故した当時のタイムス記者故末吉麦門冬氏の蔵書が遺族により首里市に寄贈されてあったのが、数日前に同図書館に移された。それがザット5百冊あり我那覇氏は目下これが整理に汗だくとなっている。書籍の種類は和漢の書から文学書、英書、俳諧、社会科学、郷土関係書等多方面に亘っている。
其の中には大正前期から昭和初年に至るまでの新聞や雑誌から切り取ったスクラップブックも交じっている。・・・また中途で執筆を中止したらしい貴重な遺稿も多数発見され真面目な学究としての故人の風格が躍如として偲ばれるものである。

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2021年3月 大城弘明『沖縄・宮古島 島尻の秘祭 ウヤガン』榕樹書林

2018年8月14日~19日 那覇市民ギャラリー「写真展・琉球芸能の足跡 大城弘明×大城洋平 二人展」


大城弘明氏、大城仁美さん

大城弘明氏/大城洋平氏

大城弘明-1950年、沖縄県三和村福地(現在は糸満市)生まれ。
1968年、琉球大学入学、民俗研究クラブ、写真クラブで活動。沖縄の復帰闘争、全軍労運動、米軍基地、沖縄戦の跡など撮影。1972年、琉球大学卒業。フリーカメラマン、岩波映画写真部に契約撮影助手として活動。1973年、沖縄タイムス編集局写真部入社。2010年3月、沖縄タイムス写真部定年退職。同年4月から同部嘱託。2015年3月、沖縄タイムス写真部嘱託を退職。受賞:1995年、「平和の礎」で九州写真記者協会ニュース部門賞。2011年、沖縄タイムス芸術選賞奨励賞。

大城洋平-1978年1月生まれ。
沖縄生まれで沖縄育ち。宜野湾市出身。報道カメラマンである父親の影響で小さい頃からカメラに触れる。
地方新聞社の契約カメラマンとなり、報道写真に携わる。退職後、沖縄の舞台芸能や企業の広報写真、雑誌の観光写真などを撮影。

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1969年12月『オキナワグラフ』
  
2003年10月25日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑨ー生き字引の神山政良翁」


1972年5月『青い海』13号 神山政良(東京沖縄県人会会長)「5月15日に想う 過去を過去たらしめよ」

 1940年の東京沖縄県人会『会員名簿』の東京沖縄県人会の沿革によればその歩みはつぎのようになる。京浜沖縄県学生会の会報で補足する□b>
1886年ー在京沖縄出身の青年間に勇進社を組織す
1888年ー沖縄学生会と改称
1890年ー沖縄青年会と改称す
1899年ー照屋宏により学生の寄宿舎設立計画さる
1899年ー沖縄青年会仮事務所を麹町区富士見町2ノ7、尚侯爵邸家構内に置く
1909年ー創立20周年記念会を上野精養軒に開き朝野の名士を招待す。来会者3百余名空前の盛事なり 当時会長は護得久朝惟
1910年ー仮事務所廃止
1910年ー護得久朝惟会長提案による沖縄青年会会友会発会式を風月において挙行す
1910年ー護得久朝惟会長辞任、後任会長に漢那憲和
1911年ー寄宿舎設置補助交付の件が沖縄県会を通過、翌年より2ヵ年に亘り金壹萬円也下付せらる。当時日比重明知事、高嶺朝教県会議長、岸本賀昌学務課長
1912年ー沖縄青年会会友会を社団法人とし沖縄育英会と改称す
1913年ー寄宿舎落成式挙行。沖縄県明正塾と命名す 東恩納寛惇舎監に推薦さる
       その後1923年に東恩納寛惇、舎監を辞任、神山政良が常任管理委員に推挙さる
       1928年、神山政良、舎監を辞任、比嘉良篤、後任に推挙さる
       東京沖縄県人会と改称す、役員を理事制度に改め漢那憲和理事長に推薦さる
       □1925年5月ー京浜沖縄県学生会結成
1927年ー役員を会長制に改め、新城朝功が会長に当選し神山政良、奥島憲仁が副会長に当選す 神山副会長辞任
1928年
11月11日ー京浜沖縄県秋季総会、会長に尚謙(慶応大学)、副会長に赤嶺康成(高等師範)
□1929年
5月ー京浜沖縄県学生会秋季総会を新宿白十字堂に開く。伊波普猷「方言に現れたる土俗」講演。役員改選で会長に小嶺幸雄(早稲田大学)、副会長に福地唯義(慶応大学)。
6月2日ー京浜沖縄県学生会春期総会を新宿白十字堂ホールに開く、佐藤惣之助の「琉球旅行」の話
1929年ー役員改選さる 会長に渡口精鴻、副会長に比嘉春潮、翁長良保
□1930年
7月ー小川町の多賀羅で在ハワイ同胞母国観光団歓迎会、主賓の金城珍栄以下10余名、県人出席者30余名。
11月9日ー京浜沖縄県学生会秋季総会を神田駿河台下白井喫茶部2階で開く、渡口精鴻、比嘉春潮の談話、女子部の会長に豊川とみ
□1931年
3月19日ー漢那憲和代議士、移民会館建設の準備成功し帰国
4月29日ー大蔵省参事の神山政良、名古屋専売局長に栄転さる。
5月17日ー神楽坂福寿倶楽部で東京沖縄県人会春季総会、役員改選 会長に渡口精鴻留任、副会長に奥島憲仁、恩河朝健
1932年ー明正塾廃止
1936年ー5月、本会沿革及び名簿を謄写す
1936年ー役員改選さる 会長に神山政良、副会長に大濱信泉、八幡一郎
1937年ー東京沖縄県人会(芝区虎ノ門会館 久高特許事務所内)『会員名簿』作成頒布  
1938年ー役員改選さる 会長に神山政良、副会長に大濱信泉、八幡一郎
1940年ー東京沖縄県人会『会員名簿』     

大宜味朝徳は海外研究所を設立し『我が統治南洋群島案内』『最近のペルー事情』『最近の布哇事情』などを発刊した。1933年1月に南島社(東京市本郷区蓬莱町5)から郷友版『南島』紙を発行する。3号(1933年3月)に「東京琉球泡盛商一覧」が載っているのを始め平敷本舗主人の平敷安用の「「東京に於ける琉球泡盛の今昔」、東京での泡盛委託販売30年の入江藤五郎の「泡盛の黄金時代」、「泡盛界に躍進する三島本舗主・川村禎二君」が載っている。また泡盛商広告に崎山商店(崎山喜昌),うるま本店(金城時男)、琉球古代焼・花瓶置物・琉球漆器・琉球玩具も扱う仲本商店(仲本宗厚)がある。

『南島』4号に「知念松一君、沖縄写真帖計画」が出ている。知念松一は8号の個人消息で「大阪市港区八雲町4で関西沖縄新聞創刊」とある。また空手講習会、南島談話会、泡盛組合、東京沖縄県人会の集会も紹介されている。1934年2月『南島』10号の集会欄に「名古屋県人会(比嘉康進)が神山政良顧問で万歳三唱、舞踊、空手あり」と報じられ、8月の『南島』13号には稲垣国三郎氏の義挙として「大阪稲垣愛日小学校長は6ヵ年間沖縄師範主事として勤務したことがあるが久松五勇士の快挙につき種々尽力、公にし且つ映画化して南島男子の意気を顕揚せしめた。この義挙に対し在阪県人有志の我喜屋宗信、山城興善、下地玄信、平尾喜代松、真栄田勝朗、幸地長堅らが大いに協力した」が載っている。ほかに『南島』の個人消息欄には上原美津子(中央電話局教師)、伊波普猷長男國男君目出度本年度二中に入学、また久志芙沙子の随筆がある。


1936年10月27日午後5時から、神田区小川町の多賀羅亭で東京沖縄県人会臨時総会が開かれた。定刻までに90人が集まった。先ず神山政良会長が開会を宣した後、会則改正の必要を説明。そして新会則案を提出し、副会長の八幡一郎がこれを朗読し審議に入った。神山政良が会長に再選。あと会食。その後に漢那憲和、渡口精鴻の旧会長、幹部の労を謝し、大城兼義がパンフ「沖縄県回生の要訣」を手に憂郷の熱弁を振う。午後10時、大城兼義の音頭とりで「東京沖縄県人会万歳」を三唱して和気藹々のうちに散会した。

1937年
東京沖縄県人会会則
第1条  東京沖縄県人会は東京府下在住の沖縄県人を以って組織す但し府外在住者又は沖縄県に縁故を有する他府県人にして入会を希望する者は之を会員となすことを得
第2条  本会は会員相互の懇親を図り且つ沖縄県人の向上発展に貢献するを以って目的となす
第3条  本会は下の事業を行う
      1、会報の発行
      2、会員の慶弔
      3、県出身優良学生並びに篤行者の奨励表彰
      4、県人会館の建設
      5、其の他第2条の目的達成上必要と認むる事項


東京沖縄県人会役員
会長ー神山政良 副会長ー大濱信泉、八幡一郎
幹事ー安次富松蔵、伊元富爾、伊豆見元永、井上寛令、我謝秀裕、久高将吉、高嶺明達、高良憲福、仲吉良光、仲原善忠、比嘉良篤、比嘉春潮、船越義英、真玉橋朝起、宮城清、饒平名智太郎
顧問ー伊江朝助、伊波普猷、伊禮肇、大城兼義、漢那憲和、渡口精鴻、東恩納寛惇、尚亘、長嶺亀助、仲宗根玄愷、銘苅正太郎、花城永渡、山本實彦
評議員ー石原三覧、石嶺傳亮、石川正通、池城安信、大城兼真、大城朝申、大宜味朝徳、奥島憲仁、奥間徳一、翁長良保、親泊朝輝、恩河朝健、嘉手苅信世、金城時男、国吉良實、久志助起、国吉真俊、崎原當升、志村宗徳、島袋全達、平敷安川、津波古充計、仲里朝章、仲兼久長太郎、新田宗盛、比屋根安定、宮城幸安、宮城新昌、山川朝賢、山内朝常、山川政功、森田孟睦、読谷山朝宣


東京葛飾区在住の島袋和幸氏の調査によれば、1886年、アメリカ船ゲーリック号でサンフランシスコに到着しミシガン大学準備のため友人らと下宿していた粕谷義三が、友人たちと協同で週刊邦文新聞『第十九世紀』を発行した。後に粕谷は大学を終えて帰国、板垣退助の日本自由新聞社の主筆をつとめた。第5回総選挙で衆院議員に当選、立憲政友会に所属し埼玉支部長もつとめた。粕谷は埼玉県入間市藤沢の出身、その市民会館前に銅像がある。その粕谷義三の知遇を得たのが沖縄美里出身の大宜味朝徳で、粕谷の協力の下で1922年12月に週刊『埼玉公論』紙を創刊する。大宜味が1926年に『沖縄及沖縄人』を発行したのは前回記した。

1921年10月ー沖縄協会創立
沖縄協会創立趣意書
本県は地理上の関係よりして古来本土との交通稀疎にして制度習俗亦従って異なるものあり明治維新後他府県同様法治の制を布かれしも猶各種の関係に於いて特殊の点在するものありしも今や県勢の振興発展は制度に於いて特例なく各般の施設亦他に比し敢えて遜色ありと言ふに非らざるも只だ本県事情の正当なる紹介を得ざる為め較もすれば他の誤解を招き惹いて損失を蒙ることすくなしとせざるものあり更に遺憾とする所は本県関係の重要懸案にして中央と連繋を要するもの益々繋きを加ふべきに而も之に処する何等機関用意の設けなきこと之れなり為めに凡ての企図策応によるべきなく且つ機を逸するの憾みあり之を以って吾が沖縄を広く江湖に紹介し且つ中央との連繋を採る機関の必要は久しく唱導されしも機の熟せざるものありしが機運の際会は之が創立を県内外在住の識者諸賢に提唱するの急に迫るものあり冀くは各位の賛同を得て本県将来の振興発展に資せんことをー大正十年十月。

役員
総裁・床次竹二郎 会長・和田潤 副会長・我如古楽一郎  理事・金城清松、黒木一二、崎浜秀主、銘苅正太郎、伊江朝助、大濱用要、山城五郎、宮城栄喜、伊仲浩、大城亀作、新垣牛一、盛島明長

1922年8月24日、沖縄県庁会議室で沖縄協会第4回理事会ー和田会長挨拶。東京市に沖縄協会支部設置並びに平和紀念東京博覧会の沖縄売店(出品者ー丸山漆器店、米次漆器店、漆器組合、太原漆器店、黒田理平庵、渡久地商店、新西商店、津嘉山商店、西田商店、渡慶次商店、食品会社、古賀商店、酒造組合、水産組合、上運天令儀、時志商店)の状況報告□会議参加者・和田会長、我如古副会長、理事は崎浜秀主、黒木一二、金城清松、山城五郎、宮城栄喜、桑原一郎、新垣牛一

沖縄協会在京会員
安慶名徳潤ー淀橋町柏木、新崎康ジョー小石川区下富坂、安谷屋繁ー小石川区茗荷谷、千原成梧ー青山原宿、東恩納寛惇ー小石川区水道橋、国吉良名ー麻布区、銘苅正太郎ー麻布区六本木、仲宗根玄愷カイー小石川区関口台、仲村政人ー牛込区原町、高山徹ー下渉、上運天令儀ー神田区今川小路

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Posted by: ryubun02

2000年7月16日『沖縄タイムス』新城栄徳「書評-安仁屋政昭/高嶋伸欣『「沖縄魂」が語る日本』黙出版」


写真→松島弘明氏〇在りし日の故翁長雄志氏です。那覇市長時代に元ソ連大統領・ミハイル・ゴルバチョフ氏を世界遺産になった識名園でレセプション。左は当時の県知事・稲嶺惠一氏。空手着を送られたゴルビー氏「私はプーチンのようにはいきません」とジョークを飛ばしていました。〇「沖縄の心」を大事にし、その「民意」を先頭に立って訴え続けてきた翁長県知事が現職のまま逝かれた。本人にとっても県民にとっても実に無念である。数々の翁長語録を思い浮かべる。「イデオロギーではなく、うちなーとうちなーんちゅのアイデンティティを」。11日の県民大会の壇上には、座るべきはずのイスに青い帽子が置かれていた。辺野古の海を象徴するブルーである。「県民はあきらめない」。ノーベル平和賞を受賞した元ソ連大統領・ゴルバチョフさんが寄せた追悼文には「私たちの中で永久に生き続けます」とあった。

『琉球新報』ゴルバチョフ氏からの追悼文翻訳 尊敬する翁長樹子様
 翁長雄志知事の突然の訃報に深い哀悼の意を表します。再会を楽しみにしていた私にとって悲しみが大きく言葉が見つかりません。翁長雄志さんは優秀な政治家であり、立派な人間でありました。私は翁長さんと何度も会いました。
 彼はいつも不変で堅固な意志を持ちながら、将来への明確なビジョンを持っていました。彼の活動の基本方針は、平和のための戦いであり、軍事基地拡大への反対と生活環境向上が両輪でした。私、そしてゴルバチョフ財団の全職員から心からのお悔やみを表明し、この悲しみを沖縄県民の皆さまと分かち合いたいと思います。
 翁長雄志さんは私たちの中で永久に生き続けます。
  2018年8月9日 モスクワにて ミハイル・ゴルバチョフ

沖映通りに安仁屋宗八(左)、ミハイル・ゴルバチョフの手形がある。

「土砂投入を許さない!ジュゴン・サンゴを守り、辺野古新基地建設断念を求める8・11県民大会」(辺野古に新基地を造らせないオール沖縄会議主催)8月11日午前、那覇市・奥武山公園。

県民大会途次、市民ギャラリーの「第22回 個我の形象展」を観る。西村貞雄さん「ブイに立つ祈り」(辺野古に浮かぶブイ)。




沖縄防衛局が新基地建設の環境保全策を議論するために設置した環境監視等委員会の副委員長委員だった東清二琉球大学名誉教授が「辺野古新基地建設断念を求める8・11県民大会」に送ったメッセージは次の通り。
「8・11県民大会に寄せて」私は2014年4月から、沖縄防衛局が設置した環境監視等委員会の副委員長を務めていましたが、今年4月に正式に辞職が認められました。最初は環境監視等委員会で、ちゃんとした監視ができると期待していました。それで、埋め立て区域も含めてウミガメの産卵場所、ジュゴンの食草であるアマもなど海藻の分布と密度、ジュゴンが何頭いるのか、どれくらいの頻度で来ているのか、などの調査を依頼したのですが、全然返事が来ない。何も調べていないのです。
 委員会での発言の確認も第1回目の後はありました。しかし、その後は議事録ができてくる度に全然違う。発言をしても、こちらの要求までは書いていない。委員会で藻場の問題も話しましたが、それは議事録には載らない。防衛省は自分たちの都合の悪いことは議事録に載せないのです。委員の意見を聞いて、それを守るのが防衛省のはずなのに、自分らに都合の悪いことは一切書かないで、都合のいいことだけ書いて、それを守っていくだけなのです。そんな委員は意味がありません。県外からの委員には、沖縄のことはわからないんです。沖縄に来て初めてサンゴを見た人もいたんじゃないでしょうか。
 とにかく、委員会で何を言っても響かない。開発一点張りで、サンゴのことだけは答えるが、それ以外のことはまともに答えない。海草藻場のことなどは見ないことにしよう、聞かないことにしようと。工事ありきで、他の意見は聞かないという態度です。環境監視と言いながら、工事を進捗させるため、何らかの了解を得るための委員会だと防衛省は思っているようでした。工事を進捗させることに関係ないことには耳を貸さないという態度ですね。それじゃあ何の意味もない、何のための委員会かということで、私は2015年3月に辞めると事務局に伝えました。沖縄防衛局からはこの件で取材があれば、事務局に聞いてくれと答えなさいと言われました。
 辺野古、大浦湾の環境は優れています。特に藻場はすごい。あんなに広い藻場は他にないです。それを埋め立てるのは自然破壊そのものです。沖縄本島の山を崩して埋め土を持って来るのも、自然破壊です。辺野古、大浦湾の埋め立ては、やめさせることです。中止すべきです。沖縄にはもう、これ以上、軍用基地はいらないです。慰霊の日の翁長知事の発言には本当に感激しました。私は、翁長知事の埋め立て承認の撤回を支持します。 東清二

 「くろねこの短語」2018年8月12日-辺野古新基地建設反対の沖縄県大会が開かれ、謝花副知事は故翁長知事の意志を継いで辺野古の埋め立て承認撤回の方針を改めて表明した。壇上中央の席には翁長氏が着用するはずだったブルーの帽子が置かれ、県大会はさながら決起集会を彷彿とさせる熱気に包まれたそうだ。
 そうだ、と書かざるを得ないのはこの県民大会を、夜のニュースでまともに報じたTV局が見当たらないからだ。テレビ朝日『スーパーJチャンネル』は、なんと冒頭から「平成最後」をキーワードにしたトレンド情報。呆れ果てました。テレビ朝日に関しては『報道ステーション』のプロデューサーがどうやら鮨友に近い人物に代わり、政権批判が影を潜め、やたらスポーツニュースが多くなったと噂されいてるけど、昨夕の『スーパーJチャンネル』を観ればさもありなんてことか。


2018年6月 豊里友行写真集『おきなわ辺野古ー怒り・抵抗・希望』沖縄書房/自然保護団体の船を妨害するアベの走狗・海保CB

いいだ もも(本名:飯田 桃(読み同じ)、1926年(大正15年)1月10日 - 2011年(平成23年)3月31日)は、東京府東京市出身の作家、評論家。多元主義的共産主義者。『21世紀への構想』研究会主宰。『近代日本社会運動史人物大事典』編集委員。男性。別名の宮本 治は「宮本百合子と太宰治をアウフヘーベンする」との意図によるという。→ウィキ

 『近代日本社会運動史人物大事典』に人物伝を書いたので、編集委員のいいだ・もも氏から著書を贈られた。

左下の教養文庫、黒岩涙香『弊風一斑 蓄妾の実例』は、以前、桑原守也さんから本書の尚泰侯爵<400>コピーを送られたことがある。それに「旧琉球王侯爵尚泰 麹町区富士見町八番地、侯爵尚泰は左の如く多くの妾と庶子を有す△琉球人真鶴金(46)。△牛込区原町3丁目士族船岸勝太郎方同居平民山本ちょうは、男秀を22年9月に生み、女みちよを24年7月に生み、女やえを25年12月に生む。△北豊島郡巣鴨町1丁目17番地、田中栄蔵長女こうは、男光を23年12月に生む。△三重県河芸郡神戸町片山半七2女貞は、女まさよを、25年2月に生み、男時を26年5月に生む。△下谷区南稲荷町83番地松本かね養女ゆうは、女きみを27年11月に生む。△千葉県安房郡北三原村西田市五郎方神田なつは、女ちよを27年6月に生み、女さよを29年8月に生み、女すずを30年11月に生む。以上はいずれも小間使いもしくは下女なりしを手を附け孕ませたるなり、その嗣子 <401>従四位尚典(35)も麹町区3番町56番地、高木勝太郎方同居士族2女ちゑを妾とし、明治16年10月1女を挙げつると命名す。」同書には「靖国神社宮司加茂水穂は日本橋区村松町48番地藤吉妹松本やそ(31)を妾とし一時麹町区1番町47番地に囲い置きたれども今は3番町10番地に移す」などもある。


1975年11月 しまね・きよし『もうひとうの日本共産党ー宮本顕治体制に隠された真実』サンケイ新聞社
〇いいだ・もも「著者 しまね・きよしさんのことー私は、日本共産党論では、しまね・きよしさんの弟子でしてね。今は亡くなった梅本克己さんのお宅で、水戸学派と称して「唯物論研究会」なる一種の義塾を開いていた頃、はるばる柏からしまね先生を仰いで、その該博な資料踏査に成る日本共産党史を、耳から勉強させていただいたことがあるのですよ。連続読切り講談というか、いつも次回が心待ちに待たれるほど面白かったですね。とういうのも、しまねさん自身が下積みの実践活動の苦労を長年かさねた外語大以来の共産党員だったからで。
 60年安保闘争の時、取手の地区労事務局長をやっていた彼が、ハンドマイクをぶら下げてシュプレッヒコールの音頭をとっていた姿を思い出しますなァ。昔から党を右へおん出た転向者はゴマンといるが、そういう人の話は「オレも昔は・・・・・・」といった老いの繰り言が多くてあまり面白くない。しまねさんは、左へ飛び出した一個の自立したマルクス学者で、だから党史に地の塩の味がよく利いてる。

明治維新後、明治新政府の要職や陸海軍の幹部には薩長(薩摩藩と長州藩)出身者が多く占めていた。伊藤博文も長州藩士である。

「緋色の研究」ーこの本(黒岩涙香『弊風一斑 蓄妾の実例』)の中では、数多くの方の実例がそのまま暴露されていますが、初代総理大臣・伊藤博文はかなりひどいと言えるでしょう。伊藤博文の実例紹介部分を、ぼくが現代語に直したのが以下のようなものです。
 「さっそくだが伊藤博文は変態なので、世間に知られている以外にもとんでもない事実があるのではと思っていたが、まさしく秘密の中の秘密と言える事実をつかんだので紹介する。芝区伊皿子町65番地に田村半助という男がいるのだが、古くから伊藤博文の家で土木請負をしていた。その関係で、田村半助の長女である喜勢子が伊藤博文の愛人になったことがあった。喜勢子は伊藤博文に可愛がられ、麻布長坂町1番地にきれいな家を立ててもらったりもしていた。しかし喜勢子が病にかかり亡くなってしまい、伊藤博文は悲しみながら喜勢子の妹つね子をまた愛人にし、つね子も美人なのでまた可愛がってた。しかしこのつね子もまた19歳で亡くなってしまい、伊藤博文はまた悲しみながら、次はつね子の妹で16歳の雪子を愛人にしようと企み、愛人にさせろと田村半助に迫った事実がある。しかし田村半助も、さすがに娘がふたりも亡くなっていることが気になりすぎるし、雪子も怖がって愛人になりたくないと言う。そんなことを言えば言うほど、伊藤博文は雪子を愛人にしたくなり、5月16日に行われた喜勢子とつね子の追福法会(冥福を祈る会)では、莫大な金品を田村半助に与えまくり、とてつもなく恩を着せ、田村半助のまわりにいる者9人ほどを権力で操り、あの手この手で愛人にしようと圧力をかけ続けた。しかし、それでも雪子は愛人になりたくないと断り続けていた。これが先月までの話。それでも田村半助たちの生活が成り立っているのは伊藤博文のおかげであるから、雪子がいつ愛人になってしまうか分からない状態だ。今後、雪子の愛人の話がまとまったりすれば、随時報道していく!」ねぇねぇこんなこと書いていいの~~~~!?!?相手は初代総理大臣なんですけど!!一般人の実名と住所出しすぎなんですけど!!完全におもしろがってやってますよね!!現代からすると、これだけの暴露を発表しつづけてメディアに残っていたのが不思議でしようがないですが、現代と明治ではさまざまな社会通念自体が異なるものだったようです。『恩を着せた』のあたりなど、名誉毀損のルーツともいえるような書き方なのですが、黒岩さんはほんと権力者に消されなくてよかったですね…。もちろん暴露は伊藤博文だけではおさまりません。総理大臣ですらここまでやっているのですから、他の人にもどんどん過酷な追求を行っています。



「くろねこの短語」4月16日ー倒産王の詐欺師にお追従したり、刈上げの首領様をサリン爆弾あるんだろうと刺激してみたり、危機感をことさら煽るような愚かな言動をしてるくせに、花見とはこれいかになんだね。花見をするなら、野蛮な大統領や首領様を理を尽くして諭すくらいの器量を見せてからのことだ。もし、このタイミングでクラリオン蓮舫君なんかがタレント招いて花見してごらんなさい。ペテン総理が先頭に立って袋叩きを始めるに決まってます。さらに、田崎スシロー、山口ノリマキなんかが連日TVで喚きたてるはずだ。
 それにしても、いまにも「北朝鮮からミサイル来るぞ!」って喚いておきながらの花見三昧ってことは、ミサイル騒動が「安倍晋三記念小学校」疑獄隠しの一面もあったってことを自ら証明と強いてるようなもんだ。もう、この国は末期症状ですね。

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Posted by: ryubun02



2016年8月2日~7日 那覇市民ギャラリー「ERIKO HARADA 王女MARGARITA」


沖縄での個展8回目を開いている原田江里子さん(携帯 090-1350-9253)

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Posted by: ryubun02


 問題は帰り。台風13号(サンサン)が帰沖予定日に本州上陸予定という。できたら関東よりになってほしいというか、そしたら関東が迷惑を被る。この悩みはアベ政治の自然災害に対する無策の所為だ。イージス艦に4000億円。オスプレイは1機200億円。西日本豪雨災害には20億円。

右ー伊丹空港

ひより撮影
 8月5日ー新たに問題が、ひより「電車が怖い」。近鉄で奈良の大仏に連れて行けないという。読谷の母親に電話で説得させる。6日晩は電車で難波のホテル、お祖母ちゃんの看護学校の同期生たちとの食事会に同行。御馳走を前に喜々として満足。





ひより撮影
 7日、日本橋で文楽鑑賞、人形の顔が一瞬で怖い顔になるのが面白かったという。あと奈良へ行き、東大寺、興福寺で鹿の写真をたくさん撮った。台風13号は関東に行き、14号はフィリピンで停滞していている。8日は環状線で天王寺で下車、あべのハルカスを見ながら天王寺動物園。9日帰沖。

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