02/26: 垣花秀武
氏に『琉球の文化』を贈呈したことがある。
〇『サンデーおきなわ』1971年11月6日に紹介されていた垣花秀武氏を思い出した。氏は沖縄二世であるが、同紙で「私の方法じゃあ、核燃料はできるけど、人類を破滅に導く原水爆は絶対にできない」と言いきる国際的な原子物理学の権威である。また「正直にいって私の意識の中には、沖縄というイメージはなかった。自然科学者の宿命というか、私たちは未来だけを見つめる。生まれや人種なんかどうだっていい。
私はそう思っていた。だが一昨年、生まれて初めて沖縄を訪れたとき美しいと思った。空から島をながめて先ず、ギリシャのクレタ島を思い出した。父が師範学校を追われて(学生運動で、ちなみに大浜信泉はラブ・レター事件で退校)以来、半世紀ぶりに垣花の人間が帰ったというのに、だれもが暖かった。」と発言している。
氏の略歴は、一高から昭和19年、東大理学部卒。戦時中は仁科博士のもとに理研で湯川秀樹、朝永振一郎らと原子物理学を研究した。戦後は東大助手をへて、量子科学でウィーン大学客員教授、ストックホルム工科大学教授、アメリカのアイオワ大学原子力研究所などに招かれる。
垣花秀武 かきはな-ひでたけ
1920- 昭和-平成時代の核化学者。
大正9年6月8日生まれ。昭和33年東京工業大教授となり,52年から国際原子力機関次長もつとめる。55年名大教授,同大プラズマ研究所長。のち上智大教授。ウランの新濃縮法や海水からのウラン採取法を開発。またキリスト教思想を研究する。日本海水学会会長。東京出身。東京帝大卒。著作に「エネルギー資源」「奇会―新井白石とシドティ」など。(→コトバンク)
◇2012年1月 「NHKスペシャル」取材班『”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実』光文社□垣花秀武氏は戦時中、理化学研究所の仁科芳雄博士のもとで、原爆製造研究(通称「二号研究」)に携わっていたことでも知られ、戦後は核物理学者として、ウランの濃縮法に関する研究などを手がけたほか、(日本人として始めて)IAEA=国際原子力機関の副事務局長(1977~80年)も務めている。垣花氏は、内閣調査室の研究の中で「技術的には可能であるが、(核は)持つべきではない」と主張したという。
1952年 山元恵一、大城皓也に師事
1956年 第8回沖展入選・久保田賞受賞
1959年 二科会沖縄支部結成に参加/第11回沖展会員推挙
1960年 第45回二科展初入選
1971年 第9回全日本美術協会(全展)に初出品
1974年 第21回全展委員推挙
1982年 新生美術協会創設に参加
1987年 9月ーギャラリーみやぎ「第1回個展」
1988年 9月ーギャラリーみやぎ「第2回個展」
1989年 沖縄タイムス芸術選賞奨励賞
1992年6月『新生美術』10号「追慕・山里昌弘」
山里昌弘遺品
父昌弘が近所付き合いだった山田實氏と、山里公男氏
1956年 第8回沖展入選・久保田賞受賞
1959年 二科会沖縄支部結成に参加/第11回沖展会員推挙
1960年 第45回二科展初入選
1971年 第9回全日本美術協会(全展)に初出品
1974年 第21回全展委員推挙
1982年 新生美術協会創設に参加
1987年 9月ーギャラリーみやぎ「第1回個展」
1988年 9月ーギャラリーみやぎ「第2回個展」
1989年 沖縄タイムス芸術選賞奨励賞
1992年6月『新生美術』10号「追慕・山里昌弘」
山里昌弘遺品
父昌弘が近所付き合いだった山田實氏と、山里公男氏
1984年11月 沖縄の雑誌『青い海』138号 比嘉加津夫「<朝敏事件>小考 『蓬莱の島』を中心にして」
『脈』(比嘉加津夫)
1991年 宮城聡宅にて、比嘉加津夫氏、佐々木薫さん
比嘉加津夫
1944年12月12日久志村(現在の名護市)字久志に生まれる。沖縄大学文学部中退。在学中、沖大文学研究会を立ち上げ機関誌『発想』を創刊、沖縄の現代絵画、現代詩などを取り上げる。清田政信評論集『流離と不可能性』(1970年7月)を沖大文学研究会から発行。『発想』は8号まで出るが、7号までの編集にたずさわる。8号の発行は「発想編集部」。1972年業界新聞社に入社。その年から不定期で個人誌『脈』を発行。5号から年4回発行にこぎつける。24号からは同人誌になり、特集ページに力を入れる。1964年、11月『作品集』1号を出す。短編「叫ぶ羊群」「頽唐せる青年」「山椒魚の青年」等掲載。(はてなキーワード)
2019年12月10日午前2時5分、南風原町の病院で死去。
2019年12月17日『沖縄タイムス』松原敏夫「追悼 比嘉加津夫さん 旺盛な文学活動に感服」
02/17: 第37回那覇市中央公民館まつり
02/16: 中西惣吉(十文字屋呉服店)
1888年・第1回卒業ー高嶺朝申、仲吉朝助(農大乙科卒)、百名朝計(沖縄銀行頭取)/1889年・第2回卒業ー石原榮輔、村山盛福/1891年・第3回卒業ー伊地柴本(首里市役所)、恩河朝祐、金城紀長、仲吉朝紀、若山忠次郎/1893年3月・第4回卒業ー呉屋健哉」、重久雄吉(宮古郡税務署長)、谷川益太郎、與儀喜英(産業銀行) 同年5月・第5回卒業ー大城盛祐(長崎控訴院書記)、大城朝健、仲濱政数(台湾製糖会社那覇事務所)/1894年・第6回卒業ー新垣壽助(小倉電気商会)、赤嶺新竹、奥川鐘太郎(在東京)、島袋松、瀘名波起益、玉那覇重善、知念堅輝(農大実科卒産業銀行重役 大里村長)、照屋孚能、長嶺紀啓、橋本諭吉(在台湾)、安元實得(在米)/1895年・第7回卒業ー伊藤雅二(那覇池田店 那覇市議)、蒲原秀一、本村啓介、久場景述、崎間永行、玉城瑩(早稲田卒)、富盛寛卓(宮古小学校)、比嘉賀学(那覇市助役)、山城瑞喜
1896年・第8回卒業ー伊波普猷(文学士 県立図書館長)、小橋川朝松(八重山)、下地昌道/1897年・第9回卒業ー新垣隆永、伊波善思(県会議員)、伊差川英文、親泊朝輝(愛媛県宇和郡長)、金城紀光(医学士 元順病院 那覇市議)、小禄恵芝、酒井豊雄、松原寛功、祝嶺春棟、高嶺朝扶(早稲田大卒 首里)、武富良秀、照屋徳太郎、友寄善直、名嘉眞武煌、肥後傳熊、真境名安興、山内盛能、屋比久孟昌/1898年・第10回卒業ー浦崎康信、許田普永、久高友輔(首里郵便局長 首里市会議員)、兒玉銓吉、高山徹(元玉那覇 農学士 山本農相別邸)、天願貞靜、渡久地政瑚、田中豊彦、西弘海、根路眼恵頒(普天間)、野原春太郎、饒平名紀腆(名古屋医専卒 那覇波上病院)、東恩納盛亮(台湾高雄州旗山第二公学校)、平野益照(大島庁々書記)、藤田孝男(海軍機関大尉)、古堅宗祐、外間現篤(法学士 朝鮮大邱 弁護士)
1899年・第11回卒業ー新城源次郎、新川善義、新川善長(臺灣花蓮港林田駅内徳森製材所)、石川親忠、伊波普成(牧師 那覇)、喜屋武盛長(在米)、久場守益(那覇 石炭運送業)、熊谷照英、古波蔵信貞、小嶺幸欣(那覇東)、崎山宗秀(東京高等師範卒 文学士 京都大学院)、佐久原好傳(伝道師 メソジスト教会)、玉那覇平益、照屋孚至(久米島登記所)、宮城鐵夫(農学士 台南製糖社宅)、山代質、與古田良成/1900年・第12回卒業ー有川五郎(長崎医専卒)、赤嶺仁太、池ノ上嘉(在台北)、伊波興旺、岩城長蔵、糸数青盛(那覇市役所)、臺数弘榮(県立師範学校教諭)、漢那憲英(那覇甲辰小学校訓導)、國吉眞徳、小嶺幸慶(法学士 勧銀支店)、小波津清榮、崎浜秀主(早稲田高等師範卒 商銀専務取締役)、島袋慶福(真壁小学校長)、富原守昌、仲里貞助(宮崎小林税務署)、仲村渠寛忠、野村安保、東恩納寛惇(文学士 東京府立第一中学校教諭)、肥後武二郎(台南製糖会社西原工場)、比嘉盛珍(福岡県若松炭坑株式会社)、藤田猛(長崎医専卒 長崎開業)、福永兼吉(歩兵大尉 熊本十三聯隊中隊長)、福永福要、眞榮平房貞、山田朝常、與那覇政敷
1901年・第13回卒業ー安次嶺榮華(専修大学卒 那覇市役所)、糸数東榮(在布)、大山岩雄(早稲田大学文科卒 県立農学校教諭)、大山辰二(長崎医専卒 臺灣臺北市西門街開業)、小野榮(商業学校教諭)、大城元次郎(名護村長)、金城加那(那覇技芸学校)、金城盛行、神田橋榮助、金城普照(農大実科卒 島尻郡役所技手)、金城兼吉、城間恒用、城間宏恵(長崎医専卒 支那漢口医院)、桑江良行(早稲田大卒 県立二中教諭)、久場守友(与那原郵便局長)、酒井豊静(開業医)、座喜味盛彰、島袋盛昌、玉城濶(千葉医専卒 糸満開業)、平良仁五郎、玉城安盛、手登根順義、照屋久八(在台湾)、當山順吉(恩納村 役場員)、仲本興賀、仲村政哲(那覇商業銀行)、名嘉山安忠(長崎医専卒 撫臺街開業)、仲本政春(歩兵中尉 那覇市議)、仲村渠榮行(在米)、仲宗根新一郎、前田忠(高商卒 横浜正金銀行シンガポール支店長)、百名朝敏(青山学院卒 尚家家扶心得)、前堂昌俊、松元完榮(県師範学校書記)、宮城寛良(那覇港務所)、宮城嗣謹(八王子小学校教員)、宮里仁榮(大阪医専卒 秋田県山本郡扇淵村)、宮城助友(八重山炭鉱)、勝屋米雄(臺灣総督府通信局)、山城範益(首里市会議員 砂糖委託組合理事)、山城正鳴(臺灣公学校)、與儀正道(在米)
1902年・第14回卒業ー伊仲浩(農大実科卒 那覇)、稲福蒲戸、大橋敬二(巣鴨監獄看守長)、大濱保篤(農大実科卒 鹿児島専売局)、大城幸蔵(ヒリピン大田興行株式会社副社長)、神山政良(法学士 東京市外淀橋専売支局)、金城嘉保(金沢医専卒 那覇医院主)、賀数仁王(開業医 高嶺村與座)、我部政明、嘉手納並藝(後備歩兵少尉 那覇港務所)、喜瀬知彦(宮崎税務署)、國吉眞文(商船学校卒 神戸市日本郵船会社気付デラゴヤ丸)、久高唯忠(医専卒 東京大塚辻町愛仁堂)、小嶺幸輝(名古屋高工卒)、古波鮫唯仁、米須秀松、多嘉良憲(農学士)、玉城實雄(京都医専卒)、高宮城朝三(内閣印刷局)、高嶺朝安(早稲田専門卒)、平良淳榮、渡口精秀(商船学校卒)、渡嘉敷唯續(金沢医専卒 在臺灣)、渡嘉敷通達(県庁)、長嶺亀助(歩兵少佐 陸大卒 参謀本部)、仲本盛松、仲吉朝宏(中城小学校長)、長嶺但吉、仲尾次喜與(在米國桑港)、仲村渠良保、西村助八(農大実科卒 県産業技師物産検査所長)、毛嘉富良、平田直保(県属会計課)、比嘉盛敬、平敷安興(在米)、外間現長(大阪高医卒 大阪府技師)、外間現多(青山学院卒)、丸山芳樹(京大工学士 朝鮮総督府技師)、眞栄平房寛、牧港朝謙(首里市役所)、宮城幸安(商船学校卒 日本郵船会社機関長)、屋富祖徳次郎(金沢医専卒 泊開業)、山川朝棟(沖縄銀行首里支店長)、與儀正榮(農大実科卒 新高製糖会社農課長)
1896年・第8回卒業ー伊波普猷(文学士 県立図書館長)、小橋川朝松(八重山)、下地昌道/1897年・第9回卒業ー新垣隆永、伊波善思(県会議員)、伊差川英文、親泊朝輝(愛媛県宇和郡長)、金城紀光(医学士 元順病院 那覇市議)、小禄恵芝、酒井豊雄、松原寛功、祝嶺春棟、高嶺朝扶(早稲田大卒 首里)、武富良秀、照屋徳太郎、友寄善直、名嘉眞武煌、肥後傳熊、真境名安興、山内盛能、屋比久孟昌/1898年・第10回卒業ー浦崎康信、許田普永、久高友輔(首里郵便局長 首里市会議員)、兒玉銓吉、高山徹(元玉那覇 農学士 山本農相別邸)、天願貞靜、渡久地政瑚、田中豊彦、西弘海、根路眼恵頒(普天間)、野原春太郎、饒平名紀腆(名古屋医専卒 那覇波上病院)、東恩納盛亮(台湾高雄州旗山第二公学校)、平野益照(大島庁々書記)、藤田孝男(海軍機関大尉)、古堅宗祐、外間現篤(法学士 朝鮮大邱 弁護士)
1899年・第11回卒業ー新城源次郎、新川善義、新川善長(臺灣花蓮港林田駅内徳森製材所)、石川親忠、伊波普成(牧師 那覇)、喜屋武盛長(在米)、久場守益(那覇 石炭運送業)、熊谷照英、古波蔵信貞、小嶺幸欣(那覇東)、崎山宗秀(東京高等師範卒 文学士 京都大学院)、佐久原好傳(伝道師 メソジスト教会)、玉那覇平益、照屋孚至(久米島登記所)、宮城鐵夫(農学士 台南製糖社宅)、山代質、與古田良成/1900年・第12回卒業ー有川五郎(長崎医専卒)、赤嶺仁太、池ノ上嘉(在台北)、伊波興旺、岩城長蔵、糸数青盛(那覇市役所)、臺数弘榮(県立師範学校教諭)、漢那憲英(那覇甲辰小学校訓導)、國吉眞徳、小嶺幸慶(法学士 勧銀支店)、小波津清榮、崎浜秀主(早稲田高等師範卒 商銀専務取締役)、島袋慶福(真壁小学校長)、富原守昌、仲里貞助(宮崎小林税務署)、仲村渠寛忠、野村安保、東恩納寛惇(文学士 東京府立第一中学校教諭)、肥後武二郎(台南製糖会社西原工場)、比嘉盛珍(福岡県若松炭坑株式会社)、藤田猛(長崎医専卒 長崎開業)、福永兼吉(歩兵大尉 熊本十三聯隊中隊長)、福永福要、眞榮平房貞、山田朝常、與那覇政敷
1901年・第13回卒業ー安次嶺榮華(専修大学卒 那覇市役所)、糸数東榮(在布)、大山岩雄(早稲田大学文科卒 県立農学校教諭)、大山辰二(長崎医専卒 臺灣臺北市西門街開業)、小野榮(商業学校教諭)、大城元次郎(名護村長)、金城加那(那覇技芸学校)、金城盛行、神田橋榮助、金城普照(農大実科卒 島尻郡役所技手)、金城兼吉、城間恒用、城間宏恵(長崎医専卒 支那漢口医院)、桑江良行(早稲田大卒 県立二中教諭)、久場守友(与那原郵便局長)、酒井豊静(開業医)、座喜味盛彰、島袋盛昌、玉城濶(千葉医専卒 糸満開業)、平良仁五郎、玉城安盛、手登根順義、照屋久八(在台湾)、當山順吉(恩納村 役場員)、仲本興賀、仲村政哲(那覇商業銀行)、名嘉山安忠(長崎医専卒 撫臺街開業)、仲本政春(歩兵中尉 那覇市議)、仲村渠榮行(在米)、仲宗根新一郎、前田忠(高商卒 横浜正金銀行シンガポール支店長)、百名朝敏(青山学院卒 尚家家扶心得)、前堂昌俊、松元完榮(県師範学校書記)、宮城寛良(那覇港務所)、宮城嗣謹(八王子小学校教員)、宮里仁榮(大阪医専卒 秋田県山本郡扇淵村)、宮城助友(八重山炭鉱)、勝屋米雄(臺灣総督府通信局)、山城範益(首里市会議員 砂糖委託組合理事)、山城正鳴(臺灣公学校)、與儀正道(在米)
1902年・第14回卒業ー伊仲浩(農大実科卒 那覇)、稲福蒲戸、大橋敬二(巣鴨監獄看守長)、大濱保篤(農大実科卒 鹿児島専売局)、大城幸蔵(ヒリピン大田興行株式会社副社長)、神山政良(法学士 東京市外淀橋専売支局)、金城嘉保(金沢医専卒 那覇医院主)、賀数仁王(開業医 高嶺村與座)、我部政明、嘉手納並藝(後備歩兵少尉 那覇港務所)、喜瀬知彦(宮崎税務署)、國吉眞文(商船学校卒 神戸市日本郵船会社気付デラゴヤ丸)、久高唯忠(医専卒 東京大塚辻町愛仁堂)、小嶺幸輝(名古屋高工卒)、古波鮫唯仁、米須秀松、多嘉良憲(農学士)、玉城實雄(京都医専卒)、高宮城朝三(内閣印刷局)、高嶺朝安(早稲田専門卒)、平良淳榮、渡口精秀(商船学校卒)、渡嘉敷唯續(金沢医専卒 在臺灣)、渡嘉敷通達(県庁)、長嶺亀助(歩兵少佐 陸大卒 参謀本部)、仲本盛松、仲吉朝宏(中城小学校長)、長嶺但吉、仲尾次喜與(在米國桑港)、仲村渠良保、西村助八(農大実科卒 県産業技師物産検査所長)、毛嘉富良、平田直保(県属会計課)、比嘉盛敬、平敷安興(在米)、外間現長(大阪高医卒 大阪府技師)、外間現多(青山学院卒)、丸山芳樹(京大工学士 朝鮮総督府技師)、眞栄平房寛、牧港朝謙(首里市役所)、宮城幸安(商船学校卒 日本郵船会社機関長)、屋富祖徳次郎(金沢医専卒 泊開業)、山川朝棟(沖縄銀行首里支店長)、與儀正榮(農大実科卒 新高製糖会社農課長)
波照間三蔵氏
02/06: 那覇港湾施設
沖野忠雄 生年: 安政1.1.1 (1854.1.29) 没年: 大正10.3.26 (1921)
明治期の土木技術者。但馬(兵庫県)の武家に生まれる。父春水。東京大学の前身である大学南校に明治3(1870)年に入学したが,明治8年から長くフランスに学び,土木工学を専攻,明治16年に,内務省の土木局に任官し,8年後大阪の土木監督署に赴任したのちは,大阪港の築港工事や淀川の治水工事など,大阪近辺の環境整備を手掛け,功績があった。のち内務省に帰任,技監を務めた。 (村上陽一郎・コトバンク)
1916年4月13日『琉球新報』那覇築港竣工式に、功労者(内務技師監工学博士)として、近藤虎五郎(内務技師工学博士)と共に紀念品を贈呈された。
近藤虎五郎 こんどう-とらごろう□1865-1922 明治-大正時代の土木技術者。
慶応元年6月1日生まれ。アメリカ留学後,明治23年内務省にはいり,内務技師となる。河川改修や上下水道の普及につとめる。母校東京帝大の教授,鉄道省技師なども兼務した。大正11年7月17日死去。58歳。越後(えちご)(新潟県)出身。(コトバンク)
那覇港湾施設(なはこうわんしせつ)は、沖縄県那覇市にある在日米軍基地で、アメリカ陸軍が使用している。尚、“軍港”と通称されているが、海軍の基地ではなく、陸軍の管理する港湾設備である。国場川の河口南側、明治橋の西側、那覇港フェリーターミナルの対岸に位置する。南側には陸上自衛隊那覇駐屯地がある。1945年(昭和20年)に米軍が沖縄を占領して以来、那覇軍港として陸軍によって整備が進められてきた。
1972年(昭和47年)の沖縄の復帰に際して、名称が「那覇港湾施設」と改められ、1974年(昭和49年)の第15回日米安全保障協議委員会で、移設条件付き全面返還が合意された。その後、国道331号・国道332号の拡幅、那覇西道路の海底トンネル建設などのため、一部用地が日本側に返還された。(ウィキペディア)
02/06: 伊波普助の孫・伊波普英
2011年4月ー那覇市歴史博物館で、外間政明氏から明治大正時代の医者・伊波普助の曾孫I氏を紹介された。職業は曽祖父の影響か看護師であった。伊波普助の孫・伊波普英氏(沖縄県立第二中学校18期1932年卒業、同期に大山一雄、嘉手納宗徳、黒島寛松)は大阪で琉球居酒屋を経営しておられ私は親しくしてもらったことがある。曾孫I氏はその息子さんであった。
『沖縄の軌跡』97号 編集発行人・島袋和幸〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 ☎03-3695-9276 島袋携帯090-4920-6952
<袋中上人行化碑>が、{桂林寺}の跡である松山公園の一角にある。左の碑文に「慶長8年(1603)、浄土宗の僧、袋中上人は縁あって来琉。法然上人念仏の教えを弘め、故郷岩城(福島県)「じゃんがら念佛」を普及、現在沖縄の伝統芸能「エイサー」となる。時の琉球尚寧王は上人に深く帰依、桂林寺を建立。ここ松山公園その跡地である。この跡地において、平成16年(2004)2月7日袋中上人沖縄開教400年を記念し、上人顕彰・頌徳の慶讃法要ならびに、第二次大戦戦没者諸霊位の冥福を薦めるため、仏教各宗派寺院、檀信徒等、千数百名の参加を得、俱会一処の法楽を奉修した。願わくはここ沖縄の地に世界平和念仏が弘通され、すべての人々の心に安らぎがもたされることを期し小碑を建立する。平成16年2月吉日 浄土宗宗務総長 水谷幸正」と記されている。
『沖縄の軌跡』98号 編集発行人・島袋和幸〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 ☎03-3695-9276 島袋携帯090-4920-6952
島袋和幸〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 ☎03-3695-9276 島袋携帯090-4920-6952
佐々木笑受郎・微笑の本
島袋和幸の本
<袋中上人行化碑>が、{桂林寺}の跡である松山公園の一角にある。左の碑文に「慶長8年(1603)、浄土宗の僧、袋中上人は縁あって来琉。法然上人念仏の教えを弘め、故郷岩城(福島県)「じゃんがら念佛」を普及、現在沖縄の伝統芸能「エイサー」となる。時の琉球尚寧王は上人に深く帰依、桂林寺を建立。ここ松山公園その跡地である。この跡地において、平成16年(2004)2月7日袋中上人沖縄開教400年を記念し、上人顕彰・頌徳の慶讃法要ならびに、第二次大戦戦没者諸霊位の冥福を薦めるため、仏教各宗派寺院、檀信徒等、千数百名の参加を得、俱会一処の法楽を奉修した。願わくはここ沖縄の地に世界平和念仏が弘通され、すべての人々の心に安らぎがもたされることを期し小碑を建立する。平成16年2月吉日 浄土宗宗務総長 水谷幸正」と記されている。
『沖縄の軌跡』98号 編集発行人・島袋和幸〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 ☎03-3695-9276 島袋携帯090-4920-6952
島袋和幸〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 ☎03-3695-9276 島袋携帯090-4920-6952
佐々木笑受郎・微笑の本
島袋和幸の本
02/03: 2013年2月3日10時半「与儀公園の桜」
沖縄で桜と言えば、ソメイヨシノではなく緋寒桜(ヒカンザクラ)。亜熱帯らしさ溢れる濃いピンク色の花を下向きに咲かせるのが特徴です。 緋寒桜は散りにくく、多少の風雨に負けることなく約半月から1ヶ月ほど咲き続けたあと、ポトリと花ごと落ちます。(→おきなわ物語)
緋寒(ヒカン)桜
カンヒザクラ(寒緋桜)とも言います。まだ寒い早春に、緋色または濃桃色の花を、枝一杯に咲かせます。花はうつむき気味に下を向いて咲きます。 八重岳、名護城跡が名所。 学名:Prunus(プルヌス)campanulata(カンパヌラタ) 別名:カンヒザクラ(寒緋桜)、campanulata(カンパヌラタ) 科属名:バラ科サクラ属カンヒザクラ・グループ 原産地:中国、他 樹高:5m 開花期:1月下旬~2月上旬 花径:2cm (→南国の四季を彩る花々と草木)
02/03: 中国の危機的な大気汚染・水資源
2013年2月2日、体制派の『読売新聞』ブログは□「スモッグが重く低く立ちこめる北京市内。何かが焦げたような臭いが街中に漂う。外をしばらく歩くと、目や鼻、のどに違和感を覚え、室内にいても頭にずんと重みを感じる。北京に1日滞在すれば「たばこを21本吸ったのと同じ計算」(中国誌「新民週刊」)と言われ、「N95」の表示がある業務用マスクが品薄状態だ。1枚約7元(約100円)と通常のマスクより割高だが、健康被害をもたらす微粒子状物質(PM2・5)の吸引を確実に防ぐのに必要とされる。安価な偽物も出回っている」と報じている。
中国が琉球固有の領土である尖閣諸島に対する対応は下の様な見解が出てきても「仕方がない」と思われる。事実無根かも知れないが用心にこしたことはない。これもひとえにアメリカ軍、自衛隊基地が何の抑止力にもなってない証明だ。だのに与那国島に新たに税金で日本政府は何の役にも立たない基地を作ろうとしている。「思いやり予算」を貰うばかりのアメリカに番犬の仕事をさせろ!。
□思いやり予算ー基地従業員の人件費、光熱水料、基地内の建設費のほとんど全額など、2007年度で2173億円を「思いやり」で支出するほか、地代や周辺の防音工事、自治体への補助金、無償提供中の国有地の推定地代を含めると日本の負担は年間6092億円。米兵1人当たり約1800万円に達する。日本の財政危機に対し、米国は財政が日本より余裕があるのに、なお「思いやり」を続けるのは道理に合わない。(コトバンク)
2月の「国際派日本人養成講座」と称するブログに以下のような論が掲載されているが長いので要点だけ引用する。
■1.中国企業が買い漁る日本の山林
中国企業による日本国土の買い漁りが進んでいる。たとえば平成22(2010)年7月、北海道伊達市と壮瞥町の境界に広がる700ヘクタール(東京ドーム150個分)以上の森林を所有・運営していた日本のゴルフ場企業が経営に行き詰まり、中国人実業家の企業に買収された。
これでこの土地は実質的に中国企業のものとなったが、国土法によって所有者を届け出る必要があるのは、「新たな所有者が土地を取得したとき」のみである。この森林の場合は、買収されても所有企業の名前が変わらなかったので届け出の必要がなかった。
林野庁からの指示で北海道が調査した結果、平成20(2008)年までの3年間に取引された30ヘクタール以上の森林などの不動産は7万ヘクタール。取引を行った企業139社のうち、上記のように中国企業が偽装して山林を買い取っている例がどれだけあるのか、その資本関係まではつかみきれないが、正真正銘の中国企業が一社見つかった。
北海道倶治安町の57ヘクタールの山林の所有者は父親から遺産相続した山林の売買を不動産屋に依頼していたら、いつのまにか香港の企業に売られてしまったという。そのうちの32ヘクタールが水源機能を持つ保安林だった。同じく北海道ニセコ町では町内にある5つの水源のうち二つが外国資本の敷地内にあった。
北海道ばかりではない。鹿児島県奄美大島一帯の山林の買収を進めている海運会社グループは、もともと日本人の同族経営だったのが、中国人役員が経営に参画し、その後、事業拡大が図られている。
三重県の大台町は、1000メートル級の山並みが続き、伊勢神宮を流れる宮川の源流として名高いが、この「水の聖地」も平成20(2008)年1月に中国企業に買い取られた。一人の中国人が町役場に来て、250ヘクタールの山林を登記していった。しかし、実際に買い取ったのは1000ヘクタールを超えるとも言われている。
■2.中国の危機的な水資源
中国企業と言っても、日本や欧米のような私企業を想像してはいけない。国や地方政府、軍が直接、経営している企業もあれば、個人経営でも、背後に政府や軍がバックアップしている企業もある。中国企業が海外で活動している場合、その背後には中国共産党がいると考えた方がよい。中国共産党はなぜ日本の山林を買収するのか。日本の国会にあたる全国人民代表大会のメンバーがこう語ったと伝えられている。__________
北京の水資源は危機であるが、この事実を国家指導者だけが知っていて北京市民には知らされていない。長江は世界一長い下水道と呼ばれ、地下水は90パーセントが汚染されている。北京に住む外国人も市民も逃げ出せば、全国の13億人は大混乱に陥る。
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10年以上連続で旱魃に(かんばつ)に見舞われている北京市では、1960年代から建設された80カ所以上のダムにもほとんど水がない。また全国の主要都市660カ所の中で、400カ所以上の都市で水不足となっている。工場用地や住宅用地を作るための無計画な自然破壊で北京からわずか70キロまで砂漠が近づいている。我が国を襲う黄砂もこれが原因だ。
■3.日本の水資源を狙う中国共産党
この問題に対処する手っ取り早い方法は、日本の山林を買収して、その水資源を確保することだ。
中国が琉球固有の領土である尖閣諸島に対する対応は下の様な見解が出てきても「仕方がない」と思われる。事実無根かも知れないが用心にこしたことはない。これもひとえにアメリカ軍、自衛隊基地が何の抑止力にもなってない証明だ。だのに与那国島に新たに税金で日本政府は何の役にも立たない基地を作ろうとしている。「思いやり予算」を貰うばかりのアメリカに番犬の仕事をさせろ!。
□思いやり予算ー基地従業員の人件費、光熱水料、基地内の建設費のほとんど全額など、2007年度で2173億円を「思いやり」で支出するほか、地代や周辺の防音工事、自治体への補助金、無償提供中の国有地の推定地代を含めると日本の負担は年間6092億円。米兵1人当たり約1800万円に達する。日本の財政危機に対し、米国は財政が日本より余裕があるのに、なお「思いやり」を続けるのは道理に合わない。(コトバンク)
2月の「国際派日本人養成講座」と称するブログに以下のような論が掲載されているが長いので要点だけ引用する。
■1.中国企業が買い漁る日本の山林
中国企業による日本国土の買い漁りが進んでいる。たとえば平成22(2010)年7月、北海道伊達市と壮瞥町の境界に広がる700ヘクタール(東京ドーム150個分)以上の森林を所有・運営していた日本のゴルフ場企業が経営に行き詰まり、中国人実業家の企業に買収された。
これでこの土地は実質的に中国企業のものとなったが、国土法によって所有者を届け出る必要があるのは、「新たな所有者が土地を取得したとき」のみである。この森林の場合は、買収されても所有企業の名前が変わらなかったので届け出の必要がなかった。
林野庁からの指示で北海道が調査した結果、平成20(2008)年までの3年間に取引された30ヘクタール以上の森林などの不動産は7万ヘクタール。取引を行った企業139社のうち、上記のように中国企業が偽装して山林を買い取っている例がどれだけあるのか、その資本関係まではつかみきれないが、正真正銘の中国企業が一社見つかった。
北海道倶治安町の57ヘクタールの山林の所有者は父親から遺産相続した山林の売買を不動産屋に依頼していたら、いつのまにか香港の企業に売られてしまったという。そのうちの32ヘクタールが水源機能を持つ保安林だった。同じく北海道ニセコ町では町内にある5つの水源のうち二つが外国資本の敷地内にあった。
北海道ばかりではない。鹿児島県奄美大島一帯の山林の買収を進めている海運会社グループは、もともと日本人の同族経営だったのが、中国人役員が経営に参画し、その後、事業拡大が図られている。
三重県の大台町は、1000メートル級の山並みが続き、伊勢神宮を流れる宮川の源流として名高いが、この「水の聖地」も平成20(2008)年1月に中国企業に買い取られた。一人の中国人が町役場に来て、250ヘクタールの山林を登記していった。しかし、実際に買い取ったのは1000ヘクタールを超えるとも言われている。
■2.中国の危機的な水資源
中国企業と言っても、日本や欧米のような私企業を想像してはいけない。国や地方政府、軍が直接、経営している企業もあれば、個人経営でも、背後に政府や軍がバックアップしている企業もある。中国企業が海外で活動している場合、その背後には中国共産党がいると考えた方がよい。中国共産党はなぜ日本の山林を買収するのか。日本の国会にあたる全国人民代表大会のメンバーがこう語ったと伝えられている。__________
北京の水資源は危機であるが、この事実を国家指導者だけが知っていて北京市民には知らされていない。長江は世界一長い下水道と呼ばれ、地下水は90パーセントが汚染されている。北京に住む外国人も市民も逃げ出せば、全国の13億人は大混乱に陥る。
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10年以上連続で旱魃に(かんばつ)に見舞われている北京市では、1960年代から建設された80カ所以上のダムにもほとんど水がない。また全国の主要都市660カ所の中で、400カ所以上の都市で水不足となっている。工場用地や住宅用地を作るための無計画な自然破壊で北京からわずか70キロまで砂漠が近づいている。我が国を襲う黄砂もこれが原因だ。
■3.日本の水資源を狙う中国共産党
この問題に対処する手っ取り早い方法は、日本の山林を買収して、その水資源を確保することだ。