Archives

You are currently viewing archive for April 2018
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1908年9月ー愼氏我部家7代目・我部政榮葬儀/1929年9月1日『沖縄朝日新聞』「昭和5年1月、三越において本県物産の展覧会を開催することについては斡旋者たる我部政達氏・・・」(この頃、三越に1919年入店の瀬長良直が居る。1934年、銀座支店長。1937年、大阪支店長)


1955年7月1日『琉球新報』我部政達「本土に散在する郷土文化財について」

1973年3月ー『琉球の文化』第三号<特集・琉球の伝統玩具/琉球の塗物>□琉球文化社〒902那覇市安里425丸清ビル2階/コザ支社(城間喜宏)/関西支局(沖縄関係資料室・新城栄徳)/神奈川出張所(平良秀夫)


<50年前の琉球の玩具>我部政達が1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」に出品したもの。

特集Ⅱ・琉球の漆器
  琉球漆器考(再録)ー石沢兵吾
  文献にみる琉球漆器の古さー山里永吉
  漆に魅せられてー前田孝允
  琉球独得の漆芸「堆錦」についてー編集部
  沖縄漆工芸の現状と将来を考えるー伊差川新
  沖縄の漆器素材と漆料の問題ー多和田眞淳
  琉球の漆工芸・郷土玩具に関する文献ー新城安善 
  現代沖縄の工芸家ー漆芸家・前田孝允さん


左のカラー図は、崎山嗣昌「闘鶏」/古倉保文「首振りトラ」、


1974年9月 『月刊 歴史手帖』名著出版「地方史雑誌・文献目録ー◇琉球の文化 第三号」

1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」

null
null
null
沖縄県立図書館出品の「程順則肖像」が見える

1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」、写真・ペルリ提督の首里城訪問のジオラマ
null
「二十日正月踊」のジオラマ
1月ー『琉球展覧会出品目録』□永見徳太郎ー琉球女日本男遊楽の図、琉球船競漕の図、琉球人行列/島田佳矢ー琉球木彫聯、琉球木彫額、琉球竹花生、琉球細麻衣(笠、片袖、秋夏模様)、新月型酒入、龍模様花瓶/銘苅正太郎ー東道盆
山村耕花ー麻紅格子衣裳、麻茶地縦格子衣裳、麻紺地蝶梅模様衣裳、麻紺地花笠模様衣裳、麻紺地茄子模様衣裳、麻薄藍地松梅紅葉模様衣裳、木綿薄藍地牡丹鳳凰模様衣裳、木綿白地ドジン、麻風呂敷(三ツ巴に一紋付柳にのし模様)、鼈甲 (廃藩以前婦人使用のもの)、蛇皮線(爪付)、琉球胡弓(弓付)/啓明会ー琉球風俗絵、唐船渡来図、古代紅型裂地(300余年前のもの)、焼物製作に関する証書、紅型型紙図案(15枚)、紅型型紙(11枚)、絣図案(16枚)、絣図案(19枚)、手拭図案(2枚)、墨すり紅型図案(5枚)、風呂敷図案集(2枚)、紅型衣裳(3枚)、古代面 能面(4面)・・・比嘉華山は唐船入港ノ図、尚順は「神猫の絵」、富名腰義珍は唐手軸物、唐手本、唐手写真貼、巻藁(板付)、木刀、十手、唐手術写真、六尺棒などを出品している。①杉浦非水は琉球壺(芳月窯・唐草彫)、琉球壺(南蛮模様彫)を出品。
①杉浦非水 すぎうら-ひすい 1876-1965 明治-昭和時代の図案家。
明治9年5月15日生まれ。グラフィックデザインの開拓者のひとり。地下鉄(昭和2年の開通時)や三越のポスター,たばこのパッケージなどを手がける。図案家の団体「七人社」を設立。昭和10年多摩帝国美術学校(現多摩美大)校長。30年芸術院恩賜賞。光風会会員。昭和40年8月18日死去。89歳。愛媛県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は朝武(つとむ)。(→コトバンク)/日本のデザイン史に燦然と輝くモダンポスターの傑作『三越呉服店 春の新柄陳列会』です。描いたのは、三越の図案部員として次々と傑作ポスターを世に送り出し、「三越の非水か、非水の三越か」と言われるほどの名声を得た近代グラフィックデザインの父・杉浦非水。日本で最初に商業美術という分野を切り拓き、多摩美術学校の初代校長兼図案科主任教授として日本にデザインを根付かせる為に生涯尽力した人物です。(→美の巨人たち)
ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1972年5月 『青い海』13号 「青い海出版社新事務所ー新大阪駅正面前」

1972年5月 青い海出版社『はだか沖縄 ジャンプ・イン<沖縄>青春広場』六月社書房/1975年9月14日「第1回 沖縄青年の祭り」ポスター


null
1973年8月6日ー『沖縄タイムス』石原英夫「郷土史研究に没頭する新城栄徳さん」記事を書いてくれた沖縄タイムス関西支社の記者・石原英夫さん(右)と新城栄徳。

「がじゅまるの会」「沖縄県大阪事務所」


「平山敏治郎」「井伊文子」「金城実」「儀間比呂志」
 

1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)
null


1975年6月 『沖縄国際海洋博覧会公式ガイドブック』財団法人沖縄国際海洋博覧会協会(版画は『儀間比呂志の版画 沖縄』講談社刊より)
1975年9月14日ーパーランクーの音が大阪大正区に鳴り響く
null

1977年7月『青い海』65号 「大阪で二つの展覧会ー儀間比呂志版画自選展と大城一史・石田亮太郎二人展」「女人登場”世界の泡盛〟めざしてー照屋比呂子さん」

1977年9月『青い海』66号 「女人登場ー花織に想いを込めてー与那嶺貞さん」「沖縄女流美術家協会設立、会長・久場とよ、副会長」・山元文子、事務局長・宮良瑛子」

1977年10月『青い海』67号 「大阪の空にエイサーのリズムが響きわたるー第三回沖縄青年祭り。9月15日、尼埼市。18日、大正区千島グラウンドで山端立昌大阪沖縄連合会副会長挨拶、東京ゆうなの会、愛知沖縄青年会のあいさつ、彫刻家・金城実もあいさつ。見物の人も含めて約150人が参加」「儀間比呂志展、沖縄物産センターで開かる」 

1978年6月『青い海』74号 永峰真名「苦悩を乗り越える沖縄青年たちーIさん問題とがじゅまるの会ー」/儀間比呂志、安谷屋長也、金城順亮、浦添正光、島袋純子「<座談会>地域に根ざした児童文化を」

1978年10月『青い海』77号 「那覇市八汐荘ホール 賑わった出版祝賀会”鳥類館〟儀間比呂志『七がつ」エイサー』『りゅうとにわとり』、新川明『新南島風土記』、川満信一『沖縄・根からの問い』3氏を展示して大騒ぎ。豊川善一、北島角子、高江洲義寛、幸喜良秀、海勢頭豊、南条喜久子、森田吉子、玉城秀子、嶋袋浩(福木詮)ら参加」「パーランク高らかにー第四回沖縄青少年の祭り」


1973年12月 福木詮『沖縄のあしあと 1968-72年』岩波書店□あとがきー(前略)表紙・函に掲げた版画は、儀間比呂志氏が版画風土記『沖縄』に発表された作品であるが、同氏は快く掲載を許されたばかりでなく、とくに本書のために原画に筆を加えられた。心からお礼を申し上げたい。


1978年10月1日ーエイサー会場で走りまわるフトシ君とコウ君

1978年11月『青い海』78号 儀間比呂志「沖縄の子・大和の子たちへー絵本で伝えたい沖縄のこころー」/永峰真名「メヒカーノスになった沖縄人」
1979年5月『青い海』83号 「帰郷中の版画家・儀間比呂志氏の呼びかけで、4月の末に宮城美能留氏の宮城舞踊研究所(那覇・松尾)で、琉舞を鑑賞し、懇談する集いが開かれました」


1979年11月『青い海』88号 儀間比呂志「戦がやってきた」(沖縄三越ー沖縄戦版画集出版記念展)

1980年4月『青い海』92号 「新鮮なイメージ再びー儀間比呂志版画小品展ー3月27日から沖縄物産センター」「文化アラカルト/沖縄物産センター開設十周年」 
1980年6月『青い海』94号 「沖縄問題研究センター(上江洲久理事長)設立総会/宮本憲一大阪市大教授が記念特別公演『基地がある限り、自治はない』と語り、財政学の立場から、沖縄の現状を分析しました。」
1980年7月『青い海』95号 儀間比呂志/徳田澰/大湾雅常「第二回青い海児童文学大賞ー選考を終えて」


1980年8月20日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「皇軍は勇戦した」第14号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)□古波津英興「方言使用スパイ処分文書」



1983年9月23日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「菊と仏桑華」第20号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)


1980年9月『青い海』96号「儀間版画を一堂に集めてー儀間比呂志・版の世界展」「沖縄県大阪事務所で第一回沖縄観光フェアー大城一史『沖縄風景画展』も開催」/大城一史作品を背景に新城さやか(現在41歳)
1980年10月『青い海』97号 宮良瑛子「ぎゃらりーの言葉」


1986年の津野さんの年賀状/1981年3月の山城『青い海』社長の「大阪支社移転あいさつ」

1986年4月 『小説推理』津野創一「響け!パーランクー」
null
1986年4月ー『小説推理』津野創一「響け!パーランクー」


〇コザ・ミュージックタウン音市場内、1Fに「エイサー会館」がグランドオープン。フロアは無料ゾーンと有料ゾーンの2のフロアに分かれており、エイサーの歴史や文化を楽しみながら学べる体験型の施設です。
1Fの無料ゾーンには、エイサー関連のグッズが手に入るショップや、エイサーの基本情報を知ることができる展示が楽しめるラウンジとなっています。その他にもワークショップが開催できるイベントスペースが設けられています。
2Fの有料ゾーンには、大きな映像に合わせてエイサーを疑似体験できる「エイサーリズム体験」、タブレット端末を利用して地域のエイサーの違いを体感できる「エイサー音楽検索コンテンツ」などVRも駆使した展示ブースとなっています。またエイサーの衣装を着て撮影できるフォトスポット、沖縄全島エイサーまつりの歴史がわかるコーナーなど、楽しく学べる内容となっています。→沖縄市観光

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 1971年2月、大阪都島の「沖縄関係資料室」に行くと、来客があったようでテーブルに「沖縄をつくる若い広場 青い海趣意書」が置かれていた。夕方、仕事から帰宅した西平さんが「同郷(八重山)で元琉球新報記者の津野創一君が沖縄の若い人向けの雑誌を出すというので、新城君もひとつ協力してくれ」という。翌日、大阪北区太融寺の阪急東ビルのオキナワ通信に居候の『青い海』編集室を訪ねた。津野編集長の早口で語るビジョンに意気投合した。大阪の編集は儀間比呂志の紹介で万木恵美子がいた。津野編集長は「編集デスクがほしい」と漏らしていた。

『青い海』創刊号/儀間比呂志(行動会員)「表紙のことば」


1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 船越義彰/石野朝季「れーだー・さいと」
写真上・大阪沖縄会館「船越義彰講演会」でー右から2列目が伊藤勝一氏、その後ろ新城栄徳
写真下・左から伊禮吉信氏、伊藤勝一氏、新城栄徳

2001年8月左から新城喜一氏、山里将人氏、船越義彰氏、新城栄徳

写真左から知念良秀氏、石野朝季氏、新城栄徳
null

1971年5月 沖縄の雑誌『青い海』2号 「あるグループ 沖青友の会(大阪)」〇大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。嘉陽君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。


1971年6月 沖縄の雑誌『青い海』3号

1971年6月 沖縄の雑誌『青い海』3号 松田道雄「君たちは島の上の石になってはいけない」/儀間比呂志(二科会員)「民話と沖縄」

1971年7月 川平朝申 再話 儀間比呂志 版画『ねむりむし・じらぁ』(福音館書店)



1972年1月 沖縄の雑誌『青い海』9号 儀間比呂志×岡部伊都子「対談 沖縄のこころ を語る」
〇儀間ーボクは大和の差別を告発する人たちは、自らも過去において先島に対して犯してきた過ちを認めて、被害者であると同時に加害者でもあったふうに考えないといかん、と思うのです。岡部ー本土の内でも世界の各国でも、被差別者が差別者となっていくことが多い。それは差別をつくる仕組みのせいでもありますね。だから「差別をつくるしくみ」と闘わなくては。(略)儀間ー沖縄を愛するんだったら、沖縄に住んで仕事をすべきだ、共に苦しみを味わうべきだという考え方があります。ボクなんかも、大阪という安全地帯にいて沖縄を描いている、だから君は沖縄を売りものにしている半沖縄人だというレッテルを貼るんですね。
 
1988年11月 岡部伊都子『伊都子南島譜』海風社 〇誰がしたのーその日、わたくしは枚方の儀間比呂志展を観ていました(1986-6)/『読売新聞』1995年1月6日 「ふれあいトーク 今月のゲスト 岡部伊都子さん」川崎一朗ー戦争で人間が死ぬことは、人類という生き物が適正な環境で生きていくための必要悪、と考える人もいます。岡部ー過去の世界の歴史実情を見れば、そういう考えも出てくるかと思いますが、もはや自分から地球の生命体を考える時、犠牲者を出していいという気持ちに、私はなれません。他を苦しめ、おとしめるような愛は、本来の愛ではありませんし、戦争を是認するような宗教もまた、本当の宗教ではないと思いますね。
     
1997年4月 岡部伊都子『沖縄の骨』岩波書店
岡部伊都子 おかべ-いつこ
1923-2008 昭和後期-平成時代の随筆家。
大正12年3月6日生まれ。昭和31年「おむすびの味」でみとめられ,日常生活のなかの伝統美をこまやかな感性でとらえた作品で人気をえた。「二十七度線―沖縄に照らされて」など,戦争や差別にするどい視線をむけた著作もある。平成20年4月29日死去。85歳。大阪出身。相愛高女中退。著作に「賀茂川のほとりで」など。→コトバンク


『沖縄の歴史』表紙 儀間比呂志「かわき」 (琉球政府・大阪市立博物館・沖縄タイムス社・朝日新聞社 1972年発行)巡回展図録(東京三越、大阪市立博物館、名古屋オリエンタル中村、小倉玉屋、松山三越)/1972-5-3~9大阪梅田・阪神百貨店で開催された朝日新聞社主催「沖縄を彫る 儀間比呂志版画展」展覧会の図録,7-21~26 高知・土電会館


1973年5月 沖縄の雑誌『青い海』23号 


1973年、1974年の扉カットは儀間比呂志

1973年1月~12月『青い海』扉原画 1974年1月~12月『青い海』扉原画


1977年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号<特集 儀間比呂志・版画”沖縄〟> 


右ー1973年10月 国際ショッピングセンター4階「儀間比呂志木版画展」主催・球陽堂書房

1974年 儀間比呂志『沖縄風物版画集』 限定600 岩崎書店〇宮本常一「ふるさとを背負った仕事ー儀間氏の版画と沖縄」


1974年5月 儀間比呂志『儀間比呂志の版画』講談社□三味線ー朝日新聞のT記者が、新風土記の沖縄編を書くにあたって、視座をコザにすえたのは感心した。それほど、コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりに巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス業で栄えている町なのに、島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる。〇高橋亨「沖縄とは何かをえがく版画ー最近では毎年のように沖縄へ飛び、老母や弟妹の住む那覇の家で何日かをすごしてくるが、それは帰るというより訪れるといったほうがふさわしい。いま作者の帰るところは大阪である。(略)沖縄のみ、土地と作家との全的なかかわりあいのなかから、こんにち儀間比呂志を育てた。ただ人間形成の土壌もしくは環境としてでなく、作者の表現の形式、内容その他あらゆる成長にたえず根源の息吹を与えつづける沖縄という南の世界はいったい何なのか。それは私がここで語りうることではない。それこそ作者が版画によってえがきだそうとするところのそのものなのである。」



1976年『儀間比呂志版画集・沖縄の女』岩崎書店


1976年5月 『儀間比呂志版画連作集 みやらび』みやざき書店

1976年5月 沖縄の雑誌『青い海』53号/1979年8月 沖縄の雑誌『青い海』86号


1976年10月15日・16日 那覇市民会館「御冠船踊」パンフレット 島袋光裕「題字」/儀間比呂志「表紙」


1976年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号 大江健三郎「沖縄の民俗に根ざした表現世界ー『鉄の子カナヒル』を読むー」/1978年5月 沖縄の雑誌『青い海』73号「儀間版画を実用化」



1978年1月 儀間比呂志『絵本からむしペーチン』青い海出版社

1980年8月26日~9月6日 大阪府立現代美術センター「儀間比呂志 版の世界展/」高橋亨・大阪府立現代美術センター館長「その木版画の根の深さ」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1975年9月 沖縄の雑誌『青い海』46号 新川明「◆論鉾◆ある『歴史家』の虚像を撃つー伊波普猷・柳田国男の読み方に触れて」

2013年4月20日『沖縄タイムス』新川明「4・28への視座ー自主独立の気概持て」〇政府式典は「安倍晋三首相が憲法改正(悪)をもくろむ中、独立国家のイメージを国民に示したいのだろう。実際には米国に隷属しているのは世界中が知っているし、話にならない」と一蹴する。・・政府式典に抗議は、抗議の意思を示す行動を無意味とは言わないものの、これまでと同じ動きでは状況は変わらないと指摘する。「復帰した今も、オスプレイや普天間問題で沖縄に主権はない。政府が式典を開くならば、沖縄は日本に離縁状を突き付けるくらいの気概を持ち、自ら生き方を決めるための教材とすべきだ」

新川 明

1956年5月16日『沖縄タイムス』新川明「沖縄画壇の収穫ー(儀間比呂志個展評)」


1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)

1960年4月29日『琉球新報』「昨夜盛大に『復帰協』結成」
1961年4月29日『琉球新報』「祖国復帰県民大会開くー大会宣言ー沖縄は1952年4月28日発効した平和条約第三条により祖国から切り離され米国の統治下におかれたが以来われわれは一日も早く祖国に復帰したい熱願を表明して機会ある毎に日米両政府に対し沖縄返還要求を訴え続けてきた。われわれは沖縄県民にとって屈辱の日、忘れることの出来ない1960年4月28日に沖縄県祖国復帰協議会を結成しこの願望を訴え続けてきた。・・・」

1962年4月29日『琉球新報』「祖国復帰県民大会開く/神原校で5万人参加・大会宣言ー10年前のこの日に講和条約第三条が発効して、沖縄県民は祖国から分離された。われわれは、祖国の独立の喜びを味わうこともなく敗戦から今日まで実に17年の長期占領状態下にあえいでいる。」

1965年4月28日『琉球新報』「27度線上で海上大会開く/大会宣言ーきょう、4月28日は対日平和条約が発効し祖国が独立した日である。しかし沖縄県と小笠原にとっては祖国から立ち切られた悲しみと屈辱の日であり・・・」

1966年4月28日『沖縄タイムス』「きょう復帰要求県民大会」「昨夜 悲願の前夜祭」
1967年4月28日『沖縄タイムス』「悲願を”炎”に托してー沖縄返還デ前夜祭ー きょう27度線で海上大会」
1969年4月28日『沖縄タイムス』「 きょう27度線で海上大会に1300人」「屋良主席を先頭に 復帰行進団ゴールイン」

1970年4月29日『琉球新報』「与儀公園で4・28県民大会 1万5千人が参加ー”安保なき復帰を”日米体制に怒り込め」
      4月28日『沖縄タイムス』大城立裕「四・二八に思う」/「無条件全面返還かちとろうー4・28沖縄デー 本土ー沖縄船団が呼応」
1971年4月29日『沖縄タイムス』「夜空揺るがす完全復帰の叫び」「天皇陛下70歳の誕生日」
      4月30日『沖縄タイムス』「心理作戦部隊の全容ー”成果”は26年間の沖縄統治」
1972年4月29日『沖縄タイムス』「最後の4・28県民大会開くー沖縄処分を糾弾 反自衛隊前面に」
      5月15日『琉球新報』「売防法きょうから施行ー転業のメドたたず対策遅れ戸惑う7千人」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1970年11月 川平朝申 再話/儀間比呂志 版画『ねむりむし じらぁ』福音館書店


1971年7月 川平朝申 再話 儀間比呂志 版画『ねむりむし・じらぁ』(福音館書店)


1982年6月、戦前から異国船に関心を持ってきた川平朝申や、国吉真哲、中今信、曽根信一ら数十人が集い、琉球航海記を中心とした沖縄の歴史・文化・人文の研究調査の発展をはかり、地域社会の思想・文化の向上に寄与することを目的に、会長に川平朝申、事務局に外間政彰で異国船琉球航海記研究会(通称バジル・ホール協会)が発足した。発会の記念講演は照屋善彦琉大教授で、会場にはぺルリ艦隊の乗組員の曾孫にあたるヨセフハンディー夫妻も参加した。川平会長の母と、西平守晴南島史学会大阪支部長夫人の母とは姉妹の関係で、大阪在住の新城栄徳も会員として末席をけがした。

null
「川平朝申氏寄贈写真」(那覇市歴史博物館所蔵)写真後方左が西平守晴、前右が川平朝申

1983年10月 仲里秀雄・玉寄貞夫『粟国島民謡集』

 川平朝申は今ではあまり知られていないが、弟の朝清氏(昭和女子大学名誉理事)はディスク・ジョッキー・タレントのジョン・カビラ、俳優・タレントの川平慈英の父である。新城栄徳の伯父の玉寄貞夫は1983年に元粟国村長の仲里秀雄と共著で『粟国島民謡集』を出した。その刊行前に琉球民謡協会名誉会長の川平朝申氏のところへアポなしで伯父を同行し序文を依頼した。川平氏はその場で「このほどバジルホール協会会員の新城栄徳君が粟国民謡研究家の玉寄貞夫氏を伴い来訪し、粟国島民謡集を出版するから1文を章して欲しいと望まれた(略)粟国島の民謡が沖縄全島の舞踊となった『むんじゅる平笠』を讃えて、御祝いの辞といたします」と太い万年筆で書いてもらった。

 帰省のたびに川平さんが専務理事をつとめる琉球結核予防協会にはよく遊びに行った。ある日、川平さんから長谷川清台湾総督のことを聞かされたことがある。長谷川はアメリカ大使館の駐在武官もやった経歴もあるが、那覇市歴史博物館の川平資料には『長谷川清伝』もある。川平さんを終生の師と仰ぐ月刊沖縄社の佐久田繁氏は1997年に川平朝申『終戦後の沖縄文化行政史』を刊行した。

null
写真/上ー大城立裕夫妻と西平守晴ら。
中ー川平さんと西平守晴。右下ー川平さんと新城栄徳。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


2018年4月24日~29日 那覇市民ギャラリー「具志弘樹作品展」

具志弘樹氏、外間政明氏


新城栄徳、大城政明氏/具志弘樹氏、新垣正一氏
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com



2018-3-31 ひより、初めての写真撮影


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
2003年10月11日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑧當間清弘」

郷土史へ導いてくれた當間清弘氏
母方の伯父や伯母の連れ合いが奄美大島の出身だから、小学生のころから奄美大島は琉球の一部だと理解していた。父・三郎の出会いはちょっと違っていた。1947年、父が那覇の栄町「栄亭」のコック長のとき、用心棒代を店に要求にきた大島ヤクザに立腹し包丁で一人の鼻先を削いでしまった。父はグループの報復を恐れ糸満の親戚の所に身を隠した。翌年に生まれた私の名前の「栄」は、栄町からも来ている。

名瀬市は1972年前後3回、訪ねたが図書館はいつも休館日。だから島尾敏雄とついに出会うこともなかった。しかし、私にとってそれに匹敵する出会いが山下欣一氏だった。氏の『奄美のシャーマニズム』はもう古典的存在である。私も義母がユタをしていたので、それにまつわる話には関心がある。氏が私に資料を贈る義理は無いが気を使ってくださる。

喜納緑村『琉球昔噺集』を発行した三元社の萩原正徳が奄美関係者らしいと前々から気になっていた。山下氏に問い合わせると家系図、『道之島通信』、『定本・柳田國男集』の月報などの資料をたくさん贈ってこられた。緑村は1930年に『沖縄童話集第一編ー犬と猫』(津嘉山栄興挿絵)を神山青巧堂印刷で刊行した。印刷者の神山邦彦は久米蔡氏で元警察官、戦後『辻情史』をまとめ発行し1977年83歳で亡くなった。


當間清弘
小学4年のころ、首里の琉潭池側の琉球政府立博物館へ「首里那覇港図」をよく見にいった。博物館の入口付近に「三ツ星印刷所」(1926年に辻町で昭和石版として開業)がある。その売店に『毛姓系図家譜』『組踊全集』などが並んでいた。中を覗き「筑登之」「○王」など読めない字に悩んでいると、主人の當間清弘氏が買いもしない子供に読み方を教えてくれた。氏は1968年に80歳で亡くなった。


「昭和初期の那覇絵地図」(昭和石版印刷所 辻町3ノ70)


「首里那覇鳥瞰図」氏作成





□8月 『琉球古典組踊全集』當間清弘(三ツ星印刷所)→左の本・1965年9月『沖縄郷土古典芸能 組踊全集』
null

沖縄県立博物館の裏手に「みどり印刷」がある。開業したのは石川逢正氏で、氏はミルクイシチャーと呼ばれる一門の家に生まれた。1955年に開業した当初は首里バスの切符、伝票、名刺などを印刷していた。石川氏は戦前、嘉味田朝春の向春印刷所から始まって戦後は新聞などを印刷していた中丸印刷所を経て独立。今は、息子の石川和男氏が業務をこなす。「みどり印刷」←iここをクリック

2014-9-5 沖縄県立博物館・美術館にて「くしの日 美ら姿 結い遊び(主催:玉木流 琉装からじ結い研究所)」がありました。



モデル・仲里なぎささん


1995年10月 小波則夫/宜保榮治郎『きからじの世界』小波則夫
○グラビア/第一章ー実技編1、小波式琉髪の結い方 2、歌劇にみる髪型 /第二章ー髪型・資料編1、琉球風俗絵図 2、諸外国にみる髪型 3、琉髪と簪の歴史概説 /第三章ー対談1、小波則夫の足跡2、小波則夫の芸談 小波則夫・年譜

○写真ー金武良章、志田房子、佐藤太圭子、親泊興照、真境名由康、宮城能造、島袋光裕、宜保榮治郎、ウミングヮ役の小波則夫、久高将吉、比嘉清子、与座つる、浜元澄子・朝保、比嘉正義、玉城盛重、前田幸三郎、翁長小次郎、小山明子


2013年12月21日 沖縄県立博物館文化講座「『きからじ』と『ジーファー』」
null
写真左から写真家の山田實さん、牧野浩隆氏、沖縄髪結いの小波則夫氏

鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』岩波書店(1982年10月)に首里王府画人伝と題し、長嶺華国「琉球歴代画人表」、末吉安恭「琉球画人伝」とあるが,これは村松梢風『本朝画人伝』に倣って鎌倉さんが付けたもの。「琉球画人伝」の恵光翰友寄筑登之で「彼以前に沖縄美人を画く者もあったが、髪を画くにあたり昔風に根をつめて結う髪の形が野暮ったくこれを絵にしても面白くないので、恵光翰は大いにここに工夫をこらし、根をゆるくして左右に張り広げるように画いたため髪がひき立って美しく見えるようになった。その髪風がまもなく辻の遊女の間に行われ、また一般婦女子にもこれを模する者が現れ、これが流行となって新しい明治風俗の琉球美人を形成した」と琉髪に触れている。

           






» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 真栄里泰山の「はがきエッセイ」№20□ひや!ひや!ひやひやひや!ひやみかちうきり、ひやみかちうきり」の「ひやみかち節」。この歌が出ると心は浮き浮き、誰もが座っておれなくなる。三線の力強いリズムといい歌詞といい、うちなーんちゅの魂のそのもののような歌である。1948年、山内盛彬作曲によるこの歌は、沖縄戦で廃墟となり、米軍統治下におかれ失意のうちにあった沖縄の人々を励ました名歌である。「名に立ちゅる沖縄 宝島でむぬ 心うち合わち うたちみしょり」、「七転び転で、ひやみかち起きて わしたこの沖縄 世界に知らさ」の歌詞は、沖縄の自由民権運動の父・謝花昇の同志で熱血漢の平良新助の作だ。私たちの世代は「腕を組み歌おう 喜びの歌を 僕らみな明るい日本の子、沖縄の子」と歌ったが、それは当時、沖縄教職員会が替え歌にしたものだろう。「ひやみかち節」は沖縄の復帰運動を鼓舞した歌でもあった。

その「ひやみかち節」の歌碑が、山内盛彬翁(1890年~1986年)の生誕120年を記念して、翁夫婦が晩年を過ごし琉球音楽普及の拠点であった沖縄市の社会福祉法人緑樹苑の中庭に建立された。去る3月27日の除幕式では、おもろ主取家の安仁屋眞昭が思い出を語り、首里クェーナ保存会による「あがり世」、山内翁から直伝された「せーぐぁー」こと登川誠仁の歌三線、バンド演奏、踊りなどいろいろなバージョンで「ひやみかち節」が披露された。琉球王朝禮学の復活伝承に生涯をささげた山内翁にふさわしい会であった。

琉球王国の滅亡後、日本の近代教育は皇民化を第一とし、うちなー口はじめ琉球の文化風俗を蔑視し撲滅した。そうしたなかで、沖縄の文化を守るため使命感を持って苦闘した先人達がおられた。おもろと沖縄学の父・伊波普猷はよく知られているが、琉球王朝の御座楽、路次楽、おもろをはじめノロのウムイ、クェーナなどの歌謡を五線譜に採集し、世界に通ずる音楽として広め紹介したのが山内盛彬翁である。翁の祖父盛憙から受け継いだ伝統音楽と西洋音楽の技量を合わせ持ち、秘伝のくえーな「あがり世」などは床下にもぐりこんで採譜したという、沖縄歌謡保存にかけたその烈々たる情熱は、今度の歌碑に刻された翁の「滅びゆく文化 忍で忍ばれめ もち(自費)と命かけて 譜文に遺さ」という歌に込められている。

沖縄音楽というと、大方は宮良長包の数々の名曲を思い浮かべるだろうが、今回の「ひやみかち節」歌碑建立を機に、山内盛彬翁の業績をあらためて見直したいものである。「ひやみかち節」は平和とやさしさ、そして沖縄の誇りを歌った沖縄県民の歌ともいうべき永遠の名歌名曲である。
「花や咲き美さ 音楽や鳴り美さ 聴かさなや世界に 音楽の手並み」(盛彬)(2011年4月10日)
◎YouTube 沖縄民謡「ひやみかち節」登川誠仁、他


1912年10月1日 『沖縄毎日新聞』山内盛彬「琉球音楽の実地的研究(2)」

1925年5月15日 『沖縄タイムス』山内盛彬「末吉麦門冬氏遺稿『三味線渡来説に就て』」
null
null
null


1959年4月 山内盛彬『琉球の音楽芸能史』民族芸能全集刊行会

2月11日「はがきエッセイ」№11
 上山中学校3年生の孔子廟参拝で講話をした。学問の神様・孔子様への学業成就祈の願願を兼ねた学校周辺の歴史・文化のユニークなふるさと学習だ。人類の教師として釈迦、孔子、ソクラテス、キリストを紹介し、その4聖人がそれまで弱肉強食で平気でいた人間に初めて人間の愛、人間性を説き教えたこと。仁義礼智信の人間学儒学は中国、韓国、台湾、日本、沖縄、ベトナムで国学となり、ほぼ共通の道徳となっていること。鄭順則など沖縄の儒学は当時の最先端だったことなどを話した。話しながら、ふと今の政治や指導者をこの若者たちはどう感じているのか気になった。基地問題での沖縄に対する民主党政権の傲慢なふるまい、地元名護市長を無視した礼節を欠いた行動、中国の尖閣問題、北方領土のロシアなど、力にまかせた大国主義政治の横行等々。今、本当に必要な道徳教育、経世済民の徳治主義の政治教育はこれら指導者たちにこそ必要ではと思った次第。

null
(上)1998年 粟国島「むんじゅる節之碑」の前で、中央が伯父・玉寄貞夫(撮影・新城栄徳)

(中)1999年2月 沖縄県立博物館で、左から新城安善氏、新城栄徳、當間一郎館長

(下)2003年5月 眞喜志康忠宅で、左から平良リエ子さん、康忠さん。後左、新城栄徳、眞喜志康徳さん(撮影・平良次子)。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1972年2月号『青い海』10号 「若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」

1972年1月ー『青い海』10号□若者が集う「沖縄関係資料室」の西平守晴氏宅ー西平沖縄関係資料室主宰「柳宗悦という人を皆さんもよく知っていると思う。沖縄の民芸を高く評価した人だが、その人が昭和14年に書いた『琉球の富』の序に次のような言葉がある。<人々は今まで余りにも暗い沖縄を語り過ぎていたのです。私たちは優れた沖縄を語りたいのです。それは私達を明るくし島の人々を明るくさせるでしよう。私達は実に多くの富に就いて語り合いたいのです。沖縄に就いて歎く人々のために、又この島に就いて誤った考えを抱く人々のために、又自国を余りにも卑下して考える土地の人々のために、そうして真理を愛する凡ての人々のために、この一文が役立つことを望んで止まないのです。> この30年も前の文章が、私の今の気持ちを言い当てています。-」
□ここで資料の内容の一部を紹介しよう。開設当時200冊足らずだった書籍・雑誌は、現在約3200冊。新聞や週刊誌などのスクラップが300冊。沖縄に関する資料については、関西隋一と言われる。▽人物関係ー「謝花昇伝」「平良辰雄回顧録」「伊波普猷選集」などの伝記、回顧録、全集もの。▽市町村関係ー「北谷村誌」「南大東村誌」 比嘉景常「久米島紀行」など。▽歴史関係ー「沖縄県史」(直接主席から贈呈される。関西では天理図書館と資料室ぐらいだろうとの話) 「琉球建築」 田代安定「沖縄結縄考」 金城朝永「異態習俗考」や戦史・戦記もの。▽文芸関係ー「山之口貘詩集」「新沖縄文学」や大城立裕、石野径一郎、霜田正次、石川文一などの諸作品。▽芸能関係ー「組踊大観」「工工四」など。▽政府刊行物ー「立法院議事録」 白書類。▽ミニコミー「沖縄差別」「石の声」「沖縄月報」「寮友」「琉大文学」や本土各大学の県学生会の機関誌・パンフなど。▽地図ー「首里古地図」その他。これらの資料を整理したり、購入したり目録をつくるなど、一人でするにはたいへんな仕事である。西平守晴さんは保育園の仕事もあり忙しいので、現在もっぱら新城栄徳君(23)が動きまわっている。

システム手帳

1984年には日本国内でもFilofax(ファイロファックス)が正式に発売された。著名人の愛用者がしばしばマスメディア上で「便利な手帳」とするコメントを発した事から、1980年代末 - 1990年代中頃より類似製品を含めて急速に愛好者が増加した模様。1985年にジャーナリストの山根一眞が書いた「スーパー手帳の仕事術」(ダイヤモンド社刊)が日本で最初のシステム手帳Filofaxの解説本と言われる。日本で言われる「バイブルサイズ」を最初に日本で流布したのは山根で、欧米では使われていない単語である。なお、日本初の国産システム手帳は、1968年に経営コンサルタントの奈良総一郎が考案した「システム・ダイアリー」である。→ウィキ

null
null
1972年6月の『豊川忠進先生の長寿を祝う会』では、沖縄の又吉真三氏から文化財の碑文の拓本を借りて展示して参加者を感動させ、平良盛吉翁らを豊川氏の隣りに座らせて感激させた。」
 1984年2月24日『琉球新報』「アシャギー新城栄徳『琉文手帖』で資料紹介」/3月17日『琉球新報』「さし絵人生40年ー金城安太郎さん」/『琉文手帖』「日本画家・金城安太郎」/5月『青い海』「新刊案内ー『琉文手帖』「日本画家・金城安太郎」


6月23日『朝日新聞』(大阪版)「沖縄のこころを本土にー大阪の西平守晴さん」

8月14日『毎日新聞』(大阪版)「反戦平和へ遍路10年ー沖縄出身の西平守晴さん」

9月10日、沖縄協会機関紙『沖縄』「21世紀へはばたけ沖縄青年ー新城栄徳さん」/12月7日『琉球新報』「俳人・末吉麦門冬が没して60年」/12月、『琉文手帖』2号「文人・末吉麦門冬」


1985年5月23日『沖縄タイムス』「30周年を迎える沖縄資料室ー大阪・西平守晴さんの個人文庫」

nullnull
1988年11月 史海同人『史海』№6 新城栄徳「関西と沖縄」



10月11日『琉球新報』「駅前広場ー西平守晴さん」/10月31日『沖縄タイムス』「自宅に沖縄関係資料室ー石垣出身の西平守晴さん」/11月6日『朝日新聞』(大阪版)「自宅を改造して沖縄を学ぶ拠点にー大阪の西平守晴さん」/11月、『琉文手帖』3号「歌人・山城正忠」/12月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』「琉文手帖『歌人・山城正忠』を読む」



1986年1月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』「此処に人ありー新城栄徳さん」/4月15日『沖縄タイムス』「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号はガリ版刷りー新城栄徳さんが確認」/12月、沖縄県歌会『金真弓』新城栄徳「沖縄近代美術の流れと文学」/12月、『北谷町史』第2巻「争議にともなう財産調書」(新城栄徳寄贈)

1987年4月25日『琉球新報』「われらウチナンチュー西平守晴さん」/5月『新生美術』新城栄徳「浦崎永錫画伯美術史を語る」/9月、沖縄県立博物館「特別展・沖縄近代の絵画」(新城栄徳協力)

1987年6月 大阪沖縄県人会連合会40周年記念誌『雄飛ー大阪の沖縄』西平守晴「就学前教育と児童福祉」「沖縄関係資料室」

1987年9月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』新城栄徳「人物・沖縄近代美術略史」/10月1日『琉球新報』「明治の沖縄の画家一堂にー東京の島袋和幸さんが見つけ、新城栄徳さんが人物確認」

1988年2月19日『週刊レキオ』「先人の足跡を残したいー新城栄徳さん」/4月、緑林堂『琉球弧文献目録』新城栄徳「沖縄出版史ノート(戦前篇)」/6月『新沖縄文学』№76□新城栄徳「近代沖縄の新聞人群像」/7月4日『琉球新報』「首里那覇鳥瞰図の作者は阿嘉宗教ー新城栄徳さんが確認」/9月、南風原永育『南の島の新聞人』ひるぎ社(新城栄徳資料提供)/11月『史海』№6□新城栄徳「関西と沖縄」

1989年4月18日『沖縄タイムス』「神山宗勲の小説『闘へる沖縄人』、新城栄徳さんが見つける」
7月、西平守晴、琉球新報の落ち穂を担当






10月、沖縄県立図書館「沖縄の同人誌展」(新城栄徳協力)/11月、『沖縄美術全集』(辞典・年表・文献委員ー新城栄徳)/11月30日『琉球新報』「琉球新報初代主筆『野間像』鮮明にー新城栄徳さんが見つける」/12月2日『琉球新報』「金口木舌ー新城栄徳と野間五造」

null

(上)1996年12月7日/大阪・大正駅前「居酒屋ゆんた」で、左から金城勇(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、息子、諸見里芳美(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、仲間恵子(大阪人権博物館学芸員)、崎浜盛喜(奈良沖縄県人会副会長)、右端がゆんた主人の玉城利則(関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」初代会長。1981年、『ハイサイおきなわ』編集人、発行人は嘉手川重義(現大阪沖縄県人会連合会長)と夫人、真ん中の女性はお客さん。撮影・新城栄徳/(下)1996年12月8日/大阪港区・池島保育園(近鉄の野茂英雄投手も同園出身)階上で、左より西平久子、西平守晴夫妻、娘、後に息子。撮影・新城栄徳

nullnull
1972年5月13日ー大阪『日本経済新聞』「民芸品・図書を守ろうー都島の『沖縄資料室』」
1973年5月14日ー大阪『朝日新聞』「守れ!沖縄の心と自然ー埋もれた文化掘起す」

平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」
null
null
沖縄関係資料室の内部(西平守晴と司馬遼太郎)




null
1962年、真喜志康忠優の関西公演のとき京都五条坂の河井寛次郎からの招待を受け西平守晴(沖縄関係資料室主宰)の案内で訪ねる。帰り河井作品を貰ったのは言うまでもない。
写真は左から西平守晴、真喜志康忠夫妻、河井寛次郎夫妻


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2018年4月10日ー店主の田中保一氏、豊見山愛さん/麻姑山書房〒902-0061 沖縄県那覇市古島2-7-4 098-885-9612

豊見山さん購入1972-5-3~9大阪梅田・阪神百貨店で開催された朝日新聞社主催「沖縄を彫る 儀間比呂志版画展」展覧会の図録/1989年3月 儀間比呂志『新版画風土記 沖縄』海風社

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


1976年9月 『山之口貘全集』第四巻 評論 思潮社 □「1960年6月『詩と版画・おきなわ』(新川明詩・儀間比呂志版画)序文」〇去年だったか、一昨年のことだったか丸の内で、儀間比呂志に逢ったことがある。話しっぷりがいかにもかれの作品から受けるものと似ていて深く印象に残っているが、作品も実物も共に肉体的精神が豊かで、人を元気づけるものがある。新川明には鹿児島でお世話になった。一昨年十一月、沖縄へ行く途中なのであったが、かれのところで四日ばかり御厄介になったのである。奥さんはお産のために留守だった。

1983年10月 新川明・儀間比呂志『詩画集 日本が見える』築地書館□1960年6月『詩と版画おきなわ』、1971年12月『新沖縄文学』21号「儀間比呂志版画集 詞章新川明」をもとに構成。島尾敏雄「沖縄が見える」。装幀・田村義也

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

儀間比呂志「空手」/屋部憲通書簡

 外間 哲弘(ほかま てつひろ)・沖縄剛柔流空手道・古武道 拳志會 宗家・体育学博士・沖縄剛柔流空手道・古武道 範士十段・世界レジストリー・オブ・ブラック・ベルト殿堂入り(2011年 アメリカ、2013年 オランダ)・沖縄県空手博物館 館長・書道家 外間洋山(雅号:外間峻岩)
 祖父の徳山盛健氏から空手を伝承し、比嘉世幸先生より剛柔流、又吉真豊先生・金城政和先生等より古武道、神長成佳先生より古流神道天心流を学ばれ、その後アメリカとミンダナオ大学にて 体育学(武道)博士を取得される。→(沖縄剛柔流拳志會神奈川支部)

【略歴】1944年 出生
1961年 比嘉世幸先生、又吉真豊先生等に師事
1978年 宮城長順①25周年追悼式(明治神宮)にて模範演武

1944年 ①宮城長順の葉書

1981年 国際親善空手道選手権大会にて模範演武
1984年 中国、沖縄交流武術大会沖縄代表
1987年 沖縄県空手道古武道歴史資料館設立
1989年 沖縄空手道剛柔会理事長就任
1992年 沖縄空手道協会より感謝状授与
1993年 米国国会より「空手道指導功績」表彰、フィンランド国陸軍より「空手の感謝状」授与
1994年 近畿大学豊岡短期大学にて空手・古武道の非常勤講師(1996年まで)
1996年 琉球国技・空手術発祥之碑設立
1997年 第一回カナダ国北方空手道連盟にて又吉真豊先生と模範演武
1998年 沖縄県文化協会長賞受賞             

大城政明氏、具志弘樹氏、外間哲弘氏/外間哲弘氏、新城栄徳、大城政明氏



空手普及、空手博物館の創設などの功績で沖縄県議会からの特別功労賞/摩文仁賢和 まぶにけんわ、1889年(明治22年)11月14日 - 1952年(昭和27年)5月23日)は、沖縄県出身の空手家。空手の四大流派のひとつである糸東流の開祖。夏氏の元祖越来親方賢雄(俗に鬼大城)の末裔。外間哲弘氏も夏氏である。


2018-4-26 那覇市民ギャラリー 外間哲弘氏、具志弘樹氏/稲福和子米寿記念作品展ー大城立裕氏、外間哲弘氏

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2001年10月 儀間比呂志・神谷良昌『絵物語 琉球に上陸したジョン万次郎』沖縄タイムス社

写真右から神谷良昌氏、儀間比呂志氏、オーストラリアのカイリー・クラークさん




○ジョン万次郎の子孫が来県するのは初めて。万次郎から四代目の中濱博さん(73)=愛知県=は「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている。来ることができてとてもうれしい」と感激した表情で語り、高安家五代目の高安亀平さん(72)も「感無量だ」と喜んだ。万次郎は糸満市大度に上陸。琉球王府により、翁長の親雲上(ぺーちん)だった高安家に約5カ月間、収容された。外出は禁じられていたが、夜は地域住民と交流し、綱引きなどにも参加したとされる。→(『琉球新報』2002-5-12)/写真左から新城栄徳、儀間比呂志氏、高安亀平氏

□中浜万次郎の話ー高安公造氏(71歳)は祖父より聞いたとして次のように語れり
1、万次郎は約半年沖縄に滞在せりと、即ち正月に来り7月に去れり 1、大和人なることは彼等も知れり、土佐人と知れり 翁長の当銘三郎氏の話  1、宿屋は屋号徳門であって当時万次郎が使用したステッキも今に残っているそうだ。徳門の老婆は90歳位であるがその人の話ー言葉も始めは通じなかったが後ではよく通じて諧謔もやるようになった。→眞境名安興「笑古漫筆」

1851年2月 ジョン万次郎、琉球上陸
 同年4月、アメリカ合衆国とメキシコが国境を決定。5月にはイギリスで第一回のロンドン万国博覧会が開かれ、フランスでは12月、ルイ・ナポレオンがクーデター

   
1851年2月 ジョン万次郎、琉球(大度浜)上陸
『球陽 附巻四』〇尚泰王 四年正月初三日、日本土佐国人有りて、杉板に坐駕して摩文仁群小渡村に来到す。此の日、土佐国人三名有りて、杉板一隻に坐駕し小渡村の浜に到る。随ひて来歴を問ふに即ち云ふ、上届丑年正月初五日、我等小船に坐駕し、海に出でて釣魚するの時、陡に暴風に遇ひ、風に随ひて漂流し、経に七日を歴て、纔に辰方無人島に到りて擱礁撃砕し、上岸活命す。該島は、物の食すべき無く擒へて衆鳥を食し、聊か餓莩を免かる。六月に到り、亜米理幹国の討鯨船一隻、該島洋面を駛過するを見る。即ち其の船を招来して、性命を救ふを請ひ、該船に塔駕して、西洋  (略)只万次郎一人頗る亜米理幹文字を知る有り等語と。本年七月、本国に駐箚する倭官四員の離任して回国するの便有るに逢ふ。其れをして接護回籍せしむ。

   
   
ジョン万次郎が上陸した大度浜の宿道

□1851年ージョン万次郎達は、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩や江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。嘉永5年(1852年)に河田小龍が取り調べ報告書「漂巽紀略」を書く。その際に開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩主・島津斉彬がその英語・造船知識に注目した。これが縁で薩摩藩の洋学校(開成所)で英語の講師をしているほか、和洋折衷船の越通船建造にも知識を活用されている。→(ウィキペディア)■儀間比呂志『琉球に上陸したジョン万次郎』(2001-10沖縄タイムス社)

①ジョン万次郎

ジョン万次郎資料館=住所: 高知県土佐清水市養老303 海の駅あしずり 電話:0880-82-3155
日本初の国際人「ジョン万次郎」の足跡。中ノ浜村(現土佐清水市中浜)に漁師の子として生まれ、後に日本人として初めて渡米。帰国後、アメリカで学んだ文化や思想を伝え、龍馬などに多大な影響を与えたジョン万次郎。その生涯を映像やジオラマなどで紹介しており、万次郎直筆の英文字など、万次郎にまつわる様々な史料を展示している。(島袋和幸氏撮影)→島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)2016年5月25日『沖縄の軌跡』第171号「琉球に上陸した{ジョン万次郎}」

雑司ヶ谷霊園 ジョン万次郎墓、「中濱萬次郎記念碑」ー島袋和幸氏撮影


1929年1月15日『沖縄朝日新聞』「島尻郡摩文仁に上陸した幕末の風雲児 中濱万次郎の生涯」


1932年3月『沖縄朝日新聞』山城正忠「戯曲『中濱萬次郎』に就いて」



1991年12月 長田亮一『ジョン万次郎物語』沖縄県ジョン万次郎を語る会/1971年12月 石井研堂『異国漂流奇譚集』(1927年 初版)新人物往来社

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

儀間比呂志「1976年 天野鉄夫先生之像」/1980年 天野鉄夫



天野鉄夫氏の著作




写真ー天野鉄夫さん「曼草庵」入口で(新城栄徳・撮影)
天野さんとの出会いは『琉文手帖』4号にも記している。その書斎「曼草庵」は一軒家、かつての住宅で本・資料や焼物が増えたので、同敷地に住宅を新築し移転した。1階右は金城次郎を中心にした焼物博物館、奥は古酒の泡盛甕と焼物が入ったタンスが並んでいた。2階右は植物関係の資料、左が昭和6年以来続けている新聞スクラップ、「琉球学集説」「琉球の自然と生物」「琉球の資源と産業」、沖縄関係資料が所狭しと並んでいる。本宅の金庫には『沖縄時論』『沖縄新公論』などがあった。今それらの資料は沖縄県立図書館に収蔵されている。

天野鉄夫 あまの-てつお
1912-1985 昭和時代の農業技術者。
明治45年3月31日生まれ。戦前は沖縄県国頭郡(くにがみぐん)農会技手をへて,北支那農事試験場に勤務。戦後は琉球政府農林部長などを歴任し,県緑化推進委員会委員長,琉球林業協会長をつとめた。昭和60年7月24日死去。73歳。沖縄県出身。沖縄農林卒。著作に「琉球列島植物方言集」など。(→コトバンク)

天野鉄夫と「トックリキワタ」


那覇市立神原中学校の敷地内では、ガーブ川沿いに美しいトックリキワタが立ち並んでいる。
1980~90年代にかけて、故天野鉄夫先生宅の庭に育つトックリキワタは特に「天野株」と呼ばれ、満開時には樹冠がピンク色に染まりかなり有名だった。見ごろになると、新聞紙上にもと紹介され話題になった。そのことも影響してか徐々に植木市で苗が売られるようになり、瞬く間に沖縄中にひろがり、熱帯花木ブームの火付け役になった。→沖縄県森林緑地課
城岳小学校の通り

楚辺界隈

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1972年4月 沖縄の雑誌『青い海』12号 「屋良朝信くん・ギター一丁かかえ世界一周旅行〝貧乏旅行″」/『青い海』13号①~22号⑧ 屋良朝信「旅行記でない旅行記」

2018-10 屋良朝信◇津野創一さんの愛娘・愛さんとお目にかかれて感無量です。半世紀近くも前に小田急線/南武線-登戸駅前で津野さんにお会いした日のことを鮮明に覚えています。 “青い海”との付き合いを通して”書く“喜びや大切さを学びました。今現在、私がささやかながら物書きの仕事に関わっている原点でもあり感謝の気持ちでいっぱいです。

2018年2月4日 ジュンク堂書店那覇店「屋良朝信『沖縄・思い遥か』発売記念トークイベント」

『沖縄・思い遥か』を手に著者・屋良朝信さん

2017年11月 屋良朝信×新井克英『沖縄・思い遥か』AWAWA

2017年11月 屋良朝信×新井克英『[川崎・鶴見・東京]ウチナーンチュ100年 沖縄・思い遥か』AWAWA
12月11日、那覇市役所で早く用事が済んだので、ジュンク堂那覇店に寄って上記の本を入手。

『神奈川新聞』2018/03/13 本格移住100年 沖縄出身者に勇気を- 沖縄出身で川崎、横浜、東京に移り住んだ人々やその子孫らの素顔を紹介する本「沖縄・思い遥(はる)か」が自費出版された。本格的な移住から約100年の節目を機に、一般財団法人川崎沖縄県人会会員の屋良朝信さん(68)=川崎市川崎区=らが約2年がかりで取材し作成。ミュージシャン、沖縄料理店主をはじめ市井の21人にインタビューし、その思いを伝えた。 沖縄からの移住が本格化したのは1915(大正4)年、現在の川崎区に富士瓦斯紡績(当時)の工場が操業開始したのがきっかけ。

2018年4月2日~8日 川崎競馬場2号スタンド2F「川崎競馬場・沖縄100年の歩み展」(監修:屋良朝信)


Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
nullnull
null

null

null
那覇市歴史博物館

null
『琉球漫録』 (1879年 渡辺重綱 著) 資料コード:T00015795B より
著者の渡辺重綱は、同分遣隊の軍医として1878(明治11)年に沖縄に滞在しました。半年間の滞在中に見聞したことが『琉球漫録』にまとめらています。明治10年代の沖縄の実状を詳しく紹介しています。→沖縄県公文書館


null
写真ー渡邊重綱

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 松濤 船越義珍『愛蔵版空手道一路』榕樹書林2004年12月
○・・・そのために、三〇有余年にわたる教員生活に別れをつげたのである。が、そのかわり、それまでの経験を生かして御奉公をしようというつもりで、当時(後)の県立図書館長の眞境名笑古(安興)、沖縄タイムス編集長(主筆)の末吉麦門冬の両君と相談して、沖縄学生後援会を組織しその経営に当ることになった。一方、先輩や友人とも語り合って、空手道を一本化するために沖縄尚武会を作り、その代表者として働くことにもなったのである。


船越義彰「義珍翁外伝」

null
富名腰(船越)義珍が末吉麦門冬に贈った写真
1922(大正11)年


4月24日  『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆<35>ー唐手の伝来」(『大島筆記』)/「禁止された琉球歌劇が復活の傾向」
4月27日  『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆<37>ー唐手の伝来」

○どうも面映ゆい話だが、私の若い日の修行の一端について、少し書いてみたいと思う。まず、台風の中で稽古をした話は同門の作家・戸川幸夫君①が作品として書いているので・・・
①戸川幸夫ー経歴生後まもなく若松市の実業家の養子となる。大正12年一家で上京。東京日日新聞(現・毎日新聞)記者、社会部副部長などを務める傍ら、長谷川伸主宰の新鷹会に入り、動物小説を書き始める。昭和29年「高安犬物語」で直木賞受賞、以後単行本は二百冊を超える。動物文学という新しい小説の分野を開拓し、小説を書くために世界各地を旅行している。40年沖縄・西表島のイリオモテヤマネコを発見したことで有名。子供向け読み物も執筆。日本動物愛護協会理事、世界野生生物基金委員などとしても活躍。俳人としては「渋柿」系俳人関谷嘶風の手ほどきを受け、「渋柿」所属。他の著書に「野生への旅」(全5巻)「人間提督山本五十六」「けものみち」、「戸川幸夫動物文学全集」(全10巻 冬樹社)、「戸川幸夫動物文学全集」(全15巻 講談社)がある。→コトバンク

○小杉放庵(未醒)画伯②の応援
1916年1月12日朝ー小杉未醒、横山健堂を訪ねて琉球への添書を頼む。
      1月13日ー小杉未醒、太平洋画会脱会の通知を出す。
      2月6日午後7時ー小杉未醒、丹青協会の歓迎会に赴く、山田真山、末吉麥門冬、20人参加。





②小杉放庵 こすぎ-ほうあん
1881-1964 明治-昭和時代の画家。
明治14年12月30日生まれ。小杉二郎の父。小山正太郎にまなぶ。明治40年「方寸(ほうすん)」同人。渡欧後,大正3年日本美術院に洋画部を設立,11年春陽会を結成した。後年油彩から日本画にうつり,独自の水墨画をえがいた。昭和39年4月16日死去。82歳。栃木県出身。本名は国太郎。初号は未醒(みせい)。代表作に「水郷」「山幸彦」,著作に「放庵画論」など。 【格言など】頂の岩に尻据ゑ足指にまさぐらむとす越の国原(歌集「山居」)→コトバンク


小杉放庵(未醒)葉書(新城栄徳蔵)


1910年8月25日 琉球新報・沖縄新聞・沖縄毎日新聞主催「近畿地方観光団」出発→1911年8月25日・26日『琉球新報』松濤「観光団員として」


1912年11月 『琉球新報』松濤「鄭嘉訓の半面」


1913年1月9日『琉球新報』松濤「唐手は武芸の骨髄なり」


1913年7月 『琉球新報』松濤「菊...


1941年4月『月刊文化沖縄』富名腰義珍「空手物語」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 - 1997年7月1日)は、日本の作家。
大阪市生まれ。本名・友一。早稲田大学仏文科卒。「都新聞」記者となり、1939年『文学者』に『残夢』を発表して作家生活に入る。風俗小説作家として活躍、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、『絶壁』が、宇野千代・北原武夫夫妻をモデルとしていると言われ、抗議を受けた。1970年代には、忘れられた作家となっていた。短編「日本ロォレライ」などがある。(ウィキペディア)


井上 友一郎の本

1935年9月14日 井上友一郎、昭和会館参観
   




戦時下の沖縄/1940年1月『月刊文化沖縄』2巻1号 「菊池寛・中野實来県」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1975年9月 ゆうなの会『ゆうなの花便り 第一回エイサーの夕べ』「神奈川ファミリー」

 1980年8月に沖縄県大阪事務所で「第1回観光フェア」、『青い海』にカットなどを手がけていた大城一史の風景画展も開催された。9月発行の『青い海』は特集「沖縄を出た島びと」で諸喜田太栄、仲里祥光、仲間宗一の略伝、大阪の映画館の沖縄人経営者たち、関西在住沖縄県人公共団体・企業リストが付いた。ある日、當間次長のところで雑談をしていると、『青い海』の公共団体・企業リストを見て、機を見ることには早い次長が県事務所でも作りたいといってきた。私も沖縄関係資料室や青い海出版社、青年会などから名簿を集めて提供した。そして出来たのが『関西沖縄出身者名簿』である。□後の話になるが、東京「ゆうなの会」の事務所でメンバーに、私の手帖を見せたことがある。それには「ゆうなの会」「がじゅまるの会」メンバーの自宅、連絡先まで記してある。某劇団の女性に、「これは絶対に活字(ネット)にしてはダメですよ」とクギをさされた。

null
null

 大阪市大正区の千島公園では毎年9月に「エイサー祭り」を開催している。そこにいつも参加している団体の一つが東京沖縄青年会だ。1974年に結成された「ゆうなの会」が母体である。

真久田正氏

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 
1975年11月『青い海』№48 知念政光(琉装史研究者)「ルポ・東京周辺の沖縄芸能」/大阪『青い海』編集室に遊びに来ていた琉装の知念氏から『沖縄と三里塚』を購入し「30歳お目出とう!」と署名してもらった。梅田界隈を案内した。

1975年11月『青い海』№48<沖縄の芸能ー舞踊と音楽>□宮城能造「よもやま芸談」、関西版『仲村米子舞踊研究所第一回発表会、松葉舞踊研究所が五周年記念公演、川田琉球舞踊団として初の関西公演、儀間比呂志新作版画展開かれる」、仲村喬次「武下和平ー島人の心意気を唄う(略)初心が忘れられていくのはテレビの流行歌手たちを見るまでもない。人の心を打たなくなった民謡は、もはや(しまうた)の生命を絶ったもひとしい。」、知念正光(琉装史研究者)「ルポ・東京周辺の沖縄芸能」、崎山任「三味線音楽とアカインコの業績」、「渡嘉敷守良・ある俳優の記録ー芸談、組踊の型」、伊礼正栄「関西の中の沖縄芸能ー悲愴な使命感で、”失われた沖縄”にかわって、ふるさとの伝統と文化を守ろうとした本土の県人たち」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
nullnull
1992年12月ー『新沖縄文学』新城栄徳「来訪者略年表ー1969年7月10日 三島由紀夫、「弓張月」取材のため来沖 」






作家・戸川昌子

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2018年7月 『けーし風』99号 「追悼・新崎盛暉先生」

 沖縄現代史研究の第一人者で社会運動に尽力した沖縄大学元学長の新崎盛暉(あらさき・もりてる)さんが31日午後5時38分、肺炎のため南風原町内の病院で死去した。東京都出身。82歳。告別式は5日、那覇市首里当蔵町3の4の1、万松院で。喪主は妻・恵子(けいこ)さん。(4月1日沖縄タイムス)

null
写真左から新崎盛暉氏、一人置いて新城栄徳、三木健氏/写真右から新崎盛暉氏、新城栄徳


写真左から秋山勝氏、鳥山淳氏、新崎盛暉氏、新城栄徳、屋嘉比収氏、大峰林一氏

null
新崎盛暉 あらさき-もりてる
1936- 昭和後期-平成時代の日本史学者。
昭和11年1月27日生まれ。中野好夫主宰の沖縄資料センター研究員として沖縄戦後史を研究。昭和49年沖縄大助教授となり,58年から平成元年まで学長をつとめる。また石油備蓄基地反対闘争,一坪反戦地主会など沖縄の住民運動に参加。東京出身。東大卒。著作に「戦後沖縄史」「沖縄の歩いた道」「沖縄現代史」など。(→コトバンク)


2017年1月 新崎盛暉『私の沖縄現代史ー米軍支配時代を日本で生きて』岩波書店
沖縄資料センター
1959年12月15日 『琉球新報』関西支局「沖縄資料センター 近く東京の自由人権協会内に設置」

null
法政大学の沖縄文化研究所は中野好夫の沖縄資料センターが核になって設立された。□1961年8月『資料ニュース』№1「沖縄問題に関する資料の展示と懇談の会参考資料」。1963年12月『沖縄資料ニュース』№15「沖縄資料センター資料目録」。1964年6月、島田叡氏事跡顕彰会『沖縄の島守島田叡』中野好夫「最後の沖縄県知事」。1972年3月、中野好夫『沖縄と私』時事通信社。1982年3月、『沖縄資料センター目録』法政大学沖縄文化研究所。1982年7月『法政』№324・外間守善「中野好夫記念文庫について」。1985年4月『マスコミ市民』№201「追悼・中野好夫先生」、6月『新沖縄文学』第64号「追悼特集・中野好夫と沖縄」。1985年、屋宜宣仁『沖縄の日本復帰闘争あのころ』。

□6月10日ーモノレール美栄橋駅で屋宜宣仁氏と出会う。元気そうで何よりだ。

04/01: 崔承喜

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
崔承喜
null
1936年10月22日ー沖縄新聞社の招待で崔承喜一行(10名)、開城丸で来沖。

1936年8月ー日本民俗協会『日本民俗』第13号□琉球古典芸能の印象ー杉浦非水「大阪第五回内国勧業博覧会で琉球踊りをみた」、山崎紫紅、森律子、上司小剣、東儀和太郎、田辺尚雄「玉城盛重、新垣松含の15年前にみた。年老いた今日ー」、兼常清佐、村山知義、、邦正美、深井史郎、伊庭孝、岡元信吉、土岐善麿

崔承喜□私が琉球舞踊に接したのは、これが最初でありますが、それが非常に優れた民俗舞踊であることに大きな尊さを覚えたとともに、それらは私の舞踊の研究の上に、最近に於いて最も得ることの多かったものであったことを喜びます。

幾分新しく様式化されて演ぜられたように思われる「天川踊り」や「鳩間節」等の作品に最も大きな感銘をもったのでありますが、この様な民俗舞踊に於ける優れた手法は、私達に取って摂取さるべき多くのものを保持して居るように思われます。

私はこれらの琉球舞踊の中で、取り入れらるべきものを取入れんとして、此頃新作のレパートリの或る種のものに試みつつありますが、琉球舞踊を見た時に強く感じましたことは、それが朝鮮の民俗舞踊やシャムの民俗舞踊に類似して居る手法を多く包含して居るように感ぜられたことです。殊に上半身の動きー肩の動きや腕の動きは、朝鮮舞踊によく似ていますし、廻り方に於ける足の動きや手首の動きは、シャム舞踊に似てはいないかと思われました。

「組踊」に於ける様式上の特殊性も、朝鮮の民俗舞踊の中で残されている代表的なものである「山臺劇」等に見いだされるようなものに共通したものをもって居るように感じました。勿論、琉球舞踊にしましても、支那、シャム、朝鮮等の舞踊にしましても、東洋の舞踊に独自な、様式上の多くの類似性をもつことは当然なことでありませう。

このような琉球のもつ優れた民俗舞踊が有能なる舞踊家の手に依って、新たに様式化され、そしてそれが成長して行く日には世界に出して誇り得るものさえももつであろうとさえ思われると共に、この様な舞踊の伝統が何故、私達舞踊家に取って左程注目されていないかと思うのであります。スペイン舞踊等に対する関心も勿論必要でありますが、このような私達の手近にある民俗舞踊への関心も、もっと重要なものではないでしょうか。

この様な東洋の民俗舞踊を研究し、それを基礎として行く時には、東洋風舞踊と洋風舞踊との距離は、私達東洋人の踊る洋風舞踊である限りに於いて、もっと縮めることが出来るだろうと思います。この様な方向は私としまして自己の舞踊の一つの方向にしたいと努めつつありますが、いづれにしましても、今度の琉球舞踊に接し得ましてことは、舞踊を専門とする私達にとりまして大きな幸福でありましたし、この様な豊かな舞踊の伝統をもつ琉球に対しまして朝鮮を故郷とする私としましては、一種の羨望さえ感じました。(1936・6・7)


平成12年12月ー『南涛文学』第16号□牧港篤三「崔承喜の踊りー(略)私は崔承喜の踊る舞台を観た 戦前、那覇市内にあった映画館(平和館)で妖艶な踊り姿を観たのである 水着のような黒い服を着た彼女は 舞台の上で観客をとりこにした」


1936年10月(2004年5月『梨園の名優 新垣松含の世界』から)

2002年1月 『日本及日本人』横田順彌「本荘幽蘭ー早く生まれすぎた女傑」連載

» Read More