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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1953年1月、源和は東京の雑誌『おきなわ』に「ウチナー・ヌ・ハナシ」を書いた。同年3月に琉球評論社(平山源宝)から『政党を裁く』を発行。55年、源和は評論社を設け1月に『評論集・政界診断書』、4月に『沖縄から琉球へ』を刊行した。6月『話題』を創刊、創刊号の表紙は屋嘉澄子(琉舞の山田貞子門下)、源和は「空手雑話」、友を語るとして「桑江朝幸君」を書いている。同年8月、2号を発行。表紙は琉舞の上津真紀子。平みさを「南方おけ対策」、自己を語るとして比嘉秀平が「辞書をマル暗記」を書いている。話題アルバムには1898年の久孔子廟那覇尋常小学校分教場の写真、池宮城積宝や上原恵里が居るという。

『話題』3号の表紙は根路銘房子、上間朝久の「舞姫・根路銘房子嬢」、幸地亀千代「三味線と伴に五十年間」。4号は1956年4月発行で、表紙は安元啓子。話題アルバムには首里城正殿などの建物が爆撃直前に撮られた写真が載っている。永田芳子「女の幸福」、大城朝亮「辻ものがたり」、島袋光裕芸談、安里永太郎「金城珍善」、荻堂盛進「ヌード喫茶」、船越義彰「男・女・裸体」、赤嶺親助「戦塵訓」が載っている。5号は56年8月発行で、表紙は伊礼公子。玉城盛義芸談などがある。
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源和は1956年3月には『手紙』を創刊した。内容は手紙形式で質問、呉我春信、護得久朝章が答えている。教科書が手に渡るまでを当銘由金が答えて「戦前の教科書はご存知のように国定で全国一律。そのために新学期の4月には桜の未だ咲かない北海道の生徒達も、既に桜は散ってしまった沖縄の生徒達も口を揃えて『サイタ、サイタ、サクラガサイタ』を学ぶという変則的な教育を強いられて来ました。こうした教育法によって国民を戦争にかりたてた」とあり今の教科書検定問題の問題はこのときから準備されていた。戦争への反省どころか戦争準備の教育に余念がない文部省ではある。永田芳子「アメリカ便り」も載っている


1956年10月発行の『手紙』は軍用地問題特集で、「干拓事業は大資源の発掘である」、「セメント製造を急げ」の記事が載っている。今では温暖化問題もあり到底受け入れることの出来ない提案である。源和は1957年3月に『事業と人物』を創刊、宮城嗣吉邸宅、沖映本館を設計した宮平久米男の紹介、「1956年主要年誌」が付いている。58年4月、『オキナワグラフ』が創刊。同年、源和は琉球果樹園株式会社を創立し社長となる。


1960年10月、『琉球画報』が創刊。61年9月、琉球画報の編集長だった佐久田繁が玉城盛英を発行人とし『月刊沖縄』を創刊した。この年は他にも金城五郎の『沖縄公論』、金城宏幸『沖縄マガジン』の雑誌が創刊されている。62年11月の『月刊沖縄』に源和は「長老会議崩壊の底辺」、12月には「稲嶺一郎伝」を書いている。63年2月は月刊沖縄のインタビューに応じ「パクリ屋といわばいえ!」、5月の『月刊沖縄』に「瀬長亀次郎伝」を書いている。1968年、源和は本部開発株式会社を創立し会長となる。

1973年5月、源和は月刊沖縄社から『琉球から沖縄へ』を再版する。75年4月の『新沖縄文学』のインタビューに応じ「仲宗根源和氏に聞くー大正期沖縄青年の軌跡」として掲載された。

□仲宗根源和は1895年、本部間切渡久地で父源一郎、母うしの長男として生まれた。手元の「仲宗根門中世系図」に大宗が仲宗根親雲上で源和はその8世、妻のところには錦子、後妻ミサヲ、子はないとある。仲宗根源和は1938年9月に東京図書から『武道極意物語』を、43年11月、萬里閣から『武道物語』を出版した。


左から 仲宗根源和、大宜味朝徳、兼次佐一、瀬長亀次郎

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1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会「伊元富爾」
Category: 01-人物名鑑
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仲里正雄氏の塾でイギリス人で写真家、早稲田大学で英語を教えているジョナサン ガーナー氏に出会う。


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『ひめゆり部隊』より


石野径一郎 いしの-けいいちろう
1909-1990 昭和時代の小説家。
明治42年3月28日生まれ。大正15年に上京し,小学校教師,編集者などをつとめる。昭和17年歴史小説「南島経営」を発表。25年沖縄戦の惨禍をえがいた「ひめゆりの塔」を刊行,のち映画化される。沖縄と戦争を生涯のテーマとした。平成2年8月3日死去。81歳。沖縄県出身。法大卒。本名は朝和。→コトバンク
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創刊の挨拶は高嶺朝盛、岩原盛勝、神村朝堅と連名で行っている。

比屋根安定(左)と岩原盛勝


1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会「高嶺朝盛」

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1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会「島袋盛敏」

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1950年11月 仲井間宗裕『沖縄と人物』同刊行会「伊江朝助」

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編集を担当している伊佐榮二が粟国島出身なので以下のように粟国出身者が載っている。
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Category: 99-未分類
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Category: 99-未分類
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Category: 04-書の森
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大阪の沖縄関係資料室に守礼門の扁額「守禮之邦」の拓本がある。沖縄学の祖、伊波普猷は1932年10月『琉球新報』「『首里』の語源は結局わからないー東恩納学士の浦添旧都説を裏書きすべき一史料」の中で、尚眞王以前は瑞泉門が正門、守礼之邦の最初の意味は「首里親国」「しよりくに」とする。



改訂前のチラシ

1428(尚巴志7)年ー国門を創建す。傍に曰く、中山と(旧記に曰く、中山の2字は内官柴山進めて以って額と為すと)

1477年ー歓会門創建

1534年ー陳侃『使琉球録』「是の日黎明、世子、衆官をして館門の外に候たしめ、詔勅を導引して国に之く。国門は、館を距たる路三十里、山海の間に介在す。険側高卑斉しからず。砥の如く矢の如く能はず。将に国に至らんとす。五里の外に牌坊一座有り。扁して中山と曰ふ。此れより以往、路皆平坦にして九軌を容るべし。旁に石墻を壘ね、亦百雉の制の若し。世子、此に候つ。龍亭至りて、五拝三叩頭の礼を行い、之を国門に導く。門は歓会曰ふ」

1561年ー郭汝霖、李際春渡琉□『重編使琉球録』「国につくとき、その五里外に、一座あり、『中山』の額がかけられている。これから先は、道はすべて平坦で、九軌をいれることができる。道のかたわらは、石垣をつみあげて、百雉の制ににている。世子はそこ(中山坊の所)で待っていた」

1606年ー夏子陽『使琉球録』「吉日を卜して万暦三十四年七月二十一日に封王礼を挙行した。この日の明け方、世子は衆官をしてすべて吉服せしめ、天使館の外へ出迎えさせた。私は詔勅をささげて龍亭の中に安置したてまつり、国王と妃へ頒賜される服と物とを取って彩亭の中に置いた。儀注通りに国へ前導した。路の両側はすべて兵を並べて儀衛とし、隊伍を整えて立っていた。国は一里ばかりで、坊があり、その額に『中山』とある。ここから進むと首里坊である。現在は『守礼之邦』の額である。わが中国の声数の及んだことを記したのである。天使館から東へ行き、ここにつくと、地勢はやっと平坦となる。世子は守礼坊の下で出迎え、龍亭の到着を見るや五拝三拝叩頭の礼をおこない、国門へ案内した。門は『歓会』という」(原田 

1719年ー徐葆光、海宝が冊封で渡琉→□『中山伝信録』「中山王府ー坊牓があって『中山』という。道の南に安国寺がある。その向い側の町並の、切石を積んで削いだような石垣があるのが世子邸である。道の両側は、すべて切石の低い石垣で、高さは三,四である。道の真ん中に、蘇鉄の一叢があり、まわりを石で囲っている。更に進むと半里ばかりで坊牓があり、『守礼之邦』とある。中山王は、平伏して、詔をこの坊の下の道のかたわらで迎えた」(原田訳)

1731年11月ー『琉球国旧記』「坊楼ー1392年、閩人三十六姓を賜り、文教は大いに明らかとなり、礼楽は日々に新たとなり、中国同様の世となり、礼楽制度は中華とちがわなくなった。太祖皇帝は、これをおほめになり、『守礼之邦』と申された。後に、改めてこの額をかけた《昔は、いつもは『首里』の額をかけており、勅使がお出でになった時だけ、改めて『守礼之邦』の額をかけていた。近頃から、常時『守礼之邦』の額をかけている》。」(原田訳)


1756年ー周煌『琉球国志略』「世子は、衆官を従えて、守礼坊の外で平伏して(勅使を)迎える。龍亭はしばらくとどまる。世子と衆官は立ち上がる。天使は、前へゆき、龍亭の左右に分かれて立つ。引礼官が『排班』と唱える。世子は衆官を従えて、三跪九叩頭の接詔礼を行う。世子は前導して国門(歓会)を入り、正殿の下に立つ」

1853年6月ーペルリ、首里城訪問□→1926年10月ー神田精輝『ペルリ提督琉球訪問記』/1935年3月ー土屋喬雄『ペルリ提督日本遠征記』弘文荘/1947年2月ー大羽綾子『ペルリ提督遠征記』酣燈社/1962年6月ー外間政章『対訳ペリー提督沖縄訪問記』研究社/1985年10月ー金井圓『ペリー日本遠征日記』雄松堂

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1879年2月ー渡邊重綱『琉球漫録』「首里ハ主府ニシテ中頭省南隅ニアリ其地高燥十丁方余十七ヶ村ニ分ツ王城中央ニアリ西ニ面ス墻壁橋梁石ヲ畳ンデ造ル第一門ヲ中山ト曰フ(毎門名号ノ扁額アリ)第二守禮(守禮之邦明帝ヨリ贈ル)第三歓会第四瑞泉ー」



1905年
4月22日ー『琉球新報』籠城夫「嗚呼中山門ー嗚呼首里の生命」
4月27日ー『琉球新報』放浪生「嗚呼中山門」

1907年
12月18日ー『琉球新報』東恩納寛惇「守礼門考ー坦々たる首里街道の正面に千古の翠色を堪えて立っている守礼門は、今尚暗黙の裏に中山の古い歴史を語って居るが、其のささやきに耳傾けたものはいない。曾つて其下をくぐった長袖寛帯の支那人も、碧眼黄髪の西洋人も、乃至は肩で風切った薩人も、甚だしきは沖縄の物識先生も、皆此の活きた歴史に就いて表面の解釈を下しているに過ぎない。それが物数奇な旅行者の日記に書きこまれて諸方に撒き散らされ、沖縄を誤り伝ふる一の材料となっているー」

1908年
6月4日ー『琉球新報』「中山門の入札の結果ー仝門は一昨日正午十二時頃額面及び敷石を除くの外全部入札を挙行したるが入札者七名にて(略)首里区字寒川水旧三十七番地宮里加那が五十二圓二十七銭にて落札したる由」

1909年
7月11日~12日『琉球新報』東恩納寛惇「歴史的遺物の保存に就いて識者に協るー(略)吾々は昔中山王国の正門で有った処の中山門を、僅かに三十弐円の薪として売り払った者の罪を、天下後世に鳴らす積もりである。諸君、吾々は上下幾千年に亙る郷土の歴史を調べて、吾々が誠に優秀な国民で有ると曰ふ自覚の上に立って、自ら琉球人たる事を天下に名乗るを矜りとする者であるー」
12月ー東恩納寛惇『大日本地名辞書』(第二 琉球)「中山門跡」「守礼門ー中山門は、当初板葺なりしを、康煕二十二年瓦を以て覆ひたり、守礼門も同様なるべきか。○山里親雲上系譜云、康煕二十二年辛酉三月八日、修補中山門、任惣奉行職、此時改版木蓋以工瓦。-」

1917年8月ー親泊朝擢『沖縄県写真帖』(守礼門)

1919年8月ー『琉球案内』沖縄實業時報社(守礼門)

1920年9月ー親泊朝擢『沖縄県案内』(写真・首里守礼門)

1923年
6月ー眞境名安興・島倉龍治『沖縄1千年史』日本大学□「中山門ー球陽に云ふ宣宗使を遣はし、皮弁冠を賜ひ、並に生漆及び各色磨石を買はしむ。宣徳三年(尚巴志即位七年)創めて國門を建て、榜して中山と云ふと」「守禮之邦ー球陽天正七年の條に首里坊門の榜字を易へて守禮の邦といふとあり。蓋し本國支那に通じてより職を修め、貢を入れ、書を読み、禮を学ばしむ。仍って明の太祖称して禮義の邦と為す。嘉靖年間禮部奏して曰く、琉球は海中の諸國に在りて頗る守禮と称す。又尚永王封を受くるとき、制詔に云ふあり、世々職貢を修め、守禮の邦と称するに足ると。是に由り、王法司に命じ、始めて守禮之邦の四字を以て額と為す。然れども平常はただ首里の二字を用ひ、冊使賁臨に会する毎に守禮之邦の四字を以てするを例とすと。康煕二年(寛文三年皇紀二三二三)癸卯始めて榜字を定め守禮之邦と曰ふとあり」

1932年6月 『婦人公論』久志冨佐子「滅びゆく琉球女の手記」(カット・守礼門)

1940年
2月ー大阪戎座で「中山門建築史/ターバーゼーク」
10月ー日本民芸協会『工芸』百三号 柳宗悦□守禮門ー首里城の第2の坊門である。姉妹であった中山門が哀れにも破壊せら
れて了った今日、此の門が守護を受けて保存せらるるに至ったことは感謝の至りである。構造は支那に発するであろうが、よく咀嚼
して独自の風格を示した。結構、均等甚だよく、特に4個の脚柱に用いられた石材の形は見事である。此の門、最初は「賢待門」と
呼ばれ、後に「首里門」とも称へられ、又俗間「上の鳥居」とも「上綾門」とも云われた。前の大通りを此の門に因んで綾門大路と名
づけた。美しく彩られた門のある大通りとの意であろう。尚清王時代の建立と云うから、今から四百年を越える。

中山王国の幾多の歴史的場面は、此の門の前で行われた。一国の威厳を示した國門であって、幾度か冊封使は此の大門をくぐっ
た。かのペルリー一行を接し迎えたのも茲である。「守禮之邦」と題した扁額は、琉球の心を語るように見える。此の門を通して遠く
首里城の正門を臨む。繁栄な昔は去った。併し此の門が佇む限り日々新たなる遠来の客を集めるであろう。歴史は変わるとも文化
の跡を慕る心は人間あら消えない。首里城が保護せられ、修理せられ、整備せられるなら、此の古都に新な繁栄が来ないと誰が云い
得よう。

下は五姓田芳柳「藩使東上の図」
五姓田芳柳
生年: 文政10.2.1 (1827.2.26)
没年: 明治25.2.1 (1892)
幕末明治期の洋画家。江戸生まれ。本姓浅田,紀州(和歌山)藩士の子。5度改姓し五姓田と称した。幼名岩吉。歌川国芳,樋口探月に師事したのち,嘉永5(1852)年独自の折衷的洋風表現をあみだし,元治1(1864)年から横浜で肖像画を多く描いて一家をなした。このころの門下に山本芳翠などがある。明治6(1873)年浅草に移住し,ジオラマを制作,同年明治天皇像を描く。陸軍病馬院御用掛も務め,西南の役に際し大阪臨時陸軍病院に取材した「西南役大阪陸軍病院施術図」(東京芸大蔵)などの作品がある。次男義松,長女勇子(渡辺幽香)も洋画家。養子倉持子之吉が2世芳柳を名乗る。 →コトバンク

富安 路image(20120208-chihei 004.jpg|640|401|)<%

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詳細不明だがネット上に次の書籍が見える。富安路葭, 岡茂政著『筑後本吉清水観世音東山名所図会』昭和堂書店, 1931.5)<%


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1941年
10月ー加藤三吾著・早川孝太郎校訂『琉球の研究』文一路社□「中山門といふのは首里城の第一坊で、下のアエヂョウと呼び、明の宣徳三年に欽差正使柴山が尚巴志を冊封した時に、中山といふ扁額を携へて来て此門に掲げたのであったが、今は門と共に撤去された。守禮門は第二坊で、上のアエヂョウと呼び、明の嘉靖七年に尚清王が封を請うた時の創建で、初は扁額に『待賢』の二字を掲げてあったが、中頃に『首里』の二字に改め、冊封使の来る時のみは『守禮之邦』といふ金字の額を懸けて、左右の門柱には
    嘉慶丑年歳次庚申桂秋    廿有王承冊命    三十六島環中山    錦州李鼎元題
といふ聯床を垂れたのであった。しかし後には『守禮之邦』の大額を其儘に掲げて置くことになったので、今も観光者の最も嘱目するものの一になっている」

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02




1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社



1938年6月 『球陽ー百人百言集』大阪球陽新報社


瀬長良直
1892~1977(明治25.1.1~昭和52.4.22) 実業家。那覇市首里汀良町生まれ。三越百貨店常務、二幸専務を経て相談役。沖縄協会理事、沖縄振興開発審議会委員などを務める。→沖縄コンパクト事典


瀬長佳奈


1953年ー戦災校舎復興募金運動のため上京した沖縄教職員、PTAを迎えてー写真前列左から比嘉良篤、島清、仲本盛行、仲宗根玄愷、大浜信泉、東恩納寛惇、崎浜秀主、神山政良、高嶺明達。2列目左から伊元富爾、冨名腰義英、瀬長佳奈、豊田精三。後列左から与儀美登、石堂哲男、沢田朝序、新崎盛敏、喜屋武真栄、比嘉秀盛、屋良朝苗、牧志シズ、仲原善忠、仲吉良光、吉田嗣延。→1987年8月 東京沖縄県人会『三十周年記念誌』
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2014年2月28日 琉球新報ホール「第31回・東恩納寛惇賞贈呈式」後列中央が島村幸一氏、前左端が新城栄徳
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Category: 04-書の森
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2012年12月9日の15時、ジュンク堂那覇店1階エスカレーター横特設会場にて、佐藤学(沖縄国際大学教授)さんも交えて、「誤解だらけの沖縄・米軍基地」発売記念 特別講演会。

大浜聡氏、 野里洋氏、ビセカツさん

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写真上ー左から新城栄徳、窪徳忠先生、仲松弥秀先生、眞喜志康徳さん
写真下ー元沖縄都ホテル社長の桑原守也さん、京都西方寺の袋中上人手植えの蘇鉄を前に(新城栄徳撮影)
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2003年4月28日~5月15日 南風原文化センター「貧しくも楽しい『うちなー芝居』の時代」
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写真上左ー眞喜志康忠優、新城栄徳/写真下ー左、眞喜志康徳氏、新城栄徳、宜保栄治郎氏/右、新城栄徳、人間国宝の島袋光史氏(糸満和美撮影)

2015年4月 宜保栄治郎『軍国少年がみた やんばるの沖縄戦ーイクサの記憶ー』榕樹書林 (定価900円+消費税)
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1977年11月 沖縄の雑誌『青い海』12月号  68号 高尾芳太郎「山椒大夫と八重山乙女の詩歌」

1978年10月 沖縄の雑誌『青い海』  77号 高尾灯童「神をめざした『逆転』」
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1979年6月 沖縄の雑誌『青い海』7月号 84号 新垣宗堅「不思議な女の言葉からー自己との対話ー」


新垣宗堅氏から頂いたもの

03/24: 平良幸市

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1994年12月 『土着の人ー平良幸市小伝』平良幸市回想録刊行委員会(代表・瑞慶覧長方)

平良幸市 たいら-こういち
1909-1982 昭和時代後期の政治家。
明治42年7月23日生まれ。戦後,生地沖縄県西原村の村長をへて,昭和25年沖縄社会大衆党結成に参加し,初代書記長,のち委員長をつとめる。また27年より琉球立法院議員。47年の沖縄の日本復帰後,県議会議長をつとめ,51年県知事となった。昭和57年3月5日死去。72歳。沖縄師範卒。→コトバンク
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家族写真

  
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1950年ごろー左から西銘順治、平良幸市、平良辰雄夫妻


1958年ごろー山田真山激励訪問、前列左から安里積千代、山田真山、平良幸市、山城善光

1959年1月『オキナワグラフ』「社大党ー中央に平良幸市」

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1960年6月ーアイゼンハワー米大統領来沖、握手する平良幸市


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1962年10月ーキャラウエイ高等弁務官①と
①第三代高等弁務官
ポール・W・キャラウェイ中将1961年2月-64年7月
【プロフィール】
1905年アンカーソー州ジョンスボロー生まれ。
陸軍省参謀本部、中国戦線の米軍部隊の計画部長などを務めた後、同部隊の副参謀長、軍事司令官に就任。戦後、ワシントンD・Cの陸軍本部では作戦担当の参謀次長室計画部部長、韓国在留の米第七歩兵師団の軍事司令官、東京の在日国連軍並びに米極東軍総司令部の参謀長補佐等を歴任し、58年、ワシントンD・Cに戻り米統合参謀本部と統合戦略調整委員会の陸軍側委員を務める。
【主な仕事】
最も長期に渡り在任した。キャラウェイ旋風と呼ばれるほど強烈な個性を印象づける。
この時期、日本政府の沖縄への関わりが目立ちはじめるほか、住民の自治権拡大の要求、復帰運動が高まる。しかし、弁務官は離日政策に終始したため住民から反発を招く。また、金融機関や政界に幾度となく介入し、峻厳な施策を執る。→「沖縄県公文書館」



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比嘉春潮を迎えて

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青島幸男②と
青島幸男 あおしま-ゆきお
1932-2006 昭和後期-平成時代の放送作家,政治家。
昭和7年7月17日生まれ。テレビ放送の草創期に放送作家,俳優などとして活躍。昭和43年参議院全国区で2位当選(当選4回)。二院クラブに属し,庶民の視点から金権政治を批判。56年「人間万事塞翁(さいおう)が丙午(ひのえうま)」で直木賞。平成7年東京都知事となる。11年退任し,以後タレント活動を再開。平成18年12月20日死去。74歳。東京出身。早大卒。→コトバンク


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瀬長亀次郎と
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
書斎探訪ー奥田良寛春氏
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写真上ー左から奥田良寛春氏、新城栄徳


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写真ー前列左から奥田良寛春氏、仲松弥秀氏/後列左から真喜志康徳氏、久手堅憲夫氏

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
ブログで球陽書房の画像を検索すると昔と変わらない懐かしい店構えで出てくる。私が最初に球陽書房で買った本は『乱歩随筆』である。ラベルは円形、1967年であった。

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仲宗根将二『沖縄県・宮古史料の旅』(1995年5月)に、在京史料機関をたずねてー沖縄文献委員会史料調査の旅(1986年11月)と題して「同夜は夕食後、琉文手帖の新城栄徳氏のよびかけで、高円寺の球陽堂(ママ)書房に古本さがしに出かけた。『平良市史』はじめ県内各市町村史がすべてといっていいほど店頭をかざっていることには、さすが沖縄関係専門店と感じ入ったものである。県内ではすでに見当たらなくなった『与那覇邑誌』など数冊を買い込んだ」と記されている。

西平守良氏筆跡の年賀状/1974年12月30日『沖縄タイムス』「話題の広場ー『沖縄書籍』専門店経営の西平さん」null


2000年1月発行の河内紀『古本探偵』北宋社を見ると「生演奏つきの古本屋さん」として球陽書房が出てくる。
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1978年11月 沖縄の雑誌『青い海』78号 永峰真名「メヒカーノスになった沖縄人ーメキシコにいきる人たちを訪ねて」



手前左が永峰眞名さん
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1938年『琉球新報』「令女考現学」
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新島正子さん

写真左から由井晶子さん、新島正子さん、新城栄徳

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当時はアメリカが軍国主義教育がされてないか「検閲」した。今はアメリカも文部省と組んで軍国主義教育を推し進めている。面白いと云えば面白いのだが・・・・・。
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3月22日14時~15時半 沖縄県立博物館・美術館アトリエ「しまくとぅば

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2012年1月29日ー左から、金城美奈子さん、筋原章博大阪市大正区長、内山泰博課長、金城馨氏


2012年10月28日14時~ 「八重山民謡としまくとぅば2」沖縄県立博物館・美術館民家


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「沖縄そば」資料
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1983年7月 『なにわ今昔』毎日新聞社


1987年11月 『大阪春秋』通巻51号/1972年9月 大阪府写真師協会『大阪写真百年史』


1987年11月 『大阪春秋』通巻51号 佐々木豊明「大阪の写真大尽 光村利藻」

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1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図会』東陽堂
『風俗画報』は1889年に創刊された。出版元の東陽堂は1876年、東京日本橋で吾妻健三郎によって創業された。後に吾妻と同郷(山形米澤)の縁で渡部乙羽が入社する。乙羽は後に出版社博文館の婿に入るまで『風俗画報』に健筆を揮った。1889年には沖縄県七等属の石沢兵吾が東陽堂から『琉球漆器考』を刊行した。

1901年2月ー写真集『旅野家都登』第35号(琉球之巻・中山門、守礼門)□発行所は光村利藻。光村は1893年に慶応義塾入学、そこで渡部乙羽、巌谷小波と親しく交わる。
     12月ー田山花袋編『日本名勝地誌ー琉球之部』博文館(写真・中山門


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写真左から宮城義弘氏、芝憲子さん、加勢俊夫氏、新城栄徳


写真左から松下博文氏、新城栄徳、宮城義弘氏、芝憲子さん


芝憲子さんと鹿野政直氏、夫人の堀場清子さんと芝さんは『いのちの籠』同人である。

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1960年10月に『琉球画報』が発行人・大城一男、編集人・佐久田繁で創刊された。このころのことを佐久田は1981年2月の『青い海』の座談会で「僕はその頃『琉球画報』の編集長をしていたが、どうしても『オキナワグラフ』に太刀打ちできないんです。いっそ潰して『沖縄マガジン』のような雑誌に切り替えろと提案するんだが聞き入れてくれない。そこで画報社を辞めて独立した」と述べている。画報は63年2月まで発行されていた。大阪連絡所は西平守晴宅であった。


1961年3月 『琉球画報』4月号 編集発行人・大城一男 琉球画報社 那覇市松尾194-1 印刷 東京・(㈱)太陽印刷工業□表紙・
(上原実コレクション)








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写真左から大城立裕氏、新城栄徳、木崎甲子郎氏


1981年6月 『新沖縄文学』48号 木崎甲子郎「複合体うちなあ論」/1985年6月 『新沖縄文学』64号 木崎甲子郎「ザ・クロス21世紀への予感②未来も捨てたもんじゃないー豊富な海洋・地下資源」
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1983年4月 沖縄の雑誌『青い海』122号~129号 外原淳「手づくりおもちゃの世界」
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①BOOKS じのん営業時間:9:00~20:00、年中無休
〒901-2215沖縄県宜野湾市真栄原2-3-3TEL:(098)897-7241 / FAX:(098)898-7039
E-Mail:info@jinon.ginowan.okinawa.jp




沖縄の雑誌『青い海』が並んでいる

2014年3月 うる文化協会『琉球・島之宝』創刊号 天久斉「古本屋が見た『青い海』」

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2013年12月23日 県民広場の座り込みテントの前で久貝氏がビラ(下)を丁寧に撒いていた。かつて東京での沖縄青年運動で活動家として名を馳せていた人物である。null

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12月24日は私も知人が居たので古堅実吉氏の隣りに座り込んだ。森氏も激励に来ていた。



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名城政次郎氏ー2013年1月17日・自宅近くの沖縄県立博物館・美術館入口の民家前



1978年5月 青い海創刊7周年記念レセプションで、左から津野創一、山城賢孝、二人おいて名城政次郎

1985年5月『オキナワグラフ』「尚学院 名城政次郎さん」
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明視堂
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沖縄尚学高校ロビーの二宮金次郎像は1935年に明視堂の山下悳三が那覇市内の8小学校に寄贈したものの一つだろう。山下は1917年にも真教寺幼稚園児に飛行機などの玩具80個を贈っている。なお悳三の子息・山下育三氏は那覇市で老舗「鶴丸弁当」を経営している。


写真左から山下育三氏、荻堂盛進氏
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1975年5月 『眞』№1 発行人・比嘉康助



1975年5月 『眞』№1 発行人・比嘉康助
□山川岩美「序文」/レス・ウィズナー/水島源光/石井春雄/平井順光/比嘉康助

1977年7月 『眞』№7 発行人・比嘉康助
□山川岩美「随想・光の中の動き」/岩宮武二「風蝕岩」/清岡惣一「亜熱帯の植物」/水島源晃「慶良間カツオ」/平井順光「HERLL GIRL!(PACIFIC MIDDLE SCHOOL)」/名渡山愛誠「人ばなれの島」/比嘉康助「島のハーリー」/国吉和夫「在沖米軍(2)」/津野力男「マチ小漫歩」/岩尾克治「沖縄角力にふるさとをみる」レス・ウイズナー「帰路」
□’77年のドキュメンタリーフォト
比嘉康雄「33年の時間」/国吉和夫「マリン隊の実弾演習」/比嘉康助「公用地法期限切れ」/岩尾克治「カデナ米軍基地」/山川元亮「やんばる」/伊元源治「組踊・執心鐘入り」/久高将和「無題」/奥平かずお「断層”宮古島”」/親川澄子「隣りのおばあちゃん」/嘉数繁光「休日」/島袋良雄「ウンジャミ」/上原謙次「夏の港」
□フォト眞掲示板
「第29回沖展ー3-29~4-3首里高校」「立木義浩写真展ー4-7~4-11 デパートリウボウ」「松村久美写真展ー沖縄タイムス第二ホール」「第一回コマーシャルフォート展ー沖縄物産センター画廊」「久高将和・親川スミ子二人展」「ヘビ類写真コンテスト」「第22回写真連盟展ー山形屋」「沖縄大学写真クラブ習作展ー沖縄タイムス第二ホール」「写真ひろば・あーまん写真展」「平良孝七写真集・パイヌカジー木村伊兵衛賞受賞祝賀会ーゆうな荘」「第76回 九州写真師大会」「3-25 篠山紀信 潮の琉球料理取材で来沖ー3-26安木屋ホールで講演」「沖縄写真師連合会定期総会」「レンズでさぐるカメラマンツアーかりゆしの島大撮影会」「全6-19日本写真連盟沖縄支部結成!ー西武オリオン」「ペンタックスファミリー沖縄支部結成記念」「」

1979年2月 『フォト真』第10号 発行人・比嘉康助
□特集・イザイホウ
  久保田博二「久高島・イザイホウにて」/比嘉康雄「ナンチュ」
  東松照明+比嘉康雄「祭を記録することの意味」
  川平幸雄/平井順光/大嶺信雄/比嘉康助
  文・世禮茂彦+写真・比嘉康助「古琉球における祭祀の名残り」
□比嘉清真「那覇にて・サバニ」/金城ありさ「御願・このあと大騒ぎ」/仲栄真孝昭「裸馬競争」
 真喜志康高「沖縄・退屈な風景」/糸数昌松「琉装の女」/与座一夫「兵士」/島袋清志「屋根」
□作久田繁「この一枚ー私の人生を変えた川平先生との出会い」
□水島源光「裏街点描」/名渡山愛誠「御願所」/津野力男「GHOST TOWN(ニューコザ)」
 国吉和夫「OKINAWA MARINE」
□山川岩美「季節の窓・変質する沖縄の社会」/「サークル短信ーふうちばあ党/フォートクラブカデナ」
□写真クラブ名簿/写真関係者名簿
    


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安室孫盛
安室孫盛を検索すると、講談社のデジタル版 日本人名大辞典の解説に次のように出ている。
田部久 たべ-きゅう
1906-昭和時代の教育運動家。
明治39年生まれ。昭和5年新興教育研究所設立に参加し,中央委員となる。7年新興教育同盟準備会を結成して書記長となり,検挙される。戦後は教員組合運動をすすめた。沖縄県出身。首里中学卒。本名は安室孫盛。著作に「無産少年運動」。

1961年9月発行の「大琉球」(観光映画シリーズ三部作)には編集発行人として奈良三郎とある。
□目次
森政三「復元した守礼之門」/式場隆三郎「琉球の旅」/松本俊夫「琉球の祭りについて」/芦間冽「沖縄の祭り」
奈良三郎「復興する固有の文化」/南風原英佳①「この風土に育つ生きもの」/寺西春雄「交響曲・大琉球(三楽章)について」
田辺尚雄「琉球音楽の位置」/奈良三郎・南風原英佳「おもろ談義」/藤島宇内「沖縄が映画を作るしごと」/本田安次「沖縄舞踊の特色」/芦間冽「映画化される群星」

1975年11月『青い海』47号「安室孫盛ー映画で”沖縄”を撮りつづけてー再び沖縄の植民地解放宣言をー」

1992年9月9日『八重山毎日新聞』に「安室孫盛を語る展ー今日から13日まで労働運動家の一生(石垣市立図書館展示室)」とし、友寄英正氏の斡旋で東京在住の安室孫盛の長男・奈良一郎氏から同氏の図書や諸資料など4百余が市立図書館に贈られたことで企画されたという。安室のペンネームは北村、奈良など。


①1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「南風原英意」

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久茂地文庫(喜納勝代 ☎098-994-6162)



喜納勝代
1965年2月ー喜納勝代『歌集ゆうとい』日本文芸社

1971年8月15日ー『婦人と文化』編集発行人・喜納勝代
□徳田安周「その愛唱曲『ユリデーチェ亡き日に』」

□川平朝申「伊平屋島と私ー私が幼い日の古里」

1973年5月ー喜納勝代『歌集おなり神』新星図書

1976年10月27日ー久茂地文庫開設

写真・久茂地文庫で、右端が真喜志康徳氏、4人目、屋部公子さん、喜納勝代さん
1978年5月ー久茂地文庫1周年記念文集『照千一隅』

1979年10月26日ークラフト國吉ギャラリー「くもじぶんこ 愛の手づくり展とブックフェアー」

1980年10月ー『図書館雑誌』喜納勝代「街の小さな文庫 久茂地文庫のあゆみから」

1982年8月ー久茂地文庫、糸満の喜納の実家に移転

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1974年2月 永山絹枝『沖縄の民芸ー玩具』新星図書

1972年 うりずん若夏社『LOGOS』
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1984年10月 新崎盛珍『瞻雲閑語』/1956年2月 新崎盛珍『思出の沖縄』


左が新崎盛珍/右が息子の新崎盛敏、著に『原色海藻検索図鑑』北隆館 昭和39年初版


1974年 沖縄の雑誌『青い海』6月号 霜多正次「ウチナーとヤマトゥ」



霜多正次 しもた-せいじ
1913-2003 昭和後期-平成時代の小説家,評論家。
大正2年9月5日生まれ。第二次大戦後,新日本文学会にはいる。米軍占領下の沖縄をえがいた長編「沖縄島」で昭和32年毎日出版文化賞。新日本文学会をはなれ,40年日本民主主義文学同盟設立につくす。46年「明けもどろ」で多喜二・百合子賞。平成15年4月16日死去。89歳。沖縄県出身。東京帝大卒。旧姓は島袋。評論に「文学と現代」など。(コトバンク)


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2014年月3月23日『新報小中学生新聞ーりゅうPON!』新城俊昭/島袋百恵 絵「阿波根昌鴻」
阿波根昌鴻 あはごん-しょうこう
1901-2002 昭和-平成時代の反戦運動家。
明治34年(戸籍は明治36年)3月3日生まれ。郷里沖縄県の嘉手納(かでな)農林中退後,大正14年からキューバ,ペルーで移民生活をおくる。昭和9年帰国,伊江島で農業に従事。戦後一貫して,米軍の土地収用に対する反対闘争を展開。59年反戦平和資料館「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)の家」を建設。平成14年3月21日死去。101歳。著作に「米軍と農民」。→コトバンク




1994年3月 沖縄県地域史協議会『あしびなぁー伊江島特集』呉屋周子(那覇市史)「阿波根昌鴻さん」

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1989年11月16日『琉球新報』「熊本大学五高記念館から琉球風俗絵巻が見つかる」

1989年11月16日『琉球新報』「熊本大学五高記念館から琉球風俗絵巻が見つかる」。私は当時『琉球新報社史』を手伝っていたので、記者から写真を貰った。上段は尾類馬の行列であった。



国会図書館の「琉球風俗図」の首里城①首里城正殿前の龍柱は正面向き ②1882年3月に首里城が陸軍省所轄永世保存城となり熊本鎮台分営が置かれた。入り口に鎮台兵が立っている。熊本のものは鎮台兵は描かれてない③重修天女橋碑記


1926年5月29日『沖縄タイムス』


復元された重修天女橋碑記

上は国立国会図書館の風俗画(国立国会図書館ホームページで「琉球風俗図」検索で見ることができる。)/1976年2月 田中俊雄・田中玲子『沖縄織物の研究』紫紅社)で国会図書館のものを引用。

1989年12月 『琉球大学附属図書館報″ぶぶりお〝』より

上記の絵巻は池宮正治琉大教授によって1989年12月発行の『琉大附属図書館報″ぶぶりお〝』で紹介された。また琉球新報発行の『新 琉球史』の表紙や挿絵にもなっている。


1936年12月3日~『琉球新報』「那覇 今と昔」絵・友寄親雲上、写真・本社写真部、文・山里永吉


八重山の桃林寺にある友寄喜恒 画「十王図」

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『琉球の文化』第四号
特集Ⅰ 琉球の伝統芸能
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2002年5月 東京国立博物館『東京国立博物館図版目録』カラー図版で友寄喜恒「ジュリ図」、モノクロで「按司夫妻図」「田舎婦女図」が載っている。翌年の12月、浦添市美術館発行『東京国立博物館所蔵 琉球資料展 琉球・沖縄へのまなざし』の表紙は友寄喜恒「ジュリ図」、カラー図版「花鳥図」「按司夫妻図」、「田舎婦女図」が載っている。




女性史資料

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序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山城正忠
序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・世禮國男
序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松根星舟
自序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川島涙夢
短歌

創作 
感想
先輩知友言葉集ー新垣金造・村会議員「・・弟のために種々御世話なし下さった山城正忠先生、上里堅蒲先生、世禮國男先生、國吉灰雨兄、宮里静湖君、其の他の方々に謹んでお禮を申し述べて此の稿を擱筆する次第である。」
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山城正忠「旅塵抄」

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GHQのマッカーサー夫人招待で琉舞を披露ー後列左端が山入端つる、一人おいて児玉清子、右端は渡嘉敷守良


左から渡嘉敷守良、三笠宮・同妃、児玉清子、池宮喜輝



2005年5月 『沖縄演劇界の巨匠 渡嘉敷守良の世界』渡嘉敷守良記念誌編集委員会(代表・當間一郎)
1914年8月1日『琉球新報』「琉球歌壇ーらくこう」
球陽座を見て 
渡嘉敷の黒島王の怒りたる眉/ここちよき舞台のあかるさ/琴の手の指の白き鮮やかに/若き遊女のほれる仲井間/鉢嶺の白き額に宿りたる/恋と忠義の泣かまほしけれ/ヒステリーの遊女もそっと眼を拭ふ/心中劇の面白さかな/誰さんと共に来たのか三桝木の/四等美人のカマダ小がゐる/大見謝は悲しからずや道化たる/下男役して蹲踞ゐる/
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写真左からー岸本一夫氏、與那原慧氏、神山泰治氏、宮城篤正氏

沖縄の雑誌『青い海』岸本一夫「表紙絵」
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1964年10月『今日の琉球』岸本一夫「スポーツの秋」
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1960年11月 塔文芸同好会 文芸誌『塔』創刊号
ー創作ー
霧の告発・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福地恒夫
灰色の生誕祭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マキシ康陽
ある手記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮本春正
ー論壇ー
琉球方言に於ける副詞「ウシマサ」について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉亀盛
古典解釈への琉球方言の適用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嘉味田宗栄
「毛遊び」についての一考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比嘉得正
ー紀行文ー
奄美駆けある記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上江洲均
ー感想文ー
武者小路実篤について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・知念輝明
菊池寛の「形」を呼んで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・土岐直邦
ーエッセイー
ゆめの散歩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・当山全次
酒飲みの独白・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・喜瀬真一
小説雑感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・シロマセイコウ
思うこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・与座ヤス
下町の蚊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三木健
煩悶の記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡名喜興憲
ー創作ー
半影の中で・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新里和伸
酩酊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村忠

カチャシー
編集後記
表紙絵・題字・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嘉味田宗一
扉カット・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安里英二

1961年3月 塔文芸同好会 文芸誌『塔』第二号
1961年10月 塔文芸同好会 文芸誌『塔』第三号
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1962年4月 塔文芸同好会 文芸誌『文芸沖縄』第四号

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1977年1月 沖縄の雑誌『青い海』60号 金城次郎「やちむんむつかしいさ」



2014年3月9日『新報小中学生新聞ーりゅうPON!』新城俊昭「人ものがたり/沖縄発の人間国宝 金城次郎」

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1979年10月ー『沖縄の名匠 金城次郎陶器作品集』沖縄タイムス社

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1966年12月ー神山邦彦『辻情史』神山青巧舎
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神山邦彦(久米蔡氏1894年~1977年)/著書


1930年12月ー喜納緑淳・津嘉山栄興画『沖縄童話第一編・犬と猫』印刷・神山青巧堂

1984年3月 沖縄の雑誌『青い海』130号 「カラーグラビア/ジュリ馬まつり」


□1970年11月 有川董重『歓楽郷 辻情話史集』沖縄郷土文化研究会
□1971年8月4日『沖縄タイムス』阿波根朝松「『辻の今昔』と著者」





2012年1月6日~2月29日 那覇市歴史博物館「辻の歴史と文化~料理・芸能・エトセトラ~」


2013-8『戦前の沖縄観光~ディスカバー・オキナワ~』
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辻遊廓
戦前の沖縄観光において辻遊廓は重要な役割を担っていました。昼間、県内各地の観光名所を巡ったあと、夜は辻にて料理や舞踊を楽しみました。名所旧跡以外の観光スポットが少ない当時、辻が料理・音楽・舞踊といった沖縄文化の提供地となっていました。また、観光パンフレットやお土産用の絵ハガキに辻の女性の起用や、「那覇飛行場開き」といったイベントで辻の「美妓」によって、出店の飲食物が来場者に振舞われることもありました。当時の辻の女性は現在でいう観光キャンペーンガールの役割を果たしていました。

2014年2月18日~5月11日 沖縄県立博物館・美術館「三線のチカラー形の美と音の妙ー」
□三線をひくジュリの絵も展示されている。



沖縄の文化表象に見るジュリ(遊女)の諸相
場所:沖縄県立博物館・美術館
日時:2014年3月8日(土) 14:00-18:30






2014年3月17日『沖縄タイムス』崎原綾乃「唐獅子ー遊郭」

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1969年8月 山里永吉『松山王子尚順遺稿』(㈱)第一法規出版


写真ー尚順(昭和14年)


写真ー尚順と柳宗悦(昭和14年)

尚順の「鉄斎コレクション」

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2016-11-29 あけみ

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壺屋やちむん通り会「壺屋の+プラス」



2014年3月『ニッコール年鑑』「山田實」


左から島袋捷子さん、仲嶺絵里奈さん、金子隆一氏

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写真ー桑江良行
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「戦後沖縄におけるトライアングルコンタクト-美術と工芸の1945~1955-」

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はしがきー私が「おもろ」の研究会に出席して感じたことは、おもろの中にわからないことばがたくさんあることである。そのことばもおもろのできた当時は使用していたであろうが、今日では死語となり、その意味さえわからなくなっている。琉歌もこれと同じように、数百年も経ったらわからなくなることばができるであろう。今でさえわからなくなりかけている語もある。してみれば、琉歌もわかっているうちに、書き残して置かねばならないと思う。それがこれから琉歌を研究したいという人のために、やっておくべき責務ではないだろうか。

1969年4月  見里朝慶『琉歌の研究Ⅱ』(㈱)琉球文教図書
はじめにー私は「沖縄の文化」は日本文化の源流をなすものではないかと常常考えている者の一人である。例えば言語にしても包丁のことを、青森や長崎では「ほうちゃ」というそうで、沖縄では「ほうちゃう」といっている。また井戸のことを、伊豆の大島では「かあ」といっているが、沖縄でも同じである。それから木で丸く作った洗濯器のことを沖縄では「はんじり」といっているが、鳥取や千葉や宮崎辺ではこれを「はんぎり」といっている所があるそうだ。このように言語も中央(当時は京都)から遠く離れた所では、まだ昔の語がそのままに残っているのではないか。「沖縄語」と「日本語」と類似点があることを指摘して、言語の上から日琉同祖論を称えた向象賢のことは周知の通りである。かかる意味で私は琉歌と和歌との間にも言語上、あるいは思想上のつながりがありはせんかと、万葉集・古今集・新古今集その他特に古い文献と比較してその具体的な実例を見出すことにした。それでこの歌集にも、万葉集は勿論、古今集、新古今集、拾遺集、千載集などから、また古事記、日本書紀などに載っている歌など5、6首を出してある。

また琉歌は解釈の上から、まちまちの説が多く、これが定説だというべきものがないのである。これが定説だといっても果たして納得がいくかどうか、それでこれに定説を与えるのは困難である。そこで私はいくつもの説を出すことにした。どの説を取ろうとこれは読者の判断にまかせたい。いろいろの説を多く取ったつもりであるが、もれた所があるかもわからないのでそれは補ってもらいたい。その為この中に引例してある琉歌は外に59首ある。私の琉歌は首里を中心にしてある。それで歌詞では地方と違う所があるかも知れないと思う。その点も注意して呼んでいただきたい。
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1935年5月ー稲垣國三郎『敵艦見ゆ-沖縄五勇士』盛運堂□→1935年8月『琉球新報』稲垣國三郎「『敵艦見ゆ』の上演されるまでー曾我廼家五郎と沖縄五勇士劇」
1935年12月ー『琉球新報』「在阪沖縄県人3万の指導へ南島会の奮起!稲垣校長も激励ー在阪教育家を以って組織する南島会では去る7日午後7時から此花区宮居町ときわ亭で忘年会を兼ねて第6回総会を開いた。愛日校長稲垣國三郎氏、関西球陽会より豊川忠進、我喜屋宗信、真栄田勝朗らが招待された」

1936年1月22日、稲垣國三郎が台南丸で来沖。

先日の『琉球新報』に琉球大学図書館で沖縄芸能写真が出た記事。その中にドイツのトラウツ博士夫妻が宮古の「博愛碑建立60周年式典」で1936年に来沖したとき那覇の安慶名徳潤宅での集合写真が掲載されていた。のちに『大阪球陽新報』を創刊する真栄田勝朗も居る。ほかに下地玄信、又吉康和、島袋源一郎、新垣松含、新垣芳子らが居る。安慶名徳潤(1954年1月15日没)、又吉康和は後の那覇市長である。

ここでトラウツ博士夫妻の来沖の経緯を記す。大阪の愛日小学校校長の稲垣國三郎が1936年1月下旬、久松五勇士慰問のため宮古に赴いた。そのとき博愛記念碑を見て、博愛碑が60年になることで何かこの美談を世上に紹介しようと思いついた。期せずして沖縄の宣伝と日独親善にも寄与すると考えた。大阪に帰り、宮古出身の下地玄信に協力を求めた。下地は当時国際親善協会大阪本部の責任者でもあったので4月中旬に上京、この参事の肩書でドイツ大使館、外務省、参謀本部、陸海軍、文部の関係機関を訪ねた。大々的に挙行せよと外務省後援の承認と激励を受けて19日帰阪した。

4月22日、野村ビル有恒倶楽部に在阪沖縄県人有志、豊川忠進、我喜屋宗信、平尾、稲垣らが参加し意見交換をした結果、主催者を沖縄県、宮古教育部会とし外務省、東京、大阪の日独協会、日独文化協会、日独文化研究所などを後援者にして小委員に稲垣、下地、豊川、阿嘉、真栄田勝朗が推挙された。この日はオブザーバーとして来阪中の又吉康和琉球新報主筆、座安盛徳沖縄朝日新聞記者も参加した。5月下旬、稲垣、下地は相携えてカシワの会理事長の有沢博士、日独協会会長の佐多博士に協力を求めると即座に予算を書面で示せと好意的な対応。即日、堂ビル清交社で稲垣、下地、真栄田が記念事業9項目、壹万圓の予算を編成した。

6月中旬、下地玄信は再び上京、関係官庁並びに地方長官会議で上京中の蔵重知事、伊江男爵、仲宗根玄 らを訪問。6月19日に下地事務所で協議会、主催者を宮古郡教育部会にとどめ、沖縄県ほかは後援者と正式決定する。この後も下地は5度目の上京。東京のドイツ文化研究所から文化資料提供、また神戸のドイツ国立観光局からは観光宣伝フイルムとポスターが貸与された。安慶名宜良も寄付金集めの功労者である。10月26日夕刻に委員一同が阿倍野斎場前の石屋に行き竣工の石碑を見る。次いで阿部野橋の富士屋食堂で最後の打合せを行い特派委員、歓迎方法の決定をした。

10月31日、京都からトラウツ博士夫妻が来阪、午後12時半に堂ビル清交社で神戸のドイツ副領事シュマルツ、日独協会の佐多博士、カシワの会の有沢理事長、大阪総領事館廣江通訳官、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞記者、委員側7人が出席し午餐会。

1936年11月11日『琉球新報』「海と空から力漲らせ/日独親善の使節来県/トラウツ博士一行を迎えて飛行場に歓呼の嵐」□10日トラウツ博士夫妻を迎える「空の港」那覇飛行場は日独親善に密接な関係を持つ外務省の二見孝平、沖縄県知事代理の佐藤学務長、那覇市長代理の當間助役、横田特高課長、鈴木兵事課長、照屋前那覇市長、山城二中、粟屋水産校長、又吉康和琉球新報主筆、真栄田勝朗ら女性たちも交じって午後1時から次々と自動車で集まった。更に日の丸旗、ハーゲン・クロイツ旗を持った小禄尋常高等小学校児童も参集、飛行場は近来にない賑わいを呈した。午後2時にダグラス機が到着、トラウツ博士、続いて下地玄信、トラウツ夫人が飛行機から降りてきた。

11日、トラウツ夫妻、下地玄信、真栄田勝朗、外務省の二見事務官が同行し島袋源一郎、古川体育主事の案内で午前中は那覇市役所、沖縄県庁訪問。午後2時は首里城視察、晩は風月楼で知事、首里・那覇両市長、沖縄教育会長発起による官民合同歓迎会。12日に宮古へ出発した。

1936年11月17日『海南時報』(石垣町)□13日大濱記者宮古発ー国際愛の金字塔!日章旗とナチス旗/感激と興奮のるつぼ/隣郡宮古の盛儀・13日朝、有田外相代理外務省文化事業第3課事務官・二見幸平氏、駐日独逸大使代理トラウツ博士、ヘルダ夫人、通訳・津田松苗氏、知事代理・佐藤学務部長一行を案内して明知支庁長、在阪計理士の下地玄信氏が湖北丸で午前9時来郡した。漲水港は萬船飾の発動機船が歓迎をなし発動機競争をなしつづいている。那覇より平山裁判所長、照屋前那覇市長、山城二中・崎浜商業・脇屋水産各校長、仲里視学、照屋林顕、大舛警部、与那原那覇市収入役、比嘉大毎、豊平大朝、仲宗根沖朝、志良堂毎日、佐々木沖縄日刊、真栄田琉球各新聞記者、天野春吉諸氏の顔も見え桟橋は郡内官衛長官、各校長、有志六百余名が出迎え。

201110・10那覇大空襲の日である。近松門左衛門の墓は菩提寺、尼崎・広済寺と、妻側の菩提寺の大阪・法妙寺に建てられ、共に夫婦の戒名が刻まれた比翼墓である。法妙寺は大空襲で焼失し大東市に再建され、後に墓だけが元の場所に戻された。近松の墓を見て、西鶴の墓がある誓願寺を訪ねる。戦災で本堂も繰りも焼けたため、一時途絶えた時期もあったが、毎年9月には「西鶴忌」が行われる。西鶴の墓は1887年を前後する頃、誓願寺境内の無縁墓に押し込められていたのが発見された。境内には、大坂に於ける私立学問所「懐徳堂」を140年余にわたり経営し、江戸時代大坂の文教の発展に貢献した、中井一族の墓がある。→稲垣國三郎にも『中井竹山と草茅危言』(大正洋行1943)の著がある。


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Category: 01-人物名鑑
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写真ー矢野克子



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2014年3月2日『新報小中学生新聞ーりゅうPON!』新城俊昭「人ものがたり/ウルトラマンの脚本家 金城哲夫」


1992年8月 山田輝子『ウルトラマン昇天ーM78星雲は沖縄の彼方』朝日新聞社/1999年10月 上原正三『金城哲夫 ウルトラマン島唄』筑摩書房

金城哲夫 きんじょう-てつお 1938-1976 昭和時代後期の脚本家。
昭和13年7月5日生まれ。34年円谷(つぶらや)英二に弟子入りし,41年からテレビのウルトラマンなどの「ウルトラ」シリーズの脚本・監修を手がける。44年幼少期をすごした沖縄にもどり,沖縄芝居の作者や監督をつとめ,50年の沖縄国際海洋博の式典の演出を担当した。昭和51年2月26日死去。37歳。東京出身。玉川大卒。→コトバンク




1981年9月 『嘉手納農林昭六会誌』ーこの本は天野鉄夫さんから頂いたもので中に松川寛保氏が「戯曲・天衣無縫 六幕」で天野さんのコレクションを紹介している。金城忠栄氏が「我が人生のドラマ」で息子の哲夫のことにふれている。

Category: 02-関西の沖縄
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1972年2月号『青い海』10号 「若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」

□ここで資料の内容の一部を紹介しよう。開設当時200冊足らずだった書籍・雑誌は、現在約3200冊。新聞や週刊誌などのスクラップが300冊。沖縄に関する資料については、関西隋一と言われる。▽人物関係ー「謝花昇伝」「平良辰雄回顧録」「伊波普猷選集」などの伝記、回顧録、全集もの。▽市町村関係ー「北谷村誌」「南大東村誌」 比嘉景常「久米島紀行」など。▽歴史関係ー「沖縄県史」(直接主席から贈呈される。関西では天理図書館と資料室ぐらいだろうとの話) 伊東忠太「琉球建築」 田代安定「沖縄結縄考」 金城朝永「異態習俗考」や戦史・戦記もの。▽文芸関係ー「山之口貘詩集」「新沖縄文学」や大城立裕、石野径一郎、霜田正次、石川文一などの諸作品。▽芸能関係ー「組踊大観」「工工四」など。▽政府刊行物ー「立法院議事録」 白書類。▽ミニコミー「沖縄差別」「石の声」「沖縄月報」「寮友」「琉大文学」や本土各大学の県学生会の機関誌・パンフなど。▽地図ー「首里古地図」その他。これらの資料を整理したり、購入したり目録をつくるなど、一人でするにはたいへんな仕事である。西平守晴さんは保育園の仕事もあり忙しいので、現在もっぱら新城栄徳君(23)が動きまわっている。



1978年 沖縄の雑誌『青い海』1月号 №69「近畿八重山郷友会」

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Category: 04-書の森
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平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」null
右の電報は青い海出版社から「息子誕生」の祝電である。

Category: 04-書の森
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マンガ青年・仲宗根正順
1969年4月ごろ、沖青友の会会員の高幸雄(21)にこんな相談がもちかけられた。「マンガの勉強をしていた兄が、アパートを出たまま1年以上も行方がわからない。なんとか協力してくれないか」

そのマンガ青年が、宮古出身の仲宗根正順さん(当時26才)だった。具志川から出てきた妹さんの訴えによると、仲宗根さんは、働きながらマンガを勉強、マンガ同人誌「フェニックス」を編集していた。ところが、69年5月中旬、大阪・吹田市のアパートから突然姿を消し、1年以上も行方がわからない。妹さんは大阪で働きながら、友人関係などを訪ね、さがしまわったが、手がかりさえつかめないという。

沖青友の会は、仲宗根さん捜しに会員全員でとり組んだ。マンガ雑誌や新聞に投書をしたり、全国の沖縄関係者に協力を呼びかけた。3万円近く集まったカンパでチラシをつくり、目抜きの交番に貼った。刑事まがいの聞き込みをして歩いたりもした。毎日新聞が、社会面トップで仲宗根さんの蒸発を伝えると、文字通り全国から多くの反響が寄せられた。

だが、仲宗根さんは自殺をしていた。吹田署が改めて身元不明の変死体を調べたところ、69年5月15日夜、市内の道路ワキで石油をかぶって焼身自殺した青年が、持っていた部屋のカギから、仲宗根さんにほぼ間違いないと確認したのである。悲しいことだったが、もし沖青友の会がとり組んでいなければ、仲宗根さんは永遠に無縁仏となっていたかもしれない、と思うと『ボク達が役にたてた』という自信も湧いてきた。

(略)大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。全国には、おそらく10余のグループがあるのではないか、という。(会長の)嘉陽君らは、思想、信条の違いがあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。(沖青友の会連絡先・大阪市港区市岡元町2-16-3、程野方、嘉陽宗博)

『青い海』マンガ関係目録
1971年4月 創刊号 マンガ「仲宗根正順遺作展」/5月 第2号「仲宗根正順遺作展②」、きしゃばせいじ「マンガ」/6月 第3号 仲宗根正順「マンガ・ぜいたくはすてきだ」
8月 第4号 仲宗根正順マンガ/毛利泰房「青い海漫画集」/9月 第5号 砂川しげひさ「マンガ寄らば斬るド」「漫画家・砂川しげひさ」/10月 第6号 読者のページ まえむらいくお「マンガ・しまった!」/11月 第7号 きしゃばせいじ「マンガ」/12月 第8号 当間直己「漫画アンデパンダン展」、前村郁夫「マンガ・星を見ないで」



砂川しげひさ

1972年1月 第9号 たらま由紀夫「マンガ・ガールハント」、山里和男「マンガ」、仲本エイ子イラスト・嶋美枝詩「夕暮れ」(あしあと3号)、へしきよしのり「マンガ・ラブレータ」、石川文一・柳光観画「三山の覇王」/2月 10号 当間直己「マンガ・魚の愛情?」、平敷善和イラスト・弦子詩/3月 第11号 大嵩茂芳「マンガ・先生と生徒」、きしゃばせいじ「マンガ・サッカーク」、具志堅正雄「マンガ・コンピューター時代」/5月 第12号 新屋敷幸繁・安室二三雄え「民話の沖縄」/6月 第13号 きしゃばせいじ「現代くん」、真栄城徳秋「マンガ」/7月 第14号 へしきよしのり「頑張らなくっちやあ漫画青春」/8月 第15号 伊波南哲「庶民の描いた美しい夢と諷刺」

1972年5月 青い海出版社『はだか沖縄』六月社(大阪)□へしきよしのり・あすなろプロダクション「蟻ーありー」

1973年12月 第28号 「グラビア守礼門」

1974年12月 第38号 津野力男『表紙写真「守礼門」

1975年9月 第45号 おおば比呂司「あわもりの酔心地」

1977年6月 第64号 安良城考「目次イラスト」/8月 第65号 安良城考「目次イラスト・カット」、具志堅政正「ありったけの地獄ー沖縄戦を描く」/9月 第66号 波平やすし・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし・アカインコ」/10月 第67号 登野城匠・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし」/11月 第68号 登野城匠・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし・ニヌファブシの娘」/12月 第69号 登野城匠・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし・お正月の猫」

1978年1月 第70号 座間味朗・安良城考イラスト「沖縄昔ばなし・はなよめ石」/4月 72号 安良城考「目次イラスト」/6月 第73号 中城健吉・安良城考イラスト「創作沖縄昔ばなし・双子王子」

1983年8月 第125号 へしき・よしのり・琉漫画工房「黒潮源流」/12月 第128号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」④

1984年1月 第129号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」⑤ 3月 第130号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」⑥ 4月 第131号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」⑦ 6月 第133号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」⑧ 8月 第135号 スタジオ南洋少年・へしきよしのり「黒潮源流」⑨ 9月 第136号 へしき・よしのり・スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑩ 10月 第137号 へしき・よしのり・スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑪ 11月 第138号 へしき・よしのり・スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑫ 12月 第139号 スタジオ南洋少年「黒潮源流」

1985年3月 第140号 スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑭ 4月 第141号 スタジオ南洋少年「黒潮源流」⑮ 7月143号 へしき・よしのり・琉漫工房「黒潮源流」


『今日の琉球』マンガ(挿絵)目録
1958年 12月 目次絵「コマまわし」、真栄城勇「B円切手とドル切手」、「守礼門復元落成」

1960年 11月 徳田安周「沖縄千一夜」⑮とかしきただお挿絵、保志門幸子「スクちゃん」(4コマ、60年9月から)

1961年6月 金城康雄「ホンワカ君」/7月 とかしきただお「ノンカー一家」③、「タロ坊」/11月 表紙・守礼門ほか/

1962年11月 「沖縄観光事業は有望」(写真・守礼門)

1963年 8月 とかしきただお「のんかー一家」/10月 とかしきただお「のんかー一家」、「結核予防シール」(写真・川平朝申とキャラウェー高等弁務官)

1965年 5月 とかしきただお「ターボー」~

1966年 1月 「中国古銭収集のジョン・A・ノバック」/12月 裏表紙写真「守礼門と夜空の花火」

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1972年12月、『青い海』第19号□西平守晴「混迷する県人会」□新城栄徳、新里金福と関広延対談をセットする。

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1973年5月 沖縄の雑誌『青い海』関広延×新里金福「対談/沖縄県の可能性とは何か」


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沖縄県立博物館「おきなわサンゴ礁ウィーク2014」



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写真左から大田昌秀氏、平山良明氏、元『青い海』編集発行人の髙江洲義寛氏






1984年 雑誌『青い海』№135 平山良明「キジムナーの話」





左から平山良明氏、屋良健一郎氏、波照間永吉氏
2014年3月9日『沖縄タイムス』屋良健一郎「論壇ー表現力に富む伊波瞳第一歌集『サラートの声』ースケール大きくチャレンジも」


西里喜行氏と伊佐眞一氏

佐野眞一氏の顰に倣って、仲井真知事の経歴に触れようと思ったがネットで流す自体が品格(そんなものは持ち合わせてないが)に欠ける。もうひとつの理由は、仲井真知事や自公が悪いんでなく、それを選んだウチナーンチュが一番悪いと気づいたからである。高江洲義寛氏や友人たちがNHKのテンペストに関して批判を展開している。ことに西里喜行氏は八重山地区の教科書問題に通底するものと断定しておられる。八重山は中山義隆石垣パクリ市長を選んだことに起因する。選んだのは石垣市民である。災い(基地攻撃、テロなど)があれば当然に報いは石垣市民が受ける。
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2014年2月28日 琉球新報ホール「第31回・東恩納寛惇賞贈呈式」
池宮先生の大学教授時代、私は大阪で色々な「短冊」など入手するとコピーを先生に送り解読してもらったりして面倒をかけたこともあり参加した。会場には旧知の知人が大勢みえた。第27回・東恩納寛惇賞受賞者の仲宗根将二氏から「宮古郷土史研究会会報」、先生孫弟子の綱川恵美さんから「<日記>史料からみる渡唐儀礼」を恵まれた。会場に榕樹書林・武石和実氏が居たので例のジュリに難しい字を当てているのは何故かと聞いた。「尾類」は差別だという。歴史的に差別は現にあって戦前の新聞などでは使われているのも歴史的にも事実だ。今の安倍政権やНHKと、仲井眞カジノチジも沖縄戦に慰安婦など「負の歴史」の隠蔽(秘密法)に繋がり危険だ。現在のНHKは何やら意図があるらしくどうでもいい安倍首相の発言を丁寧にニュースで報じているようだ。その結果、八重山では尖閣問題では右翼団体の幹部とも同席した石垣パクリ市長が再選された。見え透いたオベンチャラテレビより2,3の週刊誌が報じている「子が居ない安倍首相の嫁姑バトル」のほうが面白いし健康的な明るい話題である。





祝辞を述べる第一書房代表の村口彌生さん


安座間本流清風一扇会


粟国恭子さん、池宮正治氏、新城栄徳、崎原綾乃さん


伊佐眞一氏と田名眞之氏



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1983年9月  沖映本館「瀬名波孝子芸道40周年記念公演」


大城光子と瀬名波孝子

「みつわ座」正月公演ー写真前列右から嘉手川重夫、松茂良興敬、玉城初枝、北島角子、山城興松。後列右から中山幸四郎、瀬名波孝子、宮城亀郁

みつわ座(宮古興行)

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