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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

会場受付/翁長盛武氏 作品「花火大会」


山田勉氏と松島弘明氏/中山良哲氏 作品「異国情緒」「予約席」



山田實さん遺作


中村浩一氏 作品「渚にて」「ジャンプ!」/辺士名朝吉氏 作品「エイサーおいで!」



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1982年6月 牧港篤三・儀間比呂志『沖縄の悲哭』集英社
〇牧港篤三ー序文 戦争とは、なんと出口のない深い森のようなものであろう。かと思うと、それは多くの人間たちの漂う際限のないむごい死の海のようでもある。漠として捉えどころのない地中から吹きあげる呪咀にみちた叫び、暗い壕内を走る水流の、いずれは火山帯・古生層・第三紀、四紀層など地獄の底をくぐって、大洋に注がれる、潮との合流点で、気泡となって空に昇る危険な空転と繰り返し。-沖縄戦のばあい、時間と場所によって戦争は状況をまったく異にする。
 飢えと血の恐怖、むき出しの憎悪、愛とそねみ、誤った過信、千差万能の地獄図絵である。この一冊にまとめた詩は、そのように沖縄戦の一点でしかなく極微粒の一部分でしかない。読者のために、すこしでも鑑賞の案内となれば幸いである。主題の「水」「火」「空」といった腑分けは、ほんとうはどうでもよく、便宜上そうしたまでである。勿論、各詩篇をつらぬく主調は沖縄戦という国土内で行われた戦争である。
 「沖縄の悲哭」というタイトルは、それを凝縮したものといえる。名付けた人は、ジャーナリストで、沖縄平和をつくる百人委員会の代表豊平良顕氏。-詩画集におさめてある作品は、ほとんどが異常といえる戦場生活のなかで体験したことを時には深層に沈潜し、日常の片々とした襞のようなものを歌ったものである。異様な世界のなかに圧縮された、非日常性の死。・・・・それが詩の狙いといえば狙いでもあった。


儀間比呂志と牧港篤三(右)/牧港篤三(左)と新城喜一氏


儀間比呂志氏、牧港篤三(右)、後右が東江清俊氏、新城栄徳/平良次子さんと儀間比呂志氏

牧港篤三1912-2004 昭和-平成時代の新聞記者,平和運動家。
大正1年9月20日生まれ。昭和15年沖縄朝日新聞入社。戦後の23年「沖縄タイムス」の創刊にくわわり,のち専務。58年アメリカ公文書館所蔵の沖縄戦記録フィルムの買い取り・上映をする「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」(平成16年吉川英治文化賞)の結成につくし,のち代表をつとめる。詩人としても知られた。平成16年4月14日死去。91歳。沖縄県出身。著作に太田良博との共著「鉄の暴風」。ほかに「沖縄精神風景」など。 →コトバンク





『琉球新報』1936年11月1日「榕樹派ポエジイ展」(琉球新報記者・国吉真哲が設けた)牧港篤夫「河」
、愁麗(のちの瀬長亀次郎夫人)「意慾」、イケイ雅「波の音」「茶の花」「怨詞」、知念秀彦「できごと」、玻名城長正「冬の華」、松山聖「ピュウリタンの町の中で」

1980年11月 牧港篤三『沖縄自身との対話・徳田球一伝』沖縄タイムス社/1986年11月 牧港篤三『幻想の街・那覇』新宿書房〇詩人の風景(1)仲村渠、(2)佐藤惣之助、(3)山口芳光・有馬潤 司馬遼太郎「ふかい陰翳」

1985年8月 豊平良顕編『ジャーナリストの証言 昭和の戦争5 悲哭ー沖縄戦』講談社〇牧港篤三「体現的沖縄戦記ー地獄を見た者」

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2004年6月ー牧港篤三『沖縄人物シネマー会った人、すれちがった人』ボーダーインク□沖縄を訪れた偉才たち/駆け抜けていった人々
2005年8月ー『KANA』第11号<特集・牧港篤三追悼>
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2017年7月27日 那覇市民ギャラリー「古堅希亜 写真展 TRADITION 有と無のはざまのこと


2014年7月22日~27日 那覇市民ギャラリー「第50回 写真展  ニッコールクラブ沖縄支部」古堅希亜氏と作品「Peace」
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『しんぶん赤旗』8月9日 「オスプレイ豪沖墜落」 芝憲子「映画『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』」

『毎日新聞』8月9日ー(前略)唯一の戦争被爆国でありながら、条約を批准しようとしない政府に対する被爆者の失望は強い。6日の平和宣言で、政府への直接的な批判や要求は避けた松井一実・広島市長に対し、田上市長は「核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとると明言しているにも関わらず、交渉会議にさえ参加しない姿勢を到底理解できない」と強い表現で非難。「条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください」と明確に批准を求めた。

 「くろねこの短語」8月 8日-(前略)ところで、ヤメ検のエロ髭・若狭君が政治団体「日本ファーストの会」を設立した。なんで「国民ファースト」じゃないんだ・・・と一瞬思ったんだけど、どうやら「国民ファースト」ってのは既に政治団体として登録されていたそうな。だからといって「日本ファーストの会」とはねえ。「お国が第一」なんてネーミングは、それだけでお里が知れようというものだ。民進党離党表明したのはいいけどまったく見向きもされないモナ細野君や本籍は自民の長島君あたりが参加して年内にも新党結成なんだとか。これで湯上りの口先番長・前原君が民進党代表になってごらんなさい、与野党揃って「改憲」勢力だらけの国会になっちまいますよ。

【立憲フォーラム通信:778】 (2017年8月6日)-今日は広島原爆の日。平和宣言は「政府は、核兵器禁止条約の締結促進を」求めました。式典で「核なき世界実現へ国際社会主導する」と大風呂敷を広げた安倍首相ですが、核兵器禁止条約には言及しませんでした。「一九四五年の八月六日と九日で、原爆の破壊が終わったわけではありません。七十二年の時を経た今もなお、原子の力はこの国を脅かし、蝕(むしば)み続けているのです。被爆地は未来を憂う預言者です」と書いたのは『沖縄タイムス』のコラム「大弦小弦」です。その沖縄で7ヶ月前に墜落したオスプレイが豪州で事故を起こし3人が行方不明になっています。墜落したのは普天間基地に所属、訓練中での墜落事故です。「未亡人製造機」と呼ばれるオスプレイ、横田基地に今年後半、佐賀にも配備の計画です。
 
 「くろねこの短語」8月 6日-「広島に原爆が落ちた日。核兵器禁止条約を歯牙にもかけないペテン総理は、どの面下げて平和式典に出席するのだろう。そして、どの口で慰霊碑の前で鎮魂の祈りを捧げるのだろう。こういう恥知らずな男が総理大臣に居座っているんだから、自ずとその閣僚たちも腐っているはずで、そのうちボロが出るだろうと思っていたら、早速にも沖縄北方相がやってくれた。なんとまあ、閣僚答弁は「しっかりお役所の原稿を読ませていただく。答弁書を朗読かな」だとさ。さらに、「北方領土問題に関しては「素人は素人。白紙で、皆さんの知恵で色をつけてもらうことが大切」ときたもんだ。
 この男、かつて通産大臣だった江崎真澄の息子で、ペテン総理の入閣要請に「激務をこなせる自身がない」って一度は断っているんだとか。それを、派閥の長である土建政治の二階君に説得されて渋々大臣になったってんだから、それだけてお話になりません。政治家を家業とする、箸にも棒にもかからない世襲政治屋ってやつです。

 ○世界最大の「核武装国家」である米国が、そう簡単に核兵器を手放すハズがない。オバマは09年4月、チェコの首都プラハで行った演説で「核なき世界」を訴え、ノーベル平和賞を受賞した。ロシアと競い合って核開発を主導してきた大国の“英断”に世界は拍手喝采だったが、米国はその後も核爆発を伴わない「臨界前核実験」を続けている。さらに新型核兵器を今も着々と開発中だ。「英エコノミストは今年1月、オバマ政権が今後30年かけて1兆ドル(約108兆円)を投じて核戦力の更新を計画している、と報じています。主な中身は、核攻撃型巡航ミサイル・トマホークの後継とされる新型長距離巡航ミサイル『LRSO』の開発です」(軍事ジャーナリスト)

 核兵器廃絶どころか、新型兵器の開発を認めているオバマ。これじゃあ、広島で核廃絶を訴えるワケがない。実はオバマは、09年11月の初来日の際にも広島訪問を検討したが、当時の外務省・薮中三十二事務次官が「時期尚早」と突っぱねていたことが、内部告発サイト「ウィキリークス」が公開した米外交公電で明らかになっている。元外務省国際情報局長の孫崎享氏は「もし09年に広島訪問が実現していれば、核軍縮など、その後の米国の防衛政策も変わった可能性があった」と言い、こう続ける。「米国内で大きな力を持つ軍産複合体が、オバマ大統領の当時の広島訪問を許さなかったのでしょう。米国の軍産複合体と日本の外務省は近しい関係なので、米国側の意向を忖度して広島訪問を断ったのだと思います。それが今回、一転してOKとなったのは、軍産複合体の関心は次期大統領に移っていて、もはやオバマ大統領は『終わった人』と見られているからだと思われます」 歴史的訪問」なんて大ハシャギしているのは、日本政府だけだ。→日刊ゲンダイ2016年5月13日

 2012年11月11日『琉球新報』「核兵器廃絶『現実は無理』/遊説先の広島で橋下氏ー日本維新の会代表の橋下徹大阪市長は10日、遊説先の広島市で核廃絶について『現実は無理ですよ。今の国際政治で。日本はちょっと平和ボケしている。核廃絶を日本がやると言ったって、誰ができるのか』と述べ、実現は困難との認識を示した。また非核三原則が禁じる核持ち込みについて『アメリカの核に守られている以上、あり得るのではないか。現実にあるのであれば、国民に開示して議論をしなければならない』と述べ、容認する可能性に言及した。□広島市長:橋下大阪市長に苦言 核廃絶巡る発言毎日新聞 2012年11月14日  日本維新の会代表の橋下徹大阪市長が遊説先の広島市で10日、核兵器の廃絶は「現実には無理。米国の核の傘は必要」などと発言した。

 「原爆の日」である。広島の松井市長は平和宣言で一方、署名を通じて市民から要望のあった「集団的自衛権」の文言は盛り込まず、核兵器禁止条約の交渉開始を直接日本政府に要望する表現も避けた。過去3回述べた日本のエネルギー政策については触れなかった。□松井 一實(まつい かずみ、昭和28年(1953年)1月8日 - )は、厚生労働官僚。広島県広島市長(ウィキペディア)→2014年8月8日記昨年に続いての出席となった安倍首相は、来年開催される核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向け、「『核兵器のない世界』を実現するための取り組みを、さらに前へ進めていく」と語った。原爆症認定については「一日でも早く認定が下りるよう、今後とも誠心誠意努力する」とした。一方、政府の最近の取り組み以外は、昨年とほぼ同じ表現(コピペした文章)だった。→毎日新聞-2014/08/05

 長崎は9日、69回目の「原爆の日」を迎えた。長崎市の平和公園で平和祈念式典が開かれ、田上富久・長崎市長は平和宣言で、安倍政権が7月に閣議決定した集団的自衛権の行使容認を巡る議論に言及し「『戦争をしない』という誓い、平和の原点が揺らぐことに対する不安と懸念の声に真摯(しんし)に向き合い、耳を傾けることを強く求める」と政府に呼び掛けた。→毎日新聞


『しんぶん赤旗 日曜版』2017年8月6日

 「くろねこの短語」8月 4日-「女体盛り」大臣、「仁風林疑惑」大臣、「当て逃げ」大臣・・・今度の内閣も変態仮面で枯れ木に山の賑わい&能書き言ってないで、さっさと臨時国会を開け!!&築地場外の火事はどこか焦げ臭い!?
 進歩してないからこそ、性懲りもなく変態仮面をまたぞろ大臣にしちゃったんだろう。1億総活躍担当大臣を仰せつかった松山君のことだ。なんと、この男はかつて未成年者の「女体盛り」で物議を醸してたってね。19年前の話とはいえ、パンティ高木君に負けず劣らずのスキャンダル男ってことだ。そうかと思えば、公職選挙法違反で公民権停止になった過去を持つ小野寺君みたいなのもいる。この男も臍下三寸に問題があって、パソナグループの接待組織、仁風林の喜び組のオネーチャンととかくの噂があるんだね。
 そういえば、文部科学大臣の座を手に入れた林君だって、当て逃げ事件なんてのがあった。ま、事ほど左様に、叩けばホコリのひとつやふたつは出てくる内閣であることは間違いない。
 なんてったって、森友、加計の主犯であるペテン総理がトップですからね。こんな男が、「先の国会では、森友学園への国有地売却の件、加計学園による獣医学部の新設、防衛省の日報問題など、様々な問題が指摘され、国民の皆様から大きな不信を招く結果となりました。そのことについて、冒頭、まず改めて深く反省し、国民の皆様におわび申し上げたいと思います」なんて頭を下げたところで、それこそ盗人猛々しいってことなんじゃないのか。何度も言うけど、すべての元凶はペテン総理自身であって、お詫びなんてどうでもいいから、説明責任を果たせってことに尽きるんだね。

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  2004年3月23日、「米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会」があった。友人たちのバスで会場の北谷公園野球場前広場に1時に着く。テレビで宮古に大雨警報とあったが、会場も雨であった。2時に大会が始まる前に会場を一周した。テントで福地曠昭氏と、安仁屋政昭氏が話をしている中に割り込んだ。福地氏に今度の『オキナワグラフ』に氏の名前を引用している旨を話した。そのうちかつての全軍労の闘士・上原康助氏も福地氏の会話に加わってきた。上原氏を目前にするのは初めてだがテレビで馴染んでいたせいか以前からの知人のように感じた。また西尾市郎氏も抗議活動を展開していた。



2006年6月 福地曠昭『つりと海ー今昔物語ー』那覇出版社

□福地曠昭 ふくち-ひろあき
1931- 昭和後期-平成時代の労働運動家。
昭和6年2月28日生まれ。昭和31年沖縄教職員会にはいり,祖国復帰運動に参加。43年屋良(やら)朝苗琉球主席の誕生につくす。平和・教育運動に活躍し,47年沖縄革新共闘会議事務局長,平成2年県教組委員長。沖縄県出身。青山学院大中退。著作に「村と戦争」「沖縄の混血児と母」など。


福地曠昭の本
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前島にあった海勢頭豊氏の店で、左から新城栄徳、儀間比呂志氏、福地曠昭氏
〇儀間さんには『沖縄戦 朝鮮人軍夫と従軍慰安婦』1995年、福地さんには『哀号・朝鮮人の沖縄戦』月刊沖縄社1987年がある。

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1973年5月 沖縄の雑誌『青い海』23号 名嘉正八郎「破壊される文化財/」先人との対話を 未来の創造を
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1996年10月 名嘉正八郎『図 沖縄の城』那覇出版社/左ー名嘉正八郎氏、真栄平房昭氏、新城栄徳

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 戦前・戦後、常に東京沖縄県人会の指導者であった神山政良氏が1966年3月に『年表ー沖縄問題と在京県人の動き』を琉球新報社東京総局から発行している。その年表によると東京で沖縄県人会という名称は、1921年1月23日に明正塾にあった沖縄県青年会を改称した沖縄県人会が最初のものである。戦前の東京沖縄県人会①には在京の県人会幹部名を列記したが今回は個人別に紹介する。出典は1940年の東京沖縄県人会名簿。

安次富松蔵(済美中学校)ー杉並区方南町、安次富長英(森野商店東京支店)ー四谷区愛住町、安良城盛英(本郷元町小学校)ー板橋区練馬南町、安次富武集(専売局)ー葛飾区本田立石町、安谷屋長治ー(自動車修理製作)ー京橋区湊町、安仁屋政成(洋服商)ー淀橋区東大久保、安谷屋正伯(専売局)ー葛飾区上小松、有銘與明(文化工業所)ー浅草区壽町、安座間喜政(日本橋区箱崎尋常小学校)、安次富松山(警視庁)、安次富武雄(明治鉱業長井海水試験場)ー神奈川県三浦郡長井町、安次富福介(小原光学)、芝田町

伊波普猷(千代田女子専門学校講師)ー中野区塔ノ山、伊波興一(日暮里警察署)ー下谷区下根岸、伊波南哲(丸の内警察署)ー淀橋区角筈、伊江朝助(男爵、貴族院議員)ー中野区高根町、伊江朝睦(小菅刑務所所長)ー葛飾区小菅町、伊禮肇(弁護士、代議士)ー品川区大井山中町、伊元富爾(中外商業新報政治部次長)ー本郷区いが林町、伊集治宗(帝国無尽株式会社)ー世田谷区赤堤、石川正通(武蔵野女子学院教授、京華中学校教諭)ー本郷区浅嘉町、石原三覧(医師)ー渋谷区原宿、石原守規(中野第5小学校)、石原昌栄(警視庁)ー小石川区茗荷谷、石嶺傳亮(歯科医)ー赤坂区青山北、石垣永助(改造社)ー大森区馬込町東、糸嶺篤栄ー神田区松永町、石川正治(山口自転車工場販売部)ー日本橋区小傳馬町、伊志嶺朝良(東亜海運株式会社)ー大森区調布嶺町

上原恵道(三菱航空株式会社、海軍機関中佐)ー市外吉祥寺、上原健男(日本大学講師、弁護士)ー本郷区真砂町、上原隨昌(警視庁)、上原眞清ー板橋区板橋町、上江洲由英(下谷高等小学校)ー豊島区池袋、上間清享ー本所区小梅町、上間助三(東京地方専売局芝工場)、上里朝秀(成城学園高等女学校主事)ー世田谷区祖師ヶ谷、上里参治ー中野区打越町、宇久里清(板橋第二小学校)、浦崎永錫(美術界記者)ー埼玉県大宮町、内間仁徳(芝区三光小学校)ー芝区二本榎西町、内盛唯夫ー世田谷区太子堂

大濱信泉(早稲田大学教授)ー杉並区和田本町、大濱信恭(東京市厚生局)、大濱晧(帝京商業学校教諭)、大濱潔ー江戸川区小岩町、大濱孫詳(東京湾汽船株式会社)、大濱善勤ー淀橋区角筈、大濱正忠ー世田谷区鳥山町、翁長助俊(東京市総務局文書課)ー中野区昭和通り、翁長良保(旭硝子株式会社総務部長)ー杉並区馬橋、翁長長助(蒲田矢口東小学校)、翁長長圭(呉服商)、大塚長昌(東京府総務部人事課)、大城朝申(東京地方裁判所判事)ー杉並区松庵代町、大城兼義(東京無尽合名会社)ー世田谷区上北沢、大城兼眞(医師)ー小石川区下富坂町、大城仁輔(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、大城助十(城東区浅間小学校)ー豊島区巣鴨、大城盛隆ー麹町区平河町

大城幸清(小原光学株式会社)ー荏原区下神明町、大城幸助(東京光学機械株式会社)ー板橋区志村本蓮沼町、大城川次郎(農林省林業試験場)ー荏原区戸越、大城太郎(榎本光学株式会社)ー豊島区長崎東町、大城永茂(豊島生田第二小学校)、大城源次郎ー渋谷区幡ヶ谷本町、大城孝清(板橋開進第二小学校)、大城幸英(小原光学株式会社)ー芝区田町、大城梅春(漢方医)ー荏原区下神明町、大城久栄(専売局)ー本所区横川橋、大城藤徳郎(専売局)ー品川区西品川、大城藤太郎(専売局)ー品川区西品川、大城伸夫(日本製鉄株式会社)ー品川区大井瀧王子町、大嶺三郎ー小石川区表町、大嶺詮次(京橋郵便局)ー豊島区池袋、大嶺英意ー麹町区永田町、大嶺英徳ー足立区千住柳町、大村寛康(小石川青柳小学校)

大宜味朝徳(海外研究所主宰)ー本郷区駒込蓬莱町、大浦英美ー深川区千田町、大谷次良(大村自動車商会主)ー麹町区麹町、大盛英意ー麹町区永田町、奥島憲仁(弁護士)ー小石川区柳町、奥間徳一(芝区南海小学校)ー荒川区日暮里町、奥平秀(大審院)ー蒲田区女塚、奥本養善(淀橋天神小学校)、親泊朝輝ー目黒区鷹番町、親泊朝省(陸軍参謀本部勤務少佐)、親泊康永(出版業)ー神田区小川町、恩河朝健(計理士)ー芝区白金今里町

漢那憲和(海軍少将、代議士)ー小石川区林町、漢那朝常(沖縄食品会社専務取締役)ー本郷区台町、神山政良(国際通運株式会社取締役)ー本郷区西片町、我謝秀裕(株式会社三省堂)ー杉並区成宗、我謝盡義(板橋第五小学校)、我部政達ー北多摩郡小金井、我部政任(小石川柳小学校)ー杉並区高円寺、我喜屋良喜(王子尋常高等小学校)、嘉手川重政(株式会社北辰電機製作所)ー荏原区戸越、嘉手川重國(簡易保険局)ー大森区雪ヶ谷町、嘉手苅信世(南方倶楽部専務理事)ー四谷区番衆町、嘉数詠勝つー淀橋区上落合、嘉数詠秀(世田谷深沢小学校)、嘉数英一(東京市水道局)、嘉味田朝武(淀橋第六小学校)、川上親助(京橋昭和小学校)ー蒲田区蒲田町、亀島靖治(泡盛商)ー神田区五軒町、垣花昌林ー渋谷区幡ヶ谷原町、亀川盛要(保健局)ー麻布区富士見町、柏常隆(横川橋梁株式会社)

金城時男(泡盛商)ー豊島区巣鴨町、金城紀昌(医師、鉄道病院)ー四谷区西信濃町、金城俊雄(品川小学校)ー品川区大井金子町、金城成宜ー豊島区豊島町、金城朝永(株式会社三省堂)ー豊島区西巣鴨町、金城唯温(東京地方専売局芝販売所)ー中野区昭和通り、金城清義(浅草田中小学校)、金城栄吉ー蒲田区糀谷町、金城待敬(英和商工社)ー麹町区永田町、金城武雄(荏原京陽小学校)、金城順隆(農林省)ー中野区昭和通り、金城珍網(杉並第六小学校)、金武朝睦(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、喜納朝徳(神田小学校)ー牛込区若宮町

喜納昌隆(蒲田区羽田第二尋常高等小学校)、喜友名成規(下谷黒門小学校)、儀間新(十五銀行)ー下谷区竹町、宜保友厚(泡盛商)ー京橋区槙町、宜保盛顕(板橋小学校)ー王子区稲付西町、木村春茂ー足立区千住町、許田善三郎ー足立区千住町、岸本賀勝(安田生命保険株式会社中野出張所)ー杉並区阿佐ヶ谷、喜久村潔秀(東京市電気共済組合)ー本郷区田町

國吉良寶(弁護士)ー杉並区馬橋、國吉眞俊(中外電業合資会社)ー芝区白金三光町、國吉眞禮ー本郷区金助、國吉眞文(大洋海運会社機関長)ー世田谷区三軒茶屋、國原賢徳(弁護士・弁理士)ー市外吉祥寺、具志堅實成(電機学校教授)ー杉並区大宮前、具志堅興實(警視庁)、久志助起(きくや書店主)ー神田区小川町、久志安彦ー本郷区、久高将吉(弁理士)ー世田谷区新町、久高朝清、久高清志ー滝野川区瀧野川、具志川朝著ー大森区入新井、具志幸慶(牛込高等小学校)ー牛込区若松町、具志川朝芳ー大森区大森、桑江文雄ー本所区東両国

東風平玄宗(警視庁警部補)ー蒲田区下丸子町、呉屋愛永(東京地方専売局)、呉屋芳春(深川元加賀小学校)、小嶺伸(荏原杜松小学校)ー荏原区中延、古謝盛義(板橋第五小学校)、小嶺幸和(警視庁)ー牛込区田町、幸地朝績(第百銀行神田支店)、幸地良昌(東京市厚生局)ー本郷区田町・喜久村方、鴻田康隆(東京市電気局電燈部)

呉屋博嗣(東京府経済部農林課)ー杉並区高円寺□→1938年『大阪球陽新報』「苦学力行の呉屋博嗣君ー大阪職業紹介所で職員として活動す。島尻郡西原村の出身、今年24歳の青年である。中央大学在学中、八幡一郎の世話で東京市役所職業課に入り、なお家庭教師もやりつつ卒業した」

崎原當升(東京鉄道局)ー市川市八幡宮ノ内、崎原淑人ー杉並区方南町、崎原成功ー葛飾区本田川端町、崎山用貴(警視庁)、佐久本嗣吉(下谷区西町小学校)、佐久田昌章(泡盛卸売商)ー神田区西神田町、澤田朝序(杉並桃井第五小学校)ー杉並区柿ノ木町、座間味朝永(エビス電球株式会社)ー杉並区天沼町

尚裕(侯爵)ー渋谷区南平臺、尚亘ー渋谷区南平臺、尚暢(日本勧業銀行)ー杉並区西荻窪、島袋源七(立正中学校教諭)、島袋盛繁(西巣鴨第二小学校)、島袋盛敏(成城高等女学校教諭)ー世田谷区成城町、島袋憲英(淀橋第一小学校)、島袋貞吉(中野野方東小学校)、島袋嘉英(東京市農会)ー足立区龍田町、島袋欣吉ー京橋区月島西月島通り、島袋欣章ー京橋区月島通り、島袋全吉(東京市財務局主税課)ー小石川区大塚坂下町

城間恒春(京橋明正小学校)、城間盛蒲(東中野小学校)、城間文徳(東京市厚生局衛生課)ー淀橋区下落合、城間朝宏(荒川第四峡田小学校)、城間義盛(警視庁)ー滝野川区西ヶ原町、識名盛亮(足立第七千寿小学校)、謝花寛廉(本所柳島小学校)、新城朝功ー淀橋区大久保、志賀進ー小石川区大塚坂下町、新屋敷幸繁(出版業)ー目黒区上目黒、末広幸次郎(日本曹達株式会社常務取締役)ー大森区馬込町

高嶺朝慶(株式会社島津製作所)ー淀橋区百人町、高嶺元英(高嶺製作所)ー荏原区中延町、高嶺元照(内閣印刷局)ー深川区石原町、高嶺朝和(葛飾上平井小学校)、高嶺朝詳(芝鞆絵小学校)ー淀橋区大久保、高良憲福(旭硝子株式会社工務部労務課長)ー板橋区練馬南町、高安正英(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、高江洲伸(浅草育英小学校)、高江洲朝和(本所高等小学校)ー荒川区日暮里町、嵩原安智(泡盛商)ー麹町区九段、嵩原安徳ー麹町区九段、高木玄栄ー小石川区関口台町、田港朝明(東京市女学校教諭)、田港景俊(本所区菊川小学校)、田里丕顕(料理業・沖那)ー芝区芝浦

田崎朝盛(医師)ー横浜市鶴見区潮田町、平良眞吉(医師)ー城東区亀戸町・平良医院、平良眞英(医師)ー城東区北砂町、平良治良(大井川電力株式会社)ー平塚市机浜町、平良兼路(本所区江東小学校)、平良恵序(深川区臨海小学校)、高里良英ー王子区堀舟町、多田喜導(専修商業学校教諭)ー杉並区上荻窪、玉那覇兼松(泡盛商)ー深川区森下町、玉盛栄八(シンセン本舗)、玉盛貫一(川崎菓子組合内)-川崎市宮前町、玉城正一(城東区第二大島小学校)、玉寄兼平(東京地方専売局芝工場)ー江戸川区西小松川町、谷口文雄(杉並区高井戸第四小学校)ー中野区江古田

知念亀千代(京橋区月島第一小学校)ー渋谷区代々木初台町、知念誠文ー渋谷区千駄ヶ谷、知念宏栄ー日本橋区茅場町、知念正次郎(東京アルミニウム工業株式会社)ー渋谷区景丘町、知念福永(日本電気株式会社)ー麻布区飯倉、知念武次郎(東京市厚生局)ー品川区下大崎、知念周章(栃元制作所)ー品川区東品川

津波古義正(小原光学株式会社)ー荏原区戸越町、津波古充計(東京府立第四中学校教諭)ー牛込区東五軒町、津波古正雄(東京本廠)ー荏原区戸越町、津嘉山朝弘(本所区菊川小学校)、津嘉山浩(荏原区延山小学校)ー荏原区中延町、津波富永(東海鉛管株式会社)ー荏原区戸越町、津堅房永ー横浜市鶴見区豊岡町、鶴初太郎(沖縄物産斡旋所長)ー淀橋区柏木、辻野誠一(旅館業)ー横浜市中区花咲町

照屋林仁(泡盛商)ー目黒区上目黒、照屋健六-芝区三田豊岡町、照屋南岸ー品川区大井小神町、照屋林明ー京橋区月島東仲通、照屋哲郎(東京ライト工業社)ー世田谷区世田谷、照屋清昌ー杉並区阿佐ヶ谷

渡口精鴻(医学博士・渡口研究所)ー蒲田区本蒲田、渡口精秀(医学博士・渡口研究所)、渡口精眞(東京市技師)ー渋谷区幡ヶ谷本町、渡口精勤(医師)ー蒲田区新宿、渡口政信(警視庁)ー京橋区新佃島東町、渡名喜守定(海軍中佐)ー中野区江古田町、渡名喜守雄ー豊島区駒込、渡嘉敷眞順(本郷元町小学校)ー豊島区千早町、渡嘉敷昧球ー荏原区戸越町、當山寛(弁護士)ー小石川区宮下町、當山武久(小原光学株式会社)ー荏原区下神明町

當山清香ー淀橋区戸塚町、當間恵栄(錦城中学生徒監長)ー川崎市生田、當間嗣珍(京橋郵便局)ー深川区古石場町、當眞正二(海軍省航空本部)ー芝区桜田町、當銘盛蒲ー目黒区下目黒、富盛寛孟(赤坂小学校)、富原守摸(深川区扇橋小学校)、友寄喜仁(弁護士)ー板橋区中新井、友寄英勝(目黒月光小学校)ー目黒区富士見台、友寄隆徳(東京市電気局)ー本郷区駒込神明町、友寄英成(東京地方専売局我孫子販売所長)ー千葉県我孫子、徳田安貞(本郷区昭和小学校)-豊島区長崎南町、徳田耕作ー杉並区阿佐ヶ谷、徳永朝益(西多摩郡南檜原小学校)ー西多摩郡檜原村、徳永盛和(東京地方専売局)ー浅草区三筋町、遠山眞信ー麻布区新綱町、豊川善包(本所牛島小学校)ー向島区寺島町、飛岡正信(陸軍省)、桃原昌一(東京市水道局)

仲原善忠(成城高等学校教授)ー世田谷区祖師谷、仲原善徳ー世田谷区祖師谷、仲宗根玄愷(昭和生命保健相互会社常務取締役)ー中野区桜山、仲宗根玄康(東京市厚生局)ー滝野川区滝野川町、仲里文英(世田谷区多聞小学校)、仲村常樽(台東小学校)ー淀橋区東大久保町、仲村専義(建築設計業)ー下谷区入谷町、仲本盛行(東京市財務局主税課)ー京橋区新佃島東町、仲本朝愛ー本郷区田町・喜久村方、仲本吉一郎ー渋谷区神山町、仲本宗厚ー渋谷区幡ヶ谷本町、仲本川原ー大森区久ヶ原、仲本徳英ー本郷区駒込千駄木町、仲田多聞ー荏原区羽田町麹谷、仲田新雄ー渋谷区笹塚町、仲尾次清正(東京憲兵隊本部)ー麹町区竹平町、仲井間宗一(文部参与官)ー麹町区平川町、仲井間宗祐(税務懇話会)ー滝野川区上中里町、仲吉良光(東京日々新聞記者)ー横浜市鶴見区鶴見町、仲村渠直和(市ヶ谷刑務所勤務)、仲野廉松ー世田谷区太子堂町

仲兼久長太郎(東京地方専売局蔵前分工場)ー江戸川区小岩町、仲地唯一(東京市電気局)ー渋谷区代々木初台、仲松弥男(荒川区第五峡田小学校)、長嶺善進(糧秣廠)ー下谷区上根岸、長嶺晃(城東区第一亀戸小学校)、長嶺朝昭(東京地方専売局)、長嶺朝英(川越税務署)ー川越市宮下町、長嶺将繁(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、名護朝徳ー荏原区荏原町、名城政教(日本起重機製作所)ー蒲田区糀谷、名城嗣亨(京橋月島第三小学校)ー京橋区月島東河岸町通、長嶺亀助(陸軍少将、軍需会社顧問)ー神奈川県茅ヶ崎、長濱三郎(大森区馬込第一小学校)ー大森区馬込町東、名嘉山徳温(東京市財務局会計課)ー板橋区上板橋、長濱眞詳(石神井西小学校)ー中野区新井町、永島可昌(下谷区竹町小学校)、名嘉繁雄(南武鉄道株式会社技術課)ー品川区北品川町、永井長雄(東京市総務局)ー中野区桜山町


 

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今ほど政治経済が東京を中心に劣化している時代は無い。そこで東京の過去を散策してみよう

 1940年の東京沖縄県人会『会員名簿』の東京沖縄県人会の沿革によればその歩みはつぎのようになる。京浜沖縄県学生会の会報で補足する□b>
1886年ー在京沖縄出身の青年間に勇進社を組織す
1888年ー沖縄学生会と改称
1890年ー沖縄青年会と改称す
1899年ー照屋宏により学生の寄宿舎設立計画さる
1899年ー沖縄青年会仮事務所を麹町区富士見町2ノ7、尚侯爵邸家構内に置く
1909年ー創立20周年記念会を上野精養軒に開き朝野の名士を招待す。来会者3百余名空前の盛事なり 当時会長は護得久朝惟
1910年ー仮事務所廃止
1910年ー護得久朝惟会長提案による沖縄青年会会友会発会式を風月において挙行す
1910年ー護得久朝惟会長辞任、後任会長に漢那憲和
1911年ー寄宿舎設置補助交付の件が沖縄県会を通過、翌年より2ヵ年に亘り金壹萬円也下付せらる。当時日比重明知事、高嶺朝教県会議長、岸本賀昌学務課長
1912年ー沖縄青年会会友会を社団法人とし沖縄育英会と改称す
1913年ー寄宿舎落成式挙行。沖縄県明正塾と命名す 東恩納寛惇舎監に推薦さる
       その後1923年に東恩納寛惇、舎監を辞任、神山政良が常任管理委員に推挙さる
       1928年、神山政良、舎監を辞任、比嘉良篤、後任に推挙さる
       東京沖縄県人会と改称す、役員を理事制度に改め漢那憲和理事長に推薦さる
       □1925年5月ー京浜沖縄県学生会結成
1927年ー役員を会長制に改め、新城朝功が会長に当選し神山政良、奥島憲仁が副会長に当選す 神山副会長辞任
1928年
11月11日ー京浜沖縄県秋季総会、会長に尚謙(慶応大学)、副会長に赤嶺康成(高等師範)
□1929年
5月ー京浜沖縄県学生会秋季総会を新宿白十字堂に開く。伊波普猷「方言に現れたる土俗」講演。役員改選で会長に小嶺幸雄(早稲田大学)、副会長に福地唯義(慶応大学)。
6月2日ー京浜沖縄県学生会春期総会を新宿白十字堂ホールに開く、佐藤惣之助の「琉球旅行」の話
1929年ー役員改選さる 会長に渡口精鴻、副会長に比嘉春潮、翁長良保
□1930年
7月ー小川町の多賀羅で在ハワイ同胞母国観光団歓迎会、主賓の金城珍栄以下10余名、県人出席者30余名。
11月9日ー京浜沖縄県学生会秋季総会を神田駿河台下白井喫茶部2階で開く、渡口精鴻、比嘉春潮の談話、女子部の会長に豊川とみ
□1931年
3月19日ー漢那憲和代議士、移民会館建設の準備成功し帰国
4月29日ー大蔵省参事の神山政良、名古屋専売局長に栄転さる。
5月17日ー神楽坂福寿倶楽部で東京沖縄県人会春季総会、役員改選 会長に渡口精鴻留任、副会長に奥島憲仁、恩河朝健
1932年ー明正塾廃止
1936年ー5月、本会沿革及び名簿を謄写す
1936年ー役員改選さる 会長に神山政良、副会長に大濱信泉、八幡一郎
1937年ー東京沖縄県人会(芝区虎ノ門会館 久高特許事務所内)『会員名簿』作成頒布  
1938年ー役員改選さる 会長に神山政良、副会長に大濱信泉、八幡一郎
1940年ー東京沖縄県人会『会員名簿』     

大宜味朝徳は海外研究所を設立し『我が統治南洋群島案内』『最近のペルー事情』『最近の布哇事情』などを発刊した。1933年1月に南島社(東京市本郷区蓬莱町5)から郷友版『南島』紙を発行する。3号(1933年3月)に「東京琉球泡盛商一覧」が載っているのを始め平敷本舗主人の平敷安用の「「東京に於ける琉球泡盛の今昔」、東京での泡盛委託販売30年の入江藤五郎の「泡盛の黄金時代」、「泡盛界に躍進する三島本舗主・川村禎二君」が載っている。また泡盛商広告に崎山商店(崎山喜昌),うるま本店(金城時男)、琉球古代焼・花瓶置物・琉球漆器・琉球玩具も扱う仲本商店(仲本宗厚)がある。

『南島』4号に「知念松一君、沖縄写真帖計画」が出ている。知念松一は8号の個人消息で「大阪市港区八雲町4で関西沖縄新聞創刊」とある。また空手講習会、南島談話会、泡盛組合、東京沖縄県人会の集会も紹介されている。1934年2月『南島』10号の集会欄に「名古屋県人会(比嘉康進)が神山政良顧問で万歳三唱、舞踊、空手あり」と報じられ、8月の『南島』13号には稲垣国三郎氏の義挙として「大阪稲垣愛日小学校長は6ヵ年間沖縄師範主事として勤務したことがあるが久松五勇士の快挙につき種々尽力、公にし且つ映画化して南島男子の意気を顕揚せしめた。この義挙に対し在阪県人有志の我喜屋宗信、山城興善、下地玄信、平尾喜代松、真栄田勝朗、幸地長堅らが大いに協力した」が載っている。ほかに『南島』の個人消息欄には上原美津子(中央電話局教師)、伊波普猷長男國男君目出度本年度二中に入学、また久志芙沙子の随筆がある。


1936年10月27日午後5時から、神田区小川町の多賀羅亭で東京沖縄県人会臨時総会が開かれた。定刻までに90人が集まった。先ず神山政良会長が開会を宣した後、会則改正の必要を説明。そして新会則案を提出し、副会長の八幡一郎がこれを朗読し審議に入った。神山政良が会長に再選。あと会食。その後に漢那憲和、渡口精鴻の旧会長、幹部の労を謝し、大城兼義がパンフ「沖縄県回生の要訣」を手に憂郷の熱弁を振う。午後10時、大城兼義の音頭とりで「東京沖縄県人会万歳」を三唱して和気藹々のうちに散会した。



1937年
東京沖縄県人会会則
第1条  東京沖縄県人会は東京府下在住の沖縄県人を以って組織す但し府外在住者又は沖縄県に縁故を有する他府県人にして入会を希望する者は之を会員となすことを得
第2条  本会は会員相互の懇親を図り且つ沖縄県人の向上発展に貢献するを以って目的となす
第3条  本会は下の事業を行う
      1、会報の発行
      2、会員の慶弔
      3、県出身優良学生並びに篤行者の奨励表彰
      4、県人会館の建設
      5、其の他第2条の目的達成上必要と認むる事項


東京沖縄県人会役員
会長ー神山政良 副会長ー大濱信泉、八幡一郎
幹事ー安次富松蔵、伊元富爾、伊豆見元永、井上寛令、我謝秀裕、久高将吉、高嶺明達、高良憲福、仲吉良光、仲原善忠、比嘉良篤、比嘉春潮、船越義英、真玉橋朝起、宮城清、饒平名智太郎
顧問ー伊江朝助、伊波普猷、伊禮肇、大城兼義、漢那憲和、渡口精鴻、東恩納寛惇、尚亘、長嶺亀助、仲宗根玄愷、銘苅正太郎、花城永渡、山本實彦
評議員ー石原三覧、石嶺傳亮、石川正通、池城安信、大城兼真、大城朝申、大宜味朝徳、奥島憲仁、奥間徳一、翁長良保、親泊朝輝、恩河朝健、嘉手苅信世、金城時男、国吉良實、久志助起、国吉真俊、崎原當升、志村宗徳、島袋全達、平敷安川、津波古充計、仲里朝章、仲兼久長太郎、新田宗盛、比屋根安定、宮城幸安、宮城新昌、山川朝賢、山内朝常、山川政功、森田孟睦、読谷山朝宣


東京葛飾区在住の島袋和幸氏の調査によれば、1886年、アメリカ船ゲーリック号でサンフランシスコに到着しミシガン大学準備のため友人らと下宿していた粕谷義三が、友人たちと協同で週刊邦文新聞『第十九世紀』を発行した。後に粕谷は大学を終えて帰国、板垣退助の日本自由新聞社の主筆をつとめた。第5回総選挙で衆院議員に当選、立憲政友会に所属し埼玉支部長もつとめた。粕谷は埼玉県入間市藤沢の出身、その市民会館前に銅像がある。その粕谷義三の知遇を得たのが沖縄美里出身の大宜味朝徳で、粕谷の協力の下で1922年12月に週刊『埼玉公論』紙を創刊する。大宜味が1926年に『沖縄及沖縄人』を発行したのは前回記した。

1921年10月ー沖縄協会創立
沖縄協会創立趣意書
本県は地理上の関係よりして古来本土との交通稀疎にして制度習俗亦従って異なるものあり明治維新後他府県同様法治の制を布かれしも猶各種の関係に於いて特殊の点在するものありしも今や県勢の振興発展は制度に於いて特例なく各般の施設亦他に比し敢えて遜色ありと言ふに非らざるも只だ本県事情の正当なる紹介を得ざる為め較もすれば他の誤解を招き惹いて損失を蒙ることすくなしとせざるものあり更に遺憾とする所は本県関係の重要懸案にして中央と連繋を要するもの益々繋きを加ふべきに而も之に処する何等機関用意の設けなきこと之れなり為めに凡ての企図策応によるべきなく且つ機を逸するの憾みあり之を以って吾が沖縄を広く江湖に紹介し且つ中央との連繋を採る機関の必要は久しく唱導されしも機の熟せざるものありしが機運の際会は之が創立を県内外在住の識者諸賢に提唱するの急に迫るものあり冀くは各位の賛同を得て本県将来の振興発展に資せんことをー大正十年十月。

役員
総裁・床次竹二郎 会長・和田潤 副会長・我如古楽一郎  理事・金城清松、黒木一二、崎浜秀主、銘苅正太郎、伊江朝助、大濱用要、山城五郎、宮城栄喜、伊仲浩、大城亀作、新垣牛一、盛島明長

1922年8月24日、沖縄県庁会議室で沖縄協会第4回理事会ー和田会長挨拶。東京市に沖縄協会支部設置並びに平和紀念東京博覧会の沖縄売店(出品者ー丸山漆器店、米次漆器店、漆器組合、太原漆器店、黒田理平庵、渡久地商店、新西商店、津嘉山商店、西田商店、渡慶次商店、食品会社、古賀商店、酒造組合、水産組合、上運天令儀、時志商店)の状況報告□会議参加者・和田会長、我如古副会長、理事は崎浜秀主、黒木一二、金城清松、山城五郎、宮城栄喜、桑原一郎、新垣牛一

沖縄協会在京会員
安慶名徳潤ー淀橋町柏木、新崎康ジョー小石川区下富坂、安谷屋繁ー小石川区茗荷谷、千原成梧ー青山原宿、東恩納寛惇ー小石川区水道橋、国吉良名ー麻布区、銘苅正太郎ー麻布区六本木、仲宗根玄愷カイー小石川区関口台、仲村政人ー牛込区原町、高山徹ー下渉、上運天令儀ー神田区今川小路

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Category: 04-書の森
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1974年12月 沖縄の雑誌『青い海』38号 川田(嘉数)松夫「新作民謡の今と昔」

1953年3月21日『球陽新報』「関西芸能界の一異彩たる川田礼子姉妹は先般の日劇”日本民謡集”で東都にデビューすることになった」



2003年3月28日『沖縄タイムス』

Category: 02-関西の沖縄
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玉城利則は関西でのエイサーやウチナー芸能には欠かせない人物である。

1974年7月 沖縄の雑誌『青い海』35号 玉城利則「誇れる沖縄文化の明日に向けて」

1975年9月ー関西沖縄青少年の集いがじゅまるの会『がじゅまる』
創刊号□玉城利則「第1回沖縄青年の祭りにあたって」
1976年2月ー関西沖縄青少年の集いがじゅまるの会『がじゅまる』第2号□「玉城利則会長あいさつ」、3月『青い海』51号□玉城利則「沖縄の舟・サバニ考ーとくに語源とデザインをめぐって」
1977年9月ー関西沖縄青少年の集いガジュマルの会『ガジュマル』第4号□玉城利則「『祭り』は団結への確かな道」
1978年6月ー『青い海』74号□長峰眞名「苦悩を乗り越える沖縄青年たちーIさん問題とがじゅまるの会」

1980年2月ー関西沖縄青少年の集いガジュマルの会『ガジュマル』第5号□玉城利則「古きがじゅまるたちより若きがじゅまるたちへ」


1981年6月 雑誌『青い海』104号 玉城利則「沖縄姓、ヤマトゥでなぜ変わった」

『ハイサイおきなわ』創刊号(発行人・嘉手川重義、編集人・玉城利則)
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1993年11月ー新城栄徳、帰省中の玉城利則から仲間恵子を紹介される。
2000年9月ー大阪人権博物館『ヤマトゥのなかの沖縄』□玉城利則「大阪の生活と泡盛」
2001年1月ー『大獅子』1□玉城利則「手技(ティガンマリ)から作品と表現へ」
2001年3月ー『けーし風』第30号□玉城利則「沖縄からの集団就職ー関西沖縄青少年の集い『がじゅまるの会』の結成」

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1974年7月 沖縄の雑誌『青い海』35号 宮城悦二郎「伊江島で戦死したヒューマンな従軍記者 アーニー・パイル」

1982年12月 宮城悦二郎『占領者の眼』那覇出版社

1982年12月 宮城悦二郎『占領者の眼』那覇出版社

写真左から渡口善明氏、新城栄徳、宮城悦二郎氏
□宮城悦二郎氏死去/元琉球大教授 ①宮城悦二郎氏(みやぎ・えつじろう=元琉球大教授、元沖縄県立公文書館館長)2004年6月7日午前10時、肺がんのため那覇市の病院で死去、71歳。沖縄県出身。自宅は那覇市首里汀良町2の25の5。葬儀・告別式は9日午後2時から那覇市首里寒川町1の2、安国寺で。喪主は妻逸子(いつこ)さん。戦後の沖縄で米誌などの記者を務めた後、琉球大で米国の沖縄占領史や米統治下の沖縄マスコミを研究。「沖縄戦記録フィルム1フィート運動」など平和運動にも参加した。

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『青い海』創刊号/儀間比呂志(行動会員)「表紙のことば」


1971年5月 沖縄の雑誌『青い海』2号 「あるグループ 沖青友の会(大阪)」〇大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。嘉陽君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。


1971年6月 沖縄の雑誌『青い海』3号

1971年6月 沖縄の雑誌『青い海』3号 松田道雄「君たちは島の上の石になってはいけない」/儀間比呂志(二科会員)「民話と沖縄」


1973年5月 沖縄の雑誌『青い海』23号 



1973年、1974年の扉カットは儀間比呂志


1976年5月 沖縄の雑誌『青い海』53号/1979年8月 沖縄の雑誌『青い海』86号


1977年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号<特集 儀間比呂志・版画”沖縄〟> 
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1972年12月 沖縄の雑誌『青い海』19号 新里金福×関広延「対談 沖縄の可能性とは何か」
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□新城栄徳、新里金福と関広延対談をセットする。
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1972年ー新里金福氏書簡→新城栄徳宛

1966年3月ー新里金福『沖縄の思想』未来社
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資料「関広延」<br />

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 古波蔵保好という名前を知ったのは、『青い海』1971年4月号の古波蔵氏の「非常識青春論ーハジの効果について」を読んでからである。それから古本屋などで古波蔵氏の本を見かけると買っていた。国吉真永『沖縄・ヤマト人物往来録』(同時代社1994年)に古波蔵氏は「在京沖縄県人のジャーナリストも少なくない。戦前派で現在も評論家として活躍しているのが古波蔵保好(76)=港区六本木=である。東京外語大2年のとき左翼劇団に入って逮捕され、それが原因で退学させられた。帰郷して、1931年に沖縄日日新聞記者になる。1938年、全国紙の毎日新聞に転じ、名文記者で鳴らした。在職中から、文春など月刊誌や週刊誌、日刊紙に社会評論を寄稿していた。同新聞社を定年退職後も評論家として文筆活動を続け、著書も多い。1982年『沖縄物語』で日本エッセイストクラブ賞を受賞している。古波蔵には『料理沖縄物語』があり、来年は『芸能沖縄物語』の出版を予定している。『これで沖縄物語』三部作が完結するわけで、肩の荷も下ります』と笑顔で話した」と紹介されている。

1940年 東京日日新聞社川崎通信部に勤務。先輩記者の仲吉良光の娘・アサと結婚。


1963年4月ー古波蔵保好『非常識夫婦論』文芸春秋新社/古波蔵保好『私設名画館』(洋酒マメ天国第28巻1968年5月)


1939年5月23日ー『沖縄日報』


1971年5月29日『サンデーおきなわ』



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1972年1月 沖縄の雑誌『青い海』9号 儀間比呂志×岡部伊都子「対談 沖縄のこころ を語る」
〇儀間ーボクは大和の差別を告発する人たちは、自らも過去において先島に対して犯してきた過ちを認めて、被害者であると同時に加害者でもあったふうに考えないといかん、と思うのです。岡部ー本土の内でも世界の各国でも、被差別者が差別者となっていくことが多い。それは差別をつくる仕組みのせいでもありますね。だから「差別をつくるしくみ」と闘わなくては。(略)儀間ー沖縄を愛するんだったら、沖縄に住んで仕事をすべきだ、共に苦しみを味わうべきだという考え方があります。ボクなんかも、大阪という安全地帯にいて沖縄を描いている、だから君は沖縄を売りものにしている半沖縄人だというレッテルを貼るんですね。

 
1988年11月 岡部伊都子『伊都子南島譜』海風社 〇誰がしたのーその日、わたくしは枚方の儀間比呂志展を観ていました(1986-6)/『読売新聞』1995年1月6日 「ふれあいトーク 今月のゲスト 岡部伊都子さん」川崎一朗ー戦争で人間が死ぬことは、人類という生き物が適正な環境で生きていくための必要悪、と考える人もいます。岡部ー過去の世界の歴史実情を見れば、そういう考えも出てくるかと思いますが、もはや自分から地球の生命体を考える時、犠牲者を出していいという気持ちに、私はなれません。他を苦しめ、おとしめるような愛は、本来の愛ではありませんし、戦争を是認するような宗教もまた、本当の宗教ではないと思いますね。

     
1997年4月 岡部伊都子『沖縄の骨』岩波書店
岡部伊都子 おかべ-いつこ
1923-2008 昭和後期-平成時代の随筆家。
大正12年3月6日生まれ。昭和31年「おむすびの味」でみとめられ,日常生活のなかの伝統美をこまやかな感性でとらえた作品で人気をえた。「二十七度線―沖縄に照らされて」など,戦争や差別にするどい視線をむけた著作もある。平成20年4月29日死去。85歳。大阪出身。相愛高女中退。著作に「賀茂川のほとりで」など。→コトバンク
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1973年1月 沖縄の雑誌『青い海』20号 瀬良垣宏明「沖縄の歌人 山城正忠の人と歌」

1961年3月18日 那覇市波上宮「山城正忠歌碑除幕式」



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山城正忠歌碑「朱の瓦屋根の糸遊(かげろう)春の日にものみなよろしわが住める那覇」


昭和8年3月『冬柏』第4巻第4号


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1975年7月 沖縄の雑誌『青い海』44号 石川真生「”少しの観光 〟の舞台裏ーホテルの労働争議を追ってー」

1991年5月 『石川真生写真集ー沖縄芝居 仲田幸子一行物語』/上原誠勇氏、石川真生さん、新城栄徳

1997年9月 那覇市民会館・名護市民会館『喜劇の女王 仲田幸子 芸歴50周年記念公演』



2017年9月5日~10日 那覇市民ギャラリー「石川真生 大琉球写真絵巻Part1~4」□石川真生ー「鬼畜米英」と叫びアメリカと戦った日本が、戦争に負けたら途端にアメリカのご機嫌取り。家来に成り下がっている。アメリカにすがって生きている国、日本。真の自立を未だにしていない国、日本。戦争の反省なんてどこ吹く風。アメリカの片棒を担いで戦争への道を突き進む日本。まるで日本はアメリカのポチだ。
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1975年9月 沖縄の雑誌『青い海』46号 新川明「◆論鉾◆ある『歴史家』の虚像を撃つー伊波普猷・柳田国男の読み方に触れて」

2013年4月20日『沖縄タイムス』新川明「4・28への視座ー自主独立の気概持て」〇政府式典は「安倍晋三首相が憲法改正(悪)をもくろむ中、独立国家のイメージを国民に示したいのだろう。実際には米国に隷属しているのは世界中が知っているし、話にならない」と一蹴する。・・政府式典に抗議は、抗議の意思を示す行動を無意味とは言わないものの、これまでと同じ動きでは状況は変わらないと指摘する。「復帰した今も、オスプレイや普天間問題で沖縄に主権はない。政府が式典を開くならば、沖縄は日本に離縁状を突き付けるくらいの気概を持ち、自ら生き方を決めるための教材とすべきだ」

新川 明

1956年5月16日『沖縄タイムス』新川明「沖縄画壇の収穫ー(儀間比呂志個展評)」


1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)


1983年10月 新川明・儀間比呂志『詩画集 日本が見える』築地書館□1960年6月『詩と版画おきなわ』、1971年12月『新沖縄文学』21号「儀間比呂志版画集 詞章新川明」をもとに構成。


2004年5月28日『琉球新報』新川明「非戦の志・平和への道ー儀間比呂志 沖縄の戦争と平和展に寄せて」

2007年5月7日 月刊 『榕樹』 □私の「大阪時代」 新川 明
新川 明 - 資料 2006年8月 西原町立図書館『新川明文庫目録』
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写真左から上里佑子さん、銘苅氏、川満信一氏、新川明氏/儀間比呂志さん、新城征孝氏、新川明氏、新城栄徳、その前が舞台美術家・新城栄徳氏

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 『朝日新聞』7月18日ー「生涯現役」として著作や講演など幅広く活動してきた聖路加国際病院名誉院長の日野原重明(ひのはら・しげあき)さんが、18日午前6時33分、呼吸不全で死去した。105歳だった。 1911年山口県生まれ。京都帝大医学部卒。41年から聖路加国際病院に勤めた。同病院内科医長、聖路加看護大学長、同病院長などを歴任。02年度朝日社会福祉賞。05年に文化勲章を受章した。専門は内科学。成人病と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを「習慣病」と呼んで病気の予防につなげようと1970年代から提唱してきた。旧厚生省は96年になって成人病を生活習慣病と改称し、今では広く受け入れられている。87年からは小学生を対象に「いのちの授業」を続けた。多数の著書があり、90歳で出版した「生きかた上手」がベストセラーになった。

2013年4月30日~5月5日 那覇市民ギャラリー「戸澤裕司写真展ーカジマヤー(風車祝い)~島人をめぐる断章~」□この写真展は2012年10月5日~18日まで新宿エプソンイメージングギャラリーーepSITEでの展覧会、11月3,4日の聖路加看護大学の学園祭でのミニ写真展「カジマヤー(風車祝い)~ある親子の命の物語~」と継続巡回展の第3会場です。沖縄では、数えで九十七歳を子供に生まれ変わる歳として風車を飾って祝う。

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2012年11月3,4日の聖路加看護大学での写真展には、聖路加国際病院理事長 日野原重明先生もご来場。
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仲里正雄氏に送られた日野原重明氏の手紙と色紙

日野原重明 ひのはら-しげあき
1911- 昭和-平成時代の医学者。
明治44年10月4日生まれ。昭和16年東京築地の聖路加(せいろか)国際病院にはいり,内科医長をへて,49年聖路加看護大学長。のちライフ・プランニング・センター理事長,聖路加国際病院理事長,聖路加看護学園理事長。医学・看護学教育につくし,生活習慣病の予防やホスピス医療で知られる。平成11年文化功労者,17年文化勲章。山口県出身。京都帝大卒。著作に「命をみつめて」など。(→コトバンク)○日野原さんは1962年3月に琉球薬品、中外製薬の招きで来沖している。美智子妃の侍医としても知られていた。

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Category: 02-関西の沖縄
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1972年2月号『青い海』10号 「若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」


1972年1月ー『青い海』10号□若者が集う「沖縄関係資料室」の西平守晴氏宅ー西平沖縄関係資料室主宰「柳宗悦という人を皆さんもよく知っていると思う。沖縄の民芸を高く評価した人だが、その人が昭和14年に書いた『琉球の富』の序に次のような言葉がある。<人々は今まで余りにも暗い沖縄を語り過ぎていたのです。私たちは優れた沖縄を語りたいのです。それは私達を明るくし島の人々を明るくさせるでしよう。私達は実に多くの富に就いて語り合いたいのです。沖縄に就いて歎く人々のために、又この島に就いて誤った考えを抱く人々のために、又自国を余りにも卑下して考える土地の人々のために、そうして真理を愛する凡ての人々のために、この一文が役立つことを望んで止まないのです。> この30年も前の文章が、私の今の気持ちを言い当てています。-」
□ここで資料の内容の一部を紹介しよう。開設当時200冊足らずだった書籍・雑誌は、現在約3200冊。新聞や週刊誌などのスクラップが300冊。沖縄に関する資料については、関西隋一と言われる。▽人物関係ー「謝花昇伝」「平良辰雄回顧録」「伊波普猷選集」などの伝記、回顧録、全集もの。▽市町村関係ー「北谷村誌」「南大東村誌」 比嘉景常「久米島紀行」など。▽歴史関係ー「沖縄県史」(直接主席から贈呈される。関西では天理図書館と資料室ぐらいだろうとの話) 「琉球建築」 田代安定「沖縄結縄考」 金城朝永「異態習俗考」や戦史・戦記もの。▽文芸関係ー「山之口貘詩集」「新沖縄文学」や大城立裕、石野径一郎、霜田正次、石川文一などの諸作品。▽芸能関係ー「組踊大観」「工工四」など。▽政府刊行物ー「立法院議事録」 白書類。▽ミニコミー「沖縄差別」「石の声」「沖縄月報」「寮友」「琉大文学」や本土各大学の県学生会の機関誌・パンフなど。▽地図ー「首里古地図」その他。これらの資料を整理したり、購入したり目録をつくるなど、一人でするにはたいへんな仕事である。西平守晴さんは保育園の仕事もあり忙しいので、現在もっぱら新城栄徳君(23)が動きまわっている。
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1972年6月の『豊川忠進先生の長寿を祝う会』では、沖縄の又吉真三氏から文化財の碑文の拓本を借りて展示して参加者を感動させ、平良盛吉翁らを豊川氏の隣りに座らせて感激させた。」
 1984年2月24日『琉球新報』「アシャギー新城栄徳『琉文手帖』で資料紹介」/3月17日『琉球新報』「さし絵人生40年ー金城安太郎さん」/『琉文手帖』「日本画家・金城安太郎」/5月『青い海』「新刊案内ー『琉文手帖』「日本画家・金城安太郎」


6月23日『朝日新聞』(大阪版)「沖縄のこころを本土にー大阪の西平守晴さん」

8月14日『毎日新聞』(大阪版)「反戦平和へ遍路10年ー沖縄出身の西平守晴さん」

9月10日、沖縄協会機関紙『沖縄』「21世紀へはばたけ沖縄青年ー新城栄徳さん」/12月7日『琉球新報』「俳人・末吉麦門冬が没して60年」/12月、『琉文手帖』2号「文人・末吉麦門冬」


1985年5月23日『沖縄タイムス』「30周年を迎える沖縄資料室ー大阪・西平守晴さんの個人文庫」

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1988年11月 史海同人『史海』№6 新城栄徳「関西と沖縄」




10月11日『琉球新報』「駅前広場ー西平守晴さん」/10月31日『沖縄タイムス』「自宅に沖縄関係資料室ー石垣出身の西平守晴さん」/11月6日『朝日新聞』(大阪版)「自宅を改造して沖縄を学ぶ拠点にー大阪の西平守晴さん」/11月、『琉文手帖』3号「歌人・山城正忠」/12月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』「琉文手帖『歌人・山城正忠』を読む」



1986年1月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』「此処に人ありー新城栄徳さん」/4月15日『沖縄タイムス』「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号はガリ版刷りー新城栄徳さんが確認」/12月、沖縄県歌会『金真弓』新城栄徳「沖縄近代美術の流れと文学」/12月、『北谷町史』第2巻「争議にともなう財産調書」(新城栄徳寄贈)

1987年4月25日『琉球新報』「われらウチナンチュー西平守晴さん」/5月『新生美術』新城栄徳「浦崎永錫画伯美術史を語る」/9月、沖縄県立博物館「特別展・沖縄近代の絵画」(新城栄徳協力)

1987年6月 大阪沖縄県人会連合会40周年記念誌『雄飛ー大阪の沖縄』西平守晴「就学前教育と児童福祉」「沖縄関係資料室」

1987年9月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』新城栄徳「人物・沖縄近代美術略史」/10月1日『琉球新報』「明治の沖縄の画家一堂にー東京の島袋和幸さんが見つけ、新城栄徳さんが人物確認」

1988年2月19日『週刊レキオ』「先人の足跡を残したいー新城栄徳さん」/4月、緑林堂『琉球弧文献目録』新城栄徳「沖縄出版史ノート(戦前篇)」/6月『新沖縄文学』№76□新城栄徳「近代沖縄の新聞人群像」/7月4日『琉球新報』「首里那覇鳥瞰図の作者は阿嘉宗教ー新城栄徳さんが確認」/9月、南風原永育『南の島の新聞人』ひるぎ社(新城栄徳資料提供)/11月『史海』№6□新城栄徳「関西と沖縄」

1989年4月18日『沖縄タイムス』「神山宗勲の小説『闘へる沖縄人』、新城栄徳さんが見つける」
7月、西平守晴、琉球新報の落ち穂を担当






10月、沖縄県立図書館「沖縄の同人誌展」(新城栄徳協力)/11月、『沖縄美術全集』(辞典・年表・文献委員ー新城栄徳)/11月30日『琉球新報』「琉球新報初代主筆『野間像』鮮明にー新城栄徳さんが見つける」/12月2日『琉球新報』「金口木舌ー新城栄徳と野間五造」

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(上)1996年12月7日/大阪・大正駅前「居酒屋ゆんた」で、左から金城勇(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、息子、諸見里芳美(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、仲間恵子(大阪人権博物館学芸員)、崎浜盛喜(奈良沖縄県人会副会長)、右端がゆんた主人の玉城利則(関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」初代会長。1981年、『ハイサイおきなわ』編集人、発行人は嘉手川重義(現大阪沖縄県人会連合会長)と夫人、真ん中の女性はお客さん。撮影・新城栄徳/(下)1996年12月8日/大阪港区・池島保育園(近鉄の野茂英雄投手も同園出身)階上で、左より西平久子、西平守晴夫妻、娘、後に息子。撮影・新城栄徳

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1972年5月13日ー大阪『日本経済新聞』「民芸品・図書を守ろうー都島の『沖縄資料室』」
1973年5月14日ー大阪『朝日新聞』「守れ!沖縄の心と自然ー埋もれた文化掘起す」

平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」
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沖縄関係資料室の内部(西平守晴と司馬遼太郎)


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1971年10月 沖縄の雑誌『青い海』新城栄徳「ふるさと粟国を思う」
『青い海』1971年11月号で「もう一つの沖縄・離島」の特集をやることになって、津野編集長が筆不精の私に粟国島のことを書けと注文。断るとメモ書きでも良い、こっちで文章にするからということなので書いたのが「ふるさと粟国を思う」である。初めにヤガンウユミ、グーシー、河村只雄の『南芳文化の探究』、『沖縄の犯科帳』、『球陽』などを引用している。これらは沖縄関係資料室蔵書から得たものである。これが『青い海』に書いた唯一のモノである。


2003年2月 『沖縄を深く知る事典』新城栄徳「沖縄の雑誌に見る『自己意識』ー『青い海』を通して」

新城□2010年12月28日ー妻の実家の読谷楚辺へ行った。父を見舞った帰途、赤犬子宮を訪ねると管理されていないのか入口を車が塞いでいた。釈渚善さんの言うていた大湾の真常寺を思い出し訪ねた。そこで京都全体マップで親鸞聖人ゆかりの地が載っている近畿日本ツーリスト発行の「親鸞聖人ーお念仏の道をたずねて」「大谷光真パンフ」を貰った。(去年暮れに書いたものを移動)

2011年10月12日午後ーJR永和から大阪駅、駅舎もだいぶイメージが変わった。新快速で京都駅。途中、茨城と高槻でイオンの看板を見かける。かつてこの路線から「今日も元気だ煙草か(ママ)うまい」の大きな広告が見えていた。そう、濁点が剥げ落ちていた。京都タワー (「お東さんのろうそく」とも呼ばれているが、本来は灯台をモチーフにしたもの)が見えた。帰ってきたという気分だ。私の22,3歳は京都駅八条口近鉄名店街の「紅屋」で働いていた。東寺などはよく遊びにいったが、西本願寺や東本願寺もよく遊びにいってはいるがこれといった印象は少ない。どちらの寺も雰囲気も同じだから名前も西、東取り違えて記憶していた。東、西の違いは、「南無阿弥陀仏」をお東は「なむあみだぶつ」、お西は「なもあみだぶつ」と称えるという話はよく聞く。

京都駅烏丸中央口を出て左の方に歩いて、しばらくすると、元植柳小学校に「ご縁まちマルシェ」会場があった。入ると色々な売店があり、京の銘品、仏具の店が並んでいた。地方の特産品の店には、沖縄からも首里の「美南島マーケット」が出店していた。会場で出て伊東忠太設計の伝道院(テーマ館)を見る。『本願寺新報』を貰う。宗祖親鸞聖人七百五十回忌ということで通りは大勢の人たちで混みあっていた。ほとんど地方からの団体だ。西本願寺の甍が見えてきた。中に入るとやはり混雑していた。売店で「安穏」という水を買った。混雑を避け国宝の書院を見る。襖絵や柱は黒光りし年月を感じさせ、庭はソテツが主役だ。次の国宝飛雲閣は銀閣寺の雰囲気である。国宝の唐門は唐破風で豪華な装飾彫刻が施されている。西本願寺を出るとすぐ隣りの興正寺による。

大谷光真門主は、新宗教(右翼)の指導者を除けば、歴史ある巨大宗教教団「浄土真宗本願寺派」の最高指導者としては例外的に社会問題に積極的な発言をしてきたことで知られているが、『本願寺新報』10月特集号の発言に「人間の欲望と知恵のバランスが崩れてしまい、人間に扱えないようなものによって欲望を満たしてきました。恐ろしいものには恐れをもって対処するというようなことが欠け、傲慢になっていたと思います。(略)今のままでは原発との共存は難しいと思います。現状は、薄い氷の上に乗っているような感じですね」と口先社会科学者顔負けの発言である。すべからく指導者はこうあらねば。虚言妄言ウスノロ内閣(→10-12『日刊ゲンダイ』命名)に爪の垢でも煎じて呑ませたい。またそんなノロノロ内閣でも国民をバカにした悪政(増税、年金改悪、政党助成金)だけは得意とみえる)それを一緒にやっているのが労働貴族の連合である。古賀会長のごときは「私は原発『脱依存』とは言ってない」とは、コロコロ総理と同じだ。

浄上真宗本願寺派の沖縄開教は、1879年大河内正念師(宮崎県、願心寺)の来島に始まる。98年より亀井慈雲師(鹿児島県、善行寺)の13年に亘る開教の跡を受けて、1910年鹿児島県川内市光永寺の菅深明師が大谷光端宗主の特命を受けて大島郡徳之島説教所より転任来島し、那覇市上之蔵に湖城宅を借りて那覇説教所を設置して布教伝道を始めた。翌年の11年7月には、同説教所を松下町1丁目71番地(現在地)に移して、寄留商人や官吏を中心に布教を行い、漸次地元の沖縄の人々へも教化の手を進めていった。1916年5月、大正天皇即位の御大典を記念して、本堂及び庫裡を建立し「聖徳山大典寺」と寺号を公称して、開基の菅深明師が初代住職となった。爾来、与那原、嘉手納、西表、八重山、渡久地と布教所を開設、各方面へ教線を拡げると共に、非行少年の更生保護のため、沖縄少年感化院(後に球陽学園と改称)を設置する。更に子女教育のため沖縄家政女学校(後に積徳高等女学校と改称)を創設して、活発な教化伝道を展開していたが、去る沖縄戦でこれらすべてを焼失した。(□→「聖徳山大典寺HP」)□大谷光端「食を精ならしめんと欲せば,先ず材料を撰(えら)ばざるべからず」

東本願寺は行事でないせいか、西本願寺に比べたらだいぶ人出が少ない。入り口にハトが多い。最近は糞害のためハトに餌をやらないようにと、表示されている公園が多い中、ここでは餌を売っている。御影堂にのぼると20人の人が座っていた。瞑想。御影堂は世界最大の木造建築。親鸞聖人の御真影が安置されているところから御影堂と呼ぶ。出るとき正面に見えるのが御影門で京都三大門の一つである。ちなみに三大門とは、洛西の仁和寺二王門、洛東の南禅寺三門、洛東の知恩院三門を指す。また、仁和寺二王門の代わりに洛中の東本願寺御影堂門を数える。沖縄那覇市西町にある真教寺は浄土真宗東本願寺派の寺。1876年、田原法水により布教が開始され、84年創建。はじめは東本願寺講義所と称したが、大谷派琉球別院と改称、92年に真教寺に改めた。

大谷本廟に向かう。途次、あちこちで観光土産なのかシーサーをよく目にする。文子天満宮、塩竈山上徳寺、仏性山本覚寺による。本覚寺境内には江戸中期、浮世草子の版元・八文字屋自笑の墓がある。ソテツもある。六波羅蜜寺は今までに何回もよっている。951年、醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。現存する空也上人の祈願文によると、963年、諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。1183年、平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。(□→「六波羅蜜寺HP」)

五条坂の大谷本廟手前の円通橋(通称「めがね橋」橋脚、敷石板、欄干など総て花崗岩の切り石を用いている)を渡ると右側にソテツが見え、左側には親鸞聖人像が見える。仏殿を参拝。かつて本廟に、親鸞聖人の木像を安置するようになったのは、1295年頃からといわれている。大谷本廟は、親鸞聖人の末娘である覚信尼と、東国門弟の協力によって建てられたものだが、敷地は覚信尼の所有。覚信尼は、敷地を廟堂に寄進し、廟堂守護の役目(留守職)を、みずから引き受け、以後尼の子孫の中の適任者が門弟の承認を得て、就任することになった。これが後年の本願寺の血統相続の基となりました。大谷の廟堂が、親鸞聖人の墓塔を覆う屋舎から、聖人の彫像を安置する影堂へと移行したのも1295年頃。そして、三代目覚如上人によって、本尊阿弥陀如来を安置する寺院へと移行した。五条坂近くに河井寛次郎記念館があるが5時なので閉館していた。

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1972年7月 沖縄の雑誌『青い海』15号 多和田真淳「沖縄の貝塚 遺跡発掘に憑かれて」 


多和田真淳 1907-1990 昭和時代の教育者,植物研究家。
明治40年1月7日生まれ。沖縄第一中学をへて,戦後は首里高に勤務したのち,琉球政府林業試験場長などをつとめる。 沖縄の薬草など植物の研究,沖縄考古学の草分けとして知られる。平成2年12月21日死去。83歳。沖縄県出身。沖縄師範卒。著作に「沖縄薬草のききめ」など。→コトバンク
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7月15日-沖縄県立博物館・美術館で、大竹康道氏よりバッジをもらう孫/ワークショップに参加の孫

コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com
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写真左が山里永作氏






7月15日

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2000年10月 「沖縄の図書館」編集委員会(代表・伊藤松彦)『沖縄の図書館 戦後55年の軌跡』教育史料出版会

写真右からー大城宗清氏、伊藤松彦氏、新城栄徳/2000年11月5日『沖縄タイムス』新城栄徳「書評/『沖縄の図書館」」
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1976年1月 沖縄の雑誌『青い海』49号 井伊文子「新春随想 私の正月」

『琉文手帖』「歌人 山城正忠」
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『琉文手帖』3号の表紙「歌人・山城正忠」の題字は井伊文子さんが書かれたものである。

文子さんは父・尚昌について『はなのうむい佛桑花の念い』(1997年10月)に「若くして逝った父は本当に気の毒ではあったが、関東の大震災も、沖縄のみじめな敗戦も知らず、充ちたりた幸福の絶頂で生を終え、一面からいえば幸いであったかもしれない」と記している。
 □2004年11月ー井伊 文子さん(いい・ふみこ=旧琉球王家の末えい、故・井伊直愛元彦根市長の妻、歌人)22日午前9時45分、急性心不全のため滋賀県彦根市の病院で死去、87歳。東京都出身。自宅は彦根市松原町515。葬儀・告別式は24日午後0時半から彦根市古沢町1100、清凉寺で。喪主は孫の岳夫(たけお)氏。  1930年から歌人の佐佐木信綱に師事。37年、幕末の大老・井伊直弼のひ孫に当たる直愛氏に嫁いだ。52年から新短歌の歌人として活動。歌集に「浄命」「鷺ゆく空」など。72年には沖縄復興に向け社会奉仕団体「佛桑花の会」を結成した。

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資料「井伊文子」

平成5年11月ー井伊文子『四季折々』「蘇鉄ーお浜御殿とよばれているわが家の、今は見るかげもない廻遊式庭園にも、かっては築山に蘇鉄が植えられていた。大名屋敷の庭にはよく植えられたものらしく、復元された彦根城博物館(かつての表御殿)の庭にも元通り植えられたが、わが家の蘇鉄は冬の保護を怠った為にいつしか消滅してしまった。沖縄にはこの植物の自生林があり、私の生命の源流はここにあるという感慨を抱いている。寒さには耐えられない蘇鉄も、暖かい所ならば実に力強い生命力をみせ、赤い実を結び、雄花は天を突く。今になって、庭の蘇鉄を枯らしてしまったことが悔やまれてならない。

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1984年5月 沖縄の雑誌『青い海』132号 中島紀久雄「”生涯一アナ〟」 


1989年10月 中島紀久雄『マイクで見たこと逢った人ー沖縄放送走馬燈』アドバイザー(西江弘孝)

左から神村孝栄、真栄城勇、稲福健蔵、中島紀久雄、石垣正夫
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1983年6月 沖縄の雑誌『青い海』124号 伊江隆人「書の空間」 

2015年11月24日~11月30日 リウボウ美術サロン「美術家・伊江隆人・淳 展」


写真右から伊江隆人氏、伊江淳君

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1984年7月 沖縄の雑誌『青い海』134号 玉城節子「中城若松と私」 

1941年5月7日ー舞踊家・玉城節子、那覇辻町で生まれる。3ヶ月目に父・友盛の仕事で大阪へ。(1946年、帰沖し石川市に住む)


1977年3月9日 「第1回リサイタル・パンフレット」

1977年3月9日 「第1回リサイタル・パンフレット」山里永吉「リサイタルで更に飛躍を」/山里永吉画 

1977年3月9日 「第1回リサイタル・パンフレット」池宮正治「古典舞踊と創作」/1966年5月『守礼の光』


玉城節子さん、山田正宣氏、山田實さん/山田正宣氏(右)、新城栄徳

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2013年10月12日 「那覇大綱挽」写真左が玉城節子さん
撮影・真栄田静子


1999年7月 玉城節子『翔舞 琉舞に魅せられて』沖縄タイムス社/むんじゅる→撮影・大城弘明



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1971年8月 沖縄の雑誌『青い海』 4号 亀川正東「学問ばかりが能ではないー働く青少年の皆さんへー」


1976年7月 亀川正東『善意の灯 上原清善』

1981年 『琉大法文学部紀要 語学文学論集№26』亀川正東「ポーに於ける異端と性の假設On Heresy and Sexual Benavior of E.A.Poe」

1981年 亀川正東『心に残るあの人この人』琉球青年乃村□「川端康成はなぜ死んだ?」
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川端康成 かわばたやすなり 1899年6月14日-1972年4月16日 日本初のノーベル文学賞受賞作家、小説家。大阪市天満此花町生まれ。幼くして両親を亡くし、祖父母と共に大阪府下三島郡へ転居した。その後、8歳で祖母、16歳で祖父が亡くなり、母の実家に引き取られた。1917年に第一高等学校に入学。1920年、東京大学英文科に入学するが、翌年国文科へ転科。大学時代に第 6 次の「新思潮」を発行し、そこで発表した作品をきっかけに、菊池寛に認められ、交流を持つようになり、文壇への道が開けた。1924年に大学を卒業し、横光利一らとともに同人誌『文芸時代』を創刊。この同人誌には、新感覚派(感覚的にとらえた現実を知的に構成していく作風)と呼ばれた、新進作家が集まった。1968年にノーベル文学賞を受賞し、『美しい日本の私』という講演を行った。その3年後に、門下の三島由紀夫の割腹自殺などによる強度の精神的動揺から、逗子マリーナの仕事場で72歳でガス自殺をとげた。さまざまなインタビュー番組の中で自分は「怠け者」であり、川端文学は「怠け者の文学」であると語る。1968年のインタビューに同席した三島由紀夫は「剣道で言えば一番強いタイプで、無構えの構えですね。」と解説している。(はてなキーワード)
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1984年12月 沖縄の雑誌『青い海』128名護宏英「戯曲ー道ー」 
1985年5月 名護宏英/沖縄芸能誌『ばららん』創刊号
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右から新城栄徳、あしみね・えいいち氏(山之口貘記念会三代目会長)、真喜志康忠氏、名護宏英氏(劇作家)





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1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』110号 芝憲子「ロンドン記録詩篇」

写真左から宮城義弘氏、芝憲子さん、加勢俊夫氏、新城栄徳/写真左から松下博文氏、新城栄徳、宮城義弘氏、芝憲子さん

資料「芝憲子」


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1981年 沖縄の雑誌『青い海』101号 石川文洋「ふるさと・沖縄への思い」


2015年6月16日~28日 タイムスギャラリー「石川文洋写真展/ベトナム戦争と沖縄の基地」
2015年6月16日 午後2時~3時 「石川文洋ギャラリートーク」
2015年4月 石川文洋『フォト・ストーリー 沖縄の70年』岩波新書
○饅頭の記憶、両親の思い出ー私の「沖縄への想い」は、確実に両親から受け継いだものだ。」沖縄の歴史小説や芝居の脚本を書いていた父・文一(本名・保田)の本籍は旧首里市鳥堀町1ノ18。母・清(旧姓・安里)は首里市儀保町1ノ16。父の実家は現在の咲元酒造前にあった饅頭屋「イシチャーマンジュウ」。赤く「の」と書かれた饅頭が評判で、県立一中や一高女などの入学祝などいろいろな祝い事によく売れた、と父が話していた。・・・・

 空港からいつも沖縄取材を手伝ってくれている中根修さんの自動車で辺野古へ直行した。(略)今、安倍政権は国家権力をもって反対する沖縄の民意を抑え込み、基地建設を強行しようとしている。これは民主主義に反する不正義である。辺野古に座り込む人々、カヌーに乗っている人や基地に反対している人たちは、平和な沖縄を築こうとしている。不正義に勝利はない。沖縄は私の故郷である。私たちは基地建設を許してアジアの同胞に対し加害者になるべきではない。




1981年 沖縄の雑誌『青い海』101号 石川文洋「ふるさと・沖縄への偲い」

1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』110号 石川文洋「カメラ日記ー沖縄人気質」

石川文洋 いしかわ-ぶんよう
1938- 昭和後期-平成時代の写真家。
昭和13年3月10日生まれ。香港でスタジオ勤務後,昭和40年からフリーランスでベトナム戦争を,44年からは朝日新聞社所属で戦火のインドシナを取材。46年「写真報告―戦争と民衆」で話題をよぶ。48年日本写真協会年度賞。沖縄県出身。都立両国高卒。写真集はほかに「琉球舞踊」,著作に「戦場カメラマン」など。→コトバンク


2004年3月 石川文洋『戦争はなぜ起こるのかー石川文洋のアフガニスタン』冬青社


2015年6月17日 右が石川文洋氏、新城栄徳


2015年6月20日 左から大城弘明氏、新川 秀清氏、石川文洋氏


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1983年4月 安仁屋政昭『沖縄戦再体験』汐文社/2000年7月 安仁屋政昭/高嶋伸欣『「沖縄魂」が語る日本』黙出版


2000年7月16日『沖縄タイムス』新城栄徳「書評-安仁屋政昭/高嶋伸欣『「沖縄魂」が語る日本』黙出版



1971年9月『文化評論』№121<特集・沖縄論の思想>仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」、西里喜行「近代沖縄の課題と差別問題」、安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」、津田孝「沖縄問題と現代の作家」、嶋津与志「沖縄協定調印前後」

1971年9月 『文化評論』№121 <特集・沖縄論の思想> 安仁屋政昭「沖縄戦の記録とその思想」
/仲地哲夫「第三の琉球処分ということ」


1971年12月 『文化評論』№124 北川民次「表紙絵」、伊藤嘉昭「侵略戦争と自然科学者の責任ーベトナムの枯葉作戦に反対する日米科学者の運動」、新里恵二「沖縄近代史の諸問題」、河邑重光「トロツキストの沖縄論」、鹿地亘「キャノンの横顔」、仲地哲夫「読書ノート 儀部景俊・安仁屋政昭・来間泰男『戦後沖縄の歴史』日本青年出版社」

1996年3月 安仁屋政昭/新垣勉/大城保英/佐次田勉/宮城義弘『沖縄はなぜ基地を拒否するか』新日本出版社 
Ⅰ 怒りの爆発ー許せない人権と主権に対する侵害
Ⅱ基地への強制使用は認めないー代理署名拒否が提起したもの
Ⅲ 沖縄戦と銃剣によってつくられた米軍基地
Ⅳ 安全な暮らしを脅かす米軍基地
Ⅴ 基地をなくし沖縄を”平和の発信地„に
資料ー米軍人による日本人等殺人事件の発生状況・刑の執行状況
     基地被害ー米軍関係事故の概要


安仁屋政昭沖縄国際大学教授を介して沖縄国際大学南島文化研究所で「松本三益資料」を見る。写真ー安仁屋教授を囲んで左から仲間恵子さん、新城栄徳、新垣正美さん


2000年9月 大阪人権博物館『ヤマトゥのなかの沖縄』

 『沖縄タイムス』6月29日ー沖縄全戦没者追悼式で安倍晋三首相へのやじや罵声が飛び交ったことに対し、自民党前青年局長の木原稔衆院議員(熊本1区)が「明らかに動員されていた」と述べていた問題について、追悼式に参加していた遺族や関係者は怒りをあらわにした。安倍首相に対し「式典に参加する資格はないぞ」と声を上げ、警官に会場の外へ連れ出された那覇市の男性(82)は、祖父と兄を沖縄戦で亡くした遺族の一人として自主的に参加した。やじは、悩んだ末の発言だった。「新基地建設を強行し、安保法案成立を急ぐ首相をじかに見て、黙ってはいられなかった」(略)追悼式に参加した高嶋伸欣(のぶよし)琉球大学名誉教授(73)は「政府の偏見がここまで来たか」とあきれる。「翁長知事の平和宣言には万雷の拍手が起こった。その盛り上がりを受けての首相への怒号。事前に準備したものとは思えない」と指摘した。木原氏は報道機関を批判する意見が相次いだ自民党の若手議員の勉強会の代表で、党青年局長を更迭された。



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1983年8月 沖縄の雑誌『青い海』125号 高良勉「闇の言葉を解き放て」



資料「高良勉」

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1993年5月ーデニス・バンクス 森田ゆり『聖なる魂ー現代アメリカ・インディアン指導者の半生』朝日文庫/1998年ーデニス・バンクスと琉球人2人→【ニューヨーク共同】米先住民運動の指導者で、1973年にサウスダコタ州ウンデッドニー武装占拠を主導したデニス・バンクス氏が29日、米中西部ミネソタ州ロチェスターの病院で肺炎のため死去した。80歳。米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)が30日、報じた。


2014年5月20日~6月22日 沖縄県立博物館・美術館「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した美」ー写真左が画家の新垣安雄氏、詩人の高良勉氏/2016年6月19日「米軍属事件に抗議し、被害者を追悼する県民大会」左が詩人の高良勉氏□2016年6月ー高良勉『山之口貘詩集』岩波文庫/中央が画家の新垣安雄氏□2016年7月2日~10日 南風原文化センター(☎098-889-7399)「第2回・遊子の風展ー千葉柏・沖縄交流展」/右端が写真家の大城弘明氏□2016年6月~8月29日ー不屈館(☎098-943-8374)「大城弘明写真展ー地図にない村」

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沖縄の雑誌『青い海』1975年11月号 大田昌秀「戦後沖縄の新聞興亡史」


写真左から大田昌秀氏、平山良明氏、元『青い海』編集発行人の髙江洲義寛氏




1985年6月 沖縄の雑誌『青い海』№142 大田昌秀「講演・沖縄戦を学ぶ基本的な前提」

1984年 雑誌『青い海』№135 平山良明「キジムナーの話」





左から平山良明氏、屋良健一郎氏、波照間永吉氏
2014年3月9日『沖縄タイムス』屋良健一郎「論壇ー表現力に富む伊波瞳第一歌集『サラートの声』ースケール大きくチャレンジも」


西里喜行氏と伊佐眞一氏

佐野眞一氏の顰に倣って、仲井真知事の経歴に触れようと思ったがネットで流す自体が品格(そんなものは持ち合わせてないが)に欠ける。もうひとつの理由は、仲井真知事や自公が悪いんでなく、それを選んだウチナーンチュが一番悪いと気づいたからである。高江洲義寛氏や友人たちがNHKのテンペストに関して批判を展開している。ことに西里喜行氏は八重山地区の教科書問題に通底するものと断定しておられる。八重山は中山義隆石垣パクリ市長を選んだことに起因する。選んだのは石垣市民である。災い(基地攻撃、テロなど)があれば当然に報いは石垣市民が受ける。
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1997年10月 高橋輝次『古本屋の来客簿』燃焼社/吉浜昇「南島の古本屋からー熱い映画の想い出ー」

1997年10月26日 『琉球新報』新城栄徳「書評/古本屋の来客簿」/郭承敏「書評/マスメディア文化の未来像」


 

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1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 船越義彰/石野朝季「れーだー・さいと」


2001年8月左から新城喜一氏、山里将人氏、船越義彰氏、新城栄徳


写真左から知念良秀氏、石野朝季氏、新城栄徳

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最初に出会った人物伝
 大城立裕・新里金福著『沖縄の百年』第一巻の人物編を1970年に入手した。これは大城氏の芥川賞受賞の年に『琉球新報』に連載したものをまとめたものだ。連載のときから興味津津、面白く読んだが、筆不精の私はこのとき著者(作家)たちや新聞記者を別世界の人間だと思っていた。だから関心があった末吉麦門冬を大城氏が執筆されても会いに行こうとは夢にも考えなかった。救ライの青木恵哉などは「愛楽園文芸部」結成からのつきあいがある大城氏が選定したものであろう。

 大阪・沖縄関係資料室には、石野径一郎、霜多正次と並んで大城氏の著書が、それぞれ10冊以上はある。大城氏の場合はほとんどが氏の寄贈だ。大阪府立中之島図書館にも大城作品は揃っている。私は、資料室の西平守晴氏から寄贈の返礼も兼ねた「般若心経」の文字がある湯飲み茶わんを託され、首里の大城氏のご自宅を訪ねて以来面識を得た。

 新里氏は大城氏の芥川賞受賞の年の前年、未来社から『沖縄の思想』を出している。その中に「『沖縄からは偉い人物がでていない。特に文学者がいない』大宅壮一が沖縄でいったというこのことばが、ここで改めて思い出される。沖縄はいつまでも差別と貧困を売りものの退嬰的な即物主義でもなかろう」と書いている。

 新里氏とは大正区の会合で出会い、『青い海』編集室で関広延氏との対談をやってもらった。後、ホテルで私のホラ話を氏は我慢して聞いてくれた。後日「戦後の沖縄の若い世代それもとりわけ働く人々の間に先鋭な問題意識のたくましく育ちつつある事実を確認することができた」と書かれた氏からの手紙が届いた。手紙は今も手元にあるが氏はすでに亡い。

『沖縄の百年』の人物伝は関係者(証言者)が少なくなりつつある現在では貴重なものだ。今のレベルで疑問があったとしてもこれから出発するしかない。最近、地域史の女性たちから、漢那憲和の母を調べている中野利子さんに協力してくれといわれた。憲和の伝記『天皇の艦長』には母と弟についての情報は少ない。

東恩納寛惇は憲和の追悼文で漢那の母のことを「漢那小の阿母」と親しく記している。寛惇は憲和の弟・憲英と1900年に沖縄中学を卒業した同窓だ。憲英は東京外国語学校に学び、教師として糸満小学校(当時の生徒・城間徳明が記念誌に思い出を書いている)、那覇小学校、甲辰小学校、那覇小学校を経て憲和が開館に尽力した開洋会館の沖縄県海外協会幹事を務めた。


1951年2月『文藝サロン』創刊号

1967年10月『オキナワグラフ』「大城立裕さんに芥川賞」

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仲宗根正順
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1994年8月の『読売新聞』に安黒正流が「アート前線」を書き漫画家の鳥山明の世界展についてふれている。
□それは美術館が漫画と小・中学生のために開放されただけでなく、時代の大きな変化を遅れた中高年に信じさせ、意識の変革を迫るインパクトを持っている。(略)手塚治虫以後の日本の漫画文化の充実によって、しばしば漫画は文学だとか、美術だとかいわれている。一段低い表現媒体とみられていた漫画が、高級な芸術とされる文学や絵画を追い越す勢いを強調する際は、おもしろいかもしれないが、正しくは漫画は漫画であるというべきであろう。(略)
かつて東京国立近代博物館が手塚治虫展を開き、兵庫県立近代美術館が水木しげると日本の妖怪展を開いて、美術館での漫画展示に道を開いた。今回もその流れを受け継いでいるものの、鳥山はまだ30代であり、現在も連載中の漫画を取り上げて新鮮だ。
そして、現代文化の問題として取り組む視点もある。漫画は、雑誌、テレビ、ゲームソフトを舞台に展開するマルチメディア時代の花形。そこに、美術館もメディアの一つとして、遅れながらも加わる形をとっている。
それでも、雑誌やテレビなどのメディアでは、漫画の面白さや美しさが、日常的な娯楽として消費されるだけなのに対し、展覧会はそれを、批判的、総合的に考えることを求める。美術館は情報化社会に流されない場に位置する。だから、美術館が鳥山明のマルチメディアの世界に参加することの意義もある。
メディアとしての展覧会と、表現としての漫画が結びついた時、情報化時代の芸術のジャンルの再編成などの考える手がかりも生まれてくる。

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平敷善憲
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1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 大城皓也「藤田嗣治先生の想い出」

 2014年5月24日~9月15日 沖縄県立博物館・美術館「コレクション展/『沖縄美術の流れ』」で、藤田嗣治の「辻美人」「海辺の墓地」が展示されている。下記の頃に描いたものだ。

1938年4月ー世界のフジタ、二科会の重鎮・藤田嗣治が加治屋隆二、竹谷富士雄、南風原朝光を伴って浮島丸で来沖。那覇港には比嘉景常、名渡山愛順、大城皓也らが出迎えた。加治屋は東京の小学校での比嘉景常の教え子。南風原と琉球新報記者の國吉眞哲とは同じ泊出身、親友であった。琉球新報は藤田の講演会、座談会を企画し、藤田作品鑑賞会を後援するなど抱え込んだ。

藤田嗣治の来沖の経緯は、国吉真哲さんが「絵かき仲間の加治屋隆二さん、竹谷不二雄さんと南風原朝光君3人で沖縄へ行こうという話になり、その旅費のことなど打ちあわせている所へ、藤田画伯が来て『おもしろそうな話をしているなあ、ボクも行こう』ということになって沖縄を訪れた」と『南風原朝光遺作画集』の中で述べている。

藤田は1910年に東京美術学校を卒業、同級生には岡本一平(岡本太郎の父)、近藤浩一路などがいた。30年、藤田は世界恐慌の最中に北米に旅立つ。そして南米に廻りブラジル、アルゼンチンなどで多くの沖縄人にも出会う。メキシコで『週刊日墨新聞』を創刊した平田忠義もその一人で平田はその出会いを自伝に書いている。それ以来、藤田は沖縄に関心を持ちつづけていたようだ。沖縄県が購入した藤田作「孫」は38年9月の第25回二科会展覧会(東京府美術館)に出品されたものだ。

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山城正忠
藤田が沖縄で描いた作品

1938年5月14日『琉球新報』辻井浩太郎(三重県立上野中学校教諭)「沖縄観光の思ひ出ー有名な辻の女を見、独特の舞踊も見た。彼女らの生活内部も只見るだけは見て、いい話の種にはなった。今度行ったら古典劇をゆっくり見たいと思ふ。・・・」

1938年5月15日『琉球新報』「藤田展覧会」ー辻美人も描いている。


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1938年5月20日『琉球新報』「藤田帰京」
□藤田嗣治「沖縄へ送る讃美」
黒潮に浮ぶ首飾の島々/浪に風に憩いなく洗はれ打たれ/長き黒髪は漂ひ瞳は輝く/憧れのこの島
         ◇
赤く又青く咲き茂る名も知らぬ木草/影は旅人を包み、枝は異鳥を宿す/りゅうぜつらんは月を貫き、墓場は愛の密語を漏さず/懐しのこの島
         ◇
帯もなき薄衣の女子等/乳も脛も銅に染めて、珊瑚礁の花の上を歩む/海山の幸を頭上に飾りて/さらば、この夢の國





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沖縄の雑誌『青い海』1971年5月号 徳田安周「私の青春/あゝ女性たちよー毛遊びに失敗した若き日の想い出ー」

1973年10月 『琉球の文化』第四号 徳田安周「琉球古神道への旅」


1975年8月 徳田安周『沖縄てんやわんやー気楽に読める沖縄の世相風俗史ー』沖縄文教出版社(神山吉光)