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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 福岡在住の頃(1965年~69年)、太宰府の観世音寺にはよく出かけました。同寺は天台宗の寺院。山号は清水山。本尊は聖観音。開基は天智天皇である。九州西国三十三箇所第三十三番札所。 九州を代表する古寺。→ウィキ。有名な十一面観音や馬頭観音に惹かれていたからです。ともに5メートル余の巨体で、色彩が鮮やかに残っているのです。この仏像を見て思うことは、太宰府そのものと、その存在価値は私たちの評価以上の大きさをしめされるのです。
 当時、ライカとローライフレックスの二台を持っていた私、この二体の佛像は無二の被写体です。隠し撮りに最高のローライフレックスで撮影に成功したのですが、何時の間にか、この写真とネガを無くして仕舞いました。

城谷一草「春秋庵雑筆」⑩<小山冨士夫先生のこと >
 小山冨士夫先生は、九州の古陶に関心が高く、九州にはよく出かけてこられました。当時、私は福岡在住でしたので、小山先生にはよくお目にかかりました。当時、先生の作品を扱っていたのですが、不思議と売れませんでした。先生は講演会や食席、酒席をともにされると必ず茶碗やぐい呑みを「どうぞ」と与えるのが当然の如くでしたので、茶人の多くは茶碗を貰い、酒飲みはぐい呑みを頂いていたのです。唐津では必ず作陶されていましたので唐津焼の秀作が多く残りました。
 小山冨士夫展の話が決まりましたので、在庫分で宮崎の橘デパートで開催しました。完売したときに先生が急逝されましたので展示会は雲散霧消したのです。小山冨士夫先生は、加藤唐九郎さんの「永仁の壺事件」の被害者だと思っていますが、先生からこの事件の愚痴は一度も聞いたことがありませんでした。先生は陶磁研究の第一人者で、文部技官・文化財専門審議会委員であったが同事件で引責辞任。しかし結果的に先生は一人の陶芸家に転生されたことは非常に良かったのではないでしようか。

2016年11月 城谷一草「春秋庵雑筆⑪<廃仏毀釈の遺産をもう一度>
 宮崎県の法華嶽薬師寺は、越後の米山薬師(新潟県)、三河の鳳来寺(愛知県)と並び日本三薬師のひとつとして、また、平安時代の歌人、和泉式部が三年にわたって参籠し、病を治したという伝承があることでも有名です。50年位前、その伝承に惹かれて訪ねたことがあります。ですが、驚くべき奇観が展開して居りました。首が切り落とされた佛像が10体位でしょうか参道に並んでいたのです。これは一見して、廃仏毀釈の盛んな幕末から明治の初めに行われたものだと分かりました。
 廃仏毀釈で損傷した佛教の寺院、佛像は甚大なものだったそうですが、奇蹟的に命拾いした寺の建物に奈良興福寺の五重塔があります。今は国宝のこの塔が、なんと50圓とか200圓で競売に出されましたが、解体費が高く入札する者が居なかったそうです。木造の佛像など簡単に叩き壊されたものです。法華嶽薬師寺の首が切り落とされた佛像は、そんな歴史的遺産なのです。


2016年12月4日 写真左からー城谷陽くん、城谷一草さん、末吉安允氏

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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□携帯090-3793-8179□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。



1972年11月 沖青友の会機関誌『石の声』10号 
新城栄徳□試験管の中の人生ー試験管の中に人生を入れて種々の化学反応を試みるのが作家、あるいは文学者と称する人たちの仕事だと云われている。誰かさんは、カプセルという用語を使用していたが、博物館、美術館、記念館、島、家庭、雑誌などもカプセルといって良いだろう。

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Posted by: ryubun02

○去った11月25日は、沖縄タイムス主筆・末吉安恭(麦門冬)の命日で没後80年にあたる。その日の『沖縄タイムス』に琉球学の開拓者としての麦門冬を紹介した。ここでは麦門冬と沖縄県立図書館と、私との関わりを述べる。私は「ソテツの島」とも呼ばれている粟国島で、石垣と福木に囲まれて育った。近隣の殆どが首里の末裔だという。だから我が家の隣りには「首里福原」という集会所がある。

それはさておき、小学4年のとき、叔母が病死、祖父が日射病で死去。那覇の父の呼び寄せで家族全員が那覇に移住した。安里の伯母宅、親類の寄宮、楚辺などに住み、泊に定住し「ソバ屋」を始めた。その頃の那覇はトラックやバスが砂ぼこりや排気ガスをばら撒いて走っていて、その側を馬車がノンビリと馬糞を落とし散水しながら歩く。さながら西部劇映画の風景だ。泊界隈は空き地が多くカエルやクモをよく捕まえて遊んでいた。上之屋の外人住宅に行き(金網を潜って)同世代の子供とジェスチャーで会話しながらパチンコを作ってあげたりした。プラモデルの戦車や航空母艦、菓子などを簡単にくれた。プロレスごっこなどし楽しく遊んだ。

中之橋が出来ると前島は近くになり国際通りも近くなった。それまではよく首里の図書館、博物館に行った(学校をサボって)。首里図書館は、今の沖縄県立図書館の前身で館長は末吉安久、常駐していたのが嘉手納宗徳氏であった。そこでは日本歴史人物事典から挿絵入りで字も分からぬままに写していた。小学生が今頃ここに居るのはおかしいと嘉手納氏に説教された。安里の琉映本館では東映時代劇、貸本屋では漫画・劇画をよく見た。ウチナー芝居の那覇劇場は母に連れられて歌劇や琉舞が好きになる。

中学生になると、休み時間はいつも学校図書館で過ごしていたので、上級生の図書委員長(みつや書店の娘)に委員をさせられた。委員になると教師用や館内用の本も借りられるので良かった。委員会議というのがあるが義務ではないので出た記憶がない。図書委員バッジは今もある。私の息子や娘は大阪で生まれ育ったが、中学は私と同じこの学校である。さて中学生になると新聞もよく見る。『沖縄タイムス』『琉球新報』に記事は結果的に反米感情を煽る事件記事で溢れていた。

(略)

沖縄県立沖縄図書館長の伊波普猷がスキャンダルもあって上京しようとする中、末吉麦門冬の友人たちは、麦門冬をその後継図書館長にと運動していた。山里永吉の叔父にあたる比嘉朝健もその一人であった。その朝健の案内で、沖縄政財界に隠然たる力を持つ尚順男爵を訪ねた。かつて、麦門冬が閥族と攻撃した当人である。朝健の父・次郎と尚順は親しかった。朝健に引っ張られる形で尚順邸を訪ねた。史筆・漢詩人で知られる麦門冬である。漢詩人の尚順は、琉球料理で歓待し、長男・尚謙に酌をさせるなどの好意を示し麦門冬が語る郷土研究の情熱に、その館長就任に力を尽くすと約束した。が、麦門冬の水死でそれらが無に帰す。

後年、首里図書館に麦門冬の蔵書が寄贈された。尚順はその本の山を見て、微醺を帯びた麦門冬を想いだし漢詩を作っている。
  数奇閲歴麦門冬/俳句和歌一代宗/万巻遺書填巨館/猶留眼底半酣容     麦門冬遺書寄贈首里図書館詩中及此(昭和11年11月9日『沖縄日報』)

屋部憲次郎書

2005年5月ー沖縄タイムス「琉球弧の雑誌展」図録 新城栄徳「末吉麦門冬<」/b>



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Posted by: ryubun02

セザンヌ街道・セザンヌの記念碑ーサント・ビクトワール山を描くために、たまに昼食をとりにこの街に立ち寄ったセザンヌ。彼がなくなってから100年後に、この街はセザンヌへのお礼としてこの碑を作った。

エクス=アン=プロヴァンスまたはエクサンプロヴァンスは、フランスのブーシュ=デュ=ローヌ県の古都。略称はエクス。プロヴァンス伯爵領の首都として古くから繁栄し、現在は学術・芸術都市としてプロヴァンス地方の観光の拠点となっている。ウィキペディア
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Posted by: ryubun02
 1938年8月から須藤利一は『沖縄教育』に「ベージル・ホール大琉球航海記」を1939年まで連載。1938年12月には台湾愛書会の『愛書』に須藤利一は「琉球の算法書」を発表。

1940年1月、須藤利一は野田書房から『大琉球島探検航海記』を出した。発売所は東京は日本古書通信社代理部、那覇は沖縄書籍となっている。この本は天野文庫と比嘉文庫にあるが口絵に「バジル・ホール肖像」が付いていないが、戦後復刻本には付いている。また川平装幀も微妙に違う。


1940年3月1日『大阪球陽新報』金関丈夫

1940年8月、台湾で川平朝申、須藤利一、比嘉盛章、宮良賢貞が編集して『南島』第1輯が野田裕康(台北市兒玉町3ノ9野田書房内)より発行され須藤利一の「アダムスの那覇見聞録」が載っている。1941年、須藤は那覇で発行されている『月刊 文化沖縄』にも「w・ビーチ 琉球記」を連載。1942年3月『南島』第2輯には口絵に「バジル・ホール肖像」、中村忠行が口絵解説(バジル・ホール略傳)をなしている。



1944年2月 須藤利一『南島覺書』東都書籍


1952年7月 仲原善忠『琉球の歴史』上/下 1953年4月 琉球郷土史研究会

1954年3月13日~25日『琉球新報』須藤利一「パーカー訪琉日記」(え・山元恵一)

須藤利一原稿「パーカー訪琉日記」□もう15年も前に、バジル・ホールの「大琉球島航海記」を当時の「沖縄教育」誌に譯載し、のちに一本にまとめて、いま御地の放送局長として相変わらず活躍しておられる川平朝申氏の手になる立派な装幀で、台北の野田書房から出版したことがある。その直後、台北図書館の機関誌「愛書」の求めに応じ、この本にて延べさらに昔から、どんなうらんだあが琉球を訪れ、どんな記録をのこしているかを調べた結果を「異国船琉球漂到記」と題して一文を草した。のちに拙著「南島覚書」(昭和19年)に収録。ウィリアム・アダムス(三浦安針)、ベニオウスキ、ラ・ペルーズ、ビーチ、ベルチャ等の航海記を読めたのは、台北大学と台北図書館の特に内田嘉吉文庫のおかげであって東京在住の今日、これらの本のまとめての再読はかえって不自由である。・・・

南方同胞援護会/沖縄協会

右端が吉田嗣延

1968年11月
『沖縄問題基本資料集』南方同胞援護会
編集スタッフ本会編集委員/責任者=吉田嗣延 委員=城間得栄、宮良長欣、河野忍、久保田芳郎、比嘉正詔
沖縄資料センター編集委員/新崎盛暉、屋宜宣仁、我部政男、比屋根照夫

1972年7月
『追補版 沖縄問題基本資料集』南方同胞援護会
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財団法人・沖縄協会(東京都千代田区霞が関3-6-15グローリアビル内)


吉田嗣延『小さな闘いの日々ー沖縄復帰のうらばなしー』文教商事/吉田嗣義『老人ホームはいまー現場からの報告』ミネルヴァ書房

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沖縄大学の吉田嗣延文庫

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山田實さんは二中樹緑会の会員であった。その樹緑会の古い写真には大嶺政寛・政敏兄弟も写っている。最近、大嶺隆氏が沖縄本や雑誌に沖縄にこだわって発言しているのが目につく。私は画家・大嶺政寛さんには色々と可愛がってもらっていた。政寛さんの弟が画家・政敏、その子が隆氏である。1984年ー国会図書館に寄って帰り沖縄協会に行き、吉田嗣延氏に挨拶すると河野忍さんを紹介された。河野さんは部下の隆氏に私を紹介した。隆氏は私の話を聞き機関紙『沖縄』で紹介してくれた。
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河野忍さんハガキ→新城栄徳宛/河野さんが紹介されている沖縄の新聞1985年1月17日
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グローリアビル入口で右・河野忍さん、新城栄徳


1982年6月、戦前から異国船に関心を持ってきた川平朝申や、国吉真哲、中今信、曽根信一ら数十人が集い、琉球航海記を中心とした沖縄の歴史・文化・人文の研究調査の発展をはかり、地域社会の思想・文化の向上に寄与することを目的に、会長に川平朝申、事務局に外間政彰で異国船琉球航海記研究会(通称バジル・ホール協会)が発足した。発会の記念講演は照屋善彦琉大教授で、会場にはぺルリ艦隊の乗組員の曾孫にあたるヨセフハンディー夫妻も参加した。川平会長の母と、西平守晴南島史学会大阪支部長夫人の母とは姉妹の関係で、大阪在住の新城栄徳も会員として末席をけがした。

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「川平朝申氏寄贈写真」(那覇市歴史博物館所蔵)写真後方左が西平守晴、前右が川平朝申


1983年10月 仲里秀雄・玉寄貞夫『粟国島民謡集』

 川平朝申は今ではあまり知られていないが、弟の朝清氏(昭和女子大学名誉理事)はディスク・ジョッキー・タレントのジョン・カビラ、俳優・タレントの川平慈英の父である。新城栄徳の伯父の玉寄貞夫は1983年に元粟国村長の仲里秀雄と共著で『粟国島民謡集』を出した。その刊行前に琉球民謡協会名誉会長の川平朝申氏のところへアポなしで伯父を同行し序文を依頼した。川平氏はその場で「このほどバジルホール協会会員の新城栄徳君が粟国民謡研究家の玉寄貞夫氏を伴い来訪し、粟国島民謡集を出版するから1文を章して欲しいと望まれた(略)粟国島の民謡が沖縄全島の舞踊となった『むんじゅる平笠』を讃えて、御祝いの辞といたします」と太い万年筆で書いてもらった。

琉球の絵師・慎克凞と阿嘉宗教
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左、1990年7月18日『沖縄タイムス』/右、1988年7月4日『琉球新報』

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写真/上ー大城立裕夫妻と西平守晴ら。
中ー川平さんと西平守晴。右下ー川平さんと新城栄徳。

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Posted by: ryubun02
1966年2月7日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<1>ー有島生馬画伯①、東郷青児画伯②、中村琢二画伯」
有島生馬
洋画家・小説家。神奈川県生。小説家有島武郎の弟、里見弴の兄。名は壬生馬、別号に十月亭。東京外大卒。洋画を藤島武二に師事し、二科会を創立したが、抽象派に反発してのち一水会を創立した。「白樺」の創刊に加わり、小説には『蝙蝠の如く』『嘘の美』などがある。また翻訳・美術随筆にも腕をふるう。芸術院会員。文化功労者。昭和49年(1974)歿、91才。

1966年2月8日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<2>ー森田元子画伯、中村善策画伯、吉井淳二画伯③」

1966年2月、琉球新報の依頼で山田写真館の2階で、二科の東郷青児が琉装の宮平敏子さんをモデルにスケッチしているところを山田實さんが撮った。そのときの記念写真には、大城皓也、平良進、東郷青児、吉井淳二宮平敏子が写っている。お礼の東郷青児から山田さん宛のハガキがある。1986年1月24日『週刊レキオ』には東郷青児の絵、9月19日にはモデルの宮平さんの娘時代の写真が載っている。
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1966年2月16日、山田写真機店2階で山田實撮影。東郷青児を前に後右から宮平敏子、吉井淳二、平良進、大城皓也
②東郷青児
戦後のある日、有島生馬らと長野県に疎開していた東郷青児は列車で東京に向かった。戦前、軍部から「フランス文化の植民地」と云われて解散させられた二科会の再建を全国の有志に呼びかけるためだった。東郷は再建のためには、二科展覧会をお祭り騒ぎの見世物と、自らを風俗画の職人に堕落しているとの批判も無視。二科に写真、商業美術、マンガ部などを新設し二科を東郷調に近代化した。また日仏交流も促進した。東郷は「明治の藤島武二、大正の竹久夢二、この三代の三ジによって日本の洋画の人気は博している」と語り胸を張ったという。
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『吉井淳二自選展』1981年 毎日新聞社
③吉井淳二 よしい-じゅんじ
1904-2004 昭和-平成時代の洋画家。
明治37年3月6日生まれ。昭和元年「花と女」で二科展初入選,15年二科会会員となる。40年「水汲」などで芸術院賞。44年「浜辺の井戸」で二科展内閣総理大臣賞。51年芸術院会員。54年-平成10年二科会理事長。平成元年文化勲章。写実的な画風で,働く庶民の群像をえがいた作品で知られる。特別養護老人ホームを開園するなど社会福祉にもつくした。平成16年11月23日死去。100歳。鹿児島県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。(→コトバンク)


1966年2月9日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<3>ー水谷清画伯、島野重之画伯、田中繁吉画伯」
1966年2月10日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<4>ー荒谷直之介画伯、小堀進画伯、土田文雄画伯」

1966年2月11日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<5>ー楢原健三画伯、高野真実画伯、伊藤清永画伯④」
④伊藤清永は1911年(明治44)兵庫県下出石町下谷(しもたに)に生まれ、
日展と白日会を中心に活躍した文化勲章受章の洋画家です。 後年は、繊細な色線を無数に重ねて描き出される豊麗優美な裸婦像で知られています。 岡田三郎助の薫陶を受け、東京美術学校在学中の1933年第14回帝展に初出品、初入選。
1936年文展(文部省美術展)で選奨を受賞、白日会会員となり画家としての道を確立しました。
70年近い画業の中で、一貫して女性美の表現技法を追求し、温かみのある独自の画風を築いて見る人を魅了しています。2001年6月5日軽井沢のアトリエで制作後急逝し、製作中の「ばら」数点が絶筆作品となりました。→豊岡市立美術館-伊藤清永記念館



1966年2月12日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<6>ー藤本東一良画伯⑤,成井弘画伯、浦崎永錫画伯」
⑤藤本東一良 ふじもと-とういちりょう
1913-1998 昭和-平成時代の洋画家。
大正2年6月27日生まれ。昭和14年光風会でF氏賞を受賞し,21年会員。日展で21年,22年連続特選,56年「五月のコート・ダジュール」で文部大臣賞。平成5年「展望台のユーカリ」で芸術院恩賜賞,同年芸術院会員となる。明快な色調で海の風景をえがく。平成10年9月17日死去。85歳。静岡県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。→コトバンク

1966年2月16日『琉球新報』「有島生馬氏ら来沖 写生旅行の大家17人」
1966年2月17日『琉球新報』「いちばん”悲しい日〟現代大家沖縄写生会戦跡地で感無量」
1966年2月19日『琉球新報』「沖縄を描くー有島生馬、東郷青児」
1966年2月21日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(1)高野真実」
1966年2月22日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(2)森田元子」
1966年2月22日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(3)吉井淳二」

1966年2月24日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(4)有島生馬」
1966年2月25日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(5)荒谷直之介⑥」

1966年2月26日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(6)土田文雄」

1966年2月26日『琉球新報』「”いい仕事ができた〟沖縄写生会の画伯帰る」
1966年2月28日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(7)田中繁吉⑦」
⑦田中繁吉ー日本画家。明治31年(1898)福岡県生。東美校卒。藤島武二に師事する。創元会常任委員・日展参与。東京住。

1966年3月1日『琉球新報』「沖縄の風物 現代大家洋画展ー荒谷直之介⑧、森田元子⑨、有島生馬、楢原健三、中村琢二、土田文雄⑨、浦崎永錫、藤本東一」/沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(8)小堀進」


荒谷直之介 あらたに-なおのすけ
1902-1994 大正-平成時代の洋画家。
明治35年5月11日生まれ。葵橋洋画研究所で黒田清輝らにまなぶ。光風会,日本水彩画会に出品。昭和15年昭和洋画奨励賞。同年水彩連盟を創立。18年みづゑ賞。21年一水会会員となる。日展評議員,参与をつとめる。平成6年2月18日死去。91歳。富山県出身。作品に「三人の像」「憩う裸婦」など。 →コトバンク

 ⑧土田文雄 つちだ-ふみお
1901-1973 大正-昭和時代の洋画家。
明治34年2月22日生まれ。大正7年川端画学校にはいり,藤島武二に師事する。10年院展に初入選。梅原竜三郎に傾倒して,15年から国画創作協会展に出品し,昭和18年国画会会員となる。29年武蔵野美大教授。昭和48年2月22日死去。72歳。山形県出身。米沢中学卒。作品に「海浜の朝」など。 →コトバンク

⑨森田元子ー昭和期の洋画家 女子美術大学教授。 生年明治36(1903)年2月11日 没年昭和44(1969)年8月12日 出生地東京・青山 学歴〔年〕女子美術専門学校洋画科〔大正13年〕卒 主な受賞名〔年〕岡田賞〔昭和21年〕「婦人像」 経歴岡田三郎助に師事して室内女性像を数多く描き、昭和2年に官展初入選後、官展系画家として地歩を固めた。女子美在学中に「主婦の友」の表紙懸賞に入賞、川端康成、大岡昇平、源氏鶏太らの現代もの新聞小説の挿絵も担当。また女子美大教授として後進の女性画家を育てた。→コトバンク

1966年3月3日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(9)成井弘」
1966年3月4日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会 中村琢二」

1966年3月7日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(11)島野重之」
1966年3月8日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(12)楢原健三」
1966年3月9日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(13)藤本東一良」
1966年3月10日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(14)伊藤清永」

1966年3月11日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(15)水谷清」


1966年3月3日『琉球新報』現代大家沖縄写生会の産婆役ー浦崎永錫□複雑な人間関係の画壇事情にもくわしい。各美術団体の代表者格そろって、取材旅行ーという初の試みであった「現代大家沖縄写生会」も、浦崎氏の美術界での政治的力量のほどを示したものといえる。那覇市出身、六十五歳。

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1927年ー渡口精鴻『呼吸器病の知識ー付肺結核の臓器療法』南江堂
国民新聞 1921.11.17(大正10)「百日咳の世界的新療法」
○百日咳に対する世界的の新療法が警視庁細菌検査所の渡口精鴻氏に依って発見せられた始め動物試験に於て成功したる同氏はそれを自分から自分の家族に試み更に最近に至って済生会病院の豊福博士慶応病院の唐沢博士神田の藁科小児科病院等に於て患者に之を試みたが何れも大なる好成績を挙げていると云うことである新療法とは百日咳に対するアンタゴニスムス(拮抗菌)の発見である・・・・□→神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 衛生保健(3-182)

関西沖縄県人会初代会長・渡口精鴻


1933年5月5日ー大宜味朝徳主幹『南島』(郷友版)□「医学博士・渡口精鴻氏に物を訊く座談会」
渡口精鴻氏の経歴
記者・博士の出生地はどちらでありますかー渡口「那覇泊ですよ明治14年1月20日生まれです」。記者・沖縄県では矢張り県立医学校を御卒業になりましたかー渡口「そうです明治35年卒業と同時に熊本で開業医の試験を受けて医師の免許を受けたのです」。記者・上京しましたのはいつ頃でありましたー渡口「明治42年に上京して約一ヵ年間伝染病研究所と帝国大学の病理教室で実地の研究をしました」。記者・官途におつきになったのはー渡口「明治43年末より大正12年まで青森、香川、神奈川関東庁警視庁茨城において防疫官ならびに衛生技師として就任してきました、その間には赤十字病院の検査部長を兼任していたこともありました。愛国婦人会や看護婦養成所の講師に招聘されたこともあります」。記者・大阪で開業せられたのは何年でしたー渡口「官職をやめて大正12年に大阪で独立開業しましたが研究其の他の都合で大阪を引き揚げて東京に参りました。上京当時は一時青山北町に診療所を開設しましたが大正15年に現在の場所(蒲田区蒲田470)に新築移転してきました」。

大阪の県人会
記者・大阪の沖縄県人会長に就任せられたのは大阪で開業せられた時ですかー渡口「そうです。大阪の県人会は陣容はなかなか堂々たるものです。春秋の会合は一流の公会堂で開催しますが会員の熱心が東京とはちがいます」。記者・東京の県人会と大阪の県人会とどう違いますかー渡口「東京は学生が多いが大阪は勤労者が多い。従って東京は理論が多いが大阪はどっちかと云えば実際運動が多いようです」。記者・只今ほかに公職に御関係がありますかー渡口「出来るだけ御免を蒙りたいと存じますがそれでも医政調査会と日本医師刷新聯盟の委員になっています」。

博士になるまで
記者・あなたは県人中第一番目に博士になられたと記憶していますが学位はいつ得られましたー渡口「大正12年の4月9日東京帝国大学医学部教授会から医学博士の学位を授けられました、論文は『インフルエンザ菌および百日咳菌と他の細菌との関係ー共棲ならびに拮抗作用に就いて』でした」。記者・其の研究のために奨学資金を得られたんですかー渡口「そうです東京帝国大学と横浜医学会から2回受けました、百日咳薬と肺結核の新薬として僕の創製したハイルミンは昭和6年6月内務省国産奨励指定薬にされています」。記者・博士になるまでの苦心談を聞かしてくれませんかー渡口「僕のは苦心と云えば苦心もあったが、防疫官または衛生技師と云う仕事が自然研究せしめたようなもので仕事に一生懸命やったことが僕の研究を大成せしめたと云うのでしょう。伝染病または防疫上研究に都合のよい地位にいたことが主です。医学会には実験報告は47、8回だしました」。

(略)

沖縄救済問題
記者・沖縄救済運動に就いてどう考えますかー渡口「沖縄救済運動も大正10年ごろから叫ばれているが声の大きい割合に、成果は挙がらんようだネーもっと根強い根本的な運動が必要である。それにしても常に当局を鞭撻する政治家がなければならぬと思う、開会中だけj上京し或いは旅費を貰って陳情運動に出てくるようではカラ熱はない。代議士も知事の尻馬にばかり乗っていずにもっと自主的に自己の党を動員して仕事は出来ないもんかネー」。

東京沖縄県人会1933年春季大会ー中央右より渡口精鴻・東京沖縄県人会会長、長嶺大佐、上与那原大佐


1934年


1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

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1971年9月 沖青友の会機関誌『石の声』8号への提言


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2009年9月17日ー「第45回琉球新報賞」を大田昌秀、大城光代、山田實の諸氏とともに受賞した獣医学博士・根路銘国昭氏(右)と挨拶をする新城栄徳(左端)

1995年  根路銘国昭『ウイルスで読み解く[人類史]』徳間書店

□1996年1月ー根路銘国昭『超ウイルスー太古から甦った怪物たち』(カッパ・サイエンス)光文社
2000年8月 根路銘国昭『驚異のウイルスー人類への猛威と遺伝子が解く進化の謎』羊土社
2004年  根路銘国昭『出番を待つ怪物ウイルスー彼らはすぐ隣にいる』光文社

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1897年  9月25日ー沖縄県那覇区下泉町にて父正芳・母ツルの二男一女の長男として出生 
1905年  那覇区立甲辰尋常小学校
5年生頃よりメソジスト教会牧師H・B・シュワルツ師に英語を学ぶ。この時の恩師が佐久本嗣宗。正通□佐久本先生は私達が甲辰尋常小学校の生徒であったとき、沖縄の天地創造や三山統一の歴史を熱心に説かれた。日本歴史には、蘇我物部、藤原菅原、南朝北朝、源平、豊臣徳川、勤王佐幕、といつも二つの対立しかないのに、沖縄には北山中山南山と三つの鼎立のあった史実を知って、二より三が多いというむつかしい算術まで知っていた私は、大沖縄帝国は広いなあと子供心に言い知れぬ誇りを感じたものである。→城間正八・佐久本嗣宗『隠れたる偉人ー城間正安翁ー』玻名城印刷所1932年5月
        
1911年  沖縄県立第一中学校入学
1915年  6月6日、那覇尋常高等小学校で琉球新報主催「学生雄弁大会」一中代表として石川正通英語演説「立てよ沖縄青年」と云う題下に流暢明快の弁を揮った。商業の玻名城政博は「統計上より本県の輸出入関係」を述べ警醒を促した。商業の渡久地政憑「立てよ日本青年」と題し日本の将来を考えよと提唱。徒弟の真栄城玄明は「犠牲的精神の涵養」と題し述べた。他に県農の比嘉盛宮、徒弟の中原政良、二中の安慶田正松、商業の宮城邦英「道徳の効果」、師範の石垣信知、一中の大浜用介「沖縄の宝庫は八重山なり」、徒弟の原秀樹、二中の前田豊、水産の東恩納寛成、一中の平野弘「冒険的日本男児たれ」、二中の嵩原佐久利、師範の佐久川饒、水産の勢頭眞佐、県農の田港朝全、師範の前堂貞烋が演説した。

石川正通〇南方熊楠は、山口沢之助校長と同郷和歌山県の大先輩、奇行に富む世界的大学者。山口校長が折に触れて話された、南方熊楠の逸話は一冊の本にも纏め得るほど、僕はあざやかに覚えている。山口校長の講義は、僕にとっては生理学でなく、熊楠学であったと、今でも有難く思っている。脱線学の妙味ここにあり。(1980年12月『養秀百年』)

1916年  一中退学、私立麻布中学校へ転校。3月29日、真玉橋朝起、武元朝朗、竹内弘道たちに見送られて沖縄丸で上京、甲板上で明大受験の城間恒昌、杉浦重剛校長の日本中学に転校する我部政達と3人で雑談に耽る。4月3日東京駅に着く。翌日、比屋根安定が大八車で荷物を一緒に運んでくれる。斎藤秀三郎校長の抜擢で正則英語学校講師となる。後に比嘉春潮(荻窪)、島袋盛敏(成城)、比屋根安定(青山学院構内)、仲吉良光(鶴見)、八幡一郎(東中野)、金城朝永(大塚)、石川正通(本郷)の7人で七星会結成する。

□斎藤秀三郎 【さいとう・ひでさぶろう】
生年: 慶応2.1.2 (1866.2.16) 没年: 昭和4.11.9 (1929)
明治大正時代の英語教育者。仙台生まれ。仙台藩士で運上方の斎藤永頼の長男。父の手ほどきで英語を学び,宮城英語学校を経て明治14(1881)年工部大学校に入学。在学中に英語教師のJ.M.ディクソンから強い感化を受けた。その後,岐阜,長崎,東京の一高などで英語を教えたが,明治29年正則英語学校設立以後,精力的に英語の文法書,読本の註解書,和英・英和辞書の編纂に従事した。その作文練習問題や和英辞典の用例には自伝的要素が濃厚。多磨墓地に墓がある。妹は明治女学校生だった斎藤ふゆ,次男は音楽家の斎藤秀雄,次女の婿は無教会伝道者の塚本虎二。<著作>『熟語本位英和中辞典』<参考文献>大村喜吉『斎藤秀三郎伝』 (コトバンクー加納孝代)

1918年  国民英学会講師、逗子開成中学校講師(ここでの教え子に、平野威馬雄、岡田時彦・女優茉莉子の父、徳山環ー歌手)、大成中学校講師、東洋商業学校講師


□平野威馬雄の本

1919年  保善商業学校講師(国語担当)、明治学院専門部講師(現明治学院大学)
1922年  第三版『全訳・シャーロックホームズ』越山堂。文部省中等教員英語科検定試験合格
1923年  8月ー沖縄県立第二中学校講堂で石川正通「英語講座」、伊佐三郎、赤嶺康成ら参加 
1924年  東北帝国大学法文学部文学科入学。在学中、土井晩翠の寵愛を受けた。
        
土井晩翠
仙台市生れ。本名、土井(つちい)林吉。姓は1934年から‘どい’という通常音を容認。1894年、東大英文科に入学、
同年末に結成された帝国文学会に加入。その機関誌「帝国文学」に1895年11月から新体詩を載せ始め 翌年3月から編
集にも携わり、1898年、ユゴーの詩集『光と影』の序文を訳載した。この年、東京音楽学校の依頼で『荒城の月』を
書いた。大学卒業後 1901年6月に私費で外遊、ロンドンで夏目漱石と同居し、滝廉太郎とも会っている。1904年10月
までに至る欧州諸国での感興はその詩作の主要なモチーフとなった。「帝国文学」などに寄せられた諸詩篇は『天地
有情』(1899)『暁鐘』(1901)『東海遊子吟』(1906)の3集にまとめられた。 その作は一貫して文語で書かれ、漢語利
用の効果も目立ち、はじめ七五調によったが、さらに他の定形にも手を染め、自由詩の試作にも及んでいる。1945年
7月、戦災によって万巻の蔵書を、また1948年までに妻子のすべてを失い、没年まで孤寂の時を過した。前記3集の他
『曙光』(1919)、『天馬の道に』(1920)、『アジアに叫ぶ』(1932)、『神風』(1936)があり、他に数種の選集も出た。
尚、唱歌や校歌の類も多く、短歌の制作もあって後に『晩翠歌抄』(1949)に収められた。/「日本現代詩辞典」

1925年1月29日『沖縄朝日新聞』石川正通「朝日歌壇ー雪の●日本/冬空に茜さす日は登りたり 小鳥よ啼け雪遠き間に/この寒さいよ つのらば川の音も 氷の下にひそまるらんか/日の照りつ雪の舞ひ舞ふ冬空に こだまを返し鶏はひた鳴く/久方に映えし朝日ををろがむと 窓を開けば雪片の舞ひ入る/変装の雪は悲しも舞ひ舞へど このたまゆらの白雪にして/憎らしく可愛きものよじやれ雪は 我が唇に止りては消ゆ/冬籠る我が部屋ぬちに炭聞きつ 幼き●の友想ふなり」

1928年  東北帝国大学法文学部国文科卒業。卒論「近松門左衛門の世話浄瑠璃について」。国民英学会講師に復職、京華高等学校教諭、日本女子高等学院英文学科教授
1929年  雑誌『イギリス文学』に「ヘルンの『沙翁論』」
1933年   『南島』1月1日□石川正通氏ー伊波普猷先生と共力で近く日英両文の沖縄案内を発刊する由
         『南島』4月5日□石川正通「三十七歳の曙光」「玉城朝薫の二百年祭に當りて」
         『南島』8月5日□石川正通氏ー7月24日、澄子夫人同伴帰郷 約1カ月滞在予定、二高女で英語講習会開催□石川正通「夏は故郷で=鎖夏漫筆=」
1934年   『南島』8月1日□石川正通「友の首途を祝して故郷を語る=武元朝朗・國吉休微両君を叱咤する=(略)最近出た某書店の百科辞典を引いて見たが、おもろ、蔡温、程順則、尚泰侯爵も出て居ない。沢田正二郎、田健次郎等は写真まで出て居る。土田杏村が第二の万葉集と言った『おもろ』も国語国文学校の士すら全般的に知られて居ない。」

1934年  青山学院専門部講師
1936年1月 『沖縄教育』(有銘興昭)石川正通「東京生活二十年」「年賀集ー下村宏、山城東榮、新屋敷幸繁、石川正通、川出麻須美、北里闌、アブラタニ キクジロー、村尾三郎、辻木、末原貫一郎、青山於菟、堀池英一、石井漠、田場盛義、島袋盛敏、安部金剛・安部ツヤコ」

1938年  
 
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1939年   
                 
         
       このころ母校一中で講演
1939年  1月『月刊琉球』石川正通「傷心の友に」
       
 
 1939年1月1日『琉球新報』石川正通「幽明を境して=太田朝敷先生と語る=(略)皮肉屋の斎藤緑雨君と飲んで居た末吉麦門冬君’娑婆からは十 億土一またぎと駄句って’」

        

1944年  戦時中の英語教育政策により京華高等学校退職。東洋大学講師、本海上火災保険に入社(外国課勤務)
1945年  空襲で自宅と5万冊の蔵書全焼。陸軍省嘱託俘虜情報局通訳官、翻訳官、陸軍省嘱託憲兵司令部通訳官

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1938年3月30日『沖縄日報』


11月15日、年賀状を書いている渡口彦邦氏


11月28日、渡口彦邦氏とあけみ、ひより


12月5日 城谷一草「印」を捺す渡口彦邦氏


2015年7月 『趣味の文房具』枻(えい)出版社 古山浩一=絵と文「沖縄 渡口萬年筆店 渡口彦邦さん」


2017年2月28日 沖縄県立博物館・美術館で渡口彦邦氏(左)と田名真之館長

那覇市歴史博物館「沖縄のシンボル 守礼門」展

2010年7月28日ーギャラリートーク 湖城英知「2、000円札発行について」/写真・左から、新城栄徳、渡口彦邦氏、講師の湖城英知氏、大城宗憲氏、那覇市民文化部の島田さん。



写真上は泊高橋近くの安里川沿岸の渡口萬年筆店の広告/下ー毎年発行の手帳の巻頭に記されている。


1955年3月 大林天洞 筆「渡口商店々訓」

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「川平朝申氏寄贈写真」(那覇市歴史博物館所蔵)

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コメントはメールにお願いします→shinjo8109@yahoo.co.jp

2016-10-28 前島から中の橋方面を望む。手前で工事中

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2009年1月ー那覇市歴史博物館「伊江御殿伝世品展ー近世琉球上級士族の世界」




●伊江朝雄氏と新城栄徳

●旧沖縄県立博物館の蘇鉄


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 先生との初めての出会いは、先生常宿のホテルの部屋でした。当時、既に陶芸界の重鎮でしたので、若造だった私は興奮気味でした。先生は開口一番「君は、今の陶芸家たちをどうして作家と呼ぶのか知ってるか」と聞かれましたが、分かりません、と答えると、「今の陶芸家は一寸売れ出すとすぐ、窯より先に家を作るだろう。だから作家と云うのだ」と破顔一笑された。なるほど、有田の陶工の家は皆、立派なものだ。先生は「俺は家がボロボロだからホテル住まいだよ。そのかわり窯は日本一だ」。この初対面で私は先生に惚れ込んで仕舞ったのです。

○加藤 唐九郎は陶芸家、また陶磁史研究家。愛知県東春日井郡水野村出身。桃山時代の陶芸の研究と再現に努めたが、永仁の壺事件で行った捏造により、無形文化財の資格を失った。事件後は作陶に専念した。建築物と陶磁器の組み合わせ陶壁を創出。陶壁は唐九郎による造語。 →ウィキペディア


2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」③< 南大東島の石と黒木の勾玉>
 写真は勾玉です。この素材は、南大東島の石と三線の棹に使う黒木です。二つとも、沖縄特産で先述の石は模様がとても美しいのです。黒木は木材で最も堅く、勾玉には最適だと思います。この二つの素材にもっと注目してほしいものです。

○勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、先史・古代の日本における装身具の一つである。祭祀にも用いられたと言われるが、詳細は分からない。語の初出は『記紀』で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られる。語源は「曲っている玉」から来ているという説が有力である。日本本土では、現在まで神社等でお守りとして販売されているが、沖縄ではノロ(祝女)の祭具として使用され、現代もその伝統が受け継がれている。古琉球時代(14世紀 - 16世紀)の遺構からは、玉製以外にも金製や陶製の勾玉が出土している。→ウィキペディア

2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」④< 夢二のキャラメル>
 明治の末から大正にかけて、叙情の世界を展開した”竹久夢二〟の女性は、明治末に発刊された平塚らいてうの雑誌『青踏』の新しい女と共に、新時代の夢を、そして憧れや哀愁が描かれた時代でした。夢二の代表作「黒船屋」は、現代人にも美しく映りますが、当時の日本は軍国主義に突き進んでいった情勢でしたが、大正ロマンという幕も張りだしていましたので今から思えば奇妙な時代だったと思います。
 
夢二がデザインしたキャラメルの箱が大阪のペンフレンドから送られてきました。
  
2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」⑤< 陶印に思う>
 趣味の一つに、陶印作りがあります。粘土は腐るものではないから年中家に準備している。焼成は親しい窯に依頼し焼いて貰っている。陶印は手紙や日記などに捺して楽しむ印、遊印です。あくまでも趣味の世界のもので無趣味の人には無価値です。私は陶印クラブみたいなものを作りたいと思っています。


城谷一草「作品」


2016年11月14日 写真左からー城谷陽くん、城谷一草さん、新城栄徳

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写真左から新城栄徳、仲程香野さん、仲本潤英氏、金城美奈子さん

○1960年4月『オキナワグラフ』仲本潤英「沖縄の親たちに」

新城栄徳、仲本潤英氏

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2016年11月13日『沖縄タイムス』「戦後初のアナウンサー 川平朝清さん」


2013年3月30日 川平朝申の児童文学を研究している齋木喜美子さんと川平朝清氏(東京沖縄県人会7代会長)



2016年10月26日 国際通り「世界のウチナーンチュ大会前夜祭パレード」/県外の県人会

1979年12月10日 東京沖縄県人会機関紙『東京沖縄の人』(『おきなわの声』)創刊
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11月10日東京沖縄県人会機関紙『東京・沖縄の人』「画家岡本太郎氏が空手のマネをしながら登場。独特の語り口で『沖縄には人間らしい本当の心や姿があるが、ヤマトの金本位の空気にやがて侵されるのではないか』と身ぶり入りで語った。」


『おきなわの声』と新城栄徳
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1979年12月10日 東京沖縄県人会機関紙『東京沖縄の人』(『おきなわの声』)創刊
1986年1月15日『月刊おきなわの声』第74号□此処に人あり 新城栄徳さんー行動力に富んだウチナンチュであり「沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る、イチムドウヤー人生に埋没する」風変わりな友人の一人であると津野創一氏は結んでいる。

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沖縄新聞・機関紙相関図


 
『関西沖縄県出身者名簿』沖縄県大阪事務所(1981年3月)

 『関西沖縄出身者名簿』の内容は、国会議員、沖縄県の機関職員、関西の沖縄県人会、在阪支社懇話会、琉球舞踊研究所、沖縄料理店、三味線レコード店、沖縄県物産振興会、がじゅまるの会、琉大機工同窓会、主要企業関係者、法律・会計・税務所関係、幼稚園・保育園関係、各県の沖縄県人会、関西養秀同窓会、北親睦会の名簿で構成されている。私の名前はその他のところ、下地玄信、大城一史、金城実の諸氏のところに並んでいる。この名簿は当然に東京の県事務所にもおくられた。東京のほうもこれにならい(財)沖縄協会に委託。82年に『関東沖縄県出身者名簿』が発行された。

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写真上ー1995年の第二回世界のウチナーンチュ大会会場で左から山口國雄氏、新城栄徳/写真下ー2001年の第三回世界のウチナーンチュ大会会場で左から山口國雄氏(東京沖縄県人会4代会長)、福地曠昭氏(撮影・新城栄徳)

1951年6月 雑誌『おきなわ』通巻12号 山城文盛「抑留生活の思い出」

1984年1月25日『琉球新報』「山城文盛さん(1978年 東京沖縄県人会2代会長代行) 東京の県人会機関紙 50号目を発行」

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1959年10月ー東京沖縄県人会会場の廊下で、貘、伊波南哲、霜多正次、当間嗣光、平良真英、新崎盛敏(東京沖縄県人会3代会長)、金城唯温、「志多伯」「おもろ」「紅型」など泡盛屋のオヤジ、紅一点の山口一子

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 戦前・戦後、常に東京沖縄県人会の指導者であった神山政良氏が1966年3月に『年表ー沖縄問題と在京県人の動き』を琉球新報社東京総局から発行している。その年表によると東京で沖縄県人会という名称は、1921年1月23日に明正塾にあった沖縄県青年会を改称した沖縄県人会が最初のものである。戦前の東京沖縄県人会①には在京の県人会幹部名を列記したが今回は個人別に紹介する。出典は1940年の東京沖縄県人会名簿。

安次富松蔵(済美中学校)ー杉並区方南町、安次富長英(森野商店東京支店)ー四谷区愛住町、安良城盛英(本郷元町小学校)ー板橋区練馬南町、安次富武集(専売局)ー葛飾区本田立石町、安谷屋長治ー(自動車修理製作)ー京橋区湊町、安仁屋政成(洋服商)ー淀橋区東大久保、安谷屋正伯(専売局)ー葛飾区上小松、有銘與明(文化工業所)ー浅草区壽町、安座間喜政(日本橋区箱崎尋常小学校)、安次富松山(警視庁)、安次富武雄(明治鉱業長井海水試験場)ー神奈川県三浦郡長井町、安次富福介(小原光学)、芝田町

伊波普猷(千代田女子専門学校講師)ー中野区塔ノ山、伊波興一(日暮里警察署)ー下谷区下根岸、伊波南哲(丸の内警察署)ー淀橋区角筈、伊江朝助(男爵、貴族院議員)ー中野区高根町、伊江朝睦(小菅刑務所所長)ー葛飾区小菅町、伊禮肇(弁護士、代議士)ー品川区大井山中町、伊元富爾(中外商業新報政治部次長)ー本郷区いが林町、伊集治宗(帝国無尽株式会社)ー世田谷区赤堤、石川正通(武蔵野女子学院教授、京華中学校教諭)ー本郷区浅嘉町、石原三覧(医師)ー渋谷区原宿、石原守規(中野第5小学校)、石原昌栄(警視庁)ー小石川区茗荷谷、石嶺傳亮(歯科医)ー赤坂区青山北、石垣永助(改造社)ー大森区馬込町東、糸嶺篤栄ー神田区松永町、石川正治(山口自転車工場販売部)ー日本橋区小傳馬町、伊志嶺朝良(東亜海運株式会社)ー大森区調布嶺町

上原恵道(三菱航空株式会社、海軍機関中佐)ー市外吉祥寺、上原健男(日本大学講師、弁護士)ー本郷区真砂町、上原隨昌(警視庁)、上原眞清ー板橋区板橋町、上江洲由英(下谷高等小学校)ー豊島区池袋、上間清享ー本所区小梅町、上間助三(東京地方専売局芝工場)、上里朝秀(成城学園高等女学校主事)ー世田谷区祖師ヶ谷、上里参治ー中野区打越町、宇久里清(板橋第二小学校)、浦崎永錫(美術界記者)ー埼玉県大宮町、内間仁徳(芝区三光小学校)ー芝区二本榎西町、内盛唯夫ー世田谷区太子堂

大濱信泉(早稲田大学教授)ー杉並区和田本町、大濱信恭(東京市厚生局)、大濱晧(帝京商業学校教諭)、大濱潔ー江戸川区小岩町、大濱孫詳(東京湾汽船株式会社)、大濱善勤ー淀橋区角筈、大濱正忠ー世田谷区鳥山町、翁長助俊(東京市総務局文書課)ー中野区昭和通り、翁長良保(旭硝子株式会社総務部長)ー杉並区馬橋、翁長長助(蒲田矢口東小学校)、翁長長圭(呉服商)、大塚長昌(東京府総務部人事課)、大城朝申(東京地方裁判所判事)ー杉並区松庵代町、大城兼義(東京無尽合名会社)ー世田谷区上北沢、大城兼眞(医師)ー小石川区下富坂町、大城仁輔(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、大城助十(城東区浅間小学校)ー豊島区巣鴨、大城盛隆ー麹町区平河町

大城幸清(小原光学株式会社)ー荏原区下神明町、大城幸助(東京光学機械株式会社)ー板橋区志村本蓮沼町、大城川次郎(農林省林業試験場)ー荏原区戸越、大城太郎(榎本光学株式会社)ー豊島区長崎東町、大城永茂(豊島生田第二小学校)、大城源次郎ー渋谷区幡ヶ谷本町、大城孝清(板橋開進第二小学校)、大城幸英(小原光学株式会社)ー芝区田町、大城梅春(漢方医)ー荏原区下神明町、大城久栄(専売局)ー本所区横川橋、大城藤徳郎(専売局)ー品川区西品川、大城藤太郎(専売局)ー品川区西品川、大城伸夫(日本製鉄株式会社)ー品川区大井瀧王子町、大嶺三郎ー小石川区表町、大嶺詮次(京橋郵便局)ー豊島区池袋、大嶺英意ー麹町区永田町、大嶺英徳ー足立区千住柳町、大村寛康(小石川青柳小学校)

大宜味朝徳(海外研究所主宰)ー本郷区駒込蓬莱町、大浦英美ー深川区千田町、大谷次良(大村自動車商会主)ー麹町区麹町、大盛英意ー麹町区永田町、奥島憲仁(弁護士)ー小石川区柳町、奥間徳一(芝区南海小学校)ー荒川区日暮里町、奥平秀(大審院)ー蒲田区女塚、奥本養善(淀橋天神小学校)、親泊朝輝ー目黒区鷹番町、親泊朝省(陸軍参謀本部勤務少佐)、親泊康永(出版業)ー神田区小川町、恩河朝健(計理士)ー芝区白金今里町

漢那憲和(海軍少将、代議士)ー小石川区林町、漢那朝常(沖縄食品会社専務取締役)ー本郷区台町、神山政良(国際通運株式会社取締役)ー本郷区西片町、我謝秀裕(株式会社三省堂)ー杉並区成宗、我謝盡義(板橋第五小学校)、我部政達ー北多摩郡小金井、我部政任(小石川柳小学校)ー杉並区高円寺、我喜屋良喜(王子尋常高等小学校)、嘉手川重政(株式会社北辰電機製作所)ー荏原区戸越、嘉手川重國(簡易保険局)ー大森区雪ヶ谷町、嘉手苅信世(南方倶楽部専務理事)ー四谷区番衆町、嘉数詠勝つー淀橋区上落合、嘉数詠秀(世田谷深沢小学校)、嘉数英一(東京市水道局)、嘉味田朝武(淀橋第六小学校)、川上親助(京橋昭和小学校)ー蒲田区蒲田町、亀島靖治(泡盛商)ー神田区五軒町、垣花昌林ー渋谷区幡ヶ谷原町、亀川盛要(保健局)ー麻布区富士見町、柏常隆(横川橋梁株式会社)

金城時男(泡盛商)ー豊島区巣鴨町、金城紀昌(医師、鉄道病院)ー四谷区西信濃町、金城俊雄(品川小学校)ー品川区大井金子町、金城成宜ー豊島区豊島町、金城朝永(株式会社三省堂)ー豊島区西巣鴨町、金城唯温(東京地方専売局芝販売所)ー中野区昭和通り、金城清義(浅草田中小学校)、金城栄吉ー蒲田区糀谷町、金城待敬(英和商工社)ー麹町区永田町、金城武雄(荏原京陽小学校)、金城順隆(農林省)ー中野区昭和通り、金城珍網(杉並第六小学校)、金武朝睦(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、喜納朝徳(神田小学校)ー牛込区若宮町

喜納昌隆(蒲田区羽田第二尋常高等小学校)、喜友名成規(下谷黒門小学校)、儀間新(十五銀行)ー下谷区竹町、宜保友厚(泡盛商)ー京橋区槙町、宜保盛顕(板橋小学校)ー王子区稲付西町、木村春茂ー足立区千住町、許田善三郎ー足立区千住町、岸本賀勝(安田生命保険株式会社中野出張所)ー杉並区阿佐ヶ谷、喜久村潔秀(東京市電気共済組合)ー本郷区田町

國吉良寶(弁護士)ー杉並区馬橋、國吉眞俊(中外電業合資会社)ー芝区白金三光町、國吉眞禮ー本郷区金助、國吉眞文(大洋海運会社機関長)ー世田谷区三軒茶屋、國原賢徳(弁護士・弁理士)ー市外吉祥寺、具志堅實成(電機学校教授)ー杉並区大宮前、具志堅興實(警視庁)、久志助起(きくや書店主)ー神田区小川町、久志安彦ー本郷区、久高将吉(弁理士)ー世田谷区新町、久高朝清、久高清志ー滝野川区瀧野川、具志川朝著ー大森区入新井、具志幸慶(牛込高等小学校)ー牛込区若松町、具志川朝芳ー大森区大森、桑江文雄ー本所区東両国

東風平玄宗(警視庁警部補)ー蒲田区下丸子町、呉屋愛永(東京地方専売局)、呉屋芳春(深川元加賀小学校)、小嶺伸(荏原杜松小学校)ー荏原区中延、古謝盛義(板橋第五小学校)、小嶺幸和(警視庁)ー牛込区田町、幸地朝績(第百銀行神田支店)、幸地良昌(東京市厚生局)ー本郷区田町・喜久村方、鴻田康隆(東京市電気局電燈部)

呉屋博嗣(東京府経済部農林課)ー杉並区高円寺□→1938年『大阪球陽新報』「苦学力行の呉屋博嗣君ー大阪職業紹介所で職員として活動す。島尻郡西原村の出身、今年24歳の青年である。中央大学在学中、八幡一郎の世話で東京市役所職業課に入り、なお家庭教師もやりつつ卒業した」

崎原當升(東京鉄道局)ー市川市八幡宮ノ内、崎原淑人ー杉並区方南町、崎原成功ー葛飾区本田川端町、崎山用貴(警視庁)、佐久本嗣吉(下谷区西町小学校)、佐久田昌章(泡盛卸売商)ー神田区西神田町、澤田朝序(杉並桃井第五小学校)ー杉並区柿ノ木町、座間味朝永(エビス電球株式会社)ー杉並区天沼町

尚裕(侯爵)ー渋谷区南平臺、尚亘ー渋谷区南平臺、尚暢(日本勧業銀行)ー杉並区西荻窪、島袋源七(立正中学校教諭)、島袋盛繁(西巣鴨第二小学校)、島袋盛敏(成城高等女学校教諭)ー世田谷区成城町、島袋憲英(淀橋第一小学校)、島袋貞吉(中野野方東小学校)、島袋嘉英(東京市農会)ー足立区龍田町、島袋欣吉ー京橋区月島西月島通り、島袋欣章ー京橋区月島通り、島袋全吉(東京市財務局主税課)ー小石川区大塚坂下町

城間恒春(京橋明正小学校)、城間盛蒲(東中野小学校)、城間文徳(東京市厚生局衛生課)ー淀橋区下落合、城間朝宏(荒川第四峡田小学校)、城間義盛(警視庁)ー滝野川区西ヶ原町、識名盛亮(足立第七千寿小学校)、謝花寛廉(本所柳島小学校)、新城朝功ー淀橋区大久保、志賀進ー小石川区大塚坂下町、新屋敷幸繁(出版業)ー目黒区上目黒、末広幸次郎(日本曹達株式会社常務取締役)ー大森区馬込町

高嶺朝慶(株式会社島津製作所)ー淀橋区百人町、高嶺元英(高嶺製作所)ー荏原区中延町、高嶺元照(内閣印刷局)ー深川区石原町、高嶺朝和(葛飾上平井小学校)、高嶺朝詳(芝鞆絵小学校)ー淀橋区大久保、高良憲福(旭硝子株式会社工務部労務課長)ー板橋区練馬南町、高安正英(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、高江洲伸(浅草育英小学校)、高江洲朝和(本所高等小学校)ー荒川区日暮里町、嵩原安智(泡盛商)ー麹町区九段、嵩原安徳ー麹町区九段、高木玄栄ー小石川区関口台町、田港朝明(東京市女学校教諭)、田港景俊(本所区菊川小学校)、田里丕顕(料理業・沖那)ー芝区芝浦

田崎朝盛(医師)ー横浜市鶴見区潮田町、平良眞吉(医師)ー城東区亀戸町・平良医院、平良眞英(医師)ー城東区北砂町、平良治良(大井川電力株式会社)ー平塚市机浜町、平良兼路(本所区江東小学校)、平良恵序(深川区臨海小学校)、高里良英ー王子区堀舟町、多田喜導(専修商業学校教諭)ー杉並区上荻窪、玉那覇兼松(泡盛商)ー深川区森下町、玉盛栄八(シンセン本舗)、玉盛貫一(川崎菓子組合内)-川崎市宮前町、玉城正一(城東区第二大島小学校)、玉寄兼平(東京地方専売局芝工場)ー江戸川区西小松川町、谷口文雄(杉並区高井戸第四小学校)ー中野区江古田

知念亀千代(京橋区月島第一小学校)ー渋谷区代々木初台町、知念誠文ー渋谷区千駄ヶ谷、知念宏栄ー日本橋区茅場町、知念正次郎(東京アルミニウム工業株式会社)ー渋谷区景丘町、知念福永(日本電気株式会社)ー麻布区飯倉、知念武次郎(東京市厚生局)ー品川区下大崎、知念周章(栃元制作所)ー品川区東品川

津波古義正(小原光学株式会社)ー荏原区戸越町、津波古充計(東京府立第四中学校教諭)ー牛込区東五軒町、津波古正雄(東京本廠)ー荏原区戸越町、津嘉山朝弘(本所区菊川小学校)、津嘉山浩(荏原区延山小学校)ー荏原区中延町、津波富永(東海鉛管株式会社)ー荏原区戸越町、津堅房永ー横浜市鶴見区豊岡町、鶴初太郎(沖縄物産斡旋所長)ー淀橋区柏木、辻野誠一(旅館業)ー横浜市中区花咲町

照屋林仁(泡盛商)ー目黒区上目黒、照屋健六-芝区三田豊岡町、照屋南岸ー品川区大井小神町、照屋林明ー京橋区月島東仲通、照屋哲郎(東京ライト工業社)ー世田谷区世田谷、照屋清昌ー杉並区阿佐ヶ谷

渡口精鴻(医学博士・渡口研究所)ー蒲田区本蒲田、渡口精秀(医学博士・渡口研究所)、渡口精眞(東京市技師)ー渋谷区幡ヶ谷本町、渡口精勤(医師)ー蒲田区新宿、渡口政信(警視庁)ー京橋区新佃島東町、渡名喜守定(海軍中佐)ー中野区江古田町、渡名喜守雄ー豊島区駒込、渡嘉敷眞順(本郷元町小学校)ー豊島区千早町、渡嘉敷昧球ー荏原区戸越町、當山寛(弁護士)ー小石川区宮下町、當山武久(小原光学株式会社)ー荏原区下神明町

當山清香ー淀橋区戸塚町、當間恵栄(錦城中学生徒監長)ー川崎市生田、當間嗣珍(京橋郵便局)ー深川区古石場町、當眞正二(海軍省航空本部)ー芝区桜田町、當銘盛蒲ー目黒区下目黒、富盛寛孟(赤坂小学校)、富原守摸(深川区扇橋小学校)、友寄喜仁(弁護士)ー板橋区中新井、友寄英勝(目黒月光小学校)ー目黒区富士見台、友寄隆徳(東京市電気局)ー本郷区駒込神明町、友寄英成(東京地方専売局我孫子販売所長)ー千葉県我孫子、徳田安貞(本郷区昭和小学校)-豊島区長崎南町、徳田耕作ー杉並区阿佐ヶ谷、徳永朝益(西多摩郡南檜原小学校)ー西多摩郡檜原村、徳永盛和(東京地方専売局)ー浅草区三筋町、遠山眞信ー麻布区新綱町、豊川善包(本所牛島小学校)ー向島区寺島町、飛岡正信(陸軍省)、桃原昌一(東京市水道局)

仲原善忠(成城高等学校教授)ー世田谷区祖師谷、仲原善徳ー世田谷区祖師谷、仲宗根玄愷(昭和生命保健相互会社常務取締役)ー中野区桜山、仲宗根玄康(東京市厚生局)ー滝野川区滝野川町、仲里文英(世田谷区多聞小学校)、仲村常樽(台東小学校)ー淀橋区東大久保町、仲村専義(建築設計業)ー下谷区入谷町、仲本盛行(東京市財務局主税課)ー京橋区新佃島東町、仲本朝愛ー本郷区田町・喜久村方、仲本吉一郎ー渋谷区神山町、仲本宗厚ー渋谷区幡ヶ谷本町、仲本川原ー大森区久ヶ原、仲本徳英ー本郷区駒込千駄木町、仲田多聞ー荏原区羽田町麹谷、仲田新雄ー渋谷区笹塚町、仲尾次清正(東京憲兵隊本部)ー麹町区竹平町、仲井間宗一(文部参与官)ー麹町区平川町、仲井間宗祐(税務懇話会)ー滝野川区上中里町、仲吉良光(東京日々新聞記者)ー横浜市鶴見区鶴見町、仲村渠直和(市ヶ谷刑務所勤務)、仲野廉松ー世田谷区太子堂町

仲兼久長太郎(東京地方専売局蔵前分工場)ー江戸川区小岩町、仲地唯一(東京市電気局)ー渋谷区代々木初台、仲松弥男(荒川区第五峡田小学校)、長嶺善進(糧秣廠)ー下谷区上根岸、長嶺晃(城東区第一亀戸小学校)、長嶺朝昭(東京地方専売局)、長嶺朝英(川越税務署)ー川越市宮下町、長嶺将繁(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、名護朝徳ー荏原区荏原町、名城政教(日本起重機製作所)ー蒲田区糀谷、名城嗣亨(京橋月島第三小学校)ー京橋区月島東河岸町通、長嶺亀助(陸軍少将、軍需会社顧問)ー神奈川県茅ヶ崎、長濱三郎(大森区馬込第一小学校)ー大森区馬込町東、名嘉山徳温(東京市財務局会計課)ー板橋区上板橋、長濱眞詳(石神井西小学校)ー中野区新井町、永島可昌(下谷区竹町小学校)、名嘉繁雄(南武鉄道株式会社技術課)ー品川区北品川町、永井長雄(東京市総務局)ー中野区桜山町

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 今は亡き岡本恵徳先生は私の顔を見るたび「もっと奄美資料に注目してくれ」が口癖であった。私は伯父や伯母の連れ合いが奄美出身であったから特に奄美を意識したことがないが、琉球文化には当然に奄美も入っていると思っている。奄美の図書館には島尾敏雄氏に会ってみたいと2回ほど行ったが何時も休館日だった。島尾敏雄氏には会えなかったが、その代わりといっていいか分からないが山下欣一氏に出会った。

 喜納緑村『琉球昔噺集』を発行した三元社の萩原正徳が奄美関係者らしいと前々から気になっていた。山下欣一氏に問い合わせると家系図、『道之島通信』、『定本・柳田國男集』の月報などの萩原資料をたくさん贈ってこられた。緑村は1930年に『沖縄童話集第一編ー犬と猫』(津嘉山栄興挿絵)を神山青巧堂印刷で刊行した。山下氏も萩原正徳を当然と言えば当然だが色々と紹介して居られた。それに用いた資料だが次に紹介する。


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前列右端が柳田国男、左端が比嘉春潮/後列右から萩原正徳、大藤時彦、瀬川清子


 1944年3月『民間伝承』柳田国男「『旅と伝説』について」□(略)改めてもう一度、初めから読み返して見たい気がする。公平に批判してどの部分、一ばん後世に役立つ仕事だったかを、考へ且つ説いて見たくもなる。
私の処にはもう主要記事の索引も出来て居るのだが、この判定は実はさう容易な業では無い。しかし先ず大まかに考へて、婚礼誕生葬祭その他の特集号を出し、又昔話を二度まで出した頃などが、全盛期だったと言へるかもしれない。こんなにまで多数の同志があったのかと、驚くほどの人々が全国の各地から、何れも好意づくだけでよい原稿を寄せ、所謂陣容を輝かしてくれたのみならず、此時を境にそれぞれの問題に対する理解常識が、目に見えて躍進したので、之を読んで居ない人の云ふことが、あれから以後は何だかたより無いもののやうに感じられるやうになった。つまりは民俗資料といふものは、集めて比較して見なければ価値が無いといふことを、実地に証明してくれたのである。
 
 その以外に今一つ承認しなければならぬことは、萩原君は故郷の奄美大島の為に、この雑誌を通して中々よく働いて居る。それには同郷知友の共鳴支援といふことも条件ではあったが、とにかくに全十六巻を通じて、奄美大島に関する報告は多く、又清新な第一次の資料が多かったことは争へない。その一つの例として手近に私の心づいたことをあげると、第一巻のたしか二号か三号に、島の先輩の露西亜学者昇曙夢さんが、アモレヲナグ即ち天降女人の事を書いて、我々に大きな印象を与へ、又より多くを知りたがらせて居たのだが、それが約十六年を隔てて最終号の中に、今度は金久正君といふ若い同志が、それを詳しく書いて我々の渇望を医して居る。もう「旅と伝説」さへ大切に保存して置けばこの世界的興味のある一問題は、永久に学問の領分からは消えないのである。或ひはそれほどまで大きな問題だと思はぬであらう人たちの為に、出来るだけ簡単に前後二ヶ所に出て居る天降女人の事を書き伝へ、出来るならば此上にももっと豊富な資料の、集まって来る機縁を促したい。(略)
 
 奄美大島といふところは、私の知る限りでも、内部歴史の珍しく豊かな島であった。書いた記録がといふものは僅かしか残らぬが、近い百年二百年の間にも避ければ避けたかった実に色々な経験をしてゐる。さうして全体に今は古い拘束から解き放たれて、新時代のあらゆる機会を利用し、すぐれた人物が輩出して居るのである。住民自身としては忘れた方がよいやうな、外の者からは是非参考の為に聴いて置きたいやうな、無数の思ひ出をかかへて、まだ其処理を付けずに居るといふ感じがある。此数からいふと、萩原君の如き人がもっと辛抱強く、古い埋もれたことを尋ね出さうとする知友を糾合して居てくれたらと思はずには居られぬのだが、それをもう謂って見ても仕方が無い。それよりも雑誌をその時々の慰みなどとは考へずに、いつまでも之を精読する者の、是から日本にも多くなるやうに、我々もどうかして残るやうな雑誌を作って行きたい。

 1981年7月『道之島通信』83号「民俗学開拓に貢献 萩原正徳(1896~1950)」□はじめに 1928年(昭和3年)から1944年(昭和19年)まで、東京で『旅と伝説』という月刊雑誌を発行、日本民族学の発展に著しく貢献したのが萩原正徳である。正徳は、1896年(明治29年)名瀬市金久に生まれ、若くして上京、東京高等工芸学校を卒業、27歳の時夫人ウメさん(千葉県出身)を娶った。弟に利用と厚生がおり、厚生は鹿児島一中から一高、東大へ進んだ奄美の秀才として名を馳せた人である。酒と島うたが好きで、子供が喧嘩して泣いて帰ると「泣かされて帰る奴がいるか、相手を泣かして来い」と、一人息子の正道を叱るくらいの気骨の持ち主でもあった。三元社という写真製版の会社を経営する一方、柳田国男らの民俗研究グループに参加、奄美をはじめ、各地の研究報告を『旅と伝説』に掲載、記録を歴史に残した。「若い頃から頭は、はげていましたので、年の割に老けて見えましたよ」と八十歳になったウメさんは話す。耳が悪かったため、兵役を免れ、柳田国男にどなられても笑っていたという。

 1998年10月『柳田國男全集 第6巻 月報13』山下欣一「『海南小記』ー奄美の旅前後」□(略)最初の伊波普猷の奄美来訪は1918年(大正7)1月であった。これは私立大島郡教育会・二部研究会(瀬戸内・宇検)による招聘である。この時の中心になったのは二部研究会長で古仁屋小学校長永井龍一と当時篠川農学校教諭竹島純(沖縄師範卒)であった。この2名は伊波普猷・比嘉春潮を出迎えのために名瀬へ出張するが、船待ちのため十数日滞在を余儀なくされ、その間、奄美の文献資料を調査したりしている。この時『奄美大島史』の著者である坂口徳太郎も鹿児島県立大島中学校に勤務していたので、その指導も受けたと考えられる。

 伊波普猷は、この第1回の旅で『南島雑話』、『奄美史談』などを沖縄へ借用し、筆写させ、沖縄県立図書館へ収蔵し閲覧に供したのである。(略)伊波普猷の奄美招聘の中心にいた竹島純は伊波普猷の講演記録を伊波の「序に代へて」を付して1931年(昭和6)に大島郡教育会から『南島史考』としてまとめている。また後で永井龍一は鹿児島に居を移し、『南島雑話』、『補遺篇』、『奄美史談』などの文献資料の自費刊行を試みている。この『南島雑話』刊行に刺激された永井龍一の兄亀彦(博物学者)は『南島雑話』の編著者を薩摩藩上士名越左源太時敏と確認し、また名越家で『遠島日記』をも発見し、これらを自費刊行している。これらは、昭和初年から、終戦直後に及んだ作業であった。永井兄亀・龍一兄弟は名瀬の与人役政家の一族である。父永井長昌喜は漢学者で教育者であった。

 亀彦・龍一の姉よしは萩原家に嫁し、その子息が正徳・利用・厚生の兄弟である。叔父に『奄美史談』の著者都成植義(南峰)がいる。亀彦・龍一の甥に当る萩原正徳は上京し、東京高等工業学校で学び、海軍省水路部をへて写真製版業を営み、三元社を興した。柳田国男の指導を受けて『旅と伝説』を刊行した。これには昇曙夢・岩倉市郎・金久正などの奄美の研究者が登場しているのは故なしとしないのである。

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2000年4月23日『沖縄タイムス』新城栄徳(書評)ー松原一枝『改造社と山本実彦』南方新社

改造文庫

写真/山本実彦
生年: 明治18.1.5 (1885)
没年: 昭和27.7.1 (1952)
大正昭和期の出版経営者,政治家。鹿児島県川内に生まれる。日大卒業。『やまと新聞』ロンドン特派員,『門司新報』主筆などを経て,大正4(1915)年東京毎日新聞社主に就任。8年,改造社を創立,総合雑誌『改造』を創刊。当時の民主主義運動,社会運動の波に乗って,同誌を『中央公論』とならぶ有力雑誌に育てた。また,昭和初期には大規模な予約全集企画『現代日本文学全集』を成功させ,1冊1円のいわゆる円本ブームの先駆者となった。昭和5(1930)年衆院議員に当選。戦後,再び改造社を起こしたが,病没。時流に敏感な出版経営者であった。 →コトバンク


2000年4月23日『沖縄タイムス』新城栄徳(書評)ー松原一枝『改造社と山本実彦』南方新社/改造社と言えば、私はすぐに布装の「改造文庫」を思い出すが、「改造社と山本実彦」は、実彦の生まれ故郷に「生誕の地」の表示と墓が在ることや、家族からの証言で新事実を気づかせてくれる。沖縄にゆかりがある日本の代表的出版人は講談社創立者の野間清治と実彦をまず数えるが、ここでは実彦と沖縄とのかかわりを補注して任をおえよう。

1916年の実彦著「我観南国」①に「国頭會遊の山河を遥望す、与那覇岳は比嘉賀栄、金城永寛、宮城久輝(聡)、比嘉蒲太郎、平良親一の徒と幾回か登擧(略)名護湾の思い出と共に故人平良保一を思わざるを得ざりき」と記され、続けて「黒岩先生は饒平名君と共に沖台砂糖会社の工場まで迎えに来られた」と、13,4年ぶりの沖縄で友人たちと会い、かつ亡くなった友人たちをしのんでいる。
①1916年7月 山本實彦『我観南國』東京堂書店



思わざるを得ざりき故人とは、放浪詩人で知られる池宮城積宝の「平良保一伝」(「うるま新報)には「保一氏はよく人を見るの明があり、後の改造社の山本実彦が越来村にいたのを見いだして大宜味村に迎え、いろいろ世話をしてやった。山本氏は出世して後、保一氏の恩愛を忘れずしきりに感謝渇仰の意を表し『随分沢山の人に逢ったが平良保一氏ほど立派」な人はいなかった』と話していた」とある。保一氏は謝花昇の意志を継いで民権伸長を推進したとも紹介している。

前出の宮城久輝は67年「新沖縄文学」第7号から「文学と私」を連載した。実彦の国頭尋常小学校代用教員時代の教え子であった関係で改造社に入社した経緯を記し、改造社前でのアインシュタイン博士の来日記念で博士のすぐ後ろに宮城が写っている写真が掲載されている。
最後に、沖縄の地名の誤記、初歩的な人名(菊池を菊地)の誤植があり、年譜を付けるなど、編集に配慮がほしかった。総じて分かりやすく山本実彦を知る最適の入門書ではある。

下左ー宮城聡/師範学校学生/ハワイ

上ーアインシュタインの右が山本実彦改造社社長、後ろに宮城聡

アインシュタインの来日は改造社という一出社の招聘によるものであった。改造社の社長山本実彦は、社の一大事業としてアインシュタイン招聘に奔走し大学関係者と帝国学士院を巻き込んで、来日を実現させたのである。アインシュタインは1922年(大正11年)10月8日にマルセーユを日本郵船「北野丸」で出港し、11月17日に神戸に入港した。途中12日夜、香港で「光量子仮説」に対して贈られたノーベル物理学賞受賞の電報を受け取っている。アインシュタインは、熱狂的な歓迎を各地で受ける。12月29日までの滞在の間に多数の講演を行い、また連日の歓迎会に出席してスピーチをした。→東大総合研究博物館

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野間清治
生年: 明治11.12.7 (1878)
没年: 昭和13.10.16 (1938)
大正昭和期の出版事業経営者。群馬県山田郡新宿村(桐生市)の生まれ。明治33(1900)年尋常師範学校を卒業し,教師になったが,35年東京帝大文科大学臨時教員養成所に入学。卒業後,沖縄中学校教諭を経て,40年東京帝大法科大学職員となる。折からの雄弁術流行の先頭に立っていた緑会弁論部の創立を助力した。学生の弁論を筆記し活字化する企画をたて,自ら大日本雄弁会を設立,43年雑誌『雄弁』を創刊。44年講談社を創立し,同年講談落語などの寄席芸能を筆記活字化した雑誌『講談倶楽部』を発刊し,大きな成功をおさめた。以後,『少年倶楽部』『少女倶楽部』『婦人倶楽部』などの雑誌を創刊し,雑誌王国を築いた。なかでも,『キング』は,「おもしろくて,ためになる」のキャッチフレーズ通り娯楽と修養を兼備した大衆雑誌として100万部を突破する部数を誇った。「講談社文化」という言葉も生まれたほど,その出版物が大衆の意識に与えた影響は大きい。<著作>『自叙伝』<参考文献>野間清治伝記編纂会編『野間清治伝』 →コトバンク

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後に講談社を興す沖縄県視学の野間清治が沖縄を去るとき(1907年9月)の記念写真、中央に野間清治、後列右から5人目が富川盛睦、同じく2人目が横内扶。他の写真には同僚だった岸畑久吉らと撮った写真も伝記に収録されている。講談社が発足するとき参加したのが安元実発(元『沖縄新聞』記者)で、これも写真が講談社史にある。また野間の沖縄中学時代の教え子の森田孟睦も講談社にいた。□→検索「森田孟睦」。

1938年11月ー『大阪球陽新報』□野間清治氏の葬儀ー大日本雄弁会講談社社長、報知新聞社社長の野間清治氏は去る16日東京小石川区関口台町の自邸に於いて狭心症のため急逝した享年61、葬儀は20日午後1時から佛式により講談社で同社並びに報知新聞社合同により社葬が行われた(略)報知新聞社社員の渡嘉敷唯錦氏の本社(大阪球陽新報社)に宛てた通信に、今更の如く故野間先生の偉大なる人物であったことに敬服した森田孟睦君を始め一中出身の講談社員4名と小生も葬儀委員を勤めた。沖縄県人で葬儀に参列し入口に立っている私の目についたのは読谷山朝宜(医師)、国吉真俊、久高将吉、冨名越義珍、宮里良保、恩河朝健の諸氏であったが勿論混雑の際とて他にも多数参列者があったことと思う。

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2014・8/不二出版「『犯罪科學』解説・総目次・索引」
 





「『犯罪科學』解説・総目次・索引」の執筆者索引を見て、沖縄に関わりのある人物を紹介する。

安藤盛は戦前、来沖した人物で、ジュンク堂那覇店で青木澄夫『放浪の作家ー安藤盛と「からゆきさん」』(風媒社)を入手した。私の知らない安藤の沖縄関連の著作もその目録にあった。本誌に収録されてない琉球新報の1938年6月の記事を紹介する「南洋及び支那通として知られていた著述家安藤盛氏は21日東京の自宅において逝去した。氏は昭和11年、同12年の2回に亘り本県に来遊し週刊朝日其他の雑誌で紀行文を発表、本県紹介に努め県人から親しまれていた。なほ生前本社へ長編小説(琉球新報に連載「紅雀」絵・西銘生一)を寄せたが未発表のうちに急逝し遂に遺稿となった享年41」とある。

関連資料ー2001年9月『けーし風』第32号「特集 旧南洋群島のウチナーンチュ」

伊東忠太、伊波普猷、岩田準一(琉球の男色を調査)、巌谷小波、大宅壮一、喜田貞吉(1933年1月 『沖縄教育』第百九十八号<昭和会館落成記念>□喜田貞吉「琉球民族の研究に就いて」)金城朝永、東郷青児、西村眞次、宮尾しげを、①饒平名紀芳らが居る。

1938年4月19日『琉球新報』「饒平名紀芳氏 7年振に帰る」

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1953年1月 『東京なんでもわかるバイブル』(自由国民・バイブル版・第5集)

 日本は、第二次世界大戦終結からサンフランシスコ講和条約①締結までの間、連合国軍の占領下に置かれた。政治的(主権・行政権)については日本政府が統治権を有した。①サンフランシスコ講和条約ー第2次大戦を終結させるため、1951年9月8日、米国など48カ国と日本が米サンフランシスコで署名した。冷戦を背景に共産圏の旧ソ連、旧チェコスロバキア、ポーランドは署名を拒否した。52年4月28日に発効し、連合国による日本占領が終わった。日本は独立を回復したが、沖縄や小笠原諸島、奄美群島は本土復帰までの間、米国の施政下に残った。 アメリカ占領(オキナワはアメリカ占領が未だに続いているが)当時の美しい日本國を雑誌で偲んでみる。

グラビア・カメラでちょっと・ひとめぐり/オフセット・省線・私鉄・遠距離バス交通図
戦後の東京の風俗について・・・大宅壮一/戦後の東京の服装について・・・伊藤道郎/東京女と関西女について・・・山本嘉次郎/東京弁と関西弁について・・・野元菊雄/五十年前の思出ばなし
見物の東京 A・一般コース B・盛り場と裏通り・どん底の街・さんや デッドエンドの街・たかばし



アメリカの東京基地・・・佐々宇賛丸/東京周辺のアメリカの軍事基地と工場早わかり
娯楽の東京ー映画館/スポーツ場/劇場・寄席/競輪・競馬場/ストリップ/ダンスホール
女の東京ーバーキャバレーと女給のチップ/温泉マークの内幕と活用法/待合と芸者あそび入門/赤線区域の泊り方ー花の吉原から田園調布迄のシマ案内/青線区域のさがし方ーパンパン遊び・処女でも啞でもお好み次第


1953年7月『奇抜草紙』(『モダン生活増刊号』)




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カッパブックス
 光文社常務取締役出版局長を務めていた神吉晴夫は、知識人向け教養新書路線とされる先行の岩波新書(1938年創刊)に対して、わかりやすさを重点に置いた、大衆向け教養新書路線の新書を企画し、光文社は1954年(昭和29年)10月に伊藤整の『文学入門』、中村武志の『小説 サラリーマン目白三平』をもって、カッパ・ブックスを創刊した。当時としては大きい9ポイントの活字で印刷され、また、現在多くの新書で採られている、本の裏表紙に著者の写真と略歴を入れる装丁は、日本の新書で初めての試みであった。
 創刊当初は必ずしも順調な出足とは言えない状態であったが、神吉が「創作出版論」と呼ぶ、編集者による企画先行の姿勢と、「カッパの本はみんなヒットする」などのキャッチコピーを使った積極的な広告によって大量生産化を実行し、カッパ・ブックスは日本の第1次新書ブームの主役と呼ばれる存在となっていった。刊行分野は生活実用書を中心としていたが、時にノンフィクションを含むなど、多岐に渡っている。1960年代から。1970年代の表紙の装丁は田中一光が担当していた。
 1970年から1977年(昭和52年)にかけて、光文社では「光文社闘争」と呼ばれる激しい労働争議が起こり、カッパ・ブックスの発行も一時中断した。社長となっていた神吉は、批判の中で光文社を退職し、かんき出版を創業した。また、一時カッパ・ブックスの編集長を務めていた伊賀弘三良ら、光文社の役員も退職し、祥伝社を設立、カッパ・ブックスのノウハウを活かした、ノン・ブックシリーズを発刊した。また、多湖輝の『頭の体操』などを担当していた、編集者の柳下要司郎も、光文社を退職し、ごま書房(現在のごま書房新社)の創業に参加した。2001年(平成13年)11月に刊行開始した光文社の同じ新書レーベルである光文社新書と入れ替わる形で、カッパ・ブックスは、2005年(平成17年)1月の『頭の体操 四谷大塚ベストセレクション』を最後に、新刊の刊行を停止した。→ウィキ

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2016年(平成28)は「なは教育の日」が制定されてから10年になります。
歴史博物館では、「なは教育の日」制定10年を記念して、「琉球・沖縄 学問のすすめ ~なは 教育のあけぼの~」と題し、企画展を開催。

久茂地小学校の鐘


那覇市初の学校統合


2016年11月10日の久茂地小学校。何やら工事中である。

2013年6月8日~7月3日 那覇市歴史博物館「企画展ー沖縄戦~そして学校がなくなった~
 

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1970年11月27日~30日 劇団民藝「アンネの日記」


1971年10月10日~13日 那覇市民会館主催「夕鶴 <山本安英の会>沖縄公演」


1971年10月23日 那覇市主催「巌本真理弦楽四重奏団 室内楽の夕」


1972年8月13日 那覇市主催「読売日本交響楽団 特別演奏会」



1972年10月 那覇市主催「前進座/平家女護島・俊寛」


1973年11月9日~11日  那覇市主催「文学座公演 女の一生」


1974年6月6日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭交響楽演奏会ー大阪フィルハーモニー交響楽団」(指揮=朝比奈隆/ピアノ独奏=荒憲一)


1975年6月20日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭交響楽演奏会ー読売日本交響楽団」(指揮=山田一雄/チェロ独奏=堤剛)


1975年11月19日・20日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭新劇公演ースカパンの悪だくみ」


1976年6月7日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭交響楽演奏会ー東京フィルハーモニー交響楽団」(指揮=尾高忠明/バイオリン独奏=久保陽子)


1976年8月4日、5日 那覇市主催「レニングラード・バレエ/白鳥の湖」


1977年11月5日 主催=那覇市「アマデウス弦楽四重奏団」


1978年11月8日 主催=文化庁/那覇市「文化庁移動芸術祭交響楽演奏会ー東京フィルハーモニー交響楽団」(指揮=尾高忠明/バイオリン独奏=和波孝禧)


1982年8月27日~29日 「オペラ はだしのゲン」

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 混迷する基地問題の突破口を見いだそうと、ニライカナイサミット(主催・同実行委員会)が5日、宜野湾市のぎのわんセミナーハウスであった。沖縄や海外の識者がそれぞれの立場から「沖縄を軍事のキーストーンから平和のキーステーションへ」をテーマに問題提起。「東アジア共同体」など海外との連携に解決の道を見いだす意見が相次いだ。基地問題で翁長県政に批判的な意見を言いづらい空気を指摘する声もあり、フロアを巻き込んで白熱した議論が交わされた。

 名護市辺野古の新基地建設や東村高江のヘリパッド建設で、詩人の川満信一さんは「兵器を貯蔵したり、敵地に運ぶ基地を認めただけで、人類全体への大変な犯罪になる。これを無意識に負わされるのは戦争体験者にとってできる相談ではない」と強調。一方で「沖縄の力だけで米国を退かせるのは難しい。沖縄内外の力で課題を解くのが大事だ」とし、東南アジア諸国連合(ASEAN)や日中韓などの東アジア共同体の構築に期待を込めた。

 続いて海外参加のピース・フィロソフィー・センターの乗松聡子代表は、東アジア共同体の実現のためには「日本人が隣国への歴史責任を自覚し、内なる大日本帝国や天皇制から脱却すべきだ」と指摘した。一方、音楽家の石岡裕さんは「今の県政のやり方で辺野古の海が守れるのか。(県政批判の)言論にタブーがある」と強調。知事就任直後に埋め立て承認を撤回せず、取り消しにも約1年を要したのを問題視し「新聞、知事を支える運動体や政党が県政の検証を放棄している。(県政が辺野古や高江で)暴走しかねない」と苦言を呈し、フロアの議論を促した。

 このほか、大田昌秀元知事や「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の高里鈴代共同代表、海外からオーストラリア国立大学のガバン・マコーマック名誉教授もパネリストで登壇。4時間にわたったサミットの締めくくりに、大田元知事は「私たちが戦争から生き延びた意味があるとすれば、二度と沖縄を攻撃の的にさせないこと。子や孫のために、基地を引き受けてはいけない」と語った。(沖縄タイムス 2016年11月6日)


2010年5月29日 沖縄大学「アジアのなかで沖縄現代史を問い直す」(司会・岡本由希子、若林千代)
○屋嘉比収「沖縄現代史を東アジアのなかで叙述する可能性ー(東アジア)学術や研究の分野では、1980年代から近世期の東アジア冊封朝貢体制の研究や人類学や民俗学の研究交流がありましたが、近代史においては又吉盛清氏の台湾研究での先駆的な業績があるだけで、現代史にいたってはまったく研究交流がない状態でした。2000年代に入ってようやく先にふれた東アジアネットワークのもとで、植民地主義批判の観点から沖縄戦や沖縄戦後史を含む東アジアの戦争や、戦後史が複数の東アジアネットワークショップにおいて議論されるようになって今日に至っている状況です。・・・」


 「東アジア出版人会議 沖縄会議」平成28年度 沖縄文化活性化・創造発信支援事業 「東アジア地域への沖縄本による情報発信及び、出版分野を媒介とした文化交流」/基調講演 高良倉吉(元・仲井眞県政副知事)「歴史から見た琉球・沖縄の出版文化」

2016年11月30日『琉球新報』伊佐 眞一 沖縄近現代史家
■抵抗運動の原動力標的
 一昨日、ヘリパッド建設現場の東村高江に行った。乗ったバスの中は3分の2が初めて高江に行く人だという。車中でガイドの人が強調していたのは、高江も辺野古も非暴力主義でやっているということだった。ちょっとぶつかって何でもなくても、向こう(機動隊ら権力側)はビデオで撮影してくるので、重々注意してほしいと説明があった。
 逮捕されたのは沖縄平和運動センターの山城博治議長だけでなく、新聞紙上で匿名の人も何人もいると報じられている。一般の人々にとって匿名の人が逮捕される記事はかなりインパクトがある。建設に反対の気持ちがあり、これから現場に行ってみたいと思う人にとって精神的に非常に重荷になる。考えている以上に行動に二の足を踏ませるものになると、バスの中で改めて感じた。
 政治的に見ると、翁長雄志知事の高江に対する姿勢が辺野古と違っているのは誰が見ても明らかだ。オール沖縄の中で微妙にほころびが出てきているとみて権力側はそこにくさびを打つことを念頭に置いている。
 高江ではヘリパッドの建設が進み、来月には返還式典が予定されている。その次は本丸の辺野古で、陸上の隊舎
建設を再開し、最高裁判決が出た後には海に資材を投げ込む事態がそれほど遠くないかもしれない時期にきている。そこに向けた基地反対の運動を逡巡(しゅんじゅん)させる一つの方法なのだろう。
 権力側は抵抗運動の原動力がどこにあるのかデータ化している。その中で平和運動センターに狙いを定めるのはある意味当然だろう。大衆運動の拠点としての平和運動センターを狙ってみせる意味は、今後の運動がどうなっていくかを見る上でのテストケースなのだろう。その点を十分に念頭に置いておく必要がある。
 高江の現状は権力側が「押せ押せ」のムードだ。そのままの勢いで反対運動をすぼませて、辺野古新基地建設につなげていこうというのが警察や権力側の狙いだ。

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10月31日『琉球新報』豊岡こずえ「沖縄の心刻む那覇市民会館ー建物の再活用を期待」


 上野の国立西洋美術館のコルビュジエ(スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家)設計の建築物が、7カ国、17施設と共に「世界文化遺産」に登録され、外国人のものでも、東京の地元が喜んでいることをテレビで見たように思う。世界文化遺産になったら地震で倒壊や崩壊する危険性があっても保存しないといけないだろう。京都の図書館や、大阪の日銀のように外観を保存するとか色んな手立てがあると思う。那覇市内に復元の歴史的建造物や、ヤマトゥがつくった沖縄県庁(若尾 文子の旦那・黒川紀章。今何かと話題の大阪府警庁舎も黒川紀章、2007年竣工、建設費617億円))や沖縄県立博物館・美術館だけでは寂しい。別にヤマトンチュが作ったのが悪いとは言っていない。戦前の武徳殿、戦後の立法院棟、那覇のテンブスが今、写真でしか確認できないが、立法院棟は設計図があるので復元可能ではある。

 しかし復元で形ばかりで如何しようもない、中身が伴ってこそ文化である。ウチナーンチュがウチナーのチムグクルで造ったものを一つぐらいは戦後沖縄文化のシンボルとして残せということである。で、使い道はいくらでもある。隣の県立図書館は移転するので、比嘉春潮文庫など特殊文庫の貴重なものの収蔵施設、隣の那覇市中央図書館、公民館の施設、世界にウチナーぬチムグクル発信の情報機器を備えた那覇総合資料館などである。目の前に警察署や消防署もあるので天災、人災の備えがある。大ホールは奥武山に武道館やスタジアムもあるし、国立劇場もある。だが、大ホールは、国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を送っているからテロも頻発する。久茂地界隈ならタイムス、新報のホールで十分だ。久茂地の会館予定地は過密の原因になるから止めて世界の蘇鉄などを集め研究所を付設した植物園とかが良い。私個人でもこれくらい発想できるので検討委員会の専門家は最善のアイディアで、身の丈にあった未来に向けた発想をすると思う。暴言多謝。


京都府立図書館→京都の近代洋風建築/日本銀行大阪支店旧館+新館(竣工年:明治36年 (1903) ベルギー国立銀行をモデルに設計:辰野金吾・葛西万司・長野宇平冶/長崎・島原藩蔵屋敷跡地に建つ)→大阪建築

 那覇市民会館の場合は検討委員会が作られるらしいが、何かの誤魔化しでなければ、私らと(屋嘉比収も居た)立法院棟保存運動をした琉球国建設親方の真喜志好一氏や、近現代史研究家の伊佐眞一氏もぜひ委員に加えてほしいものだ。この問題は翁長市長の自民党時代に発想した経緯もあるのでそこら辺は十分見極めたい。


2007年2月 那覇市歴史博物館『戦後をたどるー「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ』ー『那覇市史 通史篇第3巻(現代史)改題ー』琉球新報社□新垣安子「那覇市民会館 芸能・音楽の発展に貢献」

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谷内六郎氏は「週刊新潮」の表紙を25年間飾り、国民に親しまれている美術家です。横須賀美術館が所蔵する作品コレクションから約50点をご紹介します。また、戦後沖縄の子どもたちの記録写真で名高い山田實氏の写真作品40点をご本人と沖縄県公文書館から借用し、展示します。

 
 2016年11月9日、浦添市美術館に「なつかしき昭和の想い出展」を見に行く。途次、又吉ケンタロウの旗があったので覗いたら又吉ケンタロウ氏本人が居たので挨拶をした。浦添市長予定候補と名刺にはあったが、折しもアメリカでは異端児トランプ氏が大統領になった。安全保障を日米同盟によって担保して来た日本敗戦後の昭和レジーム(ヤルタ・ポツダム体制)が崩れようとしている。ケンタロウ氏には既存の手法ではない大胆な発想が求められる。


浦添美術館で、館長の宮里正子さん(左)、学芸員の岡本亜紀さん

写真/2016年10月の山田實さん

写真左が浦添市美術館長・宮里正子さん、山田實さん
○谷内六郎は「週刊新潮」の表紙を25年間飾り、国民に親しまれている美術家だが、最近の「週刊新潮」はネット時代の煽りを受けてか、経営上か知らないがオキナワの市民運動を批判している。アベ週刊誌に成り下がっているようだ。


浦添市内 右はピンク色の花を咲かすトックリキワタ

写真/2016年11月の山田實さん

2016年3月『視覚』中信出版社(北京市)山田實「壺屋」


2016年11月『ニッコールクラブ会報 242号』「沖縄支部」

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1950年代以降、日本の高度経済成長期にかけて東芝やトヨタ自動車、東京海上日動、コマツ、ヤクルト本社、日本航空など、重工業から金融、サービス業や運送業に至るまで、様々な業種の日本企業がサンパウロを中心に数百社進出しており、世界でも有数の規模の日本人学校、サンパウロ日本人学校など、ブラジル国内に複数の日本人学校がある他、日本においてもブラジルの音楽やスポーツ、料理などの文化が広く親しまれており、また、両国間の人的交流が活発にあるなどその関係は非常に深いものがある。在留邦人は約6万人(2010年)、在日ブラジル人は約23万人(2010年、外務省)である。→ウィキ


『世界地理風俗大系 南アメリカ篇』新光社1935.12-南洋・印度篇 アメリカ合衆國篇 イギリス・フランス篇 サヴィエート・ロシヤ・北歐諸國篇 支那(中華民國)篇 滿洲帝國篇 中歐・バルカン諸國篇 北極・カナダ・アラスカ・メキシコ・中米・西印度諸島篇 南アメリカ篇 中央アジヤ・西アジヤ篇 イタリヤ・スペイン・ポルトガル篇 アフリカ・大洋洲・南極


1987年10月 屋比久孟清『ブラジルオキナワ移民誌』在伯沖縄県人会

『ニッケイ新聞』2012年4月17日
 【沖縄タイムス・南風原】県内から多くの移民が渡ったブラジルとの交流を推進し、次世代へと引き継ごうと、沖縄ブラジル ネットワーク・アミーゴ会(与那城昭宏会長)が発足し、7日、約60人が参加して喜屋武町の南風原文化センターで交流昼食会が開かれた。1908年の最初 の移民から100年余、ブラジル社会で6世の県系人が活躍する中、参加者は交流の発展を決意した。同会は次世代の交流へ向けて、若いリーダーの育成も目指す。与那城会長は「沖縄で活躍するブラジル出身の若者たちを支えながら、沖縄とブラジルの情報交換の会に育て、実のある交流をしていきたい」と抱負を述べた。昼食交流会では沖縄で学ぶブラジルの留学生らが手作りした同国の家庭料理「フェジョアーダ」が振る舞 われた。留学生たちはあいさつで「沖縄とブラジルの懸け橋になりたい」と流ちょうな日本語やウチナーグチで話し、会場を沸かせた。・・・

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2014年4月27日/粟国郷友会ー第51回定期総会
写真左からオキジム会長の新里有四郎氏、糸数信一32代郷友会長、新会長の与那城昭広氏




2014年10月 赤嶺園子『笠戸丸移民 未来へ継ぐ裔孫』ニッケイ新聞



2016年8月5日 南風原文化センターでの新城良一氏




2016年10月26日 国際通り「世界のウチナーンチュ大会前夜祭パレード」
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2016年11月3日『沖縄タイムス』「一中生の『遺影里帰り』同級 山田義邦さん 実現に力」

 NHK収録年月日, 2009年5月22日、23日 戦争証言アーカイブス山田 義邦さん|証言|がネット検索で見ることができる。
タイトル, 「少年兵の斬り込み」, 番組名, [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~. 氏名, 山田 義邦さん(沖縄県・鉄血勤皇隊), 戦地, 日本(沖縄)。


2014年8月31日ー台湾茶屋で左から新城栄徳、山田義邦さん、仲里正雄さん

デール・マハリッジ 藤井留美 訳『日本兵を殺した父』原書房2013-7
辰夫の亡霊ー山田義邦
○あとがきー(略)ジョージ・ニランドはマッカーサー支持でも何でもなかったが、海軍は太平洋上の島々で飛行場への爆撃を続行し、日本軍が使えないようにするべきだったと興奮の面持ちで語った。そうすればアメリカ兵が島に上陸する必要もなかったというのだ。
ニミッツと、キングをはじめとする彼の部下たちを私が嫌うのは、後世からの勝手な断罪ではない。太平洋戦域での戦いは、当時わかっていた情報だけで判断しても、ほかにやりようがあった。グアムの戦いの必要性に関しては論じないが、沖縄戦はあんな戦いでなくてもよかったはずだ。その意味では、ジョー・ランチョッティと同様、双方の将軍や提督を私は嫌悪する。アメリカは日本の狂信的な軍部指導者を制御できなかったが、だからといって彼らと同じ土俵に立つ必要もなかった。ニミッツの愚劣さが、沖縄戦における民間人15万人、日本兵11万人、アメリカ兵1万2000人以上の犠牲をひき起こした。そのひとりがマリガンだ。父も脳損傷の後遺症を一生引きずった。私がニミッツを嫌うのはあくまで私情だが、それも無理からぬ面があると思う。なぜなら私は、第二次世界大戦における彼の判断が最後まで尾を引く家で生まれ育ったのだから。
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 いったいこの日本という国はどうなって行くのでしょう
マイナス金利でのデフレ脱出は先送りして しゃーしゃーと居直る
年金切り下げ、TPPで国民皆保険も破壊 金持ち優先税制、一層の貧困 
一方、海保や軍備防衛、治安は増大し 外国には金をばらまく
いくら植民地にできなかった中国への嫉妬とはいえ 憲法まで変えて軍事力で対抗しよというのか
このアナクロ政権 アベノミクスは破たんした 政治の劣化も極まれり 安倍一強という驕りはあまりにひどいではないか 目をさまそうよ、この国の皆さん!(T)

東京新聞 2016年11月3日【社説】 憲法公布70年 感激を忘れぬために
○七十年前のきょう、日本国憲法が公布された。戦争犠牲者を思い、国内外に不戦と平和を宣言したのだ。その感激を忘れぬよう努めたいと思う。
 「今日は何といふ素晴らしい日であつたか」
 元首相の芦田均は憲法が公布された三日の夜、日記の冒頭にそう記した。「生(うま)れて今日位感激にひたつた日はない」と続く。その日は午後二時から東京の皇居前広場で祝賀大会が開かれていた。日記に(略)

 芦田は憲法原案を審議した衆院小委員会の委員長であり、その年の八月二十四日には衆院本会議で次のように語っている。「戦争放棄の宣言は、数千万の犠牲を出した大戦争の体験から人々の望むところであり、世界平和への大道である」この憲法は多くの戦争犠牲者の上に成り立っていると同時に、当時の人々が強く平和を望んだ上に立ってもいる。それを忘却してはならない。
 ひるがえってコンパスを四五年から二〇一六年の今日まで回してみれば、この七十一年間は「無血の歴史」である。根幹に平和主義の憲法があったのは疑いがない。「憲法の番人」たる内閣法制局、日銀、公共放送たるNHKの人事…。民主制度に仕組まれたさまざまな歯止めを次々とつぶしてから進んできた。いくら党是といえど、戦後でこれほど憲法を敵視する政権はなかった。
 明治時代には自由民権運動があり、さまざまな民間の憲法私案がつくられた。その中に植木枝盛(えもり)という人物がいた。思想家であり、第一回衆院選挙で当選した政治家でもあった。「東洋大日本国国憲按(あん)」という憲法案を書いた。
◆世に良い政府はない
 人民主権や自由権、抵抗権などを求めた先進的な案である。彼には「世に良政府なる者なきの説」という演説原稿がある。
 人民が政府を信ずれば、政府はそれに付け込んで、何をするかわからない。世に良い政府などないと説いた。一八七七(明治十)年の言説として驚く。こんな一句で締めくくられる。
 「唯一の望みあり、あえて抵抗せざれども、疑の一字を胸間に存し、全く政府を信ずることなきのみ」

 「疑」の文字を胸に刻んで、今の政治を見つめよう。



本日、我が家に関西からの来客ー左から喜屋武千恵さん、新城栄徳、仲田幸司くん/左から大城尚子さん、新城栄徳、仲田幸司くん
 
2017年1月15日 沖縄県立博物館・美術館「ないるかじり しまくとぅばし かたてぃ んじゃびら『伊波普猷』」登壇者/伊佐眞一、屋嘉宗彦、比嘉豊光/コーディネーター/仲田幸司

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○最近、テレビのクイズ番組が面白いです。東大出のIQ150とか160の人達が出ているのを見ていると、私など十分の一の正解しか出来ず、東大の偉大さを見せつけられている。そこで思うのだが、日本には、これほど頭の良い連中が居るのに如何して伏魔殿が存在するのか不思議でならない。しかし同じ人間です。昔の詩を思い出しました。「佛も昔は人だった。吾も終わりは佛なり」。
 IQの高い人も歳を取るのです。高齢者になってから多少は呆けるでしょう。認知症になるでしょうが、ここまで来ると楽しくなります。脳みそが詰まってない私の脳には隙間があるので、今からでも詰め足すことが出来ますが、脳満杯の人のIQは減少していく筈です。人生は高齢者になってからが面白い。

2016年11月 城谷一草「春秋庵雑筆」⑦< 丁字風炉の源慶さん>
○物を作るより、家造りが上手になっている作家が多くなった陶芸界だが、金城次郎さんは読谷に立派な窯を造った。当時は次郎さんの次男夫婦が大変だった。でもその甲斐あって沖縄で初めての人間国宝と謂う栄冠を得られたのです。


金城次郎パネル写真(古美術なるみ堂 ☏098-987-5530)

 焼物造りが至福の業と励む人がもう一人居た。小橋川源慶さんです。口数の少ない小柄だが、自分と同じ位の大物を作っていた。丁字風炉の名人で、何か丁字風炉に拘りがあったのでないかと思う。大和の陶工たちが丁字風炉を無視した観があったので、源慶さんは格別に拘ったかなと思うのです。私も大好きでたくさん扱いました。
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写真左から小橋川源慶氏、小橋川秀義氏、新城栄徳

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