Archives

You are currently viewing archive for April 2018
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com



2018-3-31 ひより、初めての写真撮影


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
2003年10月11日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑧當間清弘」

郷土史へ導いてくれた當間清弘氏
母方の伯父や伯母の連れ合いが奄美大島の出身だから、小学生のころから奄美大島は琉球の一部だと理解していた。父・三郎の出会いはちょっと違っていた。1947年、父が那覇の栄町「栄亭」のコック長のとき、用心棒代を店に要求にきた大島ヤクザに立腹し包丁で一人の鼻先を削いでしまった。父はグループの報復を恐れ糸満の親戚の所に身を隠した。翌年に生まれた私の名前の「栄」は、栄町からも来ている。

名瀬市は1972年前後3回、訪ねたが図書館はいつも休館日。だから島尾敏雄とついに出会うこともなかった。しかし、私にとってそれに匹敵する出会いが山下欣一氏だった。氏の『奄美のシャーマニズム』はもう古典的存在である。私も義母がユタをしていたので、それにまつわる話には関心がある。氏が私に資料を贈る義理は無いが気を使ってくださる。

喜納緑村『琉球昔噺集』を発行した三元社の萩原正徳が奄美関係者らしいと前々から気になっていた。山下氏に問い合わせると家系図、『道之島通信』、『定本・柳田國男集』の月報などの資料をたくさん贈ってこられた。緑村は1930年に『沖縄童話集第一編ー犬と猫』(津嘉山栄興挿絵)を神山青巧堂印刷で刊行した。印刷者の神山邦彦は久米蔡氏で元警察官、戦後『辻情史』をまとめ発行し1977年83歳で亡くなった。


當間清弘
小学4年のころ、首里の琉潭池側の琉球政府立博物館へ「首里那覇港図」をよく見にいった。博物館の入口付近に「三ツ星印刷所」(1926年に辻町で昭和石版として開業)がある。その売店に『毛姓系図家譜』『組踊全集』などが並んでいた。中を覗き「筑登之」「○王」など読めない字に悩んでいると、主人の當間清弘氏が買いもしない子供に読み方を教えてくれた。氏は1968年に80歳で亡くなった。


「昭和初期の那覇絵地図」(昭和石版印刷所 辻町3ノ70)


「首里那覇鳥瞰図」氏作成





□8月 『琉球古典組踊全集』當間清弘(三ツ星印刷所)→左の本・1965年9月『沖縄郷土古典芸能 組踊全集』
null

沖縄県立博物館の裏手に「みどり印刷」がある。開業したのは石川逢正氏で、氏はミルクイシチャーと呼ばれる一門の家に生まれた。1955年に開業した当初は首里バスの切符、伝票、名刺などを印刷していた。石川氏は戦前、嘉味田朝春の向春印刷所から始まって戦後は新聞などを印刷していた中丸印刷所を経て独立。今は、息子の石川和男氏が業務をこなす。



» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 真栄里泰山の「はがきエッセイ」№20□ひや!ひや!ひやひやひや!ひやみかちうきり、ひやみかちうきり」の「ひやみかち節」。この歌が出ると心は浮き浮き、誰もが座っておれなくなる。三線の力強いリズムといい歌詞といい、うちなーんちゅの魂のそのもののような歌である。1948年、山内盛彬作曲によるこの歌は、沖縄戦で廃墟となり、米軍統治下におかれ失意のうちにあった沖縄の人々を励ました名歌である。「名に立ちゅる沖縄 宝島でむぬ 心うち合わち うたちみしょり」、「七転び転で、ひやみかち起きて わしたこの沖縄 世界に知らさ」の歌詞は、沖縄の自由民権運動の父・謝花昇の同志で熱血漢の平良新助の作だ。私たちの世代は「腕を組み歌おう 喜びの歌を 僕らみな明るい日本の子、沖縄の子」と歌ったが、それは当時、沖縄教職員会が替え歌にしたものだろう。「ひやみかち節」は沖縄の復帰運動を鼓舞した歌でもあった。

その「ひやみかち節」の歌碑が、山内盛彬翁(1890年~1986年)の生誕120年を記念して、翁夫婦が晩年を過ごし琉球音楽普及の拠点であった沖縄市の社会福祉法人緑樹苑の中庭に建立された。去る3月27日の除幕式では、おもろ主取家の安仁屋眞昭が思い出を語り、首里クェーナ保存会による「あがり世」、山内翁から直伝された「せーぐぁー」こと登川誠仁の歌三線、バンド演奏、踊りなどいろいろなバージョンで「ひやみかち節」が披露された。琉球王朝禮学の復活伝承に生涯をささげた山内翁にふさわしい会であった。

琉球王国の滅亡後、日本の近代教育は皇民化を第一とし、うちなー口はじめ琉球の文化風俗を蔑視し撲滅した。そうしたなかで、沖縄の文化を守るため使命感を持って苦闘した先人達がおられた。おもろと沖縄学の父・伊波普猷はよく知られているが、琉球王朝の御座楽、路次楽、おもろをはじめノロのウムイ、クェーナなどの歌謡を五線譜に採集し、世界に通ずる音楽として広め紹介したのが山内盛彬翁である。翁の祖父盛憙から受け継いだ伝統音楽と西洋音楽の技量を合わせ持ち、秘伝のくえーな「あがり世」などは床下にもぐりこんで採譜したという、沖縄歌謡保存にかけたその烈々たる情熱は、今度の歌碑に刻された翁の「滅びゆく文化 忍で忍ばれめ もち(自費)と命かけて 譜文に遺さ」という歌に込められている。

沖縄音楽というと、大方は宮良長包の数々の名曲を思い浮かべるだろうが、今回の「ひやみかち節」歌碑建立を機に、山内盛彬翁の業績をあらためて見直したいものである。「ひやみかち節」は平和とやさしさ、そして沖縄の誇りを歌った沖縄県民の歌ともいうべき永遠の名歌名曲である。
「花や咲き美さ 音楽や鳴り美さ 聴かさなや世界に 音楽の手並み」(盛彬)(2011年4月10日)
◎YouTube 沖縄民謡「ひやみかち節」登川誠仁、他


1912年10月1日 『沖縄毎日新聞』山内盛彬「琉球音楽の実地的研究(2)」

1925年5月15日 『沖縄タイムス』山内盛彬「末吉麦門冬氏遺稿『三味線渡来説に就て』」
null
null
null


1959年4月 山内盛彬『琉球の音楽芸能史』民族芸能全集刊行会

2月11日「はがきエッセイ」№11
 上山中学校3年生の孔子廟参拝で講話をした。学問の神様・孔子様への学業成就祈の願願を兼ねた学校周辺の歴史・文化のユニークなふるさと学習だ。人類の教師として釈迦、孔子、ソクラテス、キリストを紹介し、その4聖人がそれまで弱肉強食で平気でいた人間に初めて人間の愛、人間性を説き教えたこと。仁義礼智信の人間学儒学は中国、韓国、台湾、日本、沖縄、ベトナムで国学となり、ほぼ共通の道徳となっていること。鄭順則など沖縄の儒学は当時の最先端だったことなどを話した。話しながら、ふと今の政治や指導者をこの若者たちはどう感じているのか気になった。基地問題での沖縄に対する民主党政権の傲慢なふるまい、地元名護市長を無視した礼節を欠いた行動、中国の尖閣問題、北方領土のロシアなど、力にまかせた大国主義政治の横行等々。今、本当に必要な道徳教育、経世済民の徳治主義の政治教育はこれら指導者たちにこそ必要ではと思った次第。

null
(上)1998年 粟国島「むんじゅる節之碑」の前で、中央が伯父・玉寄貞夫(撮影・新城栄徳)

(中)1999年2月 沖縄県立博物館で、左から新城安善氏、新城栄徳、當間一郎館長

(下)2003年5月 眞喜志康忠宅で、左から平良リエ子さん、康忠さん。後左、新城栄徳、眞喜志康徳さん(撮影・平良次子)。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

古美術なるみ堂の翁長良明さんのところで城間恒有発行の書物を見た。一部だけなので発行年が分からない。国会図書館には『工工四』城間恒有 [作] ; 松村真信 [編], 楽声会, [昭和8]があるが同じものだろうか。

写真ー前列右端が城間恒有、後方に池宮喜輝。城間については池宮喜輝『琉球芸能教範』月刊沖縄社に詳しい。/翁長氏愛蔵の「志堅原比屋の三線」

1915年8月30日『琉球新報』「琉歌吹込みを聞くー1昨日から石門通り森楽器店主の主催とせる琉球音楽奨励会のレコード吹込みを奥武山公園内城間氏別荘でやっているが昨日吹込みを為すべき音楽家は首里から高江洲氏那覇から城間、伊差川、我謝、池宮城喜輝の諸氏であったー」

1915年9月3日『琉球新報』広告「空前の大提供ー本県家庭の大福音/琉球歌と蓄音器」
null
1915年9月3日『琉球新報』「琉歌レコード仕上ー森宗次郎、仝仲太郎、山口全則主催の琉歌レコードは去る31日までに吹込みを終了し1昨日技師等は是を携え上阪せるが該レコードの仕上は多分9月下旬ならんー」
null
毛氏古堅盛珍は亀川殿内2代の支流平安名親雲上の長男、1852年生まれ。父の役をつぎ平安名の脇地頭、後読谷山古堅の脇地頭。18歳の頃、弦声の道を安室親雲上に学ぶ。次男盛保。1920年没。1915年、城間恒有別荘でコロンビアレコードに辺野喜節を吹き込む。金武良仁は述懐節を吹き込む。



null
null
null
null
池宮喜輝と東恩納寛惇

□池宮喜輝(73)は琉球音楽と仏教の声明(ショーミョウ。補助楽器を用いない声楽)念仏と琉球古典曲との関係を探求した。高野山大学で中山僧正に琉球古典曲「十七,八節」を歌三味線で紹介したら「これは比叡山の天台声明にちかい」との話で、さっそく同僧正の紹介状をもって比叡山に行き、比叡山音律研究所の教授・中川僧正に会い古典曲「十七、八節」を聞かせたら「この曲は、音律、節回しなど声明と密接な関係がある」といわれた。弘法大師時代にできた声明(浄土声明その他)が袋中上人の時代に琉球の風土に移植され、さらに湛水親方によって、古典曲としての面目があたえられたと、池宮は見ているのである。

1987年1月 池宮喜輝『琉球芸能教範』月刊沖縄社
池宮は15歳の頃に空手を赤畑の安座間の島袋という人物の自宅に通い習った。同門に山城正沢、宮里良栄とか、田頭、渡口といった弟子が6,7名だった。後に西の東恩納先生に弟子入りした。その時の相弟子に宮城長順、許田重発や首里の島袋がいた。


池宮喜輝の墓、中央に世界漫遊記念碑→識名


池宮喜輝「東京での沖縄芸能保存会」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1972年2月号『青い海』10号 「若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」

1972年1月ー『青い海』10号□若者が集う「沖縄関係資料室」の西平守晴氏宅ー西平沖縄関係資料室主宰「柳宗悦という人を皆さんもよく知っていると思う。沖縄の民芸を高く評価した人だが、その人が昭和14年に書いた『琉球の富』の序に次のような言葉がある。<人々は今まで余りにも暗い沖縄を語り過ぎていたのです。私たちは優れた沖縄を語りたいのです。それは私達を明るくし島の人々を明るくさせるでしよう。私達は実に多くの富に就いて語り合いたいのです。沖縄に就いて歎く人々のために、又この島に就いて誤った考えを抱く人々のために、又自国を余りにも卑下して考える土地の人々のために、そうして真理を愛する凡ての人々のために、この一文が役立つことを望んで止まないのです。> この30年も前の文章が、私の今の気持ちを言い当てています。-」
□ここで資料の内容の一部を紹介しよう。開設当時200冊足らずだった書籍・雑誌は、現在約3200冊。新聞や週刊誌などのスクラップが300冊。沖縄に関する資料については、関西隋一と言われる。▽人物関係ー「謝花昇伝」「平良辰雄回顧録」「伊波普猷選集」などの伝記、回顧録、全集もの。▽市町村関係ー「北谷村誌」「南大東村誌」 比嘉景常「久米島紀行」など。▽歴史関係ー「沖縄県史」(直接主席から贈呈される。関西では天理図書館と資料室ぐらいだろうとの話) 「琉球建築」 田代安定「沖縄結縄考」 金城朝永「異態習俗考」や戦史・戦記もの。▽文芸関係ー「山之口貘詩集」「新沖縄文学」や大城立裕、石野径一郎、霜田正次、石川文一などの諸作品。▽芸能関係ー「組踊大観」「工工四」など。▽政府刊行物ー「立法院議事録」 白書類。▽ミニコミー「沖縄差別」「石の声」「沖縄月報」「寮友」「琉大文学」や本土各大学の県学生会の機関誌・パンフなど。▽地図ー「首里古地図」その他。これらの資料を整理したり、購入したり目録をつくるなど、一人でするにはたいへんな仕事である。西平守晴さんは保育園の仕事もあり忙しいので、現在もっぱら新城栄徳君(23)が動きまわっている。
null
null
1972年6月の『豊川忠進先生の長寿を祝う会』では、沖縄の又吉真三氏から文化財の碑文の拓本を借りて展示して参加者を感動させ、平良盛吉翁らを豊川氏の隣りに座らせて感激させた。」
 1984年2月24日『琉球新報』「アシャギー新城栄徳『琉文手帖』で資料紹介」/3月17日『琉球新報』「さし絵人生40年ー金城安太郎さん」/『琉文手帖』「日本画家・金城安太郎」/5月『青い海』「新刊案内ー『琉文手帖』「日本画家・金城安太郎」


6月23日『朝日新聞』(大阪版)「沖縄のこころを本土にー大阪の西平守晴さん」

8月14日『毎日新聞』(大阪版)「反戦平和へ遍路10年ー沖縄出身の西平守晴さん」

9月10日、沖縄協会機関紙『沖縄』「21世紀へはばたけ沖縄青年ー新城栄徳さん」/12月7日『琉球新報』「俳人・末吉麦門冬が没して60年」/12月、『琉文手帖』2号「文人・末吉麦門冬」


1985年5月23日『沖縄タイムス』「30周年を迎える沖縄資料室ー大阪・西平守晴さんの個人文庫」

nullnull
1988年11月 史海同人『史海』№6 新城栄徳「関西と沖縄」



10月11日『琉球新報』「駅前広場ー西平守晴さん」/10月31日『沖縄タイムス』「自宅に沖縄関係資料室ー石垣出身の西平守晴さん」/11月6日『朝日新聞』(大阪版)「自宅を改造して沖縄を学ぶ拠点にー大阪の西平守晴さん」/11月、『琉文手帖』3号「歌人・山城正忠」/12月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』「琉文手帖『歌人・山城正忠』を読む」



1986年1月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』「此処に人ありー新城栄徳さん」/4月15日『沖縄タイムス』「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号はガリ版刷りー新城栄徳さんが確認」/12月、沖縄県歌会『金真弓』新城栄徳「沖縄近代美術の流れと文学」/12月、『北谷町史』第2巻「争議にともなう財産調書」(新城栄徳寄贈)

1987年4月25日『琉球新報』「われらウチナンチュー西平守晴さん」/5月『新生美術』新城栄徳「浦崎永錫画伯美術史を語る」/9月、沖縄県立博物館「特別展・沖縄近代の絵画」(新城栄徳協力)

1987年6月 大阪沖縄県人会連合会40周年記念誌『雄飛ー大阪の沖縄』西平守晴「就学前教育と児童福祉」「沖縄関係資料室」

1987年9月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』新城栄徳「人物・沖縄近代美術略史」/10月1日『琉球新報』「明治の沖縄の画家一堂にー東京の島袋和幸さんが見つけ、新城栄徳さんが人物確認」

1988年2月19日『週刊レキオ』「先人の足跡を残したいー新城栄徳さん」/4月、緑林堂『琉球弧文献目録』新城栄徳「沖縄出版史ノート(戦前篇)」/6月『新沖縄文学』№76□新城栄徳「近代沖縄の新聞人群像」/7月4日『琉球新報』「首里那覇鳥瞰図の作者は阿嘉宗教ー新城栄徳さんが確認」/9月、南風原永育『南の島の新聞人』ひるぎ社(新城栄徳資料提供)/11月『史海』№6□新城栄徳「関西と沖縄」

1989年4月18日『沖縄タイムス』「神山宗勲の小説『闘へる沖縄人』、新城栄徳さんが見つける」
7月、西平守晴、琉球新報の落ち穂を担当






10月、沖縄県立図書館「沖縄の同人誌展」(新城栄徳協力)/11月、『沖縄美術全集』(辞典・年表・文献委員ー新城栄徳)/11月30日『琉球新報』「琉球新報初代主筆『野間像』鮮明にー新城栄徳さんが見つける」/12月2日『琉球新報』「金口木舌ー新城栄徳と野間五造」

null

(上)1996年12月7日/大阪・大正駅前「居酒屋ゆんた」で、左から金城勇(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、息子、諸見里芳美(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、仲間恵子(大阪人権博物館学芸員)、崎浜盛喜(奈良沖縄県人会副会長)、右端がゆんた主人の玉城利則(関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」初代会長。1981年、『ハイサイおきなわ』編集人、発行人は嘉手川重義(現大阪沖縄県人会連合会長)と夫人、真ん中の女性はお客さん。撮影・新城栄徳/(下)1996年12月8日/大阪港区・池島保育園(近鉄の野茂英雄投手も同園出身)階上で、左より西平久子、西平守晴夫妻、娘、後に息子。撮影・新城栄徳

nullnull
1972年5月13日ー大阪『日本経済新聞』「民芸品・図書を守ろうー都島の『沖縄資料室』」
1973年5月14日ー大阪『朝日新聞』「守れ!沖縄の心と自然ー埋もれた文化掘起す」

平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」
null
null
沖縄関係資料室の内部(西平守晴と司馬遼太郎)




null
1962年、真喜志康忠優の関西公演のとき京都五条坂の河井寛次郎からの招待を受け西平守晴(沖縄関係資料室主宰)の案内で訪ねる。帰り河井作品を貰ったのは言うまでもない。
写真は左から西平守晴、真喜志康忠夫妻、河井寛次郎夫妻


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
「くろねこの短語」2018年4月19日ー(前略) で、テレビ朝日は「外部に取材情報が流れたのは不適切」なんてことも言っているんだが、そうせざるを得なくしたのは自社の体制に問題があったんだから、そこをもって女性記者を責めるのは筋違いというものだろう。逆に、そんな社内環境をつくったことを反省して記者に謝罪すること。そして、今後はどのようにしてセクハラなどの告発に真摯に対応する社内環境を構築していくか。そこをちゃんと説明すべきだろう。
 財務省の記者クラブ「財政研究会」も抗議文を出したようだけど対応が遅いよね。おそらく、今回のリークを快く思わない村意識みたいなものもあったんじゃないのか。加盟24社のうち4社が抗議文提出に関する議決を棄権したっていうのがそのあたりを物語っている。そのうちの1社が日本経済新聞だそうで、「今回の案件は個社で対応するべき問題だと考えます」だとさ。「リークした記者を出せ」ってメディア全体が恫喝されてるに、「個別の案件」とはねえ。日経に被害者はいないのか、いたとしても握りつぶしてんじゃないのか・・・なんて妄想もしたくなろうというものだ。
 オッパイ次官だけでなく、「名乗らなかったらセクハラとは認めない」ってひとでなし発言していたひょっとこ麻生もこれで進退極まってくるのは間違いないから、ゴールデンウィーク前後に大きな動きがあるかもね。
 テレビ朝日に続いて続々と告発の声が上がったら、もっと面白いことになるのだが・・・。
 話変わって、統幕の幹部自衛官による野党議員への暴言なんだが、防衛大臣のパソナ小野寺君が「若い隊員でさまざまな思いもあり、国民の一人であるので当然思うことはある」って弁護するようなこと口にしたってね。こんなんだからシビリアンコントロールが利かなくなってくるんだよ。「内心の自由」って問題にすり替えてるんだね、この発言は。
 東京新聞「筆洗」が「作家の永井荷風が軍国主義に染まっていく世の中の変化について書いている。『際立って世の中の変わりだした』のはいつか。それは『霞が関三年坂のお屋敷で白昼に人が殺された』あたりからだろうという」と犬養首相が暗殺された五・一五事件との類似性を指摘している。「後になってあれが時代の変わり目だったと考え込んでみても遅い」。まさにおっしゃる通りです。
 最後に、「朝鮮戦争終結宣言の可能性」があるとか。沖縄の米軍は朝鮮半島有事を想定してのものでもあるから、そうなると日米関係も大きく動き出すかも。朝鮮半島の危機を煽ることで政権延命の一助としてきたペテン総理は、さぞかしお腹痛くて寝苦しい夜がづいていることだろう。

「くろねこの短語」2018年4月18日ー私人の嫁と記憶喪失の疑惑官僚をお供に、ペテン総理は朝貢外交でアメリカへと逃げ出した。トランプとの会談では、北朝鮮の拉致問題はアメリカ人救出が先だと釘を刺されたなんて話もチラホラ。果たしてどんな見返りを要求されることやら。そんなことより、ひょっとこ麻生だ。おっぱい福田君のセクハラで、昨日は言いたい放題。その映像が嫌というほどTVで流れ、そのたびに殺意を覚えるという危険な1日だった。しかしまあ、「ひとでなし」って言葉がこれほど似合うジジイもそうはいない。薄ら笑い浮かべながら記者の質問に答える様なんか反吐が出そうでしたよ。なかでも殴りたくなったのが、「財務省の顧問弁護士に調査を依頼しているのは公平性に欠けるのでは」という質問へのこの発言だ。
「どうすればいいってわけ。公募しろってわけですか。具体的なこと言え」
 最後の「具体的なこと言え」でプッツンしちまった。「公平性に欠けるのでは」って聞かれてることには答えないで、何様のつもりだ。さらに、こなことも口走っている。
「全然付き合いのない弁護士さんにお願いしますって話ができますかねえ。もうちょっと常識的な話しようや」常識のない奴に常識を語られてもねえ。品性下劣で無教養な男が何を言うか、ってなもんです。セクハラ受けた女性記者は日テレ関係らしいという噂があるが、こうなったら社を上げてひょっとこ麻生と財務省に宣戦布告するべきだろう。そしてまた、記者クラブもここまで舐めた真似されてるんだから、一丸となって戦うべきだろう。でないと、あなた方が書く記事は、今後一切の説得力を失うことになりますよ。
 ところで、日報隠蔽が糾弾される中、なんと統合幕僚本部の三等陸佐が、ジョギング中の民進党・小西議員に「お前は国民の敵だ」と執拗に罵ったってね。これは凄いことですよ。国会議員に向かって「国民の敵」って罵声浴びせたってことは、そのバックにいる国民を罵倒したのと同じですからね。防衛大臣のパソナ小野寺君と統合幕僚長が陳謝してたっていうけど、「ごめん」ですむことではない。
 落合洋司弁護士が「右翼も左翼も、老若男女も、皆、守るべき国民。国民を敵と味方に分け、敵を罵るような自衛官は、戦後日本が目指してきたもの、あるべき自衛隊の姿の対極にあるものだろう」とツートしているけど、まさに国会場院への暴言はクーデーみたいなもんでよ、ったく。
右翼も左翼も、老若男女も、皆、守るべき国民。国民を敵と味方に分け、敵を罵るような自衛官は、戦後日本が目指してきたもの、あるべき自衛隊の姿の対極にあるものだろう。おそらく、この三等陸佐は小西君を待ち伏せしてたんだろうね。偶然なんてことはあり得ませんから。だからこそ怖い出来事なんだよね。こういうのを放置していると、そのうち「非国民」なんて言葉を平気で自衛官が口にする時代がやってくることになりますよ。・自衛隊の危機 01  ―なぜ、ネトウヨの浸透を許しているのか

「くろねこの短語」2018年4月17日ーさあ、何から文句垂れてやろう、ってくらい話題てんこ盛りの火曜の朝である。というわけで、まずは、自衛隊日報隠蔽から。なんと、ワンフレーズのご隠居・小泉君が総理時代の「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域」というスットコドッコイな答弁を覆す日報が見つかったってね。日報には「戦闘」も記載もあったそうで、当の本人は自分のところにはそうした情報は上がってこなかったってポンコツなコメントしてるようだが、それが事実ならそれこそ「シビリアンコントロール」がないがしろにされているわけで、とんてもない話なんだね。
 ポンコツとくれば、今治市の市長のボンコツさ加減も相当なものだ。常に目が泳いでいる首相秘書官の柳瀬君と市の職員が面談したであろう文書をこの期に及んでも非公開だとさ。その理由が「一緒に取り組んできた仲間に迷惑がかかる」ってんだから、意味わかんねえ。ていうか、これって情報の私物化だよね。「公文書は国民が共有する知的財産」ってことをまったく理解していないこんな市長に、今治市民のため息が聞こえてきそうだ。
 それにしても、法令違反はしていないってんなら、そもそも情報非公開する理由がわからん。常に目が泳いでいる首相秘書官が「記憶にない」って言い続けるのも同じだよね。やましいことがないならそんなに頑なに否定する必要はまったくありません。
 頑なな否定とくれば、その白眉が財務省のおっぱい次官・福田君だ。なんとまあ、セクハラを否定しただけでなく、女性記者に名乗り出ろだとさ。これについては江川紹子氏が「うちらの組織のトップのセクハラを調査するから、被害を受けた者は、うちら組織の顧問弁護士のところに名乗り出よ、悪いようにはしないから、と。財務省には、昭和のおっさんしかいないのか…」ってツイートしてるけど、おっしゃる通りです。
 ようするに、女性記者が名乗り出ないことを見越しての恫喝なんだろうが、それだけに悪質だ。しかも、週刊新潮を訴えるとも言っている。だったら、まずはネットに流れている音声の停止を求めるべきだろうに、それはしないんだね。本物だからです。
 おっぱい次官の恫喝まがいの文書ってのが財務省の名前で出ているのもひっかかる。これって財務省によるペテン総理への牽制じゃないのかねえ。佐川や迫田が何したかは知ってるぞ、って脅しですね。財務省だけを悪者にはさせない。おっぱい次官の首切ったら、ただじゃすみませんぜってところなんじゃないのか。
 公文書改竄も含めて、森友学園疑獄のすべてを知り尽くした男でもあるんだね、おっぱい次官は。ペテン総理へのこの揺さぶりは、ジンワリと利いてくるんじゃないのか。それにしても、どいつもこいつもロクなもんじゃありません。

「くろねこの短語」2018年4月16日ー断末魔のペテン総理は、訪米を前に横田さんを見舞ったってね。北朝鮮拉致問題をトランプに掛け合ってきますよ、っていうパフォーマンスしたってことだ。この男は、自分の政治生命を永らえさせるためなら、何だって利用しますからね。
 おそらく、トランプに北のカリアゲ君との会談をセッティングしてもらおうって魂胆があるんだろう。そのために大量の兵器購入を手土産にするんじゃないのかねえ。北朝鮮には1兆円の無償経済援助って寸法か!? いずれにしても、ゴルフしながら二人だけで話するそうだから、どんな無理難題を押しつけられることやら。
 そんなペテン総理の息の根を止めるように。日本テレビの世論調査で内閣支持率がとうとう30%を切って26.7%に下落。これでも高いとは思うけど、さすがに読売系のメディアでも下駄履かせるのが難しくなったってことだ。
 ついでに、「自民党の総裁に誰がふさわしいか」では、なんとまあ胡乱な目つきの進次郎がミリオタのアンポンタン石破君を抑えてトップなんだとか。目くそ鼻くそってわけね。


『しんぶん赤旗』4月15日
「くろねこの短語」2018年4月15日ー国会前集会に行ってきた。もの凄い人の波で、車道開放しないと危ないぞと思ってたら、第一部が終了した直後に警察のバリケードが崩壊。国会前に人が溢れたのであった。「徹底的に調査して全容を明らかにし、膿を出し切って、皆さまの信頼を得るために立て直していきたい。そのために全力を尽くしていきたい」というペテン総理のポンコツ発言を受けて、「膿はお前だ!」の大合唱が曇り空に響き渡ったのは痛快だった。
 でもって、趣向を凝らしたプラカードや幟がはためく中、「成蹊学園有志の会」の幟には思わず気分がホッコリ。主催者発表では5万人が参加したというが、ペテン政権の繰り出す乱暴狼藉にけっして虚無的になることなく、声を上げ続けることがペテン総理打倒に繋がるのだと改めて確認したのであった。ジャンジャン。
 ところで、加計学園疑獄なんだが、TBS『報道特集』によれば「愛媛県の職員が柳瀬秘書官の名刺を所持」してたってね。面談の際に名刺交換したものだとかで、噂では一緒に写メも撮っているとも囁かれているから、セクハラ事務次官の音声データ公開のようにどこかの週刊誌のスクープがあるかも。ワンフレーズのご隠居・小泉君が「記憶より記録」ってコメントしているが、常に目が泳いでいる柳瀬君はこれでイチコロなんじゃないのか。
 最後に、イギリス、フランスを引き連れてのアメリカによるシリア空爆だ。シリアが化学兵器を使ったという確たる証拠もなく、まさに調査団がシリア入りする寸前のタイミングでの攻撃は、「大量破壊兵器」を口実にしたイラク攻撃を彷彿とさせる。攻撃直前に、トランプは「ミサイルが行くぞ。洗練された高性能の新型だ」ってツイートしたそうだ。こういうTVゲーム感覚で戦争を仕掛ける大統領に、ペテン総理は「これ以上の事態の悪化を防ぐための措置だと理解する」だとさ。言ってろ、ってなもんです。

 「くろねこの短語」2018年4月13日ー「本件は、首相案件」文書について、愛媛県職員が事実関係を認めたそうで、常に目が泳いでいる柳瀬君は絶体絶命。これは読売新聞がのニュースなんだが、そう言えばペテン総理は「読売新聞に書いてあるから読んでくれ」って購読をすすめていたなあ。
 さらに、農水省からも同じ文書が見つかったとかで、愛媛県知事が他の省庁にもあるんじゃないかとコメントしていたことも裏付けられちゃいました。
 でもって、森友学園疑獄では、近畿財務局が航空局にゴミ撤去費用の増額を依頼していたことが発覚。何がなんでも8億円の値引きが至上命令だったその背景が見えてきたようで、加計学園疑獄とあわせて、ペテン総理の首がジンワリと絞められつつあるってことなんだね。
 航空局は国交省の管轄で、国交大臣は公明党の指定席。公明党も森友学園疑獄に連なっていることが、そろそろ暴露されるタイミングになったということでしょうか。これまでまるで他人事のような態度をとっていたけど、実は森友学園疑獄には大臣経験者の公明党幹部が関わっているんじゃないかと噂されてたんだよね。幹部って誰かって?・・・イラクで起きた日本人人質事件の時に、「自己責任」って喚いていたような・・・。(あくまでも個人の感想です)某都市銀行による森友学園への20億円融資に深く関わっているんじゃないかとも言われていて、20億円の一部は政界に流れたとも囁かれている。それほど森友学園の闇は深いってことです。
 森友学園疑獄の深い闇のひとつである文書改竄について、シュレッダー佐川君の立件を大阪地検特捜部が見送るようだ。だったら、「訴追の恐れがある」って言い訳きかなくなるから、もう一度国会に呼んで洗いざらい話してもらおうじゃないの。くそっ!
 ところで、予算委員会の集中審議で無能ぶりを発揮した2億円持ち出し疑惑の河村君なんだが、どうやら今治市職員が官邸を訪問した際に同席してたってね。なんだ、こいつも加計学園疑獄に関わっていたってことか。そんな奴が集中審議を差配してるんだもの、何をかいわんやなのだ。
 最後に、財務省事務次官のセクハラ騒動は、どうやら録音テープがあるってね。テープ公開される前に自ら責任とらないと、赤っ恥かくことになりますよ。ひょっとこ麻生もな!!
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2018年4月10日ー店主の田中保一氏、豊見山愛さん/麻姑山書房〒902-0061 沖縄県那覇市古島2-7-4 098-885-9612

豊見山さん購入1972-5-3~9大阪梅田・阪神百貨店で開催された朝日新聞社主催「沖縄を彫る 儀間比呂志版画展」展覧会の図録/1989年3月 儀間比呂志『新版画風土記 沖縄』海風社

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

儀間比呂志ー1967年11月『新沖縄文学』7号「理知的な人<追悼・安谷屋正義>『作家は死んでからが勝負だよ、儀間くん』といつか彼がもらした言葉がいまあらためて私の胸を打つ。」/1971年12月『新沖縄文学』21号「儀間比呂志版画集」/1974年10月『新沖縄文学』26号「表紙絵」/1975年2月『新沖縄文学』27号「表紙絵」/1975年11月『新沖縄文学』30号「土地に根ざした『心』


1976年9月 『山之口貘全集』第四巻 評論 思潮社 □「1960年6月『詩と版画・おきなわ』(新川明詩・儀間比呂志版画)序文」〇去年だったか、一昨年のことだったか丸の内で、儀間比呂志に逢ったことがある。話しっぷりがいかにもかれの作品から受けるものと似ていて深く印象に残っているが、作品も実物も共に肉体的精神が豊かで、人を元気づけるものがある。新川明には鹿児島でお世話になった。一昨年十一月、沖縄へ行く途中なのであったが、かれのところで四日ばかり御厄介になったのである。奥さんはお産のために留守だった。

1983年10月 新川明・儀間比呂志『詩画集 日本が見える』築地書館□1960年6月『詩と版画おきなわ』、1971年12月『新沖縄文学』21号「儀間比呂志版画集 詞章新川明」をもとに構成。島尾敏雄「沖縄が見える」。装幀・田村義也

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

儀間比呂志「空手」/屋部憲通書簡

 外間 哲弘(ほかま てつひろ)・沖縄剛柔流空手道・古武道 拳志會 宗家・体育学博士・沖縄剛柔流空手道・古武道 範士十段・世界レジストリー・オブ・ブラック・ベルト殿堂入り(2011年 アメリカ、2013年 オランダ)・沖縄県空手博物館 館長・書道家 外間洋山(雅号:外間峻岩)
 祖父の徳山盛健氏から空手を伝承し、比嘉世幸先生より剛柔流、又吉真豊先生・金城政和先生等より古武道、神長成佳先生より古流神道天心流を学ばれ、その後アメリカとミンダナオ大学にて 体育学(武道)博士を取得される。→(沖縄剛柔流拳志會神奈川支部)

【略歴】1944年 出生
1961年 比嘉世幸先生、又吉真豊先生等に師事
1978年 宮城長順①25周年追悼式(明治神宮)にて模範演武

1944年 ①宮城長順の葉書

1981年 国際親善空手道選手権大会にて模範演武
1984年 中国、沖縄交流武術大会沖縄代表
1987年 沖縄県空手道古武道歴史資料館設立
1989年 沖縄空手道剛柔会理事長就任
1992年 沖縄空手道協会より感謝状授与
1993年 米国国会より「空手道指導功績」表彰、フィンランド国陸軍より「空手の感謝状」授与
1994年 近畿大学豊岡短期大学にて空手・古武道の非常勤講師(1996年まで)
1996年 琉球国技・空手術発祥之碑設立
1997年 第一回カナダ国北方空手道連盟にて又吉真豊先生と模範演武
1998年 沖縄県文化協会長賞受賞             

大城政明氏、具志弘樹氏、外間哲弘氏/外間哲弘氏、新城栄徳、大城政明氏



空手普及、空手博物館の創設などの功績で沖縄県議会からの特別功労賞/摩文仁賢和 まぶにけんわ、1889年(明治22年)11月14日 - 1952年(昭和27年)5月23日)は、沖縄県出身の空手家。空手の四大流派のひとつである糸東流の開祖。夏氏の元祖越来親方賢雄(俗に鬼大城)の末裔。外間哲弘氏も夏氏である。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1966年7月 沖縄タイムスホール「第5回 儀間比呂志個展」 宮本常一「限りない郷土への愛」

宮本常一 1907(明治40)年〜1981(昭和56)年
 1907(明治40)年、大島郡家室西方村(現 周防大島町)で生まれました。大阪府天王寺師範学校を卒業後、小学校の教員となったころから民俗学への関心を深め、民俗学者・柳田國男の指導を受けました。1939(昭和14)年、渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアム(現神奈川大学日本常民文化研究所)の研究員となります。以後、全国の離島や農山漁村などを訪ね、特に「歩く・見る・聞く」ことを大事にしながら地域の人々と語らい、記録し、生活の移り変わりを明らかにしました。
 常一は「暮らしの中の工夫こそが文化」と考え、周防大島では、常一の呼び掛けで生活文化の継承を目的に、失われ始めていた民具が集められ、それらは「久賀の諸職用具」「周防大島東部の生産用具」として国の重要有形民俗文化財に指定されました。また、周防猿まわしの復活を支えたほか、離島振興法の成立に力を尽くし、離島でも水道や電気が使えるようになりました。日本観光文化研究所所長、武蔵野美術大学教授などを務め、満73歳で亡くなりました。→山口県の先人たち


1974年 儀間比呂志『沖縄風物版画集』 限定600 岩崎書店〇宮本常一「ふるさとを背負った仕事ー儀間氏の版画と沖縄」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2001年10月 儀間比呂志・神谷良昌『絵物語 琉球に上陸したジョン万次郎』沖縄タイムス社

写真右から神谷良昌氏、儀間比呂志氏、オーストラリアのカイリー・クラークさん




○ジョン万次郎の子孫が来県するのは初めて。万次郎から四代目の中濱博さん(73)=愛知県=は「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている。来ることができてとてもうれしい」と感激した表情で語り、高安家五代目の高安亀平さん(72)も「感無量だ」と喜んだ。万次郎は糸満市大度に上陸。琉球王府により、翁長の親雲上(ぺーちん)だった高安家に約5カ月間、収容された。外出は禁じられていたが、夜は地域住民と交流し、綱引きなどにも参加したとされる。→(『琉球新報』2002-5-12)/写真左から新城栄徳、儀間比呂志氏、高安亀平氏

□中浜万次郎の話ー高安公造氏(71歳)は祖父より聞いたとして次のように語れり
1、万次郎は約半年沖縄に滞在せりと、即ち正月に来り7月に去れり 1、大和人なることは彼等も知れり、土佐人と知れり 翁長の当銘三郎氏の話  1、宿屋は屋号徳門であって当時万次郎が使用したステッキも今に残っているそうだ。徳門の老婆は90歳位であるがその人の話ー言葉も始めは通じなかったが後ではよく通じて諧謔もやるようになった。→眞境名安興「笑古漫筆」

1851年2月 ジョン万次郎、琉球上陸
 同年4月、アメリカ合衆国とメキシコが国境を決定。5月にはイギリスで第一回のロンドン万国博覧会が開かれ、フランスでは12月、ルイ・ナポレオンがクーデター

   
1851年2月 ジョン万次郎、琉球(大度浜)上陸
『球陽 附巻四』〇尚泰王 四年正月初三日、日本土佐国人有りて、杉板に坐駕して摩文仁群小渡村に来到す。此の日、土佐国人三名有りて、杉板一隻に坐駕し小渡村の浜に到る。随ひて来歴を問ふに即ち云ふ、上届丑年正月初五日、我等小船に坐駕し、海に出でて釣魚するの時、陡に暴風に遇ひ、風に随ひて漂流し、経に七日を歴て、纔に辰方無人島に到りて擱礁撃砕し、上岸活命す。該島は、物の食すべき無く擒へて衆鳥を食し、聊か餓莩を免かる。六月に到り、亜米理幹国の討鯨船一隻、該島洋面を駛過するを見る。即ち其の船を招来して、性命を救ふを請ひ、該船に塔駕して、西洋  (略)只万次郎一人頗る亜米理幹文字を知る有り等語と。本年七月、本国に駐箚する倭官四員の離任して回国するの便有るに逢ふ。其れをして接護回籍せしむ。

   
   
ジョン万次郎が上陸した大度浜の宿道

□1851年ージョン万次郎達は、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩や江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。嘉永5年(1852年)に河田小龍が取り調べ報告書「漂巽紀略」を書く。その際に開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩主・島津斉彬がその英語・造船知識に注目した。これが縁で薩摩藩の洋学校(開成所)で英語の講師をしているほか、和洋折衷船の越通船建造にも知識を活用されている。→(ウィキペディア)■儀間比呂志『琉球に上陸したジョン万次郎』(2001-10沖縄タイムス社)

①ジョン万次郎

ジョン万次郎資料館=住所: 高知県土佐清水市養老303 海の駅あしずり 電話:0880-82-3155
日本初の国際人「ジョン万次郎」の足跡。中ノ浜村(現土佐清水市中浜)に漁師の子として生まれ、後に日本人として初めて渡米。帰国後、アメリカで学んだ文化や思想を伝え、龍馬などに多大な影響を与えたジョン万次郎。その生涯を映像やジオラマなどで紹介しており、万次郎直筆の英文字など、万次郎にまつわる様々な史料を展示している。(島袋和幸氏撮影)→島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)2016年5月25日『沖縄の軌跡』第171号「琉球に上陸した{ジョン万次郎}」

雑司ヶ谷霊園 ジョン万次郎墓、「中濱萬次郎記念碑」ー島袋和幸氏撮影


1929年1月15日『沖縄朝日新聞』「島尻郡摩文仁に上陸した幕末の風雲児 中濱万次郎の生涯」


1932年3月『沖縄朝日新聞』山城正忠「戯曲『中濱萬次郎』に就いて」



1991年12月 長田亮一『ジョン万次郎物語』沖縄県ジョン万次郎を語る会/1971年12月 石井研堂『異国漂流奇譚集』(1927年 初版)新人物往来社

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2000年4月 儀間比呂志『沖縄の鳥人 飛びアンリー』海風社



出版祝賀会案内状/2000年4月13日『琉球新報』新城栄徳「儀間比呂志と沖縄の文化」



平良次子さん、新城さやか


儀間版画カレンダー「南西航空1980」

田園書房 南風原店「儀間比呂志先生サイン会」/儀間版画カレンダー「琉球銀行1991・沖縄銀行2002」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1957年5月『新日本文学』儀間比呂志(表紙絵)/1957年11月『新日本文学』山之口貘「沖縄島の霜多正次」


1970年4月 霜多正次『虜囚の哭』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)


1971年1月 霜多正次『明けもどろ』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)


1974年5月『青い海』33号 霜多正次「ウチナーとヤマトゥ」

1984年3月26日~4月14日 みずさわ画廊(渋谷区千駄ヶ谷1-24-12)「儀間比呂志版画展」婦団連会長・櫛田ふき「沖縄の真実を刻む」霜多正次「儀間比呂志と沖縄ー沖縄では個人の家でも、喫茶店や飲屋でも、公共の施設でも、あちこちに儀間比呂志の木版画が飾られていて、彼が沖縄の人びとにひろく親しまれていることがよくわかる。・・・」




霜多正次 しもた-せいじ
1913-2003 昭和後期-平成時代の小説家,評論家。
大正2年9月5日生まれ。第二次大戦後,新日本文学会にはいる。米軍占領下の沖縄をえがいた長編「沖縄島」で昭和32年毎日出版文化賞。新日本文学会をはなれ,40年日本民主主義文学同盟設立につくす。46年「明けもどろ」で多喜二・百合子賞。平成15年4月16日死去。89歳。沖縄県出身。東京帝大卒。旧姓は島袋。評論に「文学と現代」など。(コトバンク)

null
1959年10月ー東京沖縄県人会会場の廊下で、貘、伊波南哲、霜多正次、当間嗣光、平良真英、新崎盛敏(東京沖縄県人会3代会長)、金城唯温、「志多伯」「おもろ」「紅型」など泡盛屋のオヤジ、紅一点の山口一子

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1971年10月 茨木憲・儀間比呂志 絵『鮫どんとキジムナー 沖縄の昔話』平凡社

前に島袋和幸さんから、「飛び安里」を全国に紹介した宮里良保の後輩、佐久川恵一氏のことを聞いたことがある。弟が茨木憲(恵輝)である。

1956年11月ー茨木憲『昭和の新劇』淡路書房


1989年3月ー佐久川恵一『裸足社晩春』/1991年6月ー佐久川恵一『幾山河』

7月16日ー『沖縄の軌跡』発行人で沖縄(のろし)ネットワーク連絡会の島袋和幸さんと共に首里城での烽火実験に参加した。東アジア域の黄砂と硫酸ゾルの分布もあってか烽火は見えなかった。『沖縄の軌跡』第69号は渡名喜島の遠見台に触れていて夏至風(カーチーベー)を9月としているが、これは6月23日のことである。芒種(ボーシュ旧5月)、寒露の節(旧9月)も若干混乱が交じっている。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

儀間比呂志「1976年 天野鉄夫先生之像」/1980年 天野鉄夫



天野鉄夫氏の著作




写真ー天野鉄夫さん「曼草庵」入口で(新城栄徳・撮影)
天野さんとの出会いは『琉文手帖』4号にも記している。その書斎「曼草庵」は一軒家、かつての住宅で本・資料や焼物が増えたので、同敷地に住宅を新築し移転した。1階右は金城次郎を中心にした焼物博物館、奥は古酒の泡盛甕と焼物が入ったタンスが並んでいた。2階右は植物関係の資料、左が昭和6年以来続けている新聞スクラップ、「琉球学集説」「琉球の自然と生物」「琉球の資源と産業」、沖縄関係資料が所狭しと並んでいる。本宅の金庫には『沖縄時論』『沖縄新公論』などがあった。今それらの資料は沖縄県立図書館に収蔵されている。

天野鉄夫 あまの-てつお
1912-1985 昭和時代の農業技術者。
明治45年3月31日生まれ。戦前は沖縄県国頭郡(くにがみぐん)農会技手をへて,北支那農事試験場に勤務。戦後は琉球政府農林部長などを歴任し,県緑化推進委員会委員長,琉球林業協会長をつとめた。昭和60年7月24日死去。73歳。沖縄県出身。沖縄農林卒。著作に「琉球列島植物方言集」など。(→コトバンク)

天野鉄夫と「トックリキワタ」


那覇市立神原中学校の敷地内では、ガーブ川沿いに美しいトックリキワタが立ち並んでいる。
1980~90年代にかけて、故天野鉄夫先生宅の庭に育つトックリキワタは特に「天野株」と呼ばれ、満開時には樹冠がピンク色に染まりかなり有名だった。見ごろになると、新聞紙上にもと紹介され話題になった。そのことも影響してか徐々に植木市で苗が売られるようになり、瞬く間に沖縄中にひろがり、熱帯花木ブームの火付け役になった。→沖縄県森林緑地課
城岳小学校の通り

楚辺界隈

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1972年4月 沖縄の雑誌『青い海』12号 「屋良朝信くん・ギター一丁かかえ世界一周旅行〝貧乏旅行″」/『青い海』13号①~22号⑧ 屋良朝信「旅行記でない旅行記」

2018年2月4日 ジュンク堂書店那覇店「屋良朝信『沖縄・思い遥か』発売記念トークイベント」

『沖縄・思い遥か』を手に著者・屋良朝信さん

2017年11月 屋良朝信×新井克英『沖縄・思い遥か』AWAWA

2017年11月 屋良朝信×新井克英『[川崎・鶴見・東京]ウチナーンチュ100年 沖縄・思い遥か』AWAWA
12月11日、那覇市役所で早く用事が済んだので、ジュンク堂那覇店に寄って上記の本を入手。

『神奈川新聞』2018/03/13 本格移住100年 沖縄出身者に勇気を- 沖縄出身で川崎、横浜、東京に移り住んだ人々やその子孫らの素顔を紹介する本「沖縄・思い遥(はる)か」が自費出版された。本格的な移住から約100年の節目を機に、一般財団法人川崎沖縄県人会会員の屋良朝信さん(68)=川崎市川崎区=らが約2年がかりで取材し作成。ミュージシャン、沖縄料理店主をはじめ市井の21人にインタビューし、その思いを伝えた。 沖縄からの移住が本格化したのは1915(大正4)年、現在の川崎区に富士瓦斯紡績(当時)の工場が操業開始したのがきっかけ。

2018年4月2日~8日 川崎競馬場2号スタンド2F「川崎競馬場・沖縄100年の歩み展」(監修:屋良朝信)


Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
1889年11月ー松山傳十郎『琉球浄瑠璃』いろは家

松山傳十郎 資料
□1937年10月 『書物展望』石井研堂「琉球浄瑠璃ー前号の、『琉球もの雑本』の記事につれて思い出した[琉球浄瑠璃]の一本を紹介する。[琉球浄瑠璃」は、友人松山いろは氏の著作で、明治22年の発行、四六版92頁、山田美妙序、市川團洲題詞、獨幹放史(大森惟中)跋、その凡例に、『琉球國に、組躍と名づくる歌舞伎狂言あり、其の種類三百以上に達す。而して、其の最著名なるもの五つあり、村原と云ひ、八重瀬と云ひ、忠心身代巻と云ひ、姉妹讐討と云ひ、久志の若按司と云ふ、本書は、則此五大書の一なる久志の若按司を評釈せしものなり』とあり、内容から言えばただ[琉球浄瑠璃」ではなく評釈の二字を冠するのが妥当なようだ。・・・」

 石井研堂ー数種の少年雑誌の編集に携わり、明治41年、『実業少年』*3を創刊したが、明治44年、同誌の廃刊をもって、少年雑誌の編集から離れ、著述生活に入る。研堂は、民間説話収集にも関心を寄せ、『日本全国国民童話』を著した。その一部は関敬吾の『日本昔話集成』*4にも採録されるなど、今日でも評価されている。他に、江戸時代の漂流記・漂流譚を子ども向けに紹介した『日本漂流譚』、資料調査に加え、中濱萬次郎自身へのインタビューに基づく伝記『中濱萬次郎』、創作読物『鯨幾太郎』『少年魯敏遜』など海事関係の著述も多い。→「福島の児童文学者 列伝3 石井研堂 - 福島県立図書館」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
nullnull
null

null

null
那覇市歴史博物館

null
『琉球漫録』 (1879年 渡辺重綱 著) 資料コード:T00015795B より
著者の渡辺重綱は、同分遣隊の軍医として1878(明治11)年に沖縄に滞在しました。半年間の滞在中に見聞したことが『琉球漫録』にまとめらています。明治10年代の沖縄の実状を詳しく紹介しています。→沖縄県公文書館


null
写真ー渡邊重綱

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 松濤 船越義珍『愛蔵版空手道一路』榕樹書林2004年12月
○・・・そのために、三〇有余年にわたる教員生活に別れをつげたのである。が、そのかわり、それまでの経験を生かして御奉公をしようというつもりで、当時(後)の県立図書館長の眞境名笑古(安興)、沖縄タイムス編集長(主筆)の末吉麦門冬の両君と相談して、沖縄学生後援会を組織しその経営に当ることになった。一方、先輩や友人とも語り合って、空手道を一本化するために沖縄尚武会を作り、その代表者として働くことにもなったのである。

null
富名腰(船越)義珍が末吉麦門冬に贈った写真
1922(大正11)年


4月24日  『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆<35>ー唐手の伝来」(『大島筆記』)/「禁止された琉球歌劇が復活の傾向」
4月27日  『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆<37>ー唐手の伝来」

○どうも面映ゆい話だが、私の若い日の修行の一端について、少し書いてみたいと思う。まず、台風の中で稽古をした話は同門の作家・戸川幸夫君①が作品として書いているので・・・
①戸川幸夫ー経歴生後まもなく若松市の実業家の養子となる。大正12年一家で上京。東京日日新聞(現・毎日新聞)記者、社会部副部長などを務める傍ら、長谷川伸主宰の新鷹会に入り、動物小説を書き始める。昭和29年「高安犬物語」で直木賞受賞、以後単行本は二百冊を超える。動物文学という新しい小説の分野を開拓し、小説を書くために世界各地を旅行している。40年沖縄・西表島のイリオモテヤマネコを発見したことで有名。子供向け読み物も執筆。日本動物愛護協会理事、世界野生生物基金委員などとしても活躍。俳人としては「渋柿」系俳人関谷嘶風の手ほどきを受け、「渋柿」所属。他の著書に「野生への旅」(全5巻)「人間提督山本五十六」「けものみち」、「戸川幸夫動物文学全集」(全10巻 冬樹社)、「戸川幸夫動物文学全集」(全15巻 講談社)がある。→コトバンク

○小杉放庵(未醒)画伯②の応援
1916年1月12日朝ー小杉未醒、横山健堂を訪ねて琉球への添書を頼む。
      1月13日ー小杉未醒、太平洋画会脱会の通知を出す。
      2月6日午後7時ー小杉未醒、丹青協会の歓迎会に赴く、山田真山、末吉麥門冬、20人参加。





②小杉放庵 こすぎ-ほうあん
1881-1964 明治-昭和時代の画家。
明治14年12月30日生まれ。小杉二郎の父。小山正太郎にまなぶ。明治40年「方寸(ほうすん)」同人。渡欧後,大正3年日本美術院に洋画部を設立,11年春陽会を結成した。後年油彩から日本画にうつり,独自の水墨画をえがいた。昭和39年4月16日死去。82歳。栃木県出身。本名は国太郎。初号は未醒(みせい)。代表作に「水郷」「山幸彦」,著作に「放庵画論」など。 【格言など】頂の岩に尻据ゑ足指にまさぐらむとす越の国原(歌集「山居」)→コトバンク


小杉放庵(未醒)葉書(新城栄徳蔵)


1910年8月25日 琉球新報・沖縄新聞・沖縄毎日新聞主催「近畿地方観光団」出発→1911年8月25日・26日『琉球新報』松濤「観光団員として」


1912年11月 『琉球新報』松濤「鄭嘉訓の半面」


1913年1月9日『琉球新報』松濤「唐手は武芸の骨髄なり」


1913年7月 『琉球新報』松濤「菊...


1941年4月『月刊文化沖縄』富名腰義珍「空手物語」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 - 1997年7月1日)は、日本の作家。
大阪市生まれ。本名・友一。早稲田大学仏文科卒。「都新聞」記者となり、1939年『文学者』に『残夢』を発表して作家生活に入る。風俗小説作家として活躍、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、『絶壁』が、宇野千代・北原武夫夫妻をモデルとしていると言われ、抗議を受けた。1970年代には、忘れられた作家となっていた。短編「日本ロォレライ」などがある。(ウィキペディア)


井上 友一郎の本

1935年9月14日 井上友一郎、昭和会館参観
   




戦時下の沖縄/1940年1月『月刊文化沖縄』2巻1号 「菊池寛・中野實来県」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1975年9月 ゆうなの会『ゆうなの花便り 第一回エイサーの夕べ』「神奈川ファミリー」

 1980年8月に沖縄県大阪事務所で「第1回観光フェア」、『青い海』にカットなどを手がけていた大城一史の風景画展も開催された。9月発行の『青い海』は特集「沖縄を出た島びと」で諸喜田太栄、仲里祥光、仲間宗一の略伝、大阪の映画館の沖縄人経営者たち、関西在住沖縄県人公共団体・企業リストが付いた。ある日、當間次長のところで雑談をしていると、『青い海』の公共団体・企業リストを見て、機を見ることには早い次長が県事務所でも作りたいといってきた。私も沖縄関係資料室や青い海出版社、青年会などから名簿を集めて提供した。そして出来たのが『関西沖縄出身者名簿』である。□後の話になるが、東京「ゆうなの会」の事務所でメンバーに、私の手帖を見せたことがある。それには「ゆうなの会」「がじゅまるの会」メンバーの自宅、連絡先まで記してある。某劇団の女性に、「これは絶対に活字(ネット)にしてはダメですよ」とクギをさされた。

null
null

 大阪市大正区の千島公園では毎年9月に「エイサー祭り」を開催している。そこにいつも参加している団体の一つが東京沖縄青年会だ。1974年に結成された「ゆうなの会」が母体である。

真久田正氏

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 
1975年11月『青い海』№48 知念政光(琉装史研究者)「ルポ・東京周辺の沖縄芸能」/大阪『青い海』編集室に遊びに来ていた琉装の知念氏から『沖縄と三里塚』を購入し「30歳お目出とう!」と署名してもらった。梅田界隈を案内した。

1975年11月『青い海』№48<沖縄の芸能ー舞踊と音楽>□宮城能造「よもやま芸談」、関西版『仲村米子舞踊研究所第一回発表会、松葉舞踊研究所が五周年記念公演、川田琉球舞踊団として初の関西公演、儀間比呂志新作版画展開かれる」、仲村喬次「武下和平ー島人の心意気を唄う(略)初心が忘れられていくのはテレビの流行歌手たちを見るまでもない。人の心を打たなくなった民謡は、もはや(しまうた)の生命を絶ったもひとしい。」、知念正光(琉装史研究者)「ルポ・東京周辺の沖縄芸能」、崎山任「三味線音楽とアカインコの業績」、「渡嘉敷守良・ある俳優の記録ー芸談、組踊の型」、伊礼正栄「関西の中の沖縄芸能ー悲愴な使命感で、”失われた沖縄”にかわって、ふるさとの伝統と文化を守ろうとした本土の県人たち」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
nullnull
1992年12月ー『新沖縄文学』新城栄徳「来訪者略年表ー1969年7月10日 三島由紀夫、「弓張月」取材のため来沖 」






作家・戸川昌子

» Read More

04/01: 新崎盛暉

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 沖縄現代史研究の第一人者で社会運動に尽力した沖縄大学元学長の新崎盛暉(あらさき・もりてる)さんが31日午後5時38分、肺炎のため南風原町内の病院で死去した。東京都出身。82歳。告別式は5日、那覇市首里当蔵町3の4の1、万松院で。喪主は妻・恵子(けいこ)さん。(4月1日沖縄タイムス)

null
写真左から新崎盛暉氏、一人置いて新城栄徳、三木健氏/写真右から新崎盛暉氏、新城栄徳


写真左から秋山勝氏、鳥山淳氏、新崎盛暉氏、新城栄徳、屋嘉比収氏、大峰林一氏

null
新崎盛暉 あらさき-もりてる
1936- 昭和後期-平成時代の日本史学者。
昭和11年1月27日生まれ。中野好夫主宰の沖縄資料センター研究員として沖縄戦後史を研究。昭和49年沖縄大助教授となり,58年から平成元年まで学長をつとめる。また石油備蓄基地反対闘争,一坪反戦地主会など沖縄の住民運動に参加。東京出身。東大卒。著作に「戦後沖縄史」「沖縄の歩いた道」「沖縄現代史」など。(→コトバンク)


2017年1月 新崎盛暉『私の沖縄現代史ー米軍支配時代を日本で生きて』岩波書店
沖縄資料センター
1959年12月15日 『琉球新報』関西支局「沖縄資料センター 近く東京の自由人権協会内に設置」

null
法政大学の沖縄文化研究所は中野好夫の沖縄資料センターが核になって設立された。□1961年8月『資料ニュース』№1「沖縄問題に関する資料の展示と懇談の会参考資料」。1963年12月『沖縄資料ニュース』№15「沖縄資料センター資料目録」。1964年6月、島田叡氏事跡顕彰会『沖縄の島守島田叡』中野好夫「最後の沖縄県知事」。1972年3月、中野好夫『沖縄と私』時事通信社。1982年3月、『沖縄資料センター目録』法政大学沖縄文化研究所。1982年7月『法政』№324・外間守善「中野好夫記念文庫について」。1985年4月『マスコミ市民』№201「追悼・中野好夫先生」、6月『新沖縄文学』第64号「追悼特集・中野好夫と沖縄」。1985年、屋宜宣仁『沖縄の日本復帰闘争あのころ』。

□6月10日ーモノレール美栄橋駅で屋宜宣仁氏と出会う。元気そうで何よりだ。

04/01: 崔承喜

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
崔承喜
null
1936年10月22日ー沖縄新聞社の招待で崔承喜一行(10名)、開城丸で来沖。

1936年8月ー日本民俗協会『日本民俗』第13号□琉球古典芸能の印象ー杉浦非水「大阪第五回内国勧業博覧会で琉球踊りをみた」、山崎紫紅、森律子、上司小剣、東儀和太郎、田辺尚雄「玉城盛重、新垣松含の15年前にみた。年老いた今日ー」、兼常清佐、村山知義、、邦正美、深井史郎、伊庭孝、岡元信吉、土岐善麿

崔承喜□私が琉球舞踊に接したのは、これが最初でありますが、それが非常に優れた民俗舞踊であることに大きな尊さを覚えたとともに、それらは私の舞踊の研究の上に、最近に於いて最も得ることの多かったものであったことを喜びます。

幾分新しく様式化されて演ぜられたように思われる「天川踊り」や「鳩間節」等の作品に最も大きな感銘をもったのでありますが、この様な民俗舞踊に於ける優れた手法は、私達に取って摂取さるべき多くのものを保持して居るように思われます。

私はこれらの琉球舞踊の中で、取り入れらるべきものを取入れんとして、此頃新作のレパートリの或る種のものに試みつつありますが、琉球舞踊を見た時に強く感じましたことは、それが朝鮮の民俗舞踊やシャムの民俗舞踊に類似して居る手法を多く包含して居るように感ぜられたことです。殊に上半身の動きー肩の動きや腕の動きは、朝鮮舞踊によく似ていますし、廻り方に於ける足の動きや手首の動きは、シャム舞踊に似てはいないかと思われました。

「組踊」に於ける様式上の特殊性も、朝鮮の民俗舞踊の中で残されている代表的なものである「山臺劇」等に見いだされるようなものに共通したものをもって居るように感じました。勿論、琉球舞踊にしましても、支那、シャム、朝鮮等の舞踊にしましても、東洋の舞踊に独自な、様式上の多くの類似性をもつことは当然なことでありませう。

このような琉球のもつ優れた民俗舞踊が有能なる舞踊家の手に依って、新たに様式化され、そしてそれが成長して行く日には世界に出して誇り得るものさえももつであろうとさえ思われると共に、この様な舞踊の伝統が何故、私達舞踊家に取って左程注目されていないかと思うのであります。スペイン舞踊等に対する関心も勿論必要でありますが、このような私達の手近にある民俗舞踊への関心も、もっと重要なものではないでしょうか。

この様な東洋の民俗舞踊を研究し、それを基礎として行く時には、東洋風舞踊と洋風舞踊との距離は、私達東洋人の踊る洋風舞踊である限りに於いて、もっと縮めることが出来るだろうと思います。この様な方向は私としまして自己の舞踊の一つの方向にしたいと努めつつありますが、いづれにしましても、今度の琉球舞踊に接し得ましてことは、舞踊を専門とする私達にとりまして大きな幸福でありましたし、この様な豊かな舞踊の伝統をもつ琉球に対しまして朝鮮を故郷とする私としましては、一種の羨望さえ感じました。(1936・6・7)


平成12年12月ー『南涛文学』第16号□牧港篤三「崔承喜の踊りー(略)私は崔承喜の踊る舞台を観た 戦前、那覇市内にあった映画館(平和館)で妖艶な踊り姿を観たのである 水着のような黒い服を着た彼女は 舞台の上で観客をとりこにした」


1936年10月(2004年5月『梨園の名優 新垣松含の世界』から)

2002年1月 『日本及日本人』横田順彌「本荘幽蘭ー早く生まれすぎた女傑」連載

» Read More