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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 福岡在住の頃(1965年~69年)、太宰府の観世音寺にはよく出かけました。同寺は天台宗の寺院。山号は清水山。本尊は聖観音。開基は天智天皇である。九州西国三十三箇所第三十三番札所。 九州を代表する古寺。→ウィキ。有名な十一面観音や馬頭観音に惹かれていたからです。ともに5メートル余の巨体で、色彩が鮮やかに残っているのです。この仏像を見て思うことは、太宰府そのものと、その存在価値は私たちの評価以上の大きさをしめされるのです。
 当時、ライカとローライフレックスの二台を持っていた私、この二体の佛像は無二の被写体です。隠し撮りに最高のローライフレックスで撮影に成功したのですが、何時の間にか、この写真とネガを無くして仕舞いました。

城谷一草「春秋庵雑筆」⑩<小山冨士夫先生のこと >
 小山冨士夫先生は、九州の古陶に関心が高く、九州にはよく出かけてこられました。当時、私は福岡在住でしたので、小山先生にはよくお目にかかりました。当時、先生の作品を扱っていたのですが、不思議と売れませんでした。先生は講演会や食席、酒席をともにされると必ず茶碗やぐい呑みを「どうぞ」と与えるのが当然の如くでしたので、茶人の多くは茶碗を貰い、酒飲みはぐい呑みを頂いていたのです。唐津では必ず作陶されていましたので唐津焼の秀作が多く残りました。
 小山冨士夫展の話が決まりましたので、在庫分で宮崎の橘デパートで開催しました。完売したときに先生が急逝されましたので展示会は雲散霧消したのです。小山冨士夫先生は、加藤唐九郎さんの「永仁の壺事件」の被害者だと思っていますが、先生からこの事件の愚痴は一度も聞いたことがありませんでした。先生は陶磁研究の第一人者で、文部技官・文化財専門審議会委員であったが同事件で引責辞任。しかし結果的に先生は一人の陶芸家に転生されたことは非常に良かったのではないでしようか。

2016年11月 城谷一草「春秋庵雑筆⑪<廃仏毀釈の遺産をもう一度>
 宮崎県の法華嶽薬師寺は、越後の米山薬師(新潟県)、三河の鳳来寺(愛知県)と並び日本三薬師のひとつとして、また、平安時代の歌人、和泉式部が三年にわたって参籠し、病を治したという伝承があることでも有名です。50年位前、その伝承に惹かれて訪ねたことがあります。ですが、驚くべき奇観が展開して居りました。首が切り落とされた佛像が10体位でしょうか参道に並んでいたのです。これは一見して、廃仏毀釈の盛んな幕末から明治の初めに行われたものだと分かりました。
 廃仏毀釈で損傷した佛教の寺院、佛像は甚大なものだったそうですが、奇蹟的に命拾いした寺の建物に奈良興福寺の五重塔があります。今は国宝のこの塔が、なんと50圓とか200圓で競売に出されましたが、解体費が高く入札する者が居なかったそうです。木造の佛像など簡単に叩き壊されたものです。法華嶽薬師寺の首が切り落とされた佛像は、そんな歴史的遺産なのです。


2016年12月4日 写真左からー城谷陽くん、城谷一草さん、末吉安允氏

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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□携帯090-3793-8179□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。



1972年11月 沖青友の会機関誌『石の声』10号 
新城栄徳□試験管の中の人生ー試験管の中に人生を入れて種々の化学反応を試みるのが作家、あるいは文学者と称する人たちの仕事だと云われている。誰かさんは、カプセルという用語を使用していたが、博物館、美術館、記念館、島、家庭、雑誌などもカプセルといって良いだろう。

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Posted by: ryubun02
1966年2月7日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<1>ー有島生馬画伯①、東郷青児画伯②、中村琢二画伯」
有島生馬
洋画家・小説家。神奈川県生。小説家有島武郎の弟、里見弴の兄。名は壬生馬、別号に十月亭。東京外大卒。洋画を藤島武二に師事し、二科会を創立したが、抽象派に反発してのち一水会を創立した。「白樺」の創刊に加わり、小説には『蝙蝠の如く』『嘘の美』などがある。また翻訳・美術随筆にも腕をふるう。芸術院会員。文化功労者。昭和49年(1974)歿、91才。

1966年2月8日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<2>ー森田元子画伯、中村善策画伯、吉井淳二画伯③」

1966年2月、琉球新報の依頼で山田写真館の2階で、二科の東郷青児が琉装の宮平敏子さんをモデルにスケッチしているところを山田實さんが撮った。そのときの記念写真には、大城皓也、平良進、東郷青児、吉井淳二宮平敏子が写っている。お礼の東郷青児から山田さん宛のハガキがある。1986年1月24日『週刊レキオ』には東郷青児の絵、9月19日にはモデルの宮平さんの娘時代の写真が載っている。
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1966年2月16日、山田写真機店2階で山田實撮影。東郷青児を前に後右から宮平敏子、吉井淳二、平良進、大城皓也
②東郷青児
戦後のある日、有島生馬らと長野県に疎開していた東郷青児は列車で東京に向かった。戦前、軍部から「フランス文化の植民地」と云われて解散させられた二科会の再建を全国の有志に呼びかけるためだった。東郷は再建のためには、二科展覧会をお祭り騒ぎの見世物と、自らを風俗画の職人に堕落しているとの批判も無視。二科に写真、商業美術、マンガ部などを新設し二科を東郷調に近代化した。また日仏交流も促進した。東郷は「明治の藤島武二、大正の竹久夢二、この三代の三ジによって日本の洋画の人気は博している」と語り胸を張ったという。
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『吉井淳二自選展』1981年 毎日新聞社
③吉井淳二 よしい-じゅんじ
1904-2004 昭和-平成時代の洋画家。
明治37年3月6日生まれ。昭和元年「花と女」で二科展初入選,15年二科会会員となる。40年「水汲」などで芸術院賞。44年「浜辺の井戸」で二科展内閣総理大臣賞。51年芸術院会員。54年-平成10年二科会理事長。平成元年文化勲章。写実的な画風で,働く庶民の群像をえがいた作品で知られる。特別養護老人ホームを開園するなど社会福祉にもつくした。平成16年11月23日死去。100歳。鹿児島県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。(→コトバンク)


1966年2月9日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<3>ー水谷清画伯、島野重之画伯、田中繁吉画伯」
1966年2月10日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<4>ー荒谷直之介画伯、小堀進画伯、土田文雄画伯」

1966年2月11日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<5>ー楢原健三画伯、高野真実画伯、伊藤清永画伯④」
④伊藤清永は1911年(明治44)兵庫県下出石町下谷(しもたに)に生まれ、
日展と白日会を中心に活躍した文化勲章受章の洋画家です。 後年は、繊細な色線を無数に重ねて描き出される豊麗優美な裸婦像で知られています。 岡田三郎助の薫陶を受け、東京美術学校在学中の1933年第14回帝展に初出品、初入選。
1936年文展(文部省美術展)で選奨を受賞、白日会会員となり画家としての道を確立しました。
70年近い画業の中で、一貫して女性美の表現技法を追求し、温かみのある独自の画風を築いて見る人を魅了しています。2001年6月5日軽井沢のアトリエで制作後急逝し、製作中の「ばら」数点が絶筆作品となりました。→豊岡市立美術館-伊藤清永記念館



1966年2月12日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<6>ー藤本東一良画伯⑤,成井弘画伯、浦崎永錫画伯」
⑤藤本東一良 ふじもと-とういちりょう
1913-1998 昭和-平成時代の洋画家。
大正2年6月27日生まれ。昭和14年光風会でF氏賞を受賞し,21年会員。日展で21年,22年連続特選,56年「五月のコート・ダジュール」で文部大臣賞。平成5年「展望台のユーカリ」で芸術院恩賜賞,同年芸術院会員となる。明快な色調で海の風景をえがく。平成10年9月17日死去。85歳。静岡県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。→コトバンク

1966年2月16日『琉球新報』「有島生馬氏ら来沖 写生旅行の大家17人」
1966年2月17日『琉球新報』「いちばん”悲しい日〟現代大家沖縄写生会戦跡地で感無量」
1966年2月19日『琉球新報』「沖縄を描くー有島生馬、東郷青児」
1966年2月21日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(1)高野真実」
1966年2月22日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(2)森田元子」
1966年2月22日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(3)吉井淳二」

1966年2月24日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(4)有島生馬」
1966年2月25日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(5)荒谷直之介⑥」

1966年2月26日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(6)土田文雄」

1966年2月26日『琉球新報』「”いい仕事ができた〟沖縄写生会の画伯帰る」
1966年2月28日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(7)田中繁吉⑦」
⑦田中繁吉ー日本画家。明治31年(1898)福岡県生。東美校卒。藤島武二に師事する。創元会常任委員・日展参与。東京住。

1966年3月1日『琉球新報』「沖縄の風物 現代大家洋画展ー荒谷直之介⑧、森田元子⑨、有島生馬、楢原健三、中村琢二、土田文雄⑨、浦崎永錫、藤本東一」/沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(8)小堀進」


荒谷直之介 あらたに-なおのすけ
1902-1994 大正-平成時代の洋画家。
明治35年5月11日生まれ。葵橋洋画研究所で黒田清輝らにまなぶ。光風会,日本水彩画会に出品。昭和15年昭和洋画奨励賞。同年水彩連盟を創立。18年みづゑ賞。21年一水会会員となる。日展評議員,参与をつとめる。平成6年2月18日死去。91歳。富山県出身。作品に「三人の像」「憩う裸婦」など。 →コトバンク

 ⑧土田文雄 つちだ-ふみお
1901-1973 大正-昭和時代の洋画家。
明治34年2月22日生まれ。大正7年川端画学校にはいり,藤島武二に師事する。10年院展に初入選。梅原竜三郎に傾倒して,15年から国画創作協会展に出品し,昭和18年国画会会員となる。29年武蔵野美大教授。昭和48年2月22日死去。72歳。山形県出身。米沢中学卒。作品に「海浜の朝」など。 →コトバンク

⑨森田元子ー昭和期の洋画家 女子美術大学教授。 生年明治36(1903)年2月11日 没年昭和44(1969)年8月12日 出生地東京・青山 学歴〔年〕女子美術専門学校洋画科〔大正13年〕卒 主な受賞名〔年〕岡田賞〔昭和21年〕「婦人像」 経歴岡田三郎助に師事して室内女性像を数多く描き、昭和2年に官展初入選後、官展系画家として地歩を固めた。女子美在学中に「主婦の友」の表紙懸賞に入賞、川端康成、大岡昇平、源氏鶏太らの現代もの新聞小説の挿絵も担当。また女子美大教授として後進の女性画家を育てた。→コトバンク

1966年3月3日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(9)成井弘」
1966年3月4日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会 中村琢二」

1966年3月7日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(11)島野重之」
1966年3月8日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(12)楢原健三」
1966年3月9日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(13)藤本東一良」
1966年3月10日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(14)伊藤清永」

1966年3月11日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(15)水谷清」


1966年3月3日『琉球新報』現代大家沖縄写生会の産婆役ー浦崎永錫□複雑な人間関係の画壇事情にもくわしい。各美術団体の代表者格そろって、取材旅行ーという初の試みであった「現代大家沖縄写生会」も、浦崎氏の美術界での政治的力量のほどを示したものといえる。那覇市出身、六十五歳。

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2017年 渡口萬年筆店

1938年3月30日『沖縄日報』「渡口萬年筆店」


2007年8月 すなみまさみち/古山浩一『万年筆クロニクル』枻出版社
〇あとがきー近年多数のコレクター本が刊行されているが又聞き、孫引きが当たり前のネット社会にあって、できるだけ原典にあたりなおすことが大切である、という先達のご託宣を肝に銘じて、日夜、確たるエビデンスを求めつづけてきた。しかしこれがまた苦難の道をたどることになるとは。初期のパテントにはあまり興味を持たれないかもしれないが、私にとってこれは情報の宝庫だ。新聞、雑誌の広告やメーカーのカタログは次に重要な手がかりである。

2015年7月 『趣味の文房具』枻(えい)出版社 古山浩一=絵と文「沖縄 渡口萬年筆店 渡口彦邦さん」

1886年11月21日『大阪朝日』に、万年筆の広告「万年筆 おろし 小うり」「時計師 山内住智」

1895年(明治28年) WATERMAN(ウォーターマン) 丸善が、わが国で初めてウォーターマン社の万年筆を輸入販売。→万年筆の歴史

1915(大正4)年、『東京朝日』「学生向のXマスのおくり物」という記事では、文房具については、万年筆が挙げられています。当時の紙面は総ルビだったので、ちゃんと「まんねんひつ」と読みがついています。
 1910(明治43)年『東京朝日』では、万年筆に「まんねんふで」という読みがながついた(11月6日付)。さらには、1908年には、「丸善新着のクラフト万年筆(まんねんふで)」という記事(11月15日付)や、「万年筆(まんねんふで)」というタイトルのコラムまであるではありませんか(いずれも東京朝日)。明治のころは「まんねんふで」という読み方が主流であったと推測させます。やはり当時は「ふで」(毛筆)という音のほうが、人々の耳にはなじみがあったということなのでしょうか→朝日新聞「ことばマガジン」

1908年(明治41年)、伊藤農夫雄が「スワン」万年筆を発売。

1912年(明治45年) 夏目漱石・北原白秋・幸田露伴・河合玉堂らが万年筆について語るエッセイと図解がのった「万年筆の印象と図解カタログ」が丸善から発行される。→万年筆の歴史

1914年(大正3年)、細沼浅四郎が「サンエス」万年筆を製造販売(サンエスとはSun Sea Starの意味)。
1919年(大正8年)、中山太一が日本文具製造株式会社(プラトン文具株式会社)を設立、「プラトン万年筆」を売り出す。


1920年9月 『沖縄朝日新聞』「山城萬年筆店」/1923年6月『沖縄朝日新聞』「安江商會」
 
1922年3月 『沖縄タイムス』「津堅商店(那覇市下泉町1丁目松田橋通り)筆墨文具品各種、萬年筆各種」
1922年4月 『沖縄タイムス』「勉強堂本店(那覇市大門前)十四金ペン付 萬年筆各種 各種萬年筆特約店 其の他附属品一切」

1922年10月『沖縄タイムス』「青山書店」
1924年11月『沖縄タイムス』「前中商店(那覇市石門通り)各種萬年筆修理 萬年筆 学生向き 十四金付 エボナイト軸」
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2009年1月ー那覇市歴史博物館「伊江御殿伝世品展ー近世琉球上級士族の世界」




●伊江朝雄氏と新城栄徳

●旧沖縄県立博物館の蘇鉄


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 先生との初めての出会いは、先生常宿のホテルの部屋でした。当時、既に陶芸界の重鎮でしたので、若造だった私は興奮気味でした。先生は開口一番「君は、今の陶芸家たちをどうして作家と呼ぶのか知ってるか」と聞かれましたが、分かりません、と答えると、「今の陶芸家は一寸売れ出すとすぐ、窯より先に家を作るだろう。だから作家と云うのだ」と破顔一笑された。なるほど、有田の陶工の家は皆、立派なものだ。先生は「俺は家がボロボロだからホテル住まいだよ。そのかわり窯は日本一だ」。この初対面で私は先生に惚れ込んで仕舞ったのです。

○加藤 唐九郎は陶芸家、また陶磁史研究家。愛知県東春日井郡水野村出身。桃山時代の陶芸の研究と再現に努めたが、永仁の壺事件で行った捏造により、無形文化財の資格を失った。事件後は作陶に専念した。建築物と陶磁器の組み合わせ陶壁を創出。陶壁は唐九郎による造語。 →ウィキペディア


2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」③< 南大東島の石と黒木の勾玉>
 写真は勾玉です。この素材は、南大東島の石と三線の棹に使う黒木です。二つとも、沖縄特産で先述の石は模様がとても美しいのです。黒木は木材で最も堅く、勾玉には最適だと思います。この二つの素材にもっと注目してほしいものです。

○勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、先史・古代の日本における装身具の一つである。祭祀にも用いられたと言われるが、詳細は分からない。語の初出は『記紀』で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られる。語源は「曲っている玉」から来ているという説が有力である。日本本土では、現在まで神社等でお守りとして販売されているが、沖縄ではノロ(祝女)の祭具として使用され、現代もその伝統が受け継がれている。古琉球時代(14世紀 - 16世紀)の遺構からは、玉製以外にも金製や陶製の勾玉が出土している。→ウィキペディア

2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」④< 夢二のキャラメル>
 明治の末から大正にかけて、叙情の世界を展開した”竹久夢二〟の女性は、明治末に発刊された平塚らいてうの雑誌『青踏』の新しい女と共に、新時代の夢を、そして憧れや哀愁が描かれた時代でした。夢二の代表作「黒船屋」は、現代人にも美しく映りますが、当時の日本は軍国主義に突き進んでいった情勢でしたが、大正ロマンという幕も張りだしていましたので今から思えば奇妙な時代だったと思います。
 
夢二がデザインしたキャラメルの箱が大阪のペンフレンドから送られてきました。
  
2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」⑤< 陶印に思う>
 趣味の一つに、陶印作りがあります。粘土は腐るものではないから年中家に準備している。焼成は親しい窯に依頼し焼いて貰っている。陶印は手紙や日記などに捺して楽しむ印、遊印です。あくまでも趣味の世界のもので無趣味の人には無価値です。私は陶印クラブみたいなものを作りたいと思っています。


城谷一草「作品」


2016年11月14日 写真左からー城谷陽くん、城谷一草さん、新城栄徳

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写真左から新城栄徳、仲程香野さん、仲本潤英氏、金城美奈子さん

○1960年4月『オキナワグラフ』仲本潤英「沖縄の親たちに」

新城栄徳、仲本潤英氏

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 今は亡き岡本恵徳先生は私の顔を見るたび「もっと奄美資料に注目してくれ」が口癖であった。私は伯父や伯母の連れ合いが奄美出身であったから特に奄美を意識したことがないが、琉球文化には当然に奄美も入っていると思っている。奄美の図書館には島尾敏雄氏に会ってみたいと2回ほど行ったが何時も休館日だった。島尾敏雄氏には会えなかったが、その代わりといっていいか分からないが山下欣一氏に出会った。

 喜納緑村『琉球昔噺集』を発行した三元社の萩原正徳が奄美関係者らしいと前々から気になっていた。山下欣一氏に問い合わせると家系図、『道之島通信』、『定本・柳田國男集』の月報などの萩原資料をたくさん贈ってこられた。緑村は1930年に『沖縄童話集第一編ー犬と猫』(津嘉山栄興挿絵)を神山青巧堂印刷で刊行した。山下氏も萩原正徳を当然と言えば当然だが色々と紹介して居られた。それに用いた資料だが次に紹介する。


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前列右端が柳田国男、左端が比嘉春潮/後列右から萩原正徳、大藤時彦、瀬川清子


 1944年3月『民間伝承』柳田国男「『旅と伝説』について」□(略)改めてもう一度、初めから読み返して見たい気がする。公平に批判してどの部分、一ばん後世に役立つ仕事だったかを、考へ且つ説いて見たくもなる。
私の処にはもう主要記事の索引も出来て居るのだが、この判定は実はさう容易な業では無い。しかし先ず大まかに考へて、婚礼誕生葬祭その他の特集号を出し、又昔話を二度まで出した頃などが、全盛期だったと言へるかもしれない。こんなにまで多数の同志があったのかと、驚くほどの人々が全国の各地から、何れも好意づくだけでよい原稿を寄せ、所謂陣容を輝かしてくれたのみならず、此時を境にそれぞれの問題に対する理解常識が、目に見えて躍進したので、之を読んで居ない人の云ふことが、あれから以後は何だかたより無いもののやうに感じられるやうになった。つまりは民俗資料といふものは、集めて比較して見なければ価値が無いといふことを、実地に証明してくれたのである。
 
 その以外に今一つ承認しなければならぬことは、萩原君は故郷の奄美大島の為に、この雑誌を通して中々よく働いて居る。それには同郷知友の共鳴支援といふことも条件ではあったが、とにかくに全十六巻を通じて、奄美大島に関する報告は多く、又清新な第一次の資料が多かったことは争へない。その一つの例として手近に私の心づいたことをあげると、第一巻のたしか二号か三号に、島の先輩の露西亜学者昇曙夢さんが、アモレヲナグ即ち天降女人の事を書いて、我々に大きな印象を与へ、又より多くを知りたがらせて居たのだが、それが約十六年を隔てて最終号の中に、今度は金久正君といふ若い同志が、それを詳しく書いて我々の渇望を医して居る。もう「旅と伝説」さへ大切に保存して置けばこの世界的興味のある一問題は、永久に学問の領分からは消えないのである。或ひはそれほどまで大きな問題だと思はぬであらう人たちの為に、出来るだけ簡単に前後二ヶ所に出て居る天降女人の事を書き伝へ、出来るならば此上にももっと豊富な資料の、集まって来る機縁を促したい。(略)
 
 奄美大島といふところは、私の知る限りでも、内部歴史の珍しく豊かな島であった。書いた記録がといふものは僅かしか残らぬが、近い百年二百年の間にも避ければ避けたかった実に色々な経験をしてゐる。さうして全体に今は古い拘束から解き放たれて、新時代のあらゆる機会を利用し、すぐれた人物が輩出して居るのである。住民自身としては忘れた方がよいやうな、外の者からは是非参考の為に聴いて置きたいやうな、無数の思ひ出をかかへて、まだ其処理を付けずに居るといふ感じがある。此数からいふと、萩原君の如き人がもっと辛抱強く、古い埋もれたことを尋ね出さうとする知友を糾合して居てくれたらと思はずには居られぬのだが、それをもう謂って見ても仕方が無い。それよりも雑誌をその時々の慰みなどとは考へずに、いつまでも之を精読する者の、是から日本にも多くなるやうに、我々もどうかして残るやうな雑誌を作って行きたい。

 1981年7月『道之島通信』83号「民俗学開拓に貢献 萩原正徳(1896~1950)」□はじめに 1928年(昭和3年)から1944年(昭和19年)まで、東京で『旅と伝説』という月刊雑誌を発行、日本民族学の発展に著しく貢献したのが萩原正徳である。正徳は、1896年(明治29年)名瀬市金久に生まれ、若くして上京、東京高等工芸学校を卒業、27歳の時夫人ウメさん(千葉県出身)を娶った。弟に利用と厚生がおり、厚生は鹿児島一中から一高、東大へ進んだ奄美の秀才として名を馳せた人である。酒と島うたが好きで、子供が喧嘩して泣いて帰ると「泣かされて帰る奴がいるか、相手を泣かして来い」と、一人息子の正道を叱るくらいの気骨の持ち主でもあった。三元社という写真製版の会社を経営する一方、柳田国男らの民俗研究グループに参加、奄美をはじめ、各地の研究報告を『旅と伝説』に掲載、記録を歴史に残した。「若い頃から頭は、はげていましたので、年の割に老けて見えましたよ」と八十歳になったウメさんは話す。耳が悪かったため、兵役を免れ、柳田国男にどなられても笑っていたという。

 1998年10月『柳田國男全集 第6巻 月報13』山下欣一「『海南小記』ー奄美の旅前後」□(略)最初の伊波普猷の奄美来訪は1918年(大正7)1月であった。これは私立大島郡教育会・二部研究会(瀬戸内・宇検)による招聘である。この時の中心になったのは二部研究会長で古仁屋小学校長永井龍一と当時篠川農学校教諭竹島純(沖縄師範卒)であった。この2名は伊波普猷・比嘉春潮を出迎えのために名瀬へ出張するが、船待ちのため十数日滞在を余儀なくされ、その間、奄美の文献資料を調査したりしている。この時『奄美大島史』の著者である坂口徳太郎も鹿児島県立大島中学校に勤務していたので、その指導も受けたと考えられる。

 伊波普猷は、この第1回の旅で『南島雑話』、『奄美史談』などを沖縄へ借用し、筆写させ、沖縄県立図書館へ収蔵し閲覧に供したのである。(略)伊波普猷の奄美招聘の中心にいた竹島純は伊波普猷の講演記録を伊波の「序に代へて」を付して1931年(昭和6)に大島郡教育会から『南島史考』としてまとめている。また後で永井龍一は鹿児島に居を移し、『南島雑話』、『補遺篇』、『奄美史談』などの文献資料の自費刊行を試みている。この『南島雑話』刊行に刺激された永井龍一の兄亀彦(博物学者)は『南島雑話』の編著者を薩摩藩上士名越左源太時敏と確認し、また名越家で『遠島日記』をも発見し、これらを自費刊行している。これらは、昭和初年から、終戦直後に及んだ作業であった。永井兄亀・龍一兄弟は名瀬の与人役政家の一族である。父永井長昌喜は漢学者で教育者であった。

 亀彦・龍一の姉よしは萩原家に嫁し、その子息が正徳・利用・厚生の兄弟である。叔父に『奄美史談』の著者都成植義(南峰)がいる。亀彦・龍一の甥に当る萩原正徳は上京し、東京高等工業学校で学び、海軍省水路部をへて写真製版業を営み、三元社を興した。柳田国男の指導を受けて『旅と伝説』を刊行した。これには昇曙夢・岩倉市郎・金久正などの奄美の研究者が登場しているのは故なしとしないのである。

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Posted by: ryubun02
2000年4月23日『沖縄タイムス』新城栄徳(書評)ー松原一枝『改造社と山本実彦』南方新社

改造文庫

写真/山本実彦
生年: 明治18.1.5 (1885)
没年: 昭和27.7.1 (1952)
大正昭和期の出版経営者,政治家。鹿児島県川内に生まれる。日大卒業。『やまと新聞』ロンドン特派員,『門司新報』主筆などを経て,大正4(1915)年東京毎日新聞社主に就任。8年,改造社を創立,総合雑誌『改造』を創刊。当時の民主主義運動,社会運動の波に乗って,同誌を『中央公論』とならぶ有力雑誌に育てた。また,昭和初期には大規模な予約全集企画『現代日本文学全集』を成功させ,1冊1円のいわゆる円本ブームの先駆者となった。昭和5(1930)年衆院議員に当選。戦後,再び改造社を起こしたが,病没。時流に敏感な出版経営者であった。 →コトバンク


2003年 『林芙美子 生誕100年記念』「1929年10月『改造』林芙美子「九州炭坑街放浪記」/1930年7月 林芙美子『放浪記』 11月『続放浪記』」


2000年4月23日『沖縄タイムス』新城栄徳(書評)ー松原一枝『改造社と山本実彦』南方新社/改造社と言えば、私はすぐに布装の「改造文庫」を思い出すが、「改造社と山本実彦」は、実彦の生まれ故郷に「生誕の地」の表示と墓が在ることや、家族からの証言で新事実を気づかせてくれる。沖縄にゆかりがある日本の代表的出版人は講談社創立者の野間清治と実彦をまず数えるが、ここでは実彦と沖縄とのかかわりを補注して任をおえよう。

1916年の実彦著「我観南国」①に「国頭會遊の山河を遥望す、与那覇岳は比嘉賀栄、金城永寛、宮城久輝(聡)、比嘉蒲太郎、平良親一の徒と幾回か登擧(略)名護湾の思い出と共に故人平良保一を思わざるを得ざりき」と記され、続けて「黒岩先生は饒平名君と共に沖台砂糖会社の工場まで迎えに来られた」と、13,4年ぶりの沖縄で友人たちと会い、かつ亡くなった友人たちをしのんでいる。
①1916年7月 山本實彦『我観南國』東京堂書店



思わざるを得ざりき故人とは、放浪詩人で知られる池宮城積宝の「平良保一伝」(「うるま新報)には「保一氏はよく人を見るの明があり、後の改造社の山本実彦が越来村にいたのを見いだして大宜味村に迎え、いろいろ世話をしてやった。山本氏は出世して後、保一氏の恩愛を忘れずしきりに感謝渇仰の意を表し『随分沢山の人に逢ったが平良保一氏ほど立派」な人はいなかった』と話していた」とある。保一氏は謝花昇の意志を継いで民権伸長を推進したとも紹介している。

前出の宮城久輝は67年「新沖縄文学」第7号から「文学と私」を連載した。実彦の国頭尋常小学校代用教員時代の教え子であった関係で改造社に入社した経緯を記し、改造社前でのアインシュタイン博士の来日記念で博士のすぐ後ろに宮城が写っている写真が掲載されている。
最後に、沖縄の地名の誤記、初歩的な人名(菊池を菊地)の誤植があり、年譜を付けるなど、編集に配慮がほしかった。総じて分かりやすく山本実彦を知る最適の入門書ではある。

下左ー宮城聡/師範学校学生/ハワイ

上ーアインシュタインの右が山本実彦改造社社長、後ろに宮城聡

アインシュタインの来日は改造社という一出社の招聘によるものであった。改造社の社長山本実彦は、社の一大事業としてアインシュタイン招聘に奔走し大学関係者と帝国学士院を巻き込んで、来日を実現させたのである。アインシュタインは1922年(大正11年)10月8日にマルセーユを日本郵船「北野丸」で出港し、11月17日に神戸に入港した。途中12日夜、香港で「光量子仮説」に対して贈られたノーベル物理学賞受賞の電報を受け取っている。アインシュタインは、熱狂的な歓迎を各地で受ける。12月29日までの滞在の間に多数の講演を行い、また連日の歓迎会に出席してスピーチをした。→東大総合研究博物館

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2014・8/不二出版「『犯罪科學』解説・総目次・索引」
 





「『犯罪科學』解説・総目次・索引」の執筆者索引を見て、沖縄に関わりのある人物を紹介する。

安藤盛は戦前、来沖した人物で、ジュンク堂那覇店で青木澄夫『放浪の作家ー安藤盛と「からゆきさん」』(風媒社)を入手した。私の知らない安藤の沖縄関連の著作もその目録にあった。本誌に収録されてない琉球新報の1938年6月の記事を紹介する「南洋及び支那通として知られていた著述家安藤盛氏は21日東京の自宅において逝去した。氏は昭和11年、同12年の2回に亘り本県に来遊し週刊朝日其他の雑誌で紀行文を発表、本県紹介に努め県人から親しまれていた。なほ生前本社へ長編小説(琉球新報に連載「紅雀」絵・西銘生一)を寄せたが未発表のうちに急逝し遂に遺稿となった享年41」とある。

関連資料ー2001年9月『けーし風』第32号「特集 旧南洋群島のウチナーンチュ」

伊東忠太、伊波普猷、岩田準一(琉球の男色を調査)、巌谷小波、大宅壮一、喜田貞吉(1933年1月 『沖縄教育』第百九十八号<昭和会館落成記念>□喜田貞吉「琉球民族の研究に就いて」)金城朝永、東郷青児、西村眞次、宮尾しげを、①饒平名紀芳らが居る。

1938年4月19日『琉球新報』「饒平名紀芳氏 7年振に帰る」

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2016年(平成28)は「なは教育の日」が制定されてから10年になります。
歴史博物館では、「なは教育の日」制定10年を記念して、「琉球・沖縄 学問のすすめ ~なは 教育のあけぼの~」と題し、企画展を開催。

久茂地小学校の鐘


那覇市初の学校統合


2016年11月10日の久茂地小学校。何やら工事中である。

2013年6月8日~7月3日 那覇市歴史博物館「企画展ー沖縄戦~そして学校がなくなった~
 

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1970年11月27日~30日 劇団民藝「アンネの日記」


1971年10月10日~13日 那覇市民会館主催「夕鶴 <山本安英の会>沖縄公演」


1971年10月23日 那覇市主催「巌本真理弦楽四重奏団 室内楽の夕」


1972年8月13日 那覇市主催「読売日本交響楽団 特別演奏会」



1972年10月 那覇市主催「前進座/平家女護島・俊寛」


1973年11月9日~11日  那覇市主催「文学座公演 女の一生」


1974年6月6日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭交響楽演奏会ー大阪フィルハーモニー交響楽団」(指揮=朝比奈隆/ピアノ独奏=荒憲一)


1975年6月20日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭交響楽演奏会ー読売日本交響楽団」(指揮=山田一雄/チェロ独奏=堤剛)


1975年11月19日・20日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭新劇公演ースカパンの悪だくみ」


1976年6月7日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭交響楽演奏会ー東京フィルハーモニー交響楽団」(指揮=尾高忠明/バイオリン独奏=久保陽子)


1976年8月4日、5日 那覇市主催「レニングラード・バレエ/白鳥の湖」


1977年11月5日 主催=那覇市「アマデウス弦楽四重奏団」


1978年11月8日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭交響楽演奏会ー東京フィルハーモニー交響楽団」(指揮=尾高忠明/バイオリン独奏=和波孝禧)


1982年8月27日~29日 「オペラ はだしのゲン」

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10月31日『琉球新報』豊岡こずえ「沖縄の心刻む那覇市民会館ー建物の再活用を期待」


 上野の国立西洋美術館のコルビュジエ(スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家)設計の建築物が、7カ国、17施設と共に「世界文化遺産」に登録され、外国人のものでも、東京の地元が喜んでいることをテレビで見たように思う。世界文化遺産になったら地震で倒壊や崩壊する危険性があっても保存しないといけないだろう。京都の図書館や、大阪の日銀のように外観を保存するとか色んな手立てがあると思う。那覇市内に復元の歴史的建造物や、ヤマトゥがつくった沖縄県庁(若尾 文子の旦那・黒川紀章。今何かと話題の大阪府警庁舎も黒川紀章、2007年竣工、建設費617億円))や沖縄県立博物館・美術館だけでは寂しい。別にヤマトンチュが作ったのが悪いとは言っていない。戦前の武徳殿、戦後の立法院棟、那覇のテンブスが今、写真でしか確認できないが、立法院棟は設計図があるので復元可能ではある。

 しかし復元で形ばかりで如何しようもない、中身が伴ってこそ文化である。ウチナーンチュがウチナーのチムグクルで造ったものを一つぐらいは戦後沖縄文化のシンボルとして残せということである。で、使い道はいくらでもある。隣の県立図書館は移転するので、比嘉春潮文庫など特殊文庫の貴重なものの収蔵施設、隣の那覇市中央図書館、公民館の施設、世界にウチナーぬチムグクル発信の情報機器を備えた那覇総合資料館などである。目の前に警察署や消防署もあるので天災、人災の備えがある。大ホールは奥武山に武道館やスタジアムもあるし、国立劇場もある。だが、大ホールは、国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を送っているからテロも頻発する。久茂地界隈ならタイムス、新報のホールで十分だ。久茂地の会館予定地は過密の原因になるから止めて世界の蘇鉄などを集め研究所を付設した植物園とかが良い。私個人でもこれくらい発想できるので検討委員会の専門家は最善のアイディアで、身の丈にあった未来に向けた発想をすると思う。暴言多謝。


京都府立図書館→京都の近代洋風建築/日本銀行大阪支店旧館+新館(竣工年:明治36年 (1903) ベルギー国立銀行をモデルに設計:辰野金吾・葛西万司・長野宇平冶/長崎・島原藩蔵屋敷跡地に建つ)→大阪建築

 那覇市民会館の場合は検討委員会が作られるらしいが、何かの誤魔化しでなければ、私らと(屋嘉比収も居た)立法院棟保存運動をした琉球国建設親方の真喜志好一氏や、近現代史研究家の伊佐眞一氏もぜひ委員に加えてほしいものだ。この問題は翁長市長の自民党時代に発想した経緯もあるのでそこら辺は十分見極めたい。


2007年2月 那覇市歴史博物館『戦後をたどるー「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ』ー『那覇市史 通史篇第3巻(現代史)改題ー』琉球新報社□新垣安子「那覇市民会館 芸能・音楽の発展に貢献」

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谷内六郎氏は「週刊新潮」の表紙を25年間飾り、国民に親しまれている美術家です。横須賀美術館が所蔵する作品コレクションから約50点をご紹介します。また、戦後沖縄の子どもたちの記録写真で名高い山田實氏の写真作品40点をご本人と沖縄県公文書館から借用し、展示します。

 
 2016年11月9日、浦添市美術館に「なつかしき昭和の想い出展」を見に行く。途次、又吉ケンタロウの旗があったので覗いたら又吉ケンタロウ氏本人が居たので挨拶をした。浦添市長予定候補と名刺にはあったが、折しもアメリカでは異端児トランプ氏が大統領になった。安全保障を日米同盟によって担保して来た日本敗戦後の昭和レジーム(ヤルタ・ポツダム体制)が崩れようとしている。ケンタロウ氏には既存の手法ではない大胆な発想が求められる。


浦添美術館で、館長の宮里正子さん(左)、学芸員の岡本亜紀さん

写真/2016年10月の山田實さん

写真左が浦添市美術館長・宮里正子さん、山田實さん
○谷内六郎は「週刊新潮」の表紙を25年間飾り、国民に親しまれている美術家だが、最近の「週刊新潮」はネット時代の煽りを受けてか、経営上か知らないがオキナワの市民運動を批判している。アベ週刊誌に成り下がっているようだ。


浦添市内 右はピンク色の花を咲かすトックリキワタ

写真/2016年11月の山田實さん

2016年3月『視覚』中信出版社(北京市)山田實「壺屋」


2016年11月『ニッコールクラブ会報 242号』「沖縄支部」

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2016年11月3日『沖縄タイムス』「一中生の『遺影里帰り』同級 山田義邦さん 実現に力」

 NHK収録年月日, 2009年5月22日、23日 戦争証言アーカイブス山田 義邦さん|証言|がネット検索で見ることができる。
タイトル, 「少年兵の斬り込み」, 番組名, [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~. 氏名, 山田 義邦さん(沖縄県・鉄血勤皇隊), 戦地, 日本(沖縄)。


2014年8月31日ー台湾茶屋で左から新城栄徳、山田義邦さん、仲里正雄さん

デール・マハリッジ 藤井留美 訳『日本兵を殺した父』原書房2013-7
辰夫の亡霊ー山田義邦
○あとがきー(略)ジョージ・ニランドはマッカーサー支持でも何でもなかったが、海軍は太平洋上の島々で飛行場への爆撃を続行し、日本軍が使えないようにするべきだったと興奮の面持ちで語った。そうすればアメリカ兵が島に上陸する必要もなかったというのだ。
ニミッツと、キングをはじめとする彼の部下たちを私が嫌うのは、後世からの勝手な断罪ではない。太平洋戦域での戦いは、当時わかっていた情報だけで判断しても、ほかにやりようがあった。グアムの戦いの必要性に関しては論じないが、沖縄戦はあんな戦いでなくてもよかったはずだ。その意味では、ジョー・ランチョッティと同様、双方の将軍や提督を私は嫌悪する。アメリカは日本の狂信的な軍部指導者を制御できなかったが、だからといって彼らと同じ土俵に立つ必要もなかった。ニミッツの愚劣さが、沖縄戦における民間人15万人、日本兵11万人、アメリカ兵1万2000人以上の犠牲をひき起こした。そのひとりがマリガンだ。父も脳損傷の後遺症を一生引きずった。私がニミッツを嫌うのはあくまで私情だが、それも無理からぬ面があると思う。なぜなら私は、第二次世界大戦における彼の判断が最後まで尾を引く家で生まれ育ったのだから。
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 いったいこの日本という国はどうなって行くのでしょう
マイナス金利でのデフレ脱出は先送りして しゃーしゃーと居直る
年金切り下げ、TPPで国民皆保険も破壊 金持ち優先税制、一層の貧困 
一方、海保や軍備防衛、治安は増大し 外国には金をばらまく
いくら植民地にできなかった中国への嫉妬とはいえ 憲法まで変えて軍事力で対抗しよというのか
このアナクロ政権 アベノミクスは破たんした 政治の劣化も極まれり 安倍一強という驕りはあまりにひどいではないか 目をさまそうよ、この国の皆さん!(T)

東京新聞 2016年11月3日【社説】 憲法公布70年 感激を忘れぬために
○七十年前のきょう、日本国憲法が公布された。戦争犠牲者を思い、国内外に不戦と平和を宣言したのだ。その感激を忘れぬよう努めたいと思う。
 「今日は何といふ素晴らしい日であつたか」
 元首相の芦田均は憲法が公布された三日の夜、日記の冒頭にそう記した。「生(うま)れて今日位感激にひたつた日はない」と続く。その日は午後二時から東京の皇居前広場で祝賀大会が開かれていた。日記に(略)

 芦田は憲法原案を審議した衆院小委員会の委員長であり、その年の八月二十四日には衆院本会議で次のように語っている。「戦争放棄の宣言は、数千万の犠牲を出した大戦争の体験から人々の望むところであり、世界平和への大道である」この憲法は多くの戦争犠牲者の上に成り立っていると同時に、当時の人々が強く平和を望んだ上に立ってもいる。それを忘却してはならない。
 ひるがえってコンパスを四五年から二〇一六年の今日まで回してみれば、この七十一年間は「無血の歴史」である。根幹に平和主義の憲法があったのは疑いがない。「憲法の番人」たる内閣法制局、日銀、公共放送たるNHKの人事…。民主制度に仕組まれたさまざまな歯止めを次々とつぶしてから進んできた。いくら党是といえど、戦後でこれほど憲法を敵視する政権はなかった。
 明治時代には自由民権運動があり、さまざまな民間の憲法私案がつくられた。その中に植木枝盛(えもり)という人物がいた。思想家であり、第一回衆院選挙で当選した政治家でもあった。「東洋大日本国国憲按(あん)」という憲法案を書いた。
◆世に良い政府はない
 人民主権や自由権、抵抗権などを求めた先進的な案である。彼には「世に良政府なる者なきの説」という演説原稿がある。
 人民が政府を信ずれば、政府はそれに付け込んで、何をするかわからない。世に良い政府などないと説いた。一八七七(明治十)年の言説として驚く。こんな一句で締めくくられる。
 「唯一の望みあり、あえて抵抗せざれども、疑の一字を胸間に存し、全く政府を信ずることなきのみ」

 「疑」の文字を胸に刻んで、今の政治を見つめよう。



本日、我が家に関西からの来客ー左から喜屋武千恵さん、新城栄徳、仲田幸司くん/左から大城尚子さん、新城栄徳、仲田幸司くん
 
2017年1月15日 沖縄県立博物館・美術館「ないるかじり しまくとぅばし かたてぃ んじゃびら『伊波普猷』」登壇者/伊佐眞一、屋嘉宗彦、比嘉豊光/コーディネーター/仲田幸司

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○最近、テレビのクイズ番組が面白いです。東大出のIQ150とか160の人達が出ているのを見ていると、私など十分の一の正解しか出来ず、東大の偉大さを見せつけられている。そこで思うのだが、日本には、これほど頭の良い連中が居るのに如何して伏魔殿が存在するのか不思議でならない。しかし同じ人間です。昔の詩を思い出しました。「佛も昔は人だった。吾も終わりは佛なり」。
 IQの高い人も歳を取るのです。高齢者になってから多少は呆けるでしょう。認知症になるでしょうが、ここまで来ると楽しくなります。脳みそが詰まってない私の脳には隙間があるので、今からでも詰め足すことが出来ますが、脳満杯の人のIQは減少していく筈です。人生は高齢者になってからが面白い。

2016年11月 城谷一草「春秋庵雑筆」⑦< 丁字風炉の源慶さん>
○物を作るより、家造りが上手になっている作家が多くなった陶芸界だが、金城次郎さんは読谷に立派な窯を造った。当時は次郎さんの次男夫婦が大変だった。でもその甲斐あって沖縄で初めての人間国宝と謂う栄冠を得られたのです。


金城次郎パネル写真(古美術なるみ堂 ☏098-987-5530)

 焼物造りが至福の業と励む人がもう一人居た。小橋川源慶さんです。口数の少ない小柄だが、自分と同じ位の大物を作っていた。丁字風炉の名人で、何か丁字風炉に拘りがあったのでないかと思う。大和の陶工たちが丁字風炉を無視した観があったので、源慶さんは格別に拘ったかなと思うのです。私も大好きでたくさん扱いました。
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写真左から小橋川源慶氏、小橋川秀義氏、新城栄徳

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