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Category: 04-書の森
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1972年5月 『青い海』13号 「青い海出版社新事務所ー新大阪駅正面前」

1972年5月 青い海出版社『はだか沖縄 ジャンプ・イン<沖縄>青春広場』六月社書房/1975年9月14日「第1回 沖縄青年の祭り」ポスター


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1973年8月6日ー『沖縄タイムス』石原英夫「郷土史研究に没頭する新城栄徳さん」記事を書いてくれた沖縄タイムス関西支社の記者・石原英夫さん(右)と新城栄徳。

「がじゅまるの会」「沖縄県大阪事務所」


「平山敏治郎」「井伊文子」「金城実」「儀間比呂志」
 

1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)
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1975年6月 『沖縄国際海洋博覧会公式ガイドブック』財団法人沖縄国際海洋博覧会協会(版画は『儀間比呂志の版画 沖縄』講談社刊より)
1975年9月14日ーパーランクーの音が大阪大正区に鳴り響く
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1977年7月『青い海』65号 「大阪で二つの展覧会ー儀間比呂志版画自選展と大城一史・石田亮太郎二人展」「女人登場”世界の泡盛〟めざしてー照屋比呂子さん」

1977年9月『青い海』66号 「女人登場ー花織に想いを込めてー与那嶺貞さん」「沖縄女流美術家協会設立、会長・久場とよ、副会長」・山元文子、事務局長・宮良瑛子」

1977年10月『青い海』67号 「大阪の空にエイサーのリズムが響きわたるー第三回沖縄青年祭り。9月15日、尼埼市。18日、大正区千島グラウンドで山端立昌大阪沖縄連合会副会長挨拶、東京ゆうなの会、愛知沖縄青年会のあいさつ、彫刻家・金城実もあいさつ。見物の人も含めて約150人が参加」「儀間比呂志展、沖縄物産センターで開かる」 

1978年6月『青い海』74号 永峰真名「苦悩を乗り越える沖縄青年たちーIさん問題とがじゅまるの会ー」/儀間比呂志、安谷屋長也、金城順亮、浦添正光、島袋純子「<座談会>地域に根ざした児童文化を」

1978年10月『青い海』77号 「那覇市八汐荘ホール 賑わった出版祝賀会”鳥類館〟儀間比呂志『七がつ」エイサー』『りゅうとにわとり』、新川明『新南島風土記』、川満信一『沖縄・根からの問い』3氏を展示して大騒ぎ。豊川善一、北島角子、高江洲義寛、幸喜良秀、海勢頭豊、南条喜久子、森田吉子、玉城秀子、嶋袋浩(福木詮)ら参加」「パーランク高らかにー第四回沖縄青少年の祭り」


1973年12月 福木詮『沖縄のあしあと 1968-72年』岩波書店□あとがきー(前略)表紙・函に掲げた版画は、儀間比呂志氏が版画風土記『沖縄』に発表された作品であるが、同氏は快く掲載を許されたばかりでなく、とくに本書のために原画に筆を加えられた。心からお礼を申し上げたい。


1978年10月1日ーエイサー会場で走りまわるフトシ君とコウ君

1978年11月『青い海』78号 儀間比呂志「沖縄の子・大和の子たちへー絵本で伝えたい沖縄のこころー」/永峰真名「メヒカーノスになった沖縄人」
1979年5月『青い海』83号 「帰郷中の版画家・儀間比呂志氏の呼びかけで、4月の末に宮城美能留氏の宮城舞踊研究所(那覇・松尾)で、琉舞を鑑賞し、懇談する集いが開かれました」


1979年11月『青い海』88号 儀間比呂志「戦がやってきた」(沖縄三越ー沖縄戦版画集出版記念展)

1980年4月『青い海』92号 「新鮮なイメージ再びー儀間比呂志版画小品展ー3月27日から沖縄物産センター」「文化アラカルト/沖縄物産センター開設十周年」 
1980年6月『青い海』94号 「沖縄問題研究センター(上江洲久理事長)設立総会/宮本憲一大阪市大教授が記念特別公演『基地がある限り、自治はない』と語り、財政学の立場から、沖縄の現状を分析しました。」
1980年7月『青い海』95号 儀間比呂志/徳田澰/大湾雅常「第二回青い海児童文学大賞ー選考を終えて」


1980年8月20日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「皇軍は勇戦した」第14号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)□古波津英興「方言使用スパイ処分文書」



1983年9月23日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「菊と仏桑華」第20号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)


1980年9月『青い海』96号「儀間版画を一堂に集めてー儀間比呂志・版の世界展」「沖縄県大阪事務所で第一回沖縄観光フェアー大城一史『沖縄風景画展』も開催」/大城一史作品を背景に新城さやか(現在41歳)
1980年10月『青い海』97号 宮良瑛子「ぎゃらりーの言葉」


1986年の津野さんの年賀状/1981年3月の山城『青い海』社長の「大阪支社移転あいさつ」

1986年4月 『小説推理』津野創一「響け!パーランクー」
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1986年4月ー『小説推理』津野創一「響け!パーランクー」


〇コザ・ミュージックタウン音市場内、1Fに「エイサー会館」がグランドオープン。フロアは無料ゾーンと有料ゾーンの2のフロアに分かれており、エイサーの歴史や文化を楽しみながら学べる体験型の施設です。
1Fの無料ゾーンには、エイサー関連のグッズが手に入るショップや、エイサーの基本情報を知ることができる展示が楽しめるラウンジとなっています。その他にもワークショップが開催できるイベントスペースが設けられています。
2Fの有料ゾーンには、大きな映像に合わせてエイサーを疑似体験できる「エイサーリズム体験」、タブレット端末を利用して地域のエイサーの違いを体感できる「エイサー音楽検索コンテンツ」などVRも駆使した展示ブースとなっています。またエイサーの衣装を着て撮影できるフォトスポット、沖縄全島エイサーまつりの歴史がわかるコーナーなど、楽しく学べる内容となっています。→沖縄市観光

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 1971年2月、大阪都島の「沖縄関係資料室」に行くと、来客があったようでテーブルに「沖縄をつくる若い広場 青い海趣意書」が置かれていた。夕方、仕事から帰宅した西平さんが「同郷(八重山)で元琉球新報記者の津野創一君が沖縄の若い人向けの雑誌を出すというので、新城君もひとつ協力してくれ」という。翌日、大阪北区太融寺の阪急東ビルのオキナワ通信に居候の『青い海』編集室を訪ねた。津野編集長の早口で語るビジョンに意気投合した。大阪の編集は儀間比呂志の紹介で万木恵美子がいた。津野編集長は「編集デスクがほしい」と漏らしていた。

『青い海』創刊号/儀間比呂志(行動会員)「表紙のことば」


1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 船越義彰/石野朝季「れーだー・さいと
写真上・大阪沖縄会館「船越義彰講演会」でー右から2列目が伊藤勝一氏、その後ろ新城栄徳
写真下・左から伊禮吉信氏、伊藤勝一氏、新城栄徳

2001年8月左から新城喜一氏、山里将人氏、船越義彰氏、新城栄徳

写真左から知念良秀氏、石野朝季氏、新城栄徳
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1971年5月 沖縄の雑誌『青い海』2号 「あるグループ 沖青友の会(大阪)」〇大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。嘉陽君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。


1971年6月 沖縄の雑誌『青い海』3号

1971年6月 沖縄の雑誌『青い海』3号 松田道雄「君たちは島の上の石になってはいけない」/儀間比呂志(二科会員)「民話と沖縄」

1971年7月 川平朝申 再話 儀間比呂志 版画『ねむりむし・じらぁ』(福音館書店)



1972年1月 沖縄の雑誌『青い海』9号 儀間比呂志×岡部伊都子「対談 沖縄のこころ を語る」
〇儀間ーボクは大和の差別を告発する人たちは、自らも過去において先島に対して犯してきた過ちを認めて、被害者であると同時に加害者でもあったふうに考えないといかん、と思うのです。岡部ー本土の内でも世界の各国でも、被差別者が差別者となっていくことが多い。それは差別をつくる仕組みのせいでもありますね。だから「差別をつくるしくみ」と闘わなくては。(略)儀間ー沖縄を愛するんだったら、沖縄に住んで仕事をすべきだ、共に苦しみを味わうべきだという考え方があります。ボクなんかも、大阪という安全地帯にいて沖縄を描いている、だから君は沖縄を売りものにしている半沖縄人だというレッテルを貼るんですね。
 
1988年11月 岡部伊都子『伊都子南島譜』海風社 〇誰がしたのーその日、わたくしは枚方の儀間比呂志展を観ていました(1986-6)/『読売新聞』1995年1月6日 「ふれあいトーク 今月のゲスト 岡部伊都子さん」川崎一朗ー戦争で人間が死ぬことは、人類という生き物が適正な環境で生きていくための必要悪、と考える人もいます。岡部ー過去の世界の歴史実情を見れば、そういう考えも出てくるかと思いますが、もはや自分から地球の生命体を考える時、犠牲者を出していいという気持ちに、私はなれません。他を苦しめ、おとしめるような愛は、本来の愛ではありませんし、戦争を是認するような宗教もまた、本当の宗教ではないと思いますね。
     
1997年4月 岡部伊都子『沖縄の骨』岩波書店
岡部伊都子 おかべ-いつこ
1923-2008 昭和後期-平成時代の随筆家。
大正12年3月6日生まれ。昭和31年「おむすびの味」でみとめられ,日常生活のなかの伝統美をこまやかな感性でとらえた作品で人気をえた。「二十七度線―沖縄に照らされて」など,戦争や差別にするどい視線をむけた著作もある。平成20年4月29日死去。85歳。大阪出身。相愛高女中退。著作に「賀茂川のほとりで」など。→コトバンク


『沖縄の歴史』表紙 儀間比呂志「かわき」 (琉球政府・大阪市立博物館・沖縄タイムス社・朝日新聞社 1972年発行)巡回展図録(東京三越、大阪市立博物館、名古屋オリエンタル中村、小倉玉屋、松山三越)/1972-5-3~9大阪梅田・阪神百貨店で開催された朝日新聞社主催「沖縄を彫る 儀間比呂志版画展」展覧会の図録,7-21~26 高知・土電会館


1973年5月 沖縄の雑誌『青い海』23号 


1973年、1974年の扉カットは儀間比呂志

1973年1月~12月『青い海』扉原画 1974年1月~12月『青い海』扉原画


1977年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号<特集 儀間比呂志・版画”沖縄〟> 


右ー1973年10月 国際ショッピングセンター4階「儀間比呂志木版画展」主催・球陽堂書房

1974年 儀間比呂志『沖縄風物版画集』 限定600 岩崎書店〇宮本常一「ふるさとを背負った仕事ー儀間氏の版画と沖縄」


1974年5月 儀間比呂志『儀間比呂志の版画』講談社□三味線ー朝日新聞のT記者が、新風土記の沖縄編を書くにあたって、視座をコザにすえたのは感心した。それほど、コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりに巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス業で栄えている町なのに、島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる。〇高橋亨「沖縄とは何かをえがく版画ー最近では毎年のように沖縄へ飛び、老母や弟妹の住む那覇の家で何日かをすごしてくるが、それは帰るというより訪れるといったほうがふさわしい。いま作者の帰るところは大阪である。(略)沖縄のみ、土地と作家との全的なかかわりあいのなかから、こんにち儀間比呂志を育てた。ただ人間形成の土壌もしくは環境としてでなく、作者の表現の形式、内容その他あらゆる成長にたえず根源の息吹を与えつづける沖縄という南の世界はいったい何なのか。それは私がここで語りうることではない。それこそ作者が版画によってえがきだそうとするところのそのものなのである。」



1976年『儀間比呂志版画集・沖縄の女』岩崎書店


1976年5月 『儀間比呂志版画連作集 みやらび』みやざき書店

1976年5月 沖縄の雑誌『青い海』53号/1979年8月 沖縄の雑誌『青い海』86号


1976年10月15日・16日 那覇市民会館「御冠船踊」パンフレット 島袋光裕「題字」/儀間比呂志「表紙」


1976年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号 大江健三郎「沖縄の民俗に根ざした表現世界ー『鉄の子カナヒル』を読むー」/1978年5月 沖縄の雑誌『青い海』73号「儀間版画を実用化」



1978年1月 儀間比呂志『絵本からむしペーチン』青い海出版社

1980年8月26日~9月6日 大阪府立現代美術センター「儀間比呂志 版の世界展/」高橋亨・大阪府立現代美術センター館長「その木版画の根の深さ」
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沖縄の雑誌『青い海』


1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号「渚ゆう子の人と歌とふるさとと」
 テレビのうたコンで田川寿美①が京都の恋を歌っていた。これは1970年5月に渚ゆう子がカバーし、シングルとして発売したもので発売元は東芝音楽工業(現:EMIミュージック・ジャパン)。渚ゆうこは、沖縄の雑誌『青い海』創刊の趣意書に「気にいった『青い海』」として、安仁屋宗八①、琉王、堀江謙一とともに推薦文を寄せ、1971年4月の『青い海』創刊号の青い海芸能に「渚ゆう子の人と歌とふるさとと」と登場して「ウミナイビ姿」の写真も載っている。それには渚の本名は大江千鶴子。大阪市浪速区で父正雄、母幸子との間に2男2女の長女として生まれる。母は旧姓比嘉、嘉手納の出身。沖縄県人の多い大阪で育ったこと、母方の祖父が野村流古典音楽の師範をしていたことなどから、幼い頃から琉球民謡や舞踊のある生活環境に育った、とある。『青い海』創刊当時と違って今はネットの時代で検索すれば直ちに「渚画像」は過去から現在までなんぼでも出てくる。(2016-4記)

①田川 寿美(たがわ としみ、1975年11月22日 - )は、日本の女性演歌歌手。和歌山県和歌山市出身。血液型はO型。堀越高等学校卒業。長良プロダクション所属。→Wikipedia

②沖映通りに安仁屋宗八(左)、ミハイル・ゴルバチョフの手形がある。

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1975年9月 雑誌『青い海』46号 新川明「◆論鉾◆ある『歴史家』の虚像を撃つー伊波普猷・柳田国男の読み方に触れて」

2013年4月20日『沖縄タイムス』新川明「4・28への視座ー自主独立の気概持て」〇政府式典は「安倍晋三首相が憲法改正(悪)をもくろむ中、独立国家のイメージを国民に示したいのだろう。実際には米国に隷属しているのは世界中が知っているし、話にならない」と一蹴する。・・政府式典に抗議は、抗議の意思を示す行動を無意味とは言わないものの、これまでと同じ動きでは状況は変わらないと指摘する。「復帰した今も、オスプレイや普天間問題で沖縄に主権はない。政府が式典を開くならば、沖縄は日本に離縁状を突き付けるくらいの気概を持ち、自ら生き方を決めるための教材とすべきだ」

新川 明

1956年5月16日『沖縄タイムス』新川明「沖縄画壇の収穫ー(儀間比呂志個展評)」


1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)

1960年4月29日『琉球新報』「昨夜盛大に『復帰協』結成」
1961年4月29日『琉球新報』「祖国復帰県民大会開くー大会宣言ー沖縄は1952年4月28日発効した平和条約第三条により祖国から切り離され米国の統治下におかれたが以来われわれは一日も早く祖国に復帰したい熱願を表明して機会ある毎に日米両政府に対し沖縄返還要求を訴え続けてきた。われわれは沖縄県民にとって屈辱の日、忘れることの出来ない1960年4月28日に沖縄県祖国復帰協議会を結成しこの願望を訴え続けてきた。・・・」

1962年4月29日『琉球新報』「祖国復帰県民大会開く/神原校で5万人参加・大会宣言ー10年前のこの日に講和条約第三条が発効して、沖縄県民は祖国から分離された。われわれは、祖国の独立の喜びを味わうこともなく敗戦から今日まで実に17年の長期占領状態下にあえいでいる。」

1965年4月28日『琉球新報』「27度線上で海上大会開く/大会宣言ーきょう、4月28日は対日平和条約が発効し祖国が独立した日である。しかし沖縄県と小笠原にとっては祖国から立ち切られた悲しみと屈辱の日であり・・・」

1966年4月28日『沖縄タイムス』「きょう復帰要求県民大会」「昨夜 悲願の前夜祭」
1967年4月28日『沖縄タイムス』「悲願を”炎”に托してー沖縄返還デ前夜祭ー きょう27度線で海上大会」
1969年4月28日『沖縄タイムス』「 きょう27度線で海上大会に1300人」「屋良主席を先頭に 復帰行進団ゴールイン」

1970年4月29日『琉球新報』「与儀公園で4・28県民大会 1万5千人が参加ー”安保なき復帰を”日米体制に怒り込め」
      4月28日『沖縄タイムス』大城立裕「四・二八に思う」/「無条件全面返還かちとろうー4・28沖縄デー 本土ー沖縄船団が呼応」
1971年4月29日『沖縄タイムス』「夜空揺るがす完全復帰の叫び」「天皇陛下70歳の誕生日」
      4月30日『沖縄タイムス』「心理作戦部隊の全容ー”成果”は26年間の沖縄統治」
1972年4月29日『沖縄タイムス』「最後の4・28県民大会開くー沖縄処分を糾弾 反自衛隊前面に」
      5月15日『琉球新報』「売防法きょうから施行ー転業のメドたたず対策遅れ戸惑う7千人」

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1970年11月 川平朝申 再話/儀間比呂志 版画『ねむりむし じらぁ』福音館書店


1971年7月 川平朝申 再話 儀間比呂志 版画『ねむりむし・じらぁ』(福音館書店)


1982年6月、戦前から異国船に関心を持ってきた川平朝申や、国吉真哲、中今信、曽根信一ら数十人が集い、琉球航海記を中心とした沖縄の歴史・文化・人文の研究調査の発展をはかり、地域社会の思想・文化の向上に寄与することを目的に、会長に川平朝申、事務局に外間政彰で異国船琉球航海記研究会(通称バジル・ホール協会)が発足した。発会の記念講演は照屋善彦琉大教授で、会場にはぺルリ艦隊の乗組員の曾孫にあたるヨセフハンディー夫妻も参加した。川平会長の母と、西平守晴南島史学会大阪支部長夫人の母とは姉妹の関係で、大阪在住の新城栄徳も会員として末席をけがした。

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「川平朝申氏寄贈写真」(那覇市歴史博物館所蔵)写真後方左が西平守晴、前右が川平朝申

1983年10月 仲里秀雄・玉寄貞夫『粟国島民謡集』

 川平朝申は今ではあまり知られていないが、弟の朝清氏(昭和女子大学名誉理事)はディスク・ジョッキー・タレントのジョン・カビラ、俳優・タレントの川平慈英の父である。新城栄徳の伯父の玉寄貞夫は1983年に元粟国村長の仲里秀雄と共著で『粟国島民謡集』を出した。その刊行前に琉球民謡協会名誉会長の川平朝申氏のところへアポなしで伯父を同行し序文を依頼した。川平氏はその場で「このほどバジルホール協会会員の新城栄徳君が粟国民謡研究家の玉寄貞夫氏を伴い来訪し、粟国島民謡集を出版するから1文を章して欲しいと望まれた(略)粟国島の民謡が沖縄全島の舞踊となった『むんじゅる平笠』を讃えて、御祝いの辞といたします」と太い万年筆で書いてもらった。

 帰省のたびに川平さんが専務理事をつとめる琉球結核予防協会にはよく遊びに行った。ある日、川平さんから長谷川清台湾総督のことを聞かされたことがある。長谷川はアメリカ大使館の駐在武官もやった経歴もあるが、那覇市歴史博物館の川平資料には『長谷川清伝』もある。川平さんを終生の師と仰ぐ月刊沖縄社の佐久田繁氏は1997年に川平朝申『終戦後の沖縄文化行政史』を刊行した。

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写真/上ー大城立裕夫妻と西平守晴ら。
中ー川平さんと西平守晴。右下ー川平さんと新城栄徳。

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2018年4月24日~29日 那覇市民ギャラリー「具志弘樹作品展」

具志弘樹氏、外間政明氏


新城栄徳、大城政明氏/具志弘樹氏、新垣正一氏
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コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com



2018-3-31 ひより、初めての写真撮影


ゴーヤー/フーチバーヨモギのこと。沖縄料理に欠かせない食材で、クセの強いヤギ汁などの料理のにおい消しとして利用するほか、沖縄そば、じゅーしー(雑炊)、菓子、お茶などにも使われている。 →「沖縄大百科」

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2003年10月11日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑧當間清弘」

郷土史へ導いてくれた當間清弘氏
母方の伯父や伯母の連れ合いが奄美大島の出身だから、小学生のころから奄美大島は琉球の一部だと理解していた。父・三郎の出会いはちょっと違っていた。1947年、父が那覇の栄町「栄亭」のコック長のとき、用心棒代を店に要求にきた大島ヤクザに立腹し包丁で一人の鼻先を削いでしまった。父はグループの報復を恐れ糸満の親戚の所に身を隠した。翌年に生まれた私の名前の「栄」は、栄町からも来ている。

名瀬市は1972年前後3回、訪ねたが図書館はいつも休館日。だから島尾敏雄とついに出会うこともなかった。しかし、私にとってそれに匹敵する出会いが山下欣一氏だった。氏の『奄美のシャーマニズム』はもう古典的存在である。私も義母がユタをしていたので、それにまつわる話には関心がある。氏が私に資料を贈る義理は無いが気を使ってくださる。

喜納緑村『琉球昔噺集』を発行した三元社の萩原正徳が奄美関係者らしいと前々から気になっていた。山下氏に問い合わせると家系図、『道之島通信』、『定本・柳田國男集』の月報などの資料をたくさん贈ってこられた。緑村は1930年に『沖縄童話集第一編ー犬と猫』(津嘉山栄興挿絵)を神山青巧堂印刷で刊行した。印刷者の神山邦彦は久米蔡氏で元警察官、戦後『辻情史』をまとめ発行し1977年83歳で亡くなった。


當間清弘
小学4年のころ、首里の琉潭池側の琉球政府立博物館へ「首里那覇港図」をよく見にいった。博物館の入口付近に「三ツ星印刷所」(1926年に辻町で昭和石版として開業)がある。その売店に『毛姓系図家譜』『組踊全集』などが並んでいた。中を覗き「筑登之」「○王」など読めない字に悩んでいると、主人の當間清弘氏が買いもしない子供に読み方を教えてくれた。氏は1968年に80歳で亡くなった。


「昭和初期の那覇絵地図」(昭和石版印刷所 辻町3ノ70)


「首里那覇鳥瞰図」氏作成





□8月 『琉球古典組踊全集』當間清弘(三ツ星印刷所)→左の本・1965年9月『沖縄郷土古典芸能 組踊全集』
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沖縄県立博物館の裏手に「みどり印刷」がある。開業したのは石川逢正氏で、氏はミルクイシチャーと呼ばれる一門の家に生まれた。1955年に開業した当初は首里バスの切符、伝票、名刺などを印刷していた。石川氏は戦前、嘉味田朝春の向春印刷所から始まって戦後は新聞などを印刷していた中丸印刷所を経て独立。今は、息子の石川和男氏が業務をこなす。「みどり印刷」←iここをクリック

2014-9-5 沖縄県立博物館・美術館にて「くしの日 美ら姿 結い遊び(主催:玉木流 琉装からじ結い研究所)」がありました。



モデル・仲里なぎささん


1995年10月 小波則夫/宜保榮治郎『きからじの世界』小波則夫
○グラビア/第一章ー実技編1、小波式琉髪の結い方 2、歌劇にみる髪型 /第二章ー髪型・資料編1、琉球風俗絵図 2、諸外国にみる髪型 3、琉髪と簪の歴史概説 /第三章ー対談1、小波則夫の足跡2、小波則夫の芸談 小波則夫・年譜

○写真ー金武良章、志田房子、佐藤太圭子、親泊興照、真境名由康、宮城能造、島袋光裕、宜保榮治郎、ウミングヮ役の小波則夫、久高将吉、比嘉清子、与座つる、浜元澄子・朝保、比嘉正義、玉城盛重、前田幸三郎、翁長小次郎、小山明子


2013年12月21日 沖縄県立博物館文化講座「『きからじ』と『ジーファー』」
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写真左から写真家の山田實さん、牧野浩隆氏、沖縄髪結いの小波則夫氏







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 真栄里泰山の「はがきエッセイ」№20□ひや!ひや!ひやひやひや!ひやみかちうきり、ひやみかちうきり」の「ひやみかち節」。この歌が出ると心は浮き浮き、誰もが座っておれなくなる。三線の力強いリズムといい歌詞といい、うちなーんちゅの魂のそのもののような歌である。1948年、山内盛彬作曲によるこの歌は、沖縄戦で廃墟となり、米軍統治下におかれ失意のうちにあった沖縄の人々を励ました名歌である。「名に立ちゅる沖縄 宝島でむぬ 心うち合わち うたちみしょり」、「七転び転で、ひやみかち起きて わしたこの沖縄 世界に知らさ」の歌詞は、沖縄の自由民権運動の父・謝花昇の同志で熱血漢の平良新助の作だ。私たちの世代は「腕を組み歌おう 喜びの歌を 僕らみな明るい日本の子、沖縄の子」と歌ったが、それは当時、沖縄教職員会が替え歌にしたものだろう。「ひやみかち節」は沖縄の復帰運動を鼓舞した歌でもあった。

その「ひやみかち節」の歌碑が、山内盛彬翁(1890年~1986年)の生誕120年を記念して、翁夫婦が晩年を過ごし琉球音楽普及の拠点であった沖縄市の社会福祉法人緑樹苑の中庭に建立された。去る3月27日の除幕式では、おもろ主取家の安仁屋眞昭が思い出を語り、首里クェーナ保存会による「あがり世」、山内翁から直伝された「せーぐぁー」こと登川誠仁の歌三線、バンド演奏、踊りなどいろいろなバージョンで「ひやみかち節」が披露された。琉球王朝禮学の復活伝承に生涯をささげた山内翁にふさわしい会であった。

琉球王国の滅亡後、日本の近代教育は皇民化を第一とし、うちなー口はじめ琉球の文化風俗を蔑視し撲滅した。そうしたなかで、沖縄の文化を守るため使命感を持って苦闘した先人達がおられた。おもろと沖縄学の父・伊波普猷はよく知られているが、琉球王朝の御座楽、路次楽、おもろをはじめノロのウムイ、クェーナなどの歌謡を五線譜に採集し、世界に通ずる音楽として広め紹介したのが山内盛彬翁である。翁の祖父盛憙から受け継いだ伝統音楽と西洋音楽の技量を合わせ持ち、秘伝のくえーな「あがり世」などは床下にもぐりこんで採譜したという、沖縄歌謡保存にかけたその烈々たる情熱は、今度の歌碑に刻された翁の「滅びゆく文化 忍で忍ばれめ もち(自費)と命かけて 譜文に遺さ」という歌に込められている。

沖縄音楽というと、大方は宮良長包の数々の名曲を思い浮かべるだろうが、今回の「ひやみかち節」歌碑建立を機に、山内盛彬翁の業績をあらためて見直したいものである。「ひやみかち節」は平和とやさしさ、そして沖縄の誇りを歌った沖縄県民の歌ともいうべき永遠の名歌名曲である。
「花や咲き美さ 音楽や鳴り美さ 聴かさなや世界に 音楽の手並み」(盛彬)(2011年4月10日)
◎YouTube 沖縄民謡「ひやみかち節」登川誠仁、他


1912年10月1日 『沖縄毎日新聞』山内盛彬「琉球音楽の実地的研究(2)」

1925年5月15日 『沖縄タイムス』山内盛彬「末吉麦門冬氏遺稿『三味線渡来説に就て』」
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1959年4月 山内盛彬『琉球の音楽芸能史』民族芸能全集刊行会

2月11日「はがきエッセイ」№11
 上山中学校3年生の孔子廟参拝で講話をした。学問の神様・孔子様への学業成就祈の願願を兼ねた学校周辺の歴史・文化のユニークなふるさと学習だ。人類の教師として釈迦、孔子、ソクラテス、キリストを紹介し、その4聖人がそれまで弱肉強食で平気でいた人間に初めて人間の愛、人間性を説き教えたこと。仁義礼智信の人間学儒学は中国、韓国、台湾、日本、沖縄、ベトナムで国学となり、ほぼ共通の道徳となっていること。鄭順則など沖縄の儒学は当時の最先端だったことなどを話した。話しながら、ふと今の政治や指導者をこの若者たちはどう感じているのか気になった。基地問題での沖縄に対する民主党政権の傲慢なふるまい、地元名護市長を無視した礼節を欠いた行動、中国の尖閣問題、北方領土のロシアなど、力にまかせた大国主義政治の横行等々。今、本当に必要な道徳教育、経世済民の徳治主義の政治教育はこれら指導者たちにこそ必要ではと思った次第。

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(上)1998年 粟国島「むんじゅる節之碑」の前で、中央が伯父・玉寄貞夫(撮影・新城栄徳)

(中)1999年2月 沖縄県立博物館で、左から新城安善氏、新城栄徳、當間一郎館長

(下)2003年5月 眞喜志康忠宅で、左から平良リエ子さん、康忠さん。後左、新城栄徳、眞喜志康徳さん(撮影・平良次子)。

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1972年2月号『青い海』10号 「若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」

1972年1月ー『青い海』10号□若者が集う「沖縄関係資料室」の西平守晴氏宅ー西平沖縄関係資料室主宰「柳宗悦という人を皆さんもよく知っていると思う。沖縄の民芸を高く評価した人だが、その人が昭和14年に書いた『琉球の富』の序に次のような言葉がある。<人々は今まで余りにも暗い沖縄を語り過ぎていたのです。私たちは優れた沖縄を語りたいのです。それは私達を明るくし島の人々を明るくさせるでしよう。私達は実に多くの富に就いて語り合いたいのです。沖縄に就いて歎く人々のために、又この島に就いて誤った考えを抱く人々のために、又自国を余りにも卑下して考える土地の人々のために、そうして真理を愛する凡ての人々のために、この一文が役立つことを望んで止まないのです。> この30年も前の文章が、私の今の気持ちを言い当てています。-」
□ここで資料の内容の一部を紹介しよう。開設当時200冊足らずだった書籍・雑誌は、現在約3200冊。新聞や週刊誌などのスクラップが300冊。沖縄に関する資料については、関西隋一と言われる。▽人物関係ー「謝花昇伝」「平良辰雄回顧録」「伊波普猷選集」などの伝記、回顧録、全集もの。▽市町村関係ー「北谷村誌」「南大東村誌」 比嘉景常「久米島紀行」など。▽歴史関係ー「沖縄県史」(直接主席から贈呈される。関西では天理図書館と資料室ぐらいだろうとの話) 「琉球建築」 田代安定「沖縄結縄考」 金城朝永「異態習俗考」や戦史・戦記もの。▽文芸関係ー「山之口貘詩集」「新沖縄文学」や大城立裕、石野径一郎、霜田正次、石川文一などの諸作品。▽芸能関係ー「組踊大観」「工工四」など。▽政府刊行物ー「立法院議事録」 白書類。▽ミニコミー「沖縄差別」「石の声」「沖縄月報」「寮友」「琉大文学」や本土各大学の県学生会の機関誌・パンフなど。▽地図ー「首里古地図」その他。これらの資料を整理したり、購入したり目録をつくるなど、一人でするにはたいへんな仕事である。西平守晴さんは保育園の仕事もあり忙しいので、現在もっぱら新城栄徳君(23)が動きまわっている。

システム手帳

1984年には日本国内でもFilofax(ファイロファックス)が正式に発売された。著名人の愛用者がしばしばマスメディア上で「便利な手帳」とするコメントを発した事から、1980年代末 - 1990年代中頃より類似製品を含めて急速に愛好者が増加した模様。1985年にジャーナリストの山根一眞が書いた「スーパー手帳の仕事術」(ダイヤモンド社刊)が日本で最初のシステム手帳Filofaxの解説本と言われる。日本で言われる「バイブルサイズ」を最初に日本で流布したのは山根で、欧米では使われていない単語である。なお、日本初の国産システム手帳は、1968年に経営コンサルタントの奈良総一郎が考案した「システム・ダイアリー」である。→ウィキ

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1972年6月の『豊川忠進先生の長寿を祝う会』では、沖縄の又吉真三氏から文化財の碑文の拓本を借りて展示して参加者を感動させ、平良盛吉翁らを豊川氏の隣りに座らせて感激させた。」
 1984年2月24日『琉球新報』「アシャギー新城栄徳『琉文手帖』で資料紹介」/3月17日『琉球新報』「さし絵人生40年ー金城安太郎さん」/『琉文手帖』「日本画家・金城安太郎」/5月『青い海』「新刊案内ー『琉文手帖』「日本画家・金城安太郎」


6月23日『朝日新聞』(大阪版)「沖縄のこころを本土にー大阪の西平守晴さん」

8月14日『毎日新聞』(大阪版)「反戦平和へ遍路10年ー沖縄出身の西平守晴さん」

9月10日、沖縄協会機関紙『沖縄』「21世紀へはばたけ沖縄青年ー新城栄徳さん」/12月7日『琉球新報』「俳人・末吉麦門冬が没して60年」/12月、『琉文手帖』2号「文人・末吉麦門冬」


1985年5月23日『沖縄タイムス』「30周年を迎える沖縄資料室ー大阪・西平守晴さんの個人文庫」

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1988年11月 史海同人『史海』№6 新城栄徳「関西と沖縄」



10月11日『琉球新報』「駅前広場ー西平守晴さん」/10月31日『沖縄タイムス』「自宅に沖縄関係資料室ー石垣出身の西平守晴さん」/11月6日『朝日新聞』(大阪版)「自宅を改造して沖縄を学ぶ拠点にー大阪の西平守晴さん」/11月、『琉文手帖』3号「歌人・山城正忠」/12月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』「琉文手帖『歌人・山城正忠』を読む」



1986年1月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』「此処に人ありー新城栄徳さん」/4月15日『沖縄タイムス』「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号はガリ版刷りー新城栄徳さんが確認」/12月、沖縄県歌会『金真弓』新城栄徳「沖縄近代美術の流れと文学」/12月、『北谷町史』第2巻「争議にともなう財産調書」(新城栄徳寄贈)

1987年4月25日『琉球新報』「われらウチナンチュー西平守晴さん」/5月『新生美術』新城栄徳「浦崎永錫画伯美術史を語る」/9月、沖縄県立博物館「特別展・沖縄近代の絵画」(新城栄徳協力)

1987年6月 大阪沖縄県人会連合会40周年記念誌『雄飛ー大阪の沖縄』西平守晴「就学前教育と児童福祉」「沖縄関係資料室」

1987年9月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』新城栄徳「人物・沖縄近代美術略史」/10月1日『琉球新報』「明治の沖縄の画家一堂にー東京の島袋和幸さんが見つけ、新城栄徳さんが人物確認」

1988年2月19日『週刊レキオ』「先人の足跡を残したいー新城栄徳さん」/4月、緑林堂『琉球弧文献目録』新城栄徳「沖縄出版史ノート(戦前篇)」/6月『新沖縄文学』№76□新城栄徳「近代沖縄の新聞人群像」/7月4日『琉球新報』「首里那覇鳥瞰図の作者は阿嘉宗教ー新城栄徳さんが確認」/9月、南風原永育『南の島の新聞人』ひるぎ社(新城栄徳資料提供)/11月『史海』№6□新城栄徳「関西と沖縄」

1989年4月18日『沖縄タイムス』「神山宗勲の小説『闘へる沖縄人』、新城栄徳さんが見つける」
7月、西平守晴、琉球新報の落ち穂を担当






10月、沖縄県立図書館「沖縄の同人誌展」(新城栄徳協力)/11月、『沖縄美術全集』(辞典・年表・文献委員ー新城栄徳)/11月30日『琉球新報』「琉球新報初代主筆『野間像』鮮明にー新城栄徳さんが見つける」/12月2日『琉球新報』「金口木舌ー新城栄徳と野間五造」

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(上)1996年12月7日/大阪・大正駅前「居酒屋ゆんた」で、左から金城勇(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、息子、諸見里芳美(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、仲間恵子(大阪人権博物館学芸員)、崎浜盛喜(奈良沖縄県人会副会長)、右端がゆんた主人の玉城利則(関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」初代会長。1981年、『ハイサイおきなわ』編集人、発行人は嘉手川重義(現大阪沖縄県人会連合会長)と夫人、真ん中の女性はお客さん。撮影・新城栄徳/(下)1996年12月8日/大阪港区・池島保育園(近鉄の野茂英雄投手も同園出身)階上で、左より西平久子、西平守晴夫妻、娘、後に息子。撮影・新城栄徳

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1972年5月13日ー大阪『日本経済新聞』「民芸品・図書を守ろうー都島の『沖縄資料室』」
1973年5月14日ー大阪『朝日新聞』「守れ!沖縄の心と自然ー埋もれた文化掘起す」

平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」
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沖縄関係資料室の内部(西平守晴と司馬遼太郎)




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1962年、真喜志康忠優の関西公演のとき京都五条坂の河井寛次郎からの招待を受け西平守晴(沖縄関係資料室主宰)の案内で訪ねる。帰り河井作品を貰ったのは言うまでもない。
写真は左から西平守晴、真喜志康忠夫妻、河井寛次郎夫妻


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2018年4月10日ー店主の田中保一氏、豊見山愛さん/麻姑山書房〒902-0061 沖縄県那覇市古島2-7-4 098-885-9612

豊見山さん購入1972-5-3~9大阪梅田・阪神百貨店で開催された朝日新聞社主催「沖縄を彫る 儀間比呂志版画展」展覧会の図録/1989年3月 儀間比呂志『新版画風土記 沖縄』海風社

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1976年9月 『山之口貘全集』第四巻 評論 思潮社 □「1960年6月『詩と版画・おきなわ』(新川明詩・儀間比呂志版画)序文」〇去年だったか、一昨年のことだったか丸の内で、儀間比呂志に逢ったことがある。話しっぷりがいかにもかれの作品から受けるものと似ていて深く印象に残っているが、作品も実物も共に肉体的精神が豊かで、人を元気づけるものがある。新川明には鹿児島でお世話になった。一昨年十一月、沖縄へ行く途中なのであったが、かれのところで四日ばかり御厄介になったのである。奥さんはお産のために留守だった。

1983年10月 新川明・儀間比呂志『詩画集 日本が見える』築地書館□1960年6月『詩と版画おきなわ』、1971年12月『新沖縄文学』21号「儀間比呂志版画集 詞章新川明」をもとに構成。島尾敏雄「沖縄が見える」。装幀・田村義也

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儀間比呂志「空手」/屋部憲通書簡

 外間 哲弘(ほかま てつひろ)・沖縄剛柔流空手道・古武道 拳志會 宗家・体育学博士・沖縄剛柔流空手道・古武道 範士十段・世界レジストリー・オブ・ブラック・ベルト殿堂入り(2011年 アメリカ、2013年 オランダ)・沖縄県空手博物館 館長・書道家 外間洋山(雅号:外間峻岩)
 祖父の徳山盛健氏から空手を伝承し、比嘉世幸先生より剛柔流、又吉真豊先生・金城政和先生等より古武道、神長成佳先生より古流神道天心流を学ばれ、その後アメリカとミンダナオ大学にて 体育学(武道)博士を取得される。→(沖縄剛柔流拳志會神奈川支部)

【略歴】1944年 出生
1961年 比嘉世幸先生、又吉真豊先生等に師事
1978年 宮城長順①25周年追悼式(明治神宮)にて模範演武

1944年 ①宮城長順の葉書

1981年 国際親善空手道選手権大会にて模範演武
1984年 中国、沖縄交流武術大会沖縄代表
1987年 沖縄県空手道古武道歴史資料館設立
1989年 沖縄空手道剛柔会理事長就任
1992年 沖縄空手道協会より感謝状授与
1993年 米国国会より「空手道指導功績」表彰、フィンランド国陸軍より「空手の感謝状」授与
1994年 近畿大学豊岡短期大学にて空手・古武道の非常勤講師(1996年まで)
1996年 琉球国技・空手術発祥之碑設立
1997年 第一回カナダ国北方空手道連盟にて又吉真豊先生と模範演武
1998年 沖縄県文化協会長賞受賞             


2001年3月 外間哲弘『空手道歴史年表』エムテイ出版

コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com
2013年2月 松山公園
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東恩納寛量・宮城長順顕彰碑


大城政明氏、具志弘樹氏、外間哲弘氏/外間哲弘氏、新城栄徳、大城政明氏



空手普及、空手博物館の創設などの功績で沖縄県議会からの特別功労賞/摩文仁賢和 まぶにけんわ、1889年(明治22年)11月14日 - 1952年(昭和27年)5月23日)は、沖縄県出身の空手家。空手の四大流派のひとつである糸東流の開祖。夏氏の元祖越来親方賢雄(俗に鬼大城)の末裔。外間哲弘氏も夏氏である。


2018-4-26 那覇市民ギャラリー 外間哲弘氏、具志弘樹氏/稲福和子米寿記念作品展ー大城立裕氏、外間哲弘氏


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儀間比呂志「1976年 天野鉄夫先生之像」/1980年 天野鉄夫



天野鉄夫氏の著作

1984年3月3日 伊佐眞一氏、儀間園子さんと天野鉄夫宅

伊佐宅で,左が新城栄徳、伊佐眞一氏/左が玉木園子さん、あけみ




写真ー天野鉄夫さん「曼草庵」入口で(新城栄徳・撮影)
天野さんとの出会いは『琉文手帖』4号にも記している。その書斎「曼草庵」は一軒家、かつての住宅で本・資料や焼物が増えたので、同敷地に住宅を新築し移転した。1階右は金城次郎を中心にした焼物博物館、奥は古酒の泡盛甕と焼物が入ったタンスが並んでいた。2階右は植物関係の資料、左が昭和6年以来続けている新聞スクラップ、「琉球学集説」「琉球の自然と生物」「琉球の資源と産業」、沖縄関係資料が所狭しと並んでいる。本宅の金庫には『沖縄時論』『沖縄新公論』などがあった。今それらの資料は沖縄県立図書館に収蔵されている。

天野鉄夫 あまの-てつお
1912-1985 昭和時代の農業技術者。
明治45年3月31日生まれ。戦前は沖縄県国頭郡(くにがみぐん)農会技手をへて,北支那農事試験場に勤務。戦後は琉球政府農林部長などを歴任し,県緑化推進委員会委員長,琉球林業協会長をつとめた。昭和60年7月24日死去。73歳。沖縄県出身。沖縄農林卒。著作に「琉球列島植物方言集」など。(→コトバンク)

天野鉄夫と「トックリキワタ」


那覇市立神原中学校の敷地内では、ガーブ川沿いに美しいトックリキワタが立ち並んでいる。
1980~90年代にかけて、故天野鉄夫先生宅の庭に育つトックリキワタは特に「天野株」と呼ばれ、満開時には樹冠がピンク色に染まりかなり有名だった。見ごろになると、新聞紙上にもと紹介され話題になった。そのことも影響してか徐々に植木市で苗が売られるようになり、瞬く間に沖縄中にひろがり、熱帯花木ブームの火付け役になった。→沖縄県森林緑地課
城岳小学校の通り

楚辺界隈

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1972年4月 雑誌『青い海』12号 「屋良朝信くん・ギター一丁かかえ世界一周旅行〝貧乏旅行″」/『青い海』13号①~22号⑧ 屋良朝信「旅行記でない旅行記」

2018-10 屋良朝信◇津野創一さんの愛娘・愛さんとお目にかかれて感無量です。半世紀近くも前に小田急線/南武線-登戸駅前で津野さんにお会いした日のことを鮮明に覚えています。 “青い海”との付き合いを通して”書く“喜びや大切さを学びました。今現在、私がささやかながら物書きの仕事に関わっている原点でもあり感謝の気持ちでいっぱいです。

2018年2月4日 ジュンク堂書店那覇店「屋良朝信『沖縄・思い遥か』発売記念トークイベント」

『沖縄・思い遥か』を手に著者・屋良朝信さん

2017年11月 屋良朝信×新井克英『沖縄・思い遥か』AWAWA

2017年11月 屋良朝信×新井克英『[川崎・鶴見・東京]ウチナーンチュ100年 沖縄・思い遥か』AWAWA
12月11日、那覇市役所で早く用事が済んだので、ジュンク堂那覇店に寄って上記の本を入手。

『神奈川新聞』2018/03/13 本格移住100年 沖縄出身者に勇気を- 沖縄出身で川崎、横浜、東京に移り住んだ人々やその子孫らの素顔を紹介する本「沖縄・思い遥(はる)か」が自費出版された。本格的な移住から約100年の節目を機に、一般財団法人川崎沖縄県人会会員の屋良朝信さん(68)=川崎市川崎区=らが約2年がかりで取材し作成。ミュージシャン、沖縄料理店主をはじめ市井の21人にインタビューし、その思いを伝えた。 沖縄からの移住が本格化したのは1915(大正4)年、現在の川崎区に富士瓦斯紡績(当時)の工場が操業開始したのがきっかけ。

2018年4月2日~8日 川崎競馬場2号スタンド2F「川崎競馬場・沖縄100年の歩み展」(監修:屋良朝信)


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那覇市歴史博物館

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『琉球漫録』 (1879年 渡辺重綱 著) 資料コード:T00015795B より
著者の渡辺重綱は、同分遣隊の軍医として1878(明治11)年に沖縄に滞在しました。半年間の滞在中に見聞したことが『琉球漫録』にまとめらています。明治10年代の沖縄の実状を詳しく紹介しています。→沖縄県公文書館


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 松濤 船越義珍『愛蔵版空手道一路』榕樹書林2004年12月
○・・・そのために、三〇有余年にわたる教員生活に別れをつげたのである。が、そのかわり、それまでの経験を生かして御奉公をしようというつもりで、当時(後)の県立図書館長の眞境名笑古(安興)、沖縄タイムス編集長(主筆)の末吉麦門冬の両君と相談して、沖縄学生後援会を組織しその経営に当ることになった。一方、先輩や友人とも語り合って、空手道を一本化するために沖縄尚武会を作り、その代表者として働くことにもなったのである。


船越義彰「義珍翁外伝」

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富名腰(船越)義珍が末吉麦門冬に贈った写真
1922(大正11)年


4月24日  『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆<35>ー唐手の伝来」(『大島筆記』)/「禁止された琉球歌劇が復活の傾向」
4月27日  『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆<37>ー唐手の伝来」

○どうも面映ゆい話だが、私の若い日の修行の一端について、少し書いてみたいと思う。まず、台風の中で稽古をした話は同門の作家・戸川幸夫君①が作品として書いているので・・・
①戸川幸夫ー経歴生後まもなく若松市の実業家の養子となる。大正12年一家で上京。東京日日新聞(現・毎日新聞)記者、社会部副部長などを務める傍ら、長谷川伸主宰の新鷹会に入り、動物小説を書き始める。昭和29年「高安犬物語」で直木賞受賞、以後単行本は二百冊を超える。動物文学という新しい小説の分野を開拓し、小説を書くために世界各地を旅行している。40年沖縄・西表島のイリオモテヤマネコを発見したことで有名。子供向け読み物も執筆。日本動物愛護協会理事、世界野生生物基金委員などとしても活躍。俳人としては「渋柿」系俳人関谷嘶風の手ほどきを受け、「渋柿」所属。他の著書に「野生への旅」(全5巻)「人間提督山本五十六」「けものみち」、「戸川幸夫動物文学全集」(全10巻 冬樹社)、「戸川幸夫動物文学全集」(全15巻 講談社)がある。→コトバンク

○小杉放庵(未醒)画伯②の応援
1916年1月12日朝ー小杉未醒、横山健堂を訪ねて琉球への添書を頼む。
      1月13日ー小杉未醒、太平洋画会脱会の通知を出す。
      2月6日午後7時ー小杉未醒、丹青協会の歓迎会に赴く、山田真山、末吉麥門冬、20人参加。





②小杉放庵 こすぎ-ほうあん
1881-1964 明治-昭和時代の画家。
明治14年12月30日生まれ。小杉二郎の父。小山正太郎にまなぶ。明治40年「方寸(ほうすん)」同人。渡欧後,大正3年日本美術院に洋画部を設立,11年春陽会を結成した。後年油彩から日本画にうつり,独自の水墨画をえがいた。昭和39年4月16日死去。82歳。栃木県出身。本名は国太郎。初号は未醒(みせい)。代表作に「水郷」「山幸彦」,著作に「放庵画論」など。 【格言など】頂の岩に尻据ゑ足指にまさぐらむとす越の国原(歌集「山居」)→コトバンク


小杉放庵(未醒)葉書(新城栄徳蔵)


1910年8月25日 琉球新報・沖縄新聞・沖縄毎日新聞主催「近畿地方観光団」出発→1911年8月25日・26日『琉球新報』松濤「観光団員として」


1912年11月 『琉球新報』松濤「鄭嘉訓の半面」


1913年1月9日『琉球新報』松濤「唐手は武芸の骨髄なり」


1913年7月 『琉球新報』松濤「菊...


1941年4月『月刊文化沖縄』富名腰義珍「空手物語」

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 井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 - 1997年7月1日)は、日本の作家。
大阪市生まれ。本名・友一。早稲田大学仏文科卒。「都新聞」記者となり、1939年『文学者』に『残夢』を発表して作家生活に入る。風俗小説作家として活躍、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、『絶壁』が、宇野千代・北原武夫夫妻をモデルとしていると言われ、抗議を受けた。1970年代には、忘れられた作家となっていた。短編「日本ロォレライ」などがある。(ウィキペディア)


井上 友一郎の本

1935年9月14日 井上友一郎、昭和会館参観
   




戦時下の沖縄/1940年1月『月刊文化沖縄』2巻1号 「菊池寛・中野實来県」

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 戦前・戦後、常に東京沖縄県人会の指導者であった神山政良氏が1966年3月に『年表ー沖縄問題と在京県人の動き』を琉球新報社東京総局から発行している。その年表によると東京で沖縄県人会という名称は、1921年1月23日に明正塾にあった沖縄県青年会を改称した沖縄県人会が最初のものである。戦前の東京沖縄県人会①には在京の県人会幹部名を列記したが今回は個人別に紹介する。出典は1940年の東京沖縄県人会名簿。

安次富松蔵(済美中学校)ー杉並区方南町、安次富長英(森野商店東京支店)ー四谷区愛住町、安良城盛英(本郷元町小学校)ー板橋区練馬南町、安次富武集(専売局)ー葛飾区本田立石町、安谷屋長治ー(自動車修理製作)ー京橋区湊町、安仁屋政成(洋服商)ー淀橋区東大久保、安谷屋正伯(専売局)ー葛飾区上小松、有銘與明(文化工業所)ー浅草区壽町、安座間喜政(日本橋区箱崎尋常小学校)、安次富松山(警視庁)、安次富武雄(明治鉱業長井海水試験場)ー神奈川県三浦郡長井町、安次富福介(小原光学)、芝田町

伊波普猷(千代田女子専門学校講師)ー中野区塔ノ山、伊波興一(日暮里警察署)ー下谷区下根岸、伊波南哲(丸の内警察署)ー淀橋区角筈、伊江朝助(男爵、貴族院議員)ー中野区高根町、伊江朝睦(小菅刑務所所長)ー葛飾区小菅町、伊禮肇(弁護士、代議士)ー品川区大井山中町、伊元富爾(中外商業新報政治部次長)ー本郷区いが林町、伊集治宗(帝国無尽株式会社)ー世田谷区赤堤、石川正通(武蔵野女子学院教授、京華中学校教諭)ー本郷区浅嘉町、石原三覧(医師)ー渋谷区原宿、石原守規(中野第5小学校)、石原昌栄(警視庁)ー小石川区茗荷谷、石嶺傳亮(歯科医)ー赤坂区青山北、石垣永助(改造社)ー大森区馬込町東、糸嶺篤栄ー神田区松永町、石川正治(山口自転車工場販売部)ー日本橋区小傳馬町、伊志嶺朝良(東亜海運株式会社)ー大森区調布嶺町

上原恵道(三菱航空株式会社、海軍機関中佐)ー市外吉祥寺、上原健男(日本大学講師、弁護士)ー本郷区真砂町、上原隨昌(警視庁)、上原眞清ー板橋区板橋町、上江洲由英(下谷高等小学校)ー豊島区池袋、上間清享ー本所区小梅町、上間助三(東京地方専売局芝工場)、上里朝秀(成城学園高等女学校主事)ー世田谷区祖師ヶ谷、上里参治ー中野区打越町、宇久里清(板橋第二小学校)、浦崎永錫(美術界記者)ー埼玉県大宮町、内間仁徳(芝区三光小学校)ー芝区二本榎西町、内盛唯夫ー世田谷区太子堂

大濱信泉(早稲田大学教授)ー杉並区和田本町、大濱信恭(東京市厚生局)、大濱晧(帝京商業学校教諭)、大濱潔ー江戸川区小岩町、大濱孫詳(東京湾汽船株式会社)、大濱善勤ー淀橋区角筈、大濱正忠ー世田谷区鳥山町、翁長助俊(東京市総務局文書課)ー中野区昭和通り、翁長良保(旭硝子株式会社総務部長)ー杉並区馬橋、翁長長助(蒲田矢口東小学校)、翁長長圭(呉服商)、大塚長昌(東京府総務部人事課)、大城朝申(東京地方裁判所判事)ー杉並区松庵代町、大城兼義(東京無尽合名会社)ー世田谷区上北沢、大城兼眞(医師)ー小石川区下富坂町、大城仁輔(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、大城助十(城東区浅間小学校)ー豊島区巣鴨、大城盛隆ー麹町区平河町

大城幸清(小原光学株式会社)ー荏原区下神明町、大城幸助(東京光学機械株式会社)ー板橋区志村本蓮沼町、大城川次郎(農林省林業試験場)ー荏原区戸越、大城太郎(榎本光学株式会社)ー豊島区長崎東町、大城永茂(豊島生田第二小学校)、大城源次郎ー渋谷区幡ヶ谷本町、大城孝清(板橋開進第二小学校)、大城幸英(小原光学株式会社)ー芝区田町、大城梅春(漢方医)ー荏原区下神明町、大城久栄(専売局)ー本所区横川橋、大城藤徳郎(専売局)ー品川区西品川、大城藤太郎(専売局)ー品川区西品川、大城伸夫(日本製鉄株式会社)ー品川区大井瀧王子町、大嶺三郎ー小石川区表町、大嶺詮次(京橋郵便局)ー豊島区池袋、大嶺英意ー麹町区永田町、大嶺英徳ー足立区千住柳町、大村寛康(小石川青柳小学校)

大宜味朝徳(海外研究所主宰)ー本郷区駒込蓬莱町、大浦英美ー深川区千田町、大谷次良(大村自動車商会主)ー麹町区麹町、大盛英意ー麹町区永田町、奥島憲仁(弁護士)ー小石川区柳町、奥間徳一(芝区南海小学校)ー荒川区日暮里町、奥平秀(大審院)ー蒲田区女塚、奥本養善(淀橋天神小学校)、親泊朝輝ー目黒区鷹番町、親泊朝省(陸軍参謀本部勤務少佐)、親泊康永(出版業)ー神田区小川町、恩河朝健(計理士)ー芝区白金今里町

漢那憲和(海軍少将、代議士)ー小石川区林町、漢那朝常(沖縄食品会社専務取締役)ー本郷区台町、神山政良(国際通運株式会社取締役)ー本郷区西片町、我謝秀裕(株式会社三省堂)ー杉並区成宗、我謝盡義(板橋第五小学校)、我部政達ー北多摩郡小金井、我部政任(小石川柳小学校)ー杉並区高円寺、我喜屋良喜(王子尋常高等小学校)、嘉手川重政(株式会社北辰電機製作所)ー荏原区戸越、嘉手川重國(簡易保険局)ー大森区雪ヶ谷町、嘉手苅信世(南方倶楽部専務理事)ー四谷区番衆町、嘉数詠勝つー淀橋区上落合、嘉数詠秀(世田谷深沢小学校)、嘉数英一(東京市水道局)、嘉味田朝武(淀橋第六小学校)、川上親助(京橋昭和小学校)ー蒲田区蒲田町、亀島靖治(泡盛商)ー神田区五軒町、垣花昌林ー渋谷区幡ヶ谷原町、亀川盛要(保健局)ー麻布区富士見町、柏常隆(横川橋梁株式会社)

金城時男(泡盛商)ー豊島区巣鴨町、金城紀昌(医師、鉄道病院)ー四谷区西信濃町、金城俊雄(品川小学校)ー品川区大井金子町、金城成宜ー豊島区豊島町、金城朝永(株式会社三省堂)ー豊島区西巣鴨町、金城唯温(東京地方専売局芝販売所)ー中野区昭和通り、金城清義(浅草田中小学校)、金城栄吉ー蒲田区糀谷町、金城待敬(英和商工社)ー麹町区永田町、金城武雄(荏原京陽小学校)、金城順隆(農林省)ー中野区昭和通り、金城珍網(杉並第六小学校)、金武朝睦(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、喜納朝徳(神田小学校)ー牛込区若宮町

喜納昌隆(蒲田区羽田第二尋常高等小学校)、喜友名成規(下谷黒門小学校)、儀間新(十五銀行)ー下谷区竹町、宜保友厚(泡盛商)ー京橋区槙町、宜保盛顕(板橋小学校)ー王子区稲付西町、木村春茂ー足立区千住町、許田善三郎ー足立区千住町、岸本賀勝(安田生命保険株式会社中野出張所)ー杉並区阿佐ヶ谷、喜久村潔秀(東京市電気共済組合)ー本郷区田町

國吉良寶(弁護士)ー杉並区馬橋、國吉眞俊(中外電業合資会社)ー芝区白金三光町、國吉眞禮ー本郷区金助、國吉眞文(大洋海運会社機関長)ー世田谷区三軒茶屋、國原賢徳(弁護士・弁理士)ー市外吉祥寺、具志堅實成(電機学校教授)ー杉並区大宮前、具志堅興實(警視庁)、久志助起(きくや書店主)ー神田区小川町、久志安彦ー本郷区、久高将吉(弁理士)ー世田谷区新町、久高朝清、久高清志ー滝野川区瀧野川、具志川朝著ー大森区入新井、具志幸慶(牛込高等小学校)ー牛込区若松町、具志川朝芳ー大森区大森、桑江文雄ー本所区東両国

東風平玄宗(警視庁警部補)ー蒲田区下丸子町、呉屋愛永(東京地方専売局)、呉屋芳春(深川元加賀小学校)、小嶺伸(荏原杜松小学校)ー荏原区中延、古謝盛義(板橋第五小学校)、小嶺幸和(警視庁)ー牛込区田町、幸地朝績(第百銀行神田支店)、幸地良昌(東京市厚生局)ー本郷区田町・喜久村方、鴻田康隆(東京市電気局電燈部)

呉屋博嗣(東京府経済部農林課)ー杉並区高円寺□→1938年『大阪球陽新報』「苦学力行の呉屋博嗣君ー大阪職業紹介所で職員として活動す。島尻郡西原村の出身、今年24歳の青年である。中央大学在学中、八幡一郎の世話で東京市役所職業課に入り、なお家庭教師もやりつつ卒業した」

崎原當升(東京鉄道局)ー市川市八幡宮ノ内、崎原淑人ー杉並区方南町、崎原成功ー葛飾区本田川端町、崎山用貴(警視庁)、佐久本嗣吉(下谷区西町小学校)、佐久田昌章(泡盛卸売商)ー神田区西神田町、澤田朝序(杉並桃井第五小学校)ー杉並区柿ノ木町、座間味朝永(エビス電球株式会社)ー杉並区天沼町

尚裕(侯爵)ー渋谷区南平臺、尚亘ー渋谷区南平臺、尚暢(日本勧業銀行)ー杉並区西荻窪、島袋源七(立正中学校教諭)、島袋盛繁(西巣鴨第二小学校)、島袋盛敏(成城高等女学校教諭)ー世田谷区成城町、島袋憲英(淀橋第一小学校)、島袋貞吉(中野野方東小学校)、島袋嘉英(東京市農会)ー足立区龍田町、島袋欣吉ー京橋区月島西月島通り、島袋欣章ー京橋区月島通り、島袋全吉(東京市財務局主税課)ー小石川区大塚坂下町

城間恒春(京橋明正小学校)、城間盛蒲(東中野小学校)、城間文徳(東京市厚生局衛生課)ー淀橋区下落合、城間朝宏(荒川第四峡田小学校)、城間義盛(警視庁)ー滝野川区西ヶ原町、識名盛亮(足立第七千寿小学校)、謝花寛廉(本所柳島小学校)、新城朝功ー淀橋区大久保、志賀進ー小石川区大塚坂下町、新屋敷幸繁(出版業)ー目黒区上目黒、末広幸次郎(日本曹達株式会社常務取締役)ー大森区馬込町

高嶺朝慶(株式会社島津製作所)ー淀橋区百人町、高嶺元英(高嶺製作所)ー荏原区中延町、高嶺元照(内閣印刷局)ー深川区石原町、高嶺朝和(葛飾上平井小学校)、高嶺朝詳(芝鞆絵小学校)ー淀橋区大久保、高良憲福(旭硝子株式会社工務部労務課長)ー板橋区練馬南町、高安正英(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、高江洲伸(浅草育英小学校)、高江洲朝和(本所高等小学校)ー荒川区日暮里町、嵩原安智(泡盛商)ー麹町区九段、嵩原安徳ー麹町区九段、高木玄栄ー小石川区関口台町、田港朝明(東京市女学校教諭)、田港景俊(本所区菊川小学校)、田里丕顕(料理業・沖那)ー芝区芝浦

田崎朝盛(医師)ー横浜市鶴見区潮田町、平良眞吉(医師)ー城東区亀戸町・平良医院、平良眞英(医師)ー城東区北砂町、平良治良(大井川電力株式会社)ー平塚市机浜町、平良兼路(本所区江東小学校)、平良恵序(深川区臨海小学校)、高里良英ー王子区堀舟町、多田喜導(専修商業学校教諭)ー杉並区上荻窪、玉那覇兼松(泡盛商)ー深川区森下町、玉盛栄八(シンセン本舗)、玉盛貫一(川崎菓子組合内)-川崎市宮前町、玉城正一(城東区第二大島小学校)、玉寄兼平(東京地方専売局芝工場)ー江戸川区西小松川町、谷口文雄(杉並区高井戸第四小学校)ー中野区江古田

知念亀千代(京橋区月島第一小学校)ー渋谷区代々木初台町、知念誠文ー渋谷区千駄ヶ谷、知念宏栄ー日本橋区茅場町、知念正次郎(東京アルミニウム工業株式会社)ー渋谷区景丘町、知念福永(日本電気株式会社)ー麻布区飯倉、知念武次郎(東京市厚生局)ー品川区下大崎、知念周章(栃元制作所)ー品川区東品川

津波古義正(小原光学株式会社)ー荏原区戸越町、津波古充計(東京府立第四中学校教諭)ー牛込区東五軒町、津波古正雄(東京本廠)ー荏原区戸越町、津嘉山朝弘(本所区菊川小学校)、津嘉山浩(荏原区延山小学校)ー荏原区中延町、津波富永(東海鉛管株式会社)ー荏原区戸越町、津堅房永ー横浜市鶴見区豊岡町、鶴初太郎(沖縄物産斡旋所長)ー淀橋区柏木、辻野誠一(旅館業)ー横浜市中区花咲町

照屋林仁(泡盛商)ー目黒区上目黒、照屋健六-芝区三田豊岡町、照屋南岸ー品川区大井小神町、照屋林明ー京橋区月島東仲通、照屋哲郎(東京ライト工業社)ー世田谷区世田谷、照屋清昌ー杉並区阿佐ヶ谷

渡口精鴻(医学博士・渡口研究所)ー蒲田区本蒲田、渡口精秀(医学博士・渡口研究所)、渡口精眞(東京市技師)ー渋谷区幡ヶ谷本町、渡口精勤(医師)ー蒲田区新宿、渡口政信(警視庁)ー京橋区新佃島東町、渡名喜守定(海軍中佐)ー中野区江古田町、渡名喜守雄ー豊島区駒込、渡嘉敷眞順(本郷元町小学校)ー豊島区千早町、渡嘉敷昧球ー荏原区戸越町、當山寛(弁護士)ー小石川区宮下町、當山武久(小原光学株式会社)ー荏原区下神明町

當山清香ー淀橋区戸塚町、當間恵栄(錦城中学生徒監長)ー川崎市生田、當間嗣珍(京橋郵便局)ー深川区古石場町、當眞正二(海軍省航空本部)ー芝区桜田町、當銘盛蒲ー目黒区下目黒、富盛寛孟(赤坂小学校)、富原守摸(深川区扇橋小学校)、友寄喜仁(弁護士)ー板橋区中新井、友寄英勝(目黒月光小学校)ー目黒区富士見台、友寄隆徳(東京市電気局)ー本郷区駒込神明町、友寄英成(東京地方専売局我孫子販売所長)ー千葉県我孫子、徳田安貞(本郷区昭和小学校)-豊島区長崎南町、徳田耕作ー杉並区阿佐ヶ谷、徳永朝益(西多摩郡南檜原小学校)ー西多摩郡檜原村、徳永盛和(東京地方専売局)ー浅草区三筋町、遠山眞信ー麻布区新綱町、豊川善包(本所牛島小学校)ー向島区寺島町、飛岡正信(陸軍省)、桃原昌一(東京市水道局)

仲原善忠(成城高等学校教授)ー世田谷区祖師谷、仲原善徳ー世田谷区祖師谷、仲宗根玄愷(昭和生命保健相互会社常務取締役)ー中野区桜山、仲宗根玄康(東京市厚生局)ー滝野川区滝野川町、仲里文英(世田谷区多聞小学校)、仲村常樽(台東小学校)ー淀橋区東大久保町、仲村専義(建築設計業)ー下谷区入谷町、仲本盛行(東京市財務局主税課)ー京橋区新佃島東町、仲本朝愛ー本郷区田町・喜久村方、仲本吉一郎ー渋谷区神山町、仲本宗厚ー渋谷区幡ヶ谷本町、仲本川原ー大森区久ヶ原、仲本徳英ー本郷区駒込千駄木町、仲田多聞ー荏原区羽田町麹谷、仲田新雄ー渋谷区笹塚町、仲尾次清正(東京憲兵隊本部)ー麹町区竹平町、仲井間宗一(文部参与官)ー麹町区平川町、仲井間宗祐(税務懇話会)ー滝野川区上中里町、仲吉良光(東京日々新聞記者)ー横浜市鶴見区鶴見町、仲村渠直和(市ヶ谷刑務所勤務)、仲野廉松ー世田谷区太子堂町

仲兼久長太郎(東京地方専売局蔵前分工場)ー江戸川区小岩町、仲地唯一(東京市電気局)ー渋谷区代々木初台、仲松弥男(荒川区第五峡田小学校)、長嶺善進(糧秣廠)ー下谷区上根岸、長嶺晃(城東区第一亀戸小学校)、長嶺朝昭(東京地方専売局)、長嶺朝英(川越税務署)ー川越市宮下町、長嶺将繁(尚侯爵家勤務)ー渋谷区南平台、名護朝徳ー荏原区荏原町、名城政教(日本起重機製作所)ー蒲田区糀谷、名城嗣亨(京橋月島第三小学校)ー京橋区月島東河岸町通、長嶺亀助(陸軍少将、軍需会社顧問)ー神奈川県茅ヶ崎、長濱三郎(大森区馬込第一小学校)ー大森区馬込町東、名嘉山徳温(東京市財務局会計課)ー板橋区上板橋、長濱眞詳(石神井西小学校)ー中野区新井町、永島可昌(下谷区竹町小学校)、名嘉繁雄(南武鉄道株式会社技術課)ー品川区北品川町、永井長雄(東京市総務局)ー中野区桜山町

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 
1975年11月『青い海』№48 知念政光(琉装史研究者)「ルポ・東京周辺の沖縄芸能」/大阪『青い海』編集室に遊びに来ていた琉装の知念氏から『沖縄と三里塚』を購入し「30歳お目出とう!」と署名してもらった。梅田界隈を案内した。

1975年11月『青い海』№48<沖縄の芸能ー舞踊と音楽>□宮城能造「よもやま芸談」、関西版『仲村米子舞踊研究所第一回発表会、松葉舞踊研究所が五周年記念公演、川田琉球舞踊団として初の関西公演、儀間比呂志新作版画展開かれる」、仲村喬次「武下和平ー島人の心意気を唄う(略)初心が忘れられていくのはテレビの流行歌手たちを見るまでもない。人の心を打たなくなった民謡は、もはや(しまうた)の生命を絶ったもひとしい。」、知念正光(琉装史研究者)「ルポ・東京周辺の沖縄芸能」、崎山任「三味線音楽とアカインコの業績」、「渡嘉敷守良・ある俳優の記録ー芸談、組踊の型」、伊礼正栄「関西の中の沖縄芸能ー悲愴な使命感で、”失われた沖縄”にかわって、ふるさとの伝統と文化を守ろうとした本土の県人たち」

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