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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1961年7月 ジョン・ガンサー 三浦朱門 訳『頭の回転=マスコミ最大の成功者の物語=』新潮社

1964年12月7日、カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay,)勲一等旭日大綬章を入間基地で浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は、浦茂幕僚長がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査、審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名で行われる。→ウィキ

1965年4月 『思想の科学』№37<特集・日本の黒幕>思想の科学社

丸山邦男〇占領期の黒幕ー「総指令部は、日本の国内政治の運営を実際に支配しているわけではない。わたしがきいた、あるアメリカ人の話によると、日本には、今日でもなお<日本地下政府>が存在しているということだった・・・・」。これは1951年に出版されたJ・ガンサーの『マッカーサーの謎』(木下・安保共訳)に出てくる一節である。占領下の日本の政治を直接間接にコントロールしたものはGHQだが、占領期間中の重要な時期あるいは事件に関連する政治にたいして、最高責任を負った代表的人物といえば、いうまでもなく吉田茂の名を挙げられる。

神島二郎〇日本の黒幕序論ー(前略)今後の黒幕は、ヒトや限られた党派を操る黒幕ではなくて、大衆だとか経済構造を操作できるブレーンという形が」、重要になるのではないか。操作というのは、権謀術数でだますというのとは違って、大衆のイメージに合わせて、政治をつくってゆくということだし、そういうことの専門家が政治に参画しだしているということは、新しい問題だね。

1965年8月 大野達三『アメリカから来たスパイたち』新日本出版社□図ー「連合軍総司令部機構」「G2・CIC関係図」「」
1965年6月11日 読谷村喜名小学校5年生の棚原隆子さんが自宅前で米軍演習トレーラーが空から落下し圧死した。
1965年12月 『守礼の光』「実現間近い家庭用原子力発電」

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1966年5月25日、アメリカの作家ジョン・トーランド、とし子夫人と来沖□5月30日『沖縄タイムス』「作家トーランド氏の講演・生きた歴史を強調」
1966年5月ー『オキナワグラフ』「ハワイだよりー髙江洲敏子さん」
1966年10月 『守礼の光』坂本万七「写真・伊藤若冲」
1967年3月  『守礼の光』せそこ・ちずえ「琉球昔話 空を飛ぼうとした男(安里周当)」、比屋根忠彦「久高島のイザイホー」
1967年6月 カール・ヨネダ『在米日本人労働者の歴史』新日本出版社□塩田庄兵衛・中林賢二郎「序ーアメリカ合衆国は、もともといわば移民によってきずきあげられた国であるが、ヨーロッパの先進資本主義国から渡航して新しい国の主人公となった白人と、アジアを中心とする『後進地域』から渡航した移民との間には、人種差別という形をとった差別待遇がはっきりみられた。そのなかで日本人は、中国人、朝鮮人などとともに、低賃金労働者として下積みの扱いをうけた黄色人種であった。わが同胞は、アメリカ西部とハワイの農園・鉱山・鉄道・森林・漁場にその労働力をそそぎこみ、今日のアメリカ独占資本主義の富の少なからぬ部分をつくり出した。今日のアメリカの富について考えるばあい、中国人・朝鮮人などとともに、日本人が流した血と汗と涙を無視することはできないのである。・・・・」
1967年12月  『守礼の光』「5年後に110階建て 世界貿易センター出現」

1968年2月  『守礼の光』「現代にも呼びかけるエイブラハム・リンカーンのことば」「アジア地区米陸軍特殊活動隊 粟国・渡名喜両島で奉仕活動」「原子力科学者が語る未来の原子力『食品工場』」
1968年4月  『守礼の光』ジョン・A・バーンズ(ハワイ知事)「琉球の文化的姉妹島ハワイ」

1968年

沖縄100万の叫び―嬉野京子写真集 (1968年) →菅原恭正ブログ2016-4-27:【第1660回】

1969年 アメリカ国防省がコンピュータネットワークの実験(UCLA、ユタ大学などを「ARPANET」)で連結に成功
1969年5月  『守礼の光』宮国信栄」「放射能はどこまで人体に安全か」
1969年7月  朝日新聞西部本社企画部『原爆展』(主催・広島市・長崎市・朝日新聞社)

1969年8月  『守礼の光』「四か国で開発中の原子力商船」


1969年8月 E・ライオンズ/高橋達男 訳『世界の企業家=3 電子工業のパイオニア サーノフ』河出書房新社→デビッド サーノフ1891.2.271971.12.12  米国の無線技術者,実業家。元・RCA社長。ロシア生まれ。1900年にアメリカに移住し、’06年RCAの前進であるマルコニー社に入り、’12年電信技士、’18年検査主任、主任技師となる。同年RCAを設立し、’21年総支配人を経て、’25年副社長、’30年社長となる。アメリカテレビの先駆者として知られ、第二次大戦中は、通信隊顧問として活躍した事もある。→コトバンク
1969年9月  『守礼の光』「フィリピンの発展に役だつ原子力」「コンピューター しくみと働き」

1969年10月  『守礼の光』「宇宙にかける人類の冒険」「期待される放射線」「巨人ジェット機(ボーイング747)の登場」

1972年  ビル・トッテン(1941年米カリフォルニア州に生まれ) トッテンを含む社員6名で、その製品名にちなんだ日本初のパッケージ・ソフトウェア販売専門会社「アシスト」資本金100万円で設立。代表取締役就任 ○2012年8月 『会社四季報 10年後 浮かぶ業界 沈む業界』ビル・トッテン○たとえば、今の農業は1㌍の食料を作るのに10㌍の石油を消費している。農薬は石油から作られているし、機械を動かしたり、食料を輸送するのにも石油を使う。肉だったら1㌍のために20㌍。今の米国や日本のような経済を維持しようと思ったら、地球があと4つは必要になる。もちろん、そんなことは不可能だ。インターネットだって、ものすごくエネルギーを食っている。グーグルは30数カ所のデータセンターを持っているが、一つのデータセンターが消費する電力は10万世帯分。ネットが消費するエネルギーは膨大で、石油に限界がある以上、ネットの成長も終わる可能性がある。

1972年9月に沖縄キリスト教協議会(比嘉盛仁)から『沖縄キリスト教史料』が発行されている。中に植村正久先生来島記念(1923年)やベッテルハイム記念碑除幕式(1926年)の写真がある。前記には新垣信一、大城カメ、比嘉盛仁、比嘉盛久、久場政用、眞栄田義見ら、後記には島袋源一郎、岸本賀昌、知花朝章、志喜屋孝信、佐久原好伝、アール・ブールらが写っている。

1972年11月 『断悪ー原爆被爆者救援のための実体験の記録』沖縄県原爆被爆者協議会 
1973年4月7日 『沖縄タイムス』「海洋博を点検する<21>肥大する三次産業 大阪万博倒産の教訓生かせ 陸は観光スラム 海は石油汚染」
1973年5月15日 『日本経済新聞』「第二部 沖縄特集ー珊瑚礁に夢結ぶ海洋博’75」
1974年1月『基地情報』第4号 基地対策全国連絡会議「国民主権を侵害するもの」/2月『基地情報』第5号「沖縄基地調査特集」

1974年1月 レイチェル・カーソン/青樹簗一 訳『沈黙の春ー生と死の妙薬ー』新潮文庫→レイチェル・カーソン日本協会ー組織運営をめぐり、発足から20年が経過するなかで、組織のリフレッシュをはかる必要性が指摘されることが増えてきた。総会、理事会で「日本協会の今後の在り方」をめぐり意見交換を深めた結果、2008年3月15日、特定非営利活動法人格を返上するための「解散総会」を持つと共に、当面、関東フォーラム、関西フォーラムを拠点にした「ゆるやかなネットワーク組織」としてレイチェル・カーソン日本協会が再発足した。
1975年4月4日  ビル・ゲイツ氏とポール・アレン氏らによってMicrosoft(現在の本社所在地ーワシントン州 レドモンド)が設立された。



1975年2月 『沖縄の米軍基地』沖縄県渉外部基地渉外課

1975年5月23日 『毎日グラフ』「緊急増刊 勝利した解放戦線」
1975年6月14日 『沖縄タイムス』「原子力と人間<1>核ジャックの恐怖 プルトニウム放射能半減期2万4千年」
1975年8月15日 『週刊読売』「臨時増刊 日本人の戦歴ーソ連側撮影 シベリアの日本兵捕虜」
1975年9月15日 『朝日ジャーナル』「あなたは核兵器を知っているかー1945年7月16日午前5時30分、人類初の原爆、プルトニウム爆弾が実験された実験の暗号名は「トリニティ」(三位一体) アラモゴルドの砂漠の中に記念碑が立っている/米ニューメキシコ州アルバカーキー市に、国立アトミック博物館がある。」

1976年、スティーブ・ウォズニアックがApple Iを製作。これを見たスティーブ・ジョブズは、新しいビジネスになると考え、1977年スティーブ・ウォズニアックと共にApple社(現在の本社所在地ーカリフォルニア州クパチーノ)を設立した。その後発売したApple IIは表計算ソフトVisiCalcと共に大ヒットとなり、これまで一部のマニアのおもちゃでしかなかった「パソコン」が仕事にも使える道具だということが分かり、パソコン市場が出来上がった。→はてなキーワード 📖2012年7月『徹底解析!!アップルvsグーグル』洋泉社

1976年4月17日『週刊ピーナツ』「追跡 巣鴨プリズンからのCIAヒモつき出所全リスト 岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、他」
1976年5月15日、沖縄ハワイ協会(仲村亀助会長)主催「アメリカ建国200年祭」が那覇市内パシフィックホテルで開催、ノールズ在沖米国総領事夫妻、平良那覇市長らが招かれる。与世盛智郎が挨拶。→与世盛智郎『沖縄仏教読本』(久米島本願寺1976年5月)「戦後、沖縄の世替わりに際し、進駐軍が、アメリカ建国の精神にのっとって宗教政策を重視して、沖縄の寺院に活を入れ、その活動に力をかしていたら民主主義も不消化とならず、従来の守礼の邦の美風を堅持し、一部にある反米思想も起きなかったと思われます」。

1976年6月 『三悪政治とCIA』日本共産党中央委員会出版局→三悪政治(戦犯・金権・売国)ー松川事件、下山事件をめぐるCIAへの疑惑といい、自民党をはじめとする反共政党とCIAの関係といい、今後白日のもとにさらさなければならないことが、あまりにもたくさんあります。

安倍晋三、1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った。秋に南カリフォルニア大学への入学許可が出され、1978年から1979年まで政治学を学んだ。

横浜・米軍機墜落事故
1977年9月27日午後1時すぎ、厚木基地を飛び立った米軍のファントム偵察機が横浜市緑区(現・青葉区)の住宅地に墜落した。土志田勇さんの娘、和枝さん(当時26)の息子の裕一郎君(3)と康弘君(1)が翌日未明に相次いで死亡。和枝さんも重度のやけどを負い、闘病生活の末、4年4カ月後に亡くなった。勇さんは、和枝さんの遺志を継いで社会福祉法人を設立。「和枝園」と名付けたハーブ園も開くなど「社会への恩返し」を続けている。


1979年1月 ジェームズ・マッキンレー著/和田敏彦・訳『アメリカ暗殺の歴史』集英社
○アメリカにはじめて移民たちが着いたとき、彼らはここに将来を決する二つのものを持ち込んだ。一つは自分たちが祝福された民であるという神がかり的な夢であり、もう一つは銃である。彼らは艱難に耐えていくためにはこの夢が、またこの夢を新世界に押しつけるには銃が必要だと信じていた。彼らは聖者と銃弾、それに狡猾な取引でこの夢を広めていったから、彼らは間違ってはいなかった。そして彼らが正しかったことは、百六十九年後に独立宣言の署名によって証明された。あの日、市民は家に駆け込むなり、銃を取り、まず祝砲で、ついでアメリカ革命でアメリカの夢を永久的に確認した。・・・・・



1979年3月 『沖縄の米軍基地』(表紙写真・国吉和夫)沖縄県渉外部基地渉外課

1979年、祖父新一郎に代わって、孫である現店主天牛高志が、 まだほとんど商店がなかった大阪心斎橋西のアメリカ村に、90坪の天牛書店新店舗を開きました。元々は駐車場であった建物を改装し、むき出しの鉄骨の梁、本棚は赤く塗装し、自動販売機を置いた休憩スペースを設け、古くから敷地にあった稲荷祠はそのまま店内に残すなどといった、従来の古本屋のイメージを一新する店作りに挑戦したアメリカ村店は、新しい感覚が若いお客様にもご好評をいただき連日の盛況となります。 しかし、時代の流れとともにアメリカ村が賑やかなファッションの街へと変貌し、古書を売る

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Posted by: ryubun02
 梅雨入り2日目、小雨のなか久方ぶりに琉球新報に遊びに行く。新報の隣に現在病院が建っているが、以前はその敷地に琉球東急ホテルがあった。私はそのホテルの中華部に17歳のとき働いていたので懐かしい場所である。帰途、那覇市民ギャラリーで「小谷武彦写真展 PART5」「桑江良健絵画展」「新生美術展」をみる。


小谷武彦氏ー後ろの写真には彫刻家の金城実さんが写っている。


石垣博孝氏 作品「まち」


当山進氏 作品「深緑を抜けて」


谷口正人氏 作品「識名園」

05/16: 琉米誌③

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アメリカ合衆国ー国そのものが独立戦争という暴力から生まれたことは、問わないにしても、初期の植民者による原住民(インディアン)の組織的皆殺し、アフリカから黒人奴隷を輸入して制度化したこと、それをめぐって国を二分して戦われた「南北戦争」のむごたらしさ・・・・・。さらに後続の移民を差別し搾取する構造が、国の歴史を貫いている。(袖井林二郎)

1920年1月17日 アメリカ合衆国憲法修正18条(全国禁酒法)が発効□1933年12月廃止
1928年11月『世界地理風俗体系・第19巻・アメリカ合衆国(上)』新光社
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ニューヨーク□この世の龍宮ー白波さわぐ水の彼方におぼろに霞む高楼の群こそこの世の龍宮とも見られよう。この高楼の群立こそは大ニューヨーク市の中心マンハッタン南端付近の世にも稀なる壮観で南方水上から仰ぎ見た風景である。その中央部に雄然と聳ゆるエクイタブルのビルディングもその右方のウールウオースもこの大観の一丹一碧をなすに過ぎぬ。右の端にはお台場公園の水族館が見える。
国防
□海軍ー(略)我々は少しも米国海軍を恐れては居らぬ。然し勿論戦争を望んでも居らず、少なくとも近き将来に戦争があろうとは思って居ない。戦争ばかりが海軍の仕事ではない。我々はむしろ益々日米両国の国交を厚くし今後いよいよ通商の繁くなりよく「太平洋」を文字通り太平に保つべく、両国海軍が提携してその保護の任を盡さんと希って居るのである。

□空軍と化学戦ー米軍中には化学戦部が設けられ、毒ガス、焼夷弾及び発煙弾等を用ふる化学戦の準備と研究を行っている。これがための機関として、化学戦学校とか、毒ガス工廠などがあり、実に平時よりガス第一聯隊がメリーランド州、エッヂウード工廠内に設けられ、本部と3中隊とを置いてある。その他パナマ、コロザールと、歩兵学校内と、ハワイのショフィールド兵営との3か所にも、各1中隊宛のガス中隊が設けられてある。米国の毒ガス製造の一日の量は約350トンということである。

■→米軍は米国領内のジョンストン島に毒ガス移送することを決定。1971年1月と7月の2回にわたり、美里村(現沖縄市)の知花弾薬庫から具志 川市(現うるま市)の天願桟橋までの行程で毒ガス移送が行われました。第2次移送は56日間にもわたり、移送路周辺の住民約5千人が避難しました。 (沖縄県公文書館)

1929年2月ー伊波普猷、山城亀雄飛行士が操縦する飛行機でロサンゼルス上空を飛ぶ。カリフォルニア各地を巡遊、宮城与徳、屋部憲伝らと交流。
8月ー『科学画報』13巻2号□伊波普猷「布哇の自然と人」、伊波普猷、帰沖(折口信夫と同行予定が折口体調不良のため伊波一人の帰沖となった)。10日ー真境名安興と共催で「琉球古典劇研究座談会」、19日『琉球新報』伊波普猷「孟蘭盆の新意義」、25日ー『琉球新報』伊波普猷「五ツ組の用語と詩形」、30日ー伊波普猷、上里朝秀ら台中丸で帰京(途次、喜界島で講演)。11月23日ー京浜沖縄県学生会秋季総会で「方言に現れたる土俗」と題し講演

1931年8月 和氣律次郎『犯罪王カポネ』改造社


1931年 『犯罪公論』<『ブラック・チェンバ』裏話>
 この雑誌の発行から10年後の日本時間1941年12月8日未明に真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英: Attack on Pearl Harbor、、ハワイ時間12月7日)があった。アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃である→ウィキペディア。安倍晋三首相は日米首脳会談後の共同記者会見で、オバマ米大統領の広島訪問に対応し、米ハワイの真珠湾を訪問する可能性について問われ、「現在、ハワイを訪問する計画はない」と否定した。ま、アメリカの一州に甘んじている日本としては歴史的にもそう意義は無いということだろう。今回の国政選挙はアメリカの一州から「離脱」するか否かも問われている。
 そのアメリカの国政選挙。ドルマニアで暴言王トランプ氏に対してはドナルドダック(短気な性格であり、ディズニーキャラクターの中で最も喜怒哀楽が激しい)のイメージもあり、本音でアメリカを変えると期待していたが次のニュースをみると人命軽視で現状維持の素晴らしい発想の持ち主らしい。TBS系(JNN) 6月18日ートランプ氏が過激発言を連発、改めて銃規制不支持を主張-アメリカ大統領選で共和党の指名候補に確定しているドナルド・トランプ氏は17日、フロリダ州の乱射事件に触れながら、銃規制強化への反対を過激な言葉で改めて表明しました。「被害にあった(死んでくれて)素晴らしい人々の誰かが腕や足に銃を忍ばせていて、あのロクデナシが撃ち始めたときに、誰かがバーンバーンと反撃してたら、それは(ハチの巣状態で)すばらしいすばらしい光景になっていただろう」(ドナルド・トランプ)。




 黒井兵也「『ブラック・チェンバ』裏話 東京日日新聞は如何にして「『ブラック・チェンバ』を手に入れたのか❔」○「我が暗号電報盡く米國側へ筒抜けー解読した当事者が自ら暴露」「何と間抜けた話ー7割から6割へ、段々と押しつめられた華府会議当時の裏の裏『米國の秘密室』は語る」昭和6年7月19日20日の東京日日新聞。初号活字の大見出し、夏枯れのジャーナリズムがあッと思わず聲を上げ、陸軍省と外務省では。・・・・・・「ブラック・チェンバ」という聴き慣れない言葉が、ハーバート・ヤードリ①という無名のヤンキーが、一躍この國の全階級の話題に上るようになった。

 ①ハーバート・オズボーン・ヤードリー(Herbert Osborne Yardley、1889年4月13日 - 1958年8月7日)は、アメリカ合衆国の暗号学者。インディアナ州ワージング生まれ。その著『ブラック・チェンバー 米国はいかにして外交暗号を盗んだか』(1931年)で知られる。ヤードリーは陸軍情報部第8課(MI-8)「ブラック・チェンバー」の設立者であり、その長であった。 彼のもとで、ブラック・チェンバーの暗号解読者は日本の外交暗号を解読し、1921年から1922年のワシントン会議でアメリカの交渉者を有利な立場に置いた。 のちに中国の国民政府が日本の暗号を解読するのを助け、カナダ政府が暗号部門を設けるのを助けた。ブラック・チェンバーは1929年に国務長官のヘンリー・スティムソンによって予算を打ち切られ、そのまま閉鎖された。従業員は年金等の補償なしに解雇された。ヤードリーは政府に対する報復として暴露本を著した。ウィキペディア

<犯罪王アル・カポーネ殺人グラフ>
Al Capone (English: Al Capone, 1 May 17, 1899 - January 25, 1947) is an American gang.
In the Prohibition era, led the organization from there to a luxury hotel in Chicago in residence and office, moonshine manufacturing and sales, prostitution industry, and the gambling industry to expand the organization, it began to integrate modernize the criminal organization It is known to be was.
Height is 179cm, it was big for its time. There was a nickname "Scarface" in that there was a scratch on the face. However, because the person in question had hated this nickname, it was not the person referred to in front of the person. "Kapon" are close to each other in English pronunciation.
Family wife of Mee and son of Sony.


アメリカは果たして文明国か❔キリスト教の国 黄金狂の国 黄色人種排斥の国 アメリカ

おお自由よ!ワシントンよ!アメリカは殺人紳士とドルマニアの天国だ!Oh freedom! Washington! America is a heaven of murder gentleman and the dollar mania!  野蛮国だの土人だのと言う言葉を使うのはよせ!卿等も又原始時代を一歩も出ていないではないか! さてあちらでは交通整理も完備して居りましたーあちらは実に衛生的でーあちらは等等等。然し我々はアル・カポーネのことだけは聴かせては貰えなかったようだ


暴力者は暴力によって倒れ 才人才に溺るる 顔や服装ばかりで紳士だと思ったら大間違い、顔だけはアル・カポーネは紳士以上、服装も又王侯以上の服装をしている

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犯罪王アル・カポーネはなるほど恐ろしい人間に違いない、然し彼より彼の機関銃の弾丸の方がなお怖い、嘘だと思ったら彼の頭に一寸弾丸をぶち込んで見給え、彼はすぐふんぞり返るだろう


左ー聖バレンタイン日の殺戮現場、犠牲者、暗殺を免れたモーランとその妻/右下アル・カポーネの暗殺を企てて却って返り討ちに遭った3人の男スカリス、アンセルミ、ギンタの死体





1950年5月 中野五郎『ギャングの世界』日本弘報社/1961年12月 中野五郎『ギャングの季節』四季社

1963年6月 コリン・ウイルソン 大庭忠男①訳『殺人百科』彌生書房 「聖バレンタイ・デーの虐殺 アル・カポネ」
 ①大庭 忠男(おおば ただお、1916年6月24日 -2012年12月26日[1] )は、日本の翻訳家。
佐賀県生まれ。日本大学高等師範部英語科卒業。極東国際軍事裁判国際検察部翻訳顧問、米国映画字幕翻訳、米国ニュース日本語版監修、英米推理小説翻訳などを行う。エラリー・クイーン、シドニィ・シェルダン、コリン・デクスターなどを多く翻訳。1999年唯一の著書で、ポツダム宣言受諾後も戦争が続いた件について記した。→ウィキ 〇訳者紹介に、現住所が神奈川県座間市となっていて同市2017年の死体遺棄事件を連想させる。


2004年2月『週刊100人ーアル・カポネ』デアゴスティーニ・ジャパン

1960年代初め、ジェノヴェーゼはコステロらの陰謀にはめられ麻薬取引で収監されるが、獄中からファミリーの指揮を執り続けた。1963年、部下のジョゼフ・ヴァラキがマフィアの正式メンバーとしては初めて沈黙の掟を破って証言。ジェノヴェーゼの死後はボス代行のトーマス・エボリ、副ボスのジェラルド・カテナ、コンシリエーリのマイク・ミランダの三頭体制となったが、ファミリーはリーダーシップ不在の混乱を続け、最大最強のファミリーとしての地位をガンビーノ一家に譲るに至った。1970年代にガンビーノの盟友フランク・ティエリがボスとなり、ファミリーは再びかつての勢力を取り戻した。その後、アンソニー・サレルノ、ヴィンセント・ジガンテと歴代ボスが相次いで逮捕されたが、ジェノヴェーゼ一家は幹部級でも次々と司法取引に応じる内通者を出す他の一家とは異なり、ほとんど司法への内通者を出すことなく統制がとれており、現在では再びガンビーノ一家に代わってニューヨーク最強のマフィアとしての勢力を維持している。
映画ー1966年10月 那覇 グランドオリオン「暗黒の大統領カポネ」
1969年9月 那覇 グランドオリオン「マシンガン・シティ」
2015年 宝塚歌劇ミュージカル『アル・カポネ —スカーフェイスに秘められた真実—』




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Posted by: ryubun02
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沖縄島ー沖縄島は、沖縄県を構成する160の島の中で最大の島であり、また東シナ海と太平洋の間に位置する南西諸島においても最大の島である。 ウィキペディア

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与那覇岳ー与那覇岳は、沖縄県国頭郡国頭村字奥間・字比地に位置する山である。 沖縄海岸国定公園内にある沖縄本島最高峰で、標高は503メートル。ただし、その隣の498メートルのピークに三角点があり、こちらを山頂のように見なす向きもある。 ウィキペディア


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知念(ちねん)半島から久高島を望む/久高島展望ーさやか・ひより


久高島ー知念(ちねん)半島の東約5kmに位置し、周囲7.75kmの小さな島です。琉球開びゃくの祖アマミキヨが天から降りて最初につくったとされている島で、五穀発祥の地、神の島と呼ばれています。また、歴代の琉球国王は久高島参詣を欠かすことはありませんでした。久高島には、12年に1度、午年に行なわれる祭事・イザイホーに代表されるように神秘的な祭事がそのまま残っているため、民俗的に貴重な島として注目されています。→ 神の島 久高島 | 南城市公式Webサイト

2011年6月20日ー『沖縄の軌跡』(島袋和幸 〒124-0011 葛飾区四つ木4-18-10 電話:03-3695-9276『沖縄の軌跡』75号目次<神の島・久高島>ティミグスク チマリヤーの唐船模型 唐船・進貢船の鷹の目
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写真「クボウぬウタキ」【今帰仁間切今帰仁村のクボウヌウタキ】この御嶽(ウタキ)は国レベルのウタキと位置づけている。『琉球国由来記』(1713年)では、今帰仁巫(ノロ)の崇所とされる。本来、三十三君の一人今帰仁阿応理屋恵の崇所ではなかったか。『琉球国由来記』が編纂された頃、今帰仁阿応理屋恵は今帰仁監守(今帰仁按司)が首里に引き揚げていた時期、あるいは廃止されていた時期でもあり、今帰仁阿応理屋恵が今帰仁に居住していた時は、今帰仁阿応理屋恵の祭祀場としていたと見られる。勿論、祭祀に今帰仁ノロや村の神人や間切役人や村人たちの参加があったであろう。→今帰仁村歴史文化センター

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アスムイ/辺戸
国頭村辺戸の安須森(アスムイ)
安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。→今帰仁村歴史文化センター


後列左から赤嶺昌樹氏、平良知二氏、屋部憲氏。前左から金城美奈子さん、國吉貴奈さん


後列左から國吉貴奈さん、平良知二氏、屋部憲氏、金城美奈子さん、前が赤嶺昌樹氏


後列左から赤嶺昌樹氏、平良知二氏、屋部憲氏、前左から仲里なぎささん、國吉貴奈さん

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Posted by: ryubun02

てるや商店は家の近くにある。広いスペースが古本で埋まっている。『サライ』とか雑誌のバックナンバーが豊富である。

右側に沖縄の雑誌『青い海』






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05/12: 琉米誌②

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Posted by: ryubun02
1899年1月20日ー勝海舟、旧主君徳川慶喜の10男・精(くわし/11歳)を養子婿に迎える

「勝海舟」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1902年5月19日ー兒玉源太郎台湾総督、井上勝ら福岡丸にて来沖
同年1月に日英同盟条約調印。兒玉源太郎台湾総督(1875年にも来沖)、井上勝ら福岡丸にて来沖。那覇の潟原で那覇首里の小学校の運動会を見る。また首里を遊覧。風月楼で2区の有志及び各役所の高等官60名「歓迎会」。
児玉源太郎 こだまげんたろう
1852(嘉永5)~1906(明治39) 明治時代の陸軍軍人(大将)
徳山藩士児玉半九郎忠碩の長男。戊辰戦争に藩の献功隊士として参加。のち陸軍に入り、佐賀の乱・神風連の乱・西南戦争に従軍して頭角をあらわした。 1887(M20)陸大校長としてドイツの軍制・戦術の移入紹介につとめ、91ヨーロッパ視察。 92~98陸軍次官兼軍務局長、日清戦争で大本営参謀、功により男爵。96中将に昇進し、長州軍閥の1人として重きをなした。 98台湾総督。1900第4次伊藤内閣・桂内閣で陸相、一時内相と文相を兼任。 04大将に累進して日露戦争に出征し、満州軍総参謀長、戦功により子爵。06参謀総長に就任。南満州鉄道株式会社創立委員長。没後、伯爵。 (はてなキーワード)
日本の近代的交通網を整えた「鉄道の父」
井上 勝 ( いのうえ まさる ) ●天保14年(1843)-明治43年(1910)
勝は天保14年(1843)、藩士井上小豊後勝行の三男として、土原浜坊筋に生まれました。長崎でオランダ士官に兵学を学び、江戸では砲術を修行して、さらに箱館へ行って英国領事館員に英語を学びました。その後航海術習得のため、伊藤博文や井上馨らと英国へ密航してロンドン大学に留学し、鉱山学および鉄道の実業を研究して、明治元年(1868)に帰国しました。明治4年(1871)に鉱山頭兼鉄道頭となり、新橋―横浜間に日本最初の鉄道を開通させて以来、工部大輔・鉄道庁長官等を歴任して、全国各地の近代的交通網を整備しました。明治22年(1889)には、東京―神戸間の東海道線を全通させています。同43年(1910)に鉄道院顧問となり、欧州を視察しましたが、ロンドンで病死しました。享年68歳。
 墓は、沢庵和尚を開山として、寛永15年(1625)に3代将軍徳川家光によって創建された品川の東海寺墓地にありますが、ここはJR東海道線と山手線とが分岐するところとなっています。また東京駅頭には、大正3年(1914)に銅像が建てられ、戦時中の金属供出によって台座のみとなっていましたが、没後50周年の昭和34年(1959)に再び銅像が建てられました。(city.hagi.lg.jp)■ちなみに井上勝の娘は松方正義の9男義輔に嫁いでいる。松方の3男幸次郎(元川崎造船社長)は松方コレクションで知られる。

1910年3月9日ー勝精伯爵、農務省水産講習船「雲鷹丸」で来沖。岡雷平やまと新聞記者が同行
1911年6月8日 尚昌、神山政良、イギリス留学の途次サンフランシスコ着、安仁屋政修(沖縄県人会会長)らが出迎える。

1911年11月11日、ブール、シュワルツとともに来沖。→1991年1月 ①伊佐眞一『アール・ブール 人と時代』

1912年3月27日にポトマック公園で、ヘレン・タフト大統領夫人と珍田日本大使夫人によって桜(ソメイヨシノ種)が植えられた、という。桜の穂木は東京荒川の桜並木だが、台木は兵庫県東野村で育てたものという。詳しくはネット検索で見てほしい。最近、アメリカの首都は何処にあるかと検索したら前記の桜の話が出てきた。アメリカ合衆国の首都はワシントン・コロンビア特別区(Washington,District Of Columbia)で1790年7月16日に設立。


1913年2月2日ー琉球新報記者だった富川盛睦(ニューヨークで小橋川朝重撮影)

1913年 山田有登、大阪市聖バルナバ病院に勤務。→『沖縄県人録』(1937年)に「山田有登君は那覇市の出身。明治17年1月22日を以て生まれる。沖縄県立中学校を経て金沢医学専門学校に学び、明治42年同校を卒業するや、直ちに石川県立病院に勤務して研鑽を積み同44年6月に愛知県渥美郡田原病院に転じて更に其の蘊奥を極め、大正2年聘せられて大阪市聖バルナバ病院に勤務。同9年転じて久原鉱業経営の鉱山病院に勤務。同11年退職帰県して久米大道りに開業。昭和11年、那覇市に逓信診療所開設されると其の初代所長となり今日に至る。なお君は学生時代野球選手たりしだけに野球に趣味あり」とある。→2011年9月23日、以前から気になっていた天王寺の聖バルナバ病院をのぞく。受付で病院の案内パンフレットをもらう。それによると、同病院は1873年にアメリカ聖公会により派遣された宣教医師Henry Laningが大阪川口居留地に米国伝道会施療院を開設したのに始まる。1923年に川口から天王寺細工谷の現在地に移転しているから、写真家の山田實さんの父・有登は同病院に1913年から1920年まで勤務。その時の場所は川口ということになる。

□川口が貿易港として継続的発展をなしえなかったのは、安治川河口から約6km上流に位置する河川港であるため水深が浅く、大型船舶が入港出来なかったことによる。そのため、外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へと移住していった。彼らに代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として病院、学校を設立し経営を行った。平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院等はこの地で創設されたのである。それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、大阪の上町エリア(天王寺区・阿倍野区など)へ次々と移転して川口は衰退への道をたどることになる。対照的に大型外国船が集まるようになった神戸港は、1890年代には東洋最大の港へと拡大していった。(→ウィキペディア)

1914年5月9日『沖縄毎日新聞』伊波月城「日光浴ー新文明の先駆者たる北米合衆国の平民詩人ワルトホヰットマン②は3、40年これを実行したのである。・・・」
②ウォルター・ホイットマン はアメリカ合衆国の詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。超越主義から写実主義への過渡期を代表する人物の一人で、作品には両方の様相が取り込まれている。アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人でもあり、しばしば「自由詩の父」と呼ばれる。→ ウィキペディア
1914年6月26日『沖縄毎日新聞』「粗枝大葉ー19世紀の偉大なるアメリカ人ワルト、ホイットマンは大いなる都会とは・・・・」

1915年8月ー前暁鐘社の野里朝淳がマウィ島カフルイ港で写真屋開業

1916年6月9日『琉球新報』平良生(在ロスアンゼルス)「米国通信」
1917年9月、山入端隣次郎、アメリカよりT型フォードを3台導入し沖縄自動車商会を開業、運転手は福井県出身の大宮孝太郎。大宮は沖縄県「運転手免許証」(大正6年10月8日発行)第一号である。12月、布哇沖縄海外協会(當山善真)『会報』□表紙「汎太平洋と布哇」、大城幸之一「沖縄県の疲弊と之が対応策」、比嘉静観「沖縄県救済策」、大田朝敷「沖縄本島巡講行脚」、新城北山「布哇沿岸の琉球民族」/沖縄県海外協会(又吉康和)『南鵬』第1巻第2号□大田朝敷「ハワイと沖縄の関係」
1917年11月23日『琉球新報』「64年前ペリーと琉球を経て浦賀に上陸したハーデー翁が17日来日」

名護朝助
慶応義塾入社名簿に/名護朝助 本籍地 沖縄県首里當蔵35 戸主 士族
              明治11年3月生 明治30年5月入社  証人 岸本賀昌
アメリカに渡米、10年余滞在
大正元年10月ー西洋料理「美理軒」(名護朝助経営、コック永田亀寿・元シュワルツ家コック)饒平名病院隣、一味亭跡に開業/11月ー『琉球新報』□食道楽君のピリケンの解釈は違っている。ピリケンとは福の神の意味で寺内総督にピリケンの名を冠したのは惑新聞が七福神の似顔を募った時、総督の三角頭が七福神の一つに及第したことがあるからピリケンのアダ名も蓋し之に出たのであろう。洋食屋の美理軒なるほど語呂はよくないが来る御客様を福の神と見立てたものであるとすれば語呂ぐらいは我慢が出来る。アテ字の美は美味の美、理は料理の理と見れば何れにしても結構じゃないか。

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1918(大正7)年3月の『琉球新報』広告/2006年9月『JTBパプリッシング』表紙

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左ー通天閣のビリケンさん/通天閣の見える右下にビリケンさんが見える

□通天閣の展望台で、真っ先に迎えてくれるのが、幸運の神様「ビリケン像」。
合格祈願・縁結びなどあらゆる願いを聞いてくれる、なんでもござれの福の神なんです。通天閣の「ビリケン」は、5階の展望台の立派な台座にちょこんと座っています。
笑っているのか怒っているのか。不思議な表情と、愛敬あるポーズが人気で、いつもお願いする人が絶えません。

ビリケン(BILLIKEN)は、1908年(明治41年)アメリカの女流美術家 フローレンス・プリッツという女性アーティストが、夢で見たユニークな神様をモデルに制作したものと伝えられています。トンガリ頭につりあがった目という、どこかしらユーモラスな姿は、たちまち「幸福のマスコット」「福の神」としてアメリカを始め世界中に大流行しました。
日本でも花柳界などで縁起物として愛されていました。

世界的な流行を受けて、1912年(明治45年)オープンした「新世界」の遊園地「ルナパーク(月の園)」では、さっそく「ビリケン堂」を造りビリケンを安置。これは大当たりし、新世界名物としてその名をとどろかせ、ビリケン饅頭やビリケン人形などのみやげ物まで作られました。また「福の神・ビリケン」を七福神に加え、「八福神めぐり」なども流行したと伝えられています。しかしビリケンは、ルナパークの閉鎖と共に行方不明になってしまいました。

オイルショックが去り、通天閣の灯が復活して新世界に活気がよみがえった1979年〈昭和54年〉、浪速文化の拠点をめざした「通天閣ふれあい広場(現・3階イベントホル)」ができました。その後、1980年(昭和55年3月30日)に新世界に馴染みの深い「ビリケン」の復活も決まりました。しかし、資料になるべき写真が見つからず。思案にくれている時、田村駒株式会社が版権を持っていることが判明。田村駒さんのご好意で、同社の「ビリケン」をもとに木彫で復元したのです。像の彫刻は伊丹市在住の安藤新平さん。(→通天閣)

1919年 宮城与徳、父与正の呼び寄せで渡米→1921年ー屋部憲傳、又吉淳、幸地新政らと「黎明会」結成。

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Category: 01-人物名鑑
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1916(大正5)年10月16日『琉球新報』文展出品『琉球の女』尚昌令夫人の作ー殿様芸術家の名をほしいままにしている小笠原長幹伯の令妹。今年3月学習を卒業する迄は学校の方で洋画家の岡野榮氏③を師として主として生物(ママ)の写生をやっておられた、卒業後は専ら満谷國四郎氏について研究していた・・・」


満谷国四郎「榕樹ノ下」1919年ー帝国美術院第1回美術展覧会出品

1939年11月ー『歴程』山之口貘「満谷氏の『榕樹の蔭』と藤田氏の『琉球美人』」


満谷国四郎 墓(多磨墓地)島袋和幸撮影

満谷国四郎-洋画家。岡山県生。はじめ二世五姓田芳柳に、のち小山正太郎に師事。吉田博らと大平洋画会を創立、海外の博覧会や文展に活躍する。のち大原孫三郎の後援を得てパリへ留学、褐色系を基調とした初期の画風から後期印象派の影響を受けた画風へと一変する。晩年は対象の平面的処理と豊かな色彩により装飾性の強い画風を確立した。帝国美術院会員。昭和11年(1936)歿、63才。 →コトバンク
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Posted by: ryubun02
長谷川朝風【はせがわ ちょうふう】
日本画家。俳人。岐阜県生。名は慎一。京都絵専卒。画を安田靫彦に、俳句は飯田蛇笏に師事した。美術院賞・大観賞受賞。院展特待。句集『木偶微笑』がある。昭和60年(1977)歿、75才。(→コトバンク)



須田珙中 すだ-きょうちゅう

1908-1964 昭和時代の日本画家。
明治41年1月21日生まれ。松岡映丘(えいきゅう),前田青邨(せいそん)に師事。昭和18年新文展で「琉球」が特選。27年からは院展を中心に活躍,「篝火(かがりび)」「正倉院」が日本美術院賞。34年東京芸大助教授。35年日本美術院同人。昭和39年7月10日死去。56歳。福島県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は善二。(→コトバンク)
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1934年8月ー大阪商船「沖縄航路案内」(大野麦風「守礼門」)



大野麦風 おおの ばくふう
洋画家。東京生。名は要蔵。白馬会・太平洋画会に学ぶ。兵庫県に住した。昭和51年(1976)歿、87才。 (美術人名辞典)

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北野以悦 昭和5年 「琉歌」 帝国美術院第11回美術展覧会出品(①耕三寺博物館に現存)
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北野 恒富  明治13/5/28-昭和22/5/20  1880-1947  石川県出身
 師 稲野年恒
 日本画家、北野以悦は子息。明治34年大阪新報社に入社、新聞小説の挿絵を担当。
 43年文展で「すだく虫」が初入選、翌年も「日照雨」で三等賞を受賞。
 画壇の悪魔派と呼ばれ、退廃的画風の美人画家として注目を浴びる。
 大正3年からは院展に出品・入選をかさね、6年日本美術院同人。
 また大正美術会、大阪美術会を結成して地元大阪画壇の振興にも尽力し、画塾白耀社では
 木谷千種、島成園など個性的な後進を育成。後年親交を結んだ谷崎潤一郎の小説挿絵でも
 知られる。大阪を拠点に、浪速情緒にあふれた艶麗な美人画を描いた。
 代表作に「願ひの糸」「星」「阿波踊」など。本名は富太郎。別号に夜雨庵。→西村美術人名辞典

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1893-1981 大正-昭和時代の洋画家。
明治26年12月5日生まれ。関西美術院で沢部清五郎に師事。大正11年渡仏,シャルル=ゲランにまなぶ。14年帰国後は春陽会展に出品,昭和12年会員となる。戦後,京都市立美大,嵯峨美術短大教授。昭和56年12月9日死去。88歳。京都出身。慶応義塾卒。作品に「エッフェル塔」など。(→コトバンク参照)

1940年8月ー大阪商船株式会社『海』川端彌之助「沖縄禮讃」


「琉球平良」(1940)
1984年1月ー『川端彌之助遺作展図録』京都市美術館


Category: 01-人物名鑑
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1913年6月5日、岡田雪窓 那覇港から鹿児島へ
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2000年11月 沖縄市郷土博物館『郷愁の沖縄ー画家 岡田雪窓の見た沖縄』


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1914年 第8回文展出品「琉球所見」(三幅対) 上の写真を参考に描いているのがわかる。

Category: 01-人物名鑑
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「琉球所見」
富山県城端町出身。東京や京都で日本画家として活躍。また「丹矢」の俳号をもつ海紅派の俳人でもある。篆刻でも名を成した。

1926年1月18日ー海江派の俳人で画科の谷丹矢来沖
1958年9月24日ー『琉球新報』「三十年前の思い出語るー沖縄描いた富山県の画家・谷画伯(故人)と村井画伯」

1994年10月ー城端町史料館蔵回廊「谷聴泉展」
1995年9月ー城端町史料館蔵回廊「第二回・谷聴泉展」





Category: 04-書の森
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写真/伊江朝助、伊波普猷、伊波普成、當間重慎、渡久地政瑚、東恩納寛文ら後に沖縄の新聞界で活躍する面々が居並ぶ。この写真は沖縄県立図書館の東恩納洋資料にあるもの。この写真の時代背景は伊波普成が1909年3月19日『沖縄毎日新聞』に書いた入社の辞「誓閑寺時代の回顧」でよく分かる。→「誓閑寺時代の回顧」

『平氏當間家譜 正統』(那覇市歴史博物館所蔵)






1911年9月 那覇区区会議員による区長候補選挙において、第1候補者當間重慎、第2候補者斎藤用之助、第3候補者伊波普猷(国立公文書館)


1999年10月 『元島尻郡長 第11代 齊藤用之助資料』南部振興会(島尻博物館)

大濱聡 2019-7

大濱聡 2019-7

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写真左ー左から比嘉晴二郎氏、宮城剛助氏、渡口善明氏(撮影・新城栄徳)、写真右ー宮城聡御夫妻と新城栄徳、比嘉晴二郎氏(撮影・国吉真哲翁)、比嘉晴二郎氏の書斎

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Category: 04-書の森
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1985年1月ー安里盛昭『粟国島ーシマンチュとシチビ 神の里』
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安里盛昭氏と大城精徳氏(右)




安里盛昭氏


2013年5月1日 

安里盛昭氏と戸澤裕司氏

Category: 04-書の森
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1985年9月11日『琉球新報』/9月18日『沖縄タイムス』

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写真ー伊藤勝一経営の「東京書院」(京都市内)/新城栄徳宛の伊藤氏のハガキ
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写真ー1872年維新慶賀使ー前列右から喜屋武朝扶親雲上(讃議官)、伊江王子朝直(正使)、宜野湾親方朝保(副使)、後列右は安田親雲上、外務省通弁の堀江少録
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写真ー左から宜野湾親方朝保、浦添親方朝昭

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写真上・大阪沖縄会館「船越義彰講演会」でー右から2列目が伊藤勝一氏、その後ろ新城栄徳
写真下・左から伊禮吉信氏、伊藤勝一氏、新城栄徳

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写真左から、國吉保武氏、金城功氏、高良倉吉氏、宮城篤正氏、新城栄徳


2010年11月5日「那覇の名橋と知られざる橋」那覇市歴史博物館


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泊港

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1905年ー北大路魯山人、版下書きを志し、岡本可亭(伊勢の人。籐堂藩に仕えた儒者岡本安五郎の二男)に師事。福田可逸を名乗る。息子の岡本一平を知る。可亭のもとからの出向で帝国生命保険会社の文書掛となる。
1910年-岡本一平、かの子(21歳)、和田英作の媒酌にて結婚。8月31日入籍
1912年-岡本一平、朝日新聞社員となる。

1917年-岡本一平、かの子と植村正久を訪ねる。かの子、のちに親鸞『歎異鈔』に傾倒する。
1927年-岡本かの子、仏教研究家として世に知られる。

1938年
4月28日『琉球新報』「世界の藤田画伯来県」/『沖縄日報』「きのう雨の港大賑わい、ようこそ!藤田さんー久米町で借家住まい」
5月1日『琉球新報』「藤田画伯に物を訊く座談会」連載
5月10日『琉球新報』「二高女で藤田画伯講演『為にならぬ面白い話』」
5月15日『琉球新報』「南陽薬品で藤田嗣治画伯作品観賞会」
5月19日『琉球新報』「藤田画伯きょう帰京」
5月20日『琉球新報』藤田嗣治「沖縄へ送る讃美」
5月25日『琉球新報』我部政達「藤田先生と其の絵」連載
6月20日『帝国大学新聞』藤田嗣治「首里の尚順男」

1941年-11月6日ー銀座三越で「岡本太郎滞欧作品展」ーパンフレットに藤田嗣治の「岡本太郎君」

1945年-岡本太郎『沖縄文化論ー忘れられた日本』□私が沖縄に強くひかれた、そもそものはじまりは、そういうクラシックを見てからだった。終戦後間もない頃、偶然の機会に、」その時分はまだひどく珍しかった沖縄料亭に案内された。そこで見た踊りに、すっかりイカレてしまったのだ。空間的で、自由で、優美、それは異様なリズムだった。しかしはじめてふれる私の心にも無条件に喰い入ってくる。(略)「沖縄」は私にとって踊りの代名詞のようなものであった。

1956年10月ー岡本太郎『日本の伝説』光文社
1958年2月22日『琉球新報』「パリの藤田嗣治画伯」
1959年11月17日『沖縄タイムス』「岡本太郎画伯、二科会沖縄支部の招きで来島ー沖縄はあこがれの島」(写真・大城皓也氏の出迎えをうけた岡本太郎氏)

1960年1月1日『琉球新報』「沖縄を料理するー毒舌ことはじめ大宅壮一・岡本太郎」/1月12日『琉球新報』岡本太郎「沖縄の再発見」@

1961年1月1日『沖縄タイムス』岡本太郎「絵と文・忘れられた日本」

1966年12月25日『琉球新報』「岡本太郎画伯が来沖ーイザイホーの研究で」/12月29日『琉球新報』「関係者の見たイザイホー 岡本太郎」

1967年ー福田清人/平野睦子『岡本かの子ー人と作品』清水書院/3月ー岡本太郎『今日をひらく 太陽との対話』講談社□日本発見ー神々の島 久高島

1968年2月ー岡本太郎『原色の呪文』文藝春秋□「何もないこと」の眩暈-沖縄文化論

1971年3月29日『琉球新報』「沖縄文化への提言ー岡本太郎氏を囲み座談会」(池宮城秀意、山里永吉)/3月30日『沖縄文化を語るー岡本太郎・豊平良顕』/10月28日『琉球新報』「沖縄で初めての潮講演会ー開高健、岡本太郎」(潮出版社・琉球新報社共催)

1980年7月24日ー那覇市山形屋で「岡本太郎の世界展」(沖縄タイムス社主催・琉球放送後援)/7月24日『沖縄タイムス』「目みはる作品ズラリー『岡本太郎の世界展』開幕」/7月25日『沖縄タイムス』「岡本太郎氏が来沖ー展示会通し沖縄を触発」/7月27日『沖縄タイムス』「沖縄タイムスホールで岡本太郎氏が講演ー藝術は全身で感じるもの」

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2001年4月ー岡本太郎『疾走する自画像』みすず書房

2006年
2月10日『沖縄タイムス』「藤田画伯の『孫』、沖縄県が約4千万で購入」

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2007年10月ー山田和『知られざる魯山人』文藝春秋/2008年5月ー林洋子『藤田嗣治 作品をひらく』名古屋大学出版会

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2007年ー『沖縄文化の軌跡1872-2007』沖縄県立博物館・美術館□新城栄徳「麦門冬の果たした役割」/『沖縄・プリズム1872-2008』東京国立近代美術館

2011年1月1日『沖縄タイムス』「藝術は爆発だー岡本太郎生誕100年」/1月1日『日本経済新聞』「岡本太郎生誕100年」

null写真ー戦前の大城皓也作品

null写真上ー平野政吉美術館館長と新城栄徳/大城皓也の子息・青次氏と新城栄徳

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Posted by: ryubun02
2002年5月8日の『沖縄タイムス』「復帰30年 不在の検証⑨」に、私は末尾に次のように書いた。


密約復帰30年の今、問題にしなければならないはずの典型的な沖縄差別の「戦争法案」、マスコミへの「言論統制法」や「医療・郵政の改悪法」に対し、沖縄新聞の全国紙なみの客観報道は見事にヤマト人になりきっている。

これらマスコミの対応がアンポ(カジノ)容認の仲井真知事を再選させた。今回もまた、仲井真知事は●●氏の総決起大会に、那覇市長、自民党の三●じゅん子らと参加し、あわよくば●●氏当選のアカツキは「県民は基地反対の伊波市長を否定した」だから辺野古移設も苦渋の選択と称し、受け入れかねないのはミエミエである。

2012年1月31日『沖縄タイムス』「大弦小弦」に、27日、都内で開かれた沖縄観光関連イベントに仲間由紀恵、国仲涼子、比嘉愛未がかけつけたがもう一人の主役(仲井真知事)の顔がなかった。観光収入は4000億円台を突破し、県経済の大きな柱だ。知事に諫言する県幹部、与党幹部はいなかったのか、そのほうが気にかかる。とし、知事の欠席に苦言を呈している。

知事として見ればそんなことより政府から一括交付金も貰った手前、そのお礼も兼ねて●●氏の総決起大会(カジノ)のほうがより重要と考えているのだろう。喜納民主党代表代行は沖縄タイムスの取材に「民主党本部から●●氏を支援せよと、指示が出ている」と発言している。
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Posted by: ryubun02
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1972年12月 沖縄の雑誌『青い海』1月号 石川文一/柳光観・画「沖縄歴史小説 三山の覇王」

日本画家・柳光観

1953年 左から金城安太郎、山田眞山、柳光観


柳光観/表紙絵 1960年10月『今日の琉球』36号「獅子舞」

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画廊沖縄「柳光観展」、左から佐久田繁氏、金城安太郎画伯、上原誠勇氏、柳光観画伯、大城精徳氏

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柳光観「タウチーオーラセー」


日本画家・鈴木当志子
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写真ー金城安太郎画伯と新城あけみ

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崎濱秀雄

日本画家の金城安太郎さんと








2016年10月22日14:00~ 美術館講座室「金城安太郎が描いた≪今帰仁城盛衰記≫」講師・玉那覇英人

講師の玉那覇英人氏と彫刻作品「海と月の橋」「風薫る」

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Posted by: ryubun02
1915年4月6日 市村光惠法学博士①(京大教授)二見丸で来沖。永田内務部長とは東大の同窓で、島内警察部長、内海課長、島袋全発は親しく京大で博士の薫陶を受けた。
1915年4月8日 琉球新報主催「講演会/講師・市村光惠『國家本位』」
1915年4月10日『琉球新報』市村光惠「國家本位(1)」
1915年4月13日『琉球新報』市村光惠「國家本位(4)」「市村博士、昨日帰京」

1916年1月3日『琉球新報』石川千代松「龍はどうして出現したか」

1916年7月25日 市村光惠(京大教授)大義丸で来沖
1916年7月28日 琉球新報主催「第11回通俗講演会/講師・市村光惠」
1916年7月29日『琉球新報』市村光惠「=軍國主義乎 非軍國主義乎=(1)」

①市村光恵(いちむら みつえ、1875年8月5日 - 1928年9月27日)は、日本の地方政治家、憲法学者。
 明治8年(1875年)8月5日に高知県高岡郡蓮池村芋岡(現・土佐市)に生まれる。明治27年(1894年)高知尋常中学校、明治35年(1902年)東京帝国大学を卒業し、同大学の講師になる。明治36年(1903年)京都帝国大学助教授に、明治42年(1909年)京都帝国大学教授に就任。翌年、法学博士となる。昭和2年(1927年)京都市長に選任されたため、大学を退官し、名誉教授となる。昭和3年(1928年)9月27日、54歳で死去。墓は京都市上賀茂大乗寺境内。→Wikipedia
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 1938年8月から須藤利一は『沖縄教育』に「ベージル・ホール大琉球航海記」を1939年まで連載。1938年12月には台湾愛書会の『愛書』に須藤利一は「琉球の算法書」を発表。


1940年1月、須藤利一は野田書房から『大琉球島探検航海記』を出した。発売所は東京は日本古書通信社代理部、那覇は沖縄書籍となっている。この本は天野文庫と比嘉文庫にあるが口絵に「バジル・ホール肖像」が付いていないが、戦後復刻本には付いている。また川平装幀も微妙に違う。

1940年3月1日『大阪球陽新報』金関丈夫
1940年8月、台湾で川平朝申、須藤利一、比嘉盛章、宮良賢貞が編集して『南島』第1輯が野田裕康(台北市兒玉町3ノ9野田書房内)より発行され須藤利一の「アダムスの那覇見聞録」が載っている。1941年、須藤は那覇で発行されている『月刊 文化沖縄』にも「w・ビーチ 琉球記」を連載。1942年3月『南島』第2輯には口絵に「バジル・ホール肖像」、中村忠行が口絵解説(バジル・ホール略傳)をなしている。

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1943年3月 金関丈夫『胡人の匂ひ』東都書籍台北支店

金関丈夫 かなせき-たけお
1897-1983 昭和時代の人類学者,解剖学者。
明治30年2月18日生まれ。九大,鳥取大などの教授をつとめ,のち手塚山(てづかやま)学院大教授となる。弥生(やよい)遺跡出土人骨を研究して日本人渡来説を主張。昭和53年朝日賞受賞。昭和58年2月27日死去。86歳。香川県出身。京都帝大卒。筆名は山中源二郎。著作に「木馬と石牛」「日本民族の起源」など。(コトバンク)



1944年2月 須藤利一『南島覺書』東都書籍


金関丈夫編集『民俗台湾』

□金関丈夫「琉球の旅」ー1928年12月29日、京都駅を発する夜行列車で西下。1930年1月5日、左舷に巨大な島影を見る。これが沖縄本島である。那覇の散策ー沖縄の劇場1・2・3ー黒田理平庵訪問ー沖縄県立図書館ー京都帝国大学教授 武田五一博士ー首里  1月16日ー帰路図書館に立寄って、鎌倉芳太郎氏撮影の琉球古美術写真数十種があるのを知る。これを借用して、先日来預けておいた書籍、人骨等とともに宿に運ぶ。夜は西本町の活動写真館をしばらく覗く。河部・大河内の「弥次喜多」というのをやっていた。9時、宿に帰って写真を見る。
 琉球古絵画としては、筆者不明の歴代王像いわゆる「御後絵」や、円覚寺、天久宮、首里観音堂等の仏画の他に、著名な画家の手になるものも多い。欽可聖城間清豊自了(1616~1644)はその最たるもの。冊封使杜三策が顧愷之や王摩詰に比したというのもヨタすぎるが、狩野安信が友とせんといったくらいの値打ちは十分にある。自了と伝えられるものにはほぼ2風ある。一つは玉城盛朝氏所蔵の高士逍遥図や、図書館所蔵の李白観瀑図のように、まず梁楷風のもの、これには落款あるいは印章がある。他は臨海寺渡海観音や、尚順男爵家の陶淵明像のような描線やや繊細のもの、いずれも伝自了である。
 自了以後で見るべきものは殷元良(座間味庸昌1718~1767)であろう。遺品、屋慶名氏蔵、松下猛虎図、比嘉氏蔵山水等はいずれも佳品である。ややおくれて呉著温(屋慶名政賀1737~1800)、向元湖(小橋川朝安1748~1841)および毛長禧(佐渡山安健1806~1865)がある。中でも呉著温は山水に巧みで、最も傑出している。自了以下すべて日本画の影響がむしろ大なるものあることは注意すべきである。他に画師査秉徳(上原筑登之親雲上)康煕14年の銘ある久米聖廟の壁画も注意すべきもの。ただしこれは同55年呉師虔というものの修飾を経ている。八重山画家大浜善繁(1761~1815)、喜友名安信(1831~1892)、山里朝次(1848年頃)等の板障画も面白い。彫刻は建築物付属の石刻の他に、仏像、天尊像、古陶人像等あり、手腕は一般に絵画よりも一段優れている。

1939年12月、台湾詩人協会『華麗島』創刊号□川平朝申「幼年思ひ出詩抄」(版画「守礼門」)
1968年、金関丈夫博士古希記念に『日本民族と南方文化』が刊行された。国分直一、須藤利一、三島格らに交じって川平朝申も「さーじ考」を寄稿。那覇市中央図書館の沖縄資料には、川平と台湾で懇意であった金関が台湾から引き揚げのとき「日本には持ち帰れないから」と琉球資料(曼珠沙華艸蔵)を川平に託したのも多い。川平は当時、沖縄同郷会連合会を組織し疎開者救援運動にも関わり、沖縄県立図書館の再建を目指し献本運動も展開していた。

遊学の松岡正剛がブログで「金関丈夫がむちゃくちゃおもしろいということを、どうやって説明したらいいか、困る。ともかく読み耽りたくなる。なかなかの南方熊楠でも、こうはいかない」と金関を紹介している。

3月18日、東京の日本経済評論社から来間泰男『稲作の起源・伝来と”海上の道”』がおくられてきた。本書でも、金関丈夫と宮良當壮の間で展開された起源論争についてふれている。本書の結論はこうである。沖縄では「弥生文化の影響を受けながらも『弥生時代』はなく、農耕が始まっても『農耕中心の社会』にはならなかったのである」。これらをふまえて、沖縄型農耕は「日本型農耕とは異なった、熱帯島嶼的農耕と共通性の強いものとなって展開してきたし、今なお展開しつつある」とする。

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1976年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号 宮良瑛子「喜び、悲しみ、怒りを一本のノミに託して」

2016年4月26日~10月16日 沖縄県立博物館・美術館「宮良瑛子展ーいのち」

写真左から豊見山愛、大城さゆり、與那嶺一子、宮良瑛子、山川さやか、の皆さん。(4月26日 美術館副館長室)

2016年4月28日『沖縄タイムス』「魚眼レンズ/『命の大切さ愚直に表現』ー宮良瑛子さん」
2016年5月3日『琉球新報』「あしゃぎ/世の中に何かを残すー宮良瑛子さん」
2016年5月4日『沖縄タイムス』「魚眼レンズ/『沖縄女性の美術』後世にー岡村幸宣さん」 
2016年5月5日『沖縄タイムス』「画家 宮良瑛子展シンポー人間描き 社会見詰める」 
2016年5月5日『琉球新報』「あしゃぎ/『私たちの記憶』にする絵画ー岡村幸宣さん」 


1974年1月 『沖縄思潮』創刊号  島袋光裕「題字」 宮良瑛子「表紙絵」 城間喜宏「目次カット」 安次嶺金正「とびらカット」

1977年4月 沖縄の雑誌『青い海』№62 宮良瑛子「ベトナム紀行 戦火のもとでも芸術活動が」
1977年5月 沖縄の雑誌」『青い海』№63 宮良瑛子「ベトナム紀行 戦火のもとでも芸術活動が(下)」

1984年12月 沖縄の雑誌」『青い海』№128<特集・琉球弧の女からのメッセージ>井伊文子「新春随想・簪によせて」/「新春座談会ー宮良瑛子、岸本マチ子、国吉安子、山川晶子、嶺井恵子、司会・関根愛子」
1985年1月 沖縄の雑誌」『青い海』№129 「新春座談会ー宮良瑛子、岸本マチ子、国吉安子、山川晶子、嶺井恵子、司会・関根愛子」(Ⅱ)

写真左から宮城篤正氏、安里盛昭氏 ○ ○ 山之端一博氏、宮良瑛子さん、前田孝允氏、大城精徳氏

2004年2月 宮良作『沖縄戦の記録ー日本軍と戦争マラリア』(カット・宮良瑛子)新日本出版社
○日本軍が沖縄戦を呼び込むために造った基地を、米軍が国際法規を無視して強化し使い続けています。しかも日本政府は、この基地を国民の血税をふんだんに使って維持、改造し、基地の整理縮小さえアメリカにきちんと要求していません。また沖縄の自衛隊基地は米軍が譲ってくれたという因縁つきのものです。「沖縄からは日本がよく見える」「沖縄の米軍基地は世界を鷹の眼で睨んでいるだけではない、日本国民の主権を抑えているのだ」ということを痛切に感じています。

2013年7月1日『琉球新報』「画家・宮良瑛子氏 丸木美術館で来春個展開催ー女性と命 描き続け 活動の集大成『力出し切る』」


宮良瑛子さん、その作品「祈り」2013年7月2日~7日 那覇市民ギャラリー「第31回 核も基地もない緑の沖縄を! 沖縄平和美術展」



左、喜納勝代さん、宮良瑛子さんと作品「奪われた大地」→2015年7月7日~12日 那覇市民ギャラリー「核も基地もないみどりの沖縄を!沖縄平和美術展」

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1953年5月


1954年3月 那覇の大洋劇場で「紳士は金髪がお好き」上映


1954年4月 那覇のオリオン座で「バンビ」上映


1956年5月9日『琉球新報』


1956年12月27日『琉球新報』


1957年1月27日『琉球新報』「禁断の惑星」


1958年8月『琉球新報』


1956年11月7日『琉球新報』

1959年5月『琉球新報』「国映館ー十戒」


1959年8月『琉球新報』


1961年8月 那覇の桜坂オリオン座で「眠れる森の美女」上映


1961年12月 那覇のグランドオリオンで「ジャングル・キャット」上映


1962年9月 那覇の琉映本館で「アラビアンナイト シンドバッドの冒険」上映


1963年2月 那覇のSオリオンで「シンデレラ姫」上映


1963年7月 那覇の国映館で「101匹わんちゃん大行進」上映


1963年12月 那覇のグランド・オリオン座で「狼王ロボ」上映

1966年8月  那覇の桜坂オリオンで「百獣の王ライオン」「わんわん物語」上映
1967年7月 那覇の桜坂オリオンで「バンビ」上映
1968年7月  那覇の桜坂オリオンで「ダンボ」「クマのプーさん」上映

1968年8月  那覇の国映館で「クーガー荒野に帰る」上映

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1975年7月 那覇の桜坂オリオンで「バンビ」「小びとの森の物語」上映

(翁長良明コレクション)

1976年8月 那覇のグランドオリオンで「大自然の驚異」上映

1974年3月 那覇の桜坂オリオンで「海底2万哩」上映/1975年7月 那覇の国映館で「メリーポピンズ」上映


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