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Category: 04-書の森
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1972年11月 沖縄の雑誌『青い海』比嘉正子「わたしの″女の闘い〟」

比嘉正子・関西主婦連会長
 2011年 10月9日、午後ーあけみとJR永和駅から天満宮に出かける。帰途「天六」に寄る。新京阪ビルの向いにあった北市民館、かつてツタ(淀川善燐館の館長S・F・モランから贈られたツタ、だれからともなく「愛のツタ」と呼ばれた)で覆われていたのが目に浮かぶが、今は建て替えられて大きなビルとなり「大阪くらしの今昔館」などが出来ている。ブログ「十三のいま昔を歩こう」に市民館と梅田周辺の古い写真が載っている。粟国村人会の新里利雄夫妻にも会った。

堀川監獄は1920年に堺に大阪刑務所として移転し、跡地は23年に扇町公園となった。しかし天六・長柄近辺は、短期間に急速に発展したため住宅が密集し、明治末から大正年間当時ともなれば、市南部の長町などとともに長柄・本庄が生活困窮者の居住地域として知られるようになっており、都市の貧困問題が集約的に生起していたのである。
 
市民館の計画は、当初は島村育人(羽衣学園創設者)が、その後は志賀志那人が中心になって進めたが、初代館長には志賀が部長待遇で就任した。当時まだ29歳という年齢からすれば、破格の待遇といえるだろう。この後1935年5月まで北市民館々長として在職した後、社会部長となったが、1938年4月に46歳で現職のまま逝去した。館長在職中は、たとえば銭湯で近隣住民と親しく世間話をしながらニーズ調査をしたことを指して「風呂屋社会事業」と伝えられるように、地域の福祉問題を積極的に把握し、その改善方法を模索し続けていた。市社会事業行政の闊達な雰囲気と志賀館長の人柄は、市民館の事業にも反映し、身上・法律・職業相談、講演会・講習会・図書貸出・娯楽会、町内会・クラブ・諸集会、託児・保育組合、一般診療・歯科診療、授産・信用組合・生業資金融通などの多岐にわたるばかりではなく、実に自由な運営がなされていたようだ。館閉鎖まで14代にわたる歴代館長には、「志賀イズム」としてその伝統が受け継がれたという。(→「月刊ボランティア」ー大阪市立北市民館と志賀志那人)

新城栄徳「比嘉正子」(→1997年1月ー『近代日本社会運動史人物大事典』日外アソシエーツ)
沖縄首里の造り酒屋の渡嘉敷宗重の4女に生まれる(実家跡の都島友の会・渡保育園に渡嘉敷胸像)。女子工芸学校在学中は裁縫が嫌いで、さぼってトルストイを呼んだり、沖縄県立一中の野球の応援に行ったという。同校卒業後、1年間、宮古島の西辺小学校で教壇に立ち、大阪東淀川区十三にあるミード社会館のバプテスト女子神学校に入学。週2回講師としてバイブル社会学を講義に来た河上丈太郎(関西学院教授)に感化され、自由、平等、平和の社会改革思想を持つようになる。

1924「関西沖縄県人会」結成に参加し、そこで比嘉賀盛を知る。賀盛は沖縄県立一中の卒業生。クリスチャンで日曜日は教会へ行き、牧師の比嘉賀秀、伊波普猷らに学んだ。家が貧しいため進学をあきらめ、十五銀行に就職が決まって19年、18歳で上阪。関西沖縄県人会では会計をつとめている。

1924年7月に県人会基金募集のため正子、賀盛、真栄田三益、志多伯克進、上原永盛が代表となって沖縄に帰郷。7月28日に沖縄県民に対し関西沖縄県人会の主旨を知らせるために演説会を開いた。正子は「同胞愛の立場から」、賀盛は「創業時代の県人会」と題し演説した。10月31日には北市民館で関西沖縄県人会臨時大会を開いている。志賀支那人北市民館長、斎藤弔花(1877.年大阪生まれ。謙蔵・謙作、別号に潮居士。国木田独歩と親交があった。1950没、73才)関西日報主筆が講演している。1931年、正子は志賀志那人に誘われて、北市民館で青空保育などを行なった。




志賀志那人 しが-しなと
1892-1938 大正-昭和時代前期の社会事業家。
明治25年9月7日生まれ。大阪基督(キリスト)教青年会主事などをへて,大正9年大阪市主事。市民館(のち北市民館)開設につくし,初代館長。館内に診療室,図書室をもうけ,また金融,保育制度をつくり,近隣の貧困者の生活向上につくした。のち大阪市社会部長。昭和13年4月8日死去。47歳。熊本県出身。東京帝大卒。→コトバンク

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1975年6月 沖縄の雑誌『青い海』<特集 詩人・山之口貘の世界>
 2010年3月8日、松下博文(筑紫女学園大学教授)さん、上原実(沖縄コレクター友の会長)さんと海員会館で懇談。9日、沖縄県立図書館に山之口貘の詩の原稿を整理している松下さんを訪ねる。膨大な量である。その中に「ねずみ」もあった。貘さんの13年忌を機に故里那覇にその詩碑をつくろうと1975年に期成会発起人総会が開かれ、6月には「貘パンフレット」ができた。そのパンフの表紙に「ねずみー生死の生をほっぽり出して ねずみが一匹浮彫みたいに 往来のまんなかにもりあがっていた まもなくねずみはひらたくなった いろんな 車輪が すべって来ては あいろんみたいにねずみをのした ねずみはだんだんひらたくなった」が掲載されていた。パンフには佐藤春夫の「山之口貘の詩稿に題す」も載っていた。
□2008年9月『オキナワグラフ』「私の宝ものー上原実」

1997年4月4日『琉球新報』「あしゃぎ/バクさんの詩を見つけ出すーあちこち歩き回っては新しい資料を見つけ出し、研究者たちをあっと驚かす新城栄徳さんがまたまた珍しいものを捜して一人悦に入っている。(略)さて、今回探し出したのは山之口バクの詩。大正14年(1925年)に出た雑誌『沖縄教育』(沖縄県教育会)に2編が収められている。筑紫女学園短大の松下博文さんは『詩集にも収録されてないし、すごい発見ですよ。バクさんの習作の時期をよく表している詩です』とコメントした」。

□又吉康和は1923年10月に『沖縄教育』編集主任になった。編集後記に「私は人間の生活は総てが教育だと、こう広く解釈し、従来取り扱ってきた教育雑誌のように範囲を限らないで、あらゆる方面の材料を蒐集したいと思って居ります」「今般帝都の大震災により中央集権の弊害を痛切に感じた」と記した。また山城正忠を詩歌の選者に迎えて、雑誌の幅を広げている。1924年4月に国吉真哲、山口三路(貘)、伊波普哲、上里春生らは、山城正忠を会長に琉球歌人連盟を発足させた。

□1925年8月『抒情詩』に山之口貘「日向のスケッチ」「コンーニヒリストへの贈物」(1926年12月の又吉康和編集の『南鵬』に転載)、「昼はからっぽである」「夜は妊娠である」。

1925年9月発行の『沖縄教育』は、表紙題字を山城正忠が書き、カットの獅子は山口重三郎(貘)である。又吉康和は編集後記で「山之口貘氏は今般中央の『抒情詩』に日向スケッチ他3篇入選しました。之より琉球詩人がどしどし中央の詩壇に出現せんことを念じます。救世者は政治家でなく、それは詩人と哲人であります」と記し貘に大きな期待をよせている。
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『沖縄タイムス』2003年7月4日

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1951年12月ー琉球新報に送った詩の原稿

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山之口貘の詩集

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1971年9月 沖縄の雑誌『青い海』<特集・山之口貘の詩と青春>

画家 山口三路(山之口貘)
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久米町バプテスト教会「自由絵画展覧会」
写真前列右から山口重三郎(貘)、秋山、鉢嶺、伊佐成功、真栄平錦雪、鉢嶺、喜名セイトン、古謝景明。中列が米須秀亀。後列右から浦崎永錫、饒平名文喬、知念積吉、矢野彩仙、新崎新太郎、山里永吉、野津久保、饒平名知安、前中留吉、渡嘉敷唯選、兼島のスター。
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昭和53年9月『別冊太陽』「近代詩人百人」平凡社(左下に大正11年の作品がある)

1973年5月『サンデー沖縄』山里永吉「壺中の日月」
○当時、沖縄には丹青協会という画家の集団があった。会長格は沖縄師範学校の図画教師西銘生楽で、日本画家の比嘉華山もまだ元気であった。その他に渡嘉敷衣川、金城南海、親泊英繁、野津久保といった人たちで、いずれも那覇若狭町の出身であった。18世紀のころ、彫刻家として著名であった田名宗経も若狭町の出身であったことから考えると、那覇の若狭町はまったく美術家の温床といってもよかった。もともと若狭町の住民は漆芸を家業としている者が多く、職業がらその子弟から多くの画家が輩出したのではないだろうか。私が丹青協会にはじめて絵を出品したのは、中学3年のときであったが、同時に出品したのが浦崎永錫(現・大潮会会長)であった。浦崎と私は同級生で、教室で机を並べていた友人だが、これまた若狭町の出身である。

 その翌年、丹青協会から分離して『ふたば会』という団体ができた。前記の渡嘉敷衣川、野津久保兄弟のほかに島田寛平や知念積吉が参加した。知念積吉はその後夭折したが、当時の沖縄では異彩を放った画家で、琉球音楽史に巨匠としてその名をのこした知念積高(知念ミーハギ)直系の子孫ということであった。その他、山之口貘や新崎新太郎もやはり展覧会仲間であったように覚えているが、後になって貘が詩に転じ、新太郎が書家になったことはご存知のとおりである。展覧会は毎年夏休暇に開催されたから、東京で勉強している先輩たちも、帰郷していたし、そういった人たちからとうぜん新知識が披露された。前に述べた野津久保(渡嘉敷唯尹)は当時、美術学校の日本画専科の学生であったが、私はこの人から歌舞伎の話や寄席などという、つまり江戸趣味といった、当時の田舎中学生にとってはいかにも都会的な、魅力ある話をたっぷり聞かしてもらったものである。

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山口三路「自画像」が見える。

1997年7月ー『貘のいる風景ー山之口貘賞20周年記念ー』山之口貘記念会編集委員会□「編集後記ー新城栄徳氏からは『沖縄教育』に掲載された青年時代の作品をはじめ絵画の資料も提供いただいたが、紙幅や日程の都合で割愛せざるを得なかったことは残念なことであった。」

1990年2月ー『彷書月刊』54号□新城栄徳「沖縄に来た画家たち」弘隆社

01/27: 伊波南哲

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伊波南哲の著作
1936年9月ー伊波南哲『長編叙事詩オヤケ・アカハチ』東京図書株式会社
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1959年11月『オキナワグラフ』「ふるさとは・・・遠きにありてー東京で八重山を語る夕ー」
右から一人おいて宮良高夫、伊波南哲、宮良当壮、小浜高要、宮川寛雄
1932年12月ー『現代詩の新研究』東北書院□伊波南哲「詩人と『個性』の問題」
1933年11月ー『詩の國』伊波南哲「詩壇時評」
1936年9月ー『大法輪』伊波南哲「交番に映った世相」
1937年2月ー伊波南哲『長篇叙亊詩オヤケ・アカハチ』東京図書(初版1936年6月)
1937年11月ー『日本詩壇』伊波南哲「詩人的自覚に就て」
1937年12月ー『むらさき』伊波南哲「平家敗るるの日」
1937年12月ー『日本詩壇』伊波南哲「日本詩壇の動向」
1938年9月ー『日本詩壇』伊波南哲「詩人と環境の問題」
1938年11月ー『日本詩壇』伊波南哲「真の戦争詩に就て」
1939年7月ー『大法輪』伊波南哲「真夏の夜の海」
1939年8月ー『大法輪』伊波南哲「兵営の異変」
1939年9月ー『大法輪』伊波南哲「八重山風物詩集」
1939年10月ー『大法輪』伊波南哲「詩と生活の交流」
1939年11月ー『大法輪』伊波南哲「秋、旅する心」
1939年11月ー『旅』伊波南哲「孤島漂流記」
1939年12月ー『大法輪』伊波南哲「花ある風景」
1940年1月ー『詩人界』伊波南哲「詩のコンクールに就て」
1940年3月ー『大法輪』伊波南哲「詩魂の発見」
1940年8月ー『旅』伊波南哲「放浪の旅」
1940年10月ー『旅』伊波南哲「南進の先駆・琉球の糸満漁夫」
1941年5月ー『旅』伊波南哲「爬龍船物語」
1942年4月ー『旅』伊波南哲「琉球と八重山への旅」
1942年5月ー『旅』伊波南哲「南海の漁夫・鱶と格闘する糸満人」
1942年6月ー『旅』伊波南哲「敵艦見ゆ」
1942年8月ー『旅』伊波南哲「女護ヶ島物語」
1942年11月ー『日本詩壇』伊波南哲「時局と聯盟」
1943年1月ー『むらさき』伊波南哲「郷土行事への断想」
1943年2月ー『むらさき』伊波南哲「九年母」「琉球風土記・情熱の愛国詩人恩納ナビ女」
1943年3月ー『むらさき』伊波南哲「鷲を歌う女詩人」
1943年5月ー『むらさき』伊波南哲「人魚の話」
1943年6月ー『むらさき』伊波南哲「瓦焼く煙」
1943年8月ー『むらさき』伊波南哲「綱引」
1943年9月ー『むらさき』伊波南哲「颱風の眼、与那国島」
1943年10月ー『むらさき』伊波南哲「君南風ー海洋遠征の先駆者」
1943年12月ー『むらさき』伊波南哲「琉球と龍宮」
1944年1月ー『むらさき』伊波南哲「八重山郡島の民謡」
1944年11月ー伊波南哲『琉球風土記』泰光堂(装幀挿絵・竹谷富士雄)
1945年5月ー『週刊少国民』伊波南哲「伊舎堂大尉と通信筒のお話」


伊波南哲 いば-なんてつ
1902-1976 昭和時代の詩人,作家。
明治35年9月8日生まれ。東京の丸の内警察署に勤務しながら,佐藤惣之助に師事。昭和11年の長編叙事詩「オヤケ・アカハチ」が代表作で映画化もされた。晩年は詩誌「虹」を主宰。昭和51年12月28日死去。74歳。沖縄県出身。本名は興英。著作に「交番日記」,詩集に「銅鑼(どら)の憂鬱(ゆううつ)」など。(コトバンク)


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歌誌『梯梧の花』

2016年10月 梯梧の花短歌会『合同歌集ⅤⅢ 梯梧の花』発行所 〒902-0061 那覇市古島2-18-12 島袋盛慎方



仲里正雄・撮影「デイゴ」
原産をインドとする沖縄が北限のマメ科喬木落葉樹。3〜5月に独特の枝ぶりに、深紅色の燃え立つような花を咲かせる。南国沖縄を象徴し、観光資源として大きな効果があること、また幹は漆器の材料として用いられ経済的価値も高いという理由で、昭和47年に県の花として制定された。(→沖縄大百科)


2011年9月18日『琉球新報』喜納勝代(すみれ歌会主宰)『合同歌集VII 梯梧の花』 強く生きた足跡を描写
 海底プレートの揺らぎで思わぬ東日本大震災が起こった。映像を見る限り焦土と化した沖縄戦がよみがえった。東北の人々は勇気を持って立ち上がってほしい。『合同歌集VII 梯梧(でいご)の花』が通巻80号記念号として発刊された。出詠者は21人、1人30首で630首を収めている。表紙は紺碧の空に映える真っ赤なデイゴの花である。沖縄のナイーブな詩歌がデイゴの花のように命あふれている歌群である。
 「梯梧の花」の創刊は昭和3(1928)年。今から83年前に結成された、沖縄では最も長い歴史のある短歌結社である。それは会員の質の高い知性とたゆまぬ努力の賜物であろう。会員の吉川安一は「はじめに」の一文で「短歌は、多くの人に愛され詠まれ、短歌人口を形成する。歌人は、人生の季節を重ね、歌歴を積んで、短歌創造の喜びを味わう」と説いている。「梯梧の花」の先輩歌人たちがほとんど逝去した今日、今の歌人たちがしっかりと受け継いでほしい。昭和50年代に私も時々同会に参加させていただいたが男性が多かった。現在は女性が多く、頼もしく思う。
 多くの会員が歌集を出すベテラン歌人たちである。長い年月を経て詠まれた歌作には優しさと厳しさを感じさせる。沖縄の厳しい現実と相対しながら自然や家族、戦争、基地、生活諸般を詠む。時にせつなく、またたくましく生きてきた足跡が細やかに短歌に描写される。本書は沖縄のソフト面を知る手近な手引書になるのではないだろうか。
 サイパンの戦場は仲村繁一の作品で学び、沖縄戦は長田紀春の歌を読むとつらくなる。私も幼いころに南部を逃げ回った記憶があるので身につまされる。沖縄戦がもたらした基地の問題は未解決のまま宙ぶらりんになっている。人間の鎖に参加したそれらの短歌にも共感したが、一番つらかったのはサイパンや地上戦の悲痛な叫びである。沖縄の自然詠や家族の歌には心が和んだ。それぞれ個性が磨かれていて粒ぞろいである。より一層の努力で先輩歌人たちを乗り越えてほしい。

1976年10月27日ー久茂地文庫開設

写真・久茂地文庫で、右端が真喜志康徳氏、4人目、屋部公子さん、喜納勝代さん
1978年5月ー久茂地文庫1周年記念文集『照千一隅』


左から屋部公子さん、喜納勝代さん、船越義彰氏、星雅彦氏、新川明氏

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「伊江島のヰーハチャ展ー島の香りをキャンバスにのせて」
〇伊禮芙紗子/阿部好弘


知念登治氏(〒251-0045 神奈川県藤沢市辻堂東海岸2-2-17 ☎FAX 0466-34-0892)と作品「寓意一変容」

知念登治氏作品「城山眺望」

知念登治氏作品「凱風の城山」

〇上田市前山の夢の庭画廊では23日まで、沖縄県出身の画家、知念登治さん(69)=神奈川県藤沢市=の個展を開催中。白黒刷りと多色刷りの木版画作品27点を展示している。知念さんは太平洋戦争の沖縄戦の渦中の伊江島に生まれた。東京芸術大学油絵科に入学し、同大学院で版画も学んだ。当初は国画展に出品したが、現在は無所属。過去に長野市や中野市で個展を開催したことがあるが、上田市での個展は初めて。今回は新作の多色刷り作品も出品しており、知念さんは「作品に深みを出すため、シンプルな表現と沖縄をイメージした鮮やかな色彩で表現しました」と話していた。
 展示時間は午前10時〜午後6時(最終日午後3時)まで。水、木曜日は休廊。
(電話)0268・38・3236(夢の庭画廊)→『東信ジャーナル』2011年11月12日


玉城照政氏と作品「旧阿良の港桟橋」「ニライカナイの入口」

玉城照政氏作品「旧阿良の港桟橋」
 
画家の玉城さん「日現展」最高賞を受賞 後進育成へ賞金寄付
 【伊江】大阪市で開かれた第34回日現展(日本現代美術協会主催)で、宜野湾市在住の玉城照政さん(75)が、最高賞となる日現大賞を受賞した。19日、伊江村役場を訪れ、島袋秀幸村長に受賞報告をした。→『琉球新報』2015年5月24日


島袋和幸氏(左)、長嶺福信氏

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1977年3月 沖縄の雑誌『青い海』№61号 照屋照和「自然界の大主・園原タンメー」


1992年9月4日『琉球新報』「帰郷するのに苦労/」長野県引き揚げ者資料/資料を見る前国頭村教育長の園原繁さん」


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天野鉄夫氏の著作/下中央に『新聞から見た園原咲也先生の横顔』



1935年5月 『沖縄県山林会報』沖縄県山林会 園原咲也「琉球樹木の比重調査」


1952年6月 園原咲也『琉球有用樹木誌』(琉球林業試験場集報№2)

2001年2月 『ウォーカー博士の見た沖縄の原風景~米国植物学者の偉業と写真で蘇る1950年代の沖縄~』ウォーカー博士展実行委員会


左上ー園原咲也、下が天野鉄夫

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右ー1999年2月5日 南風原文化センターで左が池原正雄氏、
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池原正雄氏発行のミニコミ紙『てんさぐから あなたへ』 

『琉球新報』2002年11 月5日 □「沖縄遊学レポート」出版/鳥取県の池原正雄さん
鳥取県で長年、沖縄を紹介するミニ文庫「てぃんさぐぬ花」を開き、沖縄好きが高じて県内の大学で2年間学んだ池原正雄さん(56)=鳥取ピース・クロス世話人=がこのほど「爆音の中の平和学-私の沖縄遊学レポート」と題した冊子をまとめた。沖縄に住んで実感した爆音などの基地被害、本土と違う沖縄ハンセン病事情、県内各地の祭りなどをエッセーや写真でまとめた。
池原さんは「爆音や普天間基地移設をめぐる動きなど沖縄で起こる問題は鳥取にも通じる普遍的なもの。でも住んでいないと見えないこともある。大事なことが大きな流れの中で忘れられないか、問う作業を続けたい」と話している。鳥取県職員として勤める傍ら被爆者支援やハンセン病問題に取り組んだ池原さんは、学生時代に復帰前の沖縄を訪れ、関心を持った。1983年には自宅の一室にミニ文庫を開き、鳥取で沖縄の問題を考える場を13年間提供。基地問題などを紹介する通信を年8回発行してきた。99年に沖縄へ短期移住。沖国大、沖大で2年間学んだ。冊子の「基地の町のカジマヤー」では北谷町砂辺を取り上げ、花で飾ったオープンカーに乗るおばあさんの様子や容赦なく襲う米軍機の爆音を描写し、「平和への取り組みと、人々の強い絆(きずな)に裏打ちされた祝賀が子供たちに命のメッセージを送っている」と書いている。

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1926年5月ー『沖縄及沖縄人』<沖縄救済問題号>創刊号□埼玉公論社・埼玉県所沢町
□「沖縄及沖縄人の使命」・・・・・・・・・2-3
「より良き沖縄を建設せよ」・・伊波学人・13
○斯ふ云ふ見地からして、相互ひに同じ風俗習慣、生活を持っている人々が、それ自身の生活拡充のためにモンロー主義を主張すると共に各個人にあっては、自我の権威を飽迄認識すると共に、之が拡充せんことを乞ひ願ふのは自然である。人類がモンロー主義、自我への自覚のプロセスを辿り然してより自然な、より真実なる競争闘争する所謂生存競争が生ずることに依って不自然なものが倒れ、よりよい意味のものが創造され、成長するのである。人類の進歩向上は自覚するに 上の事実を要約したものを称するのである。
沖縄モンロー主義、沖縄スピリットの依って立つ処の基調なり概念は沖縄県人が、排他的、偏狭な立場を固執せんとするのでなくして、全日本をよりよくする前提として、先づ沖縄県に生まれたものは先づ、よりよき沖縄を作り、延て其気運を普遍化し他に及ぼさんとするに他ならぬのである。

「沖縄及沖縄人の発刊を祝す」・・渡口精鴻・・13-14
「貴族院議員・伊江男爵訪問記」、「京浜学生会近況」、「沖縄県の新聞界」、「郷土通信ー名護公園計画、警部合格者、海外発展の県人、矢作博士講演、阪神那覇直航、憲政支部活動、東宮記念碑、沖縄青年同盟」、「在京県人動静」、「発刊に至る迄」、「京浜沖縄県人名簿」、「読者の叫び」、「編集後記」
○同誌は沖縄朝日新聞東京支局長の小那覇三郎も事業部主任として参加。同年6月号には山田真山の弟子真帆による「山田真山画伯出世物語」、「東京美術骨董界の重鎮」として三槐堂上運天令儀が紹介されている。のちにハワイ・ホノルルに在住する幸地朝則は一時、母の妹の夫が経営する三槐堂につとめていて、この頃のことを崎原貢『がじまるの集いー沖縄系ハワイ移民先達の話集』で述べている。

1926年
『沖縄及沖縄人』7月号

『沖縄及沖縄人』9月号
沖縄救済より新郷土文化の建設へ・・・・・・・・3
十人十色・・・・・・・・・・・・渡口精鴻・・・・・・4-5
沖縄救済問題概論・・・・伊元富爾・・・・19-23
早老亡国論・・・・・・・・・・徳山浩一・・・・6-8
関西に於ける県人と事業へ・・・・・・・・・・12-13
琉球史概観・・・・・・・・東恩納寛惇・・・・・・・9-11
野島
郷土思慕と先輩に就て・・・宮里定顕・・・・・5-6
東京球陽倶楽部生る・・・・・・・・・・23-24
県内外事情・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16-18
他府県事情・・・・・・・・・・・・・・・・・15-16
在京県人名簿(二)・・・・・・・・・・・・・28-29


『沖縄及沖縄人』12月号

1927年
『沖縄及沖縄人』1月号

1932年1月ー大宜味朝徳『最近の秘露事情』東京・海外研究所
1933年
『南島』(第一号、2,3,4,6,7,8号)
1934年
『南島』(第9号、10,11,13,14号)  
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8月ー大宜味朝徳『我が統治地南洋群島案内』東京・海外研究所

1937年
11月ー大宜味朝徳『現代沖縄県人名鑑』東京・海外研究所

12月ー大宜味朝徳『海外人事録』東京・海外研究所
1938年
8月ー大宜味朝徳『沖縄振興と精神作興』南島社


左から 仲宗根源和、大宜味朝徳、兼次佐一、瀬長亀次郎

1954年
4月ー大宜味朝徳『琉球案内』沖縄興信所
1963年
7月ー大宜味朝徳『目で見る琉球写真案内』沖縄興信所

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左が大城尚子さん、仲田幸司氏


写真左から屋嘉宗彦氏、比嘉豊光氏、伊佐眞一氏、仲田幸司氏

2017年6月 『「時の眼ー沖縄」批評誌N27』 No.8 屋嘉宗彦「沖縄・未来の理想郷への展望ーマルクスのユートピアと『憲法試案』再考」


沖縄タイムス 2017年1月22日
 しまくとぅばプロジェクト2016「鼎談(てぃだん)・ないるかじり しまくとぅばっし かたてぃんじゃびら『伊波普猷』」が15日、県立博物館・美術館であった。沖縄学の創始者・伊波の思想や課題を、研究者らがしまくとぅばだけで約3時間語るユニークな取り組みに約100人が詰め掛けた。伊波の思想を、登壇者が生活実感を込めてしまくとぅばで生き生きと表現した。主催沖縄美ら島財団。
 伊波を研究する伊佐眞一さん(沖縄近現代史家)が沖縄の近代、伊波による沖縄学について報告。明治政府による琉球処分で、政治や文化、暮らしもヤマト風に変わった結果、沖縄の人々が「どぅーがどぅーやら、まーぬたーやがんでぃ わからんなてぃいちゅん(自分自身がいったいどこの誰か分からない)」と説明した。
 激動の近現代を生きた伊波が着目した沖縄の個性。伊佐さんは「うちなーんちゅが、むっちょーるタマシんりしぇー、たーちとぅねーらん(沖縄の人の精神性は他と比較しようがない)」と表現した。しかし「日本帝国、ヤマトぬなーかんかい、あてぃ決まいん。日本ぬ国離れてー、ないるむんあらん」と述べ、個性は日本との関係性において発揮されることが前提だったと指摘した。 
 第2部では、屋嘉宗彦さん(法政大学名誉教授)、比嘉豊光さん(写真家)も加わり、仲田幸司さん(阪大大学院在学)のコーディネートで、伊波の思想が現在沖縄にいかに影響しているかを、しまくとうばで討議した。

 うちなーぐちし ちゃー あびーそーねー、やまとぅぐちし 書ちぇーる レジュメぬ 文言(むんぐん) 読むんちすんねー、読みかんてぃーし 舌(しば)かんちーねー すたん。うちなーぐちぬ あびーよーし、やまとぅぐちぬ 文言 読みがーたーん すたん。昔(んかし)ぬ うちなーんちゅんかいや、やまとぅぐちや じゅんに 「外国語」どぅ やたんでぃしが ゆーわかいん。うちなーぐち すしとぅ、やまとぐちすしや、口ぬ なーかぬ んじゅかしよーぬ 違いんでぃしが わからんねー、うちなーぐちぇー じゅんねー あびゆーさんやー。ひらがな とぅ 漢字しぇー 書からん 発音ぬ うすまさ まんでぃる をん でー。うりが ならんかじれー、うちなーぐち ないんでー 言ららん。

 ちぬーや、なーふぇー よーんなー、また やふぁってーんぐゎー 話しぶさー あたしが、時間ぬ ちゃんさくん ねーらんどぅあぐとぅ、犬(いん)なかい 追わぁーとーんねー すたさ。

 やしが、んかしぇー 伊波(いふぁ)さん、太田(うふた)さん、東恩納(ひじゃうんな)さんたーや、んな むちかさぬ はなしん、むる うちなーぐちし しる をくとぅ、わったー ゐぬ うちなーんちゅが ならんでぃちぇー ねーやびらん。ないんどーん でぃち、し 見しぃらん かじれー、ちょー、たーん がってぃんのー さんさ。口(くち)びけーん くさむにーぬ 学者ぬ、うちなーや  まんでぃやー。

          

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1938年9月 木村毅『小説研究十二講』新潮文庫/1945年12月 木村毅『甘藷傳來記』開成館〇甘藷傳來記・・・ところで種子島は琉球に近い。その頃の琉球は、まだ日本の領土ではなく日清両属と申して、支那を父とし、日本を母とすと云って両方についていた國であります。幕府は鎖国して、外国とは往来せぬ建て前になっていますから、琉球の監理は鹿児島の島津家に任せた。種子島弾正久基は先に申す通り、島津家の家老職をつとめている上に、距離が近いから、琉球とはゆき來がある。その中に、甘藷が大変に結構なものだといふことを聞いて、琉球の王様に願はくばその種子を少々贈って頂きたいと云って無心をしてやりますと、竹籠に入れて贈ってきました。これが元禄11年3月でありました。これを
種子島久基は西村権右衛門といふ者に云ひつけて、植えてみよと命じた。この西村権右衛門は、明治時代の儒者として聞え、又大阪朝日新聞の主筆をしてをられた西村天囚博士の遠い先祖であります。/鎮西八郎為朝ー南海の琉球列島、その中心をなす沖縄!これを思ふて血の湧き立たぬ者が、皇国一億同胞の中に、只の一人でもあるでありましょうか。戦争中沖縄県民の奮戦ぶりを讃えて、先頃徳富蘇峰先生が『さすがに源為朝の子孫だけの事がある。鎮西八郎の血に耻じないものだ』といふ事を書いてをられた。・・・


1948年7月 木村毅『小説の創作と鑑賞』暁書房

1955年3月『明治文化全集 月報№3』日本評論新社 木村毅「未開拓の新聞史源」
1955年3月『明治文化全集 月報№3』日本評論新社 木村毅「未開拓の新聞史源」
○日本の新聞史の材料も、国内にあるかぎりは、小野秀雄氏を主軸として何十年にわたる努力の累積で、九分九厘までほり出されたといってよかろう。オランダ関係の史源は板沢博士によって、かなり明かにされてきている。これに反しアメリカは、英語だから、着手できる人が多いにかかわらず、その史源がほとんど処女地のままで、うっちゃらかしになっているように思う。
 
日本の新聞の元祖は、ジョゼフ彦である。彦は自伝があり、さらに故人の石井研堂翁や小野氏によって、まだ生存していたころ、未亡人までたずねて、埋もれた資料が開発せられたので、あそこまで探索されておれば、吾々はその努力と成果に一おう満足せねばならぬ。(略)明治維新や、さらに咸臨丸の太平洋横断よりも、更にさかのぼって、ペリイの黒船来航以前のジョン・万次郎やジョゼフ・彦時代から、新聞記事をあさってくれば、今まで不明だった国史の陰影が多少ともうかび出てくるであろうし、ことに彦は、その後ワシントンにいってからも、社交界の寵児としてひどく新聞でさわがれているのだから、これらの記事だけは、誰かによって、コピイされて、日本におくられることを希望してやまない。


1955年6月『明治文化全集 月報№5』木村毅「櫻洲山人をめぐりて」
○本全集の読者は、だいたいアカデミックな学風を愛する人が多いと思う。そういう人は正史にこだわって、小説や、巷説や、伝聞を無視するうれいがある。しかし、それにも時代の雰囲気としての正しさは含蓄されている筈だから、これを参考にしないでいい理由はない。中井桜洲山人などは、ことに、その方面の材料の多い人物だ。(略)あの頃の風流人のならいで、桜洲の家庭は吾々の模範になるようなものではなかったと思うが、私は、この人の風格は非常にすきで、いつか一度小説にかいてみたいと思って、前に、いろいろ材料をあつめたことがあったが、今は多く散逸してしまった。

1982年6月 木村毅『日米文学交流史の研究』恒文社「第25章 アプトン・シンクレェアの『ジャングル』」

きむらき【木村毅】
1894‐1979(明治27‐昭和54)
大正・昭和期の小説家,評論家。明治文学研究の先駆者。岡山県に生まれる。1917年早稲田大学英文科を卒業し,隆文館,のち春秋社で編集者として活躍するかたわら評論活動をする。23年退社し,近代小説の理論的研究を行う(《小説の創作と鑑賞》1923,《小説研究十六講》1925)。一方,24年には日本フェビアン協会の創設に参加し,日本労農党の出版部長を務める。また明治文化研究会に入り,第3代会長となる(1948)。(→コトバンク)
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沖縄の雑誌『青い海』98号 太田良博「ジョン万次郎外伝ー摩文仁からはじまった開国の曙光」

写真左から嘉陽安男氏、新城栄徳、太田良博氏


1986年9月 井伏鱒二『さざなみ軍記・ジョン万次郎漂流記』新潮文庫(万次郎漂流記の初出は1937年で、木村毅の蒐集したジョン万資料に拠る/1938年(昭和13年)、「ジョン萬次郎漂流記」で第6回直木賞受賞、『文学界』誌の同人となる。)〇・・・そこで短艇に積んでいた台所道具を運んで来て、牛豚の肉を料理して前夜以来の空腹を充たし、コーヒーも飲んだ。そうして食後の休息をしていると、そこへ土人が来て手真似で3人を案内しながら番所のような仮小屋に連れて行った。土人等は彼等3人を外国の漂流人と思っていた。この島(沖縄島マブニマギリ)の土人等は漂流人の取扱い方が上手であった。親切に飲水を汲んで来てくれるものもあるし、甘藷を持って来てくれるものもあった。米を持って来てくれるものもあった。・・・


2016年1月12日-新年の挨拶がてら金城先生を訪ねた。-写真左から、音楽家の大城政明氏、歯科医の金城竹治氏、和田達雄氏(NPО法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会広報部長/携帯 090-2143-6306)

2016年12月16日 バジル・ホール来琉200周年記念碑除幕式での大城政明氏

写真左から大城政明氏、渡口彦邦氏

2017年1月8日『琉球新報』渡口彦邦「声ー沖縄の『独立』は当然」


写真左から大城政明氏、安仁屋眞昭氏


「中濱萬次郎 家系図」(部分)NPО法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会広報/和田ジョンたつお

2001年7月発行の川澄 哲夫 (著), 小沢 一郎 (監修), 阿川 尚之『ジョン万次郎とその時代』:廣済堂出版を見た。和田さんに聞くと、政治家の小沢氏と同一人物という。また沖縄のジョン万次郎団体と小沢氏の関わりを話してくれた。

   
1851年2月2日 ジョン万次郎、琉球(大度浜)上陸


2017年1月10日 ジョン万次郎、琉球上陸の地を訪ねる。そこで、雑草を刈っていた和田達雄氏(NPО法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会広報部長)に遭遇。 写真ー新城栄徳、右が和田達雄氏(高知県吾川郡いの町越裏門出身)。下記は和田氏のジョン万次郎資料

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2017年1月 城谷一草「春秋庵雑筆⑳<シーサー作り>
 私の人生は、その大半を焼物と共に過ごしたので、焼物無しに私の人生はあり得ない。沖縄との交わりのなかでシーサーとの関わりが深くなってきた。諸説あるが、シーサーの祖先はエジプトのビラミッドを守護したスインクス説が強い。中国で獅子と親しまれた獅子が日本に来て、中国同様、獅子舞で愛される一方、神社等の守護で民衆に愛された獅子は沖縄に渡来して、石のシーサーで全島に60余体が各村に置かれて村民を守護し、村民に深く敬愛されてきた。更には各家庭の屋根、門柱から家の中心の床の間にまで置かれ人気者的存在である。このシーサーは民芸店でも様々な陶芸品が置かれている。
 80歳で、ギャラリーを閉じ、無職になったときから、退屈から手遊びにシーサー作りを始めた。作るほどに愛らしさが増し、その作成が日課となっている。


2017年1月 城谷一草「春秋庵雑筆㉑<童話と老話>
 人間は年を取ると子供に戻りますが、違うことは子供には経験が無いが、老人には各々の体験が断片的にせよ残っているのです。例えば童には童話、老人には老話があっていいと思うのです。そこで、私なりに老人の為に色んな話を綴ってみたいと思うのです。
 特に吾々の年代は、今からは恐らく体験することは無いと思う「大東亜戦争」があり、有史来、初めての敗戦と貧苦がありました。戦争が無かったら、そんな苦労も無かった筈ですので次の世代にはあんな苦労はさせてはならないと思います。その苦しかった吾々の国は、戦争に敗れた国民は、贖罪的行為からか、経済の飛躍を目指して、世界一の高度成長も成し遂げてきました。
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1973年12月 沖縄の雑誌『青い海』1月号 通巻19号 具志堅以徳「沖縄に帰化した中国人」

 1984年頃、私は沖縄の近代美術史に関心があって、金城安太郎さんや、具志堅以徳さんに聞き書きをしていた。その時に浦崎彦志氏がニシムイについて調査していることは知っていた。当方は現代美術には関心が薄かったので、画廊などで浦崎氏に会っても余り会話はしなかった。それでも少しは雑談で彫刻などの話は記憶に残っている。本書には写真が多用しているので、写真・現代美術史ともなっている。惜しむらくはキャプションの無いのが多い。これは沖縄県立美術館の学芸員の宿題になっている。

2015年6月 浦崎彦志・仲井間憲児『わが心の美術村 にしむい 幻の西森美術館』浦崎彦志


写真左から画家の久場とよさん、画家の金城安太郎氏、芭蕉布の平良敏子さん、著者で医者・画家の浦崎彦志氏、画家の城間喜宏氏
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 2000年8月21日『沖縄タイムス』「知られざる歴史上の写真ー軍医・渡辺重鋼、教育者・豊川善曄」(島袋和幸)/5月27日『沖縄タイムス』「明治の貴重な写真発掘ー山田実さん保管、新城栄徳さん調査」/10月2日『琉球新報』新城栄徳「近代沖縄観光文化史ノートー沖縄に来た画家たち」/12月3日『琉球新報』新城栄徳「書評ー野々村孝男『写真集・懐かしき沖縄』/2001年10月9日『おきなわ写真の歩み』新城栄徳「沖縄写真史散歩」
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2001年10月ー沖縄県写真協会『おきなわ写真の歩み』新城栄徳「沖縄写真史散歩」
1609年、フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴを乗せたサン・フランシスコ号が千葉の御宿沖で座礁、上総国岩和田の村人によって317名が救助されたという。その千葉県御宿には鹿野政直氏が住んでおられる。氏の著『近代日本の民間学』(岩波新書1983年)、『近代日本思想案内』(岩波文庫1999年)がある。何れの本にも私が関心をもっている柳田国男、折口信夫、南方熊楠、柳宗悦、伊波普猷が登場する。2008年2月に岩波書店から『鹿野政直思想史論集』第4巻が刊行された。沖縄特集ということで私も著者から贈られた。中の追記に「末吉麦門冬については、のちに新城栄徳氏から、同氏編・刊『文人・末吉麦門冬』(『琉文手帖』2号、1984年12月)の出ていることを教えられた。小冊ながら、彼の写真・筆蹟・随筆選に、伊佐眞一編の「末吉麦門冬と新聞」「著作目録(抄)」などを収めており、麦門冬研究の基礎文献をなす」と書かれている。また沖縄学について私が提供した新聞にもふれている。


2001年10月ー沖縄県公文書館『写真にみる近代の沖縄』

2006年6月 『山田實クロニカルー沖縄と写真と私』□仲里効「はじめに」、東松照明「戦後写真史の幕開けに立ち会う」、洲鎌朝夫「写真機を操る人。操られる人」
2008年9月 朝日新聞社『アジアとヨーロッパの肖像』(9月11日~国立民族学博物館/国立国際美術館)

2009年1月 沖縄県立博物館・美術館『移動と表現ー変容する身体・言語・文化』

2010年3月 壷屋町民自治会『なつかしの壷屋』(山田實/森幸次郎)
今、『琉球新報』に「山田實が見た戦後沖縄」が連載されている。それを見て思うのは、10・10空襲を得て沖縄戦で灰燼と帰した那覇での写真を始め幼馴染の伊波國男(伊波普猷の次男)の写真と卒業証書や辞令書などが残っていることに驚く。これなどは肉親が県外に住んでいた結果であろう。山田さん本人もシベリア抑留から生還し健在だからこそ、これらの写真、資料が活きている。(2010-3-30)
同年に岩宮武二が『日本の工芸』別巻・琉球の取材で来沖。琉球新報の依頼で山田さんが案内をつとめた。別巻・琉球は外間正幸文で淡交社から刊行された。同著には岩宮のサインがある。69年2月に那覇栄町の栄亭でニッコールクラブの沖縄有志による東松照明歓迎の集合写真もある。74年11月の八汐荘での「沖縄写真学校」は山田さんの写真館が窓口であった。そのときのポースタが山田さんのところにあるが講師の荒木経惟、東松照明森山大道、深瀬昌久細江英公の全員のサインがある。

2010年11月 沖縄県立博物館・美術館『母たちの神ー比嘉康雄展』(1968年11月19日未明のB52爆撃機が嘉手納空軍基地で墜落炎上。この事件を転機に嘉手納警察署を退職し、東京写真専門学院報道写真科入学。)

2011年1月 沖縄県立博物館・美術館『安谷屋正義展ーモダニズムのゆくえ』山田實「エッセイ・沖縄美術界の逸材、早い別れ」
2001年3月ー那覇市歴史博物館『𤘩宮城昇の写した世界ー埋もれていた昭和モダン』

2010年3月6日午後1時にパレットくもじ前で「豊前海一粒かき」の試食があった。リウボウ6階では「第12回青森県物産と観光展」が開かれていた。アップルジュースを飲み会場を見る。梅干しもある。梅干は和歌山県というイメージが覆された。和歌山県には秦の徐福の墓があるが、青森県の小泊には徐福の里公園があり徐福像もある。いま巷では坂本龍馬がブームである。その出生地の土佐は南国とも云われている。青森などは北国である。
午後2時、那覇市歴史博物館で「本土人が見た1950年代の沖縄」の撮影者・小野田正欣氏ご本人による当時の状況解説の講演を聞く。展示写真の中に、1953年完成したばかりのペルリ記念館(戦前の首里城北殿に似ている)や、沖縄民政府立首里博物館、東恩納博物館の写真もある。私は沖縄滞在のときの小野田氏の写真と、話をされている小野田氏を比べていた。その当時、私は5,6歳であった。

2011年11月 国立歴史民俗博物館「風景の記録ー写真資料を考えるー」(~2012年1月)

2012年1月 沖縄県立博物館・美術館『沖縄近代彫刻の礎 玉那覇正吉展ー彫刻と絵画の軌跡』

2012年3月 沖縄県公文書館『ARCHIVES』第42号 □米軍や米国政府が撮影した戦中、戦後の写
真、琉球政府が撮影した復帰前の写真はすでに6万枚以上がデジタル化され、館内やホームページで公開されています。琉球政府関係写真/米国政府撮影写真/ハワイ移民関係写真。

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1966年2月、琉球新報の依頼で山田写真館の2階で、二科の東郷青児が琉装の宮平敏子さんをモデルにスケッチしているところを山田實さんが撮った。そのときの記念写真には、大城皓也、平良進、東郷青児、吉井淳二宮平敏子が写っている。お礼の東郷青児から山田さん宛のハガキがある。1986年1月24日『週刊レキオ』には東郷青児の絵、9月19日にはモデルの宮平さんの娘時代の写真が載っている。
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1966年2月16日、山田写真機店2階で山田實撮影。東郷青児を前に後右から宮平敏子、吉井淳二、平良進、大城皓也
東郷青児
戦後のある日、有島生馬らと長野県に疎開していた東郷青児は列車で東京に向かった。戦前、軍部から「フランス文化の植民地」と云われて解散させられた二科会の再建を全国の有志に呼びかけるためだった。東郷は再建のためには、二科展覧会をお祭り騒ぎの見世物と、自らを風俗画の職人に堕落しているとの批判も無視。二科に写真、商業美術、マンガ部などを新設し二科を東郷調に近代化した。また日仏交流も促進した。東郷は「明治の藤島武二、大正の竹久夢二、この三代の三ジによって日本の洋画の人気は博している」と語り胸を張ったという。
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1986年1月『週刊レキオ』№43「沖縄のモナリザー東郷青児画伯の『琉髪』はいま、どこに」
1986年9月『週刊レキオ』№77「沖縄のモナリザがみつかりましたよー東郷青児画伯の琉髪美人画のゆくえ


1967年12月・3日『毎日グラフ』笠原友和「東京から飛んで3時間だが遠のく島」


1970年7月『アサヒグラフ』「被爆直後の広島・長崎」(山端庸介撮影)山端庸介 1936年 - 法政大学中退。父が経営するジーチーサン商会(サン商会を改称)にカメラマンとして就職。ジーチーサン商会は戦時中に山端写真科学研究所(□1943年ー𤘩宮城昇も勤めた)と改称。1943年に東京有楽町の日劇および大阪高島屋の正面に掲げられた100畳敷写真大壁画「撃ちてし止まむ」の撮影・制作に関わったことで知られる。その後敗戦にともない解散。(→ウィキペディア)

私が写真機を手にするようになったのは息子が誕生(1974年)したときで、成長ぶりを記録しょうと住吉大社近くのカメラ屋さんで中古のオリンパス一眼レフカメラを購入したのが最初である。

1974年11月20日~25日 那覇・八汐荘「写真学校WORKSHOPin沖縄」 


1976年『中央公論』12月号 濱谷浩「昭和女人集ー玉城美千代(大城政子琉舞道場)/大宜味静子(小太郎夫人)/糸数カメと愛弟子の仲宗根玲子/島袋光史と高良ベテイ/久高恵子(民謡クラブ)/エイサー謝苅青年会/カチャシーの与那城カナ(82)/藤村玲子紅型工房での玉那覇弘美、伊佐静子、堀川文子/宮平初子染織工房の具志堅清子/新垣栄三郎の妹・菊/吹硝子の宮城嗣俊夫人・静子/菓子天ぷら揚げの照屋林徳夫人・千代/市場の女性たち/市場の一角の化粧品店/守礼門前の宜保清美/東京コンパの武美、アキ/コンパバブロの絹江/那覇まつり・第一回ミス那覇選出大会/国際通りを口笛を吹いて歩く老女/斎場御嶽の中村美津」(敬称略)同誌には上原栄子「辻(くるわ)の女たち」も載っている。」


1978年6月『オキナワグラフ』「6月1日・写真の日/7人のカメラマン」

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1979年3月 『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社


『コミックおきなわ』1987年に創刊された沖縄初の月刊まんが雑誌。B5判、約200ページ。第23号より隔月刊。90年の第30号の後休刊。新里堅進、田名俊信、大城ゆか等、県内20人余のまんが家の作品を掲載する他、新人も発掘した。


細江英公
細江英公 ほそえ-えいこう
1933- 昭和後期-平成時代の写真家。
昭和8年3月18日生まれ。三島由紀夫をモデルにした写真集「薔薇(ばら)刑」(昭和38年)が話題をよび,土方巽ととりくんだ「鎌鼬(かまいたち)」で45年芸術選奨。50年母校東京写真大(現・東京工芸大)の教授となる。平成6年日本写真協会年度賞。20年「胡蝶の夢」「球体写真二元論」で毎日芸術賞。22年文化功労者。作品はほかに「抱擁」「ガウディの宇宙」など。山形県出身。本名は敏広。(→コトバンク)

深瀬昌久 ふかせ-まさひさ
1934- 昭和後期-平成時代の写真家。
昭和9年2月25日生まれ。第一宣伝社,日本デザインセンター,河出書房をへて,昭和43年フリー。コマーシャル撮影のかたわら,雑誌に私小説的なドキュメント写真を発表する。52年伊奈信男賞。平成4年東川賞特別賞。北海道出身。日大卒。写真集に「洋子」「鴉(からす)」など。(→コトバンク)

森山大道 もりやま-だいどう
1938- 昭和後期-平成時代の写真家。
昭和13年10月10日生まれ。昭和43年寺山修司との共著「にっぽん劇場写真帖」は,あらい粒子とつよいコントラストによる表現によって,1970年代の写真界におおきな影響をあたえた。同年「PROVOKE」に参加。58年日本写真協会年度賞。平成15年「新宿」で毎日芸術賞。大阪出身。大阪市立第二工芸中退。写真集はほかに「写真よさようなら」「光と影」,「犬の記憶」シリーズ,「ブエノスアイレス」など。名は大道(ひろみち)とも。(→コトバンク)



1980年3月 那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ』

1983年、人類館事件の写真を見つけ、その背景を調べはじめて写真史に興味を持った

1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)

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1983年6月5日『琉球新報』新城栄徳「関西資料の散策・人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤さん宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤さんが『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤さんに『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」


1985年1月21日『沖縄タイムス』

1985年5月 『政界往来』小板橋二郎「激写で勝負する『フォーカス』と『フライデー』の完全比較」
人類館の写真は彼方此方で触れているので割愛する。1985年3月14日『琉球新報』「沖縄懐かしむハンナ少佐ー金城安太郎画伯に夫人から手紙」/9月11日『琉球新報』「生々しい火災報道、昭和15年の2紙発見、京都の伊藤勝一さんが新城栄徳さんに託す」/9月18日『沖縄タイムス』「戦前の新聞を県立図書館へ、京都の伊藤勝一さんが新城栄徳さんに託す」/1986年1月15日東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』吉川斐出夫「此処に人ありー新城栄徳さん」/4月15日『沖縄タイムス』「『同胞』創刊号はガリ版刷りー新城栄徳さんが確認」/8月18日『琉球新報』「数学の矢袋喜一、検事正・島倉龍治の写真、伊佐真一さんが発見」/12月18日『沖縄タイムス』「本土通信ー大正期の画家たちの貴重な写真みつかる」(島袋和幸) 

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1985年ー那覇市役所にて写真中央・親泊那覇市長、その右・秋山庄太郎、新垣典子、右端・山田實

1987年1月に月刊沖縄社から池宮喜輝『琉球芸能教範』が発行され尚順の書簡も掲載された。94年4月の平凡社『太陽』に古波蔵保好「驚異の美食家 尚順男爵の食膳」、2005年7月の沖縄タイムスに「琉球グルメ男爵の遺言が連載された。私は前々から1964年11月に平凡社から発行された『世界大百科事典』のオキナワの項の明石染人執筆に付いている写真の三線を持っている人物が気になっていた。最近、尚順の娘にあたる知名茂子さんから尚順という証言をえた。

前記の事典の沖縄の写真に浜谷浩撮影の「宮古島の製糖工場」「基地の町コザ」「久高島の風葬」「糸満の幸地腹門中の墓」「ノロ」が載っている。写真家の山田實さんのところには濱谷浩氏から贈られた『裏日本・濱谷浩写真集』があって署名がある。序文は川端康成で、表紙題字は棟方志功である。1963年に琉球新報の依頼で案内を山田さんがつとめたお礼という。そのときに山田さんが撮った写真には小倉保文氏と浜谷氏が写っている。また81年の沖縄三越での「浜谷浩写真集成展」を山田さんが撮った写真や、84年の他に濱谷氏の兄・田中雅夫日本カメラ編集長の講演会の写真もある。



1985年4月 濱谷浩『昭和女人集』毎日新聞社

はまやひろし【濱谷浩】
1915(大正4)‐
日本の代表的なドキュメンタリー写真家。東京に生まれ,1933年(昭和8)にオリエンタル写真工業に入社して,写真撮影と暗室作業の技術を習得する。37年,次兄田中雅夫とともに〈銀工房〉を設立し,銀座,浅草などを小型カメラで取材した写真を発表した。39年〈アチック・ミューゼアム〉を主宰する民俗学研究家,渋沢敬三と出会い,その実証的な記録精神に強く影響されて,新潟県谷浜村下桑取谷(しもくわどりだに)の民俗行事を記録しはじめる。(→コトバンク)

 私は1988年7月、沖縄県地域史協議会の一員として台湾を訪ねた。故宮博物院図書館や、台湾大学の図書館などで琉球史料を見せてもらった。台北市の孔子廟は1927年の日本と統治下のときに建てられた。台南市孔子廟の門には「全台首学」の扁額、左に下馬碑「文武官員軍民等至此下馬」があるが、下馬碑の拓本を購入して、那覇の具志堅以徳さんに贈った。2009年9月28日に那覇市久米至聖廟で午後6時「釋奠蔡禮」があった。司会は垣花稔さんであった。台湾で私たちの世話をしてくれた陳宝来さんも列席していた。文化の杜の國吉貴奈さんも親子で来ていた。

1989年4月18日『沖縄タイムス』「神山宗勲の小説『闘へる沖縄人』見つかる」/7月11日『琉球新報』西平守晴「落ち穂ー美仁柔(沖縄の心)」/11月30日『琉球新報』「琉球新報初代主筆・野間五造像鮮明にー新城栄徳さんが見つける」/12月2日『琉球新報』「金口木舌ー新城栄徳さんが見つけた野間五造の写真や資料」/1990年2月『彷書月刊』新城栄徳「沖縄に来た画家たち」/3月31日『琉球新報』「首里城北殿正面の階段はなかったー新城栄徳さんが明治43年の写真で裏付け」/10月17日『琉球新報』「文化ノートー神山宗勲、新たな人物像判明、新城栄徳さんが発掘」

1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(『新沖縄文学』別冊)新城栄徳」「アルバム麦門冬と正忠」(http://www.geocities.jp/bakuedit/data/book/bk4-mg/mg1/shinoki/90-95/shinoki90-95.htm)3月26日『琉球新報』「これが人類館ー当時の絵、新城栄徳さんが見つける」

荒木経惟
1995年9月ー荒木経惟『沖縄烈情 ラヴ・ラビリンス』新潮社


1997年4月ー与那原恵『物語の海、揺れる島』小学館
□モデルの時間ー荒木経惟と過ごした冬の日の午後

2002年6月発行『噂の真相』に荒木経惟「写真日記・包茎亭日乗182回」が載っている。02-2-20のところに「オキナワ比嘉豊光」と出ている。

2005年5月ー荒木経惟『空事ー2004年 写狂人日記』(歌人 宮田美乃里)スイッチ・パブリッシング

2006年1月ー荒木経惟『写真ノ話』(安藤昇/草間彌生のおチンチン切り)白水社

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 画像とはウィキに「直接描く描画、一時的定着である鏡や水面の反射やカメラオブスキュラ、版を作り転写する版画、カメラや望遠鏡、顕微鏡等の光学デバイスを利用した写真、印刷、モニター入出力等がある。写真で出力した画像は「影像」という。映画やテレビ等に映した画像は「映像」という。デジタルカメラの普及でアナログ画像とデジタル画像の用語も一般化した」とある。ここでは写真を中心にする。

講談社の『日本写真年表』に「1853年(嘉永6)年、5月アメリカのペリー艦隊の従軍写真師Eブラウン.Jr琉球を撮影する」とあり、また那覇のニライ社から刊行された『青い眼が見た「大琉球」』の中にその撮影状況の石版刷りが掲載されている。


1875年(明治8)年に松田道之と琉球処分で来琉した河原田盛美の『琉球紀行』に「写真は既に垣田孫太郎なるもの創めたれとも之を内地に輸送せさるは亦全き利を得るに至らさるなり」とあり、垣田という鹿児島商人の手によって沖縄での写真屋は始められたが短命であったようだ。

現時点で見られる沖縄写真屋の最初の広告は、1895(明治28)年の『袖珍沖縄旅行案内』所載の「岩満写真場ー那覇東村上の倉」で後の上之倉写真館である。それより5年前の1890年の『沖縄県統計』を見ると写真師のところに那覇2人とある。
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沖縄青年会卒業生送別会記念写真ー1896年4月2日/前列右2人目・宮里良盛、4人目・渡久地政勗、2列右から4人目・高良隣徳、3列右2人目・山城正擇(後に写真師)、5人目・富川盛睦ー沖縄県立図書館所蔵

1900年2月 『太陽』第6巻第2号 山城正澤撮影「琉球風景」


1901年2月ー写真集『旅野家都登』第35号(琉球之巻・中山門、守礼門)□発行所は光村利藻。光村は1893年に慶応義塾入学、そこで渡部乙羽、巌谷小波と親しく交わる。

1901年6月『東京人類学会雑誌』加藤三吾「沖縄通信(をがん、仮面、舞踊、丸木弓、古鏡、曲玉等の)ー1月27日の日曜に小生は那覇写真師・山城正澤並に琉球新報主筆・太田天南(両人とも沖縄人にて太田氏は慶応義塾出身に侯)同道にて参り山城は其外面一部を撮影致候」

 

山城正擇写真館/清容館(吉村貞)


1900年4月28日ー写真左から小嶺幸得、渡久地政勗、小嶺幸慶、前列左から渡久地政憑、小嶺幸秀、幸厚(山城正擇謹写)

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2011年『琉球新報』伊佐眞一「沖縄と日本の間でー伊波普猷・帝大卒論への道」10月25日(39回)に、伊波普猷夫妻、金城朝永夫妻と山之口貘、伊波普哲らの写っている写真を金城朝永関連で琉文21から引用している。

11月29日(43回)に「伊波の『海の沖縄人』ー『海上王国』を喚起 沖縄人の自覚、矜持示す」とし伊波を高く評価していることに意表を突かれた。この連載は確か伊波批判が主題ではなかったか。本人に聞くと「いや、見るべきものはチャント見ている」と言うことらしい。

写真家・𤘩宮城昇探求
沖縄・日本の近代史で𤘩宮城昇が見事に欠落している。来年、那覇市歴史博物館でその仕事が紹介される予定だ。志村学芸員が数少ない資料を基に調べている。グシ宮城昇は沖縄j県第二中学校を卒業、1924年に東京高等工芸学校に入学した。

在学中の昇は1926年11月、表調社主催の写真展に「白衣を着たる少女」を出品する。27年11月には表調社第3回展覧会に「詠子さんの像」「MaKe up」を出品。同年、東京写真研究会主催の第16回展覧会に「ひろ子さん」出品し入選する。28年3月、東京写真専門学校()卒業。同年、第3回日本写真美術展覧会(大阪毎日新聞社・東京日日新聞社主催)で特選を受賞。このころ写真雑誌『フォトタイムス』に論考を発表していると思われる。

1930年10月、秀英舎(現・大日本印刷)を退社し帰郷。31年、那覇で「昇スタヂオ」開業する。

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2000年5月27日『沖縄タイムス』写真人物、右から山田有登(写真家・山田實の父)、翁長助成、𤘩宮城宗倫(写真家・𤘩宮城昇の父)、山川文信、山城正好、宮里良貞


1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会ー前列右端に座っているのが山城正綱。真ん中の柱の中列右が瑞雨。左端が比嘉崋山、右へ一人おいて兼城昌興

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沖縄青年会卒業生送別会記念写真ー1896年4月2日/前列右2人目・宮里良盛、4人目・渡久地政勗、2列右から4人目・高良隣徳、3列右2人目・山城正擇(後に写真師)、5人目・富川盛睦ー沖縄県立図書館所蔵
富名腰義珍『琉球拳法 唐手』の処女出版は武侠社から発行された。装幀は小杉未醒、山城正綱が挿絵。山城正綱の父は山城正澤。

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 私(新城栄徳)は1970年以来、京都や大阪の図書館で戦前の新聞を見て、ウチナーンチュの先達の息吹をとらえることを道楽としてきた。ヤマトの人(オキナワにも居る)が沖縄を書いているのを見ると大抵、新左翼崩れの平板で無味乾燥(現実には何の役にも立たない流行モノ)の理屈が目立つ。その中にあって本書は素朴で人間味がある内容となっていて、そのことに敬意を表したい。

本書には当然ながら大阪略図があり沖縄の在阪機関と関連施設が番号で表示され、大正区に集中していることが分かる。大阪における沖縄の情報源である沖縄県大阪事務所、沖縄関係資料室、関西沖縄文庫や、沖縄タイムス、琉球新報の支社と、沖縄の美術品が所蔵されている博物館、美術館も所在地、電話番号を付して紹介されていて便利である。

大阪と沖縄の物流史にもページを割いている。大阪から沖縄へ運ばれた大阪製の船舶、車両、鉄道のレール、人力車などの経過を紹介し、また沖縄から大阪へ運ばれたものに、戦前は砂糖、石炭、牛馬、キャベツ、戦後については花、モズク、ゴーヤーなどを紹介している。そして砂糖の関連では、大阪にもかつてサトウキビ畑が広がっていて、戦前の沖縄ならどこにでもある製糖風景が大阪にもあったことを気づかせてくれる。

多少の誤りを指摘しておくと、年表の明治10年に「沖縄広運会社が大阪に支店『丸一商店』を設立」とあるのは、同じ尚家資本の経営ではあるが、広運社(明治20年設立)と丸一商店は別個で、丸一大阪支店が設立が設立されたのは明治21年である。この設立のことを、明治21年4月27日の京都『日出新聞』は「琉球人、数名大阪に来りて西区立売堀五丁目に三ヶ所の倉庫を借り入れ琉球物産会社を準備中」と報じている。

最後に欲をいうと、「大阪の沖縄」年表もあるので参考文献、索引も付けて小事典としても活用できるようにしてほしかった。が、これはウチナーンチュの今後の課題としよう。 



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〇秋道 智彌(あきみち ともや、1946年 - )は、日本の人類学者。総合地球環境学研究所名誉教授、国立民族学博物館名誉教授。総合研究大学院大学名誉教授。専攻は生態人類学、海洋民族学、民族生物学(英語版)。→ウィキ


2016年12月22日『琉球新報』「あしゃぎー大城和喜さん『伊佐や武士』とたたえる」

2016年12月17日 南風原文化センター「伊佐眞一『沖縄と日本の間で 伊波普猷・帝大卒論への道』タンカー祝えー」

右が南風原文化センター/南風原町立図書館
  
2016年3月 伊佐眞一『沖縄と日本の間で 伊波普猷・帝大卒論への道』上/2016年6月 伊佐眞一『沖縄と日本の間で 伊波普猷・帝大卒論への道』中/琉球新報社 2016年9月 伊佐眞一『沖縄と日本の間で 伊波普猷・帝大卒論への道』下 琉球新報社

上原誠勇氏(画廊沖縄)「かりー ちきやびら」〇ふぇーばるぬ 神里んちゅ 上原誠勇さん。そー うちなーんちゅぬ うちなーぐち し、うちなーんちゅや なまから ちゃーさんねー ならんでぃち いい話 そーいびーん。


山里勝己氏(名桜大学)「したいひゃー ゆーちばたん」〇山里さんのー やんばるぬ むぅとぅぶんちゅ。大学ぬ 学長やしが、からじん まっ黒ぅーるし 若さいびーんやー。


写真左からー新城栄徳、赤嶺政信氏(琉球大学)、高良勉氏(詩人)、新川明氏(ジャーナリスト)〇粟国ぬ 新城、ふぇーばる ちゃん(喜屋武)ぬ 赤嶺さん、たまぐすくぬ 勉さん、にしばるぬ 新川さん。んな じゅんに うちなーじら やいびーんやー たい。

2017年1月 『月刊琉球』12・1月合併号 高良勉「琉球差別と植民地主義」

粟国恭子さん、與那嶺義雄氏(西原町議会議員)〇みゃーくぬ粟国さんとぅ、にしばる 幸知ぬ 與那嶺さん。ぬーぬ 話どぅ さが わからんしが、笑らてぃ いりきさる ふーじ。

2017年1月 『月刊琉球』12・1月合併号 与那嶺義雄「琉球の自己決定権ー歴史認識とアイデンティティの観点から」

〇新報開発ぬ 社長 上間さん、記 者ぬ 米倉さんとぅ 伊佐さん。


写真右からー高良憲義氏、西村貞雄氏〇ひじゃいや よしかずさん。まんなかや 西村さん。首里城 むんだすいぬ 龍柱や めぇー 向からんねー ないびらんでぃち、じこー ちゅーじゅーく うぬ はなし さびとーたしが、ひゃくなー 直ぉーさんねー ふーじんねーんやー たい。たーが なまぬぐとぅ さるばーが?


〇右んかい うしぇー 石田さん。うんちょー ハワイ大学から うちなーんかい ち、なま 玉城ぬ 屋嘉部 うてぃ やーにんじゅ みっちゃい 暮らちょーいびーん。ひじゃいや 伊佐さんぬ とぅじぬ しーじゃぬ 池原さん みーとぅんだ。


〇司会そーたる うふぐしくぬ 和喜さん とぅじ 友子さん、うふぐしくぬ おさむさん、画廊沖縄ぬ うぃーばるさん、画家ぬ あらかち 安雄さん、公文書館ぬ 豊見山和美さん。うんちゅたーや んかしからぬ どぅしんちゃー。


山城みどりさん(左)、平良次子さん〇やまぐすく みどりさん、ふぇーばる 文化センターぬ 平良次子さん。豆腐、くぅーぶ、三枚肉、にぎり、ちゅふぁーら かでぃ、うっさそーん!?

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2017年1月 季刊『未来』未來社 仲里効「<水>と<骨>と<島ぷしゅー>の想像力」
〇・・・高江や辺野古をめぐる現状は、知事の姿勢が実質的に「容認」であることを裏付けるような事態が進行している。どういうことなのか? 4点指摘できる。まず第一に、2年前の選挙公約では明確に「ヘリパット建設に反対」を表明していたこと、第二に、まるで「戒厳令」と言わしめた、横浜や大阪や福岡や千葉などから5百名余の機動隊を動員して異常な取り締まりを強行していること、この県外警察官の投入は沖縄県公安委員会の要請でなされたもので、公安委員会は県知事が任命権をもっているからして、知事の権限で撤退させることができるにもかかわらずそれがなされていないこと、第三にヘリパット建設反対を封印し、夏に菅官房長官に北部訓練場の返還へ「歓迎」の意を表明したこと、第四に、安慶田副知事が辺野古の陸上部分の隊舎建設を容認したことや翁長知事の記者会見を見計らったかのように、4名が不当に逮捕されたことである。・・・

沖縄タイムス 2017年1月14日 :平和市民連絡会が翁長知事を提訴 高江工事警備、支出の違法訴える 
東村高江周辺のヘリパッド建設で、警備のために県外から派遣された警察官のために県が燃料費や車両修繕費を支出したのは違法などとして、沖縄平和市民連絡会の市民15人は12日、県警に約860万円を請求・賠償するよう翁長雄志知事に求める住民訴訟を那覇地裁に起こした。
 連絡会の北上田毅さんは「抗議活動を違法に弾圧した活動への支出で、許されない」と指摘。県警側は「訴状が届いていないのでコメントを差し控えたい」とした。
 訴状などによると昨年7月、県公安委員会の要請で、東京や神奈川など県外6都府県の警察官約500人が高江の警備に当たった。県警本部に情報公開請求した市民側は、県の経費負担は同7~9月で計約860万円と主張。警備が終了するまでに県が負担した費用はさらに多いだろうと指摘している。

アベ・アソウ政権の゛言論統制チーム〟
2016年12月13日「オスプレイ(別名・空飛ぶ棺桶、未亡人製造機)墜落」
  「リテラ」12月15日〇地元紙である琉球新報、沖縄タイムスの両紙は「墜落」と表現したが、他方、全国紙の見出しはすべて「不時着」。読売新聞にいたってはタイトルに「着水」と打った。
 一方、テレビはNHKおよび在京民放が、やはりほぼすべての番組で「不時着」と表現。他番組に比べれば沖縄問題に関心を払っている『報道ステーション』(テレビ朝日)も歯切れ悪く「重大事故」として扱う体たらくで、唯一TBSが、夜の『NEWS23』ではっきりと「墜落」と伝え、夕方の『Nスタ』でも「不時着と説明されているが実態は墜落ではないか」と疑義を呈したくらいだ。
 昨日も本サイトは追及したが、大破した機体を見るかぎり、あれは誰がどう見ても「墜落」したと呼ぶほうがふさわしい。事実、米軍の準機関紙である「星条旗新聞」や、米・FOXニュース、英・BBC、ロイターなどの海外メディアは「Crash」(墜落)と報じている。
 米軍や政府の“大本営発表”に右倣えで「不時着」という表現に留める。そんな報道のあり方で、国民の知る権利に応えていると本土のメディア人は言うつもりなのだろうか。
 しかも、本土メディアはそうして政権の意向を忖度するだけではなかったらしい。ある沖縄のメディア関係者は、本サイトにこんな驚くべき話を明かしてくれた。
「じつは、沖縄の放送局・琉球朝日放送は当初から『墜落』との表現をすると決定していた。でも、キー局であるテレビ朝日からの圧力で『不時着』との表現をせざるを得なくなったらしい」
 どのような言葉で事件を報じ、伝えるか。そこには当然、報道側の覚悟が求められる。そんななかで地元である琉球朝日放送(QAB)は「墜落」という言葉を選んだのに、それをテレビ朝日が潰してしまったというのだ。これは事件を過小評価する“沖縄への冒涜”としか言いようがない。

〇沖縄県の東村と国頭村に広がる米軍北部訓練場のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)建設を巡り、東村高江の住民が国を相手に工事の差し止めを求める仮処分申し立てで、福岡高裁那覇支部は12月15日午後、住民側の即時抗告を棄却した。【琉球新報】/アベ裁判所はオスプレイ墜落事故後でもふざけた判決。言う言葉は無い。かつて2010年の那覇地方検察庁鈴木亨・次席検事が船長の行為に計画性が認められないとし、また日中関係を考慮したとして、中国人船長を処分保留で釈放すると突如発表したことを想起。

〇在沖米海兵隊のMV22オスプレイが13日(金曜日ではない)に名護市安部の海岸に墜落した事故で、この機体と一緒に空中で給油を受けていた別のオスプレイも13日に、普天間飛行場で胴体着陸する事故を起こしていたことが14日、分かった。『沖縄タイムス』12月16日

○『沖縄タイムス』2016年10月21日土人発言に絡み一面トップでー大阪知事 機動隊員を擁護「売り言葉に買い言葉」の釈明/坂口正芳警視庁長官らの釈明を報じていたが、機動隊派遣は止めないようだ。翁長沖縄知事も県庁に、池田克史沖縄県警本部長を呼び抗議したというが、これまた全国からの機動隊派遣は止めるとは言わない。菅官房長官は小さく「今回の機動隊の発言は許すまじき行為である」、そう息子が大成建設に居るのでこれで辺野古基地の仕事がパーになったら許されない。何やかんや、この報道は記者の怒りも感じられず、翁長知事を含め「機動隊は解散撤去」を要求してこそ抗議というもので、客観的報道はヤマト通信社配信記事と変わらない。「ガス抜き」でしかない。隣の記事も「沖縄県警警備1課、沖縄平和運動センターの山城博治議長を再逮捕」と県警の職務に忠実ぶりを淡々と報じている。基地オキナワ(在日米軍基地も含む)が百年続くかという瀬戸際に、商業紙の限界はあるかもしれないが少しはうちなーぬちむを持って報道してもらいたいものだ。

孫崎享ブログ017年1月〇平成29年1月4日安倍内閣総理大臣年頭記者会見/首相は、「これまで延べ100を超える国や地域に足を運んできました」と述べ、「世界の真ん中で輝ける国にしたい」にしたいと述べた。・まず、この首相が世界でどのように見られているかを見てみたい。Forbesは12月14日、「世界の最も影響力のある人々2016年版(TheWorld's Most Powerful People 2016)」を発表した。
1位:プーチン ロシア大統領   2位:トランプ 米国次期大統領
3位:メルケルドイツ首相     4位:習近平 中国国家主席
5位:フランシスコ 教皇    6位:イエレン米連邦準備制度理事会議長
7位:ゲイツ マイクロソフト  8位:ペイジ・Google共同創業者
9位:モディ・インド首相    10位:ザッカーバーグ・フェイスブック
11位:ドラギ欧州中央銀行総裁 12位:李克強・中国国務院総理
13位:メイ英国首相      14位:ベゾス・アマゾン
15位:バフェット       16位:サルマーン・サウジ国王
17位:ヘル・テルメックス   18位ハメネイ・イラン最高指導者
19位:ダイモン・JPモルガン 20位:ネタニヤフ・イスラエル首相
21位:マスク・スペースX22位:22位イメルト・GE
23位:オランド・仏大統領   24位:ティラーソン・エクソン
25位:ラガルドIMF総裁   26位:ブランクフェイン・ゴールドマン
27位:マクミロン・ウォルマート28位:マー・アリババ中国
29位:豊田章男・トヨタ   30位:ブリンGoogle創業者
31位:コーク        32位:クックApple CEO
32位:ティム・クック    33位:李嘉誠・長江実業会長
34位:フィンク       35位:マードック
36位:グテーレス国連新事務総長 37位安倍晋三(前年41位)
・日本は米国、中国に次いで世界の第3の経済力を持つ国である。3位のメルケルドイツ首相の近辺にいてもいいはずである。

・何故安倍首相は、自国の経済力に見合う評価を受けていないのであろうか。簡単である。「米国に追随する」以外に国際社会に対して発信することばがないのである。
・1位:プーチン ロシア大統領 、3位:メルケルドイツ首相、4位:習近平 中国国家主席、9位:モディ・インド首相、16位:サルマーン・サウジ国王、23位:オランド・仏大統領等は決して米国に言われた政策だけを実施しているわけではない。 如何に世界の国々を回ろうと金をばらまこうと信頼を得ていない。

・「積極的平和主義」は「平和を創設する」という」名目で、武力でもって世界に介入する政策に追随することを日本国民受けに翻訳しただけである。
・米国の行っているテロとの戦いは決して成功しない。テロとの戦いが続けられる中で、世界のテロリズムの犠牲者は飛躍的に増大している。
・米国に追随するだけの国とみられて、「世界の真ん中で輝ける国」になることはありえない。

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1982年6月、戦前から異国船に関心を持ってきた川平朝申や、国吉真哲、中今信、曽根信一ら数十人が集い、琉球航海記を中心とした沖縄の歴史・文化・人文の研究調査の発展をはかり、地域社会の思想・文化の向上に寄与することを目的に、会長に川平朝申、事務局に外間政彰で異国船琉球航海記研究会(通称バジル・ホール協会)が発足した。発会の記念講演は照屋善彦琉大教授で、会場にはぺルリ艦隊の乗組員の曾孫にあたるヨセフハンディー夫妻も参加した。川平会長の母と、西平守晴南島史学会大阪支部長夫人の母とは姉妹の関係で、大阪在住の新城栄徳も会員として末席をけがした。

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「川平朝申氏寄贈写真」(那覇市歴史博物館所蔵)写真後方左が西平守晴、前右が川平朝申

1986年、岩波文庫から春名徹訳でベイジル・ホール『朝鮮・琉球航海記』が出ているが解説に「第一に、須藤利一氏のこの学恩に対して謝意を表したい」とする。

1987年8月 ラブ・オーシュリー/上原正稔 編『青い目が見た大琉球』ニライ社



1987年10月2日~12月9日 沖縄県立海洋博記念沖縄館「異邦人が見た大琉球展」

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写真ー窪徳忠御夫妻を囲んで、石垣繁氏、石垣博孝氏

1988年5月ー西村朝日太郎、新城栄徳宛手紙「岸畑久吉氏早大文学部の主事を永らく勤めていた方で小生にとっても懐かしい方です」

1989年4月 大熊良一『セント・ヘレナのナポレオン』近藤出版社


1990年3月 太田雄三『B・H・チェンバレンー日欧間の往復運動に生きた世界人』リブロポート



1992年9月19日~10月23日 浦添市美術館「世界に誇る・琉球王朝文化遺宝展ーヨーロッパ・アメリカ秘蔵ー」

1993年4月 中島昭子・小川小百合 訳『幕末日仏交流記 フォルカード神父の琉球日記』中公文庫
1993年10月『南島史学』第42号
○琉球に関する二つの考察ー皮弁と国門・・・・・・・・・・・・原田禹雄

1994年5月『南島史学』第43号
○琉球の遊女と真宗・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・知名定寛


1996年12月、池島保育園で左が西平守晴さん、新城栄徳

1997年3月 高良倉吉/玉城明彦 編『ペリーと大琉球』琉球放送
1997年10月 オフィス宮崎 翻訳・構成『ペリー艦隊日本遠征記』栄光教育文化研究所



1998年7月 『琉球王国時代の植物標本~ペリーが持ち帰った植物たち~』同実行委員会

1999年3月 『ペリーがやってきた~19世紀にやってきた異国人たち~』(沖縄県史ビジュアル版4 近世①)沖縄県教育委員会
1999年3月 ジョン・マクロード/大浜信泉訳『アルセスト号 朝鮮・琉球航海記』(解説・真栄平房昭)榕樹書林

2001年3月 喜久川宏『ペリー提督の生涯と時代』人文沖縄社
2003年

2003年1月1日『沖縄タイムス』「ペリー来琉150年」



2003年5月『21沖縄公論』<ペリー来琉150周年にあたって>編集兼発行人・山口芳弘

2003年9月 ジョージ・スミス/山口栄鉄、新川右好・訳『琉球と琉球の人々ー琉球王国訪問記』沖縄タイムス社○バジル・ホールの名著「朝鮮西部沿岸及び大琉球島航海探検記」(Account of a Voyage of Discovery to the West Coast of Corea, and the Great Loo-Choo Island, with two Charts) (Philadelphia: Abraham Small, 1818)の扉に著者バジル・ホールの名と並んで「琉球語語彙」の収集、編者として大きく名を連ねるハバート・クリフォードの存在がそれだった。英国海軍琉球伝道会(Lewchew NavaⅠ Ⅿission)、クリフォード海軍大尉が設立に尽力した。

『サンデー毎日』2015年10月18日号 民間交流で沖縄を守る山口氏逝去
 沖縄政財界に幅広い人脈を築き、中国、台湾双方の要人にもパイプを持つ一人のロビイストが他界した。山口芳弘さん。9月17日午後、事務所代わりに使っている那覇市のホテルで倒れているのが見つかり、救急搬送されたが間もなく死亡した。大動脈解離だった。享年73。 早大卒業後、経済誌『財界展望』の記者時代に、沖縄協会の吉田嗣延(しえん)専務理事(故人)から「沖縄を少し愛して、長く愛して」と頼まれ、沖縄に関わり始めた。1978年には沖縄平和祈念堂(糸満市)で輪島、北の湖、若乃花の3横綱による「鎮魂の土俵入り」をお膳立てするなど、その人脈は多岐にわたった。元自民党幹事長の野中広務氏に請われ、沖縄・中国友好協会を設立。94年、北京で元参院議員の喜納昌吉氏のコンサートを企画し、「那覇―北京」直行便開設や映画「天上の風」の製作支援など、その実績は枚挙にいとまがない。

 台湾との関係でも、翁長雄志那覇市長(現知事)と馬英九台北市長(現総統)の会談(2002年8月)で黒衣役を務め、直近では台湾の経済団体幹部から「沖縄にプロ球団を作って台湾リーグに加盟し、台湾と沖縄の交流を活発化させよう」と要請されていた。1980年代から沖縄に移住し、『21沖縄公論』を発行。自らを"じゃまとんちゅ"と称し、疎まれる覚悟で時の県政に提言してきた。7年前に体調を崩し休刊したが、今夏から復刊に向けて始動していた。米軍基地の辺野古移設を巡っては、矢面に立つ翁長知事を案じ、「一人、翁長知事に任せてはいけない。知事の周りには、安倍・菅政権と対等に渡り合える正しい戦略を立てられる参謀はいないのか」と綴(つづ)り、気を揉(も)んでいた。10月1日の国慶節に北京、10月10日の双十節に台北を訪れる予定で、台湾でダンサーとして活躍する長女貴絵さんにホテルの予約を頼んでいたが、沖縄で無言の対面となった。集団的自衛権ではなく、民間交流こそ沖縄を守る術(すべ)と知り、実践してきた生涯だった。合掌。 (友寄貞丸)


2003年5月21日~26日 沖縄県立図書館「19世紀 琉球を訪れた欧米の人々ーペリー来航150周年によせて」

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1969年10月3日『毎日新聞』「本土のなかの沖縄ー私設沖縄文庫」

1969年7月 『今日の琉球』亀川正東「アメリカ文学の話(107)死んだアプトン・シンクレアのこと」

1969年9月 チェンバレン著/高梨健吉訳『日本事物誌』(東洋文庫)平凡社
○日本語(Language)琉球列島で話されている姉妹語を除けば、日本語には同族語はない。/琉球(Luchu)土地の人はドゥーチューと発音し、日本人はリューキューと呼ぶ。琉球人は、民族と言語の点で日本人と密接に結びついている。しかし多くの世紀のあいだ両民族はお互いに交渉がなかったように思われる。

1972年2月号『青い海』10号 「若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」

□ここで資料の内容の一部を紹介しよう。開設当時200冊足らずだった書籍・雑誌は、現在約3200冊。新聞や週刊誌などのスクラップが300冊。沖縄に関する資料については、関西隋一と言われる。▽人物関係ー「謝花昇伝」「平良辰雄回顧録」「伊波普猷選集」などの伝記、回顧録、全集もの。▽市町村関係ー「北谷村誌」「南大東村誌」 比嘉景常「久米島紀行」など。▽歴史関係ー「沖縄県史」(直接主席から贈呈される。関西では天理図書館と資料室ぐらいだろうとの話) 「琉球建築」 田代安定「沖縄結縄考」 金城朝永「異態習俗考」や戦史・戦記もの。▽文芸関係ー「山之口貘詩集」「新沖縄文学」や大城立裕、石野径一郎、霜田正次、石川文一などの諸作品。▽芸能関係ー「組踊大観」「工工四」など。▽政府刊行物ー「立法院議事録」 白書類。▽ミニコミー「沖縄差別」「石の声」「沖縄月報」「寮友」「琉大文学」や本土各大学の県学生会の機関誌・パンフなど。▽地図ー「首里古地図」その他。これらの資料を整理したり、購入したり目録をつくるなど、一人でするにはたいへんな仕事である。西平守晴さんは保育園の仕事もあり忙しいので、現在もっぱら新城栄徳君(23)が動きまわっている。
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1972年6月の『豊川忠進先生の長寿を祝う会』では、沖縄の又吉真三氏から文化財の碑文の拓本を借りて展示して参加者を感動させ、平良盛吉翁らを豊川氏の隣りに座らせて感激させた。」

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1972年5月13日ー大阪『日本経済新聞』「民芸品・図書を守ろうー都島の『沖縄資料室』」

1973年5月14日ー大阪『朝日新聞』「守れ!沖縄の心と自然ー埋もれた文化掘起す」

平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」
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沖縄関係資料室の内部(西平守晴と司馬遼太郎)


1975年2月16日『沖縄タイムス』石原英夫「話題の広場/西平守晴ー離島の子供たちに文化の灯を」/6月23日石原英夫「がじゅまるの会」

1976年1月10日『サンデー沖縄』「沖縄資料室を開放ー西平守晴」

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写真ー左・コウ君と西平守晴さん
1978年4月 友寄英一郎『西洋史稿』琉球大学史学会○異国船琉球来航史ノート

1980年5月15日『朝日新聞』(大阪版)「西平守晴ー琉歌でつづる沖縄戦後史」

1982年6月、沖縄県人会兵庫県本部『ここに榕樹ありー沖縄県人会兵庫県本部35年史』(新城栄徳資料提供)

1980年11月『南島史学』第一六号
○室町幕府と琉球との関係の一考察・・・・・・・・・・・・・・・・田中健夫

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1980年11月24日ー豊中市立婦人会館で開かれた南島史学会第9回研究大会。右手前2人目が安良城盛昭氏と牧野清氏、左端が喜舎場一隆氏同日、受付の永峰眞名さんに安良城盛昭氏を確認してもらう。大会終了後、安良城氏を都島の沖縄関係資料室まで案内。色々と歓談する。資料室で自著を見つけた安良城氏が本代を払いそれに署名献本した。このとき以来、理論嫌いな私でも沖縄出身の理論家については、これ傾聴に努めることにした。


1981年ー第17回 沖縄県印刷人大会で、左端が西平守晴の従兄弟、西平守栄会長。隣が後の仲井眞知事

1982年2月『南島史学』第一九号
○原琉球語をたどるー鍬・蜻蛉・蚊などー・・・・・・・・・・・・・・・・・・中本正智
○奄美の民族に関する既刊文献の状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下欣一

1982年9月『南島史学』第20号
○江戸時代の「琉球」認識ー新井白石・白尾国柱・伴信友ー・・・・・横山學
○ハワイ沖縄県人の団結力・・・・・・・・・・・・・・・・・・崎原貢



1984年9月『南島史学』第24号
○琉球の稀書について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岸秋正


1986年7月 ベイジル・ホール著/春名徹 訳『朝鮮・琉球航海記』岩波文庫


沖縄都ホテルで新城栄徳と元沖縄都ホテル社長・桑原守也氏

1987年4月『南島史学』第29号
○続・琉球の稀書について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岸秋正


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1947年2月 大羽綾子 抄訳『ぺルリ提督遠征記』酣燈社

1950年1月24日 Performance of "Visit by Commodore Perry" by the Okinawan Theatrical League, in collaboration with the USCAR Public Information Office.
1953年5月20日『沖縄タイムス』「横浜に提督の血をひくぺルリ中佐」
1953年5月21日『沖縄タイムス』ジェームス・タル(前民政府民間情報教育課長)「ぺルリ提督と琉球ーぺルリの琉球の住民ならびにその文化についてのこまかいまでの知識は彼の来沖前40年位に沖縄を訪れた一英国士官キャプテン・バジル・ホールの報告書から得られたものであると思われます。・・・」
1953年5月21日『琉球新報』島袋全発「ぺルリ提督来琉のころ」
1953年5月23日『沖縄タイムス』新屋敷幸繁「ぺルリ百年祭/来ぺルリと私たち」
1953年5月24日『沖縄タイムス』川平朝申「ぺルリ提督と琉球」
1953年5月25日『琉球新報』山里永吉「戯曲ぺルリ日記に就て」
1953年5月25日『沖縄朝日新聞』「ぺルリ来琉夜話」


1954年4月

1954年11月 相原良一『天保八年 米船モリソン号渡来の研究』野人社(光文社内)

1955年3月31日 鳩山首相、平和維持に原爆貯蔵やむなしと衆議院外務委で答弁(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)
1955年4月11日 通産省に原子力課発足(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)
1955年6月 大阪で「沖縄関係資料室」発足
1955年6月18日 原子力利用調査会発足(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)
1955年8月6日 第一回原水爆禁止世界大会開催(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)
1955年9月27日 横田基地拡張を地元受諾(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)

1955年10月1日『バズィル・ホール大琉球島探検航海記』琉球新報社(親泊政博)
神村朝堅の編集協力で増補改訂版として発行された。この本の経緯を須藤は1955年10月17日『琉球新報』に「翻訳と出版ー「大琉球島航海記をめぐって」と題し述べている。それによれば、金城朝永もすでに『バズィル・ホール大琉球島航海記』の譯を完成していたようだ。
1955年10月12日『琉球新報』仲原善忠「バズィル・ホール大琉球島航海記ー善意の交響楽」
1955年10月16日 古代算法の資料収集に 須藤教授15年ぶりに来島/南風原朝保「バズィル・ホール大琉球島航海記について」

1955年10月23日『琉球新報』

1955年10月28日 原子力研究所発足(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)

1955年10月31日『琉球新報』須藤利一「石ガントウについて(1)」
1955年11月4日『琉球新報』「立派に育った博物館に 産みの親ハンナ氏感慨新た」
1955年11月9日『琉球新報』「座談会/ハンナ博士と沖縄①戦後沖縄文化の再興をめぐって」

1955年11月15日 日米原子力協定調印(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)
1955年12月19日 原子力基本法公布(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)
1956年7月1日 大阪で沖縄軍用地の永代買上案に反対する国民大会(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)
1957年5月7日 岸首相、核兵器保有は自衛権範囲内なら可能と参議院内閣委で答弁(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)
1957年8月27日 原子の火、茨城県東海村で初点火(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)
1958年4月1日 売春防止法施行(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)
1958年5月『今日の琉球』親泊政博「ぺルリ来琉」


1958年8月19日『琉球新報』田幸正平「琉球鼓」金城安太郎・画□バズイル・ホールの大琉球航海記は小説そのままの歴史的文献だが、それを背景にして、琉球の人々の姿を描いてみたいと思ったのが筆を執らしめた大きな原因である(田幸正平『琉球新報』、1958年11月1日)

1958年10月14日 米NBC放送で、岸首相「憲法9条廃棄の時」と語ったこと問題化(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)

1960年5月『今日の琉球』津山彬「二十四年前のぺルリ祭を想うーまだ生きているグルー氏の言葉ー」/「写真・ぺルリ来琉百五周年を迎えて」

1960年6月23日 日米新安保条約発効(1991年3月 三省堂『戦後史大事典』)

1961年3月『守礼の光』波平信光「黒船訪琉記」
1962年、西平守晴、沖縄青少年雇用主協会設立事務責任者兼事務局長

1962年6月 外間政章・訳注『ペリー提督沖縄訪問記』
1962年9月『今日の琉球』  川平朝申「郷土の歩みー若き人々のための琉球歴史ー39」○尚灝王と異国船の渡来ーマクレオツド『アルセスト号の支那、朝鮮及び琉球島航海記』1817ロンドン、バジル・ホール『朝鮮西沿岸及び大琉球島探検航海記』1818ロンドン、須藤利一・・・


1962年10月『守礼の光』ジョン・マクレオド「英艦アルセスト号琉球航海記(1)」(画像・アルセスト号艦長マリー・マックスウエル大佐/英艦ライラ号艦長バジル・ホール大佐)/外間政章「1854年に結ばれた琉米条約」

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1962年、真喜志康忠優の関西公演のとき京都五条坂の河井寛次郎からの招待を受け西平守晴(沖縄関係資料室主宰)の案内で訪ねる。帰り河井作品を貰ったのは言うまでもない。
写真は左から西平守晴、真喜志康忠夫妻、河井寛次郎夫妻

1962年10月『今日の琉球』  川平朝申「郷土の歩みー若き人々のための琉球歴史ー40」○尚灝王と異国船の渡来②
1962年11月『今日の琉球』  川平朝申「郷土の歩みー若き人々のための琉球歴史ー41」○ベッテルハイムの琉球滞在

1963年7月 『今日の琉球』「写真/百九年後の親善のかけ橋ーぺルリ来琉時代 琉球に派遣された米海軍士官(ジョンМ・ブルーク)の孫にあたるジョージМ・ブルーク博士(ヴァジニア軍大学米国史教授)が来琉。那覇琉米文化会館の琉球研究会。中山盛茂、与那城朝惇、外間政章、照屋善彦、シャノン・マキューン初代民政官.」

1964年7月『今日の琉球』「琉米親善のきずな/ぺルリ提督記念碑の地鎮祭 泊の上陸地点で盛大に行う」
1964年8月『今日の琉球』「ぺルリ提督記念碑除幕式」 
1965年5月『今日の琉球』外間政章「”琉球人とアメリカ人が常に友人たらんことを〟ーぺルリ来島当時の琉球ー」

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Category: 02-関西の沖縄
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  わが国に航海術や造船術を伝えた英国人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)や、平戸のイギリス商館長を勤めた リチャード・コックスも努力した人たちである。アダムズはオランダ船リーフデ号の水先案内人として当時の豊後(大分県)に 漂着した人物である。その後、平戸のイギリス商館長リチャード・コックスの命を受け、シー・アドヴェンチャー号の船長として、 タイへ向かう途中乗組員の不穏な動きを察知して、五島に引き返しているが、その際沖縄から持ち帰った一袋のサツマイモをコックスに 送っている。時に1615年6月2日のことで、コックスはその日の日記に「大御所が大阪の城を取り、フィディア(秀頼)様の軍を 滅ぼした」報せを受けたとも記している。6月19日になって、コックスは、「庭を手に入れて、リケア(琉球)から将来された藷を そこに植え」、1年当たり10匁(英貨5シリング)を支払うと記している。すなわち、平戸に菜園を借り栽培を試みたわけである。 しかし、その後の実績は記されていない。現在平戸の川内浦の鳶の巣に「コックス甘藷畑跡」が残っており、この地域ではサツマイモを 「琉球イモ」または単にイモと呼んでいたといわれるが、そうであるとすると、何らかの実績が見られたのではないかと想像される。→鈴木俊(東京農大国際食料情報学部教授)

1796年 英船プロビデンス号虻田に来航。翌年室蘭に来航
1798年 近藤重蔵、択捉を調査。帰途ルベシベツ山道を開く

1811年 国後でロシア艦ディアナ号艦長ゴローニンが幕府の警備隊に捕らえられる

 バジルホールの現在の認知度を画像検索すると「バジルホール(@ashurnasirpal2)」が出て満島ひかりちゃんが出てきた。「満島ひかり」を検索すると、女優の黒柳徹子の自伝的エッセイ『トットひとり』『トットチャンネル』を原作にしたNHKドラマ『トットてれび』で、満島ひかりが黒柳役を務めているが、映画「夏の終り」では若き日の瀬戸内寂聴を艶っぽく演じている。さらに検索すると沖縄県沖縄市出身。ユマニテ所属。弟は俳優の満島真之介、妹はモデルの満島みなみ、となっていて、初めて沖縄出身だとわかった。話が本題から逸れてしまったが、この偶然も必然として見逃してもらいたい。正確にバジル・ホールでウィキペディアを見ると「19世紀のイギリスの海軍将校、旅行家、作家。インド洋、中国、琉球、中南米各地を航海したことで知られる。ベイジル・ホールと記述されることも多い。 ナポレオン1世に『琉球では武器を用いず、貨幣を知らない』と伝えた」とある。また 「Facebook/バジル・ホール研究会」も参考になる。
 
1816年(文化13)7月25日、イギリス軍艦アルセスト号(艦長マレー・マクスウェル)・ライラ号(艦長バジル・ホール)、那覇に投錨/9月6日、首里王府、マクスウェル館長の国王への謁見要請を謝絶。/7日、両船、那覇を離れる。後にライラ号の乗組員だった退役軍人ハーバード・J・クリフォードが中心となり、琉球海軍伝道会を創設、ベッテルハイムを派遣することになる。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社

Basil Hallは1788年12月31日、スコットランド エディンバラで生まれて、1844年9月11日ポーツマス王立ハスラー病院で死去(55歳)。
「経済学の父」ことアダム・スミス、詩人のキーツ、ウォルター・スコット、シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイル、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の作家ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジェームズ・ボズウェル、トマス・カーライル、俳優のショーン・コネリー、ユアン・マクレガー、ジェラルド・バトラーなどはスコットランドの生まれである。
スコットランドは、産業革命以前より、科学・技術の中心地であったため、多くの科学者・技術者を輩出している。その発見・発明は、現代社会にはなくてはならないものが多い。電話を発明したグレアム・ベル、ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミング、蒸気機関を発明したジェームズ・ワット、ファックスを発明したアレクサンダー・ベイン、テレビを発明したジョン・ロジー・ベアード、空気入りタイヤを発明したジョン・ボイド・ダンロップ、道路のアスファルト舗装(マカダム舗装)を発明したジョン・ロウドン・マカダム、消毒による無菌手術を開発したジョゼフ・リスターなどはスコットランドの生まれである。
羊の内臓を羊の胃袋に詰めて茹でたハギスが有名。また、スコッチ・ウイスキーは定義上スコットランド産でなければならない。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界的にも愛好家が多い。
コリン・ジョイス(『驚きの英国史』NHK出版新書 2012年pp.79-83)ではイギリス人の生活を皮肉って次の物がすべてスコットランド人によるものだとしている。マーマレード、レインコート、自転車、タイヤ、乾留液(タールマック舗装)、蒸気エンジン、イングランド銀行、糊つき切手、タバコ、電話、ローストビーフ、アメリカ海軍、麻酔薬などである。『聖書』にもスコットランド人が最初に出てくるが、これはジェームズ6世が英訳を進めたからである。→ウィキ


『バジル・ホール琉球航海記』最も大きいのが初版(1818年)で、小さいのが3版(1826年)
2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1818年1月 バージル・ホール『大琉球 韓国 西海岸航海記』ロンドン(再版2010年 ジェネラルブック テネシー州メンフィス)

那覇市歴史博物館で「バジル・ホール来琉200周年記念/ウランダーがやってきた!」の図録を見せてもらった。上の地図に書き込みがある地図も掲載されていた。担当の鈴木学芸員がネット「ヨーロピアナ」①で収集したフランス国立図書館蔵のものだ。(2016ー8ー4)

①欧州委員会は、EU加盟国の図書館や博物館が所蔵する書籍、文献、映像、絵画などを検索・閲覧できる「ヨーロピアナ」という電子図書館を開設した。インターネットを通じて、400万件以上のデータに無料でアクセスすることができる。ヨーロピアナは、2008年11月20日に公式オープン。ところが、初日の1時間で1000万件を超えるアクセスがあり、サーバーが停止してしまった。モナリザの絵やベートーベンの楽譜といった有名なアイテムも閲覧することができ、大変な人気となったためだ。オープン早々「一時休館」となったヨーロピアナは、その後、コンピューターの処理能力を上げて、12月24日に再オープンした。ヨーロピアナは、EU加盟国の公用語である23言語で利用可能であり、欧州市民の誰もが身近に利用できるよう配慮されている。もちろん、日本からもアクセスできる。欧州の図書館や博物館が所有する日本関連のアイテムも閲覧することできる。


「ベッテルハイム」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1844年4月28日 フランス人ジャン・バチスト・セーシユ提督率いる5隻の東洋艦隊麾下のフォルニェル・デュプラン大佐の軍艦アルクメーヌ号を琉球へ分遣。宣教師テオドール・オーギュスト・フォルカードと清国人伝道師オーギュスタン・高を那覇に残して5月6日に出帆。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社

1853年6月ーペルリ、首里城訪問□→1926年10月ー神田精輝『ペルリ提督琉球訪問記』/1935年3月ー土屋喬雄『ペルリ提督日本遠征記』弘文荘(沖縄県立図書館所蔵本は国吉真哲寄贈)/1947年2月ー大羽綾子『ペルリ提督遠征記』酣燈社/1962年6月ー外間政章『対訳ペリー提督沖縄訪問記』研究社/1985年10月ー金井圓『ペリー日本遠征日記』雄松堂/1994年4月ー大江志乃夫『ペリー艦隊大航海記』立風書房
1909年11月、アメリカ人・ウォーナー来沖。

1991年5月30日『琉球新報』松島弘明「文化ノート/ウォーナー資料を追え」
1996年5月17日『沖縄タイムス』「ワーナー資料沖縄の民芸品 米博物館が保存」
 ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881年8月1日 - 1955年6月9日)は、アメリカの美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされるが異論も多い。マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903年ハーバード大学卒業。卒業後ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣された。1910年にロンドンで開催される日本古代美術展の準備をしていた岡倉らを手伝い、3冊の詳細な出品カタログ『日本の寺とその宝物』の英訳に協力した。帰国後東洋美術史を講義、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長を務めるなど、東洋美術の研究をした。1946年、米軍司令部の古美術管理の顧問として来日。朝河貫一とは親交が深く、数々の書簡を交わしたりウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。→ウィキペディア○日本各地にはウォナー記念碑が6か所もある。最初の法隆寺の碑から、最後はJR鎌倉駅前の碑。

 1856年、チェンバレンは母親エライザ・ジェインの死によって母方の祖母とともにヴェルサイユに移住した。それ以前から英語とフランス語の両方で教育を受けていた。またフランスではドイツ語も学んだ。帰国し、オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した。1873年5月29日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌1874年から1882年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。1882年には古事記を完訳している(以下略)。前出の『チェンバレンの交友』には「日本を広く世界に紹介した人というと、ハーンをあげるものが多い。少し前ならシーボルト。ところが西洋ではシーボルトの次はチェンバレンである。」とし、友人としてサトウ公使、アストン、小泉八雲、門弟の和田万吉、岡倉由三郎(註)らとの交友を紹介している。

岡倉由三郎 生年慶応4年2月22日(1868年) 没年昭和11(1936)年10月31日 英語学者。天心の弟
出生地神奈川・横浜 学歴〔年〕東京帝大文科選科
経歴東大選科でチェンバレンに言語学を学ぶ。東京府立一中教諭、七高教授を経て明治29年嘉納治五郎校長の招きで東京高師教授。新村出らと「言語学雑誌」を発刊、35年から独、英に留学。大正15年に東京高師を退官するまで英語科の主任を務めた。その後、立教大学に奉職。開始当時のNHKラジオの英語講座では巧みな話し方で人気を集め、外国語教育、基礎英語の普及に大きな功績を残した。ヘボン式ローマ字の採用を主張したほか、昭和8年出版された「新英和大辞典」は岡倉辞典といわれ、一般に広く用いられた。→コトバンク

岡倉天心の長男の岡倉一雄は朝日新聞記者で、岡倉覚三の伝記をまとめた。孫(一雄の子)の岡倉古志郎は非同盟運動にも関わった国際政治学者、曾孫(古志郎の子)長男の岡倉徹志は中東研究者、玄孫(徹志の子)長男の岡倉禎志は写真家、玄孫(徹志の子)次男の岡倉宏志は人材開発コンサルタント、西洋史学者の岡倉登志は天心の曾孫にあたる。→ウィキペディア/ラングドン・ウォーナー(一八八一〜一九五五)は、ハーバード大学で考古学を専攻。卒業後、五浦で岡倉天心の薫陶を受け日本美術を研究。

 異国船研究も、やはり沖縄学(伊波の学問を沖縄学と称したのは折口信夫)の礎を築いた伊波普猷に立ち戻らないといけない。『東恩納寛惇全集』「伊波君の想出」に寛惇は「日清役の頃か、伊波君が在京沖縄青年会雑誌に『爛額雑記』とか云った表題の随筆で、ヴィクトリヤの僧正の琉球訪問記を紹介した。(略)伊波君が『ヴィクトリヤの僧正』を取上げたのは、琉球語聖書の著者ベッテルハイムや、通事板良敷等に興味を有ったからであったらしい」と記している。1904年6月、伊波は鳥居龍蔵の沖縄調査に同行し横浜から尚家の汽船で帰省。鳥居は伊波宅に投宿。伊波は鳥居を沖縄各地に案内、記念にチェンバレンの『琉球文典』を鳥居より贈られる。

1910(明治43)年9月15日、冨山房①発行『學生』第一巻第六号 中村清二「琉球とナポレオン
中村清二(女優の中村メイコは兄の孫にあたる)「チェンバレン氏は英国の使節を廣東に上陸させて待っている間に朝鮮と琉球を見物し、帰国の途次セントヘレナ島を訪れてナポレオンに会見し琉球の物語をしたとある。」と記している。
□東京大学明治文庫の原本で、1910(明治43)年9月15日、冨山房発行『學生』第一巻第六号:ナポレオン号に「琉球とナポレオン」中村清二(7頁)が掲載されていることが確認出来ました。 その記事の挿絵にはバジル・ホールの著作と同じ挿絵が使用されています。冒頭でバジル・ホール・チェンバレンの祖父としてバジル・ホールが紹介され、はじめの小見出しは「セントヘレナ上陸」。途中の小見出しに「武器なき国」とありました。(7月28日 不二出版 小林淳子)

ふざんぼう【冨山房[株]】1886年坂本嘉治馬(土佐国(高知県)宿毛村出身)によって東京神田神保町に創業された出版社。当初から質の高い大出版で知られ,大型の辞典で一時代を画した。古書の売買と洋書の取次販売から始めたが,そのかたわら天野為之《経済原論》(1886)を出版,読みやすさで好評を博した。ついで天野為之《万国歴史》,前橋孝義《日本地理》などを続刊,中等教科書に採用され,この分野の先駆となる。他方,吉田東伍《大日本地名辞書》全7巻(1900‐07),芳賀矢一・下田次郎編《日本家庭百科事彙》全2巻(1906)などをはじめとする辞典類に力を注ぎ,上田万年・松井簡治共著《大日本国語辞典》全5巻(1915‐28),大槻文彦著《大言海》全5巻(1932‐37),《国民百科大辞典》全12巻(1934‐37)などで成功をおさめて辞典出版社としての名声を不動のものとした。 →コトバンク

1912年 バージル・ホール・チェンバレン「ある新しい宗教の発明」(神道の資源を引き継ぎながら新たに作り上げられた天皇崇拝のシステム)→タカシ・フジタニ『天皇のページェントー近代日本の歴史民族誌から』(1994年 日本放送出版協会)/2016年10月『春秋』島薗進「明治天皇崩御と国家神道」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
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1992年12月ー『新沖縄文学』新城栄徳「来訪者略年表ー1972年3月 小田秀臣(『山口組時報』発行責任者)来沖 」

関西ヤクザ
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1983年9月『スコラ』「兵庫県下主要暴力団」

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写真ー左が図越 利一(ずこし りいち 1913年9月17日-1998年7月7日)は三代目会津小鉄会会長。
右が石本久吉小久一家総長
□石本久吉原作
1965.10.31 関東破門状  東映京都
1967.08.26 浪花侠客伝 度胸七人斬り  東映京都
1969.02.01 緋牡丹博徒 花札勝負  東映京都
1971.08.26 日本悪人伝  東映京都

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1992年4月 高山登久太郎『警鐘ー無謀なる権力の狭間にて』ぴいぷる社
〇一流建設会社の間にも、いわゆる”談合„が今でも常識化され、実地されている実態をよく知っている。いつでも告発できる資料を持っている。大企業と役人と政治家ーこの三位一体の”なれあい„”癒着〟があっては、どうしょうもない。甘い、うま味のある仕事は、みんな持っていかれてしまう。天下りは、なにもこの北海道開発局にかぎったことではない。大蔵省、通産省、建設省をはじめとしてほとんど全官公庁において、なかば堂々と実地されている。大蔵省の役人たちは、銀行や証券会社へ天下りしている。そこで高給をもらい、4,5年務めて退職金までもらい、あとは遊んで暮らすといった寸法だ。どこまで国民をナメているのか。(略)大体、公務員(官僚)は、退職後2年間は、その前の5年間に密接な関係にあった企業に就職することは禁じられている。しかし、現実には守られていない。-
□高山 登久太郎(たかやま とくたろう、 1928年 - 2003年6月15日)は、ヤクザ。指定暴力団四代目会津小鉄会長。在日本大韓民国民団中央本部中央委員、滋賀韓商常任顧問。本名は“姜 外秀”(カン ウェス)。若い頃は、“今里のタッカン”、“タッカン”と呼ばれた。→ウィキ


写真ー本多仁介
神戸大嶋組の四天王の一人と言われた本多仁介が、1938年豪雨にみまわれた神戸の河川工事を行い本多組を立て1940年に大嶋組から独立、本多組を結成。本多組は倉庫業、湾岸荷役業をシノギとしており「ミナトの六人衆」と呼ばれるようになる。ダイエーの中内功会長も闇市で活動していた当時を回顧し、「本多さんは大親分だったですよ」と証言している。 二代目本多会の時代まで所属していた最後の若衆であった四国の竹形の逝去とで本多会を支えていた者達はほぼ生存しなくなった。本多仁介の関わったものは今や、倉庫会社、建設会社など、いわゆる堅気の企業としてしか残っていない。 →ウィキ

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1977年9月「朝日新聞の誤報について」(小田秀回状)
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『山口組時報』
私は東大阪の布施駅ちかくに住んでいた。かつて通り道の鶴橋駅を7時ごろ散策のおり小田秀総業の2階でボヤ騒ぎがあり、パトカーが無線で「親分(小田秀)と、子分8人がいる」と喋っていた。その小田秀組長は怒号し子分をどやし続けていた。すぐ目の前だったが火はすぐ収まった。小田秀組長は『山口組時報』の編集責任であった。かつて佐野真一氏も『山口組時報』の編集に誘われていた、と本人が書いている。
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大阪・小田秀組総本部、1980年ー八興建設(瀬川清社長)が2億4、000万円で請け負う

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福岡田川市ー太州会事務局長/右ー太田洲春太洲会会長




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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
シベリア


黒田清のサイン

黒田清 くろだ-きよし
1931-2000 昭和後期-平成時代のジャーナリスト。
昭和6年2月15日生まれ。昭和27年読売新聞大阪本社に入社。社会部長をへて編集局次長。コラム「窓」を執筆,大型連載「戦争」を手がけたほか,黒田軍団とよばれる社会部をひきいておおくのスクープをものにした。61年退社して黒田ジャーナルを設立し,「窓友新聞」を発行。平成12年7月23日死去。69歳。大阪出身。京大卒。著作に「警官汚職」(共著),「新聞記者の現場」など。(→コトバンク)


1980年8月7日『新聞記者が語りつぐ戦争 戦争記念館』読売新聞大阪社会部




1999年1月10日『赤旗』黒田清「半共ジャーナルーインターネット社会の恐ろしさ」
〇・・・しかもインターネットの発達は、ますますこのような人たち、現実社会からは逃避して、インターネットを主なる舞台として生きる人たちが増えることを意味する。この人たちは社会をよくするために、政治や選挙や平和や人権といったことを真剣に考えるだろか。いやその前に、世の中をよくしようと思うだろうか。それが恐ろしいのである。

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

元旦、朝8時に大城政明氏が我が家に見えられ、シャツ(琉球大航海)などを恵まれた。写真ー我が家の屋上で、左が大城政明氏


写真左から山口栄鉄氏、大城政明氏




2016年10月24日写真左が具志弘樹氏、大城政明氏


2016年10月24日 糸満「さつき」ー崎浜盛三氏(元日本農業新聞記者)



2016年10月24日 糸満「さつき」ー自作の歌をうたう大城政明氏

2016年10月24日 写真右が新城栄徳、大城政明氏

2016年10月24日 写真右が崎浜盛三氏(元日本農業新聞記者)、大城政明氏


2017年5月25日 右が具志弘樹氏、大城政明氏