1931年7月ー左から許田重友、大嶺政寛、山田有昴、西村菊雄、具志堅以徳、城間、新垣、大城貞盛、大嶺政敏/ニシムイで左が具志堅以徳、玉那覇正吉
1963年11月 『守礼の光』「東恩納文庫・文庫事務長の具志堅以徳氏」
1971年11月 那覇市制50周年 36年振再現那覇大綱引協力者感謝状受賞記念
2015年10月24日 沖縄県立博物館・美術館講座室「ニシムイの画家たち 金城安太郎・具志堅以徳について」
具志堅以徳
1984年ー左から金城安太郎、具志堅以徳、新城栄徳/書斎の具志堅以徳
2018年1月30日 具志堅宅の途次/写真左からー具志堅隆氏、洋子さん、野原由将氏(那覇大綱挽保存会)、新城栄徳、比嘉清敏氏(那覇大綱挽保存会)
蔡崇(さいすう)を元祖とする琉球王国の士族(久米氏族)。12世・蔡壎より小禄間切(現・那覇市小禄)儀間村の脇地頭職を務めた。1世・蔡崇は、福建省泉州府南安県の出身。家譜によると、宋の書家として有名な蔡襄の6世孫という。8世までは通事(通訳)にとどまっていたが、9世・蔡堅より脇地頭職を賜り殿内クラスに昇格した。分家10世に蔡氏志多伯家・蔡鐸、その息子蔡温と、門中に傑出した人物を輩出した(ただし蔡鐸は梁氏からの養子)。→蔡氏儀間殿内(さいうじ ぎまどぅんち)
1966年『現代沖縄人物三千人ー人事録ー』沖縄タイムス社
儀間比呂志 1923年3月5日 - 2017年4月11日
ぼくは大正12年に、沖縄の那覇の久米村でうまれた。(妹に山田和子、湖城智子、弟に達、進)久米村は、中国の三十六姓の子孫です。琉球王朝が、中国から、技術者とかを招聘した。今でいう技術導入ですね。そして久米村に集めて住まわせたわけです。このことを考えてみると、中国人は世界中にちらばっていて、華僑になっていますが、なかなかその国々の中へ同化してしまうことがない。ところが沖縄では、そういう中国人の根強い意識さえ、沖縄化してしまった。沖縄には華僑はない。みんな沖縄人になって、ずっときた。そうした子孫です、ぼくは。
小さい頃の記憶だと、村ではよく中国風の祭りをやったり、清明祭という」祖先をまつる祭りを、一族一門集まってやったことがあった。→1973年1月『やぽねしあ』儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」
1940年5月7日 儀間比呂志、家を出て那覇港から神戸、横浜と船を乗り継ぎ読谷村の呼び寄せ移民とともに15日目にテニアン島で下船した。→儀間比呂志「私の原風景」(沖縄美術全集4付録)
1961年4月30日『琉球新報』「小学生のころからわたしは絵が好きでした。これは、担任の先生が今も沖縄で活躍しておられる画家の大嶺政寛さんで、つねに絵の話を聞かされていたせいもあったようです。・・・」/写真ー儀間比呂志の父・昌(次男、兄に盛)、母・初子(蔡氏神山家)
子息(修)の結婚式ー儀間比呂志夫妻と談笑する船越義彰/儀間比呂志夫妻、手前が儀間氏の母堂
儀間進氏が水道工事業界の専門紙『水と生活新聞』(水と生活新聞社。渋谷)に連載中の「江戸水道物語」
儀間比呂志の弟の儀間進氏、右が妹の智子さん/儀間比呂志が1951年に沖縄の家族に宛てた手紙
2018-4-25 ギャラリー象で儀間比呂志の妹・山田和子さんから話を聞く豊見山愛さん。/1984年
識名ー儀間比呂志母の納骨。現在、墓は大阪
1998年6月ー儀間比呂志、東江清俊氏/2002年10月ー神山泰治氏、儀間比呂志、宮城篤正氏
1966年『現代沖縄人物三千人ー人事録ー』沖縄タイムス社
儀間比呂志 1923年3月5日 - 2017年4月11日
ぼくは大正12年に、沖縄の那覇の久米村でうまれた。(妹に山田和子、湖城智子、弟に達、進)久米村は、中国の三十六姓の子孫です。琉球王朝が、中国から、技術者とかを招聘した。今でいう技術導入ですね。そして久米村に集めて住まわせたわけです。このことを考えてみると、中国人は世界中にちらばっていて、華僑になっていますが、なかなかその国々の中へ同化してしまうことがない。ところが沖縄では、そういう中国人の根強い意識さえ、沖縄化してしまった。沖縄には華僑はない。みんな沖縄人になって、ずっときた。そうした子孫です、ぼくは。
小さい頃の記憶だと、村ではよく中国風の祭りをやったり、清明祭という」祖先をまつる祭りを、一族一門集まってやったことがあった。→1973年1月『やぽねしあ』儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」
1940年5月7日 儀間比呂志、家を出て那覇港から神戸、横浜と船を乗り継ぎ読谷村の呼び寄せ移民とともに15日目にテニアン島で下船した。→儀間比呂志「私の原風景」(沖縄美術全集4付録)
1961年4月30日『琉球新報』「小学生のころからわたしは絵が好きでした。これは、担任の先生が今も沖縄で活躍しておられる画家の大嶺政寛さんで、つねに絵の話を聞かされていたせいもあったようです。・・・」/写真ー儀間比呂志の父・昌(次男、兄に盛)、母・初子(蔡氏神山家)
子息(修)の結婚式ー儀間比呂志夫妻と談笑する船越義彰/儀間比呂志夫妻、手前が儀間氏の母堂
儀間進氏が水道工事業界の専門紙『水と生活新聞』(水と生活新聞社。渋谷)に連載中の「江戸水道物語」
儀間比呂志の弟の儀間進氏、右が妹の智子さん/儀間比呂志が1951年に沖縄の家族に宛てた手紙
2018-4-25 ギャラリー象で儀間比呂志の妹・山田和子さんから話を聞く豊見山愛さん。/1984年
識名ー儀間比呂志母の納骨。現在、墓は大阪
1998年6月ー儀間比呂志、東江清俊氏/2002年10月ー神山泰治氏、儀間比呂志、宮城篤正氏
1979年3月 沖縄の雑誌『青い海』81号 宮里一夫「波乱の密貿易時代ー与那国を舞台に活躍した糸満漁夫ー
2018年1月21日ー左から柳悦州氏、宮里一夫氏/島袋文雄氏の書斎で、宮里一夫氏
2018年1月21日ー左から柳悦州氏、宮里正子さん,宮里一夫氏
2018年1月18日 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館「柳悦州 退任記念展・蒐集資料展 ラオス・シルクロード」/写真左が柳悦州氏、新城栄徳
悦州氏は1986年 - 1990年、沖縄県立芸術大学で附属研究所長、教鞭をとった柳悦孝氏の次男。悦孝氏は柳楢悦の長男・悦多の長男。
沖縄県立博物館・美術館「麗しき琉球の記憶―鎌倉芳太郎が発見した美ー」(2014年5月20~6月22日)図録
波照間永吉「鎌倉芳太郎収集の沖縄文化関係資料」
高草茂「沖縄文化の甦りを願うー鎌倉芳太郎が写真で今に伝えるものー」
佐々木利和「鎌倉芳太郎氏<琉球芸術調査写真>の指定」
西村貞雄「鎌倉芳太郎がみた琉球の造形文化」
柳悦州「鎌倉芳太郎が寄贈した紅型資料」
波照間永吉「古琉球の精神を尋ねてー鎌倉芳太郎の琉球民俗調査ー」
粟国恭子「鎌倉芳太郎が残した琉球芸術の写真」
謝花佐和子「鎌倉芳太郎と<沖縄>を取り巻くもの」
鎌倉秀雄「父の沖縄への思い」
宮城篤正「回想「50年前の沖縄・写真でみる失われた遺宝」展
新城栄徳「末吉麦門冬ー芸術家の名は音楽のように囁くー」
三木健「<鎌倉資料>が世に出たころ」
柳 楢悦(ならよし) /1832(天保3)~1891(明治24)→安房文化遺産フォーラム
江戸生まれ、9歳で書や算術を学び、元服後に和算や測量術塔を学ぶ。1855(安政2)年に幕府の長崎海軍伝習所で、勝海舟や榎本武揚らとともに近代的な航海術や海防に必要な測量術を学ぶ。新政府の海軍創設の基幹要員として上京、1886(明治19)年に初代の海軍水路部長に就任。水路業務の推進だけでなく、関澤明清とともに水産技術の発展に尽力し、1888(明治21)年大日本水産会幹事、1890(明治23)年第一回貴族院議員となるが、翌年逝去。
1873年2月、「琉球全島測量ノ命」が下された。測量体制は、大阪丸(440トン 磯辺包義艦長)に柳楢悦水路権頭、青木大尉、大伴兼行中尉、高橋惟熈、石川洋之助、加藤重成、第一丁卯艦(125トン 中村雄飛艦長)に、中村雄飛大尉、児玉包孝、その他水路寮生徒(補助)というメンバーであった。
一行は1873年2月12日、品川湾を抜錨、途中、下田、神戸、呼子、鹿児島、山川の各港を経て南西諸島に達した。4月、和久田勇次郎(千葉県木更津の人)が11日急遽したので座間味島阿護の浦に碑を建てた。→1989年7月『座間味村史』
1873年-柳楢悦・中村雄飛・大伴兼行・狩野応信製図『大琉球那覇港之図』
柳悦多(よしさわ) / 1882(明治15)~1923(大正12)→安房文化遺産フォーラム
1880(明治13)年に加納治五郎の姉・勝子と再々婚し、悦多(よしさわ)・宗悦(むねよし)が生まれているが、楢悦の没後、幼い兄弟は伯父の嘉納塾で柔道を学ぶ。嘉納は東京師範学校の学長として館山に水泳練習場を開き、水泳師範の本田存(ありや)に指南を得た安房中学は日本一のカッパ中学と異名をとる。安房中学の野球部と柔道部の指導にあたっていた悦多は、関東大震災で生徒を避難させた後、建物倒壊で殉職している。
写真ー1939年4月17日、久米島にて後列左から柳悦孝、河井寛次郎、柳宗悦、芹沢銈介、喜久山添采、喜久里教宣(具志川村村長)、濱田庄司
2018年1月29日ー榕樹書林(沖縄宜野湾市)の武石和美社長、ひより
会場で、私は宝島社の出版物に興味があったので2001年4月『公安アンダーワールドー日本の秘密情報機関』と2004年2月 宝島社『筑紫哲也「妄言」の研究』を買った。宝島社『筑紫哲也「妄言」の研究』〇与那原恵「迷惑な沖縄愛 悲劇の島、癒しの島というステレオタイプー筑紫哲也のような、平和、人権を唱えるタイプの人間が興味を抱きつづける場所は『沖縄』である。沖縄には彼らが求めるさまざまなテーマがある。」
◎与那原恵・執筆記事・著書→ウィキペディア
『別冊宝島107号 女がわからない!』(JICC出版、1990年1月23日)に寄稿。AVギャルを取材した初の女性ライターとなる。
「AV撮影現場を体験するーモニターの中でだけ一瞬輝ける女の子たちがいた!」(『別冊宝島124号 セックスというお仕事ー女が見た女を売る女たち 』、JICC出版、1990年12月 )
「妻たちの、昼下がりの売春ー風の中の雌鶏」『別冊宝島224号 売春するニッポンー素人が売春する時代への処方箋』(JICC出版、1995年6月、『物語の海 揺れる島』収録)
「モデルの時間ー荒木経惟と過ごした冬の日の午後」(雑誌「Stwitchvol.10 No1 荒木経惟 写狂人日記」1992年3月号、『物語の海 揺れる島』収録)
「フェニミズムは何も答えてくれなかった<オウムの女性信者たち>」(『宝島30』1995年8月号、『物語の海 揺れる島』収録)
「ひめゆりの物語は、もういらない」( 『宝島30』1995年12月号、『物語の海 揺れる島』収録)
「メディア異人列伝」(岡留安則編集『噂の真相』1997年10月号、㈱噂の真相)
1997年4月ー与那原恵『物語の海、揺れる島』小学館
2018年1月16日ー左 銘苅和義(ツボヤ書房 ☎098-879-4545 携帯080-4315ー5437)、新垣英樹 (小雨堂 ☎098-894-5202) 右 宮城未来(言事堂 ☎fax098-864-0315)、新垣英樹、天久斉(Booksじのん ☎098-897-7241)、銘苅和義
トークショー 1月20日(土)15時~「古本屋入門」天久斉(BOOKSじのん)×宮城未来(言事堂)×小原猛(ダムダムブックス)
2月10日 ジュンク堂那覇店 大城宜武「漫画からみた沖縄」/写真左から武石和実氏、大城宜武さん、森本浩平ジュンク堂那覇店長
1983年ー『琉球新報』
2010年12月ー『沖縄キリスト教学院大学論集』第7号□大城冝武「沖縄マンガ史・試論ー沖縄マンガの黎明期
私は1984年12月発行の『琉文手帖』「文人・末吉麦門冬」で1921年以降の『ホトトギス』の俳句も末吉作として収録した。これは別人で熊本の土生麦門冬の作品である。土生麦門冬には『麦門冬句集』(1940年9月)がある。
1940年9月 川畑恒二・編『麦門冬句集』昭和印刷所(東京牛込区)
1937年11月 東京星ヶ岡茶寮ー右より藤木行人、古河風可①、茂野冬篝、土生麦門冬、菅裸馬②、斎藤適萃、乾固堂
①古河 虎之助(ふるかわ とらのすけ、明治20年(1887年)1月1日 - 昭和15年(1940年)3月30日)は、日本の実業家。古河財閥創業者古河市兵衛の実子で、3代目当主。爵位は男爵。位階勲等は正四位勲三等瑞宝章。紺綬褒章受章。号は風可。古河財閥を多角化させ、総合財閥に発展させた。→ウィキペディア
②菅礼之助 すが-れいのすけ
1883-1971 大正-昭和時代の実業家。
明治16年11月25日生まれ。菅礼治の長男。古河合名理事をへて,昭和14年帝国鉱業開発社長となる。21年石炭庁長官,29年東京電力会長。俳誌「同人」を主宰。昭和46年2月18日死去。87歳。秋田県出身。東京高商(現一橋大)卒。俳号は裸馬(らば)。著作に「裸馬翁五千句集」など。→コトバンク
【格言など】ガヤガヤした生活ばかりだったから,せめて死ぬときはひとりで静かに死なせてくれ(米寿のときのことば)
文学同人雑誌『那覇』
同人ー大串孝作・崎山鬼兵・南三郎・仲村渠・牧港徳蔵・首里二郎・古沢亀次郎・土田徳・山里長生・花城具志・中城章太
目次
評論ー花城具志「あけもどろの花」/南三郎「文学と地方性」
火野葦平□発刊に際してー随分前からぜひと思っていた琉球行を果たすことが出来てたいへん勉強になった。それはいろいろな意味で得るところが尠くなかったが、文化方面のことに関しても収穫が大きかったので喜んでいる。歴史や民俗学、民藝等に興味を持つ人にとっては琉球は汲めども尽きぬ宝庫の観があるであろう。しかし、それらは豊富な伝統の上に新しい世代に添うて今後の琉球文化がどう動いて行くかということは最も切実な問題であると思われる。外部から琉球を骨董品にしてしまうことはよいことではあるまい。また沖縄の人達が自らも骨董品に甘んじることも省みられなけでばならないことであろう。伝統の根が深く抜きがたいということはそれに制肘されることではなく、その遺産を相続することによってより立派な新しい伝統を創造することの意であろう。そこにこそ新しい沖縄文化の朝が開けるものと思われる。特殊な事情のために具体的にはいろいろと困難な問題があるようだ。しかし、世に誇るに足る立派なる琉球文化が新しい出発の肥料になるのでなければ悲しいのである。
私は今まで遠くから考えていた私の琉球文化に対する概念が、今度の旅行で根底から覆されたことを感じた。私は沖縄の文化人達の深い悲しみを知り、胸もいたむ思いである。しかしながらそれらの身に喰い入る寂寥に鞭うって、昂然と出発を開始しようとする意欲に対して悲壮な感じを受ける。私は今度の旅行で「那覇」同人の諸兄と歓談する機会を持ったことを大いなる喜びとする。慌ただしい日程のためにゆっくりと意見を交換することの出来なかったのを遺憾とするが、それでも私達は文学と生活、文壇と文学、標準語の問題、文学の言葉、地方文学、等について心おきなく語り合うことが出来た。そのようなことは今後の「那覇」の歩調の上に具現せられて行くことと大いなる楽しみにしている。私達の「九州文学」の歩みとともに、共通する九州的血液の交流をもって、前進してゆきたい。「那覇」の人達がそれぞれ優れた特質を持ち、「那覇」にまで到る間の文化的苦悩の深さにも敬意を感じている。「九州文学」に対しても鞭撻を願いたく、新しい日本の文学の建設に輝かしい成果を挙げられんことを期待して歇まない。
詩ー山里長生「前方」/牧港徳蔵「擬混土攪拌機」/仲村渠「雌」
創作ー大串孝作「魔風異」/花城具志「茶飯写生」/土田徳「妻」
あとがき
編集発行人・大城徳蔵 那覇市上蔵町2ノ86
印刷所・有馬三笑堂 那覇市久米1ノ18
発売所・沖縄書籍株式会社 那覇市東町1丁目2ノ89 仲村渠気付
1940年9月 川畑恒二・編『麦門冬句集』昭和印刷所(東京牛込区)
1937年11月 東京星ヶ岡茶寮ー右より藤木行人、古河風可①、茂野冬篝、土生麦門冬、菅裸馬②、斎藤適萃、乾固堂
①古河 虎之助(ふるかわ とらのすけ、明治20年(1887年)1月1日 - 昭和15年(1940年)3月30日)は、日本の実業家。古河財閥創業者古河市兵衛の実子で、3代目当主。爵位は男爵。位階勲等は正四位勲三等瑞宝章。紺綬褒章受章。号は風可。古河財閥を多角化させ、総合財閥に発展させた。→ウィキペディア
②菅礼之助 すが-れいのすけ
1883-1971 大正-昭和時代の実業家。
明治16年11月25日生まれ。菅礼治の長男。古河合名理事をへて,昭和14年帝国鉱業開発社長となる。21年石炭庁長官,29年東京電力会長。俳誌「同人」を主宰。昭和46年2月18日死去。87歳。秋田県出身。東京高商(現一橋大)卒。俳号は裸馬(らば)。著作に「裸馬翁五千句集」など。→コトバンク
【格言など】ガヤガヤした生活ばかりだったから,せめて死ぬときはひとりで静かに死なせてくれ(米寿のときのことば)
文学同人雑誌『那覇』
同人ー大串孝作・崎山鬼兵・南三郎・仲村渠・牧港徳蔵・首里二郎・古沢亀次郎・土田徳・山里長生・花城具志・中城章太
目次
評論ー花城具志「あけもどろの花」/南三郎「文学と地方性」
火野葦平□発刊に際してー随分前からぜひと思っていた琉球行を果たすことが出来てたいへん勉強になった。それはいろいろな意味で得るところが尠くなかったが、文化方面のことに関しても収穫が大きかったので喜んでいる。歴史や民俗学、民藝等に興味を持つ人にとっては琉球は汲めども尽きぬ宝庫の観があるであろう。しかし、それらは豊富な伝統の上に新しい世代に添うて今後の琉球文化がどう動いて行くかということは最も切実な問題であると思われる。外部から琉球を骨董品にしてしまうことはよいことではあるまい。また沖縄の人達が自らも骨董品に甘んじることも省みられなけでばならないことであろう。伝統の根が深く抜きがたいということはそれに制肘されることではなく、その遺産を相続することによってより立派な新しい伝統を創造することの意であろう。そこにこそ新しい沖縄文化の朝が開けるものと思われる。特殊な事情のために具体的にはいろいろと困難な問題があるようだ。しかし、世に誇るに足る立派なる琉球文化が新しい出発の肥料になるのでなければ悲しいのである。
私は今まで遠くから考えていた私の琉球文化に対する概念が、今度の旅行で根底から覆されたことを感じた。私は沖縄の文化人達の深い悲しみを知り、胸もいたむ思いである。しかしながらそれらの身に喰い入る寂寥に鞭うって、昂然と出発を開始しようとする意欲に対して悲壮な感じを受ける。私は今度の旅行で「那覇」同人の諸兄と歓談する機会を持ったことを大いなる喜びとする。慌ただしい日程のためにゆっくりと意見を交換することの出来なかったのを遺憾とするが、それでも私達は文学と生活、文壇と文学、標準語の問題、文学の言葉、地方文学、等について心おきなく語り合うことが出来た。そのようなことは今後の「那覇」の歩調の上に具現せられて行くことと大いなる楽しみにしている。私達の「九州文学」の歩みとともに、共通する九州的血液の交流をもって、前進してゆきたい。「那覇」の人達がそれぞれ優れた特質を持ち、「那覇」にまで到る間の文化的苦悩の深さにも敬意を感じている。「九州文学」に対しても鞭撻を願いたく、新しい日本の文学の建設に輝かしい成果を挙げられんことを期待して歇まない。
詩ー山里長生「前方」/牧港徳蔵「擬混土攪拌機」/仲村渠「雌」
創作ー大串孝作「魔風異」/花城具志「茶飯写生」/土田徳「妻」
あとがき
編集発行人・大城徳蔵 那覇市上蔵町2ノ86
印刷所・有馬三笑堂 那覇市久米1ノ18
発売所・沖縄書籍株式会社 那覇市東町1丁目2ノ89 仲村渠気付
01/06: 「私設文学資料室」主宰・新城良一
2021年4月 半藤末利子『硝子戸のうちそと』講談社
新宿区立漱石山房記念館(しんじゅくくりつそうせきさんぼうきねんかん)は、夏目漱石の生誕150周年を記念して東京都新宿区が開設した記念博物館である[。2017年(平成29年)9月24日に開館した。〇2019年9月『漱石山房記念館だより』第1号
1970年4月 『夏目漱石自筆全原稿 坊ちゃん』番町書房
夏目漱石資料
1916年12月11日『琉球新報』
松岡映丘と漱石「草枕」・絵卷を見る
「熊本『草枕』MAP」
夏目漱石「草枕」
東京都近代文学博物館(とうきょうと きんだいぶんがくはくぶつかん)とは、東京都目黒区の駒場公園内にあった文学館である。加賀藩主であった旧前田侯爵邸洋館を利用し、1967年4月に隣接する日本近代文学館と同時開館した。2002年3月に閉館し、資料は日本近代文学館や日本現代詩歌文学館、実践女子大学などへと移された。 建物は1991年3月に「旧前田侯爵邸洋館」として東京都指定有形文化財(建造物)に指定され、無料で土・日曜日、祝日のみ見学が可能になっている。→ウィキペディア
1973年1月 犬塚昭夫『やぽねしあ』6号 「儀間比呂志版画集」 儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」
犬塚昭夫
「陶さんの_つれづれ草」2007年1月ブログに「●追悼 犬塚昭夫」「犬塚昭夫作品集リスト」が載っている。
○犬塚昭夫が死んだ。2007年が明けて3日のことという。六十四才だった。
私がそれを知ったのは、1月7日のこと、前日6日、彼の家に2度ほど電話をしたが留守であった。正月で外出しているのかと思い、Faxを流して私の用件を伝えた。「蒼生舎通信68号からはじまる今年の誌面(巻頭)に貼り絵と詩をお願いしたい。」という内容である。7日朝十時に、再び電話をした。奥さんが出られた。「Faxでお願いしたことですが……」と私は切り出した。電話口の向こうで、ちょっと沈黙する様子があってのち「実は、犬塚は亡くなりました日、葬式をすませたところです。」という声が返ってきた。私は動顛した。〈いつ、どこで、どうして、なぜ……〉相手の気持も考えず、矢継ぎ早に興奮して問いかけた。奥さんの要を得た説明があって、私は沈黙する他はなかった。
蒼生舎通信は、
2003年から梟(詩とエッセイ)、
2004年続・梟(詩とエッセイ)、
2005年続々・梟(詩とエッセイ)、
2006年詩人の肖像
と犬塚昭夫の詩作品を飾って来た。私はそれが誇りであり、犬塚作品を巻頭に置いて読者に蒼生舎通信という冊子を届けることの喜びを味わって来た。犬塚昭夫との事は、私が二十歳ちょっとの若者で、大阪を彷徨っていた頃に結んだ友誼だが、30代〜40代の長い断絶のあと再び取り戻した代えがたい宝である。私は今、自分が失ったものの大きさに打ち据えられている。 (2007.1.7 蒼生舎・太田光昭)
01/05: 沖縄の雑誌『青い海』新年号
沖縄の雑誌『青い海』新年号
1972年 新年号
1973年 新年号
1974年 新年号ー2018年1月2日/琉球朝日で玉城節子顕彰公演「翔舞美ら清ら」を見る。やはり正月は舞踊に限る。
1975年 新年号
1976年 新年号
1977年 新年号
1978年 新年号
1979年1月
1972年 新年号
1973年 新年号
1974年 新年号ー2018年1月2日/琉球朝日で玉城節子顕彰公演「翔舞美ら清ら」を見る。やはり正月は舞踊に限る。
1975年 新年号
1976年 新年号
1977年 新年号
1978年 新年号
1979年1月
01/05: 沖縄関係の文庫本
沖縄関係の文庫本サイズの本を列記すると、渡邊重網『琉球漫録』(1879年)、奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』(1895年)、菊池幽芳『琉球と為朝』(1908年)、尚球『廃藩当時の人物』(1915年)、金城三郎『沖縄産有要植物』(1916年)、秦蔵吉『琉球案内』(1919年)、大城彦五郎『琉球語案内』(1925年)、摩文仁賢和『攻防自在護身術空手拳法』(1934年)だが、これに郷土研究社の『炉辺叢書』を加えると多様に富む。
1908年12月10日 當間重慎、諸見里朝鴻、大城彦五郎ら『沖縄毎日新聞』創刊→1915年1月『沖縄毎日新報』と改題
1911年12月 伊波普猷『古琉球』大城彦五郎 沖縄公論社・那覇区字西83番地
1917年5月 県会議員選挙 国頭郡から久志助英・金城時男・大城彦五郎・宮城栄喜・平良真順・仲田徳三が当選.
1929年3月 秦蔵吉『大典記念 沖縄人事興信録』「大城彦五郎」/1925年3月 大城彦五郎『琉球語案内』大城活版所
1895年2月 奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』沖縄印刷所(根路銘恵伝)松籟◇序=冊子甚だ小にして記する所実に簡なりと雖も以て沖縄旅行の栞とするに余りあり 沖縄は無数の島嶼成ると雖も其面積より云へば漸く薩摩湾を埋むるに過ぎず其人口より云へば帝国総人口の百分の一に過ぎず然れども日本帝国が全世界に向かって其勢力を澎漲しつつあるの今日に於いて東洋南部に向かって其先鋒の任に當る者は我沖縄なり殊に沖縄の問題が日を追ふて内地政界の議に上り有志の士足をこの地に入れんとする者多きを加るの今日に於いて奥島子のこの著あるは決して徒労にあらざるなり否其効決して尠なからざるなり
元来沖縄に来る者其地形産物より寧ろ重に歴史に注目するは余が往々事実に於いて見る所なりこの著歴史の概要を記せざるは余が遺憾とする所なり故に余は歴史としては中山世鑑、球陽、世譜、王代記、南島記事、沖縄誌、歴史材料の雑書としては遺老伝、羽地按司仕置、具志頭親方独物語、林政八書、其他教育上の雑書としては「御教條」文学としては平敷屋朝敏の「苔の下」「若草物語」「貧家記」宜湾朝保の歌集等あることを旅行者に紹介し以て聊か本著の遺漏を補ふと云爾
1919年8月 『琉球案内』沖縄實業新報社(秦蔵吉)
官公衛/学校/寺院教会/新聞雑誌社/弁護士/医師/銀行会社/米商協会員/糖商同業組合/帽子同業組合/運送業/材木商/呉服雑貨商/肥料商/海産物商/乾物商/茶商/漆器商/泡盛及酒類商/陶器商/薬種商/化粧品商/ペンキ商/染物業/食料品商/製革業/自転車商/靴商/度量衡器商/菓子商/造船業/印刷業/料理店/劇場及活動写真/筑前琵琶/理髪屋/土木請負業/産婆/牛乳屋/感化事業/戸数人口/知事及議員/多額納税者/耕地/重要物産/主なる海産物/海陸交通/陸運/白山療養園/名所旧跡/一便滞在の視察/口説・四季口説、上り口説、下り口説/新聞取次店/宿料及手土産
主なる旅館ー楢原旅館(西本)、濱崎旅館(西本)、川津旅館(西新)、大正館(西本)、森田旅館(通堂)
写真業ー吉村貞(上蔵)、久志助親(上蔵)、又吉写真館(上蔵)、光陽軒(上蔵)、久野写真館(若狭)、大和写真館(上蔵)
写真ー尚球
『廃藩当時の人物』表紙/明治43年『スバル』11号
尚球『廃藩当時の人物』(1915年)
尚健伊江朝直/宜湾朝保/浦添朝昭/富川盛奎/亀川盛武/義村朝明/林成(世)功/与那原良傑/伊舎堂盛英/池城安規/津波古政正/豊見城盛網/伊江朝重/喜屋武朝扶/久志助保/知花朝章/護得久朝常/百名朝起①
①1983年3月 『那覇市史だより』「『百名家文書』収集経過および文書概要ー名城林世功(本名・新垣)陳情通事遺銀御心付金給与御恩典蒙ラスニ付請願/那覇区字久米二千六百七十三番地 兄・名城世勲71歳 名城世功妻・名城カマド66歳 名城世功養子・名城先安 明治41年12月 中城御殿家扶各位閣下」
1908年12月10日 當間重慎、諸見里朝鴻、大城彦五郎ら『沖縄毎日新聞』創刊→1915年1月『沖縄毎日新報』と改題
1911年12月 伊波普猷『古琉球』大城彦五郎 沖縄公論社・那覇区字西83番地
1917年5月 県会議員選挙 国頭郡から久志助英・金城時男・大城彦五郎・宮城栄喜・平良真順・仲田徳三が当選.
1929年3月 秦蔵吉『大典記念 沖縄人事興信録』「大城彦五郎」/1925年3月 大城彦五郎『琉球語案内』大城活版所
1895年2月 奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』沖縄印刷所(根路銘恵伝)松籟◇序=冊子甚だ小にして記する所実に簡なりと雖も以て沖縄旅行の栞とするに余りあり 沖縄は無数の島嶼成ると雖も其面積より云へば漸く薩摩湾を埋むるに過ぎず其人口より云へば帝国総人口の百分の一に過ぎず然れども日本帝国が全世界に向かって其勢力を澎漲しつつあるの今日に於いて東洋南部に向かって其先鋒の任に當る者は我沖縄なり殊に沖縄の問題が日を追ふて内地政界の議に上り有志の士足をこの地に入れんとする者多きを加るの今日に於いて奥島子のこの著あるは決して徒労にあらざるなり否其効決して尠なからざるなり
元来沖縄に来る者其地形産物より寧ろ重に歴史に注目するは余が往々事実に於いて見る所なりこの著歴史の概要を記せざるは余が遺憾とする所なり故に余は歴史としては中山世鑑、球陽、世譜、王代記、南島記事、沖縄誌、歴史材料の雑書としては遺老伝、羽地按司仕置、具志頭親方独物語、林政八書、其他教育上の雑書としては「御教條」文学としては平敷屋朝敏の「苔の下」「若草物語」「貧家記」宜湾朝保の歌集等あることを旅行者に紹介し以て聊か本著の遺漏を補ふと云爾
1919年8月 『琉球案内』沖縄實業新報社(秦蔵吉)
官公衛/学校/寺院教会/新聞雑誌社/弁護士/医師/銀行会社/米商協会員/糖商同業組合/帽子同業組合/運送業/材木商/呉服雑貨商/肥料商/海産物商/乾物商/茶商/漆器商/泡盛及酒類商/陶器商/薬種商/化粧品商/ペンキ商/染物業/食料品商/製革業/自転車商/靴商/度量衡器商/菓子商/造船業/印刷業/料理店/劇場及活動写真/筑前琵琶/理髪屋/土木請負業/産婆/牛乳屋/感化事業/戸数人口/知事及議員/多額納税者/耕地/重要物産/主なる海産物/海陸交通/陸運/白山療養園/名所旧跡/一便滞在の視察/口説・四季口説、上り口説、下り口説/新聞取次店/宿料及手土産
主なる旅館ー楢原旅館(西本)、濱崎旅館(西本)、川津旅館(西新)、大正館(西本)、森田旅館(通堂)
写真業ー吉村貞(上蔵)、久志助親(上蔵)、又吉写真館(上蔵)、光陽軒(上蔵)、久野写真館(若狭)、大和写真館(上蔵)
写真ー尚球
『廃藩当時の人物』表紙/明治43年『スバル』11号
尚球『廃藩当時の人物』(1915年)
尚健伊江朝直/宜湾朝保/浦添朝昭/富川盛奎/亀川盛武/義村朝明/林成(世)功/与那原良傑/伊舎堂盛英/池城安規/津波古政正/豊見城盛網/伊江朝重/喜屋武朝扶/久志助保/知花朝章/護得久朝常/百名朝起①
①1983年3月 『那覇市史だより』「『百名家文書』収集経過および文書概要ー名城林世功(本名・新垣)陳情通事遺銀御心付金給与御恩典蒙ラスニ付請願/那覇区字久米二千六百七十三番地 兄・名城世勲71歳 名城世功妻・名城カマド66歳 名城世功養子・名城先安 明治41年12月 中城御殿家扶各位閣下」
01/05: 文庫/岩波文庫
1993年11月『写真で見る岩波書店80年』岩波書店
上右ー日本遠征記 (岩波文庫) 文庫 – 1948/8/15 ペルリ (著), 土屋 喬雄 (翻訳), 玉城 肇 (翻訳)
下ーあらし (岩波文庫) 文庫 – 1950/11 シェイクスピア (著), 豊田 実 (翻訳) →豊田實『日本英学史の研究』
○1928年ー市河三喜編輯『岡倉先生記念論文集』に豊田實が「沖縄英学史稿」を寄せている。豊田は沖縄県の依頼で1928年3月22日から28日まで英語講習のため那覇に滞在した。そこで沖縄県立沖縄図書館長の真境名安興などの協力を得て沖縄英学史を調べたのが前出の沖縄英学史稿として結実した。中に末吉麦門冬の「百年前の英語通」も引用し真栄平房昭の家譜を書いている。
中学時代、雑誌付録の「手帳」や文庫本はいつも持ち歩いていた。そのころ開南の宮城書店(古本)で平凡社『ポケット百科事典』を入手した。岩波の『広辞苑』の縮刷版だ。百科事典でも分冊にすれば持ち歩ける。高橋文夫『雑誌よ、蘇れー「情報津波」時代のジャーナリズム』(晶文社2009年)に「分冊百科が好調な理由は、雑誌にしても、読者が読みたい号だけ買うようになってきた中で、特定のテーマに沿った内容以外はそぎ落とした機能性が受けている。ネット時代に入って、読者のところに押し寄せる情報量が膨大になりすぎ、一定のテーマについて知識や情報を効率よく整理し体系化した分冊百科が重宝がられるようになった」と、百科事典の現況を記している。
沖縄関係の文庫サイズの本を列記すると、渡邊重網『琉球漫録』(1879年)、奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』(1895年)、菊池幽芳『琉球と為朝』(1908年)、尚球『廃藩当時の人物』(1915年)、金城三郎『沖縄産有要植物』(1916年)、秦蔵吉『琉球案内』(1919年)、大城彦五郎『琉球語案内』(1925年)、摩文仁賢和『攻防自在護身術空手拳法』(1934年)だが、これに郷土研究社の『炉辺叢書』を加えると多様に富む。
1917年8月に琉球新報社主催で第三回中等学校連合雄弁大会が那覇松山小学校であった。新屋敷幸繁が「沖縄青年の熱血を如何にする」、名城政雄が「本県青年の覚醒を促す」と題して演説した。この同年生まれの二人は後に教師、文筆家としても共通のあゆみをみせる。新屋敷には『詩集・生活の挽歌』(1926年)、名城には『小説・秋の波』(1957年)という文庫サイズを出している。
岩波文庫が1927年に創刊され、その2年後に改造文庫が山本実彦によって創刊された。山本は鹿児島の生まれ、中学を3年で退学し沖縄に代用教員として赴いた。其のときの教え子に饒平名智太郎や宮城聡らが居た。出版王の野間清治も結婚前は沖縄で沖縄中学の教諭をしていた。
『アテネ文庫』弘文堂
上左1950年7月ー宮崎正義『米ソ戦うか』/右1952年2月ー宮本三郎『ドガ』
下左1958年7月ー『アテネ文庫解説総目録』/1955年5月15日ー宮城栄昌『律令制度の社会と文化』
○弘文堂ー明治30年(1897年) - 京都で八坂浅次郎(1876-1948)が創業。八坂は京都出身。
大正6年(1917年) - 河上肇 の『貧乏物語』を発刊し、ベストセラーとなる。
昭和13年(1938年) - 本社を東京に移転
昭和23年(1948年) - アテネ文庫を刊行。同文庫は、一冊60~70ページ台が基本で、文化的な内容を扱っていたが、20年代後半に301巻を持って完結。
昭和26年(1951年) - 創業者親族を中心とした社内抗争により、未來社と創文社が生まれる。また昭和40年代に「清水弘文堂」で旧著を再版刊行していた。
社長は八坂浅太郎(1950年代)→ウィキペディア
写真ー1985年ー国会図書館書庫内の文庫本コーナーで新城栄徳、後方が宮城剛助氏(伊佐眞一撮影)
2015年7月『月刊琉球』新城栄徳「芸術、芸能復興の先駆者、金隥・屋部憲」
□『月刊琉球』はジュンク堂那覇店でもバックナンバーで揃っています。
2015年7月『月刊琉球』 <500円+消費税> Ryukyu企画〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16 ☎098-943-6945 FAX098-943-6947
中央・屋部憲
1947年7月 「沖縄美術家協会」設立。会長に屋部憲氏が選ばれた。
1947年ー沖縄美術家協会/沖縄民主主義文化連盟(瀬長亀次郎、屋部憲、池宮城秀意、名渡山愛順、仲村渠)/沖縄文芸家協会 (山城正忠、仲泊良夫、仲村渠、國吉眞哲ら)
1947年6月-沖縄人民党結成ビラ
1948年 左からー後向きがアクトン少佐、松岡政保、山田真山、屋部憲、名渡山愛順
屋部憲ー沖縄美術家協会宛ー近く民政府も機構替へになると伝えられ美術家協会も従来の立場で他の部に合併されては事業遂行上色々な不便を来たすことが多いので、それが決定しないうちにと思ひ取急ぎ美術面に対する私見を書いて副知事を通じて知事に1協会員としての意見を述べるものであるが、これに就いて更に協会員に諮り良く論旨を纏めて正式に陳情する必要がある。(略)(1)美術振興の急務 (2)美術行政機関の設置ー従来美術家協会は文化部に所属していた為め軍政府の指令は民政府に来て民政府の指令は更に文化部を経て美術家協会に来ると云ふ調子で2段、3段を経るため不自由を来たす(略)例えば沖縄美術院(仮称)の如きものを創設して自由活発なる動きをするとか大切である。(3)美術教育機関の設置 (7)商業美術の振興 (8)産業面と連絡して図案部設置ー沖縄の陶器業、漆器業の発展を計るため伝統の図案を生かすのも必要であるが、尚新時代に即する図案を出し美術工芸品の海外移出を計るために図案部を設置して研究をなす。其他紅型、織物等とも関連して商業工芸美術の振興を計る。 (9)美術家協会の集団生活
1949年8月『芝居と映画』屋部憲「戦争と藝能」
○終戦当時国頭羽地大川のほとり、川上の山宿で始めて仲嶺盛竹氏の琴を聴いた時、何とはなしに熱ひものが頬を伝はるのを覚えた。別に悲しいのではない。さりとて歓びの感激でもない。勿論生延びた喜びはあるが、それのみの為めじやない。又戦禍に斃れし人々のことを考へた時悲痛の思いはするが、それのみののためでもない。亦死に勝る戦争中の飢餓と労苦を考えた時、血がにじみ出るやうな思ひ出はあるが、然し、その追憶のためでもなひ。今私はこの名状すべからざる感激の詮索に隙を假すことを憚り乍ら、筆を持ちなほしていく。
艦砲に追はれて山から山に逃れつつ、じめじめする防空壕の中で明け暮れ希ったものは何であったか、それは只、平和への一途ではなかったか。そしてその平和こそは今将に来たのではないか。この歌こそは琉球民族が永い間求めて来た世界ではなかったか。実に琉球の平和は余韻蕭條たる音楽によって序幕が開かれたのである。
その後間もなく諮詢会が誕生し、私も川上の山宿と別れて石川に行き文化部の芸能関係の仕事をするやうになった。当時の文教隊長はハンナ少佐で実に親切な方であった。兵隊というと四角張った人間のやうに思うが、ハンナさん(皆がハンナさんハンナさんと親しむ)は召集前迄大学教授で日本語も相当使い、沖縄歴史の研究に没頭し、尚戦争のために散在した古美術工芸品を拾集して博物館を建設した功労者である。序にハンナさんの人格の一端を紹介すると戦後のことで、大抵の兵隊は珍しいものを探して土産に持って帰ったがハンナさんはそんなことは絶対にしない。人々が骨董品でも贈ろうとすると頭を横に振って、沖縄は戦争のために凡てを失ったからこんな貴重な品は沖縄に保存した方がよいと云うてなかなか受取らない。こう云う性格だから文化関係の仕事には熱意をもって援助して呉れた。
沖縄芸能聯盟が設立されたのもこの頃で会長に護得久朝章氏、幹事に仲嶺盛竹氏、島袋光裕氏及び私の三名であったが、ハンナさんは芸能聯盟のために衣裳や幕を整えて呉れたり、又稽古場を建てて呉れたりした。あの石川病院裏の演劇研究所(現在は入院室に使用している由)もハンナさんの記念の建物である。
芸能聯盟の事業としては色々あるが当時最も必要な仕事は米軍の希望による部隊慰問が重なるもので、約半ヶ年間は各地区の部隊廻りに急しかった。ところが相手が軍隊であるから約束した日には雨の日でも寒い晩でもトラックの上で凍え乍ら出かけたのである。今から云うと何でもないやうに聞こえるが、あの頃は終戦当時で凡てが殺気立ち、黒人の襲撃事件等が頻々とあった頃だから絶えず憲兵が小銃を携えてトラックの前後に付添い、小用にも一人歩きは危険で引率して行く始末であった。しかも上演物は音楽の歌詩に至る迄、凡て翻訳しt説明を附し、尚試演の際も一々検閲するのであるが中にも一番困る事は上演の時幕あいの時間がなく次から次と連続で演り、少ない人数で入り替り、立替りするのであるが、その間に化粧もしなければならんし、着付もしなければならん。然も少ない着物を多くの人数で使用するのであるから、大急ぎで着替えなければならんと云う目の廻るやうな急がしさは役者自身は固よりタイムを取るマネーヂヤー迄気を揉むこと夥しい。それに定った時間がきた時にはどんな良い出物でも遠慮なくカットしていくのであるから折角苦労して稽古したものでも当日になって時間の関係で中止になった事が時折あった。平素楽屋の中でゆっくり化粧や着付をやりつけている役者が2,3日の不自由な 兎も角も永い間文句一つ云はずに愉快に働いたことは、如何に緊張していたかがわかる。
役者の中には今度の戦争で大切な夫を亡くしたのも居れば、可愛い子供を失ったのも居るが骨肉を失った深い悲しみと悩みを胸に秘めて各地区の部隊を廻り、俄造りの舞台や、或いは露天の下でで、しめやかに響く楽の音に合せて踊り抜く姿は、心ある者を泣かせたであろう・・・・凡ては平和のためだ。吾々は平和のためには如何なる不自由も犠牲も厭はないであろう。
米軍慰問が終る頃には住民の生活も段々落付いて来て各地の疎開者から上演申込みがあるやうになったが、その頃には吾々も美術家協会を計画して私は其の方面で働く様になった。その後芸能聯盟も色々変化して来たやうであるが、今から考えると、あの終戦当時が最も張り切っていた様に思はれる。(1949、7,10 於西森墨荘)
金隥・屋部憲(1894年5月27日~1952年5月30日)
沖縄県立第二中学校ストライキ事件で中退し東京で近衛連隊勤務かたわら美術研究所で学ぶ。
1919年8月 屋部憲、帰郷して『琉球新報』記者。同年、古波鮫唯信(漂雁)入社。12月ー浦崎康華入社□社長は嵩原安佐、理事・与那原良能、比嘉盛昇、山城正一、硬派主任・瑞慶村智慧
1920年2月 泉正重、島袋紀成、琉球新報入社
1923年 玻名城政博、経済記者とし琉球新報入社
1925年9月 屋部憲、琉球新報退社し豊平良顕を入社させる。ソ連への越境入国を企てて、満州ハルピンまで行ったが果たせず。その後、大阪で「赤光社」という看板屋を営みながら県人会運動にも参加。
1926年3月 屋部憲、沖縄青年同盟に参加
1927年4月24日 屋部憲「一職工の手記ー北満の思出」(1)(2)軽快なロシア娘(3)ペンキ屋の職工
1928年2月 屋部憲、第1回普通選挙で労農党の井之口政雄を応援するため帰郷。
1930年5月3日『沖縄朝日新聞』「山田有幹、屋部憲 釈放」
1930年11月『沖縄朝日新聞』
1947年8月15日『自由沖縄』
1937年、親泊康永依頼で屋部憲が製作し通堂橋脇に設置された「那覇・首里観光図」(首里・那覇の名所旧跡を彩色図にした)
夢覚・屋部憲次郎氏、右は父屋部憲の戦前の看板店の地図(憲次郎書)
首里の屋部夢覚氏から「蘓姓三世憲喜(棚原子シー)について」を送ってこられた。書家でもある氏には『蘓姓家譜ー奥島家(大宗憲宜)訳注』(1979年)の手書本もある。蘇氏は『氏集』によると、「元祖譜代蘇氏國頭親雲上憲宜三世新参比嘉筑登之親雲上憲清支流長子蘇文信棚原筑登之親雲上憲暢」と「」元祖譜代蘇氏國頭親雲上憲宜支流三子蘇用誠國頭憲之」がある。
1950年 屋部憲「爬龍船」(水彩)
沖縄県立第二中学校ストライキ事件で中退し東京で近衛連隊勤務かたわら美術研究所で学ぶ。
1919年8月 屋部憲、帰郷して『琉球新報』記者。同年、古波鮫唯信(漂雁)入社。12月ー浦崎康華入社□社長は嵩原安佐、理事・与那原良能、比嘉盛昇、山城正一、硬派主任・瑞慶村智慧
1920年2月 泉正重、島袋紀成、琉球新報入社
1923年 玻名城政博、経済記者とし琉球新報入社
1925年9月 屋部憲、琉球新報退社し豊平良顕を入社させる。ソ連への越境入国を企てて、満州ハルピンまで行ったが果たせず。その後、大阪で「赤光社」という看板屋を営みながら県人会運動にも参加。
1926年3月 屋部憲、沖縄青年同盟に参加
1927年4月24日 屋部憲「一職工の手記ー北満の思出」(1)(2)軽快なロシア娘(3)ペンキ屋の職工
1928年2月 屋部憲、第1回普通選挙で労農党の井之口政雄を応援するため帰郷。
1930年5月3日『沖縄朝日新聞』「山田有幹、屋部憲 釈放」
1930年11月『沖縄朝日新聞』
1947年8月15日『自由沖縄』
1937年、親泊康永依頼で屋部憲が製作し通堂橋脇に設置された「那覇・首里観光図」(首里・那覇の名所旧跡を彩色図にした)
夢覚・屋部憲次郎氏、右は父屋部憲の戦前の看板店の地図(憲次郎書)
首里の屋部夢覚氏から「蘓姓三世憲喜(棚原子シー)について」を送ってこられた。書家でもある氏には『蘓姓家譜ー奥島家(大宗憲宜)訳注』(1979年)の手書本もある。蘇氏は『氏集』によると、「元祖譜代蘇氏國頭親雲上憲宜三世新参比嘉筑登之親雲上憲清支流長子蘇文信棚原筑登之親雲上憲暢」と「」元祖譜代蘇氏國頭親雲上憲宜支流三子蘇用誠國頭憲之」がある。
1950年 屋部憲「爬龍船」(水彩)
01/04: 石川 東恩納「美術村」
□1947年ー沖縄美術家協会/沖縄民主主義文化連盟(瀬長亀次郎、屋部憲、池宮城秀意、名渡山愛順、仲村渠)/沖縄文芸家協会 (山城正忠、仲泊良夫、仲村渠、國吉眞哲ら)
1947年7月ー沖縄美術家協会結成
1947年8月ーギャラリー設置
沖縄美術家協会会則
1949年7月2日、3日ー沖縄タイムス社コンセット社屋「沖縄美術展覧会(沖展)」
山元恵一 作品
1947年7月ー沖縄美術家協会結成
1947年8月ーギャラリー設置
沖縄美術家協会会則
1949年7月2日、3日ー沖縄タイムス社コンセット社屋「沖縄美術展覧会(沖展)」
山元恵一 作品
2022年3月 沖縄県立博物館・美術館『博物館紀要』第15号 伊禮拓郎「戦後文化復興の礎 大嶺薫ー東恩納博物館旧蔵資料・大嶺薫コレクション再考ー」
1990年9月 市制45周年記念『『いしかわ』沖縄県石川市
1921年 沖縄県立農林学校卒
)
1969年11月 デパートリウボウ・琉球新報社「南蛮古陶展」で、左から外間正幸(1969年~1981年ー琉球政府立博物館館長)、大嶺薫(1946年~53年ー東恩納博物館長)、山里永吉(1955年~58年ー琉球政府立博物館館長/写真中央が朝潮、左が大嶺薫
朝潮 太郎(あさしお たろう、1929年(昭和4年)11月13日 - 1988年(昭和63年)10月23日)は、本名・米川 文敏、鹿児島県徳之島出身(出生地は兵庫県武庫郡、現在の神戸市)で、高砂部屋に所属していた大相撲第46代横綱。→ウィキペディア
1945年8月 石川市東恩納にアメリカ軍政府「沖縄陳列館」設立
□今秋、那覇新都心に沖縄県立博物館・美術館がオープンする。外見からも最高の文化施設になると確信するのは私一人ではないと思う。「沖縄の戦後は石川から始まった」とよく聞くが、戦後初の博物館が石川市にあったことを知る人は少なくなってきている。東恩納の民家を使っての博物館で民家は今も健在で2005年3月に石川市の文化財として指定を受けている。民家は沖縄市から石川に向け国道329号の栄野比の坂を上がり切ったところの交差点を右に入った住宅地にある。
1945年8月に米国海軍政府のハンナ少佐らが中心となり、石川市東恩納の軍政府コンセット群の一隅残っていた民家(平良栄徳宅)を転用し沖縄陳列館が設立された。大宜味村に避難していた大嶺薫が招かれハンナ少佐の下で陳列館の資料収集に駆け回る。大嶺は琉球の古美術、歴史、考古学に幅広い知識を持った研究者でもあり戦前から古美術品を収集していた。私のコレクションに東恩納博物館当時の事務資料がまとまってある。紙面の都合上主なものを紹介する。
(2007年10月7日『琉球新報』翁長良明(携帯090-3793-8179)「戦後の象徴『石川』旧東恩納博物館」)
1970年10月12日『琉球新報』山里永吉「シュープ大将と大嶺薫」
1996年3月 『新生美術』11号 「座談会・ニシムイの美術村あれこれ」星「仲嶺康輝さんの話やその記録では、昭和初期の東京の下落合には、有名な画家たちのアトリエがあって、その中に愛順さんは美校時代、一軒家のアトリエを借りていたそうですね。・・・」
1948年 アクトン少佐、松岡政保、山田真山、屋部憲、名渡山愛順ー首里ニシムイ建設で米軍部長をまじえて話しあう松岡工務部長→1979年3月『沖縄戦後史 アメリカ世の10年』月刊沖縄社
2016年1月 沖縄県立博物館・美術館『ニシムイ 太陽のキャンバス』
2015年6月13日~2016年3月13日 沖縄県立博物館・美術館「ニシムイ 太陽のキャンバス」
写真ー金城安太郎氏と石垣さん親子(末吉麦門冬娘)
右から新城栄徳、金城安太郎氏、ハンナ博士
県立博物館・美術館×県立図書館 コラボ企画「ニシムイ展 太陽のキャンバス」関連展示、『金城安太郎』琉文手帖1号もあった。
2016年2月2日~2月7日 那覇市民ギャラリー「那覇市収蔵品展ーニシムイ関連と那覇市出身作家」
1984年頃、私は沖縄の近代美術史に関心があって、金城安太郎さんや、具志堅以徳さんに聞き書きをしていた。その時に浦崎彦志氏がニシムイについて調査していることは知っていた。当方は現代美術には関心が薄かったので、画廊などで浦崎氏に会っても余り会話はしなかった。それでも少しは雑談で彫刻などの話は記憶に残っている。本書には写真が多用しているので、写真・現代美術史ともなっている。惜しむらくはキャプションの無いのが多い。これは沖縄県立美術館の学芸員の宿題になっている。
2015年6月 浦崎彦志・仲井間憲児『わが心の美術村 にしむい 幻の西森美術館』浦崎彦志
写真左から画家の久場とよさん、画家の金城安太郎氏、芭蕉布の平良敏子さん、著者で医者・画家の浦崎彦志氏、画家の城間喜宏氏
2024-11-15