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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
南風原に行く途次、自由民主党演説会ポスターがありニシメ恒三郎とアサト政晃の顔があった。ニシメは県外移設から辺野古移設に転向した人物、そして憲法改悪を推し進めるあさと。利権漁りの候補者たちである。

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山城みどりさんが手にしている本『戦世の南風原ー語る のこす つなぐ』、平良次子さん

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Category: 04-書の森
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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
鎌倉芳太郎年譜
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1898年10月19日 鎌倉芳太郎、香川県本田郡氷上村字長生(上の紫矢印)に生まれる。父宇一、母ワイの長男
1811年3月  鎌倉芳太郎、平井尋常小学校を卒業

1913年3月ー鎌倉芳太郎、白山高等小学校を卒業。
1913年4月ー鎌倉芳太郎、香川県師範学校本科第1部入学。この頃 江村晴三郎(東京美術学校日本画卒業・白山高等女学校教諭)の知遇を得て日本画の技法を学ぶ。在学中は同郷出身で竹内梄鳳門下の穴吹香村に運筆や写生法を学ぶ。また中央美術社発行の日本画講義録により、結城素明、松岡映丘、鏑木清芳、安田靫彦の写生、臨模、色彩技法等を学ぶ。
○英語教師の小原國芳①の影響を受ける。
①おばらくによし【小原国芳】 1887‐1977(明治20‐昭和52)
な役割を果たした。その学校経営事業の手腕も抜群で,大正末期には成城小学校を都心の牛込から郊外の砧村に移し,そこに成城学園を中心とした学園都市をつくった。29年には,東京町田に玉川学園を創設,33年以後は成城を離れてもっぱら玉川学園での教育経営に力を注ぎ,ここを国際的にも注目をあびるすぐれた総合学園とした。 (コトバンク)

1918年4月ー東京美術学校図画師範科に入学。在学中、日本画は結城素明教授、平田松堂教授②、洋画は田辺至助教授、彫塑は水谷鉄也教授、沼田一雅教授、書道は岡田起作講師、東洋美術史は大村西崖教授③、西洋美術史は矢代幸雄教授④、色彩学は菅原教造講師より学ぶ。ゲーテの色彩論に興味をもつ。

②平田松堂 ひらた-しょうどう
1882-1971 明治-昭和時代の日本画家。
明治15年2月2日生まれ。平田東助(とうすけ)の長男。ちなみに東助の実兄は伊東祐順(伊東忠太の父)。松下正治の父(1940年4月22日 - 松下幸之助の娘、松下幸子と結婚し、松下電器産業・現・パナソニックに入社)。川合玉堂(かわい-ぎょくどう)に師事。明治40年第1回文展に「ゆく秋」が入選。大正10年母校東京美術学校(現東京芸大)の教授。大日本図画手工協会会長などもつとめた。昭和46年6月9日死去。88歳。東京出身。本名は栄二。作品はほかに「小鳥の声」「群芳競妍」など。(コトバンク参照)
   
③おおむらせいがい【大村西崖】 1868‐1927(明治1‐昭和2)
東洋美術史家。静岡県に生まれる。1893年東京美術学校彫刻科を卒業。1902年母校の教授となり,東洋美術史を講ずる。06年審美書院の設立に加わり,《東洋美術大観》15冊,《真美大観》《東瀛(とうえい)珠光》《支那美術史彫塑編》など,中国美術史の図録,研究書を刊行・執筆して,中国美術史研究に大きな足跡を残した。後年の《密教発達志》は帝国学士院賞を受賞。また,晩年,フェノロサ,岡倉天心が排撃した文人画の復興を主張して,白井雨山らと又玄社を結成した。 (コトバンク)

④やしろゆきお【矢代幸雄】 1890‐1975(明治23‐昭和50)
美術史家。横浜市生れ。1921年渡欧し,ロンドン留学を経てフィレンツェのベレンソンのもとで修業。師に学んだ様式批判的方法と世紀末的唯美主義の融合した立場から,日本人としてはほとんど唯一の英文美術史の大著《サンドロ・ボッティチェリ》(全3巻)を著す(ロンドン,1925,邦訳1977)。25年の帰国後は主として日本・東洋美術を対象とし,《日本美術の特質》(1943),《水墨画》(1969)などを著すとともに,欧文の論文や海外での講義を通じて,日本・東洋美術の海外への紹介につとめた。 (コトバンク)

 1918年8月8日ー財団法人・啓明会創立
赤星弥之助①の子で永くアメリカなどに留学した赤星鐵馬②が同郷の牧野伸顕に相談して寄附金・壹百萬圓で1918年8月8日創立。初代理事長に平山成信③。2代目が大久保利武であった。伊東忠太をはじめ鎌倉芳太郎、田辺尚雄、岡村金太郎、池野成一郎、鳥居龍蔵などが援助を受けた。

①赤星弥之助 あかぼし-やのすけ
1853-1904 明治時代の実業家。
嘉永(かえい)6年生まれ。磯長孫四郎(生家は代々天文方で、磯永孫四郎は儒学者)の子で赤星家の養子となる。東京にでて,金貸し業その他の事業に関係し財をなした。明治37年12月19日死去。52歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。兄に□長澤 鼎(ながさわ かなえ、本名:磯永彦輔、1852年 - 1934年3月1日)は江戸時代の薩摩藩士。薩摩国出身。13歳の時藩命でイギリスに留学し、後にカリフォルニアに渡り「カリフォルニアのワイン王」「葡萄王」「バロン・ナガサワ」と呼ばれる。(→コトバンク)

②赤星鐵馬
1883年(明治16年)1月11日 - 1951年(昭和26年)11月9日)は、日本の実業家である。大正銀行頭取。
1901年(明治34年) 東京中学卒。
渡米。ロレンスビル(Lawrence Bill)高校、ペンシルベニア大学卒。
1910年(明治43年) 帰国。
1917年 (大正6年) 父・弥之助死去に伴い、保有していた美術コレクションを売却。後に国宝となった物件が多数含まれた事から『赤星家売立』と呼ばれた。
1918年(大正7年)8月8日 財団法人啓明会設立。
1925年(大正14年) 芦ノ湖へブラックバスを移入。(→ウィキペディア)

③平山成信 ひらやま-なりのぶ
1854-1929 明治-大正時代の官僚。
嘉永(かえい)7年11月6日生まれ。平山省斎の養子。第1次松方内閣の書記官長,枢密院書記官長,大蔵省官房長などを歴任。帝国女子専門学校(現相模女子大)校長,日本赤十字社社長をつとめる。帝展の創設につくした。貴族院議員,枢密顧問官。昭和4年9月25日死去。76歳。江戸出身。本姓は竹村。(→コトバンク)


1921年3月   東京美術学校図画師範科を卒業。奈良古美術見学。唐招提寺で開山鑑真和上が「阿児奈波」に漂着したことを知る。4月、文部省より沖縄県に出向を命ぜられ、沖縄県女子師範学校教諭兼沖縄県立高等女学校教諭に任ぜられる。/東京美術学校同期には米須秀亀(西洋画科)、野津唯尹(日本画科)が居た。翌年には我部政達、嘉数能愛、平田善吉、古謝景明も居た。

鎌倉芳太郎、首里の座間味家に
□向姓ー尚清王弟王子尚垣北谷王子朝里9世向榮大宜味按司朝季次男也 小宗 10世・朝三 和宇慶親雲上ー11世・朝傑 =10世・朝良(父・朝良)ー11世・朝記(健)ー12世・朝鎮(正)・・・・・座間味朝佳 ツル-座間味朝雄
1922年4月   鎌倉芳太郎、東京美術学校研究科(美術史研究室)入学。琉球研究資料を正木直彦校長に提出、同校長の紹介により、東京帝国大学伊東忠太教授の指導を受け、研究を続行する。
      9」月   関東大震災のため東京を離れ、三カ月間ほど、奈良、京都の古美術の研究に従事する。
 

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1924年3月25日『鹿児島新聞』「取壊す首里城」

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1924年4月4日『鹿児島新聞』「首里正殿は保存」
      4月ー鎌倉芳太郎、伊東忠太博士と共同研究の名義で、財団法人啓明会より琉球芸術調査事業のため、一カ年間金3千円の補助を受ける。以降2回追加補助を受け、合計1万円となる。鎌倉芳太郎、東京美術学校助手(美術史研究室勤務)として、沖縄県に出張。首里市の援助により、同市役所(高嶺朝教市長)内に写真暗室を設備し、尚侯爵家、その他首里、那覇の名家の所蔵品を調査、撮影。首里城正殿その他の歴史的建造物については、伊東忠太博士の希望により国宝指定のための参考資料として、これらを撮影する。その他、文献、各種資料の調査のため、尚侯爵家文庫、沖縄県立沖縄図書館、御殿、殿内等各家を歴訪する。工芸資料中の染色は、旧首里王府所属の紺屋を捜究し、型紙、染手本等を蒐集する。一カ年に、写真(四ッ切・キャビネ判)千五百点、実物資料三千点に及ぶ。

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1924-    伊東忠太『琉球紀行』□聞くところによれば日本リーバー・ブラザース株式会社の取締役ジョン・ガスビー氏は英国博物館に送付する目的で、琉球陶器其の他の工芸品を買収の為め琉球に渡り、数千金を投じて古代陶器を買い入れたが、彼は東洋に於ける最も生きたる作品だと激賞し、以前は四五十銭位で売買した古陶器を数十圓で買い集めたそうである。鎌倉芳太郎君も負けずに蒐集しておられるから、稀有の珍品をみすみす外人に奪われることはあるまいと思うが、結局金の競争になるので、聊か心細い感がある。



1925-2-18 『沖縄朝日新聞』「来る28日、古琉球芸術の粋を一堂に陳列して 首里市教育部会が一般公開ー鎌倉芳太郎氏苦心の撮影になる」

1925(大正14)年
9月5日ー東京美術学校で啓明会主催「琉球芸術展覧会」「琉球講演会」「琉球舞台」(登リ口説、カラヤ節、前ノ濱節、童謡踊、千鳥節、萬歳、コテイ節、八重瀬萬歳、ハトマ節、天川節)
12月ー『啓明会第十五回講演集』□東恩納寛惇「琉球史概説」、柳田國男「南島研究の現状」、伊波普猷「古琉球の歌謡に就きて」、鎌倉芳太郎「琉球美術工芸に就きて」、伊東忠太「琉球芸術の性質」、山内盛彬「琉球音楽に就きて
12月ー啓明会『財団法人啓明会創立十年記念会図録』□「第一部 琉球」


1925-9月30日『沖縄朝日新聞』おた「琉球展を観るー9月7日の午後、東京美術学校の大講堂には琉球の舞踊が琉球音楽の伴奏の下に独自な情調と気分を醸しつつ行われていた・・・・」
 
1925年3月    鎌倉芳太郎、東京美術学校美術史研究室に帰校す。
      9月    東京美術学校において、財団法人啓明会主催の琉球芸術展覧会並びに講演会が開催される。鎌倉芳太郎「琉球工芸に就きて」を講演。
      12月   『財団法人啓明会第15回講演集』鎌倉芳太郎「琉球工芸に就きて」

1926年4月   鎌倉芳太郎、再度前事業継続のため、沖縄島を中心にして、奄美大島、宮古島、八重山諸島を調査する。この間、琉球王府紺屋の大宗家沢岻家より、型紙、染手本等の実物資料を譲り受け、同家において、紅型の型置及び顔料色差法を実地に演習、会得する。

1926ー10  『沖縄教育』(國吉眞哲)鎌倉春熈「琉球神座考断章」
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1927年
      9月  鎌倉芳太郎、八重山より台湾に渡って調査旅行し、上海を経て帰国、東京美術学校に帰校す。正木直彦校長担当の「東洋絵画史」講座のため、有給助手となる。

1927-10   『沖縄教育』165号 鎌倉芳太郎「私立琉球炭鉱尋常小学校参観紀」、小原國芳(成城学園主事)「教育道」


1928-12   『東洋工藝集粋』
           『財団法人啓明会創立10年記念講演集』鎌倉芳太郎「琉球染色に就きて」

1928年 『財団法人 啓明会創立10年記念会図録』「東洋工藝集醉」
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1929年8月 『芸苑巡礼』伊東忠太・鎌倉芳太郎「琉球に於ける日秀上人造像考」巧芸社

1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」○ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」
1930-10   鎌倉芳太郎共著『東洋美術史』玉川学園出版部
1931-7    『財団法人啓明会第41回講演集』
1931年     結城素明『東京美術家墓所考』 巧芸社 (鎌倉編)


(粟国恭子所蔵)
1932年12月 鎌倉芳太郎『南畫と北畫』玉川文庫

1933年4月  鎌倉芳太郎、東京美術学校にて「東洋絵画史」講座を担当。8月ー沖縄県那覇市天尊廟において、『歴代宝案』を調査し、理研陽光印画紙を用いて複写本を作る。


れきだいほうあん【歴代宝案】
琉球王国の外交文書を集めたもの。第1~3集,約250冊からなる膨大な記録。1424年(尚巴志王代)から1867年(尚泰王代)まで440年余に及ぶ文書が含まれ,全文漢文で記されている。17世紀末から18世紀初期,前後3回にわたって首里王府の手で編集された。内容は対中国関係(明・清2代)のものが大半を占めるが,中世(古琉球)のものには朝鮮をはじめ,シャム,マラッカ,ジャワ,スマトラ,アンナンなど東南アジア諸国関係のものもあり,琉球王国の対外交流の範囲とその内容を知ることができる。(コトバンク)
1934-3    『南画鑑賞』第3巻第3号 鎌倉芳太郎「醒斎先生語録を読みて」
1935-1    『財団法人啓明会第48回講演集』
1936-6    『南画鑑賞』第5巻第6号 鎌倉芳太郎「将来の画祖たる覚悟」
1936-12   宇宿捷(宮内省図書寮)来沖
1936年12月から翌年1月 鎌倉芳太郎、琉球の城址で古陶器を発掘。

1936年      結城素明『東京美術家墓所誌』 (鎌倉編)

1937-1    鎌倉芳太郎、沖縄県に赴き、首里城、浦添城、照屋城跡等、各所を発掘調査。






1937年1月 帝室博物館『琉球風俗品陳列目録』


1937-7    宇宿捷『琉球と薩摩の文化展覧会目録』
           ○鎌倉芳太郎「時双紙」「赤絵小皿」「赤絵小鉢」「赤絵焼酎入」「女子用簪」「上着」

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松籟生「序文」□冊子甚だ小にして記する所実に簡なりと雖も以て沖縄旅行の栞とするに余りあり 沖縄は無数の島嶼より成ると雖も其面積より云へば漸く薩摩湾を埋むるに過ぎず其人口より云へば帝国の総人口の百分の一に過ぎず然れども日本帝国が全世界に向かって其勢力を澎漲しつつあるの今日に於いて東洋南部に向かって其先鋒の任に当たる者は我沖縄なり殊に沖縄の問題が目を追うて内地政界の議に上り有志の士足をこの地に入れんとする者多きを加るの今日に於いて奥島子のこの著あるは決して徒労にあらざるなり否其効決して尠なからざるなり

元来沖縄に来る者其地形産物より寧ろ重に歴史に注目するは余が往々事実に於いて見る所なりこの著歴史の概要を記せざるは余が遺憾とする所なり故に余は歴史としては中山世鑑、球陽、世譜、王代記、南島記事、沖縄誌、歴史材料の雑書としては遺老傳、羽地按司仕置、具志頭親方独物語、林政八書、其他教育上の雑書としては「御教条」文学としては平敷屋朝敏の「苔の下」「若草物語」「貧家記」宜湾朝保の歌集等あることを旅行者に紹介し以て聊か本著の遺漏を補うと云爾

目次 地勢/行政区画/県庁より各蕃所に至る里程/警察区画/租税/租税納期/郵便逓送差立到着時間表/学校/病院及医館/船舶改所並船舶/諸会社銀行/公会堂/都邑/汽船賃/物産/輸出入品/明治二十七年中汽船発着表

名区勝地並に県庁よりの里程-波の上 那覇市街の内に在り官幣小社あり眺望絶佳なり(十丁余)、御物見城 那覇江中に在り那覇臺又吾妻館と称し山水兼備那覇の勝を双眸に集む(四丁余)、奥武山 那覇江中御物見城の後に在り所謂蓬莱山の在る処最散歩に宜し、淵佐 那覇市端に在り(十丁余)、大嶺村 海辺廣濶の遊歩場小禄間切に在り(一里余)、崇元寺 泊村に在り舜天王以来の廟所なり(廿一丁余)、首里城 一里一丁余、社壇 西原間切末吉村に在り眺望廣濶なり(一里七丁余)、識名 真和志間切に在り尚家の別荘にして邸内頗る風景に富む(一里十丁)、瓣の嶽 西原間切に在り(一里二丁余)、普天間 宜野湾間切に在り奇岩怪石を以て疊みたる洞窟なり(三里廿三丁余),浦添茶園 浦添間切に在り尚家の別業にして尤幽邃なり(二里二丁余)、中城城址 中城間切に在り古忠臣護佐丸の居城せし跡にて眺望殊に佳絶なり(四里廿二丁余)、護佐丸墓 中城城下に在り(仝)、与那原港 大里間切に在り津堅久高を眼下に見下ろし風色甚美なり(一里卅丁余)、糸満漁場 兼城間切に在り本県第一の漁場にして人戸稠密村落の第一位を占む(二里廿六丁余)、南山古城 高嶺間切に在り古南山王の住せし処(三里卅三丁余)、運天港 今帰仁間切に在り源為朝公の始めて飃着せし処にて海深く大船を泊すべし(廿二里十丁余)、轟の瀧 名護間切数久田村に在り本島第一の瀑布なり(十七里六丁余)、許田の手水 有名なる井水なり(十五里 )、百按司墓 今帰仁間切に在り古へ戦乱を避けて死したる貴人等を合葬せし処なり(廿二里九丁余)、万座毛 恩納間切に在り曠原にして万人を座せしむべし(十一里廿二丁余)

神社仏閣-神社・波上宮官幣小社(那覇若狭町村)、識名宮(真和志間切識名村)、普天間宮(宜野湾間切普天間村)。仏閣・円覚寺(首里當蔵村)、天界寺(同金城村)、天王寺(同當蔵村)、観音堂(同山川村)、崇元寺(那覇泊村)、龍福寺(浦添間切浦添村)、以上禅宗なり。護国寺(那覇若狭町村)、臨海寺(同西村)、遍照寺(西原間切末吉村)、以上真言宗なり。眞教寺(那覇西村)眞宗なり。

旅店遊廓及び割烹店ー遊廓・辻を第一とし中島渡地之れに次ぐ辻にて有名なるものは荒神の前大福渡名喜伊保柳香々小新屋染屋小等とし又内地藝妓を養ひ宴会の席に侍せしむる所を通堂とし辻中島渡地を通じて貸座敷六百卅一戸娼妓一千四百四十二人藝妓辻九人中島四人又通堂の貸席兼割烹店は東屋藝妓廿一人を有し常盤仝九人小徳仝十人海月三人券番三人合計四十六人。貸席・最高尚にして眺望絶佳なるものを吾妻館とし域内に西洋料理蓬莱温泉あり座敷最廣きを常盤新席とす。割烹店・席貸を兼ぬるものは東屋分店とし其の他三國屋京亀玉川屋いろは等あり。

演劇場ー本演芸場中毛演芸場壬辰座及び首里演芸場等なり開場は毎日午后二時より六時迄夜は六時半より十二時迄木戸銭は晝四銭夜三銭場代とてはなし。
旅宿ー那覇の池畑回漕店浅田山川森田を最上として嘉手納前兼久名護等あり。



広告ー吾妻館主塚本平吉「景色無双吾妻館」「那覇通堂・東家本店」「那覇東村警察署前・東家分店」/那覇東村・林支舗「沖縄名産漆器類監獄署製 味噌醤油其他種々 肥後米 薩摩米 唐白米 卸小売商」/小嶺漆工場主「琉球漆器改良広告」/那覇東村上の倉・岩満写真場「写真ー琉球絶景の眞趣を穿つは写真なり弊店写真中優等なる者は首里城、中城殿、師範学校、崇元寺、波の上、墓所、辻遊廓、市場、通堂浜、那覇市街、吾妻館、奥武山、港口、三重城中島海岸、蓬莱山なり琉球の眞景を知り度き人は続々御注文を乞う」/那覇港・池畑回漕店/那覇港西村五十二番地・浅田五三郎「御旅館」/那覇西村百七十番地・三國屋「御料理いろいろ鰻は最も御好評を辱ふす」琉球新報社「沖縄の事情を詳かにせんと欲せば先ず琉球新報を読め 琉球新報は沖縄唯一の新聞紙なり」/那覇通堂・常盤楼/京都三条小橋西入・萬屋甚兵衛「沖縄県庁御用宿」/那覇西村四百六十番地・山川新五郎「御旅館」/那覇大門通・柳屋「諸印章彫刻 和洋小間物販売店」
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1930年3月ー大阪商船株式会社「鹿児島沖縄航路案内」




1935年8月ー大阪商船「沖縄航路案内」
1936年6月ー大阪商船「那覇大蓮航路案内」
1936年8月28日

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1937年4月ー浮島丸処女航海沖縄視察団『沖縄視察団紀念文集』儀間光裕「『観光沖縄』ニ就テ」
□1966年9月ー崎原久『儀間光裕ー75年の歩み』沖縄出版社



1937年12月ー大阪商船「沖縄へ沖縄へ」(山内國夫「萬座毛にて」)

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琉球玩具
1935年       「琉球古代玩具目録」東京浅草・沖縄屋(矢賀宗友)
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1959年1月『守礼の光』創刊号「表紙・崎山さんの玩具づくり/過去と未来を結ぶ民芸」/1973年3月『琉球の文化』<特集1・琉球の伝統玩具>
「崎山嗣昌/古倉保文」

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06/20: 比嘉康文

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2014年10月23日 沖縄県立図書館前でー左が比嘉康文氏
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左に佐藤栄作首相に沖縄返還を要望する大城眞順立法院議員。大浜信泉の後左に津野創一琉球新報記者。

1981年3月ー『沖縄工芸ニュース』№8□津野創一「かじまやー民衆的工芸をこそ」



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1985年7月ー大阪市北区の扇町会館「第七回小説推理新人賞」受賞祝賀会で左から新城栄徳、山城隆子さん、津野創一(『青い海』創刊者)氏
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1986年8月 『沖縄ミステリー傑作選』河出文庫/1986年9月12日『琉球新報』津野創一「『沖縄ミステリー傑作選』への思い入れ」





津野創一氏の娘(愛ちゃん)


津野創一氏の娘(愛さん)と孫(夏実ちゃん)




2015年9月18日 写真左が宮城篤正氏、豊見山愛さん

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大正8年 アナーキスト和田久太郎を囲んで、左から座安盛徳、砂川、和田、城田徳隆、泉正重、富永、伊是名朝義

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大正11年 アナ・ボルの合同研究会。前列右から城田徳隆、伊是名朝義、小橋川南村、東恩納寛敷、中列右から泉正重、城田徳明、比嘉良児、山田有幹、玉城オト、後列右から渡久地政憑、玻名城長好、比嘉栄、比嘉春潮、篠原勇、座安盛徳、辺野喜英長、城間康昌

□篠原勇
1934年6月14日『沖縄日報』篠原勇「滅びゆく琉球玩具の話」
1936年11月10日『沖縄日報』篠原勇「商工祭に於けるウィンドー競技会私観」
1965年3月30日『沖縄タイムス』「教え子たちが招待ー20年ぶり来沖の篠原氏」
1965年4月1日『沖縄タイムス』篠原勇「沖縄の土を踏んで」

○先頃彩管を握って丹青界の新淮として活躍した伊是名朝義君は首里工芸出の若い糸満美人を妻君に迎えて、町役場前に小じんまりした一軒を借り受け「いせや」と銘打った雑貨商を開いて朝義君は醤油行商に若い妻君は商売と針仕事に夫婦水入らずの労働生活を営んでいる。朝義君は仕事の傍ら「糸満労働組合」の主宰役も司って、労働者の為に奮闘を続けている。汗と塵に塗れた労働服姿の君は「糸満の労働者ほど惨めな者はありません、幼い頃五六十圓の端金で買われて来て十四五年間も労役を余儀なくされてそれは実に悲惨なものです。」と醤油樽を卓代わりに、鐵葉鑵を腰掛け代りに飽くまで徹底した労働運動者は大きい鼻を蠢かして語った。

○1924年8月2日『沖縄タイムス』伊是名朝義「衆論ー琉球人が答ふ 神村弔魚氏へ」
○1924年8月6日『沖縄タイムス』伊是名朝義「衆論ー正体を見よ」

○先頃行方不明にを伝えられた社会主義の座安盛徳君と呈さだ子は双方の親の許しを得て同棲の機を得たので、一二ヶ月前には東京方面へ両君手を携えて花見旅行と洒落れたが今は糸満の座安君の宅に同棲して、座安君は家業の支那そば屋の板場、さだ子は給仕人として甲斐甲斐しく家業を勤しんで共稼ぎの實を示している。

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みどり風通信に「異説・狭き門より入れ」が写真と共に載っている。 「みどり印刷」ここをクリック

ナザレのイエスとフーテンの寅
テープカッターの話から始まり、シーサー編、アーチの話と、とりとめも無く書き続けて来たが、その間、ヨーロッパの石造文化、街並みであったり、美しい橋であったり、雄大な水道橋などの多くの写真を目にして来た、又、YouTubeなどで、クラシックを聴いていると、バックに映るのは、その時代を象徴する石造建築の数々なのである。
 以前に、法隆寺の宮大工棟梁、西岡常一の世界に魅せられて、色々調べた事もあったが 石造物という硬質で計算し尽くされた、バロック音楽での通奏低音や対位法の様に人工的で 精緻な理詰めの美しさの世界に唖然としながらも動画や写真に見入っていたのだった。
 その中で、『狭き門』という現在の日本でもよく使われている言葉を思い出し、それに付いての想いを述べてみたいと思うようになった。 先ずをネットで検索してみた。 回答「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見い出す者は少ない。」 (マタイによる福音書7章13~14節) と出典である新約聖書の文言がある。 続いてあなたの人生を考えましょう。 例えば、毎日の中で「あぁ~疲れた、ちょっと遊ぼう。ちょっとネットで時間を潰そう」 というのと、将来の為に何か勉強しよう。どちらが広い道でしょうね? 人生毎日選択ですよね。 広い道か、狭い道か?人生たった一度きり、何が広い道になり、何が狭い道なのか?このように真剣に生きましょうね。 とあった。「狭き門より入れとは、事をなすときに、簡単な方法を選ぶより、困難な道を選ぶほうが、自分を鍛えるために役立つという考え」とある。 具体的には受験や就活は(もしかして婚活も?)より高みを目指すべし!その後には経済的 にも社会的にも恵まれた道が広がっている・・・・というものだろうし、現代日本人の多くはそう云う理解の方が一般的なのだと思う。

 そこで普段は馴染みの薄い「新約聖書」を紐解き、又、吾が愛する「フーテンの寅」を登場させて『狭き門』とは何か?『狭き門』の向こうにある神の(天の)御国(ミクニ)の事を考えてみたいと思った。キリスト教と聖書の大胆な概略(本論を前に) イエス・キリストと現在一般に呼ばれているが、イエスとは当時のありふれた個人の名前で ある。キリストは『油そそがれし者』つまり聖なる人という意味である。だから、イエスが生きていた時代には、ガリラヤ地方のナザレ村出身という事で「ナザレのイエス」と呼ばれていた。 (イエス・キリストとはキリスト教の成立後、後世の人々が呼んだ呼び名である。) イエスはキリスト教の創始者ではない、一貫してユダヤ教徒であり、ユダヤ教の刷新(律法主 義からの脱却)を求め、最後には殺された。

 キリスト教の始まりはイロイロな流れがあるが、イエスと一面識も無いパウロの組み立てた 教義をして『キリスト教』として成立した。イエス=神の地上に具現したものと考えるところがポイントで、イエスの神格化である。パウロは弁証法の使い手で(弁証法=哲学用語、他人との議論の技術)ソクラテスやプラトン などの同時代の地中海周辺の哲学者達の影響を多分に受けていると思う。新約聖書の彼の「書簡集(~への手紙)」は難解で理屈っぽく、粘りけが強く、イエスの「口伝」(譬え話が絶妙で 聴く人に最初にガツンと衝撃を与える)とは対照的である。(パウロはシプタヤーなのである。)パウロは「キリスト教」のオルガナイザーであると僕は思っている。

 新約聖書はイエスの言行録ではない。イエスの死後、ユダヤ教ナザレ派(イエスの教えに参 同する人々)によって語り継がれた物語を、それぞれのグループ(セクト?)の人々がそれぞれ に書き綴った「宗教文集」である。パウロによってキリスト教の教義が固まった後に、現在の形に編集され『聖書』と呼ばれた。イエスの死後400年後の事である。四っの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、それに続いて「使徒行伝」そしてパウロの書いた数十の書簡集、最後に有名な「ヨハネの黙示録」がある。 四福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカによる福音書は共観福音書と呼ばれ、ほぼ同じ事柄 が同じ順序で書かれている。

 

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翁長良明コレクション
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〇山里永吉編『松山王子尚順遺稿』(1969年8月)に「古酒の話」が載っているが、上記の山里永吉「琉球南蛮と泡盛」には尚順の泡盛古酒壺の写真がある。


古美術なるみ堂 ☏098-987-5530
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古美術 観宝堂2022-10-28 店主の吉戸直氏と屋良朝信氏


古美術 観宝堂2019-12-13 店主の吉戸直氏と新城栄徳。直氏の父君は吉戸 栄造.、満州から福岡県久留米市
 古美術観宝堂は、1972年(昭和47年)沖縄本土復帰の記念すべき年に琉球古美術専門店として創業を開始しました。以来、39年の間より良い品物を求めて常に最善を尽くして参りました。1992年(平成4年)には東京の表参道(旧ハナエ・モリビル)に支店を出店し、現在は根津美術館横の南青山に移転し営業をしております。現在の当店の専門分野は琉球美術及び九州古陶磁であり、特に琉球古美術の分野においては非常に高い評価を受けており、国内外のコレクター様のみならず、県内外の美術館博物館へも多数の琉球古美術の優品を納入させて頂いております。ご興味のある方はお気軽にお立寄りください。
〒900-0032 沖縄県那覇市松山1-23-11-23-1 MatsuyamaNaha-city, Okinawa Japan.Tel. 098-863-2643, Fax. 098-863-0583


右ー40周年記念として発行された『八重山の古陶』
 
吉戸直氏の関西大学の先輩
辻合 喜代太郎(つじあい きよたろう、1908年6月25日 - 1993年7月2日)は、服飾史研究者。
大阪府出身。大阪天王寺師範学校卒、関西大学法文学部哲学科卒。1959年「日本上代文様の研究」で関西大学文学博士。大阪市立大学家政学部助教授、教授、京都府立大学教授。72年定年退官、琉球大学教授、帝国女子大学教授。→ウィキ

桑原守也(くわはら もりや)1918年6月17日 三重県熊野市生まれ。1942年9月 関西大学法学部卒業。1946年10月 近畿日本鉄道入社、局長。その後 近畿日本ツーリスト常務。1976年12月 沖縄都ホテル社長 2002年6月5日逝去
2017年12月17日ー昨日、息子夫婦が訪ねたというので、観宝堂に行く。店主の吉戸直氏と娘さんと息子の妻との関わり、吉戸氏の経歴などを聞く。国際通りに用があるというので同行す。明日東京だと話されるのでグーグルマップで南青山店を見ると、根津美術館が横にあって、岡本太郎記念館も近い。
 
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柏島
高知県大月町の西南端に浮かぶ周囲約4kmの小さな島。本島と2本の橋で結ばれ、目の前には沖ノ島や鵜来島が望めます。太平洋の黒潮と豊後水道がぶつかる周辺海域は、魚類が約千種類にも上る豊かな海で、スキューバダイビングや磯釣りのスポットとして全国から注目を集めています。夏場には海水浴やキャンプを楽しもうと大勢の人が島を訪れます。また昨年、松竹映画「釣りバカ日誌14」のロケ地ともなりました。(大月町ブログ)


高知県大月町柏島<法蓮寺>蘇鉄とアコウ

蘇鉄/島袋和幸「蘇鉄ネットワーク」④「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)氏が全国の烽火跡などを訪ねた折に出会った蘇鉄。


高知県土佐清水市元町<蓮光寺>蘇鉄



高知県四万十川中城<東ノ城跡>蘇鉄



高知県四万十川下田<下田港>蘇鉄

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1、やんばるの 森に咲くか赤椿
  その火炎燃ゆる 紅を
  誰のためにぞ 咲かすのか
  海の底にや あるという
  竜宮人の 髪かざり
2、わだつみの 底よりいでて陽のひかり
  仰ぐ女人の その髪に
  赤い椿が 眩しいよ
  はるか彼方の 陽炎の
  竜宮恋しと 祈るのか
3、ゆらゆらと オオゴマダラが風に舞い
  椿の森の 木漏れ日を
  たゆとうように 飛び交うよ
  竜宮人の 祈りをや
  天翔け翔けて はこぶのか  


ティダガ
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 私は1999年5月発行の『沖縄近代文化年表』(琉文手帖4号)に「1916(大正5)年9月10日ー暁烏敏来沖」と記した。このときは琉球新報が11日に「暁烏敏先生を訪ふ」が載っている。公文書館が収集した1925(大正14)年3月4日『沖縄朝日新聞』に「暁烏敏 昨日来県、西新町南陽旅館へ」が載っている。
暁烏敏 あけがらす-はや
1877-1954 明治-昭和時代の僧,仏教学者。
明治10年7月12日生まれ。清沢満之(まんし)に師事して浩々洞(こうこうどう)にはいり,明治34年雑誌「精神界」を発刊,精神主義をとなえる。のち生家の石川県真宗大谷派明達寺の住職となり,布教と著述につとめた。昭和26年同派宗務総長。昭和29年8月27日死去。77歳。真宗大(現大谷大)卒。法名は恵祐。著作に「歎異抄講話」など。
【格言など】人が自分を軽蔑して居るというて憤慨するのは自分自らが軽蔑しているのだ。→コトバンク


1971年5月 『建替え建直しー人類愛善世界の提唱』出口王仁三郎生誕百年記念会

2003年正月 沖縄県護国神社に行くと鳥居に日本民主同志会/松本明重とあった。懐かしい名前である。平良盛吉翁の『関西沖縄開発史 : 第二郷土をひらく 』1971を援助し日本民主同志会本部名で発行していた。松本氏は世界救世教外事対策委員長、祇園すえひろ会長だが、沖縄に関わり、「京都の塔」「小桜の塔」に碑を建てている。この人とダブって思い出したのが、「元祖スエヒロ」という「しゃぶしゃぶ」の店を経営している大阪日本工芸館長の三宅忠一氏である。この人も沖縄民芸などに力を入れていた。

松本氏は東本願寺紛争にも名が出てくる。相対する西本願寺と云えば弟22世門主・大谷光瑞が思い出される。戦前沖縄の新聞に、光瑞来沖かと云う記事を見たことがあるが、結局来なかったようである。その代わりというか弟の大谷尊由が1918年2月に来沖し相当に歓迎されたようである。光瑞と同じく宗教界の怪物と知られる人物に大本の出口王仁三郎が居る。その大本宣教場の亀岡「天恩郷」は明智光秀の居城跡で、そこに沖縄から奉仕活動に来ていた金城ひろこさんを大城敬人(現名護市会議員)氏に紹介されて遊びによく行った。


虎瀬公園は、モノレール儀保駅から歩いて15分くらいの ところにある公園。 遊具は滑り台や幼児遊具があるので小さい子でも 楽しく遊ぶことが出来る。 園内には、緑が多くとても見ているだけでも気持 ちいい。 公園の隣りには世界救世教の建物がある。

蘇鉄



佐藤惣之助詩碑。1959年五月、惣之助の出身地である川崎市民の厚意によって建立されたものである。当初、首里当之蔵町、旧琉球大学構内(現首里城公園)にあったものを、公園の整備に伴い、当地へ移築したものである。建立に際しては、同じ神奈川県出身の陶芸家浜田庄司の手による陶板が用いられている。碑の文言は「宵夏」。


○せかいきゅうせいきょう 【世界救世教】
岡田茂吉(一八八二~一九五五)が開いた大本教系の新宗教。もと大本教布教師だった岡田が、岡田式神霊指圧療法を始めて大日本観音会を一九三五年に発足させたのが始まり。宇宙の主神を大光明真神とし、岡田の掌から放射する観音力で浄霊が行われ、万病が治るとする。のち大日本健康協会・世界メシヤ教などと変わり現名に。岡田は信者から「お光様」と呼ばれた。所在地・静岡県熱海市桃山町。MOA美術館 創立者の「熱海にも世界的な美術館を建設し、日本の優れた伝統文化を世界の人々に紹介したい」との願いを継承し、1982年にMOA美術館を開館しました。その成り立ちは、昭和32年にまず、熱海市に熱海美術館を開き、昭和57年の創立者生誕百年の年に、現在の美術館を開館、「Mokichi Okada Association」の頭文字を冠するMOA美術館と改め、財団の中心拠点として、美術品の展観をはじめ、いけばな、茶の湯、芸能、児童の創作活動などを通して、幅広い文化活動を展開。


那覇市泊の光明会館(生長の家沖縄県教化部)の蘇鉄
○生長の家は、大本で機関紙の編集主幹をしていた谷口雅春が起こした教団です。生長の家は岡田茂吉の系統と違い、大きな分裂もなく現在に至っています。この教団の特徴は、設立の経緯が同人雑誌だったので現在でも機関紙を定期購読することが信者の勤めとなっていること、またメディア・マスコミには非常に敏感です。マスコミの取材に対してまともに答えを出さない(出せない)新宗教団体が多い中、生長の家だけは毎度ながらもっとも丁寧に回答を出します。生長の家のホームページにも、教義から組織から歴史から沿革その他にいたるまで、丁寧に解説されています。(はてなキーワード)

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○6月4日『沖縄タイムス』
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裏側から見た山田ビル


写真左から、新垣辰雄氏、新城栄徳、山田實さん
○6月5日の琉球新報美術月報に仲嶺絵里奈さんが那覇市民ギャラリー「新垣辰雄写真個展 泊外人墓地」について「泊外人墓地を通して他者や写真表現と向き合う作家の真摯な姿勢が今後の展開をより一層期待させる内容であった」と書いている。

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○「戸澤裕司写真展ーカジマヤー(風車祝い)」の第4会場は2013年6月いっぱい宮崎市広島1-6-11-1 ギャラリー「ArtSpace色空」(このギャラリーは戸澤裕司氏の師匠・藤原新也氏の写真展でこけら落し)
ArtSpace色空
〒880-0806 宮崎県宮崎市広島1丁目6-11-1  Tel 050-3615-4468
営業時間11:00ー19:00 「ArtSpace色空」は、カフェ&ギャラリーです。

毎日新聞 6月4日□写真展・対談:写真家ら死生観で対談 沖縄の親子追った
沖縄で数え年の97歳を盛大に祝う風習「カジマヤー」や島々に残る洗骨葬の習慣を軸に、十数年間にわたる親子の姿を追った写真家、戸沢裕司さん(48)=東京都=の写真展が、宮崎市広島1の「アートスペース色空」で始まった。2日は、東日本大震災などの取材でさまざまな「死」を目撃した戸沢さんと、市内で在宅終末医療を推進する石川智信医師(60)らによる「生と死」をテーマにした対談もあった。写真展は、100歳目前の2005年に亡くなった仲里チヨさんと、七男正雄さん(65)=那覇市=の姿を、1990年ごろから2011年までカメラで捉えたドキュメンタリー。対談会場は約60人の聴衆で埋まり、正雄さんも駆けつけた。震災直後の悲惨な現場を取材した戸沢さんは、死に対して「恐怖のイメージ」を抱いていたという。しかし11年11月、正雄さんに招かれ、チヨさんの洗骨に参加し、気持ちに変化が起こった。洗骨葬は、埋葬から数年後に遺骨を洗い、瓶に納骨し直す儀式だ。地元の人は「既に他界しているチヨさんの夫との結婚式」と位置づけて祝っていた。戸沢さんは「家族に見送られる死は怖くない。気持ちが軽くなった」と振り返った。8年前の開業以来、約500人の最後をみとった石川医師は「がん患者が自宅で亡くなることは1割もなく、現代人は生が死に変わる過程を理解できない」と指摘。「家族でみとり、在宅で苦しさと喜びを共有できる終末医療ならば、患者は生きてきた証しを伝えられる。洗骨も同じで、ぜひ残してもらいたい」と語った。【門田陽介】

 新城栄徳様
毎日新聞の掲載、流石!よく見つけましたね(笑)
朝日新聞宮崎版にも記事が掲載されたんですが…
毎日の方が記事はキチンとしてましたね(汗)
宮崎の写真展は6月いっぱいやってますが…
次は本にしてまとめる作業です。
未発表写真も沢山プリントして、仲里さんにはお母様に感謝の気持ちと洗骨のときまでの気持ちを原稿にして貰って、併せて出版社に持ち込んで営業します。
仲里さんに会ったら、原稿宜しくと戸澤が言ってたとお伝え下さいm(__)m2013-06-05 @ 23:53KD175128024028.ppp-bb.dion.ne.jp

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『大好き沖縄』の出口冨美子さんが「琉球新報」の6月3日付けコラム「落ち穂」で私の短歌を紹介してくれました。出口さん ありがとうございます。コラムは別添のとおりです

和魂(にぎたま)と 鎮(しず)まりおれず 出(い)でゆきて 叱りとばさむ この国の様(ざま),この歌は、「大好き沖縄」第52号のエッセイ「復帰40年・平和の一首」の10句ほどの中の一句。出口さんは「作者はわからないが」と書いていますが、j実は、これらの短歌はすべて私の作品でした。出口さんも編集部も、他の人の作品を私がまとめ紹介したものと思い込んだようです。

私の作品とは知らないで評価してくださったわけでそれだけに客観的にいい短歌だということでしょうね。(笑い),もっとも短歌というよりスローガンとしていいのかも。それでも歌人の喜納勝代さんの短歌と並べて紹介してくれたわけで、私には大変光栄かつありがたいことです。

また、この歌を、Tシャツにして、国会前を歩きたいとの意見もあるようです.大変うれしいことです。「大好き沖縄」の皆さん!、図に乗っての?お願いですが、著作権料などとは言いませんので、「泰」の一字だけ入れてもらえば大変ありがたい(笑い),
私も買いますので、是非!是非!,実現したら、皆さまもどうぞよろしくお願いします。

※昭和19年生まれの私の名前は、「身を鴻毛の軽きに置き、国を泰山の安きに置かむ」からきていますので、マッチするでは?。沖縄戦当時ゼロ歳だった私の沖縄戦体験記は去年、真和志中学校同期生たちで刊行した『赤ん坊たちの記憶』にあります。

※また、、ご参考に、この歌は、魂魄の塔の次の歌の本歌取り。和魂となりて 鎮もる奥津城の 御床の上を渡る潮風(翁長助静),
魂魄の塔は、沖縄戦後、捕虜収容所の真和志村民によって建立された沖縄戦慰霊の塔の第一号。南部に散乱していた3万5千余柱の犠牲者の遺骨を軍民を問わずに収集し納めた沖縄戦最大の骨塚。沖縄戦跡国定公園には、全国各都道府県の慰霊の塔があるが、「沖縄県の塔」というものはない。魂魄の塔が事実上沖縄の塔となっているからで、6月23日の慰霊の日には、沖縄の人びとはこの塔に必ず参拝する。