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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

○ホイットマン流のナショナリズムはアメリカ人の常識となり、その後のアメリカ人の自画像の形成に貢献しました。独立後しばしば経験した国内ならびに国際的な試練においても、この自画像が発想の原点であり、国民的行動の支えでした。それは、国際社会におけるアメリカのスタンスを、時には孤立主義に陥らせ、時には逆にパックス・アメリカーナ(アメリカの力によって維持される平和、十九世紀のパックス・ブリタニカの言い換え)の理想を追求する方向へ走らせましたが、波瀾に満ちたアメリカの歴史経験の中で、この原点だけは揺るぎないもののように見えました。しかし、1960年代の公民権運動やベトナム戦争の挫折は、この理想像に深刻な打撃をもたらしました。この危機にみまわれて、二つの基本的かつ伝統的な理想が揺らいだのです。アメリカ人が建国の時から誇りにしてきた平等の社会と自由の国の理想です。

○英国のバジルホール提督が1816年に沖縄を訪れたとき、島民の素朴さと平和愛好の精神にうたれたことを航海記に記しています。バジルホールは、英国への帰途、セント・ヘレナに幽閉中のナポレオンを訪ね、戦争を知らない琉球人のことを報告していますが、ナポレオンはこれを信じなかったそうです。バジルホールが琉球へ渡来したのが、西洋のロマン主義運動の盛んな頃であったことを考え合わせますと、同提督が「高貴なる未開人」の先入観で沖縄島民を見ていたのではないかと疑いたくなります。当時、沖縄人は、バジルホールがいうように確かに武器は身につけていませんでしたが、空拳によって一撃のもとに人を殺す空手をすでに編み出していたのですから、全面的に平和愛好的であったとは言い切れないように思います。 



1998年10月15日 沖縄青年会館「米須興文著『文学作品の誕生』出版祝賀会で、右端が新城栄徳、3人目が米須興文氏


2001年1月20日『沖縄タイムズ』米須興文「南灯指針鏡ー21世紀のメッセージ1」
○・・・科学・技術の進歩は、物質的繁栄をもたらしたが、同時に大量破壊兵器も生み出し、環境破壊につながる産業開発にも力を貸した。一方、精神世界は荒廃の一途をたどり、人びとは心と心の絆を失い、精神的独房の中でIT(情報技術)革命の「二十五時」(ルーマニア作家、C・V・ゲオルギウの小説)の世界を彷徨している。
 楽園に忍び入った蛇は、すでに人間の頭脳に侵入しているのだ。科学・技術の知恵の実と引き換えに楽園を失いつつある人間は、果たして二十一世紀にこの蛇を追放して再び楽園を回復することができるのであろうか。パソコンでこの稿をしたためながら、eメールを利用しながら、こんなことを考えている新ミレニアムである。
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 記録は記憶を甦生する。トマトの成長過程記録写真495枚を見ると、32年前の撮影時の 庭先やトマトや私自身の様子が鮮明に甦る。生命の戴きの時とお返しの時。トマトの一生を 9点に絞り筆で描いた。祈りのテーマでもある定点PRAYERシリーズから「トマト」を発表。


写真左から、玉城徳正氏、久貝清次氏、岸本徹也氏


2015年12月22日 市民ギャラリー「『戦後70年オキナワ』久貝清次展」

久貝清次氏→ここをクリック「久貝清次ウェブ美術館

2015年12月24日『琉球新報』「あしゃぎー記録写真の現場を描くー久貝清次さん  東京の百貨店でデザイナーをしていた1970年~71年、丸坊主から髪もひげも伸ばしっぱなしにして1年間、毎日、同じ構図、服装で写真を撮り続けた。周囲の波紋とともに面白がられ、新聞、週刊誌、テレビで時の人になった。・・・・」


1970年9月23日『朝日新聞』「体験的長髪論」



1971年
10月『アサヒグラフ』/12月『話の特集』



1972年
2月『少年サンデー』/3月『中学三年コース』


1972年7月『アサヒ芸能』「女と仕事に抜群!ヒゲがあなたを行動派にする」/1970年12月『現代』「ヒゲ自慢サラリーマン大集合」

1975年1月23日日『日刊スポーツ』「太平願いまーす」


1975年1月26日NHK

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1892年4月 島袋源一郎、今帰仁尋常小学校入学
1896年4月 島袋源一郎、名護の国頭高等小学校に入学
1904年10月20日 『東京人類学会雑誌』第223号 鳥居龍蔵「沖縄人の皮膚の色に就てー余は本年夏期、沖縄諸島を巡回せしが、其那覇滞在中、首里なる同県師範学校、及び高等女学校に於て、男女学徒の皮膚の色を調査なしたり。(助手は伊波普猷で、師範学校の学徒に島袋源一郎・今帰仁間切20歳、仲原善忠・久米島18歳、比嘉春潮・首里21歳、徳元八一・玉城間切20歳、宮城栄昌・久志22歳、諸見里朝清・首里20歳山城篤男・高嶺間切17歳,
新垣信一などの名前がある。)

□当山正堅「時の図画の先生は日本画に堪能な山口瑞雨先生でありましたが、あの頃から洋画も課さねばならなかったので、先生は予め其の描写法を授けることなしに漫然と首里城を写生して来るようにとの日曜宿題を命ぜられたのであります。すると、島袋源一郎氏は唐破風の棟上に登って屋根の大きさから、両端の龍の胴体、髭の長さを測り更に瓦の数まで一々数えて来てから構想を練って描写に取りかかったと云う熱心さに先生も同級生一同も驚いたと云うことでありました。」

1907年3月 島袋源一郎、沖縄県師範学校卒業。 4月 名護訓導

◎1924年6月23日『沖縄朝日新聞』「歴史に現れた佛國と沖縄の交渉ー今を距る八十年前初めて佛船来たり泰平の夢を破る」
7月5日 佛艦アルゴール那覇港内桟橋に横着

1924年6月29日『沖縄朝日新聞』島袋源一郎「佛國宣教師渡琉史(1)」
1924年7月10日『沖縄朝日新聞』島袋源一郎「佛國宣教師渡琉史(10)」
◎1844年3月11日ー仏船アルクメーヌ号、那覇に寄港し、和親・交易等を要求、3月19日同船宣教師フォルカード①・清国人通事オーギュスタン=コウを残して那覇を離れる。 
 ①フォルカード Forcade, Théodore Augustin 1816-1885 フランスの宣教師。
1816年3月2日生まれ。パリ外国宣教会から派遣されて1844年(尚育王10)琉球の那覇に来航。布教には成功しなかったが,琉球語をまなび,「琉仏辞典」を執筆。日本代牧に任命され長崎にむかったが,鎖国のため上陸できず香港をへて帰国した。1885年9月12日死去。69歳。ベルサイユ出身。→コトバンク






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◎1924年6月23日『沖縄朝日新聞』「歴史に現れた佛國と沖縄の交渉ー今を距る八十年前初めて佛船来たり泰平の夢を破る」

7月5日 佛艦アルゴール那覇港内桟橋に横着
1924年7月8日『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅(1)ー佛蘭西と琉球ー唯一の外交史料」

○西暦千八百四十四年四月佛國の軍艦が沖縄に訪問した。其の用向きは我が琉球と通好貿易を求むる為であった。其の当時彼我交換した文書が私の手元にあるので、それを引用して当時の外交関係を窺って見たいのである。この往復文書は双方とも漢文で認められてある。




○老婆の処女を説いて貞操を求むるが如し。非情な子供あつかいである。保護國の何ものたるかを知らない、國際法上の知識がない琉球人でも、これには底怖ろしくなったであろう。あの時、琉球の官民が南洋あたりの佛領殖民地人と同じかったら、早速盲判をついていたかも知れない。その結果東洋の舞台が今日のそれとどう変わったかは想像も出来まい。しかし当時外交舞台に於ける佛の競争者は英であるから両者は相邪魔 佛の意の如く東洋に勢力を張ることも、当時不可能な形勢ではあった。更にそのうち仏蘭西に内乱に次ぐに内乱を以てし独逸と戦っては破れ帝政は覆り共和となり、東洋侵略の野心も一時収縮させられて其間に我日本の勢力は伸びて東洋の覇権をにぎることとなったから幸いであったのだ。


○問ふに落ちず語るに落ちるとはこのことである。当時に於ける英佛の東亜侵略の競争と其の恐ろしい野心の爪牙が歴々としてこの書中にあらはれてゐるではないか。(略)書中にある事実の虚実取まぜた外交辞令であることは勿論である。又この簡単な文章の裏面には薩摩がかくれてゐた。薩摩との関係はオクビにも出さないで中国々と云ってゐる所が面白い。






  1924年7月25日『沖縄タイムス』莫夢生「百日紅(11)ー佛蘭西と琉球ー唯一の外交史料ー」
○・・人類 もと一組より出て昔 遡れば皆同胞兄弟であるから、四海皆兄弟は人類の理想である。同胞兄弟おのおの父の家から分かれて 相拒み相絶つことを得ない。天下の兄弟も亦た然り 各々其の住むべき土地を分有しても、天下の大道は通行自由でなければならぬ・・・




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Posted by: ryubun02


○任期満了に伴い伊良皆賢哲教育長退任し、新教育長に末吉良治氏(元 琉大付属中学校副校長、与那原中学校長)。


伊良皆賢哲・教育長、右が新城岳祐・吟士正師範(2014年9月28日-JA真和志農協ホール「粟国郷友会/第45回敬老会」)
    


トゥージ(石の水槽)
沖縄県立博物館・美術館入口のトゥージ(粟国島)
沖縄県立博物館・美術館のトゥージ




粟国のトゥージ
ガジャン
江戸期の俳人で月並み俳諧の本家とも言われた高桑闌更の手紙の中に「琉球は分けてあたたかなる國にして、冬、蚊の聲を聞くといへば」とあるように、沖縄のガジャン(蚊)はヤマトまで鳴り響いていた。古波蔵保好『沖縄物語』に「蚊帳のよさが『うちなあ』では、シアワセな夜をもたらすことになっていた」と記し、続けて「ガジャンは蚊帳で防ぐことができても、蚤には手をやいたのである」とし、そして狂歌「蚤虱殺(くる)ち、がじゃん羽摘(ち)みてぃ、浮世穏(なだ)やしく渡いぶしゃぬ」「がじゃん羽ちみて、蚤の足(ふぃさ)くんち、浮世楽々とぅ暮らしぶしゃぬ」の歌を紹介した。和歌山の作家・神坂次郎は「俺は夏草 麦門冬ー末吉安恭の人生」で後の狂歌を引用している。
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私が幼年期を過ごした粟国島では殆どが天水で、水タンクやトゥージ(石の水槽)があってそこにはボウフラがいつも居た。衛生的には問題があるようだが別に気にしたことはない。蚊帳と蚊取り線香はどの家にもあった。戦前、琉球絵師の金城安太郎さんの住んでいたところは蚊阪(ガジャンビラ)という。東恩納寛惇『南島風土記』を見ると、蚊とは関係なさそうである。考えてみれば沖縄はどこでも蚊は多い。
加藤新一『アメリカ移民百年史』にフロリダ開拓余話と題して「蚊群の襲来すさまじく、ひとたびメキシコ湾から西風が吹きはじめると一面もうもうとして天日が曇るほど。牛は大口あけて走り、蚊が口にいっぱい入って窒息するのだという」と記されている。イナガキタルホの一行詩「竹林ー七賢が酒と琴をもって竹林へはいったが、大へんな蚊のためにすぐ追い出されてしまった」。

 人間がいなくなると、その不在によって直接の恩恵を被るものの一つが蚊だ。人間中心の世界観では、人間の血は蚊の生存に不可欠だと考えたくなるが、実際には蚊は融通のきく美食家で、ほとんどの温血の哺乳類、冷血の爬虫類、そして鳥からさえ血が吸える。私たちがいなくなれば、おそらく自然界の野生動物は大挙してその空白を埋めようとし、人間が放置した場所に棲みつくだろう。(略)人間がいなくなれば、以前なら幼虫のうちに死んでいた何十億匹ものうるさい羽虫たちが生き延び、蚊の卵と幼虫を食物連鎖の大きな環とする多くの淡水魚も二次的に恩恵を被る。そのほかに恩恵を受けるには、花だ。血を吸わないとき、蚊は花の蜜を吸う。花蜜はすべての雄の蚊の主食だが、血が大好きな雌の蚊も吸う。そのため、蚊は受粉媒介者となり、私たちのいない世界ではより多くの花が咲き乱れることだろう。→2009年7月 アラン・ワイズマン/鬼澤忍・訳『人類が消えた世界』早川書房

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Category: 03-所感
Posted by: ryubun02
コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com


2016年8月15日 美栄橋駅 右上にジュンク堂書店の看板が見える

2016年8月15日(今日オキナワは旧盆ウンケー。ヤマトは敗戦忌。ヤマトの重大なエポックの日のはずだが休日ではない それにしても戦勝国アメリカ軍基地の今なお増殖活発のオキナワ アメリカ軍基地維持費は何故かヤマトの負担 辺野古新基地には大手ゼネコン) 美栄橋駅


2016-10-28 前島から中の橋方面を望む。手前で工事中

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Posted by: ryubun02


ヤマタノオロチ眠るハシカンボクの鍵穴
雄綱雌綱を結ぶ月は飛龍の眼
昇竜の江戸上り洗濯機の渦
どんどん渦巻く昇龍の若太陽

2015年12月 『地球の音符 豊里友行句集』沖縄書房

2016年6月18日『東京新聞』「沖縄の俳人 基地の島直視 豊里友行『いま怒らなければ いつ怒るのか』」

○2011年8月21日の「とよチャンネル」(豊里友行)で本書についてふれている□『漂う島とまる水』は、砂守勝巳の写真集だ。父がある日を境にぷっつりといなくなってしまった。本書はその父を探す旅だ。沖縄、奄美、マニラを辿る彼の写真文体は、砂守勝巳マジックと言いたい。父を探しだして行くイメージの足跡が強力な文脈を持っている。『オキナワン・シャウト』(砂守勝巳)のルポルタージュを写真集にした長い期間があるせいか写真構成が熟成している。土門拳賞受賞後の第一作『オキナワ紀聞』(砂守勝巳)は短編小説みたい。写真関係では不評だったと記憶しているがよく沖縄を取り込んだ取材と撮影は、写真の文体と文脈を開拓した功績にただ頭が下がる。私も自分のストーリーを語るべき写真の文体と文脈を模索している。それには写真という時の果実の点を線に結び付ける明確な意思が必要だ。余談だが砂守勝巳さんの娘さんが、現在、砂守勝巳さんの美術館を作るためにブログやTwitterで活動中なので多くの方がぜひ応援してください!

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福音館 小辞典文庫

福音館書店(ふくいんかんしょてん)本来は金沢市のキリスト教系書店で、カナダのメソジスト教団の宣教師が伝道を目的として設立した(社名にある「福音」はこれに由来する)。その後、第二次世界大戦勃発が避けられない事態となりカナダ宣教師団が全員引き上げることになったため、宣教師団が持っていた財産処分に際して名古屋市の星野書店の北陸担当番頭だった佐藤喜一(賀川豊彦の伝道を手伝っていたクリスチャン)が経営を引き継いだ。1951年3月、佐藤の娘身紀子の恋人だった(のち夫となる)松居直が、佐藤の招きで編集を担当。このとき実験的に作った「福音館小辞典文庫」シリーズが成功を収めたため、翌1952年2月、正式に福音館書店が発足した。1952年8月、会社の本拠地が金沢から東京都千代田区神田三崎町に移転.→ウィキペディア

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1977年9月に刊行開始。創刊時には7点を刊行[1]。2008年4月1日に朝日新聞社出版局が朝日新聞出版に分社化されたことにより版元が変更した。文芸作品のほか、朝日新聞社・朝日新聞出版発行の雑誌に連載されたノンフィクションやエッセイを数多く収める。同出版社のソノラマノベルスと朝日文庫とが、廃業した朝日ソノラマ(2007年吸収合併)のソノラマ文庫から刊行されていた小説の引き継ぎ先となり、ソノラマセレクションとして朝日文庫においては刊行されている。→ウィキペディア

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1978年3月『日本古書通信』584号 木村 毅「明治アメリカ物語」


1979年11月『日本古書通信』427号


1979年11月『日本古書通信』427号 谷沢永一 編「木村 毅著作目録」

木村 毅資料(私設 文学資料館所蔵)

木村 毅(きむら き、1894年2月12日 - 1979年9月18日)は、作家、評論家、明治文化史の研究家。
岡山県勝南郡勝間田村(現勝田郡勝央町)に生まれる。少年時代から文士を志し、『少年世界』『文章世界』に投稿する。1917年に早稲田大学英文科を卒業。隆文館、春秋社の編集者をしながら評論、翻訳をおこなう。また明治文化研究会同人(のち第3代会長)となったほか、円本の企画にも参加した。1928年ヨーロッパへ渡り、デュマの遺跡などを探訪した。小説、実録、評論のほか、明治文化・文学を研究し多数の著作を残す一方、日本フェビアン協会、労農党に参加。社会運動にも挺身した。1978年に菊池寛賞受賞。あまりの著書の多さと雑駁さに、未だ全集等はなく、伝記も書かれていない。著書に『小説研究十六講』など。→ウィキ

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上原博紀氏と作品「沈黙の向こう」「太陽の子」「K氏」


玉那覇英人氏と作品「海と月の橋」「風薫る」

西村貞雄氏作品「祈る人とゴルフをする人」「昇天」「瞑想」


後列左から 玉那覇英人、上原博紀、西村貞雄、友知雪江、上原隆昭
前列左から 津波古稔 富本明雄、上原よし (敬称略)

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Posted by: ryubun02
 本日はアメリカ軍B29、広島に原子爆弾を投下し無差別大量殺戮した日である。□被爆当時、広島には約35万人の市民や軍人がいたと考えられています。これは、住民、軍関係者、建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々などを合わせた数字です。当時日本の植民地だった朝鮮、台湾や、中国大陸からの人々が含まれ、その中には強制的に徴用された人々もいました。また、少数の、中国や東南アジアからの留学生や、アメリカ軍捕虜などの外国人も、含まれていました。原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています。→広島市

2012年11月11日『琉球新報』「核兵器廃絶『現実は無理』/遊説先の広島で橋下氏ー日本維新の会代表の橋下徹大阪市長は10日、遊説先の広島市で核廃絶について『現実は無理ですよ。今の国際政治で。日本はちょっと平和ボケしている。核廃絶を日本がやると言ったって、誰ができるのか』と述べ、実現は困難との認識を示した。また非核三原則が禁じる核持ち込みについて『アメリカの核に守られている以上、あり得るのではないか。現実にあるのであれば、国民に開示して議論をしなければならない』と述べ、容認する可能性に言及した。

 アベ属国史観を廃し「叛ヤマト史へ」


2016年8月6日 ジュンク堂書店那覇店「『希望の島・沖縄ーアリは象に挑むⅡ』トークセッション」
トーク出演 新崎盛暉さん、真喜志好一さん、浅井真由美さん

真喜志好一さん

浅井真由美さん


写真右から新崎盛暉さん、浅井真由美さん、真喜志好一さん、

アジる金城実さん「慰謝料ではない。賠償金だ!」

会場に隣接して「京都フェア」

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08/04: 車原病

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 検索で「自動車症候群、 それは車原病である」とある。私は最近、バイクも弟に譲って出来るだけバス・モノレールを利用するか、歩くようにしている。運転免許証更新連絡書が来た。那覇から豊見城に免許センターが移転と連絡書にはあるが、地図も省略されてわからない。本日バスを当てずっぽうで載り、山川橋で適当に降りた。ウフィ橋を渡ると「宇平橋碑」「軽便鉄道山川駅」があった。方向も分からぬまま歩くと時間が迫ってきた。武富からタクシー、1000円もかかった。手数料3,900円払い講習を受けた。平成23年の交通事故による死亡者は41人、重傷者は671人、今年は死亡者36人、重傷者は622人と講師が説明していたが、人一人の命は地球より重いが死刑制度と相俟って絵空事としか思えない。那覇署巡査部長が酒気帯び運転するご時世か「飲酒運転」の法令についても説明していた。2004年4月『琉球新報』に「飲酒運転・罰金総額 昨年1年間、沖縄県民が支払ったのは16億円」とあった。免許証を受け取ってみると本籍欄が無くなっている。帰りは近くの沖縄アウトレットモール、戸田書店をのぞいた。そこからバスにのりバスセンターまで400円。(2012-12-12記)

2011年11月28日の『琉球新報』に桜井国俊沖大教授が時評2011で「日本社会は、未曽有の原発震災を経験したにもかかわらず、原発なしでは立ち行かないという経済界の化石化した思考によって、政府もマスコミもそして国民も、再度マインドコントロールされつつある。たとえ原発事故がなくとも、数万年単位の管理を必要とする高レベル放射性廃棄物の処分場をどこにも作ることができないままだと未来世代に対する犯罪を、これ以上続けるわけにはいかない。(略)沖縄も、気候変動についてバックキャスティングの発想が求められる。沖縄の温室効果ガス排出源の構成は他県と異なる。主たる排出源は産業部門ではなく、運輸部門、民生業務部門、民生家庭部門である。一言で言えば、超クルマ社会であること、クーラーなどによる電気消費量が大きいことが、沖縄における排出量増加の主たる原因である。(略)脱クルマ社会の実現に向け着実な前進が必要だ」とある。今沖縄も選挙の最中であるが、新聞は県内も自公が優勢と謂う。沖縄もこれで完全に日本国民の一員になったようである。が、これから「辺野古移設」「原発再稼働」「消費税」[オスプレイ]が待っていて弱肉強食の時代が来る。(2012-12-12記)





家の近くの「中之橋」周辺(2016-8-9夕方)車で溢れている


1982年1月 小林直司/渡辺勲蔵『車原病ークルマ社会の健康診断』三一書房

しんぶん赤旗 2016年9月13日
<潮流>1899年9月13日、ニューヨークの街頭で…
 1899年9月13日、ニューヨークの街頭で不動産業者ヘンリー・ヘイル・ブリスにタクシーが衝突。翌日死亡しました。米国初の自動車による死亡事故といわれます
▼「初」を客観的に証明することは困難なので、この場合も「といわれる」としか言えません。ただ、100年後に交通安全を願う追悼の銘板が現場に設置されたと伝わることからすると、歴史的な出来事だったようです
▼全日本交通安全協会によると、交通事故死者数(事故後24時間以内)は昨年4117人。最多だった1970年の1万6765人と比べれば4分の1ですが、人の命は何より重い。突然命を奪われる事故の悲惨さに変わりはありません
▼いま自動車業界は自動運転車の開発を競っています。レーダーやカメラ、GPSを使い、機械が正確、安全に走行させるという技術です。2020年ごろの実用化をめざしています
▼技術の発展は人の生活を変えます。往々にして法や規範はそれに遅れがちです。ブリスの死亡事故を起こした運転手は殺人罪に問われたものの無罪になったとか。車が人を死に至らしめることがあるという前提で法がつくられていなかったためでしょう
▼自動運転は本当に安全なのか。三菱自動車とスズキの燃費不正、フォルクスワーゲンの排ガス不正は、メーカーが無条件に信頼できる存在ではないことを示しました。公道を走るようになったとして事故時の責任はどうなるのか。技術は人を幸せにすべきもの。社会のルールづくりが問われます。

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Posted by: ryubun02

2018年7月24日ー新城あけみ


2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

中村 正直(なかむら まさなお、1832年6月24日(天保3年5月26日) - 1891年(明治24年)6月7日)は明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。文学博士。英学塾・同人社の創立者で、東京女子師範学校摂理、東京大学文学部教授、女子高等師範学校長を歴任した。通称・敬太郎、敬輔。号は敬宇。江戸で幕府同心の家に生まれる。幼名は訓太郎。昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英。帰国後は静岡学問所の教授となる。教授時代の1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼である。→ウィキ


西国立志編 : 原名自助論』11冊、斯邁爾斯著、木平謙一郎、明治4年9月
サミュエル・スマイルズ 『自助論』 の翻訳。
『改正 西国立志編 : 原名自助論』 斯邁爾斯著、七書屋、1877年2月



『西洋事情』福沢は江戸幕府の命により1860年(万延元年)にアメリカに渡り、1862年(文久2年)にはヨーロッパに渡ったのち、1866年(慶応2年)に初編3冊を刊行した。翌年の1867年(慶応3年)再びアメリカへ渡り、その後1868年(明治元年)に外編3冊を、1870年(明治3年)2編4冊を刊行している。その内容は政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気機関、電信機、ガス燈などに及び、それぞれについて個別に紹介している。例えば政治については政体が君主政、貴族政、共和政の三種類の政体に区別され、イギリスではこれらの政体を組み合わせていると記している。さらに文明国の六つの要訣について列挙しており、それは法の下で自由が保障され、人々の宗教には介入せず、技術文学を振興し、学校で人材を教育し、安定的な政治の下で産業を営み、病院や貧院等によって貧民を救済することであると論じる。また外交についても、通商や婚姻によって君主間の関係を構築し、戦争を防止するために条約を締結し、条約に基づいて大使が相互に派遣されるという外交の制度が紹介される。このように、当時の日本には存在しなかった西洋の近代的な制度や技術を数多く紹介している。→ウィキ

1980年3月 別冊太陽『慶應義塾百人』平凡社

 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社にかかわる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。

1893年9月15日『琉球新報』創刊 
 琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

 同年9月22日、『大阪朝日新聞』は「琉球新報-廃藩置県の日浅く他県に比して一層の啓発を要するの地宜なる哉此新報の発刊を見るや新報は隔日刊にして初号には琉球年代記を附録せり」。京都『日出新聞』は「琉球新報-混沌たる暗黒の幕を破りて五百余万の王民に対し閃山一道光燈来の光景を与へんと期する琉球新報は本月十五日を以って第一号を発刊せり紙幅体裁固より内地の発達したる諸新聞紙に比すべくもあらざれど邦人をして琉球に於ける政治社会経済上の事実を知らしめ沖縄県民をして旧慣陋習を破り文明の空気に触れしむるの機関として裨益する処少なからざるべし発行所は那覇西村百二十三番地にして隔日刊行する由」と報じた。


1901年(明治34)2月5日『琉球新報』「福澤翁逝去 福澤諭吉昨夜死去、八日午后一時葬儀(二月四日午前十時五十五分東京發)」



1901年(明治34)3月3日『琉球新報』大田朝敷○松田橋での壮士俳優義有団一座の「実録慶應義塾教育勅話書生之亀鑑」の新演劇を観て、3日に亡くなった福沢諭吉について、「慶應義塾らしき所福沢先生の精神が微塵も見へない」(「松田橋の新演劇」)と感想を述べる(伊佐眞一)


福沢諭吉誕生地ー大阪市福島区福島一丁目1 玉江橋北詰すぐ
 天保5年(1834)12月12日、諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元年(1854)長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になっている。→1977年3月『大阪春秋』谷口佳以子「福澤諭吉誕生地と雙松岡跡」



1927年 『エリア随筆集』國民文庫刊行會
エリア随筆 エリアずいひつEssays of Elia, The Last Essays of Elia
イギリスの随筆家 C.ラムの随筆集。第1集 1823年,後集 33年刊。そのほとんどは 20年創刊の『ロンドン・マガジン』に発表されたもので,作者自身の体験を中心に,人事一般についての回想や省察を,絶妙なユーモアにしみじみとしたペーソスを交えながら,独特の文体で綴っており,イギリス随筆文学中の白眉とされる。 →コトバンク

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 1963年10月 福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』垂水書房で1964年、読売文学賞受賞。1963年、「英文学を基盤とする随筆一般」の活動に対して日本芸術院賞受賞し、1964年に日本芸術院会員となる。1968年には文化功労者として表彰。1968-69年には『福原麟太郎著作集』(研究社出版)が刊行。


左ーヘイズリット・筆『ラムの肖像』(ウィリアム・ヘイズリット(William Hazlitt、1778年4月10日 - 1830年9月18日)は、イギリスの著作家、批評家、随想作家)/右ー福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』

2016年8月7日 おもろまち


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