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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

東京都のフリーカメラマン戸澤裕司さん(48)が、粟国島出身で2005年に亡くなった仲里チヨさんに20年近く寄り添った写真展「カジマヤー(風車祝い)~島人をめぐる断章~」を5日まで那覇市民ギャラリーで開いている=写真。チヨさんのカジマヤー(97歳のお祝い)から死、風葬、洗骨を経て夫と同じ厨子(ずし)甕(がめ)に入るまで撮影した54点を展示。「洗骨の儀式を撮影し、これが死との正しい向き合い方だと思った。失われつつある風習を感じてほしい」と話している。1980年代、雑誌の取材で来県した戸澤さんがチヨさんと同居する7男正雄さん(65)と知り合い、家を訪ねるほど親しくなった。作品は、那覇市内の狭小なバラック屋で2人を撮影した90年ごろの写真で始まり、カジマヤー祝い、粟国への40年ぶりの帰島、粟国での葬式、風葬、洗骨の儀式と時系列に並んでいる。正雄さんに信頼され、葬式、洗骨に招かれた戸澤さんだが「撮影するのは腰がひけたが、逆に島の人たちに、記録してほしいと背中を押された」という。撮影時は東日本大震災の取材直後で、精神的にもつらかったが「親族が生前と同じように骨をなでるのを見て救われた気がした。本来の人間の最期だ」と感じたという。
2013年5月1日『沖縄タイムス』
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2013年4月30日

写真左から大城弘明氏、国吉和夫氏、戸澤裕司氏

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1979年1月1日『琉球新報』石川正通「憂時立砲と沖縄」
有事立法を、精神分析学的政治学で翻訳すれば、憂時立砲になる位のことは、僕のような数学者でない、ずぶの素人にも解るであろう。尤も僕の数学とは数種類の学問のことである。鉄砲を持った奴が、たいてい無鉄砲である事実が、これを実証する。鎌倉の三代将軍実朝が「物言はぬ四方(よも)のけだもの」と憐んだ可憐な鳥獣を無闇に殺生して自慰(マスターベーション)に耽り、ついでに暴発で、人間まで殺す自称狩猟家を政府も認めている。セイフは、英語では安全だが、日本語では危険だ。

第一次世界大戦が終わったとき、「イキガ(男)ヌ、ハティレー、ジャーナリスト(蛇成人)」と言わんばかりに、世界各国の新聞人がニューヨークに集まって、今回の戦争を何と命名しようかと鳩首凝議した。議論百出の席。人間はそれほど馬鹿でないから、二度とこんな馬鹿な戦争は起こすまい。だから、「ザ・ラスト・ヲワ」(最終戦争)が一番良い名だと、決議しようとしたが、きまらずに、いつもまにか第一次世界大戦と言う呼称に落ち着いて、第二次世界大戦の素地を作った。馬鹿どもが夢のあと。

徳富蘇峰は、終戦の詔勅を拝して、「八十三年非なり」と、自分の史観の誤りを、五言律の漢詩に托して懺悔した。伊江朝助男爵が、ヤガテユヤ暮リテ、行クン先ヤ見ラン六十六タンメ、ドゥゲイクルビ と、琉歌に盛った心境と同工異曲の挽歌である。歴史書きの歴史知らずは論語読みの論語知らずより哀れなりけり。人類の発生から絶滅まで、過渡期でない瞬間は無い。時々刻々、革新へ革新へと、動いてやまないのである。世界の列強が軍備拡張に明け暮れている今の今々、第三次世界戦争の勃発を想定して見るのも狂人の狂態ではあるまい。

極東軍事裁判の通訳官翻訳官調査官として、僕がキーナン検事(闇の大統領カポネを裁いた鬼検事)邸に住み込んでいたとき、秘密書類を見た。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦の時の対独の三回の宣戦詔勅には、何れも「大日本帝国皇帝」となっているが、大東亜(太平洋)戦争の宣戦の詔勅には「大日本帝国天皇」となっている。「豈朕が志ならんや」が耳に残る詔勅。天皇であっても、皇帝であっても、三度目の宣戦布告の詔勅の出ないことを、命がけで望む。「ユヌ、ペイ・サン・レザールム!(武器無き国!)」とナポレオンを唸らせた平和の島、守礼之邦の後裔吾等の平和責務は地球よりも重い。

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Category: 99-未分類
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麦門冬の書き込みが見える(岸秋正文庫所蔵)

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1901年6月ー末吉安扶没
1912年2月ー柳田国男、伊波普猷より『古琉球』3冊寄贈される。
1913年4月ー沖縄県庁でこの程、筆耕に令し『中山世譜』の筆写をなさしめつつある。
1913年7月ー『沖縄教育』(親泊朝擢)桑村生「中山世譜」(1)

1913年8月ー『沖縄教育』(親泊朝擢)桑村生「中山世譜」(2)

1914年7月ー沖縄県知事より、伊波普猷、真境名安興ら沖縄県史編纂委員拝命

1915年1月ー沖縄県史編纂事務所が沖縄県庁より沖縄県立沖縄図書館に写される(真境名安興主任)


1917年7月15日ー『日本及日本人』709号□末吉麦門冬「十三七つに就いて」「雲助」「劫の虫より経水」(南方熊楠と関連)

1918年2月12日ー東京日本橋区本町三丁目博文館・南方熊楠殿、末吉安恭書簡「拝啓 先生の御執筆の十二支伝説は古今東西に渡りて御渉猟のこととて毎年面白く拝読いたし候(略)琉球にも馬に関する伝説、少なからず候み付、茲に小生の存知の分を記録に出でたるものは原文の侭、然らざるは、簡単に記述いたし候間、御採択なされ候はば幸甚に候。失礼には候へど、御ねがひいたし度きこと沢山これあり候につき御住所御知らせ下さるまじくや(略)」(『球陽』『琉球国旧記』引用)

1917年9月1日ー『日本及日本人』712号□末吉麦門冬「楽屋の泥亀汁」
1918年4月ー『日本及日本人』728号より、三田村鳶魚らによる「東海道中膝栗毛輪講」が連載される。
1818年6月1日ー『日本及日本人』732号□末吉麦門冬「支那のあやつり」「琉球の鬼餅」
1918年7月ー末吉麦門冬、南方熊楠に『球陽』贈る




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1914年11月 同人誌『五人』末吉麦門冬「芭蕉の恋ー(略)彼等二人の間に男色の関係のあったといふことは今日から見る程不自然なものではない。鎌倉以来我国には衆道といふことが武家間には非常に盛んであった。足利義政公は  常盤山とはにはさかずいはいはつつじ/春の日数をたづねてもとへ  云々と云はれた。南浦文集に昔々物語を引いて曰く  昔は衆道といふ事有て一四五六、七八の男に生まれ付よきは勿論大躰の生付にても念者といふもの持たぬ若衆は一人もなし。云々(以下略)」


写真前列右から池宮城積宝、山口全恭、渡久地政憑、野村安茂。後列右から末吉麦門冬、嘉手川重利、當眞嗣合、屋嘉宗恭、仲吉良光

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末吉麦門冬

左から真境名安興、伊波普猷、末吉麦門冬(末吉安久画)

石川正通□先輩追慕ー布袋腹に酒杯乗せて踊りたる麦門冬の珍芸懐ふ


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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
濱川榮松副会長の開会、上原小一会長のあいさつで会が始まった。活動報告、決算報告。

懇親会

新城静喜村長の祝辞

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糸洲照雄・野村流伝統音楽協会師範の乾杯の音頭。


幕開けは古典音楽/玉城シズ子さん、嶺井政順氏、糸洲照雄氏、新城清弘氏、糸洲一雄氏


かぎやで風


伊良皆賢哲・粟国村教育長「あいさつ」




太田勝子「むんじゅるー」



新城清弘「独唱」



護の会「寿、恋ぬ花」



護の会「谷茶前」

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護の会「うりずん」


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糸洲照雄氏と新城静喜・村長

最後の方で、郷友の仲里正雄氏により戸澤裕司氏の写真展の案内があった。null
 
上原小一・郷友会長と戸澤裕司氏


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糸数信一・32代郷友会長と戸澤裕司氏


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○国頭按司家の家譜によると、10世正實 国頭按司、童名思五郎金 馬元亮は康煕42年即ち元禄16年(西紀1703)正月13日の生まれで、父は正長、母は尚貞王の女(むすめ)眞鍋樽金 室は向氏西平親方朝叙の女 眞鶴金、長男 正方、長女 眞鍋樽、次女 眞加戸樽 三女 眞勢仁金を生む。尚貞王世代康煕四十五年六月 父の跡を継ぎ三百石を領す。その時僅かに四歳である。・・・・□→家譜は太平洋戦争で消失。戦後『馬姓大宗世国頭家家系図』が刊行された。莫門冬は口碑をそのままに物語ろう、と家譜を参考に蔡温を刺さんと企てた国頭按司正實について述べている。
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
〇當原昌松/略歴→沖縄県立博物館・美術館
1903年 11月2日、具志川村字山里生まれ
1923年 沖縄県師範学校卒業
1926年 東京美術学校図画師範科卒業
1926年 鹿児島県立指宿中学校教授嘱託
1927年 大分県立杵築高等女学校教授嘱託
1928年 沖縄県師範学校教諭兼訓導
1931年 横須賀市立実科高等女学校教授嘱託
1931年 東京美術学校研究科修業
1931年 横須賀市立実科高等女学校教諭
1932年 「第1回沖縄美術協会展」(神田三省堂画廊)出品
1934年 「二人展」(さいか屋/横須賀市)
1936年 「国画会(国展)」『このしろ舟』入選。12月29日、逝去(享年33歳)

〇1931年6月『沖縄県師範学校創立五十周年記念誌』當原昌松「亡師(西銘生楽先生)と亡友(竹島景明兄)と」


1937年6月28日『沖縄日報』海音寺潮五郎「當原昌松君の圭角」



かいおんじちょうごろう【海音寺潮五郎】 1901‐77(明治34‐昭和52)
歴史小説家。鹿児島生れ。本名末富東作。1926年(昭和1)国学院大学高等師範部を卒業,旧制中学の国語教師を務めながら《サンデー毎日》の懸賞小説に応募し当選,34年鎌倉に居を構えて作家生活に入る。36年,豊臣秀吉とその女性たちを描いた《天正女合戦》などで直木賞を受賞する。以後,《明治太平記》(1952),《蒙古来る》(1954),《平将門》(1955),《武将列伝》(1959‐63),上杉謙信を描いた《天と地と》(1962),《西郷隆盛》(1969)などの長編歴史小説に,その特色をあますところなくみせている。 (→コトバンク)

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Category: 04-書の森
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1923年10月 『沖縄タイムス』莫夢生「安楽椅子ー沖縄党争史論を読む」/1923年8月 『沖縄タイムス』莫夢生「老榕の髭ー俳諧に現れたあらぬ恋」
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1924年12月20日『沖縄タイムス』東恩納寛敷「末吉安恭君を悼む」
○東恩納寛敷は「波上軒で麦門冬が酔って興に乗じ幸徳秋水の漢詩を戸板一杯に書いた見事な筆跡であった」と追悼文に書いた。幸徳秋水と云えば1912年『沖縄毎日新聞』元旦号に麦門冬は鑿と題し「浦島太郎が龍宮へ行こうとすると声がするので振り返って『ヤア誰かと思ったら幸徳秋水君か、君は又地獄の牢破りをやったな』『急行列車で今着いたばかりさ』『君も浮かばない亡者だナア』『ナアにこれから沈もうと思っている』」と幸徳を登場させている。

幸徳秋水
生年: 明治4.9.23 (1871.11.5) 没年: 明治44.1.24 (1911)
明治期の社会思想・運動家。高知県中村町の薬種業,酒造業篤明と多治の次男として生まれる。本名は伝次郎で,秋水は師・中江兆民から授かった号である。生後1年たらずで父を失い,維新の社会変動のなか家業も没落し,しかも生来病気がちで満足な教育を受けられなかったことが,秋水をして不平家たらしめ,他面では理想主義に向かわせた。高知県という土地柄もあり,幼くして自由民権思想の影響を受けた。明治21(1888)年より中江兆民のもとに寄寓し,新聞記者となることを目ざし,『自由新聞』『中央新聞』に勤めた。『万朝報』記者時代(1898~1903),社会主義研究会,社会主義協会の会員となり,社会主義者としての宣言を行う。34年5月,日本で最初の社会主義政党である社会民主党の創立者のひとりとして名を連ねた。秋水の著作『社会主義神髄』(1903)は当時の社会主義関係の著書としては最も大きな影響を与えた。36年,日露戦争を前にして戦争反対を唱え,堺利彦と平民社を結成。平和主義,社会主義,民主主義を旗印として週刊『平民新聞』を刊行したが,38年筆禍で5カ月間入獄。出獄後渡米し,権威的社会主義を否定し,クロポトキンなどの影響を受けて無政府共産主義に傾く。39年帰国。43年,説くところの政治的権力と伝統的権威を否定する思想,並びに労働者による直接行動の提唱が,宮下太吉らの明治天皇暗殺計画に結びつけられ,いわゆる大逆事件の首謀者とみなされ,絞首刑に処せられた。<著作>『廿世紀之怪物帝国主義』『基督抹殺論』『幸徳秋水全集』<参考文献>飛鳥井雅道『幸徳秋水』,神崎清『実録幸徳秋水』,大原慧『幸徳秋水の思想と大逆事件』,塩田庄兵衛『幸徳秋水』 (山泉進)□→コトバンク

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1922年3月 『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆ーおもろ艸紙の焼失」
○おもろは万葉、祝詞、古事記の三つに該当する内容を持っている、尊き聖典である。この聖典が嘗て沖縄で火災にかかり一度失ったことがある。それをここに記して見ようとする。それは球陽其の他の史籍にも見えず、具志川按司家の家譜にあるだけである。私は先年同家を訪ひ其の家譜を見て初めて知ったのである。同家の先祖は尚真王の第三王子で今帰仁王子朝典と云ふ。家譜に其の北山に赴いたこと、其の時おもろ艸紙を持って行ったこと、後に首里王城の焼けた時に、王城内にある、おもろは焼け失い、今帰仁家にあったものを献したと云ふことがある。→『向姓家譜 大宗 諱韶威』

1922年4月『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆ー火災と文献」 

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5月11日莫夢生「青すだれー清明上河図と日章旗(4)」



▲問題は日章旗に移って行くが、仇英の清明上河図の原本は宋の張択端のそれである。然らば支那の日章旗を初めて用ひたのは、明時代でなくて宋時代であると云ふことも、明瞭になったのである。更に私は張択端のことを調べる為めに画論画史を猟って見たら、明の董玄宰の画禅室随筆に端なくもそれを見出した。  張択端が清明上河図、皆南宋時、 京の景物を追慕せしも にして、西方美人の思あり、筆法の繊細なる、亦季昭 に近きか、惜むらくは骨力乏しきのみ
張択端に就いてはこの外に書いたものは見ないが、清明上河図は南宋 京の景物を追慕せしものだと云ふことがわかり、日章旗もその時のものであると云ことだけは明瞭になった。而して桜田氏は日章旗に就いては、前に西村天囚氏にが書いたものに、島津斉彬公が船印に用ひられたのが抑も初めであると記してあったのを、憶えていると云ひ、若し斉彬公が用ひられた事実がありとすれば、我帝国の日章旗は、この明時代の日章旗と没交渉のものではあるまいと云った。

▲清明上河図の日章旗は南宋のものであって、明時代のものではない。或は明時代にもあったかは知らないが、島津斉彬が日章旗を船印に用ひたのは、私は琉球から行ったものではないかと疑ふのである。琉球の船に日章旗を用ひたことはこれまた船舶の図がそれを証する。那覇市役所にある首里那覇の図及び浦添朝顕氏の蔵する同じ図等にも日章旗がある。


5月14日『沖縄タイムス』莫夢生「青すだれー東西刺客観」

1923年5月 『沖縄タイムス』莫夢生「青すだれー東西刺客観」
○在独逸の高田義一郎氏が日本及日本人に感想を寄せられたのを見ると、「日本の刺客は皆申し合わせたように斬姦状を懐にして理由を明らかにし名を名乗って先ず自分の身体を投げ出してかかっている。」「西洋の刺客は辻斬り強盗のそれと同じ・・・」

1922年10月 『沖縄タイムス』莫夢生「雨絲風片ー琉儒と道教」
○李鼎元の使琉球記を読んでー沖縄には道教の寺はない。即ち支那にあるような道観、道士こそなけれ、道家の思想は早くからあったのである。○唐御竈、他に天妃、関帝王、文昌帝君、土地君などは道教の神様。久米の学者先生達は支那伝来の天妃廟を敬すること孔子廟同様である。○道教思想のあらわれとして、現世的因果応報の最も面白い例は、私は組踊の孝行巻に於いてこれを発見する。

○蔡温はまた蓑翁片言の中にも弁妄を試みている。○東汀随筆を仔細に見ると翁は矢張り道教的思想が深く頭脳にこびりついて離れなかった人・・・○これは蔡温が程順則への書簡、これに依ると流石の順則も積もる身の不幸に対し、哀悼尤怒の意なき能わなかったようである。

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Category: 04-書の森
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04/22: 島袋盛敏

Category: 01-人物名鑑
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1935年11月 『沖縄教育』島袋盛敏「ひかる君の上京」

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島袋盛敏
○私の家は当蔵町のアダニガーお岳の下にあったが、仲宗根章山家も名護から引き上げてお岳の傍らに来た。私の隣人になっていたのである。そうして章山翁の長男真吉君と私は大の仲良しになり、毎日行ったり来たりして遊んだものだ。章山翁は初め沖縄県庁の役人や分遣隊の士官達の求めに応じて、絵を売り生活しておられたとのことであるがその需要がなくなったので、名護の教員になられたのであろう。しかし教員も長く続かず再びアダニガーお岳の傍らに落ちつかれたものと見える。その時は、すでに分遣隊の士官達はいなくなって、その代わりに金持ちのご隠居さんが、床の間の掛軸とか、あるいは観音さまの仏像などを求めて来るようであった。(略)ちょうどそのころ、真吉君、摩文仁賢和君、新垣良光君と唐手をやり出した。それで師範では屋部先生にほめられた。


〇島袋盛敏『琉歌大観』の東風平親方朝衛の歌「上下の綾門関の戸もささぬ治まとる御代のしるしさらめ」がある。歌意は「上下の綾門は、関の形はしていても、戸を閉じるということはない。いつでも明け放しである。これは御代が治まっているという何よりのしるしであろう。誠にめでたい」とする。また解説に「上下の綾門は、関所というよりは、首里に入る人々を歓迎する門であって、王城のアクセサリーであった。作者は尚穆王時代の三司官で当銘家の祖である。和歌もよくし名歌を残している」とする。



1998年3月11日『琉球新報』
沖縄語辞典、15年ぶりに再版ー沖縄方言の最初の本格的辞典で古典的名著といわれる「沖縄語辞典」(国立国語研究所編、大蔵省印刷局)が、15年ぶりに本屋の店頭に並ぶことになった。再版を望む各方面からの声に押される形で8刷の刊行が決まったもので、研究者を中心に早くも歓迎の声が上がっている。県内でも11日から発売される。沖縄語辞典の初版が発刊されたのは1963年。首里出身の島袋盛敏氏が首里方言辞典の出版を計画し、語彙を集めるなど稿本にまとめ保存していた。島袋氏の稿本を引き継いだのは、当時、国立国語研究所地方言語研究室に勤務していた上村幸雄氏(名桜大学教授)。上村氏は音声記号を付すなど言語学上の処理を施したほか、意味説明の精密化や用例の補充、解説、索引を付けるなどして、10年掛かりで出版にこぎつけた。収録語数は約1万5000語。



「アメリカ軍基地と沖縄経済―歴史のなかで考える―」
基地がなくなると、沖縄経済は困るのか。それとも、かえって気になるのか。基地がなくなると困るからという理由で基地の返還に消極的になり、基地がなくなると経済がよくなるからという理由で基地の返還に賛成するという、そういうことでいいのだろうか。また、沖縄経済は「基地経済」だといわれてきたが、今もそうなのか。沖縄経済とアメリカ軍基地との関係を、戦前・アメリカ軍占領下・日本復帰後と変遷してきた歴史をたどりながら、じっくり考えます。そして、沖縄経済の「自立」とは何か。いつまでも「自立」できないのは、政策・政治が悪いからなのか。それとも、沖縄経済の体質の問題なのか。




写真左から新城栄徳、武石和実氏、来間泰男講師


「スタジオジブリ・レイアウト展」関連催事ーエントランスコンサート
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
〇政府式典は「安倍晋三首相が憲法改正(悪)をもくろむ中、独立国家のイメージを国民に示したいのだろう。実際には米国に隷属しているのは世界中が知っているし、話にならない」と一蹴する。・・政府式典に抗議は、抗議の意思を示す行動を無意味とは言わないものの、これまでと同じ動きでは状況は変わらないと指摘する。「復帰した今も、オスプレイや普天間問題で沖縄に主権はない。政府が式典を開くならば、沖縄は日本に離縁状を突き付けるくらいの気概を持ち、自ら生き方を決めるための教材とすべきだ」

新川 明
2007年5月7日 月刊 『榕樹』 
□私の「大阪時代」 新川 明(元沖縄タイムス会長、2007年5月7日 月刊 『榕樹』)。

新川 明 - 資料 2006年8月 西原町立図書館『新川明文庫目録』
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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
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瀬名波栄さん(新城栄徳撮影2013-4-18)
本日は米従軍新聞記者アーニー・パイルが伊江島で戦死した日である。本日、与儀公園で瀬名波栄さんと出会った。以前、月刊沖縄社の佐久田繁さんの所で会ったことがある。以来5,6回図書館でよくお見かけした。何しろ戦前の新聞社社長で健在なのは瀬名波さん一人と思う。

1920年3月5日 宮古島に生まれる
1940年      新開南、宮古朝日新聞記者
1944年12月   宮古朝日新聞社長
1966年2月   『宮古島戦記』仝戦記刊行会/日刊南沖縄社
1966年3月   先島戦記刊行会設立
1970年6月   『太平洋戦争記録 石垣島防衛戦史』沖縄春秋社

1996年5月   『太平洋戦争記録 石垣島方面陸海軍作戦』

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瀬名波栄の本
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
島袋和幸〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 ☎03-3695-9276 島袋携帯090-4920-6952


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佐々木笑受郎・微笑の本



島袋和幸の本
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
与那覇晶子さんから『「組踊の系譜ー朝薫の五番から沖縄芝居、そして<人類館>へ」』(研究代表・与那覇晶子)が送られてきた。


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Posted by: ryubun02


大阪の岸政彦氏から『同化と他者化ー戦後沖縄の本土就職者たち』(ナカニシヤ出版)が贈られてきた。本書に10年前、私と出会ったことも書いてある。一見し佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』が頭に浮かんだ。佐野は言う「物事を『説く』には『大文字』言葉が便利だが、物事を『語る』には『小文字』言葉を身につけなければならない。『語って説かず』。それがノンフィクションの最大の要諦だ。」と強調。

岸氏も「本土就職者たち」への聞き取り調査で得た、その生活史を本書で語らせていて説得力がある。私もかつて1964年白雲丸で「集団就職」の一員として上京した経験がある。その生活史は『沖縄を深く知る事典』(日外アソシエーツ)に収録してある。本書が「大城勲少年」を取り上げ紹介したのも意義深いものがある。欲を言えば、「本土就職者たち」の同世代の留学生たちの生活史についても調査し研究テーマを完成してもらいたい。
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2003年2月 『沖縄を深く知る事典』(日外アソシエーツ)新城栄徳「ヤマト風のスタイルへのなじみ方ー系列化ー」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

偶清人觀奕道人筆記消夏録を読みたるに載する所幾多の怪亊異聞、消夏の読物として、一寸面白ければ、茲に其内より選び抜きて譯載することとしつ、読者幸に一読を賜へ・・・・・


■中国怪奇小説集 閲微草堂筆記(清) 岡本綺堂 「わたくしは最後に『閲微草堂筆記』を受持つことになりましたが、これは前の『子不語』にまさる大物で、作者は観奕道人と署名してありますが、(略)号を暁嵐といい、乾隆時代の進士で、協弁大学士に進み、官選の四庫全書を作る時には編集総裁に挙げられ、学者として、詩人として知られて居ります。死して文達公と諡されましたので、普通に紀文達とも申します。 この著作は一度に脱稿したものではなく、最初に『  鎖夏録』六巻を編み、次に『如是我聞』四巻、次に『槐西雑誌』四巻、次に『姑妄聴之』四巻、『 陽続録』六巻を編み、あわせて二十四巻に及んだものを集成して、『閲微草堂筆記』の名を冠らせたのでありまして、実に一千二百八十二種の奇事異聞を蒐録してあるのですから、とても一朝一夕に説き尽くされるわけのものではありません。
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■15世紀に書かれた漢文小説の短編集「金鰲新話」の中の「李生窺墻傳」のヒロインも、パンソリで有名な「春香傳」のヒロインも、具体的な現実との対決を躊躇しない、どんな困難にもめげないすばらしく強い女性として描かれている。→「朝鮮の古い物語に描かれた女性像(上)/朴※(※=王偏に旬)愛」

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■2000年7月15日~16日『沖縄タイムス』小玉正任「柳蔭春在此」
「柳春蔭」を解くカギとなった資料は『中国通俗小説総目提要』(江蘇省社会科学院<明清小説研究中心・文学研究所>編、中国文聯出版公司発行、1990年)の中の『人中画』という小説集の中の「寒徹骨」という小説である。この小説の主要人物が柳春蔭である。

04/13: 甘藷

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与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑】(よなはせどとみおやとうりゅうきゅせきひ)所在地:上之屋201
与那覇勢頭豊見親は、1390年、宮古の人ではじめて中山に服属した人で、それによって宮古の首長に任じられました。
 ところが言葉(方言)が通じないので、一緒につれてきた部下達の中から20人を選んで学ばせました。彼らは3年で言葉が通じるようになり、国王への貢物を自ら納めることができ、宮古に帰る時には王城内で送別の宴を賜ったといわれています。
 豊見親の部下で高真佐利屋(たかまさりや)という者がいて、故郷が遠く離れているので望郷の念にかられ、毎夜泊の後方にあった火立屋(ヒータティヤー)に登ってアヤグを歌ったりしたので、村の人たちはこの地を高真佐利屋原(たかまさりやばる)と呼んだといいます。碑には、「その後屋敷跡は人手に渡ったので、与那覇の子孫がこの地を買い求めて記念碑を建て、礼拝の場所にするため白川氏正統14世恵政が上国の時、1767年、この碑を建てた」と記されています。(オキナワン ネイチャー BOY)

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□1936年4月ー台中丸で、帝展画家の横山葩生、余彌子夫妻来沖。「横山画伯夫妻けふ沖縄訪問ー氏の義姉は故末吉麦門冬氏の妹にあたり、古くから憧れていた南島沖縄訪問がやっとこの日実現されたものである。なお氏の来遊に就いて名古屋在住の佐渡山安勇氏より島袋全発図書館長へ世話方を依頼して来ている。」/「」10月ー『塔影』「青樹社第三回展ー名古屋伊藤銀行中支店楼上に開催。同社は横山葩生君を中心とする団体、葩生君の『南国風景』」

横山葩生 (よこやまはせい) 生年 / 没年 : 1899 / 1974
生地 / 没地 : 愛知県瀬戸市 / 愛知県名古屋市  第2回帝展(1920)  中京美術院 青樹社→愛知県美術館
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写真ー金城安太郎氏と石垣さん親子(末吉麦門冬娘)

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4月11日ー山田さん宅へ遊びに行く。寝屋川市の佐々木千賀子さんからのハガキがあった。佐々木さんは3回ほど山田さんのところに見えたそうである。下記の協会賞の話もあった。

□佐々木千賀子 
大阪府生。テレビ番組構成、コピーライターを経て、1998年小松左京、1993年立花隆、両氏の秘書につく。99年よりスタジオジブリにて宮崎駿監督の指導の下にアニメーション映画の企画、原作探しに携わる。2003年沖縄へ移住。現在、㈱沖縄映像センター勤務、プロデューサーとしてドキュメンタリー等の制作、執筆活動に取り組む。

2013年4月27日『沖縄タイムス』
公益社団法人日本写真協会(宗雪雅幸代表理事会長)が今年の日本写真協会賞をこのほど発表、県内から山田實さん(94)=那覇市=が功労賞を受賞した。功労賞は県内で山田さんが初めて。戦後沖縄の写真界の指導的存在として、日常生活を捉えた作品を制作。沖縄の本土復帰前から著名な日本人写真家の沖縄での制作を支えたことなども評価された。6月3日に東京都港区の笹川記念会館で表彰される。山田さんは「なかなか沖縄を認識してくれない本土に実情を知ってもらいたいと、日常生活を撮って発表してきた。(今回の受賞は)沖縄に目を配ってもらい、驚きと感激でいっぱい。本土と分断され、いろんな困難があったアメリカの統治時代などが思い出されて感慨深い」と喜んだ。同賞はこれまで1973年に石川文洋さん、93年に比嘉康雄さんが年度賞、95年にフォトシンポジウムin沖縄実行委員会が文化振興賞を受賞している。(城間有)


4月30日 山田さん古新聞をチエック
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1918年10月~1918年7月『沖縄毎日新報』真境名安興「酒前茶後」の随筆に麦門冬が関連した随筆を寄せている。

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1924年2月『沖縄タイムス』莫夢生「サボテンー本県の姓名について」/笑古生「姓名についてー莫夢氏の一考を促す」


□1993年4月20日 『琉球新報』新城栄徳「『真境名安興全集』刊行に寄せて」


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開拓団の自決語り継ぐ
○思うに、恭三君が撃った銃弾で(東京開拓団)団長は最期を遂げたのであろう。日頃気丈であった団長は、一番可愛がっていた末っ子の恭三君の手で最期を全うしようと決意していたに違いない。
○ソ連兵の大部隊が現れて、鉄砲を打ち込んで来たのです。(略)男子の殆ど、40名位が連行されてから間もなく、小銃の音がパンパンと連続で聞こえましたから、多分、銃殺されたのだろうと推察します。私の主人もその中に入っていました。74歳の私の義父は、婦女子の中に混じっていましたが、見つけ出されて私達の目の前で銃殺されました。婦女子の4,50名は農家の豚小屋に押し込められて、若い婦人達は次々に連れ出され暴行されたらしく、泣き泣き戻ってくるのです。
○あとがき
歴史の虚実・真偽の解明は、大変困難である。真相は隠され埋められ、真実は消されて闇に葬られることが多いからである。日本はなぜ勝算のない戦争に踏み込んでいったのか、なぜもっと早く戦争終結に持ち込めなかったのか。極端な精神至上主義と余りにも人命軽視。日本人は、これほど犠牲を出さなければそして結局アメリカの力によらなければ、皇国史観から目が醒めないほど劣った国民なのか・・・。

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