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Category: 04-書の森
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1973年12月 沖縄の雑誌『青い海』1月号 通巻19号 具志堅以徳「沖縄に帰化した中国人」


1931年7月ー左から許田重友、大嶺政寛、山田有昴、西村菊雄、具志堅以徳、城間、新垣、大城貞盛、大嶺政敏/ニシムイで左が具志堅以徳、玉那覇正吉


1971年11月 那覇市制50周年 36年振再現那覇大綱引協力者感謝状受賞記念

2015年10月24日 沖縄県立博物館・美術館講座室「ニシムイの画家たち 金城安太郎・具志堅以徳について」

具志堅以徳


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1984年ー左から金城安太郎、具志堅以徳、新城栄徳/書斎の具志堅以徳


2018年1月30日 具志堅宅の途次/写真左からー具志堅隆氏、洋子さん、野原由将氏(那覇大綱挽保存会)、新城栄徳、比嘉清敏氏(那覇大綱挽保存会)

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○沖縄は「水社会」ではない❔・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉城哲
PHOTO”レポート”カー〟再発見ー宝口樋川/金城大樋川/佐久之川/竜樋/仲村渠樋川/ウティンダ/チジンガー嘉手志川/与座泉
「北水南送」からの脱却・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東一彦
宮古における水と生活誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲宗根将二
「新しい水」の開発・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・古川博恭

2016年7月ー昨日7日のテレビニュースで、今年の夏、首都圏は空前の水不足に見舞われそうだ。水源のダムはこの時季としては「最低の貯水量」(国土交通省管理事務所)になっている。と呑気に報じていた。これでオリンピックを迎えられるか少し気になる。日本は食料自給率が低く、世界最大の農産物輸入国である。このため、食料輸入という形で大量の仮想水を輸入しているので水不足を真剣に考えない体質となっている。仮想水(かそうすい、virtual water)とは、農産物・畜産物の生産に要した水の量を、農産物・畜産物の輸出入に伴って売買されていると捉えたものである。ヴァーチャル・ウォーターともいう(ウィキ)。このアベ政権になってからどうも国民生活の基盤がガタガタだ。電気は将来も原発。国防はアメリカの「核の傘」、この抑止力とやらは尖閣でも分かるように中国の覇権に対し抑止力が疑わしい)。

龍脈/16日午前、沖縄気象台と鹿児島地方気象台は、沖縄・奄美が梅雨入りしたとみられると発表した。
1933(昭和8)年11月2日 那覇市泊「高勝い」の上之屋浄水場で通水式ー開栓は照屋宏那覇市長。那覇市内は綱曳で水道通水を祝った。


 1925年10月、那覇市長に就任した岸本賀昌は水道敷設に執念を燃やし、1928年2月、政府の許可を得るための滞京中に病没。そのあとを受けて3月に小嶺幸慶助役が那覇市長に就任。小嶺市長は大阪に出張し、専門家から意見を聴き、兵庫県尼埼市技師の山中小六を那覇市水道調査技師に迎える。しかし市会で一票の差で可決後、水源地の宜野湾村の猛烈な反対運動の最中、1931年7月、小嶺市長は水道汚職で辞任することになる。後に一中同窓の東恩納寛惇は1933年12月『琉球新報』で水道敷設にかけた小嶺を称えている。ちなみに1900年の卒業生は伊波興旺、漢那憲英、國吉眞徳、崎浜秀主、島袋慶福、比嘉盛珍らが居た。戦前の水道敷設については那覇市歴史博物館に詳しい資料もあるので、それを見てもらうことにして、この水道敷設は沖縄戦でほとんどが破壊された。戦後、水道施設が再建され、大型ダムも続々と建設された。沖縄県内の水道普及率は1998年に99,8%に達した。沖縄は大きな長流もなくお天気任せの水事情である。

1935年4月  東恩納寛敷『那覇市水道誌』那覇市役所
1974年10月 『水と人間』創刊号<水底考 その自然と文化>□宮本常一「琵琶湖の文化」 琵琶湖問題研究機構


1988年6月 『新沖縄文学』76号<特集・水と暮らし>
○水ーその民俗誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いれい・たかし
水管理と地域自治・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多辺田政弘
水の南北問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・島袋久光
自給への試み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宇井純
水資源開発の限界・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・賀川健二
河川汚濁とその対策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下地邦輝
水道の水質は安全か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・遠山英一
<年表>上水道のあゆみ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・賀川健二・編 
<随筆>近代沖縄の新聞人群像・・・・・・・・・・・・・・・・・新城栄徳

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 蔡崇(さいすう)を元祖とする琉球王国の士族(久米氏族)。12世・蔡壎より小禄間切(現・那覇市小禄)儀間村の脇地頭職を務めた。1世・蔡崇は、福建省泉州府南安県の出身。家譜によると、宋の書家として有名な蔡襄の6世孫という。8世までは通事(通訳)にとどまっていたが、9世・蔡堅より脇地頭職を賜り殿内クラスに昇格した。分家10世に蔡氏志多伯家・蔡鐸、その息子蔡温と、門中に傑出した人物を輩出した(ただし蔡鐸は梁氏からの養子)。→蔡氏儀間殿内(さいうじ ぎまどぅんち)


1966年『現代沖縄人物三千人ー人事録ー』沖縄タイムス社
儀間比呂志 1923年3月5日 - 2017年4月11日
 ぼくは大正12年に、沖縄の那覇の久米村でうまれた。(妹に山田和子、湖城智子、弟に達、進)久米村は、中国の三十六姓の子孫です。琉球王朝が、中国から、技術者とかを招聘した。今でいう技術導入ですね。そして久米村に集めて住まわせたわけです。このことを考えてみると、中国人は世界中にちらばっていて、華僑になっていますが、なかなかその国々の中へ同化してしまうことがない。ところが沖縄では、そういう中国人の根強い意識さえ、沖縄化してしまった。沖縄には華僑はない。みんな沖縄人になって、ずっときた。そうした子孫です、ぼくは。
 小さい頃の記憶だと、村ではよく中国風の祭りをやったり、清明祭という」祖先をまつる祭りを、一族一門集まってやったことがあった。→1973年1月『やぽねしあ』儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」

 1940年5月7日 儀間比呂志、家を出て那覇港から神戸、横浜と船を乗り継ぎ読谷村の呼び寄せ移民とともに15日目にテニアン島で下船した。→儀間比呂志「私の原風景」(沖縄美術全集4付録)


1961年4月30日『琉球新報』「小学生のころからわたしは絵が好きでした。これは、担任の先生が今も沖縄で活躍しておられる画家の大嶺政寛さんで、つねに絵の話を聞かされていたせいもあったようです。・・・」/写真ー儀間比呂志の父・昌(次男、兄に盛)、母・初子(蔡氏神山家)

子息(修)の結婚式ー儀間比呂志夫妻と談笑する船越義彰/儀間比呂志夫妻、手前が儀間氏の母堂

儀間進氏が水道工事業界の専門紙『水と生活新聞』(水と生活新聞社。渋谷)に連載中の「江戸水道物語」

儀間比呂志の弟の儀間進氏、右が妹の智子さん/儀間比呂志が1951年に沖縄の家族に宛てた手紙


2018-4-25 ギャラリー象で儀間比呂志の妹・山田和子さんから話を聞く豊見山愛さん。/1984年
識名ー儀間比呂志母の納骨。現在、墓は大阪




1998年6月ー儀間比呂志、東江清俊氏/2002年10月ー神山泰治氏、儀間比呂志、宮城篤正氏

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1979年3月 沖縄の雑誌『青い海』81号 宮里一夫「波乱の密貿易時代ー与那国を舞台に活躍した糸満漁夫ー


2018年1月21日ー左から柳悦州氏、宮里一夫氏/島袋文雄氏の書斎で、宮里一夫氏

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自著を持つ島袋文雄氏/島袋文雄氏の書斎で、宮里一夫氏/左から具志堅以徳氏、島袋文雄氏、大田朝美氏
   
1999年3月 島袋文雄『私の教育手帳』 / 島袋文雄氏の作品

1951年ー楚辺初等学校図工クラブ、中央に島袋文雄氏、後方に神山泰治少年/1991年ー安謝小学校校長の島袋文雄氏

3列目左端が島袋文雄氏、前列右から3人目が伊佐伝一氏

2007年11月 島袋文雄『泊前島今昔物語』沖縄大学地域研究所

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2018年1月21日ー左から柳悦州氏、宮里正子さん,宮里一夫氏

2018年1月18日 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館「柳悦州 退任記念展・蒐集資料展 ラオス・シルクロード」/写真左が柳悦州氏、新城栄徳
悦州氏は1986年 - 1990年、沖縄県立芸術大学で附属研究所長、教鞭をとった柳悦孝氏の次男。悦孝氏は柳楢悦の長男・悦多の長男。

沖縄県立博物館・美術館「麗しき琉球の記憶―鎌倉芳太郎が発見した美ー」(2014年5月20~6月22日)図録  
波照間永吉「鎌倉芳太郎収集の沖縄文化関係資料」
高草茂「沖縄文化の甦りを願うー鎌倉芳太郎が写真で今に伝えるものー」
佐々木利和「鎌倉芳太郎氏<琉球芸術調査写真>の指定」
西村貞雄「鎌倉芳太郎がみた琉球の造形文化」
柳悦州「鎌倉芳太郎が寄贈した紅型資料」
波照間永吉「古琉球の精神を尋ねてー鎌倉芳太郎の琉球民俗調査ー」
粟国恭子「鎌倉芳太郎が残した琉球芸術の写真」
謝花佐和子「鎌倉芳太郎と<沖縄>を取り巻くもの」
鎌倉秀雄「父の沖縄への思い」
宮城篤正「回想「50年前の沖縄・写真でみる失われた遺宝」展
新城栄徳「末吉麦門冬ー芸術家の名は音楽のように囁くー」
三木健「<鎌倉資料>が世に出たころ」

柳 楢悦(ならよし) /1832(天保3)~1891(明治24)→安房文化遺産フォーラム
江戸生まれ、9歳で書や算術を学び、元服後に和算や測量術塔を学ぶ。1855(安政2)年に幕府の長崎海軍伝習所で、勝海舟や榎本武揚らとともに近代的な航海術や海防に必要な測量術を学ぶ。新政府の海軍創設の基幹要員として上京、1886(明治19)年に初代の海軍水路部長に就任。水路業務の推進だけでなく、関澤明清とともに水産技術の発展に尽力し、1888(明治21)年大日本水産会幹事、1890(明治23)年第一回貴族院議員となるが、翌年逝去。
1873年2月、「琉球全島測量ノ命」が下された。測量体制は、大阪丸(440トン 磯辺包義艦長)に柳楢悦水路権頭、青木大尉、大伴兼行中尉、高橋惟熈、石川洋之助、加藤重成、第一丁卯艦(125トン 中村雄飛艦長)に、中村雄飛大尉、児玉包孝、その他水路寮生徒(補助)というメンバーであった。
一行は1873年2月12日、品川湾を抜錨、途中、下田、神戸、呼子、鹿児島、山川の各港を経て南西諸島に達した。4月、和久田勇次郎(千葉県木更津の人)が11日急遽したので座間味島阿護の浦に碑を建てた。→1989年7月『座間味村史』


1873年-柳楢悦・中村雄飛・大伴兼行・狩野応信製図『大琉球那覇港之図』

柳悦多(よしさわ) / 1882(明治15)~1923(大正12)→安房文化遺産フォーラム
1880(明治13)年に加納治五郎の姉・勝子と再々婚し、悦多(よしさわ)・宗悦(むねよし)が生まれているが、楢悦の没後、幼い兄弟は伯父の嘉納塾で柔道を学ぶ。嘉納は東京師範学校の学長として館山に水泳練習場を開き、水泳師範の本田存(ありや)に指南を得た安房中学は日本一のカッパ中学と異名をとる。安房中学の野球部と柔道部の指導にあたっていた悦多は、関東大震災で生徒を避難させた後、建物倒壊で殉職している。


写真ー1939年4月17日、久米島にて後列左から柳悦孝、河井寛次郎、柳宗悦、芹沢銈介、喜久山添采、喜久里教宣(具志川村村長)、濱田庄司

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2018年1月29日ー榕樹書林(沖縄宜野湾市)の武石和美社長、ひより

会場で、私は宝島社の出版物に興味があったので2001年4月『公安アンダーワールドー日本の秘密情報機関』と2004年2月 宝島社『筑紫哲也「妄言」の研究』与那原恵「迷惑な沖縄愛/悲劇の島、癒しの島というステレオタイプ」を買った。『筑紫哲也「妄言」の研究』で与那原は「筑紫哲也のような、平和、人権を唱えるタイプの人間が興味を抱きつづける場所は『沖縄』である。沖縄には彼らが求めるさまざまなテーマがある。広大な米軍基地、沖縄戦体験、そして現在でも『絵』になる平和運動がある(と思われている)。彼らは沖縄という場所に自ら語りたいことを重ねあわせてきたのだ。・・・」。筑紫はウィキによれば早稲田大学大学院公共経営研究科客員教授(専任扱い)、立命館大学客員教授などを歴任しているが、与那原は後に第14回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)を受賞した。


2018年1月16日ー左 銘苅和義(ツボヤ書房 ☎098-879-4545 携帯080-4315ー5437)、新垣英樹 (小雨堂 ☎098-894-5202) 右 宮城未来(言事堂 ☎fax098-864-0315)、新垣英樹、天久斉(Booksじのん ☎098-897-7241)、銘苅和義



トークショー 1月20日(土)15時~「古本屋入門」天久斉(BOOKSじのん)×宮城未来(言事堂)×小原猛(ダムダムブックス)


2月10日 ジュンク堂那覇店 大城宜武「漫画からみた沖縄」/写真左から武石和実氏、大城宜武さん、森本浩平ジュンク堂那覇店長


1983年ー『琉球新報』

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 私は1984年12月発行の『琉文手帖』「文人・末吉麦門冬」で1921年以降の『ホトトギス』の俳句も末吉作として収録した。これは別人で熊本の土生麦門冬の作品である。土生麦門冬には『麦門冬句集』(1940年9月)がある。

1940年9月 川畑恒二・編『麦門冬句集』昭和印刷所(東京牛込区)



1937年11月 東京星ヶ岡茶寮ー右より藤木行人、古河風可①、茂野冬篝、土生麦門冬、菅裸馬②、斎藤適萃、乾固堂

①古河 虎之助(ふるかわ とらのすけ、明治20年(1887年)1月1日 - 昭和15年(1940年)3月30日)は、日本の実業家。古河財閥創業者古河市兵衛の実子で、3代目当主。爵位は男爵。位階勲等は正四位勲三等瑞宝章。紺綬褒章受章。号は風可。古河財閥を多角化させ、総合財閥に発展させた。→ウィキペディア

②菅礼之助 すが-れいのすけ
1883-1971 大正-昭和時代の実業家。
明治16年11月25日生まれ。菅礼治の長男。古河合名理事をへて,昭和14年帝国鉱業開発社長となる。21年石炭庁長官,29年東京電力会長。俳誌「同人」を主宰。昭和46年2月18日死去。87歳。秋田県出身。東京高商(現一橋大)卒。俳号は裸馬(らば)。著作に「裸馬翁五千句集」など。→コトバンク
【格言など】ガヤガヤした生活ばかりだったから,せめて死ぬときはひとりで静かに死なせてくれ(米寿のときのことば)


文学同人雑誌『那覇』
同人ー大串孝作・崎山鬼兵・南三郎・仲村渠・牧港徳蔵・首里二郎・古沢亀次郎・土田徳・山里長生・花城具志・中城章太
目次
評論ー花城具志「あけもどろの花」/南三郎「文学と地方性」
火野葦平□発刊に際してー随分前からぜひと思っていた琉球行を果たすことが出来てたいへん勉強になった。それはいろいろな意味で得るところが尠くなかったが、文化方面のことに関しても収穫が大きかったので喜んでいる。歴史や民俗学、民藝等に興味を持つ人にとっては琉球は汲めども尽きぬ宝庫の観があるであろう。しかし、それらは豊富な伝統の上に新しい世代に添うて今後の琉球文化がどう動いて行くかということは最も切実な問題であると思われる。外部から琉球を骨董品にしてしまうことはよいことではあるまい。また沖縄の人達が自らも骨董品に甘んじることも省みられなけでばならないことであろう。伝統の根が深く抜きがたいということはそれに制肘されることではなく、その遺産を相続することによってより立派な新しい伝統を創造することの意であろう。そこにこそ新しい沖縄文化の朝が開けるものと思われる。特殊な事情のために具体的にはいろいろと困難な問題があるようだ。しかし、世に誇るに足る立派なる琉球文化が新しい出発の肥料になるのでなければ悲しいのである。
 私は今まで遠くから考えていた私の琉球文化に対する概念が、今度の旅行で根底から覆されたことを感じた。私は沖縄の文化人達の深い悲しみを知り、胸もいたむ思いである。しかしながらそれらの身に喰い入る寂寥に鞭うって、昂然と出発を開始しようとする意欲に対して悲壮な感じを受ける。私は今度の旅行で「那覇」同人の諸兄と歓談する機会を持ったことを大いなる喜びとする。慌ただしい日程のためにゆっくりと意見を交換することの出来なかったのを遺憾とするが、それでも私達は文学と生活、文壇と文学、標準語の問題、文学の言葉、地方文学、等について心おきなく語り合うことが出来た。そのようなことは今後の「那覇」の歩調の上に具現せられて行くことと大いなる楽しみにしている。私達の「九州文学」の歩みとともに、共通する九州的血液の交流をもって、前進してゆきたい。「那覇」の人達がそれぞれ優れた特質を持ち、「那覇」にまで到る間の文化的苦悩の深さにも敬意を感じている。「九州文学」に対しても鞭撻を願いたく、新しい日本の文学の建設に輝かしい成果を挙げられんことを期待して歇まない。
詩ー山里長生「前方」/牧港徳蔵「擬混土攪拌機」/仲村渠「雌」
創作ー大串孝作「魔風異」/花城具志「茶飯写生」/土田徳「妻」
あとがき
編集発行人・大城徳蔵 那覇市上蔵町2ノ86
印刷所・有馬三笑堂 那覇市久米1ノ18
発売所・沖縄書籍株式会社 那覇市東町1丁目2ノ89 仲村渠気付

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 東京都近代文学博物館(とうきょうと きんだいぶんがくはくぶつかん)とは、東京都目黒区の駒場公園内にあった文学館である。加賀藩主であった旧前田侯爵邸洋館を利用し、1967年4月に隣接する日本近代文学館と同時開館した。2002年3月に閉館し、資料は日本近代文学館や日本現代詩歌文学館、実践女子大学などへと移された。 建物は1991年3月に「旧前田侯爵邸洋館」として東京都指定有形文化財(建造物)に指定され、無料で土・日曜日、祝日のみ見学が可能になっている。→ウィキペディア


 1966年5月『婦人公論』仲地愛子「末娘からみた父漱石の素顔ー家庭における漱石については誤り伝えられている点がある。それはどういうことなのか。第四女が綴る父との楽しかった日々の思い出」
○・・・父が死んだのは数え年で五十、今流に言えば満四十九歳であった。私は十か十一になるかならないかであった。母と子供六人は父の枕辺に座って父を見守っていた。その頬には白い鬚が延び、枕の上の父のしなびた顔はひどく黄ばんで、なぜかその憐れな様子が私に晩秋のすすきを思わせた。私はあたりの様子にひどく胸打たれ、悲しさがこみ上げて来て泣きじゃくった。・・・ 

○最近のネットに「仲地漱祐 鎌倉民主商工会長 アクセサリー・輸入雑貨販売業/」妹・吉田一恵  東京都大田区出身で、1972年に鎌倉に移り住み、店舗を営む。2005年10月鎌倉市長選に立候補するも落選」とある。

 数十年前、沖縄の新聞で翁長君代(琉大家政学科教授)さんの何かのパーティでの発言「夏目漱石の娘は沖縄出身の貿易商に嫁いでいる」との囲み記事を見たことがある。それで上記の雑誌記事を見つけた。翁長君代さんの夫君は翁長俊郎琉大英文科教授で、その娘・斎藤陽子さんはアメリカ在住である。

1969年12月 翁長君代『琉球料理と沖縄の食生活』績文堂(東京 新宿)
はじめにー沖縄の食生活と琉球料理
1 琉球料理をかたちづくったもの 辻と琉球料理ー今日の琉球料理の発達と、昔の辻遊廓の関係も見のがすことはできません。/主食としての芋/昆布ー元来、昆布は琉球の近海では採取ができないのに、古くから琉球料理のいろいろのものにつかわれてきたのは、昆布が貿易品として扱われてきたことを物語るものです。
2 琉球料理 肉の料理ー血炒ちー(豚の血の炒めもの)琉球料理は、豚一頭分をあますところなくつかって料理するのが特長ですが、これは
豚の血をつかった独特なものです。昔は法事に用いられたようです。お年寄りはよくなさったようですが、ちょっとグロテスクなので、最近の若い方たちはあまりいただきません。
3 沖縄の食品 沖縄のそばーむかしから沖縄で庶民の味として親しまれているものにそばがあります。そばといってもそば粉がつかわれているわけでもなく、中華そばに類するそばです。
4 沖縄の栄養
付1 沖縄の食品衛生
付2 家計経済からみた沖縄の食生活
付3 おもな食品の栄養成分表

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1973年1月 犬塚昭夫『やぽねしあ』6号 「儀間比呂志版画集」 儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」


犬塚昭夫

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「陶さんの_つれづれ草」2007年1月ブログに「●追悼 犬塚昭夫」「犬塚昭夫作品集リスト」が載っている。  
○犬塚昭夫が死んだ。2007年が明けて3日のことという。六十四才だった。
私がそれを知ったのは、1月7日のこと、前日6日、彼の家に2度ほど電話をしたが留守であった。正月で外出しているのかと思い、Faxを流して私の用件を伝えた。「蒼生舎通信68号からはじまる今年の誌面(巻頭)に貼り絵と詩をお願いしたい。」という内容である。7日朝十時に、再び電話をした。奥さんが出られた。「Faxでお願いしたことですが……」と私は切り出した。電話口の向こうで、ちょっと沈黙する様子があってのち「実は、犬塚は亡くなりました日、葬式をすませたところです。」という声が返ってきた。私は動顛した。〈いつ、どこで、どうして、なぜ……〉相手の気持も考えず、矢継ぎ早に興奮して問いかけた。奥さんの要を得た説明があって、私は沈黙する他はなかった。
 蒼生舎通信は、
 2003年から梟(詩とエッセイ)、
 2004年続・梟(詩とエッセイ)、
 2005年続々・梟(詩とエッセイ)、
 2006年詩人の肖像
と犬塚昭夫の詩作品を飾って来た。私はそれが誇りであり、犬塚作品を巻頭に置いて読者に蒼生舎通信という冊子を届けることの喜びを味わって来た。犬塚昭夫との事は、私が二十歳ちょっとの若者で、大阪を彷徨っていた頃に結んだ友誼だが、30代〜40代の長い断絶のあと再び取り戻した代えがたい宝である。私は今、自分が失ったものの大きさに打ち据えられている。 (2007.1.7 蒼生舎・太田光昭)



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沖縄の雑誌『青い海』新年号

1972年 新年号

1973年 新年号

1974年 新年号ー2018年1月2日/琉球朝日で玉城節子顕彰公演「翔舞美ら清ら」を見る。やはり正月は舞踊に限る。

1975年 新年号

1976年 新年号

1977年 新年号

1978年 新年号

1979年1月

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沖縄関係の文庫本サイズの本を列記すると、渡邊重網『琉球漫録』(1879年)、奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』(1895年)、菊池幽芳『琉球と為朝』(1908年)、尚球『廃藩当時の人物』(1915年)、金城三郎『沖縄産有要植物』(1916年)、秦蔵吉『琉球案内』(1919年)、大城彦五郎『琉球語案内』(1925年)、摩文仁賢和『攻防自在護身術空手拳法』(1934年)だが、これに郷土研究社の『炉辺叢書』を加えると多様に富む。


写真ー尚球

『廃藩当時の人物』表紙/明治43年『スバル』11号 
尚球『廃藩当時の人物』(1915年)
尚健伊江朝直/宜湾朝保/浦添朝昭/富川盛奎/亀川盛武/義村朝明/林成(世)功/与那原良傑/伊舎堂盛英/池城安規/津波古政正/豊見城盛網/伊江朝重/喜屋武朝扶/久志助保/知花朝章/護得久朝常/百名朝起①
①1983年3月 『那覇市史だより』「『百名家文書』収集経過および文書概要ー名城林世功(本名・新垣)陳情通事遺銀御心付金給与御恩典蒙ラスニ付請願/那覇区字久米二千六百七十三番地 兄・名城世勲71歳 名城世功妻・名城カマド66歳 名城世功養子・名城先安 明治41年12月 中城御殿家扶各位閣下」





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上右ー日本遠征記 (岩波文庫) 文庫 – 1948/8/15  ペルリ (著), 土屋 喬雄 (翻訳), 玉城 肇 (翻訳)
下ーあらし (岩波文庫) 文庫 – 1950/11 シェイクスピア (著), 豊田 実 (翻訳) →豊田實『日本英学史の研究』
○1928年ー市河三喜編輯『岡倉先生記念論文集』に豊田實が「沖縄英学史稿」を寄せている。豊田は沖縄県の依頼で1928年3月22日から28日まで英語講習のため那覇に滞在した。そこで沖縄県立沖縄図書館長の真境名安興などの協力を得て沖縄英学史を調べたのが前出の沖縄英学史稿として結実した。中に末吉麦門冬の「百年前の英語通」も引用し真栄平房昭の家譜を書いている。

中学時代、雑誌付録の「手帳」や文庫本はいつも持ち歩いていた。そのころ開南の宮城書店(古本)で平凡社『ポケット百科事典』を入手した。岩波の『広辞苑』の縮刷版だ。百科事典でも分冊にすれば持ち歩ける。高橋文夫『雑誌よ、蘇れー「情報津波」時代のジャーナリズム』(晶文社2009年)に「分冊百科が好調な理由は、雑誌にしても、読者が読みたい号だけ買うようになってきた中で、特定のテーマに沿った内容以外はそぎ落とした機能性が受けている。ネット時代に入って、読者のところに押し寄せる情報量が膨大になりすぎ、一定のテーマについて知識や情報を効率よく整理し体系化した分冊百科が重宝がられるようになった」と、百科事典の現況を記している。

沖縄関係の文庫サイズの本を列記すると、渡邊重網『琉球漫録』(1879年)、奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』(1895年)、菊池幽芳『琉球と為朝』(1908年)、尚球『廃藩当時の人物』(1915年)、金城三郎『沖縄産有要植物』(1916年)、秦蔵吉『琉球案内』(1919年)、大城彦五郎『琉球語案内』(1925年)、摩文仁賢和『攻防自在護身術空手拳法』(1934年)だが、これに郷土研究社の『炉辺叢書』を加えると多様に富む。

 1917年8月に琉球新報社主催で第三回中等学校連合雄弁大会が那覇松山小学校であった。新屋敷幸繁が「沖縄青年の熱血を如何にする」、名城政雄が「本県青年の覚醒を促す」と題して演説した。この同年生まれの二人は後に教師、文筆家としても共通のあゆみをみせる。新屋敷には『詩集・生活の挽歌』(1926年)、名城には『小説・秋の波』(1957年)という文庫サイズを出している。

岩波文庫が1927年に創刊され、その2年後に改造文庫が山本実彦によって創刊された。山本は鹿児島の生まれ、中学を3年で退学し沖縄に代用教員として赴いた。其のときの教え子に饒平名智太郎や宮城聡らが居た。出版王の野間清治も結婚前は沖縄で沖縄中学の教諭をしていた。

『アテネ文庫』弘文堂

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上左1950年7月ー宮崎正義『米ソ戦うか』/右1952年2月ー宮本三郎『ドガ』
下左1958年7月ー『アテネ文庫解説総目録』/1955年5月15日ー宮城栄昌『律令制度の社会と文化』
○弘文堂ー明治30年(1897年) - 京都で八坂浅次郎(1876-1948)が創業。八坂は京都出身。
大正6年(1917年) - 河上肇 の『貧乏物語』を発刊し、ベストセラーとなる。
昭和13年(1938年) - 本社を東京に移転
昭和23年(1948年) - アテネ文庫を刊行。同文庫は、一冊60~70ページ台が基本で、文化的な内容を扱っていたが、20年代後半に301巻を持って完結。
昭和26年(1951年) - 創業者親族を中心とした社内抗争により、未來社と創文社が生まれる。また昭和40年代に「清水弘文堂」で旧著を再版刊行していた。
社長は八坂浅太郎(1950年代)→ウィキペディア

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写真ー1985年ー国会図書館書庫内の文庫本コーナーで新城栄徳、後方が宮城剛助氏(伊佐眞一撮影)

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新城栄徳「台東区浅草1965」
私は東京浅草で中華料理店の出前持ちをしたことがある。店は合羽橋近くにあった。自転車で浅草中走り回った。大半が「バクチ場」で入口まで持って行くと玄関で組員が受け取る。銭湯に入ると全身刺青(伝統芸術)の初老の人が大半であった。浅草から上野は近い。上野公園はもともと寛永寺の境内で1873年に宮内省管理、77年には第一回内国勧業博覧会が開かれ美術館も設けられた。82年に上野動物園、博物館。87年に美術学校・音楽学校などが開設、移築された。1924年、皇太子御成婚記念で東京市に下賜され恩賜公園として一般に開放され科学博物館、美術館などが出来て日本有数の芸術文化の森となった。→合羽橋「かっぱ橋道具街」。大阪には「千日前道具屋筋商店街(せんにちまえどうぐやすじしょうてんがい)がある。ー大阪市中央区難波千日前にあるアーケード商店街。飲食店などで用いる業務用の調理器具や什器を扱う店が密集している。

1957年12月 岩井弘融『暴力 日本のやくざ』平凡社
1963年3月 岩井弘融『病理集団の研究ー親分乾分集団研究ー』誠信書房
□第1篇 博徒・的屋集団
  第2篇 土建・港湾・炭鉱等における親分乾分関係
  第3篇 壮士・院外団・右翼
  第4篇 パースナリティと集団性格

岩井弘融ー佐賀県出身。東京帝国大学卒。東京都立大学助教授、教授、大正大学教授、東洋大学教授。1989年、定年、名誉教授。代表的な著作に『病理集団の構造』や『犯罪社会学』などがある。2013年8月4日、急性肺炎のため死去。94歳没。→ウィキ

1958年10月 磯村英一『性の社会病理ー日本の売春にみるもの』大日本雄弁会講談社
1961年12月 磯村英一・木村武夫・孝橋正一『釜ケ崎/スラムの生態』ミネルヴァ書房

磯村英一 いそむら-えいいち 1903-1997 昭和-平成時代の社会学者。
明治36年1月10日生まれ。磯村春子の子。東京市役所(のち都庁)勤務をへて,昭和28年都立大教授となる。41年東洋大教授,44年学長。アメリカ都市社会学にまなび,行政経験をいかして日本の都市社会学の確立につくす。同和対策協議会会長などもつとめた。平成9年4月5日死去。94歳。東京出身。東京帝大卒。 →コトバンク


1962年6月  大橋薫『都市の下層社会ー社会病理学的研究』誠信書房
大橋薫-福島県田島町出身で、会津中学、浦和高校を経て1942年(昭和17年)に東京帝大へ進む。翌年に学徒出陣し、石垣島で終戦を迎える。階級は陸軍少尉。 復学後東京大学文学部、同大学院で社会学を専攻し、大学院退学後大阪市立大学に講師として採用され、家政学部助教授に進む。明治学院大学の社会福祉学系大学院開設に際して招聘を受け[10]、文学部助教授、教授を経て1966年(昭和41年)に社会学部教授となる。担当は社会病理学。→ウィキ

null当時の合羽橋(暮らしの手帖)

上野駅は北国(雪国)の玄関口で周辺には高村光雲作の西郷隆盛銅像や、朝倉文夫作の「生誕の像」(同じものが那覇市役所広場にある)がある。ところで、金山喜昭『日本の博物館史』を見ると、江戸後期に開かれた同好者たちによる物産会(本草会)はモノを集めて公開する、出品物を記録・刊行していく点で博物館の源流だとしている。官僚主導の日本の近代博物館と違って近江の木内石亭の「奇石会」、大坂の木村 蒹葭堂「貝類・鉱物」を例に物産会は横並びの同好のサークル活動だったとしている。

高村光雲作の西郷隆盛と犬の像

明治政府は1867年に「神仏分離令」を布告。そのために全国で廃仏毀釈が行われ古文化財の破壊を招いた。71年になって太政官は「古器旧物保存ノ布告」を出す。やがてそれが国粋主義や美術富国論の勃興へとつながる。前出の『日本の博物館史』には鈴木重雄により1924年に設立された「遠野郷土館」を、個人の趣味や愛好的な色彩ではなく、国策に従う郷土教育ではなく「日本歴史のどの頁に吾々の共鳴する点がありますか」とし、「個」の確立を目指した点を特に述べている。

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中央・屋部憲
1947年7月 「沖縄美術家協会」設立。会長に屋部憲氏が選ばれた。
1947年ー沖縄美術家協会/沖縄民主主義文化連盟(瀬長亀次郎、屋部憲、池宮城秀意、名渡山愛順、仲村渠)/沖縄文芸家協会 (山城正忠、仲泊良夫、仲村渠、國吉眞哲ら)
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1947年6月-沖縄人民党結成ビラ

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1948年 左からー後向きがアクトン少佐、松岡政保、山田真山、屋部憲、名渡山愛順

 屋部憲ー沖縄美術家協会宛ー近く民政府も機構替へになると伝えられ美術家協会も従来の立場で他の部に合併されては事業遂行上色々な不便を来たすことが多いので、それが決定しないうちにと思ひ取急ぎ美術面に対する私見を書いて副知事を通じて知事に1協会員としての意見を述べるものであるが、これに就いて更に協会員に諮り良く論旨を纏めて正式に陳情する必要がある。(略)(1)美術振興の急務 (2)美術行政機関の設置ー従来美術家協会は文化部に所属していた為め軍政府の指令は民政府に来て民政府の指令は更に文化部を経て美術家協会に来ると云ふ調子で2段、3段を経るため不自由を来たす(略)例えば沖縄美術院(仮称)の如きものを創設して自由活発なる動きをするとか大切である。(3)美術教育機関の設置 (7)商業美術の振興 (8)産業面と連絡して図案部設置ー沖縄の陶器業、漆器業の発展を計るため伝統の図案を生かすのも必要であるが、尚新時代に即する図案を出し美術工芸品の海外移出を計るために図案部を設置して研究をなす。其他紅型、織物等とも関連して商業工芸美術の振興を計る。 (9)美術家協会の集団生活

1949年8月『芝居と映画』屋部憲「戦争と藝能」
○終戦当時国頭羽地大川のほとり、川上の山宿で始めて仲嶺盛竹氏の琴を聴いた時、何とはなしに熱ひものが頬を伝はるのを覚えた。別に悲しいのではない。さりとて歓びの感激でもない。勿論生延びた喜びはあるが、それのみの為めじやない。又戦禍に斃れし人々のことを考へた時悲痛の思いはするが、それのみののためでもない。亦死に勝る戦争中の飢餓と労苦を考えた時、血がにじみ出るやうな思ひ出はあるが、然し、その追憶のためでもなひ。今私はこの名状すべからざる感激の詮索に隙を假すことを憚り乍ら、筆を持ちなほしていく。

 艦砲に追はれて山から山に逃れつつ、じめじめする防空壕の中で明け暮れ希ったものは何であったか、それは只、平和への一途ではなかったか。そしてその平和こそは今将に来たのではないか。この歌こそは琉球民族が永い間求めて来た世界ではなかったか。実に琉球の平和は余韻蕭條たる音楽によって序幕が開かれたのである。

 その後間もなく諮詢会が誕生し、私も川上の山宿と別れて石川に行き文化部の芸能関係の仕事をするやうになった。当時の文教隊長はハンナ少佐で実に親切な方であった。兵隊というと四角張った人間のやうに思うが、ハンナさん(皆がハンナさんハンナさんと親しむ)は召集前迄大学教授で日本語も相当使い、沖縄歴史の研究に没頭し、尚戦争のために散在した古美術工芸品を拾集して博物館を建設した功労者である。序にハンナさんの人格の一端を紹介すると戦後のことで、大抵の兵隊は珍しいものを探して土産に持って帰ったがハンナさんはそんなことは絶対にしない。人々が骨董品でも贈ろうとすると頭を横に振って、沖縄は戦争のために凡てを失ったからこんな貴重な品は沖縄に保存した方がよいと云うてなかなか受取らない。こう云う性格だから文化関係の仕事には熱意をもって援助して呉れた。

 沖縄芸能聯盟が設立されたのもこの頃で会長に護得久朝章氏、幹事に仲嶺盛竹氏、島袋光裕氏及び私の三名であったが、ハンナさんは芸能聯盟のために衣裳や幕を整えて呉れたり、又稽古場を建てて呉れたりした。あの石川病院裏の演劇研究所(現在は入院室に使用している由)もハンナさんの記念の建物である。

 芸能聯盟の事業としては色々あるが当時最も必要な仕事は米軍の希望による部隊慰問が重なるもので、約半ヶ年間は各地区の部隊廻りに急しかった。ところが相手が軍隊であるから約束した日には雨の日でも寒い晩でもトラックの上で凍え乍ら出かけたのである。今から云うと何でもないやうに聞こえるが、あの頃は終戦当時で凡てが殺気立ち、黒人の襲撃事件等が頻々とあった頃だから絶えず憲兵が小銃を携えてトラックの前後に付添い、小用にも一人歩きは危険で引率して行く始末であった。しかも上演物は音楽の歌詩に至る迄、凡て翻訳しt説明を附し、尚試演の際も一々検閲するのであるが中にも一番困る事は上演の時幕あいの時間がなく次から次と連続で演り、少ない人数で入り替り、立替りするのであるが、その間に化粧もしなければならんし、着付もしなければならん。然も少ない着物を多くの人数で使用するのであるから、大急ぎで着替えなければならんと云う目の廻るやうな急がしさは役者自身は固よりタイムを取るマネーヂヤー迄気を揉むこと夥しい。それに定った時間がきた時にはどんな良い出物でも遠慮なくカットしていくのであるから折角苦労して稽古したものでも当日になって時間の関係で中止になった事が時折あった。平素楽屋の中でゆっくり化粧や着付をやりつけている役者が2,3日の不自由な 兎も角も永い間文句一つ云はずに愉快に働いたことは、如何に緊張していたかがわかる。

 役者の中には今度の戦争で大切な夫を亡くしたのも居れば、可愛い子供を失ったのも居るが骨肉を失った深い悲しみと悩みを胸に秘めて各地区の部隊を廻り、俄造りの舞台や、或いは露天の下でで、しめやかに響く楽の音に合せて踊り抜く姿は、心ある者を泣かせたであろう・・・・凡ては平和のためだ。吾々は平和のためには如何なる不自由も犠牲も厭はないであろう。

 米軍慰問が終る頃には住民の生活も段々落付いて来て各地の疎開者から上演申込みがあるやうになったが、その頃には吾々も美術家協会を計画して私は其の方面で働く様になった。その後芸能聯盟も色々変化して来たやうであるが、今から考えると、あの終戦当時が最も張り切っていた様に思はれる。(1949、7,10 於西森墨荘)

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沖縄県立第二中学校ストライキ事件で中退し東京で近衛連隊勤務かたわら美術研究所で学ぶ。

1919年8月   屋部憲、帰郷して『琉球新報』記者。同年、古波鮫唯信(漂雁)入社。12月ー浦崎康華入社□社長は嵩原安佐、理事・与那原良能、比嘉盛昇、山城正一、硬派主任・瑞慶村智慧
1920年2月   泉正重、島袋紀成、琉球新報入社
1923年      玻名城政博、経済記者とし琉球新報入社
1925年9月   屋部憲、琉球新報退社し豊平良顕を入社させる。ソ連への越境入国を企てて、満州ハルピンまで行ったが果たせず。その後、大阪で「赤光社」という看板屋を営みながら県人会運動にも参加。

1926年3月    屋部憲、沖縄青年同盟に参加
1927年4月24日 屋部憲「一職工の手記ー北満の思出」(1)(2)軽快なロシア娘(3)ペンキ屋の職工
1928年2月    屋部憲、第1回普通選挙で労農党の井之口政雄を応援するため帰郷。

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1930年5月3日『沖縄朝日新聞』「山田有幹、屋部憲 釈放」

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1930年11月『沖縄朝日新聞』

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1937年、親泊康永依頼で屋部憲が製作し通堂橋脇に設置された「那覇・首里観光図」(首里・那覇の名所旧跡を彩色図にした)

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夢覚・屋部憲次郎氏、右は父屋部憲の戦前の看板店の地図(憲次郎書)

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首里の屋部夢覚氏から「蘓姓三世憲喜(棚原子シー)について」を送ってこられた。書家でもある氏には『蘓姓家譜ー奥島家(大宗憲宜)訳注』(1979年)の手書本もある。蘇氏は『氏集』によると、「元祖譜代蘇氏國頭親雲上憲宜三世新参比嘉筑登之親雲上憲清支流長子蘇文信棚原筑登之親雲上憲暢」と「」元祖譜代蘇氏國頭親雲上憲宜支流三子蘇用誠國頭憲之」がある。


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1950年 屋部憲「爬龍船」(水彩)

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□1947年ー沖縄美術家協会/沖縄民主主義文化連盟(瀬長亀次郎、屋部憲、池宮城秀意、名渡山愛順、仲村渠)/沖縄文芸家協会 (山城正忠、仲泊良夫、仲村渠、國吉眞哲ら)
1947年7月ー沖縄美術家協会結成
1947年8月ーギャラリー設置


沖縄美術家協会会則



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1949年7月2日、3日ー沖縄タイムス社コンセット社屋「沖縄美術展覧会(沖展)」




山元恵一 作品

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1921年 沖縄県立農林学校卒

1969年11月 デパートリウボウ・琉球新報社「南蛮古陶展」で、左から外間正幸(1969年~1981年ー琉球政府立博物館館長)、大嶺薫(1946年~53年ー東恩納博物館長)、山里永吉(1955年~58年ー琉球政府立博物館館長/写真中央が朝潮、左が大嶺薫
朝潮 太郎(あさしお たろう、1929年(昭和4年)11月13日 - 1988年(昭和63年)10月23日)は、本名・米川 文敏、鹿児島県徳之島出身(出生地は兵庫県武庫郡、現在の神戸市)で、高砂部屋に所属していた大相撲第46代横綱。→ウィキペディア



1945年8月 石川市東恩納にアメリカ軍政府「沖縄陳列館」設立

□今秋、那覇新都心に沖縄県立博物館・美術館がオープンする。外見からも最高の文化施設になると確信するのは私一人ではないと思う。「沖縄の戦後は石川から始まった」とよく聞くが、戦後初の博物館が石川市にあったことを知る人は少なくなってきている。東恩納の民家を使っての博物館で民家は今も健在で2005年3月に石川市の文化財として指定を受けている。民家は沖縄市から石川に向け国道329号の栄野比の坂を上がり切ったところの交差点を右に入った住宅地にある。
1945年8月に米国海軍政府のハンナ少佐らが中心となり、石川市東恩納の軍政府コンセット群の一隅残っていた民家(平良栄徳宅)を転用し沖縄陳列館が設立された。大宜味村に避難していた大嶺薫が招かれハンナ少佐の下で陳列館の資料収集に駆け回る。大嶺は琉球の古美術、歴史、考古学に幅広い知識を持った研究者でもあり戦前から古美術品を収集していた。私のコレクションに東恩納博物館当時の事務資料がまとまってある。紙面の都合上主なものを紹介する。
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(2007年10月7日『琉球新報』翁長良明(携帯090-3793-8179)「戦後の象徴『石川』旧東恩納博物館」)


1970年10月12日『琉球新報』山里永吉「シュープ大将と大嶺薫」

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1996年3月 『新生美術』11号 「座談会・ニシムイの美術村あれこれ」星「仲嶺康輝さんの話やその記録では、昭和初期の東京の下落合には、有名な画家たちのアトリエがあって、その中に愛順さんは美校時代、一軒家のアトリエを借りていたそうですね。・・・」

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1948年 アクトン少佐、松岡政保、山田真山、屋部憲、名渡山愛順ー首里ニシムイ建設で米軍部長をまじえて話しあう松岡工務部長→1979年3月『沖縄戦後史 アメリカ世の10年』月刊沖縄社


2016年1月 沖縄県立博物館・美術館『ニシムイ 太陽のキャンバス』

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山田真山・住所変遷
山田泰雲君は元篆刻てんこく師の弟子であったが、芦野楠山先生の世話で師の許しを得て私の門下となった。大分出来て来て、これからという処で病歿しました。→青空文庫/高村光雲「幕末維新懐古談・その後の弟子の事」

1916年   東京府下日暮里谷中本1017
□石野瑛『南島の自然と人』表紙・山田真山画「オメントー」

1918年   東京市下谷区三崎南町60
1929年   東京市外井萩町上荻窪963
□2001年3月『新生美術』山田博「具志堅(聖児)先生の思い出」
□真山家族ー妻・博子(小堀鞆音の娘)、長男・真、次男・博、長女・栄子、3男・光三

小堀鞆音 こぼり-ともと
1864-1931 明治-昭和時代前期の日本画家。
文久4年2月19日生まれ。川崎千虎(ちとら)にまなび,歴史画を得意とした。明治31年日本美術院の創立に参加。41年東京美術学校(現東京芸大)教授。大正8年帝国美術院会員。門下に安田靫彦(ゆきひこ),川崎小虎(しょうこ)ら。昭和6年10月1日死去。68歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。旧姓は須藤。本名は桂三郎(けいざぶろう)。作品に「宇治橋合戦」「武士」など。(→コトバンク)

1937年   名古屋市中区米野町居屋敷52

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山田真山、太田朝敷像制作

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比島移民翁・大城孝蔵立像

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