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Category: 04-書の森
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2019-6-28~ 9-2 那覇市歴史博物館「那覇のたかもの」

2017年9月1日~10月30日 那覇市歴史博物館「琉球・沖縄のイッピン~沖縄コレクター友の会展~」



仲里コレクション友寄喜恒作「三味線を弾く女性」/右ー冨永朝堂作「乙樽」
1924年11月2日『沖縄タイムス』
□きのふ開かれた朝堂氏木彫展 首里工業学校内でー来県中の青年彫刻家 富永朝堂氏の木彫作品展覧会は既報の通り昨日から首里工業内に於いて開かれたが本県では最初の彫刻展のこととて尚順男を初め市内の智識階級の人々多数の観覧あり木彫は10数点中には女優オトをモデルにした作もあり本県の赤木を多く使用してある因みに3日頃から那覇公会堂で開く筈
冨永朝堂(1897-1987ー12ー12)
 明治30年、福岡市下赤間町(現冷泉町)に生まれる。高村光雲の高弟山崎朝雲①に師事。
 大正13年の「雪山の女」帝展初入選。昭和7・8年の「五比売命」「踊女」帝展連続特選。代表作「谷風」(昭和13年)により日本木彫界に確固たる地位を築く。昭和19年、太宰府市観世音寺の地にアトリエを構え、自由な創作活動を展開。昭和50年、西日本文化賞受賞。昭和51年、第1回福岡市文化賞受賞。昭和60年死去。
 享年90歳。優れた彫技と高い精神性には定評があり、「木の中に棲むような彫刻家」といわれた。(→ブログ「太宰府市文化ふれあい館」)
①山崎朝雲 やまざき-ちょううん
1867-1954 明治-昭和時代の彫刻家。
慶応3年2月17日生まれ。仏師の高田又四郎にまなび,高村光雲に「養老孝子」がみとめられて入門する。明治40年米原雲海らと日本彫刻会を結成。芸術院会員。昭和27年文化功労者。昭和29年6月4日死去。87歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。本名は春吉。別号に羯摩(かつま)。作品に「大葉子(おおばこ)」「龗(たかおかみ)」など。(→コトバンク)


2001年11月ー「沖縄コレクター友の会発足」佐敷町ちゃんくすば中央が真栄城勇会長,その左が新城栄徳/南風原レストラン「沖縄コレクター友の会例会」中列右端が新城栄徳、その前が真喜志康徳さん

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2003年7月4日『沖縄タイムス』新城栄徳(沖縄コレクター友の会)「わたしのバクさん」/2006年5月『彷書月刊』248号□新城栄徳(沖縄コレクター友の会)「全国古書店案内65沖縄那覇・宜野湾編」


バーズ・アイ ~空からみた那覇~
那覇市歴史博物館企画展
バーズ・アイ ~空からみた那覇~


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2012年6月30日 那覇市歴史博物館企画展『セピア色の輝き~絵ハガキに写し出された戦前の沖縄~』

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上ー饒平名智太郎の本。 下ー饒平名(永丘)智太郎と甥の知念良秀。右ー知念良秀氏(佐倉市の知念宅前で/撮影・新城栄徳)

□2005年5月『琉球弧の雑誌展』新城栄徳「饒平名智太郎と親泊康永」沖縄タイムス社

東京本郷にあった知念良秀氏経営の「沖縄民芸社」守礼門が印象的だ。
□1970年3月『オキナワグラフ』ー知念良秀さん(千葉県佐倉市新町96番地)/わたしが扱っている品数は多いですよ。沖縄産のもの、沖縄に関するものなら何でも、と言ってもいいでしょう。レコード、切手、書籍、漆器、貝彫刻、bべっ甲、カツオ節、パインジュース、絵ハガキ、スライドなどなど。商社なみの取り揃えぶりです。東京郵便切手商協同組合に入っており、琉球郵便切手は沖縄でより安く売る店を自慢にしていますが、切手収集ブームは根強いものがあり、今後も収集家が減ることはないでしょう。復帰のあかつきには琉球郵便も当然廃止されることになるわけで、今のうちに集めておかれるよう宣伝している次第です。最近は発行部数が需要にくらべて少ないようです。またデザイン、色彩ももっと良くしてくれるよう琉球政府に働きかけています。世界には珍しい切手を発行することで国家財政を潤している国もあるほどで、積極的な売り込みに出てほしい。
レコードは20年も30年も昔に上京した人が懐かしがって買いに来たり、集団就職の青少年や学生などが故郷を思い出すよすがに買い求めていきます。沖縄にはいい民謡が数知れずあります。それらをどしどし吹き込んでレコード化させ、シリーズで出せば注目されるでしょう。沖縄物産を売ること、それは私の生きがいです。

知念良秀
 2004年2月28日『沖縄タイムス』新城栄徳(うちなー書の森 人の網)ー那覇に住んでいると東京は遠くなる。2002年夏、琉球書院の大城精徳氏から電話があり、「千葉の佐倉におられる知念良秀氏から早めに来てほしいと君への連絡があった」という。台風が接近中だったので東大阪市の自宅に行き新幹線で上京。上野の西郷隆盛銅像に近い駅から佐倉市へ向かう。翌日、台風の風雨の中、みつい夫人運転の車で知念氏と子息宅に行き成田空港地域共生委員会伝承部会調査員の取材に応じた。伝承部会『2002年度調査報告書』に「永丘智太郎氏のご親類であることから、知念氏に昨年7月に聞き取り調査を行った。その際、永丘氏について研究されている新城栄徳氏(那覇市在住)も同席した」とある。知念氏と永丘については1998年5月の琉球新報「東京で活躍した出版人2人/饒平名(永丘)智太郎と親泊康永」で書いた。永丘は1914年、上海の東亜同文書院で学び北京の共同通信英文記者を経て改造記者となり孫文、片山潜らに知遇を得た。

知念良秀氏は沖縄戦で、球部隊の通信兵として激戦地をさまよった。港川で捕虜となりハワイの収容所へ。そして送還され胸を患い金武の保養院から国立佐倉療養所に入所。社会復帰を果たし、1965年、趣味の切手商を経て沖縄物産を手がけ東京本郷で沖縄民芸社を経営する。知念氏は歌誌『九年母』の古い同人。『松田守夫歌集』(1964年)に知念良秀兄と題し「朝明けてつばめ飛び交う街の空日本に君を今日発たしめむ」とある。帰る際に、知念氏は真新しい墓の写真を見せてくれた。それが2003年3月6日享年77歳で亡くなられた氏との別れとなった。氏からおくられた歌「下総に移りきてすでに30余年鉢の蘇鉄は枯れ果てにけり」「故里の梯梧の花の咲く頃に我は行きたし久茂地川辺に」。知念氏は「沖縄物産を売ることが生きがい」と常に語っていた。氏に言われた「東京の沖縄物産史を調べてほしい」が宿題に。最近、関東沖縄物産協会で知念氏と共に活躍した宮城三吉氏(沖東物産)に浦添のご自宅で話を伺った。


 大濱聡2019-2■文学者たちの面影をたどっていたら、なぜか54年前の高校の修学旅行を思い出した。本郷の旅館に泊まったのだが、到着した日の夕刊で谷崎潤一郎の訃報を知ったことを今でも鮮明に記憶している。


饒平名智太郎②









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2019年9月8日 大阪大正区千島グラウンド「第45回 エイサーまつり」


Aze OngさんはDaisuke Takeyaさんと大正区・関西沖縄文庫にいます。2019年6月26日


2015年2月22日 大阪大正区・大正沖縄会館「黒い目の若者たち」主催・比嘉座/共催・関西沖縄文庫☎06-6552-6709)


1978年10月ーエイサー会場で走りまわるフトシ君とコウ君

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2010年9月12日ー「第36回エイサー祭り」大正区千島公園グランド/「人類館写真」「関西沖縄県人会」→2010年10月ー『月刊 榕樹』「大正区でエイサー祭り 猛暑のなか賑わう」
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1948年6月 吉川英治『戀ぐるま』松竹株式会社出版部(関西沖縄文庫蔵)
  桜島のいただきから黄金色の硫黄のけむりが、紫ばんだ朝の空をかすめていた。紺碧の海をあやつるかんこ舟、そして長崎の呉服船や煙草船や、諸国の廻船などが波にもまれている間を、白い海鳥が、雪のように光って飛ぶ。
『見えた。』
『ーオオ、琉球船、琉球船。』
海岸の人の群れは、手をかざして言い合った。見ると、成程、はるか桜島の沖あいから一艘の船が帆をあげてはいって来る。海の琉光と陽の光りを吸って、その朱塗の船はまるで珊瑚細工のように眼に映った。
『賀春使の船がみえたぞ。-紫巾夫をのせた琉球船がはいったぞ。』
言い伝える声を聞いて、城下の町人や娘たちは、蟻のように海岸線にならんで、晴着の列を作っていた。だが、朱い船の姿は、そこに待ちあぐねている人々の予期を裏切って、港の岸へつくまえに途中から岬の蔭にかくれてしまった。
『なアんだ、伊敷の浦へついたのか。』
がっかりした町人たちが、それぞれの家へ帰って、春の酒に酔っていたころに、岬へ迎えに行った島津家の警固隊は、貴賓の駕をおごそかに護って、馬蹄先槍の行列を粛々とねりながら、岬街道から青木谷の琉球館へ、賀春使の一行を送りとどけた。
島津侯に拝謁する賀春使の登城は正月の12日と沙汰をされた。それまでは休息というので、那覇主の王族右大府について来た厨房夫や洗濯婦などの下級の琉球人は、ものめづらしそうに、手を組んで、城下を見物してあるいた。
夜になると、青木谷には赤い燈が点く、そして、右大府の旅情をなぐさめるため、泡盛を酌んで歌をうたう酒宴のさまが想像される。宵ごとに、そこから洩れる蛇皮線や木琴の音ーそして嫋々としてあやしげな琉球器楽にあわせる八重山謡のふしも、城下のものは、いつか耳になれて、その好奇心を失っていた。
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1984年2月 吉川英明・編著『吉川英治の世界』講談社文庫
☆青梅市吉川英治記念館 〒198-0064 東京都青梅市柚木町


2003年8月31日ー関西沖縄文庫の帰りバス停にて、両親が沖永良部出身の有川洋美さん(左),新垣正美さん、新城栄徳

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写真・1978年8月ー那覇市一銀通りの琉球書院(琉球文化社)と青い海出版社の看板が見える。

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1974年5月ー『琉球の文化』第五号 星雅彦「安次嶺金正の芸術とその背景」


1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)
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1974年3月23日~6月2日 大阪万博記念公園エキスポランド「大沖縄展」


「沖縄文庫」/ 左が新城栄徳、平良幸春氏(日展会友)
会場内の沖縄文庫で沖縄本を販売する新城栄徳。いつも岡本太郎の太陽の塔を見ながら、民博はまだできていない。/このときの陶器コーナーではシーサー造りの名人・島常賀翁と、陶芸家で駆け出しの平良幸春氏とは一緒に陶芸の用具や釉薬などの材料の店、常賀翁のシーサー造りを2カ月以上観てきた。常賀翁の三線模合仲間の宮城美能留(宮城 稔)沖縄歌舞団団長の宿泊先のホテルに、一緒に見舞いに行ったこともある。



『青い海』1974年5月号「大沖縄展3/23~6/2」





1981年9月 沖縄の雑誌『青い海』106号 大城精徳「中国現地にみる 琉球文化のルーツ」

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1982年『青い海』新年号 109号 深沢恵子「松本つるーきびしい時代の息吹」 


□1995年10月 松本ツル『回想と随想』

1876年12月 王命により向徳宏、林世忠、林世功ら清へ密航
1879年旧8月 蔡大鼎、林世功、毛精長ら北京へ陳情に向かう  
1880年11月20日 林世功、中国の態度に憤慨自害する。

松本三益(1904年2月20日~1998年7月19日)
1904年(明治37年)2月20日、那覇市松山町2丁目57番地に生まれる。父正栄(本家の三男 林氏十世)、母ウトの長男、系図によれば林氏久米三十六姓、旧姓真栄田。八世。林世功は武装力による琉球処分に抗議し、明治13年旧10月20日北京で自決した。
1913年11月15日  林氏三十三年祭 久米平安座(大宗諱□芾 八世・世爵 美里郡大村渠地頭職 名称は松本)氏方ー眞栄田正隆は同氏を代表し来会者を歓待、遺墨書等を展観せしめ供物を配った。岸本代議士、知花朝章、仲吉朝助、伊波普猷文学士及び3新聞記者が来会した。
1913年11月16日『琉球新報』「故林世功追悼詩歌(1)伊江朝眞、兼島景福、仲濱政摸」
1913年11月17日『琉球新報』「故林世功追悼詩歌(2)伊是名朝睦、仲里朝衡」
1913年11月18日『琉球新報』「故林世功追悼詩歌(3)高相杰、名嘉山大昌」
1913年11月19日『琉球新報』「故林世功追悼詩歌(4)琉歌ー湧川朝升、高江洲昌壮、和歌ー山里永昌、屋嘉部政呈」

伊波普猷『沖縄歴史物語』null
『沖縄歴史物語』には東京版(左・1947年)とハワイ版(右・1948年)がある。東京版とハワイ版は、本文、小序、凡例、内容、写真などすべて同じものであるが、ハワイ版に総ルビがつけられていることと、附録が、東京版一篇に対してハワイ版が三篇であること、ハワイ版に玉代勢法雲による『後記』がついていることの三点の違いがみられる。本書は1928年の秋から翌年の春にかけ、ハワイおよび北米在住の沖縄人のために講演漫遊したときのテキスト『沖縄は何処へ』を参照して執筆したものである。(平凡社『伊波普猷全集』第二巻)/なほ明治13年の10月20日に、志士林世功が北京で自殺したのも清朝を動かすに与つて力があった、と伝へられているが、その当否は暫くおき、当時の思潮を窺ふたよりにもと、左に彼の自決して経緯を略述することにしよう。林世功(名城里之子親雲上、普通、官生新垣といふ)は久米村の人で、25歳の時官生科に及第し、北京の国子監に学び、明治7年業を卒へて帰国し、世子の時侍講にまでなつた人だが、明治9年の末、(略)時世の詩が2首ある。古来忠孝幾人生、憂国思家巳五年、一死猶期存社稷、高堂専頼弟兄賢。廿年定省半違親、自認乾坤一罪人、老涙憶児雙白髪、又聞噩耗更傷神。

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1923年『大阪市パノラマ地圖』図の作者は美濃部政治郎、発行者は日下伊兵衛(大阪、日下わらじ屋)

1994年3月 松本三益『自叙』「沖縄青年同盟結成と活動」
 わたしは沖縄青年同盟を結成すべく1926年(大正15年)2月ごろ沖縄に帰郷した。沖縄県民は天皇制政府の植民地支配と本土の独占資本、寄留商人(本土から移住した商人)に収奪され、低賃金と失業におびやかされていた。沖縄青年同盟は京阪神で出稼ぎにいき、労働組合に参加した経験のある進歩的労働者と社会主義的傾向の山田有幹、渡久地政馮、東恩納寛敷ら新聞記者、教員、事務職員を中心に1926年(大正15年)3月14日 那覇市公会堂で創立大会を開催した。公会堂の座席は満員になるほどの盛況であった。(略)同盟の創立大会に屋部憲氏が「さまよへる琉球人」の掲載された『中央公論』3月号を持参し、大会の決議による抗議の必要を提案された。大会運営委員会は全員賛成したので緊急動議として屋部憲氏が提案し、満場一致で採択された。抗議文は新役員に一任された。新聞記者の東恩納寛敷氏が原案を起草し新聞記者の渡久地政馮氏宅で10名位の起草委員会が討議して決定した。わたしも最後まで参加し、それを広津和郎氏に送る手はずまで助言した。

1929年 『沖縄労農タイムス』沖縄労農タイムス社(眞榮田三益)


1928年(昭和3年)2月に第1回普通選挙のさなか労働農民党の地方組織として労農党那覇支部が結成されたが弾圧され、翌年その再建をめざして創刊された沖縄最初の無産者の新聞。

1945年8月、国吉真哲・宮里栄輝・源武雄が早く帰還できるよう「県人会」結成を相談。宮里栄輝、熊本沖縄県人会長になる。/女子挺身隊救済で尼崎沖縄県人会結成。
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1945年 9月、松本三益が比嘉春潮を訪ね、伊波普猷を代表に推し「沖縄人連盟」結成を相談。比嘉春潮宅で、左端松本ツル、中央・伊波普猷、右隣りへ冬子夫人、比嘉春潮、松本三益
11月11日、沖縄人連盟創立総会。総務委員・伊波普猷(代表)、大浜信泉、比屋根安定、比嘉春潮、永丘智太郎
11月26日、関西沖縄人連盟創立大会。代表・豊川忠進、兼島景毅、井之口政雄  参加・良元村(のち宝塚)、神崎川、城東、泉州、堺、和歌山       の県人会

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1947年12月ー『前衛』徳田球一「産業復興の二つの道」、松本三益「農民運動の現段階」」


1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』


写真、山田有幹夫妻を囲んで左から浦崎康華、松本三益/1955年8月  警視庁正門、左から宮本顕治、紺野与次郎、志田重男、志賀義雄、2列目中央に松本三益


1956年 四原則貫徹・県民代表として本土渡航の瀬長亀次郎沖縄人民党書記長を羽田空港で出迎える松本三益(瀬長の右)、志多伯克進(瀬長の左)/1967年11月 新宿・酒礼門で「瀬長亀次郎歓迎会」中央に瀬長亀次郎、その左が松本三益、右隣りに比嘉春潮


1974年7月15日 那覇市民会館「日本共産党創立52周年記念集会」で中央委員会を代表して講演する松本三益/1987年10月 東京調布市で第28回「赤旗まつり」の沖縄物産店で懇談する、左より古堅美吉、瀬長亀次郎、松本三益


1975年10月 藤原美津雄『怪物民商の大戦略』国際商業出版(同書は永田 久光に依頼する予定であったようだ。)
○松本三益(日本共産党 市民・中小企業部長)に取材


1983年4月 安仁屋政昭『沖縄の無産運動』ひるぎ社

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東京築地の松本三益氏の家の前で、左・新城栄徳、右・松本三益氏。撮影・松本ツルさん。


1998年7月20日『しんぶん赤旗』

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1953年1月、源和は東京の雑誌『おきなわ』に「ウチナー・ヌ・ハナシ」を書いた。同年3月に琉球評論社(平山源宝)から『政党を裁く』を発行。55年、源和は評論社を設け1月に『評論集・政界診断書』、4月に『沖縄から琉球へ』を刊行した。6月『話題』を創刊、創刊号の表紙は屋嘉澄子(琉舞の山田貞子門下)、源和は「空手雑話」、友を語るとして「桑江朝幸君」を書いている。同年8月、2号を発行。表紙は琉舞の上津真紀子。平みさを「南方おけ対策」、自己を語るとして比嘉秀平が「辞書をマル暗記」を書いている。話題アルバムには1898年の久孔子廟那覇尋常小学校分教場の写真、池宮城積宝や上原恵里が居るという。

『話題』3号の表紙は根路銘房子、上間朝久の「舞姫・根路銘房子嬢」、幸地亀千代「三味線と伴に五十年間」。4号は1956年4月発行で、表紙は安元啓子。話題アルバムには首里城正殿などの建物が爆撃直前に撮られた写真が載っている。永田芳子「女の幸福」、大城朝亮「辻ものがたり」、島袋光裕芸談、安里永太郎「金城珍善」、荻堂盛進「ヌード喫茶」、船越義彰「男・女・裸体」、赤嶺親助「戦塵訓」が載っている。5号は56年8月発行で、表紙は伊礼公子。玉城盛義芸談などがある。
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源和は1956年3月には『手紙』を創刊した。内容は手紙形式で質問、呉我春信、護得久朝章が答えている。教科書が手に渡るまでを当銘由金が答えて「戦前の教科書はご存知のように国定で全国一律。そのために新学期の4月には桜の未だ咲かない北海道の生徒達も、既に桜は散ってしまった沖縄の生徒達も口を揃えて『サイタ、サイタ、サクラガサイタ』を学ぶという変則的な教育を強いられて来ました。こうした教育法によって国民を戦争にかりたてた」とあり今の教科書検定問題の問題はこのときから準備されていた。戦争への反省どころか戦争準備の教育に余念がない文部省ではある。永田芳子「アメリカ便り」も載っている


1956年10月発行の『手紙』は軍用地問題特集で、「干拓事業は大資源の発掘である」、「セメント製造を急げ」の記事が載っている。今では温暖化問題もあり到底受け入れることの出来ない提案である。源和は1957年3月に『事業と人物』を創刊、宮城嗣吉邸宅、沖映本館を設計した宮平久米男の紹介、「1956年主要年誌」が付いている。58年4月、『オキナワグラフ』が創刊。同年、源和は琉球果樹園株式会社を創立し社長となる。

1960年10月、『琉球画報』が創刊。61年9月、琉球画報の編集長だった佐久田繁が玉城盛英を発行人とし『月刊沖縄』を創刊した。この年は他にも金城五郎の『沖縄公論』、金城宏幸『沖縄マガジン』の雑誌が創刊されている。62年11月の『月刊沖縄』に源和は「長老会議崩壊の底辺」、12月には「稲嶺一郎伝」を書いている。63年2月は月刊沖縄のインタビューに応じ「パクリ屋といわばいえ!」、5月の『月刊沖縄』に「瀬長亀次郎伝」を書いている。1968年、源和は本部開発株式会社を創立し会長となる。

1973年5月、源和は月刊沖縄社から『琉球から沖縄へ』を再版する。75年4月の『新沖縄文学』のインタビューに応じ「仲宗根源和氏に聞くー大正期沖縄青年の軌跡」として掲載された。

□仲宗根源和は1895年、本部間切渡久地で父源一郎、母うしの長男として生まれた。手元の「仲宗根門中世系図」に大宗が仲宗根親雲上で源和はその8世、妻のところには錦子、後妻ミサヲ、子はないとある。仲宗根源和は1938年9月に東京図書から『武道極意物語』を、43年11月、萬里閣から『武道物語』を出版した。


左から 仲宗根源和、大宜味朝徳、兼次佐一、瀬長亀次郎




仲宗根源和『沖縄から琉球へ=米軍政混乱期の政治事件史=』

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写真左が山城善光氏、新城栄徳
1930年 県立二中『みどり』山城善光「思ひ出の帰省」「太郎」
1938年6月 山城善光『球陽ー百人百言集』大阪球陽新報社
1975年10月 山城善光『山原の火ー昭和初期農民闘争の記録』沖縄タイムス社
1978年12月 山城善光『火の葬送曲ー続・山原の火』

山城善光氏が死去/「山原の火」著す( 2000年4月1日 『琉球新報』 )

戦前の民主化や財政経費節減などを求めた大宜味村政革新農民運動でリーダーとして活躍し、同運動を記録した著書「山原の火」で知られる元立法院議員の山城善光(やましろ・ぜんこう)氏が31日午前3時20分、肺がんのため、浦添市の病院で死去、89歳。大宜味村出身。自宅は那覇市首里寒川町一ノ23。告別式は1日午後3時から4時、那覇市首里寒川町一ノ二、安国寺で。喪主は妻初枝(はつえ)さん。

大宜味村喜如嘉出身。県立第二中学校を卒業後、大阪球陽新報記者などを経て、沖縄協会職員、沖縄人連盟東京総本部事務局次長を務めて帰省した。政治運動に身を投じ、農民運動のリーダーの一人。その後、沖縄民主同盟・沖縄社会大衆党の創設に尽力した。1958年立法院議員に初当選、一期務めた。復帰後は出身の大宜味村の地域活性化に貢献。立法院議員を経て、レストラン経営に転じ、村に古くから伝わる精霊ブナガヤ(キジムナー)に熱中し、「ブナガヤ実在証言集」を82年に出版した。

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沖縄民主同盟機関紙『自由沖縄』(編集発行人・山城善光)山城は東京の沖縄人聯盟の機関紙『自由沖縄』の元編集発行人。


2003年3月5日 『沖縄タイムス』「魚眼レンズー同名でも違った機関紙」
1945年、仲宗根源和は米国海軍及び政府諮詢会委員社会事業部長を経て47年6月、沖縄最初の政党「沖縄民主同盟」を石川市宮森小学校で旗揚げした。委員長に源和、総務部長が桑江朝幸、組織部長が山城善光、青年部長・上原信夫であった。ほかに同志として平良辰夫、桃原茂太、當間重剛などがいた。48年4月、東京から持ち帰った謄写版印刷で機関紙「自由沖縄」を発行。6月、「自由沖縄」が布令違反だとし編集発行人の山城善光や桑江朝幸が逮捕され23日間も知念署留置場に入れられた。沖縄民主同盟は弾圧され、野に下った源和は高良一の『琉球新聞』、仲宗根仙三郎の『沖縄日報』の相談役として政治評論を書いている。





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1998年5月『沖縄の軌跡』第21号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)

1926年5月ー『沖縄及沖縄人』<沖縄救済問題号>創刊号□埼玉公論社・埼玉県所沢町
□「沖縄及沖縄人の使命」・・・・・・・・・2-3
「より良き沖縄を建設せよ」・・伊波学人・13
○斯ふ云ふ見地からして、相互ひに同じ風俗習慣、生活を持っている人々が、それ自身の生活拡充のためにモンロー主義を主張すると共に各個人にあっては、自我の権威を飽迄認識すると共に、之が拡充せんことを乞ひ願ふのは自然である。人類がモンロー主義、自我への自覚のプロセスを辿り然してより自然な、より真実なる競争闘争する所謂生存競争が生ずることに依って不自然なものが倒れ、よりよい意味のものが創造され、成長するのである。人類の進歩向上は自覚するに 上の事実を要約したものを称するのである。
沖縄モンロー主義、沖縄スピリットの依って立つ処の基調なり概念は沖縄県人が、排他的、偏狭な立場を固執せんとするのでなくして、全日本をよりよくする前提として、先づ沖縄県に生まれたものは先づ、よりよき沖縄を作り、延て其気運を普遍化し他に及ぼさんとするに他ならぬのである。
「沖縄及沖縄人の発刊を祝す」・・渡口精鴻・・13-14
「貴族院議員・伊江男爵訪問記」、「京浜学生会近況」、「沖縄県の新聞界」、「郷土通信ー名護公園計画、警部合格者、海外発展の県人、矢作博士講演、阪神那覇直航、憲政支部活動、東宮記念碑、沖縄青年同盟」、「在京県人動静」、「発刊に至る迄」、「京浜沖縄県人名簿」、「読者の叫び」、「編集後記」
○同誌は沖縄朝日新聞東京支局長の小那覇三郎も事業部主任として参加。同年6月号には山田真山の弟子真帆による「山田真山画伯出世物語」、「東京美術骨董界の重鎮」として三槐堂上運天令儀が紹介されている。のちにハワイ・ホノルルに在住する幸地朝則は一時、母の妹の夫が経営する三槐堂につとめていて、この頃のことを崎原貢『がじまるの集いー沖縄系ハワイ移民先達の話集』で述べている。
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1926年
『沖縄及沖縄人』7月号

『沖縄及沖縄人』9月号
沖縄救済より新郷土文化の建設へ・・・・・・・・3
十人十色・・・・・・・・・・・・渡口精鴻・・・・・・4-5
沖縄救済問題概論・・・・伊元富爾・・・・19-23
早老亡国論・・・・・・・・・・徳山浩一・・・・6-8
関西に於ける県人と事業へ・・・・・・・・・・12-13
琉球史概観・・・・・・・・東恩納寛惇・・・・・・・9-11
野島
郷土思慕と先輩に就て・・・宮里定顕・・・・・5-6
東京球陽倶楽部生る・・・・・・・・・・23-24
県内外事情・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16-18
他府県事情・・・・・・・・・・・・・・・・・15-16
在京県人名簿(二)・・・・・・・・・・・・・28-29


『沖縄及沖縄人』12月号

1927年
『沖縄及沖縄人』1月号

1932年1月ー大宜味朝徳『最近の秘露事情』東京・海外研究所


1933年『南島』(第一号、2,3,4,6,7,8号)/1934年『南島』(第9号、10,11,13,14号)  
1934年1月1日『南島』弟9号 石川正通「比嘉俊成を語る 琉友素描・その1」
  (略)潤一郎対春夫の諸相は不思議にも俊成対正通のそれに似通って居る。幸田露伴の如き老大家はさておき、今の文壇の中堅大家のうちで最も漢学の素養の深いのは志賀直哉、谷崎潤一郎、佐藤春夫の3人である。死んだ芥川龍之介も死んだ末吉麦門冬のやうによく漢文が読めた。沖縄には真境名図書館長や京都の崎山先生のやうな漢学の大家が居られる。

1934年8月1日『南島』弟13号 石川正通「友の首途を祝して故郷を語る=武元朝朗・国吉休微 両君を叱咤する=」
 朝朗君、休微君 御互に鉄砲丸の様に御無沙汰を続けて居たね、不精は吾々にとっては遺伝なんだからせいぜい筆不精の限りを尽して居る事が先祖に忠なる所以かも知れない。(略)最近出た某書店の百科辞典を引いて見たが、おもろ、蔡温、程順則、尚泰侯等も出て居ない。澤田正二郎、田健次郎等は写真まで出て居る。土田杏村が第二の萬葉集と言った『おもろ』も国語国文学校の士にすら全般的に知れ亘って居ない。沖縄はまだまだ紹介しなければならない、風物も文化も県人が思って居るほど知られていない、いい気になっては駄目だ、それにつけても人物の欲しさよ。君達は君達の方面で第一人者に成ってくれ、自愛自重せよ、頼む。

1933年8月ー大宜味朝徳『我が統治地南洋群島案内』東京・海外研究所

1937年ー大宜味朝徳『現代沖縄県人名鑑』東京・海外研究所

12月ー大宜味朝徳『海外人事録』東京・海外研究所
1938年
8月ー大宜味朝徳『沖縄振興と精神作興』南島社


左から 仲宗根源和、大宜味朝徳、兼次佐一、瀬長亀次郎

1954年
4月ー大宜味朝徳『琉球案内』沖縄興信所
1963年
7月ー大宜味朝徳『目で見る琉球写真案内』沖縄興信所


1993年11月30日『琉球新報』「幻の南洋朝日新聞見つかる」


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(株)三人社 〒606-8351 京都府京都市左京区岡崎徳成町29-3 岡崎ミントビル■本社代表電話番号/ファクス番号075-761-0368/0369(※変更ございません)

6月22日、福岡の松下博文氏(右/筑紫女学園大学文学部教授)が京都・三人社の越水治氏(左)、山本捷馬氏(中)と来宅された。




京都絵葉書ー戦前

 私は1969年2月、京都駅近鉄名店街の京風料理の店で働いていた。河原町の京都書院①、駸々堂②はよく行った。1972年、京都書院に『琉球の文化』を置いてもらうとき染織と生活社(田中直一代表取締役)を訪ね編集長の富山弘基氏に相談した。京都書院は美術関連の出版社で鎌倉芳太郎の『古琉球紅型』も発行。京都書院河原町店は現代美術の本も豊富で私の好きな場所でもあった。富山編集長の御宅で布コレクションを見せてもらったり、富山編集長依頼の贈物を読谷花織の与那嶺貞さんに持って行ったこともある。

①京都書院(きょうとしょいん)は、かつて美術書を多く出版した京都市の出版社であった。 創業1924年9月、設立1949年。洗練されたカラー印刷を生かした美術書が読者のニーズをつかみ一世を風靡したが、1999年6月に倒産した。負債額22億円。月刊誌「美と工芸」やユニークな豪華本、文庫サイズのアーツコレクションは好評だった。→ウィキ
②大淵渉(1855年‐1907年)によって1881年(明治14年)に京都において書肆駸々堂が創業され、出版も開始する。1883年(明治16年)には大阪の心斎橋に進出、関西出版社としての地歩を固めた。嵩山堂とは出版数を争うよきライバルであり、駸々堂が出版した書籍で木版口絵がついた作品の数も、口絵を描いた画家の数も多様であった。また、旅行案内や時刻表などの方面にも力を注いでいる。→ウィキ
 
淡交社ー茶道裏千家十四世淡々斎家元の次男、納屋嘉治が同志社大学卒業の翌年、裏千家の機関誌「淡交」を刊行する出版社として設立した。現在は長男、納屋嘉人が経営にあたっている。社名は荘子の「君子之交淡若水」(学徳のある立派な人同士の交わりは、水のように淡々とした、清い関係である。私心のない交わりは壊れることがない)に由来している。 法然院での修行歴のある僧侶で、弘文堂などに勤務していた編集者でもあった臼井史朗(のちに副社長)を引き入れてから、茶道を軸とした伝統文化など様々な分野の書籍、雑誌を刊行。とりわけ京都の観光と文化に関するものが多い。茶道の家元、裏千家と繋がりが深い出版社であり、創立以来裏千家の機関誌である『淡交』を刊行しており、主要株主かつ役員とし千玄室が加わっている。この他、『なごみ』『淡交テキスト』の両誌を刊行している。茶道書以外の分野では、美術工芸、歴史文化、旅ガイド、料理、趣味生活や『京都大事典』、『京都検定公式テキストブック』を始めとする京都関連書籍などの書籍を発行している。日本語以外の言語による書籍も扱っている。 出版以外にも、茶室等の建築、茶道具などの販売も手がけている。京都本社の一階は書籍を販売しているフロアと茶道具関係を販売しているフロアがある。→ウィキ


 『和の史 思文閣古書資料目録』ー思文閣出版(しぶんかくしゅっぱん)は、京都府京都市東山区古門前通大和大路東入元町355にある出版社。美術商思文閣の出版部で、人文系・美術系の書籍を刊行している。絶版となった古書や花道、歴史、国文、芸術などのオリジナル企画書を刊行している。ベストセラーにならなくても、命の長い本を出版していく方針を取っている。京都市東山区古門前通大和大路東入元町386にぎゃらりぃ思文閣を運営する。 →ウィキ

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屋良朝信 2019-6-8、ようやく「関西沖縄文庫」を訪ねる機会に恵まれました。新大阪駅近くの宿泊先を少し早めに出て大正駅周辺を歩きました.。金城馨さん、諸見里さんにも会うことができました。蔵書の数量にも圧倒されましたが分野別に整理/分類されているのがすばらしいです。関西沖縄文庫は私設で、すべてスタッフメンバーの私費で運営されているとのこと、ありきたりの芸能の場や会員間の交流にとどまらず自由な視点で情報発信しているのが印象的でした。金城さんもその日の午後は沖縄に行かれるとのことでした。精力的ですね。小一時間ほどしか滞在できませんでしたが、皆さまの意気盛んなスピリッツに触れて勇気をもらいました。


左が屋良朝信、諸見里宗博さん

 1971年5月、沖縄の雑誌『青い海』2号に「あるグループ 沖青友の会(写真中央ー諸見里宗博)」が紹介されている。末尾に、大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。諸見里君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。と結んでいる。当時、関西には、京都の都沖青、港区の沖青友の会、大正区のサークル南風、枚方市の守礼の会、尼埼の三和同郷青友会があった。それらと連絡雑誌を作ろうと沖青友の会が動きはじめた最中であったから、『青い海』創刊は渡りに船であった。


左が金城馨さん


1972年4月 雑誌『青い海』12号 「屋良朝信くん・ギター一丁かかえ世界一周旅行〝貧乏旅行″」/『青い海』13号①~22号⑧ 屋良朝信「旅行記でない旅行記」
屋良朝信 やら・とものぶ 川崎沖縄県人会会員。1949年川崎市川崎区生まれ。両親に連れられ幼い頃から沖縄を訪れる。学生運動が盛んだった10代の終わり頃、在籍した都内の明治大では休講が続いた。作家・小田実さんの著書の影響を受けて休学、「何でも見てやろう」とバックパッカーの旅に出た。北欧や英国の街角で、ギターを抱えて日本の歌を歌った。1年間で復学。卒業後、沖縄や欧州、アジアの安宿を泊まり歩く旅を30歳近くまで続けた。旅の途中、親交を深めた日本人の尺八奏者とも楽曲を制作した。その後、出版社や電子部品メーカー勤務などを経験。退職後は沖縄出身者やその子孫を応援する。→旅の記憶 〜遊民雑記〜 tomoyaraのblog

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1897年  9月25日ー沖縄県那覇区下泉町にて父正芳・母ツルの二男一女の長男として出生 
1905年  那覇区立甲辰尋常小学校
5年生頃よりメソジスト教会牧師H・B・シュワルツ師に英語を学ぶ。この時の恩師が佐久本嗣宗。正通□佐久本先生は私達が甲辰尋常小学校の生徒であったとき、沖縄の天地創造や三山統一の歴史を熱心に説かれた。日本歴史には、蘇我物部、藤原菅原、南朝北朝、源平、豊臣徳川、勤王佐幕、といつも二つの対立しかないのに、沖縄には北山中山南山と三つの鼎立のあった史実を知って、二より三が多いというむつかしい算術まで知っていた私は、大沖縄帝国は広いなあと子供心に言い知れぬ誇りを感じたものである。→城間正八・佐久本嗣宗『隠れたる偉人ー城間正安翁ー』玻名城印刷所1932年5月
        
1911年  沖縄県立第一中学校入学
1915年  6月6日、那覇尋常高等小学校で琉球新報主催「学生雄弁大会」一中代表として石川正通英語演説「立てよ沖縄青年」と云う題下に流暢明快の弁を揮った。商業の玻名城政博は「統計上より本県の輸出入関係」を述べ警醒を促した。商業の渡久地政憑「立てよ日本青年」と題し日本の将来を考えよと提唱。徒弟の真栄城玄明は「犠牲的精神の涵養」と題し述べた。他に県農の比嘉盛宮、徒弟の中原政良、二中の安慶田正松、商業の宮城邦英「道徳の効果」、師範の石垣信知、一中の大浜用介「沖縄の宝庫は八重山なり」、徒弟の原秀樹、二中の前田豊、水産の東恩納寛成、一中の平野弘「冒険的日本男児たれ」、二中の嵩原佐久利、師範の佐久川饒、水産の勢頭眞佐、県農の田港朝全、師範の前堂貞烋が演説した。

石川正通〇南方熊楠は、山口沢之助校長と同郷和歌山県の大先輩、奇行に富む世界的大学者。山口校長が折に触れて話された、南方熊楠の逸話は一冊の本にも纏め得るほど、僕はあざやかに覚えている。山口校長の講義は、僕にとっては生理学でなく、熊楠学であったと、今でも有難く思っている。脱線学の妙味ここにあり。(1980年12月『養秀百年』)

1916年  一中退学、私立麻布中学校へ転校。3月29日、真玉橋朝起、武元朝朗、竹内弘道たちに見送られて沖縄丸で上京、甲板上で明大受験の城間恒昌、杉浦重剛校長の日本中学に転校する我部政達と3人で雑談に耽る。4月3日東京駅に着く。翌日、比屋根安定が大八車で荷物を一緒に運んでくれる。斎藤秀三郎校長の抜擢で正則英語学校講師となる。後に比嘉春潮(荻窪)、島袋盛敏(成城)、比屋根安定(青山学院構内)、仲吉良光(鶴見)、八幡一郎(東中野)、金城朝永(大塚)、石川正通(本郷)の7人で七星会結成する。

□斎藤秀三郎 【さいとう・ひでさぶろう】
生年: 慶応2.1.2 (1866.2.16) 没年: 昭和4.11.9 (1929)
明治大正時代の英語教育者。仙台生まれ。仙台藩士で運上方の斎藤永頼の長男。父の手ほどきで英語を学び,宮城英語学校を経て明治14(1881)年工部大学校に入学。在学中に英語教師のJ.M.ディクソンから強い感化を受けた。その後,岐阜,長崎,東京の一高などで英語を教えたが,明治29年正則英語学校設立以後,精力的に英語の文法書,読本の註解書,和英・英和辞書の編纂に従事した。その作文練習問題や和英辞典の用例には自伝的要素が濃厚。多磨墓地に墓がある。妹は明治女学校生だった斎藤ふゆ,次男は音楽家の斎藤秀雄,次女の婿は無教会伝道者の塚本虎二。<著作>『熟語本位英和中辞典』<参考文献>大村喜吉『斎藤秀三郎伝』 (コトバンクー加納孝代)

1918年  国民英学会講師、逗子開成中学校講師(ここでの教え子に、平野威馬雄、岡田時彦・女優茉莉子の父、徳山環ー歌手)、大成中学校講師、東洋商業学校講師


□平野威馬雄の本

1919年  保善商業学校講師(国語担当)、明治学院専門部講師(現明治学院大学)
1922年  第三版『全訳・シャーロックホームズ』越山堂。文部省中等教員英語科検定試験合格
1923年  8月ー沖縄県立第二中学校講堂で石川正通「英語講座」、伊佐三郎、赤嶺康成ら参加 
1924年  東北帝国大学法文学部文学科入学。在学中、土井晩翠の寵愛を受けた。
        
土井晩翠
仙台市生れ。本名、土井(つちい)林吉。姓は1934年から‘どい’という通常音を容認。1894年、東大英文科に入学、
同年末に結成された帝国文学会に加入。その機関誌「帝国文学」に1895年11月から新体詩を載せ始め 翌年3月から編
集にも携わり、1898年、ユゴーの詩集『光と影』の序文を訳載した。この年、東京音楽学校の依頼で『荒城の月』を
書いた。大学卒業後 1901年6月に私費で外遊、ロンドンで夏目漱石と同居し、滝廉太郎とも会っている。1904年10月
までに至る欧州諸国での感興はその詩作の主要なモチーフとなった。「帝国文学」などに寄せられた諸詩篇は『天地
有情』(1899)『暁鐘』(1901)『東海遊子吟』(1906)の3集にまとめられた。 その作は一貫して文語で書かれ、漢語利
用の効果も目立ち、はじめ七五調によったが、さらに他の定形にも手を染め、自由詩の試作にも及んでいる。1945年
7月、戦災によって万巻の蔵書を、また1948年までに妻子のすべてを失い、没年まで孤寂の時を過した。前記3集の他
『曙光』(1919)、『天馬の道に』(1920)、『アジアに叫ぶ』(1932)、『神風』(1936)があり、他に数種の選集も出た。
尚、唱歌や校歌の類も多く、短歌の制作もあって後に『晩翠歌抄』(1949)に収められた。/「日本現代詩辞典」

1925年1月29日『沖縄朝日新聞』石川正通「朝日歌壇ー雪の●日本/冬空に茜さす日は登りたり 小鳥よ啼け雪遠き間に/この寒さいよ つのらば川の音も 氷の下にひそまるらんか/日の照りつ雪の舞ひ舞ふ冬空に こだまを返し鶏はひた鳴く/久方に映えし朝日ををろがむと 窓を開けば雪片の舞ひ入る/変装の雪は悲しも舞ひ舞へど このたまゆらの白雪にして/憎らしく可愛きものよじやれ雪は 我が唇に止りては消ゆ/冬籠る我が部屋ぬちに炭聞きつ 幼き●の友想ふなり」

1928年  東北帝国大学法文学部国文科卒業。卒論「近松門左衛門の世話浄瑠璃について」。国民英学会講師に復職、京華高等学校教諭、日本女子高等学院英文学科教授
1929年  雑誌『イギリス文学』に「ヘルンの『沙翁論』」
1933年   『南島』1月1日□石川正通氏ー伊波普猷先生と共力で近く日英両文の沖縄案内を発刊する由
         『南島』4月5日□石川正通「三十七歳の曙光」「玉城朝薫の二百年祭に當りて」
         『南島』8月5日□石川正通氏ー7月24日、澄子夫人同伴帰郷 約1カ月滞在予定、二高女で英語講習会開催□石川正通「夏は故郷で=鎖夏漫筆=」
1934年   『南島』8月1日□石川正通「友の首途を祝して故郷を語る=武元朝朗・國吉休微両君を叱咤する=(略)最近出た某書店の百科辞典を引いて見たが、おもろ、蔡温、程順則、尚泰侯爵も出て居ない。沢田正二郎、田健次郎等は写真まで出て居る。土田杏村が第二の万葉集と言った『おもろ』も国語国文学校の士すら全般的に知られて居ない。」

1934年  青山学院専門部講師
1936年1月 『沖縄教育』(有銘興昭)石川正通「東京生活二十年」「年賀集ー下村宏、山城東榮、新屋敷幸繁、石川正通、川出麻須美、北里闌、アブラタニ キクジロー、村尾三郎、辻木、末原貫一郎、青山於菟、堀池英一、石井漠、田場盛義、島袋盛敏、安部金剛・安部ツヤコ」

1938年  
 
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1939年   
                 
         
       このころ母校一中で講演
1939年  1月『月刊琉球』石川正通「傷心の友に」
       
 
 1939年1月1日『琉球新報』石川正通「幽明を境して=太田朝敷先生と語る=(略)皮肉屋の斎藤緑雨君と飲んで居た末吉麦門冬君’娑婆からは十 億土一またぎと駄句って’」

        

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1979年3月 『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社〇1948年8月『沖縄毎日新聞』創刊。写真中央が宮城邦貞社長、その右が与儀清三編集局長、左が松川久仁男業務局長、後列右端が大城精徳

1949年 名護にて /1949年10月25日那覇写真館にて

大城精徳が書いてくれた『沖縄毎日新聞』メモ


1952年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師就任
1955年3月 大城精徳、第7回沖展に「静物」出品
1956年 津野創一、首里高等学校卒
1956年3月 大城精徳、第8回沖展に「首里風景」出品

1956年9月1日『琉球新報』

首里高等学校同僚

1957年4月 大城精徳、首里高等学校社会科教師退任
1958年   宮城篤正、首里高等学校卒

2019年10月 『浦添健 作品集』↓

1958年12月16日 二科会員・井上賢三を迎えて壺屋の料亭「幸楽」で「二科会沖縄支部」発会式。支部責任者・大城皓也。写真会員ー水島源光、山田實、親泊康哲、名渡山愛誠、島耕爾、備瀬和夫、豊島貞夫、永井博明、八幡政光、当真嗣祥、鹿島義雄。絵画会員ー大城皓也、大城精徳、山里昌弘、塩田春雄、大城栄誠、金城俊、榎本正治、友利寛、下地寛清、水田虎雄、安仁屋政栄、松川剛、浦添健、具志堅誓雄


1957年9月 「招待美術展」タイムスホール /1958年10月 第2回 「招待美術展」タイムスホール


1959年5月『今日の琉球』大城精徳「琉米親善」/10月 名渡山愛順「風景」




1960年5月25日スミソニアンへ送る文化財選定委員会-政府会議室 




第1回 美緑会展 /1962年12月 「琉球美術展」琉米文化会館


前列左端が大城精徳/左から2人目が大城精徳
1996年 『沖縄県立博物館50年史』〇大城精徳・主事補・1959年~1968年/学芸課(美術)1969年~1971年


1963年6月『家庭公論』第2号 大城精徳「馬と沼」


大城精徳・表紙絵 1964年2月『今日の琉球』76号「赤えんどうの花」/1961年10月『今日の琉球』48号「真昼の屋良ムルチー」

1965年10月~12月『今日の琉球』大城精徳「アメリカの博物館と美術館」

スミソニアン博物館のフランクA・テーラー館長に琉球絣を贈る琉球政府立博物館の大城精徳(右)、左が八重山琉米文化会館の長田信一、中央が文化人類学課のユージン・ネズ博士
○去る5月16日から8月14日の3か月間、米民政府派遣の技術研修員として、アメリカ各地の博物館や美術館などを八重山琉米文化会館館長の長田信一氏とともに視察してきた。(略)アメリカの博物館は1930年代から急速な発展を遂げ、現在では大小合わせて、全米で4千館近くもあるといわれている。これは、現在のアメリカの人口約2億人とみて、約5万人に一つの博物館という割り合いになる。この中には美術館はもちろん児童博物館や大学付属博物館、それに記念館などが含まれている。というのはアメリカでは資料を所蔵し、その調査、展示および普及教育を行っている施設は、その固有の名称がどうであれ”Ⅿuseum〟と考えられているからである。
○ワシントン市のスミソニアン博物館(The Smithsonian lnstitution)-ここの巡回展示部の主催で、先年、琉球の古文化財がおよそ全米に紹介されたり、また最近では文化人類学室のアジア・ホールに沖縄関係資料陳列ケース(紅型、織物および玩具数点)を新たに加えるなど、沖縄とも関係の深い機関である。筆者はここで4週間の視察研修を受けたが、毎日が驚きの連続であった。(略)スミソニアンは国立になっているが、連邦政府のどの省にも属さず、大統領、副大統領、大審院首席判事、それに大統領の閣僚を会員とする特別な機関である。その運営の最高機関はスミソニアン理事会で、これには副大統領、大審院首席判事、上下両院の議員各々3名、そして国会から任命された一般市民6名の計14名からなっている。一般市民6名のうち、2人は首都ワシントン居住者で、他の4名は各々違った州から任命され同州から2名任命することはできない。アメリカの博物館は公共私立を問わず、ほとんどがこの理事会制度をもって運営されている。
 ○公立の博物館ー代表的なものとして、筆者が訪ねた中ではミルウォーキー公立博物館とオークランド公立博物館がある。ミルウォーキー公立博物館は自然史博物館の性格に、その地方の歴史資料を加えたもので、ここも総工費6百万ドルを投じて1963年4月に新館が落成したばかりである。陳列場以外は殆ど旧館からの移動も終わり、活気に溢れていたが、陳列場の移動は3割程度で、年次計画で1971年までかかるとのことであった。(略)博物館に対する寄付は多くの場合「博物館の友」を通じてなされ、また、この種の寄付に対しては、学校や教会に対するそれと同じように、年間所得の30パーセントまでは免税されるという特典があたえられていた。このような免税制度は、もてる国アメリカよりも、むしろ沖縄のようなところで、絶対に施されるべき性質のものではないかと考えられた。
 カリフォルニア州のオークランド市では、現在歴史博物館と自然科学博物館、それに2カ所に分設された美術館があるが、これらを1カ所にまとめようとやはり6百万ドルの建築費を投じて新館を建設中であった。館長の説明によると、完成のあかつきには博物館活動のみでなく、オークランド市のあらゆる文化活動の中心になる一大文化センターになるということだった。オークランド市はオークランド湾をはさんで、サンフランシスコと向かい合っている人口約40万の都市である。建設の過渡期にある那覇市としては、これまで文化事業面に力を入れる余裕がなかったと思われるが、そろそろ文化面に市政を反映させてもいいころではなかろうか。
 私立のボストン美術館は、中国、日本、インド、メソポタミア、エジプト、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパ諸国およびアメリカの美術工芸品をアメリカで最も多く所蔵している世界屈指の美術館の一つである。今少し具体的にいうと、同美術館の東洋部(岡倉天心と最もゆかりが深い)の収蔵品数が約40万点でアメリカで最大、西洋画部は、12世紀のフレスコ画、14,15,16世紀のパネル画、そして17世紀から今日に至るキャンバス画、総計約2千点、そのうちの印象派の作品数がアメリカで最大、たとえば印象派の巨匠モネーの作品が陳列されているだけでも60余点に及んでいた。(略)同美術館についてどうしても言及しなければならないものに、教育普及活動がある。特に同博物館は、教育活動の先駆者といわれるだけあって、大変な力の入れようであった。
■関連・1997年7月 電通総研『情報ビッグバン・日本の挑戦ー「日本と日本人の未来を描く」フォーラムからの提言』○文化だけが社会づくりの求心力であるとすれば、社会は過去に引きずられてしまいます。社会を新しい変化の側に引き寄せていく求心力は、来るべき社会へのイメージの共有と、次なる変化への合意形成の中から生まれます。/情報ネットワーク社会が、インターネットや携帯電話、多チャンネル放送などによって、その姿を現すにつれ、日本でも海外でも、負の側面が観察され指摘されるようになりました。そのひとつが、社会から孤立した「孤人化」「オタク化」の現象。個人情報がハッカーなどの手によって漏れ、匿名で悪意に満ちたウワサを流し、マネーカード暗証番号の流用などのリスクの問題も出てきた。

 スミソニアン博物館ー1848年、イギリス人の科学者ジェームズ・スミソンが「知識の向上と普及に」と委託した遺産を基金としてにつくられた。スミソニアン協会が運営する19の博物館並びに研究センターの施設群であり、多くはワシントンD.C.の中心部にあるナショナル・モールに設けられているが、ニューヨーク市、バージニア州、アリゾナ州、メリーランド州や海外(パナマのスミソニアン熱帯研究所(英語版))に置かれたものも含まれる。収集物は1億4200万点にも及ぶ。
運営資金はアメリカ合衆国連邦政府の財源及び寄付、寄贈、ミュージアムショップ、出版物からの利益で賄われているため、入場料は無料である。
世界各国の本物の航空機を展示している国立航空宇宙博物館は特に有名で、月の石の展示や、広島の原爆展を企画したことでも知られている(後者は実際には展示できなかった)。他に、国立アメリカ歴史博物館、産業・技術史の博物館や国立アメリカ・インディアン博物館などもある。それら9つの博物館とナショナル・ギャラリー(国立美術館。スミソニアン協会とは別)は、国会議事堂前に展開する広い道路「ナショナル・モール」の両脇に配置され、一帯は広大な博物館地域となっている。国立動物園等はワシントンD.C.の他地域に、クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館、国立アメリカ・インディアン博物館が管轄するジョージ・グスタフ・ヘイ・センターはニューヨーク市にある。これに類する博物館群は他の国ではほとんど例をみず、ドイツのベルリン美術館も複数の美術館、博物館群だが規模が比較の対象にならない。→ウィキ
 カリフォルニア・オークランド博物館(OMCA)ーカリフォルニアの過去・現在・未来を称え、そのハイライトを紹介する心躍るようなギャラリーを備え、参加型のアクティビティ、教育プログラム、コミュニティイベントを行っているこの博物館は、オークランドのレイクメリットに近い中心的な文化施設です。1969年に設立された「人々のための博物館」であるOMCAは、芸術、歴史、自然科学のコレクションが、美しいテラス付きの庭園に囲まれた建物に集結しています。
ミルウォーキーへようこそ!
シカゴから北へ90マイル(145キロ)、五大湖で2番目に大きな美しいミシガン湖のほとりにたたずむミルウォーキー。街並みを楽しく散策できるフレンドリーでクリーンなミルウォーキーには、アメリカ中西部の魅力がぎっしりと詰まっています。印象的な建築物、さまざまなタイプのホテル、全米屈指のレストラン、美しいリバーウォークへと繋がる活気あふれる街角、そして夏中繰り広げられるフェスティバルなど、ミルウォーキーは、気軽にアクセスできるユニークなアトラクションの宝庫です。
 ミルウォーキー公立博物館では、コスタリカの熱帯雨林の展示と、一年中蝶々が舞うバタフライガーデンを探訪してください。世界最大の恐竜の頭蓋骨や、神秘的なエジプトのミイラも注目です。「古きミルウォーキーのストリート(Streets of Old Milwaukee)」をそぞろ歩けば、ガスランプに照らされた石畳の舗道にタイムスリップ。伝統を感じさせるお店や住宅などを目にすることができます。
 ボストン美術館は、1870年に地元の有志によって設立され、アメリカ独立百周年にあたる1876年に開館した。王室コレクションや大富豪のコレクションが元になった美術館と異なり、ゼロからスタートし、民間の組織として運営されてきた点は、ニューヨークのメトロポリタン美術館と類似している。所蔵品は50万点を数え、「古代」、「ヨーロッパ」、「アジア、オセアニア、アフリカ」、「アメリカ」、「現代」、「版画、素描、写真」、「染織、衣装」および「楽器」の8部門に分かれる。エジプト美術、フランス印象派絵画などが特に充実している。2010年には北中南米の芸術を展示するアメリカウィングが増築され、28%の増床となった。ボストン美術館は、仏画、絵巻物、浮世絵、刀剣など日本美術の優品を多数所蔵し、日本との関係が深いことでも知られる。20世紀の初めには、岡倉天心が在職しており、敷地内には彼の名を冠した小さな日本庭園「天心園」が設けられている。→ウィキ


1972年1月 沖縄の雑誌『青い海』9号 大城精徳「ミーチキスーラーサー」と「アッタバジョー」



1972年3月 『琉球の文化』創刊号<特集・琉球の焼物>琉球文化社
□大城精徳/小橋川秀義・図表「壷屋の村(1)」(原稿・翁長良明コレクション)


『琉球の文化』1号~5号
 ネットで『琉球の文化』を検索すると読谷村立図書館蔵書で出てきた。『琉球の文化』は大城精徳元沖縄県立博物館副館長が1972年3月に創刊した。創刊号の特集は<琉球の焼物>、72年9月・第二号は<琉球の染織>、73年3月・第三号は<琉球の伝統玩具・琉球の塗物>、73年10月・第四号は<琉球の芸能・琉球の古武術>、74年5月・第五号は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。私と発行人の大城精徳琉球文化社社長とは、72年に又吉眞三氏の建築設計事務所に大阪の西平守晴沖縄関係資料室主宰と同行し訪ねた折、そこに大城精徳氏が出来たばかりの『琉球の文化』創刊号を持参したときに出会った。
 翌日、安里の琉球文化社事務所を訪ねると意気投合し琉球文化社関西支局を引き受けることになった。このときは私はまだ筆不精で文章を書いたことがない。結局、『琉球の文化』には書く機会がないまま休刊を迎えた。その後、大城精徳も関わっていた『新生美術』には美術史らしきものを書くようになった。今、東京発の「沖縄文化論」がテレビ・雑誌などを通じて沖縄に侵蝕。それらが今、沖縄の新聞紙上を占めている。そういうことを予見し危機感を持っていた大城精徳は「日本人としての誇りを得るために、沖縄人としての誇りを捨ててはいけない」とし日本復帰前に『琉球の文化』を創刊した。その初心に立ちかえりネット上で『琉球の文化』活動を復活し新たに補足・改訂を加え立体的に「琉球の文化」を捉えなおしてみたい。(2010-7-8-15時記)


1976年3月 山口栄鉄『チェンバレン 日琉語比較文典』琉球文化社/1976年5月 山口栄鉄『王堂チェンバレンーその琉球研究の記録ー』琉球文化社


1979年11月『新沖縄文学』43号 大城精徳「工芸のありかたを探るー沖縄工芸界のゆくえ」

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 石川正通「布袋腹に酒杯乗せて踊りたる麦門冬の珍芸懐ふ」

 
1983年9月14日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂/資料室運動」
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写真は左から西平守晴、真喜志康忠夫妻、河井寛次郎夫妻




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府の〇印は大阪府立中之島図書館


山城明(うるま市)
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1月4日、今日は「石の日」という。沖縄県立図書館の階下に仲島の大石がある。(石川正通は1945年の東京空襲で自宅と5万冊の蔵書全焼している)そのそばに那覇市名誉市民・石川正通歌碑[橋内の 誇りも髙き 泉崎 昔も今も 人美しく](写真左)がある。
 石川正通が1979年の新聞元旦号に書いた随筆、今でも通用する。
〇徳富蘇峰は、終戦の詔勅を拝して、「八十三年非なり」と、自分の史観の誤りを、五言律の漢詩に托して懺悔した。伊江朝助男爵が、ヤガテユヤ暮リテ、行クン先ヤ見ラン六十六タンメ、ドゥゲイクルビ と、琉歌に盛った心境と同工異曲の挽歌である。歴史書きの歴史知らずは論語読みの論語知らずより哀れなりけり。人類の発生から絶滅まで、過渡期でない瞬間は無い。時々刻々、革新へ革新へと、動いてやまないのである。世界の列強が軍備拡張に明け暮れている今の今々、第三次世界戦争の勃発を想定して見るのも狂人の狂態ではあるまい。→『琉球新報』石川正通「憂時立砲と沖縄」
〇写真右→京都(大石橋の東にある陶化小学校の校庭)・大阪(住吉大社)にある石敢當。右端のこの写真は旅館の前にあった石敢當、現在は御津八幡宮にある。心斎橋駅の南西、御堂筋と西横堀に挟まれた西心斎橋のうち、御津公園(通称、三角公園→グーグル画像「アメリカ村三角公園」)を中心にアメリカ村と言われる。近くの御津八幡宮(祭神・応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)の左側狛犬の傍にソテツ、梅石筆「石敢當」(→画像グーグル・ヤフー)入り口付近に建っている。


 大阪府立中之島図書館ー住友家により建築、寄贈され、1904年に「大阪図書館」として開館した。設計は野口孫市、日高胖。同年2月25日、開館式を挙行。大阪図書館は、開館直後の1906年に「大阪府立図書館」と改称。以来、長らく唯一の府立図書館であったが、1945年に大原社会問題研究所から蔵書の寄贈を受けたことで、1950年、同研究所跡地に天王寺分館を建設し蔵書の管理・収集に充てた。1974年に大阪府立図書館は「大阪府立中之島図書館」に、天王寺分館は「大阪府立夕陽丘図書館」に名称を変更している。中之島図書館が国の重要文化財に指定されたのはこの年である。 1996年、東大阪市に大阪府立中央図書館が開館。これに伴い、中之島図書館の一般蔵書の大半と夕陽丘図書館の蔵書約60万冊(特許資料関係を除く)を中央図書館に移設。両図書館で収集してきた内外特許資料・科学技術資料は、閉館した夕陽丘図書館の建物を流用して新設された大阪府立特許情報センターに移された。 2004年から、中之島図書館はビジネスマンに様々な情報を提供する「ビジネス支援サービス」を開始。→ウィキ

『大阪府立中之島図書館だより なにわづ』(1958年10月 №1~)
1979年11月 №75 竹中郁「青銅屋根ー(略)この美しい青いドーム。市民社会のシンボルのような円屋根が、片や日本経済の中の有力な銀行の屋根と向かいあって在ることにわれわれは或る誇りを感じつつ見守っていきたい。一国の経済もおろそかにはできないものだが、それと向かいあってある図書館が表徴する文化の広さや深さが、もっともっと大切だということを誇りとするのだ。そのいつも新鮮な色彩でこころにしみ入る或る暗示を、われわれ民衆は片時も忘れてはならないのだ。」
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1981年1月 №80 小笠原「カード箱ーわが国の図書館においては、従来図書(本)が中心で、逐次刊行物(雑誌・新聞・研究紀要・年報等)が副次的に取り扱われ、その受入管理や利用者サービスも余り重要視されていませんでした。しかし、図書館が情報センター的機能を負わされてくると、情報の主たる源である逐次刊行物は、図書とその立場が入れ替わり、だんだん主役の座にのし上がってきたように感じられます。」
1993年3月 №119 大谷晃一 「中之島と私ー(前略)中之島にいて空襲警報が鳴った。地下鉄の淀屋橋駅に駆け込む。やがて、ぐあーんと地を響かす爆発音が不気味につづく。そんな空襲の中で、図書館をはじめ中之島の建物は多く生き残った。奇跡に近い。(略)三高生の武田麟太郎は、ここで田山花袋の『西鶴小論』を筆写した。プロレタリア作家として行き詰まったとき、西鶴を思い出し市井事物で立ち直る。三好達治はここへ通ってファーブルの『昆虫記』を翻訳し、帰りに梶井基次郎を見舞う。織田作之助は夜にここの前の公園のペンチで女といて、風俗紊乱の現行犯で派出所に連行された。私が中之島図書館を守りたいのは、建物が美的で文化財のゆえだけではない。」

2004年10月 №138 石崎重雄「古典籍の活用とビジネス支援について(略)全てにわたって、供給過剰な日本の経済で一番の需要不足が労働力であり、それも若手である。フリーターと称してマスコミの話に乗っている場合ではない。バラエティー番組の後ろの観客席に座っている場合でもない。産業社会の中で、せめて自分の分の付加価値を働いて生み出す仕事を自分で見つける仕掛けを用意しなければと思う。」
→「なにわづ 大阪府立中之島図書館だより」


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大濱聡2019-7-28
■地元2紙と民放2社はきちんと問題点についてもふれているが、NHKは被害当事者の「ただ文言だけ変えてどれだけ変わるかは、皆で注視しないとけないんじゃないか」とのインタビューの紹介だけで、問題点に対する言及はない。また、前記4社はすべて「改定」としているが、NHKのみ防衛大臣発表の「改正」を使っている。これでは防衛省の広報の域を出ない印象を受ける。取材記者やデスクのニュース感覚の鈍感さが気になる。


大濱聡2019-7-26

 知人が『現代の理論』2019夏号をおくってきた。曰く「ぼくたちも『過去』を語る老人になっちやったなー。」

2019年7月 『現代の理論2019夏号』認定NPO現代の理論・社会フォーラム 〒101-0051千代田区神田神保町3-11望月ビル3F 〇国吉真太郎「沖縄と平成天皇・確か1975年の若夏の頃だった」/川平成雄「石垣島の<今>を問う」/おおしろ建「レキオからの便り・俳句の種をまく人」/仲地博×野里洋「紙上対談・玉城県政とオール沖縄のこれから」

 オキナワの現状を鑑みて「自己決定権確立」というのがある。しかし密約復帰此の方、選挙で「自己決定権」を行使してきたのではなかったのか。県民は何故に史上最悪のアベ内閣を選んだのか。そこに資本主義特有のヌチよりジン(拝金主義)がなかったのか、騙された、では済まない。→某元教授の弁
 
 「くろねこの短語」2019年7月15日ー昨日のTBS『サンデーモーニング』のズッコケぶりはひどかった。投票1週間前の日曜日とくれば、当然のごとく選挙報道に重きを置くものと思ったら、なんのことはない肩透かし。参議院選挙を取り上げたのはいいけれど、テーマが比例代表の「特定枠」についてときたもんだ。そして、この制度を利用しているのは自民党だけという説明があったんだが、おいおい、れいわ新選組だってこの制度を利用して難病ALSを患ったふなごやすひこ氏と重度障碍者の木村 英子氏の2人が立候補している。ああ、それなのに、そこにはまったく触れないんだから、れいわ新選組を意図的に無視したのは間違いない。さらに、韓国に対する輸入制限についても、かなり一方的な韓国批判が繰り広げられて、ネットでもいくらなんでも公平性を欠いていると批判が飛び交っている。さらにさらに、恒例の「風をよむ」のコーナーでは、なんとまあ取り上げたテーマが「テレビとアイドル」だとさ。ジャニー喜多川の訃報を受けてのことなのだろうが、この間抜けぶりはいくらなんでも恥ずかしい。「『サンモニ』、お前もか」と思わずため息つきたきくもなろうというものだ。
でもって、夕方のテレビ朝日『サンデーステーション』も観るに耐えないものだった。激戦区の新潟選挙区にスポット当ててるんだが、この選挙区には「安倍・麻生道路」で忖度発言した塚田ソンタ君、野党共闘の打越さくら君、そして「NHKから国民を守る会」の小島糾史君が出馬している。
 塚田ソンタ君には初老の小学生・ペテン総理、ひょっとこ麻生、スピード今井、口だけの進次郎が応援演説に入っていることを紹介。忖度発言に殊勝な態度を取っているかのような塚田ソンタ君が演出されていくという構成。ひょっとこ麻生の「ひとは誰でも失敗する。それのどこが悪い」なんて意味の演説もけっこう印象的に流しとりました。(略)
 そもそも、新潟は原発立地県。原発再稼動は重要なテーマなんだから、そこをねぐっちゃったら選挙報道にはならないだろう。塚田ソンタ君が原発再稼動の議論を避けているから、そのあたりを「忖度」した結果なんでしょうかねえ。いずれにしても、ペテン、ひょっとこ、タレント議員で満艦飾の自民と、新人候補でてんやほんやの野党共闘という対比は、およそ公平・中立とはほど遠い、十分に悪意を感じる選挙報道なのであった。個人の感想だけど。

「くろねこの短語」2019年7月12日ーホルムズ海峡の一触即発の危機がさらに高まってきたようで、アメリカが有志連合結成へ向けて本格的に動き出したようだ。トランプの忠犬、初老の小学生・ペテン総理にすれば、選挙戦の真っ最中になんてこったいとさぞかしお腹が痛いことだろう。というわけで、ホルムズ海峡&有志連合結成は、参議院選挙の重要な争点になってくるかもね。
 そんな中、公明党の山口メンバーが「たたきつぶせ 立民 共産」と街頭演説で笑いながら歌ってるってね。さらに、選挙ポスターからは「公明党」の文字が消えたそうで、「創価学会会員」をポスターに堂々と明記しているれいわ新選組の野原善正候補に創価学会票がかなり流れてるなんて見方もあるそうだ。東京選挙区で、もしれいわ新選組が議席を獲得したら・・・なんて夢が広がる今日この頃なのだ。

  〇タレントの武井壮(46)が7日、TBS「サンデー・ジャポン」(日曜前9・54)に生出演。北方領土へのビザなし交流訪問の際、戦争で領土を取り返すことの是非を述べ、衆院が糾弾決議を可決した丸山穂高衆院議員(35)=日本維新の会除名=が、自身のツイッターで著名人に噛みついた投稿をしていることに対し苦言を呈した。丸山氏は、歌手の和田アキ子(69)のほか、元衆院議員でタレントの東国原英夫(61)、俳優の坂上忍(52)などに対し、揶揄(やゆ)するツイートをして話題になっていた。武井は「言うのは自由だとは思う」としつつも、「選挙で選んじゃったのは我々だから。任期は仕方ないのかなと思う気持ちもあるけど、あんな発言して、もう2度と票は入れたくないなという気持ちにはなりますよね」と率直な心境を述べた。

 7月6日、東京・スペースたんぽぽで「宇宙に拡がる南西諸島の軍事強化」大軍拡と基地強化にNO! アクション2019発足集会がひらかれた。(主催:大軍拡と基地強化にNO2019)この日、会場は満杯で75人が参加した。 元京都女子大学教授で専門は宇宙科学の前田佐和子さんの講演で、沖縄・宮古島、石垣島、与那国島、鹿児島・奄美大島等での軍事強化が、なぜ進められようとしているのか、宇宙専門家の観点から伝えられた。
前田さんは「わたしは、自然豊かな素晴らしい地域が、次々と埋めていかれるのに堪え難い思いをしています」と憤った。 そして島々の状況をつたえ、人工衛星をつかったミサイル誘導について説明した。去年11月、日本で4基体制の本格運用がはじまった三菱電機参画の、ニックネーム〝みちびき〟正式名称〝準天頂衛星〟は 「衛星測位」を知るための衛星である。 また、アメリカのGPS(グローバル ポジショニング サテライト=ポジショニングは即位)は地球を取り囲む24基体制で、 ものすごい国費をつかった体制をつくっていた。しかし、アメリカの企業から「自分たちにもつかわせろ」と言われ、クリントン政権時に民間もつかわれるようになった。日本もそういうのを持ちたいとの願望があるようだ。
そして、日本は宇宙の「平和利用原則」を半世紀維持してきたが、2015年1月に安倍政権が 新「宇宙基本計画」を発表した。 安倍政権は、このことを「積極的平和主義にもとづく宇宙安全保障計画である」とキャンペーンしている。 そこの目玉になったのが〝準天頂衛星〟の7基体制の確立ということだった。一般の人たちは、「民生用の利用だ」と思う人も多いかもしれない。 しかしこの体制で、総額3800億円以上の予算をつかうのはありえないとのことだ。 現在、沖縄・恩納村、石垣島、宮古島、久米島、鹿児島に属す種子島、茨城・常陸太田(ひたちおおた)、兵庫・神戸にアンテナがある。 通常、準天頂衛星から出した電波をスマホ、カーナビ、場合によってはミサイル受信機が自分の位置を知る。 しかし、南西諸島につくられた追跡管制局では、衛生からの電波を直接ユーザーに送らず、追跡管制局で一旦受信する。そこから地上ケーブルでデータが、 茨城・常陸太田の主管制局に送られ、データを補正する。それから補正したデータを、沖縄・恩納村のJAXA 宇宙通信所に送られる。 それが、再び準天頂衛星に戻され、ユーザーに送られる。こういったシステムをつくっているのは〝南西諸島〟だけとのことだ。
それから、オバマ政権の〝核なき世界〟の構想の切り札が〝極超音速滑空飛翔体〟だ。「通常兵器型〝即時〟全地球攻撃」で核兵器としていない。 これまで、アメリカが2010年、中国が2017年に、この実験をしてきた。だが日本は、アメリカや中国のように〝極超音速〟 と書かず〝島嶼防衛用高速滑空弾の要素技術の研究〟と言った。去年1年で100億円、今年は138億円。これを2025年までかけて、合計678億円で開発。そして翌2026年に配備する予定でいる。 また、「クラスター爆弾禁止条約には抵触しない」とし、禁止条約の法の目をくぐってつくられている。 日本は、〝高速滑空弾〟と言った兵器を〝はやぶさ2〟もつかい開発している。
前田さんは「オリンピックから様変わりすると思われる計画は、2022年から陸上自衛隊の宇宙専門部隊がつくられる。また、2023年の準天頂衛星7基体制の確立、2026年の島嶼防衛用高速滑空弾の実用化。そして今年、島嶼防衛用高速滑空弾部隊(陸自)の新編」をつたえ、「島嶼防衛戦争というのは、巨大な予算をかけて、新しい宇宙戦争の技術開発をするための口述をあたえていること」また「次の新しい戦争にむかって、技術を開発する体制をつくっているのではないかと思っています」と「南西諸島の軍事強化」の問題の本質を語った。もうすでに、米、中、露では〝電磁パルス攻撃〟で、約半径1100キロメートルの、北海道から鹿児島までを覆う攻撃兵器が用意されている。 現在、参議院選挙の真っただ中。戦争する安倍政権を選ぶのか、そうでない政党を選ぶのかが問われている。(見雪恵美)
〇安里繫信2018-4-4昨夜は18時半から那覇市内にあるホテルにて、元沖縄県知事の稲嶺恵一先生を塾頭に、前沖縄県副知事で琉球大学名誉教授の高良倉吉先生を副塾頭に迎え、若手経営者や若手政治家が塾生として集い、毎月一度のペースで開催している勉強会『稲穂塾』でした。 

「高野孟」7月1日ー大宅壮一が始まったばかりのテレビ放送について、「紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって『一億白痴化運動』が展開されている」と喝破したのは1957年のことで、それは人々が画面から溢れ出てくる映像をひたすら受動的に眺めるばかりで、人間らしい想像力や思考力をどんどん低下させていくという意味だった。それから半世紀以上が過ぎてスマホの時代が来て、もっと狭い画面の中に魂を吸い取られてしまうような若者が増えていく中で、仮想世界と戯れるばかりでほとんど何も考えようとはしないという恐ろしい傾向はさらに深まった。それが実は「安倍一強」を支えているのだとすると、これを打ち破るのは並大抵のことではない。




2013年10月 『戦後日本の闇を動かした「在日人脈」』(別冊宝島2045号)宝島社
〇ネットYahoo!知恵袋「岸信介も、巣鴨プリズンに収容されていたときにGHQに売国奴として働く条件で解放されているようです。GHQは現在存在しませんが、CIAが代わりに暗躍していて、日本人に良く似ている朝鮮人を使って、電通などマスコミを使いつつ、この国を半ば支配しています。何故駅前の一等地がパチンコ屋が目立つのか、何故こんなに在日が政治に絡んでいるのかを考えたら結論は早いです。暴力団や右翼も殆どがトップが在日です」。

 「くろねこの短語」2019年3月25日-辺野古への土砂投入が今日から再開される。「辺野古反対なら普天間固定だ」と初老の小学生・ペテン総理と不愉快な仲間たちは喚き続けているけど、このまま埋立て工事を続けたところで完成するのは早くても13年後という見通しなんだよね。13年ですよ。この工期のどこに緊急性があるんだ。
 そもそも、普天間と辺野古をリンクさせたのは日本なんだからね。沖縄の海兵隊がグアムに移転することは決まっているわけで、そうなったら基地利権で食っていけなくなる輩がおりまして、そんな奴らのための辺野古なんだよね。埋立て再開直前のジュゴンの死は、いろんな意味で象徴的だ。





2019年3月16日 那覇新都心公園(おもろまち)「辺野古新基地建設断念を求める県民大会」


米国に「7つの大きな工場」建設計画【安倍首相】またトランプに軽口 売国手形 自動車各社は困惑 これまで、安倍は幾度となく、トランプに〝一方的な約束〟を押し付けられている。今月にも日米通商交渉が始まるが、またもや安倍は先んじて「売国手形」を切ってきたのか(日刊ゲンダイ)/二極化・格差社会の真相 斎藤貴男(日刊ゲンダイ)

「T」3月6日-菅官房長官は先の沖縄県知事選でこの携帯値下げ問題を取り上げて大宣伝しました。沖縄での一定の若者対策効果を得て、来たるべき同時選挙に利用するつもりでしょうNHKの良心的番組を編成する担当部を廃止統合も強行しています。
ナチスばりの宣伝をしようというのでしょうが、公文書改ざん、国民統計操作と隠ぺいなど嘘とごまかしの安倍政権、東京新聞記者への個人攻撃、マスコミへの恫喝、ドローンの基地撮影禁止など、その危険性はいよいよ露骨になっています
平成天皇には失礼ですが一句 平成とともに去りゆけ安倍と菅 
 「天木直人」3月6日ー安倍首相はネットを重視し、活用している事は周知の事実だ。それは、ネットを利用、活用する若者こそが、単純な安倍支持者であることを知っているからだ。だからネットメディアが普及すればするほど自分に有利だと確信しているのだ。安倍反対の中心である安保反対のアナログ老人世代など相手にせずに、ネット情報を重視する事によって、若者を対象に巧みに情報発信し、支持を広げようとする戦略なのだ。



ジュンク堂那覇店 2019年5月11日 16:00~ 榕樹書林トークイベント「「反復帰論と今日の沖縄」出演:新川明(元沖縄タイムス社長)×川満信一(詩人)×仲里効(社会批評)



ジュンク堂那覇店 2019年5月11日『仏陀の小石』刊行記念トーク&サイン会。著者で芥川賞作家の又吉栄喜、ゲストに歌人・小説家の佐藤モニカ。


5月4日、5日ー沖縄県立博物館・美術館正面入口前「ソテツのおもちゃづくり」


 2019-4月30日~6月23日 沖縄県立博物館・美術館「新収蔵展」


仲嶺貞夫氏(琉球箏曲盛竹会会長)/田名真之氏、金城善氏


2019-4月30日 沖縄県立博物館・美術館

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2001年10月 儀間比呂志・神谷良昌『絵物語 琉球に上陸したジョン万次郎』沖縄タイムス社

写真右から神谷良昌氏、儀間比呂志氏、オーストラリアのカイリー・クラークさん




○ジョン万次郎の子孫が来県するのは初めて。万次郎から四代目の中濱博さん(73)=愛知県=は「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている。来ることができてとてもうれしい」と感激した表情で語り、高安家五代目の高安亀平さん(72)も「感無量だ」と喜んだ。万次郎は糸満市大度に上陸。琉球王府により、翁長の親雲上(ぺーちん)だった高安家に約5カ月間、収容された。外出は禁じられていたが、夜は地域住民と交流し、綱引きなどにも参加したとされる。→(『琉球新報』2002-5-12)/写真左から新城栄徳、儀間比呂志氏、高安亀平氏

□中浜万次郎の話ー高安公造氏(71歳)は祖父より聞いたとして次のように語れり
1、万次郎は約半年沖縄に滞在せりと、即ち正月に来り7月に去れり 1、大和人なることは彼等も知れり、土佐人と知れり 翁長の当銘三郎氏の話  1、宿屋は屋号徳門であって当時万次郎が使用したステッキも今に残っているそうだ。徳門の老婆は90歳位であるがその人の話ー言葉も始めは通じなかったが後ではよく通じて諧謔もやるようになった。→眞境名安興「笑古漫筆」

1851年2月 ジョン万次郎、琉球上陸
 同年4月、アメリカ合衆国とメキシコが国境を決定。5月にはイギリスで第一回のロンドン万国博覧会が開かれ、フランスでは12月、ルイ・ナポレオンがクーデター

   
1851年2月 ジョン万次郎、琉球(大度浜)上陸
『球陽 附巻四』〇尚泰王 四年正月初三日、日本土佐国人有りて、杉板に坐駕して摩文仁群小渡村に来到す。此の日、土佐国人三名有りて、杉板一隻に坐駕し小渡村の浜に到る。随ひて来歴を問ふに即ち云ふ、上届丑年正月初五日、我等小船に坐駕し、海に出でて釣魚するの時、陡に暴風に遇ひ、風に随ひて漂流し、経に七日を歴て、纔に辰方無人島に到りて擱礁撃砕し、上岸活命す。該島は、物の食すべき無く擒へて衆鳥を食し、聊か餓莩を免かる。六月に到り、亜米理幹国の討鯨船一隻、該島洋面を駛過するを見る。即ち其の船を招来して、性命を救ふを請ひ、該船に塔駕して、西洋  (略)只万次郎一人頗る亜米理幹文字を知る有り等語と。本年七月、本国に駐箚する倭官四員の離任して回国するの便有るに逢ふ。其れをして接護回籍せしむ。

   
   
ジョン万次郎が上陸した大度浜の宿道

□1851年ージョン万次郎達は、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩や江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。嘉永5年(1852年)に河田小龍が取り調べ報告書「漂巽紀略」を書く。その際に開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩主・島津斉彬がその英語・造船知識に注目した。これが縁で薩摩藩の洋学校(開成所)で英語の講師をしているほか、和洋折衷船の越通船建造にも知識を活用されている。→(ウィキペディア)■儀間比呂志『琉球に上陸したジョン万次郎』(2001-10沖縄タイムス社)

①ジョン万次郎

ジョン万次郎資料館=住所: 高知県土佐清水市養老303 海の駅あしずり 電話:0880-82-3155
日本初の国際人「ジョン万次郎」の足跡。中ノ浜村(現土佐清水市中浜)に漁師の子として生まれ、後に日本人として初めて渡米。帰国後、アメリカで学んだ文化や思想を伝え、龍馬などに多大な影響を与えたジョン万次郎。その生涯を映像やジオラマなどで紹介しており、万次郎直筆の英文字など、万次郎にまつわる様々な史料を展示している。(島袋和幸氏撮影)→島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)2016年5月25日『沖縄の軌跡』第171号「琉球に上陸した{ジョン万次郎}」

雑司ヶ谷霊園 ジョン万次郎墓、「中濱萬次郎記念碑」ー島袋和幸氏撮影


1929年1月15日『沖縄朝日新聞』「島尻郡摩文仁に上陸した幕末の風雲児 中濱万次郎の生涯」


1932年3月『沖縄朝日新聞』山城正忠「戯曲『中濱萬次郎』に就いて」



1991年12月 長田亮一『ジョン万次郎物語』沖縄県ジョン万次郎を語る会/1971年12月 石井研堂『異国漂流奇譚集』(1927年 初版)新人物往来社



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06/08: 琉球誌③

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1874年7月12日 琉球藩事務、内務省管轄になる
1876年2月 内務小丞木梨精一郎内務省出張所勤務
1879年3月 木梨精一郎を県令心得に任命し、内務省出張所を仮県庁を置く

1884年 志賀重昴、札幌農学校を卒業し、県立長野中学では植物科を担当し、長野県中学校教諭も務め、また長野県師範学校講師として地理科を教えた。だが、酒席での県令・木梨精一郎(1879年3月 沖縄県令心得)とのトラブルで翌年辞職し、上京して丸善に勤めた 

1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌①陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。
 大山柏ー父・大山巌①公爵は維新の元勲の一人で、日清・日露の両戦役では参謀総長や満州軍総司令官として国運を賭けた大勝負で日本を勝利に導き、晩年に至るまで元老の一人として国政の枢機に接した元帥陸軍大将。母・捨松は、明治初年に初の官費女子留学生の一人として11歳で渡米し、11年後に日本人女性として初めて米国大学の普通科を卒業して学士号を得た。柏はその次男。→ウイキ

1922年9月 大山柏『琉球伊波貝塚発掘報告』→翁長良明コレクション
伊波貝塚 いはかいづかー沖縄県うるま市石川伊波にある貝塚。荻堂(おぎどう)貝塚と並ぶ沖縄先史時代(貝塚時代という)前期を代表する貝塚で、国指定史跡。1904年(明治37)鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)によって発見、調査され、20年(大正9)に大山柏(かしわ)の手で本格的な発掘調査が行われ、その結果は『琉球伊波貝塚発掘報告』(岸文庫所蔵)としてまとめられている。

1889年12月11日『大阪朝日新聞』「琉球の和歌」


写真ー丸岡莞爾 まるおか-かんじ
1836-1898 幕末-明治時代の官僚,歌人。
天保(てんぽう)7年5月28日生まれ。鹿持雅澄(かもち-まさずみ)に国学をまなび,坂本竜馬(りょうま)らとまじわり脱藩して長崎にすむ。維新後,内務省社寺局長などをへて沖縄県知事,高知県知事となる。明治31年3月6日死去。63歳。土佐(高知県)出身。本姓は吉村。字(あざな)は山公。通称は三太,長俊。号は建山,掬月,蒼雨など。歌集に「蒼雨余滴」。(コトバンク)


斎藤 陽子(Walnut, California)2017年3月11日 · 【思い出のアルバム】高知・桂浜の海岸にたたずみ、龍馬が太平洋を眺め、海の彼方の未知なる国に行きたかった気持ちを思い、何故か50年近く前に、無我夢中でアメリカに渡った自分とがダブり、龍馬の夢見たアメリカで頑張っている私の気持ちと、海を渡りたかった龍馬を思い、アメリア生活50年間が走馬灯のように駆け巡り、海を眺めていました。なぜかこみ上げる感慨深い気持ちが一層増し、桂浜の海の碧さが心に染みました。


芝原佐一資料
□琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一が父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

 1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘①の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社②を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』
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②六孫王神社
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大城弘明氏撮影
1870年□名妓小三-鳥取藩士松田道之と祇園下河原の大和屋お里との間に、ぎん(鈴木小三)が生まれる。
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写真ー名妓小三

1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。1872年9月に琉球藩が設置されると川崎正蔵も戸籍寮の根本茂樹らと来琉し沖縄物産調査を行った。川崎は「日琉間に郵便定期航路を開き、武断政策よりも経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島密に認められた。

1875年9月、日本国郵便蒸気汽船会社解散にともない明治政府は大有丸を琉球藩に下付。11月、郵便汽船三菱会社が琉球航路を開始した。

1876年8月27日の『朝野新聞』に「沖縄は他県からの商人50人、陸軍省派遣の職工138人、女性1人」と報じられた。同年、琉球正史『球陽』の書き継ぎが終わっている。

1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった。西村は 近藤勇について「背高く色黒く中肉にて痘痕あり。中々落ち着き払いたる天晴の武士なりき」と述べている。

1879年5月4日 京都『西京新聞』「琉球ばなし」

1879-5-27 藩王尚泰、東海丸で東京向け那覇港出帆(6-4神戸で2泊)

1880年6月に、郵便汽船三菱会社の貫効丸が琉球、鹿児島・大島、神戸間を運航をはじめた。翌1881年3月に東京上野で開催の第二回内国勧業博覧会に沖縄からも織物、陶器、漆器が出品された。

1881年5月18日に上杉茂憲が沖縄県令として赴任してきた。7月の大阪『朝日新聞』に「沖縄県泡盛酒」の広告が載った。翌1882年の『朝日新聞』の3月「首里城が陸軍省所轄永世保存城と定まる」の記事、6月には「琉球カスリ-西平筑登之」の広告も載った。


1882年11月16日、第1回沖縄県費留学生の大田朝敷、謝花昇、岸本賀昌、高嶺朝教、今帰仁朝蕃が那覇港から平安丸で上京、29日には神戸に寄っている。
1883年4月に岩村通俊が沖縄県令として赴任した。12月には西村捨三が沖縄県令となる。

1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。→1996年6月『大阪春秋』堀田暁生「自由亭ホテルの創業ー大阪最初のホテルー」
1884年6月 岡倉覚三,古社寺調査で法隆寺を開扉、秘仏救世観音を拝す

1884年 志賀重昴、札幌農学校を卒業し、県立長野中学では植物科を担当し、長野県中学校教諭も務め、また長野県師範学校講師として地理科を教えた。だが、酒席での県令・木梨精一郎(1879年3月 沖縄県令心得)とのトラブルで翌年辞職し、上京して丸善に勤めた 

1885年2月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し金毘羅宮①参詣。西村は中井弘(櫻洲山人)滋賀県令と計り尚泰に近江八景遊覧にさそう。8月には元彦根藩士で西村と同士であった横内扶が沖縄県七等属として赴任する。9月、郵便汽船三菱会社、共同運輸会社と合併し日本郵船会社となる。1886年3月、山県有朋内務大臣、益田孝、西村捨三らと同行し来沖。

石山秋月 [いしやま の しゅうげつ] = 石山寺(大津市)

写真ー西村捨三
生年: 天保14.7.29 (1843.8.24) 没年: 明治41.1.14 (1908)
明治期の官僚。父は彦根藩(滋賀県)作事奉行西村又治郎,母は貞。幼君井伊愛麿(直憲)に仕え,藩校弘道館に学んだのち同館国学方教授長野義言(主膳)の推薦を得て藩命により江戸に留学,塩谷宕陰に学んだ。この留学中の放蕩に対し,父が幼名の得三郎を捨三に改めると訓戒したのが名の由来。のち一代限騎馬徒士,藩校教授となる。その間京都周旋方として情報収集に当たり,大政奉還後は朝旨遵奉という藩の方針の下で東山道征討に参加した。明治5(1872)年旧藩主直憲に従い欧米を視察,10年内務省に出仕し,警保局長,土木局長などを歴任した。22年大阪府知事に転じ淀川改修,上水道整備に尽力し,次いで農商務次官のとき平安神宮創建に参画。大阪築港にも貢献した。
(コトバンク・長井純市)

①ことひら‐ぐう 【金刀比羅宮】
香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町にある神社。祭神は大物主神を主神とし、崇徳天皇を配祀(はいし)。海上安全の守護神として信仰される。明治初頭までは神仏習合で、象頭山(ぞうずさん)金毘羅(こんぴら)大権現と称した。琴平神社。こんぴらさん。→コトバンク
〇2020-6-12 「ダイヤモンドSCOOP」「こんぴらさん」の呼び名と参道の785段(奥社まで1368段)もの石段で有名な、香川県の金刀比羅宮が、全国8万社の神社を包括する宗教法人、神社本庁の傘下からの離脱を決めたことが12日、ダイヤモンド編集部の取材で分かった。背景には、不祥事や疑惑が続出する神社本庁への反発がある。


写真ー尚泰


「小泉八雲」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

 1885年12月 岡倉覚三,美術学校設立準備のための図画取調掛が設置され、委員となる
 1887年10月、岡倉覚三,アメリカより帰国、図画取調掛を東京美術学校と改称、幹事となる。
 1888年1月、岡倉覚三,今泉雄作、フェノロサ、狩野芳崖らと東京美術学校開校準備に奔走。5月、関西地方の大がかりな古社寺調査に従事。
 1889年1月、東京美術学校第1回生入学。2月東京美術学校開校。8月、高田早苗らと日本演芸協会を起こす。10月、高橋健三と国崋社を創設し美術雑誌『国華』を創刊。
 1891年2月、岡倉覚三,森鴎外を東京美術学校の美術解剖学講師に招く。
 1893年7月、岡倉覚三,清国美術調査に」出張~12月に帰国。
 1895年、大見謝恒昌が渡米。後に北太平洋鉄道会社に勤める。
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2000年11月 中村愿 編・茨城大学五浦美術研究所 監修『岡倉天心アルバム』中央公論美術出版

 1897年11月20日、比嘉統熈、北京丸で横浜出航。12月4日にサンフランシスコ上陸。→1996年4月北加沖縄県人会『沖縄県人サンフランシスコ移住百周年記念誌』

1899年12月、当山久三の斡旋で第一回ハワイ移民。

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吉田 初三郎(よしだ はつさぶろう、1884年(明治17年)3月4日 - 1955年(昭和30年)8月16日)は、大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師。元の姓は泉。生涯に約1600点とも3000点以上ともいわれる鳥瞰図を制作し、「大正の広重」と呼ばれた。→ウィキ
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石原 正(いしはら ただし、1937年3月2日 - 2005年3月8日)は、日本の鳥瞰図絵師。北海道函館市出身。北海道函館西高等学校を経て、金沢美術工芸大学を卒業。広告会社に勤務していた時にヘルマン・ボルマンのニューヨーク鳥瞰図に出会い衝撃を受け、1969年に独立。以降、鳥瞰図制作の第一人者として活躍し続けた。→ウィキ

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写真左/1999年5月11日沖縄ハーバービューホテルで神坂次郎氏(作家・熊野の生き字引で司馬遼太郎の文学仲間)、新城栄徳。麦門冬・末吉安恭の取材を終えての祝盃。撮影・末吉安允
写真右/1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談司馬遼太郎『街道をゆく6』朝日新聞社
○大阪の都島本通で、篤志でもって「沖縄関係資料室」をひらいていおられる西平守晴氏にもきいてたしかめることができた。西平氏は、「そうです、そんな話があります」といって、南波照間の「南」を、パイと発音した。ついでながら本土語の南風(はえ)は沖縄でも「南」の意味につかう。本土語の古い発音では、こんにちのH音が古くはF音になり、さらに古くはP音になる。つまり花はパナである。八重山諸島の言葉はP音の古発音を残していて、南(ハエ)が南(パイ)になるらしい。西平氏はこのまぼろしの島を、「パイ・ハテルマ」と、いかにもその島にふさわしい発音で言った。

 1158年 太宰大弐に任ぜられた平清盛は、太宰府に赴任することはなかったが、宋商船が運んでくる唐物に強い興味を抱き、やがて宋人を太宰府から瀬戸内海へと招いた。
☆神戸の灘の薬師さんの傍らで長年「国語」の研究に専念していた奥里将建翁、最後のまとめとして1964年「沖縄に君臨した平家」を沖縄タイムスに連載(10-8~12-11)した。□10月11日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」(4)怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」→「琉文21」雑誌『おきなわ』/1926年4月ー奥里将建『琉球人の見た古事記と萬葉』青山書店

1167年 平清盛、太政大臣となる

写真ー重要文化財本堂 昭和大修営落慶記念  昭和四十四年五月十八日 六波羅蜜寺(新城栄徳所蔵)
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
 現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
 源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8,000基が出土した。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。

1260年 英祖王、即位☆麦門冬・末吉安恭は、この時代を「仏教の起源と芸術の揺籃」と称した。
      補陀落僧禅鑑、葦軽船で琉球に漂着、英祖王保護のもと極楽寺(のち龍福寺)を創建
1281年 島津長久ら薩摩国の兵を率いて壱岐にて元軍を攻める。
1372年 1月、楊載、来琉
1377年 琉球国王察度、南山王承察度ら明に使者を遣わし馬、方物を貢す。北山王帕尼芝、明に使者、方物を貢す。頼重法印(真言宗)、薩摩坊津から        来琉。
1402年 足利義満、島津伊久に明を侵す鎮西海賊の取締を命ず。
       明使が北山第に足利義満を訪ね国書・大統暦、賜物を伝える。
1404年  時中、来琉し武寧に皮弁冠服が頒賜される。
1406年 武寧、寨官の子石達魯ら6人を明に遣わし国子監に学ばせる。
1410年 琉球国官生模都古ら2人、明の国子監に入り学を受ける。
1413年 中山王思紹、太勃奇を明に遣わし馬を貢し、寨官の子ウ同志久・周魯毎らを送り国子監で学ばせる
1415年 琉球国山南王汪応祖の世子他魯らを明朝に遣わす。足利義持、琉球国思紹に「りうきう国よのぬし」で書簡を送る。
1418年 琉球国中山王思紹、長史の懐機らを明に遣わす
1425年 柴山(中官)来琉、勅を齎らし巴志に中山王を嗣がせる。「中山門」扁額を掲げる。

1427年 安国山樹華木之記碑「壮者時有りて舞ひ、老者時有りて歌ふ」

右ー沖縄県公文書館玄関にある安国山樹華木之記□首里王城の威容を増し、合わせて遊息の地とするため、王城の外の安国山に池(龍潭)を掘り、台を築き、松柏・花木を植え、太平の世のシンボルとして永遠の記念とする。

1429年 巴志、三山統一 
1430年 巴志、明帝から尚姓を授けられる
1443年 朝鮮通信使の書状官として申叔舟が来日
1453年 朝鮮国、琉球国使者道安の齎らした日本琉球地図表装
1456年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し大聖寺、天尊殿、相国寺、普門寺、建善寺、長寿寺、天竜寺、広厳寺、報恩寺、大安寺に寄進
1457年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し霊応寺、永福寺、大禅寺、上天妃宮、天妃宮、竜翔寺、潮音寺、万寿寺、魏古(越来)に寄進
1458年 尚泰久王、万国津梁の鐘を正殿にかける。
  
  万国津梁の鐘(沖縄県立博物館・美術館)
      尚泰久王、梵鐘を鋳造し永代院に寄進
      尚泰久王、梵鐘を鋳造し一品権現御宝殿、東光寺に寄進
1461年 島津立久、尚徳の国王即位を祝い太平書を賜う
1466年 琉球国王尚徳の使者芥隠承琥、足利義政に拝謁、方物を献ず。
       □7月28日ー琉球の使者一行が将軍・足利義政に謁見、方物も献上する。
        8月1日ー琉球正使・芥隠西堂から蔭涼軒(季瓊)真蘂に大軸(中国から琉球国王に贈られたもの)、南蛮酒を贈る。(義政時代6度目の琉球人        参洛)。
    

雪舟が描いた琉球人

『自治おきなわ』1996年7月号に私(新城栄徳)は「京都の博物館で『国々人物図巻』を見たことがある。明に渡った雪舟が北京の街で見かけた珍しい人びとを写生したものを弟子が模写したもので、その中に世界の海を駆け回ったイメージに重なる琉球人像がある。」と書いた。明代の類書『万金不求人』に和寇図と共に大琉球國人も載っている。長崎県立美術博物館の正保版『万国人物図』にも琉球人が登場している。多くの絵師たちが好んで万国人物図を画題にしていたようだ。私は雪舟の弟子の絵の写真(琉球人)を琉球新報の岡田輝雄記者に提供。これは1991年9月発行の『新琉球史』(古琉球編)に載った。同様に佐久田繁月刊沖縄社長に提供したものは99年9月発行の『琉球王国の歴史』に載った。

1474年 尚円、島津忠昌の家督相続を祝う
1480年 足利幕府、応仁・文明の乱が終わったので琉球に朝貢船を送るよう島津忠昌に催促させる。
1482年 琉球国尚真、奏して陪臣の子蔡賓ら5人を南京国子監において読書させることを乞う。
1492年 ドイツ人地理学者マルティン・ベハイム、地球儀を作成
1492年 尚真王、先王尚円を祀るため円覚寺建設に着手
1497年 万歳嶺記、官松嶺記を建設。円覚寺禅寺記碑
1502年 朝鮮王季揉から贈られた方冊蔵経収集のため円鑑池に小堂を建設(1621年に弁財天像を安置)
1507年 尚真王、書を島津忠昌に送り修好の意志を伝える
1508年 島津忠治、尚真に書を送り、島津氏の印判(琉球渡海朱印状)を持たない商人を点検し船財等を収公を許す
1510年 尚真王、官生蔡進ら5人を南京国子監において読書を乞う。
1527年 尚清王、智仙鶴翁を遣わし明皇帝の日本宛の国書を齎す。足利義晴、書を尚清に送り日明和与の斡旋を謝す。
1530年 月船寿桂、「鶴翁(智仙)字銘并序」で為朝伝、琉球附庸説に言及。
1531年 『おもろさうし』第一巻、成る
1534年 5陳侃(正史)、高澄(副史)那覇着。7尚清冊封の礼。9冊封使、開洋。10陳侃『使琉球録』著わす

1550年 5月4日ー足利義晴、近江穴太(現滋賀県大津市穴太)にて死去。享年40(満39歳没)。

1556年 島津貴久、尚元王が建善寺月泉を遣わしたことに答書し隣交を求める。
1561年 郭汝霖(正史)、李際春(副史)
1568年(永禄11)9月 織田信長、将軍足利義昭を奉じ上洛、当面の仮御所として義昭は本國寺に入り、信長は清水寺を宿所とした。 
1569年(永禄12) 仮幕府のおかれた本國寺が襲撃にあったことから、信長は義昭のために二条城(二条御所)を築く。
1569年(永禄12年)、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、ルイス・フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている。フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、戦国期研究における重要な資料の一つになっている。その後は九州において活躍していたが、1580年(天正8年)の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。1583年(天正11年)、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後に『日本史』とよばれることになる。→ウィキ


松田 毅一(まつだ きいち、1921年5月1日 - 1997年5月18日)は、日本の歴史学者。香川県高松市出身、大阪市育ち。専門は戦国時代から江戸時代初期の日欧交渉史、特にポルトガル・スペインとの関係史。ヨーロッパ各地(ポルトガル・スペイン・バチカン等)やフィリピン、マカオ等の文書館に保存されている日本関係史料の発見・翻訳・紹介に取り組み、また多数の著書・論文を発表して日本における上記分野の研究の進展に貢献する一方、こうした研究成果の一般市民への啓発・普及、関係諸国との学術・文化交流にも尽力した。→ウィキ

1575年 琉球国の紋船(使僧天界寺南叔、使者金武大屋子)、鹿児島に着く。印判を持たない商船に交易を許したこと、島津使僧広済寺雪芩津興を粗略のことに島津氏に弁明。
1579年 簫崇業(正史)、謝杰(副史)来琉。簫崇業「那覇と首里の二ヶ所で、馬市(mashi)が設けられている。物を売るのはおおむね女-」。
1580年 琉球国尚真、島津義久に九州大半の帰伏を祝い隣交を求める。
1586年(天正14)  豊臣秀吉、聚楽第、方広寺大仏殿造営はじまる。
○国立博物館隣にある豊国神社は、豊臣秀吉死去の翌年の1599年、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。方広寺にあった大仏は、天保年間に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。この大仏は私もよく見にいったが1973年3月28日深夜の火災によって焼失した。


方広寺の大仏

1587年 島津義久、豊臣秀吉に降伏。
1590年 豊臣秀吉、尚寧王に書を送り、全国統一を強調。政化を異域に弘め四海を一家となす志を述べる。
1594年 尚寧王、島津義久に国家衰微のため唐入りの軍役は調達できない旨答える。


1976年2月 神坂次郎『徳川家康ー物語と史蹟をたずねて』成美堂出版
○二百七十年の徳川王国を築いた鼻祖だけあって、家康の史料は膨大である。明治以降に書かれた伝記でさえ(史料や研究書は別にしても)数えてみれば五十余冊ある。しかし、書くときめた以上、手当たりしだい、目に触れるかぎり読み倒してやろうと勇猛心を奮いたたせたのだが、これは軽率であった。なにしろ生身の家康というのは、幕府が神格化し御用学者たちが三世紀にわたって阿諛(おもねりへつらう意)をきそい、目も鼻も弁じぬまでに”神君〟の厚化粧をほどこしてしまったような扁平な人間ではない。その心意は複雑で矛盾にみち、屈折している。・・・

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尚寧王
1602年 徳川家康、陸奥国伊達氏領に船で漂着した琉球人を島津忠恒に送還させる。
1604年 野国総官、渡唐、帰国(05年)のとき蕃薯を持ち帰る。
1605年 本多上野介正純、長崎奉行小笠原一庵に平戸漂着の琉球船の荷物没収を命ず。
1606年 山口駿河守直友、薩摩商人の渡海が琉球出兵の妨げにならないよう分別を促す。
1608年 山口駿河守直友、島津家久に、琉球出兵の準備と、再度琉球国王に家康への来聘を促す交渉を命ず。
1609年 3-4島津軍、琉球出兵で山川湊を出帆。
1609年(慶長14)4月 薩摩軍、琉球侵攻/5月 鹿児島に中山王・尚寧を連れ帰る 
1610年(慶長15)8月2日 島津家久、中山王・尚寧を連れて駿府に参る/8日 島津家久、中山王・尚寧を連れて登城し徳川家康に拝謁/王弟、具志頭王子尚宏、家康に対面後に病死し興津の清見寺に葬られた。/18日 家久と中山王・尚寧に饗応で猿楽、頼宣、頼房が舞う。その間酒宴  
1610年(慶長15)8月25日 島津家久、中山王・尚寧を連れて江戸に参着/28日 尚寧、登城し台徳院(秀忠)に拝謁/9月20日 島津家久、中山王・尚寧を連れて木曽路より帰国
〇大正13年12月 藤田親義『琉球と鹿児島』末吉莫夢「薩摩関係の琉球五異人ー鄭迵謝那利山/薩摩関係の異人として、私は先ず第一に鄭迵謝那親方利山を挙げる。彼は慶長役の時の三司官の一人で、琉球に於いて最も勢力を振い、遂に対薩摩外交を誤り、其身も薩摩に於いて戮された人であるが、琉球の歴史に於いては出色の人物である。」
1611年9月19日 鄭迵・謝名親方利山、斬首

○1983年12月 新里堅進作画(川平朝申解説)『史劇 謝名親方』全教出版
謝名 利山(じゃな りざん、嘉靖28年(1549年/天文18年) - 万暦39年9月19日(1611年10月24日/慶長15年))は、琉球王国の政治家。謝名親方(ウェーカタ)の呼び方で一般に知られる。
 唐名は鄭迵(ていどう)。称号は親方。鄭氏湖城家九世。久米村(現・那覇市久米)出身で久米三十六姓の末裔の一人。父・鄭禄の次男として生まれる。1565年、16歳のとき官生に選ばれて明に留学し、翌年、南京の国子監へ入学する。1572年、帰琉。その後は都通事をへて長史となり、進貢使者として数度渡唐する。1580年、総理唐栄司(久米村総役)となる。 1605年、城間親方盛久を讒言して百姓の身分に貶め、自らは三司官となった。薩摩侵略の際には三重城に陣取り那覇港の防衛を行うも尚寧王の降伏によりともに連行される。その後、薩摩藩から起請文に署名するよう求められるが、ただ一人これを拒否し処刑された。(→ウィキペディア)



○琉球国中山王尚寧起請文(部分・島津家文書)。起請文は戦国時代、忠誠を誓うもの。豊臣秀吉の拾丸(秀頼)への忠節を尽くさせる血判誓紙も烏点の牛王(うてんのごおう)宝印があるので熊野信仰の流れのひとつであろう。
〇熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、古来より多くの人々の信仰を集めました。今なお多くの参詣者が訪れ、熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山の一つ。夫須美神(ふすみのかみ)を御主神としてそれぞれに神様をお祀りしている。伊弉冉尊(いざなみのみこと)とも言われる夫須美神は、万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、縁結びの神様また、諸願成就の神としても崇められている。社殿は、仁徳天皇の御世(317年)に現在の位置に創建され、平重盛が造営奉行となってから装いを改め、やがて、織田信長の焼討に遭ったのを豊臣秀吉が再興した。徳川時代に入ってからは、将軍吉宗の尽力で享保の大改修が行われている。→「那智勝浦観光ガイド」参照





 2008年10月15日~12月21日まで 大阪人権博物館で「アジア・大阪交流史ー人とモノがつながる街」(10月15日~12月21日)と題し展示会があった。見に行って学芸員の仲間恵子さんから『図録』を入手した。中に上田正昭氏が「アジアのなかの大阪ー東アジアと難波津」を執筆されて、完全な「鎖国」の時代はなかった、と説く。仲間さんはアジア・大阪交流史ー人とモノがつながる街と題して「近現代の大阪についても、生野区のコリアタウンや『リトル沖縄』と称される大正区を訪れることで、人と人との交流が生みだす文化に触れることができる。」と強調している。

○アジア・大阪交流史ー人とモノがつながる街・・・・・仲間恵子
○アジアのなかの大阪ー東アジアと難波津・・・・・・・上田正昭
1 大阪の渡来文化

伝王仁墓 - 大阪府枚方市藤阪東町二丁目に王仁の墓が伝えられている。/王仁大明神 - 大阪府大阪市北区大淀中3丁目(旧大淀区大仁町)にある一本松稲荷大明神(八坂神社)は王仁大明神とも呼ばれ、王仁の墓と伝えられていた。また近辺に1960年代まであった旧地名「大仁(だいに)」は、王仁に由来していると伝えられている。→ウィキ
2 朝鮮、琉球からの使節


3 「東洋のマンチェスター」と海を越えた人びと
4 大阪のなかの多文化

2017年4月3日~7月17日 高麗美術館「上田正昭と高麗美術館」 

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萬野美術館/『2011年度 首里城公園管理センター 萬野裕昭コレクション調査報告書』

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Category: 04-書の森
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1856年 琉球を紹介した(翁長良明コレクション)『フランク・レスリー ILLUSTRATED NEWSPAPER』

1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。→1996年6月『大阪春秋』堀田暁生「自由亭ホテルの創業ー大阪最初のホテルー」


2003年10月 大阪府立中之島図書館「道頓堀展」
1889年11月ー松山傳十郎(1866年10月~1935年2月7日)『琉球浄瑠璃』いろは家→「松山傳十郎」

1893年7月 村崎長昶(私立済々中学卒業後沖縄に渡り、沖縄芝居に係る。1894年6月台湾総督府官吏、数年後書店を起こし台湾に永住)・豊好戞郎 『琉球踊狂言』三重新聞社→国会図書館デジタルアーカイブ

□1893年、角座の仕打澤野新七他一名の代理寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。1893年7月『歌舞伎新報』「琉球芝居ー沖縄県琉球には昔より音楽師と称えて一種の歌舞を演奏するもの士族の間に伝えられ居たるところ去る明治22年中いづれも俳優の鑑札を受けて我が役者の如きものとなり其の組5組もあるよしにてこのたび其の一組が大阪角の芝居へ乗り込むことに決定し既に去る2日を以って那覇港を解覧し本日ごろは遅くも到着したる手筈なるがー」
「琉球国演劇」の横断幕があるのが角座。下が角座で配られたもの


「角座」(翁長良明コレクション)


□沖縄芝居ー1893年に大阪・京都・名古屋で公演
1991年1月、池宮正治琉大教授と電話で大阪の新聞で沖縄関係を調べているとの話をすると、それなら芸能、特に渡嘉敷守良の芝居も心がけて見てくれと示唆された。それで見当をつけて中之島図書館で大阪朝日新聞、大阪毎日新聞を、京都府総合資料館で日出新聞、名古屋では扶桑新聞をめくると次々と沖縄芝居の記事が出てきた。国会図書館にも行き雑誌も見た。


1983年7月『写真集・なにわ今昔』毎日新聞社「道頓堀」(左の写真が角座)

1894年5月 『早稲田文学』第63号 佐々木笑受郎「琉球演劇 手水の縁」




1895年9月 小那覇朝親『古今琉歌集』上卷 沖縄印刷所(宮井悦之輔)

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1902年12月『第五回内国勧業博覧会観覧必携 大阪全図 附神戸 博覧会場見取図附』作成者 印刷兼発行所 大阪市東区北久宝寺町 田村豊成堂

1913年4月25日~11月22日『大阪毎日新聞』菊池幽芳「百合子」

1913年10月6日ー大阪道頓堀浪花座で「百合子」劇が開演、百合子役に川上貞奴。来阪中の眞境名安規(桂月)が琉球踊りアヤグを指導。


1914年3月

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1919年ー京都都踊りで琉球太鼓踊りー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り
□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」




上ー1995年1月19日『琉球新報』「人気あった琉球の太鼓踊りー大正8年 京都の都おどりで」/下はその時の絵葉書、左が巴紋の幕の前で万国旗をかざす踊子たち。右が太鼓踊り
□1919年3月12日『日出新聞』「都踊ー『今紫四季栄』平和踊・御越わん、里前御扶齎したぼれエイヤヨヌ平和の日(ひゃるがひー)ー」

1919年9月14日ー『沖縄時事新報』

1920年5月 『地方行政』小林次郎「沖縄の特殊行政」


1925年11月『沖縄タイムス』
1932年
●山里永吉の戯曲「那覇四町昔気質」が琉球新報に掲載されたのは昭和7年3月で、山里はその後記で「この戯曲は多分13日から大正劇場で上演されると思うが、考えて見ると大正劇場に拙作『首里城明け渡し』が上演されたのが一昨年の今頃、ちょうど衆議院の選挙が終わった当座だったと覚えている。それから昨年の正月が『宜湾朝保の死』、今度の『那覇四町昔気質』と共に尚泰王三戯曲がここに完成した」と述べている。

1930年11月 那覇の平和館で①「百年後の世界(原名メトロポリス)」/「江戸城総攻メ」上映
①『メトロポリス』(Metropolis)は、フリッツ・ラング監督によって1926年(大正15年)製作、1927年に公開されたモノクロサイレント映画で、ヴァイマル共和政時代に製作されたドイツ映画である。
製作時から100年後のディストピア未来都市を描いたこの映画は、以降多数のSF作品に多大な影響を与え、世界初のSF映画とされる『月世界旅行』が示した「映画におけるサイエンス・フィクション」の可能性を飛躍的に向上させたSF映画黎明期の傑作とされている。SF映画に必要な要素が全てちりばめられており「SF映画の原点にして頂点」と称される。→ウィキペディア
□1985年2月 那覇の国映館で「メトロポリス」上映


1930年11月『沖縄朝日新聞』


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青年劇1935

1935年

旭館


平和館


1936年11月


1937年6月 那覇の旭館で「世界の終り」上映


1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「久高長秀」

1938年2月 那覇の旭館で「巨人コーレム」上映□『巨人ゴーレム』(きょじんゴーレム、Le Golem)は、1936年にチェコで制作されたモンスター・ホラー映画。→ウィキペディア

1938年3月、那覇の旭館で漫画祭、パラマウント映画「ポパイの快投手」「ポパイの動物園荒らし」上映
1938年3月 那覇の平和館で「禁男の家」上映□『禁男の家』( きんだんのいえ、原題: Club de femmes )は、1936年に製作されたフランス映画。1956年に『乙女の館』という作品で再映画化されている。→ウィキペディア


1957年 大阪道頓堀

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Category: 02-関西の沖縄
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1983年、人類館事件の写真を見つけ、その背景を調べはじめて写真史に興味を持った

1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)
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1983年6月5日『琉球新報』新城栄徳「関西資料の散策・人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤さん宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤さんが『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤さんに『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」

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1972年10月『大林組八十年史』「第二節 第五回内国勧業博覧会 会場施設のほとんどを一手に建設」

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1986年3月 沖縄民衆史の会『沖縄民衆史』第3号/2017年1月 Ryukyu企画『琉球』
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2000年4月 大阪人権博物館『博覧会 文明化から植民地化へ』/帝国の祭典――博覧会と〈人間の展示〉☆日 程:開催中~ 11月6日(日)※休館日第1.3月曜日/時 間:11時〜19時/会 場:那覇文化芸術劇場なはーと 小スタジオ、ロビー

1923年12月ー赤琉會(日本労働総同盟予備軍倶楽部)発足
1924年3月ー関西沖縄県人會機関誌『同胞』創刊


大阪人権歴史資料館の学芸員・仲間恵子が1994年6月『季刊・リバティ』に「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号ー関西に生きるウチナーンチュ(沖縄人)の第一歩ー」と題して『同胞』を翻刻、紹介している。2003年3月の『水平社博物館研究紀要』第五号にも仲間は「1920年代の在阪沖縄青年の運動」と題し『同胞』を紹介している。『同胞』は「沖縄県人同胞会」の機関誌として1924年3月に大阪市北区西野田吉野町で発行された。『同胞』は五号を数えると謄写版刷からタブロイド版印刷となった。


1924年5月ー真栄田三益らが中心となって日本労働総同盟予備軍倶楽部(赤琉会)を結成。大阪市電、私鉄の労働争議の応援などに旗を持って参加。大阪天王寺公園でー大阪のメーデーに参加した関西沖縄県人会の活動家。前列右から2人目が上里春生、4人目が眞榮田三益、その後が眞榮田之璞、後列右の旗手は宜保為貞

1925年  前列右から2人目が阿波連之智、4人目が眞榮田之璞、前列左から2人目が浦崎康壮、後列右端が浦崎康慶、3人目が眞榮田三益
真栄田一郎については安仁屋政昭氏が『沖縄大百科事典』に詳細に記しておられる。林世功の一族である。本名は之璞、写真はその墓の前で左から姪の上原美津子、池宮城秀意、瀬長亀次郎、城間得栄(国吉真哲撮影)。右は国家権力により弾圧された真栄田一郎の遺体写真(国吉真哲撮影)。真栄田家・8世は世佐、9世が傳詩、10世が正隆で一郎はその4男。兄に之琛(真栄田勝朗)、之璟、之か、姉の冬子(まかと)は伊波普猷の妻。関西沖縄県人会、沖縄人連盟を組織した真栄田(松本)三益は親戚である。
1933年5月ー『琉球新報』桑江常格□同志前田一郎を悼む/歴史上の一人物としてー(略)同志前田は理論家ではなかった。彼の長所は頭の中で理論をデッチ上げるのではなくして自身の信ずるところを行動において現すところにあった。(略)彼が16、7歳のころから沖縄のアナーキストたちと行動を共にし後にマルクス主義に転向して大正13年から14年にかけての関西沖縄県人会草創期を経て××党沖縄支部結成時代から死ぬまでの彼の行動の中によく現れている。彼がマルクス主義者としての活動は大正14年の春に当時関西沖縄県人会の仕事をしていた真栄田三益の紹介で県人会事務所に来たときから始まる」
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松本(真栄田)三益資料

1927年ー渡口精鴻『呼吸器病の知識ー付肺結核の臓器療法』南江堂
国民新聞 1921.11.17(大正10)「百日咳の世界的新療法」
○百日咳に対する世界的の新療法が警視庁細菌検査所の渡口精鴻氏に依って発見せられた始め動物試験に於て成功したる同氏はそれを自分から自分の家族に試み更に最近に至って済生会病院の豊福博士慶応病院の唐沢博士神田の藁科小児科病院等に於て患者に之を試みたが何れも大なる好成績を挙げていると云うことである新療法とは百日咳に対するアンタゴニスムス(拮抗菌)の発見である・・・・□→神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 衛生保健(3-182)

関西沖縄県人会初代会長・渡口精鴻


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 大阪万博開催(1970年3月15日から9月13日)ー梅棹忠夫「万博の準備段階で、岡本太郎さんから『太陽の塔の下に、世界の民族資料を展示したい』と提案がありました。太郎さんはパリ大学で民族学を勉強していた。泉靖一とわたしは『日本万国博覧会世界民族資料調査団』を組織しました」          
岡本太郎「万国博のチャンスに世界中から民族資料を集めた。将来、博物館が出来るとき一つの核になるように、泉靖一、梅棹忠夫両教授に頼んで、蒐集団を組織した。泉さんはすでにない。が梅棹さんはじめ、さまざまの分野の専門家たちがその後もねばり強い努力を続けて、ついに民族学博物館の実現にこぎつけた。世界と無限の交流をする場所。ここでは研究者も一般のピープルも人間存在の意味の、なまなましい暗示を受けるだろう。日本文化にとってうれしいことだ。」/ネットに関連して、1988年7月『みんぱく』に梅棹忠夫館長と奥野卓司の対談がある。奥野氏が「1970年代にアメリカではパソコンと言えば反体制文化と結びついていたね、ドロップアウトしたままになった人達もたくさんいる」と述べている。これは、反体制は自由や解放への道であると同時に逃避や閉塞の道でもある。ということでもある。

梅棹忠夫資料

1974年3月23日~6月2日 大阪万博記念公園エキスポランド「大沖縄展」

「沖縄文庫」-会場内の沖縄文庫で沖縄本を販売する新城栄徳。いつも岡本太郎の太陽の塔を見ながら、民博はまだできていない。/このときの陶器コーナーではシーサー造りの名人・島常賀翁と、陶芸家で駆け出しの平良幸春氏とは一緒に陶芸の用具や釉薬などの材料の店、常賀翁のユンタクを聞きながらシーサー造りを2カ月以上観てきた。常賀翁の三線模合仲間の宮城美能留(宮城 稔)沖縄歌舞団団長の宿泊先のホテルに、一緒に見舞いに行った。
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1952年7月21日『球陽新報』「1周年記念祝賀行事ー第三部 島晴美先生」/1974年ーエキスポランド「大沖縄展」案内パンフ(表紙の踊りは島晴美さんの娘さん)

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1974年 京都国立近代美術館「沖縄の工芸」

旅する仮面

本展に特別協力しているのが国立民族学博物館。
1970年1月、梅棹忠夫氏らが中心となって『季刊人類学』が発刊された。私も早速購入したが、これらの出版活動が1974年6月の「国立民族学博物館」設立につながる。開館当初は私も月に一度は通い、『季刊民族学』、『月刊みんぱく』などを購入した。月刊みんぱく85年1月号には手塚治虫がエッセー「アマゾンの日系一世たち」を書いている。

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2019年5月29日『沖縄タイムス』「那覇市民ギャラリー『喜名朝駿写真展』魅惑の国ミャンマー」/2019年5月31日ー喜名朝駿氏と作品


5月26日 午後2時~5時 沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)講堂(2階)「戦後うちなー御万人ぬ運動、ちゃーし考げーが-新崎盛暉『沖縄同時代史』(全11巻)読でぃんじゃびたん-」


2019年5月25日(土)18:00~19:30 フォトネシア沖縄講座「粟国恭子:『宮古』をめぐる写真文化史ー終戦直後を中心にー」[場所]〒900-0013 沖縄県那覇市牧志1-3-18 エトワール牧志1F(パラダイス通り沿い) INTERFACE-Shomei Tomatsu Lab.[参加費]500円

5/18(土)17:10-19:45 沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)講堂(2階)「辺野古を止める構想力ー変わりゆくアジアの中で沖縄はどうするのかー」



ジュンク堂那覇店 2019年5月11日 16:00~ 榕樹書林トークイベント「「反復帰論と今日の沖縄」出演:新川明(元沖縄タイムス社長)×川満信一(詩人)×仲里効(社会批評)



ジュンク堂那覇店 2019年5月11日『仏陀の小石』刊行記念トーク&サイン会。著者で芥川賞作家の又吉栄喜、ゲストに歌人・小説家の佐藤モニカ。/左から高良勉さん、新里彩さん、赤嶺なおみさん


5月4日、5日ー沖縄県立博物館・美術館正面入口前「ソテツのおもちゃづくり」


 2019-4月30日~6月23日 沖縄県立博物館・美術館「新収蔵展」


仲嶺貞夫氏(琉球箏曲盛竹会会長)/田名真之氏、金城善氏


2019-4月30日 沖縄県立博物館・美術館

1929年年2月14日 シカゴで聖バレンタインデーの虐殺(英: St. Valentine's Day Massacre)
関連〇那覇中学校在学のころテレビで「アンタッチャブル」を見た。エリオットネスを中心とする「正義の味方」アメリカ財務局特別捜査官の活躍を描いたものでいかにも憎々しい「公衆の敵№1」のカポネ像が定着したが、カポネは公衆の酒需要に応えただけで、人間をアメリカ軍の日本・沖縄無差別空襲やベトナム、イラク攻撃のように無差別に人間を殺したわけでもない。カポネも貧しいイタリア・ナポリ移民の子としてニューヨーク・ブルックリンので生まれたことは後に知る。現実の沖縄駐留アメリカ軍兵士の犯罪とダブって見え、アメリカという国は、最近は日本もそうだが、犯罪や戦争までも企業化(マフィア化)にしてしまうものだと妙に納得した記憶がある。長じてカポネ映画も5回見た。カポネに興味があるのは少数派だと思ったが、今でもグーグル検索で人気のある人物で画像、動画も豊富だ。カポネの名前はアメリカ人なら子供でも知っている。
 1964年、東京神保町で入手した中野五郎『ギャングの季節』(1961四季社)、アメリカギャング史の入門書である。□犯罪都市シカゴと全米禁酒法時代の悪夢ー現代アメリカの代表的詩人カール・サンドバーグは、煤煙と鋼鉄の大都会を熱愛して有名な『シカゴ詩集』の中で「世界のための豚殺しや工作職人や麦刈り人夫や鉄道工夫など・・・・・大きな肩を持った都会だ」とシカゴの民衆性を弁護している。しかし、同じアメリカのある評論家が、「シカゴには平和がない。それは抑制されない恐怖と光明の都会である」といみじくも喝破しているように、シカゴこそ自由の国アメリカの明暗をもっとも強烈にかつ露骨に表現した巨大な商業都市であり、偉大な文化都市であり、そして物凄い犯罪都市なのである。(略)
こういう雰囲気の中に、アメリカ社会救済事業の母ジェーン・アダムス女史は1889年に社会改善運動(シヴィック・リフォーム)の烽火をあげて有名な「ハル・ハウス」をシカゴの貧民窟の真中に開設し、またシカゴ大学はじめノース・ウェスターン、ロヨラ、ドポールなどの著名な大学が平和主義と社会学によって権威を高めているのも注目されるであろう。それにシカゴ自慢は1893年のコロムビア大博覧会、1933年の20世紀進歩大博覧会、稀観本専門のニューベリー図書館、フィールド自然博物館、オペラ劇場、マーシャル・フィールド百貨店、アメリカ最大の新聞「シカゴ・トリビューン」など、犯罪都市シカゴの背景はあまりにも文化的であり、また、商業的であると言えよう。ここにシカゴの秘密があり、ガンサーのいわゆる「華麗な矛盾」の悪の華が咲き乱れているのだ。


1984年2月 『徳間書店の30年』徳間書店
 大阪での青年会活動で、『TOWN』の岡村昭彦のハワイのウチナーンチュを思い出した。東京晴海の日本離島センターで機関誌『しま』を貰って帰途、国会図書館で『TOWN』1962年2月号を請求したら特殊な雑誌なので許可に2,3日かかるという。大阪から来ているのにムチャを並べる。即止めて発行元の徳間書店を訪ねた。資料室で閲覧していると資料室責任者の川又さんが編集で使った同誌を下さった。話を聞くと同誌は折込で大きいグラビアでヌード写真が掲載されていて国会図書館の良識に触れたようであるが、もう一つが「日本一山口組の政治と犯罪」も問題となったようである。
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 『山口組ドギュメント・血と抗争』(三一書房1968年8月)にさとう・せいこうが著者を「色あくまで黒くにきび顔、身体強健にしてなお品あり。このたび、この若年の友のねばり腰の結実が初めて世に問われる。かつてTOWNという至極短命の雑誌があったが、溝口敦はそこに芽生えた企画を遂にここに草し、私はほとんど無為である。これも戦のならいであろう。いんちきノンフィクション派はいわずともがな、東映ヤクザ映画を礼讃して見せる流行のインテリ左翼、テレビ刑事に何かを仮託したつもりの似非ドギュメンタリストどこまでをも、この書が顔色なからしめんことを祈る。確かに、彼が突撃する他なかったのだ。」、と紹介している。
 私(新城栄徳)と歌舞伎町のことは「わが青春ー新宿歌舞伎町」に記している。溝口著2009年6月『歌舞伎町・ヤバさの真相』文春新書に新宿の歌舞伎町は、これまで様々に形容されてきた。不夜城、眠らない街、マフィアの棲む街、非情の街、日本の下半身、欲望の迷宮都市、外国人労働者の新租界、アジア一の歓楽街、日本一危ない街ーなど。(略)秋葉原は歓楽街とはいえないが、それでもフィギュアやメイド喫茶など「萌え」の聖地として全国どころか、世界に名を知られている。秋葉原はよくも悪くも東京の今の街である。歌舞伎町を昨日の街とはいわないが、ここ数年、中だるみの時期に入っていることはたしかだろう。中国では1978年12月の第11期3中全会で文化大革命期の失脚から返り咲いた鄧小平が、文化大革命を否定して改革開放、現代化路線へと大きく国の政治を転換した。(略)他方、日本では83年、時の中曾根総理大臣が21世紀初頭までに、他の先進国並みに留学生10万人を受け入れるとの目標を設定した。これにより中国からも日本語就学生や私費留学生が徐々に増え始めた。(略)鄧小平は92年の南巡講話で「改革開放を加速せよ」と指示し、同年10月には「社会主義市場経済」を打ち出した。前後して中国人の来日は増大し、91年4月には新宿区役所に英語、中国語、韓国・朝鮮語による外国人相談窓口ができた。

 『日刊ゲンダイ』2013-8-12 溝口敦の切り込み時評ー『自虐史観』を嘆く前に日米地位協定を何とかしろ!(略)米軍は戦後一貫して治外法権に置かれてきた。米軍兵士が人を殺そうが強姦しようが、直後に基地内に逃げ込めば日本の警察は手が出せず、日本の法律では裁けない。日米地位協定は紛う方なき不平等条約にかかわらず、戦後の自民党政府も民主党政府も官僚もアメリカのポチとして、条約改正に動こうとしなかった。

 東京での右翼、ヤクザの病理集団の資料を雑誌、週刊誌で収集してノートに貼っていたが、大阪で生活すると、ヤクザ抗争があると夕刊紙や週刊誌が特集する。紙面にはヤクザ事務所の住所もある。で、カメラを片手に確認しに出かけた。目の前に、あちこちに事務所があるではないか。北は菱の章友会、一会、金田組、藤原会、南では菱の白神組、福井組、宇田組、宅見組、浅野組など。その過程で右翼新聞社の佐々木記者と友人になり社主にも紹介してくれた。新聞社事務所を訪ねると本棚にはヤクザ資料が並んでいた。ヤクザと右翼は同じものだという。写真、破門状、襲名披露、年賀状など持って行けといわれ持ち帰った。社主は菱の田岡組長、稲川の石井理事長にも会って記事にしていた。ヤクザはシノギ以外は何でもオープンだという。

〇私(芝憲子)は神奈川県立川崎高校の文芸部にいました。(ジマンめきますがこの高校の卒業生には、作家の島田雅彦―現在の校歌を作詞、溝口敦―文芸部の先輩、哲学者の中島義道―クラスメート、などがいて、大変個性的な人が多いといわれているそうです)→「芝憲子のテーゲーブログ 2010-1-7」
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2020-12-11『沖縄タイムス』

梶山季之編集『噂』


徳間康快 とくま-やすよし
1921-2000 昭和後期-平成時代の出版経営者,映画製作者。
大正10年10月25日生まれ。「読売新聞」社会部記者。戦後の読売争議の中心メンバーとなり,昭和21年退社。その後、読売新聞時代の友人・竹井博友が社長をしていたアサヒ芸能新聞の経営を引き受け1954年に徳間書店社長に就任、週刊誌に変更して大きな成功を収めた。東京タイムズ,大映などの社長となり,徳間グループをひきいる。国際合作映画「敦煌(とんこう)」や宮崎駿(はやお)監督のアニメ映画「風の谷のナウシカ」などの製作を手がけた。平成12年9月20日死去。78歳。神奈川県出身。早大卒。→コトバンク

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2015年3月 安渓貴子・当山昌直『ソテツをみなおす』ボーダーインク


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居酒屋ひさみで佐竹さん一行、右から新城栄徳、佐竹利子さん。佐竹さんの父君・佐竹利彦氏は佐竹製作所を「世界のサタケ」に育成された功績だけでなく、ヤシ・ソテツ類植物の収集・分類においても世界的な権威である。/中国の蘇鉄切手

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世界のソテツ(ソテツ亜科1属9種、シダソテツ亜科1属1種、ザミア亜科8属108種)/戦前の沖縄絵葉書(蘇鉄)    nullnull


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上ー新城栄徳の原風景(粟国島ー至るところにソテツがある) 


写真ー大阪天満宮/大阪知事官舎

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写真ー中之島公園、中之島図書館近く/下ー八尾市

2004年3月、大阪の大丸ミュージアム・心斎橋で「奄美を描いた画家 田中一村」を仲間恵子さんから貰った入場券で見た。前に那覇でも見たことがある。奄美時代の一村は当然ながら奄美ではどこにもある蘇鉄を描いている。もともと天才と謳われた人物だが奄美の自然と出会ってますますその画才を開花させたと云えよう。「不喰芋と蘇鉄」は代表作にもなっている。一村は東京時代にも偶然と云うか「蘇鉄図」「蘇鉄と躑躅」を描いている。


 香川県丸亀市にある天台宗妙法寺は、開運招福・大黒天や厄除けの元三大師(がんざんだいし)を祀る京極家の祈願所です。俳人画家・与謝蕪村が江戸時代中期の明和年間に讃岐・香川を訪れ、その際、妙法寺(現在の香川県丸亀市富屋町)に逗留しました。「蘇鉄図」「寒山拾得図」等の6作品を残し、国の重要文化財に指定されています。このようなゆかりから妙法寺は別名「蕪村寺・ぶそんでら」といわれています。→天台宗妙法寺


大本亀岡本部のエスペラント碑と蘇鉄

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2019年6月11日 ホテルゆがふいんおきなわ 「やんばる倫理法人会第538回経営者モーニングセミナー 講話者・大城政明」

2019年3月  大城政明作詞「琉歌 進貢船『太陽丸』」 


元旦、朝8時に大城政明氏が我が家に見えられ、シャツ(琉球大航海)などを恵まれた。写真ー我が家の屋上で、左が大城政明氏


写真左から山口栄鉄氏、大城政明氏




2016年10月24日写真左が具志弘樹氏、大城政明氏


2016年10月24日 糸満「さつき」ー崎浜盛三氏(元日本農業新聞記者)



2016年10月24日 糸満「さつき」ー自作の歌をうたう大城政明氏

2016年10月24日 写真右が新城栄徳、大城政明氏

2016年10月24日 写真右が崎浜盛三氏(元日本農業新聞記者)、大城政明
大城政明(携帯090-3794-7576)【世界平和の架け橋:琉球魂=出会えば兄弟・肝心・ニライカナイ・竜宮城】


12月19日 沖縄コレクター友の会忘年会ー左から照屋重雄氏、石澤司氏、眞喜志康徳氏、①大城政明氏、翁長良明氏、上原実氏、与儀達憲氏
2012年3月22日『琉球新報』糸満】糸満市糸満の拝所・白銀堂にまつわる伝説や格言を広めたいと、元中学校音楽教師の①大城政明さん(70)=糸満市賀数=がこのほど、「白銀堂由来の歌」を作詞・作曲した。13日、伝説にゆかりのある根人腹(ニーッチュバラ)門中の関係者が白銀堂に集まり、大城さんが歌を披露した。
2016-10-24 なるみ堂で大城政明さん談ー平成11年8月13日「国旗及び国歌に関する法律」が国会で制定・施行された。同法は、第1条. 1項で「国旗は日章旗とする」、同第2条1項では「国歌は君が代とする」としている。これにより、. 「日の丸・君が代」の法的裏付けとなった。だから知花昌一さんが日の丸を焼き捨てた罰金はなんと布切れ代3千数百円という。

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『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ)は、1712年(正徳2年)頃出版された日本の類書(百科事典)。
編集者は大坂の医師寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されたことが編集の動機であった。中国の『三才図会』を範とし、いわば絵入りの百科事典である。全体は105巻81冊に及ぶ膨大なもので、各項目には和漢の事象を並べて考証し、図を添えた。本文は漢文で解説されている。三才図会をそのまま写した項目には、空想上のものや、荒唐無稽なものもあるが、著者が医師(もちろん漢方医)であるだけに、東洋医学に関する記事は非常に正確で、鍼灸師の中には、これをもっとも信頼できる古典と見る人もいる(→ウィキペディア)




『和漢三才図会』「龍蛇部」

1951年5月『南方熊楠全集』1 十二支考(1)乾元社
○龍の起源と発達ー1867年版ゴルトチッヘルの希伯拉鬼神誌に、聖書に所謂龍は雲雨暴風を蛇とし、畏敬せしより起こると解た。亜喇伯人マスーヂー等の書に見る海蛇(聖書の龍と同根)は、其記載旋風が海水を捲上る顕象たる事明白で、其を我国でも龍巻と云ひ、八雲の立つ同様下から立ち上がるから龍をタツと訓み、乃ち旋風や龍巻を龍と云たと誰かから聞いた。・・・・

1979年12月 吉野裕子『ものと人間の歴史 32 蛇』法政大学出版局
○たとえば隣国中国の天地開闢の創世神は、伏犠・女媧の陰陽神であったが、この二神の神像は人間蛇身の兄弟神で、しかもその尾を互いにからませあっているから」夫婦関係を示している。要するに中国の祖神は蛇なのである。この蛇の夫婦神は劫初の洪水をのがれ、天の裂け目をつくろって平和をもたらし子孫をのこして栄え、人間の祖となったのである。このように蛇は人間の祖先にまでたかめられるのに対し、キリスト教では、性を人類の祖先に教えた蛇は諸悪の源、原罪をつくったものとして邪悪の権化と見なされ、多くの聖画の構図にみられるように天使の足は永劫に蛇を踏みつづけている。 出雲大社竜蛇神図


1982年7月号『遊』「龍の美術誌」




1987年3月 『龍の物語』新宿書房




2002年4月 土屋禮一『龍の本』ビジョン企画出版社

2015年3月 秦恒平『湖(うみ)の本 123 繪とせとら日本』「龍蛇の問題ー『龍の研究』といった本があるかどうか、無くはあるまいが、まだ目にしたことがない。にもかかわらず、『龍』に関心をもってきた。干支の『辰』も、関心に含まれてはいる。しかし根ざした思いとしてはあくまで『龍』である。と同時に、龍頭蛇尾ともいう。根はひとつで、おもむくところ、必然『蛇』にも注意せざるをえない。現実問題として、『龍』の問題は余儀なくむしろ『蛇』を介して思案せざるをえない。・・・」

伝説の地(共興地区東小笹) 
 名主は、龍神(りゅうじん)を深く信仰していたので、毎日海岸に出てお祈りをしていた。ある日のこと、いつものようにお祈りをしていると龍神が現れ、「日頃、お前の信心深いのには実に感心している。今日は龍宮城(りゅうぐじょう)へ招待しよう。私の後について来なさい」と言った。信仰厚い名主は、招かれるままに龍神の後をついて行った。青い瓦、朱塗(しゅぬ)りの柱、美しい彫りもので飾った回廊(かいろう)、今まで見たことのない、宮殿であった。珍しい飲み物や食べ物、それにすばらしい音楽、美しい踊り。名主は、龍神から手厚い持て成しを受けた。何もかもが夢を見ているようで、いつの間にか、数日がたってしまった。→千葉県匝瑳市

2016年1月8日 若狭の龍神





1992年6月『新生美術』10号
山里永吉×浦崎永錫□古きよき美術放談ー浦崎「ぼくが絵が好きになったのは、小さいころ若狭町の漆器屋の大見謝さんという人が、ランとかタケだとかを実に美しく、どんどん描いているのをうっとり見とれていたもので、それが一つの刺激になったのだと思うネ。」 山里「若狭町といえばそのころ沖縄の芸術家の出身地で絵をかく人には若狭町出身者が実に多いんだ。比嘉華山、金城南海、親泊英繁、西銘生楽、渡嘉敷衣川、野津久保、渡嘉敷唯仁、それに浦崎永錫がそうだろう。古くは有名な彫刻家・田名宗経もそうだし、若狭町は芸術家の輩出する町だネ。これは若狭町、漆器の影響だと思うな。」  浦崎「そうか、田名宗経も若狭町出身か、初耳だ。漆器の刺激と、それに景色がいいことだろう。夕方になると、おとなも子供もいっぱい若狭町灣小に出て夕日に見とれていたものだ。・・・・・」 

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1940年・日本の放送事業
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大衆雑誌『芝居と映画』
1949年5月  沖縄劇場協会『芝居と映画』創刊号□編集兼発行人・高良一
山里永吉「雑談」/比嘉正義(松劇団)「劒戟役者放談」/親泊興照、儀保松男「儀保松男追憶談」/平良良勝(沖縄俳優協会長・竹劇団長)「芸道苦心談」/大見謝恒幸(梅劇団)「新俳優研究生時代の思い出」/「映画スター前身調べ 癖しらべ」/仲井眞元楷「演劇漫筆」/編集後記「沖縄で最初の娯楽雑誌としてデヴィウすることになりました。誌名に示すとうり”芝居と映画に関する一切の記 を集録して読者諸賢にまみえるつもりです」

1949年6月  沖縄劇場協会『芝居と映画』6月号□編集兼発行人・志良堂清英
旗岸平「新演劇への第一歩」/伊良波尹吉(梅劇団長)「芸談」/玉城盛義「玉城盛重翁追憶ー叔父を語る」/松村竹三郎「”武士松茂良”余談」/仲今盛良(梅劇団)「芸道苦心談」/山里永吉「雑談(2)」/「演芸ー芝居狂言作者年表(1)」/「演劇映画用語集」
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1950年5月ー『演劇と映画』第2巻第1号□上間朝久「名優の思出ー儀保松男」
1950年8月 『演劇映画』7,8月合併号□演劇映画社ー編集兼発行人・志良堂清英 印刷・沖縄ヘラルド印刷局)
山里永吉「演劇放談」/「王将ー大映作品」/川平朝申「沖縄映画製作への雑感」/沖縄ペンクラブ同人「沖縄文化を語る放談会」/上地一史「沖縄ペンクラブ」/小林寂鳥「なが雨の素描」/具志幸孝「幕波に就いて」/伊集田實「演劇雑感」/本部茂「シナリオ 朝から晩まで(2)」/田幸正英「『袈さの良人』の演出について」/サンゴ・タロウ「詩 啓示」/美田太郎「一流館」/又吉つる子「袈さの良人出演後感」/沖縄の芸能ー折口信夫「同胞沖縄芸能の為に」、比嘉良篤「沖縄芸能の味」、式場隆三郎「琉球文化の愛護のために」、今井欣三郎「邦舞への挑戦」、西崎緑「琉球舞踊一年生」、水田龍雄「遥かなる郷愁」


沖縄劇作家協会1950

映画ー1950年代の那覇の映画館・新聞社

劇場
1ー国際劇場、2-中央劇場、3-那覇劇場(芝居)、4-沖縄劇場、5-沖映、6-大宝館、7-大洋劇場、8-珊瑚座、9-オリオン座、10-平和館
新聞社
11-琉球新報社、12-沖縄タイムス社、13-琉球新聞社、14-沖縄朝日新聞社

1950年10月 『演劇映画』10月号□演劇映画社ー編集兼発行人・志良堂清英 印刷・南西印刷所)


1950年10月『うるま新報』「中央劇場ー帰国ダモイ」

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1951年2月 乙姫劇団ハワイ公演

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沖縄のバス切符

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 1952年8月 マーガレット・ミッチェル大久保康雄訳『風と共に去りぬ』三笠書房(上映記念 總革装豪華一千部限定版) 大久保康雄訳・初刊は1938年)は、1949年、1950年の年間ベストセラー第3位にランクされるなど、300万部を超える大ベストセラーとなった。なお、映画の日本公開は1952年で、同年もベストセラー第7位に入っている。『風と共に去りぬ』で得た莫大な利益によって、三笠文庫(1951年創刊)、『三笠版現代世界文学全集』(全27巻、別巻4。1953年-1957年)などを刊行している。和書では創業の1933年に内田百閒の随筆『百鬼園随筆』を出版しており、その後も『阿房列車』など、たびたび百閒作品を刊行している。→ウィキ





1954年7月 中野五郎『アメリカの暗黒ー米国を衝動した大事件ー』角川書店

1957年4月8日『琉球新報』川平朝申「M・G・M・ダニエル・マン監督の『八月十五夜の茶屋』を観て」 

『シンドバッド七回目の冒険』(1958年、公開当時の題名は「シンバッド7回目の航海」)は、ハリーハウゼン①の初のカラー作品となった。1つ目巨人のサイクロプスや、双頭の巨大鷲のロック鳥、ドラゴンなど様々な怪物が登場する。中でも骸骨戦士との剣戟シーンは有名である。
①レイ・ハリーハウゼンは、アメリカ合衆国の特撮映画の監督・特殊効果スタッフで、ストップモーション・アニメーター。映画史上、20世紀の映画における特撮技術の歴史を作ってきたといわれる人物である。1950年代から1970年代に活躍し、多くの特撮SF・ファンタジー映画を手がけた。 本格的なデビュー作となったのは、『原子怪獣現わる』(1953年)である。SF作家・レイ・ブラッドベリ(ハリーハウゼンとは高校時代からの親友であった)の短編『霧笛』を原作としている。水爆実験でよみがえった怪獣がニューヨークを破壊するというこの作品は、日本の特撮映画『ゴジラ』(1954年)にも大きな影響を与えた。→ウィキペディア


『ヒット曲歌謡集』1958~1961

1959年1月、『守礼の光』が創刊され守礼門が写真で紹介された。6月に宮森小学校にジェット機墜落、大惨事となった。東京の新聞雑誌は大きく報じた。このとき比嘉春潮は第三回沖縄タイムス賞受賞のため帰省中であった。8月には東京で沖縄記者会が設けられ、伊波普猷未亡人・冬子が帰沖した。11月1日、沖縄テレビがNEC日本電気の技術で誕生した。開局祝賀パーティは中継された。出席したのは當間主席、具志頭社長、安里立法院議長、国場組社長、崎山沖縄グラフ社長らであった。同年末の新聞は「街に映るテレビブーム」などと報じた。


1959年12月 「アダムとイヴ」「日本誕生」

1960年1月の『守礼の光』に外間清が「茶の間で見る世界ー沖縄テレビの話」を書いている。安里慶之助『放送余聞~草創期のラジオ・テレビ』に拠ると、ウチナー芝居が初めてテレビで放送されたのが1959年12月21日の劇団与座の時代劇「片割れ心中」で、あけぼの劇場からのナマ中継であったという。だがウチナー芝居はすぐスタジオ製作に切り替わった。7月、ラジオ沖縄が開局。開局記念に大伸座による「首里城明け渡し」が放送された。その舞台は『オキナワグラフ』8月号で紹介された。60年現在、私設のラジオ有線放送社は那覇に16社、地方に32社、ほかに公営の有線放送は10ヶ所にあった。

1961年1月『オキナワグラフ』「在阪沖縄映画人会」


1961年1月 那覇のグランドオリオンで「渚にて」上映

1965年5月29日 30日の国映館の東宝まつりに出演の草笛光子、藤本真澄①が日航機で来沖
①藤本真澄 ふじもと-さねずみ
1910-1979 昭和時代の映画プロデューサー。
明治43年7月15日生まれ。昭和12年PCL(現東宝)にはいる。戦後辞職して藤本プロダクションをつくり,「青い山脈」を大ヒットさせ,のち東宝に復帰し取締役,副社長となった。作品はほかに「若大将」シリーズなど。昭和54年5月2日死去。68歳。山口県出身。慶応義塾高等部卒。 →コトバンク

1965年6月6日『琉球新報』「おきなわ出演の千草かほるに聞くーきっかけに困った方言のセリフ」、仲井真元楷「明治 大正 昭和名優伝 嘉手納良芳」 
         沖映本館「伝説史劇・おきなわ」/グランドオリオン「明治大帝御一代記」(嵐寛寿郎)/東宝劇場「赤ひげ」(三船敏郎)
         台湾で琉球芸能紹介、高安六郎一行(フリユンターズ)きょう出発


1965年11月ー那覇 グランドオリオン「クレオパトラ」(エリザベス・テイラー)
エリザベス・テイラー 本名:エリザベス・ロズモンド・テイラー。アメリカの映画俳優、女優。愛称リズ。
1932年2月27日、イギリス・ロンドン生まれ。現在に至るまで結婚暦は8回。2011年3月23日死去。(はてなキーワード)


1966年1月15日 沖映本館で沖縄興行史上最大の豪華一大絵巻!!「龍神の舞い」開幕


1966年2月9日~10日 沖縄タイムスホール 琉球組踊保存会主催第1回鑑賞会「大川敵討」

1966年2月17日『琉球新報』上間朝久「大川敵討を見る」


1967年3月 琉球組踊保存会(代表・真境名由康)『組踊研究』創刊号 

1967年12月 沖映本館「愛の雨傘」/桜坂オリオン「007ゴールドフィンガー」(ショーンコネリー)
1969年1月『沖縄の芸能』邦楽と舞踊社□3、流派と現状 
仲井真元楷「現地における」
石野朝季「本土におけるー『沖縄の伝統芸能は、日本本土で命脈を保っている芸能家の手で保存しないかぎり消えてゆくしかない。さいわい鹿児島には舞踊界の渡嘉敷守良、熊本には野村流音楽の池宮喜輝両師匠(共に故人)が疎開で健在であり、二人を東京に招いて弟子を養成、沖縄に再び平和が甦えるときまで、郷土にかわって伝統保存の担い手になろう』と、1947年春、東京沖縄芸能保存会が伊江朝助、比嘉良篤、戦前沖縄で新聞経営、安富祖流音楽の有数な弾き手でもあった武元朝朗(1953年10月6日没)らの手で結成された。結成翌年の1948年11月には、有楽町の読売ホールで第一回公演。」

1972年2月 雑誌『青い海』』№10<復帰不安の沖縄>□「優れた沖縄を語りたいのですー若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」、嘉手川重喜「沖縄の歌劇(4)辺土名ハンドーグヮー」


1972年3月 『青い海』春季号 「青い海芸能ー情熱と美の琉舞を大阪の地に  金城康子」
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那覇大綱引きで子息の衣装を整える金城康子さん



1972年3月『琉球の文化』第4号 琉球文化社

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1911年11月『琉球新報』□「蔡氏九世忠義録ー尚豊王御即位マデ七場ニ仕組ミ大道具仕掛ニテ開演可仕候ー」


1912年5月『沖縄毎日新聞』「中座 琉球史劇 楚辺暗川ー琉球音楽ノ祖先 赤犬子」


1912年5月20日『琉球新報』


1913年10月15日ー那覇の香靄座、大阪杉本商会特約で活動写真常設館「パリー館」開設
1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。



1914年3月1日ー那覇区字東仲毛で「常設活動写真帝国館」開館

1914年3月 那覇の常設活動写真帝国館で「百合子」上映


1914年4月 「米国海軍水雷演習」


1914年6月『琉球新報』



1914年10月『琉球新報』


1916年6月16日『琉球新報』

nullnull写真ー左・松本(真栄田)三益さん、右・新城栄徳と真栄田三益さん

浦崎康華『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社1977年11月)
『同胞』を詳細に紹介した最初の本は、浦崎康華『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社1977年11月)である。浦崎翁は関西沖縄県人会の創立メンバーで当時を知る有力な人物である。私は1982年5月に浦崎翁を那覇市泊に訪ねて、関西沖縄青年の運動のことを聞いた。浦崎翁は社会運動だけでなく文化全般に通じている。前出の著は国吉真哲翁の序文がある。偶然なことに私は浦崎翁から国吉翁も紹介されることになる。


浦崎康華『逆流の中でー近代沖縄社会運動史』(沖縄タイムス社1977年11月)
〇国吉真哲□序ー沖縄は慶長年間のの薩摩の武力侵入にはじまり、明治政府の琉球処分、それに第二次世界大戦によるアメリカの軍事占領と大きな惨禍と犠牲を強いられてきた。明治政府の沖縄に対する植民地政策により明治、大正をつうじて沖縄のこうむった打撃は大きく、明治末年には首里、那覇の中産階級はほとんど凋落し、地方農村も荒廃し沖縄人の生活は窮乏のどん底になげこまれた。ことに明治政府は日清、日露と二度にもわたって戦争を強行し大正に入ってからは第一次世界大戦が1914年(大正3年)8には米騒動が起こって全国的に波及し社会不安が高まって行った。浦崎氏の思想運動・社会運動への出発もこのあたりから始まっている。(略)
沖縄の第一回メーデーは1921年(大正10年)5月1日に行われている。中央メーデーに、わずか1年おくれて行われていることは沖縄の置かれている地位が中央の政治的、社会的諸条件に類似するためであろう。メーデーは無政府主義者の城田徳隆らと社会主義者の山田有幹らの共催によるものであるが、このころはまだアナーキズムとボルシェヴィーズムの対立は生じてなかったようだ。

〇浦崎康華□うるわしい同志愛ー沖縄の初期社会運動家はみんな童名をもっていた。特に首里、那覇出身は本名(名乗)はあまり用いないで、泉正重はカマデー、伊是名朝義はヤマー、座安盛徳はカミジュー、辺野喜英長はマツー、城間康昌はジルー、渡久地政憑はサンルー、東恩納寛敷はタルー、宜保為貞はサンルー、阿波連之智はカミー、松本三益はタルー、比嘉良児はサンルーといった。相手が年長であればヤッチー(兄)をつけてマツー・ヤッチー(マツー兄)と呼んでいたので、非常になごやかで同志愛で結ばれていた。ときにはアナ・ボル論争もあることはあったが目くじらを立てて口論することはなかったし、みんな生存中の友好関係は変わらなかった。われわれからいえばソ連や中国などで、ときどき起こる指導権争いや権力闘争に類したようなことは全くなかった。これは社会運動の分野ばかりでなく新聞人同志もそうであった。
1923年9月1日 関東大震災
この年 普久原朝喜、来阪
1926年10月 沖縄県大阪物産斡旋所設置
1927年3月 宮城清市、来阪
1929年4月4日 照屋林助、大阪で生まれる

照屋林助・林賢資料/2005-5-12『沖縄タイムス』「照屋林助さん追悼特集(2005-3-10没・75歳)」

1935年5月 大正区沖縄県人会結成(宮城清市会長)
この頃、嘉手苅林昌来阪

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1936年9月ー日本民俗協会『日本民俗』第14号□琉球古典芸能を語るー伊波普猷、伊原宇三郎、片山春帆、佐藤惣之助、坂本雪鳥、清水和歌、谷川徹三、鳥居言人、中山晋平、昇曙夢、比嘉春潮、松本亀松、塩入亀輔
1936年10月ー日本民俗協会『日本民俗』第15号□琉球の古典芸能を語るー伊波普猷、比嘉春潮、塩入亀輔、中山晋平
1936年10月16日 昭和会館で「山崎延吉農事講習会」
1936年11月ー日本民俗協会『日本民俗』第16号□琉球の古典芸能を語るー坂本雪鳥、松本亀松、谷川徹三、清水和歌、昇曙夢、原田佳明、伊原宇三郎、片山春帆
1936年12月ー日本民俗協会『日本民俗』第17号□琉球の古典芸能を語るー鳥居言人、松本亀松、片山春帆、伊波普猷、比嘉春潮、北野博美、折口信夫、小寺融吉、西角井正慶

1937年 大里喜誠、彦根高等商業学校(現滋賀大学)卒業


1940年11月8日『沖縄日報』

1941年5月7日ー舞踊家・玉城節子、那覇辻町で生まれる。3ヶ月目に父・友盛の仕事で大阪へ。(1946年、帰沖し石川市に住む) 

パリー館「アルジェリア カンタラの風景」


 

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