Archives

You are currently viewing archive for March 2014
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02



『ひめゆり部隊』より


1973年3月 石野径一郎『琉歌つれづれ』東邦書房

石野径一郎 いしの-けいいちろう
1909-1990 昭和時代の小説家。
明治42年3月28日生まれ。大正15年に上京し,小学校教師,編集者などをつとめる。昭和17年歴史小説「南島経営」を発表。25年沖縄戦の惨禍をえがいた「ひめゆりの塔」を刊行,のち映画化される。沖縄と戦争を生涯のテーマとした。平成2年8月3日死去。81歳。沖縄県出身。法大卒。本名は朝和。→コトバンク
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1980年3月 沖縄の雑誌『青い海』春季号 通巻91号 島村幸一「おもろさうしー玉を買う神女」


2014年2月28日 琉球新報ホール「第31回・東恩納寛惇賞贈呈式」後列中央が島村幸一氏、前左端が新城栄徳



『池宮正治著作選集全3巻』笠間書院


2015年2月28日パレット前 

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1973年12月 沖縄の雑誌『青い海』1月号 通巻19号 窪徳忠「中国の習俗と沖縄地方」


1970年7月 『季刊人類学』1巻3号 有馬真喜子「ひと ひと・・・・ー窪徳忠氏」

null
中央ー窪徳忠氏、當間一郎氏
null
1980年11月24日ー豊中市立婦人会館で開かれた南島史学会第9回研究大会。右手前2人目が安良城盛昭氏と牧野清氏、左端が喜舎場一隆氏同日、受付の永峰眞名さんに安良城盛昭氏を確認してもらう。大会終了後、安良城氏を都島の沖縄関係資料室まで案内。色々と歓談する。資料室で自著を見つけた安良城氏が本代を払いそれに署名献本した。このとき以来、理論嫌いな私でも沖縄出身の理論家については、これ傾聴に努めることにした。


null
写真上ー左から新城栄徳、窪徳忠先生、仲松弥秀先生、眞喜志康徳さん
写真下ー元沖縄都ホテル社長の桑原守也さん、京都西方寺の袋中上人手植えの蘇鉄を前に(新城栄徳撮影)

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1977年11月 沖縄の雑誌『青い海』12月号  68号 高尾芳太郎「山椒大夫と八重山乙女の詩歌」

1978年10月 沖縄の雑誌『青い海』  77号 高尾灯童「神をめざした『逆転』」
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1979年6月 沖縄の雑誌『青い海』7月号 84号 新垣宗堅「不思議な女の言葉からー自己との対話ー」


新垣宗堅氏から頂いたもの

03/24: 平良幸市

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
nullnull
1994年12月 『土着の人ー平良幸市小伝』平良幸市回想録刊行委員会(代表・瑞慶覧長方)

平良幸市 たいら-こういち
1909-1982 昭和時代後期の政治家。
明治42年7月23日生まれ。戦後,生地沖縄県西原村の村長をへて,昭和25年沖縄社会大衆党結成に参加し,初代書記長,のち委員長をつとめる。また27年より琉球立法院議員。47年の沖縄の日本復帰後,県議会議長をつとめ,51年県知事となった。昭和57年3月5日死去。72歳。沖縄師範卒。→コトバンク
null
家族写真

  
null
1950年ごろー左から西銘順治、平良幸市、平良辰雄夫妻


1958年ごろー山田真山激励訪問、前列左から安里積千代、山田真山、平良幸市、山城善光

1959年1月『オキナワグラフ』「社大党ー中央に平良幸市」

null
1960年6月ーアイゼンハワー米大統領来沖、握手する平良幸市


null
1962年10月ーキャラウエイ高等弁務官①と
①第三代高等弁務官
ポール・W・キャラウェイ中将1961年2月-64年7月
【プロフィール】
1905年アンカーソー州ジョンスボロー生まれ。
陸軍省参謀本部、中国戦線の米軍部隊の計画部長などを務めた後、同部隊の副参謀長、軍事司令官に就任。戦後、ワシントンD・Cの陸軍本部では作戦担当の参謀次長室計画部部長、韓国在留の米第七歩兵師団の軍事司令官、東京の在日国連軍並びに米極東軍総司令部の参謀長補佐等を歴任し、58年、ワシントンD・Cに戻り米統合参謀本部と統合戦略調整委員会の陸軍側委員を務める。
【主な仕事】
最も長期に渡り在任した。キャラウェイ旋風と呼ばれるほど強烈な個性を印象づける。
この時期、日本政府の沖縄への関わりが目立ちはじめるほか、住民の自治権拡大の要求、復帰運動が高まる。しかし、弁務官は離日政策に終始したため住民から反発を招く。また、金融機関や政界に幾度となく介入し、峻厳な施策を執る。→「沖縄県公文書館」



null
比嘉春潮を迎えて

null
青島幸男②と
青島幸男 あおしま-ゆきお
1932-2006 昭和後期-平成時代の放送作家,政治家。
昭和7年7月17日生まれ。テレビ放送の草創期に放送作家,俳優などとして活躍。昭和43年参議院全国区で2位当選(当選4回)。二院クラブに属し,庶民の視点から金権政治を批判。56年「人間万事塞翁(さいおう)が丙午(ひのえうま)」で直木賞。平成7年東京都知事となる。11年退任し,以後タレント活動を再開。平成18年12月20日死去。74歳。東京出身。早大卒。→コトバンク


null
瀬長亀次郎と
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1977年5月 雑誌『青い海』63号 奥田良寛春「フネ・呪い言葉をさぐる」

書斎探訪ー奥田良寛春氏
null
写真上ー左から奥田良寛春氏、新城栄徳

null
写真ー前列左から奥田良寛春氏、仲松弥秀氏/後列左から真喜志康徳氏、久手堅憲夫氏
null


2008年11月 うるま市立 海の文化資料館『仲松彌秀がみたうるまジマ』
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02





Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02



当時はアメリカが軍国主義教育がされてないか「検閲」した。今はアメリカも文部省と組んで軍国主義教育を推し進めている。面白いと云えば面白いのだが・・・・・。
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
3月22日14時~15時半 沖縄県立博物館・美術館アトリエ「しまくとぅば

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2012年10月28日14時~ 「八重山民謡としまくとぅば2」沖縄県立博物館・美術館民家



2012年10月28日14時~ 「八重山民謡としまくとぅば2」沖縄県立博物館・美術館民家

写真左から清村まり子さん、新城亘氏、入嵩西康文氏、新城栄徳、西岡敏氏

写真ー1998年10月18日うりずん 左から新城亘氏、三島格・肥後考古学会会長、新城栄徳、佐藤善五郎氏(那覇市文化協会)/右から新城栄徳、人間国宝の照喜名朝一氏、新城亘氏


『月刊やいま』2015年7月号 NO.258 ■特集 画家・新城剛の世界■特集 画家・新城剛の世界
今から25年前の1991年7月2日、画家・新城剛は海難事故で急逝した。44歳だった。
「とてもとても暑い日でした」と知子夫人は言う。
スペイン美術賞展優秀賞、オーストラリア美術賞展入選、沖展賞受賞などを受賞し、42歳の時には沖展審査員となって、今後のさらなる展開を期待された画家だった。
○1989年11月 『光扇会 新城知子の会ー『知子の作品集』ー糸・あや・布ー』(表紙・デザイン、題字、編集制作ー新城剛)
           舞台監督ー玉木陽、崎山克馬、大田静男/舞台・照明・音響ー新舞台(那覇公演)、沖縄タイムス(那覇公演)/            結髪・着付ー小波則夫/事務局ー前嵩西勇



» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1960年10月に『琉球画報』が発行人・大城一男、編集人・佐久田繁で創刊された。このころのことを佐久田は1981年2月の『青い海』の座談会で「僕はその頃『琉球画報』の編集長をしていたが、どうしても『オキナワグラフ』に太刀打ちできないんです。いっそ潰して『沖縄マガジン』のような雑誌に切り替えろと提案するんだが聞き入れてくれない。そこで画報社を辞めて独立した」と述べている。画報は63年2月まで発行されていた。大阪連絡所は西平守晴宅であった。


1961年3月 『琉球画報』4月号 編集発行人・大城一男 琉球画報社 那覇市松尾194-1 印刷 東京・(㈱)太陽印刷工業□表紙・
(上原実コレクション)








» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1983年4月 沖縄の雑誌『青い海』122号~129号 外原淳「手づくりおもちゃの世界」


Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
①BOOKS じのん営業時間:9:00~20:00、年中無休
〒901-2215沖縄県宜野湾市真栄原2-3-3TEL:(098)897-7241 / FAX:(098)898-7039
E-Mail:info@jinon.ginowan.okinawa.jp




沖縄の雑誌『青い海』が並んでいる

2014年3月 うる文化協会『琉球・島之宝』創刊号 天久斉「古本屋が見た『青い海』」
null
null

null
大濱 聡 2022-6-27■ノンフィクション作家の佐野眞一氏が26日、肺がんのため千葉県流山市の病院で亡くなられた。6月末に入院し、今月上旬に病状が急変したという。享年75歳。■2012年10月の『週刊朝日』で橋下 徹大阪市長をテーマにした連載打ち切り問題や、他の盗用問題でミソをつけたりしたが、佐野ノンフィクションは好んで読んだ方だった。■5年前、突然連絡をもらい、どこから聞きつけたのか、私が取材しているあるテーマと同じようなテーマでリサーチしているので話が聞きたいという。『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』で拙著『沖縄・国際通り物語―「奇跡」と呼ばれた1マイル―』を参考文献に取り上げてもらったことはあったが、あらためてその取材網に驚いた。■その後、「WEB集英社文庫」で「沖縄はどう生きるか」というタイトルで40回くらい連載を続けていたが、未完で終わってしまうのだろうか。実に惜しまれる。心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

2015年5月 佐野眞一『沖縄戦いまだ終わらず』集英社文庫 宇宙といえば、沖縄取材のとき必ずといっていいほど訪ねる宜野湾市の「BOOKSじのん」①という古書店の棚にも、宇宙を感じる。(略)沖縄の政治家から経済人、沖縄ヤクザの抗争から軍用地主、沖縄の金融事情から芸能情報までゴッタ煮のように満載した前記の『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』は、よく沖縄名物のチャンプルーのようだと言われる。ここで白状すれば、この本は「BOOKSじのん」の棚に刺激されて書いたものである。
①BOOKS じのん営業時間:9:00~20:00、年中無休
〒901-2215沖縄県宜野湾市真栄原2-3-3TEL:(098)897-7241 / FAX:(098)898-7039
E-Mail:info@jinon.ginowan.okinawa.jp
レジ前に佐野眞一の著20余冊があった側に紅型装幀の宮﨑義敬『繚乱の人』展望社があり、帯で平良リヱ子の評伝と分かった。

佐野眞一の本
null
null

押入れを整理したら『PLAYBOY』日本版・終刊号が出て来た。2009年1月発行でもう11年。これを買う切っ掛けは佐野眞一「沖縄コンフィデンシャルー戦後60年の沖縄を作り上げた怪人たち」を読むためだ。『PLAYBOY』を友人が見て英語版をくれた。中を少しでも紹介するとフェイスブックに怒られるので、割愛して2008年の「この人の書斎が見たい!」を紹介する。写真ー高野孟、内田樹

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
nullnullnull
1960年11月 『郷土の文化財13 熊本・宮崎・鹿児島・沖縄』(沖縄執筆者・荻堂盛進、仲座久雄、山里銀造、外間正幸、新城徳祐、多和田真淳)宝文館


1971年8月 沖縄の雑誌『青い海』4号 荻堂盛進(大都観光KK社長)「片思いの記」

明視堂
null
null
沖縄尚学高校ロビーの二宮金次郎像は1935年に明視堂の山下悳三が那覇市内の8小学校に寄贈したものの一つだろう。山下は1917年にも真教寺幼稚園児に飛行機などの玩具80個を贈っている。なお悳三の子息・山下育三氏は那覇市で老舗「鶴丸弁当」を経営している。


写真左から山下育三氏、荻堂盛進氏
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1974年1月『青い海』29号 安室孫盛「今を厚くし、古を薄くするー沖縄芝居の可能性についてー」


1975年11月『青い海』47号 安室孫盛「映画で”沖縄〝を撮りつづけてー再び沖縄の植民地解放宣言を」
安室孫盛
安室孫盛を検索すると、講談社のデジタル版 日本人名大辞典の解説に次のように出ている。
田部久 たべ-きゅう
1906-昭和時代の教育運動家。
明治39年生まれ。昭和5年新興教育研究所設立に参加し,中央委員となる。7年新興教育同盟準備会を結成して書記長となり,検挙される。戦後は教員組合運動をすすめた。沖縄県出身。首里中学卒。本名は安室孫盛。著作に「無産少年運動」。

1961年9月発行の「大琉球」(観光映画シリーズ三部作)には編集発行人として奈良三郎とある。
□目次
森政三「復元した守礼之門」/式場隆三郎「琉球の旅」/松本俊夫「琉球の祭りについて」/芦間冽「沖縄の祭り」
奈良三郎「復興する固有の文化」/南風原英佳①「この風土に育つ生きもの」/寺西春雄「交響曲・大琉球(三楽章)について」
田辺尚雄「琉球音楽の位置」/奈良三郎・南風原英佳「おもろ談義」/藤島宇内「沖縄が映画を作るしごと」/本田安次「沖縄舞踊の特色」/芦間冽「映画化される群星」

1992年9月9日『八重山毎日新聞』に「安室孫盛を語る展ー今日から13日まで労働運動家の一生(石垣市立図書館展示室)」とし、友寄英正氏の斡旋で東京在住の安室孫盛の長男・奈良一郎氏から同氏の図書や諸資料など4百余が市立図書館に贈られたことで企画されたという。安室のペンネームは北村、奈良など。


①1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「南風原英意」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1974年2月 永山絹枝『沖縄の民芸ー玩具』新星図書

1972年 うりずん若夏社『LOGOS』
nullnull

null

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1984年10月 新崎盛珍『瞻雲閑語』/1956年2月 新崎盛珍『思出の沖縄』


左が新崎盛珍/右が息子の新崎盛敏、著に『原色海藻検索図鑑』北隆館 昭和39年初版

1965年5月 沖縄興信所(代表・大宜味朝徳)『琉球紳士録』「本土在住琉球紳士録」

写真左から宮島肇、新崎盛敏、大浜信泉/石川正通、宮城栄昌、一泉知永/外間寛、安良城盛昭、島茂彦

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1989年11月16日『琉球新報』「熊本大学五高記念館から琉球風俗絵巻が見つかる」

1989年11月16日『琉球新報』「熊本大学五高記念館から琉球風俗絵巻が見つかる」。私は当時『琉球新報社史』を手伝っていたので、記者から写真を貰った。上段は尾類馬の行列であった。



国会図書館の「琉球風俗図」の首里城①首里城正殿前の龍柱は正面向き ②1882年3月に首里城が陸軍省所轄永世保存城となり熊本鎮台分営が置かれた。入り口に鎮台兵が立っている。熊本のものは鎮台兵は描かれてない③重修天女橋碑記

null


1926年5月29日『沖縄タイムス』


復元された重修天女橋碑記

上は国立国会図書館の風俗画(国立国会図書館ホームページで「琉球風俗図」検索で見ることができる。)/1976年2月 田中俊雄・田中玲子『沖縄織物の研究』紫紅社)で国会図書館のものを引用。

1989年12月 『琉球大学附属図書館報″ぶぶりお〝』より

上記の絵巻は池宮正治琉大教授によって1989年12月発行の『琉大附属図書館報″ぶぶりお〝』で紹介された。また琉球新報発行の『新 琉球史』の表紙や挿絵にもなっている。


1936年12月3日~『琉球新報』「那覇 今と昔」絵・友寄親雲上、写真・本社写真部、文・山里永吉


八重山の桃林寺にある友寄喜恒 画「十王図」

nullnull

『琉球の文化』第四号
特集Ⅰ 琉球の伝統芸能
null null
null

2002年5月 東京国立博物館『東京国立博物館図版目録』カラー図版で友寄喜恒「ジュリ図」、モノクロで「按司夫妻図」「田舎婦女図」が載っている。翌年の12月、浦添市美術館発行『東京国立博物館所蔵 琉球資料展 琉球・沖縄へのまなざし』の表紙は友寄喜恒「ジュリ図」、カラー図版「花鳥図」「按司夫妻図」、「田舎婦女図」が載っている。




女性史資料

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山城正忠
序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・世禮國男
序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松根星舟
自序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川島涙夢
短歌

創作 
感想
先輩知友言葉集ー新垣金造・村会議員「・・弟のために種々御世話なし下さった山城正忠先生、上里堅蒲先生、世禮國男先生、國吉灰雨兄、宮里静湖君、其の他の方々に謹んでお禮を申し述べて此の稿を擱筆する次第である。」
null

null
山城正忠「旅塵抄」

null

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
nullnull
nullnull

1960年11月 塔文芸同好会 文芸誌『塔』創刊号
ー創作ー
霧の告発・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福地恒夫
灰色の生誕祭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マキシ康陽
ある手記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮本春正
ー論壇ー
琉球方言に於ける副詞「ウシマサ」について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉亀盛
古典解釈への琉球方言の適用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嘉味田宗栄
「毛遊び」についての一考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉得正
ー紀行文ー
奄美駆けある記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上江洲均
ー感想文ー
武者小路実篤について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・知念輝明
菊池寛の「形」を呼んで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土岐直邦
ーエッセイー
ゆめの散歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・当山全次
酒飲みの独白・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・喜瀬真一
小説雑感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・シロマセイコウ
思うこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・与座ヤス
下町の蚊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三木健
煩悶の記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡名喜興憲
ー創作ー
半影の中で・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新里和伸
酩酊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村忠

カチャシー
編集後記
表紙絵・題字・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嘉味田宗一
扉カット・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安里英二

1961年3月 塔文芸同好会 文芸誌『塔』第二号
1961年10月 塔文芸同好会 文芸誌『塔』第三号
null

1962年4月 塔文芸同好会 文芸誌『文芸沖縄』第四号

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1977年1月 沖縄の雑誌『青い海』60号 金城次郎「やちむんむつかしいさ」



2014年3月9日『新報小中学生新聞ーりゅうPON!』新城俊昭「人ものがたり/沖縄発の人間国宝 金城次郎」

null null

nullnull
1979年10月ー『沖縄の名匠 金城次郎陶器作品集』沖縄タイムス社


2013年7月23日ー沖縄県立博物館・美術館で、写真左が渡名喜明氏、新城栄徳

〒901-1412 沖縄・南城市佐敷字新里174番地
[明王窯 渡名喜 明]Tel・Fax 098-947-0224


2014年3月2日『新報小中学生新聞ーりゅうPON!』新城俊昭「人ものがたり/ウルトラマンの脚本家 金城哲夫」


1992年8月 山田輝子『ウルトラマン昇天ーM78星雲は沖縄の彼方』朝日新聞社/1999年10月 上原正三『金城哲夫 ウルトラマン島唄』筑摩書房

金城哲夫 きんじょう-てつお 1938-1976 昭和時代後期の脚本家。
昭和13年7月5日生まれ。34年円谷(つぶらや)英二に弟子入りし,41年からテレビのウルトラマンなどの「ウルトラ」シリーズの脚本・監修を手がける。44年幼少期をすごした沖縄にもどり,沖縄芝居の作者や監督をつとめ,50年の沖縄国際海洋博の式典の演出を担当した。昭和51年2月26日死去。37歳。東京出身。玉川大卒。→コトバンク




1981年9月 『嘉手納農林昭六会誌』ーこの本は天野鉄夫さんから頂いたもので中に松川寛保氏が「戯曲・天衣無縫 六幕」で天野さんのコレクションを紹介している。金城忠栄氏が「我が人生のドラマ」で息子の哲夫のことにふれている。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1966年12月ー神山邦彦『辻情史』神山青巧舎
null

神山邦彦(久米蔡氏1894年~1977年)/著書


1930年12月ー喜納緑淳・津嘉山栄興画『沖縄童話第一編・犬と猫』印刷・神山青巧堂

1984年3月 沖縄の雑誌『青い海』130号 「カラーグラビア/ジュリ馬まつり」


□1970年11月 有川董重『歓楽郷 辻情話史集』沖縄郷土文化研究会
□1971年8月4日『沖縄タイムス』阿波根朝松「『辻の今昔』と著者」





2012年1月6日~2月29日 那覇市歴史博物館「辻の歴史と文化~料理・芸能・エトセトラ~」


2013-8『戦前の沖縄観光~ディスカバー・オキナワ~』
null
null
辻遊廓
戦前の沖縄観光において辻遊廓は重要な役割を担っていました。昼間、県内各地の観光名所を巡ったあと、夜は辻にて料理や舞踊を楽しみました。名所旧跡以外の観光スポットが少ない当時、辻が料理・音楽・舞踊といった沖縄文化の提供地となっていました。また、観光パンフレットやお土産用の絵ハガキに辻の女性の起用や、「那覇飛行場開き」といったイベントで辻の「美妓」によって、出店の飲食物が来場者に振舞われることもありました。当時の辻の女性は現在でいう観光キャンペーンガールの役割を果たしていました。

2014年2月18日~5月11日 沖縄県立博物館・美術館「三線のチカラー形の美と音の妙ー」
□三線をひくジュリの絵も展示されている。

沖縄の文化表象に見るジュリ(遊女)の諸相
場所:沖縄県立博物館・美術館
日時:2014年3月8日(土) 14:00-18:30






2014年3月17日『沖縄タイムス』崎原綾乃「唐獅子ー遊郭」

1947年12月 柳田國男編『沖縄文化叢説』中央公論社には編纂者の言葉を柳田國男が「比嘉春潮・島袋源七の二君は、最初からの援助者であった。と云はうよりも私は寧ろこの二人の沖縄衆によって、動かされたやうな気持ちである。各篇の配列は大体に筆者の年齢順によることにして見た。但し終りの両君だけは、それ程に年が若くはないのである。」と記している。また柳田國男は「尾類考」を執筆「見やうによっては婚姻制の進歩であるが、その為に女の地位の又少し悪くなったまでは否むことが出来ない。是に対して他の一方の自由な女、幾度もツレアヒをかへて活きて行く者は、近畿地方ではジダラクといひ、隠岐の島などではタマダレ者又はドウラク者とも言って居たが、それもぢっとはして居ないで、新たに基礎を作り又組織を設けようとしたのである。我々の如く旧い一方の世界に住む者には、其當否を批判する力も無いが、是が幾つかの面白くないことの原因になって居ることだけは確かなやうである。だから改めて原因に遡って、もう一度詳しく知る必要があるわけで、斯んな疑問にすら答へられぬやうだったら、實は文化史などは尊敬するにも足らぬのである。(22,1,7)」と述べている。関連して柳田は『南島旅行見聞記』(1921年1月)でも「地方小説の舞台 那覇には日刊四つあり。文学好きの青年多く之に参与せり。/渡地と思案橋 渡地中島の二遊郭は十数年前に廃せられ、今は辻一箇所となる。中島は停車場辺、渡地は旧宅存す。思案橋のありし地は久しき以前埋立てられ、今通堂より西本町に入る大通なり。県庁はもとこの此近くに在りき。在番屋敷」と尾類(ジュリ)の居る辻などにふれている。

null

1949年9月 渡嘉敷唯錦『琉球辻情話』銀嶺閣

nullnull
nullnull
nullnull
null
null




1953年 沖縄芸能使節団「琉球国劇公演」(第八回文部省芸術祭参加)

第1回沖縄芸能使節団東京上演打合会ー左から山城善光、比嘉春潮、比嘉良篤、陳而松、山之口貘、南風原朝光、本田安次、田辺尚雄、東恩納寛惇、仲原善忠

1962年3月 本田安次『南島採訪記ー沖縄の信仰と藝能』明善堂書店

上・辻のお嶽 下・淋れた辻遊廓あと
nullnull
1970年2月 『新しい日本 九州③』国際情報社 本田安次「沖縄の芸能」

本田安次 ほんだ-やすじ
1906-2001 昭和-平成時代の民俗芸能史学者。
明治39年3月18日生まれ。宮城県石巻中学教諭時代に東北地方の山伏神楽を知る。のち全国調査により民俗芸能の体系的研究をおこなう。昭和35年早大教授。49年「日本の民俗芸能」で芸術選奨。平成7年文化功労者。平成13年2月19日死去。94歳。福島県出身。早大卒。著作に「能及狂言考」「沖縄の祭りと芸能」など。→コトバンク






(翁長良明コレクション)

1953年11月17日『琉球新報』「芸能団きのう出発ー誇り高い郷土芸術公演」
      11月22日『琉球新報』「平和を招く地蔵尊ー旭ヶ岡できのう除幕式」「名幸氏大僧正にー寺院も大本山に昇格」
      11月29日『琉球新報』名嘉地宗直「手水之縁」連載
      12月6日『琉球新報』東恩納寛惇「琉球芸能東京公演感想」連載
      12月7日『琉球新報』「芸能祭トピックス」(写真)
      12月11日『琉球新報』「琉球芸能の饗宴ー大阪公演超満員の盛況」

1954年6月8日 『琉球新報』「あの頃この頃ー辻町ー料亭松華ー宮平ツルさん/松の下ー上原えい子さん」
1954年6月26日『琉球新報』「あの頃この頃ー料亭ー元風月芸者おもちゃ姐さん/松華楼ー宮平敏子さん」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1969年8月 山里永吉『松山王子尚順遺稿』(㈱)第一法規出版


写真ー尚順(昭和14年)


写真ー尚順と柳宗悦(昭和14年)

尚順の「鉄斎コレクション」

null



2016-11-29 あけみ

» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02


壺屋やちむん通り会「壺屋の+プラス」



2014年3月『ニッコール年鑑』「山田實」


左から島袋捷子さん、仲嶺絵里奈さん、金子隆一

木村伊兵衛
null
山田實・撮影

null
山田實・撮影

きむらいへえ【木村伊兵衛】
1901‐74(明治34‐昭和49)
戦前,戦後を通じて活躍した日本の代表的な写真家。東京下谷の出身で,京華商業卒業後,1920年台湾に渡り,同地で写真技術を習得した。24年帰国後,東京日暮里で写真館を開業するとともに,アマチュア写真クラブを組織して芸術写真の制作もはじめた。30年花王石鹼広告部に入社,生活感あふれる広告写真を撮影した。このころに35ミリフィルムを使用するライカA型カメラを自分の手足のように駆使することで,日常的な光景をスナップする独自の写真スタイルを確立している。(→コトバンク)

null null
2012年3月ー浜島書店『中学歴史資料集・学び考える歴史』
右の㌻に沖縄の写真家・山田實さん撮影の「英語で書かれた賽銭箱(金武観音寺1960年代)」が掲載されている。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

写真ー桑江良行
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
「戦後沖縄におけるトライアングルコンタクト-美術と工芸の1945~1955-」

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

はしがきー私が「おもろ」の研究会に出席して感じたことは、おもろの中にわからないことばがたくさんあることである。そのことばもおもろのできた当時は使用していたであろうが、今日では死語となり、その意味さえわからなくなっている。琉歌もこれと同じように、数百年も経ったらわからなくなることばができるであろう。今でさえわからなくなりかけている語もある。してみれば、琉歌もわかっているうちに、書き残して置かねばならないと思う。それがこれから琉歌を研究したいという人のために、やっておくべき責務ではないだろうか。

1969年4月  見里朝慶『琉歌の研究Ⅱ』(㈱)琉球文教図書
はじめにー私は「沖縄の文化」は日本文化の源流をなすものではないかと常常考えている者の一人である。例えば言語にしても包丁のことを、青森や長崎では「ほうちゃ」というそうで、沖縄では「ほうちゃう」といっている。また井戸のことを、伊豆の大島では「かあ」といっているが、沖縄でも同じである。それから木で丸く作った洗濯器のことを沖縄では「はんじり」といっているが、鳥取や千葉や宮崎辺ではこれを「はんぎり」といっている所があるそうだ。このように言語も中央(当時は京都)から遠く離れた所では、まだ昔の語がそのままに残っているのではないか。「沖縄語」と「日本語」と類似点があることを指摘して、言語の上から日琉同祖論を称えた向象賢のことは周知の通りである。かかる意味で私は琉歌と和歌との間にも言語上、あるいは思想上のつながりがありはせんかと、万葉集・古今集・新古今集その他特に古い文献と比較してその具体的な実例を見出すことにした。それでこの歌集にも、万葉集は勿論、古今集、新古今集、拾遺集、千載集などから、また古事記、日本書紀などに載っている歌など5、6首を出してある。

また琉歌は解釈の上から、まちまちの説が多く、これが定説だというべきものがないのである。これが定説だといっても果たして納得がいくかどうか、それでこれに定説を与えるのは困難である。そこで私はいくつもの説を出すことにした。どの説を取ろうとこれは読者の判断にまかせたい。いろいろの説を多く取ったつもりであるが、もれた所があるかもわからないのでそれは補ってもらいたい。その為この中に引例してある琉歌は外に59首ある。私の琉歌は首里を中心にしてある。それで歌詞では地方と違う所があるかも知れないと思う。その点も注意して呼んでいただきたい。
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1935年5月ー稲垣國三郎『敵艦見ゆ-沖縄五勇士』盛運堂□→1935年8月『琉球新報』稲垣國三郎「『敵艦見ゆ』の上演されるまでー曾我廼家五郎と沖縄五勇士劇」
1935年12月ー『琉球新報』「在阪沖縄県人3万の指導へ南島会の奮起!稲垣校長も激励ー在阪教育家を以って組織する南島会では去る7日午後7時から此花区宮居町ときわ亭で忘年会を兼ねて第6回総会を開いた。愛日校長稲垣國三郎氏、関西球陽会より豊川忠進、我喜屋宗信、真栄田勝朗らが招待された」

1936年1月22日、稲垣國三郎が台南丸で来沖。

先日の『琉球新報』に琉球大学図書館で沖縄芸能写真が出た記事。その中にドイツのトラウツ博士夫妻が宮古の「博愛碑建立60周年式典」で1936年に来沖したとき那覇の安慶名徳潤宅での集合写真が掲載されていた。のちに『大阪球陽新報』を創刊する真栄田勝朗も居る。ほかに下地玄信、又吉康和、島袋源一郎、新垣松含、新垣芳子らが居る。安慶名徳潤(1954年1月15日没)、又吉康和は後の那覇市長である。

ここでトラウツ博士夫妻の来沖の経緯を記す。大阪の愛日小学校校長の稲垣國三郎が1936年1月下旬、久松五勇士慰問のため宮古に赴いた。そのとき博愛記念碑を見て、博愛碑が60年になることで何かこの美談を世上に紹介しようと思いついた。期せずして沖縄の宣伝と日独親善にも寄与すると考えた。大阪に帰り、宮古出身の下地玄信に協力を求めた。下地は当時国際親善協会大阪本部の責任者でもあったので4月中旬に上京、この参事の肩書でドイツ大使館、外務省、参謀本部、陸海軍、文部の関係機関を訪ねた。大々的に挙行せよと外務省後援の承認と激励を受けて19日帰阪した。

4月22日、野村ビル有恒倶楽部に在阪沖縄県人有志、豊川忠進、我喜屋宗信、平尾、稲垣らが参加し意見交換をした結果、主催者を沖縄県、宮古教育部会とし外務省、東京、大阪の日独協会、日独文化協会、日独文化研究所などを後援者にして小委員に稲垣、下地、豊川、阿嘉、真栄田勝朗が推挙された。この日はオブザーバーとして来阪中の又吉康和琉球新報主筆、座安盛徳沖縄朝日新聞記者も参加した。5月下旬、稲垣、下地は相携えてカシワの会理事長の有沢博士、日独協会会長の佐多博士に協力を求めると即座に予算を書面で示せと好意的な対応。即日、堂ビル清交社で稲垣、下地、真栄田が記念事業9項目、壹万圓の予算を編成した。

6月中旬、下地玄信は再び上京、関係官庁並びに地方長官会議で上京中の蔵重知事、伊江男爵、仲宗根玄 らを訪問。6月19日に下地事務所で協議会、主催者を宮古郡教育部会にとどめ、沖縄県ほかは後援者と正式決定する。この後も下地は5度目の上京。東京のドイツ文化研究所から文化資料提供、また神戸のドイツ国立観光局からは観光宣伝フイルムとポスターが貸与された。安慶名宜良も寄付金集めの功労者である。10月26日夕刻に委員一同が阿倍野斎場前の石屋に行き竣工の石碑を見る。次いで阿部野橋の富士屋食堂で最後の打合せを行い特派委員、歓迎方法の決定をした。

10月31日、京都からトラウツ博士夫妻が来阪、午後12時半に堂ビル清交社で神戸のドイツ副領事シュマルツ、日独協会の佐多博士、カシワの会の有沢理事長、大阪総領事館廣江通訳官、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞記者、委員側7人が出席し午餐会。

1936年11月11日『琉球新報』「海と空から力漲らせ/日独親善の使節来県/トラウツ博士一行を迎えて飛行場に歓呼の嵐」□10日トラウツ博士夫妻を迎える「空の港」那覇飛行場は日独親善に密接な関係を持つ外務省の二見孝平、沖縄県知事代理の佐藤学務長、那覇市長代理の當間助役、横田特高課長、鈴木兵事課長、照屋前那覇市長、山城二中、粟屋水産校長、又吉康和琉球新報主筆、真栄田勝朗ら女性たちも交じって午後1時から次々と自動車で集まった。更に日の丸旗、ハーゲン・クロイツ旗を持った小禄尋常高等小学校児童も参集、飛行場は近来にない賑わいを呈した。午後2時にダグラス機が到着、トラウツ博士、続いて下地玄信、トラウツ夫人が飛行機から降りてきた。

11日、トラウツ夫妻、下地玄信、真栄田勝朗、外務省の二見事務官が同行し島袋源一郎、古川体育主事の案内で午前中は那覇市役所、沖縄県庁訪問。午後2時は首里城視察、晩は風月楼で知事、首里・那覇両市長、沖縄教育会長発起による官民合同歓迎会。12日に宮古へ出発した。

1936年11月17日『海南時報』(石垣町)□13日大濱記者宮古発ー国際愛の金字塔!日章旗とナチス旗/感激と興奮のるつぼ/隣郡宮古の盛儀・13日朝、有田外相代理外務省文化事業第3課事務官・二見幸平氏、駐日独逸大使代理トラウツ博士、ヘルダ夫人、通訳・津田松苗氏、知事代理・佐藤学務部長一行を案内して明知支庁長、在阪計理士の下地玄信氏が湖北丸で午前9時来郡した。漲水港は萬船飾の発動機船が歓迎をなし発動機競争をなしつづいている。那覇より平山裁判所長、照屋前那覇市長、山城二中・崎浜商業・脇屋水産各校長、仲里視学、照屋林顕、大舛警部、与那原那覇市収入役、比嘉大毎、豊平大朝、仲宗根沖朝、志良堂毎日、佐々木沖縄日刊、真栄田琉球各新聞記者、天野春吉諸氏の顔も見え桟橋は郡内官衛長官、各校長、有志六百余名が出迎え。

201110・10那覇大空襲の日である。近松門左衛門の墓は菩提寺、尼崎・広済寺と、妻側の菩提寺の大阪・法妙寺に建てられ、共に夫婦の戒名が刻まれた比翼墓である。法妙寺は大空襲で焼失し大東市に再建され、後に墓だけが元の場所に戻された。近松の墓を見て、西鶴の墓がある誓願寺を訪ねる。戦災で本堂も繰りも焼けたため、一時途絶えた時期もあったが、毎年9月には「西鶴忌」が行われる。西鶴の墓は1887年を前後する頃、誓願寺境内の無縁墓に押し込められていたのが発見された。境内には、大坂に於ける私立学問所「懐徳堂」を140年余にわたり経営し、江戸時代大坂の文教の発展に貢献した、中井一族の墓がある。→稲垣國三郎にも『中井竹山と草茅危言』(大正洋行1943)の著がある。


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
マンガ青年・仲宗根正順
1969年4月ごろ、沖青友の会会員の高幸雄(21)にこんな相談がもちかけられた。「マンガの勉強をしていた兄が、アパートを出たまま1年以上も行方がわからない。なんとか協力してくれないか」

そのマンガ青年が、宮古出身の仲宗根正順さん(当時26才)だった。具志川から出てきた妹さんの訴えによると、仲宗根さんは、働きながらマンガを勉強、マンガ同人誌「フェニックス」を編集していた。ところが、69年5月中旬、大阪・吹田市のアパートから突然姿を消し、1年以上も行方がわからない。妹さんは大阪で働きながら、友人関係などを訪ね、さがしまわったが、手がかりさえつかめないという。

沖青友の会は、仲宗根さん捜しに会員全員でとり組んだ。マンガ雑誌や新聞に投書をしたり、全国の沖縄関係者に協力を呼びかけた。3万円近く集まったカンパでチラシをつくり、目抜きの交番に貼った。刑事まがいの聞き込みをして歩いたりもした。毎日新聞が、社会面トップで仲宗根さんの蒸発を伝えると、文字通り全国から多くの反響が寄せられた。

だが、仲宗根さんは自殺をしていた。吹田署が改めて身元不明の変死体を調べたところ、69年5月15日夜、市内の道路ワキで石油をかぶって焼身自殺した青年が、持っていた部屋のカギから、仲宗根さんにほぼ間違いないと確認したのである。悲しいことだったが、もし沖青友の会がとり組んでいなければ、仲宗根さんは永遠に無縁仏となっていたかもしれない、と思うと『ボク達が役にたてた』という自信も湧いてきた。

(略)大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。全国には、おそらく10余のグループがあるのではないか、という。(会長の)嘉陽君らは、思想、信条の違いがあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。(沖青友の会連絡先・大阪市港区市岡元町2-16-3、程野方、嘉陽宗博)

『青い海』マンガ関係目録
1971年4月 創刊号 マンガ「仲宗根正順遺作展」/5月 第2号「仲宗根正順遺作展②」、きしゃばせいじ「マンガ」/6月 第3号 仲宗根正順「マンガ・ぜいたくはすてきだ」
8月 第4号 仲宗根正順マンガ/毛利泰房「青い海漫画集」/9月 第5号 砂川しげひさ「マンガ寄らば斬るド」「漫画家・砂川しげひさ」/10月 第6号 読者のページ まえむらいくお「マンガ・しまった!」/11月 第7号 きしゃばせいじ「マンガ」/12月 第8号 当間直己「漫画アンデパンダン展」、前村郁夫「マンガ・星を見ないで」



砂川しげひさ

1972年1月 第9号 たらま由紀夫「マンガ・ガールハント」、山里和男「マンガ」、仲本エイ子イラスト・嶋美枝詩「夕暮れ」(あしあと3号)、へしきよしのり「マンガ・ラブレータ」、石川文一・柳光観画「三山の覇王」/2月 10号 当間直己「マンガ・魚の愛情?」、平敷善和イラスト・弦子詩/3月 第11号 大嵩茂芳「マンガ・先生と生徒」、きしゃばせいじ「マンガ・サッカーク」、具志堅正雄「マンガ・コンピューター時代」/5月 第12号 新屋敷幸繁・安室二三雄え「民話の沖縄」/6月 第13号 きしゃばせいじ「現代くん」、真栄城徳秋「マンガ」/7月 第14号 へしきよしのり「頑張らなくっちやあ漫画青春」/8月 第15号 伊波南哲「庶民の描いた美しい夢と諷刺」

1972年5月 青い海出版社『はだか沖縄』六月社(大阪)□へしきよしのり・あすなろプロダクション「蟻ーありー」

1973年12月 第28号 「グラビア守礼門」

1974年12月 第38号 津野力男『表紙写真「守礼門」

1975年9月 第45号 おおば比呂司「あわもりの酔心地」

1977年6月 第64号 安良城考「目次イラスト」/8月 第65号 安良城考「目次イラスト・カット」、具志堅政正「ありったけの地獄ー沖縄戦を描く」/9月 第66号 波平やすし・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし・アカインコ」/10月 第67号 登野城匠・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし」/11月 第68号 登野城匠・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし・ニヌファブシの娘」/12月 第69号 登野城匠・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし・お正月の猫」

1978年1月 第70号 座間味朗・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし・はなよめ石」/4月 72号 安良城考「目次イラスト」/6月 第73号 中城健吉・安良城考イラスト「創作沖縄昔ばなし・双子王子」

1983年8月 第125号 へしき・よしのり・琉漫画工房「黒潮源流」/12月 第128号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」④

1984年1月 第129号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」⑤ 3月 第130号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」⑥ 4月 第131号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」⑦ 6月 第133号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」⑧ 8月 第135号 スタジオ南洋少年・へしきよしのり「黒潮源流」⑨ 9月 第136号 へしき・よしのり・スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑩ 10月 第137号 へしき・よしのり・スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑪ 11月 第138号 へしき・よしのり・スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑫ 12月 第139号 スタジオ南洋少年「黒潮源流」

1985年3月 第140号 スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑭ 4月 第141号 スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑮ 7月143号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」


『今日の琉球』マンガ(挿絵)目録
1958年 12月 目次絵「コマまわし」、真栄城勇「B円切手とドル切手」、「守礼門復元落成」

1960年 11月 徳田安周「沖縄千一夜」⑮とかしきただお挿絵、保志門幸子「スクちゃん」(4コマ、60年9月から)

1961年6月 金城康雄「ホンワカ君」/7月 とかしきただお「ノンカー一家」③、「タロ坊」/11月 表紙・守礼門ほか/

1962年11月 「沖縄観光事業は有望」(写真・守礼門)

1963年 8月 とかしきただお「のんかー一家」/10月 とかしきただお「のんかー一家」、「結核予防シール」(写真・川平朝申とキャラウェー高等弁務官)

1965年 5月 とかしきただお「ターボー」~

1966年 1月 「中国古銭収集のジョン・A・ノバック」/12月 裏表紙写真「守礼門と夜空の花火」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

沖縄県立博物館「おきなわサンゴ礁ウィーク2014」



null

null

null

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
null


2016年7月8日ー左から宮城剛助氏、上間常道氏
上間常道
1983年4月 『言語』第12巻第4号 大修館書店□上間常道「沖縄1983-我が沖縄の10年」


写真左が上間常道氏、目取真俊氏

目取真俊
null
1987年3月1日『樹海1』(目取真俊・個人誌)/1985年9月『季刊おきなわ1』・1985年12月『季刊おきなわ2』

1989年6月『すくみち』第3号 「準備室の動きー6月1日、島袋正採用」
1990年3月『すくみち』第11号 「『琉球新報』3月13日ー『すくみち』10号を発行」(写真・仲原弘哲、仲里千恵美、島袋正)
1999年11月12日『琉球大学学生新聞』「2000年サミットと沖縄基地問題」
□目取真俊ー貴大学の高良倉吉先生のごとき御用学者は、『沖縄は主催者である政府の良いパートナーとしてサミットを成功させ、政府との新しい関係を築く布石として使えばいい。』(『アエラ』6/21号)などと述べていますが、いかにもマキャべリストらしい発言で笑止の極みです。(略)」

1998年『EDGE』№9 目取真俊「そこらへんをもっと、深めていかないと、高良倉吉みたいになるわけですよ。琉球王朝史観みたいなものを振りまわして、否定的な沖縄の歴史像に対し大交易時代の明るい俗受けするような歴史観をもってくる。しかし結局は現実主義の名のもとに政府の『沖縄政策』に対する批判力を失っていく。そういった危険性というのは絶えずあるわけです。」


写真左から上間常道氏、新城栄徳、大城光子さん
05:00有料
 戦後の沖縄芝居で一時代を築いた女性だけの劇団「乙姫劇団」のスターとして活躍した沖縄芝居役者で県指定無形文化財「琉球歌劇」保持者の大城光子(おおしろ・みつこ)さんが13日午前3時33分、病気療養中のところ新型コロナウイルス感染症のため、那覇市内の病院で死去した。88歳。那覇市生まれ。→2022年8月20日タイムス


1983年9月  沖映本館「瀬名波孝子芸道40周年記念公演」

瀬名波孝子/みつわ座

大城光子と瀬名波孝子

「みつわ座」正月公演ー写真前列右から嘉手川重夫、松茂良興敬、玉城初枝、北島角子、山城興松。後列右から中山幸四郎、瀬名波孝子、宮城亀郁

みつわ座(宮古興行)

» Read More