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Category: 04-書の森
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1922(大正11)年
1月  島倉龍治ら沖縄史蹟保存会を設立し東宮行啓記念碑などの史蹟20余を建碑
2月17日  『沖縄朝日新聞』写真「上村渠の行列」「前村渠の馬小」
2月18碑  『沖縄朝日新聞』広告「那覇劇場」
2月     那覇の帝國館で「元勲大隈侯 國民葬」上映


2月9日   『沖縄タイムス』莫夢生「鶏聲犬語ー隈侯と山公(2)」
        この記事の側に「山公の国葬ー今日午後2時 真教寺」 

2月21日  『沖縄タイムス』莫夢生「鶏聲犬語ー隈侯と山公(10)」
        側に「啄木碑建設」記事






〇嘗て印度哲人タゴールが来た時隈侯は例の口調にて「我輩老来書をよまさるを以て哲学などは研究していない、唯花を植えて楽しむのみであるんである」と云ったら、タゴール①「花を植えて楽しむことがまた哲学であります、閣下はそれに依って自然と人生の問題を考へて居らるるから」とやって、流石の長広舌をして一時沈黙せしめたことがある。併し隈侯の観花哲学はそこまでは進んでいなかったようだ。 

①タゴール 【Rabindranath Tagore】
[1861~1941]インドの詩人・小説家・思想家。インドの近代化を促し、東西文化の融合に努めた。ベンガル語で作品を書き、一部を自ら英訳。1913年、ノーベル文学賞受賞。詩集「ギーターンジャリ」、小説「ゴーラ」など。→コトバンク



2月22日  『沖縄タイムス』莫夢生「鶏聲犬語ー隈侯と山公(11)」
        側に「美しく有望な女形ー儀保松男君」記事

      2月24日  『沖縄タイムス』莫夢生「鶏聲犬語ー隈侯と山公(14)」
3月21日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<5>ー男女の幼名」
3月22日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<6>ー察度は童名?」
3月24日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<8>ー琉球史に見えたる暗殺」
3月25日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<9>ー琉球史に見えたる暗殺」(国頭按司家譜)
3月26日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<10>ー琉球史に見えたる暗殺」
3月28日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<11>ー豊見親碑」
3月29日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<12>ー豊見親碑」
3月30日  『沖縄タイムス』莫夢生「陽春雑筆<13>ーおもろ艸紙の消失」(具志川按司家譜)
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1928年(昭和3年)2月に第1回普通選挙のさなか労働農民党の地方組織として労農党那覇支部が結成されたが弾圧され、翌年その再建をめざして創刊された沖縄最初の無産者の新聞。

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基調講演
仲程昌徳(元琉球大学教授・近現代文学)「大正期の文学と末吉安恭」


伊佐眞一(近代沖縄史家)「近代沖縄と末吉麦門冬」


阪井芳貴(名古屋市立大学大学院教授・国文学)「近代沖縄における文化研究ー<郷土>へのまなざし」

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粟国恭子(沖縄県立芸術大学、沖縄国際大学非常勤講師 沖縄文化・工芸研究所主宰)「末吉安恭と民俗・民族学」

崎原綾乃(沖縄県立大学附属研究所共同研究員 琉球芸能史)「近代沖縄における琉球芸能の実践と末吉安恭」



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智積院ー高野山から根来山に、そして智積院へと脈々と伝えられる弘法大師の教え。智積院(ちしゃくいん)は全国三千の末寺を擁する真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)の総本山であり、檀信徒の皆さまの総菩提所(そうぼだいじょ)、総祈願所(そうきがんじょ)。


大原


三千院


金閣寺

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1934年11月 神村朝儀『便覧 琉球國王代記』神村朝忠/1937年3月 神村朝儀『第一尚姓 尚巴志王統早分解り』神村朝忠薬店

○雑誌『おきなわ』復刻版解説に酒井直子さんが「回想ー父 神村朝堅」を書かれていて、「向氏神村家家系図」も添えられていた。13世 朝睦の子供たちが省略されていたので詳しく記入してもらった。その結果、上記の著者・朝儀は叔父で、発行人の朝忠は朝堅氏の父と判明した。
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1924年12月17日『沖縄タイムス』

渡口政興(1945年4月17日、奈良県で没)

1935年1月1日『沖縄日報』


左ー渡口政興/右ー政興の子息・慈啓氏(左)、渡口彦邦氏

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豊里友行写真集『沖縄1999-2010 戦世・普天間・辺野古』沖縄書房
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発売元ー榕樹書林(〒901-2211宜野湾市宜野湾3-2-2電話098-893-4076)

豊里友行 携帯090-3418-0534

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中央ー彫刻家・金城実氏、左端ー詩人・高良勉氏

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50年余り国や県自治体の役人がやらない遺骨収集を続けた国吉勇氏。個人で「戦争資料館」も運営してきた。

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人間の鎖に参加する宜野湾市長の伊波洋一氏

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『沖縄の軌跡』発行人・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)

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11/25: 尚泰

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(仲地哲夫氏提供)

尚泰侯爵
1901-8-19 尚泰侯爵、急性カタルで東京にて死去/8-23 尚泰侯爵遺骸①、午後7時に東京本邸出発、沖縄青年会が新橋駅まで代表の諸見里朝鴻が神戸まで同行/8-24 尚泰遺骸、午後5時に梅田駅通過、送迎に商業興信社の宮井悦之助、/沖縄広運会社支店長の野里朝義ら参加/同夜、遺骸は球陽丸で那覇向け神戸出帆/8-28 尚泰遺骸、午前7時半に那覇港着。午前10時に大中邸/8-29 尚泰侯爵、午後2時に出棺、玉陵に葬られた。会葬者2万人/1905-2-7 故尚泰侯、尚家邸内から円覚寺に御入廟。

①1995年3月 南風原文化センター『最後の琉球王 尚泰と尚家の人々の暮らし~ある奉公人の証言から~』カメ吉永大工廻「裸になして大きな板と言うていいか、きれいにきれいに消毒してあげて、それからお棺はどんなお棺であったかと言うたら、アルミの大きなお棺ができてね、それに二重お棺になっておったな。外側のほうは木でできて、中のほうはアルミのような軽いお棺になって、それでそれの中にはね、どういうふうにして入らせてあげるかと言うたら、お茶をこのぐらいずつまん丸いきれの袋を作ってね、それにお茶を一杯ずつ押し込んで、それを下にこうしてひいてあげてね、動かさないように言うて、下にいっぱいひいてあげて、入らしてあげてからもその間、間にみんなお茶を包んだ袋が置いてあったよ。その重たいお棺を肩に担いでいました。」

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1951年7月 雑誌『おきなわ』<故人追憶特集>

大里康永「民族解放の戦士 謝花昇」/湧川清栄「先覚者 当山久三を偲ぶ」/上原仁太郎「ダバオ開拓の恩人 大城孝蔵氏を偲ぶ」/比嘉春潮「仲吉朝助氏」/仲吉良光「法曹界の恩人 麓純義氏」/平良徳助「宮城鉄夫氏の思い出」/東恩納寛惇「真境名笑古」/比嘉静観「伊波普猷先生と私」/伊波冬子「微風」/船越義英「漢那先生」/玉代勢法雲「田原法水師を語る」/比屋根安定「比嘉保彦と佐久原好傳」/島袋盛敏「麦門冬を語る」/仲原善忠「佐喜間興英の業績について」/親泊政博「新聞人、当眞嗣合」/当眞嗣弘「父、当眞嗣合」/山里将秀「八重山の生んだ音楽詩人 宮良長包先生」/新屋敷幸繁「世礼国男氏を想う」/島袋源七「故 島袋源一郎氏を懐う」/編集後記


○麦門冬を号とする末吉安恭氏は、沖縄奇人傳中の一人物たるを失わないであろう。氏は世間的な名士というのではなく、市井に隠れて読書を楽しむ風流人であった。首里、那覇の詩人墨客の間では、酒仙として親しまれていたが、一般には史家として重んぜられていた。「陋巷に在りて其の楽を改めず、賢なるかな回や」というべき類の人であった。文筆を通じて知己たることを許しあっていた東恩納文学士は、その著童景集の中に「野人麦門冬」なる一章を設けて「数年前の夏、自分が帰省した時に、物外、笑古、麦門冬を頭に描いて波止場に下りた」という追懐をのべていられる。もちろん物外と笑古は、麦門冬から見れば、はるかにシーザガタではあったが、物外、笑古の両大人は、麦門冬を決して後輩視せず、相当の敬意を払ってつきあいをしているようであった。麦門冬氏が図書館に姿を現すと、館長の伊波さんは「チャーガ、サイ」(ごきげん如何ですか)と、あいさつしておられた。山城正忠、比嘉賀秀氏等が見えると「チャーガ」といっておられた。仲吉良光氏の話によれば、伊波さんが「麦門冬は、沖縄史鑑賞家としては沖縄一である」といっていられたそうであるから、ある点では「末吉小恐るべし」という感想を持っておられたかも知れぬと、想像されるのである。
(略)
麦門冬氏の生家は、首里の由緒ある家柄で、末吉殿内といい、相当に裕福であったから、若い頃は随分トウイタカテーにされて育った身分である。父も祖父も学者で、家にはおびただしい蔵書があり、幼少の頃から色々の本に親しむことが出来、殊に歴史鑑賞の趣味は、家代々の所蔵本によって、養われたものと見ることが出来る。(略)麦門冬氏は弟安持氏と共に、兄弟詩人として有名であったが、殊に弟は兄まさりの麒麟児という名声が高く、詩華と号して、明星派(新詩社)に属し、平野万里氏等とともに明星をにぎわしていた。その頃萬朝報が、「靖国神社の桜」という題で都々逸を募集したことがあるが、この詩華氏の作が一等に選ばれて、沖縄の文学青年を、あっと驚かしたことがある。当時萬朝報の都々逸は有名なもので、これに選ばれるということは容易ならぬことであったから、詩華氏の作は、たちまちにして人口に膾炙したわけである。その都々逸というのは「心引かるる九段の桜、友の魂どの蕾」というのであった。私がこの句を忘れることが出来ないで、いつまでも覚えているのは、今から思えば何か因縁浅からぬものがあるような気がするのである。
(略)
一体に、首里の儀保の人は粋人が多く、「銭呉イヤーヤ亀川小、追ウテ喰エーヤ嘉数、暁戻ィヤ喜屋武ノ樽小」などというようなその道の代表的な人々も居り、また「儀保二才達ガ、三人揃リレバ尾類呼ビ話」というような俗謡もあるが、麦門冬氏はそういう所の人間とは思われぬ程の堅人で、絶対に女郎を買うということをせず、友人達は末吉寺ともじって「坊主」①とあだ名して言っている位であった。どことなく山寺の和尚といった風格があった。(略)上間正雄氏等と共に、タイムスの孤塁を守って、相変わらず息の長いいつまでも続く史的随筆で、紙面を飾っていたが、どこかで呑んで帰りに、ふらふらと通堂の桟橋あたりに出て、今度は海底の乙姫に招かれたらしく、遂に永遠に帰らなくなった。大正13年11月頃であった。弟は火に死し、兄は水に死ぬということは、何という不思議な運命であろう。弟が焼死したのは、東京の霜白き秋であったというが、兄が水死したのも、沖縄のミーニシ吹く冷い秋で、やはり何れも同じ秋であるのも奇しき因縁である。

①大正7年5月24日の熊楠宛書簡に莫門冬は「郷俗、男は145乃至る167才より娼妓を買ふて以て一人前の男子となりたりと誇る、而して初めて娼妓を買ふを初ズリ(娼妓をズリと称す)とし、其の先輩によりてこの洗礼を受くるを男子の職分でであるかのように如くす。小生などはツムヂ曲りにて、この洗礼を今に受くるの光栄を有せざるを以て、野暮視せられ、笑止に存じ候。」と記している。


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写真「末吉麦門冬」
新城栄徳「末吉安恭(麦門冬)没90年」研究発表に寄せて」
 18日の沖縄タイムス文化欄に、沖縄近代史家の伊佐眞一氏が県知事選の結果を読む、として、もはや翁長雄志氏に疑心暗鬼に精力を裂くときではない。基地問題は第2ステージに入っており、自恃(じじ)のウチナーンチュがひとりでも多くなればなるほど、私たちの郷土は真に自立した道を確実に歩めるはずだ、と書いている。

 伊佐・比屋根照夫共編『太田朝敷選集』に、東恩納寛惇宛の書簡で太田は「私は近頃本県を見るについて以前とは少しく違った見地から見ています。即ち日本帝国の一地方と云ふより寧(むし)ろ民族的団体と云ふ見地です。国民の頭から民族差別観念を消して仕舞ふことは吾々に取っては頗(すこぶ)る重要な問題だと考へて居ります」と書いているが、この太田の予言は現在の沖縄にも通底する。

 このほか、太田選集には俳句や小説、歴史、民俗など近代沖縄文化の幅広い分野で活躍したジャーナリスト、末吉安恭(麦門冬)を追悼して「私が沖縄時事新報社を新設するに当たり君は私の微力なるを思ひ私の請に応じて快く助筆たるを承諾して呉れた(略)琉球社以来の同志も亦、又吉君を始め君を先輩として敬意を表するに吝(やぶさか)ならなかったのである」と載っている。社会運動家の東恩納寛敷も「沖縄タイムス」の追悼文で「波上軒で麦門冬が酔って興に乗じ幸徳秋水の漢詩を戸板一杯に書いた見事な筆蹟であった」と書いている。

 幸徳秋水は末吉安恭がいつも気にしていた人物だ。1912年の「沖縄毎日新聞」元旦号に麦門冬は鑿(のみ)と題し「浦島太郎が龍宮へ行こうとすると声がするので振り返って『ヤア誰かと思ったら幸徳秋水君か君は又地獄の牢(ろう)破りをやったな』『急行列車で今着いたばかりさ』『君も浮かばれない亡者だナア』『ナアにこれから沈もうと思っている』」と書いているが本人も後年、那覇港で沈んでしまった。

 鎌倉芳太郎は麦門冬から沖縄美術史の手解きを受けたが、後年「大正10年といえば、いわゆる大正デモクラシーの興った年で、沖縄でも社会主義運動が起こり、師範学校の教師であった私も、『沖縄タイムス』主筆の末吉麥門冬からマルクスやエンゲルスといったいわゆる赤い本を借りて来て、深夜コッソリ読んで興奮を覚えたりした。それが当時の沖縄の情勢であった。(略)殊に師範学校の教師が内務省の中央集権化の方向に反対するような研究(琉球王国の文化)をやる、そんなことは許されるはずがなかった。ところが、(略)またありがたいことに末吉麦門冬が『沖縄タイムス』でバックアップしてくれたので、私の琉球研究の芽は日一日と育った。」(1977年・『国語科通信№36』)と当時を回想している。

 末吉安恭を通して近代沖縄の歩みを振り返ることは、現在の私たちの沖縄社会を考え直す契機になる。                                                                                 (「琉文21」主宰)




1925年11月25日『沖縄タイムス』山口夕雁「末吉麥門冬氏追悼ー麥門冬さんの俳句 一周忌に際して」

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2004年11月25日『沖縄タイムス』新城栄徳「莫夢忌ー末吉麦門冬没後80年」

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□1921年7月ー折口信夫、第1回沖縄採訪。折口はカメラを持参し写真を多く撮った。
折口信夫「組踊り以前」(青空文庫)
親友としての感情が、どうかすれば、先輩といふ敬意を凌ぎがちになつてゐる程睦しい、私の友伊波さんの「組み踊り」の研究に、口状役を勤めろ、勤めようと約束してから、やがて、足かけ三年になる。其間に、大分書き貯めた原稿すら、行き方知れずなる位、長い時の空費と、事の繁さが続いた。今日になつて、書きはじめる為のぷらんを立てゝ見ると、何もかも、他人の説でも受けつぐ様な気分がするばかり、興味の鈍つて了うてゐるのに気がついた。こんな無感興・認識未熟の文章が、友の本の情熱に水をさしはすまいか、と案じながら、ほんのぷらんを詞に綴つたと言ふだけの、組踊り成立案を書いて見る。さうせねば時間のない位、もう板行の時が迫つてゐるのを知り乍ら、うか/\してゐた事は、申し訣もない。
かうした解説文も、今六年以前なら、別に其仁があつたのである。亡くなつた麦門冬 末吉安恭さんである。大正十三年の末、那覇港大桟橋の下に吸ひつけられてゐた、なき骸を発見したとの知らせを聞いて、琉球芸能史を身を以て、実証研究する学者は、これで空に帰したのだ、と長大息した事であつた。此文章が、伊波さんの本の役に立つ傍、亡き南島第一の軟流文学・風俗史の組織者――たるべき――末吉さんの為の回向にもなれば、この上なく嬉しいと思ふ。

沖縄演劇史の探究の効果は、決して、東の海の波が西に越え、西の浪が東の磯にうち越える、と言つた孤島を出ないものではない。必、日本の歌舞妓芝居や、小唄類の発達過程を示すことになると言ふ自信だけは持つて居る。それでかうした文章も、この友の誂へをしほとして書いたのである。
南島における演劇関係の書物は、大抵、伊波館長時代の県立図書館の沖縄部屋とも称すべき室に、一週間籠つてゐる間に、そこに蒐められてゐたゞけの物は読んだ。だがもう、其記憶も薄れて来てゐる。それが、首里・那覇の学問の権威の、この本の為に、提供せられた資料の前には、星の光りにも値せぬ事を恥ぢるし、又沖縄人の嫌ふ、他府県人のいらざる世話やきにもなつて、島の彼方で苦笑する人々の、俤の浮ぶのも堪へられぬから、さうした引用や、伊波さんから貰うた、沢山の抜き書きなどは、勝手ながら下積みにさせて頂いて、今の場合、忙しい概念だけを綴る事にした。(以下略)



『折口信夫の世界ーその文学と学問』白根記念渋谷区郷土館・文学館、国学院大学学術フロンティア事業委員会・折口博士記念古代研究所
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1952年1月5日『琉球新報』釈迢空「千瀬の白波」


1957年10月 柳田國男編輯『民間傳承』<折口信夫博士還暦記念特輯>

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「千瀬の白波」原稿

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11/23: 林子平

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林子平墓域(島袋和幸 撮影)

林子平
江戸後期の経世家。江戸生。幕臣岡村良通の次男。名は友直、号に六無斎。著書の『三国通覧図説』『海国兵談』が幕府の忌諱に触れ、板木を没収され、禁錮に処せられた。和歌〈親も無し妻無し子無し板木無し、金も無ければ死にたくも無し〉と詠んで、不遇のうちに歿した。寛政5年(1793)歿、56才。 →コトバンク
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山田實・作「山田曼荼羅」


11月20日、仲里なぎさ文化の杜学芸員と

2014年11月26日『琉球新報』内山晴雄「声ー沖縄の聖母像」

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1919年1月1日ー『日本及日本人』747号□末吉麦門冬「再び琉球三味線に就いて」「小ぢよく」「かんから太鼓」(吉田芳輝氏提供)
1919年6月ー末吉麦門冬『沖縄時事新報』創刊に参画
1919年6月『日本及日本人』759号 末吉麦門冬□「経済ーエコノミーを経済と譯するの適否は如らず、會澤正志の新論に「或毛擧細故、唯貨利是談、自称経済之學」云々とあり、政治が今日謂ふ所の経済に重きを置くことが、近世的傾向たるにより、訳者をして此の語を選ばしめ、敢て不適当を感ぜしめざるに至りしやも知るべからず。又支那にも後世に至り経済を倹約の意に用ひしことありや。清朝の詩人舒位の詩に「一屋荘厳妻子佛、六時経済米鹽花」とあり、猶ほ考ふべし。」□南方熊楠□「夜啼松ー佐夜の中山より十町斗りを過て夜啼の松あり、此松をともして見すれば子供の夜啼を止るとて往来の人削り取きり取ける程に、其松遂に枯て今根斗りに成けりと、絲亂記より六十二年前に成た東海道名所記三に見ゆ。其頃早く枯れ居たのだ。」

1919年7月15日ー『日本及日本人』761号□末吉麦門冬「琉球風と王子の歌」
1919年8月15ー『日本及日本人』763号□南方熊楠「ストライキー麦生君は自笑の常世誰が身の上に依って、徳川幕府の中葉既にストライキが多少本邦で行われたと立証されたー」

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1919年8月26日 『沖縄朝日新聞』末吉麦門冬「偉人 毛鳳儀ー王舅池城毛公」」(喜安日記)

1919年9月 『沖縄時事新報』麦門冬「南山俗語考を見て(下)」
▲古賀精里の序文にも南山主人の跋文にもなくして、今一つの重要なる事があって、薩摩をして支那語研究をなさしむる動機となり目的となった。それが又南山俗語考を作らしむる動機ともなり目的ともなった。それは琉球を仲介としての支那貿易をなしている特殊の関係が薩摩にあったことだ。この特殊の関係がある故に彼等は色々の詭計を設けて、例えば藩士に琉装せしめ、琉球人と共に支那に派したりしたこともある従って支那語に堪能ならなければならぬ必要は琉球に劣らざるものがあった。23歳の一青年たる南山主人をして俗語考を著はす考を起さしめたのもこれが重大であらうと思ふ武藤長平氏の説に依ると、流石に大名が金をかけ長い年月を費やして作ったものだけありて、長崎辺から出た支那語の辞書などとは比較にならぬ程、この辞書は正確なものであるとの事だ。薩摩よりも官話ならこっちが本場だと思はれた、琉球人までがこの書を官話研究の唯一の手引としたのも又偶然にあらずと思ふ。

▲これより彼と琉球との関係の片影を一寸紹介して見たい、彼は延享2年の生まれであるから琉球の読谷山王子朝憲とは同庚である。それも一つの原因であったのだらう読谷山王子とは甚だ懇意であったらしい。明和元年11月21日「琉球國読谷山王子を携えて営に上る」と寛政重修諸家譜に出ている。其時に貰ったのか其後かは知らないが、読谷山家に彼の書が遺蔵されている「萬世之寶」と書いて南山主人の落款がついているとのことだが私はまだ拝見せぬ。南聘紀考に依ると安永2年当時太子であった中城王子尚温も、15歳に及びたるにより恒例の如く薩摩に往訪した。その時にも読谷山王子は随行した。文化3年に尚灝王は又読谷山王子を使して江戸に入貢すとあるから、同王子と重豪とは会する機会が多かったことが知られる。

▲武藤長平氏は其の目下琉球紙上に連載されている薩藩の琉球統治の中に「歴代の薩藩主中最も学問的に琉球を利用したのが、島津重豪で之を学問的にも、将た又経済的にも、利用したのが島津斉彬である」と云はれた。それは当っているだらうが、重豪は単に学問的ばかりでなく彼は又経済的にも琉球及び琉球人を利用している事実がある。利用し得たと云ふ程のものでなければ利用せんとしていた事実は明らかである。それは稿を改めて書こう。

1919年9月8日『沖縄時事新報』麦門冬「首里の製紙業ー其の隆替と変遷」

1919年9月14日ー『沖縄時事新報』末吉麦門冬「玻名城政順翁ー沖縄近世の歌人」(~9月22日)

○1990年3月 『新琉球史ー近世編(下)』琉球新報社
池宮正治「和文学の流れ」□さきに、『小門の汐干』に入集している、渡久山政順と渡久山政規の関係について、「親子か兄弟といった近い関係かと思われるが、琉歌集にも心あたりの人はいない。あるいは『沖縄集』の玻名城親方政順かとも考えられるが詳細は不明」と述べておいた。すると早速特異な資料ハンター新城栄徳氏から連絡があり、名護市立博物館に収蔵されている宮城真治氏の新聞切抜きにある、末吉麦門冬(1886~1924)が「沖縄時事新報」(1919~1925)に発表した「玻名城政順翁ー沖縄近世の歌人ー」のコピーを恵まれた。宮城真治切抜き資料については、沖縄県の組踊調査のさい見ているが、組踊関係の資料を収集しただけで、見過ごしてしまったようだ。この麦門冬論文は、私の積年の宿題を一挙に解消してくれるものであった。

1918年11月16日 大里村で「沖縄歴史地理講話会」


○この三山分裂に就いては説をなす者あり、もと方々に部落をなした住民が地勢によりて、山北は山北で一団、中山は中山で一団、南山は南山で一団になりて次第に発達して、その勢力が対敵行為をなすようになったので、嘗て中山に統一されたものが分離したものでないと。地勢によりて住民が割拠の勢いをなしたと云ふことは私も承認する、(略)英祖王の時代、遠く大島までが服従した位だから既にこのときは国内を漸く統一していたことが知れる。それが玉城王の時に中央の勢力が衰微に乗じて瓜分割拠の勢いを呈したのではあるまいか。




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当日の真境名安興/末吉安恭

11月22日『沖縄時事新報』安良城盛雄(上海)「田島先生」(1)


1919年12月8日 『沖縄時事新報』末吉安恭「朝鮮人の観たる琉球」
12月12日『沖縄時事新報』末吉安恭「朝鮮人の観たる琉球」(4)

12月  『沖縄時事新報』広告「神村朝忠薬店(首里儀保町酒ヤ知念小ノ向)ー1、諸売薬特ニ眼病ト梅毒ノ1、名薬/一枚コヨミト畧本暦/1、北斗中正暦ト柱コヨミ/1、東京神誠館発行御寿寶/1、易者一般ノ必要各種」

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□元和年中即ち今を去る三百年前江戸に七十許りになる風来僧がいたこの僧の懺悔物語が定西法師伝と云う一冊の書物になっている。史籍集覧などに載せてあるから大概の人は見た筈だと思うが余り云うた人もいないのを見ると注意されていなかったらろう余が特にこの物語に興味を覚えたのは外でもない。主人公の定西と云う人が嘗て我沖縄に来たと云うことであるこの物語の大半が沖縄に関した珍談奇聞を以て満たされている所である。・・・
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□慶長前の日本人
定西の話には随分誠とし兼ねる事が多いが彼が琉球に来たと云うことだけは疑うに及ばぬ慶長以前に琉球に来た日本人も記録の上に知られた者でも可なりあるが定西の大和かな染君は洩れている。先ず彼の先輩若しくは同時代の人として琉球に於いて名を知られた人々は英祖王の時文永年間(西暦126、45年より1274年頃迄)禅鑑と云う僧が渡来した球陽には・・・
2004年3月、奈良女子大学人間文化研究科「南方熊楠の学際的研究」プロジェクト」『南方熊楠に学ぶ』
大正7年5月27付の南方熊楠宛の末吉安恭書簡に「(略)この根抜けざることは、間々聞き候が、何に因し候や。右の袋中上人には、更に『琉球往来記』と申す書これあるやに承り候が、御存知なきや。若し御存知にて候はば、其の本の所在御示し下され度候。沖縄図書館にて琉球に関する書類を集め中に候が、加州金沢の俳人堀田麦水(天明3年63才没)の著書に『琉球属和録』『南島変』『慶長中外伝』(66巻)とあり。御存知なきや。「属和録」は写本にて(欠本)1部沖縄図書館にあれど他はこれなく候。加州金沢の俳人堀田麦水。屈麦水と称す。樗庵、暮柳舎と号、通称池田屋長佐衛門。」新城■麦水というのは角川『俳文学大辞典』に俳諧師・稗史実録作者とある。

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1909年4月『趣味』落紅「失ひし物得つと云ふよろこびに走りありきぬ園の芝逕/君がためわ手を貸しし春の川一人し渡れ寒き思ひに/われ笑めばともに笑まひてさりげなくよそほひ語る人名を知らず/梅の精すうととづべきけしきかな笛吹き廻る境内の月」
1909年6月『趣味』落紅「ともがらの憎みあざみに鍛へてしむかしながらの負けじ魂/ちちははに云はれぬことを子らはみなその日その日に神に申さく/怪しまずもとよりありし尾のごとく振りてよろこぶけだものの王」
1910年2月『スバル』落紅「南無阿弥陀南無阿弥陀仏あさましき獣の心とりしづめたまへ/半纏の男きたりぬ文をもて新片町にみぞ
れ降る日に/あやまちて湯をこぼしたる時よりも騒がず君を失ひし時」
1910年2月『趣味』落紅「豆ランプあるかなきかのうす明り物ぬふ妻のあるがわびしき/叔父上はおのが」若さに見たまひし女の名をばたたへますかな」
1910年3月『スバル』落紅「失ひし人をまた得しおもひしぬそのひらきたる眉目を見し時/石垣のふくれ出てたる下腹の危き下をつたひゆくかな/古き街欠びをなしぬ午後の四時乞食の嫗低くつぶやく/過ちも許さむといふ恋人阿にふたたびわれは過ちをしぬ」
1910年4月『スバル』落紅「親の親の遠つ親より伝へたるこの血冷すな阿摩彌久の裔」
1910年6月『スバル』落紅「石垣におしろいの花咲く夕べかなしく聞きぬとむらひの鉦/頣に毛ぬきをあててややしばしためらふ子等の答をぞ待つ/爪をもて梯梧の幹のやはらかき肌傷つけぬ歌をかくとて/汝が妻のいと新しき煙草盆まづ眼に入りておもしろきかな」
1910年7月『スバル』落紅「理髪店の鏡のなかに銅の湯気立つ額の映る日盛り/はてしなく君をおもへば大海をわたりし鳥の如くつかれぬ」
1910年8月『スバル』落紅「白蓮のはなびらのごとわが肩に落ちて来りし君が手のひら/ほととぎす藻草の如き夕雲のからみつきたる杉ばやし/南国の青葉の風は水のごと流れてゆきぬ君が肌に」
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1908年1月『文庫』麦門冬「垣越えて鶏逃ぐる木の芽かな/乳呑児の母の昼寝を這ひありく/旅旅籠の女幮吊る無口かな/短夜の酒の香臭き畳かな/奪はれて男にうたす砧かな/許されて山雀しばし庭ありき」
1908年4月『文庫』麦門冬「庭の隅古根の椿咲きにけり/院々の晝静かなり鳥交る/恋知らぬ子猫よ来たれ日向ほこ」
1908年6月『文庫』麦門冬「狛犬の眼鼻に梅の落花かな/病癒まし小姓召さるる梅の花/下張りの屏風乾きぬ小六月/葱畑に先生おはす懐手/甘蔗の干殻白き枯野かな/道草にちぎり馴れにし薄かな」
1908年9月13日□麦門冬「糸瓜忌や叱咤に漏れし人ばかり」
1908年9月『文庫』麦門冬「禅単をすべり出づれば夏の月/蝙蝠や傾城老いて里に住む/炎天や騎馬の法師が頬冠り/お給仕の振袖つづく夏座敷/物の怪の落ちて眠りぬ蚊帳の人/佛へは白き桔梗をまいらせん/南山を見る立膝の主人哉/月の方へ蔭の方へと踊りけり/恋さまざま古文殻の紙魚ぞ知る/かしましき傾城共や嘉定喰/面白うわらひ薬やけさの秋/松風の心動きぬ墓参/平新皇河鹿の歌を詠まれけり/蜻蛉飛んで辻説教の供赤し」
1908年8月『文庫』麦門冬「晒女の邊に泳ぐ家鴨かな/夏痩や柱鏡に向ひ立つ/膳椀の漆輝く暑さかな」
1908年11月『文庫』麦門冬「草紅葉蔵と蔵との間かな/力石夜毎に蚯蚓遶り啼く/芋の子の尻にしかれて鳴く蚯蚓/柳ちりて店鎖しけり姨が酒/花葱に八日の月や夕明り/草花を鉢に培ふ姉妹/立ちながら杯を重ぬる濁酒哉/猿酒を盗みに行くや雲深く」
1908年12月『文庫』麦門冬「まめまめしく硯洗ふや小傾城/魂のぬくもりを出る蒲団かな/頭巾脱いで故郷の山に別れけり/蛤になれず雀の飛びにけり/海に入る勧学院の雀かな/落人の跡かぐ犬や枯野原/傾城に物ねだれし夜長かな/うそつきの唇薄き寒さ哉/梅干を碓つく庭の小春かな」
1909年3月『ホトトギス』麦門冬「粥杖や人の妬みに打たれけり」
1909年2月『文庫』麦門冬「屁を放つて空々如たり冬籠/霜の夜を焼鳥すなる翁かな/寒月に着る火鼠の裘/汲みこぼす水一条や冬の月/寒月に身をすぼめ行く女かな/袋して髯を養ふ冬籠り/船に乗す贄の乙女や枯柳/冬木立祠あらはに石寒し」
1909年4月『文庫』麦門冬「松の内を灯しつづけて石燈籠/女郎衆の艶書合せや松の内/水視我が身の上の今年かな/菜畑水鳥のぼる朝かな」
1909年4月『文庫』麦門冬「粥杖のどつと笑ふや打たれけん/打笑ひて粥杖隠し待つ君よ/交りは手毬を替へてつきにけり」
1909年5月『現今俳家人名辞書』(紫芳社)麦門冬「院々の晝静かなり鳥交る/月の方へ蔭の方へと踊りけり」
1909年5月『文庫』麦門冬「湖近く住みて書楼の柳かな/鳳輦を拝する市の柳かな/木蓮に春の簾を半ば巻く/供養すんで撞き出す鐘や夕桜/さを鹿の八つの角振り落しけり/蛇穴を窈窕として出づる哉/小人も君子も春の日永かな/鶯に崖高うして噴井かな/鶯や天の岩戸に谺して/野遊や火縄に焦げる春の草/泥の香をほのかに嬉し田螺汁/打果てて我が畑廣く眺めけり/三畳に夕日さして梨の花」
1909年5月『趣味』麦門冬「春を惜む柱に屋根の重かつし」
1909年5月『ホトトギス』麦門冬「うららかや低き家並の田舎町」
1909年6月『ホトトギス』麦門冬「磯山を焼き下しけり波白し」
1909年7月『ホトトギス』麦門冬「夏百日梁の袋糧やある」
1909年8月『ホトトギス』麦門冬「翡翠や釣人去りし忘れ笠」
1909年8月『趣味』麦門冬「短夜のすさびにやあらん團扇の絵/傘たたむ雫に闇の蛍かな」
1909年9月『趣味』麦門冬「人訪へば留守とばかりや青簾/青簾湖紅いに旭の出づる/山眼前に聳えて暗し青簾」
1909年9月『文庫』麦門冬「摘み残す煙草畑の小雨かな/裏畑や枯木の枝も掛煙草/蝶々や梅に餘寒の羽づくろひ/南天の葉にさめざめと春の雨/春寒う人元服す神の前/御秘蔵の鶏抱き来る小姓哉/鶏の垂尾美し木の芽垣/山佛焼けてふすぶりおはしけり/山焼くる今朝や匂ひの一しきり/燃尽きて夕になりぬ山寒き」
1909年10月『ホトトギス』麦門冬「庫あけて人のあらざる日永かな/露の野に草刈りおはす王子かな」
1909年10月『文庫』麦門冬「釣床の揺るるに人は寝入りけり/碁敵を迎へて涼し箪/すいと立つ竹一本や露重し/露の野に草刈りたまふ王子かな/木犀に玄関先の月夜かな/風の葦物馴れ顔に行々子/風死して黒き林や三日の月/古雛の首ぐらぐらと動き給ふ/爐塞ぎて疎々しさや老夫婦/家康も組する蛙合戦かな/長閑さや大宮人の長尿/づかづかと小男出でて絵踏かな/狂女とて扶掖して来る絵踏かな/野遊や八重垣の妻見つけたり/城外にぬける泉や草萠ゆる/畑打の木に忘れたる茶瓶かな/山の人駕籠舁き馴れて霞かな/屋根草をしもべに取らす日永哉/摘み行けば摘み来る人や春の草/庫々の白きに柳青みけり/鶯の小さき枝をふみ馴れし/昼寝して彼岸の鐘や夢うつつ」
1909年11月『趣味』麦門冬「秋の蚊の溺れて乾く硯かな」
1909年12月『文庫』麦門冬「衝入の人驚きぬ大鏡/猪の子の眠れる穴や草暗し/鹽猪を苞にして山男かな/小夜更けて人のけはひや菊畑/旅にして扇を置けば淋しやな/帰んな里の妻々砧打つ/長き夜は又古き夜や思ひ事」
1909年12月『趣味』麦門冬「素車白馬粛々として露の中」
1910年2月『ホトトギス』麦門冬「魚蝦に富む家刀自艶に鴨の聲」
1910年4月『ホトトギス』麦門冬「薊喰はぬ馬のかぶりや牧の草」
1910年4月『趣味』麦門冬「春の水子別れ馬の顔洗へ/うつろ木の朽葉だまりや蛙なく」
1910年5月『趣味』麦門冬「椿落ちてまた廣がりし水輪かな」
1910年6月『文庫』麦門冬「親梅に子梅つれ咲く日和かな/朝寒の水にひらめく小鰕かな/鳥尽きて我武淋しき案山子かな」

1912年11月25日『沖縄毎日新聞』麦門冬「落葉ー斧研かん今朝砥水落葉上□澄めり/焚火に足がつき落葉林に捕つたり/鶏の掘る種子物に垣す落葉かな/山寒に焔□ると登山落葉□もなき/落葉火佛に茶湯す勘当の子を思ふ/貧の窃み捨て置けと曰や庭落葉/旅の女性湯参らそ落葉山冷えに/駿馬化石の口牌見ればげに落葉も/錠錆び祠落葉積むに人の詣つると」
1912年12月7日『沖縄毎日新聞』麦門冬「時雨雲水仙の魂も伴ふか/句黙録黙水仙に冬籠る」
1912年12月20日『沖縄毎日新聞』麦門冬「隼の啼けり末枯野の空晴れて/友と二た昔を語る岩姫隈柳未枯野を」

麦門冬「兎にも家してやらん冬近し/寒いぞや兎は籠に飢ふるぞや/筆持ちて物書く吾も海鼠ならん/一本の木橋渡らば枯野かな/天井に話の響く夜寒かな/冬構まづ障子より白うせり/冬も吊る蚊帳の煤けて哀れなり/掛取の来べき宵なり鎖ささん/貧厨の只打ち煙る年のくれ/角めだる妻を憎むや年の暮/親になき春省羨む年の暮/貧すれば悪の華咲く年の暮」
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私は1984年12月発行の『琉文手帖』「文人・末吉麦門冬」で1921年以降の『ホトトギス』の俳句も末吉作として収録した。これは別人で熊本の土生麦門冬の作品である。土生麦門冬には『麦門冬句集』(1940年9月)がある。

1940年9月 川畑恒二・編『麦門冬句集』昭和印刷所(東京牛込区)



1937年11月 東京星ヶ岡茶寮ー右より藤木行人、古河風可①、茂野冬篝、土生麦門冬、菅裸馬②、斎藤適萃、乾固堂

①古河 虎之助(ふるかわ とらのすけ、明治20年(1887年)1月1日 - 昭和15年(1940年)3月30日)は、日本の実業家。古河財閥創業者古河市兵衛の実子で、3代目当主。爵位は男爵。位階勲等は正四位勲三等瑞宝章。紺綬褒章受章。号は風可。古河財閥を多角化させ、総合財閥に発展させた。→ウィキペディア

②菅礼之助 すが-れいのすけ
1883-1971 大正-昭和時代の実業家。
明治16年11月25日生まれ。菅礼治の長男。古河合名理事をへて,昭和14年帝国鉱業開発社長となる。21年石炭庁長官,29年東京電力会長。俳誌「同人」を主宰。昭和46年2月18日死去。87歳。秋田県出身。東京高商(現一橋大)卒。俳号は裸馬(らば)。著作に「裸馬翁五千句集」など。→コトバンク
【格言など】ガヤガヤした生活ばかりだったから,せめて死ぬときはひとりで静かに死なせてくれ(米寿のときのことば)

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3月21日『沖縄タイムス』末吉麦門冬「池宮城寂泡君の郷土文学叢書発行の序に代へて」
○池宮城君!君の郷土文学叢書発行の企ては誰も考えていて実行の機会を得なかったもので、至極賛成です。文学普及の為め其の効果頗る大なるものがあろうと思います。どうぞ根気よく続けて下さい。さてこれに序を書いて呉れとの御頼みですが、何を書いてよいものでしようか。此間御話したようなものを書きましょうか。私達の要求する所の郷土文学は一体どうあらねばならぬかと云うことは、私も考えないではありませんでした。一口に云うとそれは私達この郷土に生まれたのでなければ感じ得ない、把握し得ない、創造し得ない、表現し得ない内容でなければならぬと思います。本当の沖縄と本当の沖縄人が出て来なくてはなりません。而してこれを得るには、殊更に私達が郷土の色を深めよう濃くしようなどと意識的に努力しては駄目です。そうすると却って他国若しくは他県の者が、私達及び私達の環境を描いたものにあるような、●種の誇張され、歪曲されたものと似通ったものになります。それには私達の持とうと望んでいる或物が如実にあらわれません。似ても似つかぬものとなってしまう恐れがあります。殊更に他人に見せるようなものであってはならぬ、吹聴や宣伝では否ません、見せびらかしではない。・・・


3月23日『沖縄タイムス』伊波普猷「池宮城寂泡君の郷土文藝叢書発行に序す」
4月23日『沖縄タイムス』神田精輝「ペルリ提督 琉球訪問記 出版に就いて(上)」
4月24日『沖縄タイムス』神田精輝「ペルリ提督 琉球訪問記 出版に就いて(下)」
5月24日『沖縄タイムス』「琉球音楽界の長老 大田徳裕翁永眠 享年66歳」

6月 那覇の新天地でニコニコ大会メトロ社映画/バスターキートン主演「案山子・文化生活一週間」上映
○バスター・キートンは、アメリカの喜劇俳優、映画監督、脚本家。本名はジョセフ・フランク・キートン。チャーリー・チャップリンやハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。 ウィキペディア

◎1924年6月23日『沖縄朝日新聞』「歴史に現れた佛國と沖縄の交渉ー今を距る八十年前初めて佛船来たり泰平の夢を破る」

7月5日 佛艦アルゴール那覇港内桟橋に横着


1924年6月29日『沖縄朝日新聞』島袋源一郎「佛國宣教師渡琉史(1)」
1924年7月10日『沖縄朝日新聞』島袋源一郎「佛國宣教師渡琉史(10)」
◎1844年3月11日ー仏船アルクメーヌ号、那覇に寄港し、和親・交易等を要求、3月19日同船宣教師フォルカード①・清国人通事オーギュスタン=コウを残して那覇を離れる。  ①フォルカード Forcade, Théodore Augustin 1816-1885 フランスの宣教師。
1816年3月2日生まれ。パリ外国宣教会から派遣されて1844年(尚育王10)琉球の那覇に来航。布教には成功しなかったが,琉球語をまなび,「琉仏辞典」を執筆。日本代牧に任命され長崎にむかったが,鎖国のため上陸できず香港をへて帰国した。1885年9月12日死去。69歳。ベルサイユ出身。→コトバンク


1924年7月8日『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅(1)ー仏蘭西と琉球ー唯一の外交史料」
  1924年7月25日『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅(11)ー仏蘭西と琉球ー唯一の外交史料ー・・人類 もと一組より出て昔 遡れば皆同胞兄弟であるから、四海皆兄弟は人類の理想である。同胞兄弟おのおの父の家から分かれて 相拒み相絶つことを得ない。天下の兄弟も亦た然り 各々其の住むべき土地を分有しても、天下の大道は通行自由でなければならぬ・・・」



8月2日『沖縄タイムス』伊是名朝義「衆論・琉球人が答ふ 神村弔魚氏へ 」
8月6日『沖縄タイムス』伊是名朝義「衆論・正体を見よー排日法案」


8月12日『沖縄タイムス』「昨日女学校で伊東忠太博士の講演ー本県の建築に就て」


8月18日『沖縄タイムス』「伊東忠太博士の悦びー熱心な視察振に尚順男爵も感心」


8月19日『沖縄タイムス』「一昨夜、風月で昇曙夢 歓迎会」


8月26日『沖縄タイムス』「黒板勝美博士談ー首里城及び其の付近一帯を國寶として保存」

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年譜・末吉麦門冬/1915(大正4)年
1月3日『琉球新報』眞境名笑古「陳侃の観たる沖縄」
1月5日『琉球新報』俳諧小僧(末吉安恭)「兎の俳句ー卯歳の新年に因みて古今の兎の句を紹介してみます。兎と云ふ動物は家畜としても面白い」ものだがまだ野生を脱しない奴で其の特色は寧ろ野生の馴致し難い所にある。・・・・・」
1月7日『琉球新報』「尚昌氏、英国留学中昨日加茂丸で神戸着帰朝」/「来県中の中央気象台長理学博士の中村静男氏を池畑旅館に訪ねる」


『琉球新報』1915年1月11日

2月7日『琉球新報』伊波普猷「沖縄人と神道」
2月9日『琉球新報』「尚昌、尚順、神山政良 広運丸で帰郷」
2月10日『琉球新報』神山政良「滞英雑感」
2月16日『琉球新報』「蘇鉄の實と売薬商」
2月27日『琉球新報』麦門冬「琉球饑饉史」(2)/「円覚寺の建築に就きて」
3月13日『琉球新報』「拳法大家 糸洲安恒翁逝く」
3月5日『琉球新報』「神山政良氏の結婚」
3月15日『琉球新報』「糸洲武勇伝ー昭霊流の名人」(1)

3月15日『琉球新報』「糸洲武勇伝ー昭霊流の名人」(1)
3月16日『琉球新報』「糸洲武勇伝ー昭霊流の名人」(2)
3月17日『琉球新報』「糸洲武勇伝ー昭霊流の名人」(3)
3月18日『琉球新報』「糸洲武勇伝ー昭霊流の名人」(4)
4月20日『琉球新報』鉄拳禅「武道伝来記(1)ー鯖に呑れた豊見親」
4月21日『琉球新報』鉄拳禅「武道伝来記(2)ー文格碗保宇盃」
4月22日『琉球新報』「武道伝来記(3)ー巨人与那覇親雲上」
4月23日『琉球新報』鉄拳禅「武道伝来記(4)ー目黒盛英雄物語」
4月24日『琉球新報』「武道伝来記(5)ー祖納堂の与那国征伐」
4月25日『琉球新報』「武道伝来記(6)ー内間大親賊を救ふ」
4月26日『琉球新報』「武道伝来記(7)ー攀安知と本部大原」
4月28日『琉球新報』「武道伝来記(8)ー御茶多理眞五郎」
4月30日『琉球新報』「武道伝来記(9)ー凶暴残忍なる熱田の子」
5月3日『琉球新報』「武道伝来記(10)ー安田恨の古葉の葉」
5月4日『琉球新報』「武道伝来記(11)ー鄭大夫と牛魔王」
5月5日『琉球新報』「武道伝来記(12)ー鄭夫人 大石 賊を圧す」
5月6日『琉球新報』「武道伝来記(13)樽良智と大里鬼」
5月10日『琉球新報』「武道伝来記(14)大島征伐と根差部親方」
5月11日『琉球新報』「財団法人久米崇聖会にては孔子廟及び明倫堂敷地全部を無償にて譲り受けんと那覇区に請願」
5月12日  『琉球新報』「孔子廟敷地譲與条件」「𤘩宮城宗倫母病気加療中死去ー親戚・上運天宗丑、我那覇宗達、小橋川昭顕、友人・久高喜顕、又吉昌徳、城間恒淳、饒平名紀腆」
5月14日『琉球新報』「武道伝来記(15)奥間里之子と宇波慶」
5月15日『琉球新報』「武道伝来記(16)京阿波根と地金丸」
5月16日『琉球新報』「武道伝来記(17)八重山征伐 赤蜂の乱」
5月18日『琉球新報』「武道伝来記(18)儀保大腔と糸満巨人」
5月19日『琉球新報』「武道伝来記(19)右京筑之親雲上」
5月20日『琉球新報』「武道伝来記(20)飛鳥曾禮と射を争ふ」
5月22日『琉球新報』「武道伝来記(21)嘉沙須茶羅按司」
5月24日『琉球新報』「武道伝来記(22)久米中城按司と堂の比屋」
5月25日『琉球新報』「武道伝来記(24)三十四嶽の由来」
5月26日『琉球新報』「武道伝来記(25)八重山征伐と君南風」
5月28日『琉球新報』「武道伝来記(26)三人姉妹物語」

6月22日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(1)
6月23日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(2)
6月24「日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(3)
6月29日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(4)
6月30日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(5)

7月1日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(6)/「芋お料理」「広告ー貸本・古本 天地堂、知念菓子店」「ライオン歯磨」「活動写真帝国館ー世界一週」「球陽座ー歌劇・黒島昔譚」

7月2日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(7)7月2日/「本県人の読書力」

7月3「日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(8)7月3日/「広告ー氷冷ソーメン 森屋本店、不勉強屋」「広告ービスケット おふくや、やぶれ屋」

7月4日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(9)/「薩南大洪水ー鹿児島市の羅災者2000人」「広告ー博文館『講談雑誌』出来」

7月5日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(10)
7月6日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(11)/「昨日、奥武山公園で目白の鳴合会」」
7月8日   『琉球新報』武藤文学士「琉球と支那文化」~ □→『沖縄教育』7月号 武藤長平「斉彬公考」
        この前後に琉球新報は中座俳優を攻撃     

7月9日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(13)
7月10「日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(14)
7月12日『琉球新報』「朝鮮史に見えたる古琉球」(15完)
7月13日  『琉球新報』「球陽座ー歌劇・二和加」「小嶺幸恒 病気のところ昨日死去ー男・小嶺幸栄、男・小嶺幸秀、男・岸本幸厚、兄・小嶺幸得、甥・渡久地政瑚」
7月16日  『琉球新報』「活動写真の進歩」
7月17日  『琉球新報』「広告ー仁丹」
7月18日  那覇潟原で「第一回沖縄模型飛行機競技大会」が挙行され中々の盛会であった。
7月21日  『琉球新報』富永徳麿「タゴール評論①」~
7月22日  『琉球新報』茅原崋山「新世紀の始め」~
7月25日  那覇丸で京大教授・文学博士の小西重直(元・第七高等学校長)、沖縄教育会夏季講習会講師のため来沖(26日ー尚家訪問/8月4日ー琉球新報社第9回通俗講演会で講演) □→『沖縄教育』9月号「本会記事ー8月1日より7日迄一週間京都帝国大学文科大学教授文学博士小西重直氏を聘し教育科講習会を開催せり講習員無慮六百名閉会式後紀念撮影をなせり」 親泊朝擢「編集員を辞すとて」
7月26日  『琉球新報』「安良城盛一/千葉で療養中死去ー弟・盛英/盛雄」「シュワルツ牧師ー第二の故郷(沖縄)」「蔡温の雷霆説」
7月28日  『琉球新報』「島の伝説ー水納島/鷹の塚」
7月29日  『琉球新報』「島の伝説ー竹富島/兄妹の船」「読者倶楽部ー那覇警察署長警視和田竹四郎足下に一言・・・」
7月30日  『琉球新報』内海理事官「ラサ島視察談」
8月1日   『琉球新報』「沖縄電気株式会社取締役社長・才賀藤吉 病気のところ昨夜死去」
8月3日   『琉球新報』「尚順男爵の名誉ー11月の御大典参列総代に選定」「島の伝説ー粟国島/僧の化石」
8月4日   『琉球新報』「島の伝説ー屋我地島/夫振り岩」
8月6日   『琉球新報』「島の伝説ー宮古島/船立山」
8月8日   『琉球新報』「島の伝説ー久高島/お屁物語」
8月10日  『琉球新報』「新井白石と琉球」
8月11日  尚昌、尚景、尚旦、尚暢、廣運丸で帰省 □→『沖縄教育』7月号 素位生「侯爵令嗣尚昌君訪問記」
8月12日  『琉球新報』「今帰仁朝敷男爵薨去・・」「従三位男爵今帰仁朝敷儀永永病気の処昨日薨去」 
8月13日  『琉球新報』下地玄信「南清踏破記①」~壷川逸史「読琉球見聞録並小引」
8月14日  『琉球新報』「今帰仁朝敷 葬儀御礼ー孫・今帰仁朝英/男・今帰仁朝珍、男・今帰仁朝亮、在京孫・今帰仁朝規、孫・今帰仁朝常、孫・今帰仁朝明 親戚総代/男爵・尚順、男爵・伊江朝眞、男爵・尚琳、護得久朝惟」
8月15日  『琉球新報』「蔡温の処世訓ー客間録より抄録」
8月20日  『琉球新報』「小鳥屋が出来た」 桃川燕林改め坂本冨岳「講談ー宇都宮釣天井 第壹席」~
8月21日  『琉球新報』杜来児「芸者の内幕(1)」~順風耳「分析と総合」
8月23日  尚昌帰京
8月24日  『琉球新報』ロ坊(末吉麦門冬)「是でも歌?」「物を考える機械」
8月25日  『琉球新報』登茂美「桜ビヤホールで」 黒旋風「東洋文明と西洋文明」
8月26日  『琉球新報』ロ坊(末吉麦門冬)「是でも歌?」「球陽座ー歌劇・黒島昔物語」
8月27日  『琉球新報』ハ坊(末吉麦門冬)「是でも歌?」 笑古「夏日偶成」 樽金尊者「丹青協会の展覧会を見て」
8月28日  『琉球新報』「活動写真帝国館ー宇都宮釣天井」
8月30日  『琉球新報』「鳥堀の綱曳」「中城村當間の2年ぶりの大綱曳の椿事」「一昨日から森楽器店の琉歌吹込みを聞く」
8月31日  『琉球新報』「那覇尋常小学校上空に太陽三個現るー測候所の筒井技手談」
9月3日   『琉球新報』「琉歌レコード仕上」 ロ坊(末吉麦門冬)「是でも歌?」
9月10日  『琉球新報』「』「島の伝説ー久米島/王女の恋」
9月11日  『琉球新報』「電話の話(1)」~
9月15日 『琉球新報』麦門冬「薫風を浴びて(27)山城君は海の男で二三里も泳いでいったけれども、吾輩は泳ぎが出来ぬから砂の上にかじりついてばかりいた。泳ぎの出来ぬ奴が海に入るのは極めて滑稽だ、両手で砂の上にあぐらを掻き、足でじゃぶじゃぶ波を蹴るのである。土仏の水遊び気の利かぬこと夥しい。」~
9月16日  『琉球新報』「本県人女優となるー芸術座の第一回生徒・南風原鶴子(23)」
9月19日 『琉球新報』莫夢山人「早涼可人」
10月8日 『琉球新報』「今般沖縄朝日新聞社創設ー當眞嗣合、仲吉良光、小橋川朝明、末吉安恭、嘉手川重利、野村安茂」
10月9日 『琉球新報』「那覇の興行界」「球陽座ー北谷眞牛」
10月20日『琉球新報』「秋閏ー酔明、泉南、松涛、笑古、莫夢」
10月21日 『琉球新報』莫夢山人「秋風夕」
10月23日『琉球新報』「那覇区の紋章改正ー明治42年以来用い来りたるー蘇鉄葉にて縄を巻きその中に区の字を現し縄区にて那覇区を象徴したー複雑なる紋章」』「重陽ー酔明、泉南、松涛、笑古、莫夢」
11月7日  『琉球新報』宮城鉄夫「琉球に於ける有用植物(1)」~
11月10日 『琉球新報』「日本地図を背景に『万歳』の文字ー我が読者を代表し、寶祚の萬歳を奉祝する」/大正天皇、京都御所紫宸殿で即位礼を挙行
11月14日 『琉球新報』「大嘗祭」「野間五造ー祝電」
11月20日 『琉球新報』「琉球音楽奨励会ー大聲蓄音器と琉歌音譜大割引」「東町さくらやーさくらぱん、サトーパン、ジャムパン、ロースパン、バンズパン、カタパン、食パン」

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1925年11月15日『沖縄タイムス』


1924年12月11日『沖縄タイムス』「麦門冬末吉安恭逝去一昨日同家墓地ニ於テ葬儀相営候此段辱知諸君ニ謹告候也 追而来る14日(日曜日)午後時眞教寺ニ於テ追悼会相催候條御臨席)相成度候 会費金30銭当日御持参のこと/伊波普猷、山城正忠、漢那憲康、眞栄城守行、小橋川朝明、岸本幸厚、上間正雄」

1924年12月15日『沖縄朝日新聞』「麦門冬・末吉安恭氏の追悼会は既報の如く昨14日午後2時より眞教寺佛堂に於いて執行されたが故人の知己友人等相会する者両市各方面の階級を網羅して百数十名に上り、主催者代表として岸本タイムス社長挨拶を述べ次いで田原法馨師以下役僧の讀経があり故人と近かった仲吉朝助、川平朝令の両氏は交々悲痛なる弔辞を述べ終わって参会者一同順次に焼香を済まし同4時散会した。清く咲き誇れる梅花を■に淋しくも法灯に護られたる『莫夢釈安居』の法名の白木の位牌は故人の在りし日の面影を偲ばせ人々の悲しみを新たならしめた。」


12月14日 『沖縄タイムス』「末吉安恭君を悼む(1)ー伊波普猷、仲吉朝助、田原煙波」
○伊波普猷ー末吉君は実際死んだのか。今にも何処からか帰って来るやうな気がしてならない。あれだけの知識が一朝にして消失したのは耐へられない。ことにそれが彼の頭の中で温醸して何物かを創造しょうとしていたかと思ふとなほさら耐へられない。末吉君は私が蒐集した琉球史料を最もよく利用した人の一人だった。15年間私の隠れ家であった郷土史料室を見棄てるに当って、私は君と笑古兄に期待する所が多かったが、突然君に死なれて、少からず失望している。君の蔵書と遺稿とは県立図書館に保管して貰ふことになっているが、後者を整理して他日出版するといふことは彼の友人たちの為さなければならぬ義務であると思っている。


1924年12月15日ー『沖縄タイムス』「末吉安恭君を悼む」(2)
□伊波月城「麦門冬君を弔ふ」
おお死ー死の旅路よ
理知の為めに瞬間の静けく
我を愛し失はしむる死の接触よ。
自ら、うつろになれ 體を
解き焚かれ粉にされ又 葬らる。
されどわが眞の體は
疑いもなく他界に行く為我と共に残る。
うつろになれるなきがら。
用なきなきがらは大 のとご いの用 他の必要
の為に、聖化の為に大地に帰り行く
             ホイットマン

12月11日長途の旅から帰って旅装を解く間も待たずして耳にした事は先ず麦門冬末吉君の死であった。その日僕は自働車上 ロイス博士の宗教哲学をひもときつつ人生問題を考えつつ沖縄の更生期の曙に際して自分達は如何して生きて行く可きかを切実に考究せざるを得なかったのに麦門冬君の訃音は実に大能の神が僕の為 述べられ給うた無言の説教としか思われなかったのだ。ああ君は死んだ。然し死は第二の出産である。いで僕も亦君と共に新たな更生しよう。

麦門冬君が東京にいた頃、僕も又東京にいた。その時代飯田町のユニバーサリスト教会では自由神学の増野悦興師が土曜講演を開いて天下の思想家をここに招待して多くの新しい青年を此処ににひきつけていたのであるが此の会合に於いて僕は何時も麦門冬君の顔を見出さざるを得なかった。しかしお互いに口をきいた事はなかった。明治35年の頃君は故桃原君と共に小石川竹町の下宿に居住していて、僕も亦彼等と同じ下宿に住むようになった。其の時君は杉浦重剛先生の日本中学校に籍を置き、何処かの英語の塾にも通っていたが、学校には熱心の方ではなく、何時もすきな本を読んでいたようではあった。話をしたこともなければ勿論君の室に出入りした事もなかったので何ういう本を読んでいたかわからないが、新しい智識を求めていた事は確かであった。

君と接近したのは僕が沖縄毎日新聞の論壇を根拠とした時、互いに共鳴し合うようになってからの事であった。其の後彼は僕と共に沖縄毎日新聞の一記者として活動した事もあった。君は郷土研究に指を染めるようになったのは、時代の要求の然らしむ所であって、語を換えて言へば、彼がジアナリストとして出産した時代は、所謂琉球文化のルネサンス時代 其の朝夕友とする所の者は、凡て新時代の使徒等であったことに起因すると僕は思惟するのだ。

麦門冬君は人格の人であった。あらゆる方面に於いてあっさりしている。殊に性欲の問題などに関しては少しも悩みなどというものを知らないようであった。この点に関して彼は解脱していた。未だ春秋に富める身を持ちつつ突然として他界の人となった事は惜しむ可きである。然し彼の死が永遠に終わりであるとは僕には信じられない。  



12月18日『沖縄タイムス』「末吉安恭君を悼む(5)ー上間草秋、眞境名笑古」


12月20日『沖縄タイムス』「末吉安恭君を悼む(7)ー東恩納寛敷、長浜瓊州」
12月26日『沖縄タイムス』東恩納寛惇「野人麦門冬の印象」
△麦門冬失踪の郷信に接したのは、二三日前の事であったが、信ずることを得なかった。今日到来の新聞でその訃音の広告を見て信ぜざるを得なくなった。
△「真加比河原下りて」の詩に卓宕不羈の鬼才を知られた薄幸詩人狂末吉は、麦門冬と兄弟か叔姪か。彼れが洋灯の火を浴びて神田の下宿に悶死した遺骸を、三四の郷友と守ったのは、霜白き秋、廿一二年の昔の事であったらうか。△その天才と、その数奇の運命と、両末吉何ぞよく相似たる。
△麦門冬に「真加比河原」の悪謔のなかっただけ彼れは小末吉に比し、泰々として大人の風があった。
△文筆を通じて自分が麦門冬と知己たる事は可なり古い。然し彼れと面晤したのは、太甚新しい、彼れの三十九年の生涯中、自分が彼れを見た時間は、三時間にも足りない。
△数年前の夏、自分が帰省した時に、物外、笑古、麦門冬を頭に描いて波止場に下りた。その翌日若狭町の大通りにタイムス社の横看板を斜に見ながら、麦門冬を想像した。その翌日笑古の上泉の僑居に叩いて、使を馳せて彼れを迎へたが居なかった。
△その又翌日彼れが、「フツクルビツチン」してノコノコやって来た。面と見た麦門冬は自分の想像を裏切った。自分の想像では彼れは頭髪をクシャクシャにした色の蒼白い優さ男であったが、実際会って見ると、在郷軍人のやうな男であった。山城正忠を一廻り大きくしてイブシをかけたやうな男であった。
△正忠と麦門冬とは類型の人物である。その磊々たる風姿に長安の酒徒を偲ばしめる点に於て似ている。あの大きな図体から柄にもない処女のやうな音色を絞り出す点に於て似ている。併し頭脳の緻密な点に於て、麦門冬は正忠の兄である。
△麦門冬と正忠とは之れを蔬菜に譬へて見ると、当に「アスパラガス」である。大味の中に微妙な苦味がある。王侯の盛膳でも手掴で食へる。△麦門冬に対する自分の印象は、向日葵を聯想させる。黙々として垣根の裏に力強く咲いている花、輪郭の大きいボツとした花、満洲や蒙古の荒原にでも咲きさうな花。併しながら彼れは遂に床の間の飾りとはならなかったのである。
△麦門冬の経歴も自分は知らない。彼れが史筆で名を出して来て以来、自分の彼れに対する感じはどうしても新しく出て来た人のやうには思へなかった。幕の陰に初めからいた人のように感じた。声こそ立てね、彼れは品物を持って最初から店を出していたのである。△文筆を通じて見た麦門冬は微塵も穉気がなかった。
△「日本人」のカットに小出しに随筆を出していた者に、南紀の奇人南方翁と麦門冬とがあった。麦門冬は果たして彼れと同一人か。△彼れは沖縄のやうな不便な処にいて、珍しい程、物を読んでいた。読んだものを並べて行く点に於て、彼れは球陽の小南方であった。
△彼れの史筆は述べるのであって、論ずるのではなかった。彼れの史筆に結論がない如く彼れの人物にも結論がなかった。よく云へば彼れは初めから蔗境に入っていた。彼れは勿論唐栄の子孫ではない。併し彼れの風格は明初の人物を偲ばしめる。「莫夢山人」の彼れの筆跡も亦さうである。
△彼れの生涯は障子の陰を通った大人のやうな気がする。素通りであったが影は大きかった。開けて見るともういない。△彼れは既成でもなければ、未成でもない。恐らく彼れに取って問題ではなかったらう。
△三時間の会見を通じて自分に映った彼れの印象は、光角の浅い鏡台にうつった影像のやうなものである。最初も最後も共に不明で、その真中だけが可なり濃く映じている。△彼れの最初はいかん。彼れの最後はいかん。共に知らない。又知らうとも思はぬ。彼れはそのまま一個の芸術品であった。△銀行潰れ、群小政治家美田を失って迷乱せる時、高踏彼れを喪ふ。噫。


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2月 関西沖縄県人会結成
2月 比嘉静観、ハワイで『赤い戀』(實業之世界社)発行
2月 伊佐早謙(米沢図書館長)、上杉茂憲の事跡調査のため来沖 


2月27日 『沖縄タイムス』莫夢生「サボテンー本県の姓名について」(エンゲルス「家族私有財産及国家の起源」)
2月29日 『沖縄タイムス』鎌倉芳太郎「八重山藝術の世界的価値ー近代藝術に於る新しき指針」
3月 沖縄県人同胞会(関西沖縄県人会)機関誌『同胞』(ガリ版)創刊

3月ー鎌倉芳太郎、伊東忠太との共同名義での琉球芸術調査が啓明会の補助を受ける。
1924-3
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原稿ー麦門冬が題字を揮毫したもの


4月 琉球歌人連盟発足(会長・山城正忠)
5月ー鎌倉芳太郎(東京美術学校助手)、沖縄出張し首里市役所内に「美術研究室」(写真暗室)を設ける。

5月 『科学画報』宮里良保「飛行機ものがたり」
6月23日 岸本賀昌、神村吉郎、宜保成晴、和歌山紡績会社で沖縄女工に対し講演
7月 田島利三郎『琉球文学研究』(伊波普猷・編)青山書店
7月1日 アメリカで日本人移民らを全面的に締め出す「排日移民法」実地
7月3日 『沖縄タイムス』莫夢生「地蔵漫筆ー水に住む蛙」
7月5日 フランス艦アルゴール号、那覇入港
7月8日 『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅ー仏蘭西と琉球」
7月  山城正択、(財)生活改善同盟会から「時の功労者」の表彰状

7月25日ー伊東忠太、東京出発。7月29日ー開聞岳は古来海上交通の目標として薩摩半島の南端にそびえ、三角錐の美しい山容から「薩摩富士」の名を持ち、錦江湾の入口にあたる海門にあることから海門岳とも呼ばれ、舟人たちに大きな安堵感を与えていた。7月30日ー大島。8月1日ー那覇・首里「守礼門」「園比屋武御嶽石門」「歓會門」「「久慶門」「瑞泉門」「漏刻門」「百浦添御本殿」。8月2日ー「波上宮」「聖廟(浦添朝顕邸内)」「辧嶽」。8月10日ーデング①ーがやっと治ったばかりの身体で首里に赴き円覚寺、尚順邸、小禄御殿の石垣を見る。8月11日ー高等女学校で伊東忠太 講演「本県の建築に就いて」。8月14日ー暴風雨の中、鎌倉芳太郎と識名園、識名神宮を見る。中城城は中途で止める。
7月28日 関西沖縄県人会、那覇市公会堂で演説会
8月22日 第四回ふたば会絵画展覧会(那覇尋常高等小学校)
8月25日 黒板勝美、基隆丸で帰京


1924年8月26日ー第13回丹青協会絵画展覧会

1924年9月1日ー『日本及日本人』55号□末吉麦門冬「似せ涙」(南方熊楠と関連)
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莫夢生「組踊談叢」「組踊小言」ー沖縄タイムス紙上では「組踊小言」は11月3日から21日まで13回連載された。末吉は25日には水死している。おそらくまた題を変え組踊談を述べるつもりであっただろう。
〇1924年11月4日の「組踊談叢」に麦門冬は「今は故人となった書家の仲田朝棟」とあるが、これは朝株である。1907年4月の『琉球新報』に本県書家の1人として仲田朝株とある。1912年2月の新聞の死亡広告に友人として伊江朝助の名もある。朝助は戦後の1953年7月大阪『球陽新報』に七流老人名で「狂歌のやりとりー男色で有名な仲田朝株・・・」を書いている。
○1929年10月に東京の春陽堂から発行された『校註琉球戯曲集』には末吉安恭(莫夢生)の「組踊談叢」「組踊小言」が収録されていることは夙に知られている。この組踊談の初出は1924年の11月3日『沖縄タイムス』からである。




12月 『琉球と鹿児島』莫夢「薩摩関係の琉球五異人」

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1923年1月1日ー『日本及日本人』852号□末吉麦門冬「月徘徊」
3月 島倉龍治ら内務省より沖縄神社創立許可を得る
3月 嘉数南星『赤光』地響詩社(ホノルル市)
春  本部朝基、関西大学、警察などで空手を指導 
5月 高嶺朝光、沖縄朝日新聞社に記者として入社
6月 眞境名安興、島倉龍治『沖縄一千年史』日本大学
1923年6月15日ー『日本及日本人』864号□末吉麦門冬「黒坊ー近松門左衛門作、天鼓にー」「助兵衛(1)」(南方熊楠と関連)
1923年7月1日ー『日本及日本人』865号□末吉麦門冬「色情狂の所為」「遠目鏡(1)」(南方熊楠と関連)

1923年7月15日ー『日本及日本人』866号□末吉麦門冬「遠目鏡」「支那人と豚」(南方熊楠と関連)

7月 折口信夫、第二回沖縄採訪(~8月28日)
□沖縄採訪記ー末吉安恭「ふうる」「豚の化けた話」「赤身と白身との話」「かわかまぢぃ?」「火玉」「幽霊」「城人」「馬交を見せた話ー馬をつるませて、女たちに見せた話は、尚灝王にもある。」(●安恭の話は1918年5月の熊楠宛書簡でもふれている。)「うすぢ」「ならびち・くくんざけ」「蚤の船」「三比等のとんち」「<人の犯す事ある動物>儒艮を犯すれふしが時々ある。濱などにしんでいるのをさうするのである。又えいを犯す者も漁夫には多い。豚を犯して、豚が孕んで生んだ子を、人に悟られぬ様に埋めて了うたといふ話も聞く。」

1923年8月1日ー『日本及日本人』867号□末吉麦門冬「助兵衛(2)」(南方熊楠と関連)


8月11日『沖縄タイムス』莫夢生「老榕の鬚ー俳諧に現はれたあらぬ戀」

9月1日 関東大震災
    下地玄信、高安重正、普久原朝喜ら来阪



10月1日『沖縄タイムス』莫夢生「安楽椅子ー」
10月 又吉康和、『沖縄教育』編集専任幹事
10月 山城善三、大阪市堀江小学校教員
10月 岩元禧、沖縄県知事(1933年、鹿児島市長)
10月27日 柳田国男、ジュネーブのエスペラントの会で沖縄の話をする



11月15日『沖縄タイムス』莫夢生「おもろに現はれた中頭の四人衆(10)」

12月27日 摂政裕仁、難波大助に狙撃される
12月31日 下國良之助、来沖


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2014年月11月2日『新報小中学生新聞ーりゅうPON!』島袋百恵 絵「のろし台」

島袋和幸「烽火地図」/「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
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1940年12月6日『琉球新報』□共同声明ー光輝ある紀元二千六百年を迎へ大政翼賛運動の力強き発足に當り県下朝刊三新聞社は新体制に即応して来る12月15日より新たに沖縄新報を創刊し三新聞社は欣然その傘下に合同することになりました。新しい沖縄新報は組織ある統制と清新なる計画性を以って県民に対し豊富」なる報道と適切なる指導を以って、高度国防国家の建設へ微力を尽くし、併せて県勢の振興と文化の発展に貢献しやうとするものであります。県民各位もまた本県文化史上この画期的、新新聞の誕生を歓迎しこの快挙を絶対に支持して下さるものと信じて疑ひません 右声明致します 12月6日
                                   琉球新報社 沖縄朝日新聞社  沖縄日報社

1940年12月14日『琉球新報』本山裕児「美しき争ひー映画の魅力 上」15日 下
1940年12月16日『琉球新報』「母カメ 83歳で昨日死去 男 金城松 金城山吉(在南米) 孫 金城安太郎」



1945年4月
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1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。 参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店
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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。

1945年9月ー外間政彰、ウルマ新報記者


石川時代の琉球新報本社社屋、2階が編集、階下が業務。右の平屋が工務。

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1946年ー前列中央・瀬長亀次郎社長、右が池宮城秀意編集長、2列中央・外間政彰

1948年7月ーうるま新報社、那覇市三区に新築移転

1950年  仲地米子、うるま新報記者
1951年3月 外間政彰、琉球契約学生として上智大学入学→4月 外間政彰、早稲田大学新聞学科転入
         この年、『琉球学生新聞』、日月社『祖国なき沖縄』に関わる
 
 

中央ー又吉康和
1951年9月8日 対日平和条約・日米安全保障条約調印→1952.4.28発効
『うるま新報』は講和会議の締結を機に9月10日『琉球新報』と改題した。


□1951年6月26日『うるま新報』國吉眞哲「声・新聞名改題について」
□琉球日報社は6月23日付の同紙紙上に社移転の社告を掲載しその中に「琉球日報」を「琉球新報」に改めて新発足すると述べ6月25日付のうるま新報、沖縄タイムス、沖縄新聞に掲載し同様「琉球新報」として新しく発足する旨述べている。琉球日報が何故「琉球新報」に改題するかの理由については何も述べていないのでその企図は不明である。
(略)
又吉康和、平尾喜一の両氏を始め当時の社員が20数名健在で新聞または他の職場に活動しているが何れも元「琉球新報社員」ということが経歴の重要部をなしまた社会信用の中心にもなっている。又吉康和先生その他旧社員に関係のない琉球日報が「琉球新報」を称することは快いものではない。新聞人の信頼に訴えて琉球日報社長及び同人に再考をお願いしたいと思う。(那覇市三原三区)
来る5月15日は「密約復帰の日」である。那覇市歴史博物館は4月21日から「あれから40年~Okinawaから沖縄へ~」、沖縄県立博物館は9月28日から「本土復帰40周年記念『Okinawaから沖縄へ(仮称)』」が開催される。何れも沖縄の現実を見れば祝賀とは縁遠い。それで、「あれから40年」とか、「Okinawaから沖縄へ」という表記になるのだろう。5月15日には野田首相も来沖するというが冗談としか思えない。
1951年6月28日 元琉球新報社員の沖縄群島知事平良辰雄への陳情書(解決したので使われなかった)

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『琉球新報』1953年1月ー中央・又吉康和社長、左・島袋全発主筆、又吉社長から右一人おいて國吉眞哲。

島袋全発筆跡




1972、73年局長団交メモ



1978年9月13日~18日 琉球新報社 東京大学・明治新聞雑誌文庫 主催「明治の新聞・雑誌展ー近代日本ジャーナリズムの源流ー」デバート・リウボウ

1986年8月13日ー『琉球新報』「『ウルマ新報』創刊号見つかるー故大嶺薫さんが保存。大嶺コレクションを整理していた富島壮英資料課長が発見」

1993年9月『琉球新報百年史』

新城栄徳作成「1893年9月『琉球新報』創刊から現在までの新聞・機関紙相関図」
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<br />
2012年1月3日ー『琉球新報』友寄貞丸「辰年に寄せてー『竜頭蛇尾』の民主党」<br />
<br />
2012年1月4日ー『琉球新報』「対談 大城立裕さん×知念ウシさん」<br />
2012年1月12日ー『琉球新報』矢部宏治「落ち穂ー米軍基地観光ガイド」<br />
2012年3月4日ー『琉球新報』「新琉球考今沖縄を語るー古謝美佐子(民謡歌手)『母から沖縄戦のことをしょっちゅう聞かされていた。日本軍に対して、いいことは言ってなかった。目の前で見たみたいですよ、沖縄の人を銃剣で殺しているのを。・・・』(共同通信那覇支局)」<br />
<br />
2012年3月6日ー『琉球新報』矢部宏治「落ち穂ー基地と原発④前回、米軍機は日本の航空法の適用除外になっているので、どんな『無法な』飛行もできる。(略)それと全く同じ。日本には汚染を阻止するための立派な法律があるのに、放射性物質はその適用除外となっているのだ!」<br />
<br />
2012年3月13日『琉球新報』「社説ー公金返還知事謝罪ー不正の付け県民が払うのか」<br />
2012年3月14日『琉球新報』「社説ー思いやり予算ー被災地の復興に充てよ」<br />
<br />
2012年3月14日『琉球新報』「社説ー高江着陸帯訴訟ー沖縄に基地を押し付け続ける国の不正義と住民負担の深層に背を向けた、木を見て森を見ない判断と言えよう。(略)これ以上住民の声を封じる愚を重ねてはならない。」<br />
<br />
2012年3月17日『琉球新報』「社説ー『捨て石』削除ー沖縄戦の本質から目を覆う暴挙だ」<br />
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2012年3月18日『琉球新報』「社説ー改正沖振法ー(略)1972年の日本復帰後、10兆1千億円を超える沖縄関係予算が投入され、道路や公共施設などの社会基盤が整備された。半面、投下された資金の多くは本土に還流した。沖縄関係予算が県内にとどまり地域の発展に直接結び付く仕組みをつくらねばならない。」/27面ー32軍壕・緊急学習会ー消される沖縄戦(上)山内栄さん「軍隊の本質考える場、捨て石は沖縄戦の肝」<br />
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2012年3月25日『琉球新報』1面「32軍司令部 説明板、沖縄県が設置」<br />
所感→□誰に対してお調子者のカジノチジは受けを狙っているのだろうか知らないがこれでチジと「沖縄のこころ」は相いれないことが証明された。とにかくも沖縄電力時代の弱みを国に握られているのは間違いない。<br />
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1989年11月30日『琉球新報』松島弘明「琉球新報初代主筆・野間五造の著書や論文発見」

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1932年
3月ー島袋源一郎『伝説補遺沖縄歴史』沖縄書籍□「中山門建つー此年国門を首里に建て、中山と榜した。旧記によれば、中山の二字は内官柴山の進めた額であったという。因みに此の中山門は俗に『下の鳥居』と称し、県立第一中学校の南角、那覇一帯を俯下する大通りに明治の末頃迄遺存していたが、今は破壊して『上の鳥居』即ち守礼門のみ残っている。蓋し其の建築は同様のものであった」

1933年
2月25日ー『沖縄日日新聞』「守禮門・外六ヶ所國寶保存物に指定、文部省から告示さるー守禮門、所在地首里市、首里城正面の大路には元二棟の坊門があった第一門たる中山門は腐朽大破したので明治四十一年に撤去し今は第二門たる守禮門のみ残っている朱禮門は明の嘉靖六(我が大永七年)の創立にかかり爾後数次の修理を経たものである古名を待賢門又は首里門と称していたが清の康煕二年(我が寛文三年)以後『守禮之邦』の扁額を其眉間に常掲するに及守禮門と称するに至った。門の概形は支那式の三間這牌楼に似たるも彼此相違せる著るしき点は下層屋根を中断せずして一端より他端に通じて一直線に造れることである又其の構造を見るに柱の脚部は総て木の枠組みと石の挟み束とを以て二重に組固め柱の上部は押肘木より成れる一種の天竺様の斗拱を組して屋根を支承し更に中央部二本の柱は下層屋根を貫いて上方に延び茲に再挿肘木の斗拱を構え以て上層屋根を受けているかかる構造法は他に多く類例を見ざる所にして琉球建築の一特色と云ふべきものである」
5月ー『島』創刊
7月ー仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』(新光社の写真の守礼門)
10月ー東京「明正塾」閉鎖

1934年
1月ー沖縄県立図書館の郷土文献以外の参考品(三線、鉢巻、陶器、漆器)は昭和会館の教育参考室に移される



3月30日ー『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ペルリ艦隊来航記念号」
       沖縄日報主催「ペルリ日本来航80年記念祭」講演/神田精輝・島袋源一郎

    
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社


4月27日ー沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し「沖縄郷土協会」発足、太田朝敷会長
1934年4月27日 昭和会館で沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し沖縄郷土協会発足
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1934年7月30日 沖縄郷土協会評議員会(昭和会館)、郷土博物館の建設とペルリ提督上陸記念碑建設のため県下から2万円の募集を協議。
関連○2015年3月 『記憶と忘却のアジア』青弓社 泉水英計「黒船来航と集合的忘却ー久里浜・下田・那覇」

1935年10月ー上原永盛『沖縄県人物風景写真大観』(首里市・守礼門)

1936年
7月ー沖縄県教育会附設郷土博物館、首里城内北殿に設置。

8月ー昭和会館で沖縄観光協会創立総会、会長に金城那覇市長□目標「真の沖縄の姿を内外に紹介して将来世界的観光地帯にしよう」
10月ー文部省より守礼門復旧工事のため森政三国宝調査室技術員が赴任。総工費六千八百圓うち国庫補助五千五百圓
     現場主任に仲座久雄
1937年
1月ー国宝「守禮門」修理打合せで大岡實(工学士)来沖
○大岡實は明治33年(1900年)09月29日に現在の東京都新宿区三栄町で大岡顯三の長男として誕生する。(二人兄妹とのこと)
下記の略歴の通り、東京帝国大学工学部で建築の道へ進み、大学卒業後、文部省嘱託となり古社寺保存に携わる。大岡實は昭和41年10月大岡實先生定年退官記念事業会発刊「日本古建築の特質と私の半生」の中で「私が師事したのは、伊東忠太先生と関野貞先生です」と述べており、大学時代及び文部省嘱託時代を通して二人の恩師の感化を受けたことを表している。→大岡實建築研究所

10月ー田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』刊

1939年
4月ー日本民芸協会『月刊民芸』第1号


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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号


1948年6月29日『沖縄タイムス』創刊前に号外「通貨切り換え」


1958年4月『オキナワグラフ』創刊号

1958年8月21日『琉球新報』真喜志好一「キャンプ」


グラフ表紙左上が真喜志好一氏

2016年3月15日 山田写真機店で左から、新城栄徳、山田勉氏、真喜志好一氏



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