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Category: 04-書の森
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儀間比呂志「ソテツ」




1976年『儀間比呂志版画集・沖縄の女』岩崎書店


儀間比呂志、実家に帰省

1983年8月29日『読売新聞』「青春紀行ー儀間比呂志 南洋の果て・・・沖縄の心」



山田實さん所蔵の儀間比呂志作品「伊野波節より」

 儀間比呂志の絵がシャッターに描かれている久茂地・抱瓶店。ゆいレール・那覇空港駅には儀間比呂志の「万国津梁の民」(2003年8月)。


2006年6月 琉球大学文芸部『伝言』創刊号(表紙・儀間比呂志)

『戦争と平和の資料館ピースあいち』は、名古屋市名東区よもぎ台にある資料館。地下鉄東山線一社駅から北へ徒歩約13分。〒465-0091 名古屋市名東区よもぎ台2-820   TEL/FAX 052-602-4222


2018年6月3日 国立文楽劇場ー金城康子琉舞道場「開設50周年記念発表会/島々の踊り」


ギャラリー象 ☎098-867-7936 FAX098-862-8548

ギャラリー象で親族と、左端が儀間比呂志














儀間比呂志ポスター


1966年6月/1958年12月

1974年10月/1975年2月

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2018年4月8日『沖縄タイムス』伊佐眞一「歴史を刻んだ沖縄人①謝花昇 自立自尊 敢為の精神」

2018年5月13日『沖縄タイムス』伊佐眞一「末吉麦門冬(新聞記者)博覧強記 大人の風格」

2018年3月3日 『沖縄の軌跡』「《川崎・沖縄民権の会》=謝花昇顕彰会から発展・内地での沖縄民権を鼓舞した歴史=」181号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)

「謝花昇 賛歌」作詞・兼次佐一/作曲・大城政明/大城政明氏、伊佐眞一氏


1998年6月 伊佐眞一『謝花昇集』みすず書房

1980年8月20日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「皇軍は勇戦した」第14号

1980年8月20日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「皇軍は勇戦した」第14号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)□古波津英興「方言使用スパイ処分文書」



1983年9月23日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「菊と仏桑華」第20号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)


2018年3月14日 みどり印刷前でー石川和男氏(左)、島袋和幸氏/南風原文化センター前で島袋和幸氏
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2018年5月 上江洲均『おきなわの民俗探訪ー島と人と生活と』榕樹書林


2014年4月17日 上江洲均氏


1973年3月 上江洲均『沖縄の民具』慶友社
1982年12月 上江洲均『沖縄の暮らしと民具』慶友社
○沖縄民具概観ー沖縄の民具について・暮らしと民具/用法と技術ー沖縄・奄美の竹の民具について・女性の二つの運搬用具・ヘラとイモあさり・脱穀具・沖縄の叉鍬・粟国島のトゥージ・サバニについて/信仰・儀礼・行事の民具/墓と厨子甕/久米島の墓制に関する資料二題/厨子甕/コウまつり瞥見

1983年3月 上江洲均・神崎宣武・工藤員功『琉球諸島の民具』未来社
2005年11月 上江洲均『沖縄の民俗と生活』榕樹書林

写真左から村口一雄第一書房社長、新城栄徳、上江洲均氏、新城亘氏/粟国島で中央が上江洲均氏

本学名誉教授の上江洲均先生が、「民具を中心とした琉球諸島の民俗研究」で第29回東恩納寛惇賞(主催:琉球新報社)を受賞した。東恩納寛惇賞は、沖縄研究の先駆者である東恩納寛惇の学問的業績をたたえ、沖縄を対象とする研究に顕著な業績を挙げた研究者に対して贈られる。平成24年2月24日(金)には、琉球新報ホールにて贈呈式が開かれ、上江洲先生は「民具で研究する」という題目で、民俗・民具研究について記念講演を行った。【上江洲 均名誉教授の略歴】琉球大学文理学部国文学科卒業後、公立学校教諭を経て、琉球政府(現在・沖縄県立)博物館に学芸員として勤務(昭和62年には副館長を務める)。平成7年4月より名桜大学国際学部教授に就任。平成15年3月に定年退職後、同年9月に名桜大学名誉教授の称号授与。現在、久米島博物館名誉館長。(→名桜大学)


右から宮城篤正氏、上江洲均氏、粟国恭子さん

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2018年6月10日『沖縄タイムス』伊佐眞一「歴史を刻んだ沖縄人③親泊朝省(軍人) 日本従属の精神体現」

2003年11月8日 『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー 書の森 人の網⑩親泊朝擢」
戦後、一家心中した「親泊大佐」のことを大城立裕氏や豊川善一氏、井川良久氏、澤地久枝さんが書かれているので、私はその祖父と父について紹介する。『沖縄大百科事典』の親泊朝擢はかつて台湾に居た川平朝申氏が執筆している。1916年の『沖縄県人事録』に朝擢が北谷尋常高等小学校長として掲載され、1937年の『沖縄県人事録』には無く弟の朝輝が小樽市助役として掲載されている。

朝擢は1875年、父朝啓、母ウトの二男として首里大中に生まれる。父の朝啓は伊江朝助の随筆に「時の評定所は浦添朝昭の大虎の下に、虎小(グワー)と称する秀才があった。外間完薫、親泊朝啓、諸見里朝奇、比屋根安栄である」と出てくる。このうち浦添と朝啓は設置されたばかりの沖縄県庁に勤務。朝啓が丸岡莞爾知事死去に際しての追悼歌「月花につくす心はいく千代もふみのかかみに見ゆる君かな」。

笹森儀助『南島探検』に「1893年9月2日、県庁編纂主任掛親泊朝啓(琉球人)来訪ス、談、武器及其沿革ニ及フ」と朝啓のことだ出ている。ちなみに同書は琉球新報創刊にもふれている「9月23日、去ル15日ヨリ『琉球新報』ヲ発兌セリ、東京ヨリ記者2名来リ(略)開筵ノ式ニ招待状アルヲ以テ、本日答礼セリ」。

幣原坦は、1894年に来沖し、その著『南島沿革史論』の「南遊史話」に「沖縄県旧慣取調嘱託員親泊朝啓君には多く質問を試み」と出てくる。朝啓は旧慣に精通している。だから97年、佐々木笑受郎が公同会運動を復藩党として『大阪毎日新聞』に運動が成功したあかつきの「内閣名簿」に朝啓の役割を司法大臣に、内閣総理が尚順で太田朝敷を書記官長と準えて通信している。

朝擢は沖縄県師範学校を卒業後、仲吉ウシと結婚。北谷、首里の小学校の訓導を経て1901年、大宜味尋常高等小学校の校長となる。この年に朝啓が死去。2年後、長男の朝省(親泊大佐)が生まれている。11年、県学務課に勤務傍ら『沖縄教育』編輯主幹となる。このころから『沖縄毎日新聞』に蓬莱庵の名前で「人物月旦」を連載した。→『沖縄教育』誌上のペンネーム/素位学人、沖の島人、しののめ生、幻、編輯子

朝擢は『沖縄教育』編輯主幹を第60号(11年4月)から102号(15年7月)まで担当した。11年8月の64号は「偉人傳」で、巻頭には「汝の立つところを深く掘れ、そこには泉あり」と記され、岸本賀昌が「我琉球」とあいさつで始まり、当真嗣合の「琉球人の胸中に蘇生して・・・」で終わっている。

朝擢は『琉球見聞録』『沖縄県案内』『沖縄県写真帖』も刊行した。その功績は大宜味小学校の像とともに刻印され消えることはない。

1911年8月 親泊朝擢・編集発行『沖縄教育』第64号 本会創立二十五記念<偉人伝>
巻頭「汝の立つところを深く掘れ、そこには泉あり。ニーチェ」
○序・・・・・岸本賀昌・沖縄私立教育会長「我琉球廣袤小なりと・・・」 
○口絵「首里城趾」「中城趾」「護佐丸之墓」「大和御神」「蔡温筆跡」「宜湾朝保肖像及筆跡」「宜湾朝保筆跡」「程順則筆跡」「儀間真常之墓」「野國總管之墓」「總管野國由来記」「自了筆」「殷元良筆」
○沖縄の代表的政治家ー向象賢 蔡温 宜湾朝保・・・・・・・・・・・・・伊波普猷
○産業界の二大恩人ー儀間真常 野國總管・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○名護聖人程順則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・當眞嗣合
○二大画伯-自了と殷元良・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○劇詩家玉城朝薫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○三山統一の英主尚巴志王・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・親泊朝擢
○南島の忠臣護佐丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・當眞嗣合

○1917年8月 親泊朝擢『沖縄県写真貼』小沢書店
□名筆ー蔡温  程順則  宜湾朝保  尚温王  尚育王 
□名画ー自了 殷元良 小橋川朝安 筆山


1913年ー写真中央が横山健堂,、右より伊波普猷、当真嗣合、伊江朝助、親泊朝擢、太田朝敷、崎浜秀主

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前列右から、嵩原安冝、神山政良、漢那憲和、尚昌、太田朝敷。他に親泊朝擢、東恩納寛惇、上運天令儀、山田真山らが居る。1915年「尚昌侯爵帰朝祝賀会」東京沖縄県人会

1920年、親泊朝擢上京し、東京高等師範附属小学校書記。


1933年7月 仲宗根源和『沖縄縣人物風景寫眞』同刊行会〇写真左から親泊朝省陸軍騎兵中尉、漢那憲和海軍少将、長嶺亀助陸軍大佐

1934年、親擢の子が朝省である。第一子の長女ツルは、 テレビなどで活躍した料理研究家の岸朝子の母と書けば親泊家もその時代もすこし身近に感 じられるだろうか。朝省と朝子は叔父と姪の間柄になる。長女ツルが嫁いだ宮城新昌(しんしょう)は、国頭(くにがみ)農学校卒。移民を引率してアメ リカに渡り、カキの養殖を志しカナダで日英合弁の水産会社をおこして重役になるなど、事業 家肌の人であった。1913年に帰国し、カキの養殖で「世界のカキ王」とも呼ばれた。 垂下式カキ養殖法を考案し、宮城県石巻市で実用化に成功し、種ガキの生産と技術者の養 成につくした。宮城の産み出した垂下式は、縦に長く吊り下げる事により深海での養殖も可能 となり狭い海域でも大量の生産が出来る事から東北のリアス式海岸にマッチした養殖法は全 国にも広がった。沖縄の実業家、宮城仁四郎氏は新昌の従弟にあたる。

岸秋正と岸文庫(県公文書館)
20歳になったばかりの宮城朝子は、叔父朝省の肝いりで、朝省の香港攻略戦以来の仲で あった、岸秋正と見合いに続き朝省・英子が仲人をつとめ結婚した。(朝省はガダルカナルで の岸秋正の中隊長としての行為に感服・感動していた。) 岸秋正は愛知県出身、陸士51期。宮城朝子は東京高等師範附属小学校から府立第三高 女に進み、女子栄養学園で学んだ。 岸秋正は戦後、沖縄関係資料の収集家として知られ、1995年に没したが、1997年、妻の朝子により、蔵書11,000冊が沖縄県公文書館に寄贈された、岸文庫と命名された蔵書には『琉球神道記』や『中山伝信録』『沖縄法制史』など希書が多数含まれている。

みどり風通信「親泊朝省の生い立ち」「みどり印刷」←iここをクリック

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2018年5月27日ーなるみ堂のお客さん(ペンシルベニア州フィラデルフィア出身)/儀間比呂志絵付けヤチムン


2018年5月12日なるみ堂のお客さんーバージニア州から来沖の御夫婦(イギリス系男性、ドイツ系女性)とコインコレクターの男性/比嘉清敏氏(那覇大綱挽保存会)、翁長良明氏

2018年5月12日なるみ堂のお客さんー東京の大学で美術を専攻しているポルトガル人、翁長良明氏/2016-11-20なるみ堂のお客さん


2015年9月17日 なるみ堂で左が翁長良明氏、宮城篤正氏


2017年12月22日なるみ堂ー左が下地常雄氏、翁長良明氏/2015年『新政界往来』8月号 下地常雄「回想録ー身を助けた祖母の言葉」 2017年『現代公論』冬号 下地常雄「米国トランプ大統領を表敬訪問」


2017-8-27 なるみ堂で

なるみ堂の三本足のカエル 三脚蟾蜍(せんじょ). /2016-9-26 なるみ堂のお客さん

西村西望「作品」
北村西望ー彫刻家。長崎県生。東美校卒後、同校教授を務める。代表作に文展特選の「晩鐘」「長崎平和祈念像」等がある。芸術院第一部長・日展名誉会長・日本彫塑会名誉会長。文化功労者。文化勲章受章。昭和62年(1987)歿、102才。 →コトバンク

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与謝野晶子が山城正忠に贈った色紙


山城正忠自画像

1901年  沖縄県立病院及び医生教習所、産婆養成所を久茂地に移転
1902年  楊長積(永井長積)那覇に歯科医院開業
  
 山城正忠が那覇尋常高等小学校のとき、校長だった山城一は鹿児島県出身で慶応義塾に学び教員に。鶴のように瘠せて背は高かったと教え子はいう。山城一は頑固党の首魁・義村朝明から李鴻章の密使と称し、清国援兵の資金ということで大金を騙し取った男で、山城正忠はこの事件をモデルに「九年母」を書いているが、後に山城は、「私が東京にいる頃、小杉天外先生が経営されていた『無名通信社』の小使をやっている変わりものの老人があった。それを主人公にして、中村星湖氏がかいた『短刀と判取帳』という短篇小説があった。それが誰あろう。山之城先生のなれの果だということを、作者からきいて驚いたことがある。」と『那覇尋常高等小学校四十年記念誌』に書いている。


 1903年3月11日『琉球新報』小きん(山城正忠)「病詩人『ゴルギー』を思ふ」○花も咲かず緑もなきロシアの白雪曀々たる荒野に一時運命の寵児として世界の評壇に喧伝されたる詩人ゴルギー①
①マクシム・ゴーリキー(Максим Горький, 1868年3月28日(ユリウス暦3月16日) - 1936年6月18日)は、ロシアの作家。本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ(Алексей Максимович Пешков)。ペンネームのゴーリキーとはロシア語で「苦い」の意味。社会主義リアリズムの手法の創始者であり、社会活動家でもあった。→ウィキペディア

1904年  医生教習所の砂辺松勁出征で山城正忠が後任に任命される。
1905年  山城正忠、青山第四聯隊入隊。三念・高江洲康健と広津柳浪を訪問する。
 
1932年5月15日~ー『琉球新報』「あの頃を語る/山城正忠氏の思出ばなし」
山城正忠氏は今更言ふまでもなく本県文壇の大御所。自ら萬年文学青年と言ひ沖縄に文藝の芽が萌え出してから幾多の変遷多き文学思潮に染め上れて来た人。近く来県の噂ある与謝野晶子女史の愛弟子として歌才豊かに。同氏から明治時代における文学志願者の苦闘の思出を聴く。
  (略)石川啄木は痛快な男であった。何時も思索しているやうな瞳でものをみる。彼が私にくれた手紙がある。
  復啓、玉稿昨日早朝正に落手仕候。日毎に新聞の続き物に追はれ居候のと、雑誌昴「スバル」のため寸暇を得ず今朝までまだ拝見致しかね居候。今出かけるところ、帰ったらすぐ拝誦可仕候。外出不定なれど夜分は大抵在宅今日は夕刻より屹度居る筈に候へば若しお暇に候はば御散歩がてら御来遊如何。大学の正門(赤門ではなく)の前から西に入り映世神社の向かって左の横手を真直に一町半坂の上の右側がこの宿に候、電話は下谷乙867番。 四十一年十二月二十一日 石川啄木
      (以下略)

石川啄木と山城正忠
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1937年6月『月刊琉球』山城正忠「啄木と私」
○山里君の出題によって、斷れぎれに浮かんで来る記憶を、その場でその儘、まとまりのない覚書にして見たのがこれ。私がはじめて琢木に会ったのは、その頃千駄谷に有った、与謝野先生の家であった。明治何年であったかはっきりしないが、与謝野寛年譜に拠ると、明治38年、皇紀2565、西暦1905年に私は新詩社同人となっているから、少なくともその翌々年位であらう。私と一緒に同人になった連中には、吉井だの北原だの、長田兄弟だの、それから木下杢太郎で盛名を馳せた現在東北大学にいる太田正雄が帝大の金釦で時々顔を見せ、箱根の水難が奇縁となり、天下の名妓萬龍を射止めた恒川石村、今の岡本一平氏夫人かの子さんがまだ大貫姓を名乗っていた。石川は明治三十四年に社中同人となり、私などのはいった頃には、既に鬼才を認められて、可なりその名が喧伝されていた。何でも雨のひどく降りつづく日であった。皆が白地の浴衣着ていたから夏の眞盛りであったとおもふ与謝野先生の家の都合で、近所の生田長江先生の客間を拝借して連中が集まった事がある。とにかく十名内外だったと覚えている。一座の中に、どう見ても気に喰わない男がひとりいた。歳からいふと私より二三下だといふ見当だが、それを寛先生や周囲の人たちが、いやにちやほやしていた。それに関わらず、本人は口数少なく、絶えず天の一角を睨んでいるやうな態度を持していた。青ン張れた顔で、どこか漱石先生の「坊ちゃん」にでてくる「うらなり」といふ感じだったが、それでいて、何かしら、犯しがたい風格と、ただならぬ気魄のあるのを私も見のがさなかった。

その男が突然私に向かって「山城君。君のくにじゃ、今でも人が死んだら喰ふのかい」と、飛んでもない質問をされて、一時カッとなった私は「馬鹿言へ、そんな事があるか」とハネかえしたのを与謝野先生がうまく取りなされた事があった。その場ですぐわかったが、それが誰あらう、わが石川啄木の奴だった。以来私は急速に彼と親しくなり、おれは北だ、貴様は南だ。ひとつ、大ひに提携して、東京の奴等を押へつけてやらう。といふ、盟約まで申込ませる仲になった。ああ、それなのに。といふ慙愧に堪へない私である。しかしそんな事はどうでもよい。今慶大にいる文学博士茅野粛々が、京大に赴く送別歌会の日、「鉢」といふ題で喝采を博したのが、啄木の「怒る時必ず鉢を一つ割り」といふ歌であり、もう一つ、彼が、何かの興行のビラになぞらへ、、寛、晶子、を横綱格に、北原吉井を大関格にしやっと入幕といふ所に、富田碎花、北川英美子、長島豊太郎、山城正忠といふ戯書を認めたのも、その日の会合だったとおもふ。それが現在、新しき村の長島豊太郎が表装して珍蔵しているらしい。


降って明治四十五年頃だと思ふ。当時石川は、本郷の蓋平館別荘にいた。閑なら遊びに来ないかといふ端書に接し、どこかの宴会がへりのささ機嫌で行ったら、別荘とは言へ、実は高等下宿の別棟で、それも特別狭い部屋に屯していた。酔ふていたので、何を話したかよく覚えていないが、その頃彼のかいていた、東京日々かの連載小説、「島影」のモデルが中心となり、それが彼の初恋に及んでいた事は確かである。どういふわけか、厨川白村博士や平野萬里に対して心よからず思っているやうな話だった。それから後の記憶は朦朧としているが、何かの行違いで彼と私の口論となり、結局「貴様とは絶交だ」と私の方で席を蹴って起ち、玄関から出る処を「馬鹿、つまらん事で誤解するか」と、追ひすがってたしなめられた事をかすかに覚えている。かうして私は、天下の石川啄木と別れた。いくばくかもなく、おもひがけない訃報を、私は郷里に於いて受けたのである。大正15年の夏、函館郊外の立待岬にある彼の墓地を訪ふた私は、ただただ、人の世の辞句を忘れた感慨があった。

 1912年5月『沖縄教育』第七十三号(編輯兼発行者・親泊朝擢)山城正忠「琉球の二大彫刻家 梅帯華と梅宏昌」○緒言 近時最も喜ぶべき消息に接した、といふは別のことではない。我琉球の畫聖自了が、今度『大日本百科大辞書』といふ、浩瀚なる大著の中に載録されて、弘く世界に紹介されたことである。これより先、昨年の八月琉球教育会の事業として編纂された『偉人傳』中にも先進笑古眞境名安興氏の筆で『畫伯自了と殷元良』の傳記が併録された。そのなかに、首里龍潭池上に架せられた、世持矼の右欄畫は、口碑傳説に拠ると、彼の琉球丹青界の巨臂、自了の作だといはれている、といふことがあった。私は幼少の頃にも一度さういふことを聞いた記憶を持っているしかしそれも歳月と共に、漸次印象が朦朧となっていたが、同氏に依って再び鮮やかな印象の色彩を喚発したのである。而し未だ文献の徴するものがないので、その真偽の程は確証されない相だが、私はどういふものかそれを事実として見たい。そこで、依前は路傍の砂塵にまみれた、無名の作品として一瞥も与へなかった死畫の魚も、急に芸術的価値を論究されるに至った。若し果たしてそれが眞なりとしたら、轍鮒の水を得て再び泳ぎ出したやうな観がある。その後私は数々該橋を通って見たが、そのたんびに絵画の鑑識に乏しい愚眼にもあの彫刻魚の尾鰭が、藻草と小貝の間にからまって、溌剌として動くやうに思はれる。遡って畴昔、冠船渡来に際して池上に龍舟を浮かべ、当時恐ろしく権勢を張っていた冊封使を歓待したといふ、歴史を想像して見ると古式の衣冠帯束の色彩と、あの藻草に鯉魚の彫刻をして、模様画風の石欄画との調和がよほど風韻を帯びている。(華国翁は是を否定していられるらしい)又或人の話に依ると、嘗て岡倉覚三氏も、此両画伯の作品を激賞して『琉球特有の名画』といふ讃辞を吝まなかったといふ。自了は又唐人杜三策や、本邦狩野安信をも驚歎せしめた程の名人である。而しこんなことは人の皆能く知る処、敢えて説く必要もあるまい。

 私はこの彫刻の魚を見たり攷へたりする毎に、連続して近代の偉人、琉球彫刻界の二大明星田名宗經翁(梅帯華)並びに其息宗相翁(梅宏昌)の英姿を髣髴として思ひ浮かべずには居られない。故人は実に琉球王国最後の芸術家である。

 却説、近来漸く琉球史開拓の機熟し、先輩諸氏の薀蓄せる学識と彩筆を、これら郷土の偉人傳記に傾注されつつあるのは、民族教化、並びに社会教育上、実に慶ぶへき現象である。独りこれのみではない。祖先崇拝の徳を涵養するに就いても、亦多大の効果を奏するであらう。

 而し我が田名筑登之親子の事績に至っては、世に之れを伝ふるもの少なく、大分人々の記憶も薄らぎつつあるやうだから、私はその湮滅を恐れ、聯か禿筆を呵して伝記の概略を叙べて、見たいと思ふ。殊に故人はわが字の偉人で、若狭町の誇りである。その関係から言ふても、これは当然私共の義務であるかのやうに考へた。而し私は素より歴史家ではない。加之浅学菲才、此任に当る器ではないが、要はただ、今迄私の手で調査蒐集した零碎な材料を一纏めにして、識者の劉覧を煩し、併せて学者の御教示を須つのである。・・・・
1920年11月  東京歯科医師会、ライオン歯磨本舗と「虫歯デー」実施  柴田米三(東歯)、小那覇全孝(日歯)在学中で参加。   
      12月4日  沖縄県歯科医師会設立総会(於 天理教会)会長・佐々木義一、副会長・楊長積(永井長積) 

1923年3月28日 沖縄県歯科医師会 役員改選で会長・山城正忠、副会長・今井小四郎
1925年1月 『沖縄教育』144号(又吉康和 編) 山城正忠「絵を描くある男との話ー師走のある日、午後のことーそれに死んだ麦門冬のことを思ひ出して、さらでだに、心が晦くなっている矢先ですから、そういへば、末吉さんはほんとにお可哀想なことしましたね。 全くです。つまらんことをして呉れました。これからがほんとうに、彼の生命の、ぐんぐん延びるところでした、だが一面から考へて見ると、彼らしい最後を遂げたとも言へます。『ねがはくは花の下にてわれ死なん』といふ句を、套口のやうに讃仰していましたからね。・・・」

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○1994年12月季刊『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』もり・まゆみ「郁文館訪問記」
1994年12月 地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(この地域は江戸の頃から文人が住まい、後に鴎外や漱石などの文豪が居を構え、東大や芸大が近い関係上、多くの作家や芸術家が過ごした街である。)其の四十一 谷根千工房

ウィキで見ると、郁文館の著名な出身者として、石原純(物理学者)、今西龍(東洋史学者)、潮惠之助(内務次官、内務大臣、文部大臣)、押川清(東京六大学野球・早大投手、野球殿堂)、河合栄治郎(東大自由主義知識人。府立三中へ転校)、伊東優治 (早大卒。社会学者)、栗田貫一(お笑いタレント)、柴田常恵(考古学者)、杉浦茂(漫画家)、副島千八(農林大臣、商工省商務局長 / 佐賀中学から転校)、松岡映丘(日本画家)、宮城長五郎(司法大臣、長崎・札幌控訴院検事長 / 塩野季彦閥として司法相就任)、物集高量(国文学者)、泉二新熊(法学者)、柳田國男(民俗学者。共立学校から転校)、土山剛弘 (日本野球機構 審判員)、大久保雅史(プロボクサー、第38代東洋太平洋フライ級王者。日比谷高校定時制に転校)であるが、それ以外に職員として土井晩翠、中野好夫。生徒に平野萬里、宮良当壮などが居る。

物集高見/物集高量
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上は高見の短冊/昭和55年4月日本書房発行『続・百歳は折り返し点』、日本書房からは2010年10月に高橋淳子(沖縄料理店『抱瓶』会長)自伝『ただ、誠を尽くして浮世を渡る』が出ている。私は1974年頃、高円寺の球陽書房の西平守良さんに連れられて近くの「きよ香」に行ったことがある。
もずめたかみ【物集高見】
1847‐1928(弘化4‐昭和3)
国語学者,国文学者。豊後国(大分県)杵築(きつき)出身。国学者物集高世の長男。玉松操,平田銕胤(かねたね)に国学を学び,洋学,英語も修めた。明治維新後神祇官史生となるが,のち東京帝国大学文科大学,学習院などの教授を歴任。《言文一致》(1886),国語辞書《日本大辞林》(1894)をはじめ多くの編著書があるが,《広文庫》(20巻,1916)は30余年を費やし家産を傾けて完成したもの。五十音順の類書形式の百科辞書というべく,《群書索引》(3冊)とともに復刻版も出された。(→コトバンク)
物集高量 もずめ-たかかず
1879-1985 大正-昭和時代の国文学者。
明治12年4月3日生まれ。物集高見(たかみ)の長男。教員,新聞記者などをへて,父の「広文庫」編集(大正5年完成)に協力。同書は昭和51年に復刻され,高量の長寿とともに時の話題となった。昭和60年10月25日死去。106歳。東京出身。東京帝大卒。著作に「百歳は折り返し点」。(→コトバンク)


1997年 熊本県観光連盟『くまもとの旅』№93「特集・新『五足の靴』紀行ー白秋たちが歩いた天草から阿蘇を旅する。」

 5月9日ー午前、港町・新星出版、天久・琉球新報社新聞博物館の帰途、沖縄県立博物館・美術館。隣の新城良一氏に遊びに行く。良一氏から森まゆみの新刊『「五足の靴」をゆく ー明治の修学旅行』平凡社を読めと、貸してくれた。始めに「東京は渋谷の道玄坂に東京新詩社跡の碑がある。与謝野鉄幹の主宰した詩歌誌『明星』の発行所である」と記されている。

 1949年 平野萬里『晶子鑑賞』「正忠を恋の猛者ぞと友の云ふ戒むるごと そそのかすごと 正忠は山城正忠君の事で、琉球那覇の老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも立ち寄られた。同君は古い明星の同人で、若い時東京に留学されその時先生の門を叩いたのであるから古い話だ。当時一しょに私の家などで運座をやった仲間の生き残っているのは吉井君であるが、大家を別とすれば今だに作歌を続けているのは同君位のものであらう。戦争で大分辺に逃げて来て故江南君によると単衣一枚で慄へて居られるから何か著物を送るようとの事であったが、その時は最早小包便など利かなくなっていたので如何とも致し様がなくその儘にしてしまったが今頃は如何して居られることだらうか。・・・・』と記されている。
平野萬里
ひらのばんり(1885-1947)
埼玉県遊馬村生まれ。本名久保(ひさよし)。 6歳で上京、東大工学部応用科学科卒。早くから文学に関心をもち、岡野知十主宰の俳句雑誌「半面」などへの投稿のかたわら、一高俳句会にも名を連ね、同時に与謝野鉄幹に師事して短歌に親しみ、「明星」の若手同人として活躍した。処女歌集『若き日』(1907)には、青春を歌った夢幻的な抒情が特色をなしている。「明星」終刊後はつめに新詩社系統の消長に身をゆだね、「ス バル」・第二次「明星」・「冬柏」・第三次「明星」の各創刊に参画、旺盛な活動を展開した。しかし新詩社の正統にこだわりすぎてついに生涯、その作風を大きく飛躍させることができなかった。遺稿集に『晶子鑑賞』(1949)がある。/「日本現代詩辞典」より


木村荘八「パンの會」/木下杢太郎「パンの會」/フリッツ・ルムプ(独逸青年)「自画像」


1907年7月31日 福岡西公園ー一番前に足を投げ出してゐる額の禿げ上った霜降りの學生服が萬里、その後に蹲んでゐる背廣の美男が鐵幹、その二人の中間にゐる面長の氣品ある顔をした美青年黒服の學生が勇、その後から如何にもがっちりとした温厚ながら眉の濃い澁い感じの顔を出してゐる霜降り學生服が正雄、そして後方の一本松に靠れて立ってゐる黒い學生服のポケットに左手を入れて夢想するやうにやや横向きにみえるのが白秋である。周囲は所謂福岡県文學會に集まった人々で、紋附や僧侶の姿までみえるのは、如何にも明治末の地方文學者圖でもある。(吉井勇)
1949年7月 野田宇太郎『パンの會ー近代文藝青春史研究ー』六興出版社


1961年2月 野田宇太郎『文学散歩』第2号 雪華社
1971年10月野田宇太郎『改稿東京文学散歩』山と渓谷社「ーわたくしは昭和38年7月に詩人の山之口貘が亡くなりその葬儀が雑司ヶ谷墓地の葬儀場で行われたのに参列し、帰りに漱石の墓に詣でたとき、たまたま夏目家にやとわれたという一人の植木職が、鏡子夫人の遺骨を納めるのに先の漱石やひな子の遺骨を捜すために、墓石の下を深く掘りひらいているところに出会わした。ー」

野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1984年(昭和59年)7月20日)は、日本の詩人、文芸評論家、文芸誌編集長。福岡県三井郡立石村(現小郡市)出身。朝倉中学卒業後、第一早稲田高等学院英文科に入学するが、病気により中退。1940年(昭和15年)に上京し、小山書店に入社。その後第一書房、河出書房を経て、1944年(昭和19年)文芸誌『文藝』の編集長を務めた後、東京出版に入社。衆議院議員の羽田武嗣郎(羽田孜の父)と交友があり、彼が創業した羽田書店の顧問も務めた。1951年(昭和26年)、日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載。後は博物館明治村の常務理事を務める。出身地の小郡市には、野田宇太郎文学資料館がある(小郡市立図書館内)。1985年(昭和60年)、小郡市に野田宇太郎詩碑が建立された。ウィキ


1972年5月 太田臨一郎『古書展覚え書』(古通豆本・11)/1988年11月 弥吉光長『チェンバレンの交友』(こつう豆本・82)

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1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 大城立裕「復帰と青春」

最初に出会った人物伝
 大城立裕・新里金福著『沖縄の百年』第一巻の人物編を1970年に入手した。これは大城氏の芥川賞受賞の年に『琉球新報』に連載したものをまとめたものだ。連載のときから興味津津、面白く読んだが、筆不精の私はこのとき著者(作家)たちや新聞記者を別世界の人間だと思っていた。だから関心があった末吉麦門冬を大城氏が執筆されても会いに行こうとは夢にも考えなかった。救ライの青木恵哉などは「愛楽園文芸部」結成からのつきあいがある大城氏が選定したものであろう。
 大阪・沖縄関係資料室には、石野径一郎、霜多正次と並んで大城氏の著書が、それぞれ10冊以上はある。大城氏の場合はほとんどが氏の寄贈だ。大阪府立中之島図書館にも大城作品は揃っている。私は、資料室の西平守晴氏から寄贈の返礼も兼ねた「般若心経」の文字がある湯飲み茶わんを託され、首里の大城氏のご自宅を訪ねて以来面識を得た。新里氏は大城氏の芥川賞受賞の年の前年、未来社から『沖縄の思想』を出している。その中に「『沖縄からは偉い人物がでていない。特に文学者がいない』大宅壮一が沖縄でいったというこのことばが、ここで改めて思い出される。沖縄はいつまでも差別と貧困を売りものの退嬰的な即物主義でもなかろう」と書いている。
 新里氏とは大正区の会合で出会い、『青い海』編集室で関広延氏との対談をやってもらった。後、ホテルで私のホラ話を氏は我慢して聞いてくれた。後日「戦後の沖縄の若い世代それもとりわけ働く人々の間に先鋭な問題意識のたくましく育ちつつある事実を確認することができた」と書かれた氏からの手紙が届いた。手紙は今も手元にあるが氏はすでに亡い。

 『沖縄の百年』の人物伝は関係者(証言者)が少なくなりつつある現在では貴重なものだ。今のレベルで疑問があったとしてもここから出発するしかない。最近、地域史の女性たちから、漢那憲和の母を調べている中野利子さんに協力してくれといわれた。憲和の伝記『天皇の艦長』には母と弟についての情報は少ない。
 東恩納寛惇は憲和の追悼文で漢那の母のことを「漢那小の阿母」と親しく記している。寛惇は憲和の弟・憲英と1900年に沖縄中学を卒業した同窓だ。憲英は東京外国語学校に学び、教師として糸満小学校(当時の生徒・城間徳明が記念誌に思い出を書いている)、那覇小学校、甲辰小学校、那覇小学校を経て憲和が開館に尽力した開洋会館の沖縄県海外協会幹事を務めた。

  
1951年2月『文藝サロン』創刊号/1967年2月『新沖縄文学』大城立裕「創作カクテル・パーティー」
1967年10月『オキナワグラフ』「大城立裕さんに芥川賞」
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関西での大城立裕歓迎会、右端に西平守晴、前に上江洲久、前列左、下地玄信、鳥越憲三郎

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1973年4月 大城立裕『沖縄ー「風土とこころ」への旅』現代教養文庫782 儀間比呂志「表紙絵」/大城立裕氏、新城栄徳(大城宅で夫人撮影)
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コロンビア大学教授キャロル・グラックさんを囲んでーキャロルさんの隣り大城立裕氏、比屋根照夫氏、大城氏の左に新城栄徳、伊佐真一氏

  
写真左から大城立裕氏、新城栄徳、木崎甲子郎氏/大城立裕・美枝子御夫妻を囲んでー左から高良倉吉氏、新城栄徳、孫薇さん、三木健氏



1978年 沖縄の雑誌『青い海』<特集・大城立裕の”沖縄”と文学>1月号

1967年8月 『新沖縄文学』大城立裕「創作 カクテル・パーティー」
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1967年11月 『新沖縄文学』第7号(秋季号)大城立裕「随想・福島の旅」 

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1923年12月 『沖縄教育』末吉麦門冬「俳句ひかへ帳ー言葉の穿鑿」
俳句に出づる故事、物名、人名や地名には随分読む人を困らすのがある。私もそれに困った一人なので、そういう句に出会す時は、必ず手ひかへに留めて置いた。而して読書の際偶その出所を発見したり、解釈を得たりする時は、又別のひかへ帳に立てて置いた。それが積もって漸く一つの物に纏ったので、我と同じからん人の為めにと本誌に投した次第である。・・・公達に狐化けたり宵の春  蕪村ー狐が化けると云うことは普通に誰も知っていることだが、これも支那から来た話ではなかろうか。西陽雑爼①に「野狐一名は紫夜、尾を撃って火を出す、将に怪を為さんとするや必ず髑髏を戴いて、堕せすんば則ち化して人となる」と。又、五雑爼②に「狐千歳にして始めて天と通ず、魅を為さす。其の人を魅する者は多く人の精気を取りて以て内丹を成せばなり。然らば則ち其の婦人を魅せざるは何ぞや。曰く狐は陰類也、陽を得れば乃ち成る故に牡狐と雖必ず之れを女に托して以て男子を惑はす也。然れども大害を為さす、故に北方の人は之れを習はす」と。
 支那では男に化けぬことになっているが日本ではこの句にあるように美男に化けて女を惑はすやうなこともあると信じられているやうだ。蕪村には狐の句が多い。「春の夜や狐の誘ふ上童」「狐火やいづこ河内の麦畑」「狐火や五助畑の麦の雨」「石を打つ狐守る夜のきぬた哉」「小狐の何にむせけん小荻原」「蘭夕、狐のくれし奇楠を烓かむ」等がある。彼が狐に興味をもっていたことが其の句の多いので知られる。此の句は敦盛卿のやうな美しい公達に狐が化けたと云ふので、それがいかにも春の宵のあやしき心持に調和した美をなすのである。かうした美しい怪物のあらはれるのも春の宵でなければならぬやうな気がする。狐忠信の舞台も春であるからこそ榮えるのである。
①名の「酉陽」は、湖南省にある小酉山の麓に、書1,000巻を秘蔵した穴が存在するという伝承に則っている。内容は、神仙や仏菩薩、人鬼より、怪奇な事件や事物、風俗、さらには動植物に及ぶ諸事万般にわたって、異事を記しており、中国の小説あるいは随筆中においてその広範さは一、二を争う。魯迅の愛読書であり、南方熊楠が、プリニウスの『博物誌』と名を比した書としても知られる。→ウィキペディア
②中国,明の随筆。謝肇せい (しゃちょうせい) の著。 16巻。全体を天,地,人,物,事の5部に分け,広く自然現象,社会現象の全般にわたって,その見聞,意見を記したもの。その観点は合理的な傾向をもち,当時の社会の矛盾を鋭く描く部分もあり,貴重な資料となっている。テキストの伝世に関しては、不明な点が多く、後集10巻の中には、明代の遺文を蒐集した部分が少なからず含まれるとされる。→コトバンク

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1997年1月 謝肇淛著、岩城秀夫訳注『五雑組2』平凡社 夷狄(いてき)の諸国/朝貢国/琉球国/琉球

1935年11月 『沖縄教育』島袋盛敏「ひかる君の上京」

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島袋盛敏
○私の家は当蔵町のアダニガーお岳の下にあったが、仲宗根章山家も名護から引き上げてお岳の傍らに来た。私の隣人になっていたのである。そうして章山翁の長男真吉君と私は大の仲良しになり、毎日行ったり来たりして遊んだものだ。章山翁は初め沖縄県庁の役人や分遣隊の士官達の求めに応じて、絵を売り生活しておられたとのことであるがその需要がなくなったので、名護の教員になられたのであろう。しかし教員も長く続かず再びアダニガーお岳の傍らに落ちつかれたものと見える。その時は、すでに分遣隊の士官達はいなくなって、その代わりに金持ちのご隠居さんが、床の間の掛軸とか、あるいは観音さまの仏像などを求めて来るようであった。(略)ちょうどそのころ、真吉君、摩文仁賢和君、新垣良光君と唐手をやり出した。それで師範では屋部先生にほめられた。


〇島袋盛敏『琉歌大観』の東風平親方朝衛の歌「上下の綾門関の戸もささぬ治まとる御代のしるしさらめ」がある。歌意は「上下の綾門は、関の形はしていても、戸を閉じるということはない。いつでも明け放しである。これは御代が治まっているという何よりのしるしであろう。誠にめでたい」とする。また解説に「上下の綾門は、関所というよりは、首里に入る人々を歓迎する門であって、王城のアクセサリーであった。作者は尚穆王時代の三司官で当銘家の祖である。和歌もよくし名歌を残している」とする。



1998年3月11日『琉球新報』
沖縄語辞典、15年ぶりに再版ー沖縄方言の最初の本格的辞典で古典的名著といわれる「沖縄語辞典」(国立国語研究所編、大蔵省印刷局)が、15年ぶりに本屋の店頭に並ぶことになった。再版を望む各方面からの声に押される形で8刷の刊行が決まったもので、研究者を中心に早くも歓迎の声が上がっている。県内でも11日から発売される。沖縄語辞典の初版が発刊されたのは1963年。首里出身の島袋盛敏氏が首里方言辞典の出版を計画し、語彙を集めるなど稿本にまとめ保存していた。島袋氏の稿本を引き継いだのは、当時、国立国語研究所地方言語研究室に勤務していた上村幸雄氏(名桜大学教授)。上村氏は音声記号を付すなど言語学上の処理を施したほか、意味説明の精密化や用例の補充、解説、索引を付けるなどして、10年掛かりで出版にこぎつけた。収録語数は約1万5000語。






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1971年 雑誌『青い海』12月号 崎原恒新「文学作品にみる沖縄(2)屋良朝陳『巴旗乃曙』ー琉球の独立をめざした人びと」
 

写真左から、崎原恒新氏、新城栄徳、宮里一美さん(本部)、平良幸子さん(謝名城)、平良次子さんー南風原文化センター/崎原綾乃さん、崎原恒新氏、新城栄徳、崎原浩子さん


2015年9月25日 沖縄文化の杜ー崎原恒新氏(右)


那覇市歴史博物館所蔵「巴旗」/左ー新城栄徳

1946年3月 屋良朝陳『巴旗乃旗』文化琉球人会(奈良市)/1971年9月 『石の声』№8


Akino Ufugusukuー9月11日、スペインからの分離独立を求めるカタルーニャの独立運動に参加してきました。(琉球の旗もあるよみてみて)「自分たちは自己決定権を持つ政治的主体だ」というアイデンティティの主張が印象的でした。

龍脈/屋良朝陳「文化琉球人会」奈良市
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文化琉球人会の刊行物
文化琉球人会(那覇聾話学校疎開・屋良学園内ー奈良市南城戸町29番地)
1946年3月 屋良朝陳『琉球秘史劇・巴旗の曙』(活版)
1946年6月22日 月刊雑誌『大琉球』6月号□樋川虔淵「國是として文化日本の建設」、「組踊・手水の縁」(朗読用)、屋良朝陳「巴党の動向」
1946年6月 屋良幾久枝『琉球史劇・長虹堤異聞』
1946年9月22日 月刊雑誌『大琉球』第三号□屋良朝陳「琉球民俗史」、樋川虔淵「日本國是として『美・仁・柔』を掲げよ」、平敷屋朝敏「若草物語」
1946年10月 月刊雑誌『大琉球』第四号□「組踊・護佐丸」
1947年7月22日 屋良朝陳・松村克彦『琉球夜話』
1947年7月29日 屋良朝陳・松村克彦『琉球年中儀令』
1947年7月22日 月刊雑誌『大琉球』第五号「組踊・國吉のひや」
1947年8月 月刊雑誌『大琉球』第一号「組踊・手水の縁」『琉球王代記・巻之一』

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05/05: 嘉陽安男

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写真左から星雅彦氏、嘉陽安男氏、新城栄徳

写真左から嘉陽安男氏、新城栄徳、亀島靖氏


1959年3月『船越義彰詩集』南陽印刷所

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 2008-5 『うらそえ文藝』<船越義彰を語る>第13号


1986年12月 嘉陽安春『沖縄民政府―一つの時代の軌跡』久米書房

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写真ー1989年6月1日、泊の自宅で民政府の表示板をバックにして國吉眞哲翁/1991年1月30日『琉球新報』
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1976年12月 雑誌『青い海』59号 大城一史「儀間先輩とのめぐり逢い」


昭和49年9月 『詩と版画』詩通信社(堺市)板良敷朝貞「素朴な琉球壺の産地・海の中の沖縄にはどこにでもある風景・老婆の織る首里上布」/ 昭和51年11月 「大城一史第一回個展ーすいせんのことば 版画家・儀間比呂志/沖縄の郷土月刊誌『青い海』編集人・津野創一」/1981年2月 板良敷朝貞『抽斗』

□儀間比呂志「あいさつ」


板良敷朝貞

1980年8月に沖縄県大阪事務所で「第1回観光フェア」、『青い海』にカットなどを手がけていた大城一史の風景画展も開催された。

黒メガネが大城一史氏/大城一史作品を背景に新城さやか


1983年7月 『なにわ今昔』毎日新聞社


1987年11月 『大阪春秋』通巻51号/1972年9月 大阪府写真師協会『大阪写真百年史』

1987年11月 『大阪春秋』通巻51号 佐々木豊明「大阪の写真大尽 光村利藻」

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1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図会』東陽堂
『風俗画報』は1889年に創刊された。出版元の東陽堂は1876年、東京日本橋で吾妻健三郎によって創業された。後に吾妻と同郷(山形米澤)の縁で渡部乙羽が入社する。乙羽は後に出版社博文館の婿に入るまで『風俗画報』に健筆を揮った。1889年には沖縄県七等属の石沢兵吾が東陽堂から『琉球漆器考』を刊行した。

1901年2月ー写真集『旅野家都登』第35号(琉球之巻・中山門、守礼門)□発行所は光村利藻。光村は1893年に慶応義塾入学、そこで渡部乙羽、巌谷小波と親しく交わる。
     12月ー田山花袋編『日本名勝地誌ー琉球之部』博文館(写真・中山門)



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1994年5月 『版画集 儀間比呂志の沖縄』海風社 高橋亨「自費出版にはげんだ初期から」〇大阪の心斎橋筋で似顔絵かきをしていた儀間比呂志に合ったときのことを、ぼんやりとだが、覚えている。新聞記者として美術を担当しはじめてまもない1955年頃だったと思う。そのころ似顔絵かきのアルバイトをする画家たちのことが話題になっていたのであろう。それで取材に訪れた私に、かれは新聞記者には話をしないことにしているが、あんたならええといいながら近くの喫茶店にさそってくれた。1人百円で1日5百円くらの稼ぎになればさっさと引き揚げることにしていたと『儀間比呂志が沖縄について彫って語る本』(1982年3月・みやざき書店刊ー本文は1980年の朝日新聞連載対談再録)で語っているが、そのときも確かそんなことをいいながら似顔絵かきの道具を片付けていたような記憶がある。

〇高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。
〇大江健三郎「真に沖縄的な画家ー儀間比呂志の仕事は、あえてこの言葉をもちいれば、いまやわれわれの南島の絵画の代表ということができるだろう。(略)いま本土日本からおしよせる沖縄の自然破壊、また人間のうちなる自然破壊について、もっとも暗くもっとも激しい怒りをあらわしているのを、僕は知らぬということはできない。」


1966年1月 儀間比呂志『版画風土記 沖縄』題字/榊莫山 編集/高橋亨

榊莫山ー三重師範学校在学中、学徒出陣で徴兵され、沖縄に派遣される予定だったが、艦船がなかったために鹿児島で足止めされ、そこで敗戦を迎える→ウィキ)


1969年7月 『儀間比呂志版画集 沖縄』題字/榊莫山〇高橋亨「儀間比呂志の具象画と沖縄」


1974年5月 儀間比呂志『儀間比呂志の版画』講談社□三味線ー朝日新聞のT記者が、新風土記の沖縄編を書くにあたって、視座をコザにすえたのは感心した。それほど、コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりに巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス業で栄えている町なのに、島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる。〇高橋亨「沖縄とは何かをえがく版画ー最近では毎年のように沖縄へ飛び、老母や弟妹の住む那覇の家で何日かをすごしてくるが、それは帰るというより訪れるといったほうがふさわしい。いま作者の帰るところは大阪である。(略)沖縄のみ、土地と作家との全的なかかわりあいのなかから、こんにち儀間比呂志を育てた。ただ人間形成の土壌もしくは環境としてでなく、作者の表現の形式、内容その他あらゆる成長にたえず根源の息吹を与えつづける沖縄という南の世界はいったい何なのか。それは私がここで語りうることではない。それこそ作者が版画によってえがきだそうとするところのそのものなのである。」


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1975年11月 雑誌『青い海』48号 渡嘉敷守良「ある俳優の記録ー芸談、組踊の型ー」



GHQのマッカーサー夫人招待で琉舞を披露ー後列左端が山入端つる、一人おいて児玉清子、右端は渡嘉敷守良


左から渡嘉敷守良、三笠宮・同妃、児玉清子、池宮喜輝



2005年5月 『沖縄演劇界の巨匠 渡嘉敷守良の世界』渡嘉敷守良記念誌編集委員会(代表・當間一郎)
1914年8月1日『琉球新報』「琉球歌壇ーらくこう」
球陽座を見て 
渡嘉敷の黒島王の怒りたる眉/ここちよき舞台のあかるさ/琴の手の指の白き鮮やかに/若き遊女のほれる仲井間/鉢嶺の白き額に宿りたる/恋と忠義の泣かまほしけれ/ヒステリーの遊女もそっと眼を拭ふ/心中劇の面白さかな/誰さんと共に来たのか三桝木の/四等美人のカマダ小がゐる/大見謝は悲しからずや道化たる/下男役して蹲踞ゐる/

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