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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

琉歌百控乾柔節流ー1795年((尚薀王)に偏された百節にのせて歌うために選ばれた琉歌集。
1,嘉謝伝風節  あた果報の附す 夢やちゃうん見ぬ 嘉謝手報のつくへ 混と附さ
  朝夕我願や 事々や思ぬ 命果報重幸 あらち給れ

「琉歌百控」にある「嘉謝伝風節」の歌詞「あたガフヌ・・・カジヤディスヌ・・・」の漢字表記。
『南島歌謡大成 Ⅱ』(外間守善 角川書店 1980年)
 p35 「嘉謝伝風節」の掲載がある。それによると表記は、「あた嘉報の附す 夢やちやうん見ぬ 嘉謝手報のつくへ 混(へたと)と附さ」となっている。
『新日本古典文学大系 62』(岩波書店 1997年)
 p392 「嘉謝伝風節」の掲載がある。それによると表記は、「あた嘉報の附す 夢やちやうん見ぬ 嘉謝手報のつくへ 混と附さ」となっている。(レファレンス協同データベース)


Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
与世山彦士、漢那憲和らの世話で13歳年下の島晴美と結婚
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右の色紙は山城正忠に贈ったもの。
与世山彦士(1868年8月28日ー1986年)那覇久米町に生まれる。祖父・振升、父・大成で久米毛氏。小学校は大阪、中学は東京海城の出身。
1920年5月ー『彦士歌集』雑草詩社/このころロシア出身のエリアナ・パヴロワ①に入門、洋舞を研究する。

①1899年(明治32年)3月22日、ロシア・サンクトペテルブルクの貴族の家庭に生まれる。
母・妹とともにロシア革命から逃れ、ヘルシンキ、ハルビン、上海を経て、1920年(大正9年)に日本に入国する。翌1921年(大正10年)、小山内薫が所長を務める東京市本郷区(現在の文京区本郷)の「松竹キネマ研究所」が製作したサイレント映画『君よ知らずや』の主演に抜擢される。1927年(昭和2年)、神奈川県鎌倉郡腰越津村七里ヶ浜(現在の鎌倉市七里ガ浜東)に日本初のバレエの稽古場を開設、東勇作、橘秋子、貝谷八百子、近藤玲子、大滝愛子、島田廣、服部智恵子らを育てた。1937年(昭和12年)、日本に帰化した。→ウィキペディア

1940年12月ー東京から大阪へ「のぼる喫茶店」開業
1958年ー『詩集やどかり』与世山彦士バレエ研究所/1959年ー『童謡集 尾鷲鳶』与世山彦士バレエ研究所
1963年ー『短歌集 母神』

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1987年8月ー9月『沖縄タイムス』幸地建一「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記」/幸地記者がこの連載企画を話したとき真っ先に紹介したのが比嘉正子さんと島晴美さんであった。

1987年5月21日『沖縄タイムス』幸地建一「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記/人類館事件


1988年3月4日『沖縄タイムス』幸地建一「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記/大阪粟国村人会」

2014年8月29日 現在の幸地建一記者
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
ブログ「石垣島の石碑・説明看板(市街地)」に「八重山キリシタン事件殉教の地」の碑がある。説明文に□一六二四年に石垣島冨崎の沖に漂着した宣教師ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父によって八重山にキリスト教がもたらされ嘉善姓一門を中心にひろまったが国禁であるキリスト教を信仰したとして「八重山キリシタン事件」と呼ばれるキリシタン弾圧事件がおこった。一六二四年、宮良親雲上永将は首謀者として当地(オンナー)において焚刑に処せられ、財産は没収。子孫は波照間島や与那国島、宮古島に流された。ルエダ神父は、琉球王国に連行されたのち粟国島へ流刑となり、そこで殺害された。
 
一六二九年にはトマス・デ・サン・ハシン西六左衛門神父が日本への密航の途中に石垣島に立ち寄り、永将の弟宮良頭の永弘や大城与人安師と接触したとして翌年ふたりは琉球王国へ連行された。永弘は渡名喜島へ流刑となり、一六三五年に焚刑に処せられるが、安師は慶良間島へ流刑となった後に赦されて帰島する(一六四二年)。さらに、一六三八年には宗門改めの踏み絵により永将の弟の宮良与人永定がキリシタンとして永将同様当地(オンナー)で焚刑に処せられた。この一連の事件は薩摩侵入(一六〇九年)後の琉球唯一のキリシタン弾圧による殉教事件である。

                                     二〇〇四(平成一六)年十月二二日(旧九月九日)  嘉善姓一門会
                                       □この碑は桃林寺の西方(79線沿い(新川54番地)にあります。

ルエダ神父の殺害場所については異説もあるが、其れはさて置き「ルエダ神父殉教碑」というのは沖縄には無い。粟国教育委員会が事実関係や、神父の故郷を調査して粟国の海岸、渡名喜島が見える場所に殉教碑を建立すべきと思う。石垣永将については、『沖縄大百科事典』に高良倉吉氏が書いている。それによると永将の屋敷跡はのちに蔵元となり、現在は沖縄県八重山支庁・石垣市立八重山博物館が建っているという。1997年2月、カトリック神言修道会司祭の青山玄氏が『石垣永将の殉教ー琉球最初のキリシタン』(聖母文庫)を出され、ルエダ神父について詳しく紹介されている。

□フアン・デ・ロス・アンヘレス(天使たちのヨハネの意)・ルエダ神父は1578年頃スペイン北部のブルゴス県ヴィリャサンディノ村に生まれる。両親の名前は不詳。1590年9月にはドミニコ会のカエタノ学院生徒。1603年、ドミニコ会司祭となってヴィリャドリドのサン・バブロ修道院にいた時「ロザリオの聖母管区」のための宣教師募集でメキシコのサント・ドミンゴ修道院に落ち着いた。メキシコに5カ月滞在した後、1604年、マニラに到着。同地で開催された管区会議で日本に任命され、7月に甑島の長浜村に着く。1606年2月、川内町の京泊村に移る。1607年、肥前国浜町の教会に任命された。そして迫害下の潜伏活動を経て、1620年12月に長崎を出発、マニラのサント・ドミンゴ修道院病室に落ち着く。

ルエダ神父がいつ処刑されたのかは不明だが、前述した西神父の追記には、粟国島でmuchos meses(多くの月)滞在していたように書かれており、この漠然としたスペイン語の表現は、日本語の「数か月」と「二、三年」乃至「数年」との間の期間を差すと受け止めて良いと思われるから、少なくとも1624にではなく、その翌年か翌々年頃と考えてよいであろう。
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

歌誌『冬柏』(1930年3月~1941年11月)と山城正忠
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1936年11月『冬柏』山城正忠「旅に籠りて」
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1935年5月『冬柏』久地楽軌「与謝野両先生」

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1941年2月『冬柏』田中悌六「山城正忠像」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
粟国/ソテツ2014-8






粟国小中校の二宮金次郎像と蘇鉄






   

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02






番屋跡(遠見台)
粟国村で一番高い場所にあり、昔々は番屋遠見台として、異国船が近海を通る時に慶良間諸島にタイマツで告げ首里王府に知らせた場所。












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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

粟国名所の洞寺のことは末吉門冬も随筆で、「昔一人の僧が、この島に漂着し、件の洞中に自然に削り立った仏像のような、三箇の岩石を発見した。僧はこれを以て、弥陀・薬師・観音だと信じ供養し、自らもこの窟内に寓った」と『土俗と伝説』(1919年)に紹介している。1905年3月、粟国島に来島した菊池幽芳はその紀行文に「平常口にするところのものは即ち蘇鉄の幹より製せる粗悪の澱粉 (略)内地にては犬も食わぬ食物なり」と記し、大阪の乞食のほうが贅沢だという。しかし、島は年中暖かい。今は東京、ニューヨークといった都会の方がホームレスで溢れ、しかも凍てつく冬もある。
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洞寺1967

洞寺2014-8

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洞寺1997
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洞寺1997







洞寺2014-8

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Category: 04-書の森
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ソテツの葉は唯一の燃料。下葉を刈り取っているところ

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島の西側にある貯水池

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野良帰り。頭上にはソテツ葉、芋などを載せている。

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石三つのカマド。石三つのカマドにはソテツ葉の燃料が似合う

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貴重な水。井戸は島内に8ヶ所しかない。左右に水タンク(屋号イムイ)


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村役場横の梯梧の大木

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戦後、米軍がつくった横断道路。私にとっての歴史の道とは、粟国島の字東の自宅から村役場の横のデイゴを見ながら通った小学校への道、そしてその先の浜(港)から那覇の泊港に向かう船のことである。

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新城栄徳の生家,水タンクが見える。/馬小屋


2008年1月ー『字浜誌』同編集委員会
          写真/字浜航空写真4、字浜くし組倶楽部、           字浜いり倶楽部、字浜前組共励会集会場、
          現在の海岸のようす、ミナト・海岸のようす、
          ウガンジュ4、ハマ(みなと)5、屋宜大ヤー、
          旧郵便局(1950年建立)、電話開通式、
          旧正月ー山内大ヤ-での祝いの舞い、
          
          大阪粟国村人会30周年記念会員名簿  


粟国港(山田實・撮影)



08/28: 粟国/②

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浦崎春雄作成「粟国民俗地図」











糸洲家の仏壇と当主、下ー当主の祖母と叔母

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08/28: 粟国/①

Category: 04-書の森
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Category: 02-関西の沖縄
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上記の記事を書いてくれた沖縄タイムス関西支社の記者・石原英夫さん(右)と新城栄徳



石原記者が書いた人物紹介「儀間比呂志」「金城実」「赤嶺一茂」「仲村嘉永」「大阪事務所ー喜屋武盛栄、平良幸子」「国場将豪」「南沙織」「川根建江」「がじゅまるの会」「沖縄関係資料室」「比屋根毅」「普久原朝喜」「平山敏治郎」「井伊文子」・・・・・・

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

蜂須賀正氏 はちすか-まさうじ
1903-1953 昭和時代の動物学者。
明治36年2月15日生まれ。もと阿波(あわ)徳島藩主の蜂須賀家18代。フィリピンなど海外の鳥類や絶滅鳥ドードーを研究。日本生物地理学会会頭,日本鳥類保護連盟会長などをつとめた。昭和28年5月14日死去。50歳。東京出身。ケンブリッジ大卒。著作に「世界の涯(はて)」など。→コトバンク ○戦争末期には自家用機で日本脱出を計画して問題となったり、子爵高辻正長と共謀して白金の密輸に関与した廉で検察の取調べを受けたりするなど醜聞にまみれ、「醜類有爵者」と嘲笑された。密輸の件では1945年5月10日に国家総動員法違反容疑で起訴。1945年7月28日、敗戦直前に爵位を返上して平民となる。戦後は、在米中に結婚した智恵子夫人との壮絶な離婚訴訟や、遺産相続の揉め事、財宝の行方不明事件、横井英樹への貸し金をめぐる訴訟などで週刊誌に数多くのゴシップを提供した。昭和14年(1939年)3月10日、永峰智恵子(日系アメリカ人永峰治之長女、明治42年(1909年)1月20日生 - 平成8年(1996年)5月27日没)と入籍、長女正子(蜂須賀家17代当主、昭和16年(1941年)1月7日生)が入る。○事件の顛末ー1958年(昭和33年)6月、安藤組安藤昇組長は、三栄物産代表取締役・元山富雄から、「昭和25年(1950年)に蜂須賀元侯爵が、年2割金利で東洋郵船社長・横井英樹に3000万円を貸し付けた。3000万円のうち2000万円が未払いになっている。蜂須賀元侯爵夫人が訴訟を起こして最高裁で勝訴したが、1年を過ぎても横井英樹からの支払いがない。横井英樹から2000万円を取り立ててほしい」との依頼を受けた。1958年6月11日午後3時、安藤昇(当時32歳)は、元山富雄とともに、銀座8丁目の第2千成ビル8階にあった東洋郵船本社を訪れ、横井と交渉したが、横井は支払いを拒否した。同日午後7時10分、安藤組赤坂支部・千葉一弘(後の住吉会住吉一家石井会相談役 当時25歳)が、東洋郵船本社の社長室に押し入り、横井をブローニング32口径の拳銃で1発銃撃した。横井は右腕から左肺と肝臓右を貫通し右わき腹に達する銃弾を受け、意識不明の重体に陥った。千葉一弘は逃走した。→ウィキペディア
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山田實「根路銘房子」


1956年6月13日『琉球新報』

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山田實「志田房子」

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2014年7月5日~9月3日 那覇市歴史博物館「あの頃の国際通り 国際通り物語Ⅱ」


2014年7月27日 山田實さん、昭和初期の那覇市の模型を見る。


1998年1月 大濱聡『沖縄・国際通り物語ー「奇跡」と呼ばれた一マイルー』ゆい出版

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雑誌『あんとろぽす』は、1946年から1948年にかけて通巻9号まで、山岡書店から出版された雑誌です。
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2014年7月26日~9月7日 とまりん3階「海洋堂フィギュアミュージアム」
ホビーの歴史を変えた世界的模型メーカー・海洋堂の作品4000点が沖縄に上陸!最新のフィギュアからプラモデル、食玩・・・造形の50年史がここにある。
【会期】7月26日(土)~9月7日(日)
【会場】とまりん3階特設会場
【開館時間】午前10時~午後6時

1928年 宮脇修 高知県黒潮町に生まれる。
1943年 宮脇修 15歳の時、中国で敗戦を迎える。
1946年 宮脇修 18歳で日本引き揚げ、マグロ漁船乗組員、広告会社勤務など30余りの職を転々とする。
1957年 宮脇修一 大阪府守口市で生まれる。


1964年 大阪府守口市の京阪土居駅近くに一坪半の模型店「海洋堂」オープン
1967年4月 海洋堂『海洋』VOL1NO2
1968年12月 海洋堂『海洋』№3

1976年 宮脇修一 クジラが好きで東京水産大学に入学

1983年    海洋堂ホビー館『ARTPLA』創刊号





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2014年8月14日『沖縄タイムス』「魚眼レンズー三越最後の個展に寂しさ/新城征孝さん」










2014年8月23日14:00 沖縄県立博物館・美術館コレクションギャラリー3「アーティストトーク/新城征孝」 

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1990年10月 『宮城与徳遺作画集』沖縄タイムス社
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1991年9月 『「宮城与徳遺作展」那覇展報告集』/1997年6月15日『沖縄タイムス』「鶴谷壽神戸女子大学教授が与徳と夢二親交の裏付け写真発見」

1928年、ロサンゼルス美術館前で後列右端が宮城与徳、中央が伊波普猷

尾崎秀實 英子の墓→島袋和幸撮影
多磨霊園【ゾルゲとその同志たち】碑には以下の人名が刻む
ゾルゲ,リヒアルト 1944.11.7刑死(巣鴨) 、河村好雄 1942.12.15獄死(巣鴨) 、宮城興徳 1943.8.2獄死(巣鴨) 、尾崎秀実 1944.11.7刑死(巣鴨) 、フランコ・ヴケリッチ 1945.1.13獄死(網走) 、北林とも 1945.2.9釈放の二日後死 、船越寿雄 1945.2.27獄死 、水野 成1945.3.22獄死(仙台) 、田口右源太 1970.4.4歿 、九津見房子 1980.7.15歿 、川合貞吉 1991.7.31歿

1972年3月 フックス①/安田徳太郎②訳『風俗の歴史』角川文庫

①エドゥアルト・フックス(Eduard Fuchs 、1870年1月31日-1940年1月26日)は、ドイツのマルクス主義者・風俗研究家・収集家。南ドイツのドナウ川沿岸のゲッピンゲン市に生まれる。20歳頃から社会主義運動に参加し、1894年には『階級闘争』という詩集を出版した。1895年に「ミュンヘン・ポスト」紙の編集部が発行する『南ドイツ郵便馬車』という社会主義の政治風刺雑誌を手伝い、同じ年の5月に編集を任されている。この号はドイツ発のカラーの絵入り雑誌として発行され、通常2500部の売り上げが60000部に跳ね上がった。最初のカリカチュア研究である『カリカチュアに見られる1848年』と『フォールメルツのダンスの理想、カリカチュアにおけるローラ・モンテス』という論文をある雑誌に発表したところ、後者が皇室の名誉を毀損したとして、バイエルン政府から不敬罪により起訴され禁固10ヶ月を言い渡され服役した。その後ベルリンに出て本格的にカリカチュアの研究に取りかかり、眼病に悩まされながら膨大なコレクションを集め著述を行った。1933年にヒトラーが政権につくと、その弾圧にあい、その年の5月に国境沿いにスイスに逃亡した。この際フックスのコレクションと著作は没収され、焼却された。最終的にはパリに亡命し、その地で生涯を終えた。→ウィキペディア

②安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - 1983年4月22日)は、医者、歴史家。京都市生まれ。京都帝国大学卒。在学中から従兄の山本宣治の産児制限運動に関わる。さらに無産運動に関係し、医師としてこれを支援。1933年、共産党シンパとして検挙され、1942年、ゾルゲ事件に連座。 また、唯物論的科学思想史の研究を行い、フロイトの翻訳などをする。 戦後は『人間の歴史』や『万葉集の謎』(「日本人の歴史1」)などで歴史家として著述活動を行った。→ウィキペディア□松本三益「安田は1941年10月 宮城与徳、尾崎秀實らの一斉検挙と共に検挙され、軍事機密に関する情報を宮城与徳に提供したと自供し治安維持法、軍機保護法、国防保安法の三つの罪名で起訴されたが予審調書では治安維持法で起訴され1943年7月保釈になり1944年3月6日懲役2年執行猶予5年の判決をうけている。安田の反共デマ」記事については自由法曹団の松井繁明弁護士、坂本修弁護士、守屋典郎弁護士連名で取り消しを要求したが返事がなかった。




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Posted by: ryubun02
1959年7月『オキナワグラフ』「あなたも狂人になる」
1960年4月『オキナワグラフ』「カラー 春をよぶジュリ馬」
1962年8月『オキナワグラフ』「売り出されたオキナワストリップ」「気狂いに遭えぬ日はなし 那覇の街」 



●関連資料ー1949年12月 『うるま春秋』創刊号

1949年12月 『うるま春秋』創刊号 発行人・池宮城秀意 編集人・仲村渠致良 印刷人・久高唯澤


琉球新報新聞博物館

●関連資料ー1949年2月 『月刊タイムス』創刊号
1949年7月 『月刊タイムス』「第一回沖展をみる」
1949年8月 『月刊タイムス』活字印刷・沖縄タイムス社
1951年7月 『月刊タイムス』□休刊の辞ー月刊タイムスは、今月(7月)號を以て一先ず休刊することになりました。顧みますと本誌の発行は1949年2月、終戦後の出版事情が最も困難を極めた時であった。今日に至る2年有半は随って本誌にとっては苦難の途であり、新聞の発行と軌を一にして終始茨の途を辿って遂いに本號迄に通算30號を数えたわけであります。それにしましても今回休刊の止むなきに至りましたことは最もわれわれの遺憾とするところであり、その點、今迄御愛讀の榮を賜った讀者の皆様に對しては何とも申譯がなく、深くお詫びするしだいであります。本誌が発足するに當ってその編集の方針は飽く迄新聞社の発行になる月刊誌としてふさわしいものにしょうと努力もし、犠牲も覚悟したことは云う迄もありません。しかも微力の致すところ諸設備の不整備、人手不足、加うるに本年初め急激に悪化した用紙事情のため我々として急速に本誌の一時休刊を計る必要に迫られたわけであります。今後は本誌の持つ文化的使命を本紙(沖縄タイムス)に生かし倍旧の力を傾けたいと思います。この點本誌の休刊を最初にして最後の「一粒の麥、地に墜ちずば」たるに外ならぬことを期したいと念ずるものであります。  沖縄タイムス社月刊タイムス編集部

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Posted by: ryubun02
1939年8月3日 春陽会の鳥海青児①、山川清②、前田藤四郎③、浮島丸で来沖 大嶺政寛が出迎え



鳥海青児
1939年(昭和14)37歳
 1月15日、美川きよと結婚し、新居を麹町区六番町1-5にさだめる。
 3月、第17回春陽会展に《蘇州風景》《塹壕のある風景》《楊子江と漢陽の街》《支那の家》《蘇州風景》《蘇州小景》を出品。
 7月、神戸から那覇、首里、糸満と沖縄旅行。山川清同行。滞在中は春陽会の大嶺政寛の世話をうける。沖縄からかえって数カ月後、二度日の中国旅行で北京、天津、張家口、熱河などへ。
 この頃から日本の古美術の収集をはじめ、まづ初期肉筆浮世絵に興味をもつ。

 *琉球の墓の立派な事は聞いて居たが、そのすばらしさには驚嘆した。日本のどこを歩いても、こんな堂々としたリズムカルな、しかもプラスチックな強い風景には行きあたれない。画家も随分行つて居るはずだが、どうして手をつけないのだらう。(略)内地のお化臭いしめつぽいお塞から推してはまるで想像出来ない。ローマの遺跡にでも立つて居る様な景観であつた。(「琉球風物記」)
 *僕は昨年あたりから、どんな風の吹きまわしか浮世絵にこりだしました。我家の珍宝は今の所これ一つ、これからうんと集めたいと思つて居ります。(《十家十宝録》で初期肉筆寛文舞踊図について、『第十八回春陽会パンフレット』)→「三重県立美術館」


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ちょうかいせいじ【鳥海青児】 1902‐72(明治35‐昭和47)
洋画家。神奈川県平塚市に生まれる。本名正夫。関西大学在学中の1923年,第2回春陽会展に初入選し,三岸好太郎,横堀角次郎らと麓人社を結成して絵画修業にはげむ。岸田劉生の感化をうけて草土社スタイルの土着的な作品を描くが,30年に渡欧し,おもにモロッコ,アルジェリアに滞在,その体験とゴヤの作品に魅了されて画風を一変する。《闘牛》をはじめ滞欧作23点を33年第11回春陽会に出品。その後,38,39年に中国旅行を試み,日本の古美術に対する関心を深め,鑑識眼の高い蒐集家としても知られる。 →コトバンク

山川清
没年月日:1969-11-09
春陽会会員の洋画家山川清は、11月9日腸ヘイソクのため阪大病院で死去した。享年66才。明治36年6月14日大阪市に生まれた。大阪府立北野中学在学中から赤松麟作に石膏デッサンの指導を受け、同中学先輩の佐伯祐三につれられて初めて油絵の道具を買いそろえたという。
4年生2学期から兵庫県西宮市今津町に新設された私立甲陽中学に転校し、同校を卒業した。まもなく美術学校受験のため上京、川端画学校に学んだが病気になり中断し、以後滝の川に画室を建て独学した。大正12年大震災を機に東京を引き払い京都山科に住み周辺の古美術に接する。続いて同14年奈良に転居、仏教美術に親しむ。昭和3年5月渡仏し、同9年帰国後春陽会展に穏健な写実的作品を出品しつづけ昭和23年春陽会会員となった。訳著に「ゆもりすと咄(フランス小咄)」<昭和23年12月、ぴーこっく書房刊>がある。→「東京文化財研究所」

前田藤四郎 まえだ-とうしろう
1904-1990 昭和時代の版画家。
明治37年10月18日生まれ。神戸高商(現神戸大)卒業後,松坂屋宣伝部につとめるかたわら版画を独習。昭和6年大阪で羊土社を結成するなど関西を拠点に活動。14年春陽会賞。32年大阪府芸術賞。リノリウム版,シルクスクリーン,写真製版などを併用し,木版画の領域をひろげた。平成2年5月19日死去。85歳。兵庫県出身。→コトバンク


1982年9月 前田藤四郎『版画家としてースペインで考えたことなど』共同ブレーンセンター/1994年10月 枚方市民ギャラリー「前田藤四郎展」
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Posted by: ryubun02
2001年3月ー『けーし風』第30号「大阪のなかの沖縄」(屋良朝光、金城馨、諸見里芳美、仲間恵子、玉城利則、崎浜盛喜、伊差川寛、金城良明、金城宗和、金城正樹、我謝実、上地武、當山清朝、大城康代)

1956年7月1日ー大阪市中之島公園で「沖縄土地取上げ反対国民集会」
1956年7月7日ー『琉球新報』「沖縄問題在京郷土人の声ー大浜信泉、神山政良、山之口ばく、比嘉良篤、伊江朝助、尚裕」
1956年7月8日ー『琉球新報』「浅沼社会党書記長ー沖縄の『ハワイ化』阻止」
1956年7月10日ー『琉球新報』「沖縄を守ろうー仙台河北新報発・宮城県庁前広場で沖縄問題解決促進宮城県大会」

1958年8月2日ー『琉球新報』「死の灰 ソ連核実験でふえる」
1958年8月15日ー『琉球新報』「恐るべき放射線の影響ー人類の将来に危険」
1968年1月5日ー『毎日グラフ』「本土の中の沖縄(南風サークル/大城真栄/普久原朝喜/金城良明)」「万国博へ全力投球(岡本太郎「抵抗あるものを」)」
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金城良明氏

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中央が金城良明氏

1971年4月ー『沖縄差別』№1金城良明「大正区で生まれた、2世の声を聞いてほしい」

1971年8月ー『沖縄差別』№2金城良明「沖縄差別とわたし」


写真左から諸見里宗博氏、新城栄徳、金城良明氏

津嘉山政栄
津嘉山政栄さんを検索するも少ない。大阪で沖縄青年運動にも援助をおしまない人であった。大教組の関広延さんと行動を共にしていた。

1968年10月ー『大阪・沖縄県人屋良さんを励ます会ニュ-ス』第号(発行責任者・津嘉山政栄)/
1971年4月『沖縄差別』第1号□津嘉山政栄「大阪沖縄県人会『沖縄県人は訴える』を考える」、伊差川寛「醜い沖縄県人会」
/1971年8月『沖縄差別』第2号□津嘉山政栄「沖縄返還同盟の声明を考える」、金城良明「沖縄差別とわたし」/
1972年9月『解放教育』№15□津嘉山政栄「在阪・沖縄出身者の子弟の教育を考える」/
1976年2月ー全国解放教育研究会『沖縄の解放と教育』明治図書出版□津嘉山政栄「ウチナーンチュとして生きてきて」「在阪・沖縄出身者の子弟の教育を考える」、本村周広「山口重光君『事件』と沖縄差別」

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写真ー1979年・諸見里家で中央がフトシ君、右・コウ


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『琉球新報』2010年12月3日の『京都新聞』新里健記者「取材ノート」に紹介された諸見里芳美さん。


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1972年11月『石の声』№10

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『石の声』№10□諸見里芳美「私と沖縄」/写真右から諸見里芳美さん、新城栄徳(諸見里宗博撮影)



Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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1957年10月 米国民政府渉外報道局出版課『今日の琉球』第1巻第1号

1957年12月『今日の琉球』□表紙(狛犬)・・・・山田真山

1958年3月、『今日の琉球』表紙(風景)・・・大嶺政寛/10月6日『琉球新報』『総仕上げ急ぐ守礼門ー四百年前の姿を再現/楼門に彩色をする琉大生」/10月16日『琉球新報』「きのう盛大に落成式!感激に涙する老婆も」(琉大生の一人が宮城篤正沖縄県立芸術大学学長)。
1959年2月 『今日の琉球』□表紙(樹木)・・・山田真山
1965年1月、『今日の琉球』(表紙写真・守礼門と琉装の女性)/9月、『守礼の光』「琉球文化財はかく保護されたー守礼門」
1969年12月 第13巻第12号□表紙(ブッソウゲ)・・・宮城健盛
1970年1月 第14巻第1号□表紙(イヌ年)・・・大嶺政寛
□1976年3月 那覇市役所企画部市史編集室『沖縄の戦後資料(1945-1972)第1集・逐次刊行物目次集』「『今日の琉球』」
1959年1月 米国高等弁務官府『守礼の光』創刊号

1963年2月、『守礼の光』「琉球の文化財ー守礼門」

1964年10月、『守礼の光』「ナンシーさんの墨絵修行」(金城安太郎)

1967年1月、『守礼の光』(表紙・守礼門)/5月,『守礼の光』川平朝申「琉球の結核予防対策」(予防シール守礼門)/7月、『今日の琉球』(表紙・紅型模様の守礼門)

1968年1月、『守礼の光』川平朝清「全住民に奉仕する沖縄放送協会」

1972年5月、『守礼の光』「沖縄返還特別号」(表紙・守礼門)「琉球政府立博物館ー1966年当時のポール・W・キャラウェー高等弁務官の個人的関心と援助で設立された琉球政府立博物館がなかったとしたら、これらの多くは失われたかあるいは忘れ去られてしまったであろう。この美しい時代建築(博物館)は、那覇市の我那覇昇氏の設計、キャラウェー高等弁務官がこのためわざわざ招いた米国内務省の博物館設計の専門家による技術援助で建てられた」

1972年4月 第159号/1972年5月 最終号

□1976年3月 那覇市役所企画部市史編集室『沖縄の戦後資料(1945-1972)第1集・逐次刊行物目次集』「『守礼の光』」

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
1940年5月29日『琉球新報』「虚子氏御曹子 年尾氏近く来県」
1940年6月3日『琉球新報』「琉球の梅雨に來りぬ、それは夏 高濱年尾氏早速一句」




昭和54年3月 高濱年尾『病間日誌』五月書房(東京都千代田区)

高浜年尾 たかはま-としお
1900-1979 大正-昭和時代の俳人。
明治33年12月16日生まれ。高浜虚子(きょし)の長男。中学時代から父の手ほどきをうけ,一時会社につとめたのち俳句に専念。昭和13年から「俳諧(はいかい)」を主宰。26年父より「ホトトギス」をひきついだ。昭和54年10月26日死去。78歳。東京出身。小樽高商(現小樽商大)卒。著作に「俳諧手引」,句集に「年尾句集」。【格言など】暮れる前からのかゞやき寒の月(「句日記三」)→コトバンク
Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02


1971年8月 沖縄へ本を送る会(大阪市東住吉区田辺本町 高井方)『沖縄の声本土の声』創刊
創刊号には『沖縄の子、本土の子』より狩俣繁久「詩/ふまれても ふまれても」が載っている。私(新城栄徳)はその御芳志に対しお礼の意味で1974年2月に高井恵子さんを訪ね、『琉球の文化』『琉球語便覧』を贈った。