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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2019年1月8日~3月18日 那覇市歴史博物館「金武家資料展」


明治43年11月11日『萬朝報』「琉球歌の演奏」


沖縄最初の混声合唱団『玉声会』の小湾の尚家別荘での公演記念写真ー前列右から①尚順男爵、尚昌侯爵、神山政良、嵩原家扶、2列目右端が徳田安周の母の仲吉初枝、左端の少年は金武良章 右端上に尚琳、金武良仁、山内盛彬。大正4年


      
①尚順


1930年7月18日ー金武良仁、良章、浅間丸(新垣松含一行と同船)で来布、布哇屋ホテルに止宿。
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1936-9-11 『琉球新報』尚順「追悼・金武良仁君」漢詩「題琉球絃歌」       
1951年12月 雑誌『おきなわ』尚琳「金武良仁氏を偲ぶ」


1955年10月15,16日 那覇劇場 金武良仁氏芸徳顕彰会主催「金武良仁二〇年祭追善芸能大会」
 10月14日『沖縄タイムス』仲良良光「金武良仁先生の思い出」/10月15日備瀬知範「金武良仁先生の思い出」/10月16日浜松哲雄「金武良仁先生の思い出」。『琉球新報』10月14日東恩納寛惇「金武良仁楽宗を憶う」/10月15日尚琳「金武良仁氏をしのぶ」


1983年12月 金武良章『御冠夜話』若夏社


ネット動画→「創作舞踊「いちゅび小」 金武良章作 踊り・大湾三瑠 」

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1926年4月ー明石染人(1887年~1959年)詩集『魂の傀儡師』鮮明社出版部(京都)
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1964年11月ー平凡社『世界大百科事典』明石染人「沖縄ー工芸」(左上ー尚順)
明石国助 あかし-くにすけ
1887-1959 明治-昭和時代の染織工芸研究家。
明治20年5月6日生まれ。明石博高(ひろあきら)の3男。母校京都高等工芸(現京都工芸繊維大)の助教授をへて鐘淵(かねがふち)紡績にはいる。戦後,母校や京都市立美大の講師,文化財保護委員会専門委員などをつとめた。昭和34年1月27日死去。71歳。京都出身。号は染人。著作に「日本染織史」など。(→コトバンク)


資料・琉球芸能

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 「くろねこの短語」2018年12月31日 年末恒例、笑いおさめ! シンゾー阿呆語録!! 皆さま、良いお年を!!
初老の小学生・ペテン総理の年末は、ゴルフ三昧と鮨友との酒池肉林。なんとも、いい気なもので。



『朝日新聞』12月29日ー衆院沖縄3区補選(来年4月21日投開票)で、自由党が擁立するジャーナリストの屋良朝博(やらともひろ)氏(56)が29日、沖縄市で記者会見し、立候補することを表明した。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画に反対する立場で、玉城デニー知事を支える「オール沖縄」勢力の候補として支持を訴える考えを示した。補選は、自由党幹事長だった玉城氏の知事転出に伴うもの。沖縄3区は辺野古を抱える選挙区だ。
〇2,012年12月9日の15時、ジュンク堂那覇店1階エスカレーター横特設会場にて、佐藤学(沖縄国際大学教授)さんも交えて、「誤解だらけの沖縄・米軍基地」発売記念 特別講演会。
屋良朝博(フリーランサー・元沖縄タイムス論説委員)×岡留安則(ジャーナリスト・元「噂の真相」編集長)×佐藤学(沖縄国際大学教授) 特別講演会


屋良朝博氏、 岡留安則氏、佐藤学氏

元「噂の真相」編集長・岡留安則が2019年1月31日0時16分、右上葉肺がんのため死去いたしましたことを、「噂の真相」元スタッフ一同より、ご報告。2016年に脳梗塞を発症し、その後、肺がんが発見されたため、治療につとめておりましたが、力尽き、那覇市内の病院で息を引き取りました。享年71でした。→リテラ

大濱聡「岡留安則さんを偲ぶ会」

 「くろねこの短語」2018年12月29日ー(前略)・大納会の東証は下落、2万円台は維持 7年ぶり年間下落 ・ETF 6・5兆円過去最高 日銀の株式買い、歯止めなく

 ところで、辺野古の海を埋立てている土砂に違法性があるってね。なんでも、「沖縄産の黒石岩ずり」ってのが仕様書で取り決められていたのに、実は赤土が仕様されているとか。それが、ドローンによる上空からの撮影でバレちゃったんだとか。当事者である琉球セメントは調査を拒否しているそうで、そのことについて東京新聞のモンチッチ望月記者が鋭く追及したところ、顔も頭も貧相な官房長官・ガースーは質問にまともに答えることなく会見場を後にしたそうだ。でもって、その際のやりとりの書き起こしがあるので、是非ともご一読を。殴りたくなりますよ・・・ということでお後がよろしいようで。
(これより引用)
望月「民間業者の仕様書には沖縄産の黒石岩ずりとあるのに、埋め立ての現場では、今、赤土が広がっています。琉球セメントは県の調査を拒否してまして、沖縄防衛局は実態把握ができていないとしています。埋め立てが適法に進んでいるか?確認ができておりません。これ、政府としてどう対象するおつもりなんでしょうか?」
菅「法的に基づいてしっかり行っています。」
官邸スタッフ「この後、日程がありますので、次の質問、最後でお願いします!」
望月「望月です。あの~、適法かどうかの確認をしてないということを聞いてるんですね。粘土分を含む赤土の可能性が指摘されてるのにも関わらず…。」
官邸スタッフ「(望月記者の質問を、遮るように)質問は簡潔にお願いします!」
望月「発注者の国が事実確認をしないのは、これ、行政の不作為に当たるのでないでしょうか?」
菅「そんなことはありませんっ!」
望月「それであれば政府としてしっかり確認をさせ、仮に赤土の割合が高いのなら…」
官邸スタッフ「質問は簡潔にお願いします!」
望月「改めさせる必要があるんじゃないですか?」
菅「今答えた通りです。」
官邸スタッフ「はいっ!ありがとうございました!」
菅、足早に去る。

 「くろねこの短語」2018年12月27日ー(前略)・最後に、フォトジャーナリストの広河隆一がセクハラだとさ。「(女性たちは)僕に魅力を感じたり憧れたりしたのであって、僕は職を利用したつもりはない」なんて言い訳は、クズすぎるだろう。思想信条にかかわりなく、こういう男がこの世の中にはまだまだ跋扈してていることが恥ずかしい。
関連→2015年9月25日に放送されたTBS「ゴロウ・デラックス」は荒木さんの特集で、KaoRiさんの半裸の写真が紹介された。荒木さんは番組内で、KaoRiさんのことを「俺の女」と呼び、「彼女を10年撮っているのは、好きだから。恋人(コイビト)じゃなくてコイジン。愛人になるとマンションくらい買ってあげなきゃいけないだろ。だからコイジン」などと発言していた。2015年11月22日に放送されたNHK「日曜美術館」の荒木さんの特集では、撮影の現場に取材カメラが入った。ファインダーを覗く荒木さんがKaoRiさんに近づき、着物の襟元を広く開けながら、「いいなぁ、NHKにおっぱい出るといいなぁ」とつぶやいていた。荒木さんは2008年に前立腺がんの手術をし、2013年には右目を失明。ネガティブな出来事も作品に昇華し、精力的に活動を続けていたときだった。

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Posted by: ryubun02
null当時の合羽橋(暮らしの手帖)

上野駅は北国(雪国)の玄関口で周辺には高村光雲作の西郷隆盛銅像や、朝倉文夫作の「生誕の像」(同じものが那覇市役所広場にある)がある。ところで、金山喜昭『日本の博物館史』を見ると、江戸後期に開かれた同好者たちによる物産会(本草会)はモノを集めて公開する、出品物を記録・刊行していく点で博物館の源流だとしている。官僚主導の日本の近代博物館と違って近江の木内石亭の「奇石会」、大坂の木村 蒹葭堂「貝類・鉱物」を例に物産会は横並びの同好のサークル活動だったとしている。

高村光雲作の西郷隆盛と犬の像

明治政府は1867年に「神仏分離令」を布告。そのために全国で廃仏毀釈が行われ古文化財の破壊を招いた。71年になって太政官は「古器旧物保存ノ布告」を出す。やがてそれが国粋主義や美術富国論の勃興へとつながる。前出の『日本の博物館史』には鈴木重雄により1924年に設立された「遠野郷土館」を、個人の趣味や愛好的な色彩ではなく、国策に従う郷土教育ではなく「日本歴史のどの頁に吾々の共鳴する点がありますか」とし、「個」の確立を目指した点を特に述べている。

私は東京浅草で中華料理店の出前持ちをしたことがある。店は合羽橋近くにあった。自転車で浅草中走り回った。大半が「バクチ場」で入口まで持って行くと玄関で組員が受け取る。銭湯に入ると全身刺青(伝統芸術)の初老の人が大半であった。浅草から上野は近い。上野公園はもともと寛永寺の境内で1873年に宮内省管理、77年には第一回内国勧業博覧会が開かれ美術館も設けられた。82年に上野動物園、博物館。87年に美術学校・音楽学校などが開設、移築された。1924年、皇太子御成婚記念で東京市に下賜され恩賜公園として一般に開放され科学博物館、美術館などが出来て日本有数の芸術文化の森となった。→合羽橋「かっぱ橋道具街」。大阪には「千日前道具屋筋商店街(せんにちまえどうぐやすじしょうてんがい)がある。ー大阪市中央区難波千日前にあるアーケード商店街。飲食店などで用いる業務用の調理器具や什器を扱う店が密集している。

1957年12月 岩井弘融『暴力 日本のやくざ』平凡社
1963年3月 岩井弘融『病理集団の研究ー親分乾分集団研究ー』誠信書房
□第1篇 博徒・的屋集団
  第2篇 土建・港湾・炭鉱等における親分乾分関係
  第3篇 壮士・院外団・右翼
  第4篇 パースナリティと集団性格

岩井弘融ー佐賀県出身。東京帝国大学卒。東京都立大学助教授、教授、大正大学教授、東洋大学教授。1989年、定年、名誉教授。代表的な著作に『病理集団の構造』や『犯罪社会学』などがある。2013年8月4日、急性肺炎のため死去。94歳没。→ウィキ

1958年10月 磯村英一『性の社会病理ー日本の売春にみるもの』大日本雄弁会講談社
1961年12月 磯村英一・木村武夫・孝橋正一『釜ケ崎/スラムの生態』ミネルヴァ書房

磯村英一 いそむら-えいいち 1903-1997 昭和-平成時代の社会学者。
明治36年1月10日生まれ。磯村春子の子。東京市役所(のち都庁)勤務をへて,昭和28年都立大教授となる。41年東洋大教授,44年学長。アメリカ都市社会学にまなび,行政経験をいかして日本の都市社会学の確立につくす。同和対策協議会会長などもつとめた。平成9年4月5日死去。94歳。東京出身。東京帝大卒。 →コトバンク


1962年6月  大橋薫『都市の下層社会ー社会病理学的研究』誠信書房
大橋薫-福島県田島町出身で、会津中学、浦和高校を経て1942年(昭和17年)に東京帝大へ進む。翌年に学徒出陣し、石垣島で終戦を迎える。階級は陸軍少尉。 復学後東京大学文学部、同大学院で社会学を専攻し、大学院退学後大阪市立大学に講師として採用され、家政学部助教授に進む。明治学院大学の社会福祉学系大学院開設に際して招聘を受け[10]、文学部助教授、教授を経て1966年(昭和41年)に社会学部教授となる。担当は社会病理学。→ウィキ



藤田 五郎(ふじた ごろう、1931年11月2日 - 1993年12月11日)は、極道出身の小説家。任侠小説を主に書いた。自伝的要素を含む「無頼 ある暴力団幹部のドキュメント 」は後に「無頼」シリーズとして渡哲也の主演で映画化された。 1975年に映画化された「仁義の墓場」でも知られる。1993年、東京都中央区内のホテルでビニール袋をかぶり窒息自殺した。→ウィキ


1980年10月 藤田 五郎『任侠百年史』笠倉出版社/1983年8月『月刊実話ニッポン』「人物クローズアップ ”人斬り五郎〟銀座に遊ぶ」
映画ー1965年11月 那覇 沖映本館「血と掟」(安藤昇)


①空手家・赤嶺嘉栄
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写真ー前列左から友寄英彦実行委員長、平良良松那覇市長、比嘉佑直保存会長。後列左から備瀬政太郎経民部長、前田武行助役、稲嶺成珍助役、赤嶺嘉栄審判長。→2001年12月 『那覇大綱挽』那覇大綱挽保存会
空手の人物事典や上地流の本を見ると赤嶺嘉栄が出てくる。沖縄人連盟史関連にも名前が出てくる。その沖縄人連盟では赤嶺が中心となりヤクザ鴻池組系井上組に抗議している。また又吉世喜(1975年)や喜舎場朝信(1977年)の葬儀に、宮城嗣吉と共に友人代表のひとりに名をつらねている。また赤嶺の葬儀のとき友人代表のひとりとして東京の万年東一の名がある。万年は横井英樹銃撃事件で知られる安藤昇の親分である。
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写真ー赤嶺嘉栄
万年東一の名刺/安藤組組織図、上の方に万年東一の名がある。



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2018年12月、今年も残り少ない。個人的には古希を迎えている。昔は70歳まで生きることは稀ということで「古稀」らしい。

2003年8月23日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網ー楽しみの一つ、『小学館の雑誌』」

1975年8月『小学館五十年史年表』

1953年1月『琉球新報』
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1962年3月ー『オキナワグラフ』安村書店(安村善太郎・経営)
○父が定期的に那覇から粟国に送ってくれた小学館の少年雑誌は父の従兄弟の安村(安里)書店から買ったもの。

『まんだらけ』 ⑩ー1995年9月 ⑮1996年12月 『まんだらけZENBU』 №6ー2000年

マンガや挿絵は出版文化とは表裏をなすもの。そこで戦前の沖縄の書店でどういう本が売られていたのかみてみたい。

1898年、那覇区泉崎の豊盛書林と、西の三笑書店には沖縄県尋常小学校読本も販売しているが、一般書も扱っている。世界年鑑、中等東洋史、中等日本歴史、算術新教科書、新撰算術、新式速記術、新撰日本外史、通俗世界歴史、世界文明史、詠歌自在、詠歌辞典などがある。

同時期の『琉球新報』には一般書や印刷物の広告が載っている。今でいう通信販売である。大阪の芳文館写真部「奇形嬌態裸体美人写真」、大阪の明文社の「画入男女たのしみ草紙」などである。学生向けの通信教育に東京学館の「自宅独習生徒募集」や帝国中学協会「諸学講義録」があるが、どちらも英学、国語学、心理学、論理学、教育学、算術、詩文学、幾何学、三角法、簿記学、代数学、化学、速記学などで内容は共通している。相前後して「ライオンはみがき」、「鳥井合名会社」の広告も目立つ。

1900年、村田弥三郎が、那覇警察署前で東京各新聞の取次ぎを始めている。博愛堂(小沢朝蔵)も新聞広告に近事画報社の「戦時画報臨時増刊号・日本海大海戦紀念帖」を載せ売り出しを図っている。近事画報社は1901年の『琉球新報』に広告「通俗小説文庫ー毎月1冊刊行」を載せている。並んで、東京日本橋の三越呉服店や「中将湯」の広告もある。

1902年の『琉球新報』の広告に京都の島津製作所の「博物地理歴史標本」がある。04年の広告には太田胃散、浅田飴、今治水なども出てくる。07年には十合呉服店(大阪・神戸・京都)、アサヒ、サッポロ、エビスビールの広告も目立つようになる。08年の広告に「実業之日本」、1911年の広告には博文館の常用日記や、「女学世界」、冨山房の「新日本」がある。那覇の円山勉強店の「キリンビール」売り出し広告もある。
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 東海道新幹線ー1964年(昭和39年)10月1日に開業
輸送力が限界に達していた東海道本線の混雑を解消するため、根本的対策としての別線増設という形で1959年(昭和34年)4月20日に十河信二国鉄総裁と技師長の島秀雄の下、高速化が図れる標準軌新線(在来線は狭軌)として着工され、東京オリンピック開会直前の1964年(昭和39年)10月1日に開業した(開業時の総裁は石田禮助)。建設開始時は「新幹線」という呼び名はなく、第二の東海道線ということで「東海道新線」と呼んでいた。新幹線の名前は、戦前に東京駅 - 下関駅間で計画された「弾丸列車計画」の内部関係者による呼称にちなむといわれている。〔ウィキペディア〕


□→2008年3月 角一典『整備新幹線問題年表 1907-2007』法政大学社会学部科研費プロジェクト「公共圏と規範理論」
 
 私の16歳は、東京・新宿歌舞伎町の大衆割烹・勇駒新館で働いていた。勇駒本店隣に鮒忠①もあった。当時、新宿は副都心と称していた。現在は伏魔殿と謂われた都庁があるので都心であろう。新宿は個人の存在など歯牙にもかけない喧噪で無味乾燥なビルが林立する巨大歓楽街であった。夕刻、新宿駅から仕事を終えたサラリーマンが歌舞伎町に大量に弾き出され勇駒新館はたちまち地下、2階も満杯になる。仕事が終わり寮に帰ると朝霧が立ち込めゴミが散乱する早朝の静寂は何とも言えない退廃的な雰囲気であった。職場には学費を稼がなければならない大学生バイト(早稲田が多かった)が5人も居たのでヒマな学生の政治運動やスポーツには興味も関心も無かった。沖縄出身に元出版社に居たという神里氏、いつも朝にヌンチャクの稽古をしていた。王城(喫茶)にも入口に沖縄出身が居て、「困っていることがあれば相談に来い」と言ってくれた。

当時の新宿歌舞伎町(真鍋博1968年12月)

歌舞伎町の大衆割烹・勇駒本店 

1977年8月 桜井華子『東京の味Ⅲ』保育社「いそ料理 勇駒」
①根本忠雄(ねもと ただお、1913年 - 1988年)が1946年9月1日に同年9月1日、浅草千束に川魚料理の店「鮒忠」創業。川魚の捕れない冬場のメニューとして、進駐軍向けの鶏肉(ブロイラー)を串焼きにした「焼き鳥」の販売を開始。焼き鳥を大衆へ大々的に販売することを始めたのは日本初と言われ、「焼き鳥の父」と呼ばれたという。根本忠雄『年商十五億のやきとり商法―鮒忠立志伝』 柴田書店 (1965年)『鮒忠の江戸ッ子商法』 東京経済 (1972年)→Wikipedia。現在、勇駒はネット上出てこないが、鮒忠はもう老舗となって三代目が卸、ケータリング、レストランの3事業をネットも活用し引き継いでいる。

 勇駒新館の支配人は出っぷりとした人で読書人。週に一回は紀伊國屋本店に雑誌や本を買いに行かされた。もちろん私も本屋は大好きだから喜んで行った。紀伊國屋本店には名物社長の田辺茂一がいたが見たことはない。この年は、「夢の島」の蠅騒動、ベ平連、河野一郎・江戸川乱歩・谷崎潤一郎・高見順らの死去、横井英樹襲撃で東京を震撼させた安藤組の安藤昇が映画俳優として登場したのが週刊誌を賑わしていた。店にはヤクザの長老も常連で来る。その一人が「近くで安藤昇のロケがあったのだが奴は小柄だからいかに大きく見せるかで周囲が悩んだ」という。これを聞いて思い出したのが、以前、錦糸町のボウリング場で美川憲一が雑誌の取材でボールを投げるマネをしていた。誌面では見事にストライクとなっている。何事でも演出は必要だと思った。集団就職での上京の目的のひとつに、神田の古書街に通うことがあった。新宿は夜の街で前衛的な文化(サブカルチャー)の街で芸術文学の分野も幻想、終末、刹那・頽廃なものであふれていた。安藤昇のレコード「新宿無情 」[1965]も出ていたが今ではYouTubeで聴くことができる。 『月刊専門料理』の創刊は、1966年11月、この創刊号も勇駒新館の事務所で見た。


右に新宿コマ劇場
新宿コマ劇場とは、東京都新宿区歌舞伎町一丁目にあり、1956年12月28日から2008年12月31日まで株式会社コマ・スタジアムによって運営されていた劇場である。「演歌の殿堂」として広く認知され、数々のミュージカル作品も上演された。コマ劇や新コマとも言う。/1956年(昭和31年)2月にコマ・スタジアムが設立。大阪・梅田にあった梅田コマ・スタジアム(梅田コマ劇場の前身)の姉妹劇場として当劇場が建設され、同年12月28日に開場した。開場当初は「新宿コマ・スタジアム」と呼称していた。阪急・東宝グループの創始者である小林一三が抱いた「新しい国民演劇(新歌舞伎)の殿堂を作る」という理念に基づいて創設し歌舞伎町の地名のもととなった。客席数2,088席は首都圏で最大級であった。→ ウィキ

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新宿・勇駒新館でー左に座っているのが新城栄徳、柴田マネジャー。柴田マネジャーに早稲田の学生がバイトさせてくれという、即採用。/新宿コマ劇場近くには琉球泡盛屋が数軒あった。

 柴田マネジャーは秋田の人、生真面目な人で未熟な人生観の持ち主の私を色々と注意してくれた。自宅にも連れて行かれ、マネジャーの痩躯にくらべふっくらとした色白の奥様の手料理を御馳走になった。寮の相棒に熊本出身の23歳の青年が居た。小柄だが休みの日にはコマ劇場の前などでプレイガールをお茶に誘い旅館に行き、その女性との一夜をこと細かく手帳に記していた。今だったら一流のホストになっていたが、私はそれでよく性病を移されなかったものだと感心した。店には茨城出身の威勢のいい2歳年上の子も居た。彼は駐車中の車を弄り人身事故を起こしその賠償金を払うため働いているという。また別の相棒に長崎出身の同じ年頃の子も居た。彼は年に似合わず、木の根っこを入手、磨きあげオブジェにして楽しむ人物であったが、繊細ゆえ「ゴールデン街」の人となった。後に柴田マネジャーは高円寺で焼鳥屋を開いた。

新宿は夜の街で昼間は時間がある。よく図書館に行った。二十歳前だから国会図書館は入れないので、区立図書館や日比谷図書館を利用した。神保町の古書街、古書会館もよく行った。別に調理士だからというわけではないが神保町の古書店から買った本に李家正文『厠(加波夜)考』がある。中に三田村鳶魚や金城朝永の本からの引用がある。金城の『異態習俗考』にも厠に関する論考がある。『梅毒図譜』というのも買った。私は1964年に錦糸町駅ビルの本屋で、サド裁判の被告で著名な澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』を買った。その本で南方熊楠(末吉麦門冬)、稲垣足穂、日夏耿之介を知る。

 新宿勇駒の仕事は夕方の5時半から深夜の12時までであった。店の雰囲気は自由奔放だが、肝心要の料理人は調理師会から、仕入れは大型トラックで社長自ら運んでくる。営業終了後、掃除をしあと片づけが終わり、残飯などの生ごみ缶を3段に重ねて30個積み上げる。あとは皆でを大関(我が家は酒に弱い家系。少量でも酔う)を飲みながら毛ガニ、フグちり、焼き鳥、生野菜の鍋を食べ終わると2時頃になる。コマ劇場横の銭湯に入り、寮に帰り同僚たちと会話。長引くと寝るとき朝日が差し込んでくる。寮の隣のビルはトルコ風呂のお姉ちゃんたちの寮であったが話をした記憶はない。異性は店から寮に帰る途中に女娼、男娼が立っている。そのとき私は運悪く16歳の夢見る年齢、異性には関心は薄かった。本屋・古本屋で週刊誌を漁るのが唯一の趣味であった。高円寺の球陽書房で最初に買ったのが江戸川乱歩『乱歩随筆』青蛙房 昭和35年であった。乱歩の小説は好みではないが随筆は好きであった。わが青春そのものであった大衆割烹・勇駒。今はネットに出てこない。
 

「風葬・洗骨ー南のはて徳之島の奇習ー」/1963年9月 柴田プロダクション『写真で見る 日本残酷物語』現代芸術社(長嶋武彦)



映画「日本残酷物語」1963年6月公開の長篇記録映画で、構成はTBSのディレクター石川甫、大山勝美それに「トップ屋を殺せ」を監督した高橋典が担当、「紀州の暴れん坊(1962)」の中川信夫、「太平洋戦争と姫ゆり部隊」の小森白と高橋典の三人が監督。撮影は 「太平洋戦争と姫ゆり部隊」の吉田重業と瀬川浩・日田勇。
◇アイヌの熊祭◇トド狩◇流氷・結氷◇奥羽出羽三山の荒行◇銭洗い弁天◇心境集落◇猫から三味線まで◇交通地獄◇美容整形手術◇鶏の多量生産◇酔っぱらい保護センター◇麻薬の恐怖◇ゲテモノ食い◇わんこそば食い競争◇生き猿の脳みそ食い◇いれずみ◇馬力競争◇闘鶏◇ゲイ・バーの生態◇前衛芸術◇カラス列車◇犬のおしゃれ◇裸祭◇花嫁の奇習◇自殺の名所錦ガ浦◇キーパンチャーなど。...

1964年1月28日 那覇市・国映館「日本残酷物語」封切

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儀間比呂志「琉球ガラス」
〇表紙のことばー吹きガラスの技術が、いつ沖縄に伝わったか、さだかではない。しかし、私たちは子どものころ那覇市で、ランプのホヤを吹く工場をすでに見ている。工芸館の三宅館長によれば、本土のランプの油壷やホヤや、瓶類を作っていたすぐれた職人芸は一部をのこして、そのほとんどは半世紀前に消滅し、いまや沖縄においてのみ健在だそうな。そして「沖縄ガラスは色が美しく、型物と異なった味ふかいものがある」と、賞讃しておられる。


1910年11月22日『沖縄新聞』「広告 沖縄硝子製造所」


1920年8月18日『沖縄朝日新聞』/1928年1月23日『沖縄タイムス』

1937年3月 『日報の沖縄人名録』「前田龍五郎 硝子工場 那覇市西新町3ノ24 電69」



1983年10月 雑誌『青い海』126号「特集・ギヤマン瑠璃の世界ー琉球ガラスの魅力を探る」、帆足英二「ショート・ショート『教訓』」


2001年6月 帆足英二(沖縄県工業技術センター招聘研究員)『招聘報告書ー琉球ガラスの現状と今後のデザイン展望』


2018年11月 河西大地『琉球ガラスの年代物コレクション~沖縄ガラス工芸図鑑~』白雨草木庵
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 2018年10月4日-『熊楠ワークス』№52に「[追悼]中瀬喜陽先生」が載っている。飯倉照平氏の「先駆的な仕事」の追悼文も載っている。このお二人と神坂次郎氏は、1964年以降、南方熊楠と末吉麦門冬との交流を追及(研究ではない)する過程で出会った。私の熊楠イメージ形成には飯倉氏が1972年『別冊経済評論ー伝記特集・日本のアウトサイダー』に書いた熊楠伝が大半を占める。特に中瀬氏には氏の主宰する俳句雑誌『貝寄風』にエッセイを書かせてもらった。
 
俳句雑誌『貝寄風』

□27年間発行されてきた俳誌「貝寄風(かいよせ)」が、8月号(通巻326号)で終刊となる。主宰の中瀬喜陽さん(78)=和歌山県田辺市神子浜1丁目=は「残念に思うがやむを得なかった。後に残る活動ができた」と振り返っている。貝寄風は、中瀬さんが編集を担当していた俳誌「花蜜柑」の主宰者が亡くなり、中瀬さんが知人の田辺市の串上青蓑さんに声を掛け、1984年7月、串上さんを主宰者として創刊。以来月1回発行し、串上さんが亡くなった後に中瀬さんが主宰を引き継いだ。終刊を惜しむ声もあるが、中瀬さんの体調による理由でやむを得ず決めた。

 俳誌には会員の俳句や、中瀬さんによる俳句や短歌の紹介などを掲載している。会員が俳句を作った経緯や思いを掲載しているコーナー「一句の周辺」は、作った俳句を見つめ直すきっかけにしようと設けた。俳句の作り方が分かるという声もあり、人気があるという。会員は創刊当初と同程度の約200人。田辺市や周辺町の住民を中心に、ふるさとについて知ることができるということで県外に住む県出身者らもいる。俳誌のほか、会員で句集「熊野九十九王子」や、創刊20周年を記念した「紀州田辺の俳壇」も発行してきた。また、中瀬さんが研究する南方熊楠を追悼する意味の「熊楠忌」は約10年前、俳人協会に季語として登録された。登録できた背景について中瀬さんは「貝寄風というグループの力があったからこそ」と話している。(→紀伊民報2012年5月19日土曜日)
『貝寄風』 - 新城栄徳「琉球の風」
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 「琉球の風」第1回は2005年4月発行で、作家・神坂次郎氏との出会いを記し「その昔、外様大名の島津家久が徳川家康の許可を得て琉球に出兵し支配下に置いた。そして中国との交易のため『琉球王国』はのこした。島津氏は琉球士族に対して琉球人らしく振舞うよう奨励した。琉球士族は歴史書編纂などで主体性の確立につとめた。清朝から琉球久米村の程順則が持ち帰った『六諭衍義』は島津を介して徳川吉宗に献上された。幕府によって『六諭衍義』は庶民教育の教科書として出版された。それが江戸文学への遠因ともなり滝沢馬琴のベストセラー小説『椿説弓張月』(北斎挿絵)にもつながる。また、清朝の使者歓待のため玉城朝薫がヤマト芸能を参考に『組踊』が生まれるなど新たな琉球文化が展開された」と記した。

平成17年7月 俳句誌『貝寄風』』(編集発行・中瀬喜陽)新城栄徳「琉球の風②」
4月、南方熊楠顕彰会から『南方熊楠邸資料目録』が贈られてきた。巻末の人名索引に私の名前が有る。驚くと同時に記憶が甦った。1984年の夏、麦門冬・末吉安恭書の軸物「松山うれしく登りつめ海を見たり」を背に担ぎ熊本城を経て、田辺の熊楠邸を訪ねた。折よく文枝さんが居られたので麦門冬の写真を仏壇に供えてくださいと差上げたものであるが、大事に保存され且つ目録にまで記されるとは夢にも考えなかった。飯倉照平先生に電話で伺うと、研究会では熊楠没後の写真なので収録することに悩んだという。と書いた。そして麦門冬の親友・山城正忠を紹介した。正忠は那覇若狭の漆器業の家に生まれた。若狭は漆器業が多い。麦門冬の手ほどきで琉球美術史研究に入った鎌倉芳太郎(人間国宝)は「思うに(福井県)若狭はその地勢、畿内に接して摂津と表裏し(略)、古来日本海における外国貿易の起点となっていたが、十五世紀の初頭以来南蛮船も着船し、この地の代官も書をもって朝鮮国と通交しており、小浜から出て東シナ海に向かい、琉球に新しく出来た那覇港に、貿易物資(漆器)生産のための若狭の居留地が造成された」(『沖縄文化の遺宝』)と推定している。
平成17年12月 俳句誌『貝寄風』』(編集発行・中瀬喜陽)新城栄徳「琉球の風③末吉安恭と南方熊楠」
7月、立教大学の小峯和明氏と奈良女子大学の千本英史氏から南方熊楠特集『國文学』8月号を恵まれた。小峯氏は「熊楠と沖縄」を執筆され「それにしても、末吉安恭との文通が半年(1918年2月~9月)あまりでとだえてしまったのはなぜであろうか」と疑問を呈しておられる。千本氏は「等身大の熊楠へ」で「熊楠はいたずらに祀り上げるのでなく、その、すぐれた可能性を引き継いでいくことが求められている」としている。
そこで熊楠と末吉安恭の文通の周辺をみてみたい。柳田国男が『郷土研究』を創刊した1913年3月に柳田は伊波普猷に「琉球の貴重文書の刊行」についての書簡を送っている。程なく沖縄県庁では筆耕に『中山世譜』など写本を命じている。6月、黒頭巾・横山健堂が来沖し伊波普猷や安恭らと親しく交わり『大阪毎日新聞』に「薩摩と琉球」を連載。無論、沖縄の新聞にも転載された。
1914年に安恭らは同人雑誌『五人』を創刊、安恭は古手帖(抜書き)をもとに男色をテーマに「芭蕉の恋」を書いた。7月、伊波普猷、真境名安興らは県知事から沖縄史料編纂委員を拝命。1915年の1月に沖縄県史編纂事務所が沖縄県庁から沖縄県立図書館に移された。主任は安恭の友人で同じ池城毛氏一門の真境名安興である。当然、先の『中山世譜』などは県立沖縄図書館のものとダブルことになる。安恭は安興から『中山世譜』『球陽』などの写本を譲り受けた。安恭は『球陽』などを引用して『琉球新報』に「定西法師と琉球」「琉球飢饉史」、朝鮮史料で「朝鮮史に見えたる古琉球」を書き琉球学の開拓にこれつとめた。
熊楠宛の書簡で安恭は前出の「芭蕉の恋」に関連して「芭蕉翁も男色を好みし由自ら云へりと鳴雪翁の説なりしが、芭蕉がそれを文章に書き著せるもの見当たらず候が、御承知に候はば、御示し下され度候」とある。いかにも見た目には学究的だがその気質は芸術家である。安恭は俳人として麦門冬、歌人として落紅、漢詩人として莫夢山人と号したが俳諧が気質に合っていたようだ。前出の古手帖には「芭蕉」「子規」「俳句に詠まれた琉球」「俳句の肉欲描写」「沖縄の組踊の男色」などが記されている。
安恭は熊楠と文通を通じてお互いに聞きたいことは殆ど聞いたと思う。文通が直接には途絶えても沖縄の事は安恭贈呈の『球陽』で当面間に合う。『日本及日本人』誌上では安恭は亡くなるまで熊楠と投稿仲間であった。1919年1月、折口信夫編集『土俗と伝説』には熊楠の「南方随筆」と並んで安恭の「沖縄書き留め」がある。しかも同年6月、安恭は安興らと「沖縄歴史地理談話会」を設置し活動に入り安恭も自ら企画・講演をなしその内容を新聞記者として、創刊メンバーとして『沖縄時事新報』にも書く忙しさである。


1990年6月 中瀬喜陽・長谷川興蔵編『南方熊楠アルバム』八坂書房
私の手元に中瀬喜陽さん編著『紀州田辺の俳壇』がある。序に「田辺に俳人が訪れたであろう最初を大淀三千風の『行脚文集』に依るのが従来の定説だった」とある。安恭も1917年9月の『日本及日本人』に「大淀三千風の日本行脚文集に『雨雲をなとかは横に寝さすらむ名は正直(ろく)な神風』といふ歌あり、ろくに正直といふ意味ありしか」と『行脚文集』を引用している。同じく中瀬さん共著『南方熊楠アルバム』の1911年3月・熊楠日記には河東碧梧桐俳句「木蓮が蘇鉄の側に咲く所」」と河東写真が並んでいる。碧梧桐は1910年5月に来沖し安恭の俳句は「将来有望」と述べた。 

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1972年11月『別冊経済評論』「日本のアウトサイダー」
桐生悠々(むのたけじ)/宮武外骨(青地晨)/伊藤晴雨(石子順造)/高橋鐵(竹中労)/沢田例外(森長英三郎)/安田徳太郎(安田一郎)/田中正造(田村紀雄)/菊池貫平(井出孫六)/山口武秀(いいだもも)/北浦千太郎(しまねきよし)/古田大次郎(小松隆二)/平塚らいてぅ(柴田道子)/高群逸枝(河野信子)/長谷川テル(澤地久枝)/宮崎滔天(上村希美雄)/橘撲(髙橋徹)/西田税(松本健一)/謝花昇(大田昌秀)/南方熊楠(飯倉照平)/出口王仁三郎(小沢信男)/山岸巳代蔵(水津彦雄)/尾崎放哉(清水邦夫)/添田唖蝉坊(荒瀬豊)/辻潤(朝比奈誼)/稲垣足穂(折目博子)/天龍(秋山清)/淡谷のり子(加太こうじ)/谷川康太郎(猪野健治)




「発禁本」資料  
現代筆禍文献大年表
明治28年3月     沖縄県私立教育会雑誌(沖縄県 安井宗明)
明治33年10月    沖縄青年会会報(渡久地政瑚)
大正5年         沖縄民報6月15日第677号
大正10年2月     不穏印刷物2枚「沖縄庶民会創立委員発行」
大正13年11月    沖縄タイムス「11月13日14日亘る難波大助に係る不敬事件判決言渡に関する記事」
大正14年5月      地方行政5月号 神山宗勲「燃え立つ心」

 1978年、桃源社発行の酒井潔『愛の魔術』に澁澤龍彦が解説で「酒井潔は堅苦しい学者ではなく、何よりもまず、面白く語って読者を楽しませようとする、根っからのエンターティナーがあった。それは本書をお読みになれば、誰にでも十分に納得のいくことであろう。明治の南方熊楠ほどのスケールの大きさは望むべくもないが、彼自身も南方に傾倒していたように、その方向の雑学精神の系統をひく人物であったことは間違いあるまい」と書いている。

麦門冬ー熊楠ー岩田準一ー乱歩
 1931年6月には竹久夢二が元北米の邦人新聞記者・翁久充の企画で、サンフランシスコに入り、1年余にわたり米国に滞在し、ロスを中心に展示会や在米見聞記「I CAME I SAW」の題で新聞連載、スケッチ旅行などをしている。アワビ漁で成功した小谷源之助はポイント・ロボスの海岸に来客用の別荘を建て芸術家や文人、政治家らを宿泊させていた。夢二研究家の鶴谷壽(神戸女子大教授)が夢二と宮城与徳(画家・ゾルゲ事件に連座)が小谷家の方と一緒に写っている写真を発表している。夢二は翁と新聞社のストのことで喧嘩別れをし、気の合う若い与徳としばらく一緒に生活しながら絵を描いていたようである。夢二は翌年の10月にはヨーロッパへと足をのばし、欧州各地を渡り歩き、ドイツの邦人グループと一緒になってユダヤ人救済運動に関わっている。彼は平民社の幸徳秋水とも交流し、医師の安田徳太郎とのつながりもある。彼の反戦のコマ絵をみると、夢二の美人画はもの悲しい憂いにみち、放浪とロマンを追い続けた夢二の後ろ姿に重なる。(大城良治)


 夢二の弟子に岩田準一が居る。□岩田準一 いわた-じゅんいち 1900-1945 昭和時代前期の挿絵画家,民俗研究家。明治33年3月19日生まれ。中学時代から竹久夢二と親交をもつ。江戸川乱歩の「パノラマ島奇譚」「鏡地獄」などに挿絵をかく。郷里三重県志摩地方の民俗伝承の研究や,男色の研究でも知られ,南方熊楠(みなかた-くまぐす)との往復書簡がある。昭和20年2月14日死去。46歳。文化学院卒。旧姓は宮瀬。著作に「志摩のはしりかね」など。(コトバンク)□→「岩田準一と乱歩・夢二館(鳥羽みなとまち文学館」(.所在地〒517-0011三重県鳥羽市鳥羽2丁目 交通アクセス鳥羽駅から徒歩で10分 ..お問合わせ0599-25-2751) .

2013年10月 飯倉照平『南方熊楠の説話学』勉誠出版



本書『南方熊楠の説話学』にも、「『南方熊楠全集』の校訂をおわって」と題して「平凡社の池田敏雄さんが、そのころまだ代々木駅の近くにあった中国の会の事務所へたずねて来てくれたのは、たしか1969年のはじめごろ{正しくは4月}であったと思う。乾元社版の『南方熊楠全集』に手を加えて出したいが、誤植も少なくないと思われるので目を通してほしいこと、さらに引用されている漢文を読み下し文に直し、全体の表記も読みやすくしたいので手伝ってもらえないか、というのが用件であった。戦争中に『民俗台湾』という雑誌の編集をしていた池田さんから、わたしは中国の昔話や民俗学の本を借りたことがある。また、わたしが以前によその出版社で校正の仕事をしていたことも、依頼されたきっかけの一つになっていたかもしれない。」と「『南方熊楠全集』の校訂に携わるきっかけを書かれておられる。

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 2012年10月『熊楠WORKS』№40に飯倉照平さんが「『漫画』好きの伊東忠太」を記され中に「筆者は、平凡社の『南方熊楠』全集の校訂にたずさわる前に、前後10年近く歴史の復習を旨とする雑誌『中国』の編集を手伝っていた時期がある。」と、かつて私も愛読していた『中国』との関わりについてもふれておられる。同号には考古学者・森浩一氏の第22回南方熊楠賞授賞式も載っていた。


飯倉照平氏は千葉県山武郡大網白里町に住んでおられる。氏の著の書評を2回、沖縄の新聞に書いた。2006年11月25日『沖縄タイムス』新城栄徳(書評)飯倉照平『南方熊楠ー梟のごとく黙座しおる』ミネルヴァ書房ー本書で著者が意を用いたのは、伝説化された熊楠をできるだけ排除するということである。しかし私は本書で新たな熊楠伝説を作りたい。それは麦門冬・末吉安恭と熊楠との交流である。著者は1993年から南方熊楠邸保存顕彰会の南方邸資料調査に参加。まもなく『南方熊楠ー森羅万象を見つめた少年』(岩波ジュニア新書)を書く。昨年春、13年にわたる共同作業を終え、その成果として2冊の目録を刊行し、本書がミネルヴァ日本評伝選の1冊となった。
 さて、南方熊楠、幼少のみぎりはじめて父に買ってもらったのは中村惕斎が編集した『訓蒙図彙』で江戸期の動植物の絵入り百科事典だという。熊楠はくりかえし読みすべての項目の名前と読み方をおぼえた。中学に入学する前後はさらに絵入りの百科事典『和漢三才図会』を天象類、異国人物、外夷人物の項目名をすべて書き写し、『本草綱目』『大和本草』も書き写した。熊楠は1886年12月、横浜出航の船でアメリカ留学に向かう。アメリカでは回覧新聞を発行したり、植物採集に没頭。92年、ロンドン大英博物館では洋書、中国書の希覯書から旅行記、地誌、性愛などを抜き書きしたという。
 本書に熊楠の異色の文通相手として紹介されているのが麦門冬・末吉安恭である。『日本及日本人』誌上に熊楠が登場しているのを知り、麦門冬は1917年に「劫の虫より経水」という短文で熊楠の文章に言及した。熊楠はこれを読んで「月経に関する旧説(末吉君に答う)」を雑誌に書いたが、長文で掲載されなかった。これを機に2人の文通がはじまる。
文通そのものは短期間であった。だが1919年、『日本及日本人』誌上で、麦門冬が「版摺職工のストライキ」を書けば熊楠が次号で「ストライキ」を麦門冬が立証したと書く。20年には、熊楠の「大本という神号」、麦門冬の「薩人の虐殺」と文章が並んでいる。誌上での熱っぽい丁丁発止の交流は、麦門冬が亡くなるまで続いていた。11月25日は麦門冬の命日「莫夢忌」であり、没後82年を数える。

 今年3月15日にJR西日本「おおさか東線」が開業した。5月26日、息子の家(布施)から近い真新しい長瀬駅から乗る。久宝寺駅で乗り換え王子経由で9時前に法隆寺に着く。法隆寺は日本仏教の始祖といわれている聖徳太子を祀っている。日本最初の世界文化遺産でもある。法隆寺には和歌山有田の修学旅行生がバス3台で見学に来ていた。このときは夢殿とその周辺を見て帰った。那覇に帰る前日の6月6日、あけみと一緒に改めて法隆寺見学、金堂は改修工事中で上御堂で御本尊の金銅釈迦三尊像を拝観。1998年に完成した大宝蔵院には百済観音像玉虫厨子などが安置されている。出てすぐの所の大きな蘇鉄の前で、あけみを立たせて記念写真。法輪寺、法起寺の三重塔も見学した。
 辛口批評家の谷沢永一氏著『聖徳太子はいなかった』新潮新書によると、柳田国男は聖徳太子が虚構であることを知っていた。古事記や日本書紀について書くのは柳田は慎重であったという。柳田が自分の見るところ信じられるところにしたがって記紀をいじれば、なにしろあの時代においてのことであるから、かならずヤケドするとわかっていた。とくに民俗学は理論をおしすすめてゆくと、当時やかましかった国体の問題につきあたる。折口信夫」も微妙に避けた。現代の学者がおのれの創見であるといなないているテーマのいくつかは、知られていたけど書けなかった、という。俳人・末吉麦門冬も南方熊楠宛の書簡で「小生も嘗て『古事記を読む』の題にて古代人の恋愛問題を論じヨタを飛ばし過ぎた為か、これを載せた新聞の編集人が、検事局に呼出されて叱られた」と書いている。


契沖の出家した妙法寺(今里)
 息子の家からほど近いところに司馬遼太郎記念館と、契沖の出家した妙法寺(今里)がある。契中は水戸光圀と出会い『万葉代匠記』をまとめた。本居宣長は契中を「古學の祖」と位置付けた。今里駅から大阪市内に入ると天王寺公園がある。琉球処分のとき警官で来琉したのが池上四郎、大阪の礎を築いた関一市長は著名だが、その関を呼び寄せたのが池上6代目大阪市長である。池上の銅像が天王寺公園にあるが池上の曾孫が沖縄に何かと縁がある秋篠宮紀子さん。北上し中之島に出る。その昔、豊臣秀吉が大阪城築城のときに全国から巨石が集められた。川に落ちたのも多数にのぼる。中之島公会堂近くに豊国神社があった。神社は大阪城内に移された。その跡に木村長門守重成表忠碑がある。碑は元沖縄県令で大阪府知事を退いていた西村捨三と、大阪北の侠客小林佐兵衛が発起し安治川口に沈んでいた築城用の巨石を引きあげ建立したもの。毛馬公園には那覇港築港にも関わった工学士・沖野忠雄の胸像がある。

木邨長門守重成表忠碑(彦根西邨捨三譔 日下部東作書)
【日下部鳴鶴】書家。近江彦根の人。名は東作,字は子暘。彦根藩士日下部三郎右衛門の養子となったが,桜田門の変で父は殉死した。1869年(明治2)東京に出て太政官大書記となったが,後年は書をもって身をたてた。はじめ巻菱湖(まきりようこ)の書風を学ぶが,80年に来朝した楊守敬の影響を受けて六朝書道を研究,のち清国にも遊学して見聞を広め,深い学識と高古な人柄とによって彼の書名は一世を風靡した。現代書道発展の先駆者として,その功績は高く評価されている。→コトバンク

池上四郎

池上四郎ー1877年、池上は警視局一等巡査として採用され、間もなく警部として石川県に赴任した。その後、富山県などの警察署長、京都府警部などを歴任し、1898年からは千葉県警察部長、兵庫県警察部長を務めた。1900年には大阪府警察部長となり、その後13年間に渡って大阪治安の元締めとして活躍した。その清廉で、自ら現場に立ち責任を果たす働きぶりと冷静な判断力は、多くの市民からの信頼を集めた。1913年、市政浄化のため、池上は嘱望されて大阪市長に就任した。財政再建を進める一方、都市計画事業や電気・水道事業、さらには大阪港の建設などの都市基盤を整備し、近代都市への脱皮を図った。御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現を見た。また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。1923年には大阪電燈株式会社を買収し、電力事業を市営化した。また1923年9月に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。(ウィキメディア) 
 1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった
 1918年、富山県魚津で火蓋を切った米騒動は、瞬く間に全国を席巻し、軍隊の動員を待たねば沈静化せず、ために時の寺内内閣は総辞職した。大阪では、その米騒動の収拾のために米廉売資金が集められていた。その残金を府・市で折半したのであるが、府(林市蔵知事)では発足したばかりの方面委員制度のために利用した。市(池上四郎市長ー秋篠宮妃紀子曽祖父)では「中産階級以下の娯楽機関として市民館創設資金」27万7千円弱が市に指定寄附されたのを受けて、1921年6月20日、天神橋筋六丁目(天六)に日本初の公立セツルメント「市立市民館」を開設したのである。これが、1982年12月に閉館を迎えるまで62年間にわたって、大阪ばかりでなく全国の社会福祉界に歴史的シンボルとして存在した「大阪市立北市民館」(1926年の天王寺市民館開設とともに改称)の始まりであった。


□小林佐兵衛   生年: 文政12 (1829) 没年: 大正6.8.20 (1917)
明治期の侠客。大坂生まれ。通称は北の赤万(明石屋万吉)。年少から侠気を発揮し,幕末には大坂の警備に当たった一柳 対馬守に請われて捕吏頭を務めながら,禁門の変(1864)で敗れた長州藩士の逃亡を助けたりする。維新後に大阪の消防が請負制度になると,渡辺昇知事に頼まれ北の大組頭取として活躍した。米相場で成した資産を投じ,小林授産所を営み,多数の貧民に内職を教え,子どもは小学校へ通わせた。明治44(1911)年9月,米相場の高騰で苦しむ貧民のため,取引所へ乗り込んで相場を崩す。貧民700人の無縁墓を高野山に建立。浪速侠客の典型として,司馬遼太郎の小説『俄』のモデルになる。 (コトバンク)

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新城栄徳「末吉安恭(麦門冬)没90年」研究発表に寄せて」
 18日の沖縄タイムス文化欄に、沖縄近代史家の伊佐眞一氏が県知事選の結果を読む、として、もはや翁長雄志氏に疑心暗鬼に精力を裂くときではない。基地問題は第2ステージに入っており、自恃(じじ)のウチナーンチュがひとりでも多くなればなるほど、私たちの郷土は真に自立した道を確実に歩めるはずだ、と書いている。
 伊佐・比屋根照夫共編『太田朝敷選集』に、東恩納寛惇宛の書簡で太田は「私は近頃本県を見るについて以前とは少しく違った見地から見ています。即ち日本帝国の一地方と云ふより寧(むし)ろ民族的団体と云ふ見地です。国民の頭から民族差別観念を消して仕舞ふことは吾々に取っては頗(すこぶ)る重要な問題だと考へて居ります」と書いているが、この太田の予言は現在の沖縄にも通底する。
 このほか、太田選集には俳句や小説、歴史、民俗など近代沖縄文化の幅広い分野で活躍したジャーナリスト、末吉安恭(麦門冬)を追悼して「私が沖縄時事新報社を新設するに当たり君は私の微力なるを思ひ私の請に応じて快く助筆たるを承諾して呉れた(略)琉球社以来の同志も亦、又吉君を始め君を先輩として敬意を表するに吝(やぶさか)ならなかったのである」と載っている。社会運動家の東恩納寛敷も「沖縄タイムス」の追悼文で「波上軒で麦門冬が酔って興に乗じ幸徳秋水の漢詩を戸板一杯に書いた見事な筆蹟であった」と書いている。
 幸徳秋水は末吉安恭がいつも気にしていた人物だ。1912年の「沖縄毎日新聞」元旦号に麦門冬は鑿(のみ)と題し「浦島太郎が龍宮へ行こうとすると声がするので振り返って『ヤア誰かと思ったら幸徳秋水君か君は又地獄の牢(ろう)破りをやったな』『急行列車で今着いたばかりさ』『君も浮かばれない亡者だナア』『ナアにこれから沈もうと思っている』」と書いているが本人も後年、那覇港で沈んでしまった。
 鎌倉芳太郎は麦門冬から沖縄美術史の手解きを受けたが、後年「大正10年といえば、いわゆる大正デモクラシーの興った年で、沖縄でも社会主義運動が起こり、師範学校の教師であった私も、『沖縄タイムス』主筆の末吉麥門冬からマルクスやエンゲルスといったいわゆる赤い本を借りて来て、深夜コッソリ読んで興奮を覚えたりした。それが当時の沖縄の情勢であった。(略)殊に師範学校の教師が内務省の中央集権化の方向に反対するような研究(琉球王国の文化)をやる、そんなことは許されるはずがなかった。ところが、(略)またありがたいことに末吉麦門冬が『沖縄タイムス』でバックアップしてくれたので、私の琉球研究の芽は日一日と育った。」(1977年・『国語科通信№36』)と当時を回想している。
 末吉安恭を通して近代沖縄の歩みを振り返ることは、現在の私たちの沖縄社会を考え直す契機になる。                                                                                 (「琉文21」主宰)

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1924年12月20日『沖縄タイムス』東恩納寛敷「末吉安恭君を悼む」

2011年1月ジュンク堂那覇店に行くと大逆事件100年ということで関係書籍が積まれていた。1972年、大阪梅田の古書店で入手したのが『大逆事件アルバムー幸徳秋水とその周辺』であった。幸徳秋水はどういう人物かは知らなかったが写真集といこうことで買った。
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1972年4月ー幸徳秋水全集編集委員会『大逆事件アルバムー幸徳秋水とその周辺』明治文献
1910年6月28日『沖縄毎日新聞』「無政府黨の陰謀」
6月29日『沖縄毎日新聞』「本社発行人(伊舎良平吉)検事の取調べを受ける」
幸徳秋水
生年: 明治4.9.23 (1871.11.5) 没年: 明治44.1.24 (1911)
明治期の社会思想・運動家。高知県中村町の薬種業,酒造業篤明と多治の次男として生まれる。本名は伝次郎で,秋水は師・中江兆民から授かった号である。生後1年たらずで父を失い,維新の社会変動のなか家業も没落し,しかも生来病気がちで満足な教育を受けられなかったことが,秋水をして不平家たらしめ,他面では理想主義に向かわせた。高知県という土地柄もあり,幼くして自由民権思想の影響を受けた。明治21(1888)年より中江兆民のもとに寄寓し,新聞記者となることを目ざし,『自由新聞』『中央新聞』に勤めた。『万朝報』記者時代(1898~1903),社会主義研究会,社会主義協会の会員となり,社会主義者としての宣言を行う。34年5月,日本で最初の社会主義政党である社会民主党の創立者のひとりとして名を連ねた。秋水の著作『社会主義神髄』(1903)は当時の社会主義関係の著書としては最も大きな影響を与えた。36年,日露戦争を前にして戦争反対を唱え,堺利彦と平民社を結成。平和主義,社会主義,民主主義を旗印として週刊『平民新聞』を刊行したが,38年筆禍で5カ月間入獄。出獄後渡米し,権威的社会主義を否定し,クロポトキンなどの影響を受けて無政府共産主義に傾く。39年帰国。43年,説くところの政治的権力と伝統的権威を否定する思想,並びに労働者による直接行動の提唱が,宮下太吉らの明治天皇暗殺計画に結びつけられ,いわゆる大逆事件の首謀者とみなされ,絞首刑に処せられた。<著作>『廿世紀之怪物帝国主義』『基督抹殺論』『幸徳秋水全集』<参考文献>飛鳥井雅道『幸徳秋水』,神崎清『実録幸徳秋水』,大原慧『幸徳秋水の思想と大逆事件』,塩田庄兵衛『幸徳秋水』 (山泉進)□→コトバンク


幸徳秋水の墓ー島袋和幸氏撮影

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写真「末吉麦門冬」

1924年12月26日 『沖縄タイムス』東恩納寛惇「野人麦門冬の印象」
△麦門冬失踪の郷信に接したのは、二三日前の事であったが、信ずることを得なかった。今日到来の新聞でその訃音の広告を見て信ぜざるを得なくなった。
△「真加比河原下りて」の詩に卓宕不羈の鬼才を知られた薄幸詩人狂末吉は、麦門冬と兄弟か叔姪か。彼れが洋灯の火を浴びて神田の下宿に悶死した遺骸を、三四の郷友と守ったのは、霜白き秋、廿一二年の昔の事であったらうか。△その天才と、その数奇の運命と、両末吉何ぞよく相似たる。
△麦門冬に「真加比河原」の悪謔のなかっただけ彼れは小末吉に比し、泰々として大人の風があった。
△文筆を通じて自分が麦門冬と知己たる事は可なり古い。然し彼れと面晤したのは、太甚新しい、彼れの三十九年の生涯中、自分が彼れを見た時間は、三時間にも足りない。
△数年前の夏、自分が帰省した時に、物外、笑古、麦門冬を頭に描いて波止場に下りた。その翌日若狭町の大通りにタイムス社の横看板を斜に見ながら、麦門冬を想像した。その翌日笑古の上泉の僑居に叩いて、使を馳せて彼れを迎へたが居なかった。
△その又翌日彼れが、「フチュクル、ビツチン」してノコノコやって来た。面と見た麦門冬は自分の想像を裏切った。自分の想像では彼れは頭髪をクシャクシャにした色の蒼白い優さ男であったが、実際会って見ると、在郷軍人のやうな男であった。山城正忠を一廻り大きくしてイブシをかけたやうな男であった。
△正忠と麦門冬とは類型の人物である。その磊々たる風姿に長安の酒徒を偲ばしめる点に於て似ている。あの大きな図体から柄にもない処女のやうな音色を絞り出す点に於て似ている。併し頭脳の緻密な点に於て、麦門冬は正忠の兄である。
△麦門冬と正忠とは之れを蔬菜に譬へて見ると、当に「アスパラガス」である。大味の中に微妙な苦味がある。王侯の盛膳でも手掴で食へる。△麦門冬に対する自分の印象は、向日葵を聯想させる。黙々として垣根の裏に力強く咲いている花、輪郭の大きいボツとした花、満洲や蒙古の荒原にでも咲きさうな花。併しながら彼れは遂に床の間の飾りとはならなかったのである。
△麦門冬の経歴も自分は知らない。彼れが史筆で名を出して来て以来、自分の彼れに対する感じはどうしても新しく出て来た人のやうには思へなかった。幕の陰に初めからいた人のように感じた。声こそ立てね、彼れは品物を持って最初から店を出していたのである。△文筆を通じて見た麦門冬は微塵も穉気がなかった。
△「日本人」のカットに小出しに随筆を出していた者に、南紀の奇人南方翁と麦門冬とがあった。麦門冬は果たして彼れと同一人か。△彼れは沖縄のやうな不便な処にいて、珍しい程、物を読んでいた。読んだものを並べて行く点に於て、彼れは球陽の小南方であった。
△彼れの史筆は述べるのであって、論ずるのではなかった。彼れの史筆に結論がない如く彼れの人物にも結論がなかった。よく云へば彼れは初めから蔗境に入っていた。彼れは勿論唐栄の子孫ではない。併し彼れの風格は明初の人物を偲ばしめる。「莫夢山人」の彼れの筆跡も亦さうである。
△彼れの生涯は障子の陰を通った大人のやうな気がする。素通りであったが影は大きかった。開けて見るともういない。△彼れは既成でもなければ、未成でもない。恐らく彼れに取って問題ではなかったらう。
△三時間の会見を通じて自分に映った彼れの印象は、光角の浅い鏡台にうつった影像のやうなものである。最初も最後も共に不明で、その真中だけが可なり濃く映じている。△彼れの最初はいかん。彼れの最後はいかん。共に知らない。又知らうとも思はぬ。彼れはそのまま一個の芸術品であった。△銀行潰れ、群小政治家美田を失って迷乱せる時、高踏彼れを喪ふ。噫。


東恩納寛惇生家跡(ヒガオンナカンジュンセイカアト)那覇市東町22地内 モノレール旭橋駅より西へ徒歩約5分。東町外科医院近く。
 沖縄研究者東恩納寛惇の生家跡。東恩納寛惇は1881年(明治14)に、那覇東村(ひがしむら)で生まれた。東恩納家は那覇士族の愼(しん)氏である。
 東恩納は、沖縄尋常中学校を経て、熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)、ついで東京帝国大学(現東京大学)史学科に進んだ。1908年(明治41)に卒業し、その後も、東京に留まり、1929年(昭和4)に東京府立高等学校の教授となった。1933年(昭和8)には東京府からの派遣で、東南アジアやインドを歴訪し、タイでは日本人町の調査を行った。戦後の1949年(昭和24)に拓殖(たくしょく)大学の教授に就任した。
 東恩納の沖縄研究は、大学在学中からで、『琉球新報』や各種雑誌等で論文を発表している。主な著書に『尚泰侯実録(しょうたいこうじつろく)』(1924年)、『黎明期(れいめいき)の海外交通史』・『泰(タイ)ビルマ印度(インド)』(1941年)など多数あり、戦後も地名研究の名著『南島風土記(なんとうふどき)』(1950年)、『校註 羽地仕置(はねじしおき)』(1952年)がある。
 1963年(昭和38)に東京で死去、享年83。60年余かけて収集した蔵書は、郷里沖縄に寄贈され、沖縄県立図書館に「東恩納文庫」として収蔵されている。
 なお、東恩納の生家跡は、王国時代は、薩摩藩在番(さつまはんざいばん)奉行所の脇仮屋(ワキカイヤ)で、1900年(明治33)から沖縄戦にかけては並川(なみかわ)金物店となっていた。

 東恩納寛惇は1940年3月の『月刊民芸』に「方言問題だけではない。沖縄の教育の根本方針は一切の弁解を去る事である。消極的にあれもいけない、これもいけないと云うのではなくして、積極的にあれをやれ、これをやれと云う事である。沖縄人が排他的傾向を有し他人に褒められると無上に嬉しがると云う事も、同情を求める卑屈な心理から来たもので、この卑屈心理をまづ除去するのが教育の根本義であろう。これが為には吾々が有する美点長所を十分に知らせて子弟の自負心を昂揚する必要がある。薩摩人が薩摩訛を寧ろお国自慢にするが如く、吾々も亦沖縄訛を光栄に思う時代を促成しようではないか」と記した。寛惇の琉球学は後世に伝えるべき琉球人の誇りであった。 









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 「くろねこの短語」2018年12月23日ー辺野古埋め立てに抗議するホワイトハウス署名は17万筆を超える勢いだそうで、いかにたまりにたまった怒りが渦巻いているかということだ。でも、そのはけ口がこの国にはない。どんなに民意が「NON」を叫んでも、ペテン政権は聞く耳持ちませんから。それどころか、「全力で埋め立てを進める」なんて官房長官が国民に宣戦布告しちまうんですから、暴動が起きないのが不思議なくらいだ。だからこそのホワイトハウス署名なんだろうけど、でもよく考えてみるとこれって結局のところ日本に主権はないってことを暗に証明しているようなものなのかもね。見方によっては宗主国のアメリカに直訴しているようなものだと言えなくもない。
 実際、憲法を超える存在と言われる非公開の「日米合同会議」なんてのがありますからね。月2回開かれているとされるこの会議は鳩山ポッポもその存在を知らされず、結局は煮え湯を飲まされたとも噂されている。そりゃあ、プーチンに「日本は本当に主権国家なのか?」と皮肉られるわけだ。・【痛烈】露プーチン氏が「辺野古基地建設強行」に触れ、安倍政権に苦言!「日本は本当に主権国家なのか?」…領土交渉のマズさに日本政府は”完全沈黙”! いわばタブーとも言える「日米合同会議」について、なんとテレビ朝日『報道ステーション』がリポートしている。


2018年12月『オキナワグラフ』№681「<特集・翁長雄志 語やびら>6人の語りべたちー上原慶子、新里叡、城間幹子、国吉真太郎、宮里千里、翁長雄治」

 М12月21日ー辺野古の持続的闘いとホワイトハウスへの要請署名運動の広がりはついにロシアのプーチン大統領が発言するまでになりました  嘉手納、宜野湾、ホワイトビーチは国連軍でもある  安倍政権の問答無用な強圧的辺野古新基地建設については
やがて国連でも話題なるのだろう。

 島袋夏子ー普天間基地の返還が発表されたのは22年前、橋本首相とモンデール駐日米国大使の共同記者会見だった。(略)普天間返還は「沖縄問題の象徴」とされていた。その実現が、地上戦で多大な犠牲を払い、戦後も米軍占領下で惨めな生活を強いられた沖縄の「戦後」を前進させるものだとみられていた。結局、普天間基地からわずか40キロの名護市辺野古に落ち着き、計画は沖に浮かぶ小さな海上ヘリポートから、形を変え、次第に規模や機能を増強させていった。気が付くと、滑走路は1本増え、1800キロメートルのV字型に。図面には密かに、軍港機能を備えることが記され、弾薬搭載エリアも併設する、巨大基地計画にすり替わっていた。

 「くろねこの短語」2018年12月19日ーペテン政権の事の本質を隠すための言い換えというのは、ほとんど犯罪的ですらある。これまでにも、安保法制を平和安全法制、武器輸出を防衛装備輸出、カジノを統合型リゾート、そして最近ではFTAをGTA、移民を外国人材と、あたかも戦争を事変、全滅を玉砕、撤退を転進と言い換えた戦時中を彷彿とさせる有様だ。そこへもってきて、今度は空母を多用途護衛艦だとさ。物は言いようとはよく言ったものだ・・・って関心してる場合じゃないんだね。こういう言葉のすり替えって、つまるところ国民を舐めきってるってことを意味てるんだからね。
 それにしても、新聞・TVは「事実上の空母」って言ってるくせに、そうした言葉のすり替えについてほとんど言及しないのがなんとも癪に障る。これまでもずっとそうだったんだけど、結局のところメディアが言い換えを容認しちゃってることが、さらに初老の小学生・ペテン総理とその不愉快な仲間たちをつけあがらせているんだね。攻撃型の空母を容認するってことは専守防衛を逸脱するのは当たり前で、ようするにアメリカのプレッシャーが裏にはあるに違いない。集団的自衛権容認で憲法解釈を大転換して、今度はそのための武力を強化しようってわけだ。そして、いずれアメリカの戦争に駆り出されるという寸法だ。
 戦闘機を1兆円も爆買いしたのも空母があればこそで、いよいよこの国は戦時体制へと突入するってことだ。中国や北朝鮮の脅威を煽るのもそのための布石だろう。10代、20代の安倍支持率が高いとされているが、戦争に引きずり出されるのはそんな彼らなんだよね。こんなはずじゃなかった、って思った時にはもう遅いんだから、ちったあ目を覚ませと説教のひとつもたれたくなる今日この頃なのだ。

 「くろねこの短語」2018年12月18日ー(前略)でもって、「経済合理性がなければ・・・」云々という日立の社長の発言ってのは、皮肉なことに規制緩和の名の元になんでもかんでも民営化に向う動きに対する警鐘にもなっているんだね。そりゃあそうだ、利益を上げるのが民間企業ですからね。その意味では、日立のシャチョサンの発言は正しい。
 民間企業とくれば民営化。民営化とくれば水道なんだが、雫石ではとんでもないことになってるってね。その詳細はソース(「民間水道業者「給水停止も」 岩手・雫石 経営悪化で追加料金請求」)を読んでいただくとして、水道だけでなくなんと図書館でも民営化問題が起きているってね。なんでも、「東京 練馬区が2つの区立図書館の運営を民間に委託する方針を示していることに図書館の非常勤の司書で作る労働組合が反対」して、「19日と26日にそれぞれ2時間のストライキを構えて交渉を続けて」いるんだとか。図書館司書ってのはけっこう熟練を要する職種で、それなりのノウハウを身につけるには経験が必要なんだよね。それを民間に委託しちゃうと、それこそ「経済合理性」ってやつが頭をもたげて、図書館司書としてのノウハウなんかすっ飛ばして効率一辺倒になりかねない。「TSUTAYA図書館」ってのが一時、話題になったけど、その杜撰な選書にはビックリしたものだ。練馬区がどんな民間業者を想定しているかはわかにらいなけど、同じ轍を踏むことになるんじゃないのかねえ。
 で、このニュースで気になるのは、市民の「賛否の声」ってやつだ。ストライキってのは働く者の権利なんだから、否定的な声があることを両論併記を意識してなのかわざわざ紹介するのがひっかかるんだよね。もっとも、マクロン政権に立ち向かうパリ市民を暴徒なんて報道して憚らないメディアが多いことを考えれば、それもまたむべなるかなってことか。民営化ってんなら、いっそのこと国会を民営化しちゃったらどうだ・・・なんてわけわかんない妄想してみる火曜の朝であった。

「くろねこの短語」2018年12月17日ー 日立がイギリスでの原発計画を凍結したそうで、三菱重工のトルコ原発断念とあわせて、初老の小学生・ペテン総理と原子力村による原発輸出戦略はすべて暗礁に乗り上げちまいました。ざまあ~みろです。そもそも、福島第一原発事故すら現在進行形で、いまだに「原子力緊急事態宣言」は解除されてませんからね。そんな国が原発を海外に売り込もうって発想が狂ってるってことだ。原発輸出は、ペテン政権にとっては成長戦略の目玉でもあるわけで、それが頓挫したってことはアホノミクスはことくごとく失敗だったってことなんだね。「いざなぎ景気超え」なんてまやかし言ってる場合じゃないってことだ。これで消費税増税なんてしたら、この国の経済は悲惨なことになりますよ。(略)・安倍政権、消費増税対策で5種類の税率が混在…国民生活はパニックで多大な負担
 さらに、軽減税率の財源に社会保障費を利用としているとか。そもそも、「消費税増税分は社会保障費に使う」のが約束だったんじゃないのか。本末転倒と言うか、もう何がなんだかわかんなくちゃってますね。「組織は頭から腐る」と言うけれど、やっぱりトップが“アレ”だから、阿呆な国になっちまったってことなんだね・・って感心している場合じゃないのだ、プンプン!!。最後に、辺野古新基地建設工事中止をアメリカ大統領に求める署名が始まりました。小さなことからコツコツと・・・ですね。

  「くろねこの短語」2018年12月16日ー沖縄の海が壊されている最中に、その首謀者である初老の小学生・ペテン総理はゴルフに興じていた。プレイ中に記者から土砂投入について質問されると、薄ら笑いを浮かべて背を向けて去っていったそうだ。ごまめの歯ぎしり・河野君の「次の質問どうぞ」と同じで、語るべき言葉も、「寄り添う気持ち」もさらさらないものだからこうなっちゃうんだろね。で、そのごまめの歯ぎしりが、ブログで言い訳してます。これがまた、およそ言い訳にも何もなってない代物で、ようするにどのような記者の質問も当意即妙にさばけるだけの器がないってことを暴露しちゃってるんだね。
 おそらく、この会見の模様は世界に向けて発信されてるだろうから、ロシアの北方領土担当であるラブロフだって観てるはずだ。さぞかし、ごまめの歯ぎしりの小人ぶりにほくそ笑んでいることだろう。「武器を持たない戦争」とされる外交の場では、政治家の胆力がモノを言う。ごまめの歯ぎしりは、「次の質問どうぞ」で、その心の弱さがあらわになっちゃいましたからね。史上最低の外務大臣という噂も流れ始めたようで、自民党の異端児からただの変節漢に落ちぶれたごの男には政治家としての未来はもうありません。
ところで、あまり大きなニュースになっていないようなんだけど、法務省が「公文書をつづったファイル計7688件を誤って廃棄」してたってね。法務大臣であらせられるところのヤメ検のニヤケ男・山下君は「不適切な廃棄は遺憾で、おわび申し上げる」ってコメントしてるようだが、「ごめん」ですむ問題じゃありませんよ、ったく。公文書管理法で定められた「廃棄前の内閣府への報告義務」を担当職員が怠ったのが原因としているけど、本当にそうか。担当職員ひとりの問題ではなく、公文書に対する緊張感が足りないのが正直なところじゃないのか。
 ようするに、森友学園疑獄における財務省の公文書廃棄・改竄と同じ体質が引き起こしたってことに違いありません。緩んでるんだよね、何もかもが。公文書ってのは将来、国がどのような政策判断をしてきたか、そのプロセスを知るための重要書類であって、それを廃棄したり改竄したりするってのは、歴史を隠蔽するも同じってことをまったく認識していないとしか思わざるを得ない。とは言え、トップが“アレ”だからね。そんなことを役人にだけ要求しても無理ってものか。「美しい国、日本」とは「愚か者の舟」なんだね。そこに乗り合わせちまった不幸を嘆いてるだけでは何も解決はしない。

「くろねこの短語」2018年12月15日ージュゴンが暮らす辺野古の海に容赦なく投入される土砂・・・反対する声に顔も頭も貧相な官房長官のガースーがこう言い放った。
「全力で埋め立てを進めていく」 イカレた野郎だ。頭も心も狂ってますね。そして所管大臣であるところのギョロ目の岩屋君は沖縄に責任転嫁する始末だ。 「一度承認された埋め立て許可が撤回されるなどの変遷があった」これは、2022年度とされる普天間飛行場返還が辺野古新基地建設工事遅延で遅れる可能性について問われて答えたものだ。普天間の危険性がいまだに解消しないのは沖縄のせいだとさ。もはや狂気の沙汰です。
 そもそも、普天間返還と辺野古新基地建設とはリンクしていないんだよね。そんなんだから、「辺野古移設が唯一の解決策」という理屈が成り立つ根拠について、ペテン政権これまで避けてきているんだね。よく口にする「丁寧な説明」ってのをやっちまうと、ボロが出ることがわかってるってことだ。だからこその土砂強行投入なんだろうが、そうはうまくいきませんよ。海底の地盤がマヨネーズ並みに軟弱だってことが判明しているんだから、工事を進めるには地盤の改良が必要になってくる。これがけっこう大掛かりな工事なところにもってきて、沖縄県の許可が必要になってるとか。
 そうなれば、また工事は中断して振り出しに戻ることになりますからね。ようするに、普天間の危険性だけが永久に解消されずに放置されるってわけだ。新基地建設利権に群がったシェンシェイたちだけがほくそ笑むって寸法だ。そして、沖縄への国家によるレイプは、けっして他人事ではないということ。日本全国、どこでも同じことが起こり得るってことを肝に銘じたほうがいい。土砂強行投入は、それを教えてくれている。


A、S 2016年12月14日
 「だから危険なオスプレイは早く辺野古に」という人が周りにいたら伝えてください。普天間からたった37キロ離れた辺野古に発着場を移したところで、この小さな沖縄島の上空を飛ぶことに変わりはないんだと。普天間発着でも那覇市街上空を普通に飛んでるし、私の子どもたちが通う島南部の学校上空を飛んでる。沖縄島全体が、オスプレイの訓練場になっている。「辺野古移設」は実は「辺野古新基地建設」であり、政府が言うような「負担軽減」ではありません、と。

 「くろねこの短語」2018年12月13日ー今年の漢字は「災」だとさ。どうでもいいけど、こんな愚にもつかないことそろそろ止めたらどうだ。オリンピックの年には「金」なんてのが2度ほどあったように、とりたてて意味なんかないんだからさ。年末の風物詩なんて言ってるのはTVだけってことだ。「アベこそ『災』」ってネット雀が囀っているのはご愛嬌というものか。
 車への課税、走った距離で 与党税制大綱に検討明記
そんなことより、自動車に新たな税を課そうと画策してるってね。なんでも、「走行距離などに応じた課税を検討」しているそうで、「保有から利用へ」が謳い文句なんだとか。ようするに、ガゾリンから電気へというエネルギーのイノベーションの中、ガソリン税の代わりになるものってんで思いついたんだろう。それにしても、これって交通機関が発達して車がなくても何の痛痒も感じない都市部ならまだしも、車が必需品の地方では大変なことになりますよ。地方では通勤にだって車使うわけで、毎日税金払って通勤するようなものだ。
 さらに、流通業界もたまりません。想像するだに恐ろしい混乱が起きるんじゃないのか。ようするに走れば走るだけ税金がかかってくるわけだから、流通には大打撃だってのはシロートにだってわかる。霞ヶ関でノホホンとしている官僚の考えそうなことです。通販業界ではドローンで宅配なんてビジョンがあるようだけど、こうなるとドローン税なんてのも仕掛けてくるかもね。取りやすいところから取る・・・つまりはそういうことだ。「税収というのは国民から吸い上げた物でありまして」なんて答弁するポンコツが総理大臣なんだから、どんだけ「美しい国」なんだか。

 「くろねこの短語」2018年12月10日ー(前略)そんなことより、またしても初老の小学生・ペテン総理による弱者いじめだ。なんでも、低所得高齢者の医療費軽減の特例措置を廃止するんだとか。「年金収入が年168万円以下の高齢者約740万人が対象」で、消費税増税とのダブルパンチはつまるところ「老人は早く死ね」ってことなんだね。
 でもって、防衛費は天井知らずで、なんと「2019年度から5年間の防衛予算総額を27兆円台とする方向で調整に入った」とさ。「防衛費1%枠」なんて言葉はどこ行っちゃったんでしょうねえ。役に立つかどうかもわからない兵器をアメリカから爆買いするなんてのは正気の沙汰じゃありません。 国会は今日で閉じるけど、いつまでもペテン総理を野放しにしていると、日本の未来も閉じちゃいますよ・・・って、もう閉じてるか、くそっ!

  

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1929年8月16日『沖縄朝日新聞』知念武雄「タゴールの印象」

1936年11月『沖縄教育』243号 源武雄「記紀の神名、思金及麻良に就て」
〇はしがきー此の一篇の論旨から述べてみたい。南島の命名の民俗及び人名の原義を研究する為めに私は各地方各島々の人名、童名を出来るだけ採集した。それを採集しているうちに古事記及日本書紀、萬葉集、風土記を始め我国の古典に出て来る神名や人名の「名の本義」を独自の立場から研究してみることにした。その結果はどうであるか。先づ私を最も驚かしたことは吾々南島人の珍妙な童名は嘗て吾が日本民族が広く愛用したもので決して琉球人独特の珍名ではないことを看破したことである。何れこれに就ては稿を改めて報告したい。次に名の本義を研究していると、之迄発表されている古典研究者国文学者などの説に疑問を持つに至ったのである。そうして、之はどうしても吾々民俗学を研究しているものの仕遂げねばならぬ研究だと思い、ここに民俗学徒の立場から記紀の神名人名を考察することにした。先づその手始めに記紀の天岩戸の所に出て来る思金神及天津麻羅の名の本義を明らかにし世上流布されている古典研究者国文研究者の見解に再吟味を煩わしたいと思う。 
(略)
以上記紀の神名、思金神及天津麻羅の名の本義に就て在来の学者の説を批判し検討した結果その誤なるを指摘し、南島民俗の資料を以て之が再吟味をなし、自己の新しき説を提示したのであるが、振り返って何故に之迄の国文研究者が之等神名の本義をつかむことが出来なかったかに就てよく考えてみる必要がある。私は在来の学者が記紀の物語を批判する心構えが不足している結果ではないかと思う。即ち記紀にある民俗をもっとも古いものとして、それ以前の考察を怠っている結果ではないか。記紀が決して古いものでない証拠には神名に沢山の民間語源説がつきまとうて、それで物語を構成している民間語源説話の出来る時代には既にそのものの原義が不明になっていた時代になっていたことを意味している。記紀の物語はそんな時代に生まれたものであって、決して原始的な本然の姿を吾々には伝えていない。故にこれら神名の原義を突き止めるには先づ記紀の物語に脚色を打破し、民間語源説話を全然離れて独自の自由な立場からその真相をつかむようにすべきであろう。

1942年5月『沖縄教育』309号 源武雄〇棺を蓋ふてその人を知るー(略)いつ会っても盛沢山の計画を胸中に描いて居られたことである。その計画を聞くことだけでも愉快であった。部落調査の話をよく聞かされたが、実はあの仕事は大変なものであった。私も二三ぺん実地指導らしいものを受けたがいや実に骨の折れる、そのうえ頭を使う仕事であった。之を一二箇所の部落でなしに全県下に及ぼそうといふ遠大な計画で実は命が一つ二つでは足りないと心配していた。しかし、之が出来上がれば沖縄の癌であるユタ、三世相は徹底的に沈黙させることが出来るのだといふのが、源一郎さんの悲壮な決意であった。ユタ、三世相を根本的に駆逐するには部落調査によって各氏族の系図を正さねばならぬ。といふのがその意図する所であった。部落調査をやっているうちに、沖縄歴史の記録に対しても意見があったらしく新しい沖縄歴史を書いてみたいと洩らしてゐられた。鬱勃たる念が胸中を去来していたのであった。こんな忍耐を要する、しかも金にならぬ仕事は源一郎さんの外にはちょっと手が出ない(以下略)


1958年3月 東恩納寛惇『沖縄今昔』南方同胞援護会「著者近影ー自宅にて郷土史研究家・源武雄君と」(外間正幸君撮影)


1965年2月 源武雄『琉球歴史夜話』月刊沖縄社□上の挿絵は金城安太郎/末吉安久(麦門冬弟)「表紙画」


1972年3月 『琉球の文化』創刊号 源武雄「結婚と貞操」


1972年3月 真栄田義見・三隅治雄・源武雄 編『沖縄文化史辞典』東京堂出版


1973年10月 『琉球の文化』第四号 源武雄「朝薫の人及び芸術についての覚書」


 1983-8-19『琉球新報』源武雄「鎌倉芳太郎先生と首里城復元」


1992年8月10日 『沖縄タイムス』湧上元雄「源武雄氏を悼む」

沖縄県立芸術大学でー湧上元雄氏(右)

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2001年11月ー「沖縄コレクター友の会発足」佐敷町ちゃんくすば中央が真栄城勇会長

 私は1984年4月発行の『琉文手帖』1号の金城安太郎特集で東恩納を紹介した。うるま市にある石川歴史民俗資料館は戦後沖縄行政の出発点、沖縄諮詢会、沖縄県立博物館の前身の東恩納博物館、戦後初の小学校、終戦直後の松竹梅劇団、米軍服、HBTの更生衣料、2×4の材木でつくった規格住宅、カンカラ三線などを資料、写真で展示している。

 1972年11月発行の雑誌『青い海』に園山精助(日本郵趣協会理事)が「琉球切手は語りつづける」と題し「沖縄切手のアルバムをひろげてみると、動物、魚、植物、風景、民俗、古文化財とよくもこれだけそろえられたものだと思う。こうしてみると、沖縄の歴史、文化の、ミニ百科事典ではないか」と記している。切手、古銭はコレクターの定番である。


1973年3月 月刊青い海編『沖縄切手のふるさと』高倉出版会

 2000年の10月、切手のコレクターとしても著名な真栄城勇氏の「勇のがらくた展」が佐敷町のちゃんくすばガーデンで開かれた。

1964年3月 『佐敷村誌』佐敷村

 
1984年5月 雑誌『青い海』132号 中島紀久雄「”生涯一アナ〟」 

1989年10月 中島紀久雄『マイクで見たこと逢った人ー沖縄放送走馬燈』アドバイザー(西江弘孝)

左から神村孝栄、真栄城勇、稲福健蔵、中島紀久雄、石垣正夫

眞栄城勇(琉球郵趣理事)ー南城市佐敷字伊原162-2 ℡946-6101



2001年8月ー眞栄城勇『がらくた文化ー品々が伝える、あの時、その頃』沖縄マリン出版/この本が切っ掛けで沖縄コレクター友の会が発足した。
 2001年4月、前回と同じ場所で真栄城氏は「真栄城勇コレクション新聞号外展」を開いた。8月には沖縄マリン出版から真栄城勇著『沖縄がらくた文化ー品々が伝える、あの時、その頃』が出版された。私は、『沖縄タイムス』にその書評を書いたのが切っ掛けで2001年11月の佐敷町ちゃんくすばでのコレクター友の会発足に何となく参加した。

新城栄徳(左)、真栄城勇氏

新城栄徳、真栄城勇氏、鳥山やよいさん


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1995年12月ー『沖縄県図書館協会誌』創刊号 〇編集委員ー生沢淳子、國吉綾子、桑江明美、新城栄徳、田名洋子、中野徹、長嶺智子、本郷清次郎
〇『琉文手帖』を作っている過程で図書館人に顔見知りが多い、それで編集委員を頼まれた。先ず『沖縄県図書館協会誌』の宣伝広報のため、『沖縄タイムス』の金城美奈子さんに「県内出版事情」、『琉球新報』の松島弘明氏に「整理部って何?」、東京の島袋和幸氏には「私と図書館」、八重山の上江洲儀正氏に「図書館・資料館案内まっぷ」を書いてもらった。図書館史の資料紹介として島袋全発「南窓雑記」、島袋盛敏「縦横雑音録」を戦前の新聞から転載した。

1998年12月ー『沖縄県図書館協会誌』第4号 新城栄徳「近代沖縄の雑誌ー総目次と解説①『沖縄公論』『沖縄新公論』『郷土雑誌 沖縄』『海邦』」/上間常道「随想:本との出会い 編集者の場合」
2000年3月ー『沖縄県図書館協会誌』第5号 新城栄徳「近代沖縄の雑誌ー総目次と解説②『月刊琉球』」
2003年12月ー『沖縄県図書館協会誌』第7号 新城栄徳「近代沖縄の雑誌ー総目次と解説③『文化沖縄』」
 
2004年12月 『沖縄県図書館協会誌』第8号 新城栄徳「麦門冬と県立図書館と私」
○去った11月25日は、沖縄タイムス主筆・末吉安恭(麦門冬)の命日で没後80年にあたる。その日の『沖縄タイムス』に琉球学の開拓者としての麦門冬を紹介した。ここでは麦門冬と沖縄県立図書館と、私との関わりを述べる。私は「ソテツの島」とも呼ばれている粟国島で、石垣と福木に囲まれて育った。近隣の殆どが首里の末裔だという。だから我が家の隣りには「首里福原」という集会所がある。
 それはさておき、小学4年のとき、叔母が病死、祖父が日射病で死去。那覇の父の呼び寄せで家族全員が那覇に移住した。安里の伯母宅、親類の寄宮、楚辺などに住み、泊に定住し「ソバ屋」を始めた。その頃の那覇はトラックやバスが砂ぼこりや排気ガスをばら撒いて走っていて、その側を馬車がノンビリと馬糞を落とし散水しながら歩く。さながら西部劇映画の風景だ。泊界隈は空き地が多くカエルやクモをよく捕まえて遊んでいた。上之屋の外人住宅に行き(金網を潜って)同世代の子供とジェスチャーで会話しながらパチンコを作ってあげたりした。プラモデルの戦車や航空母艦、菓子などを簡単にくれた。プロレスごっこなどし楽しく遊んだ。
 中之橋が出来ると前島は近くになり国際通りも近くなった。それまではよく首里の図書館、博物館に行った(学校をサボって)。首里図書館は、今の沖縄県立図書館の前身で館長は末吉安久、常駐していたのが嘉手納宗徳氏であった。そこでは日本歴史人物事典から挿絵入りで字も分からぬままに写していた。小学生が今頃ここに居るのはおかしいと嘉手納氏に説教された。安里の琉映本館では東映時代劇、貸本屋では漫画・劇画をよく見た。ウチナー芝居の那覇劇場は母に連れられて歌劇や琉舞が好きになる。
 中学生になると、休み時間はいつも学校図書館で過ごしていたので、上級生の図書委員長(書店の娘)に委員をさせられた。委員になると教師用や館内用の本も借りられるので良かった。委員会議というのがあるが義務ではないので出た記憶がない。図書委員バッジは今もある。私の息子や娘は大阪で生まれ育ったが、中学は私と同じこの学校である。さて中学生になると新聞もよく見る。『沖縄タイムス』『琉球新報』に記事は結果的に反米感情を煽る事件記事で溢れていた。
(略)
 沖縄県立沖縄図書館長の伊波普猷がスキャンダルもあって上京しようとする中、末吉麦門冬の友人たちは、麦門冬をその後継図書館長にと運動していた。山里永吉の叔父にあたる比嘉朝健もその一人であった。その朝健の案内で、沖縄政財界に隠然たる力を持つ尚順男爵を訪ねた。かつて、麦門冬が閥族と攻撃した当人である。朝健の父・次郎と尚順は親しかった。朝健に引っ張られる形で尚順邸を訪ねた。史筆・漢詩人で知られる麦門冬である。漢詩人の尚順は、琉球料理で歓待し、長男・尚謙に酌をさせるなどの好意を示し麦門冬が語る郷土研究の情熱に、その館長就任に力を尽くすと約束した。が、麦門冬の水死でそれらが無に帰す。
 後年、首里図書館に麦門冬の蔵書が寄贈された。尚順はその本の山を見て、微醺を帯びた麦門冬を想いだし漢詩を作っている。
  数奇閲歴麦門冬/俳句和歌一代宗/万巻遺書填巨館/猶留眼底半酣容 麦門冬遺書寄贈首里図書館詩中及此(昭和11年11月9日『沖縄日報』)

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 私にとって、絵本は保育園や幼稚園を連想する。敗戦前の那覇市内の幼稚園をみる。1876年に東京に官立の「東京女子師範学校附属幼稚園」が設立されている。那覇では遅れて、1893年に天妃尋常高等小学校附属幼稚園が設立された。1907年4月、真教寺の田原法馨らが真教幼稚園を設立している。同年1月の『琉球新報』に森柳子が「愛花幼稚園生に就いて」を書いている。翌年11月の『琉球新報』には「森柳子主宰になれる那覇区内字久米安仙坂の善隣幼稚園は元愛花幼稚園の改称せしもの」とある。1930年に永田ツルが愛泉幼稚園、32年に那覇市が上山幼稚園を設立した。33年には八重山でヤエマ幼稚園が設立されている。
□→2004年1月 斎木喜美子『近代沖縄における児童文化・児童文学の研究』風間書房
 沖縄県立沖縄図書館の初代館長は言うまでもなく伊波普猷であるが、厳密には嘱託館長で正式な館長になったのは12年後である。伊波の図書館には当時としては画期的な児童室があった。ここで、その背景をみてみる。1874年、新島襄がアメリカでの修行と勉学を終えて帰国。故郷の群馬県安中に一時帰郷した。そこでアメリカ文化やキリスト教の話を若者たちにした。その中に16歳の湯浅半月も居た。1875年11月、新島襄は山本覚馬、J・D・ディヴィスと協力して「同志社英学校を」を設立した。1877年、半月は同志社に入学。1885年に渡米しオハイオ州オペリン大学神学科やエール大学で学んだ。1891年、帰国し直ちに母校同志社の教授。1899年に平安教会の牧師。1901年に新設の京都帝大法学部講師となり大学附属図書館事務にも従事した。
 1900年9月、伊波普猷は京都の第三高等学校に入学。01年夏に京都でコレラ流行、伊波は一時東京に避難したという。このころ極度の神経衰弱で、気を散らすため考古学会に入り宇治辺りまで出かけた。また西本願寺の仏教青年会主催の講義や平安女学園音楽講師だったオルドリッチ女史のバイブルクラスにも出入りした。伊波は03年7月に第三高等学校を卒業し9月、東京帝大文科大学に入学した。
 1902年、湯浅半月(44歳)はアメリカへ図書館事業調査のため旅立った。アメリカではシカゴ大学図書館学校、オルバニー市の図書館学校で貸出の必要性と児童室の必要性を学んだ。1904年、半月は京都府立図書館長に就任。京都府は09年に岡崎公園内に工費15万円を投じ、図書館本館を完成(□→武田五一)。そこには日本最初の児童閲覧室が設けられた。また半月はM・デューイの「十進分類法」を取り入れ「和漢図書分類目録」(美術工芸編、歴史地誌編等10分類全16冊)を刊行した。このときの蔵書は現在、京都府立総合資料館にある。因みに京都府立図書館の一部と、奈良県立図書館( http://www.library.pref.nara.jp/index.html )の建物は移築され今も残っている。
 1906年、宮古の比嘉財定が第五高等学校を終え東京帝大法科大学に入学した。在学中、柳田國男に出会い、比嘉は柳田に「比嘉村の話」をする。比嘉は10年7月に東京帝大を卒業。農商務省勤務を経て1915年にアメリカ留学。17年にカリフォルニア州立スタリント病院で死去。
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奈良県立図書館ー1908年に奈良公園内に建てられたもの。昭和43年に郡山城内に移築された。 1909年8月、伊波普猷は3週間にわたって鹿児島、山口、大阪、京都、奈良の図書館を視察する。そこで伊波は財政的規模を奈良図書館に求め、運営に関しては湯浅半月京都図書館長のアドバイスを受けた。



2014年1月8日~20日 沖縄県立図書館「奈良県立図書情報館交流展示」

「戦争体験文庫」は、奈良県立図書情報館3Fの戦争体験文庫コーナーで公開。戦中戦後の体験に関する資料群で、全国の方々からの寄贈によって成り立っています。現在約5万点の資料を収集しています。 「戦争体験文庫」が当時の人々の思いや生活を知る手がかりになることを願っています。→奈良県立図書情報館

□1910年7月、伊波普猷は関西において比較的規模の狭小なる奈良県立図書館を視察し、湯浅京都図書館長のアドバイスを受けて沖縄県立沖縄図書館の図案を調製し其の筋へ提出したと、新聞に報じられた。私は、2008年5月8日に奈良県立図書情報館を初めて訪ねた。2Fで「Yahoo!」と「Google」の日本、アメリカでのサービス開始時期をみる。いずれも1990年代である。3Fで司書の人をわずらわして同図書情報館の前身で1909年に開館した奈良県立図書館の建物の写真を調べた。建物は戦後も図書館として使われたが、奈良県文化会館・図書館建設にともない。大和郡山城内に移築された。図書情報館の帰途、郡山城を訪ね、旧図書館の建物が今も健在で教育施設になっている。初期のころの奈良県立図書館長は奈良県内務部長が兼任していて、初代館長が小原新三、2代目が川越壮介であった。川越はのちに沖縄県知事となる。伊波普猷がアドバイスを受けた湯浅京都図書館長は湯浅吉郎(半月)といい明治・大正期の一流の文化人であったことは、1998年10月発行の京都府立『総合資料館だより』に詳しい。1909年4月に京都府立図書館の新館が岡崎に開館した。設計者は武田五一で湯浅館長は早くから児童閲覧室を設けていた。

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湯浅半月京都図書館長。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館創設にあたって半月のアドバイスを受けている。京都図書館は1909年2月落成した。現在は外観だけ残して、後ろにガラス張りのビルが新築された。 
 1910年5月、伊波の友人、八重山の岩崎卓爾が図書館に新渡戸稲造『英文武士道』など、漢那憲行が薄田泣菫『二十五弦』ほか、浦添朝忠は『資治通鑑』など700冊を寄贈。6月には末吉麦門冬が『俳句の研究』『蜀山人全集』などを寄贈している。かくして琉球学センターとも云うべき沖縄県立沖縄図書館は8月1日、那覇の南陽館で開館式を迎えた。折りしも8月22日は「日韓併合」があった。沖縄図書館の児童書は「中学世界、少女世界、少女之友、少年之友、日本少年、少年、少女、幼年之友、幼年画報」などがあった。
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1910年7月31日『沖縄毎日新聞』


丸岡莞爾と「琉球史料」
丸岡莞爾1836-1898 幕末-明治時代の官僚,歌人。
天保(てんぽう)7年5月28日生まれ。鹿持雅澄(かもち-まさずみ)に国学をまなび,坂本竜馬(りょうま)らとまじわり脱藩して長崎にすむ。維新後,内務省社寺局長などをへて沖縄県知事,高知県知事となる。明治31年3月6日死去。63歳。土佐(高知県)出身。本姓は吉村。字(あざな)は山公。通称は三太,長俊。号は建山,掬月,蒼雨など。歌集に「蒼雨余滴」。(コトバンク)

1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)を沖縄県属として赴任させる。丸岡知事在任中、琉球塗の監獄署にての改良、夫人による養蚕の奨励、歌人として護得久朝置、朝惟らと歌会での交友。そして「琉球史料」の編纂をさせた。1892年7月 沖縄県知事を解任され、故郷の高知県知事に転出。

<資料>1992年4月 南西印刷出版部『地域と文化』第70号 池宮正治「丸岡莞爾沖縄県知事の演説(速記録)」
1992年8月 南西印刷出版部『地域と文化』第72号 望月雅彦「丸岡莞爾関係資料にについて」

丸岡桂 まるおか-かつら
1878-1919 明治-大正時代の歌人,謡曲研究家。
明治11年10月17日生まれ。丸岡莞爾(かんじ)の長男。歌誌「あけぼの」「莫告藻(なのりそ)」を創刊する。明治36年板倉屋書房を創立し,義弟松下大三郎と「国歌大観」を刊行。のち謡曲研究に専心,観世流改訂本刊行会を設立し,大正3年「謡曲界」を創刊した。大正8年2月12日死去。42歳。東京出身。号は月の桂のや,小桜など。→コトバンク
丸岡明 まるおか-あきら
1907-1968 昭和時代の小説家。
明治40年6月29日生まれ。丸岡桂(かつら)の長男。昭和5年「三田文学」に「マダム・マルタンの涙」を発表。戦後「三田文学」復刊につくす。能楽の普及と外国への紹介にもつとめた。昭和43年8月24日死去。61歳。東京出身。慶大卒。著作に「生きものの記録」,「静かな影絵」(41年芸術選奨)など。→コトバンク

1971年11月ー琉球新報社、沖縄、那覇、名護の青年会議所と共催で文芸評論家・村岡剛と薬師寺管主・高田好胤を招き「文化講演会」開催。
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高田好胤と真喜志康徳
高田好胤 たかだ-こういん
1924-1998 昭和-平成時代の僧。
大正13年3月30日生まれ。昭和10年12歳で奈良の薬師寺にはいり,橋本凝胤(ぎょういん)に師事。戦後薬師寺参観者のガイド役をつとめ,修学旅行生らに説教をつづける。42年同寺管主,43年法相宗管長。金堂の再建を計画し,100万巻般若心経写経勧進をおこす。51年落慶,のち西塔も再建。平成10年6月22日死去。74歳。大阪出身。竜谷大卒。著作に「心」「愛に始まる」など。
【格言など】やたらに忙しいのはどんなものでしょう。「忙」という字は「心が亡びる」と書きます。→コトバンク

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